勇者「よーし、いっちょ叛乱でもするか!」 (254)

切株の上に立てた薪を、斧で勢いよく断ち割った。乳色の朝靄に包まれた森に、澄み切った音が鳴り響く。平和。この二文字に尽きる。
木こりは額に浮かんだ汗を拭いながら、竹筒の甘い水を飲み干した。以前なら、こんな悠長に休むことなどできなかった。常に背後に魔物の殺気を感じつつ、斧を振るったものだ。

木こり「先代の勇者さまさまだな」

数年前、先代の勇者が魔王を倒した。世界中に蔓延る魔物は王の消滅と共に自裁を選び、魔物という種族そのものが消え失せたのである。
アルマリクの王は先代勇者に姉妹都市であるバルフを治めるバルフ候の爵位を与え、街道の整備や税制の見直しに着手したのだった。

木こり「さてと、そろそろ帰るとするべ」

割った薪を専用の一輪車に乗せて運んでいく。昨夜は雨だったらしい。ところどころ、ぬかるんだ道で足を取られた。丸太小屋に着くと薪を下ろし、乾燥したツルでひとまとめにした。

???「……なんです! ……ださい!」

木こり「ん? 何やら小屋の中から揉めている声がする。なんだ、坊主がやらかしたんか」

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1512085341

妻と兵卒が激しく口論し合っていた。と言っても、兵卒が一方的にまくし立てているだけなのだが。鈍色の魚鱗鎧を見るに、アルマリクから派遣されてきた下級将校だろう。

木こり「あっしが主人です。将校様、税なら規定通り納めておりますだよ」

下級将校「規定通りだと? ははは、こは異なことをいふものかな。この紙を見るがいい」

下級将校が差し出した紙には、地方にある橋の改築作業を行うため、増税する旨がつらつらと書いてあった。
これまでの税制度に加え、人頭税、森林税から挙げ句の果てには排泄税や食事税、呼吸税などトチ狂った税が上がっている。

木こり「あ、ありえねぇ。嘘だろ……?」

下級将校「アルマリクは魔王との戦で多額の財を失った。歴史的建造物も、交通のための道路や橋も、修理するための人員もな」

下級将校「それゆえ、増税を余儀なくされたのだ。国家事業への投資。どうだ、これ以上に納得できる理由などあるまい」

木こり「ですが……あっしらの食い扶持が無くなってしまいます」

下級将校「やかましい。賄賂も無しに無駄口を叩くでない。そうだ、税を納めぬ不届者として貴様ら夫婦二人を打ちのめしてくれよう」

木こり「やめてくだせぇ! あっしはどうなっても構わねぇ。妻だけは打たないでくだせぇ!」

下級将校「ン~、そう言われるとますます女を打ち据えたくなってきたぞ。よく見たら中々の美人ではないか。嬲りがいがありそうだ」

木こり「そ、そんなぁ……」

ーバルフの街ー

妹「……っていう導入はどうかな? この後、木こりのお嫁さんが陵辱されながらも女の喜びに目覚めていくシーンなんだけど」

兄「いいと思うぜ。官能小説の書き出しにしては、ちょいと固すぎる感じもするがな」

妹「増税は本当の話だよ。先代勇者様が魔王を倒してから、急に税を上げ始めたんだ。そのせいで、街のみんなが苦しんでる」

兄「世に問う作品か。あんま過激な描写を入れると検閲に引っかかんぞ」

妹「大丈夫。いざとなったら、魔法学校の魔女先生に頼れば良いんだもんね」

妹は官能小説という名目で、王の政治を批判する風刺小説を書いていた。まだ十に満たない歳ながら、はっきりと国の問題を見据えている。
加えて難しい熟語や官能表現は、全て魔女先生から教えてもらったのだという。妹が尊敬する魔女先生とはどのような人間か、兄は実際に会って話をしてみたくなった。

妹「あ、お兄ちゃん。外に出るなら、魔女先生にこの原稿を届けてくれない?」

兄「はいはい」

妹「ごめん、あと昼ごはんも買ってきて。いつものベーコンレタスサンドイッチ。トッピングはブラックペッパーがいいな」

兄「了解。ちょっと待ってな」

虫喰いだらけの扉を開くと、陽の光が全身を優しく包み込んだ。石畳の街道を行き交う人々。その両側に並び立つ露店。饅頭を蒸す時の炊煙が雲ひとつない青空にたなびいている。
一見すると、長閑な田舎町のように思える。しかし、水面下で事は進んでいる。亡国への秒読みが始まっている。
兄は魔法学校への道を急いだ。

魔法学校では好きな講義を自由に取ることができる。決められた単位を取得すれば、上の学年に進級可能なのだ。それゆえ、飛び級する秀才童子がいたり、反対にいつまでも下級生のままの大人もいる。妹は前者だった。
昼休みの魔法学校は閑散としていた。各自、食事は自宅か外で食べるのである。玄関口で魔法軽減効果を持つスリッパに履き替える。

兄「変な靴が置いてあるな……。ひょっとして、魔女先生の靴か?」

地味目の靴が揃う中、ひとつだけ白く光り輝く靴があった。氷の塊を削って作った、アイスハイヒールだ。触ってみると、指が痺れるほど冷たい。謎の輝きは冷気によるものだった。
ホコリの舞う廊下を歩いてゆく。突き当りが魔女の魔術研究室だ。

兄「失礼します」

ドアを二回ノックしてから、兄は引き戸を開けようとした。しかし、開かない。鍵が掛かっているわけではない。何故だか不思議な力が働き、引き戸を動かなくしているのだ。
いつからいたのか、横合いから少女が顔を突き出してきた。

少女「魔女先生なら留守よ」

兄「留守?」

少女「そう、夕方なら空いてるわ」

兄「裸足で外出したわけじゃないよな」

少女「何言ってるの、当たり前でしょ。先生はアイスハイヒールを特に気に入ってらっしゃるのよ」

兄「そのアイスハイヒール、玄関に置いてあったぞ」

少女「え」

パチン。風船が弾け飛ぶような音と共に、少女の身体は霧となった。引き戸にかかっている謎の魔法も効力が消え去ったようだ。

兄「居留守かよ……。失礼します、魔女先生はいらっしゃいますか!」

白かった。髪も顔も服も、全てが新雪のように白かった。部屋の中央に深緑色のソファがあり、魔女はソファにもたれて眠っていた。
右の本棚も左の本棚も、怪しげな古文書や魔導書がぎっしり詰まっている。仄暗い研究室なだけに、魔女の輝きが異質な物のように思える。

魔女「うう……うーん……」

魔女が手探りでつばの広い帽子を取り、頭にかぶった。魔女帽も白い。

魔女「こんにちは、ボクを起こしたお馬鹿さん。一体何をしに来たのかな?」

頭から爪先まで、電撃のように快感がほとばしった。甘過ぎる声。脳がとろけそうだ。サキュバスが人間に化けているのではないのか。

魔女「ふーん。魔法かけておいたのに、入ってこれたんだ。まぁ、下級魔法だから継続時間も短いし、仕方がないか」

兄「魔女先生、妹に頼まれて原稿をお持ちしました」

魔女「ああ、キミがお兄さんね! よく話を聞いてるよ。新作できたんだね。楽しみ~」

魔女は手を合わせて嬉しそうにぴょんぴょん跳ね上がった。跳ねるたびに、短いスカートが舞い上がる。なるほど、彼女の授業を希望する学生が多いわけだ。

魔女「あ、そうそう。キミね、先生なんてつけなくていいよ。敬語もよそう。お互いタメ口で……ねっ?」

兄「いいんですか? でも、どうして……」

魔女「なんとなく。この先、キミとはとて~も深い仲になりそうだと思ってさ」

兄「あなたは不思議な人ですね」

魔女「よく言われる。逆にどこかしら不思議なところがないと、沢山の魔法は扱えないんじゃないかな」

話が頭に入ってこない。ガラスのごとく透き通った白い肌に、つい目が奪われてしまう。
魔女が小首を傾げた。その絶妙な角度! 微笑みも相まって、聖母が降臨したのかと奇妙な錯覚すら覚える。柔らかそうな胸に顔をうずめたくなる。良い香りがするに違いない。

魔女「どうしたの? 妹さんの原稿を届けてくれたんじゃないのかい? ボク、彼女の小説がとっても好きなんだ。早く読ませておくれよ」

兄「すみません、考えごとをしてました」

魔女「だから敬語はいいって」

魔女に分厚い原稿を手渡した。官能小説の推敲を教師に任せるなど、世界のどこへ行っても耳にしない話だろう。
学校へ行く途中に自分もサッと目を通してみたが、当たり障りのないただの官能小説だった。
現在の国家体制を痛烈に風刺したと本人は息巻いていたが、言われなければ分からない。筆力が足りないのか、逆にそれとなく見せるほどの技巧なのか。

魔女「ふむふむ、なるほどね。やっぱりそうだ。ボクと妹さんの考えは完全に一致してる。怖いくらいに」

兄「考え?」

魔女「うん、教えてあげてもいいけどね……約束してほしいんだ」

魔女「ボクと一緒に、最期まで駆け抜けてくれるって」

兄「どういうことです」

そこで、魔女は深呼吸をした。目を開く。紫色の瞳が決意の光を帯びる。
思わず数歩、後ずさった。後ずさらずにはいられなかった。

魔女「アルマリクの王を、亡き者にする。そして、君主制ではない新たな国家を打ち立てる」

兄「叛乱、じゃないですか」

魔女「叛乱じゃない、革命と呼んでほしいね」

魔女「いいかい? アルマリクは根本から腐っている。賄賂、麻薬密売、人身売買なんてザラ。役人は民から搾り取った血税で宴に明け暮れ、上級貴族に気に入られようと媚びへつらう始末。キミは世の中をよく見たことはあるか? 確かに賑わっている街もあるよ。けれど、それは 一部だけ。田舎へ行けば木の根で飢えを凌ぎ、病の治療もロクに受けられない貧者がいる」

魔女「この国は、とっくに崩壊しているんだよ」

兄「俺にどうしろっていうんですか」

魔女「まだ頭の中が整理できてない感じだね……。よし、分かった。落ち着いたら、またボクの研究室へおいで。キミには考える時間が必要みたいだ」


国に叛旗を翻す。勝手にやってくれとしか言いようがなかった。
魔女との約束。叛乱の計画に加わってほしい、という意味だったのかもしれない。
自分は争いを好まないし、妹を養っていかねばならない。

兄「そうだ、サンドイッチを買っていかないとな」

父母は魔王との決戦で死んだ。戦いに参加したわけではない。魔王の巻き上げた瓦礫に当たって死んだのだ。
バルフが戦場になっていなければ、勇者と魔王がいなければ、そもそも戦争がなければ両親を失わずに済んだ。
もし叛乱を起こせば、自分と同じように大切な人を失う子供が生まれるだろう。
重税を課す王は許せない、しかし立ち向かえば死者が大勢出る。

兄「17にもなって物事ひとつ自分で決められない、情けない男だよ。俺は」

露店でサンドイッチを二つ買い、家路を急いだ。
何やら騒がしい。野次馬が集まっているようだ。将校の魚鱗鎧も見える。
兵が来ているのか。

兄「何があったんです」

野次馬の一人に声をかけると、いきなり腕を掴まれて円の中央に引き出された。
妹が倒れている。彼女の手足には鉄の枷が嵌められていた。

兄「あんたら、どういう理由で俺の妹に乱暴しやがった!」

下級将校「貴様の妹を奴隷として隣国に売り飛ばす。税の滞納が長引いていたからな」

兄「税の滞納? 俺はちゃんと納めているぞ、何かの間違いだ!」

下級将校「ちゃんと納めている? ははは、嘘をつけ。この紙を見るがいい」

下級将校が差し出した紙には、地方にある砦の改築作業を行うため、増税する旨がつらつらと書いてあった。
これまでの税制度に加え、人頭税、森林税から挙げ句の果てには排泄税や食事税、呼吸税などトチ狂った税が上がっている。

兄「あ、ありえねぇ。嘘だろ……? 聞いてねぇぞ!」

下級将校「アルマリクは魔王との戦で多額の財を失った。歴史的建造物も、交通のための道路や橋も、修理するための人員もな」

下級将校「それゆえ、増税を余儀なくされたのだ。国家事業への投資。どうだ、これ以上に納得できる理由などあるまい」

兄「ふざけんなよ、クソ……!」

下級将校「さて、お嬢さん。こっちに来てもらおうかな」

妹「いや! お兄ちゃん、助けて……!」

将校は妹を無理やり引き立たせると、鎖を強く引っ張った。

(連れていかれる。妹が連れていかれてしまう。取り戻すべきではないのか)

(斬るな、将校を斬れば大事になる。自分も妹もただではすまない。斬ってはいけない。今は耐えろ)

激情と理性、二つの感情がせめぎ合う。短剣の柄を握りしめたまま、固まっていた。
魔女の言葉が渦巻く。この国は腐っている。王も貴族も軍も全てが腐敗に満ちている。

妹「お兄ちゃん! やめて! ううう、うあああああん!」

下級将校「うるさいガキだ、口を閉じろッ!」ゴスッ

殴られたらしい。
妹の泣き叫ぶ声が、兄を呼ぶ声が聞こえなくなった。
それだけで十分だった。

兄「おい……お前」

下級将校「ん? まだ文句あるのか貴さ」ブシュッ

地を蹴り、将校の右目に短剣を突き立てる。噴き出す赤黒い血。痛みに転げまわる将校。
ついにやってしまった。野次馬にも見られた。もうこれまでのような暮らしは送れないだろう。
だが、不思議と肩の荷が下りたような気がした。胸の内にわだかまっていた不満が、綺麗さっぱり洗い落とされていく。

兄「こっちだ! 魔法学校へ行くぞ!」

妹「お兄ちゃん!」

妹の手を取り、昼下がりの路地裏を駆け出す。
自分が本当に望んでいたこと。

兄(魔女、あんたの話に乗っかるぜ。たった一人の家族を守るために!)

研究室の扉を蹴破った。普通に開ければ良かったのだが、興奮と焦りのあまり足が出てしまったのだ。
魔女は鏡に向かって、くせ毛を整えている最中だった。

魔女「肚が決まったみたいだね。曇りのない、晴れ渡った空のような目をしている」

兄「……魔女、俺は戦争で両親を失った。だから怖かったんだ。共に暮らしてきた妹まで、戦争で失ってしまうのが」

兄「ついさっき、妹が奴隷として売り飛ばされそうになった。しっかり税を納めていたのに、国はどんどん新たな税を課して締め付けてきやがる」

兄「やっと理解したんだよ。結局、人間は誰しも死ぬまで闘い続けなきゃならない。与えられる平穏など、あるわけない。闘って闘って、勝ち抜いたその先に初めて平穏と呼べるものがある」

兄「国のこととか、新しい政治とか俺には難しい話は分からねぇ。でも、一緒に闘わせてくれ。妹を守るために」

魔女が振り向いた。
口元にはあるかなしかの笑みを浮かべている。

魔女「妹さん」

妹「は、はい!」

魔女「キミは幸せ者だよ。勇敢なお兄さんを持てて」

妹「ありがとうございます! 魔女先生から褒めてもらえた……やったぁ!」

魔女「それはそうと、勇者君」

兄「勇者?」

魔女「そう、キミのことだよ。お兄さん。キミの勇気には感服した。ありがとう。正直、怖気づいて逃げ出すかと思っていた」

魔女「ちょっとこっちに来なさい。鏡で自分の瞳を見てみるんだ。ボクがキミを勇者と呼んだ理由が分かるから」

鏡を覗き込んでみると、瞳の中に蒼白く光る五芒星があった。

魔女「それは勇者であることを示すペンタグラム。神様がキミを勇者として認めてくださった証だよ」

勇者「勇者になると、何かいいことがあったりするのか?」

魔女「大義ができる。叛乱に勇者の聖戦という意味を持たせられる。兵が集まりやすくなるだろうね~」

勇者「それだけかよ。強力な魔法が撃てたり、剣の腕が上がったりすることは?」

魔女「本人次第。ま、そんなものさ。みんな勇者の力に夢を見ているみたいだけど」

魔女は一息つくと、グラスの水を飲み干した。

魔女「さて、まずは土台を安定させないとね」

勇者「土台?」

魔女「農作のための土地、商いのための都市、輸送するための糧道、それから軍の指針となる法の制定」

勇者「色々とやらなければならないことが、山積みなんだな。厳し過ぎんだろ……」

魔女「大丈夫、土地と都市については目処が立ってるんだ。ある程度の資源や賑わいがあって、王都アルマリクからも程よい距離の拠点」

勇者「そんな都合の良い場所などあるのか?」

魔女「あるとも。それはここ……バルフさ」

勇者「バルフったら、まだ先代勇者様が治めている街だろ。どうすんだよ」

魔女「奪う」

勇者「先代勇者様を追放して?」

魔女「追放するだけじゃ甘い。魔王を倒した名声で、すぐに力を盛り返してくるよ。ここは、いっそ殺してしまおう」

魔王を倒し、世界に平和をもたらした先代勇者。その首を斬り落とす。話が飛躍し過ぎていて、勇者は光景を全く想像できなかった。

魔女「ただ、バルフ候は腐っても元勇者。真っ向から斬り込むのは下策だろう」

勇者「暗殺?」

魔女「そう。友好的な関係を築いて、気を緩めたところを背後から刺し殺す方がいいかも」

勇者「でも、バルフ候に会うツテなんてあるのかよ。普通じゃ会わせてもらえないんだろ?」

魔女「そこは任せて。魔女の顔は広いからね」

バルフの郊外、竹林を進んだ先にその屋敷はあった。
敷地の四方を高い柴垣と塀で二重に囲み、玄関口の門構えはアルマリクの立派な城門にも引けを取らない。
屋敷の西側にはモザイク様式の土蔵が立ち並ぶ。
中には米や麦を始め、東西南北全ての地域から入手した食糧が蓄えられているのだ。
もちろん、賄賂として皇帝や高級役人に献上するための貴重品もあった。

大富豪「賄賂は好かんが、生き残るためなら何だって利用するさ」

大富豪は長い黒髪をそよ風になびかせながら、孔雀の羽根で作った扇を振った。
この世に生を受けて32年。金に生き、金に死ぬ。父親の生き方を目標として、がむしゃらに稼いできた。
西の商人から安価で仕入れた品物を、今度は東から来た商人に倍の値段で売りつける。これだけでも多くの財を成すことができた。
しかし、父親の築き上げた財と比べれば、足元にも及ばない。

そこで大富豪の特権を活かして、彼は『国家公認の密輸経路』を確立したのである。
世界各地の豊かな土地を買収し、獲れた作物を定期的に大富豪の蔵へ持ち運ぶ。
これは半ば違法行為のようなものであったが、関所の役人さえ大富豪は買収してしまったので、お咎めなど一切無しだった。

大富豪「今のバルフ候……元勇者が魔王を倒してから、この国は規制が緩くなった。いや、なりすぎていると言うべきか」

大富豪「密輸経路を手軽に生み出せるようになったのはありがたいが、他国の商人の干渉が激しくなっている」

大富豪「このまま何もせず指を咥えて見ているようでは、いずれ貴重な資源が野犬共に食い荒らされてしまうだろうよ」

使用人「ご主人様、魔女様がお目見えです」

大富豪「そうか。どういう用件か知らんが、客間に通せ」

かつて先代勇者と共に世界を駆けた魔女。よく資金援助をしてやったものだが、魔王討伐という役目を終えた今、自分に何の用があるのか。客間に入ると、二人の少年少女を伴った魔女が、椅子に腰掛けていた。

魔女「久しぶりだね、大富豪」

大富豪「数年ぶりか。相変わらず美しいな。人間か妖精か、見ただけでは分からん」

魔女「キミはだいぶ老けた」

大富豪「世界が平和になってから、仕事が増えたのだ。皺の一つや二つ増えるだろうさ」

魔女の隣に座る少年と少女に目をやる。少年の瞳には、蒼白い五芒星が刻まれていた。

大富豪「新しい勇者を見つけたのか」

魔女「うん、意外とあっさりね。あとは伝説の聖剣を持たせて終わり。彼は真の勇者となる」

大富豪「聖剣の在り処は知っているだろう?」

魔女「知ってるよ。先代勇者様が大事に大事に身につけている剣。あれでしょ」

大富豪「盗むのか」

魔女「ううん、殺して奪い取るの」

大富豪「物騒だな。そうまでして新たな勇者を祭り上げて、お前は何をするつもりだ」

大富豪の前に、原稿の束が置かれた。勇者の妹が書いた風刺小説。思わず魔女を見る。

魔女「勇者の妹さんが書いた小説だ。彼女はボクやキミより何倍も世の真理が見えている。なぜ国はあるのか。なぜ民はあるのか」

魔女「これを読み終えた時、きっとキミはボクらに協力せずにはいられなくなるはずさ」

面白い。大富豪が最初に思ったのはそれだった。十歳に満たない少女にしては、やけに洗練された文を使う。涙を誘う場面や心打たれる場面もなくはない。しかし、全編を通して何やら引っかかるものがあった。

大富豪「……なるほどな。核心を突いている。そこは認めよう。ただ少し気になる点がある」

大富豪「なぜ官能小説をベースにしたのだ? 誰に向けて書いた?」

勇者の妹「より多くの人に読んでもらうため……です。『そういう描写』があれば、男達は目の色変えて飛びつくって、魔女先生が」

大富豪「魔女、いらんことを教える能力だけは一級品だな」

魔女「ふふッ、面目な~い」

大富豪「国の改革を望むのは男だけではない。子供を育てる金のない女、貴族層から執拗ないじめを受ける庶民の子、労働に駆り出される老人。生きる環境も性格も違う民を、ひとつにまとめなければならんのだ」

大富豪「淫らな描写ばかり入れて、民が感動し涙を流すと思ったか。考えが甘い、甘過ぎる。この責任は指導した魔女、お前にあるぞ」

魔女「ええー、厳しいよ大富豪さん。せっかく身を削って書いてくれたのに」

勇者の妹「魔女先生、あたしは大丈夫です。自分の問題点が見えてきた気がします。やっぱりジャンルが偏っていたら読む人も限られてしまいますよね」

大富豪「妹さん、君は賢い。十分に推敲して再び持ってくるなら、写本の手配をしよう」

勇者の妹「写本?」

大富豪「君の小説が中綴じの本となり、世界中の人の手に渡る、ということだ」

魔女「そうすると、写本する場所や人が必要になるよね」

大富豪「問題ない。タシケントの北部に写本工場を建ててある。一部の富豪しか知らない、秘密の場所だ」

魔女「ああ~、あそこか。大富豪も妙なところに目をつけるね。あそこ岩山と濁った川しかない荒地だよ?」

大富豪「だからこそ、国の目を欺きやすい」

勇者の妹「世界中の……人の手に……」

妹の瞳はキラキラと輝いていた。





勇者「大富豪さん、綺麗な人だったなぁ……。なんつーか、唐国の美女って感じ?」

魔女「アレは30を超えたオッサンだよ。まだ女装癖が治ってなかったみたいだけど」

勇者「え」

バルフの目抜き通りに面した食堂。勇者と魔女は向かい合わせに座っていた。二人きりで昼食を摂りに来たのだ。妹は大富豪の屋敷に暫く留まることとなった。
二階の窓からは通りを行き交う人々がよく見える。新たな税が課せられているにもかかわらず、不思議と町は活気に満ち溢れていた。

魔女「……大丈夫かい?」

勇者「大丈夫って何が?」

魔女「昼食を終えたらいよいよバルフ候の屋敷に乗り込むわけだけど、心は決まった?」

勇者「あ、ああ」

魔女「一度決めたら、もう後戻りはできないよ。沢山の血が流れる。想像を絶する程のね。キミの大切な人も、キミ自身も死ぬかもしれない。それでも、国に抗う覚悟はあるかい?」

勇者「戦争は嫌だ。でもこのまま我慢の日々を続けていても、意味はない。闘うか、死ぬか。選べと言われたら、闘うしかないだろ」

魔女「そうか、分かった。キミがそうなら、ボクも覚悟を決めるよ」

料理が運ばれてきた。白い麺が盛ってある大皿と椀がふたつ。椀には唐辛子をすり潰して作ったと思しき赤いスープが、旨そうな匂いを漂わせていた。箸でかき混ぜると、サイコロ大に切った野菜が浮かんでくる。

魔女「さぁ食べよう食べよう! 腹が減っては戦はできぬ! 勇者君、多めに取っていいからね」

勇者「魔女、聞きたいことがある」

魔女「ん? どうした?」

勇者「重税を課せられているのに、なぜバルフの町はこうも賑やかなんだ? 荒れる気配がないのは何故だ?」

魔女「どっかから援助を受けてるんじゃない? 税を免除する代わりに、店の売上20%をバルフ候に収めるとか」

勇者「マジか……」

魔女「ただの憶測だけどね。浪費しか脳のない元勇者に思いつくとは考えられないし。ホントだったら、余程の知恵者が側についていると見える」

勇者「攻略が難しくなったわけだ……」

魔女「何言ってんの、まだまだこれから。スープ冷めちゃうよ? 早く食べなよ~」

町から少し離れた小高い丘の上に、黄金色の宮殿が煌々と輝いていた。先代勇者の屋敷だ。

勇者「ついに先代勇者と対面する日が来るんだな……」

魔王を倒した人物。一生目にすることはないと思っていた、お伽噺の中の英雄。

魔女「ちょっとストップ」

勇者「いきなりなんだよ」

魔女「人を待っている」

勇者「人って誰だ? 二人で潜入するんじゃないのか?」

魔女「大富豪が潜入のスペシャリストを派遣したみたいでさ。何だかんだ手伝ってくれるんだよね、彼」

世間話に花を咲かせていると、十字路の角から茶髪の少女が手を振って駆けてきた。

間諜「魔女さん、勇者さん! 門の前で待ち合わせでしたよね。遅れてすみません」

魔女「お~、間諜君! 安心して、ボク達もさっき来たばかりだから」

潜入のスペシャリスト。今回は薬師に化けて先代勇者と接触するらしい。
魔女と勇者が外部から付け入る隙を探すのと並行して、間諜が内部から先代勇者の体制を腐らせていくのだ。
先代勇者の傍に仕えているであろう『知恵者』を勇者側へと引き抜く。それが間諜に任せられた任務である。
相当難しい任務だが、大富豪が珍しく大枚をはたいて雇った間諜だ。雑な仕事はこなさないだろう。

勇者「その両耳に着けている銀色の装置は何なの?」

間諜「あ、えと、ヘッドフォンです。なんでも『壁に耳あり障子に目あり』を体現する魔道具らしくて」

勇者「へぇ~。薬師という割には、ちょっとチャラい恰好な気もするけどな」

間諜「派手さであれば、魔女さんの方が圧倒的に勝ってますよ。全身真っ白で氷の靴なんて、予想の斜め上行ってますもの」

勇者「ま、そりゃそうだよな」

門をくぐり、花畑に挟まれた小道を歩く。
先代勇者の屋敷には二つの門があるのだ。
一つは花畑を鑑賞する小道へ繋がる門、もう一つは屋敷の中へ繋がる門。
最初の門は誰でも無料でくぐることができるが、二つ目は身分を証明するものが無ければ入れない。

魔女「この人は怪しくないですよーっていう通行証だよね。大富豪に一筆書いてもらったんだ」

魔女が丸い平板を取り出した。ミミズが張った跡ような文字がつらつらと書かれている。
勇者は字が読めなかった。寝る間も惜しんで稼いだ金を、妹の学費に注ぎ込んでいたからだ。
それでもいい、と勇者は思っていた。自分よりも妹の方が、学校を上手く活用できる。

間諜「勇者さん勇者さん、瞳の中に五芒星があるって本当ですか?」

勇者「あるよ、ほら」

あかんべえをしてみせると、間諜は顔を赤らめて飛び跳ねた。

間諜「きゃあッ、すごーい! ホントにあるんですねー! すごいです、勇者さん! 尊敬しますー!」

勇者「そんな珍しがるものかな?」

魔女「勇者は神から英雄の証を賜った人間からね。そりゃみんな珍しがるよ。ふふふ」

勇者「まだ、勇者になった実感がいまいち湧かないな」

魔女「うんうん、何かが足りないよね。勇者が佩くはずの聖剣。早く取り戻さなくちゃね。そのためにも頑張ってもらうよ、間諜君」

間諜「はい! 頑張りまーす!」

勇者(思ったより元気な娘だな……。薬師に化けるとか言ってるが、すぐに正体がバレてしまうんじゃないか?)






