三船美優「遥かな旋律、琥珀の夢」 【ウルトラマンオーブ×シンデレラガールズ】 (82)


(プロローグ)


 何度も見る夢がある。

 薄ぼけた視界。遠ざかっていく琥珀色の影。

 耳朶を打つ雨音。鼓膜を震わせる哀しげな旋律。

 そして、幾重もの膜を通したような遠い声。

「――…………くの」

「――…………ないで……」

 摩耗しているようで焼き付けられている、その記憶。その夢。

 これは私の、そんな記憶にまつわるお話です――



※ウルトラマンオーブ×アイドルマスターシンデレラガールズのSSです

※地の文がやたらに多いです

※過去怪獣のリメイクという形でオリジナル怪獣がいます

※捏造設定や独自の解釈などがかなり多めです

※時系列的には、オーブ側は本編より二、三年ほど前、デレマス側は三船さんのデビュー前という設定です

※遅ればせながら、三船さん総選挙三位、ボイス決定おめでとう!

※登場アイドル
三船美優(26) 相葉夕美(19) 高森藍子(16)

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(1)


夕美「それじゃあ、お疲れさま~」

美優「ええ。また明日」

 午後八時。美優は駅前で夕美と別れ、自宅への帰路についていた。
 夜でも活気あふれる東京の中とは思えないほどの閑静な住宅街。
 人の姿も他に見えない夜道を、美優はひとりで歩いていた。

美優(あと、二週間……)

 西の空に傾いている小舟のような月を見上げて、ほうと息を吐く。
 しばらくすると薄い雲の後ろに隠れてしまったので、いつものうつむき加減に戻って歩き出した。

 いつまで経っても――アイドルの卵になっても、美優のその癖は変わらなかった。
 デビューして本格的にアイドルになればそれも変わるのだろうか。しかしそれが二週間後に迫っている今でも、彼女には実感が湧かないのだった。

 短大卒業後の冴えない会社時代。その時から比べれば、歌やダンスのレッスンで忙殺されている今はある種の充足感がある。
 だがそれでも、自分がアイドルとしてやっていくという図に現実感が伴わない。
 事務所には他にアイドルたちがいて参考にはなるが、自分にも当てはまるとはどうしてか考え得なかった。

 それは、自分が26歳という年齢だからかもしれない。
 プロデューサーには「もっと年上のアイドルもいる」と聞かされていたが、彼の部署にいるのは年下の子ばかりだった。
 若くて溌剌としていて、将来に希望を持っていて――そんな眩しさに、美優はどこか気後れを感じずにはいられなかったのだった。


美優「はあ……」

 ――ひとりになると変な方向に思考が深まっていって、自然に溜め息が漏れる。
 それも習い性になってしまった悪い癖だと、美優は自嘲気味に微笑した。

美優(……早く帰ろう……)

 今日は七月七日の七夕、なのだから。憂鬱に浸りながら独り歩くような日ではない。

美優(織姫と彦星は……会えたのかしら)

 梅雨真っ盛りだが今夜は雨が降らなかった。
 夜空に流れる薄い雲の裏には、そのような待ちわびた再会があったのだろうか。

『――…………くの』

 離れ離れにされて、一年に一日だけ会うことを許された二人。
 果たして「恋人」と別れさせられるというのはどういう気持ちなのだろうか。

『――…………ないで……』

 美優はふいと足を止めた。

美優「…………」

 声が聞こえた気がした。

美優「…………」

 音が聞こえた気がした。

美優「…………」

 頭の中のどこかの神経に触れて、変な、もやもやした感情を呼び起こす声。そして音。


美優「…………」

 静かな住宅街。
 美優以外には誰の姿も見えない。道路の両脇に並ぶブロック塀、垣根、家々の門。
 顔を上げれば、背の高いマンションが視界に入る。
 何も変わらない、いつもの静謐な夜。

 それなのに――

美優(……)

 目の前の道路に――

美優(……ラバー)

 琥珀色の毛皮の大型犬が、こちらに背を向けて走っていた。

美優(…………)

 美優は呆然として、立ち尽くしていた。
 思考が凍ったように働かない。やっと働いた時には無意識に足が動き出していた。

美優(――そんなわけ)

 ない、と分かっているのに。
 だってあの子は――


 ――たっ、たっ、たたたっ。

 いつの間にか、雨が降り始めていた。

 ――たたたっ、たたたっ、だだだだだっ。

 だって、あの子は……。

 ――だだだだだっ、だだだだだっ、だだだだだだだっ。

 あの子は、あの日に……。

 ――どおおおおおおおん!!

 突然の雷鳴に驚いて足が止まった。
 さあっと、全身に感覚が蘇る。

 腕に、頬に、叩きつけられる雨粒。
 肌に張り付くブラウスの生地。

 冷たい。五月蠅い。寒い。煩わしい。
 怖い。孤独感。恐ろしい。喪失感。

美優(ラバー……)

 美優が立ち止まっている間に犬との距離は大きくなっていた。
 ハッとして駆け出す。犬が前方の十字路で曲がる。姿が見えなくなる。

美優「待って――」

『――…………ないで……』


「――おい姉ちゃん!」

 びくりと背筋が吊り上がった。
 犬が曲がっていったのとは逆の角に、その影が立っていた。

 暗くてよくわからないが、見た目20代後半くらいの男だった。
 焦げ茶色のジャケットとブルーのジーンズ。好青年そうな顔立ちだが、今は険しい表情を浮かべている。

美優「…………」

 突然のことに驚いて美優は声も出ない。
 そんな彼女を見詰めながら、彼は不思議なことを言った。

男「もうやめときな。ここから先は――引き返せなくなる」

美優「…………」

 絶句している美優を置いて男は反転し、夜道を歩き始める。
 ジャケットの内ポケットを探って何かを取り出すと、それを口元に当てた。

美優「…………」

 ハーモニカのような音が流れ、哀しげな旋律が閑静な街に響き出した。
 男はそのまま去っていこうとする。我に返った美優は咄嗟に声を掛けた。

美優「ま、待ってください!」

 男が立ち止まり、旋律が止む。


男「……何だい」

美優「あの……」

 言い淀んでいると、彼は背を向けたまま、

男「――どうせ地球は丸いんだ。いつかまた会えるだろ」

 そんなことを言い捨ててまた去っていこうとする。

美優「あ――そうじゃなくて」

 また立ち止まる。

男「……そうじゃなくて?」

美優「あの……。……」

 美優が言いにくそうにしているからか、ようやく男は振り返った。
 二、三歩こちらに近づきながら、困ったような微笑を浮かべる。

男「黙ってたらわかんないだろ?」

 その、人の良さそうな笑みに多少安堵して、美優は口を開いた。

美優「夜にハーモニカ吹いてたら……近所迷惑だと思います……」

男「…………」

 男は浮かべていた微笑を固めて、……おもむろにハーモニカらしきものを内ポケットにしまって、

男「……あばよ!」

 そう言って、心なし足早に去っていった。


美優(……何だったのかしら……)

 取り残された美優は首を傾げていたが、ふと犬のことを思い出した。
 慌てて十字路の先に首を向けるが、猫の子一匹いない。溜め息が漏れた。

美優(……あれ……)

 すると美優はあることに気が付いた。
 服がもう乾いているのだ。髪も肌も乾いている。まるで濡れた事実などなかったかのように。

 周りを見渡してみる。塀にも道路の上にも水溜りどころか雨粒の跡さえなかった。

美優(……夢……?)

 もしかすると白昼夢というやつだろうか(夜だが)。
 ただ、現実感は強く覚えた。犬の後ろ姿、にわか雨、そして――あの男の人。

美優(あの音……)

 彼が吹いていたハーモニカらしき楽器の音。
 美優はそれに何かしらの引っ掛かりを覚えた。脳の中に張り巡らされている線が一本、爪弾かれたかのような……。

美優(…………)

 しかし考え込んでも何の手掛かりも思い浮かばなかった。
 結局最初よりも重い蟠りを胸に飼いながら、美優は帰路についたのだった。


(2)


 翌日。美優が事務所への道を歩いていると、後ろから軽快な足音が聞こえてきた。

夕美「美優さーん!」

 振り返るとライトグリーンの傘を差した夕美がいた。

美優「夕美ちゃん。おはよう」

夕美「はいっ、おはようございます!」

 今日は梅雨らしく雨がしとしとと降りしきっていて、朝でも雲のせいで薄暗い。
 しかしそんな中でも花のような夕美の笑顔は眩しかった。

夕美「そういえば美優さん、知ってる? 例の噂」

 傘を並べて歩くかたわら、夕美が口を開いた。

夕美「清水が丘の辺りに奇妙な現象が起きてるっていう」

美優「あぁ……あの」

夕美「やっぱり知ってるよね。何か見える?」

美優「私の部屋からは……古い感じの船? とかかしら。変な話よね」

夕美「そうだよね~……」

 夕美は思案投げ首で眉間に皺を寄せていたが、すぐ元に戻ってにこにこし始めた。
 こんな陰鬱な雨模様でも素直に笑えるのは若さのおかげなのかな、なんて思ってみたりする。
 そんなことを考えていたからか、


美優「……夕美ちゃんは綺麗ね」

 ……と、変なことを口走ってしまった。

夕美「……えっ? あ、ありがとう……?」

 案の定、不意を突かれたように夕美は狼狽えている。
 美優は慌てて取り繕った。

美優「ご、ごめんなさい。急に変なこと言っちゃって」

夕美「い、いえっ。美優さんみたいな綺麗な人に褒めてもらえると素直に嬉しいかな……えへへ」

 はにかみながら笑顔を見せる夕美。
 やっぱり綺麗だな、と改めて思った。

夕美「でも、どうして急に?」

美優「……雨の日でもそんなふうに笑えるのって、とても素敵だと思うから……」

夕美「――あぁ」

 納得した風な声を出すと、夕美は歩道の脇の生垣を指さした。

夕美「紫陽花が綺麗だったから。ほら、雨と紫陽花ってよく似合うから」

 彼女が指した先には、毬のような薄青色の紫陽花が華やかに咲き誇っていた。
 もう事務所に近いのだ。二人が属する346プロダクション外縁の生垣には紫陽花が何本も植えられている。


