モバP「七人目の正直」 (146)
鷹富士茄子さんのSSです。
ちょっぴりシリアス&勝手設定&ご都合主義&視点変更あり。これまで趣味に走ったものしか書いていないので、少し変になってしまったらごめんなさい。
少しだけ書き溜めはありますが、ほとんど見切り発車なのでご容赦ください。
更新は一区切りつく→一気に投下という形になります。週三くらいでできればいいかなぁ、と思っています。
都合上、茄子さんのPに対する呼び方が『プロデューサー』ではなく『Pさん』になっていますので、ご注意ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1370974673
——今までありがとうございました、Pさんっ!
ああ、またこの夢だ。見慣れた顔”達”が、聞きなれた声で俺に声を掛ける。
輝かしい未来に夢を見る彼女たち。ある子はとびきりの笑顔で、ある子は悲しさを押し殺して、ある子は決意を新たにして。
彼女”達”は俺に言う。もう、”何度”も見てきた光景、慣れたはずだ。
そこに、また一人増えている。それに心がざわめく。
それでも、俺は”いつも”こう答える。押し殺した苦しみと悲しみを、胸に抱いて。
——向こうでもしっかりやれよ、ずっと応援してる。
と。
目を覚ます。酷く寝覚めが悪い。当然のことだ。胸糞の悪い夢だった。
どうやら、少し眠っていたようだ。このところ、移籍交渉やその手続きのせいで、激務が続いていたせいかもしれない。
周りを見渡す。誰もいない、がらんとした薄暗い事務所。机はぽつん、と一つだけ、自分の物が置いてある。
自分のほかに誰もおらず、階下から少し物音が聞こえるぐらいだ。
ふと、時計を見た。すでに、予定の時間が過ぎている。
俺はデスクトップを立ち上げると、インターネットバンクのページへと飛んだ。そして残高照会を行う。かなりの数字が増えていた。
(……終わったか)
俺は独語する。今日も、また一人アイドルが移籍した。これで累計六人目のアイドルだ。正確にはデビューをしていないから、アイドル候補なのだろうが……。
(……あいつの移籍先が決まるまで、二か月か。三か月かかると思ったが、まあじっくり育成もできたし、いい所まで行くだろう)
俺は独語した。取り立てて特徴はないが、彼女の屈託のない笑顔と明るい性格は大きな武器になるはずだ。
相手はそれほど大きな事務所ではないが、腕のいいプロデューサーが付けばプロダクションの顔にはなれる。
新人プロデューサーだったとしても、雑誌のグラビアを飾るぐらいの実力を持ったアイドルにはなれるだろう。それだけのトレーニングと教育を施したつもりではあった。
『あぁ、糞。いや、今更言っても意味ないか……』
ただ、気分は最悪だ。それでもいい、と割り切りをしたところで、気分が落ち込むのは止められることではない。
そして、皮肉なことだがそれに慣れてきている自分がいる。移籍のペースはだんだん上がってきているし、俺の育成の腕も磨きがかかっている。
このままいけば、一流のアイドルトレーナーになれるだろう。もちろんそのつもりはないし、今のこの形態を崩すことはない。
デスクの前でぐっと背伸びをすると、背中がばきり、ばきりと嫌な音を立てた。これも慣れたことだった。
もうそろそろ歳か、だなんて置いたことを考えてみる。まだ三十代までは三年ほどあるが、最近はより一層老けた気分だ。
今の俺を昔の俺が見れば、きっとおっさん呼ばわりするのかもしれない。
『……いつもの場所に、行くか』
ゆっくりと俺は立ち上がる。錆びで変色した鍵を片手に、コンクリートジャングルに埋もれた、寂れた雑居ビルの、一室しかない小さなオフィスから外へと出た。
『……あいつが、立派なアイドルになれますように』
近所にある、小さな神社で、俺は五円玉を賽銭箱に放り投げ、柏手を打って呟く。恒例の儀式だ。
初めてアイドルが移籍した時に、気分が落ち込んで事務所に戻らず、散歩をしていた時に見つけた神社だった。
それから、アイドルが移籍するたびに、ここにきてはこうやって神頼みをしている。
この神頼みは、決して欠かすことはできない。アイドルの将来を祈る為でもあり、アイドルへの贖罪の為でもあった。
(仕事しに戻る……。あぁ、仕事はなかったんだった。仕方ない、道々にアイドルの卵でも探しながら、家に帰るか。次のオーディションの算段も立てないとな……)
ゆっくりとため息をついて、俺は事務所に帰るため、本堂に背を向けて石段へと歩きはじめる。と、ちょうどその時に、その石段を上ってくる人影が見えた。
こんな寂れた神社に人なんて、珍しい。俺はそんな罰当たりなことを考えながら、気にも留めず通り過ぎようとした。
その瞬間、脳裏に何かが走ったような気がした。これが第六感……、俗に言う”ティンと来た”という物だろう。
その直感に従うように、ゆっくりとその人影を見た。
黒いセミロングヘアの女性。澄んだ琥珀色の瞳に、色白の肌。落ち着いた雰囲気の洋服に、控えめながらよく似合うネックレス。
俺は何の理由もなく思う。この子は、売れると。この子であればきっと、トップアイドルになってくれると。
気が付けば、俺は声を掛けていた。何の躊躇もなく、何の脈絡もなく。
『なぁ、突然で悪いが、君……。アイドルに興味はないか?』
「……はいー?」
のんびりとした様子のその女性は、驚いたような表情でこちらを見る。改めてその整った顔を見て、さっきの予感が正しいことを、証明してくれている。
『俺はこういう者だ……。ああ、いや、怪しい者ではない。と言っても、証明する手立てはないんだが……ううむ』
少ししどろもどろになりながら、とりあえず名刺を差し出す。自分の名前とプロダクション名、そしてプロダクションの電話番号だけが書かれた、小さな紙
社会的知名度がある社名なら、効果的ではあるのだろう。ただ、この名刺にそんなものは見込めなかった。世間的には零細プロダクションという評価の、無名な会社である。
なんとか自分の話術で、信頼を勝ち取らなければならなかった。ここまで気負うのは久しぶりな気がする。そもそも、スカウト自体が久しぶりだった。
「零細プロダクションのPさん、ですか?」
『あ、あぁ。そこで、まあ、スカウトと事務員とトレーナーと社長とマネージャーを兼務してる。だからこうやって、声を掛けたわけなんだが』
俺は自分の担当している役柄をすべて並べ立てる。こう見れば、とても忙しいように見えるが、所詮は零細だ。仕事もなければアイドルもいないのである。
事実上平社員と何ら変わりはなかった。これも、少しでも彼女に興味を持ってもらうための、話術の一つだった。だますようで悪いとは思うが……。
「社長さん、ですかぁ」
彼女は首をかしげている。残念なことに、あまり効果は発揮しなかったらしい。これはゆゆしき事態である。しばらく話術なんてしてなかったから、なまっているのかもしれない。
何とかして興味を持ってもらわなければいけない。アイドルという職業を知ってもらえればきっと。ただ、その方法がない。
今の事務所での生活を始めて以来、最高の逸材を目の前にしている。もしかしたら、人生の中でも一、二を争うレベルかもしれない。
この子なら確実にトップになれる。まだ若造でしかないが、自分の目がそう言い張っている。逃してはならない。ただ、必死になってもならない。がっつくと、相手に不安感しか与えないからだ。
『と、とにかく、ええと、興味があったらでいいから、一度来てくれると嬉しい。なんなら今からでもいいんだが』
「えっと……」
『いや、今からなんて 信用はしてもらえてないだろうな。どうするか……。俺の連絡先を渡して話を、ああ、これじゃまるきりナンパじゃないか……』
「あの……」
『とりあえず、名前だけでも。あっと、まず一つ説明させてもらうと、これはナンパでもなんでもなくて、スカウト活動の一環で……』
「……ふふ」
俺のまくしたてるように、慌てふためく姿を見て、彼女は少し愉快そうに笑う。一方の俺はきょとんとした顔だ。変な人と思われたのかもしれない。少し、いやかなりがっついてしまっていた可能性が、否定しきれない。
『あ、えっと、どうかしたのか』
「ふふ、面白い方と思って。そんなにあわてなくても、私は逃げませんよっ♪」
優しげな笑みを浮かべて、俺の方を見てくる彼女は、どこか穏やかで、神々しいような雰囲気を纏っていた。一瞬、はっとして目を奪われる。次いで、安堵が訪れる。
いやいや、いけない。これではいけないぞ、俺。とばかりに、ペースに飲まれない様に少し頭を振ったその時、彼女の声が聞こえてくる。
「鷹富士茄子、ですよー」
『……は?』
「私の名前です、縁起のいい名前でしょ? 鳥の鷹に、富士山の富士、お野菜の茄子で茄子ですー♪ ナスじゃなくてカコですよー?」
『あ、ああ。ありがとう、ええと、茄子さんか。……すごい名前だな』
「でしょーっ? 私、運の良さにはすっごく自信があるんです」
とても楽しそうに、彼女は笑う。確かにどこか、彼女の笑みには縁起の良さを感じさせられる。実際、本当に運がいいのだろう。そんな不思議な説得力があった。
ただ、こんな寂れた神社で、今までほとんど人とも会わなかったのに、そこでとてつもない逸材と出会った俺の方が、運が良いだろう。
運の良さ、という意味では、俺の方に軍配が上がるんじゃないか。何せ、この邂逅は彼女にとっては、不運なことかもしれないのだから。
『ところで、名前を教えてくれたってことは……』
「はいーっ! 少しお話を聞いてみたいと思いました!」
『本当か……っ! いや、ありがとう、茄子さん! 君ならきっと、いや間違いなくトップアイドルになれる! 言い切ってもいいぞ!』
一気に胸のつかえと肩の荷が下りた気分だ。大きな声が出てしまう。思わず手を取ってしまいそうになるが、ぐっとこらえる。
まだ信頼を得ていないのに、そんなことをしてしまえばせっかく興味を持ってくれたのが台無しになってしまう。近頃はその手のスキャンダルも多いし、こんなことで身を滅ぼすわけにはいかない。
お陰様で、行き場を失った俺の手は、しばらく宙を浮遊した後、やがて穴に隠れるように俺のポケットへと収まる。
「ふふ、やっぱり面白い人ですねっ」
その様子を見て、彼女はまた笑う。やはり、俺の目は彼女の顔を見てしまう。……どうやら、彼女は早々に、一人目のファンを獲得してしまったらしい。俺としたことが、不覚を取ったようだ。
ただ、こんな気分は久しぶりだった。笑みこそ浮かべないが、俺は穏やかに彼女を見る。
そして彼女は、笑いながら言った。
「とりあえず……、宜しくお願いしますね、Pさんっ♪」
——これが俺と、俺にとって七人目の担当アイドルとなる、鷹富士茄子との出会いだった。
書き溜め分は以上です。少しずつ書いていきますので、またご機会があれば読んでいただけると幸いです。
『……お、来たか、茄子さん』
「おはようございますっ! Pさん、今日のレッスンは何時からでしたっけー?」
『ん? ああ、ええと、四時から二時間だな。今日は知り合いのトレーナーさんが引き受けてくれるそうだ』
「あ……。今日はPさんじゃないんですね」
『済まないな。茄子さんが優秀すぎるから、俺のトレーニング技術じゃ追いつかないところも出てきていてな』
俺は、少し困ったような表情を浮かべながら彼女を見る。彼女も、少し残念そうな表情で笑い返してくる。
彼女のトレーニングを開始して一か月。やはり俺の見立ては間違っていなかったらしく、彼女の成長は著しかった。
声量も文句はないし、透き通るような声と気立てのよさは、現役のアイドルと比べても遜色ないように思える。何より、ダンスの才能は目を見張るものがあった。
彼女には、アイドル的な動きの機敏さは無い。ただ、日本舞踊を習っているのか、それともその知識があるのかは知らないが、動作の全てに優雅さと穏やかさがあるのだ。
まるで剣道や弓道と言った武道の、残心が常に行われているかのように、尾を引く様な動きと言うのだろうか。例えて言うなら、光が動いた時にすぅっと出来る、軌跡の様な物がある。
そして、そののんびりとした性格と、屈託のない笑顔を絶やすことはない。どれだけ辛いレッスンの最中でも、彼女は微笑み続けている。無論、それが出来るギリギリの負荷でレッスンを行っているというのもある。
しかしきっと、いや確実にファンの心を魅了するだろう。何せ、一番傍にいる俺がそうなのだ。魅了されっぱなしと言ってもいいだろう。
客観的に見ても、彼女は可愛いし、綺麗で、そしてたおやかだ。可能であれば、ずっとレッスンを受け持ちたいところである。
……多少、独占欲の様なものがあるのは、致し方がないと自分に言い含めておこう。
「わかりました、Pさん。でも、Pさんのレッスン、楽しみなんですよー? 厳しすぎず、簡単すぎずで、私にぴったりですからっ」
『はは、そう言ってくれるのはありがたいな。何かあれば、また相談してくれ』
「はいっ、では行ってまいりますよー♪」
彼女はそういって、この寂れた事務所から出ていく。最初は、ふわふわとした雰囲気で危なっかしいと思っていたが、思いのほかしっかりしていると、今では知っていた。
書類もほとんどない、仕事もほとんどない事務所。彼女以外に所属アイドルはおらず、やることは彼女を鍛え上げる事、そしてパイプラインを太く、新しいものに替えて行くことだった。
鍛え上げるのも、俺自身で行っていたこともあり、必然的に一対一の場面が多かった。円滑なコミュニケーションの為、何度か彼女と食事に行くこともあった。
その甲斐あって、彼女からの信頼を勝ち得ることはできたとは思う。このどうしようもない事務所に愛想を尽かしてくれていないことが、証左になるだろう。
ただ、問題としては——。
『……少し、懐かれ過ぎたかな』
嬉しい事なのだが、目下それが現在の問題になりつつある。俺としても、不覚にも情が移りすぎて、移籍先のプロダクションを厳選しすぎるという弊害が出ていた。
アイドルを移籍させること自体は、もう慣れたことだ。させようと思えば、これまで何度も移籍をしているところに連絡を入れれば、今日明日で話はまとまるだろう。
だが、俺は彼女の才能に惚れ込んだ。適当なところに割り振って、端した移籍金を受け取る、なんてつもりは、頭の中から吹き飛んでいた。それに、彼女ならトップアイドルになれるだけの器量があるのだ。
まだ手元に置いておきたい、という独占欲も手伝い、せめて確実にトップアイドルになれるような場所に移籍させたい、と思うのは悪いことではないだろう。
(しかし、手持ちの選択肢が少なすぎる)
ただ現状は、かなり厳しいと言えた。中小規模の所に彼女の実力を完全に発揮させてやれるプロデューサーは多くない。居たとしても、その事務所の有望株育成に忙しいだろう。
一方、有名なところや大規模プロダクションとは、ほとんどパイプラインを持ち合わせていないし、俺自身の移籍の実績が多いともいえない。
