神様、どうか彼らを御助け下さい。 (38)
有田稀有は探偵である。
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北海道の西、かつては札幌と呼ばれていた大都市も、いまや陣内崎と名を変え、かつての面影は既にない。
陣は神に通じている。神の内なる陣内崎。外界から隔絶された現代の魔都において、二年前、彼女は十五歳という若さで探偵事務所を開設したやり手だ。
世が世なら女子高生探偵というセンセーショナルな看板を掲げていてもおかしくはない。その六文字は確かにキャッチーに過ぎたし、よくも悪くも耳目を集める。
否。集めすぎたというべきだろう。
彼女は目立ちすぎてしまったのだった。
取り返しのつかない日々は、見えないからこそ輝きを放つ。俺は慮るだけで、推し量ることなどとてもとても。
日差しが俺の首筋を焼く。くたびれたソファに腰を掛けながらら、俺はサングラスを少しずらし、ゴシップ雑誌を退屈そうに読む彼女へと目をやった。
雑に編んだ三つ編みに太いフレームの眼鏡をかけ、大きくくりくりとした瞳は印象的だ。太めの眉が、精悍な印象すら与える。
身長は一六〇もないだろう。体重は知らない。日頃の不摂生が祟ってしまったのか、腕も足も、尻や胸に至るまで頗る肉付きが悪い。
ちんまい外見に似合わない毒舌家でもあるが、舌鋒の鋭さが果たして幼さの残る姿に必要なのかどうか、俺はいまだにわからないでいる。
ついでに彼女は俺の姪でもある。名探偵ならぬ姪探偵……いや、やめておこう。
自分のジョークのつまらなさ加減に辟易し、煙草の紫煙をふっと虚空に吐き出した。
「ちょっと豪雨さん! 煙草を吸うときはベランダでっていっつも言ってるじゃないですか!」
「おま、折角の俺のハードボイルド気分をだなぁ……」
「そんなちぃとも腹の足しにならないものは、犬に食わせちまえばいいんですよ。
とにかく、あなたの雇用主はわたしです。ルールを守れないなら解雇です、解雇!」
「……」
俺は無言のままに圧力に屈し、煙草を携帯灰皿で押しつぶす。ついでにサングラスも外した。家の中でサングラスが必要な理由は特別にないのだ。
稀有はいつだって俺に対して解雇をちらつかせ、言うことを聞かせようとしてくるのだ。これはれっきとしたパワハラである。訴えたら確実に勝てるだろう。
この都市に労働基準監督署が現存していれば、の話であるが。
わかっていないのだ。探偵なんてやくざな稼業であるからには、少しは格好つけたってばちもあたるまいに。
トレンチコートに身を包み、バーカウンターで煙草をくゆらせる渋みを稀有が理解するのは、一体いつになることやら。
色々言いたいことはあったが、しかし、ここを追い出されてしまえば俺に行くあてはない。真っ当でないものの掃き溜めである陣内崎において、探偵業などは余程に真っ当だ。ロシアンマフィアの肉壁となるのも、MI6の二重スパイになるのも、俺はまったくごめんだった。
そして同時に知っていた。稀有は極端なまでに人との取り方を心得ていないから、きつい言葉とは裏腹に、内心では俺の服の裾をぎゅっと握りしめている。
俺はその手を引きはがすことを、ハードボイルド的とは思わない。
「今日の予定は?」
尋ねられて、予定帖へと目を落とす。稀有のボディガード兼秘書が俺の役割なのだった。
「十一時に警察署へ行って、殺人事件の解決が二件。午後からは何も入ってない」
「そうですか。退屈ですね」
ため息をついて、稀有はもう一度はっきりと、退屈です、と呟いた。
精悍にも見える彼女の顔つきは、いつもこの瞬間だけ、虚無に塗り潰される。
殺人事件に対しての感想が「退屈」では、あまりにも死者に不躾だと思うだろうか? しかもそれが解決となれば、傲岸不遜も極まりないと思われても仕方がない。
