『同級生の渋谷凛』 (251)

モバマスSSです。

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――転校生。


言葉の響きだけなら、美しい言葉だと思う。


転校生だから。


誰だって俺に興味を持ってくれる。


転校生だから。


誰だって、心を踊らせながら俺に話しかけてくれる。


どんな人だって、転校生なら許されるんだ。


……その時ばかりは、転校してきた直後だけは。



転校生。


本当はもっと、ハードルの高い言葉だ。


皆は俺に、期待をしている。


本当は大したことのない、ただ転勤族な親のせいで何度も何度も引っ越しを余儀なくされただけの俺に。


ろくに友達も作れない、勉強もスポーツも出来ない、ただの俺に。


転校生だから。


その言葉は、まだ小さかった俺には、重たい言葉だった。


「なんだよ、――!こんなこともできないのかよ!だっせー!」


やったこともない遊びをやらされ、それもろくに出来ず。


「また――が鬼だ!悔しかったら早く誰か捕まえてみろよ!」


鬼ごっこなんかじゃ、ずっと鬼のまま。


「――ってさ、どうして何も喋らないの?」


誰かと仲良くなる方法だって、分からない。


「お前さ、気持ち悪いんだよ。何考えてるか分かんないし、黙ったままだし」


そんな自分が、大嫌いだった。



でも、自分を変える方法すら分からない。


だから俺は、そこらの石ころになりたかった。


透明人間、でも合っているかもしれない。


誰にも気付かれない、何だとも思われない、そこにいるけどいないような存在。


無理に誰かと関わろうとして、失敗するくらいなら。


その方がずっと、居心地が良かった。



……その時までは。


俺が、たった一人の少女に出会うまでは。



教壇に立って、クラスを見渡して。


誰も知っている人がいなかったのは、なんだか安心すら覚えた。


そりゃあそうだ。今年の三月に、引っ越したばかりだから。


もしかしたら、今度こそ上手くいくんじゃないか。


そんな希望を持っていたのは、いつの話だっけ。


「――です。よろしく、お願いします」


下手に関わって失敗するくらいなら、最初からやらない方がいい。


最初から、俺はいないもの、路上の石みたいなものであったほうが、気が楽だ。


スタートダッシュに失敗した転校初日を。


仲間外れどころか、最初から入れてもらえなかった屈辱を。


小学校で、中学校で、何度繰り返してきたんだっけ。


もう、転校生だから、と変に期待されるのは嫌だ。


誰にも気付かれないままでいい。どこにも、自分なんて存在しなくていい。


適当な挨拶を終えて、そそくさと自分の席に戻って、机に顔を突っ伏して。


早くこの時間が終わらないものか、と思っていた。















「……渋谷凛。よろしく」














たった一言の自己紹介。


思わず、顔を上げた。


教壇に立っていた、一人の少女。


目と目が逢って、彼女はふっと笑い返す。


凄いな、と思った。


何故か分からないけれど、俺は惹かれていた。


周囲の男子達はきっと、一斉に同じことを考えていたと思う。


席に戻るその姿に、じっと見とれていた。


そんな自分に気付いて、何だか申し訳なくなった。




彼女はがらがらと椅子を引いて、座った。


ああ。


彼女、俺の後ろの席だったのか。


それすら、忘れていた。


――――


それから、しばらくして。


部活動の勧誘だったり、委員会の話だったりを避けて。


遠い街の出身だという物珍しさから話しかけてくる連中を、邪険に扱って。


少しずつ、俺はクラスから浮いていった。


関わるだけ面倒だ。


きっと皆だって、そのうち無理に俺に触れなくなる。


それでよかった。心地よさすら、覚えるくらいだ。



けれど、お一人様は二人いた。


こんな言い方は失礼だけど、もう一人は彼女。


渋谷凛、だった。


でも、多分、俺とは違う。


同じ一人ぼっちでも、彼女と俺は、まるで違う。


そんな気がしていた。


「ねぇ渋谷さん、サッカー部のマネージャーに……」


「いや、野球に興味ない?今マネージャー募集してて……」


と群がる男子達を、


「……ごめん、あんまり興味ないかな」


一刀両断。


「渋谷さん、バスケとか興味ない?一緒にやろうよ!」


「バスケよりもさ、テニスとかどう?」


それを見てここぞとばかりに駆けつけた女子達でさえ、


「……今はどこかに入る気、ないんだ。ごめんね」


あえなく撃沈。


言うなれば、孤高の存在。


そんな雰囲気が滲み出ていた。


彼女はクラスから浮いている、という訳ではないみたいだ。


ただ、どこか皆との距離を測れていないように見えた。


気持ちの悪い話だが、彼女を見ていてなんとなくそうだろうなと思った。


ずっと見ていたわけではなくて、耳に入ってくる話なんかを、まとめた結果だけど。


部活動の勧誘を断った後も、


「……少し、愛想悪かったかな」


と呟いていたのが聞こえた。


彼女なりに、気にしているのだろうか。


せめて表情が分かれば、と思ったけれど。


後ろを振り向く勇気なんてものが、俺にあるはずもなく。


しばらくして、彼女の事を頭の中から追い払う。


ポケットから伸びたイヤホンを付けて、流れ出すギターリフに耳を傾けながら。


――――


部活動勧誘の期間も終わって、少しずつ夏が近づいてきた頃。


とっくに俺は、誰とも関わらないような生活を送っていたけれど。


ひとつ、クラスを劇的に変えたニュースがあった。


渋谷凛が、アイドルとしてデビューすることになった。


クラスは騒然。当たり前だ。


まさかクラスにアイドルが誕生するとは。ほんとうの意味で。


彼女の最初の記者会見は、その日のホームルーム。


誰もが驚いた。当然、俺だって。


「これから私は……クラスに居ることが少なくなるかもしれないけど、よろしくね」


皆が彼女を拍手で受け入れる。


俺は……そっと、目を逸らした。


アイドル宣言から一週間くらいして、少しずつ彼女は学校を休み出した。


クラスのうるさそうな連中が担任を問いたすと、


「渋谷はアイドルとしての仕事が入ったそうだ」


もうアイドルなんだ、すごい、とか。


いないと華がないな、とか。


そんな声がちらほら。



俺にとっては、どうでもいい事だけど。


彼女がいようと、いまいと、変わらない。


変わりのない、つまらない日々。


ただ過ごすだけの時間。


彼女とは、きっと世界が違うのだから。


本当に、文字通りの言葉になってしまったけど。


彼女は少しずつ、授業を休む頻度を増やしていった。


週に一度から、週に二度に。


授業を受けていても、昼からとか、二時限目からとか、途中で抜けるようになった。


それからしばらくすると、男子達の間で彼女が話題に上がった。


どうやら彼女が雑誌か何かに載ったらしい。


高校生と言っても、なんか、子供みたいだな。


純粋に、そう思った。



「渋谷さん、見たよこれ!」


本人に雑誌を見せつける奴がいた。


あんまりいい顔をされないと思うんだけどな。


「見てくれたの?ありがとう……恥ずかしいな」


彼女は、笑っていた。


その日の放課後、帰りに寄り道をした。


入ったことのなかった、ビルの一角にあるレンタルビデオ店。


目的は、併設されている本屋だけれども。


男性向けのコーナーを見渡していると、果たしてそれはあった。


表紙を飾る、アイドル達。


彼女達がトップアイドルだという事くらいは、芸能に疎い俺でも分かる。


表紙の隅に入れられた煽りには、


『今をときめく新人アイドル特集!』


なんて字が、それらしいフォントで踊っていた。


一冊手に取って、開いてみる。


巻頭の綴じ込みポスター。表紙の子達の水着姿が写っている。


ぱらぱらと捲ってゆくと、彼女達のインタビューに差し掛かった。


日常生活や趣味、恋愛事、などなど。


俺でも聞けるんじゃないか、と思うような質問ばかりだ。


しばらくして、雑誌を捲る指が止まる。




『期待の新人アイドル、渋谷凛に――』




そんなゴシック体が、これでもかと大きく載っていた、と思う。


渋谷凛。


その名前を見つけた瞬間に、手が、頭が、固まった。


まるで、雑誌からのすべての情報を、シャットアウトするように。


突然、心臓が破裂しそうな程に脈を打ち始める。


それ以上は見てはいけないと、言わんばかりに。


それからは、よく覚えていない。


家に着いた時には、雑誌はどこにもなかったので、買わなかったんだと思う。


『期待の新人アイドル、渋谷凛に――』


あのゴシック体が、フラッシュバックを起こす。


ああ。本当に彼女は、アイドルなんだ。


実感は、ない。


彼女がどんな衣装を着て、どんな歌を歌い、どんなダンスをするのか、想像は出来ない。


本当に彼女がアイドルなのかさえ、分からない。


でも、あの雑誌が全てを語っている。


彼女は、渋谷凛は――アイドルなのだと。


目眩のような、頭痛のような痛みが、ずきん、と響いた。


彼女がアイドルを始めてから、しばらく経った。


学校に来るのは、週に一度くらい。


休み時間になると、他のクラスからも人が群がった。


皆に囲まれて、少し大変そうだな、と思った。


けれど、一番大変なのは俺だった。


彼女の前の席。


我先にと集まった連中のせいで、うるさくて仕方がない。


早く休み時間が終わらないものか。


机に突っ伏して、じっと待った。



連中に混じって彼女に話しかけようかとも、思ったけれど。


そんな勇気が、あるはずもなく。


時間だけが、腹立たしいほどゆっくり流れてゆく。


――――


「ねぇ、――」


彼女と初めて話をしたのはその日の放課後で、


のろのろと鞄を背負って帰ろうとしたその時だった。


他に誰もいない、二人きりの教室。


「……何?」


これが初めての会話だったのに、ぶっきらぼうに返してしまったな、と思った。


でもぶっきらぼうなのはお互い様だろうな。


「今、暇?」


「え」


ぽかん、と口を空ける、ってのはこういうことなのかもしれない。


何を言っているんだろう。


俺には、すぐには理解できなかった。


彼女はただ、まっすぐこちらを見つめている。


「暇なの?それとも用事ある?」


「いや、ない……けど」


詰め寄られているように感じて、すこし言葉を濁してしまった。


そっか、と彼女は笑って、席につく。


「暇なら勉強、教えてほしいんだけど」


「……は?」


勉強?