これまで移籍させてきたアイドルたちは、それぞれがちゃんと開花しているようだったが、まだ有名と言うには遠かった。つまり、それではまだ移籍の実績としてはやや弱い。
裏技としては、有能なプロデューサーに、個人的にお願いすると言う方法もある。が、こちらも俺の数少ない人脈では、彼女に相応しいレベルのプロデューサーと連絡を取り合うことは叶わないだろう。
『……くそっ、こんなところで腐らせるわけには行かないってのに』
くしゃ、と頭を抱える。進んで広い人脈を作らないようにしていたのが、ここにきてあだとなっている。関わり合いをもう少しだけ持っていれば良かった、と後悔するも、今更だった。
ただ、彼女はこんなアイドル養成所に毛が生えた程度の、いやそれ以下の、零細プロダクションで終わらすような子ではない。何とかしなければならないのだ。
そんな時、ふと一つの言葉が脳裏をよぎる。
——いっそ、自分でプロデュースすればいい。
ばしん。事務所に大きな破裂音が響いた。
気が付けば、俺は自分で自分を叩いていた。右の頬と、右の手がじんじんと痛みを発している。
『……馬鹿か。俺は』
思わず浮かんだ、愚かしい考えを自分で消し飛ばした。自分は社長であり、スカウトであり、トレーナーであり、事務員であり、マネージャーだ。
ただ、”プロデューサー”ではない。それを、忘れてはならない。二度とプロデュースはしないし——できない。彼女の履歴に、俺の名前を出すわけにはいかないのだ。
『……ん』
パソコンで情報収集をしていると、目に留まったものがあった。そのリンクをクリックし、ページを飛ぶ。
『”シンデレラガールズ・プロジェクト”……?』
初めて聞くプロジェクトだ、と思った。詳しく読んでみると、数か所の中小プロダクションを買収、合併し、大きなプロダクションを作るらしい。その中には、自分がアイドルを移籍させたことのあるプロダクションも含まれている。
社長となるらしい人の写真を見るが、この業界では見覚えがない人だった。なんとなく見たことがある気はする。きっとどこかの実業家か何かなのだろう。
恰幅の良い、人の良さそうな人相だった。まだ四十台手前ぐらいの歳で、プロダクションの社長にしては、少し若い気もする。
少し気になって調べてみるが、特にヒットする項目はなかった。
ただ、これだけの資金を用意できるのだ。よほどの富豪か、敏腕な経営者であることは想像に難くない。俺はそのままページを読み進めていく。
すると、今度は完成予定の社屋の見取り図が表示されていた。完成予定の社屋はかなり整備されているようで、レッスン室やアイドルたちの休憩スペースとなる、カフェテラスやサウナルームなんてものも完備されているらしい。
しかも女子寮完備とまで来ている。本当にアイドルの為にできたようなプロダクションだ。シンデレラガールズ、という名前は伊達ではないらしい。
近年稀に見るレベルの、好条件のプロダクションだ。しかも、プロデューサーの質もかなり揃っているらしく、数も六人と、当面はおざなりにされることはないだろう。
『……ここだ』
ここなら、彼女をしっかり面倒見てくれるはずだ。確実に、トップアイドルの道へと乗せてくれる。
『……まずは、視察だ。良い具合なら、そのままアポを取り付けてもいいだろう』
小さく呟くと、俺は急いで準備を始める。がさがさと書類をカバンに詰め、事務所の電気を消して事務所を出る。
あまりにも、俺は急いでいた。彼女の為の道が見えたから。だから、気づくことはなかった。PCの電源がつけっぱなしだったこと。
そして、ぱた、と懐から小さなカードホルダーが落ちたことに。
今回分は以上です。あまり量がないのは遅筆なためですので、ご容赦ください……。
『ただ今戻りました……あらぁ?』
私が事務所へ戻り、ドアを開けようとすると、鍵がかかっていました。いつものことです。Pさんはいつも走り回ってらっしゃいますから。
初めて会った時は、ちょっとへんな人だと思いましたけど、とっても私のことを見てくれる優しい方です。ただ、あまり笑うところを見たことがありません。
あの人の行動は、全部私の為だとわかります。それだけに、私は少しさびしいと思っているのかもしれません。
そんな風に、Pさんのことを考えながら私は、カバンから事務所の合い鍵を取り出します。以前、Pさんが帰ってくるまで締め出しをされちゃいましたから、Pさんに貰ったものです。
あの時のPさんの慌てっぷりは、今思い出しても少し笑ってしまいます。
それに、どこか同棲している気分になりますねっ♪
『……オホン』
少し恥ずかしいことを考えてしまいました。反省です。Pさんには知られないようにしましょう……。
がちゃり、と鍵を開けると、私は電気をつけました。少し埃っぽい空気が、つんと匂って来ます。
『帰ってくるまで、何をしましょうか……』
あまり広い事務所ではありませんが、私はこの場所が好きです。あちらこちらに、Pさんの匂いと温かさを感じます。
私のために何とかしようとしてくれている、そんな優しさがとても染み渡ります♪
なので、お返しと言うわけではありませんが、お掃除でもしようかな、と思いました。ですが、Pさんのデスクの前が明るいことに気づきます。
『……あらぁ?』
ふと見ると、パソコンの電源がつけっぱなしになっています。よっぽど慌てて出て行かれたんですね。
うふふ、Pさんはいつもしっかりしているのに、少し抜けたところがあるから、私が傍にいないといけません♪ 私は、しっかり者ですからねっ。
『”シンデレラガールズ・プロジェクト”……?』
そんなプロジェクト名が銘打たれたページでした。ページをさかのぼっていくと、とても大きな建物の、グラフィック画像が表示されています。
『わぁ、大きいですねー♪』
とっても素敵な建物でした。しかも、いろんな設備まで付いています。マッサージチェアなんて物もあります。
『……こんなところに、いつかは行きたいですねぇ』
もちろん、Pさんと一緒に、です。いつもお疲れですから、マッサージチェアにきっと、座りっぱなしになってしまうかもしれませんね、うふふ。
『それにしても……』
この事務所は、他に人が居ないのでしょうか。Pさんだけしか今まで見たことがありません。
他のアイドルさんもそうですけれども、社長さん、みたいな方はいないのでしょうか。そういえば、社長室みたいなのもありません。
そうして歩き回っているうちに。
『……?』
何かを足で踏んだ感じがしました。硬くとも柔らかいとも言いがたいものです。ふと、足元を見れば、そこには小さなカードホルダー。見覚えがあります。
『……ふふ、懐かしいですね。もう一ヶ月ですかぁ』
それは、一ヶ月前。あの小さな神社で、Pさんが私に名刺をくれたときに、取り出していたホルダーです。
それを拾い上げると、ぱっぱと埃をはらいました。ずいぶんと使い込まれています。大切なものなのでしょうね。
『後でPさんに返しておきましょう♪』
一人で呟くと、本当に何気なく私はそれを開きます。ちょっとした好奇心でした。
Pさんのことをもっと知りたい、と思ったのかもしれません。いつも、私のことを大事にしてくれているPさん。いつも私のために走り回ってくれているPさん。
でもどこか、私から一歩下がって、ほんの少しだけ距離を置いているPさん。まるで、必要以上に親しくならないように。
『これは……Pさんですね』
そこには、Pさんの名刺が何枚かと、一枚の写真がありました。今のPさんと比べると、ほんの少し若いPさんが、初老の男性と一人の女性と一緒に写っている写真。
『綺麗な人……』
その三つ編みの女性は、とても綺麗な人でした。そして何より、笑顔が眩しくて。思わず見とれてしまいます。その隣にいるPさんも、とても楽しそうな笑顔を浮かべていました。
その瞬間、ほんの少しだけ、胸が痛みました。そして、それが嫉妬であることに気づいて、少しだけ赤面します。
それでも、私には一度も、この笑顔を見せてくれたことはありません。それがなんだか悔しくて、悲しくて、羨ましくて。
『P、さん……』
あの人の名前を、小さく呼びました。それとほとんど同時に、がちゃり、と事務所のドアが開く音がします。私は少し体を震わせて、振り返りました。
そこに居たのは、Pさんでした。彼は肩で息をして、とても急いでいるように見えました。それは、私が知っているいつものPさんです。
ですが、表情はまるで違います。
彼の顔はまず驚き、次第に焦りが混ざっていくように見えました。そしてその目は、私が持っている小さなカードホルダーに向けられています。
彼は口を開きました。とても静かなのに、今まで聞いた事のないほど、低い声で。
「——返せ。それを、俺に返すんだ、茄子さん」
今回の更新はここまでです。まだ少し書いている部分はあるのですが、少し長くなりそうですので、短めになってしまいました。
ご容赦いただければ幸いです。
>>23
訂正です……。
×社長さん
○他の事務員さん
×社長室
○事務室
が正しいです。脳内保管していただければ幸いです……。
『悪い場所ではなかったな。いや、むしろ新設の事務所であのレベルなら、最高じゃないか』
俺は、件のシンデレラガールズ・プロダクションからの帰り道、そう呟いた。サイトのページでは完成予定、と書いてあったが、既に完成しほとんど稼動状態だった。新社屋は、とても綺麗で大きい。俺のあの賃貸雑居ビルとは大違いだ。
そのせいか、当然ながら自分以外の芸能関係者も何人か、視察に来ていた。
彼らはきっと、新しい同業者がどれほどの力を持っているのか、というのが気がかりだったのだろう。無論自分も似たようなものだが、彼らとはベクトルが違うことは自明の理だ。
(一週間後にアポイントメントも取れたことだ。何とか彼女をねじ込めればいいんだが)
自分と同い年ぐらいの、かなり人当たりのよさそうなプロデューサーが、自分の応対に当たってくれた。本当は事務員がいるらしいのだが、まだ稼働前なので出勤はしていないようだ。
事務員がいる、と言うことも評価ポイントだろう。これでプロデューサー個人の事務作業負担が軽減される。自分のように事務員を兼任していると、本当に時間が割かれるのだ。
つまり、プロデュース業に専念できると言うわけだ。中小規模のところは、プロデューサーが事務員を兼ねているところも多い。俺も、担当アイドルが一人でなければパンクしかねない。
(しかし、名刺入れを忘れるとは思わなかった……。予備を持ってたから良かったものの、名刺交換も出来ないところだった)
よっぽど急ぎすぎていたらしい。ようやく見つけた移籍先候補だったから、仕方ないと言えば仕方ないのだが、これでは社会人失格だ。
もう少しでせっかくの移籍をおじゃんにするところだった。反省しなければならない。
『……あぁ、後でちゃんと名刺入れ、回収しておかないとな』
社会人一年目のときに買った、ちっぽけなカードホルダーだ。ただ、それは自分にとって大切な思い出で、同時に自分の罪を抱く物だった。
そうして、事務所の傍まで戻ってくる。高層ビル街からは離れた、雑居ビルが立ち並ぶ場所だ。日の光が届きにくく、少し薄暗い。
ふと、なんとなく違和感を抱いた。そしてすぐにその正体を理解する。
『……ああ』
事務所に電気がついている。気が急いていたからきっと、切り忘れたのだろう。そう思った。が——。
『——茄子さん?』
人影が動いている。それに気づいた瞬間、俺は駆け出していた。となれば、答えはひとつだ。
彼女が帰ってきている。時計を見ると、午後六時二十分。もうレッスンが終わっている時間だった。当然だ、合鍵まで渡している。事務所に戻っているに決まっていた。
最悪の状態だった。なぜ落としたことに気づかなかったのか。もし殴れるものであれば、二時間前の俺を殴り倒してやりたい。
階段を一気に駆け上る。普段から走り回っているお陰で、心臓は強いはずなのに、鼓動の激しさは収まらない。そして、扉の前にたどり着くと、息を整える。ただ、すぐには整わない。
俺は、扉をゆっくりと開けた。その先には、大切な俺のアイドルの姿がある。あぁ、まだカードホルダーは見つかっていないのか。安心した、次の瞬間だった。
彼女が振り返った。その手に握られているのは、小さなカードホルダー。俺の大切な思い出と、忌まわしい過去の品。無意識のうちに、体の芯がカッと熱くなるのを感じる。
『——返せ、それを、俺に返すんだ、茄子さん』
至極穏やかに言ったつもりだった。ただ、それは俺だけの話だったらしい。茄子さんの顔が、少し恐怖で強張っている。少し頭を振って、もう一度穏やかに言う。
『拾ってくれたんだろう? いろんな人の名刺も入っているから、他の人に見られるわけにはいかなかったんだ。本当、茄子さんはいつも、よく気が付いてくれる。助かった』
そうして、ほんの少しだけ微笑んだつもりだった。ただ、俺はこんな些細な笑い方さえ、忘れてしまっていたらしい。頬が強張って、うまく笑えたようには思えなかった。
「あ、あの。すみませんっ、Pさん……。これ、拾って、少し中を見てしまって……。あの、でも綺麗な写真で、名刺は見てなくて」
一瞬、頭を石で殴られたような、そんな錯覚を覚えた。自分の過去の一片を見られた。それが、どうしようもないほどの気分の悪さを生み出している。
無論、茄子さんがあの写真で何かを察することはない。察することはないのだが……。
『言っただろう? 助かったって。怒ってなんていないさ。さ、返しなさい』
「はいー……。すみませんでした、Pさん……」
『大丈夫だ、ありがとう、茄子さん』
カードホルダーを受け取ると、それを無造作にスーツの内ポケットへ放り込んだ。そして、彼女の頭に手を置く。一瞬彼女の体がびくり、となった。
『済まなかった。驚かせたな』
「あ……」
少し涙目になっている彼女は、小さくそう声を出すと、ニコリと微笑を返してくる。不覚にも可愛い、と思ってしまった。後で自分に懲罰でも課さなければならない気がする。
『じゃあ、更衣室を借りるよ。着替えるからさ』
「……あ、はいー♪ わかりましたっ」
のんびりした彼女の声と華が咲くような笑顔を見て、少しどきりとする。それを悟られないように平静なまま、俺は更衣室へと身を滑り込ませた。
『……やれやれ』
茄子さんはもう、いつものペースに戻ってくれたようだ。だから、俺ももう気にすることはない。それにうまく話が進めば、彼女との縁はもうすぐ切れる。
きっと彼女は、トップへの道を歩むだろう。その隣に、俺がいる必要はない。いてはいけないのだ。きっと、邪魔をしてしまう。
——四年前と同じことを、繰り返すわけにはいかないのだ。
全然長くならなかったのでせめてこれだけ投下です……。
次はきっと長くなります、たぶん。
一週間後のことだった。
『……よし』
俺は小さく呟き、そして手に持っていた携帯端末をデスクに置く。この一週間、ひたすら奔走し続けた甲斐があった。ようやくそれが成果を結んだのだ。
