高峯のあ「115mmの憧れ」 (78)

モバマスSSです。
地の文・少しの独自解釈あります
Pとの絡みは薄いです
口調等おかしいかもしれませんが、見逃してください


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私は、夜が好きだった。

星や月が好きなわけではない。夜が好きだった。

東京の夜は、私が十八だったころまで住んでいた故郷のそれよりもずっと明るい。

それでも、太陽がいなくなった後の世界は、私を優しく隠してくれる。

だからまるで思いもしなかった。

あんな声が、響くだなんて。


「――アイドルになりませんか?」

――――

――

私が《アイドル》という職業に就いて一か月。時間は驚くほど緩慢に進んでいた。

毎日、発声練習やダンスレッスンの繰り返し。指示されたとおりに動いてみると、他の少女達は、すごい、と私を褒め称えた。

のあ「……こんなの、ただ誰かの真似をしているだけ」

休憩時間、私は壁に背を預けてそう独りごつ。

事務員「それが簡単なことじゃないから、みんな驚いているんですよ」

随分と派手な色の制服を着た事務員が、私にスポーツドリンクを差し出しながらそう笑った。

ひとのよさそうなその笑顔を拒むように、私はすっと目を逸らす。

ちひろ「七月に入って暑くなってきていますから、水分補給は忘れないでくださいね。ところで……わたしの名前、覚えてくれていますか?」

のあ「……千川、ちひろ」


彼女はなぜか私の隣に腰を下ろして、ふっと会釈をした。


ちひろ「覚えてくれていたんですね、のあちゃん。ありがとうございます」

ちひろ「レッスンの休憩中ですが、すこしお願いしたいことがあって来たんです。一か月前、契約の書類と一緒に、HP掲載用のプロフィールの記入をお願いしたと思うんですけど、そろそろいただけないかと思ってまして」

プロフィール――何かを書けばいいか考えているうちに次第に埋もれてしまったあの書類のことを、今久々に思い出した。

ちひろ「明日はのあちゃんの初仕事、ラジオの収録ですよね。生放送ではないので、失敗しても大丈夫です、気楽にやってくださいね。パーソナリティもうちのアイドルの卯月ちゃんですし」


まるで当たり前であるかのように仕事の話にさらりと触れられて、胸の奥が微かに緊張を帯びる。

のあ「仕事……」

ちひろ「それの放送が再来週なので、それまでにはHPにのあちゃんの詳細なプロフィールを出しておきたいんです。目標とか、趣味とか」

のあ「……善処するわ」

無難な言葉を選んで、私は立ち上がる。レッスンが始まる。

失礼します、と彼女がレッスン室を出ていくのを見届けて、私は他の少女達のもとへと向かった。

――――
―――
――

あてがわれた寮の部屋で、私は提出を求められたプロフィールの紙の前に座っていた。

私の名前と、身体情報と、出身地が既にプリントされた簡素なものだ。私が書かなければならないのは、アイドルになった動機、目標、趣味、好きな食べ物、その他いくつか。

自分のことを分析しようとするたびに、嫌な思い出が這い上がってくる。

それに気付かないふりをして、私は何度も深呼吸を重ねる。

けれど、結局、何も出てくることはなかった。

――
―――
――――

卯月「島村卯月です! よろしくお願いします!」

のあ「……ええ、よろしく」

今日一緒に仕事をする島村卯月というアイドルと簡単な挨拶を済ませる。

猫耳をつけていたり机の下でキノコを育てたりしているアイドルと比べれば、目に見える個性というものは見受けられない。

だが、誰かの心を揺り動かすような、そんな魅力があった。

なんと表現すればいいのか。一言で言い表そうとするなら、卯月は――眩しい、だろうか。

誰の心にも、優しく温かい光を投げかけるようなその笑顔は、《アイドル》である彼女にとって大きな武器になっていた。

ちひろ「今日は、プロデューサーさんはうちの事務所で会議ですので、送迎はわたしが行いますね。のあちゃんの初仕事をきちんと見届けるよう仰せつかっておりますので、のあちゃんは今日、お仕事の間はずっとわたしと一緒です」