俺が?


彼女に?


「どういうこと?」


「どうって、そのままの意味だよ」


休んでた分の勉強を教えてほしい、彼女はゆっくりと、しかしはっきりと話す。


じっと、俺の目を見つめて。


「……なんで」


「?」


なんで俺なのだろう。


俺より頭のいいやつだっている。


それに、教えてもらうなら教師に頼むのが先だろう。


どうして、俺なんかが。



しばらく彼女は視線を外に向けて、ぼんやりと考えた素振りをしながら。


「放課後はみんな、部活動とかで忙しいでしょ」


なんて、振り返ってみせた。


「それに先生たちだって忙しそうだったし……」


とにかく、俺にしか頼めない、みたいなことを言っていたように思う。


彼女の言葉は、俺の耳の中に入り込んでは、すっと抜け出して行って。


どうしていいのかが分からなかった。


本当に、いいのか?


彼女は駆け出しとはいえアイドルだ。


確かにアイドルにスカウトされるだけあって、すごく、美しいと思う。


整った顔立ち。少しだけ色の褪せたロングヘア。時々顔を覗かせる、耳のピアス。


どれもが複雑に、そして見事に『渋谷凛』を作り上げている。



一方の、俺。


頭も悪く、運動も出来ず、顔も良くない、何の取り柄もない、そこらの石ころみたいな奴が。


彼女と、二人きりで勉強?


どうして、俺なんだ。


分からない。


何も、分からなかった。


彼女の気持ちも。



自分の気持でさえ。



「……わかった」



何も分かっていなかったのに。



「そう、ありがと」



「まずは……数学から教えてほしいな」



俺は、頷いていた。



彼女の微笑んだ顔は、あまりにも眩しすぎて。



つい、視線を逸らしてしまった。


――――


それから。


週に一度ほどの、小さな勉強会が始まった。


彼女が休んでいる間に書き溜めたノートを出して、要点を教えて。


補修用のプリント問題を一緒に解く。


そんなに時間のかかる内容でもなく、下校を告げるチャイムが鳴るよりも前に俺達は帰路につく。


交わす会話は、二言三言。


問題の解き方や、数式の要点。


何とか頭の中で噛み砕いて伝えると、彼女は頷きながらノートを取る。


自分の机を彼女の机と合わせて、二人ぼっちの教室。


シャープペンシルがノートの上を走る音だけが、響く。


不思議と、居心地のいい時間だな、と思った。


気付けばお互いに時間を忘れて勉強していることもあった。


「ここは?」


「……絶対値の中身を場合分けして考える。それだとx-1と1-xの場合があるだろ」


「分かった。ありがと」


時々、クラスの連中や担任がクラスを訪れることもあった。


皆はこぞって、お前喋るんだな、と笑った。


それから、彼女を見て。


「――よりも、あたし達の方が教えるの上手だと思うよ?」


「困ったら先生を頼っていいからな?」


悪意がない言葉が、痛い。


けれどそういう時、決まって彼女は、


「いえ、私から彼に頼んだことですから」


と、俺を庇ってくれた。


いや、多分庇うつもりでもないんだろう。


彼女の、本心。



本当に、そうなのか?


分からない。


けれども、その言葉だけで十分だった。



その言葉だけが、俺を放課後の教室に導く。


ここにいる許しを得られたような気になって、気持ちが舞い上がるのだった。


――――


高校に上がっても、席替えという面倒なイベントがあるんだな、と思った。


そんなものでワクワクしていたのは小学生の頃までだった。


誰が隣になるのだろう。うるさくなければいいのだが。


調子に乗っているような男子や、自分はモテると自信を持っているような女子。


そういったのと隣や近くにはなりたくない。


なにもなく過ごせるかどうか、それだけが頼みだった。


別に騒がしくもないのなら、どこだって構わない。



と、思ったけれど。


「なんだよ、またお前渋谷さんの前かよ!」


「ズルしてんじゃねーの?」


この時ばかりは神様の存在を信じた。


まあ、半ば疫病神だったけれど。


本人が不在のうちに決まった席替え。


「あれ、席替えしたんだ」


当の本人がご登校。


皆が口々に、――の後ろだよ、なんてもてはやした。


「そうなんだ。またよろしくね」


軽く会釈をして、終わり。


周りも期待はずれだと知るやいなや、解散。



偶然か必然か、よく分からないものに左右されて。


また俺は、短い時間を彼女と共にすることになる。


勝手に思っているだけ、だろうけど。


昼間はひたすら授業を聞き、週に一度の放課後に勉強を教える。


そんな日々が終わりを告げる。


何の事はない、ただの夏休みだけれど。


一ヶ月ほどのぽっかり開いた時間。


することもなくて、とりあえず、勉強をしていた。


「次も、よろしくね」


彼女の言葉が、延々とループする。


彼女の期待には、答えられているのだろうか?


分からない。


分からないからこそ、そうだと思い込んで、シャープペンシルを走らせた。


闇雲に、がむしゃらに。


部屋のスピーカーから流れる歌。


父の趣味のCDを、勝手に借りていた。


まだ、歌詞は上手く聞き取れていないけれど。


聞いていると落ち着く、そんな気がしたから。



ふと、ペンが止まった。


今まで、一人で勉強をしたことはなかった。


昔から頭のいいほうではなかったし、努力する気力も、引っ越したどこかに置いてきてしまった。


しかし今では、教室で机を二つ挟んだ向こうに、彼女が。


渋谷凛が、いる。



トラックが変わり、ゆっくりとしたナンバーが流れる。


スタンド・バイ・ミー。


そばにいてくれ、みたいな意味だったっけ。


しばらくして、ラジオを付けた。


なんとなく、誰かの言葉が聞きたかったから。


スピーカーの向こうの、他愛のない会話。


聞き流しながら、ノートへと向かう。



つもりだった。


『それでは、次の曲を。新進気鋭のアイドル、渋谷凛でNever say never……』


「っ!」



思わず、電源ボタンへと手が伸びた。


あまりにも焦りすぎた結果か、手がぶつかってラジオが宙を舞った。


ぐしゃ、と音を立てて落ちる。


電池が外れて、ラジオはその口を固く閉じた。



「……なんなんだよ」


自分でも、分からない。


じわじわと伝わってくる鈍い痛みが、ますます頭を混乱させていった。


――――


二学期が始まった。


単に季節が秋へと向かった、といったくらいにしか実感はなかった。


いつだって、なんだってそうだ。


これは全部、どこか遠くの世界での出来事。


俺は、ただそれを遠巻きに見ているだけ。


まるでこの世界に、俺はいないかのように。


ずっと、そう思ってきた。


どれも自分には関係のないこと。


そのはずだった。



「……今日はきっと、休みなんだ」


自分の中にあるこの渦は、何なのだろう。


そんなことさえ、知らないふりをしていた。


一週間。


二週間。


ついには、一ヶ月。


彼女は学校に顔を見せなかった。


どうしたんだろう。


アイドルとしての活動が、忙しいのだろうか。


それとも、何かあったのだろうか。


俺達に心配をかけさせまいと、黙っているだけで。



彼女は、大丈夫だろうか。


確認を取りたかったけれど、彼女の電話番号もメールアドレスも、持っていないことに気付く。


どうして、持っていないんだろう。


少しだけ、今までの自分を悔やんだ。


流石に、クラスメイト達も怪しく思って、ホームルーム中に先生を問い詰めた。


アイドルとしての活動が忙しいらしい、といった具合にしか知らされていないらしい。


どういうことだろう。


誰にも理由を知られることなく、彼女はずっと、学校を休んでいる。


おかしいな、流石に誰もが感じていた。




放課後の小さな勉強会も。


そこでの他愛のない話も。


彼女とのつながりが、消えてしまったかのように、思えて。


体の奥底から沸き上がる恐怖を。


喉へ、口へと迫る酸っぱい何かを。


ぐっと、押さえ込んでいた。


しばらく経った、ある時。


彼女が学校に現れたのは、今にも降り出しそうな曇天の日だった。


「渋谷さん、大丈夫だった?」


「うん。少し、忙しかっただけ」


「そっか。やっぱアイドルは違うなぁ」


また、俺の机は取り巻きに占領されそうになっていた。


彼女は、以前と変わらない笑顔を見せていたように、見えた。



皆は気付いているのだろうか。


ふとした瞬間に見せる、笑顔の影。


小さな綻びだったのかもしれない。


けれどそれは、はっきりと見えた。



彼女は何か、隠している。



放課後。


「あのさ、渋谷」


こんなにも勇気を振り絞ったのは、いつ以来だろう。


初めて、こちらから声を掛けた。


少し声が裏返ったように思えて、恥ずかしさと胃液がこみ上げるのが分かった。


「……ごめん」


まだ、何も伝えていないのに。


たった三文字の言葉が銃弾となって、胸を、頭を、心を貫いていった。


彼女は、さっと鞄を抱えて教室を飛び出した。


そのまま、固まったように動かない俺を残して。


やっとの思いで、教室を抜けだした。


俺は、きっと彼女を追いかけていたんだと思う。


もしかしたら、それは。


思い違いであってほしかった、何かを。


確信に変えるためだったのかもしれない。



だって。


俺は。


俺は。


彼女の、ことが。













「お疲れ様、凛。どうだった」



「……別に。早く行こう?」











……あれは、誰だろう。


ぱっと見て二十代くらいの、スーツの男。


彼女は、渋谷凛は、彼と一言二言の言葉を交わして、車へと乗り込んで。


そのまま、どこかへと消えていった。



呆然と、立ち尽くす。


ゴロゴロと鳴り出した雲が、雨を吐き出した。


勝手なことをするなよ、と思った。


何もなかったように、俺は帰路に着く。


けれど、傘を持っていなくてよかったと、どこかで感じていた。


それからの一週間は、泥のような日々だった。


何をしたのか、何があったのかさえ、思い出せない。


全てがどうでも良いことのように思えた。




あの男は、一体誰なのか。


仕事上の付き合い?