ただ、それは稀有のことを知らない人間の考えである。そんな人間のことを俺は勘案しやしないし、稀有自身、そんなやつらのことなぞはどうでもいいに違いない。
「……いや」
どうでもいいと思っているのなら、稀有はやさぐれなかったはずだ。彼女の心に刻まれた傷は深い。疑心に暗鬼が住み着いた、ゆえに他者を渇望するという矛盾。
稀有の悲しい顔は見たくなかった。見飽きたから、もう一生分の悲しい思いや辛い経験をしたと、そう思っているから。
なんてのは少しクサすぎるか。
「まぁ、ぱぱっと行って、ぱぱっと終わらせましょう。午後からは何も入ってないんですよね? でしたら、そうですね。一週間ほど早いですが、豪雨さんの勤務半年おめでとうパーティでもしましょうか」
「お前にそんな粋な計らいができるとは思わなかったな」
「嬉しい時は素直に表現してくれたほうが、こちらとしても嬉しいです」
時折とても迂遠で婉曲な皮肉を吐く割に、時折こうやって真っ直ぐ言葉をぶつけてくるのが、俺はとても苦手だった。俺のハードボイルドが崩れてしまうからだ。
顔のにやけが抑えられない。
稀有は笑った。どうにも恥ずかしくなって、トレンチコートを羽織ながら足早に事務所の扉から出て行く。
「豪雨さん、ちょっと待ってくださいよ」
「やだね」
てこてこと稀有が早足で追いかけてくる。俺は真っ赤になった顔を見られたくなくて、視線を逸らしながら応答した。
「ふふっ」
「なんだ」
「耳まで真っ赤」
端的にして鋭い一言だった。観念して稀有の方を振り向けば、
「……なんだ」
「なんです」
この強情っ張りめ。
「顔が真っ赤だ」
「うっさいですねぇ。そういうのは言葉にださず、行動で示すものなんですよ」
稀有は俺と視線をかわそうとしなかった。
悔しいのか、それとも恥ずかしいのか。
「……ん」
「んっ」
頭をくしゃっとやってやると、稀有は頬を緩める。
「半年ですって。あっという間でしたねぇ」
「命がいくつあっても足りなかったぞ」
「まぁそれは仕事ですから? 感謝してますよ。体で払いましょうか」
「ばーか」
やりたくてやっていることなのだ。感謝される謂れもない。
俺が陣内崎へやってきたのだって、半分は仕方がなしにだが、もう半分は稀有のために意気揚々と……そんな気持ちもあったのだ。
「電車で行くか、タクシー拾うか」
「タクシーにしましょう。どうせお金は有り余ってます」
上からな物言いではあるが、事実なのだから反論のしようもない。
ボディガードが必要な理由の一端もそこにあるのだが、それはそれだ。
陣内崎の中央警察署は事務所からさほど離れていない。というよりも、中央警察署のそばに事務所を設けた、という表現のほうが的確だろう。
ここは嘗ての札幌市全10区を踏襲していて、中央警察署があるのはその名の通り中心一区、事務所は境界線を挟んだ向こう側の二区にある。警察署が境界線寄りに位置しているのもあって、直線距離でおおよそ3キロ、所要時間にして三十分弱。
警察は稀有の一番のお得意様だ。警察に頼られる探偵など物語の中にしか存在しないというのならば、もしかすると稀有は、探偵ですらないのかもしれなかった。
お得意様過ぎて、命まで狙われるのだから。
「お待ちしておりやした」
署内に入った俺たちをすぐに出迎えたのは、捜査一課のボスである南原真南課長。刑事と聞いてすぐに思い浮かべるとおりの強面で、白髪交じりの短髪はいつも丁寧に同じ長さに揃えられている。
責任感が強く俺たちの――というより稀有のことも丁重に扱ってくれるが、ネクタイのセンスが悪いことだけが珠に瑕だった。
「有田殿、本日もよろしくお願いします」
きちりとお辞儀をする真南に対し、稀有はかすかに会釈しただけで、居心地悪そうに先を促した。
「それで、死体は」
「第四安置室に」
「わかりました」
そう言ってすたすたと歩いていってしまう。
「変わらないな」
