男「結婚おめでとうって、あの子に言っといてください」(214)


◆ プロローグ


「『僕』が『君』と出会ったのは、いつだったっけ。
僕らが、まだ赤ん坊の頃だったかな。
それとも、幼稚園や保育園に通っていた頃だったか。

いや、違うな。

ああ、思い出した。
高校一年の頃だ。
あの日は高校の入学式だった。

いい日だったよ。
薄桃色の花びらが、アスファルトの道路に
へばりついてて、低く垂れ込めた雲から雨が降ってた。
うんざりするほどの傘が、狭い道路を埋め尽くしててさあ、
そのときの僕は、あまりいい気分じゃなかったんだよ」


「なんでって、そりゃあ
今まで仲のよかった友達と、離ればなれになっちゃったからね。
まあ、『あいつ』とは一緒だったけど」

「そんな日に、僕は君を見つけたんだ。
君は数人の友達と、楽しそうに笑いながら歩いてた。黄色い傘を差してたよ。
よく憶えてる。初めて君と出会った日のことだからね」

「ん、これは出会ったとは言わないのか。
僕らが実際に会話をするのは、それから数ヵ月後だね」

「そのときの僕の目には、
君だけが別の世界から来たものみたいに見えたんだよ。
綺麗だった。ほんとうだって。いや、今も見えてるよ。

たぶん、そのとき君は僕のことを、
モブのようにしか見ていなかっただろうね。
もしかしたら、僕なんて見えていなかったのかも。
でも僕は、ずっと君を見てた。ずっと目で追いかけてたんだ。

まあ、今はそんなこと、どうでもいいね」

「僕は今、とても幸せだよ」


なんてさ。
夢の中の僕はそんなことを言うんだよ。

ばかみたいだ。


◆ 1(現在1)


悪夢を見てたよ。
あれは、僕らが……いや、『僕』がいちばん幸せだった頃の夢。

……頭がズキズキする。
カーテンの隙間から射す陽がまぶしい。
朝だ。最悪だよ。

僕は、そのあたたかい春の日差しから目を逸らすようにして、隣を見た。
左隣。『君』が眠っていた場所。
振り向いたら、君がいるような気がしたけど、そんなことはなかった。

もう君は、僕の隣にはいないんだよね。


僕は布団から這い出て、部屋の戸を開けた。
焼けた卵の匂いが鼻腔をくすぐる。
思いっきり息を吸い込んだら、猛烈な喉の渇きと、空腹を覚えた。

そういや、君が僕んちに泊まりに来たときは、
いつも僕より早く起きて、パンと卵を焼いてくれてたっけ。懐かしい。

「ああ」

口をひらくと、ため息のような掠れた声が出た。
口内が粘ついて、気色が悪い。思わず咳き込んだ。
さっさと朝食を済ませて、仕事に行かなくちゃ。

……仕事かあ。学生に戻りたいよ。
時間を巻き戻せればいいのに。


僕は薄暗い廊下を歩きながら、リビングへ向かった。
足の裏からは、痛いほどの冷たさが伝わってくる。
昔、僕が住んでた狭いアパートの床と同じくらい冷たい。

あのアパートの冬の寒さは、今思い出しただけでも身が凍りそうだよ。
炬燵がなければ、僕は凍死してたんじゃないかな。いや、炬燵があっても寒かったんだけどね。
でも、隣に君がいるときだけは、寒さなんて全く気にならなかった。懐かしい。

ん、なんだか今日は、君のことばっかり思い出すな。どうしてだろう。

まあいいか。
僕はかぶりを振り、リビングへのドアに手を掛けた。


…………。

……僕が布団から出て大きなあくびをすると、
君はいつも笑いながら「おはよう」って、さ……。

懐かしいよ。

……ああ、思い出した。

そういや今日は、君の結婚式だったね。


◆ 2(回想1)


あのとき――はじめて『君』と話したとき、
『僕』は、椅子に座りながら本を読んでいた。
小さな教室には、約四十の机と椅子があったけど、
半分以上が空席だった。
昼休みだったからね。きっと、みんな学食にでも行ってたんだろう。

まあ、僕は自分のクラスに馴染めなかったんだよね。
この高校で唯一の友達である、
『あいつ』のところに行くのも、なんだか気が進まなかった。

いや、僕とあいつは別々のクラスだったし、
たぶん、あいつには新しい友達がいるだろうと思ってさ。
邪魔しちゃ悪いかなって。


要するに僕はひとりぼっちだったんだよ。
そんな僕が昼休みにどうするかっていうと、
寝たふりをするか、別の場所に逃げるか、
本を読むかくらいしかなかったと思う。
僕には、それくらいしか思いつかなかった。

それで、僕は本を読んでた。
もともと本は好きだったし、別に苦でもなかったからね。

そしたら、『君』が目の前に現れた。
僕らの始まりは、こんな安っぽい、
まるで出来の悪いショートストーリーみたいな出会いだったんだよ。


「本、好きなんですか?」

「へ? あ、ああ。うん」

初めての会話はこんな感じだったかな。
いきなり声をかけられて驚いたなあ。
思わず、読んでた本を、栞を挿まずに
閉じちゃったんだよ。なんでだろうね。

いや、でも、憧れの人が
僕の目の前に立って、笑ってたんだ。そりゃあ驚くよ。

「君も好きなの? 本」

僕は平静を装ってたずねた。
ほんとうは、死ぬほど緊張してたんだけどね。

「うん、そうなの。あの、その本、なんてタイトルですか?」


あまりの勢いにたじろいだよ。

僕が紙のブックカバーをはずして、表紙の文字を見せると、
君は嬉しそうに小さくジャンプして、
延々とその本について喋り続けたんだ。

「おお」
「いいですよねえ、このお話」
「この作者さん、好きなんですよ」
「ちなみに、この本のラストはですね……」

そのときの君の目は輝いてた。
とても楽しそうだった、と思う。

僕はその姿に見惚れてた。
もう、二度と君のこんな顔を
見れないかもしれないって思ってたからね。
必死で目に焼き付けたよ。
教室の喧騒の中にいるのも忘れるほど必死だった。


気付いたら、昼休みも終わりかけていた。
二~三十分くらいかな、君はずっと喋ってた。
もっと君の話を聞いてたかったけど、
楽しい時間はすぐに終わっちゃうんだよね。

チャイムが鳴ると、君はようやく黙って時計を見た。

「ご、ごめん。つい……」

君は頬を赤らめて言った。
たぶん、僕の頬も赤かったと思う。

「い、いや、びっくりしたけど、楽しかったよ」

ほんとう、びっくりしたよ。
まさか、ネタバレまでしてくれるなんて。まだ読んでる途中だったのに。

いや、そうじゃなくて。
君が僕に話しかけてくれたことに、びっくりしたんだ。
しかも、楽しそうに笑いながらさ。


ほんとうに嬉しかった。
教室に誰もいなかったら、思いっきりガッツポーズしてたよ。たぶん。

「じゃあね!」

君は砕けた言葉で言った。
それから、にこにこしながら小さく手を振り、駆け足で自分の教室に帰ってった。
僕も半ば呆然としながら、軽く手を振った。


そういや、一年の頃は別々のクラスだったね。

君は、廊下を歩いてて、偶然、僕のことを見つけたのかな。
それとも、僕のことは知ってて、話しかけるタイミングを見計らってただけなのかな。

まあ、たぶん前者だろう。

これが、高校一年の六月頃。
入学式から二ヵ月後。
僕らは、まだ十五歳だった。





それから僕らは、昼休みになるたびに小説や漫画について話し合うようになった。
そして、君と話し合ったりするようになった丁度この頃、僕には何人かの友達ができた。

あのときの彼らにどういう意図があったのかは知らない。
もしかすると、『君』に好意を抱いていたのかもね。
僕を君から引き剥がして、君とくっつこうと考えていたのかも。

まあ、今となってはどうでもいい。
彼らとは、未だに仲がいいからね。


七月中頃。昼休み。
初めて君と話した日から、約一ヶ月後。
この頃になると、お互いに敬語で話し合ったりもしなくなった。

「もうすぐ夏休みだねえ」

君はクーラーの効いた図書室の椅子に座りながら、砕けた口調で言った。
どうやら普段の君は、こののんびりとした口調で話すらしい。
本の話になると、人が変わったみたいに饒舌になるけどね。

「そうだねえ。何か予定でもあるの?」

僕はさりげなく訊いた。
いや、別に深い意味はない。


「んや、特にないよ。
あ、でも、読み終わってない本がいっぱいあるから、夏休みはそれを読もうかなあ」君は言う。

「そっか。本、好きだね」

「いやあ、私には本を読むくらいしか
やることがないからねえ。夏休みは毎年暇だよ」

「へえ。なんだか意外だよ」

「あ、でも夏祭りにはほとんど毎年行ってるよ。今年も友達と行くの。
**君は? 夏休み、何か予定あるの?」

「僕も、特にないなあ」

「だよねえ」

君は笑いながら言った。
僕も苦笑いで返した。


「うーん。夏休みは僕も本でも読もうかなあ」

「それなら私のおすすめの本を何冊か、明日持ってきてあげよう」

君はそう言ってから、満足そうな笑みを浮かべた。

「ありがとう。楽しみにしてるよ」

「任せなさい。ちなみに私が今いちばん好きな本は……」

「あ、ネタバレはやめてね」

「わかってるって」

それから君の話は、昼休みが終わるまで続いた。
まあ、楽しかったからべつにいいんだけどね。


このときの君は、僕のことをどう思ってたのかな。
ちなみに僕の頭の中は、
「どうやったら君と夏祭りに行けるか」ってことでいっぱいだったよ。

結局、この年は誘えずに終わったんだけどね。うん。


◆ 3(現在2)


「どしたの? にいちゃん」

ドアの向こうから聞こえてきた声で、僕は現実に引き戻された。
妹の声だ。

「ああ……いや、ちょっとね」

僕は掠れた声で応えた。
それから大きなあくびをしてドアを開けると、
あたたかい空気と卵の匂いに包まれた。
さっきよりも強く、喉の渇きと空腹を感じる。
今度は胸の辺りがむかむかしてきた。気色が悪い。


「おはよう。声、がらがらだね」

妹はドアから二~三メートルほど離れたところに立っていた。
なんだかよく分からないが、いい匂いがする。卵の匂いではない。

「ちなみに今日の朝ごはんはパンと目玉焼きだよ」

「なんで今日に限って卵なんだ」

どうして『君』の結婚式の日に。嫌味か。

「にいちゃんが、あの人のこと思い出すかなあと思って」

「ああ」嫌味か。


「それににいちゃん、目玉焼き好きでしょ?」

「ああ、好きだよ。大好物さ。この世で三番目くらいに好きさ」

僕がぶっきらぼうにそう言うと、妹は満足そうに笑った。

確かに、あの人――『君』のことを思い出したが、あまりいい気分ではなかった。
なんでって、今日、『君』は僕ではない誰かと
結婚式を挙げるんだよ。信じられない。
信じられないかもしれないけど、僕は未だに『君』を想ってる。

諦められないんだ。
誰が現れようと、僕は君のことを忘れはしない。はずだよ。





今、僕と妹は二人で暮らしている。
僕は大学生になってから一人暮らしをしていたが、
二年前、高校生になった妹が転がり込んできて今に至る。

なんでも、妹の通っている高校までは、
実家よりもこっちからのほうが近いらしい。
だから今はここにいる、と妹は言っていた。


「ほら、にいちゃんも早く着替えて」

朝食を終え、パジャマから着替えた妹は言った。
時計の針は八時半を指している。
ちなみに、今から会社に向かっても遅刻である。
まあ、向かうつもりはないが。


「どうしたんだ、その服」

普段はわりと控えめな服を身に纏っている妹が、
今日に限って華やかな服を着こなしていた。いや、今日だからか。

「へっへっへ。似合うでしょう」

「そうだね」

「そうでしょう。……いや、そうじゃなくて。
にいちゃんも行くんでしょ? あの人の結婚式。
早く着替えないと始まっちゃうよ」

「いや、僕は仕事が……」

「嘘。今日は休みだって言ってた」

「そうだっけ」

知ってる。分かってるよ。


「にいちゃん、大丈夫? もしかして、あの人に会うのが怖い、とか?」

「どうかな」

僕は咄嗟に濁した言い方をした。
が、ほとんど妹の言うとおりだった。

僕は怖い。あの人――『君』に会うのが。
きっと、式場で『君』は白いドレスを着てさ、
僕ではない他の男と幸せそうに笑っているんだ。

その姿を見るのが怖い。
そこに僕の居場所はない。僕に陽は当たらない。
僕は『友人a』として、君に拍手を送るんだ。笑いながら、さ。

死にたくなるよ。


「大丈夫だよ。あたしが付いていくからさ」

「いや、僕は別に何も言ってないだろ」

「怖くないの? じゃあ早く着替えて行こうよ」

妹は僕の腕を掴み、引っ張った。
細い。女性の腕だ。力も弱い。

「ちょ、ちょっと待って。気持ちの整理をさせて」

それでも僕はこの細い腕に掴まれたとき、
そのまま式場まで引き摺られてしまうような気がした。

今の僕は空っぽなんだ。
押されれば倒れてしまうし、刺されれば壊れてしまう。


「どうぞ」

僕の腕に絡まっていた細い腕が急に剥がれた。

「好きなだけ考えて」

とりあえず、僕は二回、大きく深呼吸した。
気持ちは全く整理できていない。無理だ。

僕から『君』を取り除くというのは、
スプリンター(短距離走者)から脚を、
ボクサーから腕を奪うようなものだ、と思う。

僕にとって『君』は、命よりも大切なもの。だったはずだ。
でも、今は分からない。何も分からない。
こんなの分かんないんだよ。
分かってるのは、君はもう戻ってこないということだけ。
もう手遅れなんだ。