のあ「……そう」

……この事務員のことは、ほんの少し苦手だった。

どうしてかはわからないけれど、私の本能が、気を許してはならないと告げている。

のあ「今日の仕事はどういうものなの、卯月」

卯月「ラジオのお仕事ですよね。私も最初のお仕事はこのラジオだったんです」

卯月「私が簡単な質問をするので、のあさんにはそれに答えていただきたいんです。たまに、少し話題を掘り下げたりするので、一緒に頑張りましょう!」

ちひろ「高峯のあちゃんっていうアイドルが来たんですよってファンの皆さんに伝えるための収録なので、魅力をどんどん伝えていってくださいね」

卯月「私も初めのうちはいっぱい噛んじゃったんですけど、パーソナリティが高垣楓さんで、段々とリラックスできて――って、自分でハードル上げちゃダメですよねっ」

ちひろ「のあちゃんにも説明したけど、今日の収録は生放送じゃないですから、カットとかもできるので落ち着いてやってくださいね」

そう卯月に話しかけた彼女は、車のドアを開けて私達を乗せる。

ちひろ「さ、行きますよ。シートベルト、ちゃんと締めてください」

――収録現場に着いて、一通りの挨拶が済んだあと、早速収録の準備が始まった。

マイクの二本ある狭い部屋に、卯月と二人きり。ガラスの向こうでは、ちひろとスタッフの人が話していた。

のあ「もっと、緊張すると思っていたわ」

収録開始の合図があるまで何度も台本の確認をしている卯月に、私はそう呟いた。

卯月「私なんて、初めてここに来たときすごく緊張しちゃって、泣いちゃって、いろんな人に迷惑かけて、独りじゃ何もできなくて、」

卯月「……だから、のあさんみたいに落ち着いている大人な人には、少し憧れます」

のあ「貴女には、貴女の魅力があるわ。安心して」

落ち着いているわけじゃない。

これは、もっと酷くあさましい何か。


興味がないだけ、なのだ。


気付きたくなかった自身の醜さが嫌になって、私は卯月から視線を逸らす。

それと同時に、収録開始のカウントダウンが入った。

卯月が番組名を告げて、新しいアイドルが入ったことを告げる。

私の名前や基本的な情報を読んでから、彼女はもう一度私に紹介を求めた。

のあ「のあ……高峯のあよ」

のあ「24歳、誕生日は3月25日――」

それから幾つか項目を読み上げて、卯月にアイコンタクトを取る。

卯月「ありがとうございます! ラジオではお見せすることはできないんですが、のあさん、すごく綺麗な方なんですよ」

卯月「すらっとしてて、スタイルも良くて、それで、髪もすっごく綺麗な銀色なんです。のあさん、染めたりとかはしていないんですよね」


のあ「……ええ、これは生まれつき」

卯月「神秘的なオーラがあって、ミステリアスな仲間が増えました。では、さっそく質問の方、してもいいですか?」

のあ「ええ、そういうラジオなんでしょう」

卯月「ぇ、あ、そうでした、えへへ……ええと、出身地は奈良とのことですが、やっぱり鹿さんたくさんいましたか?」

のあ「どこにでもいるわけじゃないわ。いるのは奈良公園の近くね」

卯月「……ぇえと、そうですよね……」

卯月「じゃ、じゃあ次の質問です! す、好きな食べ物は……」

のあ「これと言って好きなものはないけれど……基本的には何でも大丈夫」

卯月「……」

卯月「つ、次いきますね……ご趣味の方は……?」

のあ「趣味――」

ふと、視界の隅に事務員の彼女を捉えた。会話が弾んでいないことを快く思っていないのか、いつもの笑顔は見えない。

のあ「趣味は――」

昨日一晩かけても思いつかなかったそれが、今急に出てくるはずもない。

のあ「……散歩よ」

無難な答えを出して、お茶を濁す。

卯月「お散歩ですか? それなら、高森藍子ちゃん! 藍子ちゃんもお散歩が趣味なんです、もしかすると、藍子ちゃんとテレビで共演できるかもしれないですね」

のあ「そ、そうなの」

その後も質問は続き、卯月のおかげで何とか収録は進んでいく。


卯月「では、最後の質問です――」

卯月「――のあさんがアイドルになった理由は何ですか?」

アイドルになった、理由。無意識に私の肩が震えた。

こんなもの、手元の台本には載っていなかった。

卯月のアドリブ?

それとも……アイドルになった人間なら、すぐに出てくるはずの答えだから?