美優「……確かに綺麗ね……」

 そう言いつつ、美優は内心、心の底の泥をかき混ぜられたような感覚に陥っていた。
 それは、ひょんなことから知ったこの花の花言葉に起因している。

 紫陽花の花言葉――「移り気」。

 芸能事務所としては残酷な花を植えたものだと、美優は思う。
 いつかはファンの心も離れ、忘れ去られてしまう……そんな事実を象徴しているように思えるからだ。

『――…………くの』

 それに加え、美優自身の不安も原因のひとつだった。
 26歳の――それも、何も華々しいものを持っていない私がアイドルになっても……。
 もう進み出してしまったのに、そんな思いが未だ胸の奥にわだかまっているのだった。

『――…………ないで……』

 ――また、あの声が聞こえるような気がする。

 幾度も見る夢。薄ぼけた視界の中で遠ざかっていく琥珀色の影。
 それに向かって呼び掛ける――そう、あれは自分の声。

『――…………くの』

『――…………ないで……』

 ああ――思い出す。
 こんな雨の日は。紫陽花の咲く道は。

 あの子のことを思い出してしまう。

 小さい頃からずっと一緒にいて、よく遊んで、美優の心の拠り所だったあの子。
 美優が16歳の時、窓から洩れる日だまりの中で冷たくなったあの子。

 そして――

美優(――私が)

 ――私が命を奪った、あの子のことを。


(3)


美優「――というわけで……私、三船美優のデビューCDは七月二十一日発売です」

藍子「発売日には記念イベントもやるんですよね?」

美優「はい。場所はタワーポイント渋谷店、詳しいことはホームページをご覧ください」

藍子「私も行かせてもらおうかな~」

美優「えっ……き、緊張しますね……」

藍子「じゃあ、控え室に美優さんの好きなアロマキャンドル持っていきますね」

美優「は、はい。がんばります」

藍子「ふふっ、期待してます。ラジオの前の皆さんも楽しみにしててくださいね」

美優「是非、足を運んでいただけたら。精一杯歌います」

藍子「生ライブだけじゃなく、手渡し会もありますから皆さんいらっしゃってくださいね~」

 七月十四日。この日美優は『高森藍子のゆるふわラジオ』にゲスト出演していた。
 話の内容通り、デビューCDと発売記念イベントの宣伝のためである。


スタッフ「はい、オッケーでーす!」

藍子「お疲れさまでした~」

美優「お疲れ様でした。……藍子ちゃん、今日はありがとう」

藍子「いえいえ。イベント、楽しみにしてますね」

美優「えっ……本当に来るの?」

藍子「え? そりゃあ行きますよ、同じ部署の仲間じゃないですか」

 そう言うと藍子はふわりと笑った。
 彼女の言った通り、美優と藍子は同じ部署、つまり同じプロデューサーの担当アイドルである。
 他にも夕美を始め数人おり、みなデビュー前の美優をサポートしてくれていた。

美優「ありがとう。……でも、藍子ちゃんの方が人目集めちゃうかも」

 冗談めかして言うと、くすりと藍子が微笑した。

藍子「じゃあ、プロデューサーさんに頼んで舞台袖から見学してます」

美優「ええ」

 美優もまた、軽い吐息と共に微笑を返した。


「美優サーン! 藍子サーン!」

 二人がスタジオを後にすると、黒スーツの男が一人駆け寄ってきた。

「お疲れさまデス!」

藍子「はいはい。お疲れさま」

 無駄にテンションの高い彼を藍子がやんわりとたしなめる。
 しかし彼は静まらなかった。それどころか逆に興奮した様子で美優の方に飛びついた。

「美優サン、良かったデスヨ!」

美優「だ、大丈夫でしたか……?」

「ハイ。マズ、落ち着いた声なのに自己紹介で何度も噛んでるギャップがGoodデス。
 次に、お題BOXのコーナー! 無茶振りされて困りながらの猫の鳴き真似は実にCuteデシタ!
 他ニモ……」

美優「わ……わ、わ……わかりましたから……」

 赤くなってうつむいてしまう美優。そんな彼女を見ながらきょとんとする男。
 そんな様子を見て藍子が溜め息をつく。

藍子「プロデューサーさん。もうちょっとデリカシーを持ってください……そこがあなたの良い所でもありますけど」

P「? 事実を言っているまでなんデスケドネ……」

 そう、不可解そうに首を傾げるこの男が二人のプロデューサーなのだった。
 黒スーツに包んだ全身はすらっとしていて180㎝を越えている長身。
 しかし丸い目はぱっちりしていて、顔の輪郭も丸みを帯びているという、背丈にそぐわない童顔である。
 とは言っても日本人のそれではない。栗色の目は彫りが深く、鼻筋も高い。髪は地毛のブロンドヘアー。

P「それにしても遂にここまで来ましたネ……初めて会ったのは三月デシタカ……」

 しみじみと思い出話を始めるプロデューサー。
 アメリカから来たというそんな彼に美優はもちろん、藍子も夕美も初めは驚かされたものだった。

 それがどうしてスカウトを受ける気になったかと言うと……。


P「出会ったあの夜は、今でもよく憶えていマスヨ……」

美優「…………」

 苦笑いを浮かべながら、美優もまたあの夜のことを回想し始めた。

   *

美優「はあ……」

 あれは、美優がまだ会社勤めだった時の話だ。
 深夜零時五十分。会社帰りの美優は橋の欄干にもたれかかりながら溜め息を吐いていた。

 残業を終えると終電はもう過ぎていた。タクシーも考えたが、徒歩で帰ることにした。
 隣駅なので歩いて帰れない距離でもない。とはいえ随分な労力と時間を費やすことになるだろう。明日に響く可能性も十分ある。

 それでも、運転手と二人きりで狭い車内にいなければならないのが嫌だった。
 人付き合いは昔から苦手だったが、最近はそれに拍車がかかっている。

 他人の言動が鋭さを帯びているのか自分の神経が過敏すぎるのかはわからない。
 だがどうしたって他人と接すれば、自分の心が切り裂かれ、抉られるような痛みに襲われる。

 これからもずっとそんな痛みを覚え続けるのなら、私はどうやって生きて行けばいいのだろう。
 そんな思いが頭に浮かぶたび、眼下の水面が妖しく輝いているように見えた。
 黒くどろどろした河面が命を持ったように蠕動し、渦を巻き、その中に意識が吸い込まれるような気がした。

 帰らなければ明日に障る。それは重々承知していつつも美優はじっとそのまま夜の河を見詰めていた。
 このまま動かなければ明日も来ないのではないか……そんな無意味な幻想を胸の奥に飼いながら。


 と、そんな時――

「早まっちゃ駄目デス!!!」

 突然そんな大声が響いて――

美優「――きゃあっ!?」

 次の瞬間、美優の身体は押し倒されていた。

美優「……!?!?」

 何の前触れもないあまりのことに絶句する。
 美優の上にいた影はすぐさま顔を上げて――

「死んだら何も残らないんデス! 駄目デス! 自殺ダメ!!」

 ……と、わけのわからないことを喚きたてた。

美優「あ……あ、あ、あの……」

 とにかく何か言わなければと思うと、叩きつけられた背中に痛みが走った。
 冷静になって感覚が戻ったらしい。顔を歪めた美優を見て、慌てて声の主は起き上がった。

「ス、スミマセン! 大丈夫デスカ……?」

美優「……っ」

 推測してみるところかなり強い勢いで横から飛びつかれたらしかった。
 幸い頭への衝撃は避けられたが、それ以外が痛くて仕方ない。体中がじんじんと痛んだ。

「タ、立てますカ……?」

 手が差し伸べられる。涙目で顔を上げると――


美優「…………」

 全く別のことで美優は目を丸くした。ぼんやりとした街灯に照らされた彼の髪――
 濃度の高い金色……琥珀色。その色が、海馬の内のどこかの琴線に触れたような気がした。

美優「……んっ」

 差し出された手をとって立ち上がる。少しふらついたが、欄干に寄りかかった。
 男はおろおろしながら訴えかけるように口を開いた。

男「ハ、早まったら駄目デス。世の中まだまだ楽しいことガ……」

美優「ち……違います……」

 何か致命的な勘違いをしているらしい彼は丸みを帯びた目を更に丸くする。
 その大きすぎる瞳が栗色に光った。――その眼にも、美優はどこか懐かしさを感じた。

美優「誤解です。終電を逃して……途方に暮れていただけですから……」

男「エ」

美優「…………」

 固まる男。その様子をぼんやり見詰めていると、彼の顔が全体的に日本人離れしていることに気付いた。
 言葉のイントネーションも日本人のそれとは異なる。外国の人なのだろうか。


