【艦これ】我等ニ至ル航路 (95)
未だに入隊出来ない……もとい、またも抽選に落ちた提督志願者な軍オタ擬が、鬱憤と蘊蓄をぶちこんだもの
注意事項!
キャラ崩壊必至
遅筆&フェードアウトの可能
書き貯め? ナニソレ?
未実装艦娘も、出るかもよ
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1407761198
暁「司令官、一体何が始まるの?」
提督「ここでは、艦これの元ネタとなってる帝国海軍の建軍からの興亡、そして保有艦艇の進化発展の過程を紐解いていこうと思う」
響「成る程、戦史の勉強という訳だ」
雷「また奇をてらった内容ね。好みに合わない人からはウザがられるわよ」
電「そんなもの、ウィキ様で勉強するから良いのです。この司令官さんは要らない司令官さんなのです」
響「こんな風にかい」
暁「わ……私は期待してるわよ。肉体も精神も、そして頭脳も併せて鍛えるのが、戦うレディ艦娘のたしなみだもの」
提督「さて、帝国海軍こと大日本帝国海軍が発足したのは明治三年、西暦1870年の事だ。それまで国防を担っていた兵部省の海陸軍が分離される処から始まる」
電「分離……と言う事は、それまでは陸軍の方達と一緒だったのですか? 」
提督「うん。で、1872年4月5日に海軍省が置かれる訳だが……初代日本海軍旗艦の龍驤 (コルベット)を始め練習艦にしか使えない艦ばかり」
龍驤 「お、うちと同じ名前やな。初代旗艦の名前を受け継いでるとか、誇らしいやら畏れ多いやらや」
武蔵「因みにだが、明治二十年まで軍艦の正式名は〇〇艦だ」
龍驤 (コルベット)
熊本藩がイギリス・アバディーン造船所より購入。当初は「りょうしょう」だったが、後に呼称は「りゅうじょう」と変化。
汽帆併用の3檣シップ型コルベット。木造船体であるが舷側に114mmの鉄製装甲帯をもっていた。
明治五年には明治天皇の座乗艦として西国巡幸に使われた。それ以前にも幾度か御召艦として使用される。
少尉候補生を乗せ遠洋練習航海にも3回従事。
天龍「旗艦を始め練習艦ばかりって、まともに戦える奴いたのか?」
提督「いたぞ、一隻だけ。当時の日本海軍が保有していた軍艦で、海上警備活動に使用できるのは日進だけという有り様だ」
日進 (スループ)
佐賀藩がオランダのギプス社に発注。バーク式帆走型の3本マストを持つ蒸気スクーナー。
佐賀藩在籍時の名前は日進丸。
深雪「一隻だけでどうしろってんだよ……?」
提督「さて、時系列は前後するが1871年(明治四年)11月8日、宮古島島民遭難事件が起こる」
宮古島島民遭難事件
琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難。
漂着した69人が台湾に漂着したが、うち3人は上陸時に溺死。台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって首を狩られ殺害される。
龍田「あら~、酷い事するわね~。これは抗議する必要があるわね~」
提督「琉球は俺のもの! と琉球王国の併合を進めていた明治政府は、直ちに清朝に厳重に抗議したが……清朝からの返答は、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという責任回避の返答があるのみ」
雪風「要約すると、自分達には関係無い……ですか」
提督「さらに、1873年(明治六年)には、台湾に漂着した備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船の乗組員四名が略奪を受ける事件が発生。政府内外に台湾征討論が高まり、1874年(明治七年)台湾出兵へと至る」
台湾出兵
1874年(明治七年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵である。
現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害を被りながら何とか辛勝。
牡丹社事件(ぼたんしゃじけ ん)、征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけ ん)とも呼ばれる。
提督「この出兵を切っ掛けに、帝国海軍は外洋艦隊の必要性を痛感。そんな訳で1875年(明治八年)度予算によりイギリスに扶桑 (甲鉄艦)一隻と金剛型コルベット二隻、合計三隻の軍艦が発注された」
扶桑 (甲鉄艦)
既に旧式となっていた装甲艦「東艦」及び「龍驤」の後継として、イギリスはサミューダ・ブラザーズ造船所にて建造。
1878年初頭に完成。正式には扶桑艦という。装甲艦「東艦」以来、明治政府が初めて購入した装甲艦である。
同時代のイギリス海軍の装甲艦「オーディシアス」をタイプ シップに採り、バランスよく縮小化されている。
金剛型コルベット
日本海軍の装甲コルベッ トの艦級で同型艦二隻。日本海軍で初めての新造巡洋艦にして舷側装甲を持つ装甲艦でもある。
また両艦はエルトゥールル号遭難事件の生存者をトルコまで送り届けている。
「金剛」
イギリス、ハルのアールス社で起工。1877年4月17日、進水。
1878年、日本に回航され、4月26日に横浜到着。
「比叡」
イギリス、ペンブロークのミルフォード・ヘヴン造船会社で起工。
1878年、日本に回航され、5月22日に横浜到着。
扶桑「帝国海軍が始めて購入した軍艦だから、日本を意味する美称「扶桑」なのね。同じ名前を持つ艦として負けてられないわ」
金剛「Wow! 私と比叡と同じ名前もいますヨー」
比叡「先代達から受け継いだ名を汚さない様、気合い、入れましょう!」
提督「さて本日最後は、装甲された動力軍艦同士の戦いについてだ。その始まりは……」
霧島「確か……南北戦争中に起こったハンプトン・ローズ海戦が、歴史上最初の戦いでしたね」
山城「聞く処によると、お互いかなり無茶苦茶に合ったにも関わらず、双方決定打となる致命傷は無く、勝負は付かなかったとか」
榛名「つまり、装甲>越えられない壁>火力の図式が、自身にも敵にも成立していると」
提督「よく勉強してるな。で、榛名が言った問題を解決する為には……どうしたら良いと思う?」
響「これを読んでる皆も、良ければ一緒に考えてほしい」
雷「答え合わせは次回よ」
電「でも、正解しても何も無いのです。甲斐性の無い司令官さんなのです」
暁「電、台詞の途中でキャラ変えない」
こんな感じで進んでく
私自身勉強中の身の上ゆえ、指摘は大歓迎
でも批判叩きはヤメテ
ではまた
乙
問題解決のためには砲を大口径化とかっすか?
先ずは誤字報告から
>>6
誤:山城「聞く処によると、お互いかなり無茶苦茶に合ったにも関わらず、双方決定打となる致命傷は無く、勝負は付かなかったとか」
正:山城「聞く処によると、お互いかなり無茶苦茶に殴り合ったにも関わらず、双方決定打となる致命傷は無く、勝負は付かなかったとか」
そんなこんなでハジマルよ!
提督「さて、前回の答え合わせだが……問題解決には>>11氏が言ってる様に、主砲を大口径化するのが手っ取り早い。だが、それだけでは足りない」
扶桑「砲に限らず、上部構造物が余り大きくなりすぎると、艦艇の安定性が欠落してしまいますからね。おまけに強力な主砲はそれだけ反動も大きいですから、やはり安定性が低下してしまいます」
提督「その通り。で、低下した安定性を取り戻すには、土台となる艦体の大型化が安易で確実性が高い。これは装甲の強化にも関わる話だ。つまり……」
長門「大きな艦体に巨大な主砲……大艦巨砲主義という奴だな」
大和「今でこそ時代錯誤なんて言われてますけど、かつては利にかなった理論だったんですね」
武蔵「時代の流れという奴か」
提督「さて戦史の話に戻って……日本政府は予てより、ロシア帝国の南下政策に対抗すべく、李氏朝鮮に対し、清国におんぶにだっこな属国の立場を止め、開国と近代国家として自立する様に促していた」
暁「南下……政策……?」
響「祖国を外敵に囲まれたロシアは、シーシ・メンタリティ(包囲恐怖症)から、過剰な軍事国家化していった」
雷「周りの皆恐い、誰よりも強く成ろう。征服される前に征服してしまえって論法?」
響「そう。冬場には港湾が氷結してしまう雪と氷の大地故の、不凍港への憧れも相俟って、南下を進めていたんだ」
電「港湾が氷結……港が凍っちゃうんですか!? 大変なのです、公務が出来なくなるのです」
提督「そんなこんなで歴史の針を戻して1853年、ロシア帝国とオスマン・トルコ帝国が外交の彼是で激突、クリミア戦争が勃発する」
天龍「彼是はあれこれって読むんだぜ」
クリミア戦争(1853年~1856年)
クリミア半島で行われた戦争。イギリスとフランスがオスマンに肩入れし、ロシアは敗北。
ロシアの旧態然とした軍組織は、ヨーロッパ連合に歯が立たなかった。
提督「またこの戦争は、大量虐殺時代と言われる時代に起こった最初の戦争でもある。「戦争は貴族のスポーツ」だった時代は、完全に終わった」
比叡「戦争がスポーツですか……ヒエー」
金剛「昔のヨーロッパの戦争は、決闘の延長みたいなものだったのデース」
霧島「歴史を振り返り紐解く上で、時代や地域によって正論や常識が変化する事を念頭に措くのを忘れない様に」
響「そして戦争に敗れ黒海への侵出に失敗したロシアは、ヨーロッパでの勢力拡大に限界を感じ、その目を極東へと向ける」
榛名「成る程、その先が朝鮮半島……李氏朝鮮……と」
提督「それた脇道と歴史の針を修正して、日本政府は朝鮮の周りに軍艦をウロウロさせて挑発する政策を取っていた。そんな最中の1875年(明治八年)9月20日、李氏朝鮮の領土、朝鮮西部の黄海に浮かぶ江華島で、日本と朝鮮の武力衝突が起こる」
江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)
に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突。
江華島に設置された朝鮮側の地上砲台が、砲艦「雲揚」を砲撃。
日本側は報復として島を占拠、朝鮮に対して開国を要求する。
日朝修好条規(1876年)
江華島事件をきっかけに、日本と李氏朝鮮が結んだ不平等条約。これにより、李氏朝鮮は強制的に開国させられた。
陸奥「昨今近海で挑発を受けてる日本けど、昔はする側だったのね」
山城「歴史は繰り返す、悲しい話ね」
暁「でも、日本はなんでそんな事をしたのかしら? そこまで拘る必要あったの?」
提督「時は大植民地時代真っ只中。東南アジア及びオセアニアはヨーロッパ各国の侵略に飲まれ、かつて暗黒大陸とよばれたアフリカ大陸は欧州列強の利権争いと政策によって勝手に塗り分けられ、残るは極東……自称「世界の中心で最も華やかな国」とその周辺国だけ」
響「朝鮮半島をロシアに征服されると、日本は目と鼻の先だからね。なにがあっても防ぎたかったんだ」
電「つまり、防波堤が欲しかったのですね」
提督「こう言うと問題があるが……ぶっちゃけ朝鮮半島なんてどうでも良かったんだ、大した利益にならないし。ただ朝鮮が、清国の舎弟を止めて近代国家として自覚を持ってくれればそれで良かった」
雪風「一方で日本は、清国に対しても「朝鮮を独立した国家として認めなさい」と主張しているのです」
提督「こうした日本の一連の動きに対して、自他共に認める朝鮮の親分、清はカンカン。日本と清国の対立は本格化していく。が、その頃の清は北洋艦隊という強大な艦隊を保持、本格的な戦艦を持たない日本の何倍も強力な相手なんだ」
雷「え……意外……。清ってアヘン戦争でフラフラのボロボロになってると思ってた」
金剛「とんでもありまセーン。相手は欧米にすら「眠れる獅子」と呼ばれた大国。底の読みきれない、本気にさせたらDangerousな国なのデース」
提督「さて本日の〆は、この頃流行りの新兵器魚雷を扱う。諸君には敢えて語る必要も無いだろうが、砲撃で敵艦の戦闘能力を奪うのは兎も角、沈める事は非常に難しかった」
龍田「私達の世界だと、戦闘不能=轟沈だけどね~」
提督「だが魚雷は下に揚げる特徴から、砲撃よりも艦に与えるダメージが格段に高いんだ」
砲撃と魚雷の比較
砲撃:舷側(船の側面。一般的に、水に浸かってないとこ)や艦の上の構造物を破壊するのが目的。
対艦攻撃力が低い、射程距離が長い、敵艦への到達速度が速い、コストが安い。
魚雷:艦の喫水線下(水に浸かっている部分)をブチ破り、浸水を引き起こす。
対艦攻撃力が高い、射程距離が短い、敵艦への到達速度が遅い、コストが高い。
夕立「これを読む限り、魚雷は敵に近付いて撃たないと効果は望めないっぽい? でも、浸水を起こして確実に息の根を止めれるのは魅力的っぽい」
浜風「戦場では自分も標的も、常に動いてますからね。でも、相手と同格だと、近付く前に砲撃の応酬になりそうです」
島風「なら、ちっちゃくてすばしっこい船に魚雷を載せれば良いのよ。機動力を活かして敵艦に接近、横っ腹に喰らわせる。任せて」
提督「ついでに言うと、船体が小さいとその分被発見率と被弾率が下がる。そしてお値段も下がる。そうして誕生した新たな艦種が……」
長門「駆逐艦だな」
提督「……水雷艇だ」
水雷艇
魚雷攻撃を主とした小型艇。
因みに「艇」とは、外洋航行能力を持たない(或いは無いに等しい)軍艦の事。
夜の闇に紛れて大型艦に近寄り、魚雷を撃った後に全速力で逃げるのが基本戦術。
川内「夜の闇に紛れて……」
那珂「オイ、シッカリシテヨ」
神通「治ります、アレ?」
明石「私では無理です。メーカーに頼んで分解整備して貰わないと……」
扶桑「動きが素早い上に致命傷を与えてくれる水雷艇は、船体が大きい分機敏な反応が苦手な並の大型艦にとっては、とても脅威なのよ」
提督「斯くして、この鬱陶しい連中に対抗するべく新たな艦の開発が急がれた。新たな艦に求められた要求は以下の通り」
水雷艇の機動力に対抗する為、素早く機敏な反応が出来る事。
捕捉した水雷艇を確実に葬れる火力。ただし対水雷艇戦闘に専念させるため、過剰な火力は不用。
外洋に進出し敵領海で暴れる大型艦に随伴出来る洋航行能力。
水雷艇は低価格を武器に数で勝負してくるので、相応の数を揃えられる様安価である事。
提督「これらの要求をまとめて一つの形にしたのが水雷艇駆逐艦……我々がよく知る駆逐艦の祖先的存在だ。が、こいつらが登場するのは日清戦争の後、日露戦争の前だな」
高雄「次回は、日清戦争前の大量購入&大建造祭り」
提督「さて今回の話を進める前に、予備知識として一つ。この時代の軍艦は波の穏やかな陸地に近い場所で無いとマトモに戦えなかった。外洋での戦闘なんてとてもじゃ無い……」
浜風「つまり、激しい波風には弱かったんですね。意外です」
伊勢「確かに船そのものは人類誕生と共に進化の路を歩んできたけど、私達に直結する鋼鉄の装甲を施した鉄製軍艦はまだまだ黎明期」
黎明期の戦艦
「ラ・グロワール」
フランス製の、西洋初の「外洋航行可能な」装甲艦。1860年8月に就役。
「ウォーリア」
1861年8月に就役した、イギリス製の甲鉄艦。現在も博物館船としてポーツマスに保存されている。
扶桑「加えて、装甲はモリモリで武装もテンコモリ。どう足掻いてもトップ・ヘビー化は避けられず復原力も不足、純粋な船としての能力は非武装のそれらに劣らざるをえなかったわ」
漣「戦闘能力という特別な力を得る代わりに基礎能力が低下。こう表現すると、何だかゲーム的ね」
提督「そんな訳で、戦闘能力は一旦脇に置いて、本来の「船」としての能力を重視した軍艦が登場。それが、巡洋艦だ」
金剛「Englishではcruiser。これは「遠洋を長期航海できる船」全般を意味しマース」
巡洋艦
戦艦よりも小型で、外洋戦闘能力と長期航行力を重視した艦。
高い凌波性(波をスイスイ越える能力)と航続力を誇り、機動性も高い。
その分、装甲の厚さや武装は制約を受けている。
下に揚げる「防護巡洋艦」の他にも、「装甲巡洋艦」、「水雷巡洋艦」、「軽巡洋艦」、「仮装巡洋艦」、「重巡洋艦」、「巡洋戦艦」など様々なバリエーションが存在する。
防護巡洋艦
主機(エンジン)室の上の甲板を装甲し(これを防護甲板という)、舷側には装甲を持たない比較的軽防御の巡洋艦。
まだ巡洋艦そのものが発展段階の時期の産物で、日清戦争以後は廃れてしまう。
技術や環境の変化につれて軽巡洋艦、さらには重巡洋艦へと変化していった。
提督「他には、こんな艦種があるな」
砲艦
比較的小型で主として沿岸・河川・内水で活動する、平時には強力な通信・指揮能力でもって警備任務に当り、有事には船体規模に比べ強力な火砲を主兵装として前線での戦闘に使用する水上戦闘艦艇。
日本では陸海軍が分裂する以前、幕末に新政府軍を名乗っていた頃に保有していた最大級の艦艇が砲艦だった事もあり、駆逐艦などより格上の菊の御紋を装着した国内法上の狭義の「軍艦」とされた。
また、太平洋戦争中の1944年(昭和十九年)に行われた基準改定を機に、国内法上の狭義の「軍艦」から除かれてからは、「軍艦」や「駆逐艦」 と並ぶ独立の艦種「砲艦」に格下げとなった。そのため、艦首の菊の御紋も機を見て撤去された。
スループ
18世紀から20世紀まで用いられたフリゲートとコルベットの中間に位置する軍艦で、一層の砲甲板に10から20の大砲を搭載。砲門の数で定義され、マストの本数や帆の種類は問わない。
鳳翔「補則事項として、1898年(明治三十一年)3月21日 に「海軍軍艦及水雷艇類別標準」の制定が行われるまで、帝国海軍が保有する艦船の分類は、「軍艦」と「輸送船」しか無かったの」
提督「では、本筋に入ろうか。一気に近代化していく清国海軍。清は、世界でもトップクラスの性能を誇る戦艦「鎮遠」型三隻をドイツに発注する」
雪風「流石に財政上の問題で三隻目はキャンセルされますが」
定遠級戦艦
ドイツで建造された戦艦で、30.5㎝連装砲を二基装備。当時アジアで最強を誇った艦で、世界でもこれを上回るのはイギリスとフランスの最新鋭艦のみ。
一番艦「定遠」、二番艦「鎮遠」
蒼龍「それと「遠」の漢字は、日本を指しているの。「遠」を「鎮」める、「遠」を「定」める……。この艦名は、明確に日本を潰す事を表した清国の意思の表れね」
龍驤「つまり、必須撃破対象のボスキャラか……しかし、中々に生意気な名前やな」
「筑紫(つくし)」巡洋艦
イギリスから購入した巡洋艦で、日本海軍初の帆走設備を全廃した艦。
元はチリ海軍が発注した三隻の巡洋艦の内の一隻、「アルトゥーロ・プラット(Arturo Plat)」で、1879年から1884年にかけて、ボリビア共和国およびペルー共和国とチリ共和国の間で行われた南米の太平洋戦争に投入される筈だった。
だが勝利が見えたことなどから、建造後の必要性に疑問が生じる事となる。工事を続行し竣工したものを、帝国海軍がチリ海軍から1883年6月16日に80,000ポンドで購入。
それに対抗して清は同型艦二隻を超勇級防護巡洋艦「揚威」、「超勇」の名で購入。 姉妹艦でありながら、日清戦争では敵味方に別れて戦った。
電「姉妹で戦う事になるなんて、可哀想過ぎるのです」
雷「戦わなきゃ、現実と」
