ホラー?
短編です。
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その扉には鍵は掛かっていない––––。
何か物が置いてあるわけでもないし、壁に描いたフェイクというわけでもない。何の変哲もない旧い扉だと云うだけで、開けようと思えば開けられるのだ。
しかし。
開けようとすれば大きな音が立つ。
大変に建て付けが悪い。その扉の軋む音が、まるで警告音のようになり不法に誰かの家へ侵入するような、何とも言えない罪悪感を喚起させるのだ。
だからと云って開けられない––––という訳でもないのだ。
ご多分に漏れず、鶴賀学園にも七不思議と呼ばれるものがある。
独りでに鳴る音楽室のギターだとか、下校途中に襲ってくる巨女の話だとか、どれも他愛のないものだ。ほとんどの話は、人づてに聞いたという文句の割に、その情景が妙に凝っており、ともすればアンバランスに幼稚な設定だったりする。要は、怖がらせるために作られた与太話に過ぎないのだ。
だが。この扉の話は––––。
開けてはならない––––だから、開けずの扉なのだ。
と、云う身も蓋もない一文があるのみであった。
開けてはどうなるだとか、開けた人がどうなっただとか、そういう話が一切無い。ただ、開けてはならないという短い忠告があるのみであった。
そもそも、開かずならぬ開けずなのだ。
開かずの扉なら、それは古くなって扉が壊れただとか、鍵が無くなっただとか、又それらしく呪いが掛けられてあるだとか、如何にもな理由が付けられる筈だ。この話なら扉だけで成り立つ。
だが、これは開けずの扉なのだ––––。
開けようとすれば開けられるのに開けないのだ。扉に対して人が居なければ、開けずという文句は成立しない。
つまり、こっちの話は扉と人との関係がなければ成り立たない。
誰に対して––––。
何故、開けてはいけないのか––––。
怖がらせる為の作り話だとしても、他と比べ、ここまで説明不足である必要もないだろう。いや、あえてたった一文のみという他の練りに練られた話と特異性を出すことで、何とも理解し難いと云う恐怖を演出する効果になっているのかもしれない。
現に、私はその効果に嵌っているのだから––––。
普段ならそんな馬鹿馬鹿しい作り話なんかには、興味を示さない。それが麻雀部の部室にあるからと云って、別に何とも思わない筈だ。
蒲原はきっと興味を示すだろうが––––。
ふと、私の頭蓋の中で、蒲原の顔が反転して笑った。
何故か逆さになった。
扉は我が麻雀部の片隅にひっそりと佇んでいる。
麻雀部の部室は、左隣りに多目的室、右隣に音楽室がある。その音楽室と麻雀部の中間辺りに畳三畳ほどのスペースがあり。扉はそのスペースへの入り口のように、麻雀部の音楽室側の壁に掛かってある。
このスペースは、学校の地図で見てもただ無意味な空白があるのみであり、外から見ても、そのスペース分だけ不自然に窓の無い白壁があるだけだ。
なのに、誰もこの謎のスペースについて不思議に思う者が居なかった。そういう私も、この扉を見付けた時にやっと、この不可解な室の存在を意識し始めた。
扉だって、今の今まで気づきもしなかったのだ。
同じ部室に居ながら、その存在に気が付かないとは、まるで––––私はそんなことを思いながら、扉に手を掛ける。
扉は片開き戸となっていて、木製の作りに鉄製のドアノブがついている。やはり錆び付いている為、廻すのも手間が掛かる。
やがて扉は、ぎぃぎぃと酷い音を奏で始めた。この部室だけではなく、隣の––––いや、学校中まで響き渡りそうな厭な音であった。
私は拙い、と思い扉を開けるのを止めた。
それも、すぐ隣の音楽室ではブラスバンド部が練習をしているのだ。この頃は、秋期の演奏会も相まって朝早くから、夜遅くまで部活動が行なわれている。それなのに、隣でこんな不快な音を出せば苦情が入る。
私は今日の処は、扉の事は置いておくことにし、部室を離れることにした。窓を閉め、電気を消し、自動卓の電源も確かめる。
凡てが終わり、さて鍵を掛けて帰るか、と思いふとまた部室を見渡した。
扉は暗がりの中で、カーテンの間隙を縫って入ってくる僅かな光を反射してぼうと浮かび上がっていた。窓のすぐ外は、人気の無い山中になっているので人工の光はまず入ってこない。だから光源は月や星などの、自然の光だけである。
