鷺沢文香は恋を読む (34)
文香と同棲してから半年が経った。
「ただいま」
今日は仕事が長引き、いつもより帰りになってしまった。
文香はもう寝てるだろうか。
ちら、と文香の部屋に目を向けるとどうやら部屋の明かりはついている。
しかしノックをしても返事はない。
「ふむ」
俺が帰るのを待って部屋で本を読んでいて寝落ちしたか、本に集中しすぎて帰宅に気付いてないか。
俺は音を立てないようにドアを開けて部屋の中に入る。
本棚に囲まれた部屋の中、机に突っ伏して寝ている文香の後ろ姿が見えた。
「寝落ちか」
同棲を始めてから何度となく見た光景への愛おしさに頬がにやける。
いつまでも見ていたいが、そういうわけにもいかない。
さて今日はどんな本を読んでいたのかな、と起こす前に手元を見ると、そこには本ではなく原稿用紙が置かれていた。
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文香と恋仲になる前、まだプロデューサーとアイドルの関係だった頃。
いつも本を読んでいる文香に「自分で書いたりはしないのか」と訊ねたことがある。
文香は「……自分で書くなんて……考えたことがありませんでした」と言って、それから少しずつ自分で物語を書くようになったらしい。
らしい、というのは俺は実際に文香が書いている姿を見たことがないからだ。
作品を見られるのが恥ずかしいのか、文香は人前で書くことをしない。
特に俺の前では厳重で、同棲してからも一度として文香が物語を書いているところを見たことはなかった。
……今日までは。
文香は気持ちよさそうに寝ている。
そして机の上には書きかけの原稿用紙。
さらに机の鍵付きの引き出しが開いており、見えているのはおそらくすでに書き終わった完成の原稿用紙だろう。
さて、どうするか。
親しき仲にも礼儀ありというし、隠していた作品を勝手に読むのはよくない。
もし文香が寝ているのをいいことに原稿用紙を読んだりしたら文香はどう思うだろうか。
怒るかもしれない。
拗ねるかもしれない。
怒った文香も拗ねた文香も可愛いんだろうな。
俺は引き出しの中から完成原稿を手に取った。
そこに書かれていたのはすべて恋愛物だった。
それぞれ独立した話だが、主人公は決まってアイドル事務所で働くプロデューサーの男。
相手はというと、笑顔が魅力の女子高生であったり、絵を描くのが趣味な中学生、元警官の大人の女性など話によって異なる。
まあ、つまり。
「俺たちがモデルってことだよな」
個人名こそなかったが、登場人物は事務所のみんなを題材にしているのは一目瞭然だった。
「俺は文香の恋人なんだけど、他の子とのラブストーリー考えるの嫌じゃないのかね」
フィクションはフィクションと割り切るタイプらしい。
「もうちょっと読んでみようかな」
登場人物が知ってる人だらけの話となれば、ちゃんと読んでみたくなる。
しかも自分が主人公で、事務所のアイドルたちと恋愛をしている話となれば興味がわくのも当然だ。
俺は文香が寝ているのを改めて確認して、一番端にある話から読み始めた。
最初に読んだのは、実家が花屋の女子高生と恋愛する話。
初め主人公はクールな女子高生の扱いに戸惑い、女子高生は大人の男性である主人公との距離感に悩み、お互いぎこちない関係だった。
しかし仕事中にアクシデントが発生した際に協力しあったことで壁は無くなり、それをきっかけに二人は遠慮なく会話ができるようになっていく。
『プロデューサーって意外と花の名前詳しいよね』
『意外って。確かに似合ってないのはわかるけどさ。実家にいた頃は、庭で土いじりが趣味だったくらいには花好きだぞ』
『そうなの?……それなら好都合かな』
『好都合って何がだよ』
『ううん、なんでも。ウチの花だったら好きなだけ見ていってよ』
『ああ。せっかくだし、いくつか事務所に買っていくか』
何気ない会話。
俺はその内容に少しの違和感を抱きながら、読み進める。
最後に主人公が女子高生に花をプレゼントする場面まで読んで、次の原稿用紙を手に取った。
次の話はキグルミを好む幼女との物語。
時系列は今よりも数年先のようで、俺の知る幼女とは喋り方や性格などが少し変わっている。
あの子もいつかこのように成長するのだろうかと、少し目頭が熱くなりながら読んでいく。
『なあ』
『どうしたのプロデューサー?』
『本当にラーメン屋でよかったのか?せっかくライブのご褒美なのに』
