うなじだ!
腋だ!
ふとももだ!
道明寺歌鈴の温泉ロケだァー!
今回は巫女さんアイドルとして名高い道明寺歌鈴さんと一緒に、群馬県は伊香保温泉巡りをお送りしていきたいと思います。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1507459817
「なんで私なんですか?」
助手席の歌鈴が尋ねる。俺はサービスエリアで買ったコーヒーに口をつけた。
上里SAを抜けて関越自動車道を北上する。目的地は群馬県は渋川市、伊香保温泉である。
群馬の温泉地と言えば草津温泉じゃないの? という声が聞こえてくるが、
伊香保は地元群馬県民にとっては草津と双璧をなすくらいに人気な温泉地なのである。
群馬のソウルスポーツである『上毛かるた』にも次のような記述がある。
『伊香保温泉、日本の名湯』
惜しむらくは全国的にそれほど有名ではないというところと、この記述と完全に矛盾しているというところだが今は脇に置いておいた方がいいだろう。
『上毛かるた』を知らない? それはちょっと……弊社では対応しかねます。
「最近の若者は遠出しないし老人は財布の紐が堅いしで温泉地も困ってるんだって。
そこで老若男女に広く支持されている歌鈴に白羽の矢が立ったと」
歌鈴は孫にしたいアイドルランキングであの藤原肇さんと熾烈なデッドヒートを繰り広げたことがあるくらいには"孫系"アイドルである。
実績は十分というわけだ。ランキングの結果はまあ推して知るべしである。
たいていこういう旅行番組では年m……妙齢の女優だったり芸人だったりが出演することが多いのだがそれではどうもパンチが足りないということで現役ばりばりのアイドルである歌鈴に出演オファーが立ったというわけだ。
若い方が絵的にも映えるし誰だってその方がいい。
「はー……わ、私にできますかね~」
と、これは表向きの理由だ。
真実はまた別にある。
想像してみてほしい。
周囲を庭園に囲まれた檜造りの露天風呂を。
ロケ中なのでもちろん客は誰一人としていない。
そこに歌鈴が「失礼しま~す……」と誰もいないのに失礼して入ってくる。
その体は特別サイズのバスタオルで覆われている。肩は丸だしでうっすらとボディラインが見えているが大事なところはしっかりガードされているので安心だ。
ところがこれでも満足してしまう奇特な輩がいるのだから世界は広い。
また、タオルを巻いたまま湯船につかるのは本来マナー違反なので決して真似しないでほしい。
「ほぁ~、すごいお風呂!」
とぺちぺち石畳に足跡を付けながら歌鈴が湯船に近づいてくる。
ふと白い塊が不自然に足下に置かれているのが見えた。
石けんだ。
こういうところの石けんはたいがい馬油石けんである。効能のほどは定かではない。
それはともかく歌鈴の視界に石けんは全く入っていないということは事実だ。
何も知らない彼女の足裏がしっかりと石けんをとらえる。
摩擦を失った石けんが前のめりに彼女のバランスを崩す。
ちょうど巴投げを喰らった柔道選手のように彼女の体が回転する。
ばしゃーん。
大きな音を立てながら歌鈴が盛大に湯船にダイブする。タオルがはだける。セットした髪がぐちゃぐちゃになる。放送コード的にイケないことになる。
これが狙いだ。
この映像を1カメ2カメ3カメの万全な体勢で撮影し、4K画質でお茶の間のみなさんにお届けしようというわけだ。
ハイスピードカメラも用意しているので決定的な瞬間を1コマ1コマスローモーションで楽しむことができる。
後々gif画像がネットに拡散されること間違いなしだ。当たり前だが越えてはいけないラインはきちんと守るつもりだ。
と番組ディレクターと会議しているときは盛り上がっていたが、だんだん冷静になってみるとかなり問題があることに気がついた。
俺は追い越し車線へと移動し、アクセルを強く踏んだ。
湯船こそ檜造りだが、まわりの床は石畳だ。もし運悪く頭を打ち付けようものならただでは済まない。
それにあの純粋な歌鈴を騙そうだなんていうその魂胆がまず気にくわない。
ただでさえ何もしなくても転ぶので毎日心配なのにそいつを作為的にやろうってのは彼女のプロデューサーとしてどうなんだ。
正直この企画はやめるべきだと思った。
しかし番組ディレクターに訴えたものの全く聞き入れてもらえない。上司にも掛け合ってみたが一顧だにせず無視されてしまった。
テレビ局ってのは本当、視聴率のためならなんでもやる最悪な奴らだ。芸能事務所のプロデューサーが何言っても説得力はないだろうが。
なので折衷案を出した。湯船の周りをプールで使うマットで囲むことにしたのだ。
滑り止め効果もあるのでこれで最悪の事態は防げる、と思う。まだちょっと心配ではあるが……。
それにマットで敷き詰められた露天風呂は控えめに言っても違和感バリバリだ。周囲の庭園との対比がひどい。
しかし歌鈴のことなのでまあ、気付かないんじゃないかな。俺は信じてる。
とにかく以上が道明寺歌鈴にオファーが届いた理由だ。
要するに俺は彼女を騙そうとしているわけだ。
罪悪感はある。ちくりと胸が痛む。
「大丈夫、歌鈴ならきっとやれるさ」
"渋川伊香保料金所"という案内表示が見えたので、左側に車線変更しナビを確認した。
目的地まであと30分強か。
またコーヒーに口をつけた。
苦い。
著名な温泉地にはそれに見合うだけの観光資源がある。
草津温泉で言えば『湯畑』、別府温泉で言えば『地獄めぐり』などがそれである。
観光資源のない温泉地はどうなるか? もちろん衰退していく他ない。
実際地方の寂れた温泉に行くともぬけの殻になった廃墟のようなホテルをいくつも見ることができる。
バブルの頃にはさぞかし儲かっていたのだろう。盛者必衰、栄枯盛衰、この世の理だ。
では幸いにも生きながらえている伊香保温泉の観光資源とはなにか?
