鷺沢文香に失恋した青年の話。 (28)
1
今になって思えば、それは一目惚れだったのだろう。
大学から少し離れた場所にある古書店。僕は読書家というわけではなかったが、『古書店』という響きがなんだか格好良く感じたという理由だけでそこに入った。
そこには数多くの本が置いてあったが、ほこり臭かったりはせず、本も綺麗なものがそろっていて、温かみのようなものを感じた。非常に良い雰囲気の店だったが、それは意図的なものではなく、この店の主が本当に本を愛しているということの表れでしかないのだろう……そう思えるような店だった。
こんなところにこんな店があるなんて……そう思うと、僕はある種の興奮を覚えた。少年心と言うと違うかもしれないが、それに近い。僕は高揚した気分で古書店内を見回して……そして、彼女を見た。
カウンターの中でひとり、本を読んでいる女性。長い黒髪は目元を覆い、その顔を窺い知ることはできない。
僕は彼女に目を奪われた。その時はその理由がわからなかった。この古書店自体に高揚していたこともあり、それと同じものとして扱っていた。
本を見て、彼女を見て、本を見て、彼女を見て……しかし、彼女がこちらに気付くことはなかった。読書に集中しているようだ。ぺらり……ぺらり……。そんな音だけが聞こえた。
いつまで経っても彼女がこちらを見ないので、僕はどうにか彼女に自分の存在を気付いてほしいと思うようになった。それは意地のようなもので、また、答えがはっきりしているものだった。
僕は適当に良さそうな本を手に取って、カウンターに向かった。しかし、それでも彼女は僕に気付かない。僕は声をかけた。「あの、すみません」
すると、彼女の本をめくる手がぴく、と動いた。動いて、ゆっくりとこちらを見た。
「……すみません。本に集中していて、気付きませんでした」
正直に言うのか、と思った。いや、嘘を吐いてもすぐにバレるのだが……それでも、そのまま言うとは思わなかった。
「これ、えっと……買いたいんですが。お願いします」
僕は本を差し出した。彼女は本を手に取って、値段を口にした。僕は財布から言われた値段をちょうど取り出して彼女に手渡した。
「ありがとうございました」
彼女の言葉を受けて、僕は古書店を出た。
……買うつもりは、なかったんだけど。
僕は手に持った本を見た。
……でも、まあ、せっかく買ったんだから、読んでみるか。
そう思って、僕は自宅に帰り、本を開いた。
古書店のことと彼女のことを、思いながら。
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2
それから。
僕は何度かあの古書店に立ち寄った。日課……というほどではないが、そこそこの頻度で通っていた。
店に入って、本を手にとって、彼女に手渡して、数秒間の会話をして……それだけのために、僕はあの店に通っていた。
彼女はいつも同じだった。いつも本を読んでいて、誰かが店に入っても、それにはまったく気付かない。ただ本を読んで、カウンターの中に居る。
そんなにも集中するとは、そこまで面白い本なのだろうか。僕は気になって、気付いた時には尋ねていた。
「あの……その本、そんなに面白いんですか?」
「……その本、というのは、私が今読んでいる、この本のことでしょうか」
「はい。いつも集中して本を読んでいるようだったので、そんなに面白いのかな、と気になってしまって」
「……そうですね。私は、面白いと思います」
そう言った瞬間だけ、彼女の声音がいつもと違うものだったような気がした。僕はその声がまた聞きたくなった。でも、どうすればまた今の声を聞くことができる? 僕は考えて、思いついた時にはそれを口にしてしまっていた。
「その……オススメの本を、教えてくれませんか?」
僕の言葉に対して、数秒間、彼女は何も言わなかった。
「……それは、私のオススメ、ということでしょうか」
次に口を開いた彼女の声音は、また初めて聞いたものだった。驚きと、動揺……かすかにそんなものが見て取れる声。
「はい。僕は……その、恥ずかしながら、あまり本を読んだりすることがなくて。ここに来てから買った本はぜんぶ読もうとしたんですが……実は、途中で挫折した本もあって。だから、あなたのオススメを、聞きたくて」