 などと考えていると――

男「……スミマセンデシタッ!」

 突然その男は橋の上に頭をこすりつけて土下座した。

美優「……あ、あの」

男「…………」

美優「い、いいですから……顔を上げてください」

男「…………」

 そう声をかけても男は微動だにしない。どうしたものか考えあぐねていると、

「プロデューサーさん!?」

 素っ頓狂な声と共に、道の向こうから女の子が二人駆け寄ってきた。

「な……何してるの!?」

「あ、あの、これはどういう……?」

 ショートカットにした金髪の子と、ポニーテールにした茶髪の子。
 遠目ではわからなかったが、街灯に照らされるとはっきりとその顔が見えた。

美優「あ……」

 思わずぽかんと口を開けてしまう。その顔に美優は覚えがあった。
 テレビでたまに目にするアイドルユニット『Flowery』の二人――相葉夕美と高森藍子だった。


藍子「あの……プロデューサーさんが何か失礼なことをしましたか……?」

 高森藍子が近づいてきておずおずと訊ねてくる。
 その整った顔立ちに美優はどきりとした。暗い中なのにテレビに映る彼女よりもずっと綺麗に見えた。

美優「え……えっと。大丈夫。特に何も……」

 顔を覗き込むように寄ってくるのに思わず身を引いてしまう。
 しかしその拍子に痛みが走った。それが顔に出てしまって、藍子が慌てる。

藍子「だ、大丈夫ですかっ? プロデューサーさん、一体何したんですか!」

夕美「なんか、身投げと間違えて飛びついちゃったんだって」

 プロデューサーと呼ばれた例の彼から話を聞いていた夕美が説明する。

藍子「そんな……。わ、私からも謝ります。すみませんでした」

美優「い、いえ……。大したことはありませんから……」

P「……アノ……」

 頭を下げる藍子の後ろから悄然としたプロデューサーがやって来る。

P「終電……逃したって言ってましたよネ」

美優「は、はあ」

P「お詫びといっては何デスガ……家まで送らせてもらえまセンカ?」


 車内で話を聞くと『Flowery』の二人は伊豆での撮影後らしかった。
 ロケバスもあったそうだが、鎌倉観光をしたかったためにプロデューサーの車に乗ったらしい。
 そのため帰りがこんなに遅くなったのだという。

藍子「本当にすみません……うちのプロデューサーさん、かなりずれたところがあって……」

 藍子は車内でも何度も謝っている。

夕美「病院は行かなくて大丈夫?」

 夕美もまた美優のことを心配してくれた。

P「…………」

 そしてプロデューサーはと言うとだんまりで、何かを考え込んでいるようだった。

   *

美優「……送っていただき、ありがとうございました」

P「――アノ!」

 ぺこりと頭を下げ、マンションに入っていこうとする美優をプロデューサーは呼び止めた。

P「美優サン……本当に、終電を逃しただけデシタカ?」

美優「え?」

P「他にも、原因があったんじゃないカッテ……」

美優「…………」

 答えられずに俯く美優。プロデューサーはスーツの内ポケットを探ると彼女に近づき、

P「モシ、その気があるナラ……」

 差し出されたそれは、彼の名刺だった。
 信じられない思いで美優が顔を上げると、ぴたりと目が合った。

 すると彼は、純朴な少年のように笑んだ。
 美優はそれで気付いたのだった。何度も彼に感じていた懐かしさ。その正体を。

 美優が迷いながらも彼の誘いを受けたのは、それによるところが大きかったのかもしれない。
 外見や態度、表情、瞳の中に宿る無邪気さ。それが、昔ずっと一緒にいた「あの子」に似ていたから――


   *

P「――そんな美優サンも、もう立派なアイドルですネ」

 長い回想に浸っていたプロデューサーが感慨深そうに言った。

美優「いえそんな……まだデビューもしてませんし……」

藍子「ふふっ。あと一週間、ですよ」

美優「そうね……」

 どこか沈んだ調子の声を出したからか、藍子は美優の手を取ってぎゅっと握った。

藍子「大丈夫。みんな応援してますよ」

美優「……ありがとう。藍子ちゃん」

藍子「私たちにできることがあったら、何でも言ってくださいね」

 プロデューサーも力強くそれに頷いた。
 礼を言いながらも美優は、そう言っている自分がどこか他人事なのに気付いていた。

 今までの言動から言って彼女たちの言葉に嘘はないのだろう。心から気遣ってくれていると思う。
 だが――世の中の人間がみな彼女たちのように優しくはないのだ。美優は既にそれを知ってしまった。

美優(あと、一週間……)

 もう目前まで近づいている。今までレッスンしてきた成果を人に見せられるという楽しみもある。
 これから自分が変わっていけるのではという期待もある。だが、それでも――

 それでも、今の美優はまるで海中に漂う海月だった。
 透明で、ふわついていて、打てども鳴らない鐘のようだった。

 近づいてくる期待があるのと同時に、積極的にそれに向かって走っていけない。
 むしろその周囲に揺蕩う暗闇に目を引かれてしまう。汚く濁ったものなのに、何故か心をざわつかせる暗闇に。

 結局美優はそこから動くことができなかったのだった。
 立ち止まったまま、目の前に近づいて来るものを待ち受けているだけ。
 するともう、それが果たして正なのか負なのか、それすらもわからなくなっていくのだった。


(4)

 マンションの部屋に戻ると、明かりはつけないまま窓を開けた。
 しとしとと降りしきる雨の音。水の匂いがする湿った夜気が部屋に入ってくる。

美優(嫌な……匂い)

『――…………くの』

 あの日も雨だった。その夢もいつも雨が降っていた。
 ……いずれ雨はやむ。けれど、雲間から射し込んだ日の下には……。

美優(…………)

 はあ、と息を吐いて、そっと窓を閉めた。
 それでも美優はその場で佇んで窓の外を眺めていた。

 夜の街。一軒家とマンションの凸凹がアンバランスに広がっている住宅街。
 その向こうに不可解な影があった。地面に突き刺さるように傾いている大型船の影。

 どうしてこんなものがここにあるのか、誰にもわからない。
 六月下旬のある日突然、その大型船は街中に姿を現したのだ。

 一日で建造できるわけもなし。かといって運んでこれるわけもなし。
 調査の結果19世紀に太平洋上で失踪した客船ではないかと推測されていたが、それ以上のことはお手上げのようだった。

 美優もそれを知って驚いたものだったが、世間の熱狂とは一歩引いたところにいた。
 この世の現象には必ず原因がある。だから、何か理由があって、どうにかして出現したのだろう。
 自分のことで手一杯な時期だったのもあったが、この事件に対する彼女の認識はそんな程度のものでしかなかった。


美優(原因があって……結果がある……)

 それがこの世界のルールだ。
 だから――

『――…………くの』

 あの子が、陽だまりの中で動かなくなったのも。

『――…………ないで……』

 ――私が今まで生きていられるのも。

美優(私が……)

 ――私が、あの子の命を奪ったから。

 雨足が強くなる。窓に叩きつけられ音が立つ。
 美優は溜め息を吐いて窓から離れた。

 ダイニングの電気をつけてテーブルにつく。
 ラジオ中は携帯の電源を切っていたことを思い出し、それをオンにした。

美優(あら……)

 不在着信とメールボックスに母親からのものが入っていた。
 留守録があったのでそれを先に聞く。

母『美優。ラジオの仕事お疲れさま。聴いてたよ』

美優「…………」

 ちょっと照れくさい気持ちになる。


母『それでね、あなたの昔のお友達にもそれを聴いてた人がいて』

美優「……?」

 美優は思わずきょとんとなった。「昔の友達」……。

母『わざわざうちの番号を探して連絡してくださったの。でも電話番号とかメールアドレスとかを教えるのはいけないと思ったから、FAXをこっちに送ってもらって』

 つまり、小学中学時代、引っ越しのたびに別れることになった「昔の友達」だろうか。
 美優の家は父親の仕事の都合で頻繁に引っ越しを繰り返していた。

母『メールでその写真を送るわね。みんな応援してくれてるのって嬉しいものね……』

 録音を聴き終わってからメールを開いてみると、写真が五枚添付されていた。
 「知った時は驚いた」「興奮して行方を調べちゃった」など、思い思いのメッセージが書かれている。
 その手書きの文字。確かに――微かに覚えがあった。

美優(懐かしいな……)

 そう、思うのと同時に。

美優(…………)

 奥底に仕舞い込んでいた記憶が浮上して、心の中が濁っていくような……。
 そんな感覚にも襲われていた。

『――毎週手紙出すからね!』

 別れ間際にそう言ってくれた友達たち。初めの一ヶ月はその言葉通り毎週出してくれた。
 けれども時間が経つたびに二週間ごと、三週間ごと……と間隔があくようになった。
 手紙には「送るの遅くなってごめん」と、その理由と一緒に書かれてあった。

 そうしていつかは、ふつと、手紙が届かないようになる。
 美優は数多い引っ越しで何度もそういう出来事を経験していた。


 別にそれを裏切りと感じることはない。
 仕方のないことだと割り切っていたし、それまで送ってくれたことには心から感謝していた。
 むしろ昔にこだわり過ぎないよう気を遣って出すのをやめた可能性だってある。

 ただ――

 ――ただ、少し淋しいだけ。

 今日連絡を送ってくれた彼女らはきっと純な気持ちで送ってくれたのだろう。
 でも、それを見て美優は、

 別れの淋しさ、

 遠ざかっていく淋しさ、

 繋がっていた糸が切れる淋しさ、

 指に引っ掛かった切れ端を見詰める淋しさ、

 それらを思い出して、心臓の奥深くの繊細なところに指を引っ掛けられたような、

 そんな痛みも思い出すのだった。

 ――雨はまだ降って、窓を叩いていた。


   *

明「……三船さん、体調悪いんですか?」

 翌日。ボイスレッスン担当トレーナーの青木明は鍵盤を弾く手を止めてそう言った。

美優「そう……見えますか」

明「見えるというか聞こえるというか。ちゃんと寝れてますか? ご飯食べてますか?」

 かなり深刻そうに訊いてくるので思わず噴き出しそうになった。

美優「すみません。……大丈夫です」

 笑ったつもりだったが、明の心配そうな表情は変わらなかった。

   *

麗「……大丈夫か? 三船」

美優「え……?」

 午後のダンスレッスンでも美優はそう訊かれた。

麗「動きに全然キレがないぞ。疲労がとれてないんじゃないか?」

美優「そんなことは……」

 そうは言うが、膝に手を突いて喘鳴を繰り返す様子は普通ではなかった。
 どことなく顔色も悪いように見える。雨で気温が低いせいだろうか。

麗「いったん休憩にするか」

美優「わ……私は……大丈夫ですから」

麗「本番までもう一週間もないんだぞ。無理されたら困る」

美優「……はい……」


 レッスンルームの床に座り込んで美優は小さく溜め息を吐いた。

美優(どうしたのかしら、急に……)