それはメインストリートにある『石段』だ。
しょぼっと思われるかもしれないがなかなかどうしてこれが捨てたものではない。
計365段にわたる石段の両側にはお土産屋や射的屋、共同浴場やまんじゅう屋などが軒を連ねていていかにも温泉街らしい情緒を醸し出している。
あちこちからわき上がる温泉の湯気がさらに気分を盛り上げてくれるし、頂上から見下ろす石段の景色もまた風情に満ちている。
もちろん足湯もある。温泉卵もある。硫黄泉でないので硫黄の臭いが苦手な人も安心だ。絶対来てほしい。
俺たちは先行していたテレビクルーと合流し、まずは石段周辺をロケすることにした。
「はいっ、え? もう回してる? は、はわわっ」
俺は『落ち着け』と書かれたフリップを掲げる。
「は、はいっ。あの、私は今、群馬県の渋川市、伊香保温泉に来ています。
こちらえと温泉街の中心地となっています石段でして……なんと長さは365段もあるそうなんですっ! ほぁ~すごいですね~」
さっき言ったよ。
「それでは早速登っていきましょう! えへへ、何があるか楽しみですっ」
カットが入る。まずまずの入りだ。
というより台本があるので間違えようがないのだが、これでもかなり成長した方なのである。
デビューしたての頃はそりゃもうひどいもんで、台詞を間違うやら噛むやら転ぶやらで何度お偉いさんに頭を下げたことだかわからない。
特にアドリブに弱いので芸人なんかと組ませると悲惨なことになる。まあこの場合ムチャ振りをする芸人の方に非があるわけで、俺はこれ以降そいつらとの共演は断るようにしている。
歌鈴が周りを見ながら一歩一歩石段を登っていく。
俺は転ばないようにと祈った。
意外と堂に入っているな。というのが感想だった。
ロケで取材するところはあらかじめ決まっているので、ひとつひとつクエストをこなしていく感覚で回っていくのだが、この日ばかりはさしたる問題もなく順調にロケが進んでいった。珍しいことだ。
まんじゅう屋で店員に薦められるままどんどん試食を口に詰め込まれたり、射的で目いっぱい腕を伸ばしたあげく前のめりに倒れそうになったり、足湯に入って「はふぅ~」と完全に素の声を出したりとちょいちょい地上波には乗せられない箇所があったりしたのだが、全体としては好調に推移していった。
個人的には歌鈴にスマートボールをやらせたかったのだけど「絵面が地味」ということで却下されてしまった。スマートボールを知らない? そっか……。
何よりロケに対する歌鈴の姿勢が良い。あわあわ言いながらも決めるときは決めるし、取材も丁寧で聞き役としても優秀だ。
彼女はお高くとまった凡百のアイドルとは違ってかなり親しみやすく人好きのするたちなので素人と会話させても全く問題なく円滑にコンミュニケーションを取ることができる。
ふんふんとかほわ~とかいう相槌がまず完璧すぎるため話している方が知らず知らずのうちに楽しくなってしまうのである。観光PRとしては最適な人選といえる。
これで時々噛んだり転んだりしなければ言うこと無し、となるところだったが今日に限ってはそれすらもなかった。
いや、つまづくことはあっても完全に転ぶまでには至らずに、すんでの所で踏みとどまっていたのである。
カメラが回っているとここまで違うのか。俺は密かに感心してしまった。
温泉街巡りは石段の頂上にある伊香保神社を参拝し、おみくじを引いて大吉を出したところで終了した。
見ると「旅行」の欄に「良し」、「待ち人」の欄に「来たり」と書いてあった。
これから先は宿泊先に移動して、そこで取材をすることになる。
いよいよ本題である温泉に入ろうというわけだ。
のはずだったが、どうもディレクターが浮かない顔をしている。なんだ。
「もっとなんか道明寺さんってぽんぽんぽんぽんドジってる印象があったんすよね。
だからちょっと拍子抜けっつーか……これじゃほとんど使えないっすよ正直」
なんでやねん、歌鈴完璧だったろが。
「やっぱメインは温泉っすね。予定通り露天でドバーっと派手に転んでいただきましょーや! もうそれだけで一本行けますわガハハ!」
ガハハと笑う奴はじめてみた。まあこいつには何言っても無駄だ。放っておこう。
俺は歌鈴を呼んで車に乗り込み、宿泊先へ向かうことにした。
「どうでしたかっ、ふふ、ちょっとうまくいったかなって思うんです!」
彼女はいつになく興奮している。今日の出来に本人も満足なようだ。
俺はうんうんと頷いた。
宿泊先はホテルだった。伊香保でホテルというともうそれだけで限られてしまうので特定を避けるためにもこれ以上は言わないでおこう。
とにかく広いし温泉は豊富だし飯はうまいし高台に位置しているので部屋からの眺めも抜群という俺的5つ星ホテルの一つである。文句無しにおすすめだ。
といってもシングル利用だし今日はそんな贅沢も言ってられないだろうと思い部屋を開けてみると、これがまた異常に広い。和室だがゆうに12畳はある。
俺の大好きな窓際の謎スペースも健在だ。ここで飲むビールは何よりもうまい。これは当たりだな。
しかしいいのかな、こんなとこに一人で泊まって……と少し悩んでいると、俺に続いて歌鈴が部屋に入ってきた。手には大きなキャリーバックを提げている。
「……」
二人で顔を見合わせる。いやな予感がした。
お互い持っていた鍵の部屋番号を確かめ合ったがこの部屋で間違いない。つまり――。
「ぷ、プロデューサーさんとあ、相部屋ですか……!?」