のあ「アイドルになろうと思った理由は、」

スカウトされて、熱心に説得されて、


それで――





のあ「何かが、変わる気がして」




この答えは、どうなのだろう。『正解』なのだろうか。

私は間違えなかったのだろうか。

卯月「何かが、変わる気がして――なんだか気になっちゃいますね。それでは、ミステリアスなアイドル、高峯のあさんでした!」

ミステリアスな高峯のあ。

彼女の言ったその言葉を、咀嚼するように何度も頭の中で繰り返す。


それは多分、勘違いだ。


――収録が終わり、私と卯月は車の中に戻った。

ちひろは現場のスタッフと簡単な打ち合わせをしているらしく、しばらくは卯月と二人きりだ。

卯月「最初の方はどうなるかな? って不安でしたけど、何とかなりましたね。のあさんのミステリアスなところ、ちゃんと伝わったでしょうか?」

のあ「……私は、そういうのではないわ」

卯月「え?」

私の否定の言葉に、卯月は怪訝そうな顔を向けた。

のあ「私には、何もないだけ」

ガラスの反射の中で、不安げな卯月と目があう。


彼女は一度迷ったように視線を彷徨わせたあと、身を乗り出して私に言葉をかけた。

卯月「そ、そんなことないですよ! 私だって、他のみんなみたいに何か才能とか、そういうのがあるわけじゃないですし……」

のあ「貴女には、笑顔がある」

卯月「……のあさんも、プロデューサーさんと同じこと、言ってくれるんですね」

アイドルになった時のことを思い出したのか、卯月は嬉しそうに頬を緩めた。


私にはできない、そんな笑顔。

それがあるだけで、卯月はこんなにも輝いていられる。そのことが、なぜだか酷く寂しい。

のあ「島村卯月……貴女は、どこを目指すの」

アイドル、島村卯月。

彼女が笑顔を武器に目指す場所が、知りたい。

卯月「そんなの、のあさんと一緒ですよ」


卯月「トップアイドルになるんです」


彼女は、まるで太陽のようだと思った。

温かく、優しく、平等に光を投げかけてくれる。

だけど私は、そういう存在にはなれない。太陽には手は届かないのだということを、知っている。


――次の仕事があるという卯月を次の仕事場所に送り届けてから、私は千川ちひろと共に事務所に向かっていた。

ちひろ「お疲れ様でした。初めはひやひやしていましたが、終盤は良い感じにまとまってましたね」

のあ「……そうかしら」

ちひろ「ダンスとかボイスレッスンの時みたいに、トークの雰囲気もうまく掴めていたと思います」

違う。

『間違い』を踏み抜かないように、『正解』をなぞっていただけ。それだけだ。

ちひろ「……ところで、卯月ちゃんとお仕事してみてどうでしたか?」

のあ「とても一生懸命な子だと……頑張っているということが声だけでも伝わってきた」

ちひろ「ふふ、のあちゃんにもわかりましたか? やっぱり卯月ちゃんは凄いですね」

ちひろ「……卯月ちゃん、人一倍、アイドルに憧れていましたから」


ちひろ「のあちゃんは、ミステリアスなアイドルになりたかったですか?」

のあ「……私に謎なんてないわ。ただ空っぽなだけ」

ちひろ「……」

ルームミラー越しに、彼女がこちらを見つめていた。

私と目が合うと、彼女はにこやかに笑う。



ちひろ「どうやら、そうみたいですね」




その夜、私はプロダクションに併設されている寮の屋上に出ていた。

二十三時の夜空には、一点の星も見当たらない。月は、薄い黒雲の向こう側で微かに光っているだけだった。

特別なものを内包しているような空気を醸しながら、結局は何も持っていない平坦な夜空に、自分自身を重ねてしまう。

頭の中で、卯月の言葉が蘇る。


卯月『そんなの、のあさんと一緒ですよ』

卯月『トップアイドルになるんです』


あの時の彼女は、私を揺り動かすほどに美しく、まっすぐだった。そして眩しかった。


のあ「私も、あんなふうに、」

誰かを見守る温かな光になれるだろうか。

そんな光は、いったいどこにあるのだろう。

私を、導いてくれる光は。

私は、空を仰ぐ。

のあ「もし見つけられたなら、きっと私は――」




ちひろ「どんなに見上げたって、星なんか見えませんよ」




私の囁きを打ち破って、彼女の声が響いた。

彼女の声の余韻が、耳鳴りとなって私の脳を突き刺す。

のあ「……どうして」

ちひろ「なんだっていいじゃないですか。現に星は見えなかったでしょう」

ちひろ「趣味は天体観測じゃなくて散歩でしたよね」

彼女はいたずらっ子のような光を目の奥に宿して、私のもとへ歩み寄ってきた。

のあ「……プロフィール、まだ提出できていなかったわね」

ちひろ「察しがいいんですね」

のあ「……正解できて良かった」



ちひろ「おめでとうございます。ところで、のあちゃん。いくつか質問しても?」

のあ「今日の仕事のことかしら」

ちひろ「ううん」

ちひろ「これまでのこと、それと、これからのこと」

彼女は私の耳元でそう囁いた。吐息がかかるほどの距離。全身の筋肉が緊張し、身体が強張っていく。

のあ「……そういうことは、プロデューサーと話すものだと思っていたわ」

