モバP「ありすって名前、可愛いね」 (57)
「僕が今日から君のプロデュースをする事になった○○○だ。よろしくね」
私は目の前に差し出された、その手を見つめる。その手は大きくてゴツゴツとしている。
私は少し躊躇いながらも手を差し出した。プロデューサーは私の手を、両手で包み込むように握り返した。ニコニコと子供みたいに目を輝かせて私を見つめている。
きっと私の自己紹介を待っているのだろう。私は、重たい口を開いた。
「橘・・・橘ありすです。橘と呼んで下さい」
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「橘ありすちゃんかぁ。ありすちゃん、じゃ駄目かなぁ?」
プロデューサーは人が良さそうな笑顔を浮かべながら、不快な事を口にした。
「橘と呼んで下さい」
「ありすは駄目かなぁ?」
「嫌です」
プロデューサーがしつこく尋ねるものだから、思わず苛立った声を出してしまった。
プロデューサーは申し訳なさそうに眉をしかめる。
「そっか、ごめんね橘ちゃん
「私も、ごめんなさい。別に怒るほどの事でもないのに」
「あり・・・下の名前は好きじゃないの?」
「はい、だって日本人らしくないですから。恥ずかしいです、嫌いです」
「僕は好きだけどな。可愛いじゃないか」
この人は悪い人ではないのだろう。けれど、正直言って私は好きになれない。
他人との距離を気にせずに話して来るような人は、好きじゃないのだ。別に嫌いだというわけではない、ただ一定の距離を置いてくれないと不安になる。
まだ少ししか喋ってないが、このプロデューサーは、人との距離をとにかく詰めようとして来るタイプなんだと思った。
私とは逆に、他人との距離を無くす事で安心を得るのだろう。
「他人事だからそう言えるんです。プロデューサーだって、光宙なんて名前をつけられたら嫌でしょう?」
「それは嫌だな」
プロデューサーはそう笑った。
*******
玄関の中に入ると、台所の方から一定のリズムが聞こえて来た。
多分、ママが野菜を千切りしているのだろう。
靴を整理してから奥の方に歩いて行く。出来るだけ包丁の音に、足音を合わせるように歩いた。
トントントン、その音に合わせてトントントン、と鳴るように歩く。
台所まで行くと、ママの背中に向かって挨拶をした。
「ただいま」
ママは手を止めて、私に言う。
「おかえりなさい、ありす」
そして野菜を切り始めた。けれどすぐに何かを思い出したように、再び手を止める。
「今日はどうだった?」
そして笑顔で私に尋ねる。
「どうって、まだ挨拶をしたぐらいだよ」
「そう」
ママは何だかやけに機嫌が良い気がする。だっていつもよりもニコニコしている。
「何か良い事あったの?」
「どうして?」
「だって妙に嬉しそうな顔をしてるもん」
「んー、そりゃあ嬉しいわよ」
ママは、急に私の事を抱き上げ
た。
「わっ」
「私の可愛いありすがアイドルになるんだもの。とっても嬉しいわ」
「下ろしてよ」
「ふふ、ごめんね」
**********
冬の朝は好きだ。寒いのは嫌だけれども、冬の朝の凛とした空気が好きなのだ。
夏の空気なんかは大嫌いだ。
何だか自分の輪郭がぼんやりと溶けているように感じる。物と物との距離感が曖昧になる。
冬のキリッとした空気は、物をしっかりと浮かび上がらせていて落ち着く。
そんな空気を吸いながら、駅で電車を待っていた。口から出る息は、煙草の煙のように白い。
時間を確認しようとiPadの電源をつけようとすると、電車がやって来た。
空気の抜けるような音を立ててながら、電車の扉は開く。
早朝の電車にはあまり人がいなかった。
広い座席を私一人で使っていると、何だか贅沢な気分になる。
まるで私を迎えに、電車が走ってきたようだ。