暗がりの扉は異様な存在感を放っていた––––。
今まで気付きもしなかったのに––––。
一度、気にすれば扉の存在感は風船のように大きく膨らんで行く。
まるで––––と思いながら、部室の鍵を掛ける。
すっかりと陽が落ちたというのに、まだ隣から演奏音が響き渡っている。流行の曲なのだろうか。それとも、古い有名な曲なのか、私には判らない。私が気にし始めた時から、何度も同じ曲を演奏しているような気がする。
何か間違えたのか、曲は途中で区切られまた頭から演奏を再開する。
多分、この時間帯の校舎には遅くまで練習をするブラスバンド部と、職員室の教師達、そして私の他には残っていないだろうと思う。
蒲原も睦月も、今日は用事があると早くに帰ってしまったからだ。私はと言えば、つきっきりで妹尾の麻雀を見ていて、その妹尾も習い事があると云って私より先に帰っていったのだ。つまり、今は私独りであった。
賑やかな演奏があっても、それでも独りの校舎はうら淋しいと感じた。普段人が集まる場所で、独りというのは、それだけで余計に心細くなるものだ。
蒲原「開けずの扉?」
私は次の日に、蒲原に噂の事を話してみた。蒲原はいつもの調子でワハハと笑い答えた。
その顔は。
––––逆さまじゃないな、と思った。
何故だろう。
蒲原「あぁ、確か鶴賀七不思議の––––」
ゆみ「知っていたのか。なら–––―」
開けたことはあるのか––––と、尋ねてみた。
蒲原は、ワハハと一呼吸置いて、
蒲原「いや、無いな––––。どうしてだろう、部室にそんなものがあるのに今まで気付きもしなかったな。まぁ、ごちゃごちゃと物が置いてある部屋だからな」
その、ごちゃごちゃと置いてある物の大半は蒲原の私物である。私がその事を指摘すると、
蒲原「こりゃあ、一本取られたなぁ」
と、笑いながら片手で頭を軽く叩いた。
何を取ったのかよく判らないが、兎も角蒲原のいつものおとぼけにはほとほと困らされる。
ゆみ「お前ですら開けた事が無いのか、睦月や妹尾はどうだ?」
私は、同じ部室で卓を磨いていた睦月と妹尾にも尋いてみる事にした。
睦月「いえ、開けたことなんてありませんね。というより、そんな話知りもしませんでしたし、扉の存在だって今日、先輩に聞いて初めて意識しましたよ」
睦月は答えた。続けざまに、
佳織「私も七不思議の話は友達から聞いたことがありますが、開けずの扉なんて、初めて聞きましたよ」
妹尾も睦月と同様の返しであった。
蒲原は二人の話を聴くと、徐に立ち上がり、
蒲原「ワハハ。なら、今ここで開けてみるしかないじゃないか」
と言って、扉に近付いて行った。その様子を見た妹尾は、
佳織「ねぇ、智美ちゃん大丈夫?開けたら何だか変な物が出てきたり、呪われたりしない?」
蒲原「ワハハ。まさか、そんな物ないさ、お化けなんて嘘さ。それどころかもしかすると鶴賀に伝わる財宝が眠っているかもしれないぞ」
妹尾は扉のことが少し怖いようだ。そんな妹尾に蒲原は、根拠のない自信を見せた。蒲原は、開けゴマ豆腐、と蒲原オリジナルの呪文を唱えながら扉のドアノブへと手を掛ける。
私は、
ゆみ「待て、今の時間じゃ校舎に沢山の人が居る。扉は旧いから開けようとすれば、とても大きな音が響く。周りに煩瑣がられても仕方ないから、開けるのは陽が落ちて校舎に人が少なくなってからにしよう」
と、蒲原を制した。
睦月「そうですよ。今日はブラスバンド部の部活動も休みですし、陽が暮れてからの方が良いですね」
睦月も同調してくれた。
睦月「それに、ほら今だって一応部の活動時間ですし、部活をしないと……」
睦月は卓の方を横目で見る。蒲原は、
蒲原「ワハハ。なるほどな、流石時期部長」
と、言って卓へ座った。
蒲原と私は、共に三年で本来なら部を引退している時期なのだ。しかし、睦月への部長の引き継ぎもあるし、妹尾もまだまだ初心者だ、我々が指導しないと。
秋も中頃を迎え、段々と陽が暮れるのも早くなる。ふと、辺りを見渡せばもうこんなに暗くなっている、吹く風も涼しくなってきた。夏はもうとうに過ぎたのだな––––と、今更ながらに思い知らされる。
夏か。
あの夏は、いつもより早く過ぎ、いつもより濃密であったように思える。
麻雀部として初めてインハイに出場し、準決勝へ進出し、そこで久達と出会い、結果負けはしたが悔いの残らない素晴らしい試合が出来た。