嘆息こそしないまでも、やはり悲しくはなる。退屈だと言っていた様に、彼女にとってこれは仕事と呼べるほどやりがいのあるものではないのだろう。
求められるままに、やりたくもない仕事を淡々とこなすことの辛さは、俺にはいまいちわからない。人をいくらも殺したことだってあるが、それだって結構割り切れていたのだ。
あるが、それだって結構割り切れていたのだ。
「いや、あれでも結構変わったほうだ」
真南はぼそりと言った。「仕事モード」の稀有との付き合いは真南のほうが長い。こいつが言うのならばそうなのだろう。
「それにしても、雨宮。お前、相も変わらず、眼が淀んでるなぁ」
「うるせぇ」
こちとら気にしてるんだ。
「最近は一課ばかりだが、能対課のほうは特に何もないのか?」
能対課――能力者対策課の略称。
陣内崎はその特性上、どうしたって普通じゃない殺人が、傷害が、強盗致傷が起きやすい。警察内部ではその管轄はきっちり区別されていて、単純な刺殺や撲殺、絞殺は一課が、能力によるものと思しき事件は能対課が担当することになっていた。
とはいえその境界線は随分と曖昧になってきているようで、真南が稀有と懇意にしているのも、そのあたりの事情が強そうだと感じた。当然口はしないけれども。
「俺も詳しくは知らないが、表向きのヤマは大して抱えてないみたいだ。今は裏の組織を追ってるって話だが」
「裏の組織、ねぇ」
「なんだ、眉唾だってか?」
「いや? 超能力者がいるんだ、世界征服を企む悪の組織がいたって驚きゃしないさ」
「歴史が長けりゃ長いだけ、闇も深くなる。しょうがねぇやな……」
第四安置室へと俺たちが到着すれば、すでに稀有は一仕事を終えたようで、目を瞑って壁へと寄りかかっている。
やってきたのを確認すると、二人の名前を挙げ、
「そいつらが犯人です。それじゃあ、よろしくお願いします」
踵を返して部屋を出て行く。
毎度のことなので慌てはしない。俺も、真南も、心苦しそうな顔をきっとしていることだろう。そういった感情を全て飲み込んで、俺は稀有の後へと続いた。
背後で真南が敬礼をしているのが見えた。
有田稀有は探偵である。
彼女は、「死体を見れば犯人がわかる」。
そう言う能力を持っている。
彼女にとって殺人事件ほど退屈なものはない。死体を一目見て、名前を言えば、それで全ては解決するのだ。凝ったトリック、アリバイの有無、如何なる動機も彼女の前では意味を成さない。論理を超越して犯人を見つけ出せる「能力者」、それが有田稀有である。
それゆえに多方面からは崇め奉られ――同時に、何度も命を狙われてきた。
稀有は生きているだけで不祥事の源泉だ。迷宮入りや冤罪がなくなっては困る人間など掃いて捨てるほどいる。
陣内崎にやってきてからはそういったことも少なくなったようだが、それでも、ボディガードが必要な生活は変わらない。
稀有の親、つまりは俺の姉も、そんな彼女を見離した。
「遅いですよ。パーティの準備しましょうよ」
「……あぁ」
打って変わって楽しそうな稀有の表情に、やっと自らの頬が綻んだのを知る。俺は決してロリコンではない。自分にとって大事な存在の笑顔のために働くのは、実にハードボイルド的だと構えているだけだ。
まったく稀有は無表情なほうではない。が、しかし、今やそれは過去の話。そして彼女から豊かな感情の機微を奪ったのは、周囲の大人たちだ。
拳を握りしめて「許さない」と言えればまだ格好もつくのだろうが、悲しいかな、俺は拳を握りしめることなどできなかった。代わりに彼女の手を握るだけ。
二人ぶんの準備などコンビニで適当に買えばいいとも思うのだが、稀有にはそんなこと赦されざるようで、ぶんぶんと力強い拒否を頂いた。ならどうするのかと尋ねれば、陣内崎の街中まで行くのだ、と。
断ればまた解雇だなんだといわれかねない。雇用主の意向に沿うことに否やもない。地下鉄の駅を目指すことにした。
