佐久間まゆ「ネヴァーマインド」 (57)
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佐久間まゆは一途で、恋多き女。
自分でも、いつ、だれと恋がはじまるかわからない。
けれども手を抜いたことはない。徹底的にやった。
だから、破綻した。
どんな相手もまゆの愛を受け止め続けることはできなかった。
はじめ、彼女から打ち明けられたときは皆、陶然とする。
ふんわりと、指を梳きたくなる、栗色の髪。
とろん、と甘くゆらいでいる瞳。
ちいさいくいじらしいはな。
訪れた恋と、やがて来たる愛にふるえる唇。
少女として、女として、モデルとして磨き上げた肉体。
誰もがまゆに夢中になる。溺れる。
だがすぐに気づく。
嫉妬、拘束、排除、干渉。度を越してさらに、段階はない。
はじめから愛は惜しみなく与えられる。それがまゆにとって、よいことだから。
また、壊れてしまった。
まゆはため息をつきながら、低い雲が広がる冬の道を歩いた。
今回も全力で愛した。だが、報われなかった。
あんなにも努力したのに。
相手のことをつまびらかに調べ上げ、朝は挨拶の電話をして、
昼はランチを用意して、夜はおやすみのキスをするために家の前でしおらしく待っていた。
短い恋だった。まだ一週間。
前の相手はこわがったから、だいぶ抑えていたのに。
おまえはおかしい、と言われた。
ひどいひと。どうして好きになってしまったんでしょう。
まゆはマフラーの位置を直して、駅にはいった。
今回の相手は同じ会社のモデルだった。
本当は、しかるべき説明をしなければいけない。
まゆは金の卵のように大切にされているが、最悪の場合、契約の抹消の可能性がある。
だが、まゆにそんなことはどうでもよかった。
こんなにも愛したのに。こんなにもがんばったのに。誰より好きなのに。
世界はまゆにこたえてくれない。
関係が破綻するたびに、いつもこんな気持ちなる。
それでも今日は格別だった。
もう12人。
まゆはすっかり、自分の人生への自信を失っていた。
皆がほめるのは、ひとつ。
容貌。顔。見た目。外見。ルックス。プロポーション。
ならば、自分がいる必要がない。
写真、動画、フィギュア、等身大の人形。それさえあればいい。
まゆはいらない、いらない子……。
駅のホームで、透き通るような空気をすいこむ。
警笛を鳴らしながら、電車がやってくる。
まゆは線路に落ちようとしている。
レールにあたまをごつん、したら、いたいかもしれない。
身体が1.2mの奈落へ吸い寄せられていく。
電車がホームへ、悲痛な叫び声を上げながら迫る。
まゆのために泣いてるのかも、しれませんね……。
おちる、落ちる、墜ちる。ほら、もうすぐ。おしまい。
まぶたを下ろす。
だが次の瞬間。
身体がやわ、と、ホームへ引き戻された。
抱きしめられてる。まゆは自分の状況を瞬時に分析した。
男性用のパフューム。胸がすくような。
自分の身体の下に、彼の肉体がよこたわっている。
筋肉質。少し汗をかいている。
たぶん、5フィート10インチ。
こんなふうに、抱きしめられたことがある。
その時はアメリカ人だった。
6フィート10だったらよかったね、とそんなことを言っていた。
そのひとは、8ヶ月で駄目になった。現在の最長記録。
このひとは、どうかしら。
まゆはゆっくりと、人生の幕を上げた。
・
まゆはアイドルになった。一も二もなく。モデルは辞めた。二つ返事で。
社長がなにか恨み言を言っていた。どうでもいい。どうでもよいことだ。
恋“なんか”、じゃありません。
佐久間まゆの人生が、あのとき、ほんとうにはじまったんです。
それだけ言って、モデルの事務所を去った。
違約金を請求されたが、346プロダクションが一括で支払った。