『いいの。プロデューサーのオススメのお店がいいって言ったのはあたしだもん』
『ならいいんだけどさ。ここは、俺が上京して初めて一人で入った店なんだ。それ以来何度となく通ってる』
『いいよね、そういう落ち着けるお店って。あたしも地元にいくつかそういうお店あるよ』
『随分と外食慣れしてるな女子中学生』
『小学生の頃から通ってるからね。事情は知ってるでしょ?』
『いい加減、料理覚えたらどうだ?』
『一人で作って一人で食べるのはちょっとね』
『それなら』
原稿を読み進める手が一度止まる。
「まさか、な」
俺は胸のなかにもやもやとした物が広がっていくのを感じたが、気のせいだと思うことにした。
ただキグルミ少女との話の続きはパラパラと流し読み、少し急ぎ気味に次の原稿用紙を手に取る。
次の話は、人よりも不幸な星のもとに生まれた少女と恋愛する話だ。
少女の不幸に主人公は幾度となく巻き込まれるが、しかし主人公は少女を見捨てない。
少女は主人公から強さを分けてもらい、一歩ずつ自分の不幸に打ち勝つようになっていく。
ある日、主人公は公園で少女に人生で最大の失敗について語る。
『今だから言えるけど、実は俺アイドルのプロデューサーになるつもりなかったんだ』
『え?そうなんですか!?じゃあいったい何に?』
『……アイドル』
『え?』
『アイドルになろうと書類送ったら、手違いで女性アイドル部門のプロデューサーへの応募ってことになってた。たぶん顔写真のせいだな』
『……ふふっ。あ、すいません』
『いや、いいんだ。俺も手違いを知った時は笑ってな。これは面白いって、そのまま何食わぬ顔でアイドルのプロデューサーになったんだ』
『そこで訂正しなかったんですか。じゃあプロデューサーさんがプロデューサーさんなのも、その手違いのおかげなんですね』
『そういうことだ。どうだ、よくわからない巡りあわせも楽しんでみればなんとかなるもんだろ』
『はいっ、本当に』
俺は限界がきて原稿用紙から目を離した。
違和感は確信に、そして言いようのない焦りへと変化していた。
主人公は言っていた。
土いじりが趣味だったと。
俺は誰にもそのことを言っていない。
主人公は言っていた。
上京して初めて入ったのがラーメン屋だと。
俺は誰にもそのことを言っていない。
主人公は言っていた。
本当はプロデューサーになるつもりはなかったと。
俺は誰にもそのことを言っていない。
親にも友人にも事務所の誰にも言っていない。
なら、どうして文香は知っている。
どうして文香は誰も知らないはずの俺の秘密を書けたんだ。
「……見て、しまいましたか」
「……っ!?」
いつから起きていたのか、振り返ると文香が椅子に座ったままこちらの目を見つめていた。
「あ……」
「……大丈夫ですか?……酷い、汗ですよ」
文香はいつも通りの口調で俺を心配してくれる。
いつも通りの心配が、今の俺には異様に思えて仕方がない。
声を出せないでいる俺に文香はあくまで穏やかに促す。
「……何か、私に聞きたいことがあるんですよね?」
「ふ、文香は……」
「はい」
どうしよう。
どうすればいい。
はたして聞いていいのだろうか。
聞かなければ幸せでいられるのではないか。
頭の中で悲鳴のように考えが渦巻いていく。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
泣きじゃくる子供のように心が叫んでいる。
しかし俺は聞かずにはいられなかった。
「俺が、土いじりが趣味だったことを、上京して初めて入った店を、プロデューサーになった事情を、どうして、どうして文香は知っているんだ……?」
「……それはもちろん、貴方が言ったからですよ」
「とぼけないでくれ。俺は誰にも言った憶えは」
「……言ったのは、前のプロデューサーさんですから」
「どういうことだ?」
「……そうですね。どこから、お話しましょうか」
書くことには慣れましたけど話すのはまだ苦手です、と文香は恥ずかしそうに笑う。
「……貴方は覚えていますか?本を読んでばかりだった私に、自分で書いてみないかと言ってくれたことを」
覚えている。
そして他のアイドルから文香が物語を書くようになったと聞いた時は嬉しかった。
「……あの言葉は私にとって衝撃的でした」
「……ただ本を読んでいるだけだった私を、アイドルという別世界に誘ってくれた言葉に並ぶくらい」
「別世界ではなく……今までいた世界の新しい見方を教えてくれたのですから」
