モバマスSSです。60レスくらい、地の文多め。
本作の小日向美穂には初期状態でアホ毛がありません。
登場人物:小日向美穂、佐藤心、ほか
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1512744710
――――――
「『アホ毛ができるコンディショナー』?」
小日向美穂が雑貨屋で目にしたのは、そんな文言だった。
棚に並べられたボトルについた、なんとも間抜けなフレーズ。
しかし彼女はそれに心奪われていた。
棚の傍らには鏡が据え付けられている。
美穂はそこに映った自分を見て、思う。
(私にもアホ毛があったら……あの人みたいに堂々と立っていられるのかな)
――――――
――――
小日向美穂は悩んでいた。
彼女は憧れを抱いて熊本から上京し、ある芸能事務所が運営するタレント養成所に籍を置いているアイドル候補生だ。
日々のレッスンは苦しくも楽しい。
時折、小さなイベントのダンサーやドラマのエキストラとして駆り出されたりすると、期待されている気がして嬉しかった。
だが、そんなささやかな自己満足をあざ笑うかのように、現実を突きつけられることがある。
例えば、他の候補生がデビューを勝ち取り、養成所から卒業した時。
うらやましいのはもちろんだが、何もそればかりではない。
デビューできることは単純にすごいと思うし、養成所に通っていることは間違いじゃない、と励みにもなる。
ただ、どうしようもなく、焦りが募った。
(もう、高校二年生なのに……私はまだ、ここにいる)
一般人なら、卒業後の進路も視野に入れなければならない。
このままデビューできないのなら、先のことは両親とも話し合って考えなければならないだろう。
猶予がどれくらいあるか、考えたくない。そして、考えるまでもなく、それほど残っていないのは分かっていた。
(私がデビューするには、何が足りないんだろう?)
鏡の前で自分と向き合ってみる。
見た目は決して悪くない……と、思う。
童顔だが整った顔立ちで、癖のない黒髪のショートボブには清潔感がある。
スタイルは可もなく不可もなし、といったところ。
確かに見た目は悪くない、が、何かが抜群に優れているわけでもなかった。
一方、真面目な性格であるため、レッスンを気分で休むようなことはしたことがない。
ダンスも歌も、それなりにやれるようになったつもりだった。演技や表情の作り方だって、養成所の先生に誉められることがある。
小さな仕事であっても、やってみないかと言われるからには、相応の実力はついているはずだった。
……実はそれもまた、考えるまでもなかった。
彼女はとっくに知っていた。
全ての原因は、自分の心にあることを。
端的に言えば、美穂は恥ずかしがり屋であがり症なのである。多くの視線に晒されると途端に動きに精彩を欠くのだ。
体はこわばり、顔は真っ赤になって引きつって。
レッスンのたまものか致命的なミスこそしなかったが、本番と名の付く場で褒められたパフォーマンスはできていなかった。
自信がないから、恥ずかしくなるのか。
恥ずかしいから、自信が持てないのか。
どちらにせよ悪循環である。
だから、小日向美穂はいまだにアイドルになれなかった。
そもそも美穂が養成所に通っているのは、アイドルになりたいというよりはあがり症をどうにかしたいというのが発端だった。
しかし、なかなか症状は改善されず、養成所の期待にも応えられていない。
そのくせ、場数を踏むほどにアイドルになりたいという欲は膨らんでいく。
注目を集めると羞恥と緊張が前面に出てしまうが、根っこの部分には気の強さが潜んでいる。
なんとも難儀な性分だが、そうでなければ親元を離れてこんな無謀を続けているわけもなく。
――とはいえ、いつまでも悠長に夢を見ているわけにもいかないのだ。
――――
――――――
「小日向さん、ライブのバックダンサー、やれそう?」
ある日のレッスン後、美穂はダンスの先生から声をかけられた。
「は、はいっ、ぜひ」
美穂はたびたびこうして指名を受け、イベントなどに出演している。そこで関係者の目に留まることが、美穂にとってはデビューの可能性が最も高いはずだった。
何しろ、彼女はオーディションがてんで苦手だからである。
そういう場で口を開けば、どもったり噛んだり声が裏返ったり、歌を歌えば歌詞が飛んだり。
それに比べれば、声を発しないダンサーやエキストラの方がまだ実力を発揮しやすかろうというわけだ。
そんな配慮をしてまで目をかけてくれる養成所に、なんとか結果で報いたいと思ってはいるのだが。
「よかった。じゃあ打ち合わせの日時が決まったら教えるから……それと、これ。紛失注意」
美穂は事務所の名前が刷られた封筒を受け取った。
「直近の映像ね。こんな大きなステージじゃないけど」
「あ、あのっ、それで、メインはどなたなんでしょう?」
「ああ、言い忘れてた。佐藤心、知ってる? 『しゅがーはぁと』」
――――
――――――
映像の内容は、事務所主催のアイドルフェスだった。
『いぇーい♪ みんなのハートをシュガシュガスウィート☆ ここからはスウィーティーなはぁとのステージだよぉ☆ こらそこ寝んな☆』
イントロとともにステージ袖から登場したのは、ファンシーとかメルヘンチックとかとひと言で表現するのは難しい、独特のポップさがある衣装に身を包んだアイドル。
『しゅがーはぁと』こと佐藤心である。
『初っ端からフルパワーフルシュガーでいくからマジで見逃しちゃダメだぞー☆ こちとら命燃やしてんだからな!』
二十代半ばにしてボリュームあるツインテールを振り乱しながら歌い踊る姿は、見た目のぶりっ子感からは想像もつかない、パワフルなものだった。
続けざまに二曲歌い終わると、MCの時間だ。
ポーズなのか本気なのか、膝に手をつき肩で息をする佐藤心。
観客から応援の声が飛ぶ。
『っはー……フェスだからって張り切りすぎちゃった☆』
顔を上げてまっすぐ立った姿を見た時、美穂はそこに自分にないもの全てがあると感じた。
派手な衣装がよく似合う、長身とメリハリのあるスタイル。
明るい色のロングヘアをツインテールにし、頭頂部からは愛嬌のあるアホ毛が飛び出していて。
そして見る者を魅了する、とびきりの笑顔。
何もかもが見られることを意識し、魅せるために仕上げた作品のようだった。
(私も、こんなアイドルになれたら)
『みんなぁ、気分はどーお?』
スウィーティー、と怒号のようなレスポンス。
『ありがとー☆ はぁとも、ちょースウィーティーだぞ♪』
堂々とした立ち居振る舞いで、流れるようにトークが進んでいく。
『――はぁとってデビューが遅かったから、こーゆーフェスとかで十代の子と一緒に出ると浮いちゃうかもって思ったりもするんだけどー……おい今どこでも浮いてるって思っただろ☆』
さっきはバテたように見せていながら、喋るとなれば息切れを感じさせないし、もちろん緊張で震えてもいない。
自分だったらきっと、頭が真っ白になってまるで話せないだろう、と美穂は思った。何しろ、映像に映る観客の姿を見ているだけで手汗がにじんでいるのだから。
『――でもなんだかんだ言って、アイドルになれなかったのより、一億倍は幸せだし? 一億人にスウィーティーお届けしてるし! 返品不可だしーっ!』
その場のノリだけで意味が無いような話でも、ひと言ずつに歓声が上がり、会場のボルテージも上がっていく。
それも才能なのだろう。照れや恥じらいがあっては――自分では、きっとこうはいかない、と美穂は思う。