「んぐんぐ、どうかしたんですかー?」
『お、茄子さん。丁度いい、こっちへ来てくれ』
「はーい♪」
向こうのソファで休憩していた茄子さんが、煎餅を片手にとてとて、とこちらへやってくる。その愛らしい姿にやっぱり一瞬目を奪われる。ペンギンの着ぐるみを着せれば似合いそうだ。
(……何を考えているんだ俺は)
自分を諌めつつ、俺は彼女を再び見る。本当に立派なアイドル……今はまだ候補生に過ぎないが、ともかくしっかりと成長してくれたと思う。
今でだって、地力だけ見ればそこらの二流アイドルに負ける要素は一ミリもない。そんな彼女が、慕ってくれている。面倒を見てきた身としては、本当に嬉しく思っていた。
『あー、実は重大なお知らせがあってな』
「お知らせ、ですかー? 楽しみです♪」
ふふ、と笑う彼女の表情は、本当に楽しそうで、嬉しそうだった。傍にいるだけで幸せになれる様な、そんな表情。可能なら、ずっとその顔を見て居たかった。
だが、それは無理なのだ。
『茄子さんの移籍が決まりそうだ。移籍先は、シンデレラガールズ・プロダクションと言う所だ』
「……え?」
その表情が、完膚なきまで叩き壊れる。茄子さんの目には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。罪悪感で胸の内が支配されていくが、それでも俺は続けた。
『こんな小さな事務所で終えられるほど、茄子さんは小さな存在じゃない。俺では、君をトップアイドルにしてあげられない。……分かってください、茄子さん』
「……ぴ、Pさんったら、冗談がお上手なんですからー♪ 騙されませんよー?」
彼女は笑顔を作る。それが作られた笑顔だと、分かってしまう自分が滑稽で、見苦しい。それほど彼女のことで頭がいっぱいだった自分が、今こうやって彼女を苦しめている。
『……すまない、茄子さん』
笑顔が痛かった。だから、それを早く終わらせたかった。全てが、俺のエゴだ。彼女を苦しめているのも、この移籍も、彼女をアイドルに引き込んだのも。それを理解していてなお、止めるつもりはなかった。
『先方にはすでに話が伝わってる。移籍予定は来週の頭になりそうだ』
「……本当、なんですね、Pさん」
『……ああ』
彼女は、少しだけ悲しそうに俯くと、ゆっくりと顔を上げ、そして笑う。
「……っ、分かりましたっ! Pさん、本当にお世話になりました。この一か月、本当に……、本当に楽しかったですよっ」
『ああ、俺もだ。茄子さんに会えたことは、たぶん人生で一番幸運だったんじゃないか、って思うほどね』
自分で聞いていて、白々しいと思うほどのセリフ。今、まさに売り捨てようとしている相手に対してこんなことを言えば、逆上されること請け合いだ。
それでも——。
「うふふ、私、運が良いって言ったでしょ? Pさんにおすそ分け、ですよっ♪」
彼女なら、きっとそう言うだろう。それが分かっているから、俺は救いようのないクズで、どうしようもない下種野郎だ。
『それじゃ、俺は最後の詰めに行ってくる。茄子さんは……、もう、今日のレッスンはなかったな』
「はいっ、今日はもう終わりですよぉ」
『そうか、じゃあ気を付けて帰ってくれ。最近は物騒なことも多いからな』
わざと、突き放すように俺は言う。これ以上、入れ込んではいけない。彼女に、恨みこそ抱かせても、名残は抱かせてはいけない。それに……。
『じゃあ、ね。戸締り、宜しく頼んだよ』
「っ、……はいっ!」
俺は、振り返ることなく事務所を後にする。カンカン照りの太陽が、まるで彼女に酷く当たった俺を責めるように、その光で俺を突き刺してくる。
扉を閉める。ばたん、と錆びた鉄扉が閉じる寸前、微かにすすり泣きが聞こえた気がした。
俺はそれを聞かなかったことにして——シンデレラガールズ・プロダクションへと向かう。最後の契約を、書面でまとめるためだ。俺は大通りへと出ると、適当なタクシーを捕まえる。
『シンデレラガールズ・プロダクションへ。ええと、この大通りをずっと行って、中央環状の交差点を曲がって……、ああ、はい、それです』
行先をタクシーの運転手へ伝える。そして、カバンの中から、一枚の写真を取り出す。
それは、少し前に茄子さんと一緒に撮った写真だった。俺と茄子さんが出会った、あの神社で、記念に取りたいとせがまれたものだった。
それを、小さく折りたたんで、カードホルダーの中へと入れる。これで、彼女は無事に、”過去の人”だ。
『茄子、だけにってか。……はは』
俺はそんな駄洒落を零すと小さく自嘲し、少し目を閉じた。
そのまま、ほんの少し寝入っていたようで、気づけばシンデレラガールズ・プロダクションの社屋傍まで来ていた。
「お疲れのようだな。あんまり、思いつめなさんなよ、兄ちゃん」
運賃を支払うときに、運転手の男性にそう言われた。何も知らない人にそう言われるほど、自分は思いつめたような顔をしていたのだろうか。
『……うわっ』
手鏡で確認すると、まるで亡者みたいな顔がそこにあった。これではいけない。今から契約をまとめるのに、こんな顔で行くわけにはいかない。
少し気を引き締め、そして手鏡をカバンに仕舞うと、俺は社屋の中へと入っていく。
『お久しぶりです。以前ご連絡を差し上げた、零細プロのPですが』
「お久しぶりです、Pさん。社長がお待ちです、こちらへ」
応対に出てきたのは、一週間前に視察へ来た時に、応対をしてくれたプロデューサーだった。身なりもよく、愛想もいい。彼みたいな人なら、茄子さんを任せられるだろう。
「どうかなさったのですか?」
『ああ、いや。なんでもないですよ。さ、行きましょう』
どうやら少し凝視しすぎていたようで、怪訝な顔をされた。当たり前だ。いきなり相手の顔を凝視したら、訝しむに決まっている。
そうして案内された応接室では、すでにプロダクションの社長が待っていた。サイトの紹介ページと同じ、恰幅の良い中年男性だ。ただ、やはり社長としては幾分若い気もする。それに、やはり見たことのある顔の気がする。
「おお、待っていたよ、Pくん。ささ、どうぞかけて」
『はい、では失礼をします』
そう断ってから、俺はソファに腰を掛ける。そして、カバンを開くと、中から書類を取り出した。契約条項に関するものから、手続きに関するものまで、全部揃えてある。
『契約条項に関しては、メールでのやり取りで確定しています。ご確認を』
「ふむ……。なかなか、手際がいいね」
社長は、俺の顔を見ながらそうまじまじと言った。褒められるのは悪い気はしない。それに、これだけ手際よく移籍を終わらせられれば、きっと社長も茄子さんに期待をかけてくれるだろう。
俺は、安心しきっていた。だから社長の放った、唐突な言葉の矢を、避ける事も、防ぐこともできなかった。
「やはり君は、いいプロデューサーなのだね」
頭を横合いに殴りつけられたような気分だった。一瞬言葉に詰まる。ただの社交辞令に、ここまでの反応を示すことは訝しまれる。
一刻も早く平静に戻らなければならない、と心を静めた。幸い、社長は訝しんでいる様子はない。ただ、じっと俺を見ているだけだった。
『っ、滅相もない。私など……』
俺は愛想笑いもできず、そう卑下した。そして、一瞬遅れていつも浮かべる業務スマイルを顔に張り付ける。
どこか、社長の顔が厳しくなった気がした。
「……契約条項に関しては、こちらとして異論はない」
『ありがとうございます。では早速サインを……』
「その前に」
社長は、神妙な顔つきで俺を見る。蛇に睨まれた蛙のように、俺は固まってその目を見据える事しかできない。
「一つ聞きたいことがある」
『……は、何でしょう』
「なに、簡単なことだよ、Pくん。私は、アイドル業に関してずぶの素人だからね。聞かせてほしい」
社長は、まるで値踏みをするような目で、俺を見てくる。彼は、沈痛な声で、俺の心に突き刺さるような言葉を吐く。
「——手塩にかけたアイドルを売り払う、というのは、どういう気分だね」
一瞬、絶句した。何も言葉が出てこない。本日二度目の、頭を横合いに殴りつけられたような衝撃が、体中を駆け巡る。
『え、と。それは、どういう意味ですか』
数秒固まって、やっとひねり出した言葉は、そんな情けないものだった。
社長は、厳しい目のまま俺を見て、そして口を開く。
「零細プロのP社長。うちのプロデューサーたちに聞いたところだと、この一年の間に、六人もアイドルを売り払っているそうじゃないか」
『……それは、確かに事実です』
「しかも、そのアイドルたちは皆、将来性のある若手アイドルだと言う。それほどの人材を、なぜ売る必要があるんだい?」
『……うちには、プロデューサーがいませんから』
「君が、プロデュースしていたわけではないのかね?」
『……私は、トレーナーで、社長で、事務員ではありますが、プロデューサーではありませんから』
「そうか、なるほど」
彼はため息をついた。なぜ、そんなことを詮索してくるのか。これ以上、彼女のことで頭を煩わせたくはないんだ。
これ以上、彼女と一緒にいれば——彼女のことを諦められなくなりそうで。まだ、今なら引き離せる。彼女から自分の様な悪い虫を。
「有益な話が聞けて良かったよ。ただ……今後、君の所と、移籍取引をしたいとは、思わないがね」
彼は、やれやれ、と言った様子で書類にサインを書き進めていく。一刻も早く、この無駄な時間を終わらせたい、と言った様子だ。
「Pくん。君と私は、立場こそ同じ社長だから、あまり偉そうなことを言うつもりはないが——」
サインを書き終えると、社長は厳しい顔で言う。
「今の君には、あまり魅力を感じないね。分かるかな。ティンと来ないんだよ」
『……』
「まあ、君が何のためにこんなことをしているのかは知らないが……。あまり、自分を隠し過ぎると、君の為にならない。きっと後悔するよ」
彼はまた、ゆっくりとため息を吐いた。
一方の俺は、内心煮えくり返っていた。
何が”偉そうなことを言うつもりはない”だ。何様のつもりだ。
俺の何を知っている。この業界の黒い部分を知らない、新入りのくせに。
いくつもの言葉が、何度ものど元まで出かかる。その度に、俺は抑え込んだ。ここで暴発しては、せっかくの移籍話がおじゃんだ。
『はは、これは手厳しい。確かに、私の手で連れて行ってやれれば一番だったでしょう。ただ、私は彼女の為に、移籍と言う手段で、トップアイドルへの道を切り開いて見せましたよ』
四年前と同じことを、繰り返すつもりなんて、俺は微塵もなかった。”あの時”とは違う。その為に、俺は耐えて、忍んで、抑えこんできた。激怒しながらでも、冗談が言える程度には。
だから、ぽっと出の、こんな男に俺の艱難辛苦は理解できないし、理解されたくもない。だから、俺はいつも通りの業務スマイルを浮かべて言う。
『ご忠告、ありがとうございます。私も、まだまだ若輩ですから、これから何かご迷惑をおかけすると思いますが……。また、ご縁があれば』
俺は、暴れまわる心の折り合いをつけながら、至極穏やかな声でそう言った。どこか、社長が残念そうな顔をしている気がする。まるで、暴発を待っていたのに、と言わんばかりだ。
彼はこの契約をおじゃんにしたかったのだろうか。それなら、ざまあみろ、だ。俺は耐えきってやった。クソッタレめ。
『では、本日はこのあたりで失礼いたします、社長』
「……ああ、また機会があれば、ね。Pくん」
社長は、やはりどこか残念そうな表情で、契約書をファイルの中に入れる。それを確認すれば、俺はまた業務スマイルを張り付け、そして一礼をする。
立ち上がれば、俺は社長の顔を見ずに、さっさと退出しようとする。
「Pくん」
その俺を、呼び止めるように社長は呼んだ。俺は足を止め、振り返る。彼は、やはり厳しい表情で口を開く。
「最後にもう一つ、いいかい」
『はい、何でしょうか?』
これ以上俺に何か聞くことがあるのだろうか。まだ暴発を待っているのか。その手には乗らない。そう思いながら、少しうんざりとした気持ちを抱きつつ、俺は聞き返す。
「君にとって、アイドルとは利益を出すための道具なのか?」
『……ありえない』
思わず口をついてしまった言葉は、幸いにも社長には聞こえなかったらしい。俺は言葉を一つ一つ選び、そして頭の中で慌てて組み立てる。
『いつでも、私はアイドルのことを一番に考えていますよ、社長。それは、間違いありませんから』
そして、そんなテンプレートの様な言葉を、業務スマイルに添えて送りつけた。社長は小さく目を閉じると、言った。どうにも、測りかねているような表情だ。
「そうか……。いや、すまないねPくん、時間を取らせた」
『いえ……。それでは、失礼します』
俺は、勝った。喜ばしい事のはずだ。だが、心は晴れない。やはり、どこか胸糞の悪さは取れない。
そうして、応接室から出ると、さっきの若いプロデューサーが待っていた。
「Pさん、玄関まで送らせていただきます」
『ああ、すみません。わざわざ』
「いえ、プロデューサー業がずっと夢でしたから。これも立派な仕事ですよ」
彼は笑った。清々しいほどの笑顔だ。俺もあんな笑顔を浮かべていた時期があったと、少し感傷的になる。そこから、いくつか会話をしたのは覚えているが、話の内容までは覚えていなかった。
もうすぐ、自分の手から茄子さんが離れるのだ。これまでもアイドルが手を離れていくときは、胸がざわめいた。
ただ、今回はちょっと、感覚が違う気がする。それが何かは、俺には分からないが……。
『よろしくお願いします』
「……はい?」
唐突に口から言葉が出た。もしかしたら、本当は涙を出したかったのかもしれない。どうやら薄情な俺は、小さな水滴一つ、目からこぼすことが出来ないらしい。
『うちの茄子を、どうかよろしくお願いします。そう、次のプロデューサーの方へ、お伝えください』
俺は頭を下げた。彼女との、決別を決意するための言葉。これで俺と彼女は赤の他人だ。彼女は強い。きっと、俺のことなど忘れてくれるだろう。
「分かりました。確かに、お伝えいたします」
彼は、笑って言ってくれた。これで、思い残すことはない。とても、心は晴れやかな気分だ。そうに違いない。僅かにのこるこのもやもやは、きっと達成感だと、自分に言い聞かせる。
『ありがとうございます。……では、またご機会があれば』
「はい。ご足労、ありがとうございましたPさん」
彼はそういって見送ってくれる。俺は踵を返し、シンデレラガールズ・プロダクションの社屋を後にする。
そして、近くのタクシー乗り場でタクシーを捕まえると、そのまま自宅へと向かった。外は少し薄暗くなってきている。もう今日は、事務所へは帰らないつもりだった。
仕事がないし、時間も遅い。自分で自分に、そう言い聞かせた。
茄子さんと、鉢合わせるのが怖かった。その言い訳の、隠れ蓑にするために。
少し間が空いたせいで多くなりました。卒研はなかなか大変ですね。
今回は以上となります。
——今までありがとうございました、Pさんっ!
