あなたへのドルチェ(26)


年が明けてすぐのことだ。
その日もいつもどおりの1日が終わるはずだった。

楽譜に目を通しているとき、急に音が聞こえなくなった。
そして、激しい眩暈に襲われた。
床に這いつくばり嘔吐を繰り返す。

世界が回る。
また嘔吐感が込み上げてくる。

翌朝病院に行き、稀な両側性の突発性難聴だと診断された。
突発的な難聴なんて、すぐに良くなるだろう。
しかし薬物療法に効果はなく、失った聴力が回復することはなかった。

専門の医師がいると聞けば紹介状をもらい、入院して最新の医療を試みる。
しかし、膨らむのは絶望ばかり。

消えていく、バイオリニストとしての未来。
ソロコンサートの夢。

両翼をもぎ取られた鳥は、二度と大空を羽ばたくことなんて出来ないんだ――。
所属していた楽団を辞め、いつしか家族や彼女とも音楽のことは話さなくなっていた。


それから季節は巡り、再び冬。
世間ではクリスマスがどうとか賑わう時期になっていた。

 ブーン、ブーン。

こたつに入って横になっていると、スマホのバイブが振動した。
着信がすぐに分かるように、常に身に着けている。
どうやら、彼女からメールが届いたようだ。


 件名:今日は
 本文:クリスマス・イヴだね♪ 夕方、ケーキ焼いてくよ。^^


中途失聴の俺なんか別れてしまえばいいのに……。
液晶を見詰め、自嘲気味に笑った。

病状が最悪の経過をたどり入院していたころ、俺はひどく荒れていた。
しかし彼女がいてくれたおかげで、現実を受け入れられるようになった。
彼女が支えてくれていなければ、今頃は自暴自棄になっていただろう。

だから余計に考えてしまうのだ。
本当に俺で良いのか?
健常者の男のほうが相応しいはずだ、と。

それでもメールを返すのは、彼女に一緒にいてほしいからだった。

 件名:待ってる
 本文:どんなケーキか楽しみにしてるから。何時に来るの?


送信してすぐ、返事が帰ってきた。


 件名:Re:待ってる
 本文:4時ごろかな。あまり期待しないでね。


時計を見ると、2時になったばかりだった。
今頃はキッチンで奮闘している頃だろう。
あまり邪魔をするのも悪いかもしれない。おとなしく待つとしよう。

それまでの間、部屋の掃除をすることにした。
散らかしたままの衣類はクローゼットに放り込む。
そして、すぐに閉めた。


部屋の掃除が終わり、こたつで本を読んでいるとフラッシュチャイムが明滅した。
時刻は3時48分。
もう来たのかもしれない。

こたつを出ると、今度はスマホのバイブが振動した。
どうやら間違いないようだ。


 件名:着いたよ
 本文:中に入るね(*^o^*)


さくっと読み、玄関に向かった。

『お待たせ♪』

合鍵で家の中に入っていた彼女は、靴を脱ぎながらスマホの液晶画面を見せてきた。

「外は寒かっただろ」

そう聞くと、身を縮めて寒そうに震えてみせた。
よほど寒かったらしく、足早にリビングに入る。
バッグと紙袋を置いてコートを脱ぐと、すぐにこたつに入った。

『今日は何してたの?』

彼女はこたつの上にメモ用紙を置き、以前書いた文面をめくり取り、新たに文字を書いた。
俺は話すことは出来るが、聞くことが出来ない。
そのため、会話の方法は主に筆談かメールだ。

「掃除してたかな。きれいになってるだろ」
『クローゼットに押し込んだだけだったりして』

結構痛いところを突いてくるな。
図星というか、いつものことなので仕方がない。
こういう場合は話題を変えるのが一番いい。

「そんなことよりも、ケーキを作ったんだろ。早く食べたいな」

その言葉は自然な流れのはずだった。
ケーキを作って持ってくることになっていたのだから。

それなのに、彼女の表情が固まった。

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