まゆはそうすべき価値があると判断された。
あのひと、プロデューサーさんが……。
まゆはひどく晴れがましい気持ちで、プロダクションの玄関ホールを歩いた。
足取りが軽い。まるで、氷の上をすべるよう。
アイドルにも、美人にも見慣れているであろう社員達が、皆まゆの方を見る。
心の底から人生を謳歌しているものは、それがたとえどのような手段であれ、周囲を惹きつける。
まゆは世界に微笑み返す。
そうするにふさわしい世界になった。
エレベーターを呼ぶ。
心地よい音がして、すぐにやってくる。ついている。
扉がひらく。とてもついている。
「プロデューサーさぁん」
まゆは自身でも胸焼けがするほど、甘ったるい声を出した。
「だきしめても、いいですかぁ」
その言葉を言い終えるまえに、まゆは相手を抱き締めていた。
罪の香りがする。鼻先を、薄灰色のジャケットに押し付ける。
鼻梁がひくひくと震える。鼓動がおちつく。なにも聞こえない。
プロデューサーさんだ。
おでこを、白い糊のきいたシャツにこすりつける。
プロデューサーの男は抱きしめ返すでもなく、頭を撫でるでもなく、腕時計の秒針の動きを見ていた。
エレベーターが5階に到着し、視界が開ける。
まゆは彼の腕にしなだれかかるようにして、名残惜しそうに個室から歩みだした。
今日はオフだった。だが、まゆはプロダクションにやってきた。
ただ愛のためにだけ。
ふたりで、リフレッシュルームに入る。
ほかのアイドル達は、まぶしそうな目でまゆを見る。
まゆは、プロデューサーの顔だけを見る。
清潔感のある黒の短髪。
吸い込まれそうなほど澄みきった瞳。
すっとまっすぐに通った鼻筋。
冬の風で、すこしかさついている唇。
年齢がはかりかねる、ハリのある肌。
アイドルみたい。まゆはうっとりと、彼の二の腕をひとさしゆびでなぞる。
「Pちゃま」
「おはようごぜーますでごぜーますよ!」
「プロデューサーはん…?」
少女たちがプロデューサーに挨拶をする。
その声をかきわけて、まゆは歩く。
まゆは知っている。
プロデューサーの経歴。重箱の隅をつつくように調べ上げた。
愛するために。知らないことがあってはいけない。
7年前に美城プロダクションと契約。前職は精神科医。
都内出身。血液型はB型。マイペースとは程遠い性格。
12歳の頃、両親が強盗殺人によって他界。以後は親戚の間を転々として育つ。
奨学金つきで都内の医科大学に進学。
仕事人間。趣味らしい趣味は、毎週月曜と木曜日に通っている格闘技のジム。
プロダクション入社時のポストはカウンセラー。社員やアイドル達のメンタルケアを行なっていた。
5年前、常務が気まぐれにプロジェクトへの意見を求めたところ、
翌日に改善点をまとめたレポートを提出し、ほどなくカウンセラーの任を解かれる。
プロジェクトに参加していたアイドル達からは、
担当でない子からも尊敬と愛情を込めて、“プロデューサー”と呼ばれている。
そういう男が自分を、佐久間まゆをプロデュースしている。
少女としての優越感、女としての自尊心、アイドルとしての期待感、佐久間まゆとしての充足感。まゆのプロデューサーは、それらをいっぺんに満たしてくれる。
だったら、こたえなきゃ。そそがなきゃ、いっぱい。
今度は失敗しない。今度は、しくじらない。これは運命なのだから。
きっと、うまくいく。これがはじまりでも、これでおしまいでも。
・・
レッスンルームで、19歳のトレーナーは自分より3歳ほど下の、アイドルを見ていた。
お互いに新人。はじめは親近感が湧いた。
身体面は中の上程度で、特に光るものはない。才能と呼べるほどのものはない。
彼女と同程度の美貌で、彼女よりも肉体的に優れたアイドルは掃いて捨てるほどいる。
だが、精神面は年齢からは不釣り合いなほど強靭だった。