そのまま数分間、電車に揺られて事務所の近くの駅までやって来た。
駅から数分間歩くと、大きなビルに挟まれた、大きくもなく小さくもない事務所に辿り着く。
事務所の中に入ると、部屋の中は暖かな空気が充満していた。
その中にポツンと、プロデューサーが一人で書類を書いている。
プロデューサーは少なくとも、暖房がこの事務所中を暖めれるぐらい早い時間から居たようだ。
「おはようございます」
プロデューサーはこちらに気づいて振り向き、柔らかく笑う。
「おお、おはよう橘ちゃん。早いじゃないか」
「プロデューサーこそ早いですね」
「ああ、アイドルが来る頃には部屋を温かくしてたいから」
「へぇ、優しいんですね」
「でしょー」
プロデューサーは�へらへら�その言葉がピッタリと似合うような、だらしない笑顔を作った。
「橘ちゃんは何でこんなに早いの?」
「別に特に理由はありません」
「そうか」
プロデューサーは机に向き直って、書類を書き始めた。
特に理由は無いというのは嘘だ。本当は今日が楽しみで早く起きてしまった。実はアイドルになれたのは、とても嬉しいのだ。
理由は決してプロデューサーやママには言えない。なぜなら私は学校に行かないで済むのが嬉しかったからだ。
アイドルとして忙しくなればなるほど、学校に行かないで済む。
そう思うと、早くアイドルとして売れたいと強く思う。
学校は嫌いだ。
というよりも、子供達が嫌いだ。
まあ、私も子供なんだけど。
学校の皆は、無神経で自分勝手で大嫌いだ。人を傷つけるような事を簡単にする。
きっと皆は馬鹿なのだ、人の痛みが分からないほどに。でないとあんな事はしないはずだ、できないはずだ。
「ありすちゃん」
「はいっ」
考え事をしていると、いつの間にかプロデューサーが隣に来ていた。
「お話ししよ」
「仕事は良いんですか?」
「大丈夫、それよりも美少女とお話しがしたいんだ」
「・・・ロリコンなんですか?」
「違うよ、可愛ければ何でもOKだよ。ロリもOKなんだ。ロリしか駄目な訳では無い。だからロリコンじゃないよ」
「節操なしですね」
へらへらと笑いながら言う言葉の、どこまでが本気なのか分からない。
「ありすって、名前が嫌いな特別な理由があるの?」
「昨日言いました」
「いやぁ、それにしても嫌い過ぎかなって。他に理由があるのかなと思ったんだけど」
「昨日言いました!」
二人しかいない事務所に、私の声がやかましいほど響く。
プロデューサーは、私が声を張り上げると思いもしなかったようで呆然としている。私だって声を張り上げるだなんて思わなかった。
子供は嫌いだけど、やっぱり自分は子供なんだなぁと思う。
こんな些細な事で、感情を昂らせるだなんて情けない。
「ごめんなさい。でもしつこいですよ」
「いや、僕の方こそごめんな。・・・しつこいようだけどさ」
まだ、この人は何かを言おうとするのか。
私はプロデューサーを睨む。
けれど、プロデューサーは少しも動じずに話し続ける。
「橘ちゃんの名前はありすなんだよ。いくら嫌おうとも変わらないよ」
「うるさいです」
「はい、ごめんなさい」
プロデューサーは背中を丸めて、逃げるように仕事に戻る。
嫌ったところで変わらない。だから何だと言うのだ。変わらないからこそ辛いのだ、だから嫌いなんだ。
********
「なあ、橘ちゃん」
運転席に座るプロデューサーが言う。
「運転中は喋らないで下さい。危ないですよ」
「橘ちゃんの事を話してよ」
「はい?」
「橘ちゃんをプロデュースする為に、橘ちゃんの事をもっと知りたいんだよ。だから教えて」
「私の事を話せって急に言われても・・・何を言えば言いのか」
「じゃあ自分の名前を毛嫌いしてる理由を」
プロデューサーを睨んでみたが、悪びれる様子は少しも無い。
「何で私の名前にそんなに、こだわるんですか?」
