佐久間まゆ「あいくるしい」 (13)
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「その瞳に吸い込まれそうだ」と彼が言った。
それが、私の心を掴んだ口説き文句。
指が踊る、指が躍る。
彼のコーヒーにはいつも角砂糖を二つ。
甘いものは疲れた脳に良いんだと、笑いながら言っていた。
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事務所で初めて会った時の、驚いた顔は今でも鮮明に思い出すことができる。
それから、「会いに来ました」と伝えた後の、とても困った表情も。
胸が躍る、足が踊る。
私の心は彼のもの、私の体も彼のもの。
初めてのレッスンで、私の笑顔を褒めてくれた。
初めてのステージで、私の歌を褒めてくれた。
いつでも貴方が隣にいたから、いつだって私は微笑んでいられたの。
左手首に巻き付けたのは、彼と私を繋ぐおまじない。
「固く二人が結ばれて、決してほどけませんように」……と。
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ちらつく雪の降る中で、マフラーと一緒に甘い贈り物を手渡した。
春の桜が舞う中で、柔らかな日差しに二人で微笑んだ。
夏の野外のステージで、汗だくになりながらアナタに向けて歌を歌い。
秋の寂しい街道を、二人寄り添って歩いたりもしましたね。
「君は俺の自慢のアイドルだ」と、頭を撫でてもらったこともあったっけ。
あの時は顔を真っ赤にしながら固まって、ドキドキしながら彼の手の、
その硬くて柔らかい不思議な感触に気持ちを集中させていた。
「綺麗だよ」と私の問いに答えながら、唇を重ね合わせたのはいつのことだったろうか。
愛しいアナタ、大好きなアナタ。
私の胸の高鳴りは、日に日に大きくなっていく。
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でも……いつしか彼は私じゃない、どこか遠くを見つめるようになっていた。
私の瞳をのぞき込む度に、彼の中身はどこか彼方へ溶け出していくようだった。
彼が恋をしていたんだと気がついたのは、二人が一緒になって長い時間が経ってから。
アイドルを辞め、ステージから降りて、歌を歌うことを忘れた鳥になってから。
歌わない鳥を見る、彼の瞳はとても冷たく……そして悲しくて。
恋の相手は、私だった。それも、彼の隣で愛を囁く私じゃない。
飾られた衣装を着て、きらめく微笑みを称え、輝くステージの上で愛の歌を歌う私。
アイドルとしての「佐久間まゆ」が、彼の恋の相手だったのだ。
「その瞳に吸い込まれそうだ」と言った言葉の通りに、彼は私に吸い込まれて行ってしまった。
私の中のもう一人の「まゆ」に、その全てを取り込まれてしまったのだ。
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いっそ死が二人を別っていれば、悲しみの記憶に溺れることもできただろう。
彼が他の誰かと結ばれていたのなら、嫉妬の炎にこの身を焦がすこともできただろう。
「愛してる」と言われれば、幸せになれると思ってた。
「愛してる」と囁けば、幸せにできると思ってた。
想い人と二人、愛し愛されることが生きる上での一番の喜びだと、そう信じて疑いもしなかった。
「固く二人が結ばれて、決してほどけませんように」
……左手首のおまじないは、確かに二人を結び付けた。
なのに、どうして、こんなにも……私の胸は苦しいの?
彼は、今でも私の中に「まゆ」を見る。
いつか再び出会えると、信じているから離れない。
私も、今でも彼の中に「愛」を注ぐ。
いつか彼の心を満たせると、信じているから離れない。
今宵も二人は埋めようのない溝を埋めようと、心と体を躍らせる。
あぁ、そんな彼が今でもとても愛しくて。
そしてだからこそ私は見つめられてないと知りながら、彼に向けてあいくるしく、微笑むのです。
指が踊る、指が躍る。
寂しい身体を慰めるように。
胸が躍る、足が踊る。
二人の心はまじない通り、満たされないことで固く結ばれて――――そして永久(とわ)に離れることもない。
タイトルの元ネタになった「あいくるしい」は名曲。
以上、お読みいただきありがとうございました。
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