握った手をぶんぶんと振りながら、鼻歌交じりで稀有は歩く。年齢相応の、あるいは比べても少し子供っぽいしぐさだった。
陣内崎は魔都との別称もあるとおり、様々な人種と物品が縦横無尽に入り乱れた都市である。心地よい日光に照らされた広場を擁する大通りもあれば、そのすぐ脇の薄暗がりでは非合法の品も取り扱われている。
ロシアンマフィア、華僑、在日米軍、そして「能力者」。さながら火薬庫となったこの都市は実質的に治外法権で、政府だって手を出せない。
いや、手を出そうとした結果を誰も忘れていないだけか。忘れたころに、どうせまた、同じことは起こる。栗にやられた痛みが残っている間は、火中のそれを拾おうとはしないという程度に過ぎない。
もう一度内戦が起きたとすれば、今度は一体、何人が死ぬのやら。
中には危険を承知で栗を拾おうとする物好きもいるが、そんな人間は山師と代わらない。もしくは油田を、黄金郷を探しているに近しい。
勿論完全に無法地帯と言うわけではないし、政府も見捨てたわけではない。寧ろ、内戦は二度とごめんだと言うように――それは事実なのだろうが――資材や人材を投資して議会制政治を導入するくらいには至っている。
その反面、光と闇の乖離は急速に進んだ。らしい。とは稀有の弁で、俺はまだそれを実感してはいない。
俺は陣内崎に来ておおよそ半年。対して稀有は二年以上を過ごしている。当然街については彼女のほうがずっと詳しいので、俺にできることといえば荷物持ちと、周囲の気配に慎重になるくらい。
どちらかといえばお目当ては裏路地のようだった。七区、露天商通り。またの名を廃品通り。
最も闇が深いと言われている八区に隣接していながら、まだこの辺りの治安は良好だ。ただし、あくまで八区に比較して、という話である。大通りでは露天商がゴザに商品を並べ、ただ黙ってじっとしている。商品も宝石類からよくわからない機械基盤まで様々だった。
活気があるというわけではない。やはり、どこか沈殿した空気が漂っている。
浮浪者がダンボールの上で横になり、中身のなくなったビール瓶の口を舐めている。フードとマスクで顔を隠した男の姿も多い。銃を忍ばせているやつだって、すれ違っただけで三人はいた。
「……物騒だな」
幸いこちらに対して敵意はないようだ。それでも油断はならないが。
「豪雨さんはこの辺は初めてなんですか?」
「そうだな。厄介ごとは嫌いだ」
「でも多分、厄介ごとのほうは、豪雨さんのことが好きだと思いますよ。そう言う顔してますもん、豪雨さん」
けらけら笑う稀有はこんな怪しい場所にいても自然体だ。言うとおり、初めてではないのだろう。
「あ、あそこです。お目当ての場所」
稀有が指差した場所は雑居ビルの一階で、恐らくは通用口と思しき扉に、大きく「モノクロ屋」と書かれていた。
……怪しすぎる。
「何屋なんだ?」
「雑貨屋ですよ。いえ、何でも屋、というべきですかね。折角ですから奮発して、いいお肉でも、と思いまして」
「こんなうらぶれた雑居ビルに、か? 人肉じゃねぇだろうな」
「人肉の方が安い街ですから」
違いない。
扉を開けると軽く鈴の音が鳴って、カウンターの奥の通路から、のっそりと巨大な影が姿を現した。
「――は?」
素っ頓狂な声が漏れる。
店の奥から姿を現したのは、正真正銘、紛れもなく、パンダ。
白と黒の毛皮。二メートルはある背丈。愛嬌のある顔に、鋭い爪と牙。
なるほど、だからこその店名か、とは思えなかった。
「なんだこれ」
「ここは陣内崎ですし」
戸惑う俺に対して一言で稀有は回答を寄越す。
そうだった。ここは陣内崎なのだった。
普通なら、常識的に考えれば起こるはずのない出来事も、ここでは容易く起こりうる。なんせこの都市は普通でも常識の範疇にもないのだから。
それで納得できる程度には、俺もこの都市に馴染んできたのだろう。
「……」