新学期が始まっても、夏の残暑と時折吹く涼しい風が私にあの時を、まるで昨日のことのように思い出させてくれる。そして、いつの間にか一ヶ月が経ち、涼風の心地よい季節になった。
あの夏は––––。
やがて、陽がすっかりと落ち校舎に残っている人も疎らになる。
今なら。
扉を開けても、何ら問題は無いだろう。迷惑を掛ける心配のある隣人達は今は居ない。多少、煩瑣しても大丈夫だ。
蒲原「それじゃあ、扉を開けてみるか」
やはり、一番に乗り気なのは蒲原であった。妹尾はそれを不安そうに眺める。睦月も同様だ。私も––––やはり、そわそわしていた。
ゆみ「あぁ、開けてみよう」
部室に変な緊張が漂う。
一体感という奴だろうか。
こんなくだらないことなのに––––。
蒲原が扉のドアノブに手を掛けると、またぎぃと厭な音が立った。心なしか、この間より大きいような気がする。いや、明らかに––––。
あまりの大きさに、睦月が耳を塞ぐ。蒲原はそれを見ると一瞬躊躇したが、睦月の私は大丈夫です、という返事を訊き再びドアノブを廻した。蒲原は扉を引く。錆び付いていたので重いのか、なかなか開こうとはしない。だが、感触はあるらしく、そのまま引こうとする。
数ミリ––––動いた。
やはり、扉は開く––––。
扉はぎぃぃと鳴る、音はどんどん大きく不快になっていく。
なぁ、蒲原。
私は音の洪水の中、蒲原に話しかけた。
蒲原は、何だいゆみちん。と、私の声に答え、扉を開ける手を止めた。だけれど、私はその時、上手く喋ることが出来なくなっていた。蒲原はなおも怪訝そうに私の顔を見る。
そして––––ドアノブを離した。
扉を開けるのを止めたので、音も止む。
私は。
あの不快音の海の中で––––。
声が。その時、声が聴こえたのだ。
幻聴––––なのかもしれない。
いや、幻聴だ。
不愉快な騒音の最中に、聴こえる筈もない声が聞こえるなんて、別におかしくない。空耳という奴だろう。
だが。
すっかりその場はお開きとなった。
蒲原「仕方ないな。また今度にするか」
明らかに私の様子が変だと、蒲原は察したのだろう。
私はすまないと、何故か謝ってしまった。私は、三人に無用な心配を掛けたのだ。
睦月も妹尾も、そんな私の姿を見て、先輩が気にするようなことではありませんよ、と笑っていた。そもそも、こんなこと遊びじゃないですか、と。蒲原も笑って言った。
蒲原「扉を開けるのは、また今度にしよう。もう遅いし、早く帰ろう」
ワハハ。と笑ってはいるが、蒲原も私の様子が気がかりなのか、何度も体調は大丈夫かと、聞いて来た。私は、本当に大丈夫だと返した。
もう、月があんなに高くまで昇っていたのだ。
虫の音も奏で始めた。
外には、涼しい風が吹いている。
私達は部室を後にする。戸締まりをし、鍵を職員室へと返し、四人でぞろぞろと歩いて帰宅する。扉の話はしなかった。別にそう、取り決めた訳ではないけれど、暗黙の了解というやつか、みんなその話には触れようとしなかった。
だけど私は。
ふと、学校の––––麻雀部の部室の方に振り返った。
こちら側からは、別の校舎の影になって見えないのだけれど。
あの、扉が––––部屋の片隅で、月の光を浴びて浮かび上がる様が、思い浮かんだ。
それから、なんだかんだあって、扉を開くことはなかった。
勿論、扉は以前と同じくその場所に鎮座していたのだけれども。不思議と誰も気にする様子はなかった。あの蒲原さえも––––。
そもそも、段々とこの時期は忙しくなってきて、扉を気にする余裕もなくなってきたのだ。
隣のブラスバンド部では、大会が目前と迫っているのか、その練習は日ごとに激しさを増していた。朝は早くから、夜遅くまで––––とても、音楽室が空くのを待っていられるようではなかった。
他にも、文化祭が近付いて何やら多目的室を使用する生徒も増えたし。麻雀部も、睦月と妹尾は一応コクマに出場する為に練習しなければならない。練習を見るのは蒲原と私だ。
だから––––扉なんかに構っている時間はなかった。
みんな、忘れていたのだ––––。
あの日以来––––。
だけど私の頭の片隅には、なおもあの扉の存在が大きく占めていた。
忘れたふりをしているだけで––––忘れられなかった。
そんな思いも、雑多な日常の流れに身を流して気にしないふりをした。そうした方が良いと、私は何故か考えたのだった。
こうして、また時が過ぎて行く。