ちひろ「えへへ、やっぱりそうですよね」

彼女は肩に流した三つ編みをいじりながら、さっきまで私がそうしていたように、空を仰いだ。

ちひろ「のあちゃんは、どうしてアイドルになろうと思ったんですか?」

のあ「……」


のあ「何かが、変わる気がしたから。今まで真っ暗だった世界に、光が差し込むような、そんな」

ちひろ「そうですか」

ちひろ「だったら、なおさら話し合わなきゃ駄目ですね」

ちひろ「――のあちゃんは、何を変えたかったんですか?」

ああ、やはりこの人のことはまだ好きになれそうにない。

私が話題の跳躍についていけることに気付いていて、わざと翻弄するように説明を欠いている。

つくづく、意地の悪い人間だ。

ちひろ「今、なんだか失礼なこと考えてないですか?」

のあ「……別に。事実を確認していただけ」


のあ「……ところで、私が変えたかったものだけれど。それは、今までの私よ」

ちひろ「今までののあちゃん、ですか」

彼女が視線で説明を求める。それに促されて、私は口を開く。

なんだか不思議な気分だった。私は恐らく、彼女のことを好いてはいない。

なのに心を開きつつある。自分の語りを、聞いてもらおうとしている。信用はできない。だが、信頼はできる気がしたのだ。

のあ「この髪、貴女はどう思う」

ちひろ「まっすぐで、艶やかで、綺麗だと思いますよ。その色も」

のあ「……これは、生まれつき私のものだった。ずっと一緒だった。何をするときも。……これは呪いでもあった」


やけに口がまわる。思い出したくもなかった自分のことを、話してしまう。

のあ「代々、稀にこういう銀の髪を持った子供が生まれる。私の家族からすれば、それは驚くことでも何もなかった」

のあ「ただ、周囲は違う」

のあ「何かの病気なんじゃないか」

のあ「精神がおかしくなったのではないか」

のあ「変に色気づいているのではないか」

のあ「……根拠のない憶測が飛び交って、いろんな悪意が向けられた」

のあ「……不愉快なものをわざわざ目に入れてまで、私に石を投げる。まるでそれが正義であるかのように」

ちひろ「それでも、染めなかったんですか」

のあ「一度ついたイメージは、もう拭えない……あなたにそれがわからないなんてことはないはず」

それに、髪を染めれば自分が彼らに屈したように思えて、どうしてもそれが許せなかった。

だけど、立ち向かうことはできなかった。


ちひろ「人真似がうまいのは、身を守るための策か何かですか? きちんと正解を選んで、人から叩かれないように」

のあ「……今更驚かないわ」

突出した何かなど、必要なかった。誰かの真似をして、心地よい完璧な姿を見せていれば、石を投げられずに済むと思った。

それでも、私に向けられる悪意の数は、終ぞ減ることはなかった。

ちひろ「ダンスやボイスレッスン、見てました。初めてって思えないくらいうまくてびっくりしちゃいました」

ちひろ「トレーナーさん達も、凄く褒めてくださっていましたよ。プロデューサーさんだって、のあちゃんのポテンシャルに期待しているって言ってました」


彼女は、再び空を仰ぎ、黒い緞帳の向こうで輝く星を見極めるように目を細めた。

ちひろ「でも、わたしは思うんです」

ちひろ「のあちゃんは、今のままではきっと卯月ちゃんの目指すようなトップアイドルにはなれないんだって」

――見透かされている。

私がこの空に、島村卯月のような優しい光を求めたことに、彼女は気付いていた。

のあ「……どうして、そう思うの」

ちひろ「のあちゃんは、見えない星についてどう思いますか?」

質問を質問で返す彼女に私は眉を顰める。

不機嫌そうな私を見て、彼女は「ごめんなさい、でも訊きたいことなんです」と零した。


見えない星――今もこの空の向こうには、星が鏤められているはずだ。しかし、それは私達には見えない。

見えないということは、そこにないのと同じことだ。

のあ「そこには、何もないのと同じ……でも、星たちにとってはきっとそうではない。輝いている姿を見てほしいと、きっと思っている」

たとえ見えなくても、そこに在るという事実は変わらない。星の価値は、消えるものではないとどこかで信じたかったのかもしれない。

ちひろ「なるほど、そうかもしれませんね」

私の答えに同意する気などまるでないような、そんな答えが返ってくる。


ちひろ「プロデューサーさんは、よくアイドル達は星なのだと言います。わたしも、それをすべて否定することはしません」

ちひろ「たとえ見えなくたって、その輝きを伸ばして、その子の魅力をファンに伝えることがプロデューサーの役目なんだと、彼は言っていました」

ちひろ「彼は優秀です。346プロだって、総合芸能プロダクションとして相当な力を持っている自負があります」

ちひろ「それでも、限界があるんです」

ちひろ「いくらプロデューサーさんが常識離れした仕事処理能力を持っていたとしても、いくら346プロが大きな会社であったとしても、アイドルを志望してくる女の子たちみんなの魅力を伸ばしてファンに届けるなんてこと、できないんです」