門番に通行証を見せ、第二の門をくぐった。くぐった瞬間、金色の光が全身を包み込む。眩しい。
壁が、床が、天井が、純金でできている。安っぽい金箔などではなく、一切混じり気のない純金。
一体どこの鉱山からここまで大量の金を掘り出したのか。掘り出すのにいくら費やされたのか。どれほどの民を酷使したのか。
勇者は周囲の純金が為政者の手垢で汚れた醜い物のように思えた。

魔女「キミの気持ちは分かる。でも、ここは笑顔を保たなくちゃダメ」

勇者「魔女、先代勇者様は随分と悪趣味なんだな。俺とは永遠に馬が合わなさそうだ」

そっと、魔女が勇者の手を握りしめた。

魔女「表面上は、馬を合わせなきゃいけないの。水でも飲んで一旦落ち着くかい?」

勇者「……ありがとう、魔女。少し驚いただけだ。純金なんて生まれて初めて目にしたもんでね」

間諜「ちょっとくらい削って持ち帰っても、パッと見じゃ分からなさそうですよね」

魔女「あははは、キミはどうしてそんな名案を思いつくのかな」

カツン、と硬い音が屋敷内に響いた。身をこわばらせる三人。誰かが来た。

先代勇者「久々の来客というんで、誰かと緊張していたら魔女、君だったのか」

でっぷりと太った男に、魔女は微笑みで返した。

魔女「やぁ、魔王を倒した勇者……いや、元勇者かな。今はバルフを治める町長様。出世したもんだよ」

応接間に通された。
大きなソファが二つ、水晶製のテーブルを挟んで置いてあった。ソファには既に小柄な男が座っていた。
手入れのなっていない金髪、目の下にくっきり浮かんだ隈、そして積み上げられた書類の山。
もしやこの少年が先代勇者の傍に仕えている『知恵者』なのか。

先代勇者「紹介しよう。これは私の下で軍師を務めている者だ。軍師と言っているが、条例の制定から治水工事の指揮監督までこなす、宰相のような存在だ。軍師には色々と教えてもらった。今の私があるのは、軍師のおかげだ」

勇者「14、5歳くらいですよね。その歳で、先代勇者殿を支えてきたとは。優秀な人材を持つあなたが羨ましい」

突然、軍師が顔を真っ赤にして机を叩いた。

軍師「客人、私は外見のことでつべこべ言われるのが最も嫌なのだ。こう見えて、私は35ですぞ。中年に片足を踏み入れた年齢だ。くれぐれも童子と間違えないで頂きたい」

先代勇者「嫌なら髭をたくわえればよいものを。すみませんな、融通の利かない堅物でして。おい、もう下がってよいぞ」

軍師「では、失礼致します……つゥッ……」

軍師は書物を抱えてそそくさと応接間を立ち去った。
間諜がこっそり耳打ちしてくる。

間諜「勇者さん。あの人、部屋を出て行く時に頭を押さえてましたよ。なんか病気持ちなんですかねー」

勇者「単なる寝不足じゃないの。あの調子だと、何日も徹夜していそうだし。愚王を支える裏方の苦しみってやつだ」

先代勇者「魔王討伐の命を受けて旅立ってから、何年が経っただろうか」

魔女「七年、くらいかな」

先代勇者「かつての仲間は息災か?」

魔女「それが全然情報が入ってこないんだよね。みんな簡単に死ぬようなタマじゃないから、元気にやってると思うんだけどなぁ」

七年前。
魔王討伐の命を受けた四人がアルマリクを出発した。
先代勇者、戦士、僧侶、魔女。短所をそれぞれ補い合っている、最高のパーティーだと言われていた。

先代勇者「そんでもって、巨悪は倒れた」

魔女「最後は戦士の一撃で決まったよね。それでキミが地団太踏んで悔しがって。僧侶なんかその場で座禅組みだしたりなんかして」

先代勇者「みんなで旅をしていたあの時が、一番辛かった。王から与えられたのは木の枝とわずかな銅貨。野宿は当たり前」

魔女「盗賊に荷を盗まれて、激流に流されて、灼熱の太陽にじりじり焦がされて、散々な目に遭った」

先代勇者「でも、一番楽しかった時だ。人生でね」

先代勇者の瞳がかすかに翳った。

先代勇者「過去に浸るのは後にして、今日はどんな用で来たんだ?」

魔女「良い薬師を見つけたから、紹介しにきたんだ。バルフ候なんて言ったら、激務に追われて大変だろうと思ってさ」

間諜「よろしくお願いします」

勇者は思わず間諜の顔を見た。
先程の元気な少女はどこへやら、一人の薬師が隣に座っていたのだ。
間諜は完全に、薬師に化けていた。

先代勇者「魔女、対魔族戦が終わってからバルフの町で魔法学校の教授になったんだってな? 順調か? 君の適当な性格だと、何だか心配だ」

再び先代勇者が話題を変えた。

魔女「そこら辺は流しでこなしてるよ。キミの言う通り、適当にね~」

先代勇者「ハッハ、いかにも魔女らしい」

苦笑する先代勇者。彼が笑うと、ぽっこり膨らんだ腹がブルブル揺れる。

魔女「魔法学校繋がりで思い出したんだけど、これ読んでみてよ。ボクの教え子が執筆した官能小説」

先代勇者「官能小説? ……少年、君が書いたのかね? 見かけによらずだなぁ……」

勇者「違います。書いたのは俺の妹です。恥ずかしながら、俺は字が読めなくて。妹の小説も、ちょっとしか内容が分からないんです」

先代勇者「ふむ、面白そうだ。官能という点が気になるが。もう誰かに見せたのかね?」

魔女「大富豪にちょろっと読んでもらった。官能表現が余計だとかいちゃもんつけてたよ」

先代勇者「はは。脳内書庫が雅文学だらけのあの男に、良さが分かるわけないだろう」

魔女がソファから立ち上がった。

魔女「じゃあ、ボク達はこれで。感想は次に時でいいから」

先代勇者「泊まって行かないのか?」

魔女「泊まりたいのは山々だけど、ボクらも他にやることがある。忙しいのはキミだけじゃないからね~」

先代勇者「そうか、それは残念だ」

魔女「薬師を置いて行くから、よろしく頼んだよ。じゃあね~」

次に来た時だ
凡ミス多くてスマソ

軍師「かつての仲間が訪れた程度のことで、私を呼びつけないで頂きたいものだ」

黄金の廊下を歩く、童子のような男が一人。軍師である。
頭の左側がズキズキと痛んでいる。内側から金槌で頭蓋骨を叩かれているような激しい痛みだ。
足取りがおぼつかない。今朝食べた人参の炒め物が、胃液に乗って喉元までせり上がってくる。不快極まりない。

軍師「うップ――――!」

軍師は厠に駆け込んで吐いた。膝をつき、便器に顔を寄せ、これでもかというほど吐いた。
吐き気は治まっても、頭の痛みは引かなかった。
長い袖で口元を拭い、再び書斎へ向かい歩き出す。ゆっくり休んでいる暇などない。
来月、王都アルマリクの国王がバルフへ視察に来る。
それまでに、どれだけ民の生活水準を上げることができるか。

軍師「私がやらねばならんのだ。私が」

魔族との戦争には勝った。恐ろしい魔王も封印した。
しかし、これは侵略戦争ではなく防衛戦争であった。
勇敢に闘った将校や民兵への恩賞となる土地がない。戦利品もない。
大富豪に協力してもらいその場は凌いだが、次また戦争があれば、バルフは崩壊する。

軍師「なぜバルフ候は贅沢三昧の日々を過ごしている!」

軍師「体裁ばかり気にする愚かな男。だが、表面上は魔王を倒した英雄だ。従わぬわけにもいくまい」

有能な文官をもう何十人も罷免した。自分も爪に火を灯すような生活を送っている。
だが、先代勇者が豪遊に耽っているせいで、軍師の努力も水の泡。
バルフの財政は火の車なのだった。

書斎の扉を開けると、煌びやかな世界とは一転、漆黒の闇が広がる。窓がない書斎では、火を灯さねば昼でも暗い。
ランタンを二つも灯すと、大分明るくなった。

軍師「やっと書斎に着いた……。さぁ、仕事だ。怠けてはいられんぞ。忙しい忙しい」

書類のひとつを手に取った。
アルマリクから新たに送られてきた300人の駐屯兵の資料である。名前、年齢、出自を始め性格や得意とする武器などが詳細に書かれている。この資料を元に、軍師は兵を本隊か別働隊か輸送隊か振り分けるのだ。

軍師「全員貴族の子息か……不作だな。無駄飯喰らいが300人も増えただけだ。まったく、陛下も何を考えておられる」

先代勇者「おいッ! 軍師、おるな!?」

息を弾ませて贅肉の塊が転がり込んできた。
くしゃくしゃになった原稿を握りしめている。

軍師「いかがなされた」

先代勇者は軍師の机に原稿を叩きつけた。積み上げられた本が、ドサドサと床に落ちる。

先代勇者「さっき魔女が私に渡していった小説なんだが、ちょっと目を通してみてくれ」

軍師「卿はこの小説をもう読み終えたのですか?」

先代勇者「いいや、まだだ。まず最初に君の感想が聞きたい。知恵者の意見は、参考になるからのう」

人の感想をそのまま使い回す魂胆だな。軍師はそう確信すると共に、肩を落とした。どこまで堕ちれば気が済むのだろう。

軍師(自分の意見を持たない主君に、誰が仕える。私は間違っているのではないのか? 道を踏み外しているのではないのか?)

腐っても元勇者。それだけが必死に働く軍師の唯一の支えだった。その支柱にも、そろそろ亀裂が入り始めている。

先代勇者「夕食の時間までに読んでおけ。私は妓館へ行く。留守番、任せたぞ」

先代勇者「それから、君の書斎はいつ来ても暗いな。純金を分けてやるから、壁と床を早く新調しなさい。よいな?」

軍師の返答も聞かず、先代勇者は足を踏み鳴らしながら書斎を去っていった。

軍師「え、えぇ……。真っ昼間から妓館……」

軍師は原稿を手に取り、流し読みした。
行き過ぎた徴税、軍と貴族の癒着、各地で横行している麻薬の密売。
なるほどと思わせる内容だが、それだけに稚拙な官能表現が目立ってしまう。

軍師「国の現状を痛烈に風刺したつもりなのだろうが、心に響くものはないな」

コンコン、と軽く扉をノックする音が聞こえた。

軍師「今度は誰だ」

入ってきたのは、茶色い髪を後ろに束ねた少女だった。
魔女の付き添いで訪れた少女だ。
太ももが見えるほど短いスカートに、軍師は眉をひそめた。
派手な服装の輩は大抵、ロクな女じゃない。何かしらの災厄を持ち込んでくる。

軍師(私の直感が外れたことはない。面倒事は御免こうむりたいものよ)

間諜「執務中に失礼します。今日から薬舗で働くことになりました、薬師と申します」

軍師「薬師? お前は薬を扱うのか」

間諜「主に漢方などを。東の大唐国に知り合いがいまして、調合について教えてもらったのです」

軍師「ひとつ、素朴な疑問があるのだが。お前が頭につけている魔道具、たしか……」

間諜「ヘッドフォンです」

軍師「そう、それだ。薬師に聴力を増大させる魔道具は必要なのか? 別にいらないだろう」

間諜「感染症で耳と聴力を失いまして。魔道具がなければ、まったく無音の世界なのです」

間諜がヘッドフォンを取り、耳のあった場所を指差した。
真っ赤に爛れている。軍師は顔を背け、呻くように言った。

軍師「すまない、悪いことを聞いたようだったな。許してくれ」

ズキリ。
再び、内側から金槌を打ち付けられたような衝撃。

軍師「ウッ……」

間諜「頭が痛むのですか?」

軍師「右は何ともないが、左側が脈打つように痛む。見ての通り、仕事すらままならんくらいだ」

間諜「他に症状はございますか?」

軍師「吐き気がする……それに眩暈も。薬師、私の病は薬で治るものなのだろうな?」

間諜「ええ。時間はかかりますけど漢方で治りますよ。明日、お持ちしますね」

軍師「薬師。私はお前に二度、失礼を働いてしまった」

間諜「失礼?」

軍師「一つは魔道具について余計な詮索をしたこと。もう一つは最初、心の中でお前を軽蔑してしまったことだ」

間諜「いえいえ、この恰好じゃ驚かれるのも無理ありません。こちらこそ、軍師様に失礼を……申し訳ございませんでした」

間諜が退室した後、軍師はベッドに仰向けに転がった。
あれは本物の薬師なのか、それとも自分を暗殺しようとするアサシンなのか。
考えれば考えるほど、頭の痛みが激しくなってくる。
目を閉じ、大きく息を吐いた。

意識が暗闇に溶けるまで、そう時はかからなかった。

翌朝、薬師が白い粒の入った袋を持ってきた。

間諜「南方に呉茱萸(ごしゅゆ)という植物がありまして。それを乾燥させて磨り潰した薬です」

薬師の話によれば、側頭部の痛みは血流の乱れによるものだという。
過度のストレス、寝不足、栄養失調。その他諸々の悪条件が積み重なり血液の循環が悪くなったらしい。
ここ最近、すっかり睡眠時間がなかった。穀物の生産量や鉱山の記録を眺めていたら、いつの間に陽が高くなっていたことなど何度もある。

間諜「呉茱萸には鎮痛作用と共に、血液の循環を良くする効果もあるのです。どうぞ」

薬師は白い粒を湯の中に溶かし、差し出した。
杯を口に当て、ぐっと湯を飲み干す。
暖かい。身体が芯からポカポカしてくる。

軍師「少し気分が楽になった。これを毎日飲めばいいのだろう?」

間諜「朝、昼、晩、食後に一回づつ。一日に三回服用してくだされば、半月で治ります」

軍師「ありがたい。来月、アルマリクの王が町の視察に来るのだ。それまでに間に合いそうで良かった」

間諜「では、私はこれで失礼致します」

軍師「待ってくれ!」

背を向けた薬師に、軍師は思わず声をかけていた。

軍師「もし暇があれば、私の書斎に寄ってほしい」

話し相手が欲しかった。苦労を分かち合う仲間が欲しかった。
誰かに溜め込んだ憂いを吐き出したかった。
薬師はクスッと微笑むと

薬師「政治のことはまるで分かりませんが、私でよければ……」

最後の行、間諜が薬師になってしまった
凡ミススマソ

その日から、軍師は様々なことを間諜に相談するようになった。彼女を敵のスパイだとは微塵も疑わず、軍事や政策を説明している。遠くまで見渡せるが、足元は照らせない。
軍師を灯台に喩えるなら、まさにそれだった。

軍師「民の意思を政策に反映させるためには、どうすればいい?」

間諜「大通りに投書箱を置く、というのはいかがでしょう」

軍師「それはもうやった。意見を書く人間がいないのだ。皆、生活に余裕がないのだと思う。異常な税が、資金援助の恩恵を打ち消してしまっている。廃屋も増え始めた」

間諜「では、その廃屋を取り壊して田畑にするのはどうですか? 資料を見てみたんですけど、廃屋だけで町の30%を占めているそうですよね」

軍師「まだ綺麗にすれば、人が住める家屋もある。全てを田畑に変えるのは早計だと思うが、やってみる価値はありそうだ」

数日後。

魔女「こんちわ~」

魔女が少年を伴って屋敷に訪れた。先代勇者は軍師の感想をそのまま喋っていたが、細かいことを聞かれると、的外れな発言をしていた。

魔女「あ、とっつぁん坊や!」

軍師「誰がとっつぁん坊やだ!」

先代勇者「軍師、客人に失礼だろう。控えなさい」

魔女「薬師はどう? 仕事してる?」

先代勇者「軍師が偏頭痛に悩まされてるそうで、随分と世話になっているよ」

魔女「へ~、あの子意外とやるねぇ」

主人と魔女が話し合っている間、軍師の視線は魔女の隣に座る少年に注がれていた。前から疑問に思っていたが、この少年は何者なのだ。魔女が二回も連れてきている。きっとただ者ではあるまい。

勇者「……」

少年と目が合う。五芒星。はっきり見えた。

軍師「なッ……!?」

五芒星と言えば、勇者であることを表す証だ。
ありえない。ありえるはずがない。

軍師(まさか、新しい勇者が誕生したとでもいうのか……?)

再び顔を上げた時、少年の瞳にあった五芒星は消えていた。

魔女との会談の後、先代勇者は久しぶりに狩りへ行こうと言い出した。
伴うのは軍師と薬師の二人だけという。すぐに三頭の馬が用意され、軍師は葦毛の馬に跨った。
馬は苦手だった。乗るのも兵の補助がなければ満足にできない。
少しでも駆けようものなら、馬首にしがみついて手綱をロクに取れない始末である。

先代勇者「裏の雑木林に丸々と肥えた鹿がいるのだ。射止めた者に金の杯を与えよう!」

金など見飽きている。
うんざりしながら、軍師は先代勇者の後について裏手から外に出た。
バルフの北には広い牧草地と雑木林が広がっている。狩猟にはもってこいの環境だった。

間諜「ハイヤッ! ヤアッ!」

薬師が一番前に躍り出た。予想以上に馬術が上手い。どこかで習っていたのか。
爽やかな風を切り、三頭の馬が緑の草原を駆ける。雑木林が見えた。木々の間に、鹿の斑点模様が揺れている。

先代勇者「軍師、弓を射てみよ!」

軍師「はい!」

鞍に提げた弓を取り、矢を引き絞った。指が赤くなっている。
痛い。千切れてしまいそうだ。
ようやく放ったヘロヘロ矢、見当違いの方向へ飛んでいき音もなく地面に突き刺さった。

先代勇者「ははは、やはり軍師に弓は難しかったかな? よし、次は私の番だ。薬師は最後に射よ」

次に先代勇者が矢を放った。しかし、結果は軍師と同じだった。
馬を並べた軍師に苦笑で答える。

先代勇者「太ると昔のように弓を使えんな。こう見えて、現役時代は敵なしの弓使いだったのだが」

間諜「行きます」

それだけ言うと、薬師は馬腹を蹴って駆け出した。
背の矢筒から素早く矢を取り出す。弓の弦にかける。流れるような無駄のない動きだ。
薬師の放った矢は美しい弧を描き、鹿の左脚に吸い込まれていった。

先代勇者「おお、左脚に刺さったぞ! 惜しい!」

二の矢を番えようとした先代勇者を、薬師は片手で制した。

間諜「鏃にトリカブトの毒を塗っておきました。脳天に刺さらずとも、毒が回って死に至ります」

軍師「口から血泡が……。薬師、本当に死んでいるぞ」

先代勇者「薬だけでなく毒も扱えるのだな。恐れ入った」

間諜「トリカブトは毒にもなりますし、薬にもなります。使い方次第で、見せる顔が変わるのです。面白いとは思いませんか?」

先代勇者「君はまさしく、トリカブトのような女だ」

枯れ葉の絨毯に倒れた鹿の死体を見て、軍師は何故か不吉な予感に駆られた。
脚に刺さっただけで対象を殺す強力な毒。すでにバルフにも、毒は回り始めているのではないか。
気づいた時には、遅いのだ。

狩りから数日後。自室にて。
まだ軍師の胸には、漠然とした不安が広がっていた。
薬師は本当に信頼できるのか。政治や軍事にとどまらず、個人的な相談にも乗ってくれた、心優しい薬師。

何より、片頭痛を治した恩人である。

しかし、薬師にしては異様なほど様々なことに精通している。
館の中で自分と真剣に政治談議を繰り広げられるのは、薬師だけだろう。
そこが怪しい。

軍師「私は――――」

何十人もの仕事仲間に別れを告げてきた。皆、良き友だった。
先代勇者の浪費と理不尽な課税からバルフの町を守るためだ。
もし、薬師がスパイだとしたら。
その仮面を剥いで、主君の前に突き出すことはできるのか。

軍師「……何を考えている。あの薬師がスパイなど、あるわけがない。そもそも、敵である魔族は滅びた。東にある大唐国も同盟を結んでいる。誰が間諜を送り込むのだ」

間諜「こんにちは、薬師です。入ってもよろしいですか?」コンコン

軍師「入れ」

薬師が入ってきた。今日は茶色の髪を横に流している。
彼女は会うたびに、髪型を変えていた。
髪型の話から、自然と政治や地理の話に盛り上がっていくのだ。

間諜「軍師さん、顔色が悪いですよ。過度な労働はかえって効率が悪くなると、以前申し上げたはずですけど……」

軍師「違う。仕事量は減らした。別件で頭を悩ませている」

間諜「別件……と言いますと?」

軍師「先代勇者殿が夜な夜な、どこかへ出かけているようなのだよ」

間諜「どこかへ?」

軍師「うむ。宝物庫の方へ歩いていく姿を、昨夜見かけた。しきりに辺りを見渡して、注意を払っているようであったが」

間諜「御主人が何をなさっているか、知りたいのですか?」

軍師「町の将来に関わることだ。知りたいと思わぬ方がおかしい」

間諜「でしたら、私の補聴器をお使い下さい。壁の向こう側の物音まで聞き分けられる魔道具です。きっとお役に立つと思います」

薬師はヘッドフォンを外すと、卓の上に置いた。
怪訝な表情で声をかける軍師。薬師は彼の唇に人差し指を当て、パチリとウィンクしてみせた。
まるで『私は大丈夫です』とでも言うかのように。

真夜中、仕事を終えた軍師は卓上のヘッドフォンと向かい合っていた。
静寂。たまにコツコツと使用人の靴音が聞こえるが、それ以外は完全な無音状態である。
扉の隙間をすり抜けて一匹の蛾が迷い込んできた。ランタンの明かりにつられたようだ。しかし、音はない。静寂。

間諜『その魔道具、実は聴力の調整が難しいんです。聞いてはいけないあんなことやそんなことが、四方八方からダダ漏れ……。くれぐれも、扱いには気をつけてくださいね」

軍師「薬師はああ言っていたが、そこまで酷いものだろうか。試しに、レベルを最大に合わせて聴いてみるとするか」

軍師は補聴レベルを最大の5にセットし、両耳に装着した。

『あいうえお~かきくけこ~さしすせそ~』
『おい、やめろ! 俺がお前に何をしたっていうんだ! いきなりビンタは酷いだろう!』
『何をしたかですって? 自分の耳に聞いてごらんなさいよ、この浮気者!』
『眠いよぉ……』
『間諜、上手くやってるかな。なぁ魔女、あいつに任せて大丈夫なんだよな?』
『お頭、こんな町中に堂々と来ていいんですかい? バレやしませんかね』
『鉄門で待つ子分のためだ。黙って従え。見ろ、あれが先代勇者の館だぜ』
『酔っ払ってナニが悪ィんだよォ! あッ、やめ……くそおおおおおおおおおッ!!!』
『ちゃんと勉強して試験に合格しないと、立派な役人にはなれませんよ。ま、たまーに、身分が低いせいで苦渋を舐めることはありますけれどね。坊ちゃんには関係ないでしょ』
『急がねば、取引の時刻に遅れてしまう』

軍師「なんだ……これはッ……!」

一気に世界が開けた。狭くて暗い書斎から、急に町の大広場につまみ出されたような感覚。広場には大勢の人間がいて、それぞれが大きな声で唾を飛ばし合っている。
何より。

軍師「蛾の羽音がうるさい! 頭が割れそうだ。これはたまらん!」

安眠妨害には丁度いい。軍師はヘッドフォンを外すと、疲れ切った顔でレベルを2まで下げた。これなら、聞こえる範囲も絞られる。

書斎を出た。
昼間は煌々と明るい黄金の廊下も、先代勇者の像も、陽が落ちれば忽ち鉱物に成り果てる。
色を失った世界を、軍師は一人歩いてゆく。
ぼんやりと光る明かりが見えたので、軍師は像の裏に隠れた。

軍師(誰だ……?)

廊下を歩いている内に、ロビーへ出ていたようだった。
玄関口から訪れた客人を、最初に迎える場所だ。

先代勇者『急げ急げ。遅れるわけにはゆかんのだ』

軍師(やはり先代勇者殿……どこへ向かっている?)

先代勇者が持つランタンの動きを見守る。
昨晩と同じく、彼は広間の中央にある階段を足早に上っていった。
突きあたりで左に曲がる。館の西側に向かっているのだ。

軍師(目的地は宝物庫か。自分の所有物を愛でるつもりなら、人の目を気にする必要もないだろうに)

ガチャガチャと宝物庫の鍵をいじる音が聞こえる。
急に足音が増えた。高いヒールの音だ。宝物庫に何かを運び込んでいるのかもしれない。

闇商人『誰にも尾けられなかったですか?』

先代勇者『ああ。それに宝物庫は完全な防音仕様だ。間違っても我らの会話が外に漏れることはない』

軍師(壁を通して聞こえているがな……)

闇商人『二箱分でよろしいですね。ヒヒッ』

先代勇者『十分だ。金貨5000枚だったな? ここにある。持っていくがいい』

軍師は目を見開いた。
金貨5000枚と言えば、庶民が必死に50年働き続けて、ようやく手にできるか否かの金額だ。
税をかけてもバルフの財政が豊かにならないのは、先代勇者が裏で闇商人と取引をしているためだったのだ。

軍師(何の取引だ? 話せ、一体何の取引をしている!)グッ

闇商人『それでは、私はこれで……。存分にお楽しみくだされ。ヒヒッ』

先代勇者『いつもありがとう。お前には助かっている』

闇商人『こちらこそ助かっております。最近、ガンジャも取り締まりが厳しくなってきましてね。自由に商いができなくなっているのですよ』

先代勇者『私は最高のお客様、というわけだな』

闇商人『そういうことです。ヒヒッ』

軍師(ガンジャだと……?)

