春香父「娘はアイドル」 (16)
「そういえば、そろそろ春香は誕生日ですね」
朝食を取りながら、妻がそんなことを言うので、新聞の日付を改めて見直す。
3月31日。春香の誕生日は4月3日、今週の木曜日に迫っていた。
年度末の忙しさにかまけて、娘の誕生日を忘れかけるとは不覚だった。
「そうだな…もうそんな時期か…」
「ええ、春香。いつの間にかあんなに立派になって」
テレビ欄を見てみれば、いつも765プロのアイドルが、どこかの番組に出ている。
言っている傍から、春香がテレビに出ている。
朝のニュース番組で、喫茶店のリポーターとして春香がテレビに映っている。
自分が病院で抱っこしていたあの赤ん坊が、今テレビで、全国の人達に見られている。
そんな実感の湧かない気持ちを、最初は少し、気味が悪かったと言うか、心配だった。
「ふふっ、どうしたんですか、あなた」
「いや。本当に、俺の娘なのかなぁ、と思って」
「え?」
「こんな立派になって…」
「あら、そうですか?」
「えっ?」
「春香は、間違いなく貴方の娘ですよ」
「そりゃあ、まあ、そうだけど」
こんな出来のいい娘に育つとは、正直…いや、それは言い過ぎだ。
でも、まさかアイドルになるなんて思っても見なかった。
そう妻に言うと、意外そうな顔をされてしまった。
「春香、昔からアイドルにあこがれていた気がしますけど」
「そうなのか?」
「あら、あなた、忘れてるだけでしょ」
「…かなぁ?」
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確かに、春香は昔からテレビでアイドルが出るたびに、テレビの前で踊っていたような気がする。
記憶があやふやで、情けなくなる。
「いってきまーっすととととっ!」
廊下で滑った春香が、派手な音を立てて転ぶ。
「大丈夫?春香」
「えへへっ、お母さん、大丈夫大丈夫。行ってきます」
「春香、朝飯は?」
「もう食べたよ!お父さんも仕事頑張ってね!」
慌ただしく出て行った春香。
今日は何なのだろう。春休みももうすぐ終わりだと言うのに、春香が家に居ることはあまりない。
「今日は、映画の撮影ですって」
「映画かぁ…春香がねぇ…」
テレビにドラマに舞台に映画。
本当に我が娘ながら凄い事になっていると実感する。
初めて765プロの高木社長が家まで挨拶に来るまで…来た後も、まさか本当に春香がアイドルになるなんて思ってもみなかった。
それは、春香では無理とかそう言う物ではなく、アイドルと言う存在自体が、俺にはとても遠い存在だったからだろう。
「最近、いつもレッスンで遅くまで出かけてて」
「大丈夫かなあ、最近物騒だからなあ」
「そうねえ…」
これだけアイドル活動をしていても、学業に響いていないから厳しく言う必要もないのかもしれない。
しかし、父親としては不安で仕方ない。
変な男に捕まるかもしれないし、悪質なファンから嫌がらせを受けるかもしれない。
幸い今のところそういうことがないが。
「それよりも、あなた今日、会議だから早めに出るんじゃなかったの?」
「あっ!しまったもうこんな時間か!いってきまぁぁっと?!」
足がもつれて派手に転ぶ。
お隣さんまで聞こえたという音に、妻は半ば呆れたように笑っていた。
「今年の新人、なかなか見込みの有りそうな奴が多いそうですね」
「どうかな、まずは3年、だな」
デスクワークをこなしつつ、隣の席の同期と話す。
いつもと変わらない、日常業務だ。
「天海さん、部長がお呼びです」
「えっ?」
「お、俺が課長ですか?!」
「中村君が総務に異動してから空席の2課の課長、君に任せようと思う。社内でも君を推す人が多いのでね」
「は、はぁ」
「辞令は追って出す、期待しているよ。早速今日から引継ぎに入って貰う、15時から会議だからね、君も出席するように」
俺が…課長?