 デビューが間近になって緊張しているのか。
 もしこのまま治らなくて……そうでなくても万全じゃない状態でステージに上がることになったら……。

美優(あと、六日……)

 ――ざあああああああっ。
 ――だだだだだだだっ、だだだだだだだっ、だだだだだだだっ……。

 深呼吸して喘鳴を収めると、雨音が耳に入った。
 だが、どこかおかしい。音が遠い。まるでプラグを半分だけ挿したイヤホンから聞こえる音のような……。

『――…………くの』

 ……いや、違う。

『――…………ないで……』

 周りの音が聞こえない。全くの無音。雨音だけが遠く聞こえる。
 それが、背中から近付いてきている。

美優(駄目……)

 見たくない。振り向きたくない。思い出したくない。
 それなのに。雨音は無情にも歩みをやめない。ひた、ひた、と近づいてくる。もう背中のすぐ後ろ……。


美優(嫌……)

 目を強く瞑ると、世界から重力が消えたような感覚に囚われた。
 床がなくなる。プールに蹴落とされたかのよう。丸めた体が無重力の中でくるくると回る。

 その水の中で、まるでウォッカに入れられた琥珀のように美優の心は溶けていって。
 最奥にある、閉じ込めていた核が取り出されて――

美優(私は……)

 激しい雨音に包まれる。それなのに、真空のように音がない空間。

『誰か――……』

 掠れる視界。滝のように流れる汗。全身に走る悪寒。
 頭の中で絶えず鐘が打ち鳴らされているような痛み。得も言われぬ気持ち悪さ。

 ――あの日美優は、突然の高熱で臥せっていた。

『お父さん……お母さん……』

 それなのに、周りには誰もいなくて。
 意識が戻ると消え入りそうな声で誰かを呼ぼうとした。
 でも、誰もやって来ず、やがて意識が途切れる。その繰り返しだった。

『……ラバー……?』

 ……いや、ひとりだけいた。
 美優が飼っていたゴールデンレトリバーの「ラバー」。
 正確には一匹。けれど彼女にとってラバーはかけがえのない家族だった。

 小さい頃から一緒に遊んで、一緒に寝て、一緒に歩いて……。
 引っ越しの繰り返しで決まった友達ができない美優にとってラバーは、まさに「恋人」も同然だった。


 だけど、あの日は……。

『――…………くの』

 薄ぼけた視界に、遠ざかっていく琥珀色の影。

『――…………ないで……』

 震える腕を伸ばそうとして、力なく床に落ちる。

美優「ラバー…………」

 そして、雨が上がった時には――

『ラバー……?』

 窓から射す斜陽の中で、その琥珀色の毛並みを儚げに輝かせながら、ラバーは……。

『私のせい……』

 私が助かったから。

 私が、あの子の命を奪ったから。

 だから私はずっと苦しまなくちゃいけない。

 それが、あの子に対して私ができる唯一の償いだから――

 聞こえる。遠い、哀しげな旋律。
 まるで、恋人に送る鎮魂歌のような。


「――…………サン」

 ああ、声が聞こえる。

「――………………サイ」

 ……でも、これは今までとちょっと違うような……。

「――…………サン!」

「――美優サン!」

 弾かれたように、美優は目を見開いた。

美優「…………!」

P「ヨカッタ……」

 レッスンルーム……ではないようだった。
 身体の下に当たる柔らかな感触。……ベッドだ。どうやら仮眠室で寝かされているようだった。

美優「どうして……」

P「レッスン中に倒れたんデス。憶えてないんデスカ?」

美優「……。はい……」

 雨音を聞いていたらいつの間にか意識を失っていたということだろうか。
 具合は悪くないつもりだったが、トレーナーたちの言う通り本当に体調不良だったのかもしれない。


P「美優サン……」

 かなり深刻そうな表情で顔を覗き込んでくる。

P「大丈夫デスカ……?」

美優「……はい。大丈夫です……」

 しかしそれを聞いても彼の険しい顔は変わらない。

P「……六日後のステージは大丈夫デスカ……?」

美優「…………」

 すぐには答えられなかった。
 プロデューサーはどこかしょんぼりした様子で、

P「スケジュールには余裕がありマス。こちらが言えば二、三日はずらすこともできマス」

美優「…………」

P「……どうしマスカ?」

 美優は、それにも答えられなかった。


   *

 送っていくというプロデューサーの申し出を断り、美優はひとりで帰路についていた。
 やまない雨が建物を、道を打ちつける。傘の下にいる自分が世界から切り離された感覚に陥る。

 道を行く人々。皆黒い傘を差して、お互い顔も見ず歩いている。
 それぞれの世界は独立して、決して接することはない。ただすれ違うだけ……。

美優(どうしてなのかしら……)

 どうしようもない寂寥感に襲われて、美優は立ち止まった。
 人と人は繋がれない。繋がってもいずれは断たれる。自然に消滅していく糸もある。
 どうしたって人は独りきりだ。みんな傘の下で、矢のような雨から身を守っている孤独な流離人だ。

美優(どうして……)

 この淋しさの原因はいったいどこにあるのだろう。
 みんなどこを歩いているのだろう。どこに向かって歩いているのだろう。
 自分はどこにいて、どこからそれを見て、どこでそれを哀しんでいるのだろう。

 ――いったい私の心は、どこにあるのだろう。

 止まっていた自分の「時」が、最近良くも悪くも動かされているような気がする。
 未来へ押し上げられる力。過去に引き戻される力。だがどちらも自分の心から起こったことではない。

美優(誰かが――)

 前者はプロデューサー。ならば、後者はいったい――
 そう思い至った時だった。


美優(――――)

 薄暗い街路にその鮮やかさはアンバランスだった。
 駅前の人の群れを縫うようにして、琥珀色の影が走っていく。

美優(待って――)

 美優は駆け足になってそれを追う。

美優(どこに――)

『――どこに……行くの』

 人の群れがいつの間にか消えていることに美優は気付かない。
 周囲の風景が歪み、ぼやけ、捻れていくことにも気付かない。

 ただ無心に、ラバーの後を追う。追いかける。
 なのに、いつまで経っても追いつかない。距離が縮まらない。離される一方。遠ざかる一方。

美優(私を――)

『――ひとりに……しないで……』

 あの日届かなかった腕を懸命に伸ばして――美優は走り続けた。










 ――その翌日、美優は行方不明になった。











(5)


 七月十八日。プロデューサーは事務所のデスクでパソコンの画面を凝視していた。
 美優が姿を消して三日目。ミニライブまでの残り日数も三日。

P(美優サン……)

 レッスン中に倒れた日の翌日、美優は事務所に来なかった。
 自宅にも携帯にも連絡がつかず、実家にも消息がわからないという。
 一日待っても戻ってこなかったので、十七日警察に捜索願を出した。

 最近の様子を見るに色々と不安が募っていた可能性はある。
 だが、それで何の連絡も寄越さず失踪するような人間とは思えなかった。

 とすると、何らかの事件に巻き込まれたのだろうか。
 プロデューサーは、捜索願を出した際、担当の警察官が呟いた一言が気にかかっていた。

『また清水が丘か……』

 美優の住む街だ。調べてみると、「SSP」というサイトに辿り着いた。

『人間失踪と謎のミステリースポットの関係は!?』

 というタイトルで、二つの事件の関係をほのめかす記事を書いていた。
 前者は最近東京都府中市清水が丘で頻発している失踪事件について。
 後者は六月下旬から突如府中市に出現している謎の建造物や船舶、戦闘機などについてだ。


『我々SSPはこのふたつの事件の関連について調査を進める所存だ!』

 と結ばれた記事を見終わって、プロデューサーは腕を組んだ。

P(…………)

 警察からはまだ何の連絡もない。ライブは三日後だ。
 こんな事件が起こってしまったのだから中止にするべきなのだろうが、ぎりぎりまで待ってほしいと無理を言った。責任は全て自分が取るとも。

 そんなことを言ってしまった手前、自分も手を尽くさなければならない。
 この「SSP」というサイトは怪奇現象やら伝奇やらを纏めているサイトで甚だ信憑性に欠けるが――

藍子「プロデューサーさん」

 そんな時、横から声を掛けられた。

夕美「そんな怪しいサイト見て……」

P「……デスガ……」

藍子「……無茶だけはしないでくださいね」

夕美「うん。プロデューサーまでいなくなられたら……」

 彼女たちも独自に調べていたことがあったのだろう、不安げな表情をしていた。

P「…………」

 だが、もう心に決めていた。
 自分は三船美優のプロデューサーだ。彼女を絶対に取り戻して、そして――


   *

 午後八時。業務を終えたプロデューサーは迷いなく清水が丘に車を走らせた。
 事件発生から一週間ほどはVTL隊が調査に当たっていたが今はもう撤収している。そのためある程度は自由に調査できるはずだ。

 コインパーキングに駐車し、歩きで例の船に向かう。
 一番美優の家に近いのがこれだった。

P(何でこんなモノが街中ニ……)

 夜の闇を更に黒々しく塗り潰す巨大な影。
 幸いこれは空き地に出現したが、別の場所では元あった建物が破壊されるなどもあったそうだ。

 ペンライトで照らしてみたり周囲を歩いてみたりする。
 だが調べた以上に何もわかることはなかった。溜め息を吐いて肩を落とした時だった。

P(……?)