「橘ちゃんが、こだわるからだよ。だから何かあるんだろうなって、大事な事がさ」
プロデューサーはヘラヘラと笑って、それ以上は何も言わなかった。
本当にこの人はよく分からない。
「コンビニに寄っていい?」
「もう三度も寄り道をしてるじゃないですか」
事務所からもう、三種類ものコンビニに立ち寄っている。
そんなにコンビニが好きなのだろうか。
「・・・駄目?」
「駄目です」
「お菓子買ってあげるよ?」
「・・・駄目です」
「そうか、ハーゲンダッツでも買ってあげるのにな・・・」
「・・・これ以上の寄り道は無しですよ」
「ありがとうございます」
結局その後、二回コンビニに寄る事になった。
遅くなったから送って行こうとプロデューサーが言い出したのにその結果、余計に遅くなってしまった。
家の前で車から降りた時に、その事について文句を言うと。
「ごめんごめん」
とプロデューサーはヘラヘラ笑った。
「プロデューサーはヘラヘラとし過ぎです」
「そう?」
「そうです」
「可愛い?」
「可愛くないです!」
「まぁいいじゃない、いつも笑顔でいる事はさ」
「社会人なんですからもっと締まりのある表情を・・・」
「バイバーイッ」
プロデューサーは話の途中で帰ってしまった。
*******
目覚ましがなっている、起きなくてはいけない。
しかし今日は一週間ぶりの学校だ。それを考えると布団から出たくなくなる。
そう思ってグズグズとしていると、ママが部屋に入ってきた。
そして目覚ましのアラームを止める。
「どうしたの、ありす?」
「学校に行きたくない」
そう言いたいけれど、口にしたら
きっと心配をかけてしまうだろう。
「なんでもない、少し眠たかっただけ」
そう言って、布団から出た。
「そう」
「うん」
「ご飯できてるわよ。早く降りてきてね」
「はーい」
*******
学校へ向かう足は、やけに重たく感じた。足が地面に吸い付いているようで、一歩を踏み出すのが大変だ。
学校に近付いて来ると、同じ制服を来た子供達が増えてくる。
それを見ると、更に足は重たくなる。
クラスの子達に出会わないようにと願いながら、教室を目指す。
どうせ教室に行けば会う事になるのだから、無駄な事なのに。
教室のドアを開けると、一瞬みんなが私の事を見た。
私の身体は石像のように固まってしまう。けれど、だんだんと視線が逸れていくのにつれて、身体は自由になる。
でも最後まで私の事を、ジッと見てくる子達がいた。
その子達の中で一番偉そうな娘が、私に近付いて来た。
「おめでとう!」
「・・・何が?」
「先生から聞いたよ、アイドルになるんだって。何でもスカウトされてすぐデビューって凄いんでしょ。よく知らないけど」
「ありがと」
「ねえ?アイドルするなら、学校に来ないんだよね?」
その娘は私に同意を求めた。これは疑問ではない。私に尋ねている訳ではないのだ。
Yesと答えるんでしょ、と強引に返事をを求めているのだ。
「あまり来れなくなるけど。全く来ないわけじゃないよ」
「えっ、なんだ。なんで?なんで来るの?」
「義務教育だし」
「いや、そういう事じゃないから馬鹿」
彼女は嗤いながら、彼女の位置に戻って行った。
私が学校を嫌いな理由は簡単だ。
私は虐められているから。
だから学校は嫌いなのだ。
別に皆がイジメてくる訳ではない。クラスにいる三、四人のグループの女の子達だ。
だけども、イジメてくるのはその子達だけだけど、他の子が庇ってくれるわけではない。
彼女達の事を恐れて、誰も助けてくれようとはしない。
私を馬鹿にした目で見てくる子達は三、四人だ。だけどクラスの殆どの子達が、可哀想にと哀れんだ目で見てくる。イジメられている子、として私を見ている。
それが惨めで悔しかった。