部屋の予約はテレビ側に一任してある。
俺は急いでディレクターに連絡し、予約内容を確認するよう告げた。
「間違ってないっすよ?」
なに。
「なんか今日どっかの団体さんが来てるみたいでぜんぜん空き部屋がなかったんすよ。お風呂貸し切るのもほんっと大変だったんすから……」
本題に入れ。
「テレビクルーも本来二人部屋のところを三人で泊まったりしてんすよ。だからそちらの事務所さんの方でも一部屋にまとめちゃった方がいいかなって――」
俺は電話を切った。アホかあいつは。
しかしあの様子だと代わりの部屋を用意してもらうことは無理そうだ。
歌鈴には申し訳ないがここで一晩一緒に過ごすほかないだろう。その旨を彼女に伝えると、
「あわわわ……! ふ、ふつつかものですがよろしくお願いしましゅ……!」
今日初めて噛むところを見た。
不測の事態で相部屋となってしまった俺と歌鈴だが、
冷静になってみればここには仕事で来ているのだ。遊びで来ているわけではない。
つまり撮影はまだ続いている。これから館内の取材と夕食のグルメレポートをこなして温泉に入る必要があるのだ。のんきに休んでいる暇はない。
そうこうしているうちに館内取材が始まったものの、何の波乱もなくつつがなく終わってしまった。
気むずかしそうな女将が出迎えてきたが歌鈴と一言二言交わすと一発で気に入ってしまったようでロビーから厨房に至るまで余すことなく丁寧に紹介してくれた。
完全に自分の娘を見る目をしていたので道明寺歌鈴の真骨頂ここにありといったところである。ちなみに料理長にも気に入られていた。
最終的にお土産屋を案内された歌鈴は『ぐんまちゃんクッキー』やら『富岡製糸かいこチョコ』やら『玉こんにゃく』やら『焼きまんじゅう』と言った群馬県の名物をつぎつぎと持たされて重量過多の状態で部屋に帰ってきた。
「やったぁ、みなさん優しかったです~」
これも歌鈴の人徳のたまものだ。
この様子なら夕食のグルメレポートも問題なさそうだ。
俺はその間風呂に入ってくることにした。誤解しないでほしいがサボりではない。
言い出したのは他ならぬ彼女なのだ。
「プロデューサーさんもお疲れでしょうし……私、一人でも大丈夫ですからっ」
ざぶん、と頭からかけ湯をかぶりながら俺は考えた。
しっかりしている、あんなにしっかりしている子だったろうか。
俺が見ているのは本当に道明寺歌鈴か?
泉質は最高だった。さすがは源泉掛け流しである。
黄金の湯と呼ばれているがどう控えめに言っても土色にしか見えない湯船に体を沈めると、内側からぽかぽかと体温が上がっていくのを感じた。
少し浸かっただけなのに目に見えて肌がすべすべになっていく。このままではタマゴ肌になってしまう。
と温泉の効能に感心しつつも、俺の意識は全く別の所にあった。
一人でも大丈夫だと言った歌鈴の顔が脳裏にこびりついて離れない。
同時に彼女に初めて会ったときのことを思い出した。
神社の境内でスカウトしたときの、あのおびえたような表情。
俺は二つの顔を頭の中で重ねてみせた。
これも成長、か。
俺は露天風呂から望む星空に向けてふー、と息を吐いた。
どの星も微動だにしない。
「メシ食ってていいっすよ」
風呂上がりに絶対会いたくない顔に会ってしまった。しかも意味不明なことを言う。
聞くともう歌鈴のグルメレポートは撮り終わったのだそうだ。まあまあいい感じでしたよ、と適当なコメントをしていた。
じゃあこれから歌鈴の入浴シーンを撮るんじゃないんですか?
「そうなんすけど、さっきの撮影に結構手間取っちゃって。貸し切り時間の関係もあって無理っぽいんすよねぇ。だから今日はこれで終いっす」
スケジュールは?
「いやーいけますよ! 明日の早朝にほんのちょっとですけど風呂とってあるんで、ぱぱっと撮ってぱぱっと帰りましょう!」
この会社本当に大丈夫かよ。
俺は内心毒づきつつもその足で夕食会場に向かった。
「……お一人様、ですか?」
割烹着姿の仲居さんが怪訝そうな顔で尋ねてくる。
そうか、同室の歌鈴はすでに食べ終わっているから自然と俺はお一人様になるわけだ。
そういえば歌鈴はどこにいったのだろう。
もう部屋に戻って休んでいるのかな。
親子連れとカップルの合間をぬって席に案内されるとそこには一人分の箸とコンロ、そしてコースメニューの書かれた和紙だけが置かれてあった。
ざっとメニューを眺めてみると、"お造り"だの"天ぷら"だのといった項目がきれいな楷書で書かれていた。
和食は洋食と違って○○の△△風□□とかいうしち面倒なメニューがないので料理がイメージしやすくてたいへん助かる。
中でも"上州麦豚の蒸し焼き"というのが目を惹いた。このコンロの上の鍋がそれだろうか。
蓋を開けてちらりと中を覗くと、サシの入った肉が五枚も入っていた。ふーん。
「それではコースをお出ししますね」
食前酒とともに前菜三点が運ばれてきた。左側から○○となっておりますなどとこまごま説明してくれるものの、いっこうに頭に入ってこない。
ただただ食前酒を乾杯する相手がいないのを嘆くばかりである。歌鈴と食べられたならきっと楽しかっただろうに。
お造りが運ばれてきたあたりで火を点けますね~と言われコンロにある青色の固形燃料にチャッカマンが当てられた。
赤というよりはどちらかというと黄色よりの炎が勢いよく燃え上がる。
俺はその火が揺らめく様をじっと見ていた。
歌鈴は……転ばなくなったのか?