間諜「ガンジャ? あー、麻薬ですね。それ」

翌朝、事情を聞いた間諜は即答した。麻の花弁を乾燥させて作った麻薬を、ガンジャと呼ぶのだという。魔王を倒した先代勇者が、大麻の違法取引に手を染めている。

軍師「知りたくなかった。バルフ候は今までずっと、私を裏切っていたのだな」

間諜「軍師さん……」

軍師「私だけではない。バルフの町そのものを、陛下の懇意までも裏切っていた!」

拳で卓を思い切り殴りつけた。拭けども拭けども、目から涙が溢れ出す。自分が敬っていた先代勇者は、ちょっと世間知らずでも、町民想いの優しい英雄だった。
数年で、人はこうも変わるものなのか。

軍師「こんな体たらくでは、辞めていった仲間に申し訳が立たん……」

間諜「仕える主君を誤ったのです。本当に、気の毒だと思います」

軍師「そうだ。私は主君を選ぶ能力が無かった。よりによって、大麻に手を出す太ったババを引いてしまうとはな……」

間諜「あなたには道が二つ残されています。来週、アルマリク王のバルフ視察会がありますよね。そこで麻薬取引の件を暴露するか」

間諜「このまま目を瞑り、偽りの主君と共に滅びゆくか。どちらかです」

軍師「暴露するのは勇気がいる。場合によっては、私も捕縛されるやもしれん」

間諜「では、目を瞑るのですね? 遅かれ早かれ、バルフの主君は代替わりします。必ず。その時、あなたは先代勇者と一緒に罪人として首を斬られてしまうのですよ」

間諜「運命の分岐点です。先代勇者と共に死ぬか、私達と共に新たな世界を作るか」

軍師「薬師……お前、何者だ?」

地の文で薬師が間諜になっている部分がありますが、凡ミスなので気にしないで頂けると助かります

―1週間後―

黄金色の魚鱗鎧を身に着けた軍隊が、堂々と町を練り歩く。
アルマリクの視察団が到着したのだ。先頭に立ち案内するのは、先代勇者と軍師である。
心なしか、先代勇者の顔は蒼ざめているように見えた。

隊列の中央には、白馬に乗った赤衣の男がいる。あれがアルマリクの王だろう。
身体こそ栗鼠のごとく小さいが、瞳は猛禽のごとく鋭い。
それゆえ、体躯に似合わぬ異様な覇気を放っていた。

王の後ろを進むのは側近だ。
アルマリクの宰相として、国王と共同統治を行っている。
白い羽根つきターバンと細長い顎髭が目立つが、その特徴が霞んでしまうほど、背が高かった。
ゆうに二メートルは超えている。
人間離れした背の高さは、王と異なる不気味な威圧感を周囲に与えていた。

好奇心旺盛なバルフの民も覇気に圧されたのか、建物の陰に隠れて見物しているようだ。

魔女「視察団、やっと来たね。王と側近の凸凹コンビ。厳しい峠越えご苦労さん。ご褒美に、面白いショーを見せてあげるよ」

食堂の二階である。勇者、魔女、間諜の三人は視察団の列を見下ろしていた。
卓上の皿に、串焼き肉が六本。剣を模した鉄串は、持ち手が螺旋状にねじれている。
勇者はねじれた持ち手を掴むと、一番上の鶏肉にかぶりついた。

勇者「あっつ! 水無い? 絶対口の中やけどするわ、これ」

隣に座る間諜が、すかさず冷水の注がれたコップを差し出す。

間諜「私の、まだ飲んでないんで使ってください!」

勇者「おー、ありがとう。よしよし」ナデナデ

間諜「勇者さんの手、あったかいです……むふふふふ」

魔女「緊張感の欠片もないね、ボク達。これから町を奪うのに」

勇者「今さら緊張しても無意味だからな。淡々と仕事をこなすだけさ」

魔女「で、調略は上手くいったのかい?」

間諜「バッチリでーす! ぐんひひゃんはほふほっひははへふ! ほーはひへんふぁっふぁへふはは!」モグモク

勇者「肉を口に入れたまま喋るなよ。何言ってるんだ?」

魔女「軍師さんはもうこっち側。引き込むのが大変だった、かな?」

間諜「ビンゴ!」

一通り町を回った後、大広場にて先代勇者が王に対し感謝の意を述べる。その時が狙い目だ。
アルマリクの王に、集まった観衆に、麻薬の取引も含めて先代勇者が行った数々の悪行を暴露してやるのだ。
タイミングが重要だった。

勇者(かつての仲間を討つ。魔女にとっては辛い戦いになる)

勇者「魔女」

魔女「ん、どした?」

勇者「……作戦、成功させような」

魔女「既に水面下で戦争は始まってる。一度走り出したら、もう立ち止まれない。どんな手段を使っても、ボクはこの戦に勝ってみせる」

勇者「ああ」

間諜「私もです!」

魔女「じゃ、そろそろ行こう」

三人は同時に席を立った。魔女が左手を出す。間諜がその上に手を重ねた。最後に、勇者がそっと手を重ねる。

勇者「よーし、いっちょ叛乱でもするか!」

手筈は整った。ガンジャはとっくに宝物庫から運び出している。
昨夜、薬師の紹介で大富豪の屋敷へ案内された。
薬師が本当は手練れの間諜であることも、耳が聞こえないのが嘘であることも、そこで知った。
それから、魔女が国家転覆のため密かに動き回っていることも。
驚いたものの、先代勇者に報告する気はなかった。
麻薬取引の現場を目撃してから、先代勇者に尽くそうという感情が綺麗さっぱり消えていたのだ。

軍師(バルフの民だけではない。国中の民が、上層部の贅沢三昧を支えるのに苦しみ喘いでいる。馬鹿げてはいないか。そう大富豪は言った。まったくだ。馬鹿げている。だが……)

軍師はちらと国王を一瞥した。軍師の視線に気づいた国王が、刺すような眼光で睨み返してくる。

国王(図に乗るでないぞ、小童。貴様ごとき鼠輩の考えることなど、余は見抜いておるのだ)

そう、釘を刺されたような気がした。逆らえば待つのは死。
この国王を相手に、叛旗を翻すのは無謀すぎる。
軍師は前を向き、手綱を握りしめた。
どれだけ強く握りしめても、震えは止まらなかった。

時計回りに町を巡り、視察団は大広場に辿り着いた。
演説台の周りは英雄の言葉を聞きにきた民衆と護衛のための守兵でぎっしり埋まっていた。
魔女と勇者も聴衆の中に交じっている。
白い魔女帽が目印だ。

国王「王都アルマリクから険しい山を越え、遥々この地まで足を運んできた」

挨拶が始まった。最初にアルマリクの王、側近。次に先代勇者、最期に軍師という順番である。
軍師は告発の機会が与えられたことを感謝した。

先代勇者「こんにちは。私は魔王を倒し、陛下より爵位を賜ってから精進に精進を重ね……」

先代勇者の挨拶が終わった。

軍師「……最初に、神に懺悔をする時間を頂きたい」

先代勇者が身じろぎするのが、視界の端に映った。無難な挨拶をするつもりだったのだ。懺悔と来ては驚くのも無理もない。

軍師「陛下、側近殿、ならびに広場に集まって下さった町民の皆様方。私がこれから語るのは、いずれも真実です。紛れもない事実」

ハーレムを作り、妾一人当たりに数千枚の金貨を与えていたこと。
異常なまでの課税を繰り返していたこと。
麻薬取引をしていたこと。
民の畑を取り上げ、自分専用の劇場を建設していたこと。
軍師は先代勇者の罪を列挙していった。全て打ち明けるには、夕方までかかるだろう。
それほどの過ちを、先代勇者は犯したのだ。

先代勇者「神聖な場であるぞ、軍師!」

先代勇者が立ち上がった。顔に引きつった笑みを貼り付け、用意された玉座に座る国王へ目を遣る。

先代勇者「証拠もなしに妄言を吐くでない。陛下、この者は感極まっておかしくなっているのです。どうか、お気になさらぬよう」

側近「感極まって主人の罪を告発する臣下がどこにいる。軍師殿、麻薬取引の証拠を提示せよ」

軍師「承知しました。おい、あれを持ってこい」

軍師は部下に命じて、ガンジャの入った箱を二つ運ばせた。

先代勇者「なッ……!」

箱に刻まれた黒い羊の紋章を目にした途端、先代勇者は力が抜けたようにへたり込み、両手で頭を抱えた。

先代勇者「こんな大事な時に……何故だ、軍師! やめてくれ……やめてくれ……! もうやめてくれ……!」 

側近「ガンジャですな。大麻の花を乾燥させたものです」

さらにダメ押しで、間諜から預かったヘッドフォンを取り出す。

闇商人『誰にも尾けられなかったですか?』

先代勇者『ああ。それに宝物庫は完全な防音仕様だ。間違っても我らの会話が外に漏れることはない』

闇商人『二箱分でよろしいですね。ヒヒッ』

先代勇者『十分だ。金貨5000枚だったな? ここにある。持っていくがいい』

軍師「この太った男は、民から巻き上げた税を自らの贅沢に使うのみならず、国で禁じられている麻薬取引にまで回していたのです」

聴衆がざわめきだす。バルフの民にとって、先代勇者は英雄だった。
親は正義の象徴として子に語り、詩人は光の象徴として歌い、貴族は頼れる友人として持ち上げたものだ。

「……裏切り者が! 金返せ!」
「重労働で夫が死んだ。あんたに殺されたようなもんだよ」
「町が賑わってるからって、呑気していたのか! 豚野郎!」
「テメェの仕打ち、墓場まで持っていってやるよ」

先代勇者「ぐうッ……どうして、こんなことに……」

国王「とんだ一日になったのう、バルフ候。最後の最後にやらかしてくれたな。一応、弁明を聞いておこうか」

肥った男はゆらりと立ち上がると、国王と側近を見据え、胸に秘めた思いを吐き出すように捲し立てた。

先代勇者「ここまでされては、弁明の余地もありません。私は、確かに闇商人と取引を行いました。軍師が述べたことも認めます」

側近「なぜ、このようなことをした? 民の姿が見えなかったのか?」

傍で聞いていた軍師は、思わず苦笑しそうになった。
好き勝手に振る舞う貴族を野放しにしている国王も、民を苦しめる点では先代勇者と大して変わらないではないか。
茶番過ぎる。

先代勇者「……恐ろしかったのです。魔王との最終決戦。戦場となったバルフでは、多くの民が死にました。落ちてきた瓦礫に潰され、炎に焼き尽くされ、魔物に襲われて」

先代勇者「私が殺したようなものです。たとえそれが戦禍によるものだとしても」

先代勇者「寝床につくと、死んでいった民の悲鳴、怨恨、呪詛が耳に響いてくるのです。勇者だと信じていたのに、なぜ救ってくれなかったのか。なぜ助けてくれなかったのか、と」

先代勇者「何ヶ月も放蕩に耽りました。遊ぶことで私は亡霊の責め苦から逃げていたのでしょう。幸いにも、陛下から頂いた金銀財宝は掃いて捨てるほどありましたから」

側近「そして最終的には違法薬物にまで手を出した……と」

国王が首を横に振り、かすかな声でつぶやく。

国王「魔王を倒した勇者が、逃げたか。非常に残念だ。かつての英雄を殺さねばならんとはな」

下された判決は、極刑。
両手両足に縄を縛り付け、馬で四方向に牽引する八つ裂きの刑だ。バラバラになった四肢は首と共に台に載せられ、三日間バルフの大広場に晒される。
死してなお、許されることのない罪。
意外にも、先代勇者の顔は穏やかだった。

先代勇者「……魔女。今度こそ、本当のさよならだ」

魔女「意外だね。もう少し悪あがきすると思っていたよ」

先代勇者「どこか心の片隅で自分に嫌気が差していたんだ。私は責任を取る。自らの命を以て、罪を償う。いや、死さえも逃げ道のひとつに過ぎないのかもしれない。最初から最後まで、駄目な男だった」

魔女は首を横に振った。

魔女「覚えてる? 海辺の町で、靴を片方無くした女の子に出会った時のこと。名前も知らないその子のために、キミは泥と埃まみれになってずっと靴を探し回ってた。新しい靴を買ってあげれば済む話なのに。戦士と僧侶も驚いていたよ」

勇者「まだレベルが一桁台の頃だったな。覚えてくれていたとは、驚いたぞ」

魔女「あんなに真っ直ぐで、誠実で、優しかったキミを誰が忘れたりするものか。今でもその本質は変わっていないと思ってる」

魔女「ただ、色々なものを背負い過ぎた。背負った物の重さに耐えきれず、自分を見失ってしまった」

先代勇者「私は、死ぬことで初めて自分を取り戻すのだな」

先代勇者「一足先に、酒場で皆を待つことにしよう。また四人揃ったら……あの時みたいに一緒に旅してくれるかな」

魔女「謝罪行脚、だね」

先代勇者「遅れたら置いてくぞ」

両手に枷を嵌めた先代勇者は、五人の兵に囲まれて大広場から離れていった。
詮議の後、刑を執行されるのだろう。
救国の英雄と称えられ、ありとあらゆる栄華を手にした男の、哀れな最期であった。

六行目ミス
×勇者
○先代勇者

国王「女神の加護を受けていようと、所詮は大工の息子。生まれついての卑しさだけは、抑えることができなかったようだな」

側近「陛下、上流貴族の中から後任を決めねばなりませぬ」

魔女「その必要はない!」

水を打ったように場が静まり返った。
涙を見せる者も、怒りを露わにする者も、興味本位で覗きに来た野次馬も、皆の視線が一斉に魔女の方へ注がれた。
先代勇者の仲間だったこの女が、次に何を話すのか。国王の挨拶よりも気になって仕方がないようだ。

魔女「さ、檀上に上がろう。こっからはキミの出番だよ」

勇者は魔女に手を引かれて、壇上に上がった。
玉座の前まで進む。
勇者と魔女が、玉座に座る王を見下ろすという絵になった。
近衛兵が二人に穂先を向ける。いつ突き殺されても、おかしくない。

勇者「今日から俺が、バルフの町を治める」

魔女「……とまぁ、そういうことになったんで。よろしく」

側近「ぶッ……無礼者! 陛下を見下ろすだけでも大罪だというのに、加えて自分が陛下と対等であるような物言い……万死に値する! 捕えよ! 先代勇者共々、引き裂いてしまえ!」

国王「落ち着け、側近。魔女も何か、思う所があるのだろう。しかし妙であるな。余が爵位を授けるのは、縁のあった者のみ。その者は、ただの町人ではないか」

魔女「ただの町人? 分かってないなぁ、彼の目をよく見てごらん」

国王「瞳の中に……五芒星……?」

魔女「そう、五芒星は勇者の証。新しい勇者が生まれたんだよ。数年ぶりにね。魔族は滅びた。当面の危機は去った。なのに、どうして邪を退ける勇者が生まれたんだろうね?」

魔女は暗に国王の政治を批判しているのだ。
神は悪政を断つために、英雄を遣わした。
魔女の意図を読み取ったのは、国王と側近だけだった。
殺気立つ側近とは対照的に、国王は静かに魔女を見つめていた。

国王「勇者の役割は、邪を退けるだけでない。国を繁栄させる、豊穣の使徒でもある。勇者よ、余は貴様が生まれたことに感謝しよう」

側近「陛下、あの者を勇者と認めてよろしいのですか!」

国王「瞳の五芒星を見せられた以上、認めぬわけにはいくまい。先代勇者が腰に佩いていた聖剣をここに持ってこい」

側近「あなた、この状況を愉しんでいますね? 新生勇者誕生という新たな出来事に心躍らせていますね? 厳しそうな顔をしていても、闘気で分かるんですよ、闘気で」

国王「おや、貴様には理解できんかな。さらなる刺激を、さらなる好敵手を求める武人の気質が」

側近「理解できませんな! ホレ、持ってきましたよ。これでいいんでしょ、これで。さっさと鞘から抜けばいい」

半ば押し付けるように、聖剣を渡された。
銀色の鞘に、山羊の紋章がひとつ。
頭上ではためく旗にも、同じ紋章があった。

国王「聖剣に相応しい男となれ」

勇者「ああ、きっとその時……」

国王「天がどちらに味方するか、分かる」

再び大広場が静謐に満たされた。誰もが固唾を飲み、勇者を見守っている。

勇者「……よし」

勇者は剣の柄を握りしめ、ゆっくりと引き抜いた。
溢れる光。高鳴る鼓動。刀身がまばゆい光に包まれている。
剣を頭上に掲げると、その輝きはさらに強さを増した。
天地をあまねく照らす伝説の聖剣。

「す、すげぇ……」

「伝説の聖剣、初めて見た……やっぱりあの子、本物の勇者様なんだ……」

「死ぬ前にもう一度聖剣を目にできて、わしも悔いがないわい」

誰かが拍手をした。

一つ、また一つと拍手の音が増えていく。

「「「勇者万歳! 勇者万歳!」」」

地が激しく震えた。
町全体がひとつの生き物となって、叫び、歌い、踊り、そして産声をあげた。
バルフという町は生まれ変わったのだ。

側近「ここまで歓声が沸くとは……。先代の統治はどれだけ腐っていたのでしょう。想像がつきませんな」

国王「民は勇者なら誰でも良いのじゃろうな。自分達の境遇が良くなるなら、鼻たれ小僧でも崇め奉る。その代わり、前と変わらなければ袋叩き。どう乗り切るか、見ものだな」

undefined

歓声が落ち着いたところで、国王は重々しく口を開いた。

国王「勇者、貴様を二代目バルフ候に任ずる。ただし」

側近「なりませぬ! 勇者とは言え、どこの馬の骨とも知れぬ町人に爵位を与えては、上流貴族や高級役人の反感を買いますぞ。それに」

国王「貴様は黙っておれ。ただし、少しでも怪しい動きを見せれば即刻、爵位を剥奪し国外へ永久追放する。庶民が身分の差を越えて自治権を得るのだ。これくらいの条件をつけねば、王都の民が口を出してくるのでな。嫌だと言っても飲んでもらうぞ」

勇者「ああ、いいとも」

元より、爵位など捨てる気だった。
欲しかったのは、拠点となる都市だけだ。
勇者の意図は国王も見抜いていたらしい。
見抜いた上で戦を愉しむために、あえて勇者を泳がせているのだ。本気を出せば、叛乱軍の鎮圧など蟻を踏みつぶすのと同じだった。

国王「翌朝、発つ。各自、出立の準備をしておけ。これにて閉会」

側近「陛下、あなたの判断が正しかったのかどうか。私は心配でなりません。どうか、道を踏み違えませぬようお願い致しますぞ」

国王が立ち去ると、観衆も波が引くように広場から離れていった。だが、熱気はまだ残っている。
壇上から降りた勇者に、間諜が真っ先に飛びついた。

間諜「カッコよかったです、勇者さん! 思わず見惚れちゃいましたぁ! いや~、聖剣ってホントすごいですね~!」

勇者「町の長になったはいいけど、国王と変な約束しちまった」

魔女「都市を奪ってしまえばこちらのものさ。勇者軍には大富豪という強力なパトロンがいる。キミだって立派な広告塔だ。どんどん人が集まるよ。いずれ、王国軍にも太刀打ちできるようになるはずさ」

軍師「甘いな」

棘を含んだ声。壇上で、軍師が腕を組んでいた。

軍師「バルフには足りない要素が多過ぎる。人が増えれば土地が無くなる。廃屋を改築すれば何とかなるが、それでも収容できるのは僅かだ。大富豪の蔵だって、無限に金が湧いて出るわけではない。物流の動きを把握する文官も足りん。兵も足りん、武器も足りん、物を運ぶ輜重車も船も足りん!」

間諜「今まで何やってきたんですかー? 軍師さんの脳も足りん」

軍師「なにッ、この小娘が。薬師だと騙していたこと、忘れたとは言わせないぞ」

間諜「えぇー……まだその話持ちだすなんてドン引きなんですけど……。あれはただの騙しじゃなくて、敵の懐に潜り込むための戦略的変装ですッ! あと軍師さんも見た目子供でしょー」

勇者「やめろ、間諜。軍師の言う通り国家と闘うには、今のバルフはあまりに小さい。ゼロからの出発だ。だから、お前達の力を貸してほしい。みんなで協力し合って、足りないところを埋めていこう」

夜。勇者は先代勇者の館から出ると、両手を上に突き出し、気持ちよさそうに背伸びした。そよそよと初夏の風が吹く。既に、あちこちの草むらで虫達の演奏会が始まっているようだ。

勇者「いつ聞いても飽きないな。虫の声は」

夕食の後、書斎で軍師と話し込んだ。戸籍の確認、資力調査、医療保険制度の刷新。先代勇者の治世と差別化を図るために、勇者も軍師も躍起になって様々な案を出し合った。

大富豪と間諜は陽が沈む前にバルフ郊外の屋敷へと戻った。大富豪が間諜に、ぜひ頼みたい仕事があるのだという。恐らく、タシケント北部の写生工場についてだろう。おおよその見当はついていた。

剣を鞘走らせる。風を切る音が鳴り響く。しかし、迷いはまだ断ち切れない。目の前に靄のごとく漠然と漂っている。魔女も軍師も大富豪も間諜も妹も、みな何かしらの才能がある。自分は才能などない。妹の学費を捻出するため実直に働いてきた平凡な少年だ。

国王『その者は、ただの町人ではないか』

国王の何気ない一言が、胸の奥に刺さった。なぜ神は自分を選んだのだ。主役に相応しい傑物なら、他にいくらでもいる。

例えば魔女。彼女の影響力は絶大だ。地方都市の教師で終わる人間ではない。魔女と共に闘った戦士や僧侶もいいかもしれない。彼らはなぜ勇者になれなかった? なぜ自分が? 

勇者の妹「おにーちゃん♪」

勇者「ああ……お前か」

勇者の妹「久しぶり。元気してた?」

勇者「まぁな。大役に抜擢されたこと以外は、変わりない。お前はどうだ、小説の方は書けたのか」

勇者の妹「うん、大富豪さんに見せてOKもらったよ。あとはタシケントでひたすら印刷するだけだって」

勇者「良かったな。立派な作家だ」

勇者の妹「……うん」

勇者「……」

勇者の妹「ちょっと散歩しない?」

二人は手を繋いで暗い夜道を歩いた。妹の手は温かった。
いや、自分の手が冷えていたのかもしれない。身体も、心も、冷えている。

勇者の妹「綺麗……」

丘に広がる花畑は月光の中で、神秘的な煌きを放っていた。
赤いドレスをまとったチューリップ。
儚げに揺れるカスミソウ。
青い調べを奏でるカンパネラ。
その中に佇む妹は、まるで花の精のようだった。

妹が仰向けに寝転がった。勇者も隣に横たわる。
しばらく二人は無言で、夜空の星々を見上げた。

勇者の妹「星の光にも、色々あるんだね」

勇者「星の光?」

勇者の妹「パッと強く輝いてすぐに消えちゃう星と、ぼんやりした光でも中々消えない星」

勇者「人生に近いものがあるな」

勇者の妹「そうだね。魔女さんは強く輝いて消えちゃう星。軍師さんと大富豪さんはぼんやりした星……かなぁ」

勇者「俺はどっちになるんだ?」

勇者の妹「どっちでもない。お兄ちゃんは太陽だよ。ずっと長く中心でみんなを照らし続ける太陽。きっとなれるよ。お兄ちゃんには人を惹きつける、不思議な魅力があるんだもの」

勇者「不思議な魅力、か。いまいち実感が湧かないけど、ありがとう。元気づけてくれたんだな」

勇者の妹「すごく怖い顔してたから……。もう大丈夫?」

勇者「ああ。お前に励まされて、少し気が楽になった」

勇者の妹「じゃ、あとでサンドイッチ買って」

勇者「バカ、何時だと思ってるんだ。また明日な」

勇者の妹「うん。おやすみ、私のお兄ちゃん」

妹の気配が消えた後も、勇者は花畑で星を眺めていた。

~翌朝~

先代勇者の首と手足が盆に乗って、卓の上へ運ばれた。
蠅が飛び交っている。どこに卵を産み付けようか、迷っているかのようだ。
腐りかけた肉の臭いにつられて、野犬も集まってきた。
その野犬を、そばに立つ兵が棒で追い払う。
あくまで晒し物、見せ物であるため、喰い荒らされたりしては困るのだ。

女「飲食店の前で死体を晒すかね、普通。あたしには勇者様の感性が分かりかねますよ。ねぇ、お頭」

女が吐き捨てるように言った。骨付き肉を掴む右手の指には、宝石の指輪がずらりとはまっている。
尖がった鼻や日に焼けた褐色の肌からして、出身地は南西の方であるのだろう。

男「よく見ておけ。人は死んだら魔族に化けるだとか、魂が抜けて天に昇るだとか、いい加減なことを言う輩がいる。そんなのは全部嘘ッぱちだ。何も無くなる。俺らが今喰ってるメシと同じ、ただの肉になるんだよ」

お頭と呼ばれた大柄な男は、ビールを豪快に飲み干した。
女と違って派手な衣装ではないものの、鍛え抜かれた肉体やもじゃもじゃの髭が人目を引く。

女「じゃあ、どっか別の世界に転生ってのも」

男「あるわけねぇだろ。ただの妄想だ」

女「なんだか、あの世に持っていけないんじゃ、いくら金をせしめても無駄な気がしますねぇ」

男「阿呆、俺らが金を奪うのは下の世代を生かすためだろうが。誰が自分自身のためと言った。さっさと喰え。鉄門に戻るぞ」

女「あーあ、収穫ナシなんて野郎共に顔が立ちやせんよ」

男「そういう日もある。いつも満たされた暮らしを送っていると、人は次第に慣れる。すると、少し生活水準が落ちただけで不平不満をぬかすようになる。面倒事はテメェも嫌だよな」

女「帰りに野ウサギ見つけたら、獲ってってもいいですかい?」

男「好きにしろ」

ここでプロローグは終了となります

勇者が魔女と一緒に旗揚げして、金持ちと頭脳を味方につけて、叛乱の拠点を奪い取った

という流れです

「わあッ」

派手な音をたてて、荷車が倒れた。
積んでいた壺のふたが外れ、茶色い液体が飛び散る。
強烈な悪臭。
鼻が曲がりそうになるほどだ。
悲鳴があがり、たちまち自分を取り囲む人の輪が完成した。

便所掃除「うわー……やっちまった。最悪だ……」

転がっている壺を荷台に乗せ、もそもそと上着を脱ぐ。
四角に折り畳み、流れた糞尿を拭き取る。
染みついた糞の臭いは一生取れない。
もう二度と、この服を着て外を歩くことはないだろう。

町民A「ったく、道にウンコぶちまけんなよな。くせぇよ」

子供A「くっせー! ゲロ吐きそう、オエ!」

令嬢「ごほッごほッ、なんて酷い臭いなのでしょう。この殿方は、一体何を運んでいらっしゃるのですか?」

便所掃除(オメェらのケツから出た搾りカスだよ!)

一刻も早く、この場から立ち去ってしまいたかった。

便所掃除は、王都アルマリクから派遣された駐屯兵300名の一人だった。
他の怠け者と違い、それなりの鍛錬を積んでいる。

全て、虚飾と謀略に満ちた貴族の世界から抜け出すためだ。
腹を割って話せる、本物の友を得るためだ。

毎朝王都の周りを走り、昼は書見、夜は槍と乗馬の訓練。
騎馬兵になるための練習を隙間なく詰めた。
そして念願の王国騎馬隊に所属され、バルフの防衛につくよう指示が下された。

はずだった。

軍師「お前の仕事は便所掃除だ」

バルフに到着し渡されたのは槍ではなく、糞尿を汲み取るための柄杓だった。
怒りに我を忘れ、軍師の胸ぐらをつかんだ。

血が滲むような努力の末、やっと騎馬隊の一員として認められた。
なぜよりによって、人間の下の始末をせねばならないのか。
机に座っているだけのお前に、何が分かるのか。

軍師は一人の男を呼んだ。
齢16、7の少年。
身体の線がほっそりしていて、風が吹けば飛んでしまいそうだった。
その割に、瞳には体躯に似合わない強い光が宿っている。

所属されじゃない
配属され、だ

細かいミスが目立つ……

軍師「こいつの胸を突け」

本物の槍を使っての試合。相手の得物は剣のようだ。
剣と槍では、こちらに圧倒的な分がある。
相手の胸を突く。つまり、この場で殺すということ。

勇者「こい。死ぬ覚悟はできている」

少年が剣を構えた。
こちらも腰を低く落として槍を構える。
血は沢山出るのだろうか。
痛みで転げまわるのだろうか。
死にたくないと命乞いをするのだろうか。
母と父の名を叫ぶのだろうか。

嫌な汗が背中を伝った。
かぶりを振る。
恐れる必要はない、訓練用の人形と思えばいい。
一回突いて、それで終わり。
死ぬ間際の様子を想像するからいけない。

行け、行け、行け!

