杏子「これがあたしの望んだこと」(15)
血なまぐさい情景。
無残にも散っていった、かつて人を成していた肉の塊は赤い液体と鼻をつく鉄の臭いであふれかえっていった。
異常な空間に、異常な物体。それがさっきまで生きていたなんて思えない。
杏子「これが……あたしの望んだことなのか」
そうだ、と、はっきりと聞こえた。もう、誰も否定してくれなかった。
********
逆走
********
杏子「……」
街の中。人通りの多い商店街。
何もかも無くなったあたしが生きていくには、これしかないと思っていた。
幸いにして、あたしはそれができる大きな力を持っていた。おそらく、誰にもばれずに、さも当たりまえかのように抜き去ることができるだろう。
人通りを縫うようにして、あの路地まで歩く。ひととおり歩くと、手には金が握られていた。
杏子「なんとか、なるもんだな」
自嘲気味にそう呟く。初めてのことだったから多少不安はあった。けれど失敗するはずはないのだ。
盗み。あたしが生きるには、これしかないんだ。
この金でまずはどうしようか。
そんなことをぼうっと考える。ここは陽の良く届く公園。
空には気の抜けた雲が流れていて、気温も申し分ない。散歩をするにはちょうど良い環境だろう。そんな呆けた空気だったからか、考えは一向に進まなかった。
いくらか時間が経つ。けれど考えは相変わらず停滞していた。その代わりに、なにか、締め付けられる思いが湧き上がっていった。
「どうしてそんなことをしたの?」
声が聞こえた。うるさい。仕方ないじゃないか、こうしなきゃあたしは生きていけない。
「それはダメなことだよ」
わかってるさ。わかっててやったんだ。ほっといてくれ。
「ねえ、返そうよ。それがないと困る人もいるんだよ」
返すって、どうやってさ。もう二度と会えないだろうに。
「お父さんが、悲しむよ」
杏子「うるさい!!黙れ!!」
あたしは激高した。あんたにいわれなくても、そんなこと……
杏子「……っ!!」
ずるずると頭を抱え込む。切ない思いが胸を締め付けている。
後悔。これだけがあたしを成している。大切な、とても大切なことを裏切ったことをひどく悲しんでいる。
杏子「だって、仕方がないじゃないか。誰も、救ってはくれないんだ」
誰もいない空間で一人囁く。それはあきらかに自己を守るための言葉だった。懺悔ではない、これからのあたしのための正当化だった。
あいつは、それきりなにも言わなかった。踵を返して、今はもういない。
ホテルの一室。
こんな子供に部屋を貸してくれるはずはないから、お得意の力で忍び込むことにした。
時刻はもう夜だ。だけどなにも食べる気になれない。
おかしいね。あんなに食べることに執着してたのに。今はなにも喉を通る気がしないんだ。
とたん、かすかな気配を感じた。ついであいつから声が届く。
qb「杏子、いるかい」
杏子「……すぐ向かう」
おそらく、使い魔かもしれない。けれど、あたしは向かうことにした。今思えば、これは懺悔だったのだろう。
おどろおどろしい空間が広がっている。
廃棄された工場地帯。かすかに残る薬品の臭いか、そういった人工的ななにかが充満していた。
杏子「ここか」
qb「杏子、中に人がいる。このままだと死んでしまうだろう」
杏子「……わかってる」
変身する。あたしの願いの形を身にまとう。今は、ただただ忌むべきその姿。
qb「相手は使い魔だ。だけどもうそろそろ魔女になる」
使い魔か。グリーフシードは落とさないが、人がいるんなら別だ。
杏子「そっこーで片してやるよ。機嫌が悪いんだ」
辛気臭い空間だった。
もともとの場所が工場だからか、とても冷たくて、生物の感触なんてなにもしなかった。
なんたって、やつらはこんなとこを好むのか。まあ、呪いをまき散らすやつらにはお似合いだな。
杏子「……いた」
この雰囲気のためかのような使い魔だった。そしてその矛先には、小さな女の子。
杏子「なんでこんな場所にいんだよ。まったく……」
退治しようと槍を構える。が、とたん、杏子は声を聞いた。
「なにをしている。使い魔はグリーフシードを落とさないだろう?」
どす黒さを伴うその声は、おぼろげながらあたしに問うた。
「こいつはそろそろ魔女になる。あの子を喰わせればな」
いや、だめだそんなこと。あの子を助けなきゃ。
「助けるだと?さんざん自分のために生きると思っていながら、この期に及んでまた人助けか。じゃあなぜ巴マミを突き放した」
それは……ちがう、今はそんなこと重要じゃない。
「昼間の悪事に心を侵され傷心してるのか、めでたいやつだ。逃げるなよ」
逃げてなんかない、それよりもまずは……
「逃げるなよ。自分を楽にするな。お前はそれで散々後悔したじゃないか。誰かのために願うことをひどく呪ったじゃないか」
違う。
「家族を助けようと願ったばかりに彼らは去った。お前を置いてな」
違う。
「誰かのために力を使うことに疑問を抱いた。だから巴マミを一人にした」
違う。
「自分さえよければ何でもよかった。だから人の金を盗んだ」
違う……!
「受け入れろよ。お前は聖女なんかじゃない。とっくのとうにカミサマから見放されてんだ」
足が、動かない。
世界はゆったりと流れていった。
使い魔がその牙で女の子をかじる。それは甘噛みで止まることなく、だんだんと女の子の体を切断していった。
杏子「あ……」
血なまぐさい情景。
無残にも散っていった、かつて人を成していた肉の塊は赤い液体と鼻をつく鉄の臭いであふれかえっていった。
異常な空間に、異常な物体。それがさっきまで生きていたなんて思えない。
杏子「これが……あたしの望んだことなのか」
そうだ、と、はっきりと聞こえた。もう、誰も否定してくれなかった。
使い魔はその姿を変えた。空間が再構成される。
魔女。やつはついにその力を手に入れた。
大勢の新たな使い魔が生まれてくる。気味の悪い、辛気臭い使い魔だ。それはなにか負の感情を抱かせた。
だんだんとあたしを囲い始める。けれどまだ足は動かない。
また、あいつがささやいた。
「おめでとう、これでお前も立派な悪魔だ。自分のために人をも殺す魔女だ。もう正義感なんてものにさいなまれる必要は無い」
あたしは、その後のことを覚えていない。
杏子「……」
崩れ去った魔女空間は、そこを以前の廃工場へと姿を変えた。
多少傷を負ったけど、なにも感じられない。頭の中は空っぽだった。
からん、と音がする。その方向へ顔を向けると、グリーフシードが落ちていた。
杏子「……これが、あたしの望んだことなのか」
ゆっくりとそれを手に取る。そして、そのまま走り出した。
なにかから逃れるように。なにもかもを考えてしまわないように。
ただやみくもに走り出した。
「そうだ、それでいい。誰もお前を救いはしない。誰もお前を構いやしない」
あいつの声だけが反響している。もうなにも考えられない。
自分のために人を殺した思いすら、あたしは抱くことをやめていた。
手に残るのはグリーフシード。あたしが生きるために殺した命。
終
このSSまとめへのコメント
鬱展開だな…本編の始まる少し前かな?
天使VS悪魔で悪魔の勝ちって訳か
描写がグロいな…
まぁ実際に有り得そうな話だよ、コミック版だってこんな感じだったし…