全ての星を輝かせることは、幾ら大きな力を持っていたとしてもできることではない。彼女はそう言っていた。

でも。

輝けなかった星は、どうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。

自分のことを言われているような気がして、私はついその先を問うてしまう。

のあ「……輝けなかった子は、どうなってしまうの」

ちひろ「辞めていきます。何人も」

ちひろ「アイドルは、女の子が憧れる仕事です。可愛い衣装を着て、歌を歌って、踊って――」

ちひろ「実際にそういう子はいました。夜空に輝く一番星になれるかもしれないと、この業界に飛び込んだ子が。……そうなりたい、と思うのは自由です」

ちひろ「でも、それだけで輝けるほどアイドルは甘くはないんです」


ちひろ「彼女は夢を諦め、憧れることを辞め、大それた夢を抱いた自分を憎み、いまだ上を向き続ける少女達を羨み、全てを失ったと嘆きながら脱落していきました」

ちひろ「のあちゃんは、その子と似た目をしているんです」

のあ「私が、誰かを羨んでいると、貴女はそう言いたいの?」

ちひろ「似た目、と言いましたよ」

ちひろ「貴女は羨むことすらできていない。だけど、全てを失ったと嘆いている。車の中で、のあちゃん、わたしに言ったじゃないですか」

ちひろ「自分は、空っぽなんだって」

私には何もない。卯月をはじめとするアイドル達が当たり前のように持っている笑顔さえ。

アイドルになれば、変わると思っていた。

この空っぽな器を満たせると思っていた。


のあ「……そう、ね」

私は空を見る。

輝けない者は、そこにいないのと同じ。脱落していくのだ。

のあ「私にアイドルは、できないのかもしれない」

ちひろ「ええ。でもそれは、のあちゃんが今のままなら、という話です」

のあ「……」

ちひろ「自分がどうなりたいのか、よく考えておいてください」

ちひろ「さあ、もう夜も更けます。部屋に戻ってくださいね。屋上、閉めちゃいますから」

彼女に促されて、私は屋上から階下へと足を進める。

他の子たちはもう眠ってしまっただろうか。明るく華やかな場所で生きている少女達も、夜になれば同じように眠りにつく。

私には、その静けさの方が――空虚さの方が、似合っている気がした。

――もしも私が変われば、私は卯月のようなアイドルになれるのだろうか。

温かな表情を浮かべ、誰かを元気づけられるアイドルになれるのだろうか。

もし、そうなら。

私は一つの答えを出し、そっと瞼を閉じる。


翌朝、いつものように事務所に赴いた私は、まっすぐにプロデューサーのもとへ向かった。

P「おお、高峯か。おはよう」

P「まだちひろさんしか来ていないから少し寂しいと思ってたところだ」

のあ「……話が」

私の声のトーンに、プロデューサーの目から穏やかさが消えた。

P「何か、あったか」

のあ「……少し考えていたの。自分のこと」

のあ「私が選ぶ道はここであっていたのか……貴方に導かれようとすることは、間違いではなかったのか」

のあ「……ここに来て、今まで見たことのない少女達にたくさん出会った。貴方の育ててきた、アイドルという少女達……とても楽しそうで、輝いていて……眩しかったわ」

のあ「……そして、その眩しさに私は耐えられない」

P「……続けてくれ」

のあ「……卯月と仕事をさせてもらえて、彼女の笑顔で気付かされた。私にはこんな笑顔はできないのだと。そしてその笑顔は、卯月だけじゃない、他の子たちも持っている、特別で当たり前な魔法」

ちひろ「……それは、確かにみんなの武器です。でも、武器はそれだけじゃない」

のあ「そう。わかっているつもりよ。きっと私にも何かあるはず……でも、私は空っぽだった」

のあ「誰かの真似はできる。でも、創造することができなかった。誰もがしていることだけをなぞって、高望みなんてしないで、ただ石を投げられないようにする……それが私の全て」

のあ「手を伸ばしても、変わろうと思っても、そこにはもう届きはしないのだと……知ってしまったから。変わり方なんてわからない。誰も、そんなものを教えてくれなかった」

きっと、ちひろもプロデューサーも、教えてはくれない。

彼はいつもアイドル達に言っていた。

上を目指そう、みんなと一緒に。

それは、私にとっては飛躍しすぎた導きだった。

のあ「……私の目には、何も映らなかったわ」

見上げた先にあったものは、星一つない黒だったのだ。


のあ「貴方のアイドル達の当たり前を、私には真似できない。これから先どれだけ時間をかけたとしてもきっと手は届かない」

のあ「……私の存在は、上を目指す彼女達にとって足枷になる。そのくらいなら私は、アイドルを辞めるわ」

これが、私の出した結論だった。

その答えに、プロデューサーは何と答えるだろう。私は冷めた気持ちで彼の口許を見つめる。

P「そう、か」

P「……三カ月後に、大きな公演があるのは知ってるよな」

私は小さく頷く。

それに向かって、たくさんの子たちが一生懸命に練習をしている姿をいつも目にしていた。

P「それに、高峯も出すつもりだった。上には、その選択は高峯にとって早すぎる挫折だと言われたよ」

P「でも、俺はきっと成功すると思ってる」

P「高峯は、たぶん今までにたくさん挫折とか、妥協を味わってきてるんだと思う。……だから俺は、スカウトしたんだよ」

のあ「……どういう、こと」


P「環境が変われば、力を発揮できる人間は数え切れないほどいる。それを見つけて磨くのが俺の仕事だ」

P「……でも、高峯は、違う世界を目前にしても、変われないと、そう言うんだな」

のあ「残念だけど……そう、よ」

P「わかった」

ちひろ「プロデューサーさ――」

P「一週間だ」

ちひろの声を遮って、プロデューサーは私に人差し指を突き付けた。

P「俺は、高峯に力がないとは到底思えない。魅力がないとも思わない。知ろうとすれば知ろうとするほど、謎が深まる人間だと思ってる。そして、底の見えない謎めいた雰囲気が、高峯の魅力だとも」

P「一週間、自分について考え直してほしい……もちろんレッスンには出てほしいけどな」

そう言って彼は朗らかに笑った。

のあ「……それでもまだ、私が変われないと言ったら?」

P「その時の選択は、尊重する。だけど、今の高峯の話は、俺のわがままでなかったことにしてくれないか」

のあ「別に、構わないわ……でも、人はそう簡単には変わらない」

もう決心はついている。今更彼に何を言われても、揺らぎはしないだろう。

それが、私という人間だ。


今朝の一悶着などなかったように、ボイスレッスンに歌を意識した練習が加わった。

私の辞意はプロデューサーとちひろ以外には伝わっていないらしく、誰もが、普段通りに私に接してくる。

初めて一緒に仕事をした卯月繋がりで、他の子ともいくらか話をした。楽しい高校生活のことや、ライブ、他の仕事のこと。

中にはスカイダイビングをサプライズでやらされたアイドルもいて、酷く驚かされた。

そんな明るい彼女達と話す自分を、冷めた自分が見下ろしているような錯覚に陥る。ここは私のいていい場所ではないという、懐かしい疎外感が私にまとわりつく。

そしてそれが、やけに、煩わしい。


――今日も、空に星はない。

この空は私を裏切らなかった。そして、彼女も。

ちひろ「わたしのせいですか? 急に辞めると言いだしたのは」

昨日とはまるで違う、申し訳なさを含んだ声が背中にかかった。

のあ「いいえ、気にすることはないわ……遅かれ早かれ、こうなるのはわかっていたこと。昨日貴女と話をしなければ私がここを辞めることはなかったということは、在り得なかったということよ」