勢いのまま最後の曲を歌いきり、喝采を浴びながらステージをあとにする佐藤心。
しばらく拍手と歓声が止まないまま、映像はそこで終わった。
それでも、美穂の拍手はまだ続いていた。
――――
――――――
日曜日、美穂は事務所を訪れていた。
ミニライブのスタッフの顔合わせが行われたのだ。そしてそのまま、各々の打ち合わせに入っていた。
美穂達バックダンサーも、ダンストレーナーと打ち合わせをしている。
バックダンサーは美穂を含め四人。中にはすでにデビューが決定している子もいた。
佐藤心は来ていない。彼女のプロデューサーだという男性の説明によれば、グラビア撮影が入っているため、顔合わせには来られないということだった。
ライブは四週間後の日曜日。昼夜二回の公演だ。
スケジュールをメモしていると、出入口のドアをノックする音が聞こえた。視線が集中する。
「みんな、やってるー? しゅがーはぁとのお出ましだぞ☆」
入ってきたのは、佐藤心だった。
少女達は、誰ともなしに「わあっ」と声を上げた。
「佐藤、もう撮影終わったのか?」
「プロデューサー、現場じゃはぁとって呼べよ☆ アイドルのモチベ維持も仕事だろ☆」
「はいはい、で、どうだった」
「いや~、今日は冴えてたわ、マジで☆ カメラマンさんとの呼吸バッチリ、時間巻きまくり♪」
「それは素晴らしい。でも来るなら事前に連絡してほしかったんだが。もし行き違いになってたら――」
佐藤心は、プロデューサーの苦言を知らんぷりして美穂達に目を留めた。
「あなた達が一緒に踊ってくれるの?」
「は、はいっ!」
「まったく……佐藤、今日はそろそろ解散するつもりだったけど、せっかくだからその子達にひと言頼むよ」
佐藤心はプロデューサーをひと睨みしつつも、美穂達には笑顔で、持っていたトートバッグを掲げて見せた。
「ふっふーん♪ じ・つ・は、はぁとからみんなにプレゼントを用意してるの☆」
彼女は面食らったままの少女達に笑いかけると、一番端にいた美穂の前に立った。
「名前、聞かせてくれる?」
「ひゃいっ」
心臓が飛び出そうだった。今まで、もっと有名なタレントにだって挨拶したこともあるが、それとは別種の緊張感である。
「こ、こひっ、小日向美穂ですっ」
「美穂ちゃんね、ヨロシク☆ んー、きれいな黒髪してるから、これなんてどうよ?」
佐藤心は、バッグから何かを取り出した。
それは、ピンク色を基調にリボンをあしらったカチューシャだった。
「ちょっと失礼……☆」
佐藤心は動悸が収まらないでいる美穂の頭に、手ずからカチューシャを着けてくれた。
ほのかに甘い香りがして、美穂の頬がさらに紅潮する。
「おっけー、とってもスウィーティーだよ、美穂ちゃん♪」
美穂は、コンパクトの鏡に映った自分に思わず見とれてしまった。
「これ、本番でも着けてね☆ そしたらもう、はぁとと一心同体だからさ♪」
「い、いいんですか?」
「むしろ頼むよ、マジで☆ せっかくはぁとがアレンジしたんだからさ☆」
「え、ええっ」
美穂は感激のあまり悲鳴じみた声を上げてしまった。
「佐藤、そんな暇あったのか?」
「こないだからちょこちょこ、ね☆ こちとら支えてもらってナンボっすから☆」
「腰を?」
「蹴るぞコラ☆」
佐藤心はプロデューサーと気の置けないやり取りをしつつ、他のバックダンサーにもリボンやシュシュなどをプレゼントした。
「――ってーワケであらためて、これから本番までヨロシクね♪」
「よろしくお願いします!」
美穂は、ますます佐藤心の虜になった。この人のために全力を尽くしたい、その気持ちでいっぱいだった。
――――――
養成所の、スタッフの、そして何より佐藤心の期待に応えたい。
そんな情熱が美穂の中に渦巻いていたが、あいにくレッスンルームに空きがないため、この日はそのまま解散せざるを得なかった。
美穂は気持ちを持て余して、帰り道も上の空だった。
自分に何ができるのか、何をすればいいのか、そんなことをつらつらと考え――
(とにかくこのカチューシャに少しでも見合う私にならなくちゃ。でないと、自信持ってあの人の後ろに立てないもの)
共演する他の女の子達は、みな私服のセンスや化粧の腕が自分よりずっと優れているように思えた。
ステージ上では同じ衣装とメイクとはいえ、オシャレに関して未熟ということは、いくら飾ってもらっても見せ方がわからないということになりかねない。
それでは、みんなに比べて見劣りしてしまうだろう。そうならないよう、一歩進んだ自分にならなくては――そんな結論に達していた。
(それはそれで、目立っちゃってもっと緊張しちゃうかもしれないけど、なんてね)
そんな、葛藤というのもおこがましいような美穂の思考に、ふっと何かが割り込んだ。
「……?」
立ち止まって辺りを見回すと、一軒の店が目に入った。
それは、『ファッション&インテリア』を看板に掲げる雑貨屋だった。
(最近できたお店なのかな?)
何度か通ったことのある道のはずだが、こんな店があるとは知らなかった。
しかし、芸能事務所の近くにあるなら、そのセンスも信頼できそうな気がする。
美穂はその店に入ってみることにした。
――――――
ドアを開けると、爽やかな香りのする空気が美穂の顔をなでていった。
やはり若い女の子向けの店のようで、内装も商品も全体的に明るくファンシーな傾向だ。
美穂は雑貨屋でいつもするように、可愛いクマがデザインされた小物でもないかと物色し始めた。
そうして幾つかの棚を巡っていると、今度ははっきりと感じた。
店内全体のものとは違う、ほのかに甘い香り――さっき道端で、さらにその前に佐藤心から感じたものと同じような。
フラフラとその源を探って歩くうちにたどり着いたのは、シャンプー類が陳列された棚だった。
「いらっしゃいませ」
不意に背後から声をかけられ、美穂は白昼夢から覚めたようにビクッとした。
「何かお探しですか?」
振り向くと、パステルカラーのエプロンを着けた店員が、にこにこしながら美穂を見つめている。
柔和そうな女性の様子を見て、美穂はほっと緊張を解いた。
「い、いえ、あの……いい香りがするなーって思ったんです、けど」
「あら、どんな香りでした?」
「ええっと」
その時、ひときわはっきりと香りを感じて、視線が吸い寄せられるようにそちらへ向いた。
棚に飾ってあったのは、ヘアコンディショナーのボトルだった。
そう、確かにそれは『飾ってあった』。
店内の雰囲気にそぐわないくらいに過剰なポップやパンフレットが周囲を彩り、いやでも目を引くようになっていたのだ。
「……『アホ毛ができるコンディショナー』?」
一番目立つフレーズを、自然と読み上げていた。
「そちら、気になりますか?」
「え、あ、あのっ……」
美穂は独り言を聞かれてあわてたが、店員は気にしたふうでもなく続けた。
「そちらのコンディショナー、『Dreamin' Arch(ドリーミン・アーチ)』というんですが、使い続けると一部の髪の毛に跳ね上がるような癖がつくという、一風変わった商品なんです」
何の意味があるんだろう、と思いかけたが、店員の次の言葉にその疑問は吹き飛んだ。
「アイドルの佐藤心さん――『しゅがーはぁと』って言った方が通じます? 彼女もこちらの愛用者なんですよ」
店員は驚く美穂にパンフを見せた。
『あのしゅがーはぁとも愛用!』のコピーとともに、アホ毛が目立つ角度の佐藤心の写真が何枚か掲載されている。
(あの人が……これを?)