「浪速(なにわ)」型防護巡洋艦
1883年(明治十六年)度の艦艇拡張計画でイギリスに発注された、帝国海軍が採用した初の防護巡洋艦で、当時最新の技術が導入されている。同型艦二隻。
一番艦「浪速」
1884年、イギリス、ニューキャッスルのアームストロング 社のロー・ウォーカー造船所で起工し、1886年2月15日に竣工。日本に回航され、同年6月26日、品川に到着。
二番艦「高千穂(たかちほ)」
艦名は天孫降臨の地とされている宮崎県の「高千穂峰」に因む。
1884年、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社の ロー・ウォーカー造船所で起工し、1886年4月末に竣工。日本に回航され、同年7月3日、品川に到着。
羽黒「妹の高千穂さんは記録に依れば、帝国海軍の軍艦の中で敵との交戦の末に戦没された最初の艦だそうです。第一次世界大戦下の膠州(こうしゅう)湾外、1914年10月17日の事でした」
「畝傍(うねび)」防護巡洋艦
来る対清戦争に備えて、海軍卿川村純義により出された軍艦船増強の建議により購入された、大甲鉄艦三隻のうちの一隻(他の二隻はイギリス製の浪速姉妹)。
フランスから購入した、曰く、『格安(価格153万円也)・重武装(甲板上に24センチ砲四門、15センチ砲七門、35.6センチ水上魚雷発射管四門)』の巡洋艦。
……らしいが、日本に回航される途中に南シナ海で行方不明となり失踪。戦闘の機会が無かった為、陸戦大国フランスの売り文句が本当かどうかは不明。正式な艦名は「畝傍艦」。
1886年(明治十九年)10月19日に、北フランスのル・アーヴルから日本へ向けて出港。回航中、12月に寄港地シンガポールを出港後、南シナ海洋上で行方不明となる。
消息を知る手がかりは全くなく、謎の消失となった。全乗客乗員計90名の消息は未だ不明である。
最上「さて、フランスは再起を賭けて水雷砲艦「千島」を売り込むんだけど……し、資料で読んだ事をありのままに書くよ」
日本へ向けて回航中の1892年11月30日午前4時58分、愛媛県興居島沖にて、神戸から出港したP&O社所属の英商船ラベンナ(Ravenna)に衝突されて沈没。
那智「この事故は日本が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件「千島艦事件」へと、更には、領事裁判権の撤廃問題と絡んで日本の国内外を巻き込む政治問題に発展した」
「千代田(ちよだ)」防護巡洋艦
防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航中に行方不明となったために、同艦の保険金を原資に代艦として購入。帝国海軍からの要求仕様を基にルイ=エミール・ベルタンの設計でイギリスのトムソン社グラスゴー造船所で建造された。
1888年、イギリス、グラスゴーのトムソン社で起工、1891年に竣工。日本に回航さ れ、1891年4月11日、横須賀に到着。
なお「千代田」の名を持つ軍艦としては、幕末期に江戸幕府が所有していた、江戸湾・大坂湾防御のため量産化が計画されていた初の国産蒸気砲艦、千代田形(ちよだがた)に継ぐ二代目。諸事情により、結局千代田形の二番艦以降が建造されることはなかった。
千歳「この千代田形さん、1869年(明治二年)5月に私達帝国海軍の前身である政府軍に艦籍を移した後は、「千代田形(艦)」の艦名で海軍兵学寮の練習艦として使用されたの」
「和泉(いずみ)」防護巡洋艦
艦名は旧国名「和泉国」に因んで命名。
元はチリ海軍所属、世界初の防護巡洋艦「エスメラルダ」(スペイン語:Esmeralda)。「エスメ」ラルダと「和泉」の音の類似に基づく命名。
1881年、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社のエルジック造船所で起工、1884年に竣工。日清戦争に伴う戦力増強のため、帝国海軍が1894年に購入。
那珂「洒落で名前付けたの……」
「吉野(よしの)」防護巡洋艦
1891年(明治二十四年)度の計画によりイギリスのアームストロング社のエルジック造船所に一隻発注された。1893年(明治二十六年)に竣工。
アルゼンチンのベインテシンコ・デ・マヨ級防護巡洋艦の改良型で、設計者のフィリップ・ワッツ卿は「神と相談しながら創った」と語る。又国民の募金で作られた軍艦でもある。
その甲斐あってか世界でもトップクラスの性能を誇る。当時の水雷艇と同等の速力23ノットの優速を記録し、竣工時には世界最優秀巡洋艦と言われた。
島風「はっやーいのは、募金の形で集まった国民の想いが原動力だから? それってとても素敵ね」
提督「さて色々と買い漁ってる帝国海軍だが、コイツら巡洋艦の砲では戦艦の装甲が抜けない可能性が高かった。定遠級対策に戦艦が買えれば手っ取り早いのだが、国力の乏しい日本にそんな金は無い」
足柄「そこで、この清国戦艦二隻に対抗するためフランスから招聘した造船技官エミール・ベルタンが、対清国戦艦の切り札とも言うべきある特殊な艦をめぐるプランを発案するのよね」
赤城「主砲に戦艦クラスの巨砲を一門だけ搭載した大型海防艦……松島型防護巡洋艦を四隻建造する事」
陸奥「日本三景の陸奥松島、安芸厳島(宮島)、丹後天橋立から名を取った、いわゆる三景艦ね」
「松島(まつしま)」型防護巡洋艦
主砲に清国艦隊の主力艦を撃破可能な戦艦クラスの巨砲、カネー社の「32㎝(38口径)砲」を一門だけ搭載した、特殊な国情が生んだ対清国戦艦の切り札。
しかし、当時の日本の港湾施設では能力不足から4,000トン台を扱うのが限界であり、そのため4,000トン級の艦体に無理やり積み込む羽目となった。
結果、砲塔を首尾線方向から左右に旋回すれば砲身の重みで重心が狂って艦が傾斜し計算どおりの仰角が取れず、砲撃すれば反動で姿勢が変わって進路まで変わる始末。
後、副砲以下の補助武装が姉妹でそれぞれで違う。
一番艦「松島」
1888年(明治二十一年)2月17日フランス地中海鉄工造船所で起工。1890年(明治二十三年)1月22日進水。1892年(明治二十五年)4月5日竣工、回航。
日清戦争時の初代連合艦隊旗艦。妹二隻と違い、後部甲板に主砲を据え付けられた。
二番艦「厳島(いつくしま)」
1888年(明治二十一年)1月7日フランス地中海鉄工造船所で起工。1889年(明治二十二年)7月18日進水。1891年(明治二十四年)9月3日竣工、回航。
なお、松島型二番艦とするのが普通であるが、松島より先に起工、竣工しているため、厳島型と呼ばれることもある。
三番艦「橋立(はしだて)」
1888年(明治二十一年)8月6日横須賀海軍造船所で起工。1891年(明治二十四年)3月24日進水。1894年(明治二十七年)6月26日竣工。
「三景艦」のうち、唯一の国産艦。これは何としても主要艦艇の国産化を目指したい海軍の強い意向であったが、当時の日本の技術力ではまだ背伸びをしている感があった。
結果として、建造期間が姉二隻よりも長く、竣工したのが日清戦争開戦直前であった。一説には、この橋立の竣工を待って開戦に踏み切ったとも言われる。
霧島「あら、四隻建造の予定なのに三景なんですね。後一隻はどうしたんでしょうか?」
榛名「上でも書いてる様に砲の運用に問題があって、結局三隻で建造は打ち切りになったの」
提督「当然ながら、いつまでも外国に注文してそれに頼ってる訳にはいかない。造船技術発達の為、国産軍艦の建造もスタート。試行錯誤を繰り返しながら、日本の技術も高まっていく」
「海門(かいもん)」スループ
鉄骨木皮の国産スループで、艦名の由来は鹿児島県の開聞岳(かいもんだけ)。
1877年(明治十年)9月1日に起工し、1882年(明治十五年)8月28日、横須賀造船所(後の横須賀工廠)にて進水。起工から進水まで五年近くかかった。竣工は1884年(明治十七年)8月13日。
潮「あ……海門さんは、進水式のときに世界で初めて鳩を飛ばしたことで有名です」
「天龍」スループ
横須賀造船所(後の横須賀工廠)で起工した木造スループ。1885年(明治十八年)3月5日竣工。
天龍「おい、これだけなのか? 他には!?」
「葛城(かつらぎ)」型スループ
横須賀造船所建造の木造スループ「天龍」に続いて、1882年(明治十五年)から翌年度の計画により国内で建造された。
船体構造は鉄骨木皮で、三本マストの汽帆兼用。機関出力が増大し従来の帆走主体から、汽走主体となった。同型艦三隻。
一番艦「葛城」
1883年に横須賀造船所(後の横須賀工廠)で起工し、1887年(明治二十年)11月4日に竣工。
1897年12月21日より測量任務となり、翌年から1912年にかけて日本近海の水路 測量に従事。
二番艦「大和」
日本海軍最初のケースとして民間の神戸小野浜造船所で建造された。初代艦長は東郷平八郎中佐(当時、在任中に大佐昇進)であった。
1883年(明治十六年)11月23日に起工、1885年(明治十八年)5月1日進水、1887年(明治二十年)11月16日に竣工。
1902年(明治三十五年)以降測量任務として長期間に従事。1922年(大正十一年)8月28日に、姉妹艦「武蔵」と共に正式に特務艦(測量艦)に類別変更となった。
また日本海中央部を精密測量の結果、1924年(大正十三年)7月に浅い部分(海底山脈)を発見。海底地形は大和堆と命名されている。
この功績もあって『世界の艦船日本特務艦船史』では「大和」「武蔵」の二艦を測量艦大和型と分類し ている。
1935年(昭和十年)4月1日に除籍後、司法省の所管に移され、少年刑務所の宿泊船になった。
1945年(昭和二十年)9月18日、台風のため鶴見川の河口に沈没。
三番艦「武蔵」
1884年(明治十七年)に横須賀造船所(後の横須賀工廠)で起工し、1888年(明治二十一年)に竣工。
1902年(明治三十五年)より測量任務となり、1922年(大正十一年)4月1日に姉妹艦「大和」と共に正式に特務艦(測量艦)に類別変更となった。 以後、1925年(大正十四年)にかけて日本近海の水路測量に従事した。
1925年(大正十四年)6月には、日本海での測量で海底地形を発見、武蔵堆と命名されている。
また「武蔵」の名を持つ軍艦としては、明治時代初期に日本政府が所有していた、アメリカから購入した元ポータクセット級蒸気スクーナー六番艦キワニーこと、艦船「武蔵艦」に継ぐ二代目。
大和「あら? この大和さん、戦後まで長生きしてるのね」
武蔵「ああ。しかも私達大和型は当時存在自体が、身内の海軍関係者にすら極一部を除き秘匿という事もあって、戦後になってお前の存在が知られるまでは、国民が船で「大和」といえばこちらの大和さんだったんだ」
「摩耶」型砲艦
1883年(明治十六年)に三隻、1885年(明治十八年)度に一隻の合計四隻が建造された。
国内の民間造船所が活用された。船体は鋼製船体へ移行する時期となり、また下記の兵装の差異もあって、同型艦とはいえ差異がある。
当初は24㎝砲一門、15㎝砲一門を搭載する予定だったが、兵装過大という批判があり各艦とも砲を減らし、それぞれ違った砲を搭載している。
なお、うち三隻の名前が某一等巡洋艦とダブってるが偶然である。ホンとに。
一番艦「摩耶」
小野浜造船所で1888年(明治二十一年)1月20日に竣工。
船体構造は全鉄製で、兵装は15㎝砲二門、4.7㎝砲二門、25㎜4連装機砲二基を搭載。
二番艦「鳥海」
石川島平野造船所で1888年(明治二十一年)12月27日に竣工。
船体構造は全鉄製で、兵装は21㎝砲一門、12㎝砲一門、25㎜4連装機砲二基を搭載。
三番艦「愛宕」
横須賀造船所で1889年(明治二十二年)3月2日に竣工。
船体構造は鋼骨鉄皮(鋼骨木皮とする資料もある)で、21㎝砲一門、12㎝砲一門、25㎜4連装機砲二基搭載。
四番艦「赤城」
小野浜造船所で1890年(明治二十三年)8月20日に竣工。
鋼製の船体構造で、兵装は12㎝砲四門、4.7㎝砲四門、30㎜5連装機砲二基を搭載。
高雄「ば……馬鹿め、疎外感なんてぇ、感じてないんだからぁ」
「高雄」巡洋艦
1886年に横須賀造船部で起工し、1889年に竣工。鉄骨鉄皮の船体で二重底を採用した、国産初の全金属巡洋艦。ようやく世界水準に追いついたと言える。
「高雄」の名を持つ軍艦としては、1874年(明治七年)10月17 日にイギリスから購入した鉄製汽船シンナンジングを改名した武装輸送船「高雄丸」に継ぐ二代目。
また、秋田藩所有の新政府軍艦「高雄丸」も含めると三代目。元はアメリカから購入したポータクセット級蒸気スクーナー二番艦アシュロットで、上記の「武蔵艦」とは姉妹艦。
愛宕「うふふ、高雄がいっぱいね」
摩耶「建造取り止めになった天城型の四番艦も高雄の予定だったな。秋田藩の高雄丸も含めれば、うちのは五代目か」
鳥海「未成含め、日本の戦闘艦艇の名前としては最も多く利用された名前、それが高雄です」
大島(おおしま)砲艦
摩耶型砲艦の改良型。呉造船部小野浜分工場で1892年3月3131日に竣工
「秋津洲(あきつしま)」防護巡洋艦。
三景艦の四隻目の代替として建造された、日清戦争の直前に完成した国産巡洋艦。設計から建造までの全てを初めて日本国内で行った巡洋艦である。
タイプシップとしてアメリカ海軍の防護巡洋艦「ボルチモア」を模倣。1890年、横須賀造船部で起工。1894年3月31日に竣工。
提督「艦艇の紹介が続くが、1891年(明治二十四年)5月11 日、当時の日本国中を大激震させた大津事件が発生する」
大津事件(おおつじけん)
滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)において滋賀県警察部巡査・津田三蔵が、日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ二世)に突然斬りつけ負傷させる。
小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。
青葉「この事件に対して、政府はロシアへの詫びとして津田を死刑にしろと迫りますが……司法は無視、無期懲役を言い渡します」
衣笠「これにより、司法の独立を達成、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まるの。海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めたわ」
提督「それにより、日本が近代法を運用する主権国家として認められ、当時進行中だった不平等条約改正へのはずみとなったんだ」
球磨「処で、この時代のロシアってそんなに強かったかクマ?」
多摩「大国とか言われても、いまいちピンと来ないニャ」
響「とてつもなく」
金剛「海軍力だけ取っても、フランスと肩を並べて世界三位デス。世界の海を牛耳って「陽の沈まぬ帝国」とかチョーシこいてる紅茶帝国は流石に別格デスが……」
提督「しつこい様だが、日本には戦艦を購入する金が無い。しかし、仮想敵国である清国には二隻も戦艦がある。海軍は1891年(明治二十四年)の第二回議会に始まり再三の戦艦建造要求を提出するが、翌年の第三回議会でも、第四回議会でも否決、悉く議会によって却下された」
長門「迫り来る戦争の危機、相手は東洋随一の大国。国が危ういのに、それを全く解ろうとしない議会。戦艦を作らなければ国が潰れるというのに、建艦計画は議会に潰されてばかり」
曙「軍人達は、この一件で議会や文官に対する不信感を持ち始め、その思いは後の暴走のきっかけともなったたわ」
木曾「軍部大臣現役武官制、そして軍国主義化の根は、この辺から始まったとも言えるな」
不知火「シビリアン・コントロール(政治家が軍の上位に立ち、軍の専横を許さない)は大切です。ですがそれには、政治家や議会の軍事に対する正しい知識が求められます」
五十鈴「余りに現実感の無い方策を軍に押し付ければ、反発されるのも当然よね。まあ、後の軍部暴走を擁護する訳じゃないけど……。貴方の鎮守府は、そんなこと無いわよね?」
提督「これに対し翌年1893年(明治二十六年)に明治天皇は、『今後六年間、宮廷費節約、公務員の俸給一割減。これを戦艦建造費に当てろ』という勅令を出されます」
日向「これで漸く予算の確保が出来て、日本は二隻の戦艦を建造する事になる。ただ惜しい事に……完成が間に合わなかったんだ。日清戦争には」
今回はここまで
今回はひたすら軍艦を紹介するだけだった
次回は日清戦争の予定
提督「さて、今回のテーマである日清戦争。その切っ掛けとなったのは、1894年に朝鮮で起こった農民の内乱だった」
甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)
1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。
子日「「甲午」って言うのは、十干と十二支を掛け合わせた60ある干支の一つだよ。西暦年を60で割って34が余る年が甲午の年になるの、今年(2014)も甲午だね」
提督「当時の朝鮮では重税政策に賄賂と不正収奪の横行、それに加え、>>17でも触れた1876年の日朝修好条規(通称江華島条約)を始めとした開国政策に因り外国資本が進出してくる等々、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況にあった」
飛龍「その頃の朝鮮国内では、次の様な詩が広く伝昌されていたそうよ。朝鮮政府の暴政が目に浮かぶわね」
金樽美酒千人血
金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
玉椀佳魚萬姓膏
玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
燭涙落時民涙落
ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
歌舞高處怨聲高
歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高くとどろく
赤城「人の油って、美味しい魚になるんですね」
翔鶴「赤城さん、提督に熱い視線向けて涎垂らさないで下さい」
提督「さて、気を取り直して……そんな背景もあり朝鮮では民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。 そんな中、1894年春に全羅道古阜郡で、東学党の二代目教祖・崔時亨が武力蜂起、甲午農民戦争に発展した」
矢矧「この内乱を自力で処理鎮圧出来なくなった李氏朝鮮は、親分の清国に援軍を要請するの。そして清軍が駆けつけるんだけど……そこに日本軍も現れます」
雷「え? 呼ばれたのは清軍よね? なんで日本軍まで現れるの?」
鳳翔「天津条約といってね、朝鮮半島に出兵する時は日本と清国はお互いに通告する事にしてたの。だけどこの時、清は日本に派兵の目的を話して無かったのよ」