そして。
私は、何故かまた扉の前に立っていた。
蒲原も、睦月も、妹尾も、先に帰ったのだ。私は用事があると、ここへ残った。用事などある訳がないのに。
どうしても、私は扉が気になるようだ。
その頃には文化祭の準備も一段落し、秋季のブラスバンドの大会も終わった後であった。だから校舎には、人影は少ない。
だから今なのだ。
だけど、私は––––何もせず、ただ立ち尽くしていた。
開ければ終わる。ただ、それだけなのに––––。
その時、
「先輩––––」
と、鈴を転がすような声がした。
私は当然、予期せぬ呼び声にびくりとする。蒲原か––––いや、睦月か妹尾か。あるいは、
「どうしたんっすか。こんなところで––––」
桃子か。
桃子は、すうっと私の傍へ迫ってきた。
ゆみ「いや、何でもない––––」
モモこそ––––と、私は言った。
桃子は、クスクスとただ笑った。
私はその笑顔が、とても愛らしいなと場違いな感想を抱いた。
はて––––。
私は、ずっと前にこの笑顔を見たことがあるぞ、と思い出した。それも部室で。
いや。そもそも毎日会っているはずなので、笑顔を見る機会など幾らでもあるのだけれど。
秋でもない。
夏だったかな––––。
いや、もっと前だ。部室にはクーラがあり、七月の下旬から使用が許される。私がこの笑顔を部室で見た時は、まだ、それほど暑くはなかった。
でも。
秋のことなら、そんな昔ではない。
しかし、昔のことなのだ。
しかもそれは逆さまだった。
何故逆さまなのだ––––。
止めよう。
記憶なんて、そんなものなのだ。
想い出は、浮かんでは消える幻。嘘と真の綯い交ぜ。真実ではないと、そう決まっている。
「先輩。何を考え込んでいるっすか––––」
桃子の声がする。耳元で鈴を転がしているようだ。その音は、薄く薄く霞んで行くようだと思った。まるで遠くから呼んでいるかのように––––。
ゆみ「すまない。本当に何でもないんだ」
「嘘だ」
私は一瞬、鼓動が高鳴ったとした。
「開けずの扉。先輩これがきになっていたのでしょ?」
と、桃子は言う。続けて、
「開けずの扉は開けてはならない––––だから、開けずの扉」
ゆみ「知っていたのか?」
桃子はまた笑った。それは、優しく息を吹きかけるようであった。
「開けずの扉は、呪いっすよ––––」
呪い––––。
ゆみ「なんだ、呪いだなんて。馬鹿馬鹿しい……」
やはり、私が知らないだけで、そのような譚があるのだな。
少しだけだが。
急に、扉が他の七不思議と大差が無いように感じられてきた。所詮は怖がらせるためのでっち上げだと。
開ければ呪われる––––だとか、呪いを封じ込めている––––だとか、多分そんな話が付くのだろう。私はそのようなことを桃子に話した。
「違うっす。開けてはいけない––––それ自体が呪いっす」
ゆみ「開けてはいけないのが呪い––––。なら、開けられないのか?」
いや、現に私達は何度も開けかけてはいるのだ。
「いえ、開けられるっすよ」
ただ––––それ自体が呪いなだけだ。と、まるで要領の得ない問答が続いた。
ゆみ「なら、開ければ呪いも消えると言う訳か……」
「そうっすね。開ければ、呪いも消えます––––それが呪いなのですから」
誰に聞いたのだ。
と言うと、桃子は私も風の噂っす、と答えた。
窓も開いていないのに、どこからか風が吹き始めたように感じた。
桃子の白い手が、にゅっと私の手首へと伸びてきた。
白い。
死人のように冷たく白い手だ。
今まで外にでも居たのだろうか。外の外気に曝されていたのか、金属が冷えたような凍える手だ。
「さぁ、先輩。開けてみるっす」
私は、あぁ、と気のない返事をした。
意表を突かれた気がしたのだ。
もう、開ける気などさらさらなかったのに。開けたところで、どうにもならないと判っていたのに––––。
しかし。
こうなっては開けるしかない。
ドアノブを握りしめる。
あの、ぎぃと云う扉の軋む不快な音が鳴り始める。
桃子は、以前くすくすと笑っていた。
私の手を掴み乍ら––––。
『一年A組で––––』
聞こえた。
声だ。あの声だ––––あの時と同じだ。
桃子の声じゃない。他の誰かの、それも一人ではない複数の違った声が交互に聞こえる。
『––––事件』
その声は、別に知らない声でもなかった。
『––––飛び降り自殺』
『遺書には––––』