僕の言葉に対して、彼女は少し考えこむような態度をとった。数十秒、ゆっくりと考えて、
「……今まで買った本の中では、どの本が読みやすかったでしょうか?」
そう言われて、僕は今までこの店で買った本のことを思い出す。
「えっと……『――』とか『――』は、読みやすくて、面白かったです」
「そうですか。それでは……」
ぎ……と木製の椅子が音を立てたかと思うと、彼女はゆっくりと立ち上がって、カウンターからこちらに出た。そして一切迷うことなくある本棚に向かい、これまた一切迷うことなくある本を取り出した。
「この本など、面白いかと思います。平易な文体で、内容も面白く……私も、好きな本です」
大切に本を持ってそう言う彼女を見て――そこで、僕は気付いた。
ああ、そうか。僕は、恋をしているんだ。
彼女に、恋をしているんだ。
そして、僕は彼女にオススメされた本を買って、帰路についた。
その本はとても面白くて、その日のうちに読みきってしまった。
3
それからも、僕はあの古書店に通っていた。彼女のオススメを聞いて、本を買って、その感想を伝えて……そうしている内に、少しずつ、彼女と話すようになった。
まず、僕は彼女の名前を知った。彼女の名前は鷺沢文香。どうやら、僕と同い年の大学生らしい。この古書店は彼女の叔父の店であり、彼女はその手伝いをしている……という話だ。
そう言えば、この店で壮年の男性を見かけたことが何度かあった。おそらく、彼のことだろう。
そんな風に、僕と鷺沢さんが世間話程度のことを話すようになった時だった。
その日、僕はいつも通り大学に居た。
友人とともに大学構内を歩いていると、見覚えのある顔を見つけた。
――どうして、彼女がここに……。
僕は驚いて足を止めてしまった。彼女が大学生ということ。あの古書店に通える位置にある大学はここくらいしかないということ。そういったことを考えればその答えに至るのはそう難しいことではないはずだったのに、それまで僕は思いつきもしなかった。
「どうした?」
友人が言った。僕は彼女を見たままに答えた。
「いや……ちょっと、見知った顔を見かけて」
「見知った顔……?」
彼は首を傾げて僕の目線の先を見た。「えっ」と彼は声を出した。
「お前、あの子と知り合いなのか?」
「あの子……?」
「いや、あの子……有名ってわけじゃないし、まあ、俺もよくは知らないんだけどさ。ウチの学部で、いつも本を抱えているから目立ってな、俺も覚えているんだよ。名前も知らないし、誰かと仲が良いって話も聞かないから、お前が知り合いっていうのを聞いてびっくりしたんだよ」
そうなのか、と思う。だが、不思議ではない。むしろ鷺沢さんらしいと思った。いつものように集中して本を読んでいる姿を想像すると、なんだかおかしくて、くすりとしてしまった。
「……お前、あの子のこと好きなの?」
「……はぁ!?」
僕は跳び上がるようにして言った。いきなり、何を言っているのか。というか、どうしてわかるのか。そんな素振りはまったく出してなかったはずだが……。
僕がそう思っていると、彼は「うわ、図星かよ」と驚いた様子で答えた。……ハメられた。僕は彼を睨んだ。
「おいおい、勝手に自爆しておいて睨むなよ」
彼はハハと笑った。
「それに、俺はいいと思うぞ? 何と言うか……穏やかというか、暗そうというか。そんな奴どうしお似合いだ」
「……あの人の悪口を言うなよ」
ぶすっとして僕は言った。すると彼は目を丸くした。
「……そこまで本気なのか。すまん、訂正する。悪かった」
……ここですぐ謝るような奴だから、友人をやめられない。僕は答える。
「いいよ、べつに。……実際、そう見られるような人だとは思うから」
「お? なんだか、『自分は他の奴よりも彼女のことを知っている』みたいな口ぶりだな。ひゅー。熱いねぇ」
「……茶化すなよ。もう」
4
古書店に通い、鷺沢さんにオススメされた本を読んでいる内、僕は読書が好きになってきていた。鷺沢さんが読むような本も、時間はかかるが読むことができるようになってきていた。そして、そういった本について話し合うこともできるようになった。
「……こんな話、叔父以外とはしたことがなかったのですが、楽しいものですね」
鷺沢さんは言った。そう言われたことは、僕にとって何よりも嬉しいことだった。色んな本を読んで、色んな本について語って……その時間は、確かに幸せだった。
いつまでもこんな関係が続けばいいと思っていた。
いつまでもこんな関係のままでいいと思っていた。
思えば、僕はただ、こわかっただけなのだ。
この関係が崩れてしまうのがこわくて、どうしても、言い出すことができなかった。
自分の本心を伝えることができずにいて……それでもいいと思ってしまっていた。
――だが、ある日。
その関係は、崩れることになった。
……いや、『崩れることになった』という表現は正確ではない。
正確に言えば、その関係は、僕が崩した。
僕の方から、崩したのだ。
5
「……今日も、居なかったな」
古書店を出るとともに、僕はつぶやいた。最近、古書店に鷺沢さんが居ないのだ。鷺沢さんの叔父曰く、「文ちゃんは最近忙しくてね」ということらしい。まあ、忙しいなら居なくてもおかしくないだろう。鷺沢さんがこの古書店に来ているのは、あくまで『お手伝い』のためなのだから。
鷺沢さんは大学には来ているみたいだった。しかし、少し様子が変わった、とのこと。
「ああ。何と言うか、雰囲気がな。お前と何かあったんじゃ……と思っていたが、そういうわけじゃないのか」
友人は少し残念そうに言った。何かあった、か……僕は鷺沢さんのことが気になって仕方なかった。いったい、彼女に何があったのだろう。それが心配になって……僕は、鷺沢さんと会うことにした。
友人に聞けば、鷺沢さんがどの講義に出席しているかはわかる。僕は鷺沢さんが大学から帰る時に声をかけようと思った。鷺沢さんにとって、僕はただの客……かもしれない。でも、自惚れでなければ、僕は鷺沢さんと少しは親しくなれているはずだ。……それを、信じよう。
僕は鷺沢さんが講義を受けている講義棟の前で鷺沢さんが出てくるのを待っていた。持ってきていた本を読んで……人がぞろぞろと出てき始めた。僕は本を閉じて、鷺沢さんの姿を探した。
そして、鷺沢さんの姿はすぐに見付かった。
「……あ」
思わず、そんな声が出た。
確かに、少し、変わっていた。
外見上は、何も変わっていないように思える。だが、雰囲気が変わっている。立ち振舞が、少し、違う。歩き方や、ちょっとした仕草……そんなものが、変わっているように思えた。
ほうっ、と僕はしばし彼女のことをただ見つめてしまっていた。だが、見つめるためだけに来たわけではない。僕は我を取り戻して、鷺沢さんに声をかけた。
「……あなたは」
鷺沢さんは少し驚いた様子で言った。僕が同じ大学に居るということは知っていたが、話しかけられるとは思っていなかったようだ。
「あの……鷺沢さん。少し、話してもいいですか?」
「……はい。あまり時間はありませんが、よろこんで」
鷺沢さんはそう言ってくれた。それは素直に嬉しい言葉だった。
「すみません。移動しながらでも、よろしいでしょうか?」
僕は「はい」と答えた。それ以外、どう答えろと言うのだ。
そうして、僕はしばし鷺沢さんと本のことについて話した。何があったのか、といったことも気になったが、まずはそういった話から入るべきだと思ったのだ。もしかしたら言えないことなのかもしれないし……それなら、僕には干渉できることではないだろう。自分に手伝えることならば何でもやるが、まだ、そこまでの仲にはなっていないのだとも思った。
だが、それを聞きにきたことも確かなのだ。もう大学の敷地からだ。早く、早く聞かなければ。
「あの、鷺沢さん。ちょっと、聞きたいことが――」
僕がそう言おうとした、その瞬間。
「プロデューサーさん……」
鷺沢さんの視線が、ある場所に固まっていたことに気付いた。
その視線の先に居たのは――
「……すみません。もう、時間のようです」
鷺沢さんは僕に向かって頭を下げて言った。
「久しぶりに、あなたと本について話すことができて、楽しかったです。……そろそろ一段落する、とのことなので、また叔父の手伝いに行くこともできると思います。だから、また、あの店で、お話しましょう」
そう言って、彼女は僕から離れていった。
僕から離れて、ある男性のところに行った。
そして、彼を見る、彼女の目は――
6
目を覚ますと、僕は自分の部屋に居た。
「……はぁ」
それと同時に、昨日、何があったのかを思い出した。
「……これが、失恋、か」
僕はつぶやいた。不思議と、あまり悲しい気持ちにはならなかった。本当のところ、僕は鷺沢さんのことをあまり好きではなかったのかもしれない。恋だって勘違いしていただけなのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。僕は勘違いしていただけなのだ。古書店のあの雰囲気に、あの高揚感に……そう、吊り橋効果みたいなものだ。きっと、僕は……。
「……あれ?」
ふと気付くと、頬に熱いものが伝っていた。それは頬を伝って顎を流れ、滴り、落ちた。
「……なんで、泣いてるんだ、僕は」
そこまで悲しい気持ちではないというのは本当だ。
ただ、空虚な感情だけが……ぽっかりと、胸に穴が空いているような気がするだけで、悲しい気持ちにはなっていない。
強がりではない、と思う。
そう、思っているのに。
「……止まれよ」
どうしてか、涙が止まらない。
「止まれよ、くそっ……止まって、くれよ……」
僕は顔に腕を押し付けた。そうしていると、涙が止まると思ったから。涙が流れるのを、誤魔化せると思ったから。
その日、僕は大学を休んだ。
大学に、行けなかった。
7
鷺沢さんの古書店に行かなくなって、数週間が経った。
僕は本を読むことすらやめて、大学生活を楽しもうとしていた。
大学に行って、講義を受けて、友人とバカみたいな話をして、バカ騒ぎなんてこともして……必死に楽しんでいるように振る舞った。
そんな日々が続いた、ある日。友人が慌てて僕のところにやって来た。
「おい、お前、これ、知ってたか?」
「は? 何のことだよ……」
「これだよ、これ!」
そう言って友人が見せてきたスマートフォンの画面には、僕のよく知る――いや、僕が知らない、彼女が居た。
それは、とあるアイドルの記事だった。写真付きで、長い黒髪で、美しい青の瞳をした、ある女性アイドルの記事……。
「……鷺沢、さん?」
そこに映っていたのは、間違いなく、鷺沢文香だった。
――僕の知らない、彼女だった。
8
鷺沢さんのことは大学中で話題になった。
今までは鷺沢さんに見向きもしなかった人々がこぞって鷺沢さんに興味を持ち始めたのだ。
自分の方が、先に彼女の魅力に気付いていたのに。自分の方が、先に――そんなことを思う自分が嫌になった。そして、それこそが彼に対して――あの日、鷺沢さんと一緒に居た彼に対して抱いていた感情なんだと悟った。
そうだ、僕は、そう思っていたんだ。僕の方が先に気付いていたのに、それなのに、って……僕が先に動いていたからって、そうしていたからって、僕には何もできなかっただろうに。
鷺沢さんがあの時言っていた言葉を思い出す。『プロデューサーさん』……つまり、そういうことだったんだ。彼は、鷺沢さんの……鷺沢文香というアイドルのプロデューサーで、そして、同時に、鷺沢さんが特別な想いを抱いている男性なんだ、って。
その特別な想いが恋愛感情なのかどうかはわからない。ただ一つ確実なことは、鷺沢さんがプロデューサーを見たあの目を見た瞬間に、僕は自分が失恋したということを悟った、ということだ。それだけは、確かなことだ。
彼こそが鷺沢さんのことを変えて……『アイドル』にした。その結果、鷺沢さんは大学中の人気者になっていた。
それは、良いこと……なのだろうか。
それに対してどうしても良いことだとは思えない自分は、心が狭い人間なのだろうか。
「俺、前からあの子のことを気になってたんだよな」
そんな声が聞こえた。嘘だ、と思った。
「鷺沢さん、良いよなぁ……あんな子だって知ってたなら、もっと早くに手を出してたのに」
そんな声が聞こえた。やめろ、と思った。
周りから、自分の中から、色んな声が聞こえた。ぐるぐると黒い感情が渦巻いてきた。もう鷺沢さんのプロデューサーに対しては変なことを思わなくなった。ただ、今は、こいつらがむかつく。むかついてしまう。手のひらを返すような態度をして……彼女のことを、何も、知らないのに。
そういった感情を抱いて、抱えて、沈んで、溺れそうになって……ふと、ある言葉が自分の中から聞こえてきた。
――お前は、違うのか?
お前は、手のひらを返すような態度をしていないのか?