古鷹「やがて反乱は収束、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるんですけど、両国は受け入れずに対峙を続けました」
加古「日本は清に対して朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案、イギリスも調停案を清へ出すんだけど、清は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否しちゃうんだ」
妙高「そこで日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について三日以内に回答するよう申入れたの」
提督「この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた」
暁「成る程。その「代わって駆逐」が日清戦争に発展する訳ね」
加賀「結論から話すとそうですね」
筑摩「これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答します。ですがそんな折に……」
青葉「朝鮮国内でクーデターが勃発しちゃいました。経過は省略しますが、朝鮮の新政権は日本に対して、牙山の清軍掃討を依頼しちゃいます」
提督「斯くして、日本が7月19日に突きつけた五日間の猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れた1894年(明治二十七年)7月25日早朝、日本艦隊と清国艦隊が豊島沖で激突。豊島沖海戦が勃発する」
豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)
日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸沖の豊島沖で戦った海戦。
日本艦隊は沈没艦も死傷者も無しと圧勝であった。それと、清国海軍の砲艦「操江」を鹵獲。
提督「この時、「吉野」、「秋津洲」、「浪速」の三艦からなる第一遊撃隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と「武蔵」を捜していた。二条の煙を発見近付いてみると、そこにいたのは、後から陸兵を乗せてやってくる予定の商船「高陞号」とその護衛の砲艦「操江」の露払いに来ていた清国の防護巡洋艦「済遠」と巡洋艦「広乙」の二艦だった」
龍田「通報艦っていうのは~、情報伝達手段が発達していなかった時代の、情報の伝達を主目的とする小型の軍艦のことよ~。通報艦という独立した艦種を設けないで、サイズ・能力の似ていた、水雷砲艦やコルベット、スループに通報艦の任務を担わせることも多かったわ~」
高雄「霧が濃く視界の悪い中で行われた戦闘の結果、「秋津洲」は「広乙」を海岸方面に追い込み擱座させたわ。「広乙」の艦長は乗員を上陸させたのち船体を爆破させたの」
不知火「しかしその時、既に降伏していた筈の「済遠」が逃げ出しました。これは、機関停止確認と船体確保を忘れてた日本側の落ち度です」
金剛「斯くして、getawayする「済遠」をtrackingする「浪速」デスが、「済遠」はwhite flagを掲げてsurrenderしたかと思えばまたgetaway。そんな事を繰り返していると、清国艦隊が合流を予定していた「操江」&中立国イギリスの商船「高陞号」とencounterしマース」
飛鷹「その後、「操江」は追い付いた「秋津洲」が拿捕するの。「広乙」を擱座させた事と良い、「秋津洲」さん超優秀」
提督「さてイギリス商船「高陞号」のその後だが、「浪速」は臨検の末に撃沈。これを高陞号事件と言う」
電「酷いのです! 武装してない商船を沈めるなんて!」
瑞鳳「その商船「高陞号」は清の兵や砲を牙山に運んでる途中でね、船長は随航に承諾したんだけど、清兵は船長を脅迫して服従出来ない様にしたんだ」
飛鷹「そんな訳で、イギリス人船員に「船を見棄てよ」と信号した後、マストに警告の意味で赤旗を掲げた処、清兵は銃や刀槍を持って船上を走り回りだしたの。全く、清の奴、客の態度じゃ無いわね」
隼鷹「で、二時間以上に渡って問答した末に拘留が不可能と判断した浪速は、水雷と砲撃で撃沈するんだ。勿論、海に投げ出された乗員は救助してるよ」
提督「この豊島沖海戦、そして朝鮮半島牙山で両陸軍が激突した成歓の戦い(ソンファンのたたかい)に因り、日本と清国の全面戦争が避け難いものとなった。七日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされ、清国も同日に宣戦布告してる」
比叡「もう戦ってるのに……」
成歓の戦い(1894年7月29日)
朝鮮の牙山・成歓で行われた、日本陸軍と清国軍の戦い。牙山・成歓の戦いとも呼ばれる。
日本は朝鮮政府から、牙山の清国軍撃退要請を受け、混成第九旅団を派兵。牙山・成歓にある清国陣地を急襲。
清側の、小国が西洋のマネしてると日本をとことんナメてた認識……では無く、混成第九旅団の奮戦の結果、陣地は陥落、日本の勝利に終わる。
この激闘の末、佳龍里おいて清国兵の攻撃により歩兵第二十一連隊第十二中隊長・松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した。
提督「それはさておき、豊島沖海戦で帝国海軍は始めて「連合艦隊」というものを組織する。これは戦争の危機が迫ると臨時編成される艦隊で、戦争が終わると解散するのが基本だ」
連合艦隊
二個以上の常設の艦隊で編制した、帝国海軍の中核部隊で非常設の艦隊。戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、1923年(大正十二年)以降常設となる。
日清戦争に際しては、有力艦や新鋭艦と言った主力艦の集まった「常備艦隊」と、旧式艦や小型艦の集まった「西海艦隊」をもって組織された。
「西海艦隊」はそれまで、老朽艦が集まった二線級部隊で沿岸警備を主任務としていた為「警備艦隊」と称していたが、日清戦争開戦が迫ってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時に相応しく無いという意見がでてきて、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名。
金剛「略称はGFデース。これは……壮大な艦隊(Grand Fleet )、若しくは総艦隊(General Fleet)からでショー。本来の英語で連合艦隊はCombined Fleetデスよ? 帝国海軍の思考に則った和製英語を略称にしているみたいネー」
長門「この常備艦隊というのは、主力艦が集まってるそうだが、我々の世代でいう処の第一艦隊か?」
提督「位置付けとしては正しいな。唯……1903年12月28日に常備艦隊が解隊分離して第一艦隊と第二艦隊になった。因みに西海艦隊は1895年11月15日を以て解隊している」
第一艦隊
帝国海軍常設艦隊の一つ。戦艦を主力とした艦隊で艦隊決戦部隊。
第二艦隊
帝国海軍常設艦隊の一つ。巡洋艦・巡洋戦艦を主力とする哨戒邀撃が任務の前線部隊。
常設艦隊と書いたが、ワシントン軍縮条約による大量廃艦の影響を受けた1921年度の一年間を除く。
第三艦隊その他
常設だった第一艦隊・第二艦隊と違い、必要に応じて編制・解散される特設艦隊。第四艦隊以降その他も同じく。
提督「その後、朝鮮に上陸した陸軍部隊が平壌に結集している清軍を激戦の末叩きのめし、朝鮮半島から清軍を撤退させる事に成功。そして9月16日、清軍海軍北洋艦隊出撃の情報を得た連合艦隊本隊と第一遊撃隊が翌日これと激突。ここに、黄海海戦が勃発する」
黄海海戦(こうかいかいせん)
1894年(明治二十七年)9月17日に帝国海軍連合艦隊と清国海軍北洋艦隊の間で戦われた海戦。日露戦争でも同名の海戦が起きている為、混合を避ける目的で鴨緑江海戦(おうりょくこうかいせん)とも呼ばれる。
昼から日没まで続いた死闘の結果、日本側は本隊旗艦「松島」を始め「比叡」「赤城」仮装巡洋艦「西京丸」が大破、第一遊撃隊旗艦「吉野」が損傷するも沈没艦無し。
対する北洋艦隊は、「超勇」「致遠」「経遠」撃沈、「揚威」「広甲」座礁。その他残存艦艇も多くが損害を被る。
霧島「決戦の最中、清の「済遠」と「広甲」が戦場から遁走、旅順に帰還してしまいます。近代の海戦において唯一の軍艦敵前逃亡事件ですね。「広甲」は逃走中に座礁して放棄されたそうですが」
榛名「座礁……戦没といえば撃沈しか無い榛名達の世界には縁の無い最後ですね。人形(ヒトガタ)って素晴らしいです」
衣笠「「済遠」って豊島沖でも戦いの途中で逃げてなかった? 浸水しながらも衝角戦を仕掛けるべく単艦突入の末に集中砲火を受けて沈没した「致遠」とはえらい違いね」
加賀「ショウカク? 御幸……いえ、五航戦の何時も壊れてる方でしたか?」
翔鶴「帆船時代の、砲撃で船を沈める事はほぼ不可能と言われていた時代の主武装で、艦首に備え付けられた相手の船体に突き刺す為の槍です」
夕張「この海戦により、帝国海軍が用いた高速・速射主体の部隊(第一遊撃隊)と低速・重火力主体の部隊(連合艦隊本隊)とに分けて運用する形の有効性が世界に広まり、以降海戦の基本として定着しました」
陸奥「単縦陣による速射砲を主体とした砲撃戦術が有利ってのはイギリス海軍が予てから主張してたんだけど、日本はそれを証明した形になるわね。艦首に付けた衝角を相手の艦にブチ刺す衝角戦は時代遅れ。時代のトレンドは砲戦だという事が証明されたわ」
今回はここまで
夜勤が始まった為、時間の確保が難しくなった
日清戦争、今回一回で終わらせる予定だったんだけどな
提督「前回の終わりに紹介した黄海海戦を切り抜け、朝鮮半島周辺の制海権を得た連合艦隊だったが、部隊の再集結・損傷艦の本国帰還・旗艦の「松島」から「橋立」への変更などの再編を迫られる。その間に北洋艦隊は旅順港へ帰還することに成功する」
あきつ丸「さて旅順港……旅順要塞との呼び名もありますが。ここは、東洋一の大要塞と化した港であります」
提督「この東洋一の大要塞を目指して、1894年11月21日、陸側から大山巌大将率いる陸軍第二軍が旅順攻略に向かう」
旅順攻略戦
日本軍と清軍の、旅順港を巡る戦い。
長期化の予想を裏切り、帝国陸海軍の見事な連携により、日本軍はたった一日で旅順を陥落させる。
この結果に、世界中の軍事関係者は仰天する。
木曾「たった一日で……へえ、陸(おか)の奴等も中々やるじゃないか」
まるゆ「海軍の皆さんの御協力あったればこそです」
提督「北洋艦隊は何とか本拠地の威海衛湾に逃げ込むが、1895年(明治二十八年)1月20日、通報艦「八重山」など四艦の艦砲射撃による援護のもと、第一野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島先端の成山角灯台を占領するとともに電信線を切断。これが、威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)の始まりだ」
川内「私達海軍に関係ありそうなのは、陸軍の応援要請を受けて行った、威海衛湾内へ水雷艇部隊を突入させての北洋艦隊襲撃だね。2月5日午前三時二十分、さあ、夜戦だよ!」
深雪「途中、衝突事故を起こしたりしたけど、へこたれたりしないよ。魚雷攻撃でもって暴れまわり、北洋艦隊旗艦「定遠」を大破させ、「来遠」とか「威遠」とか、合わせて三隻を撃沈させたんだ」
山城「大破した「定遠」は劉公島南岸にて擱座していましたが、なおも砲台として戦闘を継続。敵ながら見事な不撓不屈です。しかし九日には陸上からの攻撃を受け損傷、翌十日に日本軍による鹵獲を避けるため自沈します。艦長の劉歩蟾も自決しました」
霧島「そして九日明け方には、二回目の水雷艇部隊突入を行って「靖遠」を撃沈しました」
提督「日本艦隊の水雷艇部隊が泊地へ侵入し、味方北洋艦隊からの砲撃をものともせずに至近距離からの魚雷攻撃を敢行するという事態に、清軍水兵は反乱を起こし、清軍陸兵と清国へ派遣されていた外国人軍事顧問は北洋艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督に降伏を求めた」
大和「当初こそ、艦が沈み地上部隊が全滅するまで抵抗する! ……と降伏を拒否していた丁提督でしたが、どうにもすることができなくなり、全艦船の譲渡と引き換えに全清兵の生命保全を要求して降伏。2月11日、自身は服毒自殺します」
隼鷹「丁提督と交流のあった伊東長官はその死を嘆き、鹵獲艦船の中から商船「康済号」を外して丁提督の亡骸と清国海軍将兵1000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航させたんだ」
暁「伊東長官が丁提督の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、清将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世界常識として例を見ない厚遇だったそうよ」
伊401「そんなこんなで、戦利艦として清の軍艦を大量ゲット。その中には、あの日本を散々に悩ませてくれた当時の東洋最強戦艦「定遠」の姿もありました」
日清戦争での主な捕獲艦
戦艦
鎮遠(ちんえん)
防護巡洋艦
済遠(さいえん)
広丙(こうへい)
砲艦
平遠(へいえん):清国海軍時代の類別は装甲巡洋艦
操江(そうこう)
湄雲(びうん):意味は「水際の雲」
鎮東(ちんとう)
鎮西(ちんぜい)
鎮南(ちんなん)
鎮北(ちんほく)
鎮中(ちんちゅう)
鎮辺(ちんぺん)
水雷艇
第二六号水雷艇
第二七号水雷艇
第二八号水雷艇:装甲艦「鎮遠」の艦載水雷艇
福龍:拿捕後しばしば「ふくりやう」と呼ばれた。「ふくりゆう」と「ふくりょう」二通りの呼ばれ方がある
陸奥「湄雲は6月5日に帝国海軍に編入したんだけど、同年7月7日に除籍されて第五種(雑役船)に変更になったの。戦没なんかの事例を除けば在籍期間最短記録じゃ無いか? って言われてるわね」
夕張「また技術方面では、黄海海戦で日本側の速射砲が非装甲部分をズタボロにしてしまった事を受けて、水線部装甲しか施していない防護巡洋艦は消滅してしまいます。代わって主流になったのは、舷側全体に速射砲弾を防御できる装甲を貼り巡らせた装甲巡洋艦でした」
装甲巡洋艦
遠洋を航海して通商破壊や通商保護を行う際には、敵艦との遭遇・交戦は避けられず、敵艦との撃ち合いによる損害に耐える艦が求められた。
その要求に応え、戦艦に比べれば限定的であるが舷側に装甲を備えた巡洋艦のこと。
軽度な舷側装甲を施した比較的小型の巡洋艦は、軽装甲巡洋艦、略して軽巡洋艦と呼ばれる。
三隈「ここで言う軽巡洋艦は、口径……つまり一撃辺りの打撃力で等級が別けられた私達の世代とは別物です。混合しないで下さいね」
提督「そして、1895年4月17日には伊藤博文と清の李鴻章の間に下関条約……正式名称日清講和条約が結ばれる」
下関条約(しものせき じょうやく)
春帆楼(しゅんぱんろう)で締結された、日清戦争後の講和会議における条約。
会議が開かれた山口県赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。
「下関条約」はこの「馬関条約」の 言い換えであり、言い換えが完全に定着するのは戦後になってからのことである。
もう一方の当事国である中国では、共産党時代の現在でも「馬関条約」という。
榛名「朝鮮独立を誓わせ、遼東半島・台湾・澎湖諸島といった領土も頂戴して、国家予算の四倍強の三億六千万……現代価格でおよそ8950億前後の莫大な賠償金をせしめ……」
金剛「……と行きたい処に、1895年(明治二十八年)4月23日、GermanyとFranceを引き連れたRussiaからの横槍、三国干渉が入るのデース。「遼東半島を清に返還しなさい、断るなら戦争だ」……とね」
加賀「相手は海軍力世界第三位のロシア。清との戦争を終えたばかりの日本には、とても太刀打ち出来ない相手でした。日本は、ハンカチを噛みながら遼東半島を清に返還します。「いつか見てろ、ロシア……」と呟きながら」
響「しかしロシアは、総理大臣の李鴻章に50万ルーブル、副総理の張蔭桓に25万ルーブルの賄賂を握らせ、1896年に清との間に露清密約を結び、1898年、遼東半島南端の旅順・大連の租借に成功する。己れ露助!」
雷「ちょっと響、どうしちゃったのよ!?」
電「はわわ……響ちゃんが響ちゃんじゃ無いのです!!」
提督「さて1900年6月21日、清の西太后が、予てより外国排斥運動を起こしていた義和団を称する秘密結社を支持して欧米列国に宣戦布告。これにより「義和団の乱」は、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本からなる八ヶ国連合軍対清の対外戦争へと発展する」
扶桑「戦争そのものは、八ヶ国連合軍が首都北京及び紫禁城を制圧した事で終結したのですが、この混乱に乗じてロシアは満州を占領。日本もイギリス・アメリカと共にこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました」
響「しかしロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、それどころか清の駐留軍の増強を図った。日本がロシアの横暴と南下に頭を悩ませていた処に、ヨーロッパの某国から「同盟組まない?」の御誘いが」
比叡「そのヨーロッパの某国とは、世界一を自負しこれまで「栄光ある孤立」政策を貫いてきたイギリス。大国が初めてパートナーに選んだのが極東の小国とあって、世界は仰天します」
日英同盟
日本とイギリスとの間に結ばれた軍事同盟。
1902(明治三十五)年1月30日に調印され即時発効。
その後、第二次(1905年)、第三次(1911 年)と継続更新され、1923年8月17日に失効。
提督「この日英同盟締結により、日本はロシアとの戦争を決意。では次回は、日露戦争に向けてその一。「六六艦隊計画」を紹介しよう」
提督「六六艦隊……それは、帝国海軍が1896年(明治二十九年)から1905年(明治三十八年)にかけて推進した、帝国海軍対露戦備の中核を為した海軍軍備計画だ」
響「戦艦六隻と装甲巡洋艦六隻を中核に補助艦艇多数からなる艦隊でもって、露助海軍を迎え撃とうと言う訳だ。そして同計画から、私達駆逐艦も帝国海軍の仲間入りをする」
加賀「でも今回は、戦艦六隻と装甲巡洋艦六隻に絞っていきましょう。その前に、今まですっかり忘れられていた戦艦の定義について紹介します」
戦艦
大砲を主要兵器とする軍艦の中でも、その時代において最強火力を誇る艦砲射撃能力と、自艦の装備する主砲の直撃に耐えうる堅牢な防御力を兼ね備える。
第二次世界大戦頃までは、国力と威信を表す戦略兵器とも言え、政府の政略や戦略をも左右する兵器として海軍兵力の主力とされ、「主力艦」とも呼ばれた。