「はあ……」

胸の奥で、濁った空気が浮き沈みしている。
それを取り除くように、僕はため息を吐いた。
ため息しか出ない。
ああ、こんなの信じられないよ。

「どうしたの」

「うん。……なんだか、人生のどん底にいるみたいだ」

「……『じゃあ、どん底まで行ったんなら、また新しく始められるわ』」

妹は淡々と言った。憐れみや同情は微塵も感じなかった。
たぶん、この言葉は誰かからの引用なんだろう。こいつは、よくそんなことをする。

「いい言葉だね。……それは、誰の言葉?」

「ペパーミント・パティだよ」

「へえ」





結局、僕は式場へ向かうことにした。
いや、ほんとうは最初から行くつもりだったんだよ。
けれども、直前になって怖気づいちゃってさ。
情けない。我ながら、女々しいやつだと思うよ。

時刻は九時半。
適当なスーツに着替えて、僕らは家を発った。
挙式は十一時からだそうだ。

この日は快晴だった。
まるで、君の結婚を太陽が祝福しているみたいなさ。
太陽なんか溶けて無くなればいいのに。

そんな僕の気も知らず、あたたかい日は
アスファルトに射し、辺りにはぬるい風が吹いている。
妹は思いっきり伸びをして、僕の方を見て笑った。

「あったかいね」


あたたかい日は僕にも射したが、全く明るい気分にはなれなかった。
今の僕は、冷たいアスファルトにべったりとへばりつく
影のような、暗い存在みたいなものだと思う。たぶん。


「ん。雨が降りそう」

妹は晴れ渡った空を見ながらぽつりと言った。

「僕には分からないけど、お前が言うんだからそうなんだろうね」

「折り畳み傘、持ってくる」

昔から、妹の天気予報はよく当たった。
どんなに晴れていても、妹が「雨が降りそう」だって言うと、いつも雨が降ったんだよ。
僕が傘を忘れると、いつも妹は僕の分の傘を持って迎えに来てくれた。

でも今日は、僕は傘を持っていかなかった。今更、天気なんてどうでもいい。
土砂降りの雨に撃たれて、惨めな姿の僕が脳裏に浮かんだ。今の僕には相応しい姿だ。


式場までは徒歩と電車で向かう。
数十分かけて駅まで歩き、そこから一時間ほど電車に揺られて、
そこからまた数十分歩いたところに式場はあるらしい。
車があれば楽なんだろうなあと思う。しかし生憎、僕にそんなお金はない。

とりあえず僕らは駅まで歩いていくことにした。





出発から約十五分後、僕らは駅まで辿り着いた。

駅前のコンビニ。本屋。ファストフード店。そこを行き交う人々。
見飽きた光景だ。
僕は高校生のときからほとんど毎日、ここから電車に乗っている。

でも今日は、見飽きたはずのこの景色が
いつもより色褪せて見えた。いや、褪せていたのは僕の目かもしれない。


駅前の階段を上っているところで、なんだか、また怖くなってきた。

脚が震える。
前に進めない。進みたくない。

僕は踊り場で立ち止まり、そこに敷き詰められた赤橙色のタイルを眺めながら考えた。
ところどころ黒ずんでいる。雨が降ったら滑りそうだ。

いや、そうじゃなくて。

そもそも、僕は今の君に会って、どうするつもりなんだろうか。
式を台無しにしてやるつもりなのか。
それとも、「今も好きだ」とでも伝えるつもりなのか。

どっちにしろ、ばかじゃないのか。


背後――階段の下から笑い声が聞こえてきた。
高い声。女性の笑い声。
これは、僕が笑われているのかな。

「にいちゃん」

今度は階段の上から声が聞こえた。
顔を上げると、心配そうに僕を見ている妹の姿が目に映った。

「ああ……、ごめん」

「ううん、いいの。ゆっくり行こう、兄ちゃん」

妹に心配されて、なぐさめられた。情けない兄だ。


僕は大きく深呼吸して、もう一度階段を上り始めた。

「よし。もう大丈夫」

大嘘である。





「電車、がらがらだね。ラッキー」

電車はわりと空いていた。
僕らが乗り込んだ車両には、春休み中の学生(と、思われる。たぶん高校生だ)が、
五人乗っているだけだった。男四人。女一人。
そのうちの男三人ほどは、おしゃべりに興じている。

とりあえず僕は車内の隅っこの席に座った。


「一時間も電車かあ。疲れるなあ」

発車してから五分も経たないうちに、
隣に座った妹は、向かいの窓で流れる景色をぼーっと見つめながら呟いた。
どうやら、よほど暇らしい。

「暇なら本でも読めばいいんじゃないかな」

僕は脇に置いたカバンをぽんぽんと叩いた。
中身は文庫本二冊とボールペンと、メモ帳とその他諸々である。

「えー。あたしは漫画しか読まない」

「なんでさ。小説も面白いのに」

「だって疲れるもん。冒険って、そういうもんでしょ」

「冒険?」


「『読書っていうのは冒険の一種なんだ。読むのは新しい場所への旅だ』。
って、チャーリー・ブラウンが言ってた」

「へえ。誰?」

「チャーリー・ブラウン。知らない?」

「うーん」

誰だっけ、それ。思い出せそうなんだが……。


……まあいいや。

僕はカバンから文庫本を取り出し、栞の挟まっているページまで捲った。


「えー。兄ちゃん本読み始めちゃったよ。あたし暇だよ」

「本ならもう一冊あるぞ」

「小説かあ。うーん」

「たまには冒険もいいんじゃないか。どうせ、他にやることもないんだし」

「うーん。でもさあ、やることがないから旅に出るってのも変な話じゃない?」

「いや、でもさ、『可愛い子には旅をさせよ』って、よく言うじゃないか。
ほら、あれだよ。僕は、お前に冒険してほしいんだよ」

「にいちゃん。その諺の『子』って、自分の子どものことだよ」

「娘も妹も似たようなもんさ。細かいことはいいんだよ」

「相変わらず、にいちゃんは適当だね」


喋り続け数十分後。
結局、妹は僕から本を借り、渋々ページを捲り始めた。
僕も、現在の状況から逃避するように、ページを捲った。


向かいの窓でスライドする景色。
橋。川。割り込む電車。
車輪がレールの継ぎ目を通過する音。
笑い声。
脳裏に幻のように現れる、『君』とのたくさんの思い出。

本の内容が、情報が、文章が、まったく頭に入ってこない。
『君』とのたくさんの思い出が、今更になって脳の隅から滲み出てくる。

いや、今だからか?

紙の擦れる乾いた音が、二重になって聞こえてくる。
そこにときどき交じる、妹が息を吐く湿った音。
それがなんだか、とても愛しくて懐かしいもののように思えた。

きっと、『君』のせいだ。
電車の中。君はいつも僕の隣で本を読んでたっけ。


◆ 4(回想2)


「もうすぐ夏休みだねえ」

昼休み。穏やかな午後。
『君』は図書室の椅子に凭れながら、のんびりとした口調で言った。
窓の外ではさ、アスファルトの上に
陽炎が立ちのぼってて、蝉がやかましく鳴いてたよ。

「だねえ」

『僕』と『君』が出会ってから約一年が経っていた。
高校二年生になった僕らはクラスメイトになっても、
昼休みは飽きもせず図書室で雑談していたね。


僕にとって図書室というのは、とても魅力的な場所だった。
たくさんの本に囲まれ、『君』とその本について語り合える場所。本の海。
僕ら以外に人はほとんどいないし、夏はクーラーが効いてる。
僕の唯一の天国みたいな場所だったよ。


「今年は何か、予定はあるの?」僕はとりあえず訊いた。

「ないよ」君は即答した。目を細めて笑っている。

「じゃあ、今年も本を読むの?」

「そうだねえ。まあ、夏休みじゃなくても読んでるんだけどね」

「本、好きだよねえ」

「本は、私の『からだ』の一部だからねえ」

君はそう言って、歯を見せて笑った。
それから、指先で宙に『体』という文字を書いた。

「なるほど」


「でも、本ばっかり読んでるのも、なんかやだなあ。
せっかくの貴重な高校生活なのにねえ。
もっと青春しないと。『書を捨てよ、町へ出よう』だよ」

「青春、ねえ」

僕らも部活動をしていれば、青春を謳歌できたのかもなあ……。

なんてことは微塵も思わなかった。
そもそも、僕は身体を動かすのが苦手なんだ。
去年の体育祭は全力で走ったあとに、
胃からすっぱいものが込み上げてきたよ。
僕が見てる限り、たぶん君も運動音痴だ。

「ほら、たとえば、一日かけて八十キロ歩くとか。どうかな?」
そう言って、君は破顔した。

「それはちょっと」僕もつられて笑った。


いつも僕は、いつまで経っても予鈴が鳴らずに、
このまま君とここで話し合えたらなあ、
って思ってたんだけど、鳴るものは仕方ないよね。

僕らはそいつが鳴るのとほとんど同時に、椅子から重い腰を上げた。
それから図書室の戸をスライドさせ、
廊下に出ると、蒸し暑い空気に包まれた。

「はあ」

あまりの暑さに、僕らはほとんど同時にため息を吐いた。
図書室内の涼しさが恋しい。
さっきよりも、蝉の声が近くで聞こえる。


蒸し暑い、長い廊下。
予鈴が鳴ったあとなので、人はほとんどいない。

「よし、決めた」僕の隣で歩いていた君は、そう呟いた。

「なにを?」

「今年は私たちも。ね?」

「へ?」

「んー、まあつまり、私たちも『青春を謳歌する』ってこと。
私たち、まだ十六歳なんだし、楽しまないとね」

君はそう言って、口もとを綻ばせた。
それから、僕より一歩、前に出た。

このときのことは、よく憶えている。忘れられるわけがない。


「だからね」

君は僕の進路をふさぐように立ち、振り返って僕を見た。
長い髪が揺れる。君は微笑んでいたけど、その表情は
いつもより硬いように見えた。頬が薄く紅潮している。

こうやって、しっかりと君と向き合うのは、これが最初だったと思う。
僕のほうがいくらか背が高かったから、このときは
君に目を覗き込まれてるような不思議な感じだった。

それと同時に、ものすごく恥ずかしかった。
僕の考えてることが、すべて見透かされてるみたいでさ。

心臓だけが、『僕』とは別の生物みたいに暴れまわってた。
顔は熱くなって、背中辺りから変な汗が出てきてさ、
なにがなんだか分かんなくなったよ。


「だからね」数秒の沈黙のあと、君はふたたび声を発した。

「今年は、私と花火を見に行こう」

君はそう言って、鼻から大きく息を吐いた。
真っ赤な顔をしながら、潤んだ大きな目をしばたたかせている。

たぶん、僕の顔も真っ赤だったんじゃないかな。
あのときは急に喉が渇いて、声も出せないほど緊張した。
おかげで、直ぐに返答できなかったよ。
おそらく君も相当緊張してたんだろうと思う。


「だめ?」

君は恐る恐る口をひらき、沈黙を破った。
窓の向こう側の蝉の声に掻き消されそうなほど、か細い声だった。

それから、黙り込んだ僕の顔を覗き込むように、
君は頭を少し下げ、上目使いで僕の目を見つめた。
不安げな表情が僕の目に映る。


「いや、全然だめじゃないよ。いっしょに行こう」

僕は、やや掠れた声で返答した。
この言葉を絞り出すだけで死ぬ思いだったよ。

「よかったあー……」

君は肺から空気を吐き出しながら言った。
それと同時に、君の肩から力が抜け、表情が緩んだ。
なんだか、空気が抜けて萎んでってる風船みたいで、可笑しかったよ。

「約束だからね。ぜったい行こうね」


忘れられっこないよ。
すごく嬉しかったんだ。

まあ結局、この年も僕は夏祭りに君を誘えなかった。
いや、でも、この次の年は僕から言ったよ。
いっしょに花火を見に行こうってさ。





「ほんとうは、僕が言うはずだったのになあ」

「なにを?」

「いっしょに花火を見に行こうって」

僕がそう言うと、君は小さく笑った。

「そういうところが、**君の悪い部分だよね。
でも、面白い部分でもあるよね。私はいいと思うよ、**君のそういうとこ」


夏祭りの夜。紺碧の空には、
ぽつぽつと星が散りばめられ、満月が煌々と光を放っていた。
その白い光と、提灯の薄橙の光が、
僕の立っている橋の下を流れる大きな川の
水面に反射してさ、とても幻想的だったんだ。
隣には浴衣姿の君が立っていたから、余計にそう見えたのかもね。
とにかくきれいな風景だったよ。