 下ろされたペンライトが地面の上の何かを照らしだしたのだ。
 ――傘。細かい刺繍がされている白い傘。そうだと認識した瞬間、プロデューサーは慄然とした。

P「コレハ……」

 震える手でそれを拾い上げる。間違いない。これは――
 これは、美優の傘だ。

 何故こんなところに。辺りにライトを走らせる。

P「美優サン!」

 すぐ近くにいるのではと思って何度か声を張り上げるが、聞こえるのは雨の音だけだった。


P「美優サン……」

 一体彼女に何があったのか。最悪の可能性が頭をよぎる。
 彼の心情を表すかのように稲光が閃いた。間を置かずおどろおどろしい雷鳴が――

P「……………………」

 プロデューサーは息を呑んだ。
 雷鳴が轟いたと同時に――何かが突如現れた。――彼の背後に。

 じっとりとシャツの背中が汗ばむ。
 全身から体温が奪われていく感覚に陥る。

 絶えない雨音。しかし、何かが違う。遠い。まるで意識が世界から剥がれていっているような。

 一瞬、風の向きが変わる。変な音が聞こえた。地獄の底から聞こえてくるような重く低い音。
 ここで振り向いたらいけない気がする。そこにいるものを目にした瞬間、自分の精神が壊れてしまいそうな気がする。

 だが、振り向かなくてはならなかった。
 白昼夢でも何でもいい。ここで起こることは何であろうと見ておかなくてはならない。

 だから彼は、骨が軋みそうなほどぎこちない動きで、後ろを振り返った――


 まず目に入ったのは「崖」だった。

 金色の鉱石が露出している岩肌。群青色の地肌。それが切り立っているのだ。
 しかしすぐ思い直した。それは無機物などではなかった。生物的な温度と僅かな動きが見て取れる。
 ならばこれは何なのか。視界を占めるこの金色は。

P「…………」

 ゆっくりと、顔を上げていく。

 暗闇の中に光る二つの楕円。
 その中心に、瞳のような黒点があった。

 爬虫類の頭部……のようなものが「崖」の上にあった。

P「…………」

 だがそれらは全て一続きのものだった。
 発せられる存在感。それは間違いなく生物のそれだった。
 止まっているようで全身が絶え間なく動いている。
 腕のようなものがある。地面に近い所には足のようなものが。

 馬鹿でかい蜥蜴。全身の鱗が金色。恐竜のように二足で立つ蜥蜴。
 長い長い時間をかけて彼の脳が出したのはそういう結論だった。


「グルルルルルルゥゥ……」

 低い唸り声が歯の間から洩れる。光る眼の中の瞳が、ぎょろりとこちらを向いた。

P「――――」

 口を開いたが、声にならなかった。
 腰が砕け、尻餅をつく。巨大蜥蜴の頭の両側にある角が明滅する。

 その瞬間、爆発音と同時に、目の前が真っ白になった――

P「――――」

 身体が浮く。……もしかして自分は死んだのだろうか。
 魂がふわふわと空中に昇天する、それはこういう感覚なのだろうか――

 などと思っていたら、今度は猛スピードで降下し始めた。
 わけがわからなくなる。一体何が起きているのか。無意識で閉じていた目を開く。

P「……?」

男「大丈夫か」

 いつの間にか地面に寝かされていた。そして、プロデューサーを見下ろす顔があった。
 すぐそばに焦げ茶のジャケットを着た男がいた。雨なのに傘も差さずに佇んでいる。


男「奴は……逃げたか」

 周囲を見回し、ひとりごとのように呟く男。
 一体何が起きたのか。立ち上がると、プロデューサーは彼に訊ねた。

P「アナタが助けてくれたんデスカ……?」

男「……ああ。まあ、一応な」

P「ありがとうございマス。……それデ、アイツは一体……」

男「逃げたみたいだな」

P「逃げたッテ……」

 あんな巨大な生物が逃げれば足音が響くだろうし、隠れ場所もない。
 そのことを言うと、男はふっと息を吐いた。

男「――まあ、そうだな」

P「アナタは、アイツのこと知ってるんデスカ?」

男「…………」

 男は答えなかった。それが逆にプロデューサーを確信づけた。
 勢い込んで男に詰め寄る。

P「教えてくだサイ! もしかするト――」

 訴えようとした言葉を、男の声が遮った。

男「やめておけ」

P「エ……?」

男「この世には、知らない方がいいこともある」


 男はそう言い放つと、呆然としているプロデューサーに背を向けた。慌てて呼び止める。

P「待ってくだサイ! 探している人が関係してるかもしれないんデス!」

男「探してる人?」

P「ハイ。この女の人、知りませんカ?」

 駆け寄って美優の写真を見せる。一瞬だけ男の顔に変化があった。

P「……知ってるんデスカ?」

男「……この姉ちゃんを探してるのか」

P「ハイ」

男「…………」

 男は目を閉じるとそのまま考え込むようにした。

P「お願いしマス。大切な人なんデス……」

男「……大切な人、か」

 おもむろに瞼を上げ、写真をプロデューサーに返す。

男「わかった。教えてやるよ」

P「エッ」

男「ただし、協力してもらうぜ。この姉ちゃんを助けるために」

 一瞬意味が呑み込めなかったが、すぐに表情をぱっと明るくして、


P「……ハイ!」

 彼は眩しいくらいの笑顔で返事をした。
 が、男の表情は逆に険しくなる。

男「先に言っておくが命懸けだ。それでも構わないんだな」

 プロデューサーが神妙な顔をして頷くのを見て、男は語り出した。

男「この街に突如出現した建造物や船は、時空界という世界がこの世界と重なったために現れた」

P「エッ?」

男「時間と空間が歪んだ世界だ。だから、あらゆる過去や未来の物がこの世界に飛ばされてくる」

P「…………」

男「そして――今は一部だけ重なっているだけだが、やがて二つの世界は一つになる。ある怪獣の手によって」

P「怪獣?」

男「ああ。奴の名は――」

 そこで男は一旦言葉を切った。目元を険しくしながら虚空を見詰め、言う。

男「“時ノ魔王獣”――マガゴルドラス」


(6)


P「魔王獣……」

男「そうだ。奴らは世界に破壊と混乱をもたらす存在。今度も大方、人間を時空界に引き摺り込んで狂わせようとしてるんだろうよ」

 人間を引き摺り込む――
 その言葉にプロデューサーはハッとなった。

P「マサカ」

男「あんたの探してるその姉ちゃんは時空界に迷い込んじまった可能性が高いな」

P「……助かる方法はあるんデスカ」

男「助け出すしかない」

 その声音に半ば呆然としていた意識が呼び戻された。
 力強く頷く。男の方も頷きを返した。

男「さっきも言った通り時空界は時間も空間も歪んだ世界だ。俺たちの世界とはまるで違う。
  そこで進む道を決めるのは意志の力だ。人の思考と観測が世界に影響を与えるってやつさ」

P「ツマリ、私が美優サンのことを強く思エバ」

男「彼女のところまで行けるはずだ。――確証はないけどな」

P「それデモ、行きマス」

男「ああ。それでいい」

 そう言うと彼は、再び虚空を見詰めた。いや、睨むと言った方がいい。
 だがプロデューサーがそこを見ても何もない。彼にしか見えないものがあるとでもいうのか。


P「ソレデ、時空界はどうやって行ケバ」

男「そうだったな――」

 彼はポケットから手を出すと、プロデューサーの左腕を掴んだ。

P「?」

男「稲妻が合図だ。あの稲妻が走るほんの一瞬、こちらから時空界に行ける」

 そういえば、さっき怪獣が出現したのも雷が落ちた直後だった。

男「奴もそろそろ俺を始末したいと思ってることだろう。――10年前から追ってるからな」

P「エ……?」

男「――いや、何でもない」

 その時だった。視界に青白い閃光が満ちた。

男「――行くぞ」

 間を置かず轟く雷鳴。同時に腕が引っ張られる。身体が空中に引き上げられる。
 何か薄い膜を破ったような感覚が、一瞬、全身を包む。

 次に目を開けると――

 そこに広がっていたのは、荒涼とした広野だった。


   *

 時は少し遡って――

 ……いや、その言葉は適当でないかもしれない。

 この世界は、時間も空間も歪んだ世界。現実世界のいずれとも隔離された世界。

 時間は捻れ、過去への遡行も未来への跳躍も可能となった世界。

 だから彼女がどれだけ走っていようと、その経過は現実の時間とは関係ない。

 彼女――美優は、かつての愛犬の後ろ姿を追いかけ続けていた。

 そして、「あの日」に辿り着いていた。

   *


美優(ここは――……)

 自分の家。高校生の時の家だ。
 街の外れの小高い山の中腹に建てられていたのを借りたもの。

『お父さん……美優は大丈夫かしら』

『救急車を呼ぼう……』

 表情に影を落としながらリビングで話し合う両親の姿。
 美優はそこに立ち会っていたが、彼らの目には映らないようだった。

『お父さん、電話が繋がらない……』

『携帯も駄目なのか』

『駄目。急にどうして……』

『仕方ない、車で運ぼう。毛布を頼む……』

 自分のことだと美優は悟った。
 窓を叩く激しい雨音。――あの日だ。琥珀のように心の底に秘められていた、あの日の記憶――

 突然、稲光が窓を突き抜け部屋中を照らした。
 追従する雷鳴は追撃のように大きく、鼓膜が痛んだ。


『――何だ、急に……?』

 父親が言ったのは雷のことではなかった。
 彼の身体が揺れる。酒に酔っているかのように足取りが不安定になる。

『なに、どこ、ここ、どこ――……』

 母親も同様に。
 ふらりふらりと舞うような動きで、どこへともなく歩き出す。

 間もなく、二人の姿は溶けるように消えていった。

『誰か――……』

『お父さん……お母さん……』

 あの日の自分の声が聞こえる。そう思うと、次の瞬間には視界が一変している。
 美優の部屋。真ん中に敷かれた布団の中で、熱にうなされている昔の自分がいた。

美優(…………)