扶桑「戦艦の定義でより重要なのは火力より装甲であり、これが今日において私達戦艦が絶滅した要因の一つですね。大砲より射程距離と命中率に優れ、かつ小型艦でも搭載できる破壊力抜群なミサイルの前には装甲なんて無意味なんです」
武蔵「斯くして、「防げないのなら避ければいいじゃない」理論の元、減量……より具体的には装甲を棄てる事に因る機動力向上が一大ブームとなる」
伊勢「これにより、「自艦の主砲の直撃に耐えうる防御力」と言う戦艦の定義の一つを満たせる艦は減少の一途を辿るの。そして、装甲防御に頼らない艦が蔓延る御時世に過剰火力な巨砲は不要という事で、主砲も小型化で良いじゃないと言う話になるわ」
青葉「時々、戦闘艦艇……戦う船は何でも「戦艦」と呼んでる人がいますけど、少しは勉強して欲しいですね。あれは、ゲームなら何でもプレステと呼んでるようなものです」
BBCでもCNNでもNYTでも艦船は「War Ship」、装甲車両は「Tank」で纏めてるし、しゃーない
欧米でコレだからな
提督「さて本題に入ろう。先ずは、日清戦争に間に合わなかった二隻の戦艦、冨士型姉妹」
「富士(ふじ)」型戦艦
帝国海軍の戦艦で、イギリス海軍の戦艦「ロイヤル・サブリン級」を小型改良した最新鋭戦艦。日本の戦艦としては始めて砲塔に収められた主砲を持つ。
後の大和型姉妹をも凌ぐ帝国海軍屈指の肉厚装甲を誇るが、これは技術が未成熟な為で、勿論耐久力は大和型の方が格段に頑丈で優れている。
一番艦「富士」
イギリス・ロンドンのテームズ鉄工所で建造され、1897年(明治三十年)6月14日、竣工に先立って領収し軍艦旗を掲げ、スピッドヘッドで行われるヴィクトリア女王即位60周年記念の観艦式に参加。竣工は同年8月17日。
艦名は説明不要な日本の最高峰富士山にちなむ。艦名としては明治初期の軍艦「富士山」に続いて二代目。
二番艦「八島(やしま)」
艦名は日本の美称の一つ。
イギリスはニューキャッスルにあるアームストロング社エルジック造船所で建造され、1897年(明治三十年)に竣工。
比叡「富士さんは推進器を撤去した後も、木造の講堂を設けて浮き校舎として使用されていました。終戦直前の空襲により炎上着底してしましたが、それでも四十八年間も帝国海軍に在籍していたんですよ」
電「もしかして、コミックの「艦これなのです!」に登場する鎮守府学園は富士さんの事なのでしょうか?」
暁「世界観からいって、寧ろその学園で勉強教える先生じゃ無いかしら? 学園長とか?」
「八雲(やくも)」装甲巡洋艦
ドイツの老舗シュテッティン・フルカン造船所で建造された、帝国海軍最初の装甲巡洋艦。1900年6月20日に領収し、同年6月22日に日本へ回航。同年8月30日、横須賀に到着。
後進に現役を譲ってからも、戦時中は副砲を高角砲に換装して対空戦に従事。また終戦時には可動状態であったため復員船として使用されるなど、裏方で大活躍。
「吾妻(あづま)」装甲巡洋艦
政治上の理由(イギリスばかりに発注していては外交上問題があったから)により、フランスに発注。同時期に健造された八雲も、同様の理由によりドイツに依頼。
ロワール社サン・ナゼール造船所にて1898年(明治三十一年)起工。1900年7月28日に領収し、翌日に日本へ回航。同年10月29日、横須賀に到着。
提督「帝国海軍は戦艦・巡洋艦の備砲を列強に先駆けて口径を統一する事を第一に行った稀有な海軍なんだ。そのため、今回紹介する六隻の一万トン級装甲巡洋艦の搭載砲は全て一貫していた」
足柄「この事は兵の教育と弾薬の補給に非常に有利だったの。明治初期の艦艇は備砲の口径や使用方法が艦ごとにバラバラで、砲弾の互換性や兵の応用が利かなかった事が問題になったから、その戦訓を踏まえてね」
>>46をちょい修正
提督「さて本題に入ろう。先ずは、日清戦争に間に合わなかった二隻の戦艦、冨士型姉妹」
「富士(ふじ)」型戦艦
帝国海軍の戦艦で、イギリス海軍の戦艦「ロイヤル・サブリン級」を小型改良した最新鋭戦艦。日本の戦艦としては始めて砲塔に収められた主砲を持つ。
後の大和型姉妹をも凌ぐ帝国海軍屈指の肉厚装甲を誇るが、これは技術が未成熟な為で、勿論耐久力は大和型の方が格段に頑丈で優れている。
一番艦「富士」
イギリス・ロンドンのテームズ鉄工所で建造され、1897年(明治三十年)6月14日、竣工に先立って領収し軍艦旗を掲げ、スピッドヘッドで行われるヴィクトリア女王即位60周年記念の観艦式に参加。竣工は同年8月17日。
艦名は説明不要な日本の最高峰富士山にちなむ。艦名としては明治初期の軍艦「富士山」に続いて二代目。
二番艦「八島(やしま)」
艦名は日本の美称の一つ。
イギリスはニューキャッスルにあるアームストロング社エルジック造船所で建造され、1897年(明治三十年)に竣工。
比叡「富士さんは推進器を撤去した後も、木造の講堂を設けて浮き校舎として使用されていました。終戦直前の空襲により炎上着底してしましたが、それでも四十八年間も帝国海軍に在籍していたんですよ」
電「もしかして、コミックの「艦これなのです!」に登場する鎮守府学園は富士さんの事なのでしょうか?」
暁「世界観からいって、寧ろその学園で勉強教える先生じゃ無いかしら? 学園長とか?」
「八雲(やくも)」装甲巡洋艦
ドイツの老舗シュテッティン・フルカン造船所で建造された、帝国海軍最初の装甲巡洋艦。1900年6月20日に領収し、同年6月22日に日本へ回航。同年8月30日、横須賀に到着。
後進に現役を譲ってからも、戦時中は副砲を高角砲に換装して対空戦に従事。また終戦時には可動状態であったため復員船として使用されるなど、裏方で大活躍。
「吾妻(あづま)」装甲巡洋艦
政治上の理由(イギリスばかりに発注していては外交上問題があったから)により、フランスに発注。同時期に健造された八雲も、同様の理由によりドイツに依頼。
ロワール社サン・ナゼール造船所にて1898年(明治三十一年)起工。1900年7月28日に領収し、翌日に日本へ回航。同年10月29日、横須賀に到着。
提督「帝国海軍は戦艦・巡洋艦の備砲を列強に先駆けて口径を統一する事を第一に行った稀有な海軍なんだ。そのため、今回紹介する六隻の一万トン級装甲巡洋艦の搭載砲は全て一貫していた」
足柄「この事は兵の教育と弾薬の補給に非常に有利だったの。明治初期の艦艇は備砲の口径や使用方法が艦ごとにバラバラで、砲弾の互換性や兵の応用が利かなかった事が問題になったから、その戦訓を踏まえてね」
「敷島(しきしま)」型戦艦
イギリスの最新鋭戦艦マジェスティック級戦艦の改良型で、最新式の防御方式を施されたこの当時の世界最大の戦艦。
主砲と副砲には、前級富士型戦艦と同じ40口径30.5㎝砲と40口径15.2㎝砲を搭載。なお副砲の配置と煙突の数の違いから「朝日」と「三笠」を準同型艦と分類する場合もある。
一番艦「敷島」
艦名は日本全体の美称の一つ。
1897年3月29日、イギリス・ロンド ンのテムズ鉄工造船所で起工。1898年11月1日、進水。1900年1月26日、竣工。1月27日、日本に向け回航。4月17日、呉に到着。
1921年9月1日、 一等海防艦に類別変更。第一次世界大戦後の1923年4月1、ワシントン軍縮会議により兵装、装甲の全てを撤去し、練習特務艦となり佐世保港に繋留。
二番艦「朝日(あさひ)」
イギリス、クライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造。公試の帰りに座礁する事故があり、竣工は予定より約三ヶ月遅れた1900年(明治三十三年)7月31日。同年10月 23日に横須賀に到着。
1923年(大正十二年)にワシントン軍縮条約により練習艦として保有が許されたので兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。
この頃に潜水艦事故が続けて起こった為、1925年(大正十四年)に潜水艦救難設備を設置。朝日は呉にあって潜水艦事故に備えていたが後に工作艦に改造される時にこの設備は撤去、使用する機会は起こらなかった。
1931年(昭和六年)頃に簡単な工作設備を設置。1937年(昭和十二年)には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠で特急工事 により工作艦に改造され8月15日に工事完了、8月16日には類別を工作艦に変更し中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事。
1940年(昭和十五年)11月15日からは本艦工作部が陸上に移った為、日本へ戻り連合艦隊付属となった。
先の大戦では第二艦隊に配属されカムラン湾に進出、1942年(昭和十七年)2月にシンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、工作艦「明石」と共に損傷修理に活躍。
三番艦「初瀬(はつせ)」
艦名の由来は奈良県を流れる初瀬川による。
1898年1月10日イギリス、ニューキャッスルのアームストロング・ホイットワース社エルジック工場で起工。
1899年6月27日、進水。1901年1月18日、竣工。2月2日、日本へ回航。4月15日、横須賀に到着。
四番艦「三笠(みかさ)」
奈良県にある三笠山にちなんで命名。一番最後に完成した分、装甲材や通信機器に新しい技術が盛り込まれている。
イギリスのヴィッカースに発注され、1899年(明治三十二年)1月24日、バロー・イン・ファーネス造船所で起工。1900年(明治三十三年)11月8日、進水。
1902年(明治三十五年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。3月13日、イギリス、プリマスを出港しスエズ運河経由で5月18日横須賀に到着。
明石「朝日さんには、本当にお世話になりました。また一緒に働きたいものです」
「浅間(あさま)」型装甲巡洋艦
ロシア艦隊の増勢から、同計画時にイギリスのアームストロング社で建造中であった輸出用一等巡洋艦二隻を急遽購入。
購入時には船体の建造が大分進んでいたが、武装を日本式に変更することができた。建造計画で最も若いグループなのに六六艦隊の中で最も竣工年が古い艦になった。
一番艦「浅間」
艦名は群馬県と長野県の境にある「浅間山」にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては二隻目。
1896年10月20日にイギリスのアームストロング・ホイットワース社で起工、進水は1898年3月22日。1899年3月18日に竣工。翌19日に出航 し、5月17日に横須賀に到着。
1900年には義和団の乱で出撃。また、1902年にはイギリスへ派遣されてエドワード7世戴冠記念観艦式に参加した。
浅間は明治三十三年から四十一年まで連続して観艦式のお召し艦に選ばれ、 これは日本海軍では最高記録である。
二番艦「常磐(ときわ/ときは)」
フィリップ・ワッツの設計による。1897年1月6日にイギリスのアームストロング・ホイットワースで起工し、1898年(明治三十一年)7月6日進水。
1899年(明治三十二年)5月18日に竣工。同月19日、日本に回航され、1899年7月17日に横須賀に到着。
1922年(大正十一年)から1923年(大正十二年)にかけて海防艦から敷設艦に改装され、後部主砲と副砲の一部、魚雷発射管などを撤去して機雷500個を搭載。
1926年(大正十五年)には、機雷の連続敷設が可能なようさらに改修された。
1927年8月1日、佐伯湾にて実装備を用いての訓練中、機雷爆発事故発生。死者行方不明者35名、負傷者68名。
この事故を受け、起工直前だった高雄型重巡洋艦の設計変更、並びに妙高型重巡洋艦の改修が行われた。
終戦直前の8月9日、大湊にて空襲を受け浸水したものの、ビルジポンプで排水し続けた。8月15日、艦の保全のために葦崎東方海岸に擱座し、曳船の助けを得て投錨して艦を固定。
龍田「機雷爆発事故があった年に、当時私が旗艦を勤めていた第一水雷戦隊は佐伯湾で訓練を行っていたのだけど~、私は心臓病の治療(故障した機関の修理)をしていて、その間、臨時旗艦になってもらった事もあったわ~」
「出雲(いずも)」型装甲巡洋艦
タイプシップは先に建造された「浅間型」に採り、本型はその改良型としてフィリップ・ワッツ造船技師の手により設計された。
一番艦「出雲」
1900年9月25日、イギリスはアームストロング・ホイットワース社にて竣工。10月2日、日本へ回航。12月8日、横須賀に到着。
1913年11月には、ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦で混乱するメキシコに邦人保護を目的に派遣された。
また、1917年8月に第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣され、中央同盟国の潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事。
日中戦争に際しては四代目第三艦隊の旗艦として上海に派遣された。
1941(昭和十六)年12月8日、真珠湾攻撃が行われたこの日、出雲は上海において駆逐艦「蓮」及び砲艦「鳥羽」と共に、アメリカ砲艦「ウェーク」を拿捕、イギリス砲艦「ペテレル」を撃沈している。
なお、ウェークは第二次世界大戦で唯一敵に降伏したアメリカ海軍の艦船となっている。
二番艦「磐手(いわて/いはて)」
1901年(明治三十四年)3月18日、アームストロング社にて竣工し領収。翌日19日に日本へ回航。同年5月17日、横須賀に到着。
1921年(大正十年)9月1日、一等海防艦に変更。
船体の大きいこと、居住性の良さなど から1916年(大正五年)より主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事し、多くの士官候補生を育てた。遠洋航海参加は香取型練習巡洋艦の竣工する前年まで続いた。
海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和十七年)7月1日に一等巡洋艦に復帰。
1945年(昭和二十年)7月26日、呉軍港空襲で沈没するまで練習艦として使用された。
飛鷹「い……出雲さん、上海でなんか凄い事してる」
提督「この他、戦艦二隻をイギリスに発注していたんだが……例によって間に合わなかった。更には臨時軍事費を元手に国産戦艦に挑むが……」
長門「おい、何があったんだ? 不安になる切り方止めろ」
金剛「それと、開戦直前にArgentinaに譲ってもらったItaly産まれの装甲巡洋艦二隻がいますけど、六六艦隊には入ってないので紹介は次回ですネー」
こんな感じで今回はここまで
>>45氏
「War Ship」=軍艦なのでまだ良い(戦艦はbattle shop)です
「Tank」……これは擁護出来ない
提督「今回は、前回分の補足から。実は「三笠」を注文した時には海軍は予算が尽きていて、前金すら用意出来ない状況だった。一言で言って、大ピンチ。苦悩する海軍大臣山本権兵衛に相談を持ち掛けられた内務大臣西郷従道は……」
西郷従道「山本さん、是非とも軍艦を買わなければいけません。だから、予算を流用するのです。むろん違憲です。もし議会で違憲を追及されたら、二人で二重橋の前まで出掛けて腹を切りましょう。二人が死んでも、それで「三笠」が完成すれば本望じゃないですか」
陸奥「そこまでの覚悟で造ったのね。中々に出来る事じゃ無いわね」
大和「当時の帝国憲法では、歳費をオーバーするとそれだけで不正流用として咎を受けることになっていました。昨今では……止めましょう」
提督「さて、主力艦だけでは優秀な艦隊は創れない。適所に適材を配置して役割をそれぞれに分担する。これが艦隊運用の基本だ」
響「露助の増艦計画に対して、日本も更なる増艦計画を進める。先ずは六六艦隊の構成要員に入っていない巡洋艦や砲艦から」
「高砂(たかさご)」防護巡洋艦
吉野型防護巡洋艦の二番艦……と一般にはされているが、兵装も装甲も違う別物。実際にはチリのチャカブコ級防護巡洋艦の同型艦で、建造中の処を帝国海軍が購入。
「吉野」との繋がりは、設計者が同じフィリップ・ワッツ郷である事位。
1896年(明治二十九年)5月29日、イギリスはニューカッスルのアームストロング社エルジック造船所で起工。
1898年(明治三十一年)5月17日に竣工し、二等巡洋艦に類別。同年5月25日、サウスシールズを出港し、日本に回航され、8月14日に横須賀港に到着。
1902年(明治三十五年)6月16日から18日にかけて行われた、エドワード7世戴冠記念観艦式に参列のためイギリスを訪問後、ヨーロッパ各国を歴訪。
「笠置(かさぎ)」型防護巡洋艦
外交上の配慮からアメリカに発注。帝国海軍の防護巡洋艦の中では、外国で建造された最後の艦型。艦型は「吉野」の改良型である「高砂」とほぼ同じ。
一番艦「笠置」
艦名は京都府の笠置山による。
1898年(明治三十一年)10月24日クランプ社フィラデルフィア造船所にて竣工、翌日デラウェアで挙行された米西戦争凱旋記念観艦式に参列。
同年11月2日にアメリカを出発、イギリスのアームストロング社にて兵装を搭載。日本には翌1899年(明治三十二年)5月16日、横須賀に到着。
二番艦「千歳」
1897年(明治三十年)、アメリカのユニオン・アイアン・ワークス社サンフランシスコ造船所で起工、1899年(明治三十二年)3月1日に竣工、二等巡洋艦に類別。
同月21日、日本に回航され、4月20日横須賀港に到着。
1907年(明治四十年)2月から11月まで、アメリカ殖民300年祭記念観艦式に参加し、その後ヨー ロッパ各国を歴訪。
千歳「笠置姉妹の二隻は、どちらもアメリカの記念観艦式に参加してるのね。ある種の里帰りかしら?」
千代田「あー、あたしも千歳お姉と、戦以外で外国に行って見たかったなー」
「春日(かすが)」型装甲巡洋艦
アルゼンチンの発注によりイタリアはアンサルド社ジェノバ造船所で建造中のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦の内二隻を、同盟国イギリスの薦めで購入。
本艦の基本設計は同年代のイタリア海軍の前弩級戦艦「エマニュエレ・フィリベルト級」の艦形を参考に、設計士官エドアルド・マスデアの手により、小型化し、装甲を減らし、 代わりに速力を増加した艦として纏められた。
一番艦「春日」
1902年(明治三十五年)3月10日、アルゼンチンが発注。イタリアのアンサルド社で装甲巡洋艦「リヴァダヴィア」として起工。
10月22日、進水式。1903年( 明治三十六年)12月30日、日本海軍が購入。「春日」と命名。1904年(明治三十七年)2月16日、横須賀に到着。
新宿区北東部にある早大通り(そうだいどおり)に設置された砲弾は、春日の主砲弾。
1906年(明治三十九年)4月12日に皇居に設置されたものを、戦後に移設。
1934年(昭和九年)1月、南洋諸島ローソップ島の日食観測活動に参加。