パンダは喋らない。当然か、それともいっそ非常識も突き抜けて、ぺらぺら八か国語くらいを喋ってくれれば気持ちがいいのにと思う。
そんなパンダ相手に稀有がナントカ牛のドコドコの部位がこれくらい欲しいんですが、というような話をすると、パンダはこくりと一度うなずいて、その巨体を揺らしながら奥の通路へと消えていった。
「なんなんだ、あいつは……」
「パンダさんです。見ての通り。それ以外のことは、わたしにもわかりませんねぇ」
それでいいのか、と言おうとしたそのとき、パンダが油紙に包まれた肉を持ってやってきた。稀有はにこやかにそれを受け取ると、キャッシュカードで支払いを済ませる。
……カードまで対応しているのか、この店。
店を出るとまた薄暗い路地。上を見上げれば晴天だが、入り組んだ奥底までは太陽の光も届かないようだ。
俺は手でひさしを作った。光に目を細めながらも頭上に鎮座ましましている「ソレ」の姿を見極めようとする。
陣内崎の上空三キロメートルには、戦略核が浮いていた。
―――――――――――
今回は以上になります。
設定厨による作品の供養。お付き合いいただければ幸いです。
* * *
その日の夕食は焼肉で、パンダから買ったあの肉は、確かに舌の上でとろけるほどに美味だった。かなり大きなブロック肉だったのだが、俺も稀有も頬をほころばせながら、おいしいおいしいと瞬く間に平らげた。
食後に出てきたのは道中で買ったケーキだ。さすがに二人で1ホールは消費しきれないと考え、稀有はモンブランとショートケーキ、俺はティラミスとミルクレープを選んだ。
ティラミスはともかくとして、ミルクレープが果たしてハードボイルド的であるか、万人の意見が俟たれるところではあるかもしれない。しかし、まぁ、そこはそれ。無礼講というやつだ。
俺のポリシーなど稀有の鶴の一言の前では何の意味も持たない。それに、ケーキをぱくつく稀有が存外楽しそうだったので、それでいいじゃないかとも思う。
ワインを一本あければあとはもうぐでぐでである。そもそも俺はさほどアルコールに強くない。姉も、両親も、強くはなかった。祖父母もそうだったと聞いている。恐らく血筋なのだろう。
だから、俺と殆ど同じペースで飲んでいた女子高生探偵がふらふらするのも、至極当然の帰結である。
法律? そんなものは陣内崎にはない。少なくとも未成年の飲酒がご法度だとは、寡聞にして聞いたことはなかった。
「大丈夫かよ」
「らいじょおぶれすよぉ」
トイレから戻るのさえ壁伝いの人間が一体何を言っているのか。
俺もだいぶ意識が散漫になっている自覚はあるが、さすがに自立くらいはできている。
「ほれ、ソファ座れ。水持ってくるから」
「ありがとうございますぅ……」
ぼすん、と勢いよく稀有はソファに落下して、水道水をおいしそうに飲み干した。
ごくごくごく。一息でコップ一杯を呑みほし、センターテーブルへと置くと、ぼんやりした表情で虚空を見つめていた。
寝落ちするのも時間の問題だろう。事務所には寝泊まりできるような部屋はないが、代わりに折り畳み式の簡易ベッド位ならある。それを引っ張り出そうとして歩き出せば、脚が止まった。
「……ん?」
「……」
稀有が俺の服の端っこを掴んでいた。
「豪雨しゃんも! ここ!」
さすがに簡単に酔いは覚めるはずもなかったようだ。酔っぱらいに付き合うほど不毛なことも珍しいが、反抗するほうが余程厄介。言われるがままに稀有の隣へと腰を下ろす。
そうした瞬間、こてんと稀有が俺の肩に自分の頭を預けてくる。大して重たくはないが、それよりなにより、稀有から漂ってくる甘い芳香が俺の鼻腔をくすぐって仕方がないのだった。
わざとやっている。すぐにぴんと来て、同時にため息もつく。いっちょまえに恥ずかしがってるな、俺。
「ん」
膝の上を示してやると、にんまりと猫のように微笑んで、稀有は俺の脚を座面、胴体を背もたれとして活用しだした。俺は手持ち無沙汰になった両腕を稀有の背中から回し、腹の辺りを揉んだり撫ぜたりしてみる。
