【咲-Saki-】傘マークの恋模様 (16)
・明華×智葉
・地の文あり
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1417081305
水滴が線を引きながら絶えず窓を滑り落ちている。窓の外は薄く青、無色の水滴に
遮られて景色は歪んでしか見えない。ガラスを叩く雨粒の音。昼間から降り出した雨
は秋という季節も相まって肌寒いが、故郷のことを思い出させる。このところの急激な
気温の下がり方はフランスと同じもののように思えた。
水滴が滑る様はなめらかだが、途中で軌道が逸れたりしてなかなか思うようになら
ない。視界の不透明さも相まって胸の内に言い知れない不快感が立ち、渦を巻く。いっ
そ車のワイパーのように手のひらで拭ってしまいたい。しかし雨に濡れているのは窓
の外面であり、内にいる限りはどうしようもならない。それも一因となってもどかしさが
増幅する。ここで暢気にしていていいのかという、これまた言葉にしづらい焦燥感――
と、そんなことを思っていると突然、頭のてっぺんが軽く叩かれた。驚いて窓から視線
を外すと、机の横に教師が立っていた。
「雀さん? 何をぼうっとしているの?」
彼女の声は怒っているというより呆れている様子だった。教室に忍び笑いが湧き立つ。
「……すみません」
「最近どうしたの? 睡眠不足?」
「そういうわけでは……」
「なら、授業中はちゃんと集中してくださいね」
言って教師は手に持ったプリントを明華の頭から下ろし、踵を返した。明華は窓を一瞥
してから黒板に顔を向けた。黒板の三割程度しか進んでいないはずだったが、既に数式
は端から端までを埋め尽くしていた。相当長時間呆けていたらしい。慌ててシャーペンを
手に取った。板書を写そうとしてノートに視線を落とすと、真っ白なページの端に落書きが
あるのが目に留まった。日本に来て二番目に覚えた言葉だった。
『智葉』
あまり上手とも言えない字でそう書かれていた。最初に覚えたのは「辻垣内」。――辻
垣内智葉。明華が留学しているこの臨海女子高校の麻雀部の部長の名。いや、「元」部
長という方が正しい。明華よりひとつ年上の彼女は今年の全国大会を終えて部を引退し
たため、今はもう部長ではないのだ。
首がひとりでに窓に向こうとしていることに気付いて、明華は内心かぶりを振った。そも
そもの始まりはこの落書きだった。無意識に手が動いて智葉の名を綴り、物思いに耽る
流れで窓を向いたのだ。今度もまたそうすべく窓に目を向けようとしていた。消しゴムを
取って落書きを消す。
黒板に向き直ると、板書は全て消されていた。
☆
帰りのホームルームが終わって、明華は教室を出た。
普段はクラスメイトたちと談笑してから部室へ向かうのだが、今日はそんな気分ではな
かった。実のところ、今日だけでなく最近はずっとそうだった。友人と話していても――楽
しくないということはないが、味のない料理のようなものだった。何かが物足りない、そん
な感じがしていた。
廊下を抜けて部室に行く。近づいても人の声がなかったので明華は首を傾げた。到着
してドアを開けてみると、中には誰もいなかった。一番乗りなら鍵がかけられているはず
なので、先に誰かが来ていたが今は席を外しているのだろう。
それでも新鮮な気持ちで明華は部屋を見渡した。いつもホームルームが終わっても教
室でゆっくりしているせいか、彼女が来るときは大抵部活が始まっていくらか経った後だっ
た。三年生が引退したことも誰もいない原因のひとつだろう。部室に足を運ぶ人数が減れ
ば、そこに先着している人数も少なくなる。二つの偶然が重なったことでほぼ奇跡的に、
明華が一人で部室にいるという状況が出来上がったのだった。
当然と言えば当然だが見渡してみても誰の姿もなく、気配もなかった。部屋の照明はつ
いておらず、雲に閉ざされた外からはくすんだ青の色しか入ってこない。南向きにずらりと
並んだ窓には雨粒が叩きつけられ、枝垂れのように細い線が連なっている。外から入り込
む雨音以外に何の物音も立たない。雨音は雑然と響いているが静謐そのもの、まるで氷室
のようだと思った。