そのとき僕が住んでいた町(僕の実家がある町。『現在』は違う町に住んでいる)と
君が住んでいた町は、電車の駅で四駅、距離にして二十キロメートルほど離れている。
そのちょうど真ん中辺りに、大きな川が流れているんだ。
この川に架かった鉄橋を走る電車の中から見える景色が、僕は好きだった。
大きな川なんて、高校生になるまであんまり見なかったから、ちょっと新鮮だったんだ。
いや、全国的に見れば小さい川なのかもしれないけど、僕の中じゃ、あれは大きな川に分類される。

ん、どうでもいいか。


まあ、なにが言いたいのかというと、
僕らが行った夏祭りは、その大きな川で行われた祭りなんだよね。

その川に沿うように、屋台と提灯がどこまでも並んでたよ。
川の上流から下流まで、ぎっちりだった。と思う。いや、細かいことは知らない。

もちろん、それ以上に人がたくさんいた。
橋の上からそれらを眺めてると、光に群がる虫みたいに、
人が提灯と屋台に吸い寄せられていくんだ。


まあ、真ん中の川には冷たい水が流れてるし、
川の両脇の舗装された道には、屋台と提灯が、
まぶしいほどにぎっしりと詰め込まれてるから、
自然とみんな屋台のほうに行っちゃうんだよね。
そう分かってても、なんだか変な光景だった。

考えてみれば、あのときの僕らも虫みたいなもんだったのかな。
たこ焼きや綿飴、かき氷やカステラなんかに引き寄せられる、大きな虫。

まあ、なんでもいいや。
きっと虫だって恋や青春を楽しみたいはずさ。よく知らないけど。


「夏祭りなんて、久しぶりに来たなあ」僕はぽつりと呟いた。

「そうなの? 私は毎年友達と来てたなあ。
浴衣を着るのも慣れちゃったよ。ほら」

君は笑いながら、その場でゆっくりと一回転した。いい匂いがした。

「花火はいつから始まるの?」

「八時だよ」

僕はポケットから携帯を出し、ちらりと見た。
時刻は、だいたい午後六時半だった。


「屋台回ってたら直ぐだよ。
きっと一時間とちょっとじゃ、全然回れないよ?
だから早く行こう。まずはたこ焼きを食べよう」

君はそう言って、小走りで橋を渡りきり、階段を下ってった。
僕も小走りでそれを追いかけた。
それだけのことなのに、なんだか楽しくて仕方なかったよ。
無意識に鼻唄を歌うほどだった。

この頃の僕は、なんとかクラッカーって曲がすごく好きだった。
たぶん、歌ってた鼻唄はその曲だ。

あれ、なんとかクラッカー? なんとかハッカーだっけ?

まあ、なんでもいいや。


「楽しそうだねえ」

「そうかな」僕は平静を装って答えた。
ほんとうは、今直ぐに叫んでもいいほどにはこの状況を楽しんでいた。

「そうだよ。**君が鼻唄歌ってるのなんて初めて見た」

「え? 鼻唄? 僕が?」

「うん。もしかして、気付いてなかったの? よっぽど楽しいんだねえ」

君はくすくすと笑う。
やめてくれ。なんか恥ずかしい。
僕は頭を掻いた。


でも仕方ないんだ。
だって、君と一緒にいるのはほんとうに楽しいんだ。

と、思っても、それを言葉にして君に伝えたりはしない。できない。
僕はヘタレだからね。
でも、僕が口に出して言わなくたって、君は感じていたと思う。

「まあいいや。早くたこ焼き買いに行こ?」

「そうだね」





僕らはたこ焼きや綿飴やカステラなんかを頬張りながら、
川沿いの明るい道をのろのろと歩いた。
途中で金魚を掬ったり、ヨーヨーを釣ったりもした。頬張ってはいない。

僕らが回った他にも、たくさんの夜店があった。
射的とか、くじ引きとか、お面屋とか、とにかくいろいろだ。


「ん、かき氷だ」

君は右手に持ったフランクフルトを頬張りながら言った。
ちなみに左手にはりんご飴を持っている。
君の視線の先には、赤い文字で『氷』と書かれた白い旗がある。

「よく食べるねえ」

「歩くとお腹が減るの。疲れると甘いものが食べたくなるし、
暑いと冷たいものが食べたくなるの。そういうもんだよ。たぶん」

「うーん。分からなくもないかなあ」

「それに、かき氷を食べずに夏が終わるなんてだめでしょ?」

「そうかな」

「そうだよ。
年越しに蕎麦を食べないってのと同じくらいだめだよ。
だから、かき氷も今食べないとだめなの。
かき氷食べないと、夏って感じがしないでしょ?」

君があまりにも真面目な顔で
わけの分からないことを言うので、僕は思わず綻んだ。


「よし。というわけで、かき氷を食べよう」

「ん。じゃあ、僕が買ってくるよ」

「ん。ありがとー。私、いちご味ね」

君は左手に持ったりんご飴をぺろりと舐めた。
右手に持っていたはずのフランクフルトは、
知らない間に木の串だけになっていた。いつの間に食べたんだろう。

まあいいか。
僕は、再び視線をかき氷の屋台に向けた。

『氷』と書かれた幟の前には、小さな列ができていた。
他の屋台の前には列なんてできてなかったのに、なんでかき氷だけ。
いや、綿飴は結構な行列だった気がする。

まあ、なんでもいいや。
僕はのろのろとその場を離れ、その小さな列の尻尾に立った。





「夏だねえ」

君は、紙のカップに入ったかき氷を
スプーンストローで軽く突きながら言った。
しゃりしゃりと、涼しくて心地良い氷の音が聞こえてくる。

「かき氷なんて久しぶりに食べたよ」

僕もかき氷を頬張った。
シロップはいちご味である。頭が痛い。

「久しぶりって、そんなに食べてなかったの?」

「かき氷なんて、三年くらい前に食べたっきりだったよ」

「へー。ずいぶんだねえ。
私にとっては、かき氷を食べない夏なんて、
向日葵の咲かない夏と同じくらい考えられないよ」

僕らは顔を見合わせて笑った。


「まあ、夏祭りに来たのも三年ぶりくらいだしね。
昔は妹とよく来てたよ」

「**君、妹がいたんだね。知らなかった。
あ、ちなみに私には兄がいるよ」

「へえ。初耳だよ」

「そりゃあ、今まで言わなかったからねえ。
まあ、私に兄がいてもいなくても、たぶん**君には関係ないよ」


午後七時五十五分。
空は黒紫色に染まり、ところどころに薄い雲と小さな星が浮いている。
先程とは少し表情を変えた空の一番高いところでは、
丸い月だけがなにも変わらず煌々と輝いていた。

僕らは花火を見るために、約一時間半前に立っていた橋に戻ってきていた。
いや、この場所以外からも花火は普通に見えるんだけど、
僕はこの場所が気に入ってたんだ。特に理由はないけど、好きだった。

この橋の上では、いつも強い風が吹いている。
僕は古本屋に行くときによくここを通るんだけど、
いつもこの強風が僕の邪魔をするんだ。
春でも、秋でも、冬でも。もちろん夏でも。

夏にはありがたいこの風も、冬になれば忌々しくて仕方ない。
顔に叩きつける風が痛くてさ、いやになるんだよね。


「涼しいねえ」

君は身体をひねり、なんとも言いがたい声を絞り出しながら、思いっきり伸びをした。
艶かしいというか、婀娜っぽいというか、色っぽいというか、
なんかそういう感じの声だった。
なんだったんだろう。ちょっとどきどきしたよ。

「いい場所だね、ここ」続けて君は言う。

「うん。僕のお気に入りの場所なんだ」

まあ、ほんとうに気に入ってたのは、この橋の下の暗い場所なんだけどね。
でもそこからじゃ、たぶん花火は見えない。
それに、きっと君にあの暗い場所は似合わないだろうし。





「あ、花火。始まったね」

君はぽつりと呟き、虚空を指差した。

そのとき、遠くの空で大量の火の粉が散り、辺りを照らした。
遅れて、心地良い爆発音が耳に響く。

その一発目の花火に続き、小さな花火がいくつも上がった。
僕らの足元を流れる黒い川の水面に、
赤や黄色、青や緑の光が映り、歪み、瞬く間に消えてゆく。

久しぶりに見る花火は、とても綺麗だった。
君の隣で空に散る炎を見ているだけなのに、
そのときの僕はすごい幸せだったんだ。


「なんか、いつもより綺麗に見える」

か細い声が僕の耳に届く。

心ここに在らずといった感じだった。
君は身動きもせず、表情も変えない。
橋の欄干に手を置き、じっと、宙に散るたくさんの光を見つめている。

正直に言うと、僕は花火よりも隣の君が気になって仕方なかった。
浴衣を着た君の目に、満月と花火の光が映ってて、とても絵になってたんだ。
花火と君を交互に見るのは大変だったよ。

「綺麗、だね」僕は言った。

「うん、綺麗」君は全く動かずに答えた。「来年も、来ようね」


大きな花火が上がった。
幾色もの炎の欠片が、黒い川の水面と空に滲んで消える。

それに続き、何発もの小さな花火が上がる。
僕らの足元に、カラフルな炎の花が幾つも咲いた。

強い風のおかげで小さな波が立っていた川の水面には、
花火と満月、そしてそれらに照らされた僕らの影だけが、歪んで映っていたんだ。
それを見たときに、僕はなんとなく思ったんだよ。
『これが僕の欲しかったものだ』って。わけ分かんないね。

それと同時に僕は決めたんだ。
皮膚の内側で燻っているこいつを、全部吐き出してやろうって。
君に全部言おうって。もう誤魔化すのはやめにしようってさ。


「月」

君は僕の方を向き、小さく呟いた。
もしかしたらあのとき、僕らは同じことを考えていたのかもね。

「うん」

僕は息をゆっくりと吸い込んだ。

「月、綺麗、だね」


言った。言ってやった。なんか片言の告白だったけど、僕は言ったんだよ。
恥ずかしすぎて、逃げ出したくなったさ。でも僕は踏みとどまった。
君がこの言葉の意味に気づかなかったらどうしようって、
返事が「ノー」だったらどうしようって、このときはすごく不安だった。
死ぬ思いだったよ。ほんとうに。

でも思い出してみれば、このとき君が呟いた「月」ってのは、
きっとそういうことなんだと思う。そう思いたい。そうであってほしい。

「うん。私」君はいつものように目を細めて、歯を見せて笑った。

「私、今死んでもいいわ」


遠くの空で花火が散った。この日一番の大きな花火だ。
そして、この日最後の花火でもある。
飛び散った炎は空に溶け、辺りには再び夜の暗さが降ってきた。
人々を照らすのは、提灯と小さな星々、それと丸い月だけ。

足元の川には、歪んだ提灯の光に囲まれた僕らの影と満月が、滲んで映っていた。
このとき僕らは、ようやく一つになれたんだ。
僕は、このままずっと幸せでいられるような、そんな気がしたんだけど、

君は、どう感じていたのかな。


◆ 5(現在3)


「にいちゃん、起きて。あとちょっとで着くよ」

幸せだった日々の夢から目を覚ます。
……いや、悪夢って言ったほうがいいのかな。

もう、なんだっていいや。
幸せな夢だろうと悪夢だろうと、結局は全て幻なんだ。
夢の中の幻の君には手が届きそうだったのに、目をひらけば
ほんとうの君は僕の隣にいないんだ。まるで、悪夢を見てるみたいだよ。


「ん、起きた?」妹は笑いながら言う。

僕は薄目をこすりながら顔を上げた。陽の光がまぶしい。
正面には長い椅子と、窓がある。椅子の上に人の姿はない。
窓の向こう側では、景色が左から右へ流れている。
ゆっくりと、意識が覚醒に向かう。
僕の足元、地面が小さく揺れる。『ガタン、ゴトン』というリズムの良い音が聞こえてくる。

「ああ……、起きた」

思い出した。
僕は電車に乗ってたんだっけ。式場の君に拍手を届けるために。
ばかみたいだ。


「はい。これ、ありがと」

妹は僕に、栞の挟まった文庫本を差し出した。
そういや貸してたんだっけ。

「もう読んだのか?」

「そんなわけないじゃん。でも途中まで読んだよ。結構面白いね」

「そうかい。気に入ってもらえたみたいでよかったよ」

僕は妹から文庫本を受け取り、カバンに仕舞った。

大きく息を吸い、吐き出す。「よし、行くか」
それから、重い腰を椅子から引き剥がし、立ち上がった。


結局、こんなとこまで来てしまった。
でも今、君は僕の手の届く場所にいるんだ。
君の手を掴むことはできないけど、触れるくらいならできる。と思う。分からない。
いや、触れなくてもいい。君と少し、話ができればそれでいいんだ。