二番艦「日進(にっしん)」
1902年(明治三十五年)3月29日、アルゼンチンが発注。装甲巡洋艦「モレノ」としてイタリアのアンサルド社で起工。
1903年(明治三十六年)2月9日、進水式。12月30日、日本海軍が購入。
1904年(明治三十七年)2月2日、一等巡洋艦に類別し「日進」と命名。2月7日、竣工。2月16日、横須賀港へ回航。
「日進」の名を持つ軍艦としては、幕末に佐賀藩が購入し、後に明治初期に日本海軍に移籍したスループに続き二代目。
扶桑「愛知県の日進市は、装甲巡洋艦「日進」の活躍に因んで名付けられたのよ。1906年(明治三十九年)5月10日に愛知郡の香久山村、岩崎村、白山村の三村が合併して日進村が発足したわ」
鳳翔「その後、1958年1月1日に町制へ施行。 1994年10月1日に市制施行で現在に至るの」
金剛「帝国海軍の軍艦は外注組ばかりじゃ在りまセーン、国産組も追い付け追い越せと続きマース」
「須磨(すま)」型防護巡洋艦
初の国産防護巡洋艦である「秋津洲」(>>26に登場)の小型化改良型。
一番艦「須磨」
艦名は神戸市の景勝地「須磨」に因んで名付けられた。
1892年(明治二十五年)、横須賀造船部で起工、1896年(明治二十九年)に竣工。1898年(明治三十一年)3月21日、三等巡洋艦に類別。
米比戦争により1899年(明治三十二年)2月から4月まで、邦人保護のためマニラに派遣。
1912年(大正元年)8月28日、二等巡洋艦に等級変更。
1921年(大正十年)9月1日、二等海防艦に類別変更され、1923年(大正十二年)4月1日に除籍となり雑役船に編入、佐世保防備隊で使用。
1928年(昭和三年)に廃船。
二番艦「明石」
艦名は兵庫県の景勝地「明石の浦」に因んで名付けられた。
1894年(明治二十七年)、横須賀造船廠で起工、1899年(明治三十二年)3月30日に竣工し、三等巡洋艦に類別。
1912年(大正元年)8月28日、二等巡洋艦に等級変更。
1921年(大正十年)9月1日、二等海防艦に類別変更され、1928年(昭和三年)4月1日に除籍となり、7月6日、廃艦第2号と仮称。
1930年(昭和五年)8月3日、伊豆大島東南方で急降下爆撃の実艦標的とされ海没。
明石「この須磨型、計画は日清戦争直前からはじまっていたのだけど間に合わなかったの」
「宇治(うじ)」砲艦
呉造船廠で1903年(明治三十六年)8月11日に竣工、二等砲艦に類別。
1931年(昭和六年)6月1日、等級廃止に伴い砲艦に類別変更。
1936年(昭和十一年)4月1日に特務艇に編入され潜水艦母艇に類別、同年8月25日に除籍。
「新高(にいたか)」型防護巡洋艦
国産の防護巡洋艦。新高型以降の巡洋艦は国産化されることになる。
従来の艦隊の機動戦力としての運用を目的とした巡洋艦とは違い、当初から偵察任務で運用する巡洋艦として設計された。
雷装が無い為武装で劣り、速力も決して速いとは言えないが、堅牢で実用的な面から大いに成功したといえる。
一番艦「新高」
艦名は当時日本領であった台湾の「新高山」(現「玉山」)に由来。
1901年(明治三十四年)、横須賀工廠で起工。1902年(明治三十五年)11月15日に行われた進水式には皇后が臨席された 。1904年(明治三十七年)1月27日に竣工し、三等巡洋艦に類別。
1922(大正十一年)年8月26日、カムチャツカ半島で北洋警備にあたりオジョールナヤ基地沖に停泊していたところ、北上してきた熱帯性低気圧の暴風雨に巻き込まれボイラー罐に浸水、午前6時頃海岸に擱座、右舷に傾斜転覆。沿海州付近に沈没。
艦長の古賀琢一大佐以下300余名の乗員のうち生還したのは、28日に現場に急行した駆逐艦「槇」 が救助した岡田二等水兵と機関兵15名のみであった。327名が殉難する悲劇となった。
二番艦「対馬(つしま)」
艦名は旧国名対馬国にちなんで名づけられた。
1901年(明治三十四年)、呉工廠で起工。1904年(明治三十七年)2月14日に竣工し、三等巡洋艦に類別。
1944年(昭和)中ごろ三浦半島大津海岸で雷撃訓練標的として使用し漏水により沈没。
大鯨「新高さんが沈没する要因になった熱帯性低気圧(発生当初は台風)には、台風を識別する固有名称として「新高台風」の名が付けられました。これは非公式ですが初めて固有名が付いた台風です」
「音羽(おとわ)」防護巡洋艦
1903年(明治三十六年)、横須賀工廠で起工。同年11月2日の進水式には明治天皇が臨席された。1904(明治三十七年)年9月6日に竣工し、三等巡洋艦に類別。
予算の関係で新高型防護巡洋艦より小規模の設計となった。新高型と同様に雷装が無いのが特徴。
羽黒「先程から目にする二等巡洋艦とか三等巡洋艦というのは、艦の等級の事で、これは計画排水量や基準排水量で決まります」
鬼怒「排水量っていうのは、軍艦の大きさを表す単位だね。軍艦を水に浮かべた時に押し退けられる水の重量をトン単位で示した数値で、これは排水トン数に等しいよ」
加古「排水量には幾つか種類があるけど、羽黒の言ってる基準排水量は「燃料と水は含まずそれ以外の乗員や弾薬その他消耗品を満載した状態」だよ」
赤城「この艦の等級は巡洋艦だけのものじゃなくて、駆逐艦や潜水艦にもありますよ。後、1905年(明治三十八年)12月12日までは戦艦にも等級があったらしいですけど、大型化に伴い廃止されたみたいです」
利根「じゃが我が輩ら巡洋艦に関しては、1934年(昭和九年)5月31日以降はロンドン海軍軍縮条約の定めに倣い、カテゴリーAを一等巡洋艦、カテゴリーBを二等巡洋艦と定めておる。我が輩らの世界で言うところの重巡洋艦と軽巡洋艦じゃな」
今回はこれまで
次回は、頼れる縁の下の力持ち、駆逐艦
乙
これ艦だけ?
できれば航空機とか要塞砲とかもやって欲しいな
>>58氏
航空機はまだこれからです
人類初の動力飛行機「ライトフライヤー号」の初飛行が1903年12月17日ですから
提督「さて、小さな船体で動きも速く、魚雷で喫水線下をぶち破る事により大型艦にすら致命傷を与えてくれる水雷艇。対抗策として様々な艦種が登場する」
水雷巡洋艦
小型化により取り回しを良くして、魚雷を装備し、かつ遠洋航海能力を備えた巡洋艦。
任務は、敵戦艦や巡洋艦に対する水雷攻撃、および敵水雷艇による水雷攻撃の除去と偵察で、水雷艇と巡洋艦の双方の任務を兼ねる汎用性を備える。
水雷艇を大型化し航洋性を持たせた駆逐艦と競合する事により廃れ絶滅。
水雷艇駆逐艦
水雷艇を大型化した小型軽量な艦。高い機動性と、水雷艇を圧倒できるだけの武装を持ち、こちらの戦艦や巡洋艦に近寄ってくる水雷艇を追い払う。
駆逐艦
水雷艇駆逐艦の登場により一気に廃れた水雷艇に代わり、水雷艇の役割である大型艦への魚雷攻撃をも兼任する事となった水雷艇駆逐艦の末路。
軽量で小回りが利いて使い道も多い、便利な頼れる艦。御手頃価格を活かした数の暴力が基本戦術だが相応に脆い。
「雷」型駆逐艦
イギリスのヤーロー社(現在はBAEシステムズの子会社)設計の、イギリスのB型駆逐艦をもとにした駆逐艦。建造後日本に回航され、日露戦争で活躍。
当初は、国内法に措ける軍艦とは別の類別である水雷艇に属する水雷艇駆逐艇だったが、1900年(明治三十三年)6月22日に軍艦と水雷艇を統合、軍艦の類別に変更し名称を水雷艇駆逐艇から駆逐艦に変更。
一番艦「雷」
1899年(明治三十二年)2月25日、竣工。同年5月25日、佐世保に到着。
1912年(大正元年)10月9日、大湊港にて機関部が爆発事故を起こし、船体が断裂し着底。
(事故の発生は1913年(大正二年)10月10日とする資料もある)
1913年(大正二年)11月5日、除籍。1914 年(大正三年)4月29日、売却処分。
二番艦「電」
1899年(明治三十二年)4月25日、竣工。同月26日に出航し、同年6月25日、横須賀に到着。
1909年(明治四十二年)12月16日、函館南方で汽帆船と衝突し、沈没。1910年(明治四十三年)夏に浮揚後、9月15日除籍。
三番艦「曙」
1899年(明治三十二年)7月3日、竣工。1900年(明治三十三年)2月20日、横須賀に到着。
1921年(大正十年)4月30日、特務艇(二等掃海艇)に類別。同年6月21日、雑役船(標的船)に編入。
1925年(大正十四年)5月2日、廃船。
四番艦「漣」
1899年(明治三十二年)8月28日、竣工。1900年(明治三十三年)3月24日、佐世保に到着。
1913年(大正二年)4月1日、除籍のうえ雑役船 (掃海船)に編入、後に標的船となり漣丸に改称。
1930年(昭和五年)8月29日、館山沖で撃沈処分。同年10月18日、廃船。
五番艦「朧(おぼろ)」
発注時の艦名は第11号水雷艇駆逐艇。
1899年(明治三十二年)11月1日、竣 工。1900年(明治三十三)4月28日、神戸に到着。
1921年(大正十年)4月30日、特務艇(二等掃海艇)に編入。同年6月21日、雑役船(標的船)に編入。同年10月末、廃船。
六番艦「霓(にじ)」
発注時の艦名は第12号水雷艇駆逐艇。
1900年(明治三十三年)1月1日、竣 工。同年5月26日、横須賀に到着。
同年7月29日、清国山東省南東岬沖において濃霧のため座礁、8月3日に沈没。1901年(明治三十四年)4月8日、除籍。
潮「日本では先ず、大型の水雷艇をイギリスから購入して水雷艇駆逐艇として採用。これが雷型ですね。使い心地を確かめ、これは頼りに出来ると良いと判断してから、本格的に駆逐艦を導入しています」
すまん、操作ミスによりデータが消えてしまった
よって、今回はこれにて
>>61から続きます
「東雲(しののめ)」型駆逐艦
明治二十九年度の第一期拡張計画で建造された日本初の駆逐艦。 同型艦六隻がイギリスのソーニクロフト社に発注された。
一番艦「東雲」
1899年(明治三十二年)2月1日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。同年4月1日、横須賀に到着。
1913年(大正二年)7月20日、台湾の淡水(たんすい)から馬公(まこう)に回航の途中、安平港北西沖で暴風のため座礁。同年7月23日、船体切断し沈没。同年8月6日、 除籍。同年11月29日、沈没のまま売却。
二番艦「叢雲(むらくも)」
1898年(明治三十一年)12月29日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。翌年4月23日、横須賀に到着。
1919年(大正八年)4月1日、雑役船(潜水艇母船兼掃海船)に指定、叢雲丸と改称。
1920年(大正九年)7月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入され、叢雲に再改称。
1922年(大正十一年)4月1日、再度雑役船(標的船)に編入。
1925年(大正十四年)3月12日、廃船認許。同年6月4日、千葉県洲崎灯台沖で実艦標 的として撃沈処分。
三番艦「夕霧(ゆうぎり/ゆふぎり)」
1899年(明治三十二年)3月10日、イギリス・ソーニクロフト社で竣工。同年6月22日、横須賀に到着。
1919年(大正八年)4月1日、雑役船(潜水艇母船兼掃海船)に指定、有霧丸と改称。
1920年(大正九年)7月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入され、夕霧に再改称。
1922年(大正十一年)4月1日、再度雑役船(標的船) に編入。
1924年(大正十三年)3月14日、廃船認許。
四番艦「不知火(しらぬい/しらぬひ)」
1899年(明治三十二年)5月13日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。同年11月10日、横須賀に到着。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入。
1923年(大正十二年)6月30日、二等掃海特務艇に類別変更。同年8月1日、雑役船(運貨船)に編入され、公称第2625号に改称。
1925年(大正十四年)2月25日、廃船認許。
五番艦「陽炎(かげろう/かげろふ)」
発注時の艦名は第9号水雷艇駆逐艇。
1899年(明治三十二年)10月31日、イ ギリスのソーニクロフト社で竣工。翌年3月14日、佐世保に到着。
1922年(大正十一年)4月1日、雑役船(曳船兼交通船)に編入。
1924年(大正十三年)10月8日、廃船認許。
六番艦「薄雲(うすぐも)」
発注時の艦名は第10号水雷艇駆逐艇。
1900年(明治三十三年)2月1日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。同年5月14日、鹿児島に到着。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入。
1923年(大正十二年)6月30日、二等掃海特務艇に類別変更。同年8月1日、雑役船(運貨船)に編入、同時に公称第2525号に改称。
1925年(大正十四年)2月25日、廃船。同年4月29日、伊豆大島沖で実艦標的として撃沈処分。
陽炎「上に挙げた夕霧さんたちの平仮名表記が二通りあるのは、現代仮名遣いと歴史的仮名遣の違いだね」
不知火「語中・語尾のハ行音がワ行音へと変化する、これをハ行転呼(はぎょうてんこ)と言います」
「暁」型駆逐艦
明治三十年度の第二期拡張計画で建造された駆逐艦。同型艦二隻でイギリスのヤーロー社に発注された。改雷型とも言える艦級。
一番艦「暁」
当初の艦名は第13号駆逐艦。
1901年(明治三十四年)11月13日に進水し「暁」と命名。同年12月14日、イギリスのヤーロー社で竣工。
1902年(明治三十五年)1月25日、日本へ回航。同年5月7日、横須賀に到着。
二番艦「霞」
当初の艦名は第14号駆逐艦。
1902年(明治三十五年)1月23日に進水し「霞」と命名。
同年2月14日、イギリスのヤーロー社で竣工。同年3月10日、日本へ回航。同年6月15日、横須賀に到着。
1913年(大正二年)4月1日、除籍。同年8月23日、雑役船(掃海船、のち標的船)に編入され、霞丸と改称。
1920年(大正九年)7月1日、霞に再改称。
響「よく混乱と誤解を招いているけど、帝国海軍において暁型とされるのは後にも先にもこの艦級だけだ。私も、正しくは吹雪型二十二番艦だよ」
「白雲(しらくも)」型駆逐艦
明治三十年度の第二期拡張計画で建造された駆逐艦で、イギリスのソーニクロフト社に発注された。改東雲型とも言える艦級。
一番艦「白雲」
当初の艦名は第15号駆逐艦。
1901年(明治三十四年)10月1日に進水し「白雲」と命名。
1902年(明治三十五年)2月13日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。同年2月27日、日本へ回航。同年5月30日、呉に到着。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。
1923年(大正十二年)4月1日、雑役船に編入。
1925年(大正十四年)7月21日、豊後水 道姫島沖で実艦標的として撃沈処分。
二番艦「朝潮(あさしお/あさしほ)」
当初の艦名は第16号駆逐艦。
1902年(明治三十五年)1月10日に進水し「朝潮」と命名。同年5月4日、イギリスのソーニクロフト社で竣工。同年7月7日、日本へ回航。同年11月20日、横須賀に到着。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。
1923年(大正十二年)4月1日、雑役船(標的船)に編入。
1925年(大正十四年)5月2日、廃船。
1926年(大正十五年)4月5日、売却。
山城「イギリスから多くの駆逐艦を購入し、運用のノウハウを学んだ日本は、それらを参考に駆逐艦の国産化に乗り出します」
「春雨」型駆逐艦
明治三十三年度計画で建造された駆逐艦。イギリス製駆逐艦を手本に、その長所を取り入れ建造した国産駆逐艦。
一番艦「春雨」
1903年(明治三十六年)6月26日、横須賀造船廠で竣工。
1911年(明治四十四年)11月24日、三重県的矢湾で荒天により擱座沈没。同年12月28日、除籍。
1912年(大正元年)8月1日、 沈没のまま売却。
二番艦「村雨」
1903年(明治三十六年)7月7日、横須賀造船廠で竣工。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。
1923年(大正十二年)4月1日、雑役船(魚雷標的船)に編入。翌年2月14日、廃船。
三番艦「速鳥(はやとり)」
1903年(明治三十六年)8月24日、横須賀造船廠で竣工。
四番艦「朝霧(あさぎり)」
1903年(明治三十六年)9月18日、横須賀造船廠で竣工。
1922年(大正十一年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。
1923年(大正十二年)4月1日、雑役船(魚雷標的船)に編入。翌年2月14日、廃船。
五番艦「吹雪」
1905年(明治三十八年)2月28日、呉海軍工廠で竣工。
1924年(大正十三年)12月1日、除籍。
1926年(大正十五年)5月5日、廃船処分となり解体売却。
六番艦「霰」
1905年(明治三十八年)5月10日、呉工廠で竣工。
1924年(大正十三年)4月1日、除籍。
七番艦「有明(ありあけ)」
1905年(明治三十八年)7月30日、横須賀造船廠で竣工。
1924年(大正十三年)12月1日、除籍。翌年4月10日、廃船認許。 同年11月12日、内務省に移管、東京水上警察署取締船となる。
初春「更に対露戦に備え、帝国海軍は1904年(明治三十七年)から春雨型の改良型を次々と産み出す、駆逐艦大量建造計画を発動するのじゃ。……が、竣工は戦争終結後、日露戦争には一隻も間に合わずなのじゃ」
提督「……と、このように開戦に備えて艦艇やら何やら揃えてる帝国陸海軍だが、勿論戦争なんて望んじゃいない。金掛かるし」
伊勢「日露戦争の借金も、大東亜戦争の遠因の一つだものね」
提督「そこで1903年8月からの日露交渉において日本側は、満州でのロシア帝国の権利を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権利を認めてもらおうという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した」
霧島「でもロシア側は、朝鮮半島で増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れもあって、興味を示さず拒否したんですよね」
扶桑「まあ、世界で一二を争う強大な軍事力を持つロシアが、産まれたばかりの新興国家日本を恐れる理由なんて、常識的に考えてありませんからね」
翔鶴「なので強気なロシアは日本側への返答として、朝鮮半島を北緯39度で南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきました」