 何とも言えない気分で美優はその光景を見ていた。
 これは夢なのだろうか。だとしたら――ああ、思い出せない。自分がどこで何をしていたのか思い出せない。

 以前の自分は、今の自分は。ああ、「私」って何だっただろう。
 目の前に「私」がいて、それを見ている「私」がいて――

 その時、部屋の襖が小さく開かれた音がして、美優はそちらに目を向けた。
 隙間から人間のものではない手が入ってきて、ぐいっぐいっと襖をこじ開けた。


美優『……ラバー……?』
美優「……ラバー……?」

 二人の声が重なる。狭い隙間から体を捻じ込ませて入ってきたのはラバーだった。

美優(ラバー……)

 尻尾を振りながらラバーは枕元に寄っていく。その元気な姿を見て美優は胸に込み上げるものを覚えた。
 ――それと同時に、これから彼に襲い掛かる運命も。

美優(駄目……)

 このままでは。ラバーが死んでしまう。
 その結果しか知らないのに、美優は途端に焦り出した。

 雷光が閃く。雷鳴が雨音を掻き消す。
 ラバーは寝込んでいる美優の頬を舐めると、身を翻した。

美優『――どこに……行くの』

 駄目だ。このままでは。止めなきゃ。
 だって、ラバーがいなくなったら――

美優『――ひとりに……しないで……』

 伸ばした腕もその願いも届くことはなく、ラバーは部屋を出ていく。
 美優はその後を追った。視界が瞬く間に変化し続ける。


 専用口から誰もいなくなった家を飛び出す。
 雨が彼の琥珀色の毛並みを濡らしていく。もう老犬なのに。こんな激しい運動を、こんな冷たい中で――

美優(駄目、ラバー……)

 一心不乱にラバーは走る。山道を駆け下りる。
 美優はその後ろ姿に追いつけない。だが、離されることもない。
 引力に引きつけられているかのように、同じ距離を保ったまま追えている。

 ぬかるんだ坂を迷いなく進んでいく姿に美優は不安を覚え始めていた。
 この先は急なカーブだ。ミラーもついていないので車が来ないか毎日ひどく気にして通学していた記憶がある。
 こんな勢いで走っていたら狭い山道、曲がり切れないのではないだろうか。

 そう思って美優は少しスピードを緩める。一方ラバーはむしろスピードを上げているように見える。
 はらはらする。――結末は知っているのに。ラバーはここで落ちるはずなんて……。

 その時だった。

 雷が落ちた。一瞬の閃光がクヌギの、ホウソの、アベマキの重なり合った葉の緑を照らした。
 天地を揺るがすような雷鳴。――いや、本当に揺れている。その震動が葉の雫を落とし、ざああああ……っと音が鳴った。

美優(――ラバー)

 目の前で――ラバーがバランスを崩していた。
 カーブを曲がろうとして遠心力に引っ張られる。足元がぬかるんで踏ん張りがきかない。

美優(ラバー!)

 ガードレールもない山道の端まで滑っていき――その向こうの崖に姿を消した。


美優(…………)

 呆然というよりは唖然とする美優は更に驚きの光景を見ることになった。
 突然崖下から黒い影が飛び上がってきたのだ。胸にラバーの身体を抱いて。

美優(……あの……人)

 焦げ茶色のジャケットにブルーのジーンズ。
 最初にラバーの姿を見た七夕の日に出会った男の人だった。

男『大丈夫か?』

 ラバーを下ろして笑顔を浮かべるが、

男『お、おい』

 ラバーは彼の元を離れるや否や噛みつかんばかりの勢いで吠え始めた。思わず彼は後ずさる。

男『何をそんなに――……あぁ、そうか』

 彼は悟ったようにふっと溜め息を吐く。

男『お前さんにはわかるのか』

 ラバーはまだ警戒を解こうとしない。
 歯を剥き出しにして、美優も見た事のない獰猛さで男を睨みつけている。

男『安心しな、俺は敵じゃない。俺は――』

 そこで言葉を切ると、思い詰めるように彼は俯いた。
 が、ラバーが唸り声を上げるものだから、観念して顔を上げる。泣き笑いのような、胸を刺す表情だった。


男『俺はオーブ。ウルトラマンオーブだ』

 そう言って笑うと、さっきまでの勢いは何だったのか、一転してラバーは大人しくなった。
 甘えるような声で何度か鳴き声を出す。相槌を打ちながら男はそれを聞いていた。

男『なるほどな。お前さんのご主人様が今ピンチってわけか』

 立ち上がり、美優の家の方向を睨む。

男『――時ノ魔王獣か』

 呟くように言うと、再びしゃがんでラバーと目線を合わせた。

男『大分疲れてるようだが大丈夫か? ――そうか。
  俺は奴を倒してあの家を元の世界に戻す。お前さんは麓まで言って人を呼んできてくれ』

 そうだな、と言うと懐からメモ用紙を取り出して何か書き、それをラバーの首輪に結んだ。

男『頼むぞ』

 背中をぽんと叩かれるとラバーは再び走り出した。
 男はその反対方向――美優の家の方向に走っていく。少し迷ったが彼の後をついて行くことにした。

 この人は一体何者なのか。
 これは十年前の出来事なのに、十年後に会った時も外見が全く変わっていない。
 そしてオーブとは。魔王獣とは。わからないことだらけだった。


男『――酷いな』

 男が家の前まで着くと、美優もまた目を丸くした。
 家の周囲に黒い霧のような渦が出来ていたのだ。そしてその中に――

 稲光と共に照らし出される影。
 巨大な怪獣が我が物顔でそこに鎮座していた。

男『おい魔王獣! お前が出てこないんなら、こっちから行かせてもらうぜ!』

 そう言い放った彼の手にはどこから取り出したのか、薄青のリングに銀色のウィングがついた奇妙なアイテムが握られていた。
 突き出したそれを胸の真ん中に当てる。リングを包んでいたウィングが左右に展開する。
 リング部分が青に、金に光り、最後に紫色に染まる。

 彼の全身が霧のような光の粒子に包まれる。
 その光の中から何かが突き出てきた。――いや、そうではない。
 光に包まれていた彼の身体が巨大化しているのだ。

 足元から光のリングが身体を沿うように上っていく。
 それと共にぼやけた光が弾けていき――

美優(…………)

 これは夢かと思うほどだった。

 目の前に現れたのは巨人。黒と銀と赤と紫とがバランスよく流れる体躯。
 胸にはあのアイテムを象ったような青いリング。
 頭部には白色の瞳。額には縦長の発光体が紫色に光っている。

巨人『――ジュアッッ!!』

 雷鳴が轟く。巨人が駆け出す。家を取り巻く黒い旋風に飛び込む。

怪獣『シャアアアオオオッ!!!』

 怪獣の鳴き声が聞こえる。巨人の掛け声が聞こえてくる。
 美優は心ここにあらずといった様子でそれを眺めていた。


 ――気付くと雨が上がっていた。

 家を取り巻いていた渦もない。あの巨人も怪獣もいない。
 山道から車が登ってきた。ドアが開き、すっかり恢復した少女が飛び出してくる。

美優『ラバー……? どこ……?』

 一階を探し回ってもいなかったので二階の自室に入る。
 ラバーは窓際で丸くなっていた。雲間から射し込んだ光に、その毛並みを煌めかせながら……。

美優『ラバー?』

 駆け寄ろうとして立ち止まる少女。
 そうだ。あの時、一目見ただけで異様だと感じた。胸を抉られる感覚を覚えた。
 そしてこのとき抉られて欠けた心は未だに埋められていない。

 ――音が聞こえる。ハーモニカのような音。哀しげな旋律。
 少女も美優も固まる。まるでそれが、ラバーに対する鎮魂歌のように聞こえたから……。

美優(…………)

 いたたまれなくなって、美優は部屋を後にした。

母『お父さん……ラバーは』

父『人を呼んできてくれたんだろう……あの雨の中、山道を走って』

母『それが原因で……』

父『もう歳だったから……。……このことは美優には言わないでおこう……』

母『そうね……自分の病気のせいだって自分を責めるかもしれないし……』


美優(そういう……こと)

 ――比喩でも何でもなく、私はラバーの命を奪っていたのだ。

美優(私は……)

 いったいどうすればいいのだろう。こんな真実を見せつけられて。
 ただただ哀しい。苦しい。もう、どこへ行く道もない。

 再び二階に上がると、少女はまだ泣きじゃくっていた。

美優『私のせいで――』

美優(…………)

美優『私が助かったから――』

 それは、ラバーの死が受け入れられないことから生み出した理屈だったのかもしれない。
 でもそれは図らずも当たっていたのだ。その事実が哀しいということは、心のどこかで自分のせいじゃないと思っていたのか。

 今まで受けてきた痛みは全て罰なのだと思っていた。
 それは結局ラバーの死に原因をすり替えて責任を逃れようとしていたのではないか。

 自分の浅ましさが嫌になる。
 もう、何もかもを放り捨ててしまいたい。

 頭の中に暗黒が渦を巻く。その表面は蠕動して美優を魅惑する。
 意識がその中心に引き摺り込まれそうな気がする。もう、それでいいと思えてくる。

美優「私なんて、いなくなってしまえばいい……」

 目元から涙が溢れたその時だった。

 あの日のように、あの人の声が聞こえたのは。


   *

P「ココハ……」

 目を開くとそこは荒涼とした広野だった。

男「ここが時空界だ。行くぞ」

P「…………」

男「余計なことは考えなくていい。恋人を助けたい、そう思えばいい」

P「恋人!?」

男「何だ、違うのか」

P「違いマスヨ……美優サンは私の担当アイドルデス」

男「そうなのか。大切な人とか言うもんだから、つい」

P「ソリャア……大切な人ですケド……」

 どこか沈んだ口調でプロデューサーは言う。

P「……初めて彼女を見た時の顔が忘れられないんデス」

男「…………」

P「事務所に入った後は笑ってくれるようになりマシタ。デモ、やっぱりどこか寂しそうデ……」

男「…………」

P「私は彼女に心から笑ってホシイ……それだけなんデス」

男「……そうか」


P(美優サン……)