ああ、ちくしょうめ。まただ、またこの夢だ。胸糞の悪い夢。自業自得と、自己嫌悪が混ざり合った、醜い夢。
居並ぶアイドル達。今まで六人だったそれが、七人に増えている。最後の顔は——茄子さんだ。
勘弁してくれ。これ以上、俺を苦しめないでくれ。
そういっても、もう意味のないことだ。俺は彼女達を売った。自分のエゴでしかない罪滅ぼしのために。その事実は変わらない。
これは天罰か、天誅か。きっと永劫、この夢に苦しめられるのだろう。
それでもいい。それで彼女達の華が開くなら——。
これは清廉潔白な自己犠牲なんかじゃない。彼女達の意向を無視している以上、これもやはりエゴでしかないのだろう。
だから、俺は心を殺して、何度でも言うつもりだった。これが、俺への罰。
いいぜ、甘んじて受けてやろうじゃないか。感情を殺すことは慣れたものだ。ゆっくりと、俺は口を開く。
——。
声が出ない。なぜだろう。すぅっと出てくるはずの、”応援している”の言葉。何で今日に限って——。
『ッ……!』
眼を覚ました。ここはどこだ。そう思って、俺は見回す。薄暗いオフィス、ぽつんと置かれた机、減った書類、消えた活気。いつもの、そしてかつての事務所だ。
『ああ、また寝入ってたのか……』
俺はそう独語した。やることがなくなってからはや一週間。完全に俺は無気力の人形になっていた。
茄子さんが移籍したために、仕事がなくなったというのも理由の一つではあるが、どうしようもないほどの虚無感が体を襲っているためだった。燃え尽き症候群と言うやつだろうか。五月病にはあまりにも遅すぎるだろう。
それに、スカウトをする気も、小規模なオーディションを開く元気もない。いつもは、アイドルが移籍してから二日ほどで、小規模なオーディションを開催していたのだが……。
『……はぁ』
結局、移籍当日まで彼女とほとんど話すことはなかった。レッスンも、知り合いのトレーナーさんたちに頼んだだけである。当日も、見送りに行くことはなかった。
我ながら女々しいと思う。売り捨てておきながら、未だに茄子さんに未練があるなど、男としても人間としても下劣極まりない。
あるいは、こんな近しい場所にいるからなのかもしれない。シンデレラガールズ・プロダクションとは、行こうと思えば行ける距離だ。精神的にも、距離的にも、彼女から離れたほうが、彼女のため——いや、自分のためだろう。
彼女のため、だなんて偽善ぶっているから、俺はいつまでたっても彼女のことを忘れられない。意志薄弱な人間だと、自分で思う。かつては、そうでもなかった気もするが……、それももう、遠い昔の話だ。
(……一念発起、かな。はは)
心中で小さく俺は呟き、そしてポケットのカードホルダーから、二つ折りの写真を取り出す。茄子さんとのツーショット写真だ。どうしても撮りたいと、茄子さんが言って聞かなかったから、仕方なく撮ったもの。
今では、彼女と俺を繋ぐ唯一の証拠の様なものである。今思い返すと、まんざらでもなかったが、これも近々手放す必要があるだろう。
そして、あの写真も。
俺は茄子さんとの写真を、さらに小さく四つ折にして、スーツの裏ポケットへ放り込んだ。もうすぐすれば、このスーツを着ることはない。いっそ、実家に一度帰って、タンスの奥にでも仕舞うか。
十数年後に、思い出して懐古するのも悪くない。はは、と小さく鼻で笑うと、
『……潮時だな』
そう、小さく呟いた。
この事務所の賃貸契約の破棄料を支払っても、余りあるほどの金はある。移籍金で上げた利益だ。向こう五年ほどは、質素にしていれば十分暮らしていけるだろう。
『はは、アイドルを売って稼いだ金で、悠々自適な快適ライフか。俺らしい』
また小さく自嘲を零す。事実上、人身売買で手に入れたといっても過言ではないのだろう。やはり、下劣極まりない。最低の人間だ。
ゆらり、と俺は立ち上がると、動き始める。また、手続きが増える。ただ——きっと、もうこれ以上はないだろう。この事務所でする、最後の手続きだから。
今回はここまでです。短くなりましたが、少し書き溜めがあるので、また明日にでも投下できると思います。
(終わった、な)
俺は心中で、そう独語した。目の前のちっぽけなオフィスの中には、もう何もない。デスクも、ロッカーも、簡易の更衣室も、何もない。全て引き払った。
茄子さんが移籍してもうすぐ二週間になる。彼女の消息は聞かないが、きっと上手くやっているのだろう。便りがないのは元気な証とも言う。
もっとも、俺の連絡先を彼女は知らないだろうから、便りを出すこともできないのだろうが。最初に渡した名刺も、この事務所のものだ。その電話も、解約した。
シンデレラガールズ・プロダクション以外の、面識のある人には、事務所を畳むことを伝えている。もう迷惑は掛からないだろう。
所詮は零細プロダクションだ。こんな事務所は世の中にごまんといる。そのうち一つが潰れたところで、業界に砂粒を投げ込んだ程度の波紋も出ないだろう。
あのプロダクションに伝えなかったのは、正直言うと、茄子さんにそれが伝わるのを怖がった。無いとは思うが、俺が消える前に彼女が俺の所へやってきたら。いろんな決意が壊れてしまうそうで。
彼女と今喋ってしまえば、胸が張り裂けそうになるだろう。今ならいろいろなことが、正直に口からこぼれ出そうだった。そんなのは、俺には許されない。
四年前と同じように。猫のように、いなくなるときは唐突に、そして静かにいなくなるべきだ。彼女をこれ以上、煩わせてはいけない。後は全部任せたのだ。テレビに出てくるその日まで、俺は待っていればいい。
もっとも、かっこいいことを言っているように聞こえる多くは、俺のエゴだと思う。こうやって、自分の中で予防線を張っているのが、いい証拠なのかもしれない。達観ではない。彼女に責められたくないからだとも、重々承知の上だった。
『……ああ』
そういえば、すっかり忘れていた。やる気がそがれていた後、すぐに事務所を畳む準備を始めたので、いつもの神社に参拝していない。
思えば、あの神社が全ての始まりだった気がする。あんな寂れた神社で、こんなに惚れ込む女性と出会えるだなんて。
『本当に惚れていたのかもしれないな、はは』
自分で冗談を零し、笑う。笑ったのはしばらくぶりだ。こんなくだらないことで笑える自分も、くだらない。ああ、自嘲と自虐の塊じゃないか、俺は。昔はもっと、いやだいぶ正直だったはずなんだが……。
それに、恋愛なんて、もうずっとしていない。もしそうなら、高校生のとき以来か。あと数年で三十路だから、八年ほど前になる。通り過ぎた青春時代だ。
(……くだらないこと考えてないで、さっさと行こう)
俺は小さなカバンを持つと、事務所のドアを開ける。どんよりと曇った空が、ビルの隙間から俺を見下ろしていた。
がちゃこ、と鍵を閉める。鍵はあとで不動産業者に郵送すればいいらしい。俺は小さく一礼をする。
『……一年間、世話になりました。ありがとうございます』
それは事務所への感謝。こんな未練の塊である自分を、いつも迎え入れてくれた。幾ら小さくても、幾ら薄汚れていても、幾ら薄暗くても、それは変わらない。
『……行くか』
そうして、俺は事務所の階段を下りていく。カン、カンという、革靴の底が、鉄を叩く音が響く。
相変わらず、このビル街は薄暗い。よく考えると、どうしてこんなところで、アイドル候補になる少女達を育成していたのだろう、と突っ込みを入れたくなる。事件に発展しなくて良かった、と今更ながら思う。
自分で言っていておかしいが、俺が見出した子は可愛い、あるいは綺麗に分類されるはずだ。内面はさまざまであったが、それは間違いないだろう。
一応治安のことは考えていたし、極力自分が付き添うようにはしていたと言っても、潜在的な不安は多かったに違いない。
だが、それも今日で終わりだ。俺の役目は終わった。いや、最初からなかったのかもしれない。俺はただの、未練だけの存在だった。
十数分歩いて見えてくる神社の石段は、緑に包まれている。うっそうと生い茂る雑木林や雑草は、都会の中では少し浮いているように見えた。
一段、一段をゆっくりと噛み締めるように上っていく。ほんの二十段ほどの石段が、酷く高く感じる。
そして石段を登り終える。さぁぁ、と風が吹き、雑木林が音を立てる。一瞬、雲の隙間から光が差し込み、眩しさで眼を閉じる。
そしてゆっくりと眼を開けた。
『……相変わらず、誰もいないな』
そこには、いつもと変わらないあの神社。誰が世話をしているのかわからない本堂と、その前に置かれた小さな賽銭箱。何の神様を祭っているのかさえ分からない、ちっぽけな神社だ。
ただ、この神社は俺にとって思い出の場所であり、そして贖罪の場でもある。だから、最後の今日ぐらいは、奮発してもいいかな、と思い、財布を取り出す。
『まあ、金はあるんだ。これからおいおい考えていけばいいしな……』
そんな成金のようなことを呟きつつ、俺は半ば自棄になりながら賽銭箱へ一万円札を突っ込む。きっと、賽銭の回収に来た宮司はびっくりすることだろう。
『……ん?』
ふと、本堂の上に書かれた、掠れた文字が見える。どうも、”開運”と書いているらしい。それ以上は読めなかった。
(占いかよ)
内心そう突っ込みを入れながらも、俺は拍手を打ち、そして祈る。
(茄子さんが、トップアイドルになれますように。あとは——彼女が幸せになれますように)
そう、祈った。彼女は運がいい。実際、一緒にいたときは何度も、運のよいことがあった。失くしたと思っていた物もよく見つかったし、一度だけだが懸賞にも当たった。彼女が入れてくれるお茶は、しょっちゅう茶柱も立っていた。
だが、そんなことなんかよりも、彼女と出会えたことが一番の幸運だ。人生で一番幸せだったと、言ってもいいのかもしれない。
ただ、俺が幸せになっても意味がない。彼女が、茄子さんが幸せでなければならない。きっと、それはトップアイドルになるのが一番手っ取り早い事だろう。
彼女は、実力がある。だが、トップアイドルになるには、実力だけではない。運もいる。実力だけではどうにもならない。それを、俺はよくよく知っている。
『……はは』
乾いた笑いしか出ない。神なんて信じるつもりはあまりないが、それでもせめて彼女にだけは微笑んでくれ。そう思って、俺は小さく息を吐く。
もう、これ以上はよそう。そう思って俺はカバンを握りなおし、踵を返す。ざり、ざりという参道を踏みしめる革靴の音が響いた。
ふと、気が付いた。ゆっくりと、石段を登ってくる人影がある。
(珍しいな、こんな寂れた神社に。そういえば、あの日もそうだったな)
少し、懐かしい気分になった。その人影はゆっくりと石段を登りきって、そして参道へと足を踏み入れる。
同時に、俺は体の動きが完全に止まるのを感じた。
黒いセミロングヘアの女性。澄んだ琥珀色の瞳に、色白の肌。落ち着いた雰囲気の洋服に、控えめながらよく似合うネックレス。
何もかもが、あの日と同じだ。ただ一つ違うところは——。
「こんにちは、Pさん」
ふんわりとした雰囲気で彼女は——鷹富士茄子は、俺の名を呼び、俺に笑いかける。その笑顔が、その声が、その姿が、俺の薄弱な意思を貫いた気がした。
今回は以上です。次はたぶん長くなると思うので、日が空くかなーと思ったりします。
来週半ばには投下したいところですね。
完全な沈黙が、神社を支配した。聞こえるのは、梢が触れ合う音と、風が通り抜ける音。俺は、掛ける言葉一つ見つからず、呆然としたまま彼女を見つめ続ける。そして、彼女もその琥珀色の瞳で、俺を見つめ返す。
まるで、その瞳が俺に言っているような気がした。”見つけた”と。
『……な、んでここに?』
ようやく出た言葉は、そんな言葉だった。
「言ったでしょ、Pさん。私、運のよさには自信があるんですって♪ ここにくればPさんに遭える気がしたんですよーっ」
何一つ変わらない、いつもの茄子さんだ。彼女は微笑んだ。こんな状況でさえ、その笑みに眼を奪われる俺が、滑稽なのか、それとも愚鈍なのか。自分で自分を殴りたくとも出来ない、そんな状況だった。
「酷いですよー、Pさん? 何も言わずに居なくなっちゃうなんて、私悲しいです……」
彼女はそういって頬を膨らませる。いや、それよりも。
『……なんのことかな、茄子さん?』
「事務所、畳んじゃったって聞きましたよー? 社長さんから教えてもらいましたっ」
『はは、シンデレラガールズの社長には伝えなかったはずなんだがなぁ……』
「”この業界の狭さを舐めちゃいかんよ、Pくん”って言ってましたよ♪」
『はは……』
この期に及んで、苦笑しか出なかった。この業界の素人と舐めきっていたあの社長に、そんな初歩中の初歩を再確認させられるだなんて、俺も焼きが回ったのかもしれない。
『それで、茄子さんは何のためにここへ?』
「言いましたよ、Pさん。Pさんに会いに来たんですっ」
『……は、何をいまさら』
「Pさんは」
俺の言葉を遮るように、茄子さんは言葉を紡ぎ、選んでいる。そして、絞り出すようにまた声を出した。
「今、幸せですかー?」
その言葉に一瞬、言葉が詰まる。俺は確かに、自分勝手な目的を果たしつつある。ただ、幸せかと言われれば——。
『幸せでは、ないね』
思わず、本音が出た。……自分の中の、何かがおかしい。もしかすると、出会うはずのなかった人と出会ってしまったから、動揺しているのかもしれない。
「やっぱり、そうでしたかぁ。とてもつらそうな顔をしていますから」
俺の正直な返答に、彼女は微笑む。女神のようにさえ思えるその笑顔は、やはり酷く胸に突き刺さる。そして、閉じたはずの心の栓を、引き抜きにかかる。
これ以上はいけない。何とかしなければ。引き留められるわけには行かない。それに、俺は今や一般人だ。こんなところを週刊誌に撮られれば、彼女の経歴に傷がつきかねない。
いや、未だデビューしていないのだから、週刊誌も糞もないはずだ。じゃあ、なぜ彼女から離れたい?