くすぐったそうな声を出す稀有。少し熱っぽくも感じられるそれを意図的に無視して、少し強めに抱きしめた。
「好きです、豪雨さん」
そう言う稀有の顔はこちらからでは見ることはできない。真顔なのか、はにかんでいるのか。
「いっぱい、助けてくれました。いっぱい、いっぱい。だから」
「俺は荒事担当だからな」
「それだけじゃなくて……」
少し待ってみたが、続きが聞けることはなかった。すぅすぅ。可愛い寝息が腕の中から聞こえてくる。
有田稀有は名探偵である。
その名声は、陣内崎の内外を問わず、全国に轟いている。
こいつは決して馬鹿ではないし、見てくれだって悪くない。毒舌にすぎるきらいはあるが、それだって辛口評論家に一定の需要があるようなもので、大して問題じゃあなかった。
だから一躍時の人となるまでに、そう時間はかからなかった。
能力者は即座に陣内崎へ移送される。それは悉皆周知の大前提であるが、稀有の時ばかりは完全に陣内崎の内と外、それぞれの思惑が対立していた。即ち、どちらもこんな不祥事の源泉を、自らの懐においておきたくなどなかったのだ。
連日押しかけるスクープ狙いのマスコミ。真犯人の究明を求める被害者遺族。トラックが信号を無視して突っ込んで来たことも、夜道で刃物を持った人間に襲われたことも一度や二度ではない。
俺の姉は、義兄は――つまりこいつの両親は、そんな生活に参ってしまっていた。
果たして彼らを罵ることが誰にできるだろう。そしてそれは、稀有にだってできやしなかった。
親からも親族からも見離されたこいつを俺が引き取ったのは、大学四年目のことだ。引き取ったといっても大したことじゃない。どこにも行き場がないこいつが不憫に思えて、どうせ一年バイトと卒論しかないのだから、寝床くらいならと匿ったに過ぎない。
半年経たずに結局当局の人間が陣内崎へと連れて行ってしまった。だから、実質的に一緒に暮らしたのは、四ヶ月ちょっとの間だけだ。それをどうにもこいつは多大な恩を受けたと思っているようなのだった。
まぁ、確かに何度も死にそうな目にはあったが……。
もう二度と会うことはないと思っていたのだが、まさか数年を経て、陣内崎で雇用される関係になるとは。
意外ではあったが、けれど現状に俺は生憎と満足しているのだ。好きな女を守るだなんて、それは随分とハードボイルド的じゃあないか。
荒んだところもある女だけれど、狂った人間ばかりのこの陣内崎において、稀有はまだだいぶマシなほうだ。
「……」
俺も酒が回ってきたようだ。吐いたりはしないが、意識が散漫になってしまっている。これはよくない。
稀有をソファに横たえると事務所の隅にある折りたたみベッドを開いた。タオルケットを敷き、そこに稀有を寝かせてやる。一瞬うっすらと目を開いた稀有は、俺に軽く口付けをして、すぐに眠りへと落ちていった。
……まったく、勝手なものだ。俺のハードボイルドが崩れてしまう。
自分の中で湧き上がる色々を押さえ込んで、俺も稀有の後を追うべく、ソファに横になる。
* * *
どんなありえないことだとしても、陣内崎ではありうる。
「普通」だとか「常識」だとか、そういった言葉を物差しにしていては、この都市では食い物にされるだけだ。
それは半年前、「有田稀有探偵事務所」のボディガード兼秘書となった俺に対し、稀有が一番はじめに言ったことである。
戦略核が理論不明のまま浮いている都市なのである。住人だって到底まともではいられない。そりゃあパンダも肉を売るだろう。
この都市は歴史こそ浅いけれど、一朝一夕では語りつくせないほどの争いに巻き込まれた。それこそ、日本における戦後近現代史の八割が陣内崎――旧称札幌市を中心としたものであるくらいには。