電気はつけないまま部屋の中央にまで歩くと、ふと寂寞としたものを胸の内に覚えた。部
室はこんなにも広かっただろうか。雀卓がところせましと並べられ、窓際の隅には掃除用具
入れとホワイトボード、その前にミーティング用の広いテーブルがある。普段なら部室は打
牌や話し声が入り混じって賑やかで、それを発する部員たちが席についていた。それがい
なくなるだけでこんなにも物寂しくなるものかと思うと底冷えする気分だった。
鞄を所定の場所に置いてもまだ誰も来なかった。足は勝手にミーティング用のテーブルに
向かった。ホワイトボードに対して垂直方向に伸びる白い長テーブルで、椅子が左右に二つ
ずつ置かれている。最後の一つはホワイトボードに向かい合う面に置かれ、それが部長で
ある智葉の指定席だった。
何となくその椅子を引いて、座面に指を滑らせた。
冷えた感触が、指の腹に残った。
☆
明華はふらふらと廊下を歩いていた。部活でも上の空で対局に集中できず、監督には
帰れと命じられた。明華自身気乗りしていなかったので大人しくそれに従った。
廊下は白々しい照明がかえって不気味さを漂わせている。小さく響く運動部の掛け声
が遠くの方から聞こえてきた。雨天なので屋内でトレーニングに励んでいるのだろう。大
して興味も持てず階段を降りた。
下駄箱が並ぶ玄関に出て、自分のクラスの場所へ歩いていると、視界の端に人影が
引っ掛かった。ただの人影なら無視するところだ。しかしその後ろ姿には見覚えがあった。
数歩後ろに下がる。下駄箱には3―Aと書かれていた。
足音に気付いたのか、人影が振り返った。
「――明華?」
後ろ姿だけでも分かってはいたが、智葉だった。背に垂れている黒の長髪は清らかで、
まさに大和撫子といった風情。こんなにも美しい髪の持ち主はそういないので見間違えよ
うもない。振り向いた顔は少し驚いたような色を交えているが、それでなお凛々しい。醸し
出されている雰囲気はとても十八歳とは思えないほど洗練されていて、それは人格にも
よく表れている。
(そうです……)
智葉はいわゆるカリスマで、明華にとっては監督よりも頼りになる存在だった。留学して
きた当初も積極的に話しかけてくれた。明華が特別だったというわけではなく、智葉が麻
雀に真摯に向き合っているからこその行為だったようだが、それでも親元を離れて遠い島
国に来た身にとってはとてもありがたかった。
それ以外にも、彼女に関するエピソードは枚挙に暇がない。慣れない場所を歩いて迷っ
ていたところを探しだしてくれた。あと少しで練習試合が始まるという時間で寮まで迎えに
来てくれた。授業は日本語で進むから分かりづらいと言ってねだってみると勉強を教えて
くれた(もっともこれは一緒にいたいという口実に過ぎず、授業はちゃんと理解できていた)。
思い出してみればまだまだあるだろう。
明華は今年度からの留学生であり、日本に来たのは前年度の三月だった。智葉と出会っ
てからまだ一年も経っていないが、それすら待たずに彼女は卒業してしまう。同じ学校にい
るのに、彼女が部を引退しただけで顔を合わせる機会は激減した。まして卒業ともなると滅
多なことでは会えなくなるだろう。現時点でも辛いのにそんな未来が予想できてしまうのが
もっと辛い。最近色々なことが手につかないのはそのせいだった。
「……明華? おい、明華?」
ハッとして、目の前の智葉に向き直った。手につかないとは、まさしくこのような状態を指す。
「どうかしたのか?」
「い、いえ」
「そうか。だがどうしてこんな時間にここにいるんだ? 部活はどうした」
明華は口ごもった。目を泳がせながら言い訳を探す。麻雀に集中できなくて帰れと命令さ
れたなど、正直に話せば嫌われてしまうのではないかと思われた。
「少し……体調が悪くて」
「……そうか」
返答に少し間が空いたが、どうやら疑われずに済んだらしい。
「保健室には行ったのか?」
「い、いえ。そんなたいした事でもないですから」
「そうか。だけど体調には気を付けるようにな。今日は寒いし、温かくして寝ろよ」
「……はい」
ほんの少し罪悪感もあったが、優しい言葉をかけられた嬉しさの方が勝った。
「じゃあな」
「はい。おやすみなさい」