そう思うも、それに応えてくれる存在はどこにもない。全部を解決してきた俺の頭も、良質な案を絞り出すことはできない。
ただ、少なくとも、物理的に逃げれば、きっとこの状況から脱することはできるのだろう。訳の分からないこの不安感の様なものから抜け出せる。
だが、俺の中の何かは言っている。理性ではない何かが、ここで逃げれば、本当に後悔する、と。今ならまだ取り返せる、と。
(馬鹿な、いまさら何を取り返すってんだ)
自分の勘にそう反論しても、それは答えてくれることはない。ただ、警鐘を発し続けるだけだ。
「Pさんは」
茄子さんは続ける。微笑んでいるその表情は、なんともいえないものだった。怒っているのか、恨んでいるのか、判別できない。
「私と一緒に居て、楽しかったですかぁ?」
『……あぁ、楽しかったよ』
「私と一緒にいて、幸せでしたかぁ?」
『あぁ、これ以上ないくらい幸せだった』
「ふふ」
茄子さんは小さく笑う。その笑みが、俺の中にすぅっとしみ込んできた。なんとなく温かい気持ちが広がると同時に、それを抑えようとする冷たい何かがじわり、とにじみ出てくる。
そうして、また俺が本音を吐き出していたことに気付く。今は本音の奔流を、ようやく理性の堰が止めている、と言った状態だろうか。やはり、かなり動揺している。自分でもそれが分かる。
ふと気づけば、茄子さんがその琥珀色の瞳を揺らし、俺の方へ一歩、歩を進める。それを、俺は抵抗もできず、止めることもできず、ただ立っているだけだった。
ざり、ざりと参道を歩く音が響く。そして、ぽふん、と体に衝撃が走る。何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。ただ、茄子さんが俺の胸に顔を埋めている事だけは確かだ。
そのまま、俺は蛇に睨まれた蛙のようにしばらく動けなかったが——少しして、体を震わせる。
『か、茄子さんっ、一体何を……! アイドルが、こんなことをしちゃいけない……ッ!』
「私も、一緒にいて楽しかったです。それに……とても幸せでした。だから……っ」
彼女は、俺の話も聞かずに、スーツをつかんで離さない。やんわりと振りほどこうとしても、堅く握った手を開かない。
胸に埋められたまま、彼女はむせぶように言葉を吐く。顔は、見えない。ただ、その表情がいつもの笑顔でないことは分る。分かってしまう。
「私と一緒にいてください……っ、私を、プロデュースしてください……っ」
彼女は、そう叫ぶ。大きくはない。ただその声は、俺の耳からではなく、胸から直接体を貫くように、染みわたってくる。
いいとも。幾らでもプロデュースしてやるさ。
本音が零れそうになる。その自分の、甘ったれた思考を握り潰し、俺は茄子さんの肩へと手を置く。彼女が顔を上げた。ああ、かわいらしい顔が台無しだ。やっぱり君には、笑顔が良く似合う。泣き顔なんて、似合わない。
『……できないんだ、茄子さん。俺だって、何度も考えた。だけど、俺にはその資格も、権利もない』
諭すように、彼女へ言い聞かせる。そして、彼女の柔らかい、しなやかな髪の上に手を置く。ぴくり、と茄子さんの体が震える。そして、そのままやんわりとさするように、撫でる。
『俺のことは、もう忘れろ、茄子さん。君は強い子だ、そしてそれに見合った才能がある。俺が保証する。だから——』
「出来るわけ、ないじゃないですかっ! 私は、Pさんのおかげでここにいるんですっ」
茄子さんがまた、叫ぶ。その声が、いちいち俺の胸に突き刺さる。ああ、君はそういう子だ。俺は茄子さんのそういう所に——。
『……四年前、俺のせいで潰れたプロダクションがある』
気が付けば、俺はそう言っていた。ひびの入った陶器から水が漏れだすように、するすると言葉が漏れだしている。
その俺を、茄子さんは少し頬を濡らして、見上げる。距離はゼロに近しい。キスをしようと思えば、出来る距離じゃないだろうか。
そうやって、自分に冗談を言って誤魔化そうとするも、言葉は止まってくれない。勘弁してくれ。この期に及んで、彼女に軽蔑されたくはないんだ。
『社長と、アイドル一人の小さなプロダクションでね。就職活動してたら、急に声を掛けられたもんだから、当時は驚いたなぁ。茄子さんも見ただろう、社長と、彼女と、俺が写っている写真』
「あの写真、ですか……?」
『ああ、俺が社長に一人前と、認められたときにね。入社してから半年だったよ。我ながら、驚異的と思えるね』
訥々と俺は話す。身を切るような苦しみは、もうない。今なら、自然に笑えそうだった。嫌われるなら、嫌われてもいい。それで茄子さんが俺を忘れられるきっかけになるなら。
『当時の俺は、まあ世間の知らないガキだったよ。ある日、唯一の所属アイドルに移籍の話が来てね。大手の事務所だったよ。俺は乗り気じゃなかったが、社長は担当プロデューサーの俺ごと移籍するなら、って条件で交渉に臨んだよ』
思えば、社長はいつでも俺とアイドルのことを考えていた気がする。あの人の下でいろんなことを学んだ。アイドルに対する接し方、体調とスケジュールの管理、事務処理やトレーニング技術、果ては経営ノウハウまで。
『向こうの態度は、横柄そのものだった。まあ、でも大手はこんなものだと社長に言い聞かせられてたし、腹は立っていたけど我慢は出来た。それより向こうに移籍した後に、上手く彼女がやっていけるよう、尽力する事ばかり考えていたね』
少し目を閉じて思い出す。温和な社長の顔が、今でも目に浮かぶ。そして、担当していた彼女の顔も。思えば、親子のように仲のいい二人だった気がする。
そんな場所に、自分がいてもよかったのだろうか。その思いが、今も胸に去来している。俺がいなければ、あの二人はきっと今でも、つつましいながらも仲良く活動できていたに違いない。
『だが、向こうの社長が言った次の言葉に我慢できなかった。うちの社長のことを馬鹿にしやがったんだ。”あんたの所みたいな、クズプロダクションにはやはり彼女はもったいない”ってね』
目を閉じたまま、俺は吐き捨てるように言った。今思い出しても、腹の中が一瞬で煮えくり返る。あの時ほど、俺は怒ったことはないだろう。自分でも、よく覚えていない。ただ、怒ったことだけを覚えている。
『結局、俺が散々暴れまわって移籍の話はご破算したよ。それだけならまだよかったけどね』
はは、と力なく笑い、ゆっくりと目を開け、茄子さんを見る。見つめ返してくる琥珀の瞳は、その先あったことを理解したようだった。
「……干された、んですね?」
『ああ、数少ない仕事全部、な。徹底的にこっちのパイプを叩き切ってきた。当たり前、だろうけどね。で、プロダクションは解散に追い込まれた。元々三人のプロダクションだからな、手続きは楽なもんだったよ』
自嘲するように、俺は吐き捨てる。分かっただろう、と俺は目で問いかける。これが、俺の短慮な性格が生んでしまった悲劇。いや、悲劇と言うには愚かすぎるだろう。罪と呼ぶのがふさわしい。
『それから俺は、独学でひたすら経営術を学びはじめた。いつか社長が、また会社を立ちあげれば駆けつけられるように、ね。でも、解散してから一年後に、社長が亡くなったという話を伝え聞いたよ。俺は、恩一つ返すことが出来なかった、役立たずだ』
未だ俺から離れる気配のない茄子さんの頭をぽん、ぽんと払うように撫でる。少し日が傾いてきたらしく、木漏れ日には赤い光が混じっている。その赤が、彼女の白い肌をスポットライトのように照らしていた。
「でも、Pさん」
『なんだ、茄子さん』
茄子さんの問いかけに、俺は答えた。そうして、少し息を吐いて彼女の方を見つめる。彼女は、少し涙を浮かべたまま、ニコリと微笑んだ。綺麗だ、と素直に思う。雅な華が開いたような気さえする。
「私は、そんなこと気にしません。私にとって、Pさんは優しくて、頼りがいがあって、えっと……恰好、いい人ですから」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。くそ、かわいらしい。女の涙に騙される男が多いわけだ。いや、騙されてもいいと思わせるだけの、可憐さと可愛さがあると、俺は今知った。
『……俺の名前はね、この業界の、一部のブラックリストに載ってるんだ。俺がプロデュースしても、茄子さんをトップアイドルには連れていけない。……また、潰されてしまうから。一緒には居られないんだ。茄子さんに迷惑を掛けたくはない』
実際、俺が移籍取引をしていたのは、中小プロダクション、それも新興の所ばかりだ。まだ俺の名前がブラックリストとして出回っていない場所。だから、移籍をさせることが出来た。
だが、俺がプロデュースするとなると話は別だ。仕事を引き受ける以上、俺の名前はどこかで流れてしまう。そして、かつての大手プロダクションの目に留まれば——茄子さんのアイドル生命は終わりだ。
そして、それに耐えられるだけの資金力も、コネクションも、俺にはない。大きなプロダクションには、それと対抗できるだけの力を持っているだろうが、総じてそういう場所は古参故に、俺のブラックリストが出回っているだろう。
起業の為の準備が三年、この起業してからの一年。この業界で生きていくには、とことんまでの零細となるしかなかった。いっそ、この業界から足を洗えばよかったのだろうが……。
「そんな、迷惑だなんて……」
『全部、俺のエゴだ、茄子さん。俺の見出したアイドルが、トップアイドルになる。そこに俺の名前は無くても、ね。本当に、完全な自己満足だよ。だから、俺には君を、アイドルをプロデュースする権利も、価値も、資格もないんだ。……俺が、何を望もうと、ね』
「では、聞こう。君は、何を望む?」
突如聞こえた男性の声に、俺の体が震える。とっさに、茄子さんから離れた。彼女が、少し名残惜しそうな顔をしていた。くそ、そういう顔を俺に向けるんじゃない。これ以上、俺に未練を残させないでくれ。
一瞬息を吐くと、俺は目を声の元へと向ける。石段の方からだった。見えた、見覚えのある顔。
「いやはや、本当に君がいるとはね。鷹富士くんの運、というのには恐れ入ったよ」
『シンデレラガールズの社長……? なぜ、ここに』
そこには、つい先日茄子さんが移籍したプロダクションの社長。憎々しい男だ。何度も、俺に暴発するよう差し向けた。四年前の悪夢を、何度も繰り返させようとした。その記憶が蘇る。
「昼過ぎ、君がプロダクションを畳む、という話を伝え聞いてね。それを鷹富士くんに言ったんだ。君ならきっと、四年前と同じで、突然いなくなる、とね」
社長はそう言って、少し渋い顔をする。まるで、悪い所だけは変わらないな、と言わんばかりにだ。
『あなた、一体何者だ……? 俺に、覚えはないんですが』
「それはそうだ。君とは、直接の面識はない。が、先生から後事を託されたからね」
『先生?』
「君がかつて所属したプロダクションの、社長だよ。君もよく知っているだろう? 彼は私の大学時代の恩師でね。経営に関する客員教授を務めてらしたよ」
『社長が……?』
初耳だった。目の前の男性と社長の関係も、社長が大学に務めていたことも。だが、そうであれば、シンデレラガールズ・プロダクションのサイトを見たときに覚えた、既視感の説明にはなるだろう。もしかしたら、かつて写真か何かで見ていたのかもしれない。
しかし、それなら尚更たちが悪い。俺がどんなことをあのプロダクションにしてしまったのか、彼は知っているのだ。それでもなお、俺に暴発させようとしたのか。
そして、少し唖然としたままの俺に、シンデレラガールズの社長は追い討ちを掛けるように言う。
「それで、君は先生のプロダクションが潰れたのは、自分の責任だと言いたいわけだね?」
『それ以外、何があるっていうんです? あなたが本当に社長のことを知っているなら、何があったかは聞いているでしょう』
「ああ、聞いている。……だが、残念なことに、勘違いも甚だしいと言わざるを得ないね、Pくん」
社長は厳しい顔をして、俺を見据える。ああ、この眼光。移籍交渉の時と同じ顔だ。俺を測ろうとしている。だが、何のためだ? それが、俺には分からない。
「先生は、あの程度の逆境を覆すだけの力を持ってらした。私の先生なのだ、当然だろう。だが、それは出来なかった。何故かわかるかね?」
『何を一体……。ありえない、だってあのプロダクションは、俺のせいで』
「では、君は先生が大病を患ってらして、長くなかったことを知っていたかね?」
『……は?』
今日は、初耳な事ばかり聞くな。あの社長が、大病を患っていた? そんなそぶりは見たことがない。いつもにこにこと笑っている、優しげな社長。いつもみんなのことばかり考えている社長。それしか、俺は知らない。
「……やはり、知らなかったようだね。先生も、君に伝えておけば、ここまでこじれることはなかったかもしれないのに」
社長はため息をつき、そして言った。
「君があの時何をしようと、先生はもう限界だった。どちらにせよ、移籍を終えればプロダクションは解散の予定だったそうだ」
俺はまた唖然とした。言葉が出てこない。まさかそんな。ありえない。胸の中ではそういう言葉が渦巻くも、そう言われれば、思い当たる節はいくつかある。急逝したのも、そうだ。事故でもない限り、元気そうだった社長がいきなり亡くなるわけがない。
それに、潰れる前の一週間ほど、俺の裁量の多くを社長は容認していた。入社して半年の、若造の発案や行動の多くを放置していた、と言っても過言じゃない。
あれはそういうことだったのか。もしそうなのだとしたら——。
『は、は。とんだ道化じゃないか、俺は』
結局、くちばしの黄色い若造が一人で空回りをしていただけだった。社長にとって、プロダクションは胴でもよかったのだろう。つまり俺の半生に、意味などなかったというわけだ。
『……ああ』
どこか、拠り所がなくなってしまった気がする。自己満足とはいえ、社長への手向けのつもりでがんばっていた。あなたが教え込んでくれた技術は、誰かをトップアイドルへ連れて行くだけの力を持っていました。それを、伝えたかった。
『結局、俺はその程度だったってことか』
「そんなこと——」
俺の諦念にも似た呟きに、今まで押し黙っていた茄子さんが反論しようとした。そのときだった。
「そんなことはありえませんよ、Pさん」
女性の声だ。この期に及んで、まだ誰かいたのか。もう、放っておいてくれ。そう思っていた。
だが、その声に聞き覚えがあった。酷く懐かしい声。かつて俺が圧倒された声。この人なら、トップアイドルになれると確信した声。
「お久しぶり、ですね、Pさん」
二度あることは三度ある、というが、今日は驚きっぱなしだ。これが運命だというのなら、茄子さんの運命力は凄まじい。
石段を登ってきた女性は、その身を緑の服に包み、あの時と同じ太く長い三つ編みを顔の横から胸元に垂らしている。