俺が手を差し伸べてやる必要はもうないのかな。
つぎつぎと料理が運ばれてくるがどうにも食欲がわかない。隣の親子連れのはしゃいだ声が寂しさを倍増させた。
手持ち無沙汰になった俺はまた固形燃料がじわじわ溶けていく様子を眺めていた。
「お刺身、悪くなっちゃいまふ……ますよ!」
ビクッと全身が振動する。びびった。急に話しかけるな――。
「はぅわ! す、すみませんっ!」
顔を上げるとそこには歌鈴がいた。いつのまにか俺の対面に座っている。
メシ食ったんじゃなかったの?
「あのっ、プロデューサーさんがここにいるって聞いたので……その、迷惑でしたか?」
いや別に迷惑じゃないけど、歌鈴はやることがないだろう。
俺が刺身とか天ぷら食ってるところを見て楽しいか? 風呂にでも入ってきたほうがいいと思うが……。
そう歌鈴に伝えたものの、彼女は席を立つ素振りもない。ここにいるそうだ。
それどころかテーブルに両肘をついて完全に観察モードに入ってしまった。顔には優しげな笑みを浮かべている。
逆に食べにくい。俺は残っていた食前酒を一気にあおった。
それから歌鈴は解説役と化した。
一つ一つ料理が置かれる度に「これ中に海老が入ってますよ!」とか「これなんかもにゅもにゅしてました……」といちいち感想を述べてくれる。
グルメレポートでもこの調子だったのだろうか。こんなの絶対おもしろいと思う。やっぱり風呂なんか行かないで一緒についていくべきだったのだ。
「あ」
歌鈴が鍋を見やる。固形燃料はすでに燃え尽きていた。豚肉の蒸し焼きができたのだ。
すっかり食欲が戻った俺は期待に胸膨らませながら鍋の蓋に手をかけた。歌鈴も身を乗り出して今か今かと見つめている。
蓋を開ける。ぼうと湯気が解放され香ばしい臭いが辺りに立ちこめた。
いい按配に蒸された肉の表面でてらてらと油が光っている。下に敷き詰められた白菜もいい具合だ。
「「おお~!!」」
歌鈴は一回見てるでしょ。
すっかり満腹になった俺は上機嫌で夕食会場を後にした。
土産屋に立ち寄って瓶ビールと適当なおつまみを買って帰る。
ぐんまちゃんクッキーもありますよ~と歌鈴が言ってくれたが、ぐんまちゃんクッキーはおつまみにならないと思うのであたりめや柿ピーなどの無難なものをチョイスすることにした。
あと歌鈴のためにコーヒー牛乳を買ってあげた。これは温泉の定番なので説明不要に思う。
部屋に戻ると布団が敷かれてあった。
二つの布団は隙間無くぴったりとくっつけられていて、とても12畳の大部屋を有効活用しているようには思えなかった。近すぎる。
歌鈴がチラチラとこちらを見ていたが、俺はその視線を無視して布団をまたぎ、一方を座敷の窓側に、もう一方を入口側に押し出してなるべく距離を開けるようにした。
ところが今度は逆に離れすぎて中央に謎のスペースができてしまった。さすがに不自然だと思ったのか歌鈴が入口側の布団を引きずって心持ちこちらに近づけてくる。
暗黙の了解で入口側が歌鈴、窓側が俺となったようだ。さっきよりだいぶ近づいた気がするけど、俺は何も言わないでおいた。
お風呂入ってきます(しゅ)、と言い残して彼女は部屋を出ていった。
しん、と室内が静かになる。
俺は窓際の謎スペース(広縁というらしい)に腰かけてぼんやりと外を眺めた。
日が落ちて闇に覆われた空、空よりいっそう黒々とした群馬の山々。
ぽつぽつと灯る石段の明かりたち。星空、星空。
俺は心安らかな気分になった。
なぜなら夕食会場での歌鈴は俺のよく知っている歌鈴だったからだ。
少しドジでノロマな、滑舌の怪しい巫女さんがそこにいた。
ここ最近ができすぎていただけだ。
イベントでも物怖じせず、ライブのパフォーマンスも文句なし。
演技力も向上し、単なる笑顔のみならず憂いを帯びた表情すらできるようになった。
そんな彼女に仕事のオファーが殺到するようになったのも無理のないことだろう。
ファン数は日に日に増していき、チケットは販売してものの数分で完売するようになった。
世間の盛り上がりにとともに、彼女は着実に成長していった。
しかし根っこの部分は変わらない。
普段の歌鈴は相変わらず転んでばかりだし、自信なさげなところも元のままだ。
だから俺はほっとした。これなら安心だと思ったのだ。
長い時間そうしてぼーっとしていたが、ふとある疑問が浮かんできた。
――安心? なぜ安心する。
窓の外、地上に近いところを一筋の光が流れていった。
よく見るとそれはタクシーか何かのヘッドライトのようだった。
ぶおおという微かなエンジン音がここまで届き、室内を満たしていく。
同時に自分の鼓動が速くなっていることに気がついた。
なぜ安心した?
なぜ俺は彼女を『転ばせよう』としているんだ?