奇怪な雄叫びをあげて突きかかった。
ドンと床を踏みしめ、一気に加速する。

少年も剣を振りかぶった。胴の守りがガラ空きだ。
どこからでも突き放題。便所掃除などやってたまるか。
自分は兵である前に、貴族である前に、一人の人間なのだ。

勇者「……あいつ、どこに向かって走ってるんだ?」

軍師「知らん。周りが見えていないようだな。呆れた男だ」

軍師「お前のような腑抜けに兵は務まらん」

勇者「まぁ……便所掃除も素晴らしい仕事だよ。集めた糞は肥料になるし、敵に城を攻められた際、足止めとしても使える」

これまで自分がやってきた努力は何だったのか。
二人の言葉を思い出すたびに、悔しさが腹の底で渦を巻く。

便所掃除「はは……どこが素晴らしい仕事だっつの」

一日に数回、街中の家々を訪ね、便所から糞尿を汲みだす。
糞尿の入った桶を荷車に乗せ、肥溜めまで運ぶ。

町の付近を流れるアムダリヤ川にぶちまけてしまうのも処理方法の一つだったが、軍師が許さなかった。

アムダリヤ川は、バルフの民にとって貴重な水源だ。
風呂、炊事、洗濯。生活の基本となる様々なことに用いられる。
糞が混じれば気分の問題だけでなく、感染症を引き起こす恐れもあるのである。

便所掃除「魔王が暴れていた頃だったら、俺は兵士として戦地に出撃できていたのか?」

異形の者であれば、躊躇いなく突き殺せる。
相手が人間だったからだ。二十にも満たない子供だから、情が優先して殺せなかった。

しかし、勇者軍にいる以上、人間同士の戦いは免れない。

勇者がパーティーを組んで魔族と対峙する構図は、もう過去の遺物なのだ。

やっと三度目の便所巡りを終えた。
肥溜めの蓋を閉め、回収に使った桶と壺を洗い、便所掃除の一日は終わる。太陽は山の端に差しかかっていた。橙色の光に染まる街を、便所掃除はぶらぶらと歩く。

行き先は丘の上にある兵舎だ。厳密に言うならば、丘の上にある兵舎の傍にある幕舎。
あまりに身体が臭かったせいか、兵舎に入ることすらできなかった。とはいえ名簿上は騎馬隊の一人なので、兵舎の隣に小さめの幕舎を張り、そこで暮らしているのだ。

便所掃除「あー肩がいてー。明日も頑張らねーとなぁ……」

ここは風雨を凌げるし、個室なので人の目を気にせず、のんびり過ごせる。だが、ひどく惨めだった。幕舎は目立つので、時おり騎馬兵がからかいに訪れる。ろくに訓練もせず、毛並みの良さだけで騎馬隊に入隊した、兵士の風上にも置けない者たち。

便所掃除「俺はあいつらとは違う。違うんだ。いつかこんな仕事ともオサラバして、戦場で槍を振るってやるんだ」

便所掃除は槍を手に取ると、幕舎の外に出た。
兵舎の二階から、がやがや笑い声が聞こえた。
辺りの静けさが、一層濃くなった気がした。

花畑の中央に立った。ここからだと、町の景色がよく見える。空を仰げば、群青色の深い夜がすぐそこまで迫っていた。
目を閉じ、息を吸い込む。大地の気を全身で受け止める。こうすると、五感が普段より何倍も研ぎ澄まされるのだ。

便所掃除「ふうぅ……」

ここに、敵がいる。甲冑を着ているものの、顔は分からない。自分を馬鹿にした貴族にも、浪費ばかりする国王にも、先日対峙した少年にもなった。

便所掃除「疾ッ!」

気を放つと同時に、槍を繰り出す。空気が低くうなる。外したか。腰を低く、一歩踏み込む。斬撃が来る。縦か横か。

便所掃除「横だッ!」

頭を下げて斬撃をかわす。隙ができた。懐に飛び込み、素早く二連突き。左胸に穴を開けられた敵は、血を吐いて地に倒れ伏すーーー

勇者「やるじゃん」

少年の声に、便所掃除は動きを止めた。

勇者「綺麗だよな、この花畑。気分転換したい時、よくここに来るんだ」

便所掃除「先日は世話になった」

勇者「そんなに強いのに、どうして俺のこと突けなかったんだよ」

便所掃除「お前が死ぬ姿を想像しちまってさ……。家族も悲しむだろうし」

勇者「お前、優しいんだな。敵の家族のことまで心配できる奴、初めて見たよ」

便所掃除「優しいだと? 笑わせんな、人より臆病なだけだ。そんなことは分かってる。自分が甘いってことぐらい……」

便所掃除「だが、やっぱダメなんだ。人形は大丈夫でも実物を前にすると、色んなこと考えて尻込みしちまう」

便所掃除「あーあ……どこまでいっても、所詮は兵士気取りの貴族止まりか」

便所掃除「いや、今は貴族ですらねぇ。便所掃除っつー、誰もが嫌がる仕事に身を落とした大馬鹿野郎だ」

ぐうぅ。
便所掃除の腹が鳴った。
そういえば、朝から何も食べていない。

勇者「とりあえずメシ、行くか」

勇者は笑って便所掃除の肩を叩いた。

だらだら続けても中身ないんだからさっさとオチを付けろよ

>>98
まだ序盤の序盤なので、オチつけるまでは時間がかかりそうですな

丘を下り、少し歩いた場所にその食堂はあった。
赤煉瓦を積んだだけの、簡素な二階建てのレストランである。
旗に施された刺繍は、蒼い三日月。

勇者「俺行きつけの食堂・キャラバンサライだ。飯だけじゃなく、隊商宿や郵便、妓館まで何でもやってる」

便所掃除「俺の身体……糞の臭いがするんだぞ。洗っても落ちない、烙印みたいな糞の臭い。他の客に迷惑じゃねーのか」

勇者「別に気にしなくていいぞ。この店に集まる連中は、肉体労働のキツさを誰よりも知ってる。それに―――」キィ

ガヤガヤ ワラワラ ガヤガヤ ワラワラ

厨房の熱気、騒ぎ声、肉の焼ける良い匂い、天井に吊り下がった照明から溢れ出る明るい光。
それらすべてが混じり合い、波となって、どっと押し寄せてきた。
確かにこの中では、自分も一人の客としか思われないだろう。
細かいことを気にしない、豪快な男達のオアシス。

便所掃除「わぁ……!」

勇者「退屈な茶会とは大違いだろ? 嫌な臭いも思い出も、全部ここで洗い流してしまおうぜ」

酔っ払いA「おーう! チャンピオンのお出ましだぜ!」

勇者「ようみんな、今夜も食いに来たぜ!」

酔っ払いB「食いまくって腹壊すんじゃねぇぞ? ガッハッハッハァ!」

酔っ払いC「てめぇこそ飲み過ぎで顔真っ赤っかじゃねぇか、ギャハハハハハ!!!」

厨房で鍋を振るっている熊のような男が、顔を上げてニッコリ笑った。

料理長「いらっしゃい! お前さんのおかげで、客が大勢来るようになったぜ。一目だけでも、間近で見てみたいってなァ!」

勇者「大将、マントゥ二人前!」

料理長「あいよ!」

便所掃除「驚いた……随分と有名なんだな」

勇者「店のメニューを食い尽したら、大食いファンクラブができた」

便所掃除「ハッ、そういうことかよ」

勇者と便所掃除は、一階のカウンター席に並んで腰かけた。
目の前で丸い小麦粉の生地が平たく伸ばされていく。
隣の料理人は包丁でソース用のニンニクを薄くスライスしているようだ。
手慣れていない。新人なのだろうか。

料理長「研修生だよ。大陸中央部の料理研究がしたいって、俺の店に飛び込んできたんだ」

勇者「それで、雇ったの?」

料理長「熱意に負けたぜ」

料理人A「師匠と同じ厨房に立てるなんて、感激です! この前まで、皿洗いをやっていて……」

料理長「ソース終わったら鍋で湯、沸かしとけ!」

料理人A「アッ、ハイ!」

料理長が肉の塊を俎板の上にドン、と乗せた。

便所掃除「でっか! なんだそれ!」

料理長「牛のすね肉だ。こいつは煮込み用なんだが、蒸しても良い味が出る。そこで、マントゥの具に使うってわけよ」

勇者「どう? 仕事の調子は」

便所掃除「上々だ。おかげで兵舎に入れず、身体も糞まみれ。民衆から忌み嫌われ、魔物扱いしてくる子供もいる」

肉餡を小麦粉の皮で包む。
竹を編んだ蒸籠の中に八つ、円を描くように詰め、蓋をする。
沸騰した湯に蒸籠を置き、蒸しあがるまで待つ。

便所掃除「朝陽が昇るのを見ると、たまらなく憂鬱な気分になるんだ。俺は何のために王都から派遣されてきたんだって、己の無力を呪いながら、糞を集めに荷車を押すのさ」

勇者「お前も色々悩んでいるんだな……俺もだよ。自分の実力に合わない大役を任されていてさ」

便所掃除「大役?」

勇者「失敗したら家族もろとも、奈落の底だ。家族だけじゃない。数百、数千人の命も背負ってる」

マントゥが蒸しあがった。
瑠璃の皿に移し、トッピングにミントの葉をひとひら。
唐辛子とニンニクのソースをかけて、できあがりだ。

勇者「分かるか? 俺の瞳。五芒星があるだろう」

便所掃除の目がたちまち大きく見開かれた。

便所掃除「まさか、お前……勇者なのか……?」

料理長「マントゥのミント添え、一丁あがり! 待たせたな!」

勇者「お、きたきた。さぁ、食おうぜ!」

便所掃除「……」

勇者「やけどするかもしれないから、ちょっとずつ噛んで食えよ」

便所掃除「ああ、分かってる……はふッはふッ」パク

やや弾力のある皮を噛み切る。甘い。砂糖のような強烈な甘さではないが、ほんのりと微妙に感じる甘さ。

すぐに舌が痺れるような感覚と、ニンニク特有の臭みが鼻を突き抜けた。
最初に皮の甘みがあって、次に辛味と臭みがきて、最後の最後にとんでもない熱さが遅れてやってくる。味のパレードだ。

便所掃除「うわ、あっつ……。熱いし辛い! 唇がヒリヒリする。大将、水もらえないか?」

料理長「最初はみんな同じことを言う。そんで、二つ食ってやめられなくなるんだ。ほら、アイスレモンティー。マントゥにはコイツが一番良く合う。酒よりもな」

勇者「いきなり後ろからガツン! って殴られたような感じがするよ。マントゥの淡白さが、唐辛子とニンニクソースの味を際立たせるっていうか。でも牛肉の旨味はソースに負けていない」

料理長「ハハハ、いっぱしの料理研究家だな。お前さん達」

便所掃除「……辛いけど、うまい。こんなあったかい食い物を口にしたのは、バルフに来て初めてだ」

肉餡の温かさが腹いっぱいに染みわたる。
昨日まで、糞の臭いがついた硬い食パンを独りで齧っていた。
友人など、仲間など、もう二度とできないものだと思っていた。

料理長「腹が減ったらいつでもここに来い。とびきりの料理を食わせてやる。ま、金は取るけどな。ハハハ!」

勇者「時間があったら、俺も朝まで付き合うぜ。ま、金は取るけどな」

料理長「お前さんは金取っちゃいかんだろ」

暗い孤独の道に一筋の光が差したような気がした。

便所掃除「あ……やべ、涙でてきた」

勇者「いくらでも泣けばいい。俺も料理長も笑ったりしないぞ」

便所掃除「そんなジロジロ見るなよ、玉ねぎが目に染みただけだ」

勇者「お前、嘘が下手だなぁ」

便所掃除「マジだって!」

料理長「ハハハ! まったく、面白ェボウズだ」

便所掃除「国王の専属シェフ?」

料理長「昔の話さ。俺はウイグル出身でな。田舎は嫌だって、後先考えず王都に出稼ぎに行ったんだ。ちょうど、コイツみてぇにな」

料理人A「えへへ……」

ウイグル。名前だけは耳にしたことがある。
王都の北に広がるステップ地帯を移動しながら暮らす、遊牧騎馬民族だ。
可汗と名乗る一族の長が治めているらしいが、詳しいことは分からない。

獣の血をすすり、骨を噛み砕く、野蛮な民族。貴族学校だと、そう習っていた。

勇者「王都の北で遊牧してる、あの?」

料理長「そうだ。大量の羊を飼ってるんで、いつも豊かな牧草地を探し回らなきゃならなかった。冬の時は大変だったぜ、草地も獲物もありゃしねぇ。猛吹雪に凍えながら、一日中ずっと腹を空かしてたよ」

そこで料理長はいつどこでも手軽に食べられるよう、携帯食としてマントゥを開発したという。
夏と冬で肉餡に混ぜる香辛料も使い分けた。

初期の頃はカザンという小型の金属鍋で煮ていたが、仕上がりが良くないので、蒸籠で蒸す方法に切り替えた。
何度も何度も改良と失敗を積み重ね、今のマントゥは完成したのだ。

料理長「遊牧民時代の知識や経験が、こうして料理に活きてる」

料理長「ボウズ、今は辛いだろうけどよ、その経験は必ず将来どこかで役に立つ。人生に無駄なモンなんか、ひとつもねぇ」

料理長「だからよ、もうちょっとだけ仕事、頑張ってみねぇか」

便所掃除「人生に無駄なものは、ひとつもない……」

料理長の言葉を、噛みしめるように反芻する。
ソースの辛さだけが、口の中に残っていた。

伝令「伝令ッ!」

食堂の扉が勢いよく開け放たれた。
書状を握りしめた兵が転がり込んでくる。

伝令「この店に勇者殿はおられるか!」

勇者「俺だけど、何かあったの?」

伝令「し、至急ッ! 館の書斎まで来てほしいと、軍師殿が……」

勇者「軍師が?」

勇者が料理長と便所掃除の方を振り向く。
便所掃除は促すように顎をしゃくった。

便所掃除「やっぱお前が勇者様だったか……。五芒星を見た時に、もしかしてと思っていたんだ」

便所掃除「行けよ、軍師様から大事な話があるんだろう? 俺はもう少し、ここで飲んでくぜ」

勇者「途中で抜けてすまない。おやっさん、先に勘定だけ払ってくよ!」

料理長「おう! どうも、ありがとな!」

―勇者の館・書斎―

勇者「どうしたんだよ、軍師。急に呼びつけるなんて」

暗闇の中に、軍師の顔がぼんやり浮かび上がった。
その表情はいつにも増して険しい。
卓の上にはバルフ近辺の地図が広げてあった。
無数の文字が書きこまれ、黒く潰れてしまっている箇所もある。

軍師「戦だ」

勇者「戦?」

軍師「間諜の情報でな。こちらが圧倒的に不利な条件で始まろうとしている」

勇者「圧倒的に不利……」

軍師「明朝、陽が昇らぬ内に全軍でここを進発する。兵には私の方から伝えておく」

勇者「おい、ちょっと待て! どういうことだ、そんな平然としていられるものなのかよ?」

軍師「平然ではなく、呆然としているだけだ」

軍師「お前は何があっても動じず、ヘラヘラ笑っていろ。怯えは他者に伝播する。民や兵を怯えさせてはならん。分かったな?」

勇者「軍師、俺には信じられない。今から戦争が始まるだなんて」

軍師「現実を受け入れろ」

軍師「血を流す覚悟を決めた。それゆえ勇者になった。私の主だった先代勇者も死に追いやった。違うか?」

勇者「それはそうだが……」

間諜の情報は真実だった。
アムダリヤ川を挟んで北に位置する都市・テルメズがバルフに向けておよそ1200の兵を出撃させたのだ。

―翌朝―

農夫「おやまぁ、兵隊さんがいっぱいだべや」

牛「モ~」

勇者と軍師は守兵600を率いて、アムダリヤ川付近の牧草地に陣を張っていた。
先代勇者時代に築かれた防塁が、横に長く伸びている。

防壁ではなく、石を積み上げただけの簡単な防塁である。
せいぜい5、6メートルほどの高さしかない。
梯子をかけられたが最後、簡単に町の中まで侵入されてしまう。

勇者「なぜ急にテルメズが?」

軍師「バルフの権力者が変わったからだろう。先代勇者時代は魔王を倒した後ろ盾があるから、手を出しにくかった。だがお前は何をした? 新生勇者とはいえ、成果が無ければ民の心は離れる。外敵にもつけこまれる。そういうことだ」

勇者「なら、ここでテルメズを抑え込めば他の町に勇者軍の強さが知れ渡るのか。ある意味、名を売るチャンスでもあるな」

軍師「フン、気楽に考えられるお前が羨ましい」

農民の恰好をした男が軍師の傍に近寄り、ぼそぼそと耳打ちをした。

軍師「間諜から新しい情報が入った。敵軍はすべて軽装投槍兵で構成されており、目立った指揮官はいない。破城槌やカタパルトといった兵器もなし。士気は低く寄せ集めの印象を受ける、だと」

勇者「こっちも貴族兵が足を引っ張りそうだし、似た者同士だよな」

軍師「一番手っ取り早いのは、魔女殿の上級火焔魔法で一掃してもらうことだが。魔女殿は今、どこにいる?」

勇者「多分、大富豪の屋敷。管理されている物資の確認と、輸送経路の調整について相談しに行くってさ」

軍師「大富豪の屋敷か……遠いな」

勇者「呼び戻したりはできないの?」

軍師「いくらなんでも敵陣地が近過ぎる。川を渡ってすぐの場所だぞ。魔女殿に伝えたところで、彼女が戻るまで間に合わない。昨夜のうちに人を送っても、同じことだったろう」

勇者「他に援軍を頼めそうなのは……そうだ、ちょっと東に歩いたところにマザーリシャリーフって村があったな」

軍師「農耕と牧畜だけの、平和ボケした村だ。自警団すらいない。あの村の人間は常に守る側じゃなく、守られる側だったからな」

勇者「やはり、今いる兵だけで立ち向かわないといけないのか」

軍師「ちなみに600のうち、半分は王都からノコノコやってきた、温室育ちのガキな。実質、使えるのは先代勇者時代の守兵300。兵力差はおよそ4倍」

勇者「4倍! 対抗策はあるの?」

軍師「……600の兵を二列に分ける。第一列は敵の足止め、第二列は弓箭兵を並べる」

軍師「矢をあらかた射尽したら、600人でかたまったまま突撃し、敵軍を二つに分断する。あとは各個撃破。これしかない」

勇者「なるほど。でもさ、敵が一方向からしか来ないとは限らないだろ。分散して攻めてきたら対応できないぞ」

軍師「それこそ各個撃破の良い餌食だ。先代勇者時代の精鋭が100人で足止めしている隙に、残りの兵500を出撃させて横合いから攻め込む」

勇者「そううまくいくものかね」

軍師「流石に100人で分散した1200の足止めは無理がある。できればまとまって攻めてきてもらいたいがな」

勇者「いずれにせよ、足止めする方法が無ければ作戦は成立しないね」

軍師「ああ、私もそれを考えていた。焼き煉瓦なら今すぐ調達できるが……」

便所掃除「その足止め、俺にやらせてくれないか」

勇者「便所掃除……!」

鎖帷子を着込んだ軍人が、緊張した面持ちで立っていた。

軍師「馬鹿馬鹿しい」

軍師は腕を組んだまま、忌々しそうに溜息をついた。

軍師「できるのか? 人一人殺せない腑抜けに」

便所掃除「人を殺すことに抵抗はある。血を見るのも怖い」

便所掃除「だが、町の危機だってんなら話は別だ。やらせてくれ、良い方法を思いついたんだ」

軍師「お前には糞尿の処理を命じたはずだが」

勇者「おい、そんな言い方……」

便所掃除「そうだ。俺はあんたから命じられた糞尿の処理を、これまで一日も休むことなくこなしてきた。その努力が、今こそ実るんだ」

便所掃除「俺の集めた糞を使え、軍師」

軍師「……何だと?」

数時間かけて、肥溜めの糞尿を汲み出した。
便所掃除が柄杓で液状の糞をすくい、壺に移す。
その壺は並んだ兵士達によって、リレー方式で防塁まで運ばれる。
全部で300個。糞壺は一人一個までしか持てない。

便所掃除「早くしろ、時間がない!」

腐った糞の臭いが、牧草地一面に広がった。
筆舌に尽くしがたいどころではない。
嗅いではならないものを、嗅いでいる。
軍師はこみ上がる吐き気を抑えながら、呻くように言った。

軍師「鼻が捻じ曲がりそうだ。今夜は飯が食えないだろうな」

便所掃除「つまり、テルメズ軍の攻撃は今日一日、凌ぎきれるってわけか。嬉しいこと言ってくれるじゃないの」

軍師「浮かれるな。失敗は許されないのだぞ」

防塁に沿って、二つの横列が展開した。
第一列にはアルマリクより派遣された貴族兵300、第二列は先代勇者時代の精兵300。
足止めの役割を果たす貴族兵に、糞壺を抱えさせる。

貴族兵士A「ぐほェッ! ママン、たしゅけて……」

貴族兵士B「ぐぎぎぎぎッ」

貴族兵士C「敵とぶつかる前から、自陣に甚大な被害が出てるんですけど!? もしや、これで日頃の鬱憤を晴らそうとしているのではあるまいね? 便所掃除くん!」

便所掃除「アホか。お前ら剣も槍も弓も扱えない能無しだから、せめてもの情けで糞壺を持たせてやってんだろうが」

貴族兵士C「な、なんという口の利き方だ! お父様に言いつけてやるぞ! そしたら君みたいな没落貴族は、あっという間に平民に落とされてしまうのだからね!」

町の存亡がかかっている非常時でさえ、まだ下らぬ身分のことをとやかく言う者がいる。
戦争を間近で見たことがないので、命のやり取りをする実感が湧かないのだろう。

自分も彼らと同じだ。心のどこかで、戦争など大したことはないと感じている節がある。
その意識を変えるべき時が来たのだ。
便所掃除は槍の石突で地面を強く叩いた。
場が水を打ったように静まり返る。

便所掃除「死にたくなければ黙って聞け」

貴族兵士C「うッ……」

便所掃除「いいか? 敵が防塁に梯子をかけて登ってきたら、顔に向かって糞をぶちまけるんだ。糞が無くなったら、壺で殴りつけてもいい。お前らの役目は『敵を防塁の中に入れないこと』それだけだ」

勇者「戦が、始まる」

銅鑼の音が一回、二回、三回、朝の澄んだ空気を切り裂いた。
進軍の合図だ。
対岸に集結しているテルメズの歩兵1200が部隊を横一列に広げながら、一斉にアムダリヤの激流へ身を投じる。

貴族兵士A「ヒイッ、本当に攻めてきた!」

貴族兵士B「みんな殺される……みんな殺される……」

貴族兵士C「どうか僕のことは殺さないでください見逃してください金でも何でも払いますから助けて死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないぃッ!!」

便所掃除「第一列、糞壺用意! 第二列は矢を番えて待て!」

第二列の精兵が、矢を番えた。弦を限界まで引き絞り、いつでも放てるように準備している。
便所掃除は目を細め、敵部隊を見詰めた。

テルメズ軍は既に渡河を終えたようだった。
横に広がった隊列が、今度は丸くまとまりつつある。

軽装兵の要は機動力だ。
馬が渡れない激しい川でも、険しい山岳地帯でも、何事もなかったかの如く乗り越えてくる。

便所掃除「まだだ。まだ遠い。矢の届く距離まで耐えろ」

バルフ軍の長弓がどれほどの距離を飛ぶか、便所掃除は王都で学んでいた。
長弓は威力こそ高いが、ウイグル族の使う合成弓と比べて射程が短い。
敵兵の姿がはっきり見えるまで、耐え抜くしかない。

勇者「1200人って、よく考えたら結構多いよな」

軍師「実戦に出て初めて分かる。2000人近くが殺し合うのだ。ここの牧草はしばらく、血の味しかしなくなるであろう」

便所掃除「やっぱ、圧が違ェな」

1200人の男達があげる雄叫びは、遠く離れた防塁の空気をも震えさせた。時に高く、時に低くうねるそれは、竜の咆哮を思わせる。

便所掃除「デケェ魔物が攻めてきているようなもんだ。気を抜くとマジで死ぬぞ」

この場に、指揮官として立っている。
たとえ仮だとしても、自分は600人の守兵の命を預かっている。
便所掃除は拳をかたく握りしめた。

徐々に、敵兵の姿がはっきりと見えてきた。
腰に差した肉切り包丁。背中に光る三本の短槍。羊の皮をなめした上着。そして、牛の角がついた鉄兜。

便所掃除「まだ射程外だ。耐えろ」

足音がさらに大きくなった。
敵部隊は密集隊形のまま突撃してくる。

便所掃除「耐えろ」

自分に言い聞かせるように、便所掃除は呟いた。敵部隊まで、もう十メートルもない。少し走れば届く距離だ。
ここで、便所掃除は腕を振った。
息を深く吸い、大声を張り上げる。

便所掃除「放て」

号令。無数の風切音。300本の矢が、テルメズ兵へ向かって雨のごとく降り注ぐ。
テルメズ兵は投槍に特化した歩兵だ。
矢を防ぐ盾など持っているはずがない。
次々と敵兵が血を流して倒れていく。

便所掃除「無駄撃ちはするな。矢の数にも限りがある。的確に、テルメズ兵の急所を射貫け」

矢の雨が通用するのは最初だけだ。
肝の据わったテルメズ兵は死体を盾に、防塁へ接近してくるだろう。梯子をかける者も出てくるかもしれない。

便所掃除「頼むぞ、テメェら……」

第一列に並ぶ貴族兵達は、すっかり腰を抜かしていた。

震わせた、だった
投稿してから気がつくミス

案の定、テルメズ兵は仲間の死体を盾に矢の雨を突破した。
助走をつけた後、背中の短槍を投げてくる。
大半は途中で地面に刺さったり、堅固な石の壁に阻まれたが、距離が近づくにつれて投げ槍の精度も上がってきた。
つまり、人間に刺さるようになった、ということである。

便所掃除「怖気づくな! テメェら、それでも王都の兵士か! 貴族としての、騎士としての誇りはどうした!」

督戦を重ねども、自陣の貴族兵は恐慌状態に陥っていた。
訳の分からぬ祈りを捧げる者、泡を吹いて失神する者、糞壺を倒し中身を散乱させてしまう者。
これまで本格的な戦を経験したことがない貴族兵だ。
仲間の死体を近くで目の当たりにすれば、恐ろしさにおかしくなってしまうのも、無理もない。

便所掃除「けど、それじゃダメだ。足止め役として、仕事してもらわなきゃならねぇんだよ……」

ついに、テルメズ兵が防塁に梯子をかけたようだった。
貴族兵の悲鳴とテルメズ兵の雄叫びが混じる。防塁を破られたか。
便所掃除が駆けつけた頃には、あちこちで敵味方入り乱れた乱戦状態となっていた。
貴族兵が一方的に押されており、第二列の精兵が弓と剣で援護しているといった状況である。