よし決めた。
とりあえず、まずは君に会って言ってやるんだ。「結婚おめでとう」って。


「にいちゃん」隣の妹が、座りながら微笑んだ。

「降りるのは、あと二つ先の駅だよ」

「…………」

知ってる。分かってるよ。
僕は黙って頷き、ふたたび腰を下ろした。

なんか、すごい恥ずかしい。ばかみたいだ。
もう、どうにでもなってくれ。





あれから二つ先の駅で、僕らは電車を降りた。
時刻は午前十時十分。朝よりも空気があたたかくて、陽の光も強くなっている。
それでも電車内と比べると、ずいぶんと涼しい。
思いっきり息を吸うと、澄んだ空気が肺に染み込んでくような心地良さがあった。

改札口を抜けて、白いタイルが敷き詰められた階段を下ると、ひらけた場所に出た。
どうやら、駅前は広場になっているらしい。
バス停やポスト、本屋やコンビニ、
レンタルビデオショップやファストフード店が並んでいる。どこにでもあるような風景だ。

まあ、そんなことはどうでもいい。こんな景色、目に焼き付ける必要もない。
とりあえず僕らは重い足取りで歩き出した。


「ねえ」街路樹が並ぶ道を歩いていると、妹が口をひらいた。

「なにさ」

「あの人の結婚相手ってさ、誰なの? にいちゃんの知ってる人?」

どうしてそんなこと聞くんだ。やめてくれ。

「そうだよ。知ってる人。僕がこの世で三番目に嫌いなやつ」

「いやな人なの?」

「んや、いいやつだよ。ただ、なんとなく会いづらいんだ。
誰にだって一人や二人くらいいるだろ? そういう人って」

「まあ、そうかなあ」妹は曖昧な返事をした。


「ん、『この世で三番目に嫌いなやつ』がその人なんでしょ?」続けて妹は言う。

「うん」今度はなんだ。

「じゃあ、一番と二番は?」

「一番はともかく、二番は……式場に行けば、いやでも会えるんじゃないかな」

僕は不安で仕方なかった。
君と、その隣にいるであろう
『この世で三番目に嫌いなやつ』が、今の僕を見てなにを思うんだろうって。
もしかしたら、『君ら』は僕のことを恨んでるかもしれないしね。怖いよ。

それともう一つ。
『この世で二番目に嫌いなやつ』に、また掴みかかられるんじゃないかって、怖くて仕方ないんだ。
ほんとうに怖い。きっとそいつは、またあの人殺しを見るような目で僕を罵るんだ。「お前が奪ったんだ」って、さ。


そもそも、君はどうして僕を式に招待したんだろう。
まさか今更、僕に「もう一回やり直そう」なんてことを言うつもりでもないだろう。当たり前だ。
君は中途半端なことが嫌いだったから、僕らの関係は綺麗に終わった。君の中では、ね。
きっと、僕が未だに君のことを思ってるなんて、考えもしないだろうね。
君が僕に言い損ねたことなんて、おそらく一つもない。

いや、もしかしたら、僕を招待したのは君じゃなくて、相手のほうなのかも。
僕のことを憐れんだり蔑んだり、笑い飛ばしてやろうと考えて、僕を呼んだ――とか。

分かんない。もういいや。
式場に行けば全て分かる。


「ん、そういや」なんとなく気になったので訊いてみた。

「お前にはいないのか? その、憧れの人とか、好きな人、とか、さ」

なに言ってんだ僕は。
自分で言っといてなんだけど、恥ずかしい。
しかも、隣を歩く妹が黙って僕の顔を凝視しだしたから、余計に恥ずかしい。やめてくれ。

「んー」妹は正面に向き直り、言った。

「まあ、いるかな。うん、いるね」


嬉しいような、寂しいような、変な気持ちになった。
そりゃ十七歳なら青春の真っ最中だし、好きな人も一人や二人くらいは、いるか。

僕は隣の妹の顔をちらりと見た。薄く笑っている。
べつに不細工でもないし、特別可愛いわけでもない。
意外としっかりしてて、よく笑う。でも、よく拗ねる。
漫画が好きで、小説が苦手。僕が困ってると手を貸してくれるし、話も聞いてくれる。
いいやつ。僕が今まで見てきた妹は、そんなやつ。


「ん。どしたの、にいちゃん」

そんなやつもきっと、いつかは誰かと結婚して、僕の前からいなくなるんだろうなあ。

「んや、なんでもない」

考えてみたら、ちょっと寂しい。
もしかしたら、こうやって並んで歩くのも、最後になるのかも。

なんなんだろう。変な気持ちになるよ。
なんだか胸の辺りがさ、もやもやするんだ。





ゆっくりと太陽が昇ってきている。
建物や電柱、車や人間から伸びる影が、朝よりも短い。
だんだんと気温も上がってきた。
歩いていると、少し汗が出てきた。たぶん、気温のせいだけではないと思うけど。

「ん、ここかな。でっかいね」

午前十時三十五分。
僕らは式場に着いた。着いてしまった。

見えないなにかに、心臓や足を掴まれているような、いやな感覚がした。
通り過ぎる人が、僕のことを笑っている気がする。
自分でも分かるほど、呼吸が荒くなる。思いっきり頭を掻き毟りたい。
怖い。怖い。怖い。


この扉の向こうには、君とその結婚相手、君の友人、そして君の結婚相手の友人が大勢いる。
おそらく、ほとんどが僕の顔を知っている。いや、そんなことはないか。自意識過剰。
落ち着け。落ち着け……。

「大丈夫だよ、にいちゃん」

「分かってる、分かってるよ」つい、声に怒気がこもる。

「……『人生には飲まなきゃならない苦い薬もあるもんさ。』
でも、きっとこれが終わったら、にいちゃんは楽になれるよ。『良薬は口に苦し』だよ」

「……僕は病気なのかい」

「うん。インフルエンザみたいなもんだよ」

「そっか……」

僕は大きく深呼吸をした。
そして入り口の戸をひらいた。ひらいてしまった。

ああ、今すぐここから逃げ出したい。


受付は招待客でごった返していた。人々の話し声が、ノイズのように聞こえてくる。
辺りを見渡す。どこを見ても、僕の目に人間が映る。それも、うんざりするほどの数。
ドレスを着た二十代くらいの女性もいれば、スーツを着た禿げ上がった男性もいる。
知ってる顔もあれば、知らない顔もあった。なんだか落ち着かない。
隣に立つ妹も落ち着かない様子で、きょろきょろと視線を泳がせている。

「ん、もしかして、**君?」

右隣――妹が立っているのとは逆の方向から、声が聞こえた。女性の声。
ノイズにはならず、はっきりと僕の耳に届いた。『**』ってのは僕の名前。

「ん、久しぶり」僕は苦笑いを浮かべながら振り返った。


「久しぶりだねー」

立っていたのは、僕が高校生の頃のクラスメイトだった。
彼女は僕の友人であり、『君』の友人でもある。
僕らは笑顔を浮かべながら、社交辞令を交わした。
「元気だった?」とか、そんな会話。あんまり好きじゃない。


「それにしても、あの娘が結婚かー。びっくりしたよ」

社交辞令が終わっても、クラスメイトの話は続く。
女って、どうしてこうもおしゃべりが好きなんだろうか。

「うん。ほんとにね」

「わたしはてっきり、あの娘は**君と結婚すると思ってたよ。
高校の頃はべったりだったもんねー」

「べったりってことはないだろう」

「いやいやー、昼休みはいつも
あの娘とふたりでどっか行ってたじゃん。あれ、どこに行ってたの?」

「図書室だよ。そこでずっと駄弁ってた」

「へー。なんかロマンチックだね」

「そうかな」

なんか話してると恥ずかしくなってきた。
僕は助けを求めるように、ちらりと左隣――妹のほうを見た。
妹はなんかにやにやしてた。「そうかあ、べったりだったのかあ」とか思ってるに違いない。


「ねえ、**君とあの娘って、付き合ってたんでしょ? どうして別れちゃったの?」

クラスメイトの話は続く。ようやく本題に移ったという感じだ。
おそらく、彼女は僕からこれを聞き出したかったんだろう。別れた理由。このことだけを。

まあ、言わないけど。絶対に。

「いろいろあったんだよ」

ほんとうにいろいろあった。
誰かに話すようなことでもないし、話したくもない。
思い出すのもいやなのに、頭から消えてくれない。
僕の記憶に付いた、大きな傷痕みたいなもんだと思う。


「えー、教えてよー」

「僕はあんまり話したくない。
『あの娘』に直接訊いたらいいんじゃないかな」

「うーん……。分かった。またいつか訊いてみる」

「うん、そうしてよ。まあ、たぶん『あの娘』も話してくれないと思うけどね」


「にいちゃん」妹が囁く。「そろそろ会場に入ろうよ」

「ん」

うんざりするほどの人間はいつの間にか、数えられるほどしか残っていなかった。
おそらく、みんな会場に入ったんだろう。

「じゃあ、わたしも行こうかな」クラスメイトは歩きながら言う。
そして振り返り、「あ、最後にもうひとつ訊いていい?」

「なに?」

「**君は、まだあの娘のこと、好きなの?」


「どうだろう。……なんか、分からなくなってきたよ」
僕は思ったことをそのまま言葉にして吐き出した。

「……**君、なんだかロマンチックな人生を送ってるね」

「ロマンチック……ねえ」

「うん。わたしにはなにもなかったからね。
恋とか、そういう大きなイベントは。ちょっとだけ、羨ましい」





「ロマンチック……ねえ。女から見れば、好きだった人が
自分とは別の人間と結婚してるのがロマンチックなのか?」

僕は置き場のない怒りみたいなものを、とりあえず言葉にして吐き出した。
誰に言ったつもりでもなかったが、今僕の話を聞いている
――聞いてくれているのは妹しかいない。
結果的に、妹に怒りをぶつける形になってしまった。

「……あ、いや、……ごめん。お前には関係ないよな……。ついカッとなって……」

なにしてんだ僕は。


「関係なくないよ。それに」妹は大きく息を吸い込む。
「『悲劇的な人生はロマンチックなのよ。それが他人の人生ならね』」

「へえ。……じゃあ、お前から見れば、僕の人生はロマンチックに見えるのかい」

「いや、そんなことないよ。
それに、あたしはにいちゃんの妹だからね。他人じゃないよ」

「……他人って、そういうことなのか?」

「分かんない。細かいことはいいんだよ」


僕らは会場の椅子に座りながら、新郎新婦の登場を待っていた。
何人かの同級生と短い話をしたり、会場を見渡したりしてさ。
とにかく落ち着かなかった。音が全てがノイズに聞こえた。
皮膚の表面がちりちりする。今にも胃からすっぱいものが込み上げてきそうだ。


もう何度も同じことを考えてる。
何十、何百回と同じことを。

どうして僕はここにいるんだろう。
どうしてこうなったんだろう。
僕が悪かったのかな。戻ってきてくれないかな。
今の君にとって僕は、君の思い出でしかないのかな。

もう一度。もう一度だけ。もう一度……。

いや、もういいんだ。とりあえず話をするんだ。
「おめでとう」って言ったら、僕は走って逃げるんだ。

そしたらもう全部忘れちまうんだ。
僕は行き先を見失った。
あとは隣に君がいない道を転がり落ち続けるんだ。
君が無事なら僕はもう死んでもいい。

大丈夫。なんの心配も要らない。
もしかしたら君は僕のことを憶えてないかもしれない。
大丈夫。大丈夫。大丈夫……。


耳に届くのは雑音ばかりだ。目に映るのは大量の人間と、暗くなった会場。
僕は大きく深呼吸した。

そのとき、会場内の扉に光が射した。会場の全体から拍手が湧く。
その音はノイズにはならず、はっきりと僕の耳に届いた。

そして、僕が夢にまで見た『君』は現れた。

優しい拍手でたくさんの人に祝福されながら。『あいつ』の隣で笑いながら。


そのとき、僕はようやく理解した。君はもう二度と僕の元に戻ってこないって。当たり前だけどさ。
ふたりとも、幸せそうな表情をしていたんだ。そりゃそうだ。当たり前だろ。ばかか。

でも、『君』が自分の脚で立っていられたら、もっと幸せだっただろう。


『君』は車椅子に乗っていた。
その姿を見たとき、どこからともなく罪悪感が込み上げてきた。

『君』の脚は、僕らを引き裂いた出来事があったあの日から、動かないままだった。
そして、もう二度と動くことはない。

なのに僕は、二本の脚で立っている。歩いている。
足の裏から伝わる感触や、汗の生ぬるさが、僕を責め立ててるみたいだ。
お前は助かるべきではなかった、ってさ。

『あいつ』は『君』の車椅子を押し、ゆっくりと前に進んだ。
僕は拍手もせず、ここに留まっている。じっと、『君』の姿を見ているだけ。
僕にできることは、なにもない。

いやな記憶が甦ってくる。
小さな傷口から血が滲み出てくるように、それはゆっくりと僕の脳裏に広がり、甦る。


◆ 6(回想3)


『あいつ』の話をしよう。
いや、まあ、それほど話すようなこともないんだけどね。

『あいつ』は『君』の結婚相手であり、僕の親友でもある男。
いや、親友だった男か。
そして、現在の僕が、『この世で三番目に嫌いなやつ』だ。

『僕』と『あいつ』が出会ったのは、
僕らが幼稚園に通っていた頃、つまりは五歳とかそこらの頃だ。
知らない間に仲良くなって、知らない間にいっしょに遊ぶようになった。
鬼ごっことか、かくれんぼとか、とにかく『あいつ』と遊ぶのは楽しかった。と思う。たぶん。

正直に言うと、あんまり憶えてない。
まあとにかく、僕らはそれくらい昔からの友人だったんだよ。


小学生になっても、僕らはいつもいっしょだった。
友達も増えた。お互いに好きな女の子だっていたと思う。
それでもいつもいっしょだった。ほんとうに楽しかったんだ、と思う。

でも、身体やこころが成長するにつれて、僕は(たぶん『あいつ』も)
今までなにも思わなかったようなことに疑問を抱いたりするようになった。

たとえば僕。「自分は『あいつ』とは違うんじゃないか」、とか。


いや、そりゃあ『僕』と『あいつ』は違うよ。別人だ。
『あいつ』は、身体を動かすのが得意で、物事をはっきり言う。
顔もいいし、気も利くし、すごくいいやつなんだ。

それに比べて『僕』は、運動は苦手、
必要最低限の会話はするが、はっきりと物を言わない。
顔がいいわけでもなければ、特別気が利くわけでもない。
そんな、クズの鑑みたいなやつだったんだ。まあ、今でもそうなんだけどね。

僕らは違うんだ。
そのとき思ったんだ。僕は『あいつ』より劣ってるって。
似ているのはテストの点数だけなんだって。ばかみたいだろ?