加賀「この提案では、日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下に入る事を意味します。日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断、当時の日本としてはのめる提案ではありませんでした」
電「? 南側は日本にくれるのですよね? どうして提案をのめないのですか?」
響「端的に言って、露助が空気読めない奴だから。条約や同盟はことごとく裏切り、無茶苦茶なやり方で領土を増やしと、兎に角お騒がせ国家だった」
雷「ああ、今度も又あれこれいちゃもんつけてくるんじゃないかって心配だった訳ね」
比叡「そんなロシアのヨーロッパでの横暴ぶりと強攻な南下に、世界の色んな処に植民地を持つイギリスは渋い顔。そこで利害の一致した日本に同盟を提案。>>41でも触れた日英同盟です」
青葉「斯くして1904年2月6日、腹を決めた日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡しました。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知します」
長門「更に佐世保には、帝国海軍が編制した連合艦隊が結集。指揮官達幹部が旗艦「三笠」に集まり打ち合わせを行ったその後、夜明けと共に出航。連合艦隊、出撃する」
先日分と合わせて今回はこれにて
次回からは日露戦争編
提督「さて、日本を発った連合艦隊。司令長官はご存知、「沈黙の提督」こと東郷平八郎。1903年(明治三十二年)12月28日に常備艦隊を分割して創設された第一艦隊の司令長官も兼ねているぞ」
日向「本来なら、常備艦隊司令長官の日高壮之丞がそのまま就任するのが筋だったが、日高は健康問題を抱えていて指揮が難しい状態だった」
陸奥「そこで、「海軍の父」 こと海軍大臣・山本権兵衛の抜擢もあって、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が1902年(明治三十三年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任するの」
比叡「それでも政府の戦争指導部に困惑と不安を生じさせ、その事に関して明治天皇から山本に直に訊ねてこられました。その時のやり取りがこちら」
明治天皇「なぜ日高を東郷に代えたのか。東郷と言う男は凡庸な将だと聞くが、あのような地位につけてよいのか?」と下問
山本は「東郷は運のいい男ですので」と奉答
明治天皇「そうか。ならば良い」と納得される
扶桑「山本は周囲の他の者にも、東郷について「東郷は強運の持ち主ですから」と語ったといわれているわ」
提督「さて、ロシアに国交断絶を通達した翌日の2月8日、先遣隊が旅順に奇襲攻撃を仕掛ける。ここはロシア帝国海軍第一太平洋艦隊の拠点で、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、帝国海軍は旅順口攻撃を計画したんだ」
曙「有色人種に白色人種へ楯突く気概も能力も無い。そう高を括っていたロシアの太平洋艦隊に向かって、夜の闇に紛れて魚雷を一斉に撃ち込んだのよ」
旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき)第一次
1904年(明治三十七年)2月8日の夜から翌9日深夜にかけて行われた駆逐隊による夜襲攻撃に始まる、旅順口に対する一連の急襲攻撃。
20時50分、旅順港外にロシア駆逐艦を発見した帝国海軍の第一・二・三駆逐隊は灯火を消す事に。……したことで僚艦同士で衝突事故を起こし、隊列を乱しながらも更に進む。
日付変わって9日0時20分より港外停泊中のロシア艦隊を発見、約10000mから魚雷攻撃を決行。脱出後、仁川へ展開していた別動隊の元へ10日に集合。
この夜襲で戦艦「ツェサレーヴィチ」「レトヴィザン」、防護巡洋艦「パラーダ」に魚雷が命中浸水。三艦は徹夜で防水に努め、他艦の助けを借り曳航されて湾内に入るも座礁擱座。
第一駆逐隊:「白雲」「霞」「朝日」「暁」
第二駆逐隊:「雷」「電」「朧」「曙」
第三駆逐隊:「薄雲」「漣」「東雲」
電「あわわ……危ないのです! ぶつかってるのです!」
比叡「幾ら敵に気付かれない為とはいえ、無灯火夜戦の話は肝が冷えますね」
筑摩「電探でもあればまた違ったのでしょうけど……そう言えばこの御時世、そもそも電探は存在してたのでしょうか」
夕張「記録では1904年にドイツのクリスチャン・ ヒュルスマイヤー氏が火花式送信機とコヒーラー受信機を用いて距離5㎞での船舶探知を実用化、イギリスで特許を取得してますね。でもこの技術には需要が無く忘れられてしまったんです」
明石「そして実用化が始まるのは、電離層の観測目的で電波の利用が行われていた1930年代に入ってからでした」
大鳳「航空機が上空を通過すると観測が妨害される現象が多発していて、その現象を逆手に取り、航空機の早期発見に役立てないかとなった訳です」
青葉「そう言えば、今世界で活躍している八木・宇田アンテナが発明されたのは、1925年(大正十四年)でしたね」
古鷹「私や加古が進水した年だ」
春雨「同時に第四・五駆逐隊が大連湾を襲撃したんだけど、こっちは敵艦に遭遇しなかった」
続けて翌日9日朝、第三戦隊が旅順口の偵察と誘い出しの為、ロシア艦隊に7000mまで接近したが、前夜の混乱により戦意が無かったか反撃されなかった。
更に続いて11時55分より、第一・二戦隊が距離8500mから約一時間にわたって昼間砲撃を敢行。
しかしロシア艦隊は誘いに乗らず、日本側も陸上砲台の射程に入らなかったため、互いにわずかな損害を出すにとどまった。
第三戦隊
防護巡洋艦:「千歳」「高砂」「笠置」「吉野」
第一戦隊
戦艦:「三笠」「朝日」「敷島」「八島」「初瀬」
通報艦:「宮古」
第二戦隊
装甲巡洋艦:「出雲」「常盤」「八雲」「吾妻」「磐手」
通報艦:「千早」
その後、ロシア太平洋艦隊は艦隊決戦を避けて港内に引っ込み、戦力温存と持久戦の構えを見せる
あきつ丸「ここで捕捉しておくと、軍艦の艦砲が陸上の要塞砲と砲撃戦をして勝つ事は凄まじく困難であります。その理由は大きく分けて三つであります」
要塞砲
巧妙にカムフラージュされていて、見破るだけでも一苦労
大地に確りと固定されている為、反動への耐性と命中率も段違い
砲の大型化も技術力が許せば可能だが、度が過ぎると移動は困難……と言うか不可能になる
艦砲
海面に浮いているので位置は丸見え明白
波の影響で常に揺れ動く為、命中率は大幅に低下
砲の大きさも土台となる船体が耐えられるものに限られる
加賀「艦に載せる兵装が通常のものに比べて制限を受けるのは、大砲も航空機も同じなんですね。艦砲の要塞砲に対する利点は、海上なら移動出来る、位のものでしょうか?」
提督「そして第一次旅順急襲と時を同じくして、帝国海軍瓜生戦隊は、仁川港に停泊していたロシア軍艦の撃滅と、「大連丸」「小樽丸」「平壌丸」に乗った帝国陸軍先遣部隊の第十二師団木越旅団の仁川上陸援護を目的として行動を開始する」
瓜生戦隊
第四戦隊
防護巡洋艦:「浪速」「高千穂」「新高」「明石」
装甲巡洋艦:「浅間」
第九艇隊
水雷艇:「蒼鷹(あおたか)」「鴿(はと)」「雁(かり)」「燕(つばめ)」
第十四艇隊
水雷艇:「千鳥(ちどり)」「隼(はやぶさ)」「真鶴(まなづる)」「鵲(かささぎ)」
足柄「本当を言うと浅間さんは第二戦隊の所属なんだけど、戦力増強を目的に臨時に加えられたの。これ以外にも結構、他の戦隊に臨 時編入されることが多かったらしいわ」
仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)
旅順港への奇襲と並行して行われた、日露戦争の口火を切った日本海軍とロシア海軍との間の海戦。仁川は、現在の韓国西北部に位置する。
仁川港に停泊していたロシア海軍の防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」の撃滅が目的だが、仁川港は中立港。
上記のロシア軍艦二隻に加え、日本の防護巡洋艦「千代田」やイギリス軍艦、フランス軍艦、イタリア軍艦、アメリカ軍艦、韓国軍艦、ロシア商船「スリンガー」など複数の外国船も停泊していた。
千代田はロシアとの断交の知らせと出港せよとの通信を受けて2月7日夜に出港、瓜生艦隊に合流した。
提督「そして2月8日午後、仁川港に接近した瓜生艦隊と出港してきたコレーエツが鉢合わせ。日本の水雷艇が魚雷三本を発射し、コレーエツも負けじと発砲。しかし、双方共に損害は無かった」
赤城「この何とも気まずい結果に終わった遭遇戦が、日露戦争の口火を切った陸海全てにおける最初の戦闘とされていますが、先に攻撃したのがどちらなのかは明確になっていません」
この後、コレーエツは出港を中止し、日本軍は陸軍第十二師団木越旅団を上陸させる事に成功。
同日、瓜生少将は領事を通してヴァリャーグ艦長フセヴォロド・ルードネフ大佐に対して、2月9日正午までの出港を要求、出港しない場合は港内で攻撃することを通告。
また、各国船舶に対して、ロシア側に対し上記の通達をした旨、ロシア側が拒否した場合の湾内戦闘に巻き込まれない為に、正午以降に各国船舶は湾外の避難を推奨すること、湾内での戦闘が行われる場合は各船舶の移動時間を考慮し、9日午後4時以降とすることを通達。
これらを受け、ロシア側は11時55分に抜錨、ヴァリャーグ、コレーエツの順で港外で待ち受ける瓜生艦隊の元へと向かった。
夕立「日本が挑戦状を叩き付けて、それを受けてロシアが応じる形で港から出航っぽい? そして殴り合いに発展っぽい」
川内「時間も正に真昼の決闘。確かに私は夜戦が一番だけど、こう言うのも良いね」
12時10分、浅間はロシア側の動きを発見し、12時20分に砲撃開始。それに続けと千代田、浪速、新高も砲撃を開始し、ロシア側二艦も発砲、強行突破を試みる。
この際、コレーエツは52発の砲撃を放ったが日本艦隊には一切届かず、逆に日本艦隊からの砲撃でヴァリャーグは被害甚大、浸水で傾斜し更には炎上してしまう。
コレーエツも1発被弾、多数の死傷者を出した。ロシア側は日本艦隊の囲みを突破することができず、二艦共に仁川港の中立国の軍艦近くへ避難するように後退。
日本側の損害は皆無であった。が、ソ連の海戦史などでは日本の巡洋艦二ないし三隻に大損害を与え、水雷艇一隻を沈めたとなっていたりする。
戦闘後、拿捕を防ぐ為コレーエツは乗組員により弾薬庫を爆破処理され自沈。ヴァリャーグは、イギリス艦の艦長から他の艦艇に被害を及ぼす恐れがあるために爆破処理はしないように、と言われた為そのまま自沈。また、スリンガーも自沈している。
ヴァリャーグはその後、大破した状態で仁川湾内に放棄されていたが、後に帝国海軍はこれを浮揚。防護巡洋艦「宗谷」(そうや)として日本海軍へ編入、第一次世界大戦中に再びロシア軍艦に戻っている。
提督「そして2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。と言う処で今回は……」
隼鷹「いや、ちょっと待て。今まで宣戦布告して無かったのか? それなのに戦闘を始めちゃって、問題に成らないのかよ?」
提督「当時の国際法上は問題無いよ、2日前の2月6日に最後通牒を手渡してるから。そして最後通牒は宣戦布告と同意なんだ。乱暴な言い方をすると、「ここに書かれた要求をのんでくれなきゃ戦争だ」ってね」
酒匂「もっと詳しく書くと、期限付きの最後通牒はその期限を過ぎた時点で、期限の無い最後通牒は受け取ったその時点で宣戦布告と見做されるのが通説だよ」
高雄「因みに、「宣戦布告」又は「条件付宣戦布告を記した最後通牒」を開戦前に相手国に通告する義務を定めた、いわゆる「開戦に関する条約」が成文化されたのは、1907年の第二回万国平和会議で討議されてからですね」
今回はこんな塩梅
因みに12月8日は日本がアメリカやイギリスとかとあの戦争始めた日
提督「前回紹介分より遂に始まった日露戦争だが、実はこの戦争の最中、日本はロシアに味方するある国から宣戦布告を受けた。それがモンテネグロ公国、現在のモンテネグロでヨーロッパ南東部はバルカン半島に位置する国家だ」
響「日本がモンテネグロ公国から宣戦布告を受けたのは1905年の事だ。彼等は同盟を結んでいたロシア軍と共に戦う為に義勇兵を満州へと派遣したんだけど、戦闘への参加は実際には行われなかった。だからその宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった」
雷「何しに来たのよ、モンテネグロ義勇兵」
電「処で、講和会議と言うのは何なのですか?」
蒼龍「一言で言ってしまえば、戦争の終結と平和の回復を宣言する条約、平和条約とか講和条約とか言うんだけど、その内容をお互いに話し合う会議……かな」
陸奥「例え戦争が終わったとしても、それが無理矢理で納得の出来ない内容だと、憎しみだとか反感だとかが燻ったままになって、それが次の戦争の火種に、次の次の戦争の火種に成りかねないでしょ?」
瑞鶴「??? でも待って。戦争を終わらせる為の講和会議に呼ばれなかったって事は……え? 日本とモンテネグロ公国の戦争終わって無い?」
扶桑「そうよ。国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態のまま、詳細は割愛するけど月日は流れ、気付けば2006年……一度は近隣の国々と一つになって造ったセルビア・モンテネグロからモンテネグロが再び独立する処まで続いたわ」
叢雲「忘れ過ぎでしょ! 馬鹿なの? 百年よ!?」
榛名「でも日英同盟の規定では、当時の日本が二ヶ国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることになってました。これは日英同盟が、日本とロシアが戦争に突入した際に、フランスやドイツ帝国などロシアの友好国が参戦するのを牽制する為に結んだ同盟だからです」
霧島「仮に日本がモンテネグロ公国の宣戦布告を無視しなかったり、或いはイギリスが簡単に参戦しては、逆にこれらロシアの友好国が参戦する呼び水になってしまうという、かなり厄介な問題を引き起こす可能性もありました」
金剛「そう言った意味では、宣戦布告を無視してcorrectでしたネ」
提督「さて、日露戦争の話に戻ろう。帝国海軍は以前不充分な結果に終わった旅順口への第二次攻撃として、再度の水雷夜襲を計画した」
村雨「今回旅順口に殴り込むのは、前回は大連湾を襲撃するも空振りに終わった第四・五駆逐隊と、以前の第一次でも旅順口に砲撃を行った第三戦隊よ」
旅順口攻撃第二次
2月11日17時に第四・五駆逐隊が牙山湾を出港、第三戦隊もそれに続くが、12日の明け方から雪を伴った強風が吹き荒れ、進撃する艦、避難する艦、引き返す艦など艦隊は分散してしまう。
第四駆逐隊:「速鳥」「春雨」「村雨」「朝霧」
第五駆逐隊:「陽炎」「叢雲」「夕霧」「不知火」
雪風「斯くしてロシアとの戦いの前に自然との戦いが勃発。何とか死闘を潜り抜け、2月14日の未明に旅順口へと到達出来たのは、はぐれた「村雨」を除く第四駆逐隊の三隻、「速鳥」「朝霧」「春雨」のみでした」
第四駆逐隊の三隻は港外を警戒するロシア駆逐艦三隻と北方に停泊する一艦を発見、停止艦に対して魚雷攻撃を加えた。攻撃に気付いた陸上砲台からの攻撃を受けたが命中はなかった。
当初は港内を狙った間接射撃を予定していたが、荒天により艦隊行動が乱れたこともあり実施せず。第二次攻撃は僅か駆逐艦三隻による襲撃となり、戦果も不明であった。
提督「さてその頃、朝鮮半島と日本列島との間の日本の海上交通路上に於いて、ウラジオストクに根拠地を持つロシア帝国海軍バルト艦隊の分遣隊のひとつ、ウラジオストク巡洋艦隊が活発な通商破壊戦を展開、暴れまわっていた」
響「Владивосто́к(ヴラヂヴァストーク)とは、日本語で「東方を支配する街」。その名の通り、ウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市だった」
愛宕「我等が帝国海軍も、老朽艦を集めて編制した警備・哨戒を担当する第三艦隊を対馬海峡警備に当たらせていたんだけど、敵艦隊は津軽海峡へ向かい、2月11日に「奈古浦丸」が沈められ「全勝丸」が撃破され、遭被害が続出したの」
足柄「そこで帝国海軍は、高速艦で編制された遊撃部隊の第二艦隊を派遣。ウラジオストク艦隊を捜索したんだけど、捕捉に何度も失敗したわ」
提督「一方、睨み合いの続く旅順では、帝国海軍による三度目の攻撃が行われようとしていた。今度はある秘策を持って……」
那智「その秘策とは、老朽化した艦船を二つの半島に挟まれた湾口に沈めて幅273mの旅順港の入り口を封じる、閉塞作戦「機密第一二〇号」だ」
比叡「リアル棄て艦なんて気分の良い作戦計画では無いですけど、旅順港は水深がとても浅く、潮位を読まずに喫水の深い戦艦などの大型艦が迂闊に殴り込みを掛けると、座礁や着底をして艦底を傷めるおそれがありました」
扶桑「取り敢えず座礁の心配だけはしなくて良いなんて、ああ、人形(ひとがた)って幸せだわ」
旅順口攻撃第三次・第一回旅順口閉塞作戦
2月18日、東郷は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令。
23日23時50分、警戒及び襲撃を任務とする第五駆逐隊と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出。
24日0時30分、月の入りと共に黄金山・城頭山・白銀山のロシア側沿岸砲台から探照灯による照射が始まる。第五駆逐隊は探照灯を避けながら老鉄山東岸に沿って徐々に進んだがついに発見された。
1時30分、探照灯の消灯に乗じて偵察を行ったところ、 駆逐艦二隻と艦種不明の一隻を発見、これに魚雷攻撃を行う。襲撃後、水雷艇を用いた航路偵察が行われたが、探照灯により発見され砲撃を受ける。
陸上砲台の砲撃停止と航路確認の後、老鉄山沖に待機していた五隻の閉塞船団は4時15分より「天津丸」「報国丸」「仁川丸」「武揚丸」「武州丸」の順で突入開始。
しかし旅順口を目指す閉塞船団は探照灯に捉えられ猛烈な砲撃を受け、一度は退避していた第五駆逐隊も砲声を聞き閉塞作戦を援護するべく引き返し、あえて砲台に接近して探照灯を灯して牽制したが攻撃を吸収すること叶わず作戦失敗。閉塞は不十分なものとなった。
第五駆逐隊は6時30分に砲撃が途絶えたため湾外へ脱出。閉塞船団は機関兵一名が戦死。
一方で第二戦隊の前衛として第四駆逐隊が7時過ぎに老鉄山沖に到達、旅順口に接近すると港内にロシア駆逐艦三隻を発見、砲撃を加えた。ロシア駆逐艦及び陸上砲台も応射したが港外への出撃が無い為7時20分に離脱。