智葉は振り返った。もっと長く一緒に話していたかったが彼女も受験生なのだから仕方がな
い。時間を取るのもよくないだろう。
せめて見送るくらいはしようと思って智葉の後ろ姿を見ていると、彼女の手に傘が握られて
いないことに気が付いた。そのまま外に出ようとするので、慌てて声を掛ける。
「サトハ、傘は?」
足がぴたりと止まる。明華に背を向けたまま彼女は答える。
「……家に忘れた」
明華は瞬いた。
「サトハが?」
「……昼から突然降ってきたからな」
「天気予報では昼から100%と言っていましたけど……」
「………」
ひとりでに頬が緩むのが分かった。完全無欠のクールビューティーに見える智葉も人の子だ。
天気予報を見ず朝の陽気だけで判断してその結果帰宅の際に困るなんて、案外かわいいとこ
ろもあるものだ。この時間まで学校に残っていたのも、雨が止むのを待っていたからではないだ
ろうか。
「サトハ、私傘持っていますから入っていきませんか?」
「いいのか?」
「はい。待っていてください、すぐ戻ってきます」
意気揚々と自分のクラスの下駄箱に向かい、靴を履き替え、傘を持って智葉のもとに戻った。
「さあ行きましょう!」
玄関を出て傘を差す。薄い紫の生地が朝顔のようにぱっと開いた。左側のスペースを空けて
智葉を招くと、彼女は明華の腕に提げられているものを指差す。
「その傘は使ったら駄目なのか?」
「これは日傘ですから!」
勝ち誇ったように言う明華を見て、智葉は軽くため息をついた。
☆
家まで送っていくと言う明華に対して智葉は寮まででいいと頑なだった。彼女の家は学
校から近い方で、それゆえ徒歩通学だったが、寮よりは遠い。
「体調の悪い奴に送らせるなんてできるはずないだろ」
そう言われてしまえば嘘を言っている手前口答えはできず、結局なし崩しに寮までという
ことになった。寮に着いたらせめてこの傘を貸して見送ろうと心に決めておく。
二人の歩幅はなかなか合わなかった。傘を持っているのが明華なので彼女のペースに
なるが、智葉は「もう少し速く」と言う。そうすると智葉との時間が短くなってしまうが、彼女
も受験生なのだから仕方がないと自分を納得させ、明華は言われたとおりにする。しかし
それでも智葉はまだ遅いと言う。それを数度繰り返していると、明華の方も次第に面白くな
くなってくる。確かに智葉にはこんな悠長にしていられる時間はないだろうが、明華もちゃ
んとそれを慮っているのに。
むすっとした様子でやたらに足を速めると、智葉の方が折れた。
「もういいから。悪かった」
その一言を引き出すと、明華は一転して機嫌がよくなった。呆れる智葉の横で鼻歌を歌っ
たりする。そうして、ようやくまともに話をすることができた。
「サトハは勉強の具合はどうですか?」
「順調な方だな」
「大学でも麻雀するんですか?」
「そう考えてる」
だいたい予想はできていたことだが、本人の口から聞かされてほっとした。同時に、胸の
奥が温まる心地がした。会えなくなったとしても、この一点で繋がり合っていられるのだ。
「大学は……ええと、東京のところですか?」
「希望はな」
「どういう意味ですか?」
「まだ行けると決まったわけじゃないってことだ」
「でもさっき順調と言ってたじゃないですか」
「現時点では、だ。本番で失敗する可能性もある」
智葉の言葉を飲み込んで、明華はうつむいた。智葉はあらゆる面で優秀だった。だがそれ
は培われた結果であることを明華はよく理解していた。対局中にミスをするところを目撃する
こともあった。だが智葉はそれと向き合い、すぐに修正していた。そういう積み重ねが彼女を
優秀たらしめているのであり、ミスを決してしないというよりは、極力しないという言葉の方が
彼女には似合っていた。
だからこそ最後まで、ミスをするという可能性を完全には捨てきれない。万が一そうなって
しまい、その結果受験に失敗してしまったりしたらどうなるだろうか。今まで以上に勉強漬け
の生活になって、大学へ進学した場合よりも会う機会が無くなってしまうように思えた。
「……大丈夫ですよ、サトハなら」
「ああ」
交差点に差し掛かった。信号が赤だったので足を止めると、智葉が傘のシャフトを握ってきた。