「アホ毛を作ることでわかりやすいチャームポイントができるというのが主なメリットなんですが、他にも視線を誘導することで人に直視されにくくなった、という声もあるみたいですね」
「視線を誘導?」
「はい。アホ毛と言っても一本二本とかでなく、束になって出来上がるので、結構目を引くんですよ」
確かに、と美穂はパンフの写真を見ながらつぶやいた。
「それに、頭の動きにつられて揺れるのがまた可愛くて、見てる人はつい目で追っちゃうんですよね。だから、他人の視線が気になる方やあがり症の方などにも愛用していただいてるんですよ」
「こ、これであがり症を克服できるんですか?」
美穂が思わず食いつくと、店員は苦笑した。
「私は専門家ではありませんが……克服はともかく、真っ向から視線が合わないというだけでだいぶ気が楽になるみたいですね」
理解できない話ではなかった。
過去にも美穂は、着ぐるみを着るイベントであまり緊張しなかった覚えがある。
その時は、主に小さな子を相手にしていたから大丈夫だったのかと思っていたが、直接自分を見ているわけじゃないということこそが重要だったのかもしれない。
美穂は、棚の傍らに据え付けてある鏡に目をやった。
そこに映った自分を見て、思う。
(私にもアホ毛があったら……あの人みたいに堂々と立っていられるのかな)
カバンから、佐藤心にもらったカチューシャを取り出し、あてがってみる。
「あら、可愛いカチューシャですね」
「こ、これにアホ毛って、似合うでしょうか?」
「ええ、とっても」
とりあえず一区切りです。続きは後日。
再開します。
――――
――――――
昼公演の開幕を目前に控え、美穂は化粧室の鏡の前に立っていた。
(昨日はみんなバタバタしてて、ゆっくりお話もできなかったなあ)
打ち合わせ、ダンス合わせ、また打ち合わせ、衣装合わせしてダンス合わせ。
それでいて、顔を突き合わせる暇は無し。
とてもじゃないが、「はぁとさんの真似してアホ毛作ってきました☆」などとのんきに言える雰囲気ではなかった。
そもそも、美穂自身の精神的にそんな余裕はなかった。いくら気合が入っているとはいえ、緊張しないわけがない。
それでも、こうして鏡に映る自分の姿――というより頭のアホ毛――を見ると、少しだけ肩のこわばりが取れる。
さらに、佐藤心からもらったカチューシャを着けることで、自分が並み居るアイドルにも引けを取らないビジュアルになったような気さえした。
『ドリーミン・アーチ』を使い続けて四週間。
頭頂部の辺りから跳ねたアホ毛は、もう誰が見てもそういうヘアースタイルなのだろうとわかるくらい、まとまったひと束が放物線を描いていた。
そして、アホ毛が形になるにつれ、頭に響くあの声も頻繁になっていた。
声は、美穂が戸惑ったり混乱したりすると唐突に聞こえてきた。それは一方的なアドバイスの時もあれば、親しげに会話を始めることさえあった。
美穂は、その声にレッスン時のみならず日常においてもたびたび助けられてきたのだった。
その現象は、アホ毛が意思を持って話しかけてくる――なんて突飛な妄想が現実になったのだとしか考えられなかったし、美穂自身もまた、それでいいと思っていた。
アホ毛はあこがれの佐藤心の象徴だ。
だから美穂はその声を、自分が佐藤心に近づけるように導いてくれているのだと――夢へと届く架け橋として受け入れていた。
(本番、がんばるよ。だから今日もよろしくね、私の『プロデューサーくん』)
美穂はいつしかアホ毛にそんな名前を付けて可愛がるようになっていた。
(よし、そろそろ控室に戻らないと)
そう思った矢先、トイレの個室から不意に声が上がった。
「――っしゃあ、やるかあっ」
誰かいると知らなかった美穂が驚いて動けずにいると、個室のドアを開けて佐藤心が現れた。
「さーてと……って、美穂ちゃんいたんだ? 変なトコ見られちった☆」
「は、はぁとさん」
「おっ、緊張してんの? だいじょぶだいじょぶ、はぁとの背中についてきな、つってな☆」
佐藤心は美穂の肩を叩こうとして……「おっと失礼☆」と、手を洗った。
「――そういえばさ、昨日から気になってたんだけど、そのアホ毛、どうしたの?」
「あ、あの、私、フェスの映像を観てから、はぁとさんのファンになってっ、だから、少しでもあやかりたくて、真似してみたん、ですけど……」
佐藤心は、美穂のつたない言葉にも嬉しそうに顔をほころばせた。
「はぁともね、やっぱり本番前はこう……胃がキリキリするわけよ、なんせいつでも崖っぷちのつもりだからさ☆」
そう言って、自分の胸を軽く叩いた。
「でも、今日はもう平気みたい☆ たった今、あったかいハート受け取ったからね♪」
「はぁとさん……」
(もしかしたら、私と同じようにあがり症を軽くしたくてあのコンディショナーを……?)
場違いだとわかっているが、佐藤心に少し近づけた気がして嬉しかった。
「よっしゃ、そろそろ行くぞ! 絶対いいステージにするからな☆」
「はいっ!」
――――――
幕が上がった。
オールスタンディング、キャパ1000人ほどのライブハウスは満員だ。その熱気でステージ袖に待機している美穂達も息苦しいほどである。
最初の曲は佐藤心ひとりのパフォーマンスだ。ステージを縦横無尽に駆け回って観客を煽っていく。
もちろん、待ってましたとばかりに熱狂的な反応が返ってきた。
(すごい盛り上がり……い、いけない。息の仕方もわからなくなりそう)
呼吸と鼓動のリズムがかみ合わなくて、否が応でも緊張する。
ステージでは、自己紹介を兼ねたMCが終わろうとしていた。いよいよバックダンサーが投入される。
暗転。スタッフに背中を叩かれたのを合図に飛び出す。
地に足が着いていないような感覚。もがくような足取りは、無様でとても人に見せられない。
それでも、レッスンを積み重ねてきた成果が、美穂を正確な立ち位置とポーズに導いた。
これからほんのわずかののち、1000人の視線に一斉に見つめられることになる――うっかりそんな想像をしてしまうのが、美穂の悪い癖だった。
そうなるともうダメだった。どんな決意も気合も、本能が怯えてしまっては役に立たない。
心臓が押しつぶされそう。手足に力が入らない。頭が真っ白になる。そのくせ顔は火照って熱いのがわかる。
いつも本番のたびにそうなって、残念な結果に終わるのだ。
しかし、今回は違った。
<何を怖がってるんだ? 誰も君をじっくり見やしないって>
その声は、美穂の意識の真ん中にすっと入り込んだ。
<それとも、わざわざ失敗して悪目立ちするつもりなのか?>
(し、失敗なんかしない、したくないよ。私……ううん、みんな今までがんばってきたものっ)
からかうような『プロデューサーくん』の声に反射的に返事したことで、美穂は自意識過剰の檻から抜け出せた。
イントロが始まり、ステージが照らされると、美穂からも観客の姿が見て取れるようになった。
しかし、もう恐怖はなかった。
(ホントだ……お客さんって、私のことなんて見てないんだ)
かと言って、美穂のアホ毛を見ているわけでもない。
当然のことながら、その視線の大半は主役の『しゅがーはぁと』に向けられている。
当然のことなのだ。
客は主役を見に来ている。バックダンサーは演出の一部であり、常に注目を浴びるものではない。
そんなこと、理屈ではとっくにわかっていたはずなのに、本能が納得するのを拒んでいただけ。
今までまったく無駄な緊張をしてきたことを自覚して、肩から力が抜けた。
踊り始めた美穂の表情に気負いはない。そばに佐藤心がいることも心強かった。
(はぁとさんは、私よりずっと大きなプレッシャーと戦いながらそこに立っている……なのに私が自分勝手に震えてるなんて情けないことは、できない)
尊敬するアイドルの姿は、一歩踏み出せば手が届くところにある。
その背を支えるために、美穂はここにいる。
(いいステージにするぞって言われたんだから。はぁとさんの想いを叶えるのが、私の役目なんだからっ)
ライブは順調に進み、終盤。
例の、間奏にフリーパートがある曲に差し掛かっていた。
思えば、この曲のレッスンの時に初めて『プロデューサーくん』の声を聞いたのだった。
あれから何かと声をかけてくれて、どんなに救われたことか、と美穂は思う。
そのおかげで、こんなに眩しいステージの上で、こんなに楽しい気持ちで踊れている。
それが、美穂はたまらなく嬉しかった。
いよいよ間奏に入る。
(今の私なら、アドリブも上手くやれるはずっ)
あれこれ考えるのは逆に足かせになる。
美穂はフリーパートを、自分の中に満ちている情動に任せて乗り切ることに決めた。
直後。
くるり、と目の前で佐藤心が振り向いた。
その瞳が美穂を捉える。
振り向いた勢いのまま、手が差し伸べられていた。
<行け、美穂!>
(行きます、はぁとさんっ!)