「……あの言葉を聞いてから、私は自分がどんな物語を書きたいか考えました」
「いつも通り本を読みながら、どうすればこの本のように上手く書けるのかを考えました」
「……そして参考になりそうな恋愛小説を読んでいるうちにふと気付いたんです……身近にある素敵な素材に」
「……貴方です」
「魅力的な女性ばかりの環境で、男性は貴方一人。……アイドルのみんなが差はあれど、貴方になんらかの好意を持っている」
「恋愛小説としては、最高の素材だと思いませんか」
文香の話に「だから俺が主人公の物語を書いたのか」と納得が生まれる。
だが、そんなことはどうでもいい。
「それは俺の秘密を知っている理由にはならない!俺が聞きたいのは」
声を荒げる俺に、文香は怯えるわけでもなくただ申し訳なさそうな顔をする。
「……飽きさせてしまいましたか。やはり書くのと話すのでは違いますね」
「要点をまとめる、というのはまだ私には……難しいようです」
「……すいません……もうしばらくお待ちください」
「すぐに……ネタばらしはしますから」
文香は一度深呼吸をして、また語りだした。
「……私は貴方の……いえ、プロデューサーさんの恋愛をもとに物語を書くことを決めました」
「プロデューサーさんがアイドルの女の子と食事に行った話や……買い物に付き合った話……」
「事務所にいるだけで入ってくる色々なアイドルとのウワサをできるだけ集めて……書き記しました……」
「……それらを題材にすれば……きっと素敵な恋愛小説を書ける、そう思っていたんです」
「……しかし現実は厳しく、私が書くのは物語にもならない駄文ばかり」
「……そうやって日々を過ごしていく中、ウワサには急展開がありました」
「……プロデューサーさんが告白されて、その告白を受けたというウワサが広まったのです」
「……プロデューサーさんはついにある一人のアイドルと結ばれることとなりました」
「……私がもたもたしているうちに……ハッピーエンドが訪れたのです」
「私は急いでそれまで集めたウワサをもとに、原稿用紙に物語を書きました」
「……一人のプロデューサーとあるアイドルの恋愛を描いた物語です」
「ほぼノンフィクションとはいえ、我ながら上手く書けたと思う出来でした」
「……自作という愛着もあり、何度も読み返してしまうほどに」
「ついに私は満足のいく一冊を書けたのでした」
「……しかし読み返せば読み返すほど、私は考えてしまいます」
「他の話も読みたかった、と」
「……貴方の人生は一回だけ。貴方の人生をもとに話を書いても、本棚に増える本は一冊だけ」
「……それはあまりにも……もったいない」
「……ほんの少しの巡り合わせが違うだけで、貴方の人生は大きく変わるというのに」
「読みたい」
「貴方の物語を読み尽くしたい」
「書きたい」
「貴方の物語を書き尽くしたい」
「私の物語に対する渇望は原稿用紙に涙を落とすほどでした」
「もはや自分でも制御できない願いを心の中で叫び続けたある日のことです」
「私の手元に魔法が現れたのです」
文香はそう言って机の引き出しの奥、原稿用紙の束に隠されていたスペースから一冊の厚い本を取り出した。
「その本が、なんだっていうんだ……?」
戸惑う俺に文香も困った顔をする。
「そうですね……なんと説明したらいいものでしょうか」
少し悩んだ末、文香は納得のいく答えができたのか軽く頷いてみせた。
「……確か貴方は子供のころ、隣の家に住む友達と毎日のように遊んでいたんですよね。その子の家でお母さんに呼ばれるまでゲームをしていた時期もあったとか」
また一つ、文香は文香が知らないはずの話をする。
俺のことをなんでも知っているかのように笑いながら。
「でしたらこう言えばわかりやすいでしょうか」
「これは……冒険の書です」
冒険の書。
俺が子供の頃遊んでいたゲームにでてくる、いわゆるセーブのシステムだ。
冒険の書に記録をしておけば、ゲームの電源を切ってもまた記録をした時点からやり直すことができる。
でもそれはゲームの話だ。
「そんなものあるわけが」
「この本は」
俺の言葉を遮って文香は本の中身をパラパラとめくって見せる。
「この本は……毎日を嘆きの中で過ごしていたある日……目が覚めたら、机の上に置かれていました」
「覚えのない本に不思議がりつつ……中を読んでみると、それは日記でした」
「……私がアイドルになってから……貴方に物語を書くことを勧められたあの日までの出来事が記されていたのです」