それとも?




そして、彼女は。


どう、思っているんだろう。


やはり俺には、分からなかった。


――――


ある日を境に、彼女はまた学校へと現れた。


駆け寄った皆から、口々に心配の言葉をもらっていた。


「大丈夫!?ライブ中止だったって聞いたけど……!」


「平気だよ。ちょっと体調が良くなかっただけ」


それは、初耳だった。


体調不良?


ライブ中止?


あの、彼女が?


「……どういうことだよ」


声にすらならない音は、喉のあたりをぐるぐると回って、頭の中に帰ってゆく。


言葉は耳からは消えても、頭からは消えてくれなかった。


その日の放課後、ぽつりと声が浮かんだ。


「ねぇ、――」


俺ひとりに向けられた彼女の声。


それを聞いたのは久しぶりだった。


懐かしい響きだな、とすら思える程に。


「……なんだよ」


「また、勉強教えてほしいんだけど」


その声は、どこまでも普通だった。


不気味なまでに、今までと同じ、あの声が。


彫刻刀で、少しずつ削ってゆくように。


彼女の声が、心を抉る。


エメラルドグリーンの瞳が、ふっと揺れた。




「……ごめん」



何をしているんだろう。



違うんだ。



そうじゃないんだ。



でも。



でも……。








俺は……彼女から。



渋谷凛から、逃げ出してしまった。







――――


こんなに重い足取りの登校は、初めてだろう。


小学生の時に、無理に皆と仲良くなろうとして失敗した次の日よりも。


中学生の時に、クラスの女子と付き合っている、という根も葉もない噂を流された次の日よりも。


それでも、足を止めることはなかった。


まるで、亀のような足取りだったけれど。


結果的に目的地に着くのなら、それでよかった。




今日からまた、つまらない日々が始まる。


何の価値もない、ただ時間を潰すだけの生活。



俺は一体、何をしているんだろう。



チャイムの鳴る十分前には、教室に着いていた。


いつも通り、だった。


重たかったのは心だけで、足取りは普段と変わりなかったらしい。


足取り、だけは。



「おはよう、――」


「……っ」


後ろの席の、彼女。


挨拶を交わしたことは……これが、初めてだった。


「……お、おはよう」


彼女は、笑っていた。


俺は……笑い返すことが、出来なかった。


次の日も、その次の日も、彼女は学校に来た。


彼女を取り巻く連中は、こぞって彼女を問いただす。


「私だって高校生だよ。皆みたいに、学校生活してみたかったし」


周囲と仲良く話しているのを尻目に、俺はずっと、一人考えていた。


彼女はどうしたのだろう、と。


アイドル活動に関して、何かあったのだろうか。


それから、あの男は。



答えを知っている本人は、俺の後ろにいる。


机ひとつ分の距離。


それは果てしなく、遠い。


彼女が学校に来るようになってから、数日。


少しずつ、彼女をちやほやする生徒達はいなくなっていった。


その方が特別扱いされていないみたいで、いいと思うんだけどな。



そして、とある日の放課後。


また、二人きりの時間が訪れる。


なんとなく、そうしたかったというか。


そうするべきだと感じて、俺は教室に残った。



「なんだか、久しぶりだよね」


本当に、いつ以来だろう。


教室は少しずつ、茜色に染まってゆく。


「……あのさ」


彼女は、静かに聞いてくれていた。


「前にさ、見たんだ。渋谷がスーツの男と車に乗るの」


その先を切り出す言葉に詰まっていると、


「……もしかして、プロデューサーかな」


きょとん、とした顔、だったんじゃないだろうか。


プロデューサー。


つまりは、彼女の上司?