提督「突入隊は水雷艇隊が危険を冒して収容を行った。お陰で「天津丸」「報国丸」「武揚丸」の乗員は第十四艇隊により収容されたが、しかし、第九艇隊は攻撃を行った為「仁川丸」「武州丸」の乗員収容が行えなかった」
響「そして閉塞作戦の後も旅順港外をロシアの巡洋艦「バヤーン」「ノヴィーク」の他、駆逐艦五隻が徘徊していて、日本艦隊を攻撃したり閉塞船に砲撃を加えるなどしていた」
長門「そこで24日12時、東郷長官はロシア巡洋艦が入港困難である可能性があることから、夜半より第四駆逐隊による魚雷攻撃を命令する」
25日0時、第四駆逐隊は二つの小隊に別れ老鉄山沖に進出、1時30分より第二小隊の「村雨」と「春雨」が旅順口に進むと、2時頃ロシア陸上砲台や哨戒艦は探照灯で照らされた沈没閉塞船を誤射していた。
「村雨」は目標を認めて3時3分に魚雷発射。「春雨」も同じく3時8分に魚雷を発射したが退避中に砲撃を受けた。「村雨」は第二次攻撃の為に引き返し、3時10分に座礁しているとみられる「レトヴィザン」に向けて魚雷発射。
他方、第一小隊の「速鳥」と「朝霧」は25日2時30分に襲撃に入り、50分よりロシア駆逐艦数隻に向けて魚雷攻撃を行い、反転後ロシア艦と砲撃を交える。さらに両艦は回頭して第二次魚雷攻撃を行った。
そして第五駆逐隊は、大連湾にて目標を探したが発見できなかった。
不知火「先代達の落ち度ではありません、敵がいないのが悪いのです」
陽炎「うんうん、解ってるから絡み腰は止めよう」
続いて25日朝より港内間接射撃のため第一・二戦隊が旅順口に進出すると、饅頭山沖にて航行するロシア巡洋艦「バヤーン」「アスコリド」「ノヴィーク」の三隻と遭遇。
11時31分、これに砲撃を加えつつ陸上砲台も目標として射撃。ロシア艦は命中弾を受けて港内へ退避したため港外から間接射撃を行った。
第一・二戦隊の攻撃中に老鉄山沖を警戒していた第三戦隊も10時40分頃にロシア駆逐艦を発見して砲撃、座礁した「ヴヌシーテリヌイ」を翌日自沈に追い込んだ。
陸上砲台の射程も考慮してこれらの攻撃は遠距離で行われた。
加えて、24日中に「仁川丸」「武州丸」の乗員が収容できなかった為、更に東郷長官は25日に通報艦「千早」「龍田」を旅順口へ派遣し捜索を続けたが発見できなかった。
天龍「おいおい、発見できなかったって、仁川丸と武州丸の乗員はどうなったんだよ」
青葉「ご安心下さい、青葉、調べて来ました。両船の乗員達は砲火を避け隠れながら退避を行い、偶然遭遇して合流。その後、ジャンク船等を使って清国の登州を経由して帰還を果たしたそうです」
電「凄いボーケンしてるのです」
提督「そして、陸軍第一軍の上陸を援護するべく、旅順港への第四次攻撃が企画された」
旅順口攻撃第四次
3月10日未明、第一駆逐隊が旅順口に進出するとロシアのマカロフ中将も駆逐艦六隻を繰り出して海戦となり、沈没艦こそなかったが双方に被害。
続いて旅順口に達した第三駆逐隊も、ロシア駆逐艦「レシーテリヌイ」及び水雷艇「ステレグーシチイ」と戦闘となり、無力化した「ステレグーシチイ」の捕獲を試みたがロシア巡洋艦の「ノヴィーク」と「バヤーン」が港外に出動して来た為、曳航を諦め撃沈。
10時頃より第一戦隊が三隻づつに分かれて10時8分から12時30分まで、及び12時50分から13時46分まで間接射撃を敢行。
ロシア側は、干潮のため港口を通過できず出撃できなかった。 この間接射撃により戦艦「レトヴィザン」に砲弾一発が命中しその他の艦船や砲台にも被害が出た。
榛名「浅い場所での干潮も、榛名達ふねにとっては天敵ですよね。でも人形(ひとがた)になった今なら大丈夫です。歩けば良いんですから」
加賀「ええ、海面に立ち、喫水線下の存在しない艦娘って素晴らしいです。この姿を得た時には、本当に気分が高揚しました」
帝国陸軍は予定通り、10日に近衛師団と第二師団から成る第一軍主力を平壌近くの鎮南浦へ上陸させ、29日までに完了。
以後、平壌で第十二師団と合流して北上を開始したが前進速度と悪路の為に補給が困難となり、制海権も確保されていることから3月末には補給ポイントを義州南方・鉄山半島の望東浦および梨花浦に前進させた。
あきつ丸「海を越えて物資を運ばなければいけない島嶼国家外征軍の我々としては、補給ポイントの選定とそこまでのシーレーン確保は死活問題なのであります」
提督「そして、帝国海軍による旅順口への第五次攻撃が始まる」
響「そして、何時までも無策なままの露助じゃ無かった」
旅順口攻撃第五次
3月22日の未明から朝にかけて第四駆逐隊と第五駆逐隊が旅順口に進出、ロシアの哨戒艦艇と交戦。続いて第一戦隊の「富士」及び「八島」が位置につき、9時56分より間接射撃を行う。
ロシア側も対抗策として陸上に砲撃用観測所を新設しており、港内の軍艦が港外の日本艦隊へ間接射撃で応射。また、ロシア艦隊は艦艇修理と整備を進めたうえ、新たなロシア太平洋艦隊司令長官マカロフ中将の着任により迎撃を活性化させていた。
「富士」と「八島」の攻撃に対して、ロシア側は巡洋艦「バヤーン」「アスコリド」「ノヴィーク」を出撃させ、続いて戦艦「ペトロパヴロフスク」「ポルターヴァ」「セヴァストー ポリ」「ペレスヴェート」他優勢な艦艇を出撃させた為、日本側は艦隊を退却させた。
提督「またも失敗に終わった旅順口攻撃。そこで帝国海軍は、二度目の閉塞作戦と、突入隊援護を目的に六回目の攻撃を実施」
陸奥「そしてこの戦いで、一つの伝説が生まれるの」
旅順口攻撃第六次・第二回旅順口閉塞作戦
3月27日未明、「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」からなる閉塞船四隻による第二回旅順口閉塞作戦が実施された。
閉塞隊を援護する為、同時に第一・二・三駆逐隊及び第九艇隊が出動。この間、ロシア駆逐艦「シーリヌイ」が陸上砲台の誤射により大破擱座。
夜が明けてもロシア艦隊は活動を続け、寧ろ反撃は激しさを増し、「バヤーン」「ノヴィーク」などの巡洋艦の他、戦艦の「ポベーダ」「ポルターヴァ」「ペトロパヴロフスク」などが出航した為、閉塞作戦失敗。
この作戦において、閉塞船「福井丸」が旅順港口に接近し、まさに投錨自爆しようとすると同時に敵駆逐艦の魚雷が命中、船底がたちまち裂けて浸水、瞬時にして沈没した。
指揮官の広瀬武夫少佐は撤退の為、直ちに乗組員を端舟(脱出用ボート)に移して人員点呼を行うが、一人足りない。
自爆用爆薬に点火するため船倉に降りた杉野孫七上等兵曹の姿が無かった。
提督「広瀬少佐は行方不明の杉野上等兵曹を助ける為、自ら沈み逝く船内に単身戻り捜索した。しかし、「杉野! おらんか!? 返事しろ!」という広瀬少佐の呼びかけにも答えはなく、三度にわたる船内捜索でも杉野上等兵曹は見つらなかった」
武蔵「船はまだしも作戦の内と己を慰める事が出来る。だが、優秀な乗組員まで喪う事になるとは……。泣く泣く諦めて端舟に乗り移ろうとした直後、広瀬少佐は頭部にロシア軍砲弾の直撃を受けて名誉の戦死を遂げた」
陸奥「海に墜ちた広瀬少佐は、そのまま吸い込まれる様に海の底へ消え……残されたのは、一片の肉片と血染めの海図だけだそうよ」
提督「広瀬少佐は即日中佐に特進。自らの危険を顧みず部下の生命を案じて捜索したその行動から国民的英雄となり、歿後すぐに軍神一号として神格化され崇められた。出身地の大分県竹田市には広瀬中佐を祀る広瀬神社がある」
青葉「軍神一号といっても、主にマスコミが尊称として用いていた非公式なものですけどね」
まるゆ「軍から公式に認められた最初の軍神は、昭和十三年、久留米戦車第一連隊附の小隊長、西住小次郎陸軍歩兵大尉です」
その他、信号兵曹と機関兵が戦死。この後「福井丸」は引き揚げられ明治四十年に解体された。
広瀬中佐が直撃を受けた際、飛び散った肉片が近くにいた兵の傍を掠めていた。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。
広瀬中佐が戦死した際に所持していた血染めの海図が、戦艦「朝日」の乗員から講道館に寄贈され、現在も講道館二階の柔道殿堂に展示されている。
翔鶴「それと、京都の海上自衛隊舞鶴地方総監部内にある展示施設、海軍記念館には福井丸の木材を使った額縁があるの。絵には福井丸から脱出する閉塞隊員が描かれていて、額縁には沈没していた時の牡蠣殻が付いているのよ」
陸奥「因みにだけど、行方不明になった杉野兵曹長(戦死後特進)には息子さんが二人いていずれも海軍軍人の道を進むのだけど、長男は終戦時に姉さんの艦長を務めた杉野修一大佐よ」
長門「おお、杉野という名、どこか聞き覚えがあると思えば修一のお父上だったか」
提督「そして4月7日、連合艦隊司令部は新たな作戦案を引っ提げて七回目の旅順口攻撃命令を発令する」
北上「その作戦案てのは、第四・五駆逐隊と第十四艇隊、そして徴用貨客船「蛟龍丸(こうりゅうまる)」から成る部隊が、第二駆逐隊護衛の下で旅順港口付近に機雷をこっそり敷設ってのだよ」
鈴谷「同時に、装甲巡洋艦二隻で増強された第三戦隊がロシア艦隊主力を誘い出し、第一戦隊がその誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容だよ」
旅順口攻撃第七次
悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃。
同日午後11から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦「村雨」に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設。この間、雨による視界不良に恵まれロシア側から発見されることはなかった。
13日早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦「ストラーシヌイ」との交戦をきっかけに、ロシア巡洋艦「バヤーン」が救援のため湾外へ出撃、帝国海軍第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となった。
第三戦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮の下、戦艦「ペトロパヴロフスク」の他、戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦九隻の艦隊主力が出撃。
退避する第三戦隊から電報を受けて帝国海軍第一戦隊が救援に駆けつけたが、ロシア艦隊はこれを見て反転、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せた。
この時、10時32分「ペトロパヴロフスク」及び続航する戦艦「ポベーダ」が共に触雷。ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射。
被害を受けた「ペトロパヴロフスク」は砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没、座乗のマカロフ中将も戦死。
高雄「当時の軍艦は水中防御……水に浸かってる部分の防御をいうのだけど、これが未発達だったの」
提督「しかし思わぬ戦果に喜んだのも束の間、5月15日、八島と初瀬、二隻の戦艦が老鉄山沖でロシア側の仕掛けた機雷に触れ沈没」
千歳「八島さんは乗組員の犠牲無く艦の喪失だけで済んだのだけど、初瀬さんは笠置さんが曳航しようとした処で二度目の触雷。496人の乗員と共に沈んだそうよ」
「八島」戦艦
1904年(明治三十七年)5月15日午前11時10分、老鉄山沖で触雷。爆発は右舷後部ボイラー室で起こり、その1分後に水中発射管室で爆発、艦内に浸水し右に大きく傾斜。
応急処置の後、午後4時25分より自力航行による擱座を試みたが刻々と傾斜が増した為5時41分投錨、軍艦旗を降下し総員退艦。
艦は夜8時半過ぎに転覆沈没。
国民の動揺を恐れた帝国海軍は、戦死者も無く、ロシア側にもこの事実が知られていなかった事から、日露戦争終結まで八島沈没を秘匿することに。
「初瀬」戦艦
旅順港外、老鉄山沖を航行中に左舷艦底に触雷、航行不能となる。
防護巡洋艦「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に二回目の触雷、後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没。
飛龍「日本の戦艦はこの時六隻しか無いんですよね? それが一挙に二隻も喪われるなんて、私達の代でいうミッドウェーに匹敵するかなりの大事なのでは?」
提督「うん、大事だ。そこで帝国海軍はアメリカ産まれの最新兵器、新種艦艇潜水艦の購入を決定。当初はその小型サイズから潜水艇と呼ばれていて、また潜水艦の類別が無かった為、水雷艇の一分類とされていたが」
第一型潜水艦
アメリカのエレクトリック・ボー ト社が建造した潜水艇ホランド級を分解輸入、ノックダウン方式で再び組み立てた
五隻が発注され、それぞれ第一潜水艇から第五潜水艇と命名される
伊一九「おおっ! 遂に……遂にイク達潜水艦の時代がやってきたのね!!」
提督「しかし、訓練に勤しんでる間に日露戦争は終結。実戦での活躍の機会は無かった」
伊一六八「せ……戦争が早く終わったのは良い事よね」
伊四〇一「それと、潜水する乗り物自体は紀元前からあって、実戦投入もアメリカ独立戦争の頃からされてたそうなんですけど、私達に直結する、内燃機関で推進する近代潜水艦の元祖はこのホランド級潜水艦なんですよ」
大鯨「紀元前の潜水する乗り物としてはあ、かの征服王がガラス製の樽に入って海に潜り遊歩したという伝説があります」
伊五八「征服王、最果ての海オケアノスにたどり着いた後は海中まで征服するつもりだったでちか?」
金剛「他にも帝国海軍は苦肉の策として、日露戦争臨時軍事費で建造される次世代装甲巡洋艦に戦艦級の主砲を載っけるという暴挙に出マス。例によって間に合わなかったのデス」
雲龍「間に合わなかったといえば、この時イギリスに発注して建造中だった二隻の戦艦もよね」
……といった処で今回はここまで
今年は、アニメも、家庭用ゲーム化も始まるな
次は銀幕と実写化だな
提督「時間を少し遡って、第七次攻撃を終えて翌4月14日の夜から15日の未明に掛けて、旅順口への第八次攻撃が行われた」
第八次攻撃
4月14日夜より15日未明に第二・四・五駆逐隊及び第九艇隊は旅順口へ進出。しかし目標を発見できなかった。
同じく15日朝に駆逐隊の収容およびロシア艦隊誘引の任務に出撃した第三戦隊も目的を達することが出来なかった。
第一戦隊と共に新戦力として、戦艦と同等の射程の長さを誇る装甲巡洋艦の「春日」「日進」姉妹が旅順口に進出、間接射撃を行ったがロシア艦の出撃はなかった。
これらは、マカロフの後任指揮官として着任した極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が、日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなった事も大きい。
祥鳳「特に春日さんの主砲は、当時の連合艦隊の中で最も長射程を誇るアームストロング25.4㎝(40口径)砲。これのお蔭で旅順要塞の要塞砲の射程外から楽々と旅順港内に撃ち込むことが出来た為、港に籠っているロシア旅順艦隊に一定の心理的影響を与えたそうよ」
瑞鶴「アウトレンジって奴ね。航空機と艦砲の違いはあるけど、こんな昔からやってたんだ」
加賀「因みに口径には……砲弾の直径を指す場合と、砲身の長さが内径の何倍かを示す単位「口径長」の短縮形、二つがあります。しかし、口径といえば先ず後者ですね」
瑞鳳「つまり春日さんの主砲の長さは、25.4×40で1016㎝になるんだ」
鳳翔「良く出来ました。余談だけど、拳銃で用いる口径は、銃口の内径が100分の何インチか、を意味する独立の単位として存在するの」
提督「口径に纏わる蘊蓄話はこれくらいにして、海で日露両軍が激しく小競り合いしているその頃、陸の方はどうなっていたかというと……」
あきつ丸「満州へ向かう途中の黒木為楨(くろきためもと)大将率いる帝国陸軍第一軍と、これを阻止すべく待ち構えていたミハイル・ザスリーチ中将指揮するシベリア第二軍団の間で戦闘が勃発したのであります。これを鴨緑江会戦(おうりょくこうかいせん)と呼ぶのであります」
鴨緑江会戦(おうりょくこうかいせん)
4月30日~5月1日にかけて、鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中の帝国陸軍第一軍と、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦い。
ザスーリチ将軍の、「ロシア軍兵士は日本軍兵士よりも優秀である」という過信と油断による兵力分散配置。ロシア陸軍が全軍を用いての決戦を避け早期に退却を行った事。
これらが重なり、十分な火砲を持って猛砲撃を行い損害を与えた帝国陸軍は、大した損害なく渡河を完了。
陸軍における緒戦は驚異的な大勝利に終わった。
鴨緑江渡河作戦(おうりょくこうとかさくせん)とも言われる。
赤城「自軍の兵を敵より優秀と信じるのは大事ですが、やはり慢心は感心しませんね。慢心だけに」
提督「黒木大将はこの後も奉天会戦まで野戦指揮官として戦い続け、彼を恐れたロシア側から「クロキンスキー」なる素敵な渾名を貰う。それと、面白半分に相撲の相手を挑んできた明治天皇を容赦無く投げ飛ばし叩き付けたという、あれな逸話もある」
大淀「だ……大元帥を投げ飛ばすとか、ナニ考えてるんですか、この人!?」
比叡「面白半分に臣下に相撲の相手を挑む明治天皇も相当ですよ。まあ、皇后や女官達を御自分の考えた渾名で呼ぶとか、かなり茶目っ気のある御方だったようですけど」
提督「第一軍が鴨緑江会戦で大勝利を飾った勢いに乗って、陸軍では奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第二軍を遼東半島に上陸させる計画が進んでいたんだが……1つ、大きな問題が。上陸予定地点の目と鼻の先には、既にお馴染みロシア太平洋艦隊の引きこもる旅順があった」
響「ロシア太平洋艦隊が出てくれば、第二軍の上陸は困難。そこで、海軍による今までで最大規模の12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が計画されるが……」
第三回旅順口閉塞作戦
1904年(明治三十七年)5月2日夜に実施された。総指揮官、林三子雄中佐指揮の下、12隻もの閉塞船が旅順口に突入。
今までで最大規模の作戦であったが、第二軍の上陸にこそ成功したものの、天候不順と陸上砲台からの迎撃が重なり閉塞作戦は失敗する。
第一小隊:「新発田丸」「小倉丸」「朝顔丸」「三河丸」
第二小隊:「遠江丸」「釜山丸」「江戸丸」
第三小隊:「長門丸」「小樽丸」「佐倉丸」
第四小隊:「相模丸」「愛国丸」
那珂「那珂ちゃん達帝国海軍は、作戦失敗くらいじゃへこたれない。第七次攻撃で機雷が大物撃沈の効果を発揮したことから、機雷作戦の拡大を決めたんだよ」