ちひろ「本当に辞めちゃうんですか」

のあ「変わらなければ、周りを嫉みながら脱落していくと教えてくれたのは貴女」

ちひろ「変わってくれると思ったんです。のあちゃんに可能性があると思ったのはプロデューサーさんだけじゃない。わたしも同じなんです」

彼女とて、事務員とはいえプロダクションの社員だ。潜在的に何かを持っている人材が欲しいのは当然だろう。だけど、私はそうではない。期待に添えないのだ。

私は彼女に背を向けたまま、言葉を紡ぐ。

のあ「……私は、この空が好き。何もない空が。それだけで、いいの。何も望まない……望めないわ」

のあ「そんな人間をあなた達は好まないでしょう」

ちひろ「……そう、ですね」

ちひろ「でもわたしは羨ましいです。のあちゃんのことが」

彼女のその言葉に、私は不意に振り返ってしまう。そして初めて、私は彼女が何かを持っていることに気付いた。

ちひろ「これ、のあちゃんにお貸しします。好きに使ってください」


のあ「これは……なに?」


ちひろ「望遠鏡です。空を見上げるための。好きに使ってくださいとは言いましたが、できれば、星を見つけてくれたら嬉しいです」

黒いビニルのケースに入ったそれを私に差し出した彼女は、「もうしばらく鍵は開けておきますから」と言い残して、屋上から姿を消した。

ただ一人残された私は、そのケースを開けて三十センチほどの白い筒を取り出した。

のあ「意外と、重いものなのね」

わからないなりに三脚と望遠鏡を取り付ける。覗くところがないことに気付いてケースを探ると、接眼レンズと書かれた黒い厚紙のケースが隅に収まっていた。

それを望遠鏡に嵌め込んでから、私は遠くを見つめる。ビルの隙間に、ほんの少し欠けた月が浮かんでいた。

私は望遠鏡の先をそれに向けて、おそるおそる右目で接眼レンズを覗きこんだ。


のあ「……っ、」

思わず、目を背けてしまった。

のあ「……なんて、眩しいの」

もう一度。

私は息を呑んでレンズを覗く。

裸眼で見れば直径数センチの月は、望遠鏡を通して見てみると、随分と違って見えた。明るい面と欠けた面の境界線に焦点を当てて見ると、月の満ち欠けは本当に影によるものでしかないのだと実感できる。