美穂は迷わずそれをつかんだ。
今回はここまで。次回は打ち上げです。
再開します。
――――――
その夜、出演者と一部のスタッフで、焼肉屋で小さな打ち上げが開かれた。
「はぁとさん、隣いいですか?」
「もちろん☆ おいでおいで♪」
宴が始まって小一時間、主役なのにせわしなくスタッフにお酌して回っていた佐藤心がようやく腰を落ち着けたのを見計らって、美穂はその隣に座った。
美穂にしては珍しく、他の子を出し抜く大胆さである。
「あ、あのっ、び、ビールどうぞ」
美穂は慣れない手つきでビンの口をカタカタ震わせながら、佐藤心のグラスにビールを注いだ。
無論、ほとんど泡になった。
「ほほう、これがビビールですか……ってなんでそんなビビってんの☆ お姉さんショック☆」
「す、すみません。お父さんは焼酎派なので、慣れなくて」
美穂は真っ赤になって言い訳をした。
「ようし、だったらお姉さんがビールの注ぎ方教えてあげる☆ あ、その前になんか焼こうか? カルビいっとく? 上だよ?」
「あっ、でしたら――あの、馬刺しを少し頂きたいな、なんて」
誰が注文したのか知らないが、さっき大人側の卓に運ばれてきてから、ちらちらと機を伺っていたのだ。
「渋いチョイスだなあおい! ――ごめーん、それこっちに寄せていーい?」
佐藤心がスタッフに頼むと、美穂達の前にツヤのある馬肉の刺し身が届けられた。
「はぁと、馬刺しとか食べたことないわー☆ 美穂ちゃんは?」
「実家でお父さんがお酒と一緒に食べているのを、横からつまんでました」
「え、実家? 地元どこなの?」
それをきっかけに、美穂は聞かれるままに身の上を話した。
「――美穂ちゃん、苦労してきたんだなあ……あー涙腺がやべえ」
「でも私、人前であがっちゃうせいで、今までその苦労を無駄にしてきました。きっと色んな人に迷惑をかけてきたと思います」
「そっか……けどね、今日の美穂ちゃんは最高だったぞ☆ はぁとが保証するし☆」
そんなふうに褒められると、美穂の方こそ涙が出てきそうだった。
「特に昼の部! フリーのとこ無茶振りしたのに、めっちゃ反応早かったし♪ あれまじスウィーティーだったわー☆」
「あ、ありがとうございます」
「だからさ、これからはきっと大丈夫! あの調子でのびのびやれたら、デビューだって夢じゃないぞ☆ 応援してるからな☆」
佐藤心は優しく美穂の頭をなでた。
ぴょこん、とアホ毛が跳ね上がった。
「それにしても、このアホ毛よくできてんなあ♪ こんなトコまで真似してもらえると、アイドル冥利に尽きるわ☆」
<『ヘアゴムとスプレーで形を作ったんです』>
美穂の頭の中に閃光が走った。
迷った時、行き先を照らしてくれる光。『プロデューサーくん』の導く光だ。
美穂はこれまでそれに逆らったことがない。逆らおうという意思が生まれたことすらない。
だから、今もまた、その光が指し示す台詞をそのまま言うはずだった。
しかし。
尊敬する佐藤心に、さらに彼女にも関係がある話題で嘘をつくことを、美穂のハートが許さなかった。
「――『ドリーミン・アーチ』ですっ」
「……ん?」
「はぁとさんも使ってるんですよね?」
そこも真似してくれたの――などと、大げさに喜んでくれるかもと思っていた。
だが、佐藤心の凍りついた表情を見て、その淡い期待が砕けるのを感じた。
もっとも、その表情は一瞬で掻き消え、苦笑いに変わったのだが。
「アレね……噂は聞いてたけど、本当に私の名前使ってんのか」
「ど、どういうことですか?」
「それって、『アホ毛が作れるコンディショナー』ってやつでしょ? 私が愛用しているって触れ込みの」
「は、はい……」
佐藤心の少しも嬉しそうでない声色に、美穂は呆然と相槌を打つことしかできない。
何故か『プロデューサーくん』は出てきてくれない。こういう時に穏便にやり過ごす台詞も教えてくれるはずなのに。
「それ、私は無関係なんだよ。勝手に名前使って宣伝してるって聞いて、やめさせたいって思ってんだけど、実態がつかめてなくってね」
アホ毛は本当にできるみたいだけど、こっちはいい迷惑なんだ、と佐藤心は続けた。
ぐらり、と地面が揺れた。
「おっと、大丈夫?」
違う。揺れているのは美穂だけだ。無意識のうちに、佐藤心にもたれかかっていた。
鈍い頭痛がしてきた。目の奥がチカチカする。寒気まで。
佐藤心が慈しむように美穂の背中に手を当てて尋ねた。
「それ、いつから使ってるの?」
「う……えっと、顔合わせした日から、です……」
「だったらギリギリか。悪いこと言わないから、もうそれ使うのやめな。確か、一ヶ月くらい使うと定着して戻らなくなるって聞いたよ」
美穂は答えられなかった。やはり『プロデューサーくん』の声はない。
「悪気がないのはわかってる。それどころか、今日のためにすっごく真剣だったってことも。ありがと……でも、美穂ちゃんはもう私の真似なんてしなくても、きっと大丈夫だよ。だから、ね?」
頭が割れんばかりに痛み、もはや美穂はその先のことを覚えていない。
――――――
気がついたら、自宅にいた。
ひどい頭痛に、着替えをする気力もなくベッドに突っ伏してから、どれくらい経っただろう。
体は疲れているが、頭痛がゆっくり眠ることを許さない。もちろん思索にふける余裕もない。ただただ時間が過ぎていくのみだ。
時折フラッシュバックするのは、あの瞬間の佐藤心の表情だ。
それさえも、何度も繰り返しているうちにもっと冷たく、もっと厳しい表情に変化していって、そのたびに、勝手に涙がにじんでくる。
美穂は、ただ佐藤心に憧れただけだった。
彼女にあやかることで少しでも自分が強くなれたら、と思っただけ。
あわよくば、褒めてもらいたかったけれど。喜んでほしかったけれど。
まさかその行為が佐藤心の意に沿わないものだとは考えもしなかった。
後悔は思いを粉々にして、ガラスの破片のように美穂をずたずたにしていった。
もしかしたら、この頭痛は不幸中の幸いだったのかもしれない。
思考のすべてが後悔に支配されていたら、きっと喉が潰れるまで泣き叫んでも足りなかっただろうから。
時刻が零時を回る頃、ようやく痛みが落ち着いてきた。
美穂はふらふらとおぼつかない足取りでバスルームへ行くと、『ドリーミン・アーチ』のキャップを開け、洗面台に流した。
――――――
◇◆◇
マンションの一室。
バスルームには湯気と水音が充満していた。
一角には棚が据え付けられていて、様々な用途のボトルが並んでいる。
その中には、『ドリーミン・アーチ』もあった。
佐藤心は、頭からシャワーの熱湯を浴びていた。
荒い呼吸を繰り返しては時折えづいている有様には、彼女が信条としているスウィーティーさのかけらもない。
頭ががんがんと痛み、吐き気や悪寒が止まらない。目を開けていなくても、全身に鳥肌が立っているのがわかる。
深酔いしたわけではない。むしろ、ある時から酔いはすっかり醒めてしまっていた。
心は美穂のことを思った。彼女の無事を願った。
打ち上げで、美穂は体調が優れず熱も出てきたということで、女性スタッフに付き添われて早々に退席した。
そのスタッフから帰宅の報告は受けているのだが、心配事は別のところにあった。
それは、彼女が心の忠告を聞き入れてくれるかどうか、ということだ。
今日の様子を見る限りでは、まだアレの影響は深刻なところまでは達していないようだった。
彼女が『ドリーミン・アーチ』を使い続けなければ、きっと支配下から抜け出せるはずだ。
その結果、美穂がアイドルになるのが難しくなるとしても、仕方がない。
仕方がないのだ、と心は自分に言い聞かせた。
できることなら、アイドルらしく夢と笑顔を与えたかった。自分を慕ってくれる子のあんな悲壮な顔は見たくなかった。
しかし、これが『佐藤心』の領分なのだ。アイドルである前にひとりの人間として、美穂を止めなければならなかった。
たとえ恨まれようとも。苦しもうとも。
それが今の彼女にできる、せめてものあがきだった。
頭痛がさらにひどくなる。胸の奥が煮え立つ感覚がして、心はたまらず座り込んで嘔吐した。
閉じたまぶたから溢れてくる涙はすぐにシャワーにさらわれ、吐いたものと一緒に排水口へ消えていく。そこに垂れ落ちてしまっている長い髪のことに気を配るゆとりはなかった。
「ふ、ふふ……」
しかし、彼女は口元を歪めるようにして笑っていた。目を閉じたまま、そこに広がる闇に向けてつぶやく。
「今更私をひざまずかせたって遅いんだよ……」
その声は弱々しく、シャワーの音に紛れてしまう。
「私だってなあ、やろうと思えば……お前をねじ伏せるくらい、余裕なんだっての……」
だがそれで構わなかった。声を聞かせたい相手は彼女自身の内にいるのだから。
「ざまあみろ、『しゅがーはぁと』」
続きます。次回は16日に投下したい気持ち。
再開します。
――――
――――――
佐藤心のライブから一週間。
美穂の頭で存在感を示していたアホ毛はすっかりしおれ、今はかろうじて根元あたりがふんわりとしているくらいだ。
そして、あの日から『プロデューサーくん』の声も聞こえなくなっていた。
(やっぱりあれって、アホ毛の精霊……みたいなものだったのかな?)