なぜ、ここに。その言葉はもう、言い飽きた。これが現実というのなら、それを受け入れるしかないのだろう。だから、俺は言う。四年前の担当アイドルの名を。
『……ええ、四年ぶりですね。——ちひろさん』
そうして俺は彼女の名前——千川ちひろの名を呼ぶ。
今回はここまでです。長いからって区切りすぎた気がします。
卒研進めてたせいでイベントろくにできなかったのが心残りですね。
「ずっとお会いしたかったですよ、Pさん」
彼女は、そういって俺に微笑む。ああ、変わらないな、この人は。そういう、少し無邪気なところがあなたのいい所だったと、今でも思っている。
『俺もですよ。あなたとどうにかして連絡を取らないといけないと思っていた。まさか、まだこの業界に居られたなんて』
自嘲気味に俺は呟く。彼女は、俺のせいでアイドルの道を断たれたのだ。この業界から居なくなっていてもおかしくはなかった。
「私こそ、プロダクションに出社して、茄子ちゃんの書類にあなたの名前が見えたとき、幻かと思いました。同姓同名の人だとばかり」
彼女は少し感動しているようだった。しかし、こんなところで修羅場は勘弁願いたいところだ。この状況、まるで新しい女、旧い女だなんて、昼ドラに出てきそうな表現をされかねない。
なんとなく、さっきから茄子さんがこちらをじっと見ている気がする。彼女にとっては蚊帳の外の話だけに、なおさらなのかもしれない——。
そんな自虐的な冗談を言うことでしか、俺は俺の精神を保てない状況だった。思いのほか、俺は俺自身に期待されていなかったことを知って、消沈していたらしい。
しかし、ちひろさんはそんな俺に、優しげな表情で声を掛けた。まるで女神の様じゃないか。そう思ったところで、状況は変わらないと言うのに。
「ようやく、ようやくこれをお渡しすることが出来ます」
彼女は俺に近づき、一つの包みを手渡す。少し重さを感じるそれは、携帯電話ほどのサイズのようだった。
『……なんです、これは』
「開けてみてください。それで全部分かりますから」
彼女は意味深な言葉を吐くと、二コリと笑う。ああ、眩しい微笑みだ。ただ、昔ほど輝いて見えないのは、俺の目が曇ったからだろうか。もしそうなら、残念だとつくづく思う。
俺は彼女に促されるまま、その包みを開ける。中から出てきたのは、一つのカードホルダー。本革で出来た、使い込まれたそれは、とても見覚えのあるものだ。
『これは……、社長のカードホルダー、ですか』
「はい。社長が、Pさんに渡すように、と」
『社長が……? なぜ』
懐かしい思いが去来する。俺がカードホルダーを持ち始めたのも、社長がこのカードホルダーをいつも持ち歩いていたからだ。もっとも、俺の初任給では、安いものしか変えなかったが、それでも社長に少し近づいた気になれた。
ただ、それは幻想だった。もっとも新社会人一年目の若造を、信用できるわけもないのは、当然だろう。それに今まで気づかなかった俺が悪いのだ。そう思った。
「開けてみてください、Pさん」
ちひろさんに促されるまま、俺はカードホルダーを開いた。中には、いくつもの名刺が収納されている。大きなプロダクションの物もあれば、今はもうないプロダクションの物、雑誌会社の物も、テレビ局の物もあった。
と、その中に一つ、見覚えのある物があるのが見えた。丁寧に二つに畳まれたそれは、ぱさり、と落ちそうになる。俺はそれを、慌てて掴んだ。
『これは……』
それは、あの写真だった。社長と、ちひろさんと、俺が写った三人の写真。にこやかに映る俺たちを表側にして、それは綺麗に畳み込まれていた。なぜこれがカードホルダーの中に。そう思った。どこか、社長の息づかいを感じる。
本当に、俺は信用されていなかったのか——? そんな思いがふと、去来した。それはあぶくのようにすぐに消える。だが同時に、あぶくのように無数にわいてきた。そして、何気なく俺は、写真を裏返す。
刹那、俺の中の時間が止まった気がした。
——愛しい我が息子と、愛しい我が娘と、愛しい我が家の前で。
そう、書かれていた。社長の文字だ。見間違えるはずがない。息子? 社長が、俺のことをそう思っていた? ありえない、という想いと、いつからか生まれた当然だ、という想いが折り重なっては、俺の中に降り積もっていく。
「社長は、Pさんも私も、実の子のように思ってらっしゃいました。そんな社長が、Pさんを疎んじるわけ、ないじゃないですか。真っ直ぐに考えてください、Pさん。社長は、あなたにとってどんな方でしたか?」
ちひろさんの声が、どこか遠い国の言葉のように感じる。そして、それが自分の中に染みわたってきたとき、初めて意味を解し、絡んだ紐を解きほぐしていくように、整理した。
やがて、俺は一つの結論——事実に達する。
『俺は、俺は……』
社長は、俺を社会人にしてくれた。右も左もわからなかった俺に、あらゆる技術と、あらゆるノウハウを叩きこんでくれた。
社長は、俺を一端の男にしてくれた。酒の味も、飯の味も、煙草の味も。何が不味くて何が旨いのか、教えてくれた。
社長は、俺を家族のように扱ってくれた。時には厳しく、時には包み込むように、飛べない雛が飛べるようになるまで、その腕で守ってくれた。
『——愛されていた』
そうだ、俺はあの人に、しっかりと愛されていた。忘れてはならないし、忘れるわけがないと思っていた。
なのに、いつの間にか俺は忘れ、あまつさえ悪い方に考えるような、ひねくれ者になってしまっていた。なんてひどい男なのだろう、俺は。
「Pさん、社長はあなたが怒ってくれたことに、大変喜んでらしたのですよ」
ちひろさんは俺にそう告げる。
「こんな小さなプロダクションの為に、我を忘れて本気で怒ってくれる若者はそういない。そうおっしゃっていました」
それが、俺の中にあった最後のしこりを解きほぐしていく。少し目を閉じる。そして、ちひろさんに尋ねた。
『社長は……、俺のことを責めてらっしゃらなかったのですか』
「もちろんです、Pさん。むしろ、かわいい息子が巣立とうとしていた時に、その手助けをしてやれなかったと、悔いてらっしゃいました」
ちひろさんは困ったように笑う。それはきっと、俺が事務所を立て直そうを奔走していた時のことなのだろう。あの時社長はきっと、俺に全部任せたくて任せていたわけじゃない。手伝ってやりたくても、体が満足に動かなかった。
今なら、それが分かる。結局、俺が勝手にため込んで、勝手に思いつめて居ただけ。そもそも、謝罪する相手も、必要も最初からなかったと言う訳だ。
「最後に、社長の遺言を、お伝えします、Pさん」
『……なんでしょう』
ちひろさんは、そういってニコリと、また笑った。俺は目を見開き、彼女を見据え、耳を傾ける。
「”いつまでも、君は君らしく、正直に生きてくれ”、だそうです」
自然と、その言葉は胸にしみ込んだ。そして、それが自分である、いや自分だったと思い出す。あのころの自分の、直情径行さはもう手に入らないのかもしれないが、それでも——。
『……ああ、なんとなく、そうだろうな、と思っていました。いえ、その言い方は正しくないのかもしれませんね』
俺は少しだけ息を吐いた。あの人ならそう言うだろう。分かる、じゃない。思い出した、というのが正しい。
一切合財を俺は理解した。全ては俺の早とちりで、全ては俺の自分勝手で、全ては俺の勘違いだった。それだけだ、他には何もない。
「Pくん」
俺の中で、何か一つの出来事が、終焉を迎えた。それを見て取ったのか、社長は俺に声を掛ける。
「今一度だ、もう一度君に聞くよ。君は、何を望む?」
答えは決まっている。それがこれ以上ないほど、届かない物であると、俺は理解している。それであっても、俺はもう厭うことはない。
俺は、少し茄子さんの方を見た。そして、茄子さんと目が合う。僅かに俺は笑った。彼女に、本心から笑みを向けたのは、これが初めてだった。
『望みは一つです。茄子さんを……返していただきたい』
社長に向けて、俺は啖呵を切る。頭は、下げない。社長の目を見据えたままだ。頭を下げて返してもらえるなら、幾らでも下げる。だが、この社長はそんなことで返してはくれない。だったら、真摯に向き合うまでだ。
「ふむ、良い答えだ。八十点、と言ったところかな」
社長はそう言って含み笑いをする。ああ、返すつもりなんて毛頭もないんだろう。彼女ほどの才能を、手放したくないのはわかる。今の俺なら、彼女を売り払う事なんて死んでもしないだろうから。
『手放しがたいのは分かります。ですが、有り金全部はたいてでも……。彼女は俺が惚れた人だ、絶対に取り戻して見せます。それを彼女が、許してくれるのであれば、ですが』
しっかりと社長の方を見据える。そうして、また少し茄子さんの方を見ると、彼女は顔を真っ赤にしていた。そして少し俯いて何か呟いている。
俺は何か変なことを言っただろうか。思い返して、少し思い当たる節があり、内心動揺した。なんだこれは、まるでプロポーズじゃないか。
ああ、茄子さん。それ以上赤くならないでくれ。俺まで赤くなってしまう。
「……まるでプロポーズですね」
「……察してやれ、千川くん」
「……そうですね」
ああ、聞こえているから黙ってくれないか。俺だって失言したことをわかっている。ただ、この思いは止められない。
彼女が欲しい。ただ、それだけだ。
「しかしだ、Pくん。私も鷹富士くんの才能には目に留まるものがあってね。残念ながら、いくら積まれようとも手を離すつもりはない」
『では、どうすれば茄子さんを返していただけますか。金や条件で解決するなら、何をしたっていい。マグロ漁船に乗ってもいい。臓器を全部売ってもいい。シベリアに飛ばされてもいい。彼女を、トップアイドルにした後、という条件が付きますが』
「はっはっは」
社長は、笑う。そして、うんうんと頷くと、
「……話に聞いていた通り、いや、以上かな? 君はぶっ飛んでいるレベルの正直者だね。いや、飛んでいるというよりどっしりとしすぎている、と言った方が良いか。例えが重過ぎる」
社長はそう言って苦笑する。その社長をたしなめるように、ちひろさんが言った。
「Pさんは昔からそうです。決めたことを成し遂げるまでは、テコでも動かないんですから。まるで社長と正反対です。少しは見習ってくださいよ?」
「はっはっは、言ってくれるね、千川くん。……そうだね、では、少し彼を見習ってみようか」
そういうと、社長は俺の方に歩いてくる。俺も、ほとんど同じように足を進め、社長と対面する。それほど大きくない体なのだが、威圧感は凄まじい。かつての社長を包み込まれるよう、と表現するなら彼は、覆いかぶさってくるよう、とでも表現できそうだ。
彼は、一枚の紙を取り出した。一番上には、契約書と銘打ってある。茄子さんの移籍に関する契約書だろうか。いや、この状況下だとそれしかあるまい。
「これに、君がサインをすれば、君は鷹富士くんのプロデュースをすることが出来る。どうだね、君は選ぶことが出来るぞ。これに、サインするかね?」
『当たり前です。頂きます、社長の気が変わらないうちに』
俺は即答し、胸元からボールペンを取り出すと、その契約書をひったくるように受け取る。そして、ろくろく内容も読まずにサインをした。
「良いのかね、内容もよく読まずに」
『鬼が出るか蛇が出るか、どちらにせよ、俺がここにサインをしない道理はありませんよ。彼女を取り返す可能性が、一ミリでもあるんでしたら、俺はそれに飛びつきます』
そう言って、俺は契約書を突き返した。社会人としては失格の行為だろうが、些末なことだ。何を吹っ掛けられてもいい。ただ、彼女だけは。その思いだった。
社長は、突き返した契約書をしげしげと眺めると、満足げに笑った。それが少し意外だった。営業スマイルと厳しい顔だけしか見たことがなかった。この人はこんな顔もできるのか。
「”七人目の正直”、だな。これで完璧だ。Pくん、早速だが明日、朝九時にプロダクションへ来てくれたまえ」
社長は、契約書を懐に仕舞う。それにしても、移籍の手続きにしては嫌に早すぎる気がする。何か企んでいるのだろうか。いや、それでも俺は諦めない。どんな過酷な条件でも、俺はこなして見せよう。
「こんなやり方……。まったく、社長は自由が過ぎますよ? もう少しPさんみたいに真面目でしっかりしていただいた方が……」
「前々から思うが、千川くんはやけにPくんを買っているようだね。もしかして……?」
「っ! もうっ、いい加減にしないと怒りますよ?」
「はっはっは、すまないな、千川くん。では帰ろう。Pくんも、明日遅れずに来てくれたまえ」
半分ぽかんとしたまま、俺は目の前で繰り広げられていた漫才を眺めていた。さっきまでの緊迫した空気はどこへやら、だ。どうやら雲散霧消してしまったらしい。
そうして、ちひろさんと社長が石段を下りていく。きゃいきゃいとした話し声が遠ざかっていく。仲が良い二人だ。かつての俺と、ちひろさんの姿が、少し被った。
「……行ってしまいましたね」
『みたいだな』
残されたのは、茄子さんと俺だけだ。だいぶ時間も過ぎて、日は落ちかかっている。斜陽の中、木漏れ日に茄子さんが照らし出されていた。幻想的で、綺麗だった。神社の雰囲気にも、良く似合う。
しばらく彼女をじっと見ていると、それに気づいたのか彼女がとことことやってくる。そうして、彼女は不安そうに言葉を紡ぐ。
「本当に、私をプロデュースしてくださるんですかー?」
『ああ』
「……本当に?」
『本当だ』
「絶対に?」
『ああ、絶対だ。トップアイドルに連れて行って見せるよ』
「……うふふ♪ はいっ、連れて行ってもらいますよーっ!」
彼女は微笑む。ああ、その微笑みが見たかった。思わず、手を伸ばしそうになるが、ぐっと自制した。そうして、行き場の失った右手は、ふわふわと宙に浮かぶ。
「ふふっ」
茄子さんがまた笑う。彼女は一歩俺に寄り添うと、頭を俺の腕にもたれかからせた。
「あの時と、一緒です。正直になってくれたんじゃないんですか、Pさん?」
『あの時?』
「初めて会った時ですよ。あの時も、Pさんは私の手を取ろうとして、今みたいに手をふわふわさせてましたよ♪」
楽しい思い出を、思い出すように、子供っぽい笑みを浮かべて、茄子さんは笑い、そして少し恥ずかしそうに言う。
「……す、少しくらいなら、いいんですよ? さっき、その、抱きついちゃいましたし」
ああ、もう。そういう表情をしないでほしい。理性が吹っ飛びそうになる。愛しさで、手が震える。可能ならば今すぐ抱きしめてやりたい。だが、彼女はアイドルで、俺はプロデューサーだ。胸を張って言えるようになった今、それを違えたくはなかった。
ちくしょう、正直になったらなったで、こんな葛藤に悩まされることになるとは。まったく、勘弁して欲しい。