まゆはプライドが高い。言動からはわかりにくいが、トレーナーは発見した。
レッスン中に指摘したどんな些細なミスも、絶対に、二度と、繰り返すことはない。
自分はこれくらいできて当然。そう考えているように見える。
言い換えれば、完璧主義者。そして努力がプライドに釣り合っている。
スカウト組としては非常に珍しいタイプ。
通常、スカウト組にはよく言えば精神的余裕、悪く言えば甘さがある。
“自分はプロダクションからお願いされてアイドルになっている”。
その自負は多かれ少なかれ、少女達の向上心を鈍らせる。
アイドルになることを覚悟しているオーディション組、養成所組とは精神構造がそもそもちがう。
まゆの姿勢はスカウト組よりは後者に近い。
むしろ後者のなかでも、かなりストイックな方だろう。
なぜか。トレーナーには思い当たる節がある。
この子は、あのプロデューサーが連れてきた。
そしてこの子は、あのプロデューサーに魅入られている。
恋、かぁ。
トレーナーは嘆息した。
彼は、様々な女性達から思いを寄せられている。あるひとりを除いたアイドル、事務員、役員……トレーナー達からも。
彼自身はそれに驕ることはない。むしろ、自分に向けられる好意を巧妙に利用している。
指揮者がタクトを左に振れば、皆がそれにならう。そういう状態になっている。
幸い、プロデューサーがアイドルを私物化するようなことはない。
少なくとも、トレーナーはそう信じている。
プロデューサーは全くの無私で仕事に取り組んでいる。
だからこそ皆が彼に好感を持つ。あるひとりを除いて。
「どうです、かぁ?」
まゆは一旦ステップを止めて、トレーナーに尋ねた。
肩で息をして、汗がおでこから目元、あごから首筋につぅと流れていく。
全力。自分への手加減を知らない。
「そうですね……」
すでに、ミスと呼べるものはない。
まゆは指導に真摯に耳を傾ける。
さらに自分のレッスン風景を録画し、自宅での復習も欠かさない。
指導役としては非常に楽な生徒だ。
だが、トレーナーは言った。
「もうすこし、肩の力をぬいてください」
まゆはアイドルに熱心だ。だが、このままだと身体を壊す。
きっと、プライベートでも過酷な練習をしている。
「力を、抜く」
まゆはぽつりと、さみしげな声で呟いた。納得ができていない様子だった。
そこでトレーナーは奥の手を使った。
「身体をこわしちゃうと、プロデューサーさんが悲しみますよ」
「プロデューサーさんが……」
まゆはまた、さみしげな声を出した。納得ができたようだった。
この子になにかをさせようと思ったら、プロデューサーの名前を出すといい。
アイドルとしては問題だが。
・・・
モデル時代の貯金もあり、佐久間まゆのデビューは成功を収めた。
甘い容姿と声で男子のファンが付き、女子のファンは過去の雑誌購買層から。
まゆは瞬く間に、ティーンネイジャーズの天使になった。
デビューCDは初動でランキング6位。初月で7位。売り上げ枚数は推定81,338。
駆け出しアイドルとしては破格と言えた。
まゆはその数字に何の感慨も湧かなかった。
プロデューサーさんのプロジェクトのなかで、いちばんじゃない。
まゆは一番になりたい。数字でも、そうではないところでも。
プロデューサーの心が、欲しい。
・・・・
もっと知らなくちゃ。
まゆは、プロデューサーが住む家の前に来ていた。
肩の力を抜いて、レッスンは休んだ。
まゆは、春の陽気を胸いっぱいに吸い込んだ。
プロデューサーは独身だが、一軒家を建てた。
噂では幼少期に両親と過ごした家を蘇らせたという。
もっと理解しなくちゃ。
つくった合鍵を差し込む。音。ちゃんと使える。
ドアをひくと、かすかなとっかかりの後に、玄関が見えた。