僕は、それが不満だった。
なにをやっても『あいつ』には勝てないような、そんな感じがしてさ。
まあつまり、僕はその頃くらいから、『あいつ』に対して劣等感を抱くようになった。
僕が本を読むようになったのもその頃だったと思う。『あいつ』は本を読むのが好きじゃなかった。

こういうのが、僕のだめなところだ。分かってはいるんだけど、どうしようもない。


僕らは中学生になってもいっしょだった。
皮膚の内側で燻る劣等感を忘れたり押し殺したりしながら、いっしょに遊んだり勉強したりした。
楽しかった。と思う。もう分からない。

高校も同じだった。
でも、その頃――僕が『君』と出合った頃くらいから、
僕と『あいつ』が会話を交わす回数はちょっとずつ減っていったんだよね。
そして、『あいつ』に対して抱いていた劣等感もゆっくりと消えていった。

僕は『君』と仲良くなれたことに、すっかり舞い上がってたんだと思う。
そのときは、すっかり消えた劣等感のいた場所に、『君』が居座ってたんじゃないかな。


僕は『君』のことについて、たまに『あいつ』に相談するようになった。
夏祭りにどうやって『君』を誘うかってのも『あいつ』に相談した。
あの学校で頼れるのは、『あいつ』しかいなかったからね。

……『あいつ』は、どんな気持ちで僕の話を聞いていたんだろうか。

……こういうのも、僕のだめなところだ。分かってる。
だから『君』はいなくなったのかもね。僕がくそったれのだめ人間だから、さ。

でもね、僕は今の自分が好きなんだ。だめな自分が大好きなんだよ。
綺麗になってやろうなんて、一度も思ったことはない。

たぶんこれが、僕の最もだめな部分だ。


話がずれたね。

僕ら――『僕』と『あいつ』の関係は、結局、僕らが大学生になっても続いた。
そう。『僕』と『あいつ』、それに『君』は、同じ大学に入った。あほみたいだろ?

そして大学生のときに、僕ら三人の繋がりは消えた。
いや、僕だけが切り離されたのか。あれは僕と君の仲を引き裂いて、僕だけを置いていった。





『僕』と『君』の話をしよう。
まあ、それほど話すこともないと思う。

僕らが一つになれたあの夏祭りの日から、
特に大きな壁にぶつかることもなく、僕らは高校を卒業した。
そして僕らは同じ大学へ進んだ。

大学生になった僕らはそれぞれ、ひとり暮らしを始めた。僕も君も、あいつも。
あほみたいに寒い、狭いアパートでの生活は、苦しいながらも充実していたと思う。

学校も楽しかった。新しい友人もできて、いっしょにいろんなところへ遊びに行った。
僕らを縛り付けるものはなにもなかった。いや、まあ、そう思い込んでいただけかもしれない。
とにかく、僕は『自由』になれたって、そんな感じがしたんだ。

きっと、『君』も楽しかっただろうと思う。
お願いだから、そうであってほしい。


大学生になってからの僕は、君と過ごす時間が増えた。
いろんなことがあったなあ。

君は僕んちに泊まりに来たり、満月の夜に僕といっしょに散歩したりした。
手を繋いだりしてさ、楽しかったよ。なんだか、すごい昔のことのような気がする。

夏が来ればいっしょに花火を見て、年を越せばいっしょに神社に行った。
クリスマスにはプレゼントを渡し合ったり、くだらないことでいがみ合ったりもした。
そんなことがあるたびに、僕らは意味もなく写真を撮った。何枚も、何枚も、何枚も撮った。

これ以上にないってくらいに、僕は幸せだったんだ。


君が泊まりに来た日は、僕らは同じ布団に包まって、寄り添って、
窓から見える月や星を眺めたりした。あと街灯とかも。
真っ暗な部屋で、「綺麗だね」とか「昔は~」だとか、いつまでも話し合っていた。
君といるとあったかくてさ、僕はいつの間にか寝てるんだ。

そんで次の日の朝、僕が起きると、君は鼻唄を歌いながら
台所で卵を焼いたりしててさ、まるで夢みたいな日々だった。

でも、夢っていつか醒めるもんだろう?
朝日が昇るのと同じ。いつか僕らが死ぬのと同じ。そういうルールなんだ。
そう考えると、なんだか怖くなったんだ。だから僕は君に訊いた。

「どこにも行かないよね?」、って。どっちが女なのか分からなくなるね。

そしたら君は、「大丈夫、どこにも行かないよ。
私たちはそういう風になってるの」って、笑顔で答えてくれたんだ。


あの日も、そんな幸せな日になるはずだった。
いやでも思い出せる。
あれは、僕らが大学二回生の冬。二月の十四日。バレンタインデーだった。





その日、僕らの住んでいた町では、めずらしく雪が積もってたんだ。
誰もが分厚いコートやジャンパーを羽織って、白い呼気に身を包みながら町を歩いていた。
空気を吸い込んだら肺が凍るんじゃないかってくらい寒い日だったよ。いや、言い過ぎか。

まあいいや。

その日の前日、二月十三日。『君』は僕んちに泊まりに来てた。
明日がバレンタインデーだからとかそういうわけではなくて、
休みの日になると、僕らはいつもいっしょに眠ったんだよ。
読んで字の如く、ふたりで寄り添って眠っただけだ。他意はない。

僕は君と寄り添って、手を繋ぐだけでよかったんだ。
いや、『だけで』って言えば嘘になるけどさ、それでも僕は幸せだった。
だからその日の前日の夜も、いつものように
同じ毛布に包まって、寄り添って、窓の外を眺めてた。


よく冷える、雪の降る夜だった。
風が窓を叩く度に、かたかたって小さな音がさ、狭い部屋に響くんだよ。
窓には少し雪がへばりついてて、その向こう側は真っ暗。
遠くには、暗闇に浮いてるみたいに街灯の光が見えるんだ。ひとつだけ。

「明日はいっしょに出かけよう」

そんな夜でも、『君』は平気でそんなことを言う。笑いながらさ。
でも、君がそんなことを言う日は、いつも晴れるんだ。
たとえ君が、「雪が降ってるほうがロマンチックだよねえ」
なんて言っても、いつも快晴なんだよ。残念なことにさ。

だからってわけじゃないけど、僕は頷いた。
「うん、そうしよう」断る理由もなかったしね。


「なにか買うの?」続けて僕は訊いた。

「うん。でも内緒だよ。明日教えてあげる」

「そりゃあ楽しみだね」

それから僕らはだんまりで窓の外を眺めていた。
しばらくすると僕は、「何時間くらい経ったんだろう」ってちらりと時計を見るんだ。
まあ、実際には数十分しか経ってなかったりするんだけどね。
不思議な時間だよ。僕はこの時間が大好きだった。


「明日は雪が降ったらいいなあ。なんか、そんな気分」君はそう呟いた。

僕は、「きっと降るよ」なんて言って返してみせるんだけど、
頭の中では「明日は間違いなく晴れだ」って思ってたよ。

それに、僕は雪があまり好きじゃないんだ。晴れも別に好きじゃない。
僕は雨が好きなんだ。雨と言うか、傘と雨音が好きなんだよ。

まあ、どうでもいいね。


翌日、二月十四日は、あほみたいにいい天気だった。
思わず君に「さすがだね」って言ってやりたくなるような快晴だったね。
でも、ばかみたいに寒かったよ。
炬燵と君がいなけりゃ、僕は死んでたんじゃないかな。

その日の朝、僕は炬燵に入りながら、
君が焼いてくれたパンと卵をかじっていた。いつものようにね。
あと、君の淹れてくれたインスタントのコーヒー。
なんで他人に淹れてもらったコーヒーってのはあんなに美味いんだろうか。
いや、あれは君が淹れてくれたからだったのかな。

まあ、そんなことはどうでもいいんだ。


「結局、今日はどこに行くの?」僕は訊いた。

「行ってからのお楽しみ」君は、いつものように笑いながら言う。

僕はそれ以上なにも訊かなかった。
「そっか」、って返事をするだけでさ。
ほんとうは、どこに行くかなんてどうでもよかったんだよ。


午前十一時頃、僕らは駅まで歩き、電車に乗って大きな町に出かけた。
着いたのは午前十一時半頃だったと思う。
幅の広い道路、歩道を埋め尽くす人の群れ、大きな歩道橋、聳え立つ幾つもの建物……。
なんだか、遠い世界に来たような気分だった。いい気分だったよ。最高だった。と思う。

結局、なにを買いに行くのかは分からないままだった。最後まで分からなかった。
チョコレートか、本か、ブックカバーか、コンドームか、
それとも別のなにかだったのか。未だに分からないんだ。

いや、まあ別になんでもいいんだよ。理解する必要はない。
僕が今頃それを知ったところで、なにかが変わるわけでもないだろうしさ。
もう全部、終わったことなんだ。




突然だったよ、ほんとうに。なにが起こったのか理解できなかった。

そのとき、僕らは駅前の大通りの歩道を歩いてたのさ。
君は新雪を踏んだときに鳴るあの音が好きらしく、
「いい音だよね」だとか「僕も好きだよ」だとか、
僕らはそんなくだらない話をしていたんだよ。


そしたら突然、僕は身体が吹っ飛ばされるような、今まで感じたことのない衝撃に襲われた。
それに続いて視界がぐるぐるしてさ、
まるでなにか硬いものにぶつけたみたいに身体中が痛みだしたんだ。特に頭が痛かった。

僕は目を瞑りながら、痛みが去るのを待った。
でも、なにかがおかしいんだよ。
痛みは和らぐどころかどんどん強くなってくしさ、顔と手がやたら冷たいんだ。

僕はゆっくりと重い瞼を上げた。
ぼやけて目に映るのは、雪と靴とタイヤばっかり。
僕の目線は地面とほぼ同じ高さにあった。

つまり、僕は地べたに這いつくばるように寝てたんだ。
寝てたというか、倒れていた。いや、倒されたというべきか。


まあとにかく、僕は痛む腕に力を込め、重い身体を起こしたんだ。
そして今の自分が置かれている状況を把握するために、
目をぎょろぎょろ動かしたよ。頭は動かしたくなかったからね。

ぼやける視界に入り込むのは、何人かの倒れた人だった。
そう、僕以外にも何人かが地面を這うように倒れていたんだ。
彼らは「ああ」だとか、「うう」だとか呻いていた。
痛みが少しでも和らいでくれるのを待ちながら、
誰かに助けてほしいと思いながら、声を絞り出してたんだと思う。

そんな傷ついた僕らを囲うように、たくさんの人間が立っていた。まるで野次馬みたいにさ。
「救急車呼べ!」「警察! 警察!」なんて声を張り上げる人もいたけど、
彼らのほとんどは笑ったり、恐怖したり、携帯をいじったり、写真を撮ったりと、忙しい様子だったね


僕は「こいつらなにを撮ってるんだ」と思って、
みんながカメラを向けてるほうを見たんだ。

そしたらさ、目の前のショッピングモールに車が突き刺さってるんだよ。
白い車。あれ、ハイゼットっていうのかな。よく分かんないけど。
まあとにかく、ガラスをそこらに撒き散らして、
煙を吐きながらそいつはそこに突き刺さってたわけだ。

そりゃ非現実的な光景だったさ。
でも、身体中の痛みが僕に、「これは現実だ」って教えてくれるんだ。

そのとき、ようやく理解した。
僕は――僕らはあれに撥ねられたんだって。
そしてほとんど同時に思った。

「『君』は、どこだ?」って。


僕はふたたび周囲を見回した。
まるで目の前に霧がかかったみたいにぼやけた視界を
もとに戻そうと、思いっきりかぶりを振った。何度も振ったさ。

頭が酷く痛んだよ。
かぶりを振るたびに、まるで鉄の塊が頭蓋骨の内側にぶつかるような、
そんな痛みに襲われた気がした。いや、言い過ぎでもないよ。
痛くてたまらなかったけど、そんなことはどうでもよかったんだ。
頭からは血も滴っていたけど、それも別に大したことじゃない。