「ずっと持たせてて悪かったな」
「……はい」
手を離し、傘を智葉に委ねる。彼女がシャフトからハンドルに持ち替えると傘が揺れた。周囲
に水が飛び散る。
「そっちはどうなんだ」
「え?」
「部活」
目の前の車の往来が止む。信号が青に変わり、智葉が歩き出した。慌てて明華も足を動かす。
「監督から聞いてる。最近集中できてないらしいが」
「そ、それは」
「今日も集中できなくて、だから帰れとか言われたんじゃないのか?」
図星を突かれてどきりとした。咄嗟に首を横に振る。
「違いますよ、今日は体調が……」
「嘘が下手だな」
「………」
智葉が溜め息を吐く。
「言及されるたびそんなに分かりやすく反応してたら誰だって分かる」
「……私そんなに反応してましたか」
「してた」
今度は明華が溜め息を落とした。
「すみません……」
「まぁ、私はもう麻雀部とは関係ないからな。別に問い詰めようとは思わん」
思わず足を止める。傘の下から出そうになって、慌てて智葉が数歩下がった。
「……問い詰めてください」
智葉が首をひねる。沈黙に、雨の落ちる音が響く。
「サトハがいなくなってからなんですよ。私が集中できなくなったのは」
「………」
「いつも部室にはサトハがいたのに、その普通がなくなって、だから私……」
「……明華」
薄紫の傘の下、狭い空間の中で、智葉は明華に向かい合った。傘と鞄で両手が塞がっており、
どうしたものかと思案していると、明華が智葉の胸に飛び込んだ。彼女の鞄が濡れた歩道に落ちる。
「おい、明華」
その声色は柔らかかったが、明華は肩を震わし始める。
「サトハがいなくなるのが、寂しいんです……」
雨に掻き消されてしまいそうな細い声で彼女は言う。少し間を置いて、足下で音が立った。
智葉の鞄もまた地面に放り出され、彼女は空いた手を明華の背中に回す。
「……そんなに心配するな」
「……え?」
「卒業しても、大学に行っても、ちゃんと見に行ってやるから」
明華が離れて、涙が浮かぶ目で智葉をまじまじと見つめる。
「お前たちは大切な仲間だから、それは私がどこへ行っても変わらないよ」
「サトハ……」
感極まって、明華はもう一度智葉に抱きつく。その背中をぽんぽんと叩きながら、困ったように智葉が呟く。
「……周りの目もあるから、もうやめろ」
そばを歩く通行人は興味深げに二人を眺めていた。しかしそれを聞いても明華は恥じる様子もなく、
まして離れる様子もない。それどころか、こんなことを言う。
「もうちょっと……」
智葉は、もう何度目かになる溜め息を吐いた。
☆
「着いたぞ」
寮の前のポーチに入って、智葉は傘を下ろした。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそな、ここまで傘に入れてもらって」
「あ、帰るまでその傘使ってもいいですよ」
「いいのか?」
「はい。そうしたらまた明日、サトハに会えますし」
「傘立てに突っ込んでおく」
「ええ~……」
心底残念そうに肩を落とす明華を見て智葉は笑った。明華は恨めしそうに顔を上げるが、
何かを思いついたように急に笑顔になって、智葉に抱きついた。
「おいっ」
首を引き寄せ、頬にキスする。離れて見てみると智葉は呆れたようにしていたが、顔は微かに赤らんでいた。
「怒ってますか?」
「……じゃあな」
くるりと背を向け、智葉が傘を開こうとする。しかし何かに気付いたように、空を見上げた。
「……やんだな」
空はいつの間にか明るくなっていた。雲の切れ目から太陽の光が射し込み、灰色の雲を背景にして帯を作っている。
アスファルトに広がる水たまりがそれを映して眩しく光っていた。
「やっぱり傘はいい」
「それは残念です……」
智葉は傘を明華に手渡し、ポーチから数歩前に出て、そこで振り向いた。
「また明日な」
一瞬あっけにとられたが、斜陽の下で微笑する智葉の顔を見て、明華もとびきりの笑顔を返した。
「はいっ」
徐々に雲が晴れて明るさの度合いも上がっていく。きっと明日には、綺麗な朝日が見られることだろう。
おわり。
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません