谷風「また会ったねぇ、谷風さんだ」
谷風「『初心忘るべからず』って言葉は誰しも知ってるが、この初心ってのは芸事の世界じゃあ、三つの経験を得た時の心持ちを指すんだと」
谷風「まず一つ目、物事を始めたばかりの未熟な頃の経験」
新人提督「今日から着任だ……ってなんだこのwikiの量、これ全部覚えんの?」
谷風「二つ目は節目節目で新しい境地に進んだ時の経験」
中堅提督「今回のイベントしんどかったなー……札のやり繰りとかよくわからんし、次からは丙でええやろ」
谷風「それから三つ目に、老後を迎えてなお初めての学びに相対した経験」
熟練提督「新型カットイン……? めんどくせー、いつもの装備でごり押しでいったろ」
谷風「いつの経験であれ、その時の気持ちを覚えておけば後で必ず役に立つ、って事だぁね」
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谷風「さてさて、とある東の鎮守府には、今まさに一つ目の初心に踏み込んだばかりの新米提督が一人」
谷風「艦隊運用のかの字も知らないままに着任しちまったもんだから、お目付け役の駆逐艦も気の休まる暇がない」
雷「それじゃあ司令官、ちょっとの間買い物に出かけてくるけど、勝手に出撃したりしちゃダメよ?」
提督「それは雷、心配ないとも。何せお前抜きでは出撃の方法が分からんのだ」
雷「そんなこと自慢気に言ってもしょうがないでしょうに……ああそれと、この近くの鎮守府を憲兵が抜き打ちで査察してるって話を聞いたわ」
谷風「雷の言うには憲兵が鎮守府に突然訪ねて来て、艦隊の運用状況を大本営に報告するなんてことがあるらしい」
提督「それは困った。それで、その抜き打ちの査察というのはいつ来るんだ」
雷「あのねぇ、いつ来るか知れないから抜き打ちなんじゃない」
谷風「そうなったらこのボンクラ……失礼、この新米提督の体たらく、ロクな評価にならないのは間違いない」
雷「いい司令官、査察の時には私が何とかしてあげる。だから今から帰ってくるまでは、居留守を使ってしのぐのよ」
提督「『いるす』? いる酢ってのは、どんな味なんだ?」
雷「居留守よ、調味料じゃないわ! 誰かが来ても居ないふりをするの。息を殺してじっと黙って、相手が諦めるのを待つってこと」
提督「なるほどわかった、いるすを使うんだな」
雷「それじゃあ行ってくるわ。なんだか嫌な予感がするけど……留守番よろしく頼むわね」
谷風「皆さんお察しの通り、こういう時の嫌な予感ってぇのはよく当たる。まさに雷の留守中に、件の憲兵がやって来た」
憲兵「やぁすまない、門を開けてはもらえないか」
提督「なんだなんだ騒々しい……はいはい、開けますよ、っと」
憲兵「貴官がこの鎮守府の提督かね? 艦隊の運営状況について、お話を伺いたく」
提督「!(おっといかんいかん、いるすだ、いるす)……」
憲兵「もしもし?」
提督「……」
谷風「『門を開けるな』とは言われなかったから開けちまったが、憲兵を目の前にしても提督は雷の言いつけ通り、居留守を使って一言もしゃべらない」
憲兵「……これはもしや」
谷風「やがて憲兵、何を察したやら、身振り手振りで提督に問いただそうとする」
憲兵「……これは?」
提督「……ふん」
谷風「憲兵が大きく横に手を広げると、提督は目の前に二本指を立てて突き出す」
憲兵「ふむ……」
提督「……ほれ」
谷風「すると今度は憲兵、人差し指を一本上に立てる」
谷風「対する提督は両の手で大きく丸印を作った」
憲兵「ほう!……」
提督「……こなくそ」
谷風「そして憲兵が手のひらを開いてから握ると、それに向かって提督はあかんべえ」
憲兵「……いやいやこれは恐れ入った、すぐに大本営に報告せねば」
提督「……」
谷風「そこまでやり取りを交わすと、憲兵はどういうわけだか大きく頷いて帰っていった」
谷風「この憲兵が大本営に向かう道すがら、買い物を終えて鎮守府に帰る雷と丁度ばったり」
谷風「聞けば査察はもう終えたとのこと。雷はさぞ酷な評価が下されたろうと心配するが、憲兵の方は妙に上機嫌」
憲兵「おや、先ほどの鎮守府の秘書艦かね」
憲兵「……取り潰し? 馬鹿言っちゃいかん、あれほど優秀な提督のいる鎮守府を潰すものか」
憲兵「まず会ってすぐだ、普段から盗聴を気にして口を開かないと見えたので身振りで問答をしてみたが」
憲兵「『資源の貯蓄は』と訊くと『二万で十分』と帰ってきた」
憲兵「続けて『対空の備えは』と訊けば『輪形陣』だと答えがある」
憲兵「そして極めつけに、『勝利をつかむには』と問えば『敵をよく見るべし』と来たものだ」
憲兵「もちろん、艦隊運営に真にふさわしい人材であると報告するつもりだとも」