貴族兵士C「助けてくれ、便所掃除君! うわあああッ」

貴族兵士Cを追って、数人のテルメズ兵が突撃してきた。
繰り出された短槍を柄で受け止め、貴族騎士Cに壺を持つよう促す。

便所掃除「さっさとしろ! 殺されたいのか」

貴族兵士Cは転がっていた糞壺を拾い上げると、テルメズ兵の顔めがけて糞尿をぶちまけた。


軍師「戦況は五分五分。先代勇者時代の守兵がいなければ、瞬く間に町を占拠されていた。こればかりは、あの男に感謝せねばな」

物見櫓の上で戦場を見下ろす軍師。
槍が飛び交っているものの、軍師の立つ場所までは届かない。
敵が梯子を上ってきた時は、護衛の役割を果たす勇者がことごとく斬り伏せている。

勇者「軍師、俺も下に行ってくる」

軍師「お前の実力では、下に降りれば死ぬぞ」

勇者「貴族達や便所掃除が闘っているのに、俺だけ物見櫓で高みの見物を決め込むわけにはいかない」

軍師「護衛の任務を忘れたか。下らぬ貴族どもの命と私の命。どちらに重きを置くべきか考えろ」

勇者「それは……どっちも大切だよ」

軍師「非現実的だな。櫓の上に立つ私の護衛と、下で戦う貴族どもの援護。ふたつを同時に行えるとは思えん」

勇者「兵士を一人でも多く戦場から帰すのが、俺達の役目だろ?」

軍師「違う。バルフの町を敵軍から守り通す。いくら犠牲を出そうとも、防衛に成功すれば尊い戦士者として崇められる」

勇者「意外と嫌な奴だな、お前」

軍師「私は最初からこの通りだが」

睨み合う勇者と軍師の間に、二人の兵士が割り込む。

兵士D「矢が尽きました!」

兵士E「敵軍が退却していきます!」

×戦士
○戦死

石突きで鳩尾を素早く打てば、大半の人間は行動不能になる。
腹を抱えてうずくまり、げえげえと胃の内容物を吐き出すのだ。
そして、吐いたものが糞尿と混じり合い、臭いも光景も悲惨なものとなる。

殺到する敵を、便所掃除はひたすら石突きで打ちまくっていた。
まだ刃のついた穂で貫く度胸はない。怯ませるのが精一杯だ。

しかし、怯ませた隙に貴族兵が糞をかけ、弓箭兵が矢を撃ち込む。
休む暇など与えない。動きを止めれば死あるのみ。
見事な連携によって、テルメズ軍の勢いは際どい所で止まっていた。

テルメズ兵B「ぐわ、くさいッ!」

テルメズ兵C「こいつら、鏃にクソを塗ってやがる!」

テルメズ兵D「嫁と娘が俺の帰りを待っているんだ。こんなくだらない戦で死んでたまるか!」

流れが変わった。矢は尽きたものの、テルメズ軍の背を追いかける形となっている。
便所掃除は生き残った500人の兵をまとめた。

便所掃除「追撃に移るぞ。気を引き締めろ。各々、武器を持ち俺の後に続け。一人の欠員も許さない」

貴族兵士C「えッ、まだやるのかい?」

ここが正念場だった。敵軍は統制が取れていない。
精鋭だけでも分断は容易いだろう。しかし、今は質より量だ。
より確実に敵軍を潰走させるため、全軍突撃をしかける。

便所掃除「農夫、牛を貸せ!」

農夫「はわわわ、オラのベコに何するんだべか」

農夫を押しのけ、牛の背にまたがった。
鞍と鐙のない乗馬訓練は、王都で嫌と言うほどこなしている。
馬も牛も、またがれば皆同じようなものだ。邪魔な荷車を取り外す。

急がねばならぬ。行動が早ければ早いほど、追撃は効果を増す。
牛が尻尾を、箒で掃くように揺らしていた。

軍師「勝手に出撃しようとするな。総指揮権は私にあるのだぞ」

羽扇を持った童が、勇者を伴って現れた。

軍師。

童子のように見えるが、三十の半ばにさしかかった一人前の男である。
防衛戦の総指揮は、軍師が執っていた。
追撃の指示も軍師が出すことになっている。
便所掃除はあくまで現場の指揮官であり、階級としてはまだ一兵卒に過ぎない。

軍師「時間が惜しいので手短に説明する。残った500の兵を、300と200に分ける。全軍かたまっての突撃は行わない」

便所掃除「なぜ?」

軍師「敵が壊滅状態にあるからだ。もはやテルメズ軍は、軍の体を成していない。扇状に広がって、あちこちに逃げている。部隊を二つに分けた方が効率的だ」

軍師「便所掃除に300、勇者に200。二方向から敵を挟み込み殲滅しろ。皆殺しだ。一人も残すな」

勇者「便所掃除、指揮する時は気を付けてくれ」

聖剣を携えた勇者が、隣に立った。

勇者「生き残った兵、特に貴族兵に言えることだけど。彼らは初めての実戦に興奮してる。周りが見えていない。追撃の際も、なりふり構わず突撃するだろう」

勇者「しかし、それは蛮勇だ。褒められるべきものじゃない。命を落とす可能性も格段に増す。興奮した兵を暴走させないよう、うまく統率してほしい」

便所掃除「乱戦の中で、そこまで冷静に考えていたのか」

勇者「物見櫓の上は滅多に敵が来ない。動きを観察する時間だけは十二分にあったよ。恥ずかしい話だけどね」

便所掃除「軍師の護衛も、立派な務めだ。それに軍学と縁のない町人にしちゃ、なかなか良いところを突いている」

便所掃除は、牛の角を強く握りしめた。
歩兵を率いるのは初めてだった。
騎馬兵としての訓練のみ受けたので、歩兵の勝手が分からない。

不安は残る。

しかし、その不安を圧倒的に凌駕するほどの高揚感があった。
心臓が激しく脈打つ。
全身の血が沸き立っている。

俺は今、300人の先頭に立っている。

勇者「油断するなよ。敗残兵とはいえ、兵に変わりない」

便所掃除「俺も軍人の端くれだ。お前こそ、勇者だからって余裕ぶっこいてんじゃねぇぞ」

勇者「また生きて会えたら、青空の下で共に笑おう」

便所掃除「生きて会えたら、な」

目を閉じる。
脳裏に食堂の光景が蘇った。

美味しい料理、愉快な客達、しっかりした料理長。
初めてできた、自分の居場所。

奪われるわけにはいかない。
守ってみせる。あの食堂だけは、絶対に。

便所掃除「行くぞッ!」

便所掃除は肚の底から雄叫びを挙げ、鞭で牛の尻を打ち据えた。
調教を受けていない牛は、腹を蹴っても暴れるだけで走らない。
しかし、乗馬用の鞭を使えば大抵の牛馬は前進する。
痛みから逃れるために、前進せざるを得ないのだ。

便所掃除「俺の後に続け!」

便所掃除は腰の動きだけで牛を巧みに操り、防塁の上から宙に躍り出た。
視界の隅で、勇者が同じように防塁から飛び降りている。

総勢500のバルフ軍は便所掃除の部隊300、勇者の部隊200と左右に分かれ、撤退するテルメズ軍に襲いかかった。
その様は、手負いの獣に食らいつく二匹の大蛇を思わせる。

勇者軍の追撃を受けて、逃げるテルメズ軍は小さくまとまり始めた。
臆病な貴族兵で構成されたバルフ軍が、まさか野戦に打って出るとは考えもしなかったのだろう。
さらに大将と思しき男が農耕用の牛で突っ込んできたのだから、テルメズ軍の驚きは並みひと通りではなかったはずである。

便所掃除「道を開けろ!」

崩れた一点に便所掃除は突っ込んだ。
牛の突進で数人が跳ね飛ばされる。
素早く跳躍し、着地した瞬間に敵の頭を兜ごと叩き割った。

特に何も思うことなく、人間の頭をかち割った。
大義の前では、人命はこれほど軽く見えるものなのか。
吹っ切れたような気分だった。

便所掃除「力に自信のない奴は、二人一組か三人一組になって応戦しろ! 槍は突く物じゃない、叩く物だ!」

四方から突き出される槍の穂をかわし、一気に薙ぎ払う。
骨が折れる、鈍い感触。はっきり手に伝わった。
敵をなぎ倒しては指示を出し、なぎ倒しては再び指示を出す。

息が荒い。腕が重い。脚もふらつく。
だが思考だけは異常に澄み切っていた。

どの機会で、どんな道順で敵の密集地から脱出するか。
味方の兵はどこにいて、何をやっているのか。すべて分かる。
天から差した光が、自分に教えてくれている。

軍師「あの男、化けたな」

軍師は防塁の上で、ぼそりと呟いた。
今回の防衛戦が、彼の心にどう火を点けたのか分からない。
便所掃除は変わりつつある。兵士気取りの貴族から、本物の指揮官へと。

軍師「いや、まだまだか」

指揮に粗が見える。
一人で敵陣に突っ込みがちだ。

まずは兵を100だけ与え、用兵の基礎を徹底的に叩きこむ。
基礎を身につけた後は200、300と率いる兵の数を増やしていく。
最終的に将軍ほどではないが、副将くらいまでは成長するはずだ。

軍師「それにしても、奇妙な戦だった。なぜテルメズはバルフに兵を出した? 貴重な労働力を割いてまで、バルフを攻める必要があったのか? 士気が低い、というのも引っかかる」

軍師「なにか、裏があるな。そうとしか思えぬ」

勇者「やったな、便所掃除!」

死屍累々。
積み上げた死体の山に、便所掃除は一人で座っていた。
死力を尽くした。勇者も、貴族達も、皆が一丸となって死力を尽くした。
バルフはどうなったのだろう。返り血が目に入って、よく見えない。

勇者「バルフ軍の勝ちだ。テルメズ軍は一人もいない」

便所掃除「勝ったのか、俺達は」

勇者「ああ、この勝利は必ず周辺の町に知れ渡る。お前の武勇に惚れて入隊を志す男も現れるかもしれない」

便所掃除「勇者……俺は……」

大粒の涙が、頬をつたった。
気が緩むと、一気に溢れ出してくる。
あの食堂を守ることができた。
皆の笑顔を守ることができた。
自分にはまだ、帰るべき場所があるのだ。

勇者「貴族兵も頑張っていたよ。個の力では及ばずとも、集団の力で乗り切った。お前の指示を聞いていた証拠さ」

便所掃除「ああ……」

勇者「さ、泣くのはやめて軍師に報告しに行こうぜ。ひとまず、町は助かったんだ」

便所掃除は涙を拭うと、勇者と並んで歩き出した。
血に染まった牧草地。一日の仕事を終えたような、爽やかな達成感を不思議と感じた。
両手を頭上にあげ、グッと背伸びする。

便所掃除「ったく、どこの馬鹿がおっぱじめたんだろうな。肥料用に溜めてきた糞をほとんど使わせやがって」

勇者「土地の開墾も作物の収穫も、すべて命あってのものさ。糞なら、また溜めればいい。俺も軍師も協力するぜ」

便所掃除「やめろ、気色が悪い」

二人の笑い声が、晴れ渡る青空に響いて消えた。

数日後、食堂の前にて。

便所掃除「よし、始めるとするか」

どんな仕事にも、学ぶことはある。
学んだことは後々、必ず何かしらの形となって現れる。
テルメズ軍との戦を経て、便所掃除の中で仕事に対する意識が変わった。

この誰もが嫌がる臭い仕事も、役に立つ時はあるのだ。
兵卒から将校へ昇進した際、彼は便所掃除の仕事も並行して取り掛かりたいと申し出た。
軍師は怪訝そうに眉をひそめたものの、便所掃除の申し出については却下しなかった。

便所掃除「ちーッス、ウンコ回収しに来ました」

料理人「おお、いらっしゃい! んじゃいつも通り、トイレの掃除頼んだぜ!」

そう、便所掃除として町を回っていればこのイカした料理人に会うことができるのだ。

料理人「お前ら、よく見とけ。あれこそが立派な仕事人よ!」

中央の丸テーブルに、三人の貴族兵が座っていた。

貴族兵士A「あ、あの……」

貴族兵士B「どう切り出せばいいのか……」

貴族兵士C「便所掃除君! いや、便所掃除殿!」

便所掃除「テメェら、懲りずに食堂まで来やがったな」

貴族兵士C「違うんだ。これまで君に浴びせてきた罵声や非礼の数々、誠に申し訳なく思う……! 詫びしかできないが、どうか許して頂きたい」

貴族兵達が、そろって深々とお辞儀をした。土下座とまではいかないが、彼らなりの精一杯の謝罪らしい。

貴族兵士C「この通りだ!」

便所掃除「なんだ、そんなことか」

便所掃除「別に謝る必要はねぇよ。俺だけの力じゃない。テメェらが本気を出してくれたから、町は無事だったんだ」

貴族兵士C「そんな、僕達は……」

便所掃除「とにかく! テメェらは一人前の兵として認められたんだ。真ッ昼間から駄弁ってねぇで、ちゃんと訓練に参加しろ!」

貴族兵士A「ヒッ! すみません!」

貴族兵士B「くわばら、くわばら……」

貴族兵士C「そ、そうだった。もう訓練の時間だったのか。料理長、勘定はここに置いておくぞ。では、また会おうッ!」

脱兎のごとく駆け去っていく三人の貴族兵。その後ろ姿を眺め、便所掃除は呆れたように頭を掻いた。

便所掃除「あいつら、何も成長してねーな」

料理長「いいや、少しずつだが変わっているよ。貴族が大衆食堂に顔を出すこと自体、滅多にないからな。もちろんボウズ、お前も変わってるぜ。だいぶ、男を上げてきやがったな」

便所掃除「へへッ……ありがとよ、オッサン」

便所掃除が勇者軍騎馬隊の副将として活躍するのは、まだ先のお話。

砂利だらけの道を、一台の荷車が音を立てながら進んでゆく。
雨上がりの原野。夏草の熱気と、露に濡れた土の匂いが混ざり合う。
青と緑で統一された、牧歌的な田舎道。

その中で、場違いなほど真っ白い輝きを放つ妙齢の女性がいた。
胸元の開いたドレスやレースのついたスカート、顔に乗せたつばの広い魔女帽も、何もかもが白い。
身体中のあらゆる色が抜け落ちてしまったかのようだ。

荷台に寝そべっていた彼女は身を起こすと、寝ぼけ眼でゆっくり辺りを見渡した。
ふわあ、と口に手を当てあくびする。

魔女「よく寝たぁ……。どう? もう着いたかな?」

荷車を引く長机に声をかけた。

元は、どこにでもあるような古びた長机だった。
それが魔女の魔法によって自我と手足を与えられたのだ。

物言わず、飯も食わないが、人間の言葉は理解できる。
召使としては、ぎりぎり及第点といったところか。

長机は緩慢な動きで身体を横に振った。

魔女「……まだ? まぁ、そうだね。景色が全然変わってないもんね」

魔女「意外と遠いんだよな~、大富豪の屋敷。どれ、もうひと眠りいこうかな」


目覚めた頃には、荷車の揺れは収まっていた。
穢れもない、喧騒もない、神殿のごとく静謐な空間だった。
竹の葉の隙間から漏れた暖かな日差しが、荷車を優しく包み込む。
奥に、柴垣が見えた。

魔女「着いたみたいだね。ご苦労さん」

長机「……」

大富豪の屋敷は柴垣と土の塀、二重に囲われている。
敵の侵入を防ぐ目的もあるが、最大の理由は目立たないようにするためだった。
真っ赤な唐風の門を構える屋敷とはいえ、高い柴垣で囲んでしまえば外からまったく目につかなくなるのだ。

門をくぐる。
三人の従者が駆けつけてきた。
一人は魔女が履いている氷の靴を脱がせ、もう一人は布で服の汚れを落とし、最後の一人は長机を厩の方へと連れていった。

人語を理解しようが、無機物は無機物。
家畜となんら変わらない扱いなのである。

従者A「妹御様は中庭におられます」

魔女「勇者君の妹さん? ああ、数日前に行くとか言っていたなぁ。後で挨拶しとくよ。まずは大富豪のところへ案内してくれ」

従者A「かしこまりました」

現在、勇者陣営の者を匿う上で、安全な場所といえば大富豪の屋敷である。
彼は莫大な資産とカリスマ性によって、王都に住む貴族や王族の人心を悉く掌握してきた。

国王を茶会に招いたことさえあるという。
先代勇者が消えた今、大富豪は貴族から最も信頼されている男と断言できる。

八畳ほどの部屋に通された。
東西から取り寄せた骨董品が、所狭しと並べられている。

その中央に、牡丹柄の唐衣を羽織った男がいた。
下に垂れた長い髪をすくおうともせず、木製の平板に目をやっている。
魔女が呼びかけると、ようやく顔を上げた。

大富豪「魔女か。すぐに茶を出そう。それとも酒がいいか?」

魔女「また来ちゃった……てへへ」

大富豪「間諜から話は聞いている。無事にバルフを奪取できたそうだな。峻険な山々で王都からの侵攻を防ぎ、アムダリヤ川を運河に利用すれば周辺都市との交易も盛んになる。よい位置だ」

魔女「ところで、キミが手に持ってる……その板は何だい?」

大富豪「大唐国の商人から仕入れた版木だ。手で書き写すのは時間も労力もかかる。はっきり言って効率が悪い。そこで、木版印刷なるものに着手してみようと思ってな。急遽、取り寄せた」

魔女「木版印刷。ふむふむ、耳慣れない響きだね」

大富豪「大半の人間はお前と同じ反応を示すだろう。私もそうだった。生まれて初めて、自分の目を疑ったよ」

訥々と喋りながら、大富豪は版木の彫られていない部分を墨で黒く塗っていく。
塗り終わった後、紙を上からかぶせ、馬楝でごしごしと押さえつけるようにこすった。

大富豪「これだけだ。見てみろ」

紙には大きく『アリガトウ』の文字。
トの部分だけかすれて見えにくくなっているが、それでも読むことは可能だ。
写本では何十分もかかる作業を、一回こすっただけで終わらせてしまった。

魔女「すごい……」

魔女は子供のように目を輝かせながらはしゃいだ。

魔女「これがあれば、いくらでも妹さんの小説を刷ることができるじゃないか! 素直に尊敬するよ」

大富豪「ゆくゆくは文字だけでなく、色のついた挿絵なども刷ろうと考えている。腕利きの絵師を雇ってな」

魔女「あっはっは! いやぁ、すごいね。これに挿絵までついたら、飛ぶように売れること間違いなしだ。内容も分かりやすくなるし」

大富豪「だが、課題も多い。その一つに、摩耗の少ない良質な樹を見つけることがある。今回の製版、トの文字が潰れているだろう。何回も使い続けた結果、木版が擦り減ってしまったのだ」

大富豪「各地の豪族と連携し見合った樹を探してはいるが、未だに思い通りの品は届いていない。数日使うと、文字が潰れてしまう」

魔女「まだギリギリ読めると思うけど……」

大富豪「読めるから大丈夫、ではいけない。これは商売であり、一種の戦でもある。常に最良の物を求め続けるからこそ、競争相手に打ち克つことができるのだ。妥協は罪と思え」

魔女「間諜への依頼は済んだの?」

大富豪「とっくにな。タシケントの写生工場とバルフを結ぶ、安全な輸送路の確保を頼んだ。父の遺産も無限ではない。無駄な買収は避けて通りたいところだ」

大富豪「偽造書類も作れるには作れるが、墨液識別魔法を使われた日には、一瞬で偽の荷物だと判明する。そこから足もつくだろう」

魔女「公文書の墨も紙も、材料は機密事項になってるからねぇ~」

大富豪「賄賂以外の関所の突破は難しい。ならば、誰にも見ることのできない闇の交易路を作ってしまえばいい、というわけさ」

魔女「できるのかい?」

大富豪「できるか否かではない。やるのだ」

大富豪はバッと扇子を開いた。
部屋に漂う伽羅の香りが、濃くなったような気がした。

大富豪「方々から人を集めている。流れの速い川で漁業に従事する者、険しい山で狩りをする者、砂漠で何十年も生き延びてきた者。報酬さえ与えれば、彼らは動く。そして、道なき場所に道を作る」

魔女「女装したまま言われても、なんだかなぁ」

大富豪「許せ。物資の管理に明け暮れる日々なのだ。退屈しのぎに、普段と違う自分になってみるのも一興だろう」

魔女「ま、そうだけどさ~……」

×写生
○写本

夕食までの間、魔女はぶらぶらと屋敷を散歩することにした。
ここには何でもある。

何十年分の食料を溜める貯蔵庫、押収した武具をしまう武器庫、守兵を訓練する練兵場、新たな武器を生み出す鍛冶場、治癒魔法では治せない病に有効な薬を処方する施薬所、良質な酒を造る果樹園と醸造所。

一日では到底回りきれない。

魔女「ここまでくると、町と言っても差し支えないよね」

魔女「専門的な施設があって、住み込みで働いている人がいて。彼らを守る兵がいて……大富豪はどれだけの人数を養っているんだろう」

建物と建物を繋ぐ渡り廊下。
盆を持った侍女達が、せわしなく行ったり来たりを繰り返している。
暮れなずむ藍色の空に、トビの澄んだ声が響く。
やけに寂しげであった。

魔女「やぁ、元気かい?」

青々と茂った葡萄棚の下で、一人の少女が本を読んでいた。
魔女が声をかけても応じない。食い入るように読みふけっている。
物語にのめり込むあまり、周囲の音が聞こえないようだ。

魔女「おーい」

勇者の妹「あ……魔女先生。ごめんなさい、あたし、気づいてなくて」

魔女「構わないよ。ボクも今日いきなり押しかけたんだし。キミが読んでいるその本、ひょっとして……」

勇者の妹「例の風刺小説です。試しにと大富豪さんが一部だけ製本して下さったんです」

魔女「いい本だ。中綴じが麻の紐できっちり施されているし、何より表紙の手触りがいい。絹でできているのかい?」

勇者の妹「いえ、ヤギの革です」

魔女「なるほど、ヤギか。毛も脂もない。すべすべしている。ヤギも職人の手にかかれば、こうも変わるものなんだなぁ」

勇者の妹「……不思議な気分ですね。書いた小説が本になるって。表紙に刻まれたあたしの名前が、まるで知らない作家さんの名前のように見えるんです」

魔女「けれど、その物語はキミが書いた」

勇者の妹「そうですね……だからちょっぴり嬉しいのかな。お兄ちゃんも、喜んでくれるかな……」

ふと、妹が魔女に本を差し出した。

勇者の妹「この本、魔女先生に謹呈します」

魔女「ボクに? 嬉しいけど、気持ちだけ受け取るよ。それは貴重な初版本だ。作者であるキミが持っていた方がいい」

勇者の妹「……」

魔女「他に理由があるなら、話は別だよ?」

勇者の妹「お兄ちゃんに読み聞かせて頂ければと……」

魔女「読み聞かせ」

勇者の妹「すみません、先生もお忙しいのに、勝手を言ってしまって」

魔女「そっか。お兄さん、長文に弱いんだっけ? うん、じゃあボクに任せて。バルフに戻ったら、定期的に勇者君のもとを訪ねるから」

妹の頬に赤みが差した。
暖かい春の日差しのような微笑みを浮かべてお辞儀する。

勇者の妹「……ッ! ありがとうございます!」

魔女「ふふふ、大事な教え子の頼みは断れないよ」

勇者の妹「あの……魔女先生。お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします。お兄ちゃん、ああ見えて結構ドジだから……」

魔女「そんなに心配? 大丈夫。神様が見込んだ勇者の器だ。キミが憂えているほど、彼はヤワじゃない。そばに軍師君もいるしね」

勇者の妹「でも……先生には分かりますか? 命よりも大切な人が、手の届かない場所にいる辛さ」

勇者の妹「今日だって朝からずっとお兄ちゃんのことばかり考えてて、ちっとも仕事に手がつかなくて……」

勇者の妹「お兄ちゃんに、逢いたい……」

彼女は細い両腕で肩を抱くと、その場にうずくまった。

魔女「自分の命よりも大切な人か」

そんな人間が、今までにいただろうか。
魔女は過去に思いを巡らせてみたが、誰一人思い浮かばなかった。
浮かんだとしても、顔の部分が黒く塗りつぶされているのだ。
共に旅をした先代勇者も、戦士も、僧侶も大事な仲間ではあったが、彼らのために命を張れるかというと、それはまた別問題だった。

遠くで夕餉を知らせる鐘の音が鳴った。

魔女「行こう。夕餉の時間だ。勇者君は、ボクが責任をもって預かる。だからキミは、安心して執筆活動に専念してくれたまえ」

補足
バルフやテルメズ、タシケントといった都市名はオリジナルのものではありません
都市の位置も実際の地図によっています


シルクロードだっけ?