「ううん、一緒に仕事する……仲間、みたいな人」


あれで、いい人だよ、と付け加えた。


そう言われても、見たことはあの時の一度だけだけれど。


「私も、聞いていい?」


おう、と返す言葉は、やはりぎこちなかった。


「なんで、勉強教えてくれなかったの?」


あくまでも、純粋な疑問。


咎めるつもりも、なにもない、ただの質問だった。


けれど。


どうして、こんなにも苦しい気持ちになるのだろう。


こんなにも、つらい気持ちになるのだろう。




分からない。


分からない、けれど。


「……俺は、渋谷から逃げたんだ」


分かろうとしなければ。


「その、プロデューサー……って人と、渋谷がいたのを見て」


知ろうとしなければ。


「見ちゃいけないところを見たのかなって、思って」


「渋谷になにかあったのか、それとも渋谷とその男が……そういう関係、だったのか」




「……とにかく、どうしていいか、分からなくなったんだ」


何も……変わらない。


何も、変えられないのだと。



「そう、だったんだ」


その日俺は、初めて彼女の笑顔を見ることになる。


「プロデューサーとは、何もないよ。確かに信頼できる人だけどね」


「……なんだ」


「……そんなに、心配してくれてたんだ?」


そうだったのか。


ずっと、俺は。


「くくっ」


「あははっ」


ひとしきり、お互いに笑い合って。


「俺の勘違いで、一人相撲じゃないか」


「そうだね」


俺は、初めて彼女と向き合った。


「そういえば、アイドルはどうなんだ」


ああ、と思い出したように、彼女は手を叩いた。


「……今、少しだけお休みしてるんだ」


「そっか」


驚きは、それほどなかった。


何故なら、彼女は。


「……分からなくなったから。だから、お休みしてるの」


彼女も、俺と。


同じだったから、なのかもしれない。


「――になら、話してもいいかな」


高校に入ってすぐに、彼女はスカウトを受けたらしい。


元々興味があった訳ではなかったけれど。


何かが変わるんじゃないかと思って、彼女はアイドルになった。


「信じてみたくなったから、かな」


その、プロデューサーという人の、熱意を。


なんとなく、感じ取ったからだそうだ。



デビューしてすぐに雑誌に載ったり、数ヶ月でCDを出したりと、滑り出しは順調だった。


シンデレラガール総選挙、という人気投票に、デビュー数ヶ月で入賞を果たす程の快進撃だったそうだ。


けれど、しばらくして彼女は壁にぶつかった。


思うように伸びず、少しずつ焦りだして。


そうして、プロデューサーが提案したのが単独ライブだったという。


大きな舞台を経験することで、何か変わるんじゃないかと彼は思ったのだろう。


「でも……それでも、ダメだったんだ」


結局思うように行かず、彼女はライブを中止させた。


周囲からは時期尚早だったんじゃないかなどと、散々言われたそうだ。


アイドルは続けるけれど、少し考える時間が欲しくて。


彼女は今、学校に通うことを選んだ。


「アイドルを始めた時から、分かってたけど……やっぱり、憧れてたんだね」


少しの間だけでも、普通の女の子で居たかったのかもしれない。


自分を、見つめなおすために。


「……そっか」


アイドル、という肩書。


その重圧は、彼女にしか分からない。


「ずっと誰にも話せなかったけど、――なら聞いてくれると思ってたんだ」


一人で、抱え込んできた言葉の数々。


アイドルとしての渋谷凛と、高校生としての渋谷凛。


その狭間で、彼女はずっと、悩んでいたのだろう。


渋谷凛は……一体、誰なのか、と。


「……どうして、俺だったんだ」


人差し指を口に当てて、少し悩んだ後に。


「なんとなく、かな」


困ったような笑いを、浮かべていた。


「誰か話せる人、他にいなかったのかよ」


「いるよ。うちのハナコとか」


思わず聞き返すと、スマートフォンから一枚の写真を見せてくれた。


「犬じゃないか」


「家族だよ」


確かに、家族だろうけど。


言葉に詰まったのを見て、くすくすと笑われた。


「やっぱり、俺しかいないじゃないか」


「ふふ、そうかも」


張り詰めた思いも、すれ違っていた心も、全て洗い流すかのように。


いつまでも、いつまでも笑いあった。



「……ありがとう、――」


どういたしまして。


言葉が裏返らなかったことに、俺は安堵していた。


一旦ここまで。後日再開します

俺はニコ動にある「うちのクラスの天海さん」を思い出したなあ
あれは『クラスメイト』と言う距離感のまま、淡い片想いで終わったけど
これはどうかな

では、再開します。


――――


週に一度、または二週に一度。


部屋でぼうっとラジオを聞いている時や、布団に入った直後に。


俺の携帯は着信を知らせるようになった。


いつ学校に来れるかも分からず、このままでは不便だから、と彼女が教えてくれたアドレス。


すぐに携帯を開いて、確認。


いつ来れるかと勉強の範囲だけが、簡潔に記されていた。


了解、とだけ返信。



たったこれだけのやりとり。


本当に伝わっているのだろうか、と心配にはなるけれど、これで十分。


それ以上に、言葉はいらなかった。


「それじゃ、80ページからお願い」


「おう」


こちらからメールを送ったことは一度もないし。


電話番号も貰ったけれど、もちろん掛けたことはない。


それでも不思議な、繋がりのようなものを感じる。


彼女の迷惑になりかねないから、こちらからの連絡は未だないけれど。


「これ、どうやって求めるの?」


「……考えられる全部の組み合わせを書き出して、当てはまるものの数を求める」


止まっていたシャープペンシルが、また走りだす。


「わかった」


さらさらと書き出される記号の羅列。そのいくつかに、二重線が引かれてゆく。


合ってる、と彼女。


合ってる、と返した。


そんな日を求めて、待ち望んで。


彼女のいない教室で、ノートをきっちりとまとめてゆく。


笑われないように、乱雑な字はなるべく控えるようにした。


それでも以前、


「急いで書いたの?」


なんて、聞かれたけれど。



一度、彼女のノートを見せてもらったことがある。


内容はほとんど俺のノートを写しているから、中身に大差はない。


でも、流石だな、と思うくらいには、癖のない綺麗な字が並んでいた。


「そうでもないと、思うけどね」


これでも急いで書いてるよ、なんて言われてしまって。


ただ、肩をすくめるばかりだった。


――――


そういうしているうちに、春を迎えた。


なんの偶然か、やはり彼女とクラスは一緒だった。


それも、出席番号はひとつ違い。


またも神様の存在を信じざるを得なかった。


「また一緒なんだ。よろしくね」


「お、おう」



新しい学年。新しいクラス。


相変わらず彼女としか話さない生活だったけれど、それでよかった。


何も変わっていないかもしれない。


それでも、だった。


彼女は、少しだけ変わったように見えた。


プロデューサーに話を通したらしく、週に何度か、学校に通えるようになったそうだ。


レッスンも落ち着いて、今は普段より忙しくない時期だと聞いた。


彼女に会えるとあって、以前に増して休み時間に人だかりができるようになった。


雑誌なんかを片手に皆が、彼女を取り囲む。



あの日から、彼女はアイドルとして成長を重ねているらしい。


昨年の末には小さなホールながらも単独ライブを行い、無事に成功させたと聞く。


「あ、本当だ……ふふ、こんな風に写ってたんだね」


だからだろうか、前よりも笑うようになった、気がする。


相変わらず囲まれて、大変そうだけど。


――――


「……ごめん、書くもの貸して」


ある日の放課後、スマートフォンを耳に押し当てながら彼女はそう言った。


咄嗟の事に驚いたけれど、急いで筆箱からシャープペンシルを渡した。


普段から使っている、ラメの入った蒼色のペン。


少々男が使うには恥ずかしいデザインかもしれない。


けれど、これが一番気に入っているペンだ。


「ふーん、蒼か。いいね」


彼女はしばらくペンを見つめてから、片手で器用に手帳をめくってメモを取る。


日付と場所が記されたのを見て、そっと目を逸らした。


「うん、うん……え?」


聞いてないよ、とマイクの向こうに伝えたけれど。


何度か頷いたのちに、分かった、とこぼした。


「ごめん、――。急にお仕事、入っちゃった」


「……いいよ。仕方ない」


慌ただしく手帳をかばんに入れ、彼女は教室を飛び出す。


「また今度ね。連絡する」


「分かった」



帰る準備をしようとしたところで、気付く。


「あ、シャーペン」


そういえば、貸したまま返してもらえなかった。


あのペンの書き心地が、一番好きだったのだけれど。


「まあ、いいか」


いつかそのうち、返してもらおう。


それまでは、貸しておくことにする。


ほんの少しだけ軽くなった筆箱。


シャープペンシル一本分の隙間は、淡い期待に満たされてゆく。


けれども、ペンがすぐに手元に戻ってくることはなかった。


アイドルとしての活動が忙しくなったようで、しばらく学校を休むことになったらしい。


『ごめんね。次に会う時に返すから』


大丈夫、と答える。


使い慣れたものとは言え、ペンの一本だ。


シャープペンシルの替わりは、いくらでも手に入る。


貸したペンに替わるものは、ないかもしれないけれど。



代用として買った、新しいペン。


新品だからか、その書き心地はあまりいいものではなかった。


少しだけ、期待が胸の中で渦を巻いた。


――――


彼女の忙しい理由は、しばらくして判明する。


「ねぇ、見たこれ!?第二回シンデレラガール総選挙だって!」


「本当だ、渋谷さん出てるじゃん!」


数日のうちにクラスがざわめきだした。



第二回シンデレラガール総選挙。


そういえば昨年も出ていたと、聞いたはずだ。


「……凄いんだな、渋谷は」


それだけ、アイドルの渋谷凛は遠い、輝く世界に住んでいる。


ただの俺には、どこまでも遠い、


あまりの眩しさにずっと見ていられないほどの、別世界だった。



放課後、何時ぶりかも分からないレンタルビデオ店へと向う。


併設された本屋では、特集として一角がアイドル雑誌で埋め尽くされていた。


その内のひとつを開いてみる。


第二回シンデレラガール総選挙に向けた、各アイドルごとの特集記事が並んでいた。


こんなにたくさんいるんだな、と驚いた。



少し読み進めたけれど、知っているアイドルはあまりいなかった。


かろうじて何人か、名前だけは聞いたことのある人がいた程度。


こんな顔だったんだ、とは頭の中だけにとどめておく。


彼女の特集ページを飛ばしてぱらぱらと捲ると、指が止まった。


第一回総選挙の投票結果、と銘打たれた表。


彼女は……いた。十九位だった。


スカウトされて、数ヶ月の頃だと言っていたっけ。


驚きと共に、なんだか安心するような、納得するような気持ちが沸き上がった。


「……やっぱり、渋谷はアイドルなんだな」


それもきっと、天性の才能なんかを持ち合わせたアイドルだろう。


偶然、同じ世界に住んでいる俺からは、どれ程凄いことなのかなんて、分からないけれど。



彼女は、この総選挙でどうなるのだろう。


そう思ったけれど、アイドルとしての彼女を知らない俺には、さっぱり分からなかった。


――――


数週間ほど経っただろうか。


ゴールデンウィークが明けて数日の後に、彼女は学校に顔を見せた。


「お疲れ様、渋谷さん!」


「俺も一票入れたよ!入賞できるといいな!」


どうやら、総選挙が一段落したらしい。


クラスの何人かも、彼女に票を投じたそうだ。


「ありがとう。まだ、分からないけどね」


大丈夫だよ、と皆が彼女を勇気付ける。


いつもの人だかりができるのを感じて、俺はそっとイヤホンを耳に押し当てた。


「あの、さ。お疲れ様」


俺がようやく話を切り出せたのはやはり放課後で、


お互いにノートを広げて、今日の問題を確認している時だった。


「うん。ありがと」


彼女は走らせたペンを一旦止めて、笑ってくれた。


少しだけ、申し訳ない気持ちになる。


彼女のために、何かしたわけでもないのに。


「ううん。気持ちだけでいいんだよ」


俺は、彼女のために何か出来ているのだろうか。


それを聞くだけの勇気は、持ちあわせてはいなかった。


そういえば、と思い出したシャープペンシル。


彼女の手に握られていたのは、それではなかったけれど。


今でもしっかりと、持っていてくれているのだろうか。


けれど、それを聞くのはなんだか急がせるように感じて、申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。