神通「同年8月にかけて19回にわたり仮装砲艦による機雷敷設を行った他、同年6月から12月までは艦載水雷艇も投入。旅順港口から約9㎞までの一帯へ、ダミーを含め計1703個の機雷を敷設しました」
川内「艦載水雷艇ってのは、読んで字の如く「艦に載せる水雷艇」。こういった軍艦に載せる小型艇(ボート)の事を装載艇(そうさいてい)って言うんだ」
飛鷹「使用目的としては、入港した後沖合いに停泊した艦艇と陸上との間での交通や物質の輸送ね。港湾設備が不十分な時代にあっては、艦艇の接岸できる岸壁の数も足りなかったから」
最上「後は、艦艇同士の交通や脱出用の救命艇だね。艦艇から艦艇への移動を直接やろうとすると、波に揺られてぶつかってしまうからね」
提督「対するロシア側も負けじと機雷による作戦を展開。これが前回>>81でも触れた八島と初瀬の沈没に繋がるのだが……悲劇はこれだけで終わらなかった」
扶桑「先ず5月14日、宮古さんが大連湾で掃海隊の援護中に触雷、沈没してしまうわ」
「宮古」通報艦
5月14日、大連湾で掃海隊の援護中に触雷。
宮古は2、3分で沈み、死者二名、負傷者十七名を出した。
大和「宮古さんは、大和達を産み出した呉海軍工廠の前進にあたる呉海軍造兵廠で建造された最初の軍艦なんですよ。ある意味、一番上のお姉さんです」
龍田「次の日の5月15日に戦艦の初瀬さんと八島さんが機雷に殺られて沈んだのは前にもお話したけど~、救援作業をしていた先代の龍田が帰る途中、旅順港外の光禄島南東岸に座礁しちゃったの~」
「龍田」通報艦
1904年(明治三十七年)5月15日、触雷した戦艦「初瀬」及び「八島」の救援作業の帰途、濃霧のため旅順港外の光禄島南東岸に座礁
7月16日から8月31日にかけて横須賀工廠で修理を行った
なお、座礁事故は5月16日とする資料もある
提督「哀しいお知らせはまだ続く。同日5月15日、濃霧漂う黄海海上で「吉野」と「春日」が接触事故を起こし、「吉野」が沈没してしまった」
濃霧の黄海で防護巡洋艦「吉野」と装甲巡洋艦「春日」の衝突事故発生、「春日」の艦首に装備する衝角に左舷中央を破られた「吉野」は沈没。
死者は300名を超える。なお、日露戦争中の情報統制により、事故は戦後まで公表されなかった。
本件は以後の帝国海軍の新造艦における衝角廃止のきっかけとなった。
深雪「事故死の話は聞きたくねー」
電「それが接触事故ならなおさらなのです」
曙「とか言ってる傍からまたもや触雷沈没の報せ。今度の犠牲者……もとい、犠牲艦は駆逐艦の暁」
「暁」駆逐艦
1904年(明治三十七年)5月17日、老鉄山南東沖で触雷沈没。
ロシア側に沈没が目撃されていないと推定された為、その名は後に捕獲された元ロシアのソーコル級駆逐艦「レシーテリヌイ」の使用を悟らせない為に使われた。
雷「暁……背伸びした口煩い娘だったけど、でも良い艦だった」
電「暁ちゃんの事、何時までも忘れないのです」
響「ちがう暁が戦没したみたいな言い方は止めたまえ、不吉だ」
提督「そして翌日の5月18日、今度は旅順沖で「赤城」と「大島」が衝突事故を起こし、「大島」は沈没事故死する」
5月18日、旅順沖で哨戒活動中の砲艦「大島」と砲艦「赤城」が、濃霧の中衝突事故を起こす。「大島」沈没。
あきつ丸「さて、場面は再び陸戦であります。舞台は遼東半島の隘路となっている南山及び金州城。過日遼東半島に上陸を果たした帝国陸軍第二軍が、ここに陣を構えるロシア陸軍を叩きのめすべく攻勢を開始するのであります」
南山の戦い(なんざんのたたかい)
1904年(明治三十七年)5月25日~5月26日に掛けて、遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われた、ロシア陸軍と帝国陸海軍の戦い。
ロシア軍は南山に野戦砲114門と新兵器機関銃10挺などをを据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築。南山はある程度堅固な要塞と化されていた為、半ば塹壕戦、攻城戦となった。
先ず第四師団による攻撃が金州城に対して開始されたが、失敗に終る。 第一師団からの増援二個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了。
その後南山に対して攻撃が加えられたが、ロシア太平洋艦隊の支援砲撃もあって苦戦を強いられる。
それに対抗して、砲艦「赤城」率いる六隻が金州湾に侵入、艦砲射撃が攻撃を援護したものの、凄まじい損害を受けた。
しかしながら、第二軍の全滅を覚悟した突撃により敵陣を突破。更に、粘り強い皇軍の攻撃により砲弾の尽きたロシア軍は旅順へ撤退を開始。
第二軍は南山を占領して戦略目的達成という一応の勝利を収めたが、戦死約4000名、負傷約300名を出す結果に終わる。
帝国陸軍がこのような近代的陣地に攻撃を仕掛けるのはこれが初めてであり、中国人から得た情報により要塞の構造は把握していたが、第二軍は敵に倍する兵士を擁していたにも関わらず総兵力の10%を超える優秀な兵員を失ってしまった。
大鳳「戦死約4000人の数字を聞いた大本営が、「桁を1つ間違えていないか?」と聞き返したのは割りと有名ですね」
陸奥「私達長門型の新造時の乗員数が1333名だから、丁度三隻分くらいね。戦争に犠牲は付き物とはいえ、これは流石に多すぎるわ」
提督「因みに負傷というのは、四肢がもげたり指が無くなったり眼が潰れたりといった状態。当然、戦力には成らない上に、負傷兵を看護する人手が必要という事もあって、損失はただの戦死より大きい」
翔鶴「身に付けている艤装が大破する程のダメージを受けても、生体部分は五体バラバラに成らず掠り傷程度で済み、瀕死だろうとお風呂一つで完全快復。改めて思い返してみると、私達って人外ですね」
まるゆ「更に第二軍は、遼東半島の得利寺駅付近で陣地構築中のシベリア第一軍団を攻撃するの。これを得利寺の戦い(とくりじのたたかい)と呼称する」
得利寺の戦い(とくりじのたたかい)
帝国陸軍第二軍が南山の戦いに勝利したことにより、旅順要塞の二個師団及びロシア太平洋艦隊と切り離されることとなったロシア軍主力と再び合流する為、スタケリベルク中将率いるシベリア第一軍団は南下、得利寺付近に陣地の構築を開始。
6月14日に得利寺付近に到着した第二軍は当初、陣地を構築しロシア軍の攻勢を迎撃した上で攻勢に出る予定であったが、大本営から敵の陣地構築が完了する前に攻撃せよと命令が出た為、翌15日に火砲による陣地攻撃を開始。
ロシア軍も応戦するが、火砲の数が日本陸軍が200以上擁していたしたのに対し100足らずであった為、有利な地形を生かすことができなかった。ロシア軍は得利寺駅に火を放って熊岳城に撤退、第二軍の勝利に終わった。
提督「最後に、撤退に際してロシア軍が得利寺駅に火を放った行為。これは焦土作戦の一環だと思われる」
間宮「確か、鉄道施設などの利用価値のある建物や道路橋を破壊して足止めする、或いは食糧や燃料を焼き払って侵攻してきた敵に物資の現地調達が出来ない様にするのを目的とした作戦でしたね」
如月「悪の組織が秘密基地に自爆装置を取り付けてるのは、決して浪漫や美学や御約束や様式美の為だけでは無いのですね」
青葉「緊急速報! 緊急速報! 1904年(明治三十七年)6月15日、日本郵船所属の陸軍徴傭運送船「常陸丸(ひたちまる)」「和泉丸(いずみまる)」「佐渡丸」の三隻が玄界灘を西航中、敵の攻撃を受け沈没ないし大破。相手はロシア海軍のウラジオストク巡洋艦隊と思われます」
隼鷹「この事件……特に、「常陸丸」喪失に日本の国内世論は憤慨、連合艦隊、取り分け日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられたんだ」
激昂した民衆は留守の上村宅を襲撃、石を始め、切腹勧告状の類や「腹を切れ」という意味合いで本物の短刀を投げ込む者も。
議会では野党代議士から「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧は逆さに読むと無能なり、上村は無能である」と批判され、また民衆からは「ロシアの探偵(スパイ)」、すなわち「露探(ろたん)提督」と誹謗中傷された。
飛鷹「この失態は日本海名物の濃霧の他にも、第二艦隊の担当海域が、対馬海峡より東の日本海全域と広すぎた事も要因の一つなんですけど……民衆がこういった事情を知ることはありませんでした」
鈴谷「ウラジオストク巡洋艦隊はその後も神出鬼没の機動力で暴れ回り、7月には東京湾の沖にまで出現、通商破壊作戦を繰り広げ輸送船を次々と沈めていくんだ」
響「一方の旅順では、相変わらずの睨み合いが続く。当初は海軍独力による旅順無力化に拘っていた海軍だったが、ロシアがバルト海艦隊の主力艦船群を極東に派遣することを決定したと知り、方針を転換。陸軍に協力を打診する事に」
あきつ丸「ここで登場するのが、海の東郷提督と並び称される陸の名将、かつて、日清戦争ではたった一日で旅順要塞を攻略した乃木希典(のぎまれすけ) 大将であります。乃木大将率いる攻城特殊部隊を擁する帝国陸軍第三軍が、旅順要塞に迫るのであります」
提督「第三軍に旅順要塞を攻めてもらい、被害を恐れて出てきた旅順艦隊を連合艦隊が洋上で叩く。これが作戦の基本骨子だ」
準備を整えた第三軍は7月26日、旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始。3日間続いた戦闘で日本軍2800名、 ロシア軍1500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は要塞内部に後退。
8月7日、海軍も負けてなるかと、黒井悌次郎(くろいていじろう)中佐率いる海軍陸戦重砲隊が第三軍に協力、旅順港へ12センチ砲で砲撃開始。
8月9日、命中弾により戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷。
8月10日、臨時艦隊司令長官ヴィトゲフト少将は、このまま旅順港に艦隊を置いておくことは危険と判断。
極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊は艦隊の大部分を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定、旅順港を出撃。
武蔵「斯くして、逃げる旅順艦隊とそれを待ち構えていた連合艦隊の間で海戦が勃発。これを黄海海戦(こうかいかいせん)と呼称する」
黄海海戦(こうかいかいせん)
1904年(明治三十七年)8月10日、ウラジオストク目指して脱出を図るロシア海軍旅順艦隊と、それを撃滅せんとする帝国海軍連合艦隊の間で起こった海戦
しかし、旅順艦隊がウラジオストク方面への逃げに徹した為、連合艦隊は12時30分からの緒戦の位置取りに失敗。逃げられた上に引き離されてしまう。
15時20分に追撃を行い、なんとか追い付いて17時30分から第二ラウンド。
ここで旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃する、まさかのラッキーヒット。司令長官ヴィトゲフトと操舵手が戦死、またイワノフ艦長などが昏倒。
「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散。
連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃し、夜間には水雷攻撃を行ったが失敗に終わる。
旅順艦隊の戦艦及び多くの艦艇は、戦艦「ペレスヴェート」座乗の次席指揮官ウフトムスキー少将の指揮下で沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。
提督「とはいえ、旅順艦隊の全てが旅順に無事帰還した訳では無い。命からがら他国の港にたどり着き拘留された艦、帝国海戦に鹵獲された艦。駆逐艦「レシテリヌイ」改め二代目「暁」もその内の一隻だな」
二代目「暁」駆逐艦
元はロシア海軍のソーコル級駆逐艦「レシーテリヌイ」
1904年(明治三十七年)8月12日に芝罘(チーフー)にて降伏。
1905年(明治三十八年)1月17日、整備完了。ロシア側に捕獲して使用している事を悟られない様にする為、旅順港閉塞作戦中に沈没した「暁」の名前を引き継ぐ。
千代田「他にも、旅順に戻る事が出来ず単身ウラジオストクを目指すロシアの防護巡洋艦「ノヴィーク」を、それを追ってきた二隻の防護巡洋艦「千歳」と「対馬」がサハリンのコルサコフ沖で捕捉強襲。これが宗谷沖海戦(そうやおきかいせん)ね」
宗谷沖海戦(そうやおきかいせん)
1904年8月20日に起きた、サハリンのコルサコフ沖に停泊していた「ノヴィーク」と、それを発見した「千歳」と「対馬」との戦い。
開戦後直ちに日本巡洋艦の砲弾が命中、「ノヴィーク」は快速を生かすまもなく座礁。乗員は艦を捨てて脱出、ウラジオストクへと向かった。
コルサコフ海戦とも呼ばれる。
熊野「その後、帝国海軍は損傷擱座した「ノヴィーク」を1905年(明治三十八)から約一年かけて浮揚、横須賀海軍工廠で修理と整備を行い、1906年(明治三十九年)8月20日より艦籍に編入。通報艦「鈴谷」として艦籍入りするのですわ」
妙高「時間を少し戻して、11日夕刻、旅順艦隊が脱出を目的に出撃の情報を伝えられたウラジオストクでは、翌日カールル・イェッセン少将が三隻の装甲巡洋艦「ロシア」「グロモボーイ」「リューリク」を率いて出撃、朝鮮海峡へと向かったわ」
鳥海「でも、旅順艦隊は既に黄海海戦で敗北した後。脱出は失敗したから出撃の必要はないとの報が届くのだけど、それが出撃の1時間30分後。水雷艇がイェッセン艦隊を追ったけど追いつけなかったそうよ」
霧島「一方の上村提督指揮する第二艦隊も、黄海海戦の後膠州(こうしゅう)湾に入ったきり行方が判らなくなったロシア巡洋艦「ノヴィーク」が対馬海峡を通過する可能性や、それに応じてウラジオストク艦隊が南下することに備え、第二戦隊が西水道を、第四戦隊が東水道を警戒していました」
伊良湖「ここでいう水道とは、海のなかでも陸地が両側に迫って狭くなった通路状の箇所のことです。水の流れる道、あるいは船の通り道という意味で、蛇口に繋がるインフラじゃありませんよ」
提督「補足しておくと、朝鮮海峡と対馬海峡西水道は同じ場所だ。他にも、同じ場所に複数の呼び名がある場所は結構ある」
足柄「8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中の上村提督率いる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認するわ」
愛宕「一方のイェッセン艦隊も4時30分に第二戦隊を発見するの。南に向けて逃走を図るのだけど、北上してくる防護巡洋艦「浪速」を発見して、一戦交えるのもやむなしと覚悟を決めるわ」
金剛「斯くして勃発した蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)。Englishでは時にBattle of the Japanese Sea とも呼ばれマース。日本海海戦は、日本以外では主力決戦の場所に因んでBattle of Tsushima ……対馬沖海戦と呼ばれるので、混同しないように注意してクダサーイ」
蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)
脱出した旅順艦隊を迎えに行く予定だったイェッセン提督の艦隊と、対馬で網を張っていた上村提督の第二艦隊との戦い
第二戦隊:装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」
両艦隊距離も縮まり、5時23分に距離8400mで砲戦開始。
双方に損害が生じイェッセン艦隊は逃走を続けたがたが、5時36分にイェッセン艦隊が右に変針すると最後尾の「リューリク」は集中砲火を受けて遅れ落伍、艦長戦死。
イェッセン艦隊の残る二艦、「グロモボーイ」と「ロシア」は度々北へ逃走しながらも何度も反転、舵機損傷により戦列を外れた「リューリク」の救出に向かおうと第二戦隊との交戦を続けた。
しかし「ロシア」の損害も大きくなり、加えて「リューリク」も損害が酷く救えない状態になった為、第四戦隊の二隻の防護巡洋艦「浪速」と「高千穂」が接近して来ていたこともあり、イェッセン提督は「リューリク」救援を断念、「グロモボーイ」と「ロシア」は北へと逃走。
イェッセン少将は第二戦隊を自分達残りの二艦に引きつければ、損傷した「リューリク」も防護巡洋艦二隻を破って帰還できるのではないかと期待していた。
その期待に応えた訳では無いだろうが、上村提督は第四戦隊の「浪速」と「高千穂」に「リューリク」を任して、「グロモボーイ」と「ロシア」を追撃。壊滅寸前まで追い詰めるが……
摩耶「あまりの騒音と喧騒に、 隣の人との話も儘ならなかった。報告に困った参謀は黒板に書いて伝えることにした。「ワレ、残存弾数ナシ」ってな」
那智「それを見た上村提督、黒板を参謀から奪い取って床に投げつけ、それを何度も踏みつけたという。悔しいのは解るが、それは八つ当たりだ」
榛名「仕方がないので、「浪速」と「高千穂」に合流すべく戻る第二戦隊。そこで観たのは、尚も続く「リューリク」との激しい戦いでした」
比叡「交戦に入るまでの間に行われた乗組員の必死の修理に答える為にもと、備砲の全てが破壊されてもなお、沈没に瀕した身体に鞭打って暴れ狂い、魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたリューリクでしたが……」
羽黒「第二戦隊が戻ってきた上に第四戦隊の残る二隻、明石さんと新高さんまで合流してきたのを発見。進退に窮し自沈します。敵ながら、御立派な最後です」
神通「最後まで諦めず戦い抜いたリューリクとその乗員に感銘を受けた上村提督。「敵ながら天晴れである」とその不屈ぶりを褒め称え、「生存者は全員救助し丁重に扱うように」と退艦した乗組員の救助と保護を命令、627名を救助したそうよ」
プリンツ「このエピソードは私も知ってるわ。フェアプレー精神の例として、教本に掲載されていたの」
雪風「中国でも聞いた事あります。と言うか、現在でも載ってますよ」
響「私もソビエトで経験がある。どうやら、全世界に伝わってるらしい。海軍軍人の手本として」
那珂「この時の状況は「上村将軍」っていう軍歌にもなったんだけど、上村提督自身はこの歌を嫌っていたみたい」
雷「その一方で、この歌に憧れて海軍軍人を目指した少年達も数知れず。私の艦長として有名な「工藤大仏」こと工藤俊作も、そんな一人よ」
今回はこれにて
艦これにも、深海棲艦なんてただ倒す為だけの「悪」と戦うのではなく、リューリクみたいな「敵」と戦うゲームだったらと思う
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