頼りにしていた頃は、不思議だとは思いつつもその恩恵にあずかっていたが、こうして今あらためて考えてみると、不気味だったのは間違いない。
佐藤心は、このことも知っていたのだろうか。
……いや、そんなことはどうだってよかった。
重要なのは、もう『ドリーミン・アーチ』を使ってはいけないということ。佐藤心に直接言われた、このことを信じていればいい。
それを破れば、自分の意志で彼女の気持ちを裏切ることになるのだから。
とは言っても、やはりいくらかの喪失感はあった。
美穂が困った時、迷った時、何の見返りもなく手を貸してくれた『プロデューサーくん』に、だいぶ依存していたのかもしれない。
でも、あの時――打ち上げの場で、佐藤心の忠告に対し沈黙していたということは、それが正解だからなのだろう、と美穂は解釈していた。
ここが『プロデューサーくん』の引き際なのだ、と。
たっぷりと時間をかけ、美穂の中でようやく気持ちの整理がついた。
正直な話、佐藤心のあの表情を思い出すのが辛くて、まずまともに向き合うまでが長かったのだが。
楽しかったライブのことを懸命に思い返したりして、どうにか精神状態をプラマイゼロの辺りまで引き上げることができたのだった。
打ち上げのあと数日は体調が思わしくなかったが、週末には養成所のレッスンに復帰できた。
美穂は、自分が病み上がりとは思えないほど上手くやれていると感じていた。
きっかけに『プロデューサーくん』の後押しがあったとはいえ、先日のライブは自分でも納得がいく出来だった。
その成功体験が自信につながり、もともと堅実で丁寧さが評価されていたパフォーマンスに、華やかさが加わっていたのだ。何よりそれを自覚できているのが大きかった。
(早く次のイベントに出たいな……)
猶予がどんどんなくなっているという世知辛い事情を抜きにしても、意欲は今までになく高まっていた。
今の自分がどれだけやれるのか、あがり症は改善されたのか――先日の感覚を少しでも忘れないうちに、人前に立ちたかったというのもある。
が、さらに。
(こんな気持ち、初めてかもしれない)
気持ちの整理がついた今となっては、あのステージを思い返すのが日課のようになっていた。蘇る感情は、緊張よりも興奮だ。
(こういうのが、アイドルらしさの第一歩なのかも、なんて)
ぼんやりとしていたアイドルへのあこがれが、具体的な体験を伴ったことで明確になった気がした。
もっとたくさんの人にパフォーマンスを見せたい。照明と歓声を浴びて、笑顔と感動を生み出したい。
そしてゆくゆくはアイドルとしてデビューし、佐藤心と再会する。
(あの日、共演できたから、あなたのおかげでアイドルになれた――そんな感謝を、直接伝えられたら。ううん、伝えてみせる)
以前の美穂だったら、あがり症さえ軽くなればデビューできなかったとしても諦めがついたかもしれない。
しかし、今は違った。
「私、アイドルになりたいっ」
そう、はっきり言えた。
◇◆◇
だが、彼女が待ち望んだ次のイベントは、予想外の形で目の前に迫っていた。
――――――
「小日向さん、着替えたら応接室に来て」
レッスン後、養成所の先生の召喚に従って、美穂は応接室に向かった。
わざわざ呼び出されるということは、何かのオーディションの話だろうか。オーディションは苦手意識からか、紙資料を見せられるだけで緊張してしまう。
美穂はどきどきしながらドアをノックした。
「小日向です」
「どうぞ」
ドアを開けて、美穂は思わず目を見開いた。
室内には先生だけでなく、養成所の所長もいたのだ。
しかもさらにもうひとり、見覚えのあるスーツ姿の男性がソファに腰掛けていた。
促されるまま対面に座る。男は名刺を美穂に渡した。
「佐藤心のプロデュースを担当している者です。先日は佐藤のライブをお手伝いいただき、ありがとうございました」
美穂の記憶通り、彼は佐藤心のプロデューサーだった。
ライブの打ち合わせで初めに挨拶を交わして、あとは本番当日くらいしか顔を見ることはなかったが、あの佐藤心のプロデューサーとなれば忘れるわけがない。
「い、いえ、こちらこそ、大変ご迷惑をおかけしました」
美穂はよく覚えていないが、打ち上げの場で気分が悪くなった美穂は、同席していた女性スタッフに付き添われてタクシーで帰宅したのだという。
「本番が終わると急に体調を崩すというのは、よくあることです……ああ、そういえば」
佐藤心のプロデューサーはそこで初めて表情を緩めた。
「わざわざ菓子折まで頂いて、ありがとうございます。佐藤も小日向さんが元気になったと聞いて喜んでましたよ」
美穂はほっと胸をなでおろした。
先日、謝罪と快気祝いを兼ねて関係先に菓子折を配ったのだが、焦るあまりアポを取り忘れ、事務所に行った時には佐藤心もプロデューサーもいなかったのだ。
美穂は事務員にしどろもどろに言伝を頼んだのだが、どうやらきちんと伝わったらしかった。
「あの件はもう気にすることはありません。それよりも、今日は前向きなお話を持ってきたんです」
美穂はきょとんとして所長達の様子をうかがった。
よくよく考えてみれば、この人は何のために養成所に来たのだろう?