「――、これで合ってる?」


不意を突く言葉。


椅子から転げ落ちそうになるのを、心の中だけになんとか留めた。


自分のノートと、補修のプリント。


交互に見比べて、頷いた。


「ああ、合ってる」


良かったと笑って、次の問題に取り掛かる。


その日の帰り際になって、彼女は気付いた。


「……そういえば、シャーペン」


鞄の中を探し、手帳に引っかかっていたのを見つける。


ずっと貸していた、蒼色のシャープペンシル。


「……ううん、いいよ」


きょとん、とこちらを見つめて、


「これ、いつも使ってたペンじゃないの?」


そうだけど。


そうだけれど、俺は。


「……もうしばらく、貸しとく」


「なにそれ」


差し出されたシャープペンシル。


そっと彼女の手を握らせて、押し戻す。


彼女の手は柔らかく、温かかった。


変なの、と彼女は笑った。


――――


数日後。


「おめでとう、渋谷さん!」


普段と変わりない朝だと思っていたけれど。


クラスの一部が、教室に入った彼女を讃えた。


「……うん、ありがとう」


なるほど、総選挙の結果が出たようだ。


「五位でしょ!?凄いじゃない!」


「そうだね……まだ、自分でもびっくりしてるんだ」


五位。


百人以上のアイドル達から選ばれた、彼女。


流石の俺にも、その凄さは伝わる。


それまでの疲れをおくびにも出さずに、彼女は笑う。


その日の放課後も、彼女との距離は机ふたつ分。


ノートや教科書を開いて、彼女の補習プリントを片付けていた。


「……おめでとう、渋谷。五位って凄いな」


特に脈絡もなかったけれど、気持ちを伝えたい、と思った。


「凄くなんかないよ。まだ私より上がいるし」


もっと上を目指さなきゃ、と笑う彼女。


やっぱり強いんだな、素直にそう思った。



かりかり、と黒鉛の削れる音だけが響く世界。


窓の外や扉の向こうから遮断された、二人だけの勉強会。


「どうしたの、――?」


止まっていた手は、また、動き出す。


ふたつのペン先だけが、いつまでもノートの上を走り続けた。


何日か経って、俺の携帯は一通のメールを受け取る。


差出人は、渋谷凛。


『来週の水曜日、取材が入るみたい。勉強会は出来ないかも』


簡素な一文が画面に写っていた。


取材は間違いなく、彼女に対してのものだろう。


シンデレラガールズ総選挙、第五位。


その凄さがこうして形に表れた、ということか。


『分かった。また今度にしよう』


すぐに返事をして、携帯を充電スタンドに置く。


その時までに、少しノートを整理しておこう。


急いで書いた、なんて言わせないように。


少しだけ胸を弾ませながら、ペンを執った。


――――


「今日一日取材させてもらいます、○○社専属記者の……」


数日前に担任からも聞いていたから、皆が慌て出すことはなかった。


別に、記者がいるだけで変わりない一日。


ひとつ問題があるとすれば、俺が彼女の前の席だということか。


カメラに映ってしまわないかだけが、気になっていた。


「自然体のクラス風景や渋谷さんを撮りたいので、いつも通りにお願いしますね」


いつも通り、とは言ったけれど、取材記者のいる教室は誰もが初めてで。


クラスはやはり、ざわついたままだった。


自分が取材されるわけでもないのに。


「ほら、お前ら静かにしろ。記者さんも言った通り、いつも通り授業に取り組むように」


それだけ告げて、ホームルームは終了。


さっさと引き上げる担任を目で追いもせず、そっと机に伏せる。


一時限目こそは、落ち着かない雰囲気を見せていたものの。


次第に、クラスはカメラのいる教室に慣れていった。


休み時間になると、クラスメイトに囲まれる彼女。


待ってましたとばかりに、カメラが向けられる。


なんとなく居心地悪く感じて、俺は席を立つ。


行く宛もないけれど、ふらふらと時間をつぶした。


ぼんやりと廊下の窓から眺めた景色。


特に感慨もないけれど、今の教室よりかは眺めていたいものだった。


ポケットから取り出した、イヤホン。


チャイムが鳴る少しの間だけ、外からの音を遮断する。


こうしていたら、見たくないものを見ずに済みそうだから。


世界の中に自分一人だけ、というのは少し、寂しい気もするけれど。


そうして、一日が無事に終わる。


帰りのホームルームの直前、クラスの連中はこぞって安堵の声を漏らした。


「はぁ、緊張したぜ……」


「お前が取材されてたんじゃないだろ」


普段のやかましさを取り戻した教室を、担任がぴしゃりと静める。


「ほら、席に戻れ。ホームルーム始めるぞ」



やっと授業が終わったな、と思った。


いつもなら待ちわびた放課後だったけれど。


『来週の水曜日、取材が入るみたい。勉強会は出来ないかも』


一通のメールが頭を過る。


仕方ない。


きっとこの後、インタビューか何かでもあるのだろう。


教科書を鞄にまとめて、足早に教室を出る。


慌てるな、数日の辛抱だと、そう自分に言い聞かせて。


勉強会のない放課後。


彼女が学校にいない時は、いつもそうだけれど。


どうしてか、今日は心に引っ掛かるような気がした。


それを楽しみに、学校に来ている、というのもあるからだろうか。


引っかかったもやもやを取り払おうとして。


ポケットから、イヤホンのコードを取り出そうとした。


「……あ」


ポケットから出てきたのは埃ばかりで、目当ての物はない。


別のポケット。鞄のポケット。教科書の間。


どれも、違う。


そういえば、一度机に入れたかもしれない。


少しの間考えを巡らせて。


歩いた道を引き返す。


ホームルームから三十分ほど経っていただろうか。


下足入れに靴を放り入れ、足早に廊下を渡る。


廊下でトレーニングをしていた運動部達の邪魔にならないように、急いで。



二階、三階と階段を駆け上がる。


運動もなにもしていないから、息が少しずつ上ってゆく。


早く見つけて、帰りたい。


普段よりも少し遅れて帰ることに、苛立ちのようなものを感じていた。



だったから、かもしれない。


教室に誰かいないかも確認せず。


油断しきったまま、扉を開けてしまった。


開けてはいけない、扉を。


――――


「あ……ほら、あれが――君ですよ。噂したら本当に来ちゃった」


「ちょっと、やめてよ……っ!」


誰もいないと思っていた教室。


「へぇ……、君が――君ね。ちょっとお話聞いてもいいかな?」


何故だ?