そのまま、レンズの先を上に傾ける。

視界から光が消え、いつもと同じ闇が目を覆い尽くした。

彼女の言葉が、脳裏によみがえる――星を見つけてくれたら嬉しいです。

今の季節には、何の星が出ているのだろう。

夏の大三角は聞いたことがある。ベガと、デネブと、あと一つは何だっただろうか。

どこを探せばいいのだろう。

闇雲に望遠鏡を向けても、それは何も映し出さない。何一つだ。星の一点すら見えない。

月を見たときの高揚は引き、数十分もすると私は望遠鏡を三脚から外してしまっていた。

のあ「……私には、何も見えない」

彼女が屋上の鍵を閉めに来るまでには恐らくまだ時間がある。



……でも、もう充分だ。





ちひろ「あと二日だけ、探してみてください」

次の日、望遠鏡を返しに行った私に、彼女はそう言った。

のあ「……探してみたけれど、何も見つからなかった」

ちひろ「本当に、ちゃんと探しましたか? 一つくらいは見つかるはずです」

ちひろ「だって、空には文字通り無数の星々があるんですよ。見つけられないなんてこと、ないですよ」

彼女はそう言い残し、立ち去って行く。その後ろ姿を見送って、私はひとつ、息をついた。

卯月「溜息なんてついたら、幸せが逃げていっちゃいますよ」

不意に、卯月の声が響く。振り返ると、水筒を持ったジャージ姿の卯月が、片方の手をひらひらと振っていた。

のあ「卯月……」

卯月「のあさんも今日はレッスンでしたよね。次のステージ、一緒に立てるんですよね」

卯月「私、すっごく楽しみなんです。のあさんがみんなの前で歌うところ……」

のあ「私も……卯月の笑顔、楽しみにしているわ」

胸の奥が軋みながらも、本能が反射的にそんな言葉を選ぶ。

卯月「はいっ! 精一杯頑張りますから、のあさんも一緒に頑張りましょうね」

彼女は笑って、レッスンルームへ向かおうとする。

のあ「……卯月」

呼び止めた私に、彼女は「どうかしましたか?」と微笑む。

のあ「……見えない星について、貴女はどう思うかしら」

卯月「見えない星……ですか」

私の問いに、彼女は可愛らしく首を傾げた。


卯月「空を見ている人たちがどう考えるのかはわからないです。ないのと同じだよ、って言うかもしれません。一生懸命探してくれるのかもしれません」

卯月「でも、もしも私がその星だったなら……きっと、もっと頑張ろう、輝こうって思う気がします。ううん、思います」

のあ「卯月……」

卯月「な、なんだか変なこと言っちゃいましたね、ご、ごめんなさい!」

のあ「いいのよ……それに、何も変なことはなかったわ。立派な答えだった……きっと私には出せない答えだった」

卯月「そんなこと……」

のあ「ありがとう、レッスン、頑張って頂戴」


そう言って、廊下の先に卯月の背中が消えるのを見届ける。


……格の違いを見せつけられた気がした。

同じ質問をされたとき、私はそれを自分に置き換えようなどとは思わなかった。自分を輝く星々に置き換えることなど。

アイドルは星のようなものだと、プロデューサーは言っていた。そして、きっとアイドル達もそう思っている。

黒い空を切り裂く一番星になろうとしているに違いない。


のあ「私には、その星が、見えない……」




その日も。

その次の日も。

結局、星の光など、どこにも在りはしなかった。






のあ「……何も、本当に何も、見つからなかったわ」

瞑っている左目が痛くなるほど、私は望遠鏡を覗きこんだ。星を見つければ、何かが変わる気がして。

この、アイドル達と向き合うたびに溢れだす疎外感とやるせなさが、吹き飛ぶ気がして。

ちひろ「何も、ですか?」

夜、資料の整理をしていた彼女は、私に目を向けることなくそう問いかけた。

のあ「……ええ、何も。何一つ」

のあ「見えないものは、見えない……そう思い知らされただけ。いくら手を伸ばしても、求めても、私では望めないものがある……それが星だった」


ちひろ「でも、見つけようとはしてくれたんですね」

優しく微笑んだ彼女は、ようやく私を見た。

書類の詰まったファイルを引き出しにしまって椅子から立ち上がった彼女は、窓の外を指さす。

ちひろ「ここから、女子寮の屋上が見えるんです。毎日、ちゃんと空を見上げてくれていましたね」

ちひろ「どうでしたか、違って見えましたか?」

のあ「何も――」




ちひろ「何もないと思って見上げる空と、何かがあると思って見上げた空は」




ちひろ「見えなくて当然だと思いましたか? 見えなくて残念でしたか?」

ちひろ「……のあちゃんのそんな顔、初めて見れました」

彼女は笑う。

窓ガラスに映った私の表情――それは確かに、いつもと違った表情。

でも、何が違うのかがわからない。

ちひろ「さあ、一緒に行きましょうか、星を見に」



ちひろ「うん、良い空ですね。雲もありません」

屋上へ続くドアを開けた彼女は、疲れを吹き飛ばすように一度大きく深呼吸をした。

私もそれにつられて、夜の空気を肺に吸い込む。大気は決して冷たくはないのに、頭の中がさえわたっていくような錯覚に陥る。

ちひろ「実は、少し用意してあったんですよ。のあちゃんと星を見ようと思って」

そう言って彼女は私がいつも望遠鏡をおいているあたりを指し示した。

ちひろ「久しぶりに引っ張り出してきたんです、この望遠鏡」

それは、私が彼女に借りたものよりも、一回り大きいものだった。

ちひろ「ちゃんと見えるといいんですけど……」

彼女はそう呟いて接眼レンズを覗きこむ。


ちひろ「うん、よく見えますよ、今日は」

レンズから目を離したちひろは、空を仰いでそう零した。その先に広がっているのは、昨日までと同じ何もない空だ。

のあ「……見ても?」

彼女は頷く。

私は、高揚に震える胸を押さえながら、その望遠鏡に近付く。


今なら、見える気がする。

私が見たいと思った、星が。探していた、光が。

レンズを、覗く。



のあ「―――っ」


私はその光景に耐えかねて、目を離し何もないはずの空を見る。

望遠鏡の先、

そこに在ったのは、星空なんかではない。

これは、

のあ「まるで、宇宙……」

手足の末端が震えている。瞼が見開かれる。

接眼レンズの向こう側。

ちひろ「そう、宇宙です。もっと限定的に言うなら、星雲」

ちひろ「……どうですか、見えたでしょう。まるで雲のようにすら見える星々が」


ちひろ「驚きすぎて声も出ないですか? わたしも初めて見たときそうでした」

いまだに、身体中が痺れている。

もう一度レンズを覗くことすら躊躇してしまうくらいの光景が、望遠鏡の先にはあったのだ。

ちひろ「凄いものを見たって顔してますね」

彼女は立ち竦む私の代わりに、再び望遠鏡を覗いた。その背中を、どこか寂しげな空気が取り巻いている。

ちひろ「プロデューサーさんは、アイドルは星なんだって言います。でも、わたしにはそれを完全に肯定することができません」

彼女は言っていた。アイドルが星であるという彼の言葉を、完全には否定しないと。だがそれは、全てを肯定しているわけでもないということだ。


ちひろ「これは、わたしの恩師が言っていた言葉です。光り輝く星々は、彼女達の望むべき理想であって、アイドルはそれに手を伸ばそうとする存在であると」

ちひろ「アイドル達は、憧れたんです。こういう光たちに」

ちひろ「……見ようとしなければ見えないものがあるんです。望まなければ、手を伸ばせないんです」

ちひろ「……卯月ちゃん達アイドルは、そういう光をそれぞれの中に持っている。こうなりたいという、それぞれの目標、星――トップアイドルの夢を」


のあ「……」


彼女は、なおも言葉を続ける。

ちひろ「何かが変わる気がして。アイドルになるだけなら、それでもいいのかもしれません。でも、上を向こうとしたとき、その程度の憧れでは全てを見失ってしまうんですよ、のあちゃん」