打ち上げでの失態で怒鳴り込みに来たわけでもなく、わざわざ応接室を使って、所長までいるとなると――
(やっぱり、何かのオーディションを紹介してくれるのかもっ)
プロデューサー直々に推薦してくれるというのなら、苦手な顔はできない。美穂は唇を固く引き結んだ。
だがほんの五秒後には、その口がぽかんと開かれていた。
「率直に言います。私のプロデュースで、アイドルとしてデビューしませんか?」
「…………」
「佐藤のバックを務めていた小日向さんを見て、こんな逸材が今まで埋もれていたのかと驚きました。あなたならきっと、たくさんのファンに笑顔を与える素晴らしいアイドルになれます」
男の言葉を呆然と聞いていた。
「わ、わた……え? 私が、で、デビュー? アイドル……なって、いいんですか?」
もちろん、と彼はうなずいた。
真っ先に感じたのは、困惑だった。
先日のライブはたしかに上出来だった。しかしそれは佐藤心や『プロデューサーくん』の助力によって、レッスンの成果を十分に発揮できたからだ、と美穂は理解している。
これからだと思っていた。これから、自分の実力だけで誰かの目に留まらなければならないのだと。
だが、他人からすればそんな事情など知る由もない。あのステージでのパフォーマンスが全てだ。
そして、そこにこのプロデューサーは可能性を見出してくれたわけだ。
果たしてそれは正当な評価なのか。恥ずかしがり屋の自分を知られたら幻滅されるのではないか。
せっかくの話だというのに、不安や気がかりがまとわりついて素直に受け止められなかった。
(ちょっとだけ待ってもらうとか、どうかな? 次のイベントでの様子を見てもらって、それでもいいなら、とか……)
美穂はそんな弱気な提案を思いついたが、口にする勇気は出ない。
まごついているうちに、プロデューサーが言った。
「実は、佐藤から小日向さんのことを色々と聞いたんですよ。親元を離れ、懸命にレッスンに打ち込んでいる強い子だと」
「はぁとさ……いえ、佐藤さんが、そんなことを?」
その時、思いがけず美穂の脳裏にあのライブステージでの体験が蘇った。
客席から怒涛のように押し寄せてくる熱狂と歓声。
それらを恐れずに、むしろ快感をもって受け止められたのは初めてのことだった。
何度観客と目が合っても、それに動じることなくパフォーマンスで応えられたことだってはっきり覚えている。
「わたしの……」
美穂は、ぽつりとつぶやいていた。
「ん、どうしました?」
独り言を聞き返されて、美穂は我に返った。
心は決まっていた。
思ってもみない機会を前に戸惑ったものの、美穂はすでにあの光景の虜になっていたのだから。
「……あ、アイドル、やります! どうぞよろしくお願いしますっ」
美穂は立ち上がってまっすぐに頭を下げた。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします――それでは、次の話をしましょうか」
プロデューサーは満足そうにうなずくと、さっそく美穂のプロデュースに取り掛かった。
――――――
「小日向さんはこの養成所に通っているわけですが、うちの事務所でやっている新人のお披露目イベントはご存知でしたか?」
「は、はい。ここから出た子も出演してました」
観に行ったことはないが、撮影した映像を養成所の皆で鑑賞したことがある。
一緒にレッスンしていた子がずいぶん遠いところに行ってしまったと思う反面、目に見えて緊張しているのがわかると、つい画面の向こうに応援の声をかけていた覚えがある。
「うちでデビューすることが決まったアイドルは、まずCDデビューなどの前に、皆この形式のイベントでプロとしての初舞台を踏みます。もちろん、小日向さんもこれに出演してもらいます」
プロデューサーはブリーフケースから書類を取り出し、テーブルに広げた。
「実は、次回のイベントはもう出演者が内定していて、レッスンも始まっているんですが……私から、是非もうひとり参加させてほしいと打診していまして。昨夜、了承の返事があったところです」
「そ、そんなにしてもらって、いいんでしょうか」
「今回を逃せば、また出演者が集まるまで何ヶ月か待たせることになります。デビューを約束したと言っても、待っている間は小日向さんも親御さんも不安でしょう。ならば、急ぐべきだと判断したのです」
その配慮は、いつ学校で進路調査票を配られるか心配な身としてはありがたかった。
きっと佐藤心が推してくれたのだろう、と美穂は思った。このまま東京で進学するか、故郷に帰るか、そろそろ親と相談しなければ――そんなことを、彼女に漏らした覚えがある。
「言うまでもないことですが、小日向さんにそれだけの価値があると踏んだからこそ、ここまでやるんです。私は楽しみなんですよ、あなたの名がシーンに轟く日がね」
プロデューサーは、いたずらっぽくニヤリと笑ってみせた。
「あ、ありがとうございます」
美穂は照れをごまかして頭を下げた。
「話を戻しましょうか。イベントの内容は覚えてますか?」
「えっと……私が見たのだと、皆で歌って、自己紹介して、ユニットに分かれてまた歌って……」
美穂は記憶を探る。食い入るように鑑賞した映像だったから、思い出すのは難しくなかった。
「あ、そういえばサインをプレゼントする抽選会みたいなこともしてました」
「そうですね。それらの流れはお披露目イベントの恒例となっているので、今回もそれを踏襲していきます」
「……最初にしては結構盛りだくさんですよね」
「心配いりませんよ。台本は用意してありますし、曲も先輩アイドルのカバーですから。基本のできている小日向さんならそれほど苦労はしないでしょう、ですよね?」
プロデューサーは所長達に同意を求めた。
「ええ、ダンスはご覧頂いたとおりですし、歌の方も問題ありません」
美穂はもうごまかしきれないほど顔が熱くなるのを感じた。
恥ずかしくて居心地が悪くなる。
しかし、それも仕方がないことだ。美穂はアイドルとして養成所を巣立つのだから、もうここにはいられない。
――――
――――――
それからの日々は目まぐるしかった。
まず、プロデューサーを連れて熊本の実家へ帰った。
正式に事務所に所属するにあたっての契約や、事務所が管理している寮への引越の手続きなど、保護者の手を借りなければならないことがたくさんあるからだ。
その日、父はプロデューサーを酔い潰し、母は美穂の背を抱いた。
東京に戻ってきて、宣材写真の撮影。
イベントのフライヤー(チラシ)の印刷を待たせているらしく、スタジオは慌ただしかった。
美穂はカメラマンにあれやこれやとおだてられながら笑顔を作ろうとするも、これが今後の小日向美穂を代表する顔になるのだと思うと、いやでも緊張し、泣き笑いのような顔しかできない。
「小日向さん、もっとリラックスしましょう」
見かねたプロデューサーが声をかける。
「そ、そうですよね、そうなんです」
「ちゃんと目線を合わせてくれれば、あとはパソコンでちょっと魔法をかけてあげますから」
「し、修正っていうの、ですか」
「そう、ちょちょっと、背景をお花畑とかにね」
「私の顔じゃなくてですか!?」
「小日向さんの顔をいじる必要はありませんよ。まあとりあえず、ここを暖かい陽の差す公園かどこかだと思ってください」
不思議なもので、そこからはほんの数枚取っただけでOKが出た。
それは、美穂がひなたぼっこをするのが好きだから、想像がぴたりとはまった――というだけではないのだろう、きっと。
――――――
数日後から、イベントのレッスンに参加した。
出演するアイドルは九人。その中に佐藤心のミニライブで一緒だった子がいたおかげで、他のメンバーと馴染むのもなんとかなりそうだ。
美穂はさっそくもらった台本をチェックした。
途中、九人を三人組に分けてそれぞれ歌やMCを披露するパートがある。
「……!」
美穂は自分の目を疑った。
「せ、センターですか、私が?」
三人組のセンター。遅れてきたことで恐縮しているのに、その上責任の重い役どころまで。
「君のプロデューサーは、問題ないと言っていたよ」
「…………」
美穂は後ろ向きな言葉を飲み込んだ。
プロデューサーからの信頼は、養成所からの信頼、そしてもちろん佐藤心からの信頼にもつながっている。
これだけのものが自分を支えてくれるというのなら、背負えないなどと言えるはずがない。