『誰も私を見付けられない、って––––』
その時、扉のほんの隙間から逆さまの笑顔が見えた。
逆さまの––––。
桃子の笑顔だ––––。
私は––––。
大声で叫んでしまった。
そして––––。
扉は再び閉じられた。
夏に入るほんの僅か前。
我が校で飛び降り自殺事件があった。
飛び降りたのは一年A組の生徒だと言う。
彼女は、苛められていたそうだ。それも、理由など些細なほんの取るに足りないようなことでだ。彼女の何気ない行動が、そのクラスの中心人物の気に触れたのだとかなんとか––––。
苛めは。直接的にやられるようなことは少なかったらしい。ただ、徹底的な無視をそれもそのクラスだけではなく、隣の、その隣のクラスまで徹底的に。
彼女は存在しないかのように扱われたのだ––––。
自殺は昼前に行なわれたのに、自殺した跡が見付かったのは翌日の早朝である。
彼女の飛び降りた形跡からすると、一階の一年の教室は丁度、移動教室で生徒全員居なかったのである。二階の三年の教室も同様。たまたま一階と二階は留守であり、たまたま飛び降りる瞬間を見られなかったのだ。
そして。
三階は、我が麻雀部と音楽室の間––––つまり、あの謎のスペースがある場所である。
だから。
死体は翌朝まで誰にも発見されることがなかったのだと言う。
騒ぎは翌朝に起こった。
あの朝は、学校中が蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていたので良く憶えている。飛び降りた時間から、生徒に昨日の様子を聞きに来る先生もいた。
しかし、誰も昨日彼女を見ていないと言い張った。
私は––––。
そうだ、丁度独りで麻雀部の教室に居たように思う。
部室は、まだそれほど暑くはなかった。今年は冷夏だったので、暑くなり始めるのも大分遅かったのだ。窓を開けただけで丁度良い気温になったのだ。
だから何となく外を眺めていたのだけれども––––。
それ以外のことは何も憶えていない。
忘れてしまったのだ。
そうだ、あの時––––扉なんてあっただろうか。
思い出そうとしても、記憶がぼやけてしまっていては何も思い出せない。
ただでさえ夏には麻雀部初のインハイや、新部員の勧誘など色色とあったのだ。記憶は混濁し、何もかもが不明虜だ。
ただ。
何故か私は今の今まで、この事件を記憶の底へ封印していたのだ。
翌日、蒲原に昨日のことを話してみた。
蒲原「そうか、モモが……」
勿論、桃子と会ったこともだ。
蒲原は、いつものようにワハハと笑って、
蒲原「で、扉は開けたのか?」
と、聞いて来たので、私は勿論開けたと嘘を吐いた。
ゆみ「中は––––何もなかった。空っぽだ。大方、昔倉庫か何かに使っていたのだろう」
蒲原「そうか。なんだ、しょうもないなぁ」
隠された秘密の書物があると思ったのに、と冗談めかして言った。
勿論、あの中なんて私は知りもしない。
だが、何の根拠もないが多分何もない空っぽの部屋だというのは当たっていると思う。
あの扉は––––開けずの扉が本体なのだから。
後から来た睦月にも妹尾にも、昨日のことを話した。やはり、蒲原と同様の反応であった。みな、それ程気にしていなかったようだ。
やっぱり、気にしていたのは私だけか。
それから何日も経ったが、扉のことを気にする者は一人もいなかった。
扉も、開けられた形跡がないことから、もう誰もその扉を開けようとした者はいないのだろう。みんな扉を忘れ、気にしなくなり、ついには扉の前には物が置かれた。
そうやって、私達は扉のことを完全に雑多な日常の片隅へと追いやってしまったのだ。
そうして、また幾日か過ぎて行く。
最近、あの麻雀部と音楽室の間のスペースが少しだけ、広くなったように感じる。気の所為だろうか––––。気の所為さ、と蒲原は言う。
こうして––––。
私達の日常に、完全に扉は消えていなくなった。
幾日か経ち秋は深けていく。風もこの頃は刺すように冷たくなってきた。時が経てもなお扉は以前、麻雀部の部室に確かな存在感を保っている。
窓を開けると、風とともに桃子の囁く声が幽かに聞こえてくる。
「開けないっすか––––先輩」
私は。
開けないよ––––。
と、風に向かって呟いた。
カン––––。
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