そして僕は君を見つけた。僕から数メートル離れた場所に君は倒れていた。
赤く滲んだ雪の上でさ、死んでるみたいに横たわってたよ。

僕は跳ねるように君に駆け寄った。
必死だったよ。痛いとか言ってる場合じゃない。
生きててくれって願うしかなかった。


「――! ――!!」

僕は君の身体を抱きかかえて、何度も名前を呼んだ。
声は返ってこない。
君は目を閉じて、頭から血を流して、ぴくりとも動かないんだよ。

死んじゃったんじゃないかと思った。ほんとうに怖かった。
「どうしてこんなことになったんだろう」だとか
「このまま君が目を醒まさなかったらどうしよう」とか、いろんなことを考えたさ。

君は僕の世界を変えてくれたんだ。君は僕に居場所をくれた。
君がいなくなるってのは、僕の世界が終わるのと同じことなんだよ。

でも君は死んだように、ぴくりとも動かない。声も発さない。
僕の世界は滞ってしまったんだ。ほとんど終わりかけてたよ。


どうしようもないほど悲しかった。恐ろしかった。
置いてけぼりをくらった子どもみたいに寂しかった。
そして同じくらい、むかついた。

僕は君がこんな目に遭ってるのに、なにもできないんだ。ほんと、だめなやつだよ。
自分はこの世で最も使えない人間のような、そんな気さえした。
僕はクズだ。できることなら、君と同じ目に遭わせてやりたかったよ、このクズをさ。

そして、あともう一人を。


僕は煙を吐き出す車の隣に立っている男を睨みつけた。
あの車の運転手、つまり僕らを撥ねやがった男だ。
おそらく歳は四十代の中頃。中肉中背。色黒の坊主頭。
あと、なにかの作業着みたいなのを着てた。
感じの悪いやつだった。僕らが撥ねられる前にそいつを見ても、おそらくそう思っただろう。

そしてこの男が、僕の『この世で最も嫌いなやつ』だ。
そいつは僕の視線に気づくや否や、口をひらいた。


「はあ……」

そいつ、ため息を吐きやがったんだ。
挙句の果てには、「あーあ」だとか
「やっちまった」だとか、ぶつぶつ独り言を喋り出すんだよ。

ぼやく前にやるべきことがあるだろう? 糞爺が。
僕は強い憤りを覚えたよ。今すぐにでもそいつをぶっ殺してやりたかった。
でも耐えた。必死だったさ。


しばらくすると、何台かの救急車が来た。
サイレンの音が痛いほど鼓膜に響いて、赤い光が鬱陶しいほどまぶしく見えた。

救急車を待っている間も、僕は君になにもしてやれなかった。
君の身体を抱きしめて、手を握ることしかできなかったんだ。
こんな風にいなくならないでって、祈ることしかできなかったんだよ。

君と僕は救急車に乗り込んだ。君は動かない。
最後にもう一度だけ振り返ったら、さっきよりも野次馬が増えてた。
みんながみんな、事故現場の写真を撮ってたんだよ。僕らの気も知らずにさ。
胸糞が悪かった。なんだか、見てはいけないものを見たような気がしてさ。

ものすごく胸糞が悪かったんだよ。





あとから知ったことだが、事故の原因は
スピードの出し過ぎからの急ブレーキによる、スリップだったらしい。
雪で路面が凍結していたので、
ほとんどスピードは落ちずに車は歩道に乗り上げた。
そして人間と建物にぶち当たった。運転手は無傷だってさ。糞が。


負傷者十三名。死者一名。
亡くなったのは三十代後半の男性。妻も息子も娘もいたらしい。

でもさ、こんな事故、いずれはみんなの記憶から消えるんだ。一ヶ月も経てばみんな忘れてるね。
馬鹿みたいに写真を撮ってた、あいつらの頭の中からも消えてるんだ。間違いない。

なんなんだよ。なんなんだよ?
僕らがいったい何をしたって言うんだい? 誰か教えてくれよ。





「私、もう歩けないんだって」
なんてさ、君は弱々しく微笑みながら言うんだ。
病室のベッドに横たわりながらさ。
僕はなにも言ってやれなかった。

「なんなんだろうね、これ。まるで、
出来の悪いショートストーリーみたいな展開だね」君は涙声で言う。

それには概ね同意するが、笑えない冗談だ。
伝えるべき言葉が見つからない。君は泣き始めてしまった。
僕は黙って君の手を握った。

「なんなんだろうね、これ……」

僕はベッドのすぐそばにあるカーテンを開け、窓の外の景色を眺めた。
もう、どこにも雪は積もってなかった。
なにごともなかったかのように、むき出しのアスファルトの上を車が過ぎ去ってゆく。


事故から数日が経った。
相変わらず、ばかみたいに寒い日が続いていたよ。

僕は元気です。あんな事故でも、頭に包帯とかすり傷で済んだよ。残念ながらね。
でも『君』は、あの事故により歩く力、二本の脚で立つ力を失ってしまった。
そしてその力は、もう二度と戻ってこない。君は脊髄を損傷した。

細かいことはよく分からない。でも君が言っていたんだ。
「わたしはせきずいにきずがついちゃったから、もうあるけないんだ」って。
そのときの君の声は、『言葉』というよりも『音』のように聞こえた。
小鳥が囀るような、今にも消えてしまいそうな、そんな音だった。



「せきずいそんしょう、だって」君は言う。

「そんな……」

信じたくなかった。どうして君だけが、って。
後悔の念みたいなものに潰されそうになったよ。
悲しくて、悔しくて、泣きそうにもなったさ。

「どうして**がそんなにかなしむのよ?」

「いや、ごめん……。でも……」

君の目を見て話せなかった。どうすればよかったんだろう。
君を見てたら、眼球から罪悪感の渦みたいなものが、僕の内側に入り込んでくるんだ。


「……ありがとね。しんぱいしてくれて」

「うん……。あのさ、僕にできることがあるなら
なんでも言ってね。力になるからさ」

「……じゃあ、ひとつだけおねがい」君は弱々しく微笑んだ。
「どこにもいかないで。もしどこかにいっても、ちゃんとかえってきてね」

君は僕にそう言ってくれた。
許されたような気がしたよ。なにに許されたのかは分からないけど、とにかくそう思った。

「大丈夫だよ。僕らは、ずっとそばにいるようになってるんだ」

だから、僕はそう言った。





君はいつか言っていたね。
「私に兄がいてもいなくても、たぶん**君には関係ないよ」ってさ。
さっき思い出した。

あれは、三月の初めの頃だったか。
冬でもなければ春でもない。そんな気温が続いてたよ。
君もだいぶん落ち着きを取り戻して、リハビリに励んでいる頃だった。


病室の戸を開けると、君のベッドの脇に見知らぬ男が立っていたんだよ。
歳は二十代中頃。背広が似合いそうな好青年ってのかな、背も高かったし、
まるで僕とは別の生き物みたいなやつだったよ。
人間で例えるなら、まさしく僕とは正反対。
綺麗な人間って感じ。第一印象はそんな感じだった。

まず僕は、「誰だこいつ」って思ったね。
当たり前だろう。男だからなおさらだ。

「あー、どちらさま?」長身の男は言う。
こっちの台詞だって言い返してやりたかったけど、僕は抑えたよ。

「えー、僕はですね……」その僕の声にかぶさるように、『君』は囁く。
「お兄ちゃん。この人がさっき話してた人。**君」


そして君の声を聞いて、僕と長身の男はほとんど同時に声をあげた。「あー」

「あなたがうちの妹の彼氏さんか」

「あなたが彼女のお兄さん」

僕らは確認し合うように言った。
お互いに頷きながら、「あーあーあーあー」とか言ってさ。あほだよ、ほんと。
あーあーあーあー、あーあーあーあー。……

「いつまでやってんの?」

君は恥ずかしそうに頬を赤く染めながら言った。


僕もお兄さんも口を結び、苦笑いを浮かべた。
僕はこのとき、この人とは気が合うんじゃないか
と思ってたけど、別にそんなことはなかった。

僕らは似てるんじゃないかって思ったりもした。
でも、別にそんなこともなかったんだよ。
いや、そうでもないのかな。分かんないや。


それからしばらくしたら(というか、僕が来てから
ほとんど時間も経たないうちに)、お兄さんは捨て台詞を吐いて退室した。

「さて、俺は帰るとするよ。あとはごゆっくり」

僕は頭を下げて、君は手を振って彼を見送った。


これが『君』の兄――僕の『この世で二番目に嫌いなやつ』との出会いだった。


「じゃ、私も。これからリハビリなの。せっかく来てくれたのにごめんね」

「ん、そっか。無理しないでね」
僕は笑顔で返した。ほんとうはちょっと寂しかった。

「うん、ありがと。あ、ちょっと、ひとつお願いがあるの」

「なんなりとどうぞ」

「私を、車椅子に乗せてほしいの」

「おまかせください」

「なにその喋り方」君はけらけらと笑う。
僕はちょっと嬉しくなった。昔に戻ったみたいでさ。


僕は君を抱きかかえ、車椅子に乗せた。君はあったかかった。
お姫様抱っこってのかな、あれ。思った以上に重労働だったよ。息が切れた。

「うむ、苦しゅうない」車椅子に座った君は満足そうに笑った。

「そ、そりゃあよかった」

「……ねえ、私ってそんなに重い?」大きく息を吸う僕に、君は言う。むせた。

「い、いや、久しぶりに筋肉を使ったというか、
久しぶりに本より重いものを持ち上げたというか……」

君は呆れたように笑った。ほんとうなんだって。

「じゃあ。また来てね。待ってるからね」





そして『僕』は、それからしばらく『君』と話さなくなる。
次に話をするのは、このときから一ヵ月後だ。





電話の向こうの君は言うんだ。
「私は大丈夫だから、頑張るから。だから、待っててね」って。

だから僕は言ったんだ。
「ずっと待ってる」って。

言葉は、機械を通すと力が薄れるんだろう、きっと。
目の前に人間がいて、声があって、初めて言葉は力になるんだ。
と、僕は何度も思った。何度も、何度も、そう思った。


◆ 7〈現在4)


妹の天気予報は大正解だった。
灰色の厚い雲が空を覆っていて、そこから
いくつもの雨粒が地面に突き刺さるように降ってきている。
昼なのか夜なのか夕方なのか、今がどれくらいの時間なのか分からない。中途半端な暗さだ。

僕は雨音を聞き、ふと我に返った。
いつの間にか式場の外にいた。屋根の下だ。隣には妹もいる。
今、何時だ? 結婚式は終わったんだっけ? 僕はどうしてたんだっけ?
なんにも思い出せないけど、なんだか別にどうでもよくなった。

でも僕は、とりあえず隣の妹に訊いた。「なあ、結婚式、終わったのか?」

「終わったよ。全部、終わった」


「……そっか」

悲しいとか腹立たしいとか寂しいだとか、
そういう気持ちは一切湧いてこなかった。ただただ、むなしかった。
自慰行為のあとの、あのやるせない、くたびれた感じに似ていたと思う。
君への想いと緊張の糸みたいなものがほぐれて、消えて、一気に疲れが押し寄せてきたんだ。

このまま眠ってしまいたい。永遠に目を醒まさなくたっていいって思えたよ。
風が涼しくてさ、雨音がすごく心地良いんだ。
でも、ときどき遠くから聞こえる車のクラクションが、僕をいらつかせた。
うるさい。黙れ。うるさい。五月蝿い。……


「あー、……**さん?」

そしたら、後ろから名前を呼ばれた。
僕はまず思ったね。「誰だこいつ」って。なんだか懐かしかったよ。

僕は振り返った。見たくなかった顔が、僕の目に映った。

『お兄さん』だ。『君』の、ね。

相変わらず『綺麗な人間』に見えたよ。
さわやかな愛想笑いを浮かべながら、彼はそこに立っていた。
ものすごくむかつく笑顔だったよ。思わず殴ってやりたくなるほどだ。


「お久しぶりです」でも僕は苦笑いで返してやった。
あまりこの人と関わりたくない。

妹は不思議そうな顔で僕とお兄さんを交互に見ている。
僕とお兄さん。――まあ、ナメクジと孔雀みたいなもんさ。
ナメクジと孔雀が喋ってたら、そりゃあ
誰だって怪訝な表情を浮かべるだろう。いろんな意味で。

