雨の夜、飼われない猫。(13)
凍えるような秋の夜更けに、傷だらけの猫を庇って雨に打たれている。
でも、猫はけっきょく死んでしまって、夜の雨粒に濡れたせいで自分も風邪を引いて高熱を出してしまう。
女の人生は、そういう状況になりつつあった。
手遅れの猫にかかずらっていたが為に、彼女は多くの時間とチャンスを失う。
その損失を取り戻す機会はどこにもない。過ぎたものは永遠に失われる。
その猫が、女に何をしてくれるというんだろう。
猫は愛想の良い鳴き声もあげなかった。喉を鳴らすこともしなかった。
べつに離しても離さなくてもかまわない、どちらでも同じことだと言うみたいに、そっけなく接していた。
それでも女は猫から離れなかった。義理立てするように、義務を果たすように、債務を履行するように。
でも、猫は感謝すらかけらも示そうとはしない。
心地よいぬくもりに甘えていたくせに、一緒にどこかに向かうことを恐れていた。
いつか、どこかに置いて行かれる気がして。
撫でてもらうと安心したくせに、それを認めたら自分じゃなくなるみたいに拒絶していた。
誰かに一度甘えたら、甘えずにいられた自分に戻れなくなるような気がして。
誰かに甘えて、誰かのぬくもりを与えられて、その相手を失ったら、もう生きてはいけないだろうと悟っていたから。
本当は、そのまま誰とも触れ合わずにいても、生きてはいけないと知っていたはずなのに。
そんなことはとうに分かっていたことで、あまりに今更のだったから、猫は平気なふりをして、女のそばを離れることにした。
だってそれは、猫の身には有り余るぬくもりだったのだ。
汚れた毛並みに澱んだ瞳。邪気のない子供ですら穢れを厭い、近付こうとはしない。
そんな猫のために彼女の時間は浪費されるべきではない。
猫を抱くにしたって、もっと毛並みのいい、愛想のいい猫を選ぶべきなのだ。
その猫は彼女を満たしてくれるだろうし、幸せな気分にしてくれるだろうし、傷を癒してくれるかもしれない。
そんな、普通ならできるはずのことですら、その猫には困難だった。
ささやかなぬくもりは、猫にとって気持ちのいいものだった。
それに対して返せるだけの何かをもたないなら、自分はすぐに彼女のもとを離れるべきだ。
それが、猫の考えたことだった。
「おまえは、いつも黙っているね」と女は言う。
「なにが、そんなに気に入らないの?」
猫は答えない。
「本当は、わたしのことも嫌いなの?」
違う、と猫は言いたかった。
それでも鳴き声ひとつあげることはできない。
嫌いじゃないと、そう言うことができたなら、女は猫のかたわらに、ずっと居てくれただろうか。
問いかけようとも思えずに、そんなはずはない、と猫は頭の中で否定の結論をくだした。
「寒いね」
そう、ここはとても寒いのだ、と猫は思う。
こんな場所に彼女が居続けなければいけないのは、ひとえに自分がここにいるからだ。
抱えられた膝の間からするりと抜けだすと、女は奇妙なものを見るような目で猫を見た。
かまわずに歩き出す。雨は弱くなりはじめていたし、傷の痛みにも慣れ始めていた。
大丈夫、まだ歩くことはできる、と猫は思う。行きたい場所なんて、どこにもないけれど。
「どこにいくの?」
力ない、弱々しい声。猫はうしろを振り返らなかった。ただの強がりだと、見透かされていそうなものだ。
猫は一歩一歩、静かな足取りで、雨の夜を歩いていく。
追いかけてくる声はなかった。ほっとしているのか、それとも傷ついているのか、猫にはわからない。
どちらにしても身勝手な話だ。
そのまま曲がり角に消えようとした猫の体が、不意の力で宙に浮かび上がった。
「ね、どこにいくの?」
後ろから、女に抱き上げられた猫は、一瞬、考えを硬直させる。
けれど次の瞬間に、猛然とその場から逃げ出したくてたまらなくなり、地面に降りようと必死に体を暴れさせた。
「あっ」
と声がして、猫の体が地面に転がる。
見上げると、女は自分の手の甲を見つめていた。三本ならんだ引っかき傷が、猫の位置からでもかすかに見える。
赤い血が滲む。女は感情の抜け落ちたような目で猫を見た。なにがなんだかわからずに、猫は居てもたってもいられなくなってて、駆け出した。
「ねえ、待って!」
そんな声が猫の耳に届いたけれど、今度は女が追いつけないほど速く逃げることを決めていた。
雨も、体中の傷も、まったく気にならなかった。
ただ女の手の甲につけた傷だけが、赤い熱にも似た痛みを前足の爪の根本に宿している。
しばらく走って、物陰に隠れてから、これで女は自分を嫌いになっただろうと猫は思った。
軽蔑しただろう。失望しただろう。怒りを感じただろう。
そう思うと猫は安心した。
一度軽蔑されてしまえば、失望されてしまえば、怒りを抱かれれば、それ以上ひどいことは起こらない。
猫がその場を去ってしまったしばらくあと、女のもとにひとりの男がやってきた。
「どうしたんだ、こんなところで」と男は言う。
「猫がいたの」
男はあたりを見回してから、「どこに?」と訊ねる。
「もう、いなくなっちゃったけど、傷だらけだったの」
「……それで一緒に濡れてたわけ? 風邪ひいても知らねえぞ」
「なんだか、つらそうだったから」
「心配だけど……仕方ないだろ。放っておけよ、猫なんか」
男は、わざとらしい冷たい調子でそう吐き捨てて、
「帰ろう、寒いだろ」
女に手をさしのべる。
彼女はうれしそうに微笑むと、静かにその手を取って立ち上がり、男と並んで歩き始めた。
猫はその夜を眠れずに過ごしてから、翌朝、痛みに軋む体を引きずって、昨夜女がいた場所に戻った。
晴れやかな秋空の下に、昨夜の女の姿はどこにもない。
これでよかったんだ。猫はそう思う。
昨日の雨で濡れたままの道を、不格好な四本足で踏みしめながら、猫は自分に言い聞かせる。
これでよかったんだ。これでよかったんだ。他にどうしようがあった?
これでよかったんだ。
猫は繰り返す。猫は声もあげずに歩く。
ぬくもりは毒のように体を蝕む。けれどもう戻れはしない。
損失を取り戻す機会はどこにもない。過ぎたものは永遠に失われる。
猫は機会を不意にしたのだ。他でもない自分の手で。
こんなことを何度繰り返すのだろうと猫は思う。
さて、どこかにいかなくては。
傷がじくじくと痛む後ろ足を引きずりながら、猫の姿は朝の街に溶けていく。
一日ははじまり、誰かの隣には誰かがいるが、ひとりでいるものの隣には誰もいない。
猫の動きは、どんどんと鈍く、重く、遅くなりつつある。
猫は好きでそれを選んだのだ。誰の同情も買えやしない。
猫の姿が街路から消えてから、時間が流れるにつれ、人々の声や気配が街のなかにざわめきはじめる。
ジョギングをする女、飼い主のひきずるように走る犬、公園へと向かう子どもたち。
そこにたしかにいた猫のことなど誰も知らないままに、一日は当たり前にはじまっていく。
おしまい
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