朝起きて、鏡を見て。目の前には見慣れた私の顔。
高垣楓、25歳。独身。
お酒や温泉が大好き、あと駄洒落も。
そんな私の顔が洗面台の鏡に映っています。
まずは蛇口を捻ってお水を出します。
流れ出るお水を手で受け止めて、顔を洗うのは大事。寝ぼけたままの頭がさっぱりして、目が覚めます。
次はお水をお口に入れて、歯磨き前の、ぐちゅぐちゅぺっ。
朝はやっぱり、気になりますから。
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モバマスSS雑談スレ☆130 にて、楓さんのオッドアイの話題に「みりあもやーるー!」と言った者です。
次は歯磨き。歯ブラシと歯磨き粉をお口の中へ。
しゃこっ、しゃこっ、しゃこっ。
歯ブラシがお口の汚れを落とす心地いい音が歯から、下顎の骨へ、そして頭に響いて、これが骨伝導。
骨伝導…。こつでんどう……。
面白い洒落は浮かびませんね。
しっかり歯を磨いたら、また同じくぐちゅぐちゅぺっ。
最後は鏡に映る自分に、いーっ、として、あっかんべーして確認。
うん、ちゃんと磨けています。
あとは色々と、オトナの女性としての身だしなみ。
髪の毛だとか、お化粧。まつげを整えてリップを塗って。
今日のお洋服はどんなにしようかな。
うーん……。じゃあ、とりあえず、アイドルにスカウトされた時に来ていたお洋服にしましょう。
今だにあの時と同じのを着ているとなると、周りのみんなに笑われちゃうけれど、私はこれがお気に入り。
あとは適当にパンツを合わせれば、もうお洒落さんになれるから。
さて、事務所に向かう前に最後のチェック。
顔や髪の毛、よし。
お洋服のヨレやシワ、よし。
カバンの中身、よし。
手帳、よし。
今日のお酒の肴は…。焼き鳥食べたい……。
全身鏡に映る私へウインクをして、さあ、玄関へ参りましょう。
れっつ、ごー。
そう小さく呟いてみて、今日も異常は異常なし。
下駄箱の上で充電100%の補聴器を耳に付けて、私は玄関を開けて。
お仕事モードに、れっつごー。
ーーーーーーーーーー……………
右は緑、左は青。
事務所の女の子が喜ぶ言い方だと……。
わが呪われし右眼は翡翠、聖なる左眼は蒼紺、かしら?
前に手振りを添えて蘭子ちゃんに披露した時は、とっても喜んでいたかしら。あと、飛鳥ちゃんと凛ちゃんも興味津々だったかな。
ともかく、私もアイドルとしてとても人気が出て、随分と顔も売れたはず。
みんなが知っていて、みんなが気に留めていない事。
私はいわゆる『オッドアイ』。
詳しい事は忘れたけれど、生まれつき瞳の色が違うんだとか。
そして、瞳の色が違うだけならともかく、私は少し運が悪い事に耳の調子が優れない。
お医者さんに聞いてみた所、なんとかかんとか症候群、だとか。
もともとオッドアイの人は色々と ハンデ を背負って生きていく事になるのだけど、私はとてもとっても幸運な事に、ただ色が違うだけで済んでいた。
つい、最近までは。
身体に、耳に異常を感じ始めたのはついひと月前の事。
いつものようにデスクワークを手伝う留美さんにちょっかいをかけて遊んでいた。
ほっぺをつつく私の手を、留美さんが払いのけたとき、1本のペンが落ちた。
留美さんは床にプラスチックが落ちたのだから、カチャンッ、という音に気がついたはず。
でも。
私には聞こえていなかった。
留美さんに拾ってと言われても、その音が聞こえていなかった私には、何が何だかわからなくて、留美さんに呆れられちゃった。
その次は美優さん。
美優さんのお家でゆっくりと、アロマの香りに包まれてお酒を飲んでいたときの事。
アロマのリラックス効果と、お酒のほろ酔い効果で上機嫌な私はその場で寝たフリを始めた。
私を起こそうと、なんて話しかけてくれるかが楽しみで、耳をすませてわざとらしい寝息をたてて待っていた。
けれど、美優さんは何も言わず、私に毛布をかけてくれた。
私はその時、美優さんの優しさと、相手をしてくれなかった事に不貞腐れてそのまま寝ちゃったけれど。
どうやら美優さんは色々と話しかけて起こそうとしたそうで。
お酒が回っていたから。本当に眠たかったから。
そんな事を差し引いても、美優さんの声が聞こえなかったことに、私はどこか不安を抱いた。
そして、不安な気持ちに浸け込むように、留美さんの時のことが脳裏をよぎって。
もしかしたら、耳が遠くなったかも、って。
それから、私は自分の耳の不調を実感することとなった。
事務所で皆が談笑する声がよく聞こえない。
子供達がパタパタと走る音が聞こえない。
打ち合わせの時に、ラジカセから流れてくる音楽がよく聞こえない。
缶詰やビールのプルタブをかしゅっ、と開けた時の音が聞こえない。
聞こえない。
今まで聞こえていたはずのものが。
だんだんと、ゆっくりと、私自身が気づかないほど少しずつ、聞こえないようになっていた。
結局プロデューサーに相談してお医者さんに罹ったけれど、どうして今になってこうも不調になったのかは、まったくの原因不明。
むしろ、今までなんの問題もなく、チャームポイントとして使ってこれたのが不思議でならないそうで。
ともかく、現代医療では治療法もないそうで。
そのやりとりを、私は筆談で行われた。
プロデューサーはお医者さんに詰め寄った。大声で、あの時の私にも聞こえる声で。
「絶対無理って、なんなんですか!」
その言葉が耳に入るのは、とても、とてもとても痛かった。
翌日から、私には手帳が渡された。
補聴器が安く買える魔法の手帳。
毎日の通勤の電車が、少し安くなる魔法の手帳。
耳が聞こえなくなる代わりに、私に手渡された魔法の手帳。
私は、私は。
新しく私にかけられた魔法は、信じられないものだった。
そして、それまで私にかけられていた魔法は、音を立てずに。いや、音を立てていたのかもしれないけれど、私には届く事もなく崩れていった。
……とは言っても、私ももういい大人だし、少しずつだけど身体の不調は実感していたから、現実を受け入れられないなんて事はなかったけれど。
ふぅ、なんて考え込んでいるといつもの駅に到着。
駅員さんに魔法の手帳を……、見せずに、いつも通り魔法の自動で運賃を支払ってくれる定期券を、ピッとしましょう。
せっかく1年分買ったんだから、これくらいは使い切りたいもの。
改札口を出て、ホームの壁にもたれかかりほっとひと息ついてみる。
プロデューサーが迎えに来てくれるまで、おとなしく待ってましょう。
いつものお洋服と、伊達眼鏡に帽子。不思議な事にこんな変装でみんながみんな、高垣楓だと思わなくなるのかしら。
ふふ、なんだか不思議。
プロデューサーが来てくれるまで、どうも暇です。
ふと思い立って補聴器を外してみる。ひと月前よりもさらに難聴になっているのだけど、たまには機械を通さずに生の空気が運んでくれる音に耳を晒す。
ごめんね、晶葉ちゃん。せっかくパワーアップして貰ってるのに。
昔は人々で混み合うホームに響く喧騒、電車の到着を知らせる電子音が響き渡っていたものだけど。
どこか遠くで、微かに高い音が響いて聞こえる。
人の声なのか、電光掲示板が鳴らす音なのか。誰かのハイヒールの音なのか。
もうなにもわからないけど、まだ私の耳が生きている事に安心する。
私の耳は、ある日突然不調を起こし、どんどんその機能は衰え、今やなにも聞こえなくなる寸前。
まるで、ある日突然アイドルとしてデビューして、どんどん人気者になって、今や誰もが知ってるアイドルになる寸前。
そんなアイドルとしての私と真逆に進んでいく症状。
もし私がアイドルとして堕ちに堕ちれば、この耳は今までのように音を拾ってくれるようになるのかしら。
なんて、考えるのも馬鹿馬鹿しくなって、顔をあげてみる。
「ーーーーーー…、ーーーー……。ーーーーーーー、ーーーーー」
あら、顔をあげてみると目の前にはプロデューサーさん。
俯いて考え込んでいた私に話しかけてくれていたみたいで。でも、なぜかそんな彼の表情は暗かった。
「ーーーーーーーーーー。ーーー……、ーーーーーー?」
うーん…、どうやらプロデューサーは私が補聴器を付けていない事に気づいていないのかも。
両手に握りしめた補聴器をプロデューサーに見せるように、笑顔で手を振って見せると、なんだかとっても呆れられた顔をされちゃった。
もしかすると私が耳の不調の事を重く考え込んでいるのだと思って、そんな私を必死にフォローしてくれていたのかも。
優しいプロデューサーだから、私もそう考えてみた。
さて、プロデューサーをからかうのもここまでにしましょう。
耳にまだまだなれそうにない、重たい物を取り付ける。
慣れたら、この僅かな重さもなんとも思わなくなるんだろうな。
この重みを感じている間が、私が以前の私であった事の証だと思うと、なんだかとっても切ない。
「…………、……………? ………………」
えーと。はい、行きましょう。
プロデューサーの言う言葉はなにも聴き取れなかったけれど、回れ右をして駐車場へと歩いていくプロデューサーの背中を小走りで追いかける。
タイルを敷き詰められた床をヒールで歩く。その、高く、大きく響く小さな音を、補聴器はなんとか拾ってくれた。
ここで一旦ストップです。
なんの手帳かは一言も言っていないのでセーフ……。すいません、ただの屁理屈ですすいません。
ーーーーーーーーー………………
うーさみん。うーさみん。電車で向えば1時間。
私は電車に20分と、車で15分。
ふふっ、菜々さんに勝った。
車の中では特になにも会話はなかった。なんというか、プロデューサーも私にかける言葉を選んで選んで、結局どんな言葉をかけていいのか分からないのだと思う。
それに、私も話しかけないから、余計に。
今晩の焼き鳥、つくねか皮にしようかぐらいしか考えてなかったんだけど。
と、言うわけで事務所にとうちゃーく。
目の前の、灰色のコンクリートで出来た大きな建物。
プロデューサーと、みんなと、私も。みんなが頑張ってみんなが大きくした事務所。どこかくたびれているような外観だけど、オーラのような物が見える気がする。
その事務所へ、一歩踏み入る。
うん。高垣楓、本日も出社いたしました。
なにかがあるわけじゃないけれど、事務所へお辞儀は欠かせません。
エレベーターで3階へ上がって、いつもの見慣れた、私たちの事務所。
「…ら、プロ…………さん。か…でさん。お…ようござ………」
ドアを開けると、いつも通りちひろさんが出迎えてくれた。
私も頭を下げて、さあ、いつものソファへ向かいましょう。
今日のお仕事はビジュアルレッスン。ポージングだとか魅せる為のお勉強。
その後はダンスレッスン。バックダンサーとして、メインのアイドルを引き立てて、なおかつ自分自身も添え物で終わらないように。
ボーカルレッスンは、また後で。
ふかふかのソファに座って、私はまた補聴器を外す。
本当は付けていた方がいいのだけど、やっぱり慣れない物は慣れないし、それに周りの音が聞こえない分ダンスの要点をまとめたプリントなんかに集中できるもの。
耳に付けているものを外すと、耳栓代わりになるなんて、なんだか不思議な感覚。
そして代わりにちひろさんお手製の涎掛けを首に回して……。うん、これでよし。
『補聴器外してます!』
と、大きく書かれた涎掛けはとても重宝しています。
これがないと、誰かに話しかけられても相手を無視した事になっちゃいますから、ね?
さて、プリントにしっかりと目を通さないと。今回は難しい振り付けが多いから、ステップを頭に叩き込まなきゃ。
頭の中でイメージを固めておくのと、ただ流し見して実戦に臨むでは大きな違い。
音の聞こえない世界で、私は頭の中でイメージする。
右足、左足と。次は右足を大きく回しながら1回転、そして素早く足踏み。こんどは左右反転して。
頭の中の足は軽やかに、音を立てずに小刻みにステップを踏む。
よし、ここの節はオッケー。
ふんふん。後は……、うん、特に難しい所はここくらいですね。しっかりと頭に叩き込みましょう。
集中、集中……。
そういえば。事務所の子供たちは新しい遊びを考えたらしくて。
補聴器を外した私に気づかれないように、どんな事ができるか、って。
ある日はアルプス一万尺。ある日はお手玉。ある日はトランプ。
日に日にエスカレートして、この前は組体操したりダンスをしたりしてたけれど、拓海ちゃんにお説教されてたなぁ。
身体の不自由な人を馬鹿にするような遊びをするんじゃねえ、って。
拓海ちゃんの言った事はとても立派で、私の側で遊ぶ子供達はほんの少し間違っていて、注意しなかった私に非はあるのだけれど。
私は、こんな 手のかかる 私になってもみんなは嫌な顔をせずに近くにいてくれるんだって、内心喜んでたの。
なのに。
その日から子供達は少しだけ私を避けるようになっちゃった。
今まで自分達は相手をからかっていたのだと分かったら、近づき難いのはわかるわ。
けど、みんな、お願い。
私の側を離れないで。
視界に私を入れないようにしないで。
なにも聞こえなくなりそうな世界で、1人取り残されちゃったら、私は。私は。
私は。
おっと、いけない。なんだか暗い気持ちになっちゃってたわ。
ナイーブになってはいけナイー……。
うーん、イマイチ。
けど、みんな、お願い。
私の側を離れないで。
視界に私を入れないようにしないで。
なにも聞こえなくなりそうな世界で、1人取り残されちゃったら、私は。私は。
私は。
おっと、いけない。なんだか暗い気持ちになっちゃってたわ。
ナイーブになってはいけナイー……。
うーん、イマイチ。
暗い気持ちを振り払う為に、深呼吸。
すぅー、はぁー……。
うん、よし。さあ、顔をあげてビジュアルレッスン。笑顔の練習をしましょう。
「…………♪」
あら、顔をあげて見れば、目の前にはニコニコ笑顔が可愛らしい茜ちゃん。
茜ちゃんはゆっくり私に近づいてきて、ポンポンッ、と優しく肩に触れます。
これは、今から大声を出しますよー! のサイン。
さあ、受けて立ちましょう。
プリントを置いて、ソファに深く座り直し膝に手を当て背筋を伸ばす。
私が姿勢をキチンと正すと、それが合図。
茜ちゃんがたっぷりと息を吸い込んで、小柄な体格の割にたわわにたわわんと実ったお胸と、すっきりくびれたお腹が膨らんでいきます。
限界まで空気を溜め込んだ茜ちゃんが、カッ、と目を見開いて。
さあ、来ますよ。
「…えでさーん! …はようございま……すっ!!」
なんだか鼓膜がビリビリと、床や私の隣の観葉植物も揺れる程の大声。
今の私には茜ちゃんや恵磨ちゃんの全身全霊の大声しか届きません。
ああ、私の耳はまだ生きている。誰かの肉声を聞き取ることで、ようやく実感する事ができる。
私の発した声は、骨を通して私の耳へ『伝わる』。
そんな物じゃなく、空気を通して、私の耳に直接飛び込んでくる、音。
前はうるさいと思えば耳栓をしてシャットアウトしたものだけど、今では絶対に考えられないわ。
感じ取れるものは、絶対に逃したくないもの。
いかにもやりきったといった風に、汗を拭う仕草を見せる茜ちゃんを抱き寄せて、私も彼女の耳元でご挨拶。
おはようございます。茜ちゃん。
私は多分そう言ったはず。自分の声も『聴き取れない』んだもの。おそらくイントネーションや音はズレているだろうし、変に声が高いかも、低いかもしれない。
それでも茜ちゃんは私の挨拶にニッコリと微笑んでくれて、私を強く抱きしめてくれた。
私はあとどれくらいの間、みんなの声を聞き取れるかな。
気の弱い、大きな声を出せない子の声は、もう。
茜ちゃんの柔らかな身体を堪能していると、こつん、と私の頭にチョップが降りてきた。
目を開けてみると、あら未央ちゃん。そんな味わい深い顔をしてどうしたの?