「久しぶり。今日は来てくれてありがとう」

「はあ……、どうも」ああ、糞、うるさい。
イライラする。どうして我が物顔なんだ、こいつ。

「どうだった? 結婚式。なかなかよかったと思うんだけど」

「そうですね。完璧でしたね」

僕の怒気の滲む声で会話は終了した、ように思えた。
でもお兄さんはそこから動かなかった。


「……で、なにか用ですか?」僕は渋々訊いた。

お兄さんは待っていましたと言わんばかりに口をひらいた。
「ああ、花嫁――うちの妹について話したいことがある」

「……聴きたくないって言ったらどうします?」

「まあ、そう言わずに」
お兄さんはポケットを漁りながら、「妹から預かってきたものもある」

糞が。「……なんですか。話したいことって」

「ああ。**君と俺の妹が別れる前の話だ。
君が病院に来なくなってからの一年間の話だよ。空白の一年ってやつかな」





『来なくなってから』って言うより、俺が『追い払ってから』って感じか。
……そんな怖い顔しないでくれよ。悪かったとは思ってる。

まあ話していく。

俺が君を追い払ってから約一ヶ月間、妹はずっと君の話をしてたよ。
「次はいつ来るんだろう」とか、
「今日も来なかった」とか、「いい人なんだよ」とか、
鼓膜に穴が開くんじゃないかってくらい聞いたさ。

でも、君はいつまで経っても来なかった。……睨まないでくれよ。


そしたらあいつ、しまいには泣き出すんだ。
「なにかあったのかな」って、「私、なにか悪いこと言っちゃったのかな」って。
君は、うちの妹にえらく懐かれてたみたいだよ。

まあ、さすがに俺も苦しくなって言ったんだ。
「俺が追い払った」って。いや、実際にそう言ったわけじゃないぞ。

そしたらあいつ、「そっか」って言って、車椅子に乗ってどっかに行っちまった。
たぶん、公衆電話で君に電話をかけに行ってたんだと思う。
でも、君は次の日も、その次の日も現れなかった。ちょっと不思議だったよ。


「『待っててね』って言われましたからね」

そうか。……もしかしたら、君に心配をかけたくなかったのかもね。
もしかしたら、君に幸せになってほしかったのかも。


病室に帰ってきた妹は泣き止んでた。
たぶん、「君に嫌われたわけじゃなかったんだ」って、安心したんだろう。
その日から、君の話を聞く回数も減った。代わりに、本を読んでいる時間が増えた。


君が来なくなってから約二ヶ月が経った頃だったと思う。
あいつ、ときどき目が虚ろになって、
じーっと窓の外の通行人を眺めたりするようになったんだ。
それと、たまに読んでる最中の本の
同じページをひらいたまま、動かなくなったりしてさ。
俺が「大丈夫か」って訊くと、あいつは
いつも、「昔のことを思い出してた」って言うんだ。

寂しかったんだろうと思う。


話は変わるが、妹のところには
何人もの人がお見舞いに来てくれたよ。
花婿も、そのうちの一人だった。
彼、君が来なくなって二ヶ月経った頃くらいから、
ほとんど毎日お見舞いに来てくれてたんじゃないかな。

一応、俺も社会人だし、毎日妹のお見舞いに行ってたわけではないんだ。
でも、俺が病室に入ると、いつも彼は妹の隣に座ってた。
彼、身体は大きかったけど、優しそうな感じだったね。

「僕とは違って、ですか?」

……気を悪くしたんなら謝る、ごめん。


……彼ら、楽しそうだったよ。
いつもふたりで本の話をしてた。

「本? 小説? 『あいつ』が?」

そうだよ。彼、あまり本を読まなかったのか?

「僕が知ってるあいつは、本を読むのが大嫌いでしたから」

「……『愛は人に奇妙なことをさせる』らしいよ、にいちゃん」

愛、ねえ。……そんな悲しい顔するなよ。


彼が来るようになってから、あいつはゆっくりと調子を取り戻していった。
虚ろな目で昔を思い出すこともなくなったし、よく笑うようになった。
元に戻ったんだよ、彼のおかげで。
……いや、君が悪いってわけじゃない。そんなに落ち込まないでくれ。

「……もういいです」

……君が来なくなってから、一年が経った頃だったか。
まあ、妹は事故からだいたい半年くらいで退院してたんだけど、
それをなかなか君に言えなかったんだろう。大学も辞めたし、なにより
あいつは君との約束を破ってしまったってことを気にしてた、と思う。


「……もうやめてください」

でもあいつは、……いや、あのふたりは君に言うって決めたんだろう。
でないと、君もあのふたりも、宙ぶらりんのままだったはずさ。
中途半端な想いをぶら下げたままなんて、いやだろう?
だから、あいつは君に最後の電話をかけた。

「やめてくれ……」

……そうだな。悪かった。
もう、特に話すこともないよな。





「はい、これ」
お兄さんはポケットから取り出したそれを、『僕』に差し出した。

ブックカバーだった。

いつかのクリスマスに、僕が『君』に送ったプレゼントだ。
僕はそれをじっと見つめながら思い返した。


――いったいどこで間違ったんだろう。

たとえば、僕が『お兄さん』の罵声に負けずに君に会いに行ってたら。
たとえば、僕が『お兄さん』と会わなかったら。
たとえば、僕が『お兄さん』を殺していたら。

たとえば、僕が『あいつ』と友達じゃなかったら。
たとえば、僕が『あいつ』を殺していたら。
たとえば、僕が『僕』じゃなかったら。

僕は、幸せになれただろうか。

いや、たぶん、無理だ。こういう運命なんだ。
あきらめて、忘れて、転がり落ちるしかないんだ。
そう自分に言い聞かせていないと、
自分の中で通してきた信念みたいなものが、崩れ去っていくような気がした。


「妹が、君に返しといてくれって。「今までありがとう」って」

僕はブックカバーを受け取り、カバンに仕舞った。
「妹さんに言っといてください」それから、大きく深呼吸した。


「結婚おめでとうって、あの子に言っといてください」


悔しい。こいつのせいで僕は。
悲しい。結局、君と話すことなく、君は行ってしまった。
寂しい。居場所を失ってしまった。
どうすればいいんだい。誰か教えてくれよ。

僕は振り返り、思いっきり駆け出した。
そうしないと、その場で泣き崩れてしまいそうだったから。
だから僕は走った。走りながら涙をぼろぼろ流したさ。
ようやく完全に理解したんだ。

追い討ちをかけるように、大粒の雨が僕を撃つ。
服もカバンも、もちろんブックカバーも、水浸しになった。
でも今更そんなことどうでもよかった。
雨でも雷でも嵐でも竜巻でも太陽の光でも、なんでも来てくれ。
誰か僕を消してくれ。

後ろのほうで、妹の声が聞こえた。
なんて言ってたのかは聞き取れなかった。
別にどうでもよかった。
とりあえずあの場所から逃げ出したかった。


「お前が妹の脚を奪ったんだ。お前さえいなければ……」
幻の声が聞こえる。お兄さんの声だ。怒っている。
「もう妹に近寄らないでくれ」

違う。僕じゃない。僕が奪ったんじゃない。

「私たち、だめになっちゃったね」
電話の向こうの『君』の声。悲しんでる? 喜んでる?

「じゃあ、ね」

いやだ。待って。まだ言ってないことがたくさんあるんだ。

「にいちゃん」
妹の声。優しい声。「大丈夫だよ」

なあ、助けてくれよ。





僕の戦いは完全に終わった。
もう復活戦も延長戦もない。
いったいなにと戦ってたのかは
分からないけど、とにかく終わった。

僕は負けたんだ。それだけは分かる。


◆ 8(回想4)


「お前が妹の脚を奪ったんだ」

なんてさ。
ありもしないことを言われたんだ、お兄さんに。病院の前でさ。
空気には、まだ冬の寒さが残っていた頃だ。三月のはじめだよ。

まあ傷ついたよ。僕が悪かったのかなって。
もしかしたら、僕は君に恨まれてるのかも、って思ったりもした。


こうやって考え始めると止まらないんだ。
なにかの栓が抜けたみたいに、僕の頭の中に不安や疑問があふれ出すんだ。
僕の悪い癖だ。思い込みが激しいんだよ。

君は僕の顔なんて見たくないかもしれない。
君は僕の脚を奪ってやりたいと思ってるかもしれない。
君は僕のことを嫌いになったかもしれない。

止まらないんだ。
そうやって考え始めると、君に会うのが怖くなっていった。
そんな僕に追い討ちをかけるみたいに言うんだ、彼。

「もう妹に近寄らないでくれ」、って。


お兄さん、めちゃくちゃ怒ってた。
そりゃあ、可愛い妹が歩けなくなったって聞いたら、僕だって悔しいし怒るだろうさ。
だからお兄さんの気持ちは分からなくもないんだけど、

たまったもんじゃないよ。
悪いのは僕じゃないだろう? そうだろ?
そうだって言ってくれよ? なあ。

でも、そのときの僕はまともな判断ができなかった。
僕が全部悪いって思い込んだ。ばかだよ。

だから僕は、幻の罪悪感に締め付けられて、
その場から逃げるように走り去った。
大事なものを、全部そこに忘れて、置いてきてさ。

この日からしばらくの間、僕は君と話さなくなった。





「私たち、だめになっちゃったね」

僕らが事故に遭ってから約一年後、三月の始め頃。
『君』から電話がかかってきたんだ。「終わりにしよう」って、さ。

まるで悪夢を見てるみたいだったよ。
電話から、君の声が聞こえるんだ。
『聞こえる』と言うか、意味のない音の羅列が
僕の耳に『流れ込んでくる』ような、そんな感覚だった。
内容を理解するのに、何分もかけたさ。

そして僕はなんとなく理解した。
僕らは、ばらばらに、なるんだ、って。


でも、僕は納得できなかった。どうしても君のことが諦められなかった。
頭に浮かぶのは、あのときの君の言葉だけだった。
「待っててね」って、君は言ったんだよ。僕に。
諦められるわけがないだろう。

……今思えば、あのときの僕にはストーカーの素質があったのかもね。
いや、今でもか。

まあいいや。


その日から、僕は何度も同じ夢を見るようになったんだ。
『君』の夢だよ。悪夢ってやつだ。

夢の中の僕は、真っ暗な場所に立ってるんだ。
名前も知らない場所さ。
もしかしたら、名前すらない場所だったのかもね。
とにかく真っ暗なんだよ。

でも、唯一、『君』だけが僕の目に映るんだ。
夢の中の君は僕の前に立ってるんだ。二本の脚で、自らの身体を支えているんだよ。
あれは幻だったのかもしれない。いや、夢の中だから、当たり前か。

夢の中の僕は嬉しそうに、その幻の君に話しかけるんだ。
君は笑いながら僕の話を聞いてくれるんだけど、しばらくしたら、
どこかから別の声が聞こえるんだ。『あいつ』の声だよ。

そしたら君は、振り返って、声の方向に駆け出すんだ。
僕とは逆方向にさ。


僕は必死に追いかけようとするんだけど、その場から一歩踏み出したら、
足が、真っ暗な地面に沈んでいくんだ。
どんどん沈んでいって、やがて動けなくなるんだよ。
でも僕は必死こいて君に手を伸ばすんだ。でもまったく届かないんだよ。

だから僕は、大声で君を呼ぼうとした。そしたら、その瞬間に首がちょん切れてさ、
僕の頭は地面に転がるんだ。頭には僕の意識が残ってるんだけど、なにもできないんだ。当たり前だけど。

そしたら君は言うんだ。「じゃあね」って。
最後に僕の耳に届くのは、君の軽やかな足音だけになるんだ。

君は僕を置いて、無視して、忘れて、遠くに行くんだ。
悪夢が醒めるまで、頭だけの僕は、君の足音を聞き続けるんだよ。


どうにかなりそうだった。
何度も、何度も同じ夢を見た。毎日のように見たさ。
枕と布団が、怖くてたまらなかった。
夜が恐ろしいものなんだって、初めて思った。
でも僕は頭を麻痺させて、君の言葉を信じながら眠ったんだよ。

「待っててね」

僕はずっと待ってた。
でも、それは間違いだったのかもしれないね。





三月といえば、別れのイメージがある。
僕だけなのかな。まあいいや。

三月のはじめ。僕が君と離ればなれになった頃。
その日の朝、めったに鳴らないドアのベルが鳴ったんだ。

期待せずにはいられなかった。もしかしたら、もしかしたらってさ。
ばかみたいだよ。ほんとうは分かってたんだよ。これは君じゃないって。
分かってたさ。
でも僕は捨てきれない期待を背負いながら、ゆっくりとドアを開けた。


「やあやあ、にいちゃん、元気?」

妹だった。


「と、いうわけで、今日からよろしく」妹は笑いながら言う。
僕はちっとも笑えなかったけどね。

三月は別れのイメージなんだよ。卒業式があるからね。
まあこの年、僕の妹も周りの人と同じように、めでたく中学校を卒業したわけだ。
高校受験も終わり、ほぼ自由になったこいつは
『君』と入れ替わるように僕の家に転がり込んできた。

「『と、いうわけで』って、どういうわけだい」

「いや、だから言ったじゃん。こっからのほうが高校近い、って。
だから何年かはここにいさせてって」


僕は頭をかいた。

困ったよ。そのときの僕の姿を、こいつに見られたくなかったんだ。
僕にも一応、兄としての立場ってもんがあるんだよ。
かっこ悪い部分とか、情けない部分を見られたくないし、見せたくもない。
妹だって、情けない兄の姿なんて見たくないはず。そう思いたい。
兄の弱みを握りたいってんなら話は別だけどね。