どうしてこんな企画を受けた。
会議の段階でしっかりと断っていれば、こんなことにはならなかったのではないか。
石けんを置いてわざと転ばせる? 下らない。下らないだけに業が深い。
歌鈴の努力を、これまで積み上げてきたものを無碍にするような卑怯な行為だからだ。
彼女は別に好きでドジをやっているわけではない。
むしろそんな自分を変えようとしてアイドルの世界に足を踏み入れたはずだ。
それを――。
「ふぁ~、いいお湯でした~」
思考が中断される。歌鈴が帰ってきた。
臙脂色の帯をまとった浴衣姿がまぶしい。合わせの間から鎖骨がちらりと覗いている。その頬は少し上気しているように見えた。
歌鈴はコンセントの近くでしゃがみ、充電ケーブルを取り出してスマホの充電を始めた。
テレビでもつけるのかと目で追っていたが興味なさそうにリモコンを通り越し、冷蔵庫にあるコーヒー牛乳を取り出して戻ってきた。
俺の向かい側に腰掛ける。
「えへへ、コーヒー牛乳、いただきますねっ」
彼女は牛乳瓶の蓋を爪でひっかきはじめた。かりかりかりかりという音がするが、いっこうに取れる気配がない。
だいたいどうなるか予想はついていたものの、先ほどのこともあるので興味深く様子を観察していた。
結果、蓋はぽちゃんと牛乳瓶の中に落ちた。
涙目になった歌鈴と目が合う。眉がハの字になっていた。
また少しほっとしてしまった自分に嫌悪感を覚えた。
俺もビールを持ってきて、二人で乾杯することにした。牛乳瓶と乾杯するのは初めてだ。
ごくりと喉を潤すと一日の疲れが飛んでいくような気がする。
お疲れさま、と歌鈴をねぎらう。
「はいっ!」
返事は良いのだが、歌鈴の顔は物足りなそうだ。
少しの沈黙が流れる。その間、彼女は牛乳瓶のラベルを親指でこすっていた。俺は察した。
今日はとてもよかった。台本も一度も噛むことなく言えたし、転ぶこともないしで何も言うことはない。
百点満点だ。ディレクターさんも喜んでいた。
ひとつ嘘を混ぜたが、これくらいは許してほしい。
歌鈴はこれぞ破顔一笑という笑顔を浮かべた後、何が恥ずかしいのかすぐにうつむいて両手で口元を隠していた。
指の間から見える頬はさっきよりも赤くなっている。
再び沈黙。破ったのは歌鈴だった。
「あ、あのっ、プロデューサーさん、おつぎしますよっ!」
ん?
一瞬何のことかと思ったが自分の手元を見て理解した。
グラスはすでに空だった。
とはいえ一昔前ならいざ知らず、現代の世で若者に酒をつがせるなんてのはナンセンスだ。当然俺は固辞したが、意外なことに彼女は折れなかった。
まぁまぁ、まぁまぁまぁという譲り合いはあまり好きではないのでそんなに言うのならと彼女にビールを注がせることにした。
ラベルを上にするとかいう下らない慣習には触れない。歌鈴の好きなようにさせる。グラスも渡す。初心者ならその方がやりやすいだろう。
彼女はグラスをテーブルに置いて、ぷるぷる震える手で瓶を傾け始めた。
打点が高すぎやしないだろうか。
止める間もなくビールがグラスに落ちていく。みるみるうちに泡が立ってきてあっというまにグラスの半分まで達してしまった。もう瓶を上げないと危ない。
「ふぇあっ!? ひゃぁぁぁ~っ!?」
時すでに遅く、なめらかな泡が表面張力に耐えかねてグラスの縁を流れ始めた。
水たまりならぬ泡だまりがテーブルに広がっていく。
「はわわ……っ!? い、今拭きますから~!!」
歌鈴が急いでティッシュを取りに行こうとしたそのとき、彼女は広縁と座敷の間にある段差に足を引っかけた。
ばたーんという音がする。気がついたときには窓側に敷いた俺の布団に美しいダイブを決めていた。
えらいことだ。
怪我を心配したわけじゃない。その……。
転んだ勢いで彼女の浴衣の裾が盛大にはだけ、白くて張りのある右足が露わになってしまったのだ。
ふくらはぎから太ももまであますところなく丸見えになっている。それどころか――。
視線を上げて俺は頭を抱えた。
歌鈴。
お願いだから下着は履いてほしい。
彼女は洗面所から出てこなくなってしまった。
大丈夫、何も見えなかったからと弁解したが、何も見えなかったということはつまり見えていたということで、このフォローは完全に逆効果だった。
ふぇ~といううめき声が聞こえてくる。
俺は時間が解決してくれることを祈って再び席に着いた。
泡がなくなってグラスの半分しか残っていないビールを飲み干す。
なんとなくわかってきた。
彼女は俺の前だと油断しているのだ。いや、"油断してくれている"のだ。
だからあられもない姿も見せてくれるし、初めて会ったときと同様にドジなままでいてくれるのだ。
うぬぼれすぎだと思うだろうか。でもそう考えると全て納得がいく。
彼女はアイドルを通じて自分をコントロールする術を学んでいたのである。
ONに対するOFFのように、いつのまにか歌鈴は自分自身を理解し、自ら律することができるようになっていたわけだ。
もちろんどちらも道明寺歌鈴に違いない。
ステージの上でたおやかに舞う彼女も、牛乳瓶の蓋を落としてしまう彼女も嘘偽りなく歌鈴でしかなくて、そこに優劣の概念は存在しない。
彼女はアイドルとしての一面を持つことで更なる魅力を手に入れたという、ただそれだけのことである。
俺はその二面性についていけてなかった。どちらも同じ歌鈴だと思いこんでいたのだ。だからあんなバカな企画にもGOサインを出してしまったのである。