一年前、イジメっ子のリーダー的ポジションにいる女の子と喧嘩をした。どんな事で争い出したのか覚えていない。それほど些細で下らない事だったのだろう。
でも、何故争ったのかは重要じゃない。その娘と争った、その事が重要だ。
「ありすって、外国人かよ。あんたの母さん馬鹿じゃないの?」
その言葉がイジメの始まりだった。その時、私は怒ってまた言い争いをした。そして私を庇ってくれたり、彼女に注意をしてくれる子がいた。
そして、その子達も酷く貶され、傷付けられた。
その次の日も私は似たような事を彼女に言われた。
そして、私を庇ってくれたり彼女に注意をしてくれる子が昨日よりも少なくなった。
そして次の日も、似たような事を言われた。
その時、私は彼女と喧嘩をしているのではなく、彼女にイジメられているのだと気付いた。
そして、周りの子達もそれに気付いた。
それ以来、学校は嫌いで。子供が嫌いで。私の名前が嫌いだ。
私の名前が違ったところで、彼女は何か文句を付けてイジメて来ただろう。
それは分かっているけれど、嫌いだ。嫌いなのだ。
**********
チャイムが鳴り、お別れの挨拶をする。それと同時に、私は急いで帰る。靴箱までは早歩きで、靴を履いてからは走った。
門を出ようとした時に、後ろからランドセルを引っ張られてコケる。
「いたっ」
「ははっ、やっぱ馬鹿」
後ろから耳障りな笑い声が聞こえて来た。振り向くとニヤニヤと笑うあいつ達がいた。
「なに走ってんの?逃げてるの?」
「違う、今から急いで事務所に行かなくちゃいけないから」
「はははっ、嘘つき。逃げるならそのまま国の外に行けよ、どうせ滞在許可はないんでしょ」
周りの子達が私達を避けながら通り過ぎてく。でもしっかりと見ながら行く。様々な学年の子達が、私の事をイジメられている子だと思いながら過ぎて行く。
「煩い!私は日本人だ馬鹿!!」
その視線に耐えられなくて、つい怒鳴ってしまった。
彼女は眉間に皺を寄せ、私を突き飛ばす。
「なに調子こいてんだよ、日本人もどき」
「すいませーん」
その時なんだか間抜けで、ひょうひょうとしている声が聞こえて来た。
イジメッ子達は声のした方を見て、身体を強張らせる。
そこにはプロデューサーが、ヘラヘラと笑いながら立っていた。
流石に彼女達も、大人にイジメている現場を見られて萎縮していた。
「そこのイジメられてる子、ウチのアイドルだから連れてくよ?」
「えっ、あの、イジメとかじゃ」
彼女は、分かりきった嘘を吐いた。
プロデューサー彼女を見て、ヘラヘラとわらったまま。
「いや、イジメてたでしょー。嘘を吐くなよ、泥棒になっちゃうぞ」
と言った。
そして私はプロデューサーに引っ張られて、車に乗る。
********
「・・・なんで来たんですか?」
「んー、なんとなくね思ったんだ。名前が嫌いなのは、それでイジメられてるかなって、俺の体験談からね。そう思い出したら気になっちゃって、ちょっと見に来た」
まあ本当にそうだとは思わなくてビックリしたよ、とプロデューサーは笑う。
「母には言わないで下さい」
「何で?」
「心配かけたくない」
「本当に?」
「はい?」
プロデュサーは前を向いて運転したままで、もう一度言った。
「本当に心配かけたくないから言わないの?」
「・・・本当です」
「僕には、君が恥ずかしいから言わないように見えるんだが」
「違います」
プロデューサーの言葉に被せるように否定した。
けれど否定してから、そうなのかもなと思い始めた
私はママに虐められてると知られたくないから、今まで隠していたのかもしれない。
心配かけたくないというのが、嘘な訳ではない。でもそれ以上に、恥ずかしかったからなのかもしれない。
「もしも橘さんが本当にお母さんの事を思っているなら、ちゃんと言いなさい」
プロデューサーは相変わらず、締まりのない顔をしている。