『……そんなことを言わないでくれ、茄子さん。俺だって男なんだから、可愛い女の子にそういうことを言われると、その、な』
「むぅ、正直に生きるんじゃなかったんですかー?」
『正直に生きるのと、超えちゃいけないラインを超えるのは別の話だ』
俺がそうやって諌めると、ぷくぅ、と頬を膨らませる。色白の肌と相まって、まるで大福みたいに見える。ああ、触りたい。……何考えてんだ、馬鹿か俺は。
「別に超えてくれてもいいんですけどねー……」
『何か言ったか、茄子さん』
「別に何も言ってませんよーだっ」
むくれる茄子さんが可愛いと思う。あるいは、俺が末期なのかもしれない。
「じ、じゃあ、せめて……」
茄子さんが、おずおずと手を出してくる。そうして、まだ宙に浮いたままの俺の手に、飛びつくように、手を添えてくる。一瞬手を引っ込めそうになったが、茄子さんの柔らかい、そしてたおやかな手の感触のせいで、その気はそがれる。
「手をつないでくれませんかー?」
『くれませんか、って。もう繋いでるじゃないか、まったく』
「……ふふ♪ こうやって、ずっと、ずっと繋いでみたかったのですよーっ」
『……今日だけだからね』
俺は言い聞かせるようにそういった。ただ、残念なことに、説得力はないだろう。内心、こうしていられることに、嬉しさのようなものを感じているのだ。それは、きっと、茄子さんに伝わってしまっている気がする。その証拠に——。
「ふふ、Pさん、Pさんっ」
『なんだ、茄子さん』
「名前を呼んでみただけですよっ、うふふっ♪」
満面の笑みで、笑う茄子さん。ビックリするほど、ご機嫌だ。俺の右手につながれた彼女の左手は、少し紅潮している。そして、まるで子供のように無邪気な足取りで、俺を引っ張り始める。
俺は引っ張られるがまま、参道を歩き、石段のへと向かう。そうして、とことこと降りていく茄子さんの隣に立つ。まるで——。
「こうしていると、その……、こっ、恋人みたいですねっ」
先に言われた。かぁぁ、と体が熱くなっていくのを感じる。だがそれ以上に、彼女の顔が真っ赤だった。はにかむその姿は、本当にそう思わせるだけの初々しさがあった。
『その、だな。茄子さん』
「あっ、えっと、あの、その。ま、また明日、ですよっ」
俺が言葉を出そうとすると、恥ずかしさが耐えられなくなったのか、茄子さんは少しわたわたと慌てて、俺の手を離し、駆けて行く。石段の途中、少し平面になっているところで躓き、倒れそうになっていたが、何とか体勢を持ち直して、少し振り向き、恥ずかしそうに笑ってそのまま、またぱたぱたと走って言った。
『……はは』
ほっとした気分と、少し残念な気分が織り交ざっている。そして、右手に残った暖かさを思い出す。あのままもう少し手をつながれていたら、ぽろっと本音が——超えてはいけないラインを超えてしまいそうだった。
結果としては、良かったのだろうか、悪かったのだろうか。それがちょっと分からなくなっている。これも、再び彼女をプロデュースすると決めたことの弊害なのかもしれない。
『……まだ、分からないけどな』
一人独語した。それが決まるのは明日だ。どのような条件を、社長に提示されるか分かったものではない。また、プロダクションを立て直す手続きも要るだろう。本格的にアイドルを集めなおさなければならないかもしれない。
俺一人では、耐え切れないことばかりだ。ただ、茄子さんがいればそれでいい。それだけで、俺はやっていける。
『……すべては、明日だ』
茄子さんとのことは、それから考えよう。男として、プロデューサーとして、それはしっかりと答えなければならない。そうおもって、俺は石段を降り始め、途中で少し躓く。ちょうど、茄子さんが躓いたあたりだ。
『……はは、幸運の躓き、かな?』
そんな冗談を零す。柄にもなく、やっぱり浮ついているらしい。しっかりしろ、と自分に叱咤を飛ばすも、効果はほとんどなく、俺は携帯を取り出して適当なビジネスホテルに部屋を取った。荷物はほとんどない。楽な物だ。
今日は早めに休むつもりだった。明日の、”決戦”に備えるために。
今回はここまでです。後数回の更新になるんじゃないでしょうか。
女神茄子さんが限定復刻するそうですね。時間があれば私財を投じて、チケットを取りに行ったのですが……。
悲しいですね、このもどかしさ。いつかは手に入れたいものです。
翌日、俺はシンデレラガールズ・プロダクションの前にいた。ぐぐっと伸びをすると、残念なことに欠伸が飛び出る。何が『”決戦”に備える』、だ。結局、右手に残った茄子さんの手の感触が忘れられず、なかなか寝付けなかっただなんて。
ただ、”決戦”が始まることは確かだった。どんな過酷な要求が来るか。予想もできない。ただ、覚悟はある。この身を捧げる覚悟だ。
『……幸運の女神、だからな』
初めて会った時彼女は、自分は運がいいと言っていた。それはおそらく、彼女だけにとどまらず、彼女の周りの人間にも波及するものなのかもしれない。そうでもなければ、ほとんど死んだ状態の俺が、ここまで甦るような偶然が重なるわけがなかった。
そんな彼女に、俺は感謝をしている。そして、尊敬もしている。何より——愛情を抱いている。いま俺がここにいられるのは、彼女のおかげだった。恩人だ。
感謝も、尊敬も、愛情も、それぞれが等しい。……正直を言うと、若干愛情が大きいかもしれない。それは、まあ、仕方がないと思っていた。惚れるなんてものはそういう物だと思っている。
『……行くか』
気合を一つ入れて、俺は足を踏み出す。ういん、と自動ドアが開き、小洒落たエントランスが俺を出迎える。
「お待ちしていましたよ、Pさん」
『あなたは……。元気にしていましたか』
「もちろん。毎日が充実していますよ」
そのエントランスで俺を待っていたのは、以前俺を案内してくれた、若いプロデューサーだ。かつてこの青年に俺は、茄子さんを託すような言葉を言った。いまさらになってそれを取り消しに来たなんて、内心嗤っている事かもしれない。
『……』
「どうかなさいましたか?」
『いや、なんでもない。行きましょう』
いけない。疑心暗鬼は何も生まないのだ。信じなければならない。このプロダクションを、社長を、茄子さんを。そして、何よりも自分を。
エスカレーターに乗って、俺は案内されるがままにつれられる。どうやら、朝礼の最中らしい。あちらこちらの部署では、それぞれが朝礼を行っている。新興のプロダクションとはいえ、内部の関係は徹底されているようだ。
良い会社だ。厳しさの中にも、余裕は失っていない。切羽詰まった人間特有の、前を向いているようで後ろ向きの空気はどこにもない。この社長は、やはり有能な経営者だった、というわけだ。
そして、その先生である、かつての社長も、きっと敏腕な経営者だったのだろう。俺が知る社長は、苛烈なところはなかったが、それも体調が原因だったのかもしれない。
「こちらです、どうぞ、お入りください」
俺はその若いプロデューサーに促され入る。プロデュース部、と銘打たれたそこは、プロダクションの中枢であり、同時にもっとも重要な場所の一つだった。そんな場所に、部外者を入れていいわけがない。
『いや、ここで待たせてもらいますよ。流石にこの中に、部外者は入れないでしょう』
「何を言ってらっしゃるんです? ささ、みなさんお待ちですから」
『あ、お、おい……っ』
「それと、伝言ですよ。”うちの茄子を、どうかよろしくお願いします”、とのことです」
『え、おい、それは俺が……』
なにがなんだかわからない。その言葉は以前、俺が言ったはずの言葉だ。それを、若いプロデューサーに説明を求める暇さえなく、彼は俺の身を、ほとんど無理矢理に部内へ押し込む。
次いで、彼が、”Pさんをお連れしました”と社長に言っている。仕方がないので、俺もゆっくりと顔を上げると、社長と目があった。
社長はちょいちょい、と軽く俺を手招きする。一体なんだ。俺をさらし者にするつもりだろうか。見ると、若い彼を含め、六人のプロデューサーらしき人と社長、そしてちひろさんが居た。
俺は、訳が分からないまま、社長の隣に押し出されるようにして連れてこられた。満足げに社長は笑うと、ふんす、と鼻息を吐く。
「さて、諸君。注目してくれたまえ」
そんな仰々しい前言葉を置いて、社長はその場にいる全員を眺める。なんとなく、居心地の悪さを感じて、俺は少し肩をすくめる。
そんな俺のことなどお構いなしに、社長は俺の背中を叩いて、少し前へと押し出す。思わぬ衝撃に、少しバランスを崩した。一体、何のつもりなのだろうか。
「えー、ごほん。本日付で、わが社のプロデューサーとなった、Pくんだ」
『……は?』
一瞬、何を言われたのかさっぱりわからなかった。Pとは誰だ、と問いかける。帰ってくる答えは当然、自分と言う物だ。俺は、社長の方を見た。それに気づいた社長は、ものすごいしたり顔で俺の方を見る。
俺は今日、茄子さんを取り戻しに来たはずだ。それがどうしてこんなことに。
「次いで、早速ではあるが、まだ担当が決まっていなかったアイドルに関しては、彼に一任する形になる。皆に比べてやや遅れて入ってきた形だが、同期として扱ってやってくれ。以上、解散!」
その一声で、朝礼は終わった。同時に、俺は社長に詰め寄る。
『一体どういうことです、これは。俺は今日茄子さんを引き取りに来たはずです』
その言葉を待っていた、と言わんばかりに社長はにやり、と笑う。どことなく意地の悪い笑みだ。ただ、悪意は感じなかった。子供がいたずらをする、といった表現が相応だろうか。
「あれは雇用契約書だよ、Pくん。君がこのプロダクションで働く、というね。ちゃんと中身は読まないといけないよ」
『馬鹿な』
一瞬、絶句した。騙された。この社長はそんなことをしない人間だと思っていた。一気に裏切られた気分だった。落胆と、怒りが腹の中で渦巻いた。
「というわけで、Pくんには今日から鷹富士くんの担当としてついてもらうことになったからね。よろしく頼んだよ」
『っ、馬鹿な事、を……、は?』
自分でも、素っ頓狂な声がでた。煮えくり返っていた腹の中は、冷水を浴びせかけられたように冷えていく。ちょっと、何がどうなっているのか分からない。
「実は、鷹富士くんと二つ、賭けをしていたんだよ。あの子も、なかなか豪胆なところがあるね。私相手に、”Pさん以外のプロデューサーは認めません”なんてのたまってくれたんだから」
『……茄子、さんが?』
「男冥利に尽きるねぇ、Pくん? 彼女は一つ目の賭けに勝ったよ。君がこのプロダクションに入社できなければ、アイドルを辞めるという条件でね。こちらとしても、君が入社してくれることを望んでいた」
社長は、ネタ晴らしをする子供のように、嬉しそうに、そして俺の唖然とした顔を楽しむように言葉を紡ぐ。やり場のない怒りがすうっと消えていく気がした。とはいえ、なんとなくもやもやは残っているわけだが。
そんな俺にお構いなく、社長は続ける。この人はやはり自由すぎる。内心文句を言ったのはここだけの話だ。
「先生から、後事を託されていたというのもある。ただ、このプロダクションには、有能なプロデューサーが六人いるものの……、ただ一つの人材が足りないんだよ。必要とあれば私にさえ楯突く気概のある、”正直者”が」
社長は、通常業務に戻っているプロデューサーたちを見ながら、そう零した。ああ、なんとなくわかる気がする。俺はそう思った。
この会社は、この社長一人で回っているわけではない。ただ、この社長が進むべき道を間違えれば、すぐに傾いてしまう程度には、その腕に依拠しているのだろう。それを防ぐには、身を挺して讒言をする人が必要なのだ。
「私はずっと”七人目の正直”を探していた。先生から話に聞いていた、君の様な存在をね。ただ、鷹富士くんの移籍交渉の時に会った君は……、聞いていたのとは、まるで別人だった。千川くんに本人であることを確認したぐらい、ね」
俺は思い返す。社長と初めて会った時、最初は人当たりの良かった彼が、突然厳しくなったのは、そういう理由だったのだろう。もしあの時、俺がかつての俺のままだったら何と言っただろうか。
いや、それ以前にそもそも茄子さんを移籍させることはしないだろう。
「ただ、君はこうしてまた、正直者であることを取り戻した。だから私は君を何としても引き込みたかったのだよ」
『お言葉ですが俺は』
「業界から疎まれている、と君は言うだろうと思っていた。だからこうやって、だまし討ちみたいな方法で君を引き入れた。それについては悪いと思っているよ」
社長は笑う。その笑顔に、どこかかつての恩人の笑顔を重ねあわせる。
「私が、君と鷹富士くんを護ってやろう。先生が果たせなかったことを、後事を託された私が務めきってみせる。だから、君は鷹富士くんを、トップアイドルの座にまで押しやってみせろ」
これほど実直な、社長の言葉は初めてだった。そこに、今までの自由奔放な社長はいない。ここにいるのは、経営者として、そして人間として確かな自信と、確かな意思を持ち合わせた人物。
「頑張れ、とは言わない。ベストを尽くせ、とも言わない。そんなハッパを掛けなくとも、君と鷹富士くんなら、たやすいことだろう?」
その言葉は、確かに俺を信用しての言葉だった。かつての恩人との物とは少し違う、確固とした信頼関係。付き合いの長さでは測れない何か。それを感じた。
現に、俺はこの人のことを良くは知らない。だが、それはこれから知っていけばいい話だ。彼が信頼してくれると言うなら、俺はそれに応えなければいけない。何より、彼女をトップアイドルに連れて行く場を用意してくれると言うなら——。
『わかりました。ただ……、どんなことがあっても。俺を犠牲にしてもいい、茄子さんだけは、絶対に護ってください』
「当たり前だ。だが、私はPくんも護ってやるつもりだが?」
『大丈夫です』
俺は少し息をつくと、少しだけ笑って言った。
『大概のことは、この四年でこなせるようになりましたから。よほどのことでない限り、社長のお手を煩わせることはありませんよ』
「はっは、心強いことを言ってくれるじゃないか。では、行きたまえ、Pくん」
『はい』
俺は踵を返す。その後ろから、付け加えるように社長は言った。
「そうそう、Pくん」
『なんでしょう』
「彼女を、必ずトップアイドルにして見せたまえ」
唐突な言葉だった。その意味を理解しかね、振り返る。社長が笑っていた。
意味深な言葉を言うと、社長は再び俺に行きたまえ、と目線で語りかける。ハッパを掛ける必要はないと言っていた。では、何のための言葉だったのだろうか。頭の中で考えつつも、俺は自分にあてがわれた机に鞄を置くと、部の出入り口へ向かう。
ともかく、今は茄子さんの所へ行きたい。一刻も早く、彼女の傍へ。ここの構造は、下見の時に頭に叩き込んであった。アイドルたちが多く屯しているのはどこだったか——。そう思っていた時だった。