すぐさま身体を滑り込ませ、ドアを閉める。
そしてしばし耳をすます。無音。無人。
そういう時間を狙った。
プロデューサーさんは、17時まで会議。いまは午前の10時。
探索はゆっくり、手間をかけて。手は抜かない。
家に入る前に、ある程度の間取りはつかんでいる。
一階玄関に上がって、正面のドア。リビング。正解。
まゆは慌てて、ニット帽と使い捨てのビニール手袋を身につけた。
まゆが家にはいったと気づいたら、プロデューサーさんはこわがるかもしれない。
身なりを整えて、改めて探索。
すぐさまキッチンに入る。まずは胃袋から。
冷蔵庫。上段、中段、下段の3つのドアがついている。
大きさはまゆの身長よりやや高い程度。
上段。
大量のタッパーに、おかずが詰まっている。作り置きをするタイプのようだ。
目を凝らせば具材がはっきりと分かるが、好みがよくわからない。
管理栄養士が考えたように、様々な食材がバランスよく使われている。
せめて味を確かめたかったが、断念。
ドアポケットには牛乳と、麦茶が入っている。
中段。
材料がまったく入っていない。まとめて買い、まとめて作るタイプのようだ。
中は新品のように、シミひとつない。あまりに清潔過ぎて、かえって温かみがない。
下段。冷凍室。
製氷機に大量の氷が入っている。アイスクリームの類はない。
まゆはため息をついて、冷蔵庫から離れた。
嗜好がまったくつかめない。
せいぜい分かったのは、プロデューサーが自己管理を徹底していること。
もしかすると、他人から弁当やお菓子の類は受け取らないかもしれない。
キッチンから出て、リビングを改めて見渡す。
広さは20畳程度。独身としては広い。広すぎる。
テレビと、DVDデッキとソファ以外、家電や家具がない。食事用のテーブルさえ。
まゆは過去の恋愛経験で、独身男性の住宅をひとりで訪ねたことがある。
部屋、とくにキッチンとリビングには、本人の嗜好がわかりやすく現れる。
キッチンは味の好み。
リビングは家の中でもっとも広い部屋だ。そこにどんなものを置くかで、当人のこだわりが伺える。
だったら、もうプロデューサーさんの部屋を見ちゃいましょう。
まゆはリビングを出て、廊下から階段を登った。
一階のほかの部屋は見ていないが、洗面室と浴室、ガレージ、トイレおよび物置なので、優先度は低い。
家に入る前から、まゆは部屋に順番をつけている。
二階。扉は4つ。
そのうちの1つは、隣の扉と階段との間隔から2つ目のトイレ。
まゆは3つのうち、もっとも空間が広いであろう部屋に入った。
まず目に入ったのは、書棚。書棚が壁の代わりのように配置されている。
部屋の右奥に、簡素な机と椅子がある。
どうやらここは書斎のようだ。
本の内容は、棚ごとに決まっている。
右端から心理学、法律、経営、会計学、統計、社会病理。
教育、マーケティング、音楽、芸術。言語、文学。
まるで、学校の図書館みたい。
まゆは棚をひとつひとつ指でなぞりながら、そう思った。
本の種類から、プロデューサーは仕事に必要なものを集めている。
まさに仕事人間。
やっぱり、お仕事をがんばるしかないんでしょうか……。
まゆはニット帽と手袋を直して、書斎から出た。
隣の扉を開けると、そこは寝室だった。
ベッドがある。
だが、まゆはそこがすぐに寝室だとは思わなかった。
部屋のなかにはおびただしい量のプレゼントが置かれている。
散らかっているわけではない。アイドルごとに整然と、山積みになっている。
ベッドの上にも。
この部屋はさわらないほうがいい。
まゆはそう思ったが、ふと、入り口のすぐ横にある、シロクマのぬいぐるみが目に入った。
誰から贈られたものであるのか、一目瞭然だった。
まゆは一瞬、どこか遠いところを見る瞳になって、ぬいぐるみの頭を蹴飛ばした。
「いたっ……」