未央ちゃんはため息をひとつついてテーブルの上の補聴器を手にとって、私の耳へ取り付ける。
ふふっ、未央ちゃん。なかなか上手になったわね。最初は私の髪がふわふわ過ぎて、どこが耳だかわからないって感じだったのに。
補聴器がしっかり耳に入ったことを確認して、電源をポチッとな。
今までは、ざー……、というなにかよくわからない音しか聞こえていなかった私の耳へ事務所のオーディオが流す掠れた音楽が、遠くから聞こえるみんなの話し声が流れ込んで来た。
あら、補聴器をつけた私にもこれだけ聞こえるって事は案外うるさい方だったんですね。
「…えでさん! …かねちゃんに……ごえ出させちゃダ…ですよ!」
ああ、ごめんなさい未央ちゃん。
そうそう、なんと茜ちゃんはあのダイナミックでボンバーなキャラクターとしてファンや世間に知れ渡っているけれど、そんな茜ちゃんに歌のお仕事が舞い込んで来たんです。
私も今よりまだ耳が聞こえる時にメロディーを聴いたけれど、なんて言うのかな。見渡す限りの青空の下、一面に咲き乱れる綺麗な花たちに囲まれたお姫様が歌うような、そんな綺麗な歌。
それで、今は茜ちゃんは調整中。
普段のボンバーが出ないように、普段から大人しく、お淑やかに、歌のイメージに合うような、そんな女の子になるように。
ごめんね、茜ちゃん。
歌の収録が終わったら、またあなたの声を聴かせて?
それが、最後になるだろうから。
そう言って茜ちゃんから手を放すと、なんだか物足りないと言いたげに『ぶー』と未央ちゃんの横腹を突き始めた。
ふふっ、せっかく調整中なんだもの。お姫様がお花畑の中で豪快に炭を起こしてバーベキューみたいな、そんな歌になっちゃいけないものね。
……あ、炭火焼きの焼き鳥が食べたい。
今度、駅の外れにある焼き鳥さんに行きましょう。丁寧な炭火焼きで、1本140円から。
ふふっ。なんだか、今から楽しみ。
よしっ。また美味しく呑んで食べてができるように、お勉強を頑張りましょう。
またここでストップとします。
……焼き鳥食べたい。
ーーーーーーーー……………
てー てれーて てれれれー、てってん。
晶葉ちゃん印の特製イヤホン。
晶葉ちゃんはとても凄い子。なんたって私の補聴器をパワーアップしちゃうんだもの。
彼女のおかげで、より高価で高性能な補聴器に買い換える事もなく過せているから。
それに、私が今着けているこのイヤホン。
これはダンスレッスンやライブでメロディーを聴いて、それに合わせられない私の為に作ってくれた物。
専用の音楽メディアからのメロディーが私でもしっかり聞こえる程の大音量で再生出来るように無理を言って作ってもらった。そのうえ、なんといくら頭を動かしてもすっぽ抜けちゃう事のない、ダンサブルな方達御用達。
それでも、日に日にゆっくりと音は小さく、断続的に聴こえちゃうのだけれど。
さあ、ダンスレッスンの始まりです。
トレーナーさんがラジカセにスイッチを入れるのと同時に、私も音楽メディアのスイッチを入れる。
私の骨を通して流れ込んでくるメロディ。
センターの美優さんが、曲のかかり始めで静かに腕を上げて、イントロが盛り上がり始めるタイミングで、今度は留美さんが。
そして、メロディーがゆっくりと小さくなって、休符を挟んだ所で最後に私が。
一瞬の静寂の後、ばばーんと最初の儚げなメロディとは一変して、一気に激しい曲調になる。
えーと……。こういうの、なんて言うんだったかしら?