1945年のポツダム宣言によって大戦は書面上は終了を告げたが、不凍港の獲得に腐心していたソ連は、同年ポツダム宣言受諾後の強襲を南樺太及び占守島において行った。これは国際条約違反の完全な掟破りだが、無理を通せば道理も引っ込む。なし崩し的に争いは継続されてしまう。
現地に駐屯していた第88師団、ならびに第91師団が奮戦するも、壊滅的損害を受け、戦線が北海道まで後退。また、この際の第88師団及び第91師団において、「能力者」の萌芽と思しき兵隊の報告があることがわかっている……らしい。
人ならざる膂力を発揮し、能く敵兵を屠る兵在り、八面六臂の大活躍。記述としてそんなふうに残っているとのことだった。
強襲に決着がついたのは1947年。米含む連合国の協力もあり、ソ連との講和が成立し、北北海道の一部の地域をソ連領とすることに合意。事実上の敗北である。
これで終わればよかったのだが、陣内崎――というよりも北海道を舞台とする争いは、さらに激化の一途をたどることとなる。
1953年、米ソ冷戦の代理戦争として、石狩平野侵攻。1955年、石狩平野侵攻の中で初めて公式に「能力者」の確認がされ、能力者たちは第三勢力「銀輪部隊」として札幌市を制圧、拠点として北海道内で行われている一切の戦争活動の中断を求める。
1959年、北海内乱――現代まで語り継がれる、所謂「内戦」の勃発。日米ソ合同軍と能力者集団「銀輪部隊」の衝突。当時の能力者は公称で一八〇〇人……現在の十分の一以下。
1964年、米ソが「銀輪部隊」の拠点となっていた札幌市を対象に、戦略核の投下を提言、実行。各国が反対しなかった背景には、増加の一途を辿る能力者たちに、首脳陣も危機感を抱きつつあったことがあげられている。
その戦略核は、今でも陣内崎を上空から見下ろしている。
理由はわからない。ただ、それが何らかの能力によるものだというのは、大方の予想だった。俺だってそう思う。物理的な干渉は不可能で、落ちてくることもない代わりに、処理もできない。あれは死のモニュメントだ。
内乱の遺物として語り継がれると同時に、能力者側に対しても、政府側に対しても、行き過ぎた排除を制止させる――もう一度あんなことになってもよいのか? と。
今のこの平穏が仮初のものであったとしても、稀有といられる時間が最大限確保できるのならば、俺は大して不満はなかった。
軋轢がないと言えば嘘になるだろう。科学では解明できない存在らしいのだ、俺たちは。利権だとか、武力だとか、そういった面倒くさいことがどうしたってついて回る。自衛のための都市。それが陣内崎のもう一つの姿。
ただし、それに輪をかけて胡散臭い話がてんこ盛りになっているのが現状でもあった。どんなことでも起こりうるとはいえ、都市伝説染みた逸話が、存在が、まことしやかに噂されている。
もしかすると俺たちが知らないだけで稀有が都市伝説扱いになっているかもしれないのだ。どんな殺人事件も解決してしまう名探偵、とかなんとか。
ありえないと思っていても、ありえるかも、と思ってしまう。
まったく厄介な都市である。
俺は本を閉じた。タイトルは「陣内崎の半世紀」。大学の講義のために買ったやつを今更もう一度引っ張り出してきたのだ。
何でそんな本を読んでいるのかと言えば、端的に暇だからである。
我が探偵事務所の主であらせられる有田稀有女史は、陣内崎市の都市伝説をまとめたゴシップ誌を熱心に読み耽っている。仕事はない。稀有に来る依頼は基本真南を経由した殺人事件の捜査なので、仕事がないほうが嬉しくはあるのだけれど。
「……」
かれこれ一時間ほど、一言も喋らない。もうそろそろ読み終わってもいいころだが、よくもまぁ集中が途切れないものだ。
殺人事件が何よりの退屈である稀有にとって、あるいはそういった人が死なないような謎こそが、探偵として最も望んでいることなのかもしれない。