硬い。綿ではない。
まゆはぬいぐるみを拾い上げて、頭を調べた。
目と目があう。瞬間、それが巧妙に隠されたカメラだと気づいた。
盗撮なんて……犯罪じゃないですか。
まゆは肩を震わせた。
首を捻じ切りたくなる衝動を抑え、ぬいぐるみを元の位置に戻す。
呼吸を整えて、部屋を出る。
あとは……。
まゆは残りの部屋を開けた。予想は的中した。
衣装部屋。ドアの正面に姿見がある。
まゆは、プロデューサーの私服姿を想像し、いてもたってもいられなくなり、探索を開始した。
ジャケット、シャツ、スーツ、スラックス、礼服。ネクタイ。仕事着。
匂いをかいでみる。スズランの香り。
おなじ洗剤でまゆのお洋服を洗ったら……。
まゆは陶然としながら、他の服を調べる。
だが、“物色”というほどのことはなかった。
無地の白Tシャツ3枚、ジーンズ。紺色のポロシャツ、チノパン。
カジュアルシャツ。黒のステンカラーコート。
コートはおそらく仕事と兼用。下着はおそらく一階にある。
置いてある服はまるで、ファッション雑誌のミニマリストコーディネートをそのまま切って貼ったようだった。
つまりプロデューサーは、ファッションにさほど横着していない。
まゆはニット帽ごしに、自分の頭を撫でつけた。
ここまで、プロデューサーの中身が明確にわかるものを、何1つ見つけられていない。
この家を訪れてからまだ1時間も経っていない。
だが不測の事態を考慮すれば、あとはもう一部屋が限界。
まゆは思案した。
一階の洗面室、浴室。二階の状況から、特に重要なものはないだろう。
一階の物置。寝室の様子を鑑みて、プレゼントで溢れかえっている可能性が濃厚。
ガレージ。除外。
あとは、トイレ……。
まゆはふぅと息をはいて、衣装部屋を出て、2階のトイレを目指す。
なんということはない。手軽に調べられるのが、もうそこしかないのだ。
決して他意はない。
プロデューサーさんのトイレ……。
まゆは胸を弾ませながら、扉を開けた。
「わぁ」
思わず甘ったるい声が出た。
トイレの壁一面に、顔写真が貼ってある。
写真の余白には、『笑顔』『不満』『悲しみ』『怒り』と書いてある。
すべて、プロデューサー自身の顔。
何百枚の、プロデューサーの顔。
まゆはうっとりと、その一枚一枚に、愛おしげにふれた。
一枚ぐらい、と思ってしまう。だが耐える。
代わりにまゆは便座を下ろし、腰掛けてみた。
「ひぃっ!」
思わず叫んでしまう。扉に女。
ニット帽をかぶって、怯えている。
それはまゆだった。扉の内側に鏡が取り付けられていたのだ。
プロデューサーさんは、ちょっと不思議なひと。
まゆは呼吸を整えて、トイレから出た。
自分の叫び声。大きな音。外に聞こえてしまったかもしれない。
周囲を警戒しつつ、家を離れなければいけいない。
まゆは息と音を殺しながら、階段を降りた。
証拠になりそうな痕跡は、なにひとつ残していない。
玄関のドアスコープから、様子を伺う。
人気はない。ニット帽を外す。
まゆは自分の身体が入る限界のせまさでドアを開け、外に這い出し、即座にドアを閉めた。
合鍵でロック。
あとは素知らぬ顔で道路を歩く。
気が急いている。だが、急いではいけない。
かえって怪しまれてしまう。
たまたま、偶然にも、幸運にも、プロデューサーの家の近くまで散歩してきた少女を装わなければ。
足音と足跡を隠蔽するために、今日は量販のスニーカーを履いている。
それでも自分の足音がやけに大きく聞こえる。
まゆは動揺していた。
改めて家の中の様子を振り返ってみると、あの家はおかしい。
トイレの鏡。
プロデューサーは自分が大好きなのかも。
まゆはため息をついた。
プロデューサーさんは仕事もできて、顔も良くて、気配りもできる。