そこにいたのは、渋谷凛。


それから、ずっと取材をしていた記者と……もう一人の名前は、分からなかった。


制服から恐らく、同年代だろうな、といった程度。


「渋谷さんとよく一緒に勉強をしてるって聞いたけど……」


「え……」


そうだよね、と記者は確認を取る。


「はい!あたし、よく見かけますし」


どういうことだろう。


ぐしゃぐしゃにかき乱された頭の中。


完成したパズルを叩いて、バラバラにしたかのように。


巡らせていた考えは崩れ去っていた。


「渋谷さんと、仲良いんだ?」


「あ……え、っと……」


おかしいな。


俺はただ、忘れ物を取りに来ただけなのに。


「よく話してるみたいですよ?ね、――君」


「ちょっと待って、そういうのじゃなくて……!」


記者に手を引かれ、彼女の元へと連れて行かれる。


そうして向けられる、奇異の視線。


純粋な好奇心だけじゃない、どす黒い感情を宿したような黒い目が。


鋭利な刃物のように、俺を突き刺していた。


「そうだ!渋谷さんと――君って、付き合ってるの?」


本当なの、と目を輝かせる記者。


待ってくれ、そんなことはない。


否定しようにも、言葉がまとまらず声が出ない。


「……いい加減に、してください」


彼女が静かに怒りを突き付ける。


その瞳はまるで燃えているかのように、鋭く相手を捉える。


駄目だ。


そんな目をしていちゃ。



一瞬だけ、彼女はこちらを見た。


彼女の目には、どんな風に映っているのだろう。


この、情けない男は。



「……ご」


震える言葉を、必死にまとめ上げる。


「ごめんなさい!取材の、邪魔をして!」


がちがちに固まった身体を、なんとか動かして。


必死で、頭を下げた。


ちらと見えた、皆の顔。


突然の事に、彼女でさえ、虚を突かれたような顔を浮かべている。


本当は。


どうしたら、良かったんだろう。



そして。



俺は。





「取材、途中でしたよね……!」



何度も謝罪の言葉を浮かべながら。



「本当に、本当に邪魔してごめんなさい!」



一目散に、教室を出て行ってしまった。



辺りの机なんかに、何度もぶつかりながら。



情けなく、ただ、情けなく。








また俺は、逃げ出してしまったんだ。



彼女から。



渋谷凛、から……






――――


ふと気付いた時には、自分の部屋のベットに倒れこんでいて。


外はすっかりと暗くなっていた。


いったいどれくらい、こうしていたのだろう。


枕は少しだけ、湿っぽさを残していた。




ドアの向こうから、夕飯を知らせる母の声が聞こえたけれど。


そんな気にもなれなくて、ポケットを探る。


イヤホンは、やはり、ない。


あの時、教室から逃げ出した時に、取り忘れてしまった。


思い出した途端に、太腿の辺りに鈍い痛みが走る。


机に何度もぶつかって、赤黒い痣が出来ていた。


けれどずきずきと痛むのは、身体だけではなかった。


――――


数日後。


教室に入る瞬間に、視線を感じた。


それまで静穏としていたクラスは、一瞬にしてざわめき立つのが分かる。


なんとなく想像は、ついていた。


以前だって、こんなことはあったから。


ありもしない噂が流れたり。


ひょんなことから、ガキ大将みたいな奴の目に止まってしまったり。



ただ、今回ばかりは、事情が違うけれど。


おそらくは、先日のあの事、だろう。


悪意があるのかないのか、どんなことだろうと彼らは噂しあった。


机に入っていたかもしれないプレーヤーとイヤホンは、忽然と消えていた。


耳にまぶたがないことを、何度も悔やんだ。


帰りのホームルームも終えて、早々に教室を出た。


また、しばらくぶりにレンタルビデオ店へと足が向いている。


勿論目的は、併設されている本屋だけれど。



入ってすぐに、アイドル雑誌のコーナーに向かおうとして。


ふと目に付いたのは、週刊誌だった。


そういえば、あの記者はどこの出版社だと言っていたっけ。


答えはすぐに、分かった。


週刊誌のひとつに、大きな見出しが自己主張をしている。



『渋谷凛、熱愛発覚!?』



「……っ」


なんだ、これは。


震える手で、雑誌のひとつを手に取った。


その記事は雑誌の一面を飾っていた。


メインの写真は、教室でクラスメイトと談笑をしている彼女。


衣装を着た、おそらくライブでの写真なんかも載っていた。


「なんだよ、これ……」


問題は、その文章だった。


渋谷凛には、仲の良い男子の友人がいる。


放課後勉強を教えてもらっている。


確かにここまでは、おおよそ事実、だけれど。


その友人と付き合っている。


恋人としての、一線を越えた行為は……などなど。



「……っ」


危うく本を握り潰しそうになって、陳列の中に戻す。


彼女に対する憶測ばかりが、延々と書かれていた。


こんなものを誰が信じるんだ。


そうは思っても、こうして形に表れてしまった。


取り返しのつかない事に、なってしまったのだ。


どうなって、しまうんだろう。


俺には、想像することは出来なかった。




スキャンダル。


たった一言で、彼女の今を表すことが出来てしまう。


あれから、彼女の姿を見ていないけれど。


大丈夫、だろうか。


大丈夫なはずがないけれど。


彼女に聞く勇気は、なかった。


――――


数日後、彼女は学校に来た。


ファンというのはふわふわと浮いた存在なんだな、と思った。


いつも彼女を取り巻いていた連中は、今日は群がっていない。


ひそひそと聞こえる囁きが、教室を埋め尽くしていた。


それでも何人かのクラスメイトは、彼女を励ましに来た。


「大丈夫だよ、渋谷さん!私、応援してるからね!」


「……うん。ありがと」



彼女は終始不機嫌そうなため息をついていた。


どうしたものか、と気になるけれど。


「……」


もやもやとした気持ちを抱えたまま。


聞くことも、逃げることも出来ずに。


針山の上に立たされたような時間を、過ごしていた。


授業を聞き流しながら、ずっと。


何度も、何度も確かめるように、携帯を見る。


数日前に届いた、一通のメール。


『しばらく、勉強会はできない。ごめんね』


どうして、だなんて。


理由は既に、分かっている。




最後に添えられた、謝罪の言葉。


なんだよ、それ。


彼女は何も、悪くないのに。


だって、悪いのは……。



やり場のない怒りが、頭の中でぐるぐると回り出す。


出口のない迷路を、彷徨うように。



放課後、さっと教室を出て行った彼女を見て。


寂しさとやり場のない思いが、心を締め付けた。


それでも、あまり不自然にならないように見計らって教室を出る。


雑誌の記者なんかが待ち構えていたりしないか、と思ったものの。


誰かに話しかけられることもなく、家路に就く。



それから数日。


なんとなく落ち着かない空気が漂っていたけれど。


今日も、教室は普段と変わりなく授業を行っている。


あれから頭の中に霧がかかったように、思考のまとまらない生活をしていたけれど。


とにかく、いつかの日のためにノートを取る。


誰かに読まれても、笑われないように。


急いで書いたなんて、言われないように。


彼女はやはり、週に何度か顔を見せる。


けれども日に日に、やつれている、と言うべきだろうか。


元気がなくなっているように、見えた。


その原因は、きっと、間違いなく……。



「大丈夫、渋谷さん?保健室行く?」


「……ううん、平気。大丈夫だよ」


彼女の見せる精一杯の笑顔。


誰の目からも分かる程に、疲れきっていた。


こんな時に、何も出来ない自分。


不甲斐なくて、情けなくて。


それでも、少しでも彼女を励ましたくて。


気持ちだけでも、前を向く。


――――


その日の放課後、帰ろうとしていた彼女を一人の女子が引き止めた。


「ねぇ、渋谷さん。ちょっと話があるんだけど、いい?」


「……いいけど、何?」


少しだけ、彼女の声に力が篭った。


よく見ると、あの時の。


取材の記者にあることないことを吹き込んだ、あの女子だ。


「いいから、この後教室に残ってよ」


仕方ない、とばかりに彼女は頷く。



ずっと、遠くからそれを見ていたけれど。


もしもここで、俺が出て行ったら。


いや、話をややこしくするだけだろう。


そう思って、俺も帰路に就こうとする。


……はずだった。


確かに途中までは帰り道を歩いていたはずなのに。


気になって、教室辺りまで引き返してしまっている。


まるで褒められたことではないけれど。


忘れ物をしたかもしれない、とでも言えば済まされるだろうか。




そっと様子を窺う。


人影は見えないけれど、話し声は何とか聞こえた。


「――君と、どうなの?」


「別に。ただの友達だよ」


きっぱりと、言いきられた。


心の中にまた、新たなもやもやが生み出されたけれど。


ぐっと、押さえ込んだ。


「じゃあ、どうして――君なの?」


「どうして、って」


「勉強教えてもらうなら、あんな冴えないのよりも先生とかに聞くでしょ、普通」


冴えない奴、確かにそうだ。


去年の成績は平均より少し上程度だし、先生の方が教え方は断然上手だろう。


ずっと疑問に思っていたけれど、どうなんだろう。


でも、こんな形ではその答えを聞きたくはない。


「別に、いいでしょ。誰に教えてもらっても」


帰っていいかな、と聞く彼女の声には、段々と苛立ちが混じっている。


誰だって、こんなことはされたくない。


「……この写真、何だと思う?」


女子が、恐らくスマートフォンか何かを見せつけたのだろう。


彼女は言葉に詰まりながらも、それを否定する。


「……ただ、教えてもらってるだけでしょ」


それでも、公になるとまずい写真なのだろう。


彼女の声に、焦りが見え始める。


「それなら、それでいいけど……」


だったら、と女子が声を荒らげた。



だったら。


ただ教えてもらっているだけの写真なら、別に誰が見てもいいでしょ。



目眩がするかのように、廊下が回転を始める。


どくんどくんと、脈が上がってゆくのがわかる。


どうしたらいいのか、分からなくなって。



「……っ!」


扉は、開いていた。


そして、彼女達の目の前に、俺は立っていた。



女子が、これはチャンスだとばかりに笑った。


「盗み聞きしてたの、――君?」


「あ……いや、忘れ物したかも、って」


そうだ、とは流石に言えない。


だから、偶然聞いてしまっただけ。


「ふぅん……趣味悪いよ」


「だから、偶然だって」


笑いながら、わざとらしく机の中を確認する。


もちろん、何も入ってはいない。



「――君は、渋谷さんのことをどう思ってるの?」


聞かれるだろうと思っていた、質問。


落ち着いて、ゆっくりと話す。


「……別に、渋谷とは……ただの、友達だよ」


ただの、友達。


それでいいんだ。


「へぇ、そうなんだ」


今ひとつ納得していないような返事を返される。


それもそうだろう。


俺と彼女が付き合っている方が、都合がいいのだろうから。


「……渋谷は、アイドルだしさ。俺なんかじゃつり合わないよ」


けれども、渋谷凛は、アイドルで。


一方の俺は、その辺の石ころ。


本当に、それだけの話なんだ。



「……本当に、つまんない」


そう吐き捨てて、女子は教室を出て行った。



呆気にとられた彼女と、俺だけが取り残された教室。


世界は少しずつ、時間や音を取り戻してゆく。


「……助けに来てくれたの?」


「……忘れ物、取りに来ただけだよ」


嘘でしょ、と言われたけれど、そればかりは本当のことにしなければならない。


結局、何も忘れているものなんてなくて。


僅かな希望を込めて覗いた机は、やはり空っぽだったけれど。


「……何か忘れてるかなって思ったけど、勘違いだったみたいだ」


そのまま、帰ろうと歩き出す。