異例の大抜擢ともいえる。
まさかこの歳でここまで行けるなんて夢にも思わなかった。
「かーちょう」
既に噂が流れていたのか、俺が席へ戻ると、隣の席の同期が肩を叩いてくる。
「昇進祝いに飲みに連れてけ」
「ええっ?逆じゃないのか?」
「天海かちょーう、頼みますよーぅ」
そんな同期の冗談を受け流しながら、暗澹たる気分にもなる。
課長、中間管理職、書類の決裁、上役との会議。
家内のとりまとめもしなければならないし、今までの様に成績を上げることではなく、上げさせることがメインになるから事務的な事も多くなる。
「…手放しで喜ぶわけにもいかないか」
「どうしたんだ?」
「別に」
案の定、午後からは大量の決裁書類と何個ものミーティングが重なりてんやわんや。
外回りの客先も全て他の同僚たちに任せることになった。
給料は、もちろん上がると言う事だったが。
翌日も、その翌日も、引継ぎの為の作業でバタバタしていて、春香の為の誕生日プレゼントを選ぶ余裕がなくなってしまって、結局4月3日。春香の誕生日を迎えてしまった。
「だからさ、この案件にこれだけの時間を掛けたって、採算合わないじゃない」
「でも、貴重な固定客だし、安定して収益は望める筈で」
「だとしてもだな」
「ま、まあ、とりあえず新規顧客を増やす為にはどうしたら」
「天海、新規客はそう簡単に増えないんだぞ、営業やってたお前なら分かるだろう」
「それは…」
何時もと同じメンバーの何時もと同じ内容の会議。
この時期、営業と企画を交えた会議は何時も紛糾しているとは聞いていたが、これ程とは。
「ったくいつまでも同じ事ばっかりべらべらべらべら…!」
俺のすぐ横に座っていた企画部の下山さんがイライラし始めた。
この人は苦手だ…普通の人が言えない事を、平気で言ってくる。
しかし概ね正論なので、ぐさりとくる。
「今重要なのは新規顧客の獲得だろう?既存顧客はそのまま従来通りのお付き合いで良いじゃないか、
何か問題があるのか?」
「いや、それは」
「ないんなら今はそれに時間を割かずに、重要課題の話をしようよ。そう言う場なんじゃないのか?」
「はい…」
「それと、天海」
「はい…」
「お前も初の会議進行だし、まあ、それは良い。だが、関係ない内容が続くならそれを止めるのもお前
の役割だろう?課長なんだから、今までと違うぞ」
「はい…」
「俺にはまとめ役なんか、向いてないんだけどな…」
ようやく会議を終えるころには、すっかり暗くなっていた。
このご時世、そうすぐに業績の上がる案件がある訳でもなく、製品の原価も人権費は上がる一方だ。
紛糾する会議をまとめ切れなかったのは、やっぱり進行役の俺のせいなのだろう。
「…課長かぁ」
給料が上がれば、妻や春香にだってもっと贅沢をさせてあげる事が出来る。
家のローンだって、もっと楽に返せる。
だから、俺は仕事をする。
春香と妻が居るから、俺は仕事を続けてこられた。
「…春香」
机の引き出しに入れてある一枚の写真。
春香と妻と、俺の3人で撮った七五三の時の写真だ。
この頃から、よく転んでいた春香。
今では立派にアイドルをしているけれど、家でも度々転んでいる春香。
この写真を見るたびに、どんなに腹が立つことだって耐えてきた。
春香の笑顔を守るために。
「しまった…後は明日でも良いな…!」
気がつくと、時計の針は10時を指そうとしていた。
慌てて帰り支度を始めて、時間外手口から駅まで駆け出した。
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
「まだ起きてたのか…」
家に帰ると、まだ妻が起きていた。
「メール見てびっくりしちゃった、昇進、おめでとうございます」
「ありがとう…」
もう日付が変わろうとしているのにもかかわらず、妻は嫌な顔せず俺の夕飯を用意してくれた。
「…そういえば、春香は」
「もう寝てるわ…ケーキあるけど、後で食べる?」
「明日の朝にするよ…何もしてやれなかったなぁ」
「えっ?」
「いや、春香に誕生日プレゼント」
最近、会話も減っているし、これをきっかけにしようとも思っていた。
でも、結局何もできなかった。
「ふふっ…そんなことないわ。春香も分かってる、あなたがどれだけ頑張ってるか…」
「…」
「ほら、ご飯食べちゃってください、冷めちゃいますよ」
ご飯を食べて、風呂を済ませて寝室へ上がる。
ふと、春香の部屋の前で立ち止まってみる。
少しあいているドアの隙間から、部屋の中をのぞいてみる。
年頃の娘の部屋に勝手に入るのはどうかとも思ったが、ちらりと見えた春香の寝顔に、思わず足を踏み入れていた。
「…」
すやすやと寝息を立てて眠る春香の寝顔は、小さなころと変わらない。
少し布団を肌蹴ていたので掛け直してやりながら、寝顔を見つめていた。
「…大きくなったなぁ、春香」
大人びた表情やアイドルらしい笑顔を浮かべる春香、ダンスやお芝居もこなす春香。
でも、寝顔はあの頃、まだ俺が抱っこしていた時と変わらない。
頭を撫でてやろうとして、思わず手が止まる。
起こしてしまっては可愛そうだ。
「…誕生日おめでとう、春香」
小声でそう言うと、俺は部屋を出た。
「何してたんですか?」
「春香の寝顔を見てた」
「ふふっ…春香はね、きっとあなたが思っているよりも、変わってないのよ?」
さきにベッドに入っていた妻には、多分俺が寝顔を見ていたことはバレていたと思う。
「えっ?」
「だから、何も気にせず、普段通りに接してあげればいいのよ」
「…」
「…女の子だもの、昔と同じようには行かないわ」
「でも、やっぱり寂しいな…」
昔、まだ仕事も忙しくなかった頃は帰ってきた後で、春香と遊んであげたものだ。
布団に潜り込むと、先程までは感じなかった強烈な眠気が襲ってくる。
明日も朝から会議だ、寝てしまおう。
「おっはよ!お父さん!」
「ああ、春香、おはよう。今日も撮影かい?」
「うんっ、もうすごく面白いんだよ、宙吊りになったりそれから」
「ほら春香、朝ごはん食べちゃって。あなた、今日も朝から会議でしょう?時間いいの?」
「へっ?もうこんな時間か、行ってくるよ」
「あっ、お父さん」
ネクタイを絞めながら玄関へ向かおうとすると、春香に呼び止められた。
「?」
「課長さん、ファイトーっ!」
いつの間にか出世の話を聞いていたようだ。
拳を振りあげて笑顔を浮かべる春香。
その姿を見て、俺はこの笑顔を見るために働いてるんだと実感した。
「おーっ!」
真似して拳を振り上げ、春香の頭を撫でてやる。
擽ったそうに目を細める春香に、行ってきますと告げ、妻から弁当を受け取り出勤する。
いつもと変わらない道。
いつもと変わらない仕事。
それでもいい。
俺は、いつもと変わらない家庭が幸せなんだ。
それを守るために、今日も働く。
終
春香、お誕生日おめでとう(遅
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