プロデューサーさんがプロデューサーさんを好きになってしまっても、しょうがない。
まゆは、プロデューサーさんから、プロデューサーさんを奪い取らないと。
それは極めて困難なことのように思われた。
・・・・・
まゆがプロデューサーの家に“お邪魔をして“から、1ヶ月。
警察が女子寮に“お邪魔する”こともなく、まゆは一切の滞りなく、アイドル活動を続けた。
それ以外のことでもプロデューサーに尽くしたいという気持ちはあったが、手がかりもなく、大人しくレッスンと仕事に取り組むしかなかった。
プロデューサーの様子も変わりなかった。まゆのことも、まゆ以外のアイドルのことも平等に、それでも表面上は愛情深く、取り扱う。
まゆは、プロデューサーにますますのめり込んだ。
一方で、プロデューサーのことを時々、ひどく傷つけたくもなった。
誰にでもやさしいプロデューサーさんが大好き。
誰にでもやさしいプロデューサーさんが大嫌い。
そんな気持ちは一切顔に出さず、まゆはニコニコと、周囲に微笑みを投げかけた。
誰にでもやさしいまゆにならなくちゃ。
春の陽光が、少し鬱陶しくなる頃。
まゆは、バラエティ番組に出演した。
他の事務所のアイドルが出演するはずだったが突然体調を崩し、まゆに代役の依頼が回ってきた。
まゆはあまりトークが得意ではなかった。
脳の機能の8割ほどがプロデューサーのことで占められていて、オチがつくような洒落のきいた話はできない。
せいぜい、周りの話ににこやかに頷き、質問に簡潔に答えるくらいだ。
共演者は、もうひとりのアイドルに積極的に話を振っていた。
堀裕子。自称、超能力アイドル。
その真偽のほどは不明だが、共演者にとって、この場で彼女以外ほどとっつきやすい相手はいなかった。
超能力ってほんとなの。
なにかやってみせて。
すごいすごい。
やっていることのほとんどはスプーン曲げやカード当てなど、簡単な手品のようにも見える。
それでも現場は盛り上がった。
裕子の表情、仕草、言葉がそうさせた。
素直で快活。失敗しても愛嬌がつく。
裕子は、あきらかにまゆより目立っていた。
まゆは表面上はにこにことしながら、内心は焦っていた。
この番組をプロデューサーさんが見たら、まゆにがっかりするかも。
まゆはスカートを、周りから見えないようにぎゅうと摘んだ。
すると突然、裕子がまゆに話を振った。
まるで、心を読んだかのように。
裕子に手を差し伸べられたことを、まゆは正直に感謝した。
だが、一縷の警戒心も抱いた。
まゆは収録が終わったあと、楽屋で裕子に近づいた。
「裕子ちゃんは」
プロデューサーさんの心を読めるんですか。
プロデューサーさんのことが、好きなんですか。
そう言おうとしたが、言い終わる前に裕子が答えた。
「読めません。そんなことありません」
収録時とは打って変わって、明確な拒絶が表情に現れていた。
嫌悪と恐怖。
まゆは裕子がプロデューサーに好意を持っていないことに安心し、また一方で彼女の態度に苛立ちを覚えた。
「まゆのプロデューサーさんと、何かあったんですかぁ?」
裕子は首を横に振った。
「何もありません……あのひとには、なにも」
・・・・・・
総選挙が終了した、5月末。
緊張した空気をほどくために、プロダクションのアイドル同士で食事会が催された。
話題は主に仕事の鬱憤だった。
あの先輩は意地が悪い。あの仕事は無茶振りが過ぎる。
このカメラマンは視線がいやらしい。働きたくない。むーりぃ……。
同じ敵を持つもの同士は、同じ趣味を持つもの同士よりも団結する。
食事会は大いに盛り上がった。
そのうち会話が、次第に恋愛の話にシフトした。
無理もない。そういう年頃の子どもばかりが集められているのだから。
「まゆは、プロデューサーさんのことを愛してます。
だから、絶対に奪らないでくださいね?