お前は、彼女のことを知っていたのか?
――お前は、あいつらと何が違うんだ?
「……くそっ」
そんなことはわかっている。わかっているんだ。
自分も同じだ。鷺沢さんに失恋したくらいで、鷺沢さんに会いに行くことすらしなくなった。自分との時間を『楽しい』と言ってくれた彼女の信頼を裏切るような行為をした。
彼女がアイドルだということも、あの前髪の向こうにある青い目のことも、自分は何も知らなかった。僕が彼女について知っていることなんて、ほんの一部でしかなかったのだ。
そんなことはわかっている。だから――だから、むかつくんだ。
周りにも、自分にも。
……もう、いいや。
僕には、もう、関係のないことだ。
きっと……きっと。
9
鷺沢さんのイベントを大学でやることが決まった。
僕はどうでもいいと思っていた。もう、僕には関係ないことだ。そんなことを思っている自分のことが嫌になるが、今、鷺沢さんと会っても以前のように接することのできる自信がない。だから、きっと、会わないことが正解なんだ。僕はそう思っていた。
周囲は盛り上がっていた。鷺沢さんに告白するだとか、そういった人が大勢居た。飲み会に無理やり誘ってつぶしてやる、なんて言葉を関係のない僕にまで聞こえるような声で話している人まで居た。鷺沢さんは押しに弱そうだからなんとかなるだろう、なんて話だ。
そんなわけがないだろう、と思った。鷺沢さんは思っているよりもずっと強い人だ。僕はそれを知っていた。本について話しているだけだったが、それだけでも、彼女の強さは伝わった。彼女は弱く、しかし、強い。アイドルになってどれだけ変わっているのかはわからないが、きっと、その本質は変わっていないことだろう。だから、あんな奴らの思い通りにいくわけはないと思っていた。
それでも、万が一……そんな風に心配することもあったが、自分には関係のないことだ。そう思って振り払った。僕には、もう、関係のないこと……そう、きっと、そうなのだ。
「本当にそれでいいのか?」
友人が言った。突然のことだったので、僕は「何のことだ?」と尋ねた。
「お前は本当にそれでいいのか、って聞いてるんだよ」
「だから、何のことだよ」
「鷺沢さんのことだ」
ぴくっ、と眉を跳ねさせてしまう。僕は自分の表情を隠すようにして視線を彼から外し、
「鷺沢さんがどうしたんだ? 僕には関係ないことだろう」
「関係あるだろ。惚れた女が、面倒くさいことに巻き込まれそうなんだ。それで何もしなくてもいいのかよ」
「いいよ。もう、僕には関係のないことだから」
「……そうかよ」
友人は吐き捨てるようにして言った。
「……なら、ずっとそうしてろ」
10
鷺沢さんのイベントが翌日に迫ってきていた。
あの一件以来、僕は友人とも疎遠になり、ひとりで大学に来て、帰るだけの生活をしていた。
大学からの帰り道、僕は歩きながら友人に言われたことについて考えていた。
鷺沢さんが面倒くさいことに巻き込まれそうなことは確かだ。それはわかっている。押しに弱そうな印象を受ける彼女のことだ、数多くの男から声をかけらあれたりすることだろう。
だが、それがわかっているからと言って、僕に何ができると言うんだ。何もできない。僕には何もできないだろう。
確かに、心配だとは思っている。でも、もう、僕と鷺沢さんは関係ないんだ。僕の方から、その関係を断ったんだ。
だから、今更、僕には何もできない。何もしない。
そう思っていた時だった。
「――あれ? 君は、文ちゃんの……」
そんな声が聞こえて、僕は顔を上げた。
そこには、鷺沢さんの叔父が立っていた。
11
「いやあ、ごめんね、付き合わせちゃって」
「いえ、僕も、今日は暇だったので」
今日というか最近はいつも暇だったが……まあ、それはいいだろう。
僕たちはある喫茶店に来ていた。鷺沢さんの叔父に「時間があれば、ちょっと、付き合ってくれないか? 色々、話したいことがあってね」と言われたので、付き合うことにしたのだ。断る理由……なら、まあ、そこそこに見付けられたが、今は、自分も誰かと話したい気分だったから。
「文ちゃんは……その、大学ではどんな感じなんだい? 確か、同じ大学だったよね?」