ちひろ「何かが変わるんじゃなくて、変えるんです」

変わらなければならない。

でも、変わり方がわからなかった。変わるということがどういうことなのか、わかっていなかった。

ちひろ「望遠鏡を変えれば、世界が変わったでしょう」

ちひろ「対物有効径――望遠鏡の対物レンズの大きさを測る尺度のことです。対物有効径が大きくなれば、集められる光の量は多くなり、そして遠くのものを、美しく見ることができるんです」

ちひろ「はじめにお渡しした望遠鏡は、月を観測するための望遠鏡です。口径54mmの、明るい星を見るためのもの」

ちひろ「でも、これは違います。もっと深い宇宙を見るための望遠鏡――対物有効径115mmの天体望遠鏡です」

のあ「……見る瞳を変えれば、こんなにも違う世界を覗けたのね」


空を、仰ぐ。光は見えない。

だけどそこにある望遠鏡を覗いたなら、違う世界が広がっている。



のあ「……卯月の笑顔は、誰かを見守り励ますような、温かな笑顔だった」



声が震えていた。

まるで、この望遠鏡を覗いた時と同じ。自分の知っている世界が塗り変わっていくような感覚が、全身を渦巻いている。

高望みなんて、したことはない。何かに憧れることさえ。

手は届かないと思っていた。望めないと思っていた。実際、この瞳には何も映らなかったのだ。


でも、そこを超越したなら、自分が知らなかったことさえ知らなかった世界が在ったのだ。



のあ「――なら、私は……私のような人をも照らす、絶対的な光になってみせるわ」



肉眼でも、届くように。そこに星々はあるのだと、知らしめるために。

のあ「たった一つの一番星なんて埋め尽くしてしまう、圧倒的な光……それが、私が手を伸ばすもの」


のあ「辿り着くわ、絶対に。それが、私の新たな存在意義」


私の宣言に、彼女は満足げにこくりと頷く。

ちひろ「はい。そのためにわたし達がいますから」




――歓声が、近い。

ステージから随分と離れた控室にさえ届いていたこの歓喜の声が、今、すぐ近くで私の心を震わせている。

舞台袖から数段上がったところにあるステージでは、卯月たちが笑顔で歌っていた。モニターで確認できるファンの表情も、彼女の笑顔に魅せられて緩んでいる。

ちひろ「あと五分もしたら、のあちゃんの出番です。調子はどうですか?」

のあ「……万全よ、心配しないで」

緊張はしていない。でも、興奮していないわけじゃない。

これから飛び込む世界に、胸を躍らせている自分がいる。


ちひろ「本当は、プロデューサーさんがここにいるべきなんだろうけど、中継用の機材トラブルで呼び出されているみたいで……」

のあ「それも彼に才能があるが故……誇りに思うわ。それに……私は送り出してくれるのが貴女でも嬉しいもの」

ちひろ「そう言っていただけると、事務員として嬉しいです」

彼女は頬を緩めたあと、すぐに表情を曇らせて私に問うた。

ちひろ「……のあちゃん。のあちゃんは、あのとき言ったように、絶対的な光になれたと自分で思えますか?」

のあ「……そう、ね」

のあ「……人は誰でも、輝かないでいるための言い訳を探している……だからそれに憧れようとする。それを掴もうとした私と同じように」

のあ「私が輝けているかどうかは、手を伸ばすための光を見つけられないひと達が決めること……私はそう思う」

ちひろ「ふふ、そうですね。のあちゃんらしい言葉です。このライブ、きっと成功しますよ」

もうすぐ、彼女達の歌が終わる。私の時間が始まる。

のあ「当然よ」

私はそう零し、舞台袖からステージを見上げる。


のあ「……ねえ、ちひろ」

ちひろ「どうかしましたか?」

のあ「アイドルに憧れて、ここに入って……そして脱落した子……彼女にも、私の光は届くかしら」

ちひろ「あの子は、のあちゃんと同じように望遠鏡を覗きました。そして、あまりに広大な景色に、自分はこの中では輝けないと絶望し、全ての夢を捨てたんです」


望遠鏡を覗く彼女の、寂しさを帯びた背中。

私が絶対的な光を目指した光景と同じ世界を見て、少女は絶望した。

見たいと思って覗いた先の世界は、可憐な衣装を着て歌い踊りたいという憧れだけでは、眩しすぎたのだ。


のあ「……なら、その子は今、どんな思いで何をしているのかしらね」

ちひろ「……」

ちひろ「少女達がずっと空を見上げ続けられるように、彼女達を、支えているんです。それが、彼女にできることだと気付いたから」

のあ「そう……それは、良かった。もしそれが本当なら、このライブは、絶対に成功させるわ」

ちひろ「ふふ、のあちゃん、本当に輝いていますね、わたし、なんだか今、すっごく嬉しいです」

歓声が、さらに大きくなる。

のあ「まだまだよ、貴女が見せてくれたあの望遠鏡――あれを覗いてみれば、きっと私は、今よりももっと輝けるだろうから」


優しい光の、一幕が終わる。

絶対的な光の、序章が始まる。




――対物有効径115mm。


それは、私がアイドルになるために必要だった、瞳の大きさ。

そして、私が私になるために必要な、憧れの大きさ。


以上になります。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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