「……私はこの不思議な日記を読みながら思いました」
「……もしこの日記のように、あの始まりの日から先がまだ真っ白であったのなら」
「……これから自由に文字を書き込めるスペースがあったのなら」
「……今度は、違う物語を書くのにと」
「ああ、あの日に戻りたい」
「……ため息とともに一度本を閉じた私は奇妙な感覚に襲われました」
「……ぐにゃりと、立ちくらみにも似た感覚」
「……そして気が付くと……私は過去にいたのです」
「過去、だと……?」
もはや俺には文香の話が何一つ理解できていなかった。
しかし文香はそんなことお構いなしに、話を止めることはない。
もはや文香は俺のことを見ていない。
「……はい。正確にはその時戻りたいと願っていた……日記の最後に記された日です」
「……この本は過去に戻れる本でした」
「……この本を持ちながら、戻りたい日を思い浮かべます」
「……そのまま本を開くと、アイドルになってから思い浮かべた日にちまでが書かれた状態となります」
「……そして日にちを確認し、もう一度戻りたいと願ってから本を閉じると奇妙な感覚と共にその日に戻ることができるんです」
「……まさに、魔法の本だと思いませんか」
「……この本は私の願いを叶えてくれました」
「……何度も考えていたんです」
「あの時……プロデューサーさんがあの子より先に、この子に声をかけていたら」
「あの時……あのアイドルが、他の子よりもプロデューサーさんとの巡り合わせがよかったら」
「プロデューサーさんが恋愛する相手は変わったに違いない」
「……もしも過去に戻れたなら、そのもしもを実現させて……まったく別の恋愛物語を見ることができるのに、と」
「願いは叶いました」
「ある時は、誰よりもカワイイと自信を持つ女の子と恋に落ちるように誘導したり」
「またある時は、ボーイッシュな女の子が貴方を男性として愛するようになるまで何年か待ってみたり」
「他にも、野球とお酒が好きな女性と一線を越えるようにセッティングしたりもしました」
「どれも素敵な物語でした」
「読みごたえも書きごたえもある……宝石のような恋愛物語ばかり……」
「……もちろん、貴方はそんなこと覚えていないでしょうけれど」
恍惚とした表情で語る文香の言葉一つ一つが頭を殴るような痛みを与えてくる。
つまり、どういうことだ。
文香は俺がアイドルと恋愛する様子を見たいがために、何度も同じ時間を繰り返していたというのか。
文香の机の中にあった原稿用紙の数だけ、俺は異なるアイドルと恋愛をしてきたというのか。
それらがすべて文香の誘導によるものだったというのか。
教えてくれ文香。
「今の俺は、お前にとってなんなんだ……文香……?」
文香は俺の言葉に目を見開き、少し俯く。
その仕草に俺の知る鷺沢文香を見つけた気がした。
気がしたが、それは間違いだったとすぐに気付く。
髪で目が隠れた文香の口元は笑っていた。
「もちろん貴方は、本が好きで好きでたまらない女性と恋愛をした主人公ですよ」
今回は、と付け足し文香は開いた本を傾けて中を見せてきた。
そこに記されていたのは、始まりの日。
文香に物語を書くことを勧めた日の内容だった。
「……貴方と恋愛した日々は面白いものでした……自分で体験したからでしょうか」
再び視線を上げた文香の台詞は楽しんで読んだ本の感想で。
「……文章に起こす際に、日記みたいにならないよう注意しなくてはいけませんね」
次のことを考える作家の独り言で。
「……それではプロデューサーさん、次のお話も期待していますね」
別れの言葉ですらない、終わりを告げる言葉だった。
「文香……!!」
「では、また会いましょう」
ぱたん、と音を立てて本が閉じられた。
「お待たせしました文香さん。何を書いているんですか?」
「……こんにちはありすちゃん。……ちょっとお話を書いているんです」
「文香さんは本を読むだけじゃなくて書くこともできるんですか?流石です」
「……そんな大層なものではないですけど……でも忘れないうちに形にしたくて」
「忘れないうち?」
「……いえ、何でもないです。では、出掛けましょうか」
「はい。あの、今日はどこに連れていってくれるんですか?」
「まだ……秘密です。でも、きっと素敵な出来事が待っていますよ」
「素敵な出来事ですか?」
「……はい素敵な出会いと物語が」
以上です。
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