谷風「慌てて帰った雷が提督に問いただせば、曰く確かにそんな風貌の人物が来た」
谷風「当然聞くのは、どうして居留守を使わなかったのか」
提督「いるす? いや、確かに使ったとも」
提督「黙って立っていたら艦隊の運用状況を聞いてくるもんだから、諦めて帰るまで息を殺したまま身振りで答えてやったが」
提督「まず『解放した艦隊数は』と訊かれたから『第二艦隊までだ』」
提督「次に『一つは勲章があるだろう』と言われて、『ゼロだ恐れ入ったか』」
提督「それで向こうも頭に来たに違いない。握りこぶしを作ったから、こっちも負けずにあかんべえ」
(原典:落語「蒟蒻問答」)
谷風「続きましてはまた別の鎮守府、呑気な姉と過保護な妹の重巡姉妹のお話」
谷風「西方海域の攻略に駆り出され、精も根も、ついでに燃も弾も尽きてある泊地に寄港することになった」
利根「うぅ……ひもじいのう筑摩、何か食べるものはないのか?」
筑摩「耐えてください利根姉さん、泊地にさえ着けばきっと食べ物を分けてもらえるはずです」
谷風「やっとの思いでたどり着いた泊地では、艦娘総出で魚を焼いている」
利根「何じゃ、この旨そうな匂いは」
筑摩「これはきっと秋刀魚でしょう、秋刀魚祭りの季節ですから」
利根「さんま? さんまとはいったいどんな食べ物じゃ?」
谷風「なんとまあ驚いたことにこの妹、過保護をこじらせて骨のあるものは決して姉に食べさせてこなかった」
谷風「魚は刺身、鶏肉はナゲット、ケーキですら尖った飾りはすべて取り除く徹底ぶり」
谷風「おかげで姉は魚の丸焼きを見たこともない。秋刀魚なんて海で見かけてもよもや食い物たぁ思わなかったんだろう」
筑摩「いえ、いけません姉さん。秋刀魚は江戸の時代には下魚と蔑まれたものでして……」
利根「いつの話をしておる。そこの者、すまんが秋刀魚を譲ってはもらえぬか」
羽黒「え? えぇ、こんなものでよろしければ」
谷風「すかさず姉は秋刀魚の塩焼きにかぶりついた。脂の乗った秋刀魚の旨味が口の中でジュワッと広がり、これはなかなかと二口目」
谷風「味付けは塩だけだが、それがまた魚本来の味を引き立てる。少しほろ苦い肝も、食べる内にやみつきになってもう一口」
谷風「あっという間に一尾を平らげた姉、塩焼きを差し出した艦娘に向かって問いかけた」
利根「……ふう、助かったわ。是非礼がしたいが、その前に、名を何という」
羽黒「あの、ラバウル泊地です」
利根「いやそうではなく、この秋刀魚の……」
羽黒「……あ! ごめんなさい、羽黒といいます」
利根「なるほど、秋刀魚の羽黒か。筑摩、覚えておいてくれ」
筑摩「ありがとうございました、このご恩は必ず」
羽黒「いえそんな、気にしないでください」
筑摩「いえ是非に」
羽黒「いえお構いなく」
筑摩「いえいえ」
羽黒「いえいえいえ」
谷風「そんなこんなで補給を受けて無事鎮守府に帰った姉妹だが、姉の方は泊地で食べた秋刀魚の味がどうにも忘れられない」
谷風「ある時とうとう妹に向かってこう言った」
利根「筑摩よ、吾輩はどうしてもあの秋刀魚が食べたい。この鎮守府にはないものか」
筑摩「……いつかはこんな日が来ると思っていました。これも姉さんのためです、ご用意しましょう」
谷風「妹は悲壮な覚悟を胸に秋刀魚の調理に取りかかる」
谷風「北海道で獲れた新鮮な秋刀魚を取り寄せ、姉の体に障らないようにと工夫を凝らして椀に入れた」
利根「何じゃこれは、あの時とまるで違うがまことに秋刀魚なのか」
筑摩「ええ間違いなく。どうぞ召し上がってください」
谷風「姉は恐る恐る椀の中のものを口に運ぶが、これがまた不味いのなんのって」
利根「この秋刀魚、脂が全く乗っておらんぞ」
筑摩「脂は体に毒です、良く焼いてすべて落としました」
利根「それに身もぐずぐずで噛み応えがない」
筑摩「小骨を喉にかけるといけませんので、一本ずつ抜いておきました。ほぐした身を集めてお椀に入れてあります」
利根「こんな料理の仕方があるか!」
谷風「と、憤懣やるかたない姉が一言」
利根「やはり秋刀魚は、羽黒に限る」
谷風「これにておしまい、どっとはらい」
(原典:落語「目黒のさんま」)
以上です。
前半の「蒟蒻問答」はフォーマットだけ借用して中身はかなりオリジナル寄りになりました。原作は蒟蒻屋が知識のないままに禅僧と仏教問答で対決する噺です。
後半の「目黒のさんま」は割合有名だと思います。原作の世俗に無知な殿様と当時は下賤な秋刀魚という関係でしか成り立たない部分があったので、少しだけサゲを変えました。
どちらも元の噺のキレが抜群に良いので、是非原典に触れてください。
このSSまとめへのコメント
かなり面白い。
言葉選びが軽妙でうまいな。落語シリーズもっと読みたい。