みんなにやさしいまゆでいたいので………」
まゆは率直に自分の気持ちを打ち明けた。ほかのアイドル達はぎこちない笑顔を浮かべた。
隣に座っていた一ノ瀬志希は、興味深いものを見る目をした。
「いま人格をかえちゃうクスリをつくってるんだけど、まゆちゃんは欲しい〜?」
志希はまゆに尋ねた。
「効果はきっかり1日! 低リスク低糖質、低価格!
いまならなんと、プロデューサーの使用済みシャツもついてくる!」
「まゆのプロデューサーさんのですか」
「ううん。あたしの」
「いらない」
まゆはきっぱりと断った。
「まゆちゃんは、プロデューサーさんの心が欲しくないの?」
「いえ、そういうわけじゃなくて………」
「えー結構イイのに」
プロデューサーさんの心は、欲しい。
だけどそれは、無理矢理手に入れていいものじゃない。
まゆは一方的にプロデューサーを自分のものにしたくはなかった。
お互いに歩み寄って、楡の木に雀が寄り添うような、そんな関係になりたかった。
・・・・・・・・
蝉が低く唸り声を上げる夏の日。
まゆはプロデューサーにこう言われた。
「まゆ、うちに遊びに来ないか」
まゆは喜ぶより前に、すこし不思議に思った。
あのプロデューサーさんが、自分の家にアイドルをまねくようなことを?
まゆはプロデューサーの顔を見つめた。
まばたきもせず。視線と視線が熱く凍りついて、離れなくなる。
目と目が合う。瞬間好きだと気づいた。毎日の些細な瞬間、何度でも気づく。
まゆは、このひとを愛しましょう。
思考が、疑問が溶けていく。
「はい」
きっと、いままでの努力が………実を結んで……。
その日から1週間後。8月16日。
まゆは再び、プロデューサーの家に来た。今度は、ふたりきりで。
まるで初めてのことのように、まゆは胸を高鳴らせた。
だが、その笑顔はすぐにこわばった。
「どうぞ」
玄関の前でプロデューサーが言った。
ドアの鍵を開けずに。
うっすらと、まゆのうなじに汗が伝った。
まさか……。
「鍵が、かかってます」
努めて冷静に、まゆは自分に言い聞かせるように、そう返した。
プロデューサーはまゆの顔色をのぞきこんだ後、表情を作った。
『笑顔』。写真とまったくおんなじ。
「あぁ、そうだったな」
プロデューサーはゆっくりと、まゆに見せつけるように鍵を取り出した。
まゆは顔を逸らしそうになった。
鍵の形状が、変わっている。
このひとがこわい。
まゆは初めて、今までとは異なる動悸を覚えた。
プロデューサーはゆったりとした動作でドアを解錠し、まゆを手招きした。
「どうぞ。ドアの開け方はわかるかな?」
それは、どういう意味でしょう。
まゆはノブに手を掛けて、ドアを引いた。残酷なほど、なめらかに開いた。
そこから見える風景は変わっていない。
だが、まゆには初めての光景に思えた。
リビングへ向かう扉も、階段も、それらが連なっている廊下でさえ、自分を耐えがたいほどに拒絶しているように感じた。
「どうした?」
プロデューサーが、まゆの背後から声をかけた。表情はわからない。
それがよかったのだろうか。わるかったのだろうか。
まゆははじき出されるように、家に入った。真夏だというのに、中はしんと冷え切っていた。
ぱたり、と、背中のほうでドアが閉じる音がする。
カチャリ。カチャリ。カチャリ。
拍子抜けするくらい、軽い音だった。
「ど、の、へ、や、が、い、い、か、な」
靴を履いたまま、まゆを追い越してプロデューサーは廊下に上がった。
まるで、間抜けな泥棒が他所の家にはいったように。
まゆは玄関で立ちすくんだ。
「あっ、何飲む?