「——Pさんっ」
余計な雑念が全部、吹っ飛ぶ。ああ、この声だ。ずっとこの声が聞きたかった。顔を上げる。見えた、最愛の人。その笑顔が、俺のめの前にやってくる。それを、俺は待つ。
少し息を切らせた彼女の姿。あの日、出会った時のままの彼女が、そこにはいた。
「ずっと、この日を待っていましたよ、Pさん♪」
『待たせた、茄子さん。済まない』
「ふふっ、焦らされちゃいました。でも、こうやって私の元へ戻ってきてくれたんです。それで、許してあげますっ♪」
ふんわりとした笑顔で、彼女は笑う。そうして、ゆっくりと俺の方へと手を伸ばした。それを、俺はしっかりと握る。
「もう絶対、離さないでくださいね、Pさん」
『ああ、離すもんか』
「……絶対、トップアイドルにまで、連れて行ってくださいねっ」
『ああ、絶対に連れて行く。約束だ』
それが、俺の義務であり、権利だ。俺を蘇えらせてくれた、彼女への恩返し。手放すつもりはないし、手放すことはできない。何より、手放したくない。
そして、もしそれが果たせたときは——。
『茄子さん』
「Pさん」
『なんだ?』
「なんですか?」
本当に同時に、お互いを呼び、本当に同時にお互いにそれを尋ねる。少しの間をおいて、彼女が笑った。俺も、笑った。
『先に茄子さんが言ってくれ』
「いえいえ、Pさんがお先にっ」
『いやいや』
「いえいえ」
『……』
「……」
『ははっ』
「ふふっ」
社内の往来で、二人して笑う。少しばかり、奇異の目で見られるが、知ったことはあるか。今だけは、許してほしいと思う。
『茄子さん』
改めて、俺は彼女の名前を呼ぶ。その琥珀色の瞳が、俺を見返してくる。思わず吸い込まれそうになる。
「はいー、なんでしょうかっ」
彼女は、笑った。
『一緒に居てくれ、茄子さん。……この先も、ずっと』
それは、今の俺が言える精一杯の言葉。これ以上の言葉は、言ってはいけない。ただ、これだけは伝えておきたかった。
彼女は、少し驚いた表情をした。そして、嬉しそうな表情をして、これ以上無いぐらいの笑みを向けてくる。
「っ! もちろんですよーっ! ずっとずっと、お傍にいさせてもらいますからねー? ふふっ♪」
そうして彼女は、俺の腕を取る。嬉しそうな声と共に。
「Pさん、Pさんっ」
『なんだ、茄子さん』
ゆっくりと、俺は歩き始める。彼女も、俺の隣に寄り添って、歩き始める。
「私を見つけてくれたお礼です、きっとPさんのこと、もっともっと幸せにしてあげますからっ」
彼女は、変わらない笑顔で、そう笑った。
今回はこれで終了です。次回で最終更新になるかと思われます。
ぶっちゃけると半分くらい書き終わってるので、明日明後日にでも投下できるかな、と思ったりします。
ツアーはちまちまやってるんですが、これどうやって上位入賞すればいいのかさっぱりわかりませんね。
悲しい物です。
『……ふう』
俺は息をついた。プロダクションの隣、駐車場に車を止めて、その隣で缶コーヒーを片手に、待っていた。
しばらくすると、彼女が出てきた。後ろには、数人のプロデューサーと社長、そしてちひろさんが見送りにきている。そうして、ぱたぱたと彼女がこちらへと駆けてくる。
「お待たせしましたっ、Pさんっ」
『いや、大丈夫だ、茄子さん。今着たばかりだ』
そういって、俺は嘘をついた。本当は、かれこれ一時間ほど待っていた。だが、そんなことを言う必要はない。
「ふふっ、知ってますよ、Pさん?」
『……何がだ?』
「一時間も、ずっと待っててくれたんですよね?」
『……何のことかな』
とぼける俺だったが、内心すこし恥ずかしかった。ちくしょうめ、誰か茄子さんにばらしやがったな。
彼女は照れたように笑うと、ぎゅっと俺に抱きついてくる。大胆になったものだ。いや、肝っ玉はずっと据わっていたとは思うが。
『茄子さん、一応聞くが……。良いんだね?』
俺はそう尋ねる。その問いに、茄子さんは嬉しそうに、だがどこか寂しそうに笑う。
「はいっ、ずっと決めていたことですから……。それに」
『それに?』
「せっかく、社長さんとの賭けに勝てたんですもの、ふふ」
茄子さんはそういって笑った。賭けとは、社長が言っていた、二つ目の賭け、というやつだろう。その内容は、名目上知らされることはなかったが、半分周知の物でもあった。
『トップアイドルになれるかどうか、ってやつか?』
「そうですっ! Pさんったら、私をトップアイドルにするのに、三年も掛けたんですからっ」
『それに関しては、俺の力不足だな。二年でも長いと思っていたが、少し甘く見過ぎていたよ』
むすぅ、と頬を膨らませる茄子さんの頬を、俺は指でぷにっと押した。彼女は嬉しそうに笑い、そして俺の手を取って満足げに言う。
「でも、許してあげますよー。約束通り、私をトップアイドルにしてくれたんですからね♪」
『はは、ありがとう、茄子さん』
そうして俺と茄子さんは、車へと乗りこんだ。行き先は、思い出の場所だ。車を走らせて十数分、『そこ』が見えてくる。
「……ここに来るのも、久しぶりですねー」
『そうだな。最後に来たのは……、去年の初詣、かな?』
二人してやってきたのは、かつて茄子さんと出会い、そして俺を変えてくれた、あの小さな神社。コインパーキングに車を止め、石段を一歩、一歩と登り始める。茄子さんは自然に俺の腕を取り、俺は先導するように脚を動かす。
そして、石段を登り終える——。
『いつ来ても、本当に他の人を見ないな』
「本当、そうですよねー……」
出迎えてくれるのは、雑木林の葉が、こすれ合う音だけ。神主も、巫女もいない。あるのは寂れた本堂だけだ。
あれから何度も何度も、この神社には足を運んでいる。その間も、誰とも出会うことはなかった。本当に、誰も来ない、忘れられた神社だったのだろう。
そこで俺たちは出会った。本当に、幸運という言葉でさえ霞んでしまうほどの剛運。それが俺の物なのか、それとも茄子さんの物なのかははっきり言って分からない。いや、十中八九、彼女の物だろう。
それでもそんなことは、今は些末なことだった。本道の前まで来る。さびた賽銭箱と、よれた縄の付いた大きな鈴があるだけの、小さな本堂。
そこで俺は彼女に向き合い、笑って言う。
『三年間、本当にお疲れ様だった、茄子さん』
彼女も、俺に向き合い、笑って言う。
「三年間、本当にお世話になりました、Pさん」
その笑顔が、とても眩しく、寂しくもある。今日、ここで俺と茄子さん、この関係は終わる。
彼女は、鷹富士茄子は今日この日——アイドルを辞めたのだ。
『しかし、せっかく皆にトップアイドルだって認められたのに、それから一ヶ月で引退か。世間様はたまげるだろうな』
プロデューサーとして、流石に名残惜しくなる。彼女であれば、今後アイドル以外の道でも、簡単に切り開いていくことだったろう。今でも、そう思っている。
「そうかも、しれません。でも、決めていたことですから」
茄子さんは少し困った表情で言った。彼女も彼女で、名残が少しあるのかもしれない。それでも、彼女の決意は固かった。彼女にそれを告げられた時は、思いとどまらせようとしたのだ。
彼女が、どうしてもと言わなければ、今も説得を続けていたのかもしれない。社長も、彼女が辞める事にはかなり名残があったらしいが、賭けに負けたからね、と言って強がっていた。
「Pさん」
『どうした、茄子さん』
「あれから、三年ですね」
『ああ』
「……私は、もうアイドルじゃないんですよ?」
『……ああ、そうだな』
彼女が、突然そう言った。その意味を、俺は理解する。ずっとわかっていた。なぜ彼女がアイドルを辞めたのか。
『茄子さん』
声が少し震える。ああ、意気地のない男だ、と自分でも思う。彼女の琥珀色の目を、覗き込むように見た。その少し揺らいでいる瞳に、少し不安な色が見えた。
それでも、言わねばならない。彼女は俺の為に、ここまでお膳たてをしてくれたのだ。それに応えないわけには行かないし——応えたい。
『ずっと、言おうと思っていたことがある。三年前から、ずっとだ』
手が、足が、体が震える。これが武者震いと言うやつだろうか。そう強がっても、体の震えが止まらない。
「ふふ。はい、何ですかー?」
彼女は、少し緊張しているように、しかしとても待ち望んでいるように微笑んだ。俺は、一歩彼女の方に近づく。ざり、ざりと、参道を踏みしめる音が響く。
『一緒にいてくれ。……この先も、ずっと、本当にずっと。俺の傍に』
三年前、彼女に伝えた俺の言葉と、ほとんど同じだ。ただ、意味は違う。あの時は、プロデューサーとしてだった。
今は——一人の男として、彼女にそれを願っていた。それに、彼女は答える。
「駄目ですよー、Pさん?」
返ってきたのは、そんな答えだった。もしかして、俺は拒絶されたのだろうか。全部、俺が自意識過剰だっただけなのか。一瞬そんなことが頭をよぎる。
だが、俺は待った。彼女から次の言葉が紡がれるのを、俺は待った。
「一緒にいてくれるだけじゃ、駄目です、Pさん」
彼女も、一歩俺の方に近づいた。お互いの息遣いを感じる。もう、彼女の顔がすぐそこにあった。
「Pさんは」
茄子さんは、俺に問うた。
「今、幸せですかー?」
それは、三年前彼女がこの場所で俺に問うたことだった。あの時は、幸せも何もなかった。ただ、辛さと虚無感だけだった。
今は違う。今だけではない。この三年間、俺は全てに充足していた。
『ああ、とても幸せだ』
「ふふ」
彼女は少し笑い、そうして俺の背に手を回し、顔を俺の胸元に埋める。
「一緒に居るだけじゃ、駄目です。私を、幸せにしてください。ずっと、ずっとです。Pさんとずっと一緒に居たいんです。ずっと、幸せになりたいんです。……駄目、ですか?」
彼女は、少し脅えたような表情を見せた。同時に、理解する。彼女もまた、俺と同じようにずっと、本音を押し隠していたのだと。
『茄子さん。……いや、茄子』
俺は、初めて彼女の名前を呼び捨てにした。彼女が少しびくりと身を震わせ、そして俺を見上げてくる。そのしなやかな髪に、ゆっくりと手を置いて、俺は慈しむように撫でる。
『俺はずっと、茄子の幸せを願っていたよ。それが間違いだったことが、今分かった』
彼女の不安そうな表情は、まだ消えない。俺は、少し笑う。彼女を安心させたい。その不安を取り除きたい。それが出来るのは俺だけという思いもある。
だから、俺は彼女に伝える。伝えなければならないし、伝えたい。そして、彼女にそれを、容れてもらいたい。
『運に任せることもない。神に祈ることもない。俺が、お前を幸せにして見せる。だから……』
今日、彼女と俺の関係は終わった。プロデューサーとアイドルとしての関係は。だから、俺は、それを繋げるために。彼女と新しい関係を始める為に。俺は、息を吸う。そして、俺の気持ちをすべて乗せて、彼女に言った。
『結婚してくれ、茄子』
ほかに飾り立てる言葉は要らない。この想いと、この言葉だけ彼女に届けばいい。余計な物なんて、不要だ。そう、思った。
「……っ、はいっ♪」
彼女は、そう言った。そして俺の腕の中で、琥珀色の瞳から涙を零し、笑顔で俺に抱き着く。そのまま、ぎゅっと力を込めて抱きしめてくる。
「ずっと、ずっとその言葉を待ってたんですよ……っ? 三年も、待ったんですから……っ」
『……本当に、待たせたね。済まない、茄子』
「っ、本当に、本当ですよーっ! ですから、この三年間の分、これから甘えさせてもらいますからねっ♪」
彼女は、ぽろぽろと涙を流しながら、とても、とても嬉しそうに笑っていた。もう、その顔のどこにも、不安は存在しなかった。
『なあ、茄子』
「あの、Pさん」
また、俺たちは同じタイミングでお互いの名前を呼ぶ。彼女は涙をまだ、流しながら。俺は、驚くほどに冷静なままだ。嬉しさのあまり、頭がショートしていると、思った。
『はは、また、だな。茄子からでいいよ』
「えっ、あっ、は、はいっ」
茄子は少しはにかみ、そして涙をぐしぐしとぬぐって、笑いながら俺を見上げてくる。その瞳が俺をじっと見据え、まるで誘っているような錯覚を覚える。
「……その」
彼女は少しもじもじしていた。何か恥ずかしいことがあったのだろうか。
「……Pさんと、私って、もう、恋人、なんですよね?」
『あ、ああ……。そうだぞ』
一瞬びくっと、体が震える。そうだ、とうとう俺は茄子とそういう関係になったのだ。その実感が、今頃になって押し寄せてくる。まずい、自分が抑えられない気がする。
「だったら、その、キス、とか……、いっ、いえっ、なんでもないですよっ!」
ぷっつん。自分の中で張りつめていた何かが、切れた気がした。駄目だ、抑えられない。彼女への愛しさが、止まらない。気付けば、俺は茄子に言っていた。
『目を閉じてくれ、茄子』
「えっ、あの」
『いいから』
「……はいっ」
気体と不安が入り混じった声で、茄子は言い、彼女の琥珀色の瞳が、瞼で隠される。まだ少し残っていた涙が、つつう、と目の淵から流れた。
それを、俺は親指で拭い、少しずつ顔を近づけていく。二十センチ。十五センチ。十センチ。五センチ。三センチ。二センチ。一センチ——。
そして、俺も目を閉じる。
「……んっ」
唇に感じる、温かく柔らかい感触と、茄子の甘い声。それが、俺の脳を貫き、揺さぶる。
気が付けば、顔を真っ赤にしてはにかむ、幸せそうな彼女の顔がそこにはあった。茄子は、物欲しそうな目で俺を見る。ああ、そんな目で見ないでくれ。
「んっ……」
また、唇に感触。今度は塞がれた。脳が痺れる。俺は思う事さえ放棄していた。ただ、茄子が愛しい。これが愛すると言う事か。それだけはわかる。
「……うふふっ♪」
茄子の、嬉しそうな声が聞こえた。俺も、笑った。これほど、幸せなことはない。そう、思った。
「Pさんのこと、幸せにしてあげますっ! だから私も、幸せにしてください、Pさん。……大好きですよっ、えへへ♪」
寂れた神社、その境内に。茄子の愛を伝える言葉がしみ込んで行った。
これが、俺と彼女の——七人目の正直と、幸運の女神のお話。
本日の更新で、この作品は終了です。
茄子さんの運は、鷲頭並みの剛運なんかじゃなくて、ささやかな幸運とささやかな偶然が積み重なっているだけ。
そんな感じの話を書きたいと思ったのがきっかけでしたが、上手く表現できなかったかもしれません。
中盤から終わりにかけては、やや駆け足のご都合主義になった気もしますが、これほどの長さの物を書いたのは久しぶりですので何卒ご寛恕を。
最後に、茄子さんPがもっと増える事と、新SR追加と、ボイス追加を願って〆させていただきます。長い間お付き合いいただき、誠に有難うございました。
このスレはHTML化の依頼を出しておきます。お世話になりました。
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