 彼女のことを思う。愁いの色が消えないあの表情。
 ひたむきに努力するのにそのたびに不安を募らせていくようだった彼女の様子。

 こんな事態になったのは自分のせいもあると思っていた。
 プロデューサーは彼女のことを信じていた。彼女が本当の笑顔を見せてくれれば、みんなの心を揺り動かせるアイドルになれると。
 でもそれを彼女に伝えることができなかった。だから彼女は迷ってしまった。

P(もう一度会ッテ――)

 それを彼女に伝えたい。その想いを強く念じる。
 周囲の景色が変わっていく。時間を跳躍し、空間を超越し、美優の元に近づいていく。

『私なんて――』

 声が聞こえた気がした。ハッとして辺りを見回す。
 見覚えのない場所。山の中腹に開けた場所に建てられた一軒家。

『いなくなってしまえばいい……』

 今度ははっきりと聞こえた。首を動かす前に口が開いていた。

P「――美優サン!!」


   *

 プロデューサーの声が聞こえた。

P『どこにいるんデスカ! 美優サン!!』

 まるで耳元で叫ばれているかのようにすぐ近くから。

美優「プロデューサーさん……!?」

P『美優サン!?』

美優「何で、プロデューサーさんが――」

P『助けに来たんデス! どこデスカ!?』

美優「私は――……」

P『美優サン、早まったら駄目デス! 世の中には楽しいコトいっぱいありマス!』

 あの日と同じことを言う。美優はうっすらと笑った。
 けれど、すぐ表情を沈ませて言った。

美優「プロデューサーさん。私は行けません……」

P『……ドウシテ』

美優「ここに来て改めて感じました。私は……あなたたちの世界にはいられない人間です……」

P『…………』


美優「ごめんなさい……ここまでお世話していただいたのに。でも……」

P『……本当にそう思ってるんデスカ?』

美優「…………」

P『ここで美優サンに何があったかはわかりまセン。デモ、自分の未来も犠牲にしていいと思うほどなんデスカ?』

美優「…………」

P『私を信じてくだサイ。美優サンの笑顔があれバ、みんなを幸せにすることができマス』

美優「……私には、人を幸せにする資格なんて……」

P『資格じゃありまセン。その力があるんデス』

美優「…………」

P『……悩みながらデモ、前に進むことはできマス』

美優「…………」

P『私を信じてくれまセンカ?』

美優「…………」

 美優は窓のそばに寄ってしゃがみこんだ。
 もう動かなくなったラバーの頭を名残惜しげに撫でて、立ち上がった。

美優「……ごめんね、ラバー。……さようなら」


 部屋を後にする。階段を下りて玄関を目指す。
 プロデューサーはどこにいるのだろう。そう思った瞬間、周囲の風景が歪んだ。

 廊下に並ぶ襖が消える。靴箱が、飾っていた花瓶が、ドアが消えていく。
 水面に広がる波紋のように歪んだ風景は、やがて元の明瞭なものに戻っていく。

 荒涼とした広野。赤茶けた土と岩塊がどこまでも続いている荒れ野。
 そこに影がひとつ立っていた。スーツに身を包んだ、金髪の男の人――

美優「――プロデューサーさん」

P「美優サン!」

 駆け足になって彼の元に向かう。
 しかしその時、空に稲妻が走った。

P「!」

 閃光が晴れると、美優の背後に怪獣が立っていた。
 その双眸は確かに二人を捉えている。側頭部に突き出た二本の角の先端が光る。

P「美優サンっ!!」

 地面を蹴って美優に飛びつく。二人して地面に倒れ込む。
 しかし角から放たれた電撃は二人の元に向かって行く――

P「ッ!」

 覚悟して目を閉じた、そのとき――


 地面が大きく揺れた。爆発音が耳をつんざいた。
 瞼の隙間から光が漏れ込んでくる。柔らかな白い光。恐る恐る目を開けると――

P「…………」

 二人を見下ろす双眸があった。
 両手を大きく開いた巨人が片膝を突いてそこにいた。

巨人「…………」

 巨人はゆっくり立ち上がると、背後にいる怪獣を振り返った。

怪獣「シャアアアオオオッ!!」

巨人「――ジュアァッ!!」

 雄叫びを上げる怪獣向けて巨人が走る。
 まるで神話世界のような信じられない戦いが目の前で繰り広げられ、プロデューサーは呆然としながらも立ち上がる。

P「アレハ、一体……」

美優「……オーブ……」

P「エッ?」

 呟いた美優の顔を振り返る。彼女は落ち着いた様子で巨人と怪獣を見詰めていた。

美優「彼の名は……ウルトラマンオーブ……」


(7)


オーブ「デァリャァッ!!」

マガゴルドラス「シャギャアアアオオ!!」

 肩から怪獣の懐にタックルを入れる。
 オーブの皮膚の赤の部分が光り、手刀を叩き込む。

オーブ「テャッ!!」

マガゴルドラス「シャアアアアアオオ!!」

オーブ「テャーーッ!!」

 同じ要領で怪獣の腹を蹴飛ばす。よたよたと後ずさりした怪獣は低い唸り声を歯の間から洩らす。

マガゴルドラス「グルルルルルル……」

 両角の先端が発光する。同時に放たれた電撃をオーブは胸で受け止めた。

オーブ「ヘアッ!」

 そしてそれを煩そうに払いのける。
 何のダメージもなかったようにファイティングポーズを取った。

オーブ「ジュアッ!」

 美優とプロデューサーの二人は巻き込まれないよう、安全そうなところまで離れてそれを見ていた。

美優「……強い……」

P「頑張レ……オーブ!」


マガゴルドラス「シギャアアアアアオオオ!!!」

オーブ「フッ!」

 胸に構えた両腕を水平に開くと紫の光が腕に纏った。
 右腕を後ろに下げ、その手のひらに光の円盤を出現させる。

オーブ「シュワッ!」

 マガゴルドラスの角に向かってそれを投げた。高速回転しながらそれは怪獣に迫っていく。
 ――しかし。

オーブ「!」

 突然怪獣の前方に金色のバリアーが張られたのだ。
 光輪は弾かれ、あらぬ方向へ飛んで行ってしまう。

オーブ「…………」

マガゴルドラス「シャアアアオオオッ!!」

 地鳴りを響かせながら突進してくる魔王獣。オーブが全身で受け止める。
 衝突で足元が割れ、土埃が巻き上がる。

オーブ「グゥゥゥッ……!!」


マガゴルドラス「――シャアアアオオオッ!!」

 押し合いの最中にマガゴルドラスの角が光る。閃光が放たれたその時、オーブの全身に激痛が走った。

オーブ「デアアッ……」

マガゴルドラス「シャアアアアアオオ!!」

 再び閃光を放つ。力が緩んだオーブの身体に腕を叩きつける。

オーブ「ジュアッ……グッ……!」

 倒れ込んだところを蹴り飛ばされる。転がされた勢いでそのまま距離を取り、体勢を整える。
 しかし怪獣の角が光っていた。電撃が飛ばされ、オーブの周囲に爆発が巻き起こる。

オーブ「グッ……グアァ……ッ!!」

 爆煙の中で立ち上がるオーブ。地面を蹴ると同時に額のランプが紫色に光る。

オーブ「――テャーッ!!」

 素早く宙返りをすると蹴りを繰り出す。


マガゴルドラス「シャアアオオッ!!」

オーブ「! デアア……ッ!」

 しかしそれもバリアーに防がれた。
 オーブの巨体はいとも容易く弾かれ、地上に墜落する。

マガゴルドラス「シャアアアアアアアアオオオッ!!!」

 倒れ伏すオーブを踏みつけ、更に閃光による攻撃を加える。

オーブ「グ、グアァアッ……」

 やがてオーブの胸にあるリング状のカラータイマーが赤く点滅を始めた。
 甲高い音が縹渺たる荒野に響き渡る。

マガゴルドラス「シャアアアアオオッ!!」

オーブ「グッ、デアァッ!!」

 絶え間ない攻撃を受け続けながらも何とか身体を反転させ、仰向けになる。
 踏みつけてきた足を掴む。額のランプが赤く光る。

オーブ「デアアアアッ……」

 背中を起こし、足腰に力を入れる。立ち上がりながらマガゴルドラスの巨体を持ち上げようとする。


マガゴルドラス「シャアアアアオオ!!」

 させじとマガゴルドラスが閃光攻撃を放ち続ける。ランプの光が戻り、腰が砕ける。

マガゴルドラス「シャギャアアアアアオオ!!!」

 容赦ない攻撃がオーブを襲い続ける。
 だが力を奮い立たせた。もう一度赤の光を灯し、怪獣を持ち上げた。

オーブ「……ウオリャアアアアアアッ!!!」

 そして思いっきり放り投げた。肩で息をしながら怪獣が立ち上がるのを見詰める。

マガゴルドラス「シャアアアアアオオ……」

オーブ「――デアァッ!」

 先程の閃光攻撃を受けていた時、気付いたことがあった。
 オーブがティガの力を長時間維持できないように、マガゴルドラスもまた角の力に制限があるのだ。

オーブ『やれやれ……魔王獣と同じなんていい気はしねえがな!』

 先程と同じ動作で光輪を手のひらに回転させる。
 片膝を突いて、斜め下から角目掛け投擲した。


マガゴルドラス「シャアアアアアオオ!!」

 マガゴルドラスがバリアーを張るのと、オーブが動くのが同時だった。
 ランプが紫色に光るのはスカイタイプの力を発揮した時。その高速移動能力で虚空を行く光輪を追い越しざまキャッチした。