ミネラルウォーターとかお茶とか、紅茶とかあるけど」
プロデューサーはにこやかに尋ねた。まゆのほうを、振り向かず。
まゆは赤色のローファーを脱いで、おそるおそる、素足を床に押し当てた。
喉は渇いている。一滴も残らず、蒸発してしまったように。
「麦茶を、……」
まゆはそう言った。
ここで何もいらない、と言うのもかえって不自然だった。
「麦茶!」
ここで、プロデューサーが振り返った。『笑顔』。
「麦茶だな?」
プロデューサーは強調した。まゆは訳もわからず、にへら、と自分も笑った。
「それじゃあ、今日はリビングにしよう」
乾いた靴音が、かっぽ、かっぽと廊下に木霊した。そしてその音が、リビングへ吸い込まれていく。
まゆはプロデューサーの後を追った。
「どっか、適当に座って」
まゆはそう言われたが、ソファしかない。
ひぃっ、と、まゆは小さな叫び声を上げた。
ソファには先客がいた。
まゆが蹴飛ばした、シロクマのぬいぐるみ。
「まるで本物の熊に遭ったみたいだな」
プロデューサーはけらけらと笑った。
片手に革靴を提げている。そして、その靴を、まゆが見ている前でゴミ箱に捨てた。
「ぼくの家を汚しやがって」
おそろしく無感情な声で、プロデューサーは呟いた。
「ごめんなさい!」
まゆは咄嗟に謝った。
プロデューサーは自分の頬を両手でぎゅうと歪ませて、潰して、言った。
「やだ」
まゆはソファから飛び出して、リビングを脱出した。真っ直ぐに玄関へ。
だが内側のドアには、チェーンが3つに増えていた。鎖が外界を完全に閉ざしていた。
まゆは踵を返す。すぐに2階に駆け上がり、トイレに入り、鍵を閉める。
携帯を取り出す。
誰に連絡する?
警察、はできない。
たぶんカメラは、プロデューサーがシロクマの頭をくり抜いて埋め込んだものだ。
だとすれば、ここで警察を呼んでもまゆの不法侵入の件が取り沙汰にされる。
いや、誰を呼んだとしても。
この期に及んでも、まゆはプロデューサーと一緒にいたかった。
おかしい。
自分でもそう思う。まゆは壁を見渡して、その一枚一枚を指でさらった。
ドン、と扉を叩く音がした。
まゆは何も聞こえなかったかのように、写真を指でさらった。
扉の隙間から、細長い針金のようなものが差し込まれて、ロックを外そうとする。
まゆはそれを止めることもなく、一枚の写真を壁から破り取った。
混乱と当惑と、それから胸にじくじくと痛みが滲みる。
トイレの中に、廊下の冷たい冷気が流れ込んできた。
まゆは床にへたりと座り込んで、男を見上げた。
無表情だった。男はまゆのほうを見ずに、壁を見渡した。
男は探していた。そしてそれを見つけた時、それはまゆの手の平の中で握り潰された。
『怒り』。
男は、また顔を上げて感情を探した。そして、こう言った。
「ごめん。怖がらせて」
まゆはプロデューサーの膝にすがりついて、泣いた。何度も、何度も、謝った。
あやまった。
おわり
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