「待って、――!」


耳を貸さず、そのまま歩を進める。


一緒には、帰れないから。


待って、とさらに呼び止められて、立ち止まる。


「……さっきは、ありがとう」


何もしていないのに、と思った。


でも、タイミングはよかったのかもしれない。


どういたしまして、と笑いかける。


「それから、さっきの事だけど。つり合わないなんて、言わないで」


「……え?」


思わず聞き返したけれど、帰ってきたのは一字一句違わぬ言葉だった。


どういうことなのか分からずに、考えていたけれど。


「――は、もっと自分に自信を持っていいと思うよ」


とだけ残して、彼女は教室を出て行ってしまった。



俺の心だけが、荒立ったまま。


一人取り残された教室は、しんと静まり返っている。



――――


あれから、教室で見る彼女には少しだけ笑顔が戻った。


けれども時折見せる表情からは、まだ事態は終わっていないことを窺わせる。


インターネットでも、未だ彼女について様々意見が飛び交っていた。


その全てを追うことはしなかったけれど、中には酷いものもあった。



彼女はどう思っているのだろう。


そして、彼女のプロデューサーは。



どうしたら、いいのか。


俺自身、どうしたいのか。


分からないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。




……いや。


分かっている。


どうしたいかなんて、決まっている。



けれど。


それは本当に、彼女のためになるのだろうか。



俺は。


俺は。






震える手で、携帯を取った。



今回も一旦ここまで。後日再開します

では、再開します。


――――


それから、数日。


今日の授業は、なんだか頭に入ってこなかった。


この先のことを考えるとどうにも手に付かなくて、ぼうっと時間が過ぎるのを待つ。


大して集中もせずに書いたノートは、解読出来なさそうな字ばかりが並んでいた。




そして、放課後。


二人分の呼吸が響く教室で、彼女は自分の机に腰掛けていた。


開け放たれた窓から吹き込んだ風が、彼女の髪やネクタイを撫でる。


様になっているな、素直にそう思う。


人を惹きつける魅力、それはこの一年で変わらないどころか、より強くなっているようだ。


念のため廊下を見渡したけれど、誰かがいる様子はなく。


話すには持ってこいの状況だな、と思った。


いつの間にか、彼女はイヤホンを耳に当てていた。


それも、見覚えのあるものだ。


「もしかして、それ」


彼女は笑って、俺を手招く。



「取材の人が来てた時、忘れていったでしょ」


あの時机に入っていたはずの、プレーヤーとイヤホン。


見つけてくれていたのか。


「……ありがとう、渋谷」


少しだけ机を寄せて、隣の机に座って。


差し出された片方のイヤホンを、そっと耳に当てる。


ずっと聞いていた曲が、掛かっていた。


スタンド・バイ・ミー。


今だけなら、彼女の気持ちが分かる気がした。


Ben E. King - Stand by me

http://youtu.be/Vbg7YoXiKn0



スタンド・バイ・ミーがフェードアウトしてゆくのを聞きながら、彼女はプレーヤーの再生を止めた。


「……返すね」


イヤホンを外して、差し出されたプレーヤー。


受け取って、ポケットに仕舞う。


元の場所に収まって、少しずつ心が落ち着いてゆく気がした。




しばらくの静寂の後に、ふと口を開く。


「アイドルってさ、楽しいのか?」


外の景色を眺めながら、ぽつり。


窓の向こうではグラウンドの上で、ユニフォーム姿の学生が走っている。


「……うん。今は楽しいって、言えるかな」


昔はそうじゃなかったけど、と付け加える。


「あの時にやめなくて、良かったって思ってる」


「心配してくれてるんだね」


「そりゃあ……友達、だからな」


びゅう、と風が吹き込んだ。


夏へと近づく季節。日が傾き始めても、汗ばむ程の熱気が教室に居座っている。



「……プロデューサーは、気にするなって言ってくれたんだ」


ぽつりぽつりと、彼女は語り出す。


移動はなるべくプロデューサーの送迎、活動もファンと直接触れ合うのは取りやめて。


それでも活動を多くしようと、必死だった。


シンデレラガールズ総選挙、五位のアイドル。でも、中身はただの十六歳の女の子だ。


防ぎきれなかった誹謗中傷を目の当たりにして、それでも彼女は笑っていた。


けれども、心には大きく傷を残してしまった。


「……家の近くにまでいたのは、びっくりしたよ」


お父さんが追い払ってくれたけどね、と彼女は笑う。


どこか、寂しそうな表情のまま。


彼女に伝えるべきか、悩んでいた。


本当にこれが、正解なのか。


ずっと分からないままだったから。



「……渋谷はさ、強いよな」


どんな時も、笑顔を見せて。


彼女は、走り続けている。


その姿を俺は一度も見たことがないけれど。


彼女の表情や言葉から、なんとなくは分かる。


「強くなんか、ないよ」


そうは言うけれど。



俺は、渋谷凛のようには、なれない。


ずっと、思いつめてきた言葉が溢れそうだった。



「……あの、さ」


彼女は、静かに耳を傾けていた。


通じた視線から、彼女も真剣な顔つきになってゆく。


「こうやって二人きりで会うことは、もうやめよう」


「……っ」


いくつもの空白を置いてから、彼女は言葉を紡ぐ。


「なん、で……?どうして、そんなこと……」


「……これ以上は、迷惑をかけられない」


声が震えないか、必死だった。


情けない話だ。


一人の友人を、一人の女性を気遣うことも、できなかった。


これが正しい答えだったのかは、分からないけれど。


決めた道だから、信じるしかない。


「迷惑、なんて」


「……渋谷は、アイドルだから」


俺とは、つり合わない。


これ以上彼女が、俺のせいで苦しむのは見たくなかった。


「そんなの、自分勝手だよ」


分かっている。


それでも、だ。


「……今だって、誰かが見ているかもしれない」


「この前渋谷が見せられた写真だって、そうだろう」


あれは、と口にしたけれど、それきり彼女は言葉を詰まらせた。


「……俺と一緒にいると、迷惑が掛かる。それで渋谷が傷つくのは、見たくない」



自分勝手でいい、それでも。


彼女の……。


凛の悲しむ姿は、見たくなかった。



「……そんなの、分からないでしょ」


ぎりぎりまで堪えたような声。


頼むから泣かないでくれ、こんなことを願うのは間違っているのだろうか。


それでも、止めることはもう出来ない。


「……俺だってさ」


今までみたいに二人で、勉強したり。


普段の何気ない話なんかで、笑い合っていたい。


でも、それを守るには。


俺の持っている力は、あまりにもちっぽけだった。


「でも、俺は……渋谷に、ううん……凛に、アイドルを続けてほしいんだ」


凛と話すきっかけは。


凛が、アイドルになったからなんだ。


だから、だからこそ。


お互いの張り詰めた糸に言葉のナイフを当てながら、切れないすれすれを保って。


俺達は、泣き出す準備をゆっくりと進めていた。


彼女が、諦めてくれるように。


折れてくれるように。


ずっと心に溜め込んでいた言葉を、吐き出してゆく。




「……俺さ、凛のことが……好き、だったんだ」


「っ!」


まさか、といった顔だった。


俺だって、出来ることなら言わずに仕舞いこんでおきたかった言葉なんだから。


「アイドルになる前から……そう、初めて見た時から」


あの時から、ずっと、変わりなく。


俺は、凛のファンだったんだ。



「だから……傷ついてほしくない、ずっと笑っていてほしい……凛を、守りたかったんだ」


誰よりも、大切だったから。


凛を、守りたかった。


「……ずるいよ、そんなの……!」


そうだ。


ずるくて、情けなくて。


満足に好きな人を守ることすら、できない。



それでも。


凛がこの先、アイドルとして輝いていけるのなら。


それで、いい。



それでも、伝えたかった言葉。


ゆっくりと、声に変えてゆく。



「……だから。明日から、もう終わりにしよう」


「でも、いつか……二人で会うのが許されるなら」


また一緒に、今までみたいに、勉強会をしよう。


堪え切れずにいくつも涙をこぼしながら、凛は何度も声を上げた。



俺は最後まで、涙を堪え続けた。


凛が、そばにいたから。


それだけの、理由だった。



「うん……いつか、必ず。約束だよ」


ぐしゃぐしゃになった声で、凛が静かに頷いた。


もう少しだけ、凛が泣き止むまで。


許されるなら、いつまでも。


ずっと、そばにいてあげようと思った。




――――


熱愛報道が冷めやらぬ中、彼女はひとつの発表をした。


新曲のリリース。


スキャンダルで世間を賑やかせている中での、大きな決断。


最初は、話題集めだったのではないか、と笑いものにしていたワイドショーも。


誹謗中傷を繰り返していたインターネットも。


その歌で、彼女は黙らせた。



一度だけ、彼女の曲を聞く機会があった。


彼女の秘めた力強さを感じるようで、いいな、と思った。


どんなことが起こっても、もう覚悟は出来ているから。


彼女が強く語っていたのを、思い出す。



世間が彼女の歌に釘付けになった所で、すぐにソロライブの発表。


それも、今までにないキャパシティのホール、らしい。


どんな逆境でも諦めずに、彼女はそれを乗り越えてゆく。


ニュースに映る彼女の姿は、今までになく輝いて見えた。




ソロライブの前となって、また学校付近に記者が現れた。


俺も一度、彼女について聞かれたけれど。


「ファンの一人です。凄いですよね、彼女」


と、笑って答えた。


彼らも、めぼしいネタがないと判断すると早々に引き上げていった。


彼女のソロライブは大成功に終わり、その頃には噂をする者はいなくなっていた。


世間も手のひらを返したように彼女を褒め称えていた。


クラスメイト達も、


「私は最初から、渋谷さんを信じてたよ!」


なんて調子のいいことを言っていたっけ。


「ふふ、ありがと……みんなのおかげだよ」


彼女は笑っていた。


そんな彼女を見ていると、いつの間にか俺も、口元が緩んでいたのに気付いた。



あの日から、彼女との勉強会は一度も開かれていない。


交わす言葉も、席が近いからというだけの挨拶程度。


少しだけ、寂しく思うけれど。


彼女には笑顔が増えた。


俺も、きっと以前より笑っている気がする。


これで、良かったんだと思う。


最善の手段ではなかったかもしれない。


もっと他に、いいやり方があったのかもしれない。


それでも、これでよかったんだ。


そう思って、今日も学校へと向かう。


あの頃とは違う、自分のために。


――――


不思議なことに、彼女とは三年間クラスが一緒だった。


『運命とか、あまり信じないけど……なんだかすごいね』


そんなメールに、腐れ縁って言うんじゃないか、とだけ返しておいた。


しばらくして、確かにそうかも、と返事が来た。



年度が変わってすぐに、第三回シンデレラガールズ総選挙が始まった。


クラスメイト達がそわそわとしだす中、俺は投票こそしなかったものの、ひとり彼女の躍進を祈っていた。


おかしな話だが、あれからやはり、俺は彼女のアイドルとしての姿を見たことがない。


彼女の歌も、一度友人に聞かされたくらい。


ライブはおろか、歌番組や雑誌すら見たことはなかった。



ずっと、彼女は。


『同級生の渋谷凛』だったから、なのかもしれない。


そう思うことにした。




そして、彼女は三代目シンデレラガールとなった。


一位、つまりアイドル達の頂点。


そういえば昨年、私は凄くなんかない、と彼女は言っていたっけ。


まだ自分よりも上が四人いて、超えなきゃいけない目標だよ、と意気込んでいた彼女。


本当に、彼女はやってのけた。



「……うん。ありがとう、みんな」


みんなのおかげだよ、と壇上から笑った。


ホームルームの時間に取られた、小さな記者会見。


誰しもが惜しみない拍手を送った。


もちろん、俺も。



「……ふふっ」


彼女はこちらを見て、にこりと笑った。



――――


シンデレラガールとなった彼女は、あらゆるメディアに引っ張りだこだった。


その分学校にはすっかり顔を出せずにいたけれど。


どうにか、上手く勉強の時間だけは作っていたらしい。



夏休みのある日、夏期講習を受けていた時に。


たまたま彼女と二人きりになったことがあった。


「……凄く、久しぶりだよね」


「本当だな」


あの日のように、机に腰掛けて。


大小様々なことを話した。


「えっと……一位、おめでとう」


「遅いよ」


そうだな、と二人で笑い合う。


数ヶ月も前の話なんだけど、と付け加えられた。


空白を埋めるかのように、いろいろな話をした。


勉強は事務所でアイドル仲間達とやっていること。


大学を目指すから、空いている時間も先輩に付きっきりで教えてもらっていること。


……目指している進路は、俺とは違う大学だ、ということ。


それから成績のことなんかも話題に上がった。


「あれ、――より低いと思ってた」


「……悪かったな」


学年順位は、どういう訳か彼女のほうが上だった。


もう少しで上位一割に入れそうなくらいの位置にいるらしい。


一方の俺は、平均を割らないように必死だったのに。


「今度は私が、――に教えてあげようかな」


「やめてくれ」


流石にそれは、敵わない。


ついでだ、と思って。


ずっと気になっていたことを、彼女にぶつけた。


「そういえば、どうして俺だったんだ?」


勉強なんて誰からでも教われるはずだったのに。


彼女はどうして、俺を選んだんだろう。


それだけがずっと、気がかりだった。


「それは……内緒」


ずるいぞ、と抗議しようと思ったけれど。


少し赤く染めた頬を見せられて。


思わず黙ってしまった。


「……ふふっ。少しドキッとしたでしょ」


本当にそれは、ずるいと思った。


「――はずっと、私を……渋谷凛を、見ていてくれたからかな」


しばらくの静寂の後に、切り出された言葉。


もしかしなくとも、俺達は同じことを考えていたんだろう。


「だって、――はまだ、アイドルの私を見たことがないでしょ?」


「アイドルの話をしてもさ、いつもはぐらかして……」


だからだよ、と笑う。


「でも、最初は……なんとなく、――ならいいかなって、思ったから。それだけだよ」


「……そっか」


だって、――と私は。


彼女はそう言いかけて、なんでもないと口を閉ざした。




それきり、言葉はなかったけれど。


ずっとこのままでいたいとさえ、思えるひと時だった。




――――


そうして季節は、巡り巡って。


いよいよ俺達の三年間が終わろうとしていた。


「……なんか緊張してきたな、――」


「大したことないだろ」


証書をもらって、終わり。


なんて言ったら笑われてしまった。



それでも確かに、感慨深さは感じるようになった。


ただ過ごすだけの三年間ではなかったことが。


かけがえのない、何よりも大事な三年間だったことが。


これから、証明されると思うと。


「……確かに、緊張するかもしれない」


どっちだよ、と突っ込まれた。


本当に、どっちだろうな。


「凄いな。カメラいっぱいだぞ。緊張する」


「馬鹿、俺達がメインじゃないんだから」


卒業生なのにな、と笑い合う。


きっとあの、大きなカメラ達の目当ては渋谷凛だろう。


シンデレラガールの卒業式とあって、張り切っているんだろうな、と思った。




結局俺らが緊張していたのは最初だけで、式が始まってしまえば気にはならなかった。


卒業証書も受け取り、あとは話を聞くだけ。


それも、気付けば卒業生からの答辞を残すのみとなっていた。


そういえば、誰が登壇するのかは聞いていなかった気がする。


担任達も、曖昧に濁していたっけ。


もしかして、まさか。


「そんなことはないよな」


と、ぽつり。


「続きまして、答辞、卒業生代表……」


大方、元生徒会長あたりだろうな、と思って。


油断しきっていた、その時だった。



「……三年一組、渋谷凛」



「え?」


誰もが驚き、彼女を見た。


「……行ってくるね」


小さな声で笑って、彼女は颯爽と壇上に向かう。


大きなシャッター音とフラッシュが、彼女を包んだ。


「おい、マジかよ」


「……驚いたな」


あまりの事態に、俺はただ見ていることしか出来なかった。


壇上で軽くマイクを確認して、すっと、前を向く。


「本日は私達、第八十期卒業生のために……」


話す内容こそ、ありふれたものだったけれど。


明瞭な彼女の声が、マイクを通してはっきりと体育館に響き渡る。


しんと静まり返った場内に渡る、彼女の言葉に。


皆が聞き入っていた。



そして。


「……最後に、在校生の皆様に向けて、私から歌を送りたいと思います」


どよめきだした場内に向かって、礼を述べて。


「以上を持って、御礼の言葉とさせていただきます」


と締めくくった。



その瞬間に、ステージ奥のカーテンが開く。


後ろに設置されていたのは、ライブ用のアンプ。


教壇も横に掃けられ、セッティングは完了。


歓声が上がる中、マイクを受け取って彼女は。



「……新しい曲だから、気に入ってもらえると嬉しいな」


「それでは、聞いてください」


しっとりとしたピアノに合わせて。


優しく、歌を紡ぐ。


それはまるで、不安や恐怖を断ち切るような。


前を向いて一歩ずつ歩いてゆく、彼女の歌。


強い希望と、明日への期待。


彼女の抱く未来への想いが、綴られているかのようだった。



――――


惜しみない拍手に包まれながら、彼女は降壇する。


いつまでも鳴り止まない拍手の中、式は無事に終わりを迎えた。



教室に戻り、担任からいくつかの話を聞いて、本当に解散。


クラスは別れを惜しむ声や、その後の話で盛り上がる中。


彼女は時間を確認して、教室を出てゆく。


クラスの一人に見つかって、すぐに人だかりが出来てしまい、


彼女を追いかけるのは大変だった。



クラスメイトや、待ち構えていた報道陣に律儀に答えながら、彼女は正門へと向かう。


その先には一台の乗用車が止まっていて、恐らく事務所の迎えなんだろうな、と思った。


握手やインタビューに答えながら、彼女は車へと向かう。


そして、ドアを開けたその時。


「……っ!」





彼女が、俺に向かって小さく手を振るのが見えた。




「……卒業、おめでとう」




つられて、小さく手を振り返した。



以上で終わりです。

ありがとうございました。


――――


クラスメイトや報道の人達も、社用車に乗り込むとようやく諦めてくれたらしい。


だから私は、精一杯手を振った。


車が走り出して、皆が見えなくなるまで。



「卒業おめでとう、凛。どうだった」


事務所に向けてハンドルを切ったプロデューサーが、ミラー越しに私を見る。


「……うん。まだ、実感ないかな」


「でも、いい笑顔してる」


そうかな、と思って鏡を取り出して見てみる。


……確かに、そうかも。


「楽しかったから、かな」


卒業式で新曲を披露するなんて、思ってもみなかったけど。


たくさんの拍手は、嬉しかった。


「寂しくなるな」


「ううん。これからまた、始まるだけだよ」


そうだな、とプロデューサーは加速を少し強めた。


「そうだ、凛。今月末の土日、仕事入った」


信号待ちで止まった時に、プロデューサーがぽつりと言った。


「分かった」


すぐに手帳を出して、三月の二十八日と二十九日にペンで印を付ける。


ラメの入った、蒼色のシャープペンシル。


色も書き心地もよくて気に入ってるペンだけど、本当は私のものじゃない。


返そうとしたら有耶無耶にされて、結局返しそびれてしまったんだっけ。



「凛。携帯鳴ってないか」


最初に気付いたのはプロデューサーだった。


助手席にあったプロデューサーの鞄を開いて、


「いや、違う。凛の携帯」


「……あ、本当だ」


しっかりしろよ、と笑われながら、携帯を取った。



着信元は……っ!


「プロデューサー、電話出てもいい?」


どうぞ、とだけ返ってきたから、通話ボタンをタップする。


「静かにね、プロデューサー」


「分かってるって」


ミラー越しに、プロデューサーがにやけているのが見えた。


しばらくの無言のうちに、ぽつり。


『もしもし、渋谷』


「うん。どうしたの」


『……その、卒業、おめでとう』


「うん。――も卒業おめでとう」



そういえば、通話するのは初めてだっけ。


こっちから掛けたことも、向こうから掛かってきたことも、一度もなかったはず。


『それじゃ、また……』


「……待って!」


思わず叫んだ自分に、びっくり。


何故かは分からないけれど、この電話を切りたくなかった。


もう少し、もう少しだけ、声を聞いていたい。


その想いを確かめるように、言葉を繋ぐ。



ちらり、と目に入った手帳。


「えっと……そうだ。借りてたペン、どうしよう」


『……覚えてたんだ』


忘れるはずがないよ。


あれからずっと、手帳に挟んでいたから。


それに、もう少し預けとくって言ったのは、――でしょ。


『……じゃあ、卒業祝いってことにしてくれ』


「なにそれ」


結局、ペンはプレゼントすると言って譲らなかった。


……だから、私からも。


「じゃあ、ペンはもらうけど。ひとつお願い」


『……何だよ』


声が裏返ったりしないように。


少しだけ息を整えて、軽く笑って。


「……ちゃんと名前で読んでよ。渋谷じゃなくて、凛って」


ぽかんと、電話の向こうで固まったみたい。


でも、ちゃんと聞きたい。


あなたの声を。


『……呼ばなきゃ、駄目か』


「うん」



ずっと悩んでいたみたいだけど、スピーカーの向こうから深呼吸の息が聞こえた。


『……凛』


「……もう一回、いい?」


恥ずかしかったのか、それっきりだった。



「どうしたの?」


『……恥ずかしいから、聞くなって』


前にも名前で呼んでくれたのに。


『あれは……忘れてくれ』


「やだ。絶対忘れない」


だってあの時、――は初めて私の名前を呼んでくれたんだから。


忘れられるはずが、ないよ。



「ふふっ……そうだ。約束、覚えてる?」


『約束?』


もしかして、忘れてるのかな、なんて。


少しだけ気になっていた。


『……俺達、進路違うだろ』


「それでも、だよ」



大きな溜息のあとに。


『……分かったよ』


「約束だからね」


約束だよ、と二人で何度も確認する。


ずっと、待っていたんだから。


それくらい、いいよね。



『……アイドル、頑張れよ』


「ありがとう。そっちも頑張ってね」


『……またな、凛』


「またね、――」


それで通話は、終わりだった。



「友達か」


「うん」


「……仲、いいみたいだな」


「そうだね。一番の友達……ううん、それ以上かも」


プロデューサーはずっと、何かを考えているように唸っていた。


ミラー越しに見えた顔はなんだか、嬉しそうだった。


「……そっか。また会えるといいな」


「うん……あのさ、プロデューサー」


……ありがとう。


「俺は何もしてないよ」


笑いながら、ぽりぽりと頭を掻くのが見えた。




「……きっと、ううん……絶対だよ」




またどこかで出会うのかな、いつになるのかな、なんて思いながら。




ずっと、流れてゆく空を見上げていた。



これで本当に終わりです。

ありがとうございました!

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