でも声の調子がいつもよりも落ち着いていて、大人らしい喋り方だった。
「お母さんなんだ、心配ぐらいさせてやりなさい」
「・・・」
「あと思った事をちゃんと言うんだ。きっと普段から言葉を選んで喋っているんだろ」
「・・・私はもう小さな子供じゃないんです。それぐらい私が決めます」
「そう言ってる内は子供だよ」
プロデューサーは口を少し開けたままで固まっている。
何かを言うべきかどうか、迷っているようだ。意外だ。プロデューサーは思った事をそのまま口に出す人だと思っていたから。
「橘さんは俺と似ている」
そして迷った末に、突拍子もない事を言い出す。
「そんな事ないです」
「やっぱり言われると思った」
なんて言いながら苦笑している。
予想出来たという事は、自覚があるという事ではないか。
一体どういうつもりなのだろうか。
「昔のね、僕に似てるんだよ。そっくりだ」
「プロデューサーに、私の事を理解出来てるとは思いません。私の嫌がる事をしますし」
「子供っぽいのを嫌うのは、皆と馴染めない事を正当化する為なんだろう?私は皆よりも大人だから仕方がないって」
「違います」
「橘さんが他人と距離を取ろうとするのは、怖いんだろう?また、傷付けられるんじゃないかって。自分が傷付けてしまうんじゃないかって」
プロデューサーの言葉は私の深いところまで入ってくる。私ですら気付いていない気持ちに、話しかけて来る。
誤魔化して、見ないようにして来た気持ちを曝け出させられる。
少し気分が悪い。
だから苛立った声で。
「違います」
と、否定をした。
「橘さんは何かと理由をつけて、逃げているんだ」
「違います」
「橘さんは臆病なんだ」
プロデューサーの言葉を、私は聞きたくなくて。だから、少しずつ私は俯いていた。
「・・・違う」
「橘さん」
だから周りの景色を見ていなくて、いつの間にか家に着いている事に気付かなかった。
プロデューサーに肩を軽く叩かれ、そのときに顔を上げて気付いた。
「着いたよ」
「は、はい」
「橘さん、いつまでも逃げていたいなら逃げていればいいさ。でも後悔するよ」
私はプロデューサーの言葉から逃げるように、急いで車から降りた。
「例えば君のお母さんは、明日死ぬかもしれない」
「死にませんよ」
プロデューサーを見ないまま、小さな声で反抗する。
「僕は後悔した」
聞き覚えのない酷く冷たい声が、後ろから聞こえてきた。
驚いて振り向けば、そこにいるのは悔しそうに笑っているプロデューサーだった。
「明日が必ずあるだなんて思っちゃ駄目だ。君にも、お母さんにも明日が来る保証なんて無いよ」
プロデューサーは辛そうな顔を、無理矢理に歪めて笑う。
「僕は後悔したんだ。だから今の僕は、後悔しないように余計な事を君に言うんだ」
僕はもう後悔したく無いから、そう言ってプロデューサーは帰って行く。私はなんとなく、小さくなっていく車を眺めていた。
すっかり見えなくなってしまうと、後ろを振り返り家を眺めた。
「明日が来なかったら・・・」
*******
「いただきます」
テーブルの上には、パスタがある。シーフドパスタだ。
私の好物の一つだ。最近はほぼ毎日、私の好物が食卓にある気がする。
「・・・いただきます」
「あれ何だか元気ないわね、ありす?」
「ん、・・・うん」
私の返事を聞いて、ママは眉を曇らせた。
「どうしたの」
ママは、まっすぐ私の事を見つめて尋ねる。私はママは何て言うべきか、何て言いたいのか、よく分からなくて俯く。
「どうしたの?」
「・・・あの、ね」
「うん」
ママは私を包み込むような優しい声で答える。
「もし、も、明日が来なかったら」
「うん」
「私はどうしたら、良いのかな?・・・・・・ごめん何を言いたいのか分からないよね」