今後役に立つかはわからないけれど、もっとしっかり勉強しないと。
さあ、サビに入って振り付けがどんどん激しくなって、荒くなる呼吸。
右足、左足、そして右足を大きく回しながら1回転……。
センターで踊る美優さんの長い髪がひらりと揺らぐ様がなんと綺麗でしょうか。
今度は素早く足踏み。次は左右反転して。
上半身の腰の捻りと手振りを忘れてはいけません。
私の隣で踊る留美さんの、キレのある動きが見る人を魅了させる理由がわかった気がします。
けれども、うん、タイミングはばっちり。
私だけワンテンポ遅れる事も無く、美優さんと留美さんと共にひとつの歌を、ダンスを、ライブを完成させられる。
美優さんは、着実に実力をつけて今やこの3人のユニットのリーダーを張るようになった。
少し気弱で押しに弱いけれど、1度やると決めた時、彼女の眼差しはまっすぐな物になって力強い物になる。
留美さんは、そんな美優さんのサポート役。
流石はキャリアウーマン。お仕事の事や共演者の事。困った事があったら素早くフォローしてくれる。
相変わらず愛想がない、なんて言われてるけれど案外バラエティ向きで、どんなくだらないミニゲームにも本気で取り組む姿は、ふふっ……。
そして、私は。
今は、なにかしら。
美優さんは、着実に実力をつけて今やこの3人のユニットのリーダーを張るようになった。
少し気弱で押しに弱いけれど、1度やると決めた時、彼女の眼差しはまっすぐな物になって力強い物になる。
留美さんは、そんな美優さんのサポート役。
流石はキャリアウーマン。お仕事の事や共演者の事。困った事があったら素早くフォローしてくれる。
相変わらず愛想がない、なんて言われてるけれど案外バラエティ向きで、どんなくだらないミニゲームにも本気で取り組む姿は、ふふっ……。
そして、私は。
今は、なにかしら。
もともと、このユニットは私がセンターだったけど、症状の悪化に伴い美優さんとチェンジ。
仕方ないもの、ね。
そう言えばあの時、廊下でプロデューサーに私のセンターの降板を、ユニットの解体を考えると言われた時は、思わず泣いちゃったな。
仕方ないとは理解できていたし、私も周りの人に、ユニットの2人に介護を押し付けるような事になるなら、それがいいって。
せっかく3人で頑張ろうって意気込んで、一緒に歌って、踊って、飲んで。
みんなの結束を、私が崩してしまうなら。
ただ俯いて、涙を流している私の肩に優しく手が添えられて、私はそのまま抱きしめられた。
とても優しくて、柔らかくて、いい匂い。
それと同時に、私の耳に飛び込んで来た破裂するかのような高い音。
驚いて顔をあげると、右手を振り抜いた留美さんと、左の頬を抑えて後ずさるプロデューサー。
留美さんはプロデューサーを捲し立てるように、私をこのユニットから降ろさせないって、絶対に解散なんてしないって、この3人組のユニットで必ずトップに立つ、と。
その留美さんの鬼気迫るような剣幕に少し怯えた私を、美優さんは強く抱きしめてくれた。
2人の優しさと決意。
私はまだ見捨てられていない、って。
そう思うと、胸の奥底から噴き出す気持ちを抑えきれずに。
年甲斐もなく、みっともなく、臆面もなくさらに泣き続けた。
そんな私の頭を優しく美優さんが、留美さんが撫でてくれた。
けれど、私の耳は、症状は日に日に、誰が見てもわかるように、その機能は衰えていった。
本当に、本当に原因不明。
なぜ今になって凄まじい勢いで悪化していくのか。
私は1週間もしないうちに前の補聴器ではなにも聞こえなくなって、それで晶葉ちゃんにパワーアップして貰った。
けれども、それでも私の耳はどんどん閉ざされていって、その補聴器をつけていても今では静かな場所でないとよく聞き取れないほどに。
お仕事ではスポンサーさんやディレクターさんが話す言葉が聞こえなくて。
美優さんが必死に要点をメモにまとめて、留美さんが私に理解できるようホワイトボードいっぱいにお仕事の内容を書きまとめて。
そんなやり方を続けていたけれど、美優さんも留美さんも私の介護に疲れていく様は痛い程伝わった。
ごめんなさい、2人とも。