コーヒーを注文して、彼は言った。大学での鷺沢さんは……僕は僕の知る限りで答えた。
「ええと、その、実は鷺沢さんとは学部が違って、同じ講義を受けることはないんですが、同じ学部の友人の話では、目立っていたみたいです。いつも本を持っていて、読んでいて、って」そう言ってから、すぐに僕は付け足した。「――これはアイドルになる前の話、ですけど」
「そうか……まあ、文ちゃんなら想像がつくな」
くつくつと彼は笑った。……まあ、僕としても同感だ。鷺沢さんのことを思えば、容易に想像がつく光景だ。
「それじゃあ、今は――ああ、いや、やっぱりいい。そっちも想像がつくからね」
彼はそう言って、ふぅと息を吐いた。
「しかし、文ちゃんがああも変わるとは……さすがに、予想外だったよ。彼――アイドルのプロデューサーというのは、すごいものだね」
……まあ、それも、一部は同感だ。ただ、
「鷺沢さんは、アイドルになる前から魅力的だった……と思います」
これだけは、言っておきたかった。アイドルになる前から、彼女は魅力的だった。それは、僕にとって譲れないことだったから。
「……そうだね。うん、そうだ。その通りだ」
彼はうんうんと嬉しそうにうなずいた。……鷺沢さんのことをかわいがっているんだな、と思う。こんな人だからあの古書店もあんなにも温かいんだろうな、と。
「……君は、最近、ウチに来ないね」
彼が言った。どきっ、と心臓が跳ねた。
「ああ、別に責めようと言う話じゃないんだ」彼は笑いながら言った。「ただ……文ちゃんが、寂しがるな、と思ってね」
「……鷺沢さんが?」
僕は驚いて言った。鷺沢さんはアイドルで、忙しいはずだ。僕のことなんか気にしている暇はないはずで……。
「ああ。文ちゃんは、ずっと、君のことを待っていたよ。……文ちゃんにとって、君のような人は、貴重だったんだろうね。君とまた本について語り合いたいって……そう、言っていたよ」
彼はゆっくりと、とても大切なものの話をする時のように語り、すぐに謝った。
「……いや、すまない、これも責めているような言い方だったね。そういうわけではないんだ。君にも、色々な事情があるだろうからね。……ただ、文ちゃんがそう思っているということだけは、伝えたくてね」
彼がそう言うと、ちょうど注文していたコーヒーが来た。
「お、来たね。さ、遠慮せずに飲んでくれ――って、コーヒーくらいで偉そうには言えないが……ここのコーヒーは私のオススメだ。きっと、気に入ってくれると思うよ」
「……いただきます」
彼の言葉に甘えて、僕はコーヒーを飲んだ。
そのコーヒーは苦かったけれど、温かかった。
12
翌日。
「……さて」
今日は鷺沢さんのイベントの日だ。今日、この日、大学中の多くの人が鷺沢さんのイベントに注目することだろう。
「なら、今日しかない、よな」
僕の計画を実行するためには、今日、この日しか思いつかない。一日で考えただけの計画だが、それでも、実行しないよりはする方がいいだろう。
「……お前、本当にバカだよな」
友人が言った。今日の計画を実行するためには僕一人では難しいこともあった。だから、彼にも手伝ってもらうことにしたのだ。
「たぶん、その通りだと思う。僕はバカだ」
「肯定するのかよ」
彼は笑った。それに対して、僕も笑った。
「ああ。……でも、後悔するよりはマシ、だろう?」
そうだ。後悔するよりはマシだ。
あの時のように、後悔しないために。
「まあ、そうかもな」
友人は笑って、僕の背中をパンと叩いた。
「痛っ……何するんだよ」
「気合を入れたんだよ。……気合でも入れなきゃ、やれないだろ?」
「……まあ、そうか」
その通りだ。僕が今からすることは、そういうことだ。
「……それじゃあ、行こうか」
「おう!」
13
鷺沢さんのイベントはもう始まっていた。特設ステージの上で、歌を歌ったり、ちょっとしたトークをしたり、イベントの委員会の学生がちょっとした企画をしたり……そんな時間。
友人はそのイベントの委員会に所属していた。だから手伝ってもらうことにしたのだ。
「それじゃ、次のコーナーはー……お! これはいいですねー」
ちょうど今、彼は司会役をやっている。その司会役になるというのも色々と面倒くさいことがあったらしいが、『なんとかする』と言ってなってくれた。……自分がやりたいというのもあったのだろうが。