自分でさえ、いま自分が何を言いたいのか分からない。真っ白な頭で只々、思った事を口に出している。
ママはうんと答えた後、数秒考えて「どうしたいの」と私に尋ねる。
「分からない」
どうするのが正解なのだろう。私はちゃんと、ママに言うべきなのかな。私は虐められてるって、私はママのつけた名前が嫌いだって。
「そう、じゃあ・・・ご飯を食べましょう」
「え?」
「もしも明日が来ないなら、食事はこれが最後よ。温かくて美味しいうちに食べましょう」
「うん」
私は静かに、目の前にあるパスタに手をつけた。
「アイドル活動はどう?」
「楽しいよ、色々不安もあるけど、楽しい」
「そう、学校は?」
私は黙ってしまう。するとママは食事の手を止めて、こちらを見る。
私は恐る恐る口を開いた。
「好きじゃない」
「何で?」
「・・・虐められているから」
ママまで黙ってしまった。
ママは一体何故、黙っているのだろうか。かける言葉が思いつかないのだろうか。
私は今までばれないように隠していたから、急すぎて驚いているのかな。
「私ね」
「うん」
「ありす、って名前が嫌いなの」
言いづらい事を言うのに少し慣れたのか、先程より楽に口から言葉が出た。
「うん」
「私ね、よく名前をからかわれて虐められてるの。ありすって、日本人らしくないって」
「うん」
「だから嫌いなの」
私の声が小さな部屋に響く。
ママは自分に言い聞かすように、うん、と言った。
そしてゆっくり口を開けた。
「私ね、私の名前が嫌いなの」
そして突然そんな事を話し出した。
「昔、虐められてたの、男みたいな名前だって。だから私の娘には、可愛い名前を付けてあげようって思ったんだけど。そっかあ、私は馬鹿だね」
私は何て言えばいいか分からなくて、ただ黙っている。
「・・・ごめんね、ごめん。私は少し馬鹿だから、変な名前を付けちゃったね」
ママは笑顏を作りながらも、目に涙を貯めていた。
私はやっぱり子供だ。
いくら大人ぶっていても、子供なのだ。私が私の名前が嫌いな理由は、きっと違う名前だったら虐められなかったかもと思ったからだ。そんな事を理由に、自分の名前を嫌ってしまうほど子供なのだ。
「ママ、私ね思いだしたんだ」
「なに」
「私は私の名前を好きだったことを」
そうだ。私は好きだったのだ。
私の大好きなママがつけてくれた名前が。
それになにより単純に可愛いから。虐められてから、すっかり忘れてしまった。
「ごめんね、ママ。ホントだよ、本当に嫌いだけど同じくらいに好きだったんだ」
********
「おはようございます」
早朝の静かな事務所で、一人仕事をするプロデューサーへ挨拶をする。
「うん、おはよう橘ちゃん」
プロデューサーは、パソコンから目を離さないままで挨拶を返す。
私はプロデューサーの真後ろに立つ。
「なに?」
「昨日プロデューサーが余計な事を言ったせいで、私は変な事を言ってしまいました」
「そうか」
「ママは泣いちゃいました」
「そうか」
「でも大事な事を思い出しました」
プロデューサーは、キーボードから手を離して振り向く。
「何を思いだしたの」
「私は私の名前を好きだったんです。私が私の名前を嫌いなのと同じくらい」
「へえ」
「多分、少しずつもっと好きになれると思います」
「良かったね橘さん」
プロデューサーの大きな手が、私の頭を撫でる。
何だか気持ちが良くて、つい笑顔をこぼしてしまう。
「ようやく子供らしく笑ってくれたね。その方が可愛いよ橘さん」
仕事に戻ろうとするプロデューサーのシャツの裾を、私は掴んで引っ張った。
「なに?」
「・・・あの、ありすと呼んで下さい、プロデューサー」
プロデューサーは優しく微笑んで、また私の頭を撫でる。
オワリ
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