オーブ「デ――イヤッ!!」

 怪獣の背後に回ったオーブは光輪をもう一度投げる。
 瞬間、マガゴルドラスの角の力が消える。そしてこの刹那は再発動ができない。

マガゴルドラス「シャアアアアアオオ…………ッ!!!」

 目論み通り、マガゴルドラスの角が弾け飛んだ。
 間を置かず背後から飛びかかり、もう一方の角を手刀で薙ぐ。

オーブ「ドウリャアアッ!!」

マガゴルドラス「グルルルルルルルル…………」

 遮二無二振り回された尻尾をバク転して躱す。
 悶える怪獣に照準を定めて、オーブは右腕を掲げ上げた。


オーブ「デァッ!」

 オーブの前方に紫色の光のリングが出現する。
 構えた左腕を開くと、その水平方向に光のラインが流れ、リングの中央に縦横の光が交差する。

オーブ『――スペリオン光線!!』

 その光に合わせるように、L字になっていた両腕を十字に組む。
 紫のリングは青白い光を帯び、右腕からは同色の破壊光線が放たれる。
 更に紫の光線を螺旋状に巻き込みながら、魔王獣向かって突き進んだ。

マガゴルドラス「シャオオオオオオオオオオオ……!!!」

 光線が激突する。逃れようともがくが槍に貫かれたかのように動けない。
 やがてその双眸の光が濁り――

 ゆっくりと背中向きに倒れ、その全身が爆発した。

P「ヤッタ!」

美優「凄い……」


オーブ「……ハアアッ」

 オーブは溜め息のような声を出して、美優たちの方を振り返った。

オーブ「――ジュワッ!」

 その身体が突然強い光を放ち始める。
 二人とも目を開いていられなくなって瞼を下ろした。

 何かに身体が包まれる感覚。そして宙に浮かぶ感覚――
 それが矢継ぎ早に起こって、次に目を開いてみると、

美優「…………?」

 そこは、閑静な夜の住宅街だった。

P「……戻ッタ……」

美優「……そう、みたいですね」

P「…………」
美優「…………」

 寝耳に水を差されて夢から醒めたように、二人して口を閉じていた。
 が、思い出したようにプロデューサーが周囲を見回し始める。


P「……あの人ハ……」

美優「あの人?」

P「美優サンのところまで連れて行ってくれたんデス。ダークブラウンのジャケットを着た男の人デ……」

 美優はきょとんとした。
 もしかして――いや、間違いない。七夕の日やあの日の記憶の中に現れた男の人だろう。

美優「……大丈夫ですよ」

P「エ?」

美優「あの人なら、大丈夫」

P「……美優サンも知ってるんデスカ?」

美優「……はい」

 追及しようとしたが、彼女が遠い目をしているのがわかって思いとどまった。
 その代わりに足元に転がっていた傘を拾い上げ、差し掛けた。


P「ア」

 ……が、気付くのが遅かった。傘の部分に雨水が溜まっていた。
 それを差し掛けたので、美優は頭からその水を被った。

美優「……………………」

P「ア……アノ……スミマセンッ!!」

美優「……ふふっ」

P「ヘ?」

美優「ふ、ふふっ……」

 美優はびしょ濡れになりながら、口元に手を当てて笑い始めた。
 プロデューサーも釣られて笑顔になった。

 そして、美優がくしゃみをするまで二人で笑い合っていた。


(エピローグ)


 七月二十五日。あの事件から一週間が経った。
 傘を差しながら事務所への道を歩いていた美優は、その途中で夕美と一緒になっていた。

夕美「美優さん、CDの売れ行き順調らしいね」

美優「そう……らしいわね」

夕美「美優さん人一倍練習してたもん。結果が出て私も嬉しいな」

 夕美がぱっと、弾けるような笑顔を見せる。美優は思わず呟いていた。

美優「……夕美ちゃんは綺麗ね」

夕美「えっ? ……も、もう、それ前も言ったでしょ?」

 それもそうだったと思い出して、美優は苦笑した。

美優「だって、夕美ちゃんが綺麗だから」

夕美「う~……そんなに何度も言われると恥ずかしいよ……」

美優「くすっ」


 ――先日の二十一日。美優のデビューイベントは無事終了し、一応は前途良好と言える結果が残った。
 ただ、これからどうなるかはわからない。そのような漠然とした不安は持ちつつも、美優はどこか晴れ晴れとした気持ちに包まれていた。

夕美「――あっ、紫陽花」

 夕美が立ち止まって花壇を指さす。
 もう緑の葉だけが茂るようになった生垣の中に紫陽花の花がひとつだけ開いていた。

夕美「ねえ美優さん。紫陽花の花言葉って何か知ってる?」

美優「えっ?」

 美優は思わずたじろいだ。
 紫陽花の花言葉は「移り気」。アイドルにとっては縁起の悪い言葉だ。
 何故わざわざそんな話をしようと思うのだろう。――そう思っていると、予想外の言葉を聞かされた。

夕美「紫陽花の花言葉はね、『辛抱強い愛情』。雨の中でも咲き続けてる姿がこの花言葉になったんだって」

美優「……『辛抱強い愛情』? 『移り気』じゃなくて?」

 そう返すと、夕美は一瞬目を丸くした。
 それからちょっとばつの悪そうな顔をして言うのだった。


夕美「あー……知っちゃってた?」

美優「……嘘ついたの?」

夕美「えっ、いやいやっ、そうじゃなくて」

 慌てたふうに夕美が手を振る。

夕美「花言葉ってひとつの花にいくつもあるんだ。本によって全然違う花もある。
    それでね、私は思うんだ。いくつもある中で、自分にぴったりなのを見つけるのが大事なんだって」

美優「……」

夕美「それは、ひとつの言葉に対しても同じだよ。『移り気』にしたって、それは『変化』を表してると思う。
    ほら、紫陽花の花って色が徐々に変わっていくから。そこからつけられたんじゃないかな」

 美優は頷く。

夕美「だから――こうも考えられると思う。『人が美しくなるために色づいていく』……そのための『変化』なんだって」

美優「色づいていく……」

夕美「うん。……もし、の話だけど。もし美優さんが紫陽花に不吉なものを感じているとしたら――」

美優「……」

夕美「こう考え直してほしいな。ファンの心が移っていくんじゃない。
    私たちが色づいていくために、歌もダンスもビジュアルも……色んなことに手を伸ばそうとする意志なんだって」


 言い終えると夕美はふうっと息をついて、それから美優の顔を見て苦笑をした。

夕美「……なんて、偉そうなこと言っちゃった」

 美優は首を横に振る。

美優「そんなことないわ。凄く立派だと思う」

夕美「立派……かな」

 首肯すると、夕美は照れくさそうに頬をかいた。

夕美「……やっぱり美優さんに褒められると照れちゃうね。とりあえず、言いたかったことが伝わったなら嬉しいな」

美優「……ええ」

 物にはいくらでも見ようがある。夕美はそういうことを伝えようとしてくれたのだろう。
 花言葉のこともそう。――ラバーのことだってそうだ。

 命を奪ったんじゃない。救われた命だ。
 生きている自分には彼の分まで生きていくことしかできない。
 そして救われたのを感謝して、自分のできることをやるしかない。

 人と人の関係だってそうだ。あの日プロデューサーが傘を差し掛けてくれたように、個人の世界は接し合えることもできるだろう。
 それがもしいずれ離れてしまうとしても、その一瞬一瞬を大切にすればいいのだ。
 そしてその大切さを、自分の声で届けていけばいい。


 そう考えながら事務所の門に到着した時だった。

美優(……!)

 旋律が聞こえた。あの音は――あのジャケットの人の楽器の音。
 でもそれは幾度も夢で聞いたものではなかった。それは――

美優(……ありがとう、ございます)

 聞こえたのは一瞬だけで、すぐ遠ざかってしまった。
 だけどわかった。あの旋律は、美優のデビュー曲のメロディーだった。

夕美「……あれっ」

 夕美が声を上げて傘を下ろす。いつの間にか雨は上がっていた。
 そして雲間から光が洩れて――事務所の前を照らしていた。

P「アッ、美優サーン! 夕美サーン!」

 金髪をその光に輝かせながら、プロデューサーが手を振っていた。

夕美「美優さん、行こっ」

美優「ええ」

 美優は顔を上げて、その輝きの中へ走り出した。


                                       ――了――


[登場怪獣]

“時ノ魔王獣”マガゴルドラス
・体長:75m
・体重:82,000t

「時」を司る魔王獣の一体。
鉱石のような体表と頭部の両側から生えている二本の角が特徴。
時間と空間が歪んだ「時空界」という世界に生息する。現実世界には姿を現さないが、時空界を展開する際の稲妻の閃光で一瞬だけ目視できる。
両角から放つ電撃と閃光を武器とし、敵の攻撃はバリアーで防ぐことができる。しかしこれらの能力を使った後コンマ数秒だけ再発動できない隙が生じる。
人間社会における古代の頃から存在していたが、他の魔王獣たちがウルトラ戦士に封印される様を見て時空界に逃亡していた。
そのため封印の痕跡である、魔王獣に特有の赤い結晶体が存在しない。

元は『ウルトラマンティガ』36話「時空を越えた微笑み」に登場した“超力怪獣”ゴルドラス。
別に魔王獣にする必要はなかったのですが、「時ノ魔王獣」という肩書きが思い浮かんだ瞬間、頭の中の飛鳥くんがGOサインを出してました。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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