「じゃあ、発表します! ででん! 『鷺沢文香に告白したい!』 このコーナーは『鷺沢文香さんに好きなことを伝えよう!』というコーナーです! あ、でも、もちろん本当に『告白』したりしちゃいけませんよ? なんたって、鷺沢さんはアイドルですから!」
わはは、と会場でちょっとした笑いが起きる。……しかし、そのままの名前だな、と思う。まあ、それでこそ、というところもあるか。
「このコーナーは、この会場の皆さんに参加してもらいます! 誰か! 我こそは! という方はいませんかー?」
瞬間、僕は他の誰かが挙げるよりも先に手を挙げる。
「お! 早いですねぇ。それじゃあ、そこの方!」
白々しいな、と思う。ここまで来ればもうすることは一つだから、問題ないのだが。
「……あなたは」
ステージ上の鷺沢さんが驚いた様子で僕を見る。……やっぱり綺麗だな、と思う。アイドルになるまで、彼女がこんな顔をしているとは知らなかった。前髪で隠れていた目が見えるようになるだけでこんなにも変わるのか、と思う。
「それじゃあ、好きなことを告白して下さい!」
友人が言う。待て。まだ、心の準備ができていない。
マイクを渡されるが、僕はまだ、言葉を発することができない。心臓が痛い。視線を感じる。大学中の生徒が自分を見ているのではないかという思いが浮かぶ。だが、それでいいのだ。それでこそ、意味があるんだ。
「――鷺沢さん!」
僕は大声で言う。鷺沢さんがびくりと肩を跳ねさせる。驚かせてすみません。でも、もっと、驚かせます。
すぅ、と息を吸う。
さあ、言え、僕。
思いのままに、みっともないほど必死になって、言ってしまえ――
「好きです! 付き合って下さい!」
そう言って、僕は頭を下げた。直後、一瞬の沈黙があり、すぐに会場中がざわめき始めた。
……さて、早くしないと、降ろされるな。
あとは、鷺沢さんが答えてくれるだけ、なんだが――
「……すみません」
そんな声が、マイクを通して、僕に聞こえた。
「私は、アイドルなので……今は、誰とも付き合うことはできません」
そう言って、鷺沢さんは頭を下げた。
……良かった。
これで、とりあえず、成功だ。
「そう、ですか……ありがとうございました!」
僕はもう一度頭を下げた。……あれ? くそっ、泣く気は、なかったんだけどな……でも、うん、泣いた方が、みっともないか。なら、もう、泣いてやろう。もう誰も鷺沢さんに告白したりしないように、鷺沢さんの迷惑をかけたりしないようにするために、みっともないくらいに泣いてやろう。
そう思っていたが、その前に、僕は委員会の人たちにステージの上から無理やり降ろされた。
「えー……ちょっとしたハプニングはありましたが、気を取り直して、続けていきましょう! それじゃあ、次のコーナーは――」
ステージの上で、友人が僕の後始末をしてくれている。
……この借りはまた返さなくちゃいけないな。
そんなことを思いながら、僕は委員会の人たちによって委員会の部屋にまで連れて行かれて、ちょっとした説教を受けた。
大学からも呼び出されて、ちょっとした処分を受けることになった。
その日の帰り道、友人からは「お前、最高に格好良かったよ」と言われた。
僕は「嬉しくない」と返した。
14
それから。
僕は大学で注目を浴びる存在になった。実際に話しかけられたりはしないが、『あの』と言われるようにはなった。あの鷺沢文香に告白してみっともなく振られた奴、と。
聞いた話では、あれからも鷺沢さんに告白しようなんて人は居なくなったらしい。鷺沢さんに告白するということは『みっともない』という図式になったのだ。そもそも、鷺沢さんに告白してやろうというのは『流行』のようなものでしかない。そういう流れになったから、そういう『遊び』をしようというだけのことだったのだと思う。本気で鷺沢さんに惚れた……という人も居るのかもしれないし、そういう人には申し訳ないとは思うが、少なくとも本気で惚れているわけではないのなら、『みっともない』という風潮をつくれば自ずから告白するなんてことはしなくなるだろうと考えたのだ。そして実際、そうなっている。まあ、ここまでうまくいくとは思わなかったが……。
というか、そう、そこなのだ。『そこまでうまくいくとは思わなかった』。それなのに、僕はあんなことをやったのだ。今思えば、自分はなんてバカなことをしたのか、と思う。『鷺沢さんにこれ以上迷惑をかけないために』とやったことだったが、自分のした行為こそがいちばん鷺沢さんに迷惑をかけているではないか。もう、鷺沢さんに合わす顔がない。
「そんなお前に良い知らせがある」
プリンを片手に友人が言った。あの時の借りを返す、と言ったらこれでいいと言われたのだ。プリンでいいとは、どれだけ安いんだ。……まあ、そういうことではない、ということくらいわかっているが。
「良い知らせ?」
僕が尋ねると、彼は「ああ」と答えた。
「こういう伝言を預かった。『お暇であれば、今日、店に来て下さい。待っています』だそうだ」
「……それは、良い知らせなのか?」
「良い知らせだろ。それとも、悪い知らせだとでも?」
そう言って、友人はプリンを口に入れた。
僕は何も返せなかった。
15
「……ここに来るのも久しぶり、か」
僕は古書店に来ていた。来なくなってからそこまで経っているわけではないのだが、なんだか、ひどく久しぶりなように思える。
「いらっしゃいませ」
僕が店に入ると、鷺沢さんが本も開かずに待っていた。まず、それに驚いた。
「鷺沢さん……本は、読んでいないんですね」
「はい。あなたが来ると、思っていたので」
鷺沢さんが言った。……そんな、ことで。
「……どうぞ、こちらに来て下さい」
鷺沢さんの言葉に従って、僕はカウンターの前まで来た。……鷺沢さんと、僕の、いつもの位置だ。
「……今日、ここに呼んだのは、お礼を、言いたかったからです」
お礼? 僕がそう尋ねると、彼女は「はい」と答える。
「あの時、私に言ってくれたあれは……私のため、だったんですよね。あなたの想いは……伝わりました。でも、わざわざ、あんなところで言ったのは……私のため、だったんですよね」
だから、と彼女は立ち上がって、僕に向かって頭を下げた。
「ありがとう、ございました。……私のために、あんなことをしてくれて。私のことを、好きになってくれて」
彼女はゆっくりと言葉を紡いでいく。どうすれば正確に伝えることができるのか。そのために適した言葉を一つ一つ、ゆっくりと探していくようにして、言葉を紡ぐ。
「私は今でも、自分がアイドルだということを信じることができません……。自分に魅力があるなんてことを、思えません」
少し顔をうつむかせて、彼女は言う。そんなことはない、と僕は思う。彼女もまた、顔を上げて僕を見る。
「……ですが、あなたが好きになってくれたという事実が、私に自信をくれます。それを拠り所にして……私は、アイドルをやっていこうと思います」
そして、もう一度、彼女は深く、僕に向かって頭を下げた。
「だから……本当に、ありがとうございました」
……その、瞬間。
僕は、すべてが許されたような気がした。
僕のやってきたことを、許されたような気がした。
僕のやってきたことは、無駄ではなかったんだって……そう、思えて。
つー……と僕の目から、涙が流れた。
すると、鷺沢さんは慌てた様子で、
「あ、あの、私、いけないことを、言ってしまったでしょうか……?」
と心配そうに尋ねてきた。
「……いえ、大丈夫です」
涙を拭うこともせず、僕は答えた。
それでも鷺沢さんは僕のことを心配して、タオルまで持ってきてくれた。
それに対して僕は大げさだなと思いながらも、ありがたく使わせてもらうことにした。
「……あの、図々しいとは思うのですが、一つ、お願いがあるんです」
鷺沢さんが言った。「なんです?」と僕は尋ねた。
「……また、以前のように、私と、本の話をしてくれませんか?」
……なんだ、そんなことか。
「もちろん。むしろ、僕の方からお願いしたいことですよ」
僕がそう答えると、鷺沢さんは言った。
「……ありがとうございます」
かすかな、しかし確かな微笑みとともにそう言われて。
それはずるいな、と僕は思った。
終
終わりです。ありがとうございました。
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