「は、はい。がんばりますっ」
美穂は力強く宣言した。
――――
――――――
本番までもう一週間となった。
ここまで、レッスンを重ねながらも時間を作って事務所内の挨拶回りをしたり、新人アイドル特集の取材を受けたり――今までとは段違いの忙しさ、未経験の仕事に追われてきた。
とは言え何かとプロデューサーがそばでフォローしてくれることが多かったため、緊張で台無しにするようなこともなく、むしろ充実感に満たされた日々を送っていた。
その日の朝、美穂は早足で事務所へ向かっていたが、ふと思い出したことがあって足を止めた。
道の傍らに目をやる。そこには年季の入った店構えの不動産屋があった。
あちこちを見回し、首を傾げる。確かこの辺りだと思ったんだけど、と口の中でつぶやき、また歩き出した。
――――――
美穂はプロデューサーに割り当てられているオフィスに着くと、応接スペースを借りてサインの練習を始めた。
事務所の倉庫には傷や汚れがついた色紙が大量に保管されていて、自由に使っていいことになっている。
美穂が向かっているテーブルには、そういった色紙がひと抱え分も積まれているが、まだ彼女はそれに手を付けていない。
サインの練習の前段階、デザインの考案に手間取っていたのだ。
そもそも、例のイベントでサインが必要になるのはわかっていたのに、他の仕事と違って自主的にやらなければならないことだったから、つい忙しさにかまけて後回しにしていた。
それが、今日は通し稽古をやるからサインを書いてもらう、と連絡が来たからさあ大変。レッスンまでの時間を使って、オフィスでサインを考えることになった次第である。
今、このオフィスには美穂と事務員の女性のふたりきりである。
佐藤心はテレビ番組のロケに出ていて、それにプロデューサーも同行しているということで、今日はふたりに会えそうになかった。
そもそも、美穂の所属が決まってからというもの、いまだに佐藤心と再会できていない。
彼女はそれなりに売れていてあまり事務所にいないし、美穂は美穂で学校やレッスンがあるため事務所でのんびりしていることがそれほどないので、仕方のないことだった。
直接会ったら連絡先を教えてもらうのが、美穂のささやかな望みである。
「お疲れさまです。一旦休憩にしませんか?」
事務員がお茶のおかわりをいれてくれたので、美穂はお言葉に甘えることにした。
「ふう、サインって難しいですね……」
「あまり凝りすぎず、ちょっと遊びを入れるくらいでわかりやすくするというのも手ですよ」
美穂の傍らには、事務員が用意してくれたファイルが置かれている。所属タレントのサインが一覧できるようにまとめてあるのだ。
開かれたページには十数人のサインが並んでいる。そこには佐藤心のものもあったが、デザインも凝っている上に誰のものかもわかりやすく、美穂は前々から気に入っていた。
が、その真似をしようとしているのが間違いなのかもしれない、と美穂も思い始めていたのだった。
事務員の言う通り、他のアイドルのサインを見てみると意外にシンプルなものも多い。
「あとで変更することも珍しくないですから、とりあえず漢字かローマ字かだけ決めて、そこに自分らしいこだわりのワンポイントを入れてみるというのはどうでしょう?」
「なるほど……やってみます」
答えつつも、自分らしいこだわりって何かあったかな、と美穂は首をひねった。
――と、カバンの中で携帯電話が震えた。メッセージが届いている。
『今日は通し稽古ですよね。落ち着いて臨めば問題ありませんよ』
プロデューサーからだった。
美穂は少しホッとするのを感じていた。『ありがとうございます、がんばります!』と返信し、さらにお気に入りのクマのキャラクターのスタンプを送った。
「……あっ」
その時、美穂にひらめきが舞い降りた。
フルネームを漢字で横書きにする。そこにワンポイントだ。『美』の最後の払いを延長して、途中でくいっと持ち上げ、『穂』の心の部分につなげる。
わかりやすくて、ちょっとしたこだわりもある。いいかもしれない。
「あら、可愛いワンポイントですね。何か由来があるんですか?」
「えへへ、くまさんですっ」
事務員が誉めてくれたので、これで色紙に試し書きを始めることにした。
書き慣れてきた頃、またメッセージが届いた。
プロデューサーから、『メイクが終わったので』と佐藤心の写真が送られてきたのだった。
こちらに向かって満面の笑みでサムズアップをする佐藤心。その頭のアホ毛は、『無茶振り花嫁修業』とかいうロケの内容に合わせてか、ハートを描いている。
美穂は顔をほころばせてひとしきり写真を眺めたあと……おもむろに自分のサインの『美』の頭にハートをあしらった。
『ロケがんばってくださいね!ってはぁとさんにお願いします』
そして、完成したばかりのサインを添付した。
続きます。
美穂の誕生日にデビューのエピソードを書くというのが
ひとつの目標だったのでなんとか間に合ってよかったです。
次回で終わります。
※参考画像
佐藤心のサイン
https://i.imgur.com/RYGaQDw.png
小日向美穂のサイン
https://i.imgur.com/bThoBey.png
再開します。今回で終わります。
そういえばプロデューサーくんの初登場は聖夜のプレゼントというカードでした(間が空いた言い訳)
――――――
レッスンルームで皆とウォームアップをしていると、徐々に室内の空気が普段と違ってくるのを感じた。
見たことのあるようなないような大人達がひとり、またひとりと顔を見せ、観客席に見立てて並べられていたパイプ椅子に腰掛けているのだ。
美穂は周りの子達と顔を見合わせた。お互いの表情が、同じ予感がしていることを物語っていた。
「――では、今日は通しでやってみよう。ミスがあっても止めないから、自分達で立て直すように。さらに、事務所の方々が時間を作って見に来てくださった。本番と思って、ちゃんと盛り上げてみせるように」
トレーナーの言葉は、まさに推測どおりだった。
ステージはレッスンルーム、衣装はシャツにジャージだが、自分達のことを知らない観客がわずか十数人でもいるというのは、本番さながらだ。
アイドルはパフォーマンスこそが名刺だ。社内でプロデューサーに伴われてペコリと頭を下げただけの少女には、まだ価値などない。
だから、これは一種の試験なのだ。
誰かが連れてきた名もなき少女が、事務所の一員として認められるための試験。
ひよっこアイドル達の表情は目に見えて緊張していた。美穂もまた、鼓動が早まるのを抑えようと無意識に胸に手を当てていた。
通し稽古が始まった。
まずは全員で一曲。美穂は精一杯踊り、歌った。傍目にどう映っているかはわからなかったが、誰も大きなミスはせずに済んだようだ。
台本通りの当たり障りのないトークを挟んで(今日は歌以外の部分では台本を持っている)、ユニットでのパフォーマンスに移る。美穂達の出番は最後だ。
だが、ここからやや雲行きが怪しくなってきた。
舞台上の三人組は、明らかにさっきより動きも声も硬くなっている。美穂が知らず知らずのうちに握りしめた拳には、滴り落ちんばかりに汗がにじんでいた。
結局、ぎこちなさが抜けないまま二組の出番が終わり、そのたびにお情けのようにまばらな拍手が起きた。
それはまるで、この出来栄えでは本番でもこの程度の反応だ、と言われているようで。
続いて美穂達の出番だ。
小走りでステージ中央へ。もちろん、社員――もとい、観客の方へ愛想をふりまくのも忘れない。ただ、その笑顔はどうしようもなく引きつっていた。
ミニライブの時は観客の熱気で息苦しいくらいだったが、今は逆に冷たい圧に体が抑え付けられるようだった。
隣に立つふたりと目を合わせでもすれば、もしかしたら少し気が楽になったかもしれない。
しかし、美穂には台本にないことをやる余裕はすでになかった。
センターに立ち、ポーズを取る。
あとはトレーナーがノートパソコンのキーを叩けば、カウントののちに曲が流れ出す。
その、ほんのわずかな沈黙の時間を、美穂は息を殺して待った。
(……?)
だが、その時はなかなか訪れなかった。
トレーナーがキーを押さないばかりか、客もまばたきひとつせずこちらを見つめている。
まるで時間の流れが極端に遅くなって、美穂の意識だけが引き剥がされたような感覚だ。
(どうして曲が始まらないの……?)