まあ、とにかく僕は困ったわけだ。

「だから、今日からよろしくお願いしまーす」

でも、ちょっと嬉しかったりもした。久しぶりに妹に会ったんだ。
それに、誰かが隣にいてくれるってのは、気持ちいいもんだよ。
『ひとり』もいいけど、やっぱり『ひとり』よりも『ふたり』だ、
って改めて思った。そりゃあ、泣きそうになるほど思ったね。

泣いてはいないよ。必死に堪えたさ。





その日は、お昼から部屋の掃除をしてたっけ。
あいつ、ぐるっと僕の部屋を見回して、「汚い部屋だねえ」なんて言うんだ。
ちょっと本が散らかってただけなのにさ。まったく失礼なやつだよ。

なんて思いながら掃除してたら、いろんなものが出てきたんだよ。
それはいつか夏祭りで買った気味の悪いお面だったり、
いつかまとめて買った古本だったり、一回も着ていない古着だったり、
君と撮った大量の写真であったり、とにかくいろんなものが出てきた。


「この写真の女の人」妹は引き出しから取り出した写真を見ながら言う。
「誰? まさか彼女とか?」

「さあね」
複雑な気持ちだったよ。なんて答えるのが正解だったんだろうか。

「ふーん」妹はひとしきりにやにやした後、写真を机に置き、ふたたび掃除を始めた。
僕はその写真を拾い、ぼーっと眺めた。


写真の中のふたりは笑ってた。楽しそうに、幸せそうにさ。
ほかの写真も見たよ。どの写真の僕らも笑ってるんだ。
僕は間違いなく幸せだったんだ。

って考えるとさ、すごく悲しくなったんだよ。
悲しくて悲しくてさ、じっとしてたら泣いちゃいそうだった。


こうなったら、掃除なんてやってる場合じゃないよ。
僕は玄関の戸を開けて家を出た。「すぐ戻る」
妹はぽかんとしていただろう、たぶん。知らないけど。

僕は自転車に跨って、思いっきりペダルを踏んださ。
二十分くらい自転車を漕いで、僕は川に向かった。
君と初めて花火を見た、あの川だよ。好きなんだ、あそこ。
忘れられないんだ。

あんなに運動したのは久しぶりだった。
息が切れて、身体が火照って、汗が噴き出して、
今にも胃液を吐き出しそうだったよ。


僕は自転車を土手に止めて、橋の上に立った。

遠くの方では、夕日が沈みかけていた。
僕の立っている真上辺りの空は、薄い紫色をしてるんだけど、
夕日の周りの空は真っ赤なんだよ。

あれだね、世界の終わりってのは、きっとこんな感じだ。

川のせせらぎとか、子どもの笑い声とか、カラスの鳴き声も聞こえたね。
いつものように、強い風も吹いてた。

いつものように、さ。


でも、隣には君がいないんだ。
すごく悲しかった。どうしようもないほど寂しかった。

僕の世界は、たぶんこのとき終わったんだ。
いや、終わってたってことに、そのときようやく気づいたのかも。





僕が家に戻ったのは夜になってからだった。
部屋はある程度綺麗にはなっていたけど、
端っこのほうには大量の本が積み上げられていた。

「おかえり」妹は笑いながら言う。「どこ行ってたの?」

「あー、ちょっとね」僕は炬燵に滑り込みながら言った。

「なに? 彼女さんに会いたくなったとか?」

「まあ、そんなところかな」

「へっへっへ、青春だねえ」

なに言ってんだこいつ。
思わず僕も笑っちゃったよ、阿保らしい。


「あ、にいちゃん、明日さ、本棚買いに行こうよ。本棚」
妹は部屋の隅に目線を送った。

「ああ」僕も部屋の隅に寄せられた本を見ながら言った。
「僕もちょうど欲しいと思ってた」

「よし、じゃあ明日だよ。あ、彼女さんとなにも約束してないよね?」

「してない、してないよ」

「へっへっへ」

もう怒る気力も湧いてこなかったよ。むしろ楽しかった。
妹と話してるのが、楽しくてたまらなかった。疲れてたんだと思う。


「んでさ」妹の話は長い。そしてオチがない。「晩御飯はどうするの?」

僕は時計を見た。午後七時半頃だった。

「どうしたい?」僕は訊いた。

「美味しいものが食べたい」

「奇遇だな、僕もだよ」

「なに言ってんの?」妹はけらけら笑った。

「そんな冷たいこと言うなよ。
……よっしゃ、どっかに美味しいもの食べに行こう。外食だ。
お前の卒業祝いってことでさ」

「いえーい」

まあ、久しぶりに楽しい日だったと思うよ。
その日は、すぐに眠ることができたんだ。人の力ってのは偉大だね。





気づいたら僕は真っ暗な場所にいた。
どこを見ても真っ暗。いや、真っ黒だったのかな。
まあどうでもいいや。

しばらくしたら、僕の二~三メートル先に人が立っているのが見えた。
見覚えのある顔だった。笑うと細くなる目。薄い唇。長い髪。
忘れられっこない。――『君』だ。
君は二本の脚で立ち、僕に微笑みかけてるんだ。

僕は嬉しくなって、君に近づくために一歩踏み出した。
そしたら、踏み出した足が地面に沈んでいくんだ。沼にはまったみたいにさ。

僕は君に助けを求めて手を伸ばすんだけど、君は僕を無視して走り去ってった。
悲しかった。寂しかった。怖かった。

大声で叫んでやりたかった。
でも、僕がそう思った次の瞬間には、僕の首は吹っ飛ぶんだ。血をどばどば吹きながらさ。
でも僕の意識は消えない。地面を転がる頭に、僕の意識は残り続ける。

君の足音が、遠ざかっていくのが聞こえるんだ。


なんてさ。
何度も同じ夢を見てるのに、夢の中の僕は何度も同じことを繰り返すんだ。
能無しだよ、あいつは。ばかだよ。


まあ結局、その日の夜も、僕は悪夢を見たわけだ。

目を醒ましても、しばらくの間は君の足音が、
耳鳴りのように頭の内側に響くんだよ。厄介な夢だよ、ほんとうに。
それに加えて、朝日が僕を照らすんだ。強烈なまぶしさだよ。
あいつ、きっと僕の目を潰したがってたんだ。

最悪の気分だったよ。だから朝は嫌いなんだ。

僕は左隣をちらりと見て、布団から出た。
もちろん、いつものように、君は隣にいない。
でも、その日はいつもと少し違ったんだ。

その日は昔――僕が幸せだった頃のように、焼けた卵の匂いがしたんだよ。台所からさ。

君は、いつも僕より早く起きてさ、パンと卵を焼いて僕を待っててくれた。

そう、待ってたんだよ。


僕は身体をあちこちにぶつけながら台所に向かった。
帰ってきた? 戻ってきた? ほんとうに? 君が?

僕は疑問に思いつつも、君が戻ってきたって思い込んでた。
冷静に考えれば分かることなのに、僕はそう思い込んでしまった。
あのときの僕は普通じゃなかったのかも。

どうかしてたよ、ほんとうに。
きっと、ほとんど毎日あの夢を見てたから、
ちょっと頭がおかしくなってたんじゃないかな。

台所には人影があった。細い、女性の、シルエット。
僕は棒立ちになってそれを見ていた。
しばらくすると、人影は振り返って、声を発した。

「おはよう」

僕は泣きそうになりながら、その人の顔を見た。


「にいちゃん」

その人は笑ってた。


僕はそのとき、ようやく理解したんだ。

『君』はいなくなった、って。

阿保だよ、ほんと。
考えれば、いや、考えなくても分かることなのに、
そんなことすらできなかったんだよ、僕は。
言い訳させてもらえるなら、僕はそれほど参ってたんだって言うよ。


「どしたの、にいちゃん?」妹は不安げに言う。

「いや、なんでもないんだ。ほんとうに……なんでも、ない、んだ」

「声が詰まってるのになんでもないわけないだろ」
とでも言いたそうな顔で、妹は僕を見ていた。

僕はその場に座り込んだ。
勝手に勘違いして、勝手に落ち込んでるんだよ。妹の前でさ。

そんな自分が恥ずかしかった。恥ずかしいやつだよ、僕は。
僕はそこで思いっきり泣いた。カラスも「うるせえ」って逃げ出すくらい泣いたよ。
でも、それは悲しいとか、悔しいとか、そういうのじゃなくてさ。

もう、なにがなんだか分からなくなったんだよ。
どうしても、そこで僕の想いを全部吐き出したかったんだ。
全部、誰かに聴いてもらいたかったんだよ。
誰かに手を握ってもらいたかった。大丈夫だって言ってもらいたかった。


むせび泣く僕の隣に、妹は寄り添うように座ったんだ。
あいつ、黙って僕の隣にいてくれたんだよ。
あいつ、僕のくっそつまらない話を、黙って聞いてくれたんだよ。長い間さ。

あいつは、この世でいちばんだよ。たぶん。





僕の戦いはこのとき終わったはずだった。
でも、僕は『君』を完全に忘れられなかった。

でも、今は違うはずさ。


◆ 9(現在5)


僕は見知らぬ町の、見知らぬ場所に立っていた。
小さな川に架かった、小さな橋の上だ。
僕には、川の場所が分かるセンサーみたいなものでも
ついてるんだろうか、と、くだらないことを思った。

川は雨のおかげで荒れていた。
濁った水がごうごうと音をたてて流れている。

雨は相変わらずだ。
相変わらず、大粒の雨が僕やアスファルトの地面を撃つんだ。
空も暗い。黒々とした雲が空を覆い、低く垂れ込め、
今にも雷でも落としてくれそうな雰囲気だった。


でも、すごく気分がよかった。最高だった。
頭のねじが、何個もぶっ飛んだような、そんな心地良さがあった。
あれだね、『自由』ってやつだね。

それと、お腹の辺りから、わけの分からない笑みが込み上げてくるんだ。
でも、それはすぐに消えた。それと同時に、身体から力が抜けてった。

そしたら、ものすごく気分がよかったのに、
なんか、全部どうでもよくなっちゃったんだ。
まるで、猿から賢者になったみたいだよ。


――僕はなにをしてるんだろう。
こんなことしてないで、早く家に帰ろうよ。

僕の中のまともな部分が、そう語りかけてくる。

――そうだよな。
もう、終わったんだもんね。

僕はそいつに返事をして、大きく深呼吸した。
雨の匂い。湿った匂いだ。心地良かった。雨ってのはいいもんだ。


「にいちゃん!」

遠い、後ろのほうで、妹の声がした。
黄色い傘を差しながら、僕のほうに駆けてくる。

「なにやってんの!?」妹は僕に傘を差し出して言う。
どうやら、これでも怒っているらしい。

「なにもしてないよ」

「ほんとに? この川に飛び込もうとか、思ってなかった?」

「ばーか」僕は笑いながら言った。「思ってないよ」

「ほんとに大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。もうどこにも行かない」

「そっか」妹は安心したように息を吐いてから、

「じゃあ、もう帰ろうよ」笑いながら、そう言った。


◆ エピローグ


僕らはひとつの傘の内側に身を寄せ合いながら、駅を目指して歩いた。

僕は雨が好きだ。
傘と雨粒のぶつかる音が、心地良くてさ。
それに、傘を差せば、周りの人の顔を見ずに済む。
そしたらまるで、傘の中が自分だけの世界みたいに見えてくるんだ。

だから僕は雨が好きだ。
雨というか、傘と雨音が好きだ。


「なあ」僕は訊いた。
「お前も、いつかいなくなっちゃうんだよな」

「そうかもね。でも、にいちゃん、ほっといたら
そのうち死んでそうで心配」妹は笑いながら言った。

「急にどしたの? にいちゃん」続けて妹は言う。

「いや、お前がいなくなったら、ちょっと寂しいかなって」

「……ふーん」ちょっと赤くなった。

「僕も心配なんだよ。お前が変な男に捕まらないか」

「もうすでに捕まってるよ」

「誰にさ」僕は、やや怒気を含んだ声で訊いた。

妹は僕を指差して言った。「にいちゃん」

「……まあ、変な男であることは認めるけど」


「ねえ、にいちゃん」妹は僕とは逆の方向を見て言う。
「あたし、どこにも行かないよ」

「いや、大丈夫だよ。ほっといても僕は死なないよ」

「……『いいでしょ? あなたのそばに立ってるだけで幸せなの』」

ものすごい恥ずかしい台詞を聞いてしまった。
リアクションに困る。むしろこっちが恥ずかしい。

「……それは、誰の言葉?」

「ひみつだよ」妹は僕に寄りかかりながら、笑った。


おしまい

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2013年11月25日 (月) 13:36:49   ID: RWKNq29J

心に響くSSだった。

2 :  SS好きの774さん   2013年12月13日 (金) 21:09:21   ID: mtFt5vgQ

よかった。
男が報われなさすぎて辛い

3 :  SS好きの774さん   2014年01月15日 (水) 00:55:31   ID: LT1te6Zb

泣けてくるSSだった。
今までで読んだSSの中で一番素晴らしい作品。

4 :  SS好きの774さん   2014年07月30日 (水) 22:34:03   ID: vDTABI89

悲しいSSだなー

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