つまり俺もあのディレクターと同じ穴のむじなだったわけだ。
自分の担当なのにこんな簡単なことに気づかないとは、呆れたことだ。
しかしだとすれば俺のすることは決まっている。
アイドルである道明寺歌鈴を『転ばせる』わけにはいかない。
しばらくして歌鈴が戻ってきた。
顔が茹でダコのようだ。しかしその目は何かの決意に満ちていた。
俺は気にしていないこと、さきほど見た全てを忘れることを誓った。
すると彼女は意外な提案をしてきた。
「もう一度、おつぎしますっ!」
今度は左手にグラス、右手にビール瓶を構えていた。
グラスを傾けながら、徐々にビール瓶を近づけていく。
確かにこれが正解でもっとも泡の立たない方法だ。垂直に落とすのは悪手だと気づいたのだろう。
彼女は真剣な顔をしてこちらを見た。これは……。
これはアイドル、道明寺歌鈴だ。
「私、決めていたんです」
なにを。
「今日は必ず、プロデューサーさんに頼らずに仕事をやり遂げようって」
……。
「甘えていたんです。いつも支えてくれて、手を差し伸べてくれるプロデューサーさんに。
でも、このままじゃいけないってわかっていました。だから――」
少しずつグラスに液体が注がれていく。
「だ、だから今日はプロデューサーさんに……」
一拍。
「"あなた"に成長した私を見てもらおうって、そう決めていたんです」
彼女はここしかないというタイミングで瓶を引き上げた。
泡とビールのバランスが絶妙だ。これならいけるはずだ。
慣性を持った泡がグラスの中を上昇していく。
泡は縁ぎりぎりまで達し、ドーム状に盛り上がって自らを解放させんと息巻いていたが、抵抗むなしく後一歩というところでしおしおとしぼんでいった。
泡とそれ例外の比率がちょうどいい理想的なビールができあがる。
彼女の顔がほころんだ。満面の笑みが花開く。
「やった! できましたっ! できましたよっ!!」
ああ。
素晴らしかったぞ。
さて、どうする。
歌鈴が寝静まったあと、俺は一人頭を働かせていた。
歌鈴の眠りを妨げぬよう室内は消灯している。窓の外との境界線が曖昧になる。彼女の寝息だけがBGMだ。
一番手っ取り早いのはあのアホディレクターを説得することだが、たぶんこれはうまくいくまい。
あの男は俺様タイプを二段階ぐらい強くした王様タイプで、しかも一度言い出したことは頑として変えないという悪癖がある。
おまけに撮影は明日の早朝だ。直前になって企画を変えてくれなんて言っても馬耳東風で聞き入れないだろう。
マットを敷くという折衷案を通すのにもかなり骨を折ったというのに。
別の策を考える必要がある。
要するに石けんがなければいいのだ。撮影前に石けんを取り除けばいい。
しかし衆人環視の中でしかも一番の目玉となる石けんをうっちゃることができるだろうか。
取り除いても撮影時に気づかれてしまうに違いない。たぶん無理だ。
ひらめいた。
石けんの代わりとなるものを置けばいい。それでも歌鈴は踏んでしまうだろうが石けんでなければ最悪の事態は免れるだろう。
うまくいけば転ばないかもしれない。滑りにくい素材ならなお良い。何回石けんって言ってんだろ俺。
しかしそんな都合のいいものがあるか?
丸くて白くて適度なサイズで踏んでも危険がなく滑りにくい物質……そんなものが……。
俺は部屋の中を見回した。座敷のテーブルに山と積まれた箱が見えた。
歌鈴が館内取材のときにもらった群馬名産のお土産だ。
何気なく山を崩してみたが、もとより期待はしていない。
こんなところに石けんの代替品があるわけが――。
あった。
やっぱり群馬はすごい。
―――
――
「いよいよっすね~! テンションあがってきましたわぁ~!」
うるさい。俺はしょぼしょぼの目をこする。
早朝6時、撮影隊と関係者は女湯の露天風呂にいた。
こういう機会でなければ女湯に入ることはまず叶わないだろうが、今は特に何の感慨もわかない。それどころではない。
「つっても時間ないっすからね、いきなり本番一発撮りでいきますよ! つーか一発撮りじゃないとドッキリが成立しないっすからねガハハ!」
ドッキリだと思っていたのか。まあいい、無視だ無視。
チャンスはそう多くない。すでに露天風呂はセッティングがすんでいる。
当初の予定通り檜造りの湯船の周りにはマットが敷き詰められているし、かなり不自然だが道中には石けんが配置されている。
一応マットと同色の白色なので、カモフラージュできているといえばできている。
まあ……風呂に石けんがあるのはおかしくはない、のか?
「道明寺さん入りまーす!」
きた。タレントが入ってくるのは全ての準備が整った後だ。
そしてこのテレビ局は主役級のタレントが来たときは必ずスタッフ総出で出迎えるという謎のしきたりがある。
悪しき慣習だが、歌鈴のようなキャリアの浅い少女にもやってくれるのはありがたいことでもある。
ディレクターをはじめカメラマンや照明などがぞろぞろと内湯のほうに移っていく。
温泉が循環する音だけが聞こえてくる。今こそ狙い目だ。よし。
俺は小走りに石けんのもとに近づき、スーツの内ポケットに忍ばせていた"それ"と交換した。
遠目から見て確認する。
大丈夫、ぱっと見は何の違和感もない。これはいけるぞ。
俺は小さくガッツポーズして歌鈴のいる内湯へと向かった。
突然だがみなさんは『焼きまんじゅう』をご存じだろうか?