体は動かないまま、思考だけが行き場をなくしてさまようように余計なことを考えてしまっていた。
視線が痛い。観客が、美穂の全てを何ひとつ見逃すまいと凝視しているのがわかる。
表情の作り方を、立ち姿の美しさを、歌声の伸びを、ダンスのキレを。
これっきりのバックダンサーではなく、ひとりのアイドルとしての価値を見極めるために。
フローリングにテープで仕切っただけの簡素なステージには、今はたった三人。まして美穂は真ん中に立っているのだ。
そのプレッシャーは想像よりずっと重かった。
覚悟はしていたつもりだった。
なにより、美穂には自信があった。
佐藤心のミニライブを経験し、彼女やプロデューサーが自分を認めてくれた。だからきっとアイドルとしてやっていける――そんな、ちっぽけだけど確かな自信。
それを自惚れというのはあまりに酷だ。
『プロデューサーくん』に引っ張り上げられ、胸を張れたことで初めて手が届いたのだ。『プロデューサーくん』を失った今、そこにすがりつくしかない。
だが、その自信さえも失おうとしていた。
美穂は自分を奮い立たせるために、あのミニライブで見た光景を思い出そうとした。
ステージの上、佐藤心の背中に勇気をもらったあの時を思い出せば、この呪縛を振り払えるはず。
そう信じていた。
しかし、美穂の脳裏に映し出されたのは、まったくの暗闇だった。
差し込むスポットライトも、揺らめくペンライトもない。
あの眩しく輝くアイドルの後ろ姿も、どこにも見えない。
どんなふうに立っていたのか、どんな表情をしていたのか、どんな気持ちを抱いていたのか――自分のことすら、何も。
あのステージの一切の記憶がなくなっていた。
身の毛がよだつ。羞恥でも緊張でもない、それはただの恐怖だった。
(こんなの、これじゃまるで……)
考えたくなかった。しかし、直感したことを訂正できるわけがない。
これじゃまるであの頃のままだ――と、美穂は知ってしまった。
成果を出せずくすぶっていた養成所時代の頃から、何も変わっていない、と。
不意に、目の前に小さな鏡の幻が現れた。
そこに映る自分の顔を見て、美穂はいつかのように思った。
(私にもアホ毛があったら……あの人みたいに堂々と立っていられるのかな)
はっとした。
(そうか、そうだったんだ)
今になって、美穂は見誤っていたことに気づいた。
『ドリーミン・アーチ』を使ってはいけない。しかし、アホ毛は自分に必要だったということに。
たった一度の成功は、確かに美穂の自信となり、実力となった。
積極性も度胸も、いくらかは身についた。
ただそれでも、彼女の本質を塗り替えるには至らなかった。
小日向美穂はやはり恥ずかしがり屋であがり症のままだったのである。
気づくチャンスは何度もあった。写真撮影の時などあからさまだった。
ここまで乗り切ってこれたのは、結果オーライに過ぎなかった。
それも大体はプロデューサーのフォローがあったからであって、決して美穂のアイドルとしての才覚によるものだけではなかった。
そして今はそのプロデューサーも近くにいない。
今回が自分にとって最初で最後のチャンスかもしれない。
これを逃せばもうアイドルになる目はないかもしれない。
だから、弱音は吐けない。失望されるわけにはいかない。
そんなふうに無意識に自分を追い詰め、欠陥に深刻に向き合うのを避けてきたのだった。
自覚すべきだった。そして対処すべきだった。
『ドリーミン・アーチ』なしでも他の手段でアホ毛を作って、視線を分散させる。たったそれだけでよかったのに。
所詮思い込みかもしれなくても、現状よりはマシに違いなかった。
胸を昂ぶらせてくれる思い出も、そばで励ましてくれる人もない。
ステージの中央、集まる視線から逃れるすべはない。
美穂は絶望にくれた――その時。
<どうした、縮こまってるじゃないか。もっと背筋伸ばして、腕も!>
光が差した。
<笑顔はどうした? 君のなりたいアイドルっていうのは、お客さんを怖がるものなのか?>
暗雲を裂いて地上に降り注ぐ陽の光を、人は『天使のはしご』と言う。
<さあ、手を貸してあげるから――みんなに小日向美穂ってアイドルを見せつけてやれ!>
美穂は迷わずそれをつかんだ。
虹が架かった。
――――
――――――
◇◆◇
映像は、先日開かれた新人アイドルを集めたイベントの様子だった。
三人の初々しい女の子が、先程の一曲の余韻を肩に残しながらトークをしている。センターに立っているのは美穂だ。
彼女の頭の上では、跳ね上がったひと房の髪の毛がしなやかに揺れていた。
『――美穂ちゃんはどこ出身だっけ?』
『え、えっと、く、くまもんですっ』
『くまモン!?』
『中の人だったの!?』
『ちがっ、噛んじゃいました! あ、あの、くまともですっ』
『なにそれ!?』
『くまモンとクマ友なの!?』
『違うんです~っ!』
客席から笑いと歓声が起きている。
だが、モニターを見つめる佐藤心の表情に笑みはない。
<まったく、いつまで仏頂面してんの?>
頭の中に閃光がまたたくも、心は少し目を細めただけで返事はしない。
美穂の両隣のふたりは演技慣れしてないのだろう、プロンプターにひっきりなしに視線を送っているし、セリフもやや棒読みだ。
そして美穂はというと。
言葉を噛むのも恥ずかしくなって顔を赤くするのもまったく自然だし、それでいて声はしっかり通っている。彼女だけならアドリブだと言われても信じられるくらいだ。
<やっぱあの子、はぁとが思ったとおりスウィーティーだったわ☆>
しかし、それは『ドリーミン・アーチ』によって彼女の中に巣食った存在の手助けによるものだろう。
心は、美穂の活躍を素直に楽しめない自分が情けなかった。
先日見た宣材写真では、確かに美穂のアホ毛はなくなっていた。
しかし、今はあのミニライブの時のようにはっきりと存在感を示している。
「間に合わなかった……?」
心は力なくつぶやいた。
そこに、『しゅがーはぁと』がテンション高く割り込んでくる。
<宿主の精神状態次第で休眠したり潜伏したりもするってわけよ☆ アホ毛なんて副作用でしかないから、見た目じゃどうなってるのかわかんないんだよね☆>
さっきから続いている頭痛とは別に、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
<逆に言えば、アホ毛があるからって同類とは限らないんだけど、あのアイドル力は間違いないな☆ まるでデビューの頃のはぁとを見てるみたいだし☆>
ステージ上には再び九人のアイドルが立ち、次の曲が始まった。
人数が多くても、立ち位置は端の方でも、美穂のパフォーマンスは目を引いた。
はにかむような笑顔を絶やさず、伸びやかな動きで魅せている。歌声もブレずに安定していて、センターでなくとも九人の軸になっている。
間違いなく、美穂は誰よりも輝いていた。
<これでよかったと思わない? あんなにキュートでスウィーティーな女の子が、あがり症だからって全力を出せなくて、芽が出ずに終わっちゃうなんて寂しいじゃん?>
<夢を叶えてあげてるんだよ☆ 憧れてるのに、可愛いのに、叶わないなんて理不尽でしょ?>
<そういうこと、誰よりもわかってるんじゃないの?>
<理想の『しゅがーはぁと』を頭の中に飼ってやっと認められたあんたは、さ♪>
<ほら、見なよ☆ かわいいかわいい後輩だぞ☆ 立派なもんじゃないの、何が不満なのさ☆>
心はこめかみを押さえた。
「頼むから黙っててくれよ……」
しかし、アイドル・小日向美穂の楽しげな姿を見て、やはりどこかホッとしている自分もいるのだ。
それがまた情けなくて、心はついに口元で笑っていた。
――――
――――――
オフィスのドアを開けて入ってきた顔を見て、美穂はソファから飛び上がるようにして立ち上がった。
「はぁとさんっ」
佐藤心は突然の呼びかけに面食らったようだったが、すぐにぱっと顔を明るくした。
「美穂ちゃん、やっと会えたね! ほんっと久しぶり☆」
「はい、会いたかったです……!」
「よし、感動の再会だ、バッチコイ☆」
佐藤心が腕を広げてハグ待ちの体勢に入る。今度は美穂が面食らったが、湧き上がる歓喜に突き動かされて、その胸に飛び込んだ。
「私……私、アイドルになれました! はぁとさんのおかげですっ」
佐藤心は何も言わず、美穂の頭をなでた。
ぴょこん、とアホ毛が跳ね上がった。
――――
――――――
◇◆◇
『プロデューサーくん』、今まで私のこと、たくさん助けてくれてほんとにありがとう。
でもね、そろそろひとりでちゃんとアイドルできなきゃって、思うの。
少しずつだけど、恥ずかしいのにも緊張するのにも、折り合いをつけられるようになってきた気がするし……
『プロデューサーくん』は、私にふさわしい感じのアイドルの姿を教えてくれたよね。
か、可愛い可愛いっていろんな人に言ってもらえるのはすごく嬉しいけど、きっと私にできることってそれだけじゃないと思うんだ。
それを探してみたい、挑戦してみたい。それってきっと、私が自分でやらなきゃダメだと思うの。
だから、これからはここで私の帰りを待っててくれる?
こんなこと言っても、もしかしたら意味がなくって、結局今まで通りなのかもしれないけど……
けじめっていうのかな。キミに頼らないようにしようっていう、私の決意。
よかったら、聞いてくれると嬉しいな。
ついでに、帰ってきたらおみやげ話も聞いてくれる? 『プロデューサーくん』。
◇◆◇
美穂は、抱きしめていた大きなくまのぬいぐるみから身を離して、部屋を出ていった。
以上です。
お付き合い頂きありがとうございました。
説得力やドラマ性のある美穂のデビュー話を作ろうと思ったんですが
なんかこうなってしまいました。
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