……なんて、少し前の事を考えていると、いつのまにかレッスンは終わっていた。
うん、踊りは完璧に叩き込めてるわ。
額に流れる汗を拭きながら、留美さんが私に向き直る。
『どう? 何かわからない事はある?』
ポケットから取り出したメモにボールペンでサラサラと走り書きをして私に見せた。
うーん、そうですね。周りの音がよく聞こえないです。
そう、自身でも聞き取れない声で答えた。すると留美さんは顔をしかめて私の頬を優しくつねった。
いひゃいです。留美さん。
手を放して、呆れた顔でまたメモに書き始めた。私が頬をさすっているのも無視して。
むぅ。
『ブラックジョーク、増えてるわよ。世間はそういうのに厳しいんだから気をつける事。』
留美さんはささっと書いたのに綺麗な字が書き綴られたメモを見せて、それをゆっくり私の頭へと振り下ろした。
多分、パシッ、という音を聞いて美優さんが振り返る。私の頭にメモ帳が乗っかっているのを不思議そうに見つめて、首を傾げた。
次のライブまでもう1週間。それが私たち3人での最後のライブ。
用意された舞台はあの765プロダクションのアイドル達もライブを行った、ドーム程の大きさでは無いけれど、私たち3人の為には少し大き過ぎるくらい。
ライブチケットも、正直高過ぎると思う程の強気な値段設定。
それでも予約分はすでに完売し、あとは僅かながらの当日券販売されるかどうかというもの。
数ヶ月前、ライブの開催が発表された時以上に、ここ最近大きな注目を集めている。
実質的な。私、高垣楓の歌姫としての引退ライブだもの。
ここでストップします。
また来週。
ーーーーーーーーー…………
あれからもう二時間レッスンを続けて、ようやく今日のダンスレッスンを終えた。
全身に滴る汗をシャワーで流して、乾いた下着とシャツと短パンに着替えるととても爽やかで清々しい気分になれる。
ロッカーの前でまだ髪を拭いている途中の美優さんを引き連れて、脱衣所に備えつけられた椅子に腰掛けてドライヤーを差し出す。
さあ美優さん。私の髪を乾かしてください。
そうジェスチャーすると美優さんは微笑みながら受け取ってくれた。
別に、いくら補聴器を外していようとドライヤーすら扱えないわけじゃあ無いけれど、たまには甘えたくなるものですから。
鏡の前でドライヤーの風を受ける。
美優さんは丁寧に私の髪を撫でるかのように、上から、下から。優しく温かい風でゆっくりと乾かしてくれる。
なんだかとっても気持ちよくて、自然とまぶたが重くなるけれど……。
どうしようかな。抵抗しようかな。
ちょっとだけ抗ってみようと思って目を無理に開いてみると、鏡に映る美優さんと目が合った。
美優さんも私が船を漕いでいた事に気がついていたようで、大人っぽくお淑やかに微笑み、ドライヤーを止めた。
私の肩に手を添えて、鏡に映る美優さんはゆっくりと語りかけてくる。
き も ち い い ?
口を大きく開いて、ぱくぱくと動かして、多分そう言ったはず。
もちろん。私の返事を待つ鏡の向こうの美優さんに口パクで返してみせる。
と っ て も き も ち い い で す 。
口の動きを読み取って、また微笑み私の頭を優しく撫でて、ドライヤーへ手を伸ばした。
私と美優さんは。ついでに留美さんも、ひとつしか歳は離れていない。
でもどうしてか、とっても甘えたくなっちゃうのは何故かしら。
甘えるふうに寄り添うと、それに答えるように甘やかしてくれる美優さんと。ちょっと厳しい所もあるけれど細かな所にも気を利かしてくれて、こんな不自由な私の手を取って引っ張ってくれる留美さん。
そんな2人とユニットを組めて、こんな私になっても変わらず支えてくれる2人が、みんなが大好き。
けど、ごめんなさい。私は嘘を吐いているから。
こうしてみんなとリズムに合わせて踊るのも最後。それどころか、ライブまで私の耳が生きていればいいなぁ。
充電済みの補聴器をポケットに押し込んで、私はドライヤーの風と優しい手から伝わる温もりに集中する。
機械の冷たさはいらないの。
人の温もりが欲しいから。
その日の晩はスーパーの見切り品の焼き鳥と、500ミリリットルの缶ビールを1本。それを3人で分け合った。