人探し、動物探し、浮気調査に素行調査。派手ではない地味な、そして地道な作業を求めて、あえて稀有は探偵事務所なんぞを立ち上げたのではないか。そう思えてならなかった。
雇用主を慮るのは労働者の義務といっても過言ではない。心の隅にとどめておくことにしよう。
時計を見れば一時ももうすぐ回ろうとしていて、俺はすっかり空腹だった。
かといって勝手に食事を取ればやいのやいの言われるのは目に見えている。諦観を覚えたので、大人しくハウス。
「……」
「……」
「……」
「……楽しいのか?」
「楽しいです」
即答だった。ならいいか、ともう一度俺は諦観を発揮することに決めた。
「こないだ起こった日航ジャンボ機の墜落事故、あれも能力者のせいらしいですよ」
「それって、ただの整備不良を能力者のせいにしてるだけじゃねぇの?」
埒外の存在がいて、そのせいで何でも起こりうるのなら、当然そういうことだってあるだろう。
俺の返答が稀有にはいたく気に入らなかったらしい。ようやく雑誌から顔を上げて、
「そういうロマンのないことを言っちゃだめです。つまんない。今度言ったら解雇ですからね」
それを果たしてロマンというのだろうか?
百人規模で人が死んでいるはずの墜落事故に対して、そう言う物言いができるという時点で、やはり稀有もどこか螺子が外れているのだ。俺はそれを肯定こそしないが、否定もまたしない。
誰かをとやかく言えるほど、俺だってまともではないのだから。
「あとは……ほら、銀輪部隊が再結集ですって」
「はぁ?」
かつての内戦で政府たちと戦った能力者たち。本当に再結集したならば、殆ど全員五、六十代のはずだが。
……ていうかその記事の見出しのところ、ちっちゃく「か!?」って書かれてるじゃねぇか。
「あ、本当ですね。豪雨さんって目は淀んでるのにこういうところは目敏いんですから」
喧嘩売ってるのか、お前は。
「まさか。そんなはずないじゃありませんか」
歳に似合わぬ妖艶な微笑を浮かべて、
「愛してますよ、豪雨さん」
……まったく、男とは情けなくなるほど単純な生き物らしい。
「とりあえず見せてみろ。少し不安になってきた。検閲だ」
「いやらしいページは見てませんよ」
「知らねぇよ」
「豪雨さんも見ちゃダメですからね」
「見ねぇよ。何があんだよ」
「星屑きらりちゃんのグラビアとか」
「俺はオタクじゃねぇ」
「あ、それはきらりちゃんファンを馬鹿にした発言ですね」
まさかこいつもファンなのだろうか。
最近よく大通りのほうでファンの集いみたいなものを見るから、てっきり一部マニアをフォーカスした地下アイドルかと思っていたのだが。
あいつも出世したもんだ。
「どうかしました? 豪雨さん」
「いや、どうもしねぇよ。ほれ、取り合えず見せてみろ」
ゴシップ誌を受け取って、それをぺらぺらめくって見ようとしたとき、事務所の黒電話がけたたましく鳴り響いた。
じりりりりん、じりりりりん。
じりりりりん、と。
それは依頼の電話である。このご時勢においても、俺と稀有は携帯電話を持ち歩いていない。だから全ての依頼はこの事務所の黒電話へとかかってくる。
電話が鳴るのは別段珍しいことではないはずだった。
だのにどうしてだろう。嫌な予感がして――あぁそうだ、この感覚は昔味わったことがある。自分より強い相手に戦いを挑まなければいけないときに酷似している。
ごくり、と喉を鳴らした。自分のものかと思いきや、口の中はからからで、なら誰なのだと考えれば、残されたのは稀有しかいない。
眼が合う。互いにうなずいて、それでもなんとか受話器に手を伸ばせたのは俺。
真南からの電話だった。
密室殺人。政府要人が射殺された。
死にそうな声で彼はそう告げたのだった。
――――――――――――――――
今回はここまでとなります。
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