いや、もちろん知っていると信じている。
しかしごくごく一部の人間には馴染みのないワードかもしれないので、ここであえて頁を割いて簡単に説明させていただく。
焼きまんじゅうとは一言でいえば群馬県民のソウルフードである。
具体的に言うと『あんまん』から『あん』を抜いた皮だけの部分があるだろう、乱暴な例えだがあれが焼きまんじゅうの"元"である。
そいつを四つ並べて串に刺し、コンロで焼き色をつけた後、甘味噌ダレにくぐらせたものが焼きまんじゅうなのだ。
『あん』が入っていないんじゃ味しないんじゃないの、とお思いだろう。はっきり言う。まんじゅう自体に味はない。
甘味噌ダレの味と独特のもさもさした食感を口周りをべたべたにさせながら楽しむのが焼きまんじゅうの醍醐味なのだ。本当においしいの? うまい。食べるべきだ。
やや脱線したが前述の通り焼きまんじゅうの完成品は焼き色がついているし、タレにもくぐらせているので見た目はみたらし団子の巨大版に見える。
しかしそれは完成品の話だ。
お土産用の焼きまんじゅうは違う。
これは真空パックに包まれていて保存もきき、ご家庭でレンジでチンして食べられるという人類の英知を結集させた画期的なお土産なのである。
甘味噌ダレももちろん同梱されているので安心だ。これにより焼きまんじゅうは広く全国に周知されることとなった。
レンジでチンする前の"焼き"まんじゅうは当然焼かれていない、つまり真っ白なのである。
しかもその表面には『あんまん』よろしく薄皮が張られているので摩擦も少ない、上から踏んだとしてもつぶれるだけなので何の危害もない。
要するに焼きまんじゅう(お土産用)は今この場面にぴったりの、石けんの代替品なのだ。
この偉大な食物を開発した先人の知恵に畏敬の念を禁じ得ない。
内湯の撮影は光速で終わった。
よほど時間がないと見える。ディレクターの顔にも焦りの色が浮かんでいた。
「ほんとに一発撮りっすね、あークライマックスなのになー」
自らのずさんなスケジュール管理が招いた悲劇であって、当然の報いのように思うがここは黙っておいた。
スタッフたちが露天風呂に集まってくる。俺はいつ焼きまんじゅうにすり替えた石けんがばれるんじゃないかと気が気でならず、しきりにADたちの動向に目を光らせていた。
俺の願いが通じたのか幸いにも誰一人として焼きまんじゅうの存在に気づきはしなかった。
そもそも焼きまんじゅうに近づきすらしなかった。大丈夫かこの会社。
「本番まで10秒前、8、7、6、5秒前……」
カウントダウンが始まる。いよいよだ。
歌鈴が内湯から露天に入ってきて湯船に浸かり、一言コメントをするというシーン。
たったそれだけなのに三台もの巨大なカメラがそれぞれ別角度から湯船を写している。傍目には異様な光景だ。
とにかくここまできてはもう祈るしかない。
頼むぞ焼きまんゅう、歌鈴を守ってくれ。
「4、3……」
2、1のカウントは口に出さず手振りのみで行われる。
0と共にどうぞ!のジャスチャーをしてADは後ろに下がっていった。
撮影開始だ。
内湯のドアが開き、歌鈴が入ってくる。
「ほぁ~、すごいお風呂!」
とぽすぽすマットの上を歩きながら湯船に近づいてくる。
焼きまんじゅうまでの距離は5歩といったところか。動悸が激しくなってきた。
「ん~、檜と温泉の香りが気持ちいいですねっ」
4。
歌鈴は両手を広げて露天のさわやかな空気を吸い込んだ。足下を見てほしい。足下を。
心配しているうちにも彼女はぐんぐん歩を進めていく。
3、2。
ディレクターと目が合う。このアホは人を騙す人間に特有の意地悪く、それでいてどこか純粋な目をしていた。
中学生がいたずらするときの顔に似ている。お前の期待通りにはならん。
1。
そのときが訪れた。
コースは最悪でちょうど歌鈴の左足に焼きまんじゅうがジャストミートする位置にある。ままよ。
彼女は左足を踏み出――。
さなかった。
どうした?
俺もディレクターも怪訝な顔をする。
彼女は何事かを考えたままじっとしている。
そしてちらっと、俺の方を見た。その顔は少し笑っている……ように思えた。
一瞬すぎて確信が持てなかったのだ。
次の行動は意外なものだった。
彼女は軸足に体重を乗せ「えいっ」というかけ声と共に小ジャンプをかましたのだ。
ふわりと浮き上がった歌鈴は苦労して設置した焼きまんじゅうをゆうゆうと飛び越えて、檜風呂の縁に着地していった。
歌鈴は踏まなかった。
自ら危機回避をしたのだ。
この展開はディレクターはおろか、俺すらも予想していなかった。
だってそうだろう、あの歌鈴である。
バナナの皮があったら磁石のように吸い寄せられていく歌鈴である。
座っているにも関わらず新体操のように芸術的な転倒をかます歌鈴である。
奈良の鹿にスカートを食べられそうになるあの歌鈴である。
俺たちは彼女が"そもそも踏まない"という選択肢を、まるで考慮に入れていなかった。
石けんがあったら必ず踏むものと早合点して、何一つ疑問に思っていなかったのだ。
もし俺の見ているものが本当なら、アイドル道明寺歌鈴は昨晩俺が想像していたより遙かに上をいっていることになる。
俺はまた認識を改めねばならないのだろう。
全く、たいしたもんだ。
歌鈴は檜風呂の縁に座り、湯加減を確かめてゆっくりと湯船に浸かっていった。
黄金色の湯に濡れたタオルが彼女の体にぺたりと張りついていく。両の腕にお湯をなじませるその仕草が艶めかしい。
ほんのりと赤く頬を染めて彼女は息を吐いた。
「はふぅぁ~」
ディレクターの視線を感じる。聞いていたのと違うぞという目だ。
俺は海外の役者さんがやるように、大げさに肩をすくめてみせた。
残念だったな。撮り直しはできないぜ。
もう時間がないんだろ?
湯船から溢れ出たお湯に流されて、焼きまんじゅうがぷかぷかと浮いていた。
――
―――
時刻は午後一時。昼メシ時である。
撮影を終えて宿を引き払った俺たちは、帰る道すがらこれも伊香保の観光名所である水澤観音に立ち寄った。山の中腹にある清閑な寺院だ。
長くなるのでもう割愛するがこちらも長閑でたいへん雰囲気のある名刹なのでお立ち寄りの際は是非足をのばしてほしいと思う。
一通り見て回った俺と歌鈴は近くにあるうどん屋に向かうことにした。
この近辺のうどんは水沢うどんと呼ばれている。
何を隠そうこの水沢うどんはかの有名な讃岐うどん・稲庭うどんと並んで日本三大うどんと称されるほど名の知られた全国的なうどんなのだ。
つるつるとしてコシがあり率直に言ってうまい。付け加えるならば舞茸の天ぷらがうまい。行くべきだ。
うどん屋の駐車場にとまる。さっきまで山だったのにいきなりでかい駐車場が出てくるものだから歌鈴はびっくりしていた。ここは人気店なのである。
ふとスマホを見るとメールが届いている。番組ディレクターからだ。俺は歌鈴を先に行かせて内容を確認した。
「いま爆速でテープ見返してるんすけど、なんかいけそうな気がしてきましたわ!」
曰く、入浴シーンを改めて見てみたらけっこう色っぽくて映像としてレベルが高いことに気が付いたのだそうだ。
温泉街のインタビューもほのぼのとしてコクがあり悪くないと言っていた。
要するに本放送では大幅に路線変更するからそこんとこヨロシクね!というわけだ。メールは、
「彼女やりますねえ!」
で締められていた。ここまで物わかりのいい男だったか。
これも歌鈴の実力ってやつか。
車のドアを開けて外に出る。
駐車場で伸びをしている歌鈴が見えた。
快晴の空に秋の風が心地よくなびいている。
無視するのもアレだし、返信しておくか。
俺はスマホを打ちながら歩き出した。
あ、り、が、と、う、ご、ざ――。
がつんっと、何か固いものにぶつかる感触がした。
足がもつれてバランスが崩れる。手元が狂いスマホがあらぬ方向に飛んでいく。
景色が全てスローモーションで流れていく。足下を見ると駐車場の縁石があった。
受け身は間に合わない。
俺は覚悟を決めて目を閉じた。
どしゃっ、と音を立てて盛大にすっころぶ。うつ伏せになってコンクリートに倒れ伏す。
痛い。膝が痛い。肘が痛い。手のひら絶対すりむいてる。頭を打たなかったのが幸いだ。
まじかよ。
転ぶなんて何年ぶりだ。
「はわっ!? ぷ、プロデューサーさん、大丈夫ですかっ!?」
歌鈴があわてて駆けつけてくる。みっともないところを見せてしまった。
歌鈴にだけはこんな姿見せたくなかったのに。
すぐに立ち上がろうとしたものの、ショックと痛みで体が動かない。
どうにか起きあがったが、片膝をついてがっくりとうなだれてしまった。
それでも歌鈴の前では"プロデューサーさん"でいなくてはならない。
俺は手を振って何ともないことをアピールした。立ち上がれ。早く。
――歌鈴は。
歌鈴は手を差し伸べてきた。
いや、手を差し伸べてくれたのか。
俺はまじまじと彼女の手を見た。きれいな手だ。小さく細い。
「つかまってください……っ」
歌鈴は表情こそ俺を心配している風だったが、その瞳には違う輝きが宿っていた。
何か一種の、使命感に満ちたような、そんな目だ。こんな目もできる子だったのか。
俺は真っ正面からそれを受け止める。
そこでようやく気が付いた。
あんな回りくどい手を使わずとも、あの夜彼女に洗いざらい話してしまえばよかったのだ。
この企画には裏があること、歌鈴を騙そうとしていること、俺が歌鈴のことを理解していなかったことを、あそこですべて白状すべきだったのだ。
それで全部解決していたはずだ。少し考えればわかることだ。焼きまんじゅうなど必要なかった。
なぜ、そうしなかった? 俺は何を恐れていた?
……彼女に見放されるのが、怖かったのか?
いつの間に俺は、追いかける側になっていたんだ――。
「プロデューサーさんっ!」
歌鈴が俺を呼ぶ。いいのか、俺でも。
俺は歌鈴の"プロデューサーさん"でいていいのか。
俺は血の付いた手をおそるおそる彼女に重ねた。
手のひらに体温がじわりと伝わってくる。
彼女はぎゅっと両手で俺の手を握り返してきた。
信じられない力でぐいっと上体が引っ張り上げられる。
俺たちは見つめ合う。彼女は優しく微笑んだ。
「いつかこうして、手を取ることができたらって、ずっと思ってました」
秋風が吹いた。歌鈴の髪がさらさら揺れる。もうじき紅葉が色づくことだろう。
そのときはまた、二人で訪れたいものだ。
「――行きましょうっ、プロデューサーさんっ」
ありがとう、歌鈴。
これからも、よろしくな。
水沢うどんは、めちゃくちゃうまかった。
おわり
歌鈴と(群馬の)温泉旅行に行きたかったなどと意味不明な供述をしており……
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