ライブの本番に向けて、余計なカロリーとアルコールの摂取は控えましょう。
そんな美優さんの提案に食い下がった留美さんが掲げた妥協点。
多少のガス抜きと信頼と絆を深めるべく、数日に一度だけ僅かな肴とお酒を酌み交わしましょう、と。
あの日私と美優さんが留美さんへ向けた視線をあえて言葉にするなら『それでいいのか』と、訴える眼差しだった。
けれど、あの提案のおかげで3人が少しでも心を開いて安らぐ時間ができたのは確かだし、お酒は弱いけれど飲みたがりな留美さんもストレスが解消できているようでよかったです。
ライブが終わればまた3人で、他のみんなと一緒にまた呑みましょう。
そう約束して私たちはタレ焼きのももとかわ、1人あたり200ミリリットルにも満たないビールを飲み干した。
酔いもしなければ満足も出来ないアルコールだけど、それを分け合っている時、3人の心はひとつになっているようでとても心地いいの。
その日の晩酌も、誰も声を出すことはしなかった。
ただみんな見つめ合って、はにかんで、それの繰り返し。
満足に話を聞き取れない私に遠慮をしてくれているのかもしれないけれど、私はそんなゆったりとした飲み会が大好き。
ずっとこんな飲み会ができればいいな、なんて。
明日はまた朝から本番のステージの上で予行練習。
もう3度目になるはずなのに、未だに初めてアイドルとしてステージに立ったあの日のように口の中が乾いて、身体が震えて、頭がくらりとしちゃう。
でも、このライブを用意してくれたみんなの為に、このライブを楽しみにしているファンの皆さんの為に、なんとしても仕上げないと。
明日に備えまだ23時前だけれども就寝。留美さんのお家で布団をみっつ並べて、川の字で寝ましょう。
布団の上に寝転んで、足をパタパタ振ってみる。お泊りのお布団の上は、なんだかとってもわくわくするの。
……はっ。
留美さんちでワクワクお泊り……。
うーん、ボツ。
留美さんの匂いがする枕に顔を埋めて、緑の瞳で美優さんを見つめる。
視線に気づいた美優さんが私の頬に手を添えて微笑んだ。そう言えばお母さんとお父さんに耳についての報告はしたけれど、まだ面とむかって話はしていなかったな。
心配しているんだろうな。ライブが終わったら実家に帰らないと。
今度は青の瞳で留美さんに目をやる。
すると、どうやら私が振り向くのを待っていたらしく、留美さんはぷくー、っとほっぺを膨らましてスタンバイしていた。
普段の大人で落ち着いた性格の留美さんがそんな顔をするなんて私は思ってもみなくて、小さく吹き出しちゃった。
留美さんは勝ち誇ったように両手を腰に当てドヤ顔で私を見下ろした。
その一連の動作まで、私は不意を突かれ枕に顔を押し込めて笑いをこらえる。
けど、面白すぎて吹き出しちゃいますよね。
さあさあ私も何か留美さんに仕返しをしたい所ですけど、どうしましょう。
あれこれ思考を巡らせて、一番のお返しは何かないでしょうか。
駄洒落? 変顔? くすぐるのもいいかもしれません。後は……。
そうだ、足つぼマッサージ。
私の足つぼマッサージはとっても気持ちいいと大評判……?
疲れて横になってる美波ちゃんを捕まえて施してあげたり、飲み会でダウンした友紀ちゃんなんかにやってあげるととっても甘い声をだすから。
ふふっ。よほど疲れがたまっているのね。
思い立ったがなんとやら、さっそく留美さんの足を目指して……。
そう思い腕に力を入れて起き上がろうとしたけれど、なぜだかとっても身体が重くて、身動きがとれません。
重い瞼に力を入れて、最後の力であたりを見回すけれど、優しい笑顔で布団をかけてくれる美優さんを青と緑で見つめて、そのまま力尽きた。
呼吸が深くなって、意識がとろんとして渦巻く中で頭を撫でられても、もうなにも反応できません。この手つきは、多分留美さんかも……。
途切れていく意識の中で、心の中で、せめて、こう、言わせて……。
おやすみなさい……。
ここで一旦ストップとします。
たくさん書き溜めてこんどいっぺんに放出するんだ!
そろそろひと月経っちゃいそうだし……。
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