>>150
そうですね
タジキスタン辺りを舞台にしています

馬頭琴の軽やかな旋律に合わせ、衣装をまとった踊り子が蝶のように舞い踊る。
彼女が身体を回転させるたびに拍手が沸き上がった。
一人の客をもてなすために異国の楽団まで動員してしまうところが、良くも悪くも大富豪らしい。

大富豪「ここだここだ」

魔女は大富豪の隣に腰を下ろした。
後ろの派手な掛け軸が気になって仕方がない。

大富豪「気になるか。曼荼羅というそうだ。商人からは宇宙観を示した図像と説明されたが、さっぱり意味が分からなかったよ」

魔女「意味が分からないものを飾ってるんだ」

大富豪「綺麗だから飾っているだけさ」

魔女は皿に盛ってある棗をつまんで口に運んだ。
まるで王族の食卓である。
唯一違うのは、身分の低い者も同席していることだった。
理由を尋ねてみると、大富豪はバター茶をすすりながら答えた。

大富豪「指示を出すのは私だが、実際に働くのは彼ら召使いだ。誰を一番にねぎらうべきか猿でも分かるな」

魔女「民を大切にしない国は滅びる」

大富豪「そうだ。君主が聡明であれば、国民の不満を上手いこと外へ向けただろう。例えば、他地域への遠征とかな。決して内へ溜め込んだりはしない」

魔女「溜め込み過ぎた不満の中で生まれた一縷の希望。それがボクら勇者軍ってわけなんだね~。ちょっとクサいけど」

踊り子が小刻みにタップを踏んで跳ねはじめた。
宴席から一人の酔っ払いが飛び出し、踊り子と腕を組み回り出す。

大富豪「そろそろ、敵陣営にも味方を作らねばならんな」

魔女「敵陣営の中に味方?」

大富豪「資源も兵力も圧倒的にあちらが上。ならば常に工作をしかけて内部に協力者を作るべきだろう。王国側とて、一枚岩ではない。王の政治に疑問を抱く人間もいるはずだ」

魔女「軍師とは相談したのかい」

大富豪「書簡でやり取りをした。彼も私と同じ結論に至ったようだ」

魔女「随分と思い切った決断をしたものだねぇ」

大富豪「大捷を得るためには、多少のリスクも冒さねばならん。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言うではないか」

魔女「で、目をつけている人物はいるんだよね~?」

大富豪「一人だけいる。誰よりも近くで、王の背を追い続けた男だ」

王の背を追い続けた男。
その言葉だけで、魔女は大富豪が誰のことを言っているか理解した。
困ったように微笑む。

魔女「大富豪。キミって奴は、なんてムチャなことを……。でも、嫌いじゃないよ。挑戦こそ成功への鍵だからね」

魔女は杯を干すと、席を立った。

魔女「一緒に踊ってくるよ。キミもどうだい?」

大富豪「遠慮しておく。私は裏方で十分だ」

ヒジュラ暦130年、第11月。
厳しい暑さが続いていますが、父上はいかがお過ごしでしょうか。
無事にバルフを出発できましたでしょうか。

僕は元気です。
王になるための修練に日々、邁進しております。
目付け役の白騎士殿は時に厳しく、時に優しく、剣術や書見の稽古をつけて下さいます。
おかげで学校での成績もうなぎのぼり。

先日、白騎士殿から教えて頂いたのですが、アルマリクとは『リンゴのなる町』という意味なのだそうです。
けれど、ここは右を向いても左を向いても葡萄棚だらけ。
『葡萄のなる町』に名前を変えてしまってはいかがと思ってみたり。

すみません、ちょっとくだらない話でしたね。

それから父上。
最後に、あなたに伝えておかなければいけないことがあります。
僕はいつか、貴族制も奴隷制も排して皆が平等な世の中を

王子「……ダメだ。こんなの、父上が認めてくれるはずがない。書き直しだ」

盛夏、王都アルマリク。
じりじりと太陽が照りつける廟の下。
王子は書きかけの紙をくしゃくしゃに丸めて放り捨てた。
バルフへ遠征中の国王に向けた暑中見舞いである。

王子「僕は絹の服を着ているのに、どうして町を行き交う人は麻の服を着ているんだろう」

ここ最近『どうして』が口癖になっている。
大半は『身分が違う』という理由で片づけられる疑問ばかりなのだが、王子はつい『どうして』とつまらぬ疑問を抱いてしまう。

王子「どうして身分に差があるんだろう。みんな同じ人間じゃないか」

王子はバラのように赤い髪をかきあげて、再び筆を執った。

荒らし扱いされるのホント謎

白騎士「陛下へのお手紙ですかな」

王子「白騎士殿」

白騎士「探しましたぞ、王子。共に宮殿へ帰りましょう」

純白の甲冑を着込んだ、初老の男が傍に立っていた。
万の騎馬軍を率いる、王国軍きっての名将・白騎士である。
忠義に篤く実直な性格が評価され、王子の教育役を任されていた。

王子「今日という今日は絶対に帰らないよ。たとえ、白騎士殿が相手でもね。僕の決心は固いんだ」

白騎士「なぜそこまで宮殿の外に出たがるのです」

王子「なぜって……知りたいから。どうして世界はこんなにも美しいのに、人はいがみあうのか。身分の差で苦しまなければならない人がいるのか。知りたかったから」

白騎士「世の中は殿下が思い描くほど、美しくはないのですぞ」

王子は口をとがらせた。

王子「だから、こうやって現地調査しているんだろ。貧しい人の生活を観察して、どこが不満なのか具体的に書き出してみるんだ」

白騎士「表面から見るだけでは、分からないこともあります」

王子「うるさいな。いっつも口を出してきて。白騎士殿は僕の親じゃないでしょ。ちょっとくらい好きにさせておくれよ、宮殿は息苦しくってしかたないんだよ。毎日毎日、母上から礼儀作法を叩きこまれてさぁ」

白騎士「……陛下がバルフの遠征から帰還したそうです」

王子「えッ」

王子は目を丸くしたまま、その場に固まった。
もう帰って来たというのか。

父のことが好きだった。
物心ついた頃から、父は遠征のたびに王子を連れていってくれた。

馬を駆り、ふたりで様々な景色を眺めた。
天へ落ちる虹色の滝、ガラスのように透き通った鍾乳洞、湖面から一斉に飛び立つ魚の群れ。
見るものすべてが幻想的で、新鮮だった。

父が変わったのは、玉座に腰を下ろしてからである。
権力に固執するあまり、自分以外の人間を疑うようになったのだ。
そのくせ、奸臣の巧みな告げ口は信じてしまう。

証拠のない讒言が横行し、有能な文官が何人も処刑台送りにされた。
召使いと密通したかもしれない、という不確かな憶測だけで大唐国の公主さえ、首を斬り落とされた。

王を諫める者は消え、妃もハレムの女達も、誰もが国王を恐れた。

しかし、王子だけは未だに尊敬のまなざしを向け続けていた。

優しかった昔の父に戻ってくれると信じて。
また一緒に、世界を旅してくれることを夢見て。

国王率いる視察団が、アルマリクの門をくぐった。
周りを親衛隊に固められ、宮殿へ向かって馬を進める。

王の斜め後ろに控えているのは、側近だろう。
頭より大きいターバンが人目をひく。

側近「テルメズ兵が全滅したとの情報が入りました」

国王「なに、全滅だと」

側近「はい。軍師が策を練り、新生勇者が兵を鼓舞し、乳牛にまたがった若い将校が糞を巻き散らしながら奮戦した、とのことで……」

国王「最後の男が気になるが……思ったより早く壊滅したのう。まぁ、軍師が相手ではやむを得まいか」

側近「無駄な扇動はおやめください。町がひとつ機能停止しましたよ。テルメズの男子を全員、戦に駆り出したせいで」

国王「新生勇者の悪い噂を信じたのはテルメズの民じゃぞ。愚民が勝手に攻め込んで勝手に自爆しただけじゃ。我らに非はない」

側近「悪い噂を自国に流布させること自体、罪なのですよ」

国王「フン。寒村が何個潰れようが、知った話ではないな。後の処理は貴様に任せる」

宮殿に着いたところで、白騎士と王子が現れた。

白騎士「陛下、ご無事なようで何よりでございます」

国王「おう、白騎士か。余が留守の間、ご苦労であった」

白騎士「殿下も陛下の帰還を心待ちにされておりました」

後ろから、王子がおずおずと顔を覗かせる。

国王は王子の顔を見ようともせず、不満げに鼻を鳴らした。

国王「十七か、立派な大人だな」コツコツ

王子「まだ十六です、父上」

傍らを通り過ぎる父。
目で追う息子。
二人の間にそびえる壁はあまりに高く、固く、冷たい。
白騎士はいたたまれない気持ちになった。

国王「誤差の問題だ。どうでもよい。それより学業や武芸の調子はどうだ。もちろん、首席だろうな」

王子「はい、なんとか」

国王「なんとかではいかん。余の息子を名乗るからには、他の生徒と大差をつけよ」

国王「王族は他の糞貧乏人どもより完成度が圧倒的に上であることを、証明せねばならんのだ。分かるな」

王子「父上……ひとつ、質問があります」

国王「何だ、申してみよ」

王子「どうして王族、貴族、平民などと身分に差をつけているのですか。同じ国民として見ることはできないのですか」

白騎士「殿下……!」

王子「同じ人間なのに、僕みたいに宮殿で暮らす人がいれば便所掃除で臭い糞尿をかぶる人もいる。世の中不公平だと思いませんか。絶対そうだ!」

国王「ならば、明日から貴様は自分で野菜や果実を作り、自分で糞尿の処理をし、自分で家を建てるのだな」

王子「そ、それは……」

国王「誰しも、胸の内に欲望の炎を燃やしている。金持ちになりたい、美味い飯を食いたい、良い女を抱きたい、などと」

国王「しかし、身分の差をはっきりさせることで、糞貧乏人どもの欲望を抑え込むことができる。欲望を叶えようにも金が足りない、平民という肩書きが邪魔をする。次第に奴らは自らの境遇に妥協し、慣れ、従順となるのだ」

国王「つまり、身分制度は国を安定させるための箍のようなものだ。必要悪。気持ちのいいものではないが、なくてはならないものよ」

国王「息子よ、貴様の考えは幼稚だ。世の中、そう単純ではないのだよ。星の数ほどの人間が複雑に絡み合い、支え合い、蹴落とし合い、成り立っているのだ」

国王「誰の思想に毒されたか知らぬが、分不相応なことは言わぬが仏よ。糞貧乏人どもも、貴様に同情などされたくないだろう」


作者も同じこと言ってるしね

606:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]
俺なんかとあるスレで一回ネタレスしたら、外野が騒ぎ出してそれ以降ずっと粘着されてるわ
2017/12/21(木) 21:49:30.36ID:2xe7qRnY0 (2)


607:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]
あ、そう。一生懸命頑張ってね
2017/12/21(木) 21:57:22.66ID:k0G8USMSO (1)


608:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]
>>606特定した。あれはおまえが悪いと思う
2017/12/21(木) 21:57:31.99ID:3KsatTIQo (6)


609:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]
>>608
他にネタレスしている奴沢山おるやん
なぜに一回だけしかやってない俺をピックアップして粘着したのか不思議に思うわけよ
2017/12/21(木) 22:00:38.44ID:IRf2blm6O (3)


610:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]
あんなの感想ですらないじゃん、擁護しようがないよ。というか、おまえまだあの作者に粘着してるやろ
2017/12/21(木) 22:07:11.92ID:3KsatTIQo (6)


611:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします []
>>610 スレは覗くけど、ネタスレなんて一回だけだぞ
変なノリに乗っかったのは正直すまないと思う
だが、何日もネチネチ粘着されるレベルじゃないとも思うわ
何の目的があるかは知らないが
2017/12/21(木) 22:11:04.56ID:IRf2blm6O (3)

夕方、王子の部屋に二人の侍従が呼び出された。
扉を開けると、部屋の隅にいくつか大きな袋が寄せてあった。
不審に思った侍従たちは、袋を外側からべたべた触ってみた。

侍従A「何かがパンッパンに詰まっているな」

侍従B「ちょっとだけ、紐を解いて中を覗いてみろよ。なに、殿下は留守だ。それっぽく結びなおしておけばいい」

侍従Aが恐る恐る覗きこんでみると

侍従A「饅頭だ。拳大のデケェ饅頭がめちゃくちゃ入ってる」

侍従B「えッ、なんで?」

侍従A「もしかしたら、毒が盛ってあるんじゃないか? 陛下も含めた自分の関係者をみんな抹殺して……」

王子「残念だけど、不正解」

二人の侍従は肩をビクリと震わせ、後ろを振り向いた。
麻の服を着た王子が、夕陽の中で静かに微笑んでいる。
その微笑みが、余計二人にいらぬ想像をさせた。

王子「やぁ、来てくれてどうもありがと……」

侍従A「許可なく覗いてしまい、申し訳ございませんでした!」

侍従B「ほんの出来心で……どうか、お許しを!」

王子「まぁまぁ落ち着いて。なら、袋の中身は知ってるね? 今回君達に頼みたい仕事はそれなんだよ」

王子「かくかくしかじかで、饅頭を一緒に配ってほしいわけ」

侍従A「そうだったのですか……」

侍従B「しかし、殿下も奇妙なことをなさる」

王子「二人とも、これは僕達だけの秘密だからね。父上にも、側近殿にも、白騎士殿にも言ってはいけないよ」

侍従A「承知しました。殿下」

王子「実はね。僕は『王の目・王の耳』という諜報姉妹を雇っているんだ。彼らは諜報の他に、殺しもやる。闇に紛れて、標的の喉笛を掻き切るのさ。君達二人を消すくらい、朝飯前だよ」

侍従B「な、なんと恐ろしい……決して口には致しません」

王子(まぁ、真っ赤なウソなんだけどね)クス

どうしても、奴隷と話がしたかった。
彼らが日々、何を思い労働に従事しているのか。
教科書で学ぶだけではない、生の声を聞いてみたかった。

しかし、きっと彼らは容易に心を開いてはくれまい。
王族と話すことに、引け目や恐れを抱くだろう。
そこで、労いとして甘い饅頭を与え、話を引き出す。
口を開かせる。

王子「なにも奴隷の仲間になろうっていうわけじゃない。国に対する不満を調査して、記録に残すだけだ。これは僕が良き王になるための、大事な研究なんだ。そこを弁えてくれよ」

白騎士「やはり、何か企んでおりましたな」

鎧の擦れる音。
開けたままのドアから、白い甲冑姿の男が入ってきた。

白騎士「父君にあれだけ言われておきながら、性懲りもなく奴隷と関りを持とうとなさるのですか」

王子「げ、白騎士殿……」

白騎士「平民ならまだしも、奴隷は少々いただけませんな。彼らは国の法律上、家畜と見なされているのですぞ」

王子「家畜だって? なんてひどい!」

白騎士「畜生と話す王子が、どこにあります。その袋を今すぐ戻してきなさい。大方、厨房からくすねたのでしょう」

王子「クソ」

白騎士「クソ、などと汚い言葉を使ってはなりませぬ。殿下は王族です。学のない平民や奴隷に、示しをつけなければならない身。下々の者については、我ら臣下がどうにかしますゆえ……」

王子はかぶりを振り、キッと白騎士を真正面から睨みつけた。

王子「白騎士殿も、父上と同じことを言うんだね」

王子「どいてくれ!」

白騎士「はッ」

白騎士は思わず拝跪した。
彼の家は先祖代々、王家に仕えた由緒正しき騎士の血族である。

どんなに間違っていようと、命令は命令。
自分の信念を曲げてでも、絶対に従う必要があるのだ。
白騎士に王子を止めることはできなかった。

王子「僕が優しくしてあげなくちゃ、誰が奴隷のみんなを救うんだよ。せめて僕だけは彼らに寄り添ってあげたい!」

白騎士と二人の侍従を連れ、王子は工事現場を訪れた。
サイコロ型のラピズラズリが、隙間なくぎっしりと積まれている。
ゆくゆくは王族の別荘となる場所だ。
蒸し暑い真夏の夜、清涼感の溢れる別荘で優雅なひとときを過ごすつもりなのである。

別荘を建てることに特段、政治的な意味はない。
せいぜい大唐国の来賓をもてなす程度であろうか。
いずれにせよ、金持ちの道楽に変わりない。
その道楽のため、奴隷達は滑りやすい崖でラピズラズリを掘り出し、研磨し、加工し、建築材料として積み上げているのだった。

彼らの瞳に、光はなかった。

白騎士「奴隷のほとんどは他国の捕虜や最貧層です。なるべくしてなった者。殿下の試みが心に響くとは思えませんが」

王子「黙って眺めているより、よっぽどマシだ。白騎士殿も手伝ってくれよ」

王子「さあ、遠慮せずに食べてくれ! これは僕からの餞別だ」

饅頭を盆に載せ、土埃舞う作業場を歩いて回る。
王子は奴隷達が目を輝かせて饅頭に飛びつくものだと考えていた。

しかし、彼らは王子が差し出した饅頭を手に取ろうとしない。
ある程度の距離を置き、じっと無言で見つめるだけである。

「やめろ! そんなモン配るんじゃねぇ!」

群衆をかき分けて、一人の少女が怒鳴り散らしながら現れた。

奴隷少女「王族の腐った施しを受けるほど、あたしらは落ちぶれちゃいねぇ。とっとと宮殿に戻りな、クソガキ」

王子「どうして? 僕は君達をねぎらいたいのに……」

奴隷少女「自己満の押しつけなんか、こちとら迷惑なんだよ。それともなんだ、この鉄枷を外してくれんのか?」

王子「……」

少女は吐き捨てるように言う。

奴隷少女「ケッ! 最初から期待なんざ、これっぽっちもしてないぜ。王族や貴族はみんな、自分の儲けのことしか頭にないんだ」

奴隷少女「昨夜も炭鉱区で働く女の子が死んだよ。現場監督に嫌われて、鞭打たれて殺されたんだ」

奴隷少女「あの女の子は、歌が上手でさ。王族にも貴族にも平民にも分け隔てなく声を届ける歌姫になりたいって笑顔で話してた」

奴隷少女「お前ら王族が、彼女の笑顔を奪ったんだ。それだけじゃない。今も数えきれないほどの奴隷が、不当な暴力で命を奪われてる。その自覚が、あんたら支配層にはあんのかよ」

王子はぽろぽろと大粒の涙を流した。
異変を感じた白騎士が、すかさず王子を庇うように立つ。

王子「ごめんなさい……ごめんなさい……僕のせいで、皆が辛い目に遭ってる……僕に力が無いから……ごめんなさい……」

奴隷少女「ふざけんな。泣きたいのはこっちだってのに、メソメソしやがって。お前は泣いている自分に酔ってるだけだろうが」

王子「違う! 違うんだ……」

白騎士「行きましょう。これ以上の問答は不毛です。貴様、奴隷の身分でありながら、殿下に対し働いた非礼の数々。許しはせぬぞ」

奴隷少女「あ? なんだお前。教育係なら、そのクソガキに教えてやれよ。世の中はお前が考えているほど甘くないってな」

白騎士は奴隷少女を警戒していた。
この少女が王子を責め始めてから、背後に控える奴隷達の様子が変わったのだ。

異様な闘気。
落ち窪んだ目に宿る光も激しさを増している。
この少女の下に、奴隷達は奴隷達は団結しているのだ。

危険だった。
このような底知れぬ活力に溢れた者が、いつの世も王権を打倒する。
王の首を刎ねる。
ここで殺してしまわねば、後々王子の身に危険が及ぶやもしれない。

王子「やめてくれ、白騎士殿。僕が悪かったんだ。饅頭は持って帰るよ。勝手な真似をして、すまなかった」

誤字

奴隷達は奴隷達は

ではなく

奴隷達は

です

失礼しました

王子と白騎士は互いに一言も喋らず、厨房へ繋がる廊下を歩いていた。
あの後、王子は白騎士と侍従二人を連れて逃げるように作業場を立ち去ったのだ。
奴隷の心は、奴隷の身分に落とされなければ分からない。
王権の庇護下にある王子に、理解できるはずがなかった。

ここで民に歩み寄るか、民を遠ざけて遊び惚けるか。分かれ目だった。
現国王は遊び惚けながらも裏で世界各地に諜報部隊を送り、叛徒や賊の情報を受け取って分析している。
大唐国との交渉もまずまずだ。

しかし、この王子には父のような狡猾さがなく、機転も利かない。
遊びに耽れば、史上最低の愚王が誕生するのは火を見るよりも明らかだ。

白騎士「選択次第では、私は殿下に手をかけねばなりません。腐り果てた王家を正すために。私は王族に仕えているのではない。アルマリクという都市、ひいては国に仕えているのです」

そう思ったものの、口には出さなかった。
前を歩く王子の赤い髪が、初夏の乾いた風になびいていく。

勇者の家。枕元に、二人の男が座っている。
一人は羽扇を片手に携えた童顔の小男。
一人は鎖帷子を着込んだ、若く精悍な将校である。

童顔の男が呆れたように呟いた。

軍師「戦争が終わった矢先、熱を出す勇者がどこにいる」

便所掃除「勘弁してやれよ。軍人の俺でも完全な殲滅には苦労したんだ。こいつは軍の訓練を受けていない町人なんだろ? 生きて帰ってこれただけでも、御の字さ」

テルメズとの戦から三日。
死体処理や牧草地の洗浄はあらかた済んだ。
疫病を防ぐため血や糞のついた武具はアムダリヤ川で洗い、新たな侵攻に備えて防塁の再建も始まっている。

便所掃除の奮戦が噂となって広まり、近隣の村々から勇者軍に入りたいと志願する若者も増えた。
特にマザーリシャリーフなどは村人全員が尻に火が点いたかのごとく、訓練に励んでいるという。
すべてが変わりつつあった。

勇者「軍師、便所掃除、見舞いに来てくれたのか」

軍師が羽扇で勇者の額を叩く。

軍師「来てくれたのか、じゃあない。これからの方向性を決める大事な会議を開きたいのに、貴様がいなければ始まらんではないか」

勇者「そ、それはすまん」

便所掃除「待ちきれなくて、今から三人で会議を始めるんだとさ」

軍師がベッドの上に大きな地図を広げた。

軍師「やはり、王国軍だった」

勇者「なにが?」

軍師「テルメズ軍をけしかけた黒幕。間諜に調べさせて分かったのだが、王国軍がバルフを出発してから数日後、わざわざ山脈を縫うように迂回してテルメズに立ち寄っている」

便所掃除「それだけじゃない。テルメズの村長宅にも、アルマリクの国旗が翻っていたそうだぜ」

国王が理由をつけて、テルメズの男達を動かしたのだろう。
金銀を握らせたか、女子供を人質に脅したか。
理由はともかく、これはもはや王国軍による宣戦布告と見ていい。

軍師「とはいえ、まだまだ王国軍と勇者軍では力量に天と地ほどの差がある。加えて、王国軍の背後には大唐国が控えているのだ」

便所掃除「高仙芝の野郎も相手すんのかよ。キツイな」

大唐国の高仙芝は、武力・統率力・知力の三つを兼ね備えた稀代の名将として、勇者軍の間で恐れられていた。
魔王との最終決戦では、たった千騎で数万の魔王軍を打ち払った実績も持っている。

勇者「なんとかして大唐国をアルマリクから引っぺがしたいね」

軍師「ならば、我々が力を示さねばならん。周辺の都市を味方につけ、王国軍に負けぬほど勢力を拡大し、同盟を組んで利のある相手であることを教えなければならない。それは分かっている」

軍師「分かっているからこそ、今回の会議を開いたのだ。バルフの次に手に入れるべき場所を、貴様に伝えようと思ってな」

軍師「紺碧の都市・サマルカンド。ここだ。サマルカンドを治めるエルフ族は、王国側にも勇者軍側にも与していない。同盟を結べば、強力な味方になる」

バルフから十里ほど北に進んだ所に、『Samarkand』と太い赤文字が記されている。
高低差の激しい鉄門街道を抜ければ、数日で辿り着ける山間の都市だ。
弓の名手が多いエルフ族の地。

便所掃除「エルフの連中が敵になったら、やべぇな。アムダリヤ川を下れば、そのまま勇者軍本拠地のバルフについちまう。テルメズみたいに、いつ攻めてきてもおかしくないぜ」

勇者「けど、いきなり押しかけて『国と戦争するから味方になってください!』なんて頼んだところで、余計な厄介ごとに巻き込まないでほしいって突っぱねられるに決まってるよ」

軍師「真正面から突入してどうする。自分が勇者であることは隠せ」

勇者「え、俺が行くの?」

軍師「魔女と二人で行ってもらう。他の人間が動けない以上、新生勇者の肩書きを持つ貴様がエルフを説得するしかない」

勇者「魔女……頼もしいような頼もしくないような」

便所掃除「お前、バルフから出たことはあるか? 無いなら今の機会に世界をよく見て回っておけよ。大丈夫。バルフの守備は俺と軍師に任せて、テメェは大きく構えてりゃいいんだぜ」

軍師「勇者の聖剣は、ここぞという時に披露しろ。サマルカンドでの対応は、全て貴様と魔女に任せる」

勇者「やれるだけ、やってみるよ」

一部てにをはを間違えている箇所(×王子に手をかける ○王子を手にかける)がありますが、ご了承ください

陽が沈み辺りが薄暗くなった頃、軍師と便所掃除はそれぞれの持ち場へ帰っていった。
自分の他に誰もいないせいか、家の中が随分と広く見える。

通りに響き渡る喧騒は、未だ絶えそうにない。
眠るのには些か不便しそうだが、町が賑やかなのは良いことである。
賑やかな分だけ物が流れ、金が動く。町全体が肥えていく。
先代勇者が暴政を行っていた頃は、どこか鬱屈とした暗い雰囲気が漂っていた。

今は違う。

皆が皆、新たな勇者の下に一致団結し、自分の生活をさらに良くしようと努力している。

勇者「やっと俺も、勇者軍に貢献できる場を手に入れた」

そう考えると、嫌な気はしない。
大富豪の屋敷では、妹が夜を徹して校正の嵐と向き合っている。
軽い調子のある間諜も、部下を育て暗躍の真っ最中だ。
自分だけ楽をするなど、落ち着かなかった。

間諜「こんばんはーッ!」

勇者「わッ!」

窓の外から、ニュッと首が突き出してきた。
茶色の髪に魔道具・ヘッドフォンを着けた少女。間諜だ。
床に転げ落ちた勇者を見て、クスクス笑っている。

間諜「大丈夫ですか? まさかそんなに驚くなんて……ぷぷぷ、ごめんなさい」

素早く身体を滑り込ませると、間諜は勇者の傍に音もなく降り立った。

勇者「軍師と便所掃除の次は間諜か。仕事の途中だろうに、ありがとう。本当、頭が下がる思いだ」

間諜「私の勇者さんが倒れたと聞いて、生きた心地がしなかったです! でも、思ったより元気そうで安心しました」

勇者「仕事の調子はどう?」

間諜「まずまずですね。大富豪さんが腕の立つ忍びを50人ほど紹介して下さって。今はその50人と協力し、タシケントまで続く間道を探してます。ちゃんと成果は出ていますよ」

勇者「順調なんだな。お前が羨ましいよ、間諜」

間諜「順調だなんて、とんでもない。至るところで、王国側の諜報部隊と衝突しているんです。昨夜も三人が殺されました」

間諜「暗い話はここまでにして」

間諜は窓に鍵をかけた後、サッとカーテンを閉めた。

間諜「これでやっと、二人きりになれましたね」

彼女の妖艶な微笑みに勇者の胸が高鳴る。
二人きりで何をするつもりなのか。
わざわざカーテンを閉める必要はあるのか。

間諜「夕飯、作りに来たんですよ。私の勇者さんが元気になるよう、腕によりをかけちゃいます!」

彼女は野菜と肉の入った布袋を卓の上に置いた。

勇者「なんだ、料理か」

間諜「むー、どうしてそんな露骨に嫌そうな顔するんですか! 私が作るんですよ? 流石に一流の料理人には化けられませんけど……普通の人より美味しいご飯は作れるんですから!」

勇者「ごめん、俺が勘違いしてただけなんだ。楽しみにしてるぜ」

間諜「じゃあ台所、ちょっとお借りしますね!」

夕飯を作るだけなら、なおさら窓やカーテンを閉める必要はない。
勇者は気になったことを彼女に聞いてみた。

勇者「バルフにも王国軍の諜報部隊が紛れているの?」

包丁で人参を細切りにしながら、間諜が答える。

間諜「はい。猜疑心の深い国王は、ほとんどの町に諜報部隊を送り込んでいます。叛乱の芽を摘むためですね。今回の件で、以前よりも多くの『偽町民』がバルフに潜伏するようになったはずです」

王国軍の諜報部隊は一般人に扮しているという。
兵がよく利用する鍛冶屋や勇者行きつけの料理店、防塁再建の土木現場。
あらゆる場所に潜伏し、聞き耳を立てているのだ。

間諜「勇者さんも、窓全開にしてちゃダメでしょ。殺してくださいと言っているようなもんですよ。もうちょい気をつけて」

底の厚い鉄製のカダイ鍋に油を引き、そこへ米、人参、玉ねぎ、サイコロ状に切った羊肉を入れ、ジャッジャッと軽く炒める。
台所から湯気と共に、旨そうな匂いが漂ってくる。

間諜「あと私が敵だったら、とっくに勇者さん死んでますよ」

勇者「そうだな」

間諜「そうだな、じゃないです。すっごい呑気なんですね。そのバカみたいな能天気さが勇者さんの強みなのかもしれないけど……」

勇者「褒めてるの、それ?」

間諜「もちろん! 私はいつでも勇者さんの味方ですから」

大皿に盛ったプロフが勇者の前に置かれた。ほかほかと立ち昇る湯気には、微かに唐辛子のスパイスが混ざっている。

間諜「完成です! 唐辛子がピリッと効いたプロフ(ピラフ)! 食べると体がポカポカしてきますよ」

間諜はベッドの縁に腰かけると、木の匙で米をすくい勇者の口元まで運んだ。

間諜「ほら、口を開けて。あーん」

勇者「お、うまい! 唐辛子の辛さが舌先で火花みたいに弾けて……。食べてるだけで楽しい料理、作れるんだな」

間諜「ふふッ、ありがとうございます」

勇者「間諜、ベッドの上に皿を置いてくれれば、あとは一人で食べられるから。わざわざ食べさせてもらうなんて申し訳ない」

間諜「いえいえ、これは私が好きでやっていることですから。あなたは気にせず食べて、寝て、病気を治してくださいね」

間諜「でも、魔女さん羨ましいなぁ……私の勇者さんと一緒に旅ができるだなんて。私も仕事放りだして、ついて行きたいです」

ため息をつく間諜の横顔に、勇者はドキッとした。
間諜は皆が手放しで絶世の美女と称賛するほど顔が整っているわけではない。
しかし、愛嬌のある仕草や時折見せる寂しげな表情は、この世のどんな麗人でも生み出せない独特の美しさがあった。

間諜「どうかしました?」

勇者「いや、なんでもない」

間諜「ちょっと、変なこと考えてたでしょ! 隠しっこなしです。言わないとご飯食べさせてあげません」

勇者「飯を人質に取るなんて卑怯じゃないか。それでも勇者軍の間諜かよ」

間諜「逆に卑怯じゃないと間諜なんてやってられません!」

勇者「分かった分かった、答えるよ。なんだか、お前が生き生きしていてさ」

間諜「へ……?」

勇者「俺なんかより、眩しいほど輝いている。思わず見惚れたよ。それだけだ。他に言いたいことはない」

間諜「じょ、冗談よしてください。わ、私なんか褒めても、別に何も出やしませんからね」

間諜「それに私、薄汚れた仕事で食べてきた人間ですし、魔女さんの方が私よりも数倍……」

勇者「俺は立派な仕事だと思う。見えない所で命を張って、不安定な勇者軍をずっと支えてくれた。間諜がいなかったら、俺はバルフを拠点にすることすらできなかったかもしれない」

勇者「ありがとう、間諜。心の底から感謝している」

彼女の目が大きく見開かれた。
頬をほんのり紅く染め、勇者の視線から逃げるようにうつむく。

間諜「お世辞ばっかり……」

静寂が部屋を包んだ。
暫し間諜はうつむいていたが、何かを振り切るように立ち上がった。
両手を腰に当て、説教するように捲し立てる。

間諜「い、いいですか勇者さん! 私達は強大な国家を相手取っているのです! たとえ多くの同胞を獲得しても、その犠牲は計り知れないでしょう」

勇者「それは分かってるよ」

間諜「分かってません! こんなところで、あの人が綺麗だのこの人が美人だの、現を抜かしている暇なんてないのです!」

勇者「いや、お前……」

間諜「危うく自分を見失ってしまうところでした……いけませんね。勇者さんの顔面は凶器です!」

勇者「顔面が凶器って酷い言い様じゃないか」

間諜「とにかく! これにて私は失礼します。その笑顔、くれぐれも私以外の人に向けちゃダメですよ! みんな心を乱してしまいますから……」

そこまで話すと、間諜は影と同化するように部屋から姿を消した。

勇者「はぁ……」

勇者は溜息をついた。
何とも身勝手な理屈を押しつける少女だ。
しかし、その少女が数十人の忍びを束ね、王国軍の諜報部隊と血みどろの闘いを繰り広げているのである。

勇者「やっぱり間諜には頭が上がらないな」

皿にはまだ、食べかけのプロフが湯気を立てていた。
夜空に浮かぶ満月は、今宵も銀色の光を放っている。

身体が嘘のように軽い。眩暈もすっかり収まった。
数日ぶりの外は暗く、冷え込んでいた。
家の周りを一周だけ走った後、共同井戸の水を汲み上げて飲んだ。
身体中の眠気が吹き飛んでいく。

勇者「腹減った。飯だ飯」

かまどに火をつける。
鍋が温まるまでの間、勇者は棚にあった丸いチーズを小刀で薄くスライスした。
鍋の準備が整ったところで、チーズを投入。
溶けるまで両手をこすりながら、辛抱強く待つ。

勇者「お、できたみたいだな」

ナンを溶かしたチーズに浸けて頬張る。
それだけなのだが、とても美味い。食べれば食べるほど、腹が減ってくる。
溶かしたてのチーズは熱いので、水で口の中を冷やしながら食べた。

勇者「よしッ」

朝早く出立した。花畑の丘を登り、屋敷の前に立つ。
悪趣味な純金の像は既に撤去されていた。屋敷全体を覆っていた金箔も剥がされてある。
良く言えば瀟洒、悪く言えば地味な外装だった。

魔女「3分遅刻。おはよう、寝坊助さん」

声が降ってきた。
屋根の上に魔女が座っている。
荷物は何も持たず、どこか散歩へ出かけるような姿だ。
険しい鉄門街道を通るに相応しい恰好ではない。

勇者「遅れてすまない、準備に時間がかかって。……魔女、手ぶらに見えるけど大丈夫か?」

魔女が目の前に降り立った。短いスカートがふわりと舞い上がる。
ちらと見えた純白の下着に、思わず勇者は目をつむった。

魔女「心配いらないよ、野宿には慣れてる」

魔女「先代勇者君の冒険も、終盤になると財布が大分カツカツになってきてね……泥沼でも崖っぷちでも、気合いで寝たものさ」

勇者「そういうことを聞きたいわけじゃないんだ」

首を傾げる魔女。

勇者「これからエルフ族を仲間に引き込むんだぞ。どんな道具を使って説き伏せるだとか、どこから攻めてみるかとか……」

魔女「綿密な計画を練るのは軍師の仕事。ボクらの仕事は何か、もう一度よく考えてごらん」

いくら計画を練ったとしても、標的の心を衝き動かせなければ意味がない。卓上で考えられることには限りがあるのだ。

勇者「もっと気楽に構えろ、か」

魔女「そういうこと。じゃあ、出発しようか」

魔女が白い歯を見せ、手を伸ばした。
薄紫色の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。

魔女「紺碧の都市・サマルカンドへ!」

勇者「楽しい旅になりそうだ」

ふっと優しく笑みを浮かべ、勇者は魔女の手を取った。

空気が熱く、乾いていた。喉がひりひり痛む。
竹筒の水はもう半分まで減っている。日照りが強く、歩くだけでも水分が汗となって流れ落ちる。
鉄門街道という険しい山道ならなおさらだ。

額にじっとり滲んだ汗を拭い、勇者は溜息を吐いた。休みたい。
どこでもいいから、日陰の下で少しの間だけ眠りたい。

勇者「魔女、ちょっと休もう」

魔女「まだまだ、陽が高いうちに進んでおかないと。夜は暗くて足場が見えない。キミを歩かせるわけにはいかないね」

勇者「そんなの、光魔法で辺りを照らせばいいじゃないか」

魔女「ダーメ! 光魔法は消費するマナが多いんだ。使い続けると身体中の生命力を使い果たして、しわしわのお婆さんになっちゃうよ」

勇者「せめて、雨が降ってくれたら最高なんだけど」

魔女「キミが望んでいるような、適度な雨は降らせられないよ。ボクの魔法、意外と加減が難しくてね。魔物を殲滅するためのものしか覚えていないんだ」

勇者「魔女の魔法、実用的なものほとんどないんだな」

魔女「みんな魔王を倒すためさ。ボクだけじゃないよ。先代勇者も戦士も僧侶も、魔物を殺す訓練しか受けていない」

魔女「所詮、ボク達は使い勝手のいい兵器だったんだよね。勇者パーティーと聞こえはいいけれど」

そう語る魔女の横顔は少し寂しげだった。

勇者「おい、あれ……人が住んでるんじゃないか?」

崖の下に、集落が見えた。
煙突のような形をした、筒状の家が連なって建っている。
どれも漆喰で塗り固められた、原始的な家屋だった。
集落の周りに広がるのは黄金色の麦畑だ。
二頭の黒牛が刈り取った麦を踏んで脱穀している。

魔女「ハザラ族の集落だ」

勇者「ハザラ族?」

魔女「鉄門街道には多くの少数民族が集まっていてね。ハザラ族もそのひとつなのさ。もとはウイグルと同じ、遊牧騎馬民族だった」

ハザラ族は王国軍の圧力を受け、鉄門街道へと逃げた民族である。
数えきれないほどの男が殺され、婦女子が慰み者にされ、同胞の数はかつての三分の一にまで減ってしまったのだという。

勇者「ハザラ族は王国に強い恨みと憎しみを抱いているのか。なら、協力を仰げるかもしれない」

魔女「どうだろう、そこまで甘くないと思うけど」

二人は慎重に崖を降り、ハザラ族の集落へ足を踏み入れた。
ハザラ族の家は崖上から見るよりも、予想以上に大きかった。
バルフの町でよく見かけた、祆教の拝火殿に似ている。
一回の小窓から中を覗くと吹き抜けになっており、螺旋状の階段が上まで続いていた。

勇者「ごめんくださーい」

勇者の声が、塔の中で空しく響き渡る。もう一度呼びかける。

宿屋の主人「何モンだおめェら!」

振り返れば、フォークのような形の農具を構えた男。
麦を踏んでいた二頭の牛を連れ、麦畑からちょうど帰ってきたところのようだ。
勇者と魔女を空き巣か何かと勘違いしている。勇者は慌てて頭を下げた。

勇者「いきなりお邪魔してすみません。俺達、サマルカンドに用がありましてカーブルからはるばる旅してきたんです」

魔女「ボクら、世界中を旅する大道芸人でね。ドワーフ族を驚かせて、今度はエルフ族に芸を披露しようと思っているんだ」

カーブルとはバルフの南にある都市のことだ。ドワーフ族の統治下に入っており、王国の手が及んでいない。就いている職業も怪しい『冒険家』ではなく『大道芸人』とした。

宿屋の主人「なんだ、そんなことだったのか。盗賊だと思ってビックリしたぜ。武器向けちまってすまねぇな」

宿屋の主人「オラ、隊商宿やっとるんよ。この村に留まるなら、オラのところで休んでいくといい。金は取らねぇからよ」

勇者「ありがとうございます! 別に納屋でも構いませんので……」

宿屋の主人「大事なお客様を、納屋に泊めるなんて宿屋失格だろうが。三階の部屋は誰も使っていない。案内してやる」

急な螺旋階段を上り、三階の客室に案内された。
がらんとした殺風景な部屋に、寝具と思しき毛布が二つ敷いてある。

奥の壁には、四角い小窓がひとつ。
窓と言っても穴を開けただけなので、冷たい風はもちろん吹き込むし、雨の日に立てば身体が濡れてしまう。
それでも、野宿するよりは百倍ましだった。

勇者「金も払わずお世話になっていいのかな」

魔女「こちらが払おうとしても、相手は受け取らないだろうね」

勇者「俺、ちょっとハザラ族のことが好きになりかけてる。こんな優しい人達に巡り合えて、幸先が良いな」

魔女「先に言っとくけど、これは慈善事業じゃないよ。客に問題を起こされたくないから、安全に村を通過してほしいから待遇を良くするんだ。一種の自己防衛さ」

窓から外を覗くと、宿屋の主人が二人の供を連れて隊商宿から出て行く様子が目に入った。
三人とも、農業用のフォークを担いでいる。牛に脱穀をさせた後は、何をするつもりなのか。
勇者は彼らの行き先を見守った。

宿屋の主人「今日は良い風が吹いている。お前ら、オラの合図に合わせるんだぞ」

三人は牛に踏まれた麦の山を囲んで立った。
俄かに、木々がざわざわと揺れはじめた。砂塵が舞い上がる。川面が波打つ。
ごう、と一際強い風が吹き荒れた。その時だった。

宿屋の主人「そーれッ!」

麦の山へ、三人が一斉にフォークを突き立てた。
突き立てるやいなや、すぐさま撥ね上げる。大量の麦が宙を舞う。
バラバラとその場に落ちるものもあれば、遠くまで風に飛ばされる殻粒もある。
嘘のように風が凪ぎ、また吹き荒れた。

宿屋の主人「腕に来るだァ? ハハハ、良かったじゃねぇか!」

ハザラ族に伝わる民謡を口ずさみながら、三人は一定のリズムで麦を宙へ放り続ける。
実の詰まった良質な麦は地へ落ちる。中身のない麦は風に流され消えていく。
ふるいにかけるより、効率的な選別の仕方だ。バルフではあんなやり方は見たこともなかった。

宿屋の主人「このくらいで良いだろう。おめぇら、休んでいいぞ。オラは他の仕事がある。陽が沈んだら帰る」

二人が去った後、主人はその場にしゃがみ込んで選別した麦の状態を見た。
本当に良質な麦か確かめるためだ。すると、麦山の奥から姿を表した影がある。
蒼い絹服に身を包んだ上級官員だ。

勇者「なぜこんな辺鄙な場所に上級官員が?」

目を疑った。宿屋の主人は官員に何度も頭を下げ、何かの入った包みを渡している。
包みを受け取った官員はピンと伸びた髭をつねると、踵を返して再び麦山の奥へ消えていった。

魔女「なにか面白いものでも見えた~?」

魔女がぶっきらぼうに聞いてくる。
振り返ると、彼女は雪のように白い髪を櫛で梳かしている最中だった。

勇者「面白いものだって?」

魔女「声、震えてるよ」

勇者「うッ……」

宿屋の主人は官員と繋がっている。どういう形かまでは知らないが、繋がっていることに変わりない。
油断ならない人物だ。もし勇者であることが知れたら、官員ひいては国王にまでこちらの動きが筒抜けになってしまう。

魔女「キミが思っていること、当ててあげようか」

勇者「ああ?」

魔女と目が合う。混じり気のない薄紫色の瞳。
思っていることとはなんだ。
彼女はどこまで自分の心を見透かしているというのか。

宿屋の主人「おい、おめぇら。夕飯までちょっとかかる。その間に、サウナで汗でも流してこい」

魔女「ふふっ、ありがとう。部屋だけじゃなく食事やサウナまで」

宿屋の主人「久しぶりのお客様だからな。あとでゆっくり話、聞かせてくれや」

目を細めて笑う宿屋の主人。
その笑顔が、勇者には紛い物のように思えてならなかった。

隊商宿を出て麦山を横目に少し歩くと、卵型の大きな建物が見えた。
外壁も床も、なんとすべすべした大理石でできている。
ハザラ族が建てたものとは、到底思えない。
しかし、勇者は首を横に振る。

勇者「俺が想像する以上に、ハザラ族は進歩した技術を持っているのかもしれない。まだ決めつけるのは早いぞ」

部屋の中央に、焼けて赤くなった石が置いてある。
扉の辺りにあった水瓶を抱え、なみなみと注がれた冷水を石にかけてみる。たちまち白い湯気が立ち昇った。
焼けた石に水をかけ、蒸気で室内の温度を上げる。単純だが、なかなか考えられている。
勇者は大理石の床にあぐらをかき、ぼんやりと石を眺めた。

勇者「散々な一日だったな」

牧草地を抜けてから、ひたすら荒れた山道を歩き続けた。
疲れ果て脚が棒になっても、魔女は平気な顔で急かしてくる。
最初に会った時と、だいぶ印象が変わった。
謎の多い美女というよりも、ただの面倒臭いお姉さんのように思える。

魔女「やぁ、気持ちよさそうだね」

身体に布を巻いた魔女が、勇者の隣に腰を下ろした。

勇者「魔女、どうして来たんだよ」

魔女「ん? ボクも汗を流そうかなって。悪いかな?」

勇者「別に悪くはないけど……目のやり場に困る」

魔女「キミは前を向いてひたすら突き進めばいい。横や後ろを見張るのは、ボク達の仕事さ」

勇者「いや、そういう意味ではなくてね……」

しばらく二人は無言で焼石から立ち上る蒸気を眺めた。

勇者「……間諜が命懸けで道を切り開いているのに、俺達だけサウナでのんびりしていいのかな」

魔女「平和だよね、この村」

勇者「ああ」

魔女「厄介ごとなんか起きて欲しくないよね~、ふっふっふ」

まるで厄介ごとを望んでいるかのような口ぶりに、勇者は肩を竦めた。仰向けに寝転がる。
天井のアラベスクがぼやけて見える。隣では、魔女が顔に泥を塗りたくっていた。

勇者「そういえば……さっきの話、聞かせてくれ」

魔女「さっきの話?」

泥まみれのまま、覗き込んでくる魔女。

勇者「俺の考えていることが分かるんだろ。サウナにいるのは俺とあんただけだ。遠慮なく言えよ」

魔女「ん~とね、キミは『美人と定評のある魔女先生と同じ部屋? なんたる僥倖、デュフフ!』と考えて……」

言いかけたところで、魔女はハッと顔を上げた。
暗闇の中、一点だけを見つめている。

魔女「あそこに、誰かいる」

勇者「俺達の他に? まさか、変なこと言うなよ」

魔女「キミ、そんな隅にいて寂しくないかい。ボク達のところへ来てくれないか。ハザラ族の民謡に興味があるんだ」

返事はなかった。物が動く気配すら感じられない。

魔女「勇者君、行ってみよう。様子がおかしい」

勇者「おい、そんな大胆に近寄っていいのかよ」

急いで後を追うと、魔女が振り向いて言った。

魔女「見給え、ボクの予想した通り人が倒れている」

痩せこけた老人が、壁にもたれかかっていた。すでに息絶えている。
特にこれといった傷痕は見当たらないが、落ち窪んだ眼窩や骨と皮だけの遺骸は、異常極まる状況と呼ぶに十分過ぎた。

魔女「すごいなキミは。厄介ごとを招き寄せる天才だ」

勇者「それなら凡才の方が良かったよ、まったく」

荒れ地の奥に潜む謎の集落。
誰でも無料で泊める隊商宿。
官員と怪しい取引をする宿の主人。
そして、事件を引き寄せる勇者の宿命。

これだけの条件が揃っていて、無事に村を通り抜けられるはずがない。

その日の夜は、宿屋の主人と当たり障りのないことを話して終わった。
大道芸人になった経緯や、カーブルでドワーフ族に披露した芸についてだ。
一応、この村では大道芸人として通っている。
勇者であることが宿屋の主人に知れたら、こちらの動きが最悪の場合、国王にまで知られてしまう。

魔女「ふぅ~、ご飯おいしかったね~」

三階の客室。
ほろ酔い加減の魔女が舌足らずな口調で絡んでくる。
勇者は魔女を無視し、荷を解いた。織布にくるまれた、一本の剣。
先代勇者が佩いていた、伝説の聖剣である。
これで魔王アジュダハを討ち取ったのだという。いつ聞いても信じられない御伽噺だ。

勇者「こんな鉄の塊ひとつで、先代様もよく魔王に立ち向かったよな。町人の俺には到底真似できないことだ」

魔女「聖剣と先代勇者だけだったら、負けていたよ。戦士、僧侶、ボク。兵站線を担った大富豪。周辺国に援軍を要請してくれた国王陛下。すぐさま要請に応じた大唐国の玄宗皇帝、高仙之将軍」

魔女「魔王討伐には、敵対する王国軍の力も大きかったのさ」

魔女はぶっきらぼうに語ると、小瓶にある酒を飲み干した。

魔女「これまで全力で支えてくれた人達が、今度は全力で殺しにかかってくる。それが盟友であったとしても」

勇者「盟友?」

魔女「王都アルマリクに、弟がいるんだ。まぁ、血の繋がりのない義兄弟なんだけど。ボクはその義弟と切磋琢磨していてね。魔物の討伐数を競ったり、新たな魔法を見せ合ったり、くだらないことで盛り上がったものさ」

勇者「後悔しているのか?」

魔女「いいや、これっぽっちも。ただ、次に義弟と会う時はボクと彼のどちらか一方が死んだ時だ、とは思っている」

勇者「そうか」

小瓶を傍らに置くと、魔女は両手を上に伸ばした。

魔女「うぅう~ん……はぁッ……そろそろ寝ようか。灯り、消すよ」

勇者「おやすみ」

ふうっと魔女が燭台の火に息を吹きかける。
辺りが暗闇に閉ざされた。

勇者「魔女……起きてるか?」

魔女「なに?」

勇者「いつか、あんたの義弟と会ってみたいな」

魔女「会わせてあげるよ……いつかね」

鉄門街道の長い夜が静かに更けていった。

今回はここまで
最後に誤字訂正を
高仙之ではなく高仙芝です
失礼しました

宵闇の中で、何かが動いた。
ぴしり、と幹の割れる乾いた音。
灌木から灌木へ、素早く疾る影。
家畜小屋で牛に穀物を与えていた主人は、手を止めて辺りを見渡した。誰もいない。

宿屋の主人「気のせいか」

再び牛へ向き直る。
家畜の様子がおかしい。
小屋の奥に、固まっているのだ。
危険を避ける、生物の本能と言うべきか。

宿屋の主人「何がそんなに怖いんだ」

訝しみながら主人は小屋の外へ出た。
外に繋いであるロバに乗り、麦畑を一周する。
不審者が潜んでいる気配はない。
家畜小屋へ戻ろうと主人が馬首を巡らせた

刹那。

ヒョウと風を切る音。
鋭い痛みが左肩に走る。
見れば、矢が深々と突き刺さっているではないか。

宿屋の主人「この矢羽……!?」

四方八方から手が伸びてきて、鞍上の主人を地面へと引きずり倒した。抵抗する間もなく、後ろ手を縛り上げられる。

女「お頭! こいつ殺っちまってもいいですか!?」

男「やめろ、阿呆。同族殺しは禁忌だろうが。2、3人監視をつけて、どこか目につかない場所に転がしておけ」

女「でも、こいつはお頭の仇じゃ……」

男「仇だからって掟を破ればハザラの恥だ」

女「さすが、お頭!」

男「片っ端から探し出せ。他にもいるはずだ。ハザラの魂を悪魔に売った、とびきりの阿呆共がな」

耳障りな金切り声が、暗闇を一気に駆け抜けた。誰かが襲われている。
跳ね起きた勇者を阻むように、横から刀が突き出された。三日月の如き弧を描く刀。
死神の鎌、と言っても相違ない。

男「手を後ろに回せ。抵抗するなよ。テメェの首が惜しいならな」

野太い男の声がする。
勇者は隣で眠っているはずの魔女に目配せした。
しかし、魔女も勇者と同様に両手を縛られ床の上に転がされている。

無言で首を横に振る魔女。
暴れるな、ということだろう。

勇者「お前達は、何者なんだ。俺を、魔女をどうする気だ」

男「こっちこそ聞きたいことは山ほどある。魔王を斃した女傑と、新たに生まれた勇者殿。お偉がた2人が、こんな場所で何をしているのかってな」

勇者(なぜ、俺と魔女の正体を知っている? まさか、先代勇者を追い落とした場所にいたのか?)

男「ところで勇者殿、その織布に包まれている物はなんだ?」

勇者「そ、それは……!」

男「よほど価値のあるものと見える。さしずめ、伝説の聖剣といったところか。面白れェ」

男は織布を剥ぎ取ると、聖剣を腰に佩いた。
素早く鞘走らせ、一颯、二颯と素振りする。

男「ただの剣にしか見えねェな。それも刃毀れしてる、なまくらだ」

勇者「やめろ、汚い手で聖剣に触るな! 盗賊野郎!」

男「盗賊野郎……か。その呼び名、最初は堪えた。遂に俺も盗賊まで堕ちたのか、と。とうの昔に慣れてしまったがな」

勇者「あ……?」

剣を鞘に収めた男は団扇のように大きな手で、もじゃもじゃの髭をしごいた。

盗賊「俺の名はシェイバニ。鉄門街道で盗賊団を率いている。まぁ、名前などあってないようなものだ。覚えてもらわずとも結構」

盗賊「テメェが外から来たことは知っている。だが、ここの釜の飯を食ったなら話は別だ。尋問を受けてもらうぜ」

女盗賊「オラ、さっさと吐きな! あんたらが隠してる財宝、どこにあるんだい!」

逆さまに吊り下げられた、十数人の男女。集落の人間だ。
彼らの間を、褐色の肌の女性が鞭を片手に、行ったり来たり繰り返している。
尖った鼻に、澄んだ空色の瞳。南方系の人間か。
首にかけられた黄金のネックレスが、ジャラジャラと音を立てた。

魔女「うわぁ、下品な女だね」

囁きのつもりが、どうやら女盗賊の耳に届いたらしい。
肩を怒らせ魔女の前に立つと、純白の髪をむんずと掴み、引き寄せた。

女盗賊「誰が下品な女だって? 蹴飛ばされたいのかい、えぇ?」

魔女「虫けらに蹴られたところで、痛くも痒くもないんだけど」

涼しい表情のまま、さらりと答える魔女。

女盗賊「こんの、クソアマ……!」

盗賊「その2人は勇者一行だ。手荒な真似はよせ」

女盗賊「けどよ、お頭ァ! こいつらあたしを馬鹿にして……」

盗賊「阿呆かテメェは。尋問に私情を挟むんじゃない。それに、殴れば殴るほど裏切者共は口を固く閉ざす」

魔女「……盗賊君、その裏切者って言葉。キミ達も何か事情があって村を襲ったんだろう?」

盗賊「余所者には、関係のないことだ」

魔女「もし、ボクが『財宝』の在り処を知っているとしたら?」

盗賊「一介の旅人ごときが、何を知る」

魔女「うーんとね。ボクの中で気になった場所があるんだ。ね、勇者君」

勇者「え、俺?」

魔女「キミと一緒に入ったサウナ。枯れ果てた死体が壁によりかかっていたろう? なぜサウナに死体が置いてあるんだ?」

勇者「確かに、死体を隠すには堂々とし過ぎているような気もする……」

魔女「盗賊君、人を遣り給え。いや、ボク達も一緒に行こう。この集落の真実を見届けようじゃないか」 

サウナ。
中央に焼けた岩が置いてある。
その奥には勇者と魔女が見つけた変死体。

盗賊「この死体、両手のひらに火傷の痕があるな」

盗賊「なるほど、岩がヒントか」

盗賊は部下に命じて、焼けた岩を長い木板で転がした。
それほど大きな岩ではなかったので、簡単にどけることができた。

勇者「階段……!?」

魔女「どうやら、当たりみたいだね」

地下へ続く苔むした階段が現れた。
男は地下から必死の思いで這い出た後、何者かに追い着かれないよう再び岩を転がして穴を塞ぎ、そこで力を使い果たしたのだ。

盗賊「ようやく、見つけたぜ」

女盗賊「ついに、財宝を手に入れるんですね。あたし達……」

勇者「財宝……?」

盗賊「これからテメェらに良い物を見せてやる。なぜ俺達がこの村をしつこく襲うのかも、教えてやろう」

女盗賊に縄を引かれ、勇者と魔女はぬめりのある階段を下っていった。

地下は暗く、ひんやりと肌寒かった。盗賊が松明に火を点ける。
岩を荒く削った通路が、細長く伸びているようだ。
幅は2人が肩を寄せ合ってやっと収まる程度である。

盗賊「まさか、と思った。そんな地獄絵図がこの世に存在するのか。何かの間違いではないのか。夢を見ているのではないか」

盗賊「色々なことを考えた。だが、結局すべて現実に過ぎないのだと、最近になってようやく受け入れることができた」

盗賊「俺は絶対にあの男を許さん。たとえ偉い大僧正が許そうと、国王が許そうと、神が許そうと、俺だけは許さない」

通路を抜けると、開けた空間に入った。
ガサガサ、闇の中で蠢く者がいる。
鼻が曲がりそうな悪臭も漂ってくる。

勇者「ウッ! 臭い! 動物園みたいな……」

女盗賊「お頭、本当に財宝なんてあるんですかい? あたしゃ不安になってきましたよ」

盗賊「魔女、光魔法で部屋を照らしてみろ。やらなければ殺す」

魔女「えぇ~マナを多く使うのに~。ぶつぶつぶつ~」

空間に眩しいほどの光が満ちた。広大な畑だった。
骨と皮だけになった人間が、畑に植えてある植物を摘んでは壺に入れ運んでいる。

女盗賊「お頭、まさか裏切者が隠している財宝って」

盗賊「そうだ。地下に広がる、この畑のことさ。裏切者は畑でガンジャを栽培し、乾燥させ、商品として闇商人に献上していたのさ」

勇者の脳裏に、夕方目にした光景が蘇った。
宿屋の主人が必死に頭を下げていた相手。
あれは高級官員などではなく、非合法の商いを取り扱う闇商人だったのだ。
渡していたのも、おそらく麻薬だろう。

魔女「盗賊君。キミはもう、分かっているんじゃないか? 事の顛末が」

勇者「事の、顛末?」

魔女「王国軍に追われて鉄門街道へ逃げ込んだのも」

魔女「婦女子を虐殺されたのも」

魔女「そもそも強力な遊牧騎馬民族だったというのも」

魔女「すべて真っ赤な嘘なんじゃないのかな?」

盗賊「大当たりだ、魔女さんよ。俺達ハザラ族は、力のある騎馬民族でも交渉技術に長けた商業民族でもなかった」

盗賊「周囲の外敵に怯えながら小さな畑を耕す、泥臭い農耕民族だったんだ」

盗賊「金もねェ、人もねェ、住む場所もねェ。それでも、なんとか貧しいなりにやりくりできていた。瀬戸際の所でな」

盗賊「ご先祖様から受け継いだ、ハザラ族の高潔な魂があったからだ。たとえ弱小な民族でも、鉄門街道を守護してきた。そのちっぽけながらも強く光り輝く魂があったからだ」

上手くいっていた。
あの男、闇商人がハザラ族の集落を訪れるまでは。
闇商人は初め、美味い酒や北の湖で獲れた新鮮な魚を無料で村人に提供した。ハザラの民は神が聖人を遣わしたものだと思い込み、飲めや歌えやの大騒ぎ。その呆れるほどの純粋さが、闇商人につけ込む隙を与えたのだ。

盗賊「闇商人は自分の農園で働かないか、と話を持ちかけた」

盗賊「野菜を栽培し、収穫する。それさえすれば、誰にも奪われない豊かな土地を貸し与えると。夢のような話だった」

勇者「あんたは、闇商人について行かなかったのか?」

盗賊「もちろん、俺は反対したよ。明らかに怪しい臭いがする。無条件で多くの人間に土地を貸す阿呆など、いるはずないからな」

ハザラ族は闇商人の話を巡って、盗賊派と宿屋の主人派に分裂した。ハザラの魂を守り、鉄門街道で生きてゆく者。ハザラの魂を売り、闇商人についてゆく者。

半数の同胞が盗賊の下を離れた。妻も息子を連れ、出て行ってしまった。盗賊に残されたのは百名ほどの仲間と高潔なハザラの魂のみ。

盗賊「だが、気持ちだけでは仲間を養うことはできない」

盗賊「俺は初めて盗みをやった。バルフに住む地主の屋敷に忍び込んで、宝石をかっぱらったのさ。それを闇の仲介人に渡し、膨大な値段で宝石商へ売りつけた」

盗賊「盗みも殺しも人道に反していることは分かってる。けど、生きるためには、生かすためには盗みに手を出すしかなかった」

民に重労働を課し、自らは甘い汁を啜る。
貴族こそ絶対的な悪であり、外道が溜め込んだ財宝を貧しき者へ分配せねばならない。強引な理由をつけて、窃盗や殺人を正当化するようになった。

鉄門街道を通る金持ちは全員殺した。妻や子供に至るまで見境なく殺した。悪魔を殺せば、その分だけハザラの魂が浄化される。天国へ近づける、気がする。
高潔な魂は、歪み切った卑劣な盗人根性へ変わっていたのだ。

盗賊「こいつはもっと南方から流れてきたんで、ハザラ族の事情をまったく知らない。盗賊としての俺を追っかけてきただけなんだ」

女盗賊「お頭、どうしてあたしに教えてくれなかったんですか」

盗賊「余所から来たテメェに、いらぬ心配かけると思ったからだ」

女盗賊「お頭にとって、あたしはまだ余所者扱いだったんですか」

盗賊「んなこたねぇ、テメェも立派なハザラの一員だ。だが、わざわざ惨い話を聞かせる必要もないだろ……」

盗賊の表情がハッと変わった。痩せ細った女性が間道に倒れている。
彼は急いで女性の傍に駆け寄り、抱き起した。
瞳の焦点が定まっていない。鼻水とよだれで服はべとべとであった。

盗賊「おい、俺の声が聞こえるか。俺が誰だか分かるか」

女性「あぇ……?」

盗賊は悔しそうに歯を噛みしめた。

盗賊「家内だった女だ。もう薬にやられて、俺のことをすっかり忘れてしまっている」

盗賊「家庭を捨て、見知らぬ男の後を追い、辿り着いた先がこの地獄。相応の末路だろうよ」

勇者「それでも、愛していたんだろう?」

魔女「勇者君、それは野暮な問いだ」

盗賊は自警団と戦をする覚悟まで決め、闇商人の牙城に乗り込んだのだ。
自分の下を離れていった仲間達を取り戻すために。

盗賊「事が済んだら、また仲間に迎えるつもりだ。確かに一時悪魔に魅了されたが、奴らの性根は腐っていない。立ち直ることができる。そう、信じている」

魔女「うふふふ。意外と甘いトコあるんだね、キミ。一度裏切った人間が、二度裏切らない保証はないんだよ?」

盗賊「今度はみっちり『教育』する。何も知らない仲間を扇動した宿屋の主人。あいつは特にな」

魔女「ところで盗賊君、キミは一生こんな寂れた山奥でつまらない盗みを続けていくつもり?」

盗賊「生きていくためだ」

魔女「そうは言っても、王国軍が正規の討伐軍を出してみな。キミ達は枯れ葉のように吹き飛ばされ、踏みにじられ、ハザラ族丸ごと滅ぼされてしまうよ」

魔女「地方貴族や下級官吏の財産なんて知れたものさ。ボク達は、そんなものとは比べ物にならないほど大きな標的を狙ってる」

盗賊「大きな標的?」

魔女「この国を、盗ってみないか」

盗賊「国を盗る? ハッ、戯言を。テメェら二人で国が盗れたら、それこそ天地がひっくり返るだろうよ」

魔女「いいや、本気さ。もう既にバルフは勇者軍の手中だし、ボクらの後ろには大富豪がいる。北のサマルカンドも、タシケントも、押さえる準備はできている。そして、何より神様の御加護がある」

盗賊「そんなペラペラ喋っちまっていいのか」

魔女「キミは『こちら側』だ。だから話した」

盗賊「テメェが今話した内容を持って、国王のもとまで駆け込むかもしれないぜ」

魔女「そんなことをしても無駄だと、キミが一番分かっているだろう。国の官吏を殺した時点で、キミの道は定まった」

盗賊「ケッ……拒否権はなしか。このド阿呆が」

悪態を吐きながらも、盗賊の口元は微かに笑っていた。

闇商人「ぢょっど待っでェェ~~!」

闇商人を捕縛した。供の者も連れず呑気に一人で現れたので、縄で縛りあげるのは造作もないことだった。

闇商人「ホ、ホントになァ~んにも知らないんですゥ! 私はしがない闇商人でありましてェ~、あァ~、ガンジャを売って小銭を稼ぐと申しますかァ~、えェ~、ここが私の農園でありましてェ~」

勇者「本当に、何も、知らないの?」

闇商人「ハイハイ! まったく知りましェ~ん、だから許してちょ」

勇者「それはできない」

闇商人「ゲェ!? なんで!?」

勇者「麻薬を売っていたんだろう? あんたのせいで、多くのハザラ人が廃人になるか命を落とした。自業自得とは言わせない。あんたが口八丁手八丁、うまいこと丸め込んで吸わせたんだからな」

闇商人「いやいや、そんなん自業自得でしょッ! 身の程知らずのバカが騙されただけじゃないスかァ~! ってか麻薬商売も立派なビジネスなんですよォ、生きるためには必要なのォ~~~~!!!!」

勇者「商売だのどうだの言う前に……あんたは人として間違ってる」

闇商人「ア、ちょっと! ちょっと待っちょくりィ~」

ケタケタ笑いながら脱兎のごとく駆け出す闇商人。
すかさず魔女が「唵」と真言を唱えれば、滝のような大雨が闇商人の頭上に降り注いだ。
たまらず叩き伏せられる。

闇商人「ゲフッ……ゲホォ……ォエッ……な、なんで、私をどうする気だァ~~~~!!!」

勇者はひったくるように盗賊から聖剣を奪い取ると、ゆっくりと引き抜いた。

勇者「地獄で永遠に罰を受け続けるんだな。この世にいてはならない。いてはいけない存在なんだよ、お前は」

闇商人「ちょ、ひ~~~~~~~~!!!!!!」

ゆっくりと剣を振り上げる。
濡れそぼった子犬のように、闇商人はガタガタと震えた。
情けないことに、失禁までしている。

盗賊「やめておけ。そいつの穢れ切った血で、伝説の聖剣を汚す必要はない。闇商人は、俺が責任を持って預かる」

勇者「でも……」

盗賊「俺ら盗賊団は、利用価値の有無で人を見る。こいつは確かに外道だ。だが、その商才や人を丸め込む力に光る物を感じた。性根を叩き直せば、意外と使えるやもしれん」

闇商人「フゥ……助かった……」

盗賊「別に助かってなどいないぞ」

女盗賊「そうさ! アタシが嫌というほどシバき倒してやるから、覚悟するんだね。いい気になってたら殺すよ」

女盗賊が闇商人の鳩尾に拳を叩きこんだ。

闇商人「おげぇ……神よ! なぜ私を生かしておいたのぁぎゃ!」

女盗賊「オラオラオラァ! 男のくせに、だらしないね!」

闇商人は盗賊の砦で『教育』を受けた後、大富豪の屋敷へ送られることとなった。
能力のある者ならば、たとえ仇敵だろうと手を差し伸べる。
盗賊の心は溶岩のように煮え滾っているだろう。
しかし、私情よりも利を選んだ。
立派な男だ。

盗賊「家内の麻薬中毒を治すことはできるか?」

魔女は静かにかぶりを振った。

魔女「たとえ僧侶の回復魔法をもってしても、委縮した脳は治せない。キミの奥さんを元に戻すこともできない」

盗賊「……」

ちら、と妻を一瞥する。

盗賊の妻「あう……あう……」

彼女は涙をこぼしていた。
痩せ細った手で、首にかけたペンダントを強く、握りしめながら。
そのペンダントは盗賊が若い頃、初めて妻に贈ったプレゼントだった。

盗賊は目を閉じると、天を仰ぎ深いため息を漏らした。

盗賊「俺の方こそ、どうしようもない悪党だ」

黄昏色に染まる麦畑。

いくつか細長く伸びる影法師。

ひとつ、またひとつと消え、最後には誰もいなくなった。

盗賊が勇者軍鉄門砦総司令となるのは、まだ後の話。

次から次へと、報告書が軍師の卓に積まれていく。
灌漑用のため池や用水路の不足が大半だった。
大唐国が亀茲城に兵を集めていることも報告されている。

大唐国の存在は、軍師にとって悩みの種のひとつだ。
彼らは王国と同盟関係にある。

数年前には、将軍・高仙芝が自軍を率いて小勃律国を打ち破った。
剣のごとく鋭い、峻険な山々を大軍で越えたのだから驚きだ。
もし今バルフが高仙芝に攻め込まれれば、確実に陥とされてしまう。

軍師「間諜がいたら大分楽だったろう」

彼は天井を見上げながら、ポツリと呟いた。

軍師「あの女、性格はともかく能力は優秀だった」

間諜の横顔が軍師の脳裏に浮かぶ。
優しく微笑んだ間諜。
心配そうな眼差しを向ける間諜。
怒ったように頬を膨らませる間諜。
人差し指を唇に当て、ウィンクした間諜。

軍師「仕事中に考えることではないな」

一度だけ、廷臣との会議中に頭痛で倒れたことがある。
その時、間諜は素早く駆け寄り、軍師を書斎まで運んでくれた。
彼女の肌は、絹のようにきめ細かく滑らかだった。

乳房も大きい。
服の上からでも、柔らかく潰れているのをはっきりと感じ取れた。

軍師「だから、何を考えているのだ。私は」

軍師とて人の子。
何日も狭い部屋の中で膨大な報告書と向き合っていれば、おかしくなってしまうのも無理もない。
そう、思うことにした。軍師は溜息を吐いて椅子から立つと、寝台に倒れ込んだ。

軍師「間諜を、抱いてやる」

言った直後、彼は毛布に顔を埋めて悶絶した。
35にもなって、まだ思春期が抜け切れていないのか。
女と縁がないことなど、誰よりも自分が分かっているはずなのに。

軍師「私は軍師失格だ。女に心を乱されるなど、あってはならないことだ。だが……クッ……」

勇者と話す間諜を見るたび、胸が引き裂かれるように痛む。
痛んだ心を奥底にしまい込み、再び軍師は卓に向かい、筆を執った。

木の葉の隙間に、ちらちらと炎が揺らめいて見える。
忍達が焚火を囲んで休んでいるのだ。
彼らは大富豪が雇った、腕利きの諜報部隊だった。
本名を捨て、感情を殺し、ただただ任務に従事する。

諜報の他に、暗殺や工作活動も行えるらしい。
いずれ特別攻撃部隊、略して特攻部隊と名を変え、間諜の部隊から独立させる。
そう、大富豪は言っていた。

間諜は忍の小隊長を務める黒髪の青年に声をかけた。

間諜「進捗状況はどうだ」

忍B「……」

忍Bは無言で頷いた。
初めて会った頃から、寡黙な男だった。
影たる者、余計な感情は必要ない。口数も少ない方がよい。

そのため、間諜も部下と向き合う時は最低限の言葉しか話さなかった。
冷徹なクノイチを演じることで、隊の中に緊張が生まれる。
精神と肉体を極限まで追い詰め、ようやく最強の諜報部隊は誕生するのだ。

間諜(これもみんな、勇者さんの笑顔が見たいから。もっと、喜ばせてあげたい。もっと、あの人の役に立ちたい)

タシケントとバルフを結ぶ、安全な輸送経路の確立。
王国軍に見つからないよう慎重に進めなければならない。
大型の輜重車も通れるように、なるべく平坦な道を選んでいる。

バルフから十数里北東へ向かった先にある、ドゥシャンベ郊外で間諜隊は休息を取っていた。
町へは入らない。ドゥシャンベの門衛は国王同様に猜疑心が強く、長い時間をかけても、全ての荷物を検めるのだ。

忍B「……隊長」

彼の口調にはやや棘があった。
数日間、バルフに戻っていたことを咎めているのではない。
間諜の身にまとう殺気が、緩くなったからだ。

それどころか、くだらん町娘が醸すような甘ったるい気まで見える。
表情に出さずとも、仕草や雰囲気で察知できた。

間諜「ごめんなさい」

謝ったものの、勇者と過ごした夢のような時間を忘れることはできなかった。
自分は間諜失格なのかもしれない。彼女は両手を顔にあて、大きく溜息をついた。
隣で、忍Bがぼそぼそ小声で呟いている。

忍B「……その時は、俺が隊長を殺します」

側近「新生勇者を野放しにしてはなりません! バルフ付近の村が次々と取り込まれています。軍として形が整いつつあるのです」

側近の巨大なターバンが国王の目の前で右と左、せわしなく動き回っていた。
王に仕えてはや40年。
酸いも甘いも共に経験してきたからこそ、国王の弱点が自堕落さにあることを見抜いていた。

国王「分かっておる。だが、もう少し待ってもよかろう」

側近「待つ? 何をです」

国王「秋(とき)を」

側近「勇者軍が成長するのを待つおつもりですか? 愚かな! そんなことをして万が一、王都が攻め落とされたとあっては取り返しがつかんのですよ」

国王は鬱陶しそうに溜息を吐くと、一冊の本を懐から取り出した。
表紙は山羊の皮をなめして作られたものか。題名はない。

国王「どこの誰が書いたか知らぬが、国の腐敗を書き連ねた小説だ。王都に来た商人の荷に混じっていた」

本を開く。ページをめくる。王が目を細めた。
まるで逃げ出した獲物を狙う鷹のように。
覇気が全身から溢れている。
側近はごくりと唾を飲んだ。

国王「この小説を書いた人間に、会ってみたいのう。そして、その者が苦痛に顔を歪ませながら死にゆく様を眺めてみたい。すぐに首を刎ねるのはいかんぞ」

側近「書いた人物は、勇者ではないのですか?」

国王「字を見てみろ。柔らかく、丸みを帯びている。おそらく女が書いたのだろう。それも、幼い少女じゃ」

側近「少女が!? そんなバカな……」

国王「何を驚いておる。王都の神学校にも、教養を身につけている少女は沢山いるではないか。これも、その内の一人。勇者軍め、意外と人材は豊富らしい。だが、今にこの小説の作者を捕えてみせる。少女をいたぶるのは、実に十数年ぶりだからのう」

国王は口元に嗜虐的な笑みを浮かべた。

国王は玉座から立ち上がると、庭園へ歩いていった。
数人の侍女がいそいそと後をついていく。今日は日が照っている。
日傘をさしたり、巨大な団扇で扇いだりするのだろう。

国王「勇者軍は次に何をすると思う」

勇者軍というより軍師だが、と国王は付け加えた。
彼は軍師の能力と忠誠を高く評価していた。
だからこそ、先代勇者と共にバルフの統治を任せたのだ。
バルフを第二の王都とするつもりで。

側近「物流の管理、法整備、兵力の増強、様々ございますが、いずれ新たな拠点を築くでしょう。それも、王権の及ばぬ場所にです」

国王「王権の及ばぬ場所、か……」

エルフ族の治めるサマルカンドとドワーフ族の棲むカーブル。
最初に思い浮かんだのはその二都市だ。
国王は考えた。自分が軍師なら。
南方のカーブルよりも、アムダリヤ川でバルフと結ばれたサマルカンドを自軍の領土としたいはずだ。
肚は決まった。

国王「勇者軍より先に、サマルカンドを手中に収める」

側近「精霊王が容易に町を明け渡すとは思えませぬが」

国王「ジザフの地方軍は優れた将が多く揃っていたろう。早急にエルフ討伐軍を編成し、サマルカンドを攻め陥とせ」

側近は瞬時に悟った。騎士、戦士、剣士のことを言っているのだ。
勇者軍を牽制しながら、新たな領地まで得ようとしている。
それも酒の上の妄言ではなく、本気でサマルカンド占領を目論んでいるのだ。

側近「で、ですがエルフ族には、先の大戦で援軍を出してもらった大恩がございます。恩を仇で返すのは人道に反する行為ではないかと……」

国王「人道が何だと言うのだ。やれ。余の命が聞けぬか」

側近「……かしこまりました。軍部にそのように伝えておきます」

白騎士の精鋭部隊を以てしても、中々崩せない堅陣を敷く騎士。
勇者パーティーのひとりとして魔王討伐を達成した戦士。
そして統率力では王国軍随一の剣士。

この3人が集まれば、なるほどエルフの町など簡単に呑み込んでしまうだろう。
しかし、側近には漠然とした不安があった。
完璧な計画。その中に生まれた、ほんの小さなほつれ。
その小さなほつれが、いずれ破滅的な失敗を引き起こすのである。

側近「私が陛下の味方をしなくて、誰がするというのだ」

真夏の高原。
爽やかな風。
草の匂い。
馬蹄の響き。

戦士「止まれ」

戦士は訓練用の戦斧を肩に担ぎ、馬上でじっと目を凝らしていた。
彼の背後に控えるは、物々しい甲冑に身を包んだ3000の兵。

魚鱗鎧。

誇り高き王国軍の一員であることを示す、名誉の鎧だ。
戦士は数名の部下を斥候として送り出した。
索敵の怠りは死を意味する。

それは訓練中の今とて同じである。

斥候A「四里ほど先に歩兵3000。指揮官を中央に据え、方陣を組み、守り固めているようです」

戦士「相変わらず、守りの戦が好きよのう。良かろう、吾輩がその堅陣、打ち破ってみせよう」

今回の相手は戦士の副将・盾士である。
盾を構えた歩兵に対する突撃訓練として、戦士が直々に頼み込んだのだ。
見知った相手だからこそ、手の内を知り尽くしている相手だからこそ、逆に油断はできない。

斥候B「しかし、将軍も物好きですね。盾兵は動きが鈍い代わりに、長槍を携えています。どう考えても騎馬隊では相性が悪いのでは」

相性が悪い相手であろうと、とことん攻め立てる。それが戦士の戦だった。
あまりに苛烈なので、訓練でも死人は出る。
その地獄のような訓練を乗り越えたからこそ、戦士の部隊は王国軍でも無類の攻撃力と突破力を誇るのだった。
彼の前では槍も飛び道具も、路傍の石と同じである。

戦士「吾輩が道を開く。お前達は後に続け」

戦士は3000のうち1000を連れ、二列の縦隊を組み、駆け始めた。

なだらかな丘陵の頂に上った。

戦士「あれが盾士の陣か」

眼下に広がる巨大な正方形の影。否、影ではない。
漆黒の盾を隙間なく並べているので、影のように見えるだけだ。

さらに目を凝らすと方陣の中に、八つの小さな陣が敷かれている。
その陣が互いに連携し合い、まるで迷路のような形を取っているのであった。

戦士「ああいう陣は大抵、八つの方角に入る門が分かれている。北、北西、北東、東、西、南東、南西、そして南。正しい方角を見つけねば、非常に厄介なことになる。どれが正しい門か、分かるか?」

誰もが息を飲んで、眼下に広がる奇妙な景色を見つめていた。

戦士「知らずともよい。あれは大唐国に古くより伝わる方術と深く結びついた布陣。知らない方が普通なのだ」

このような陣を張るのは、王国軍では盾士の他に誰もいない。
当の本人である盾士が、一番親密な戦士にすら陣の張り方を隠していたからだ。

誰にも分からない、霧に包まれた謎の戦法。
打ち破るのは困難だろう。

戦士「だが、狡猾な吸血鬼やリザードマンではない。人間の張る陣だ。必ずどこかにつけいる隙がある」

戦士「ガハハハハ! そこじゃあッ!」

戦士の斧が血を求めて低く唸る。吹き飛ばされた盾が宙を舞った。
波が引くように、周囲の盾兵が道を開ける。勢いを殺さず、陣の内側へ突撃した。

両側は木柵。槍が突き出される様子も、進路を阻む兵の姿も見えない。
正しい方角から入ったのか。ふと、戦士の背筋に何か冷たいものが走った。

戦士「本当に、正しかったのか?」 

衝突する時、妙に手ごたえが無かった。
盾兵の退き方も落ち着いている。

戦士が入るのを、予想していたかのごとく―――

兵士A「将軍! 退路を塞がれています!」

戦士「ぬうッ!? これは……!」

気が付けば、戦士の周囲は大量の槍、槍、槍。
槍で埋め尽くされていた。

退路を断たれてはどうしようもない。圧し潰されるだけだ。
ゆっくり、食虫植物が捕えた蠅を溶かしていくように、じんわりと。

戦士「否、まだ負けてはおらぬ。一時撤退するぞ!」

戦場に響き渡る戦士の怒号。兵が一斉に顔を上げた。

戦士「貴様、その槍を寄こせ!」

近くにいた盾兵から槍を奪うと、戦士は馬腹を勢いよく蹴った。
甲高くいななき、盾兵の海へ踊り込む戦士の馬。

戦士麾下の将校らも続々と武器を振り回し敵を薙ぎ倒す。
その勢いたるや虎と呼ぶべきか龍と呼ぶべきか。盾と槍を放り捨て逃げ始める兵も現れた。

戦士「やっと抜け出せたが、どうするべきか……」

振り向けば、陣形は再び元の状態に戻っている。
何物も寄せつけない盾の要塞。

装甲をまとった、巨大な虫を相手しているような気分だった。
見かけは地味だが、装甲の中には鋭い牙を隠している。

不用意に攻め込めば喰われるのはこちらだ。
何とも見事な陣を敷いたものである。

戦士「少し戦法を変える必要があるな」

どの方角が正しいなど、勘に頼るのはやめた。
そもそも、どの方角もハズレなのだ。

攻め込めば、盾士は瞬時に隊列を変えてくる。
外側は岩のように硬く、内側は流砂のように柔らかい。

そんな不規則な陣を相手に、従来の戦法が通用するはずないのである。

戦士「これから吾輩は、酷な命令を下す」

戦士「普段から長駆の訓練は積んでいるが、今日はそれ以上に過酷だ。もし辞退を願う者がいれば、今はっきり申しつけよ」

誰も挙手しない。

戦士「それでこそ我が軍よ」

戦士は駆けた。兵も懸命に後を追う。
方陣に動きは見られない。
突撃すれば、再び中へ引きずり込まれるだろう。

戦士「ゆくぞッ!」

訓練用の戦斧を構えると、ぶつかり合う寸前のところで馬の手綱を右へ引っ張った。
隊列が直角に曲がる。

盾兵A「突っ込んでこないだと!?」

盾兵B「戦士様は何を考えておられるのだ!?」

盾兵C「どうでもよい、突いてしまえッ!」

戦士「馬鹿めが」

戦士は突き出された槍を次々と戦斧で叩き折っていった。

戦士「まず、牙を折る」

二週目。今度は一週目よりも深く食い込み、最前列の盾兵を方陣の外へ突き飛ばした。
波に乗った戦士隊の勢いは誰も止められない。

戦士「そろそろ、頃合いだろう。戦士隊の底力、今こそ見せる時ぞ」

戦士は兵が密集していない場所から、陣の内側へと潜り込んだ。
方陣は半分以下まで小さくなっている。懸命にまとまろうとするも、そこは戦士隊が許さなかった。
即座に割り込み、盾隊を分断する。

戦士「見えたぞ。悠長に盾など構えおって」

中央に佇む老将の姿を認めた。
己の背丈よりも大きい盾を構え、状況の分析を行っている。

一瞬の油断が、戦場では命取りとなるのだ。
戦士は無力化した盾の海を突き抜け、盾士の首筋に戦斧を振り下ろした。

戦士「はあッ!」

盾士「むんッ!」

咄嗟に反応し、打撃を防ぐ盾士。
飛び散る蒼白い火花。
耳障りな金属音が、訓練終了の合図となった。

戦士「吾輩の勝ちですな、叔父上」

盾士「……やれやれ、降参じゃ。奇妙な戦法を使いおって」

戦士と盾士の部隊は合流した後、近くの岩山に拠った。
兵士達が各々の時間を楽しむ中、戦士は一人、頂上で火を焚いていた。
群青の闇に沈むサマルカンドがよく見える。

紺碧の街・サマルカンド。数千人のエルフが住む街だ。
建物のほとんどにラピズラズリが用いられているので、夜空の街とも呼ばれる。

かつて自分が守った場所を眺めながら喰う肉は美味いものだ。

戦士「精霊王は息災だろうか」

エルフ族とは幼い頃からの付き合いである。
叔父に連れられ、精霊王に謁見した。
何も考えず彼の耳を引っ張ったところから、精霊王との友情は続いている。

奇妙な縁だと自分でも思う。

戦士『エルフ族の助力あってこそ、魔王を討ち果たすことができた。礼を言う』

精霊王『なんの、感謝すべきは私の方だ。君は魔王軍の攻撃から街を救ってくれた』

精霊王『いつでも遊びに来い、我が永遠の友よ』

魔王討伐以降、久しく顔を合わせていない。
もし会う機会ができたなら、その時は上質な香木を持って行ってやろう。

エルフは人一倍、容姿に気を遣う種族だ。
助けられた以上、こちらも何か形で返さねばならない。

それが、盟友同士の礼儀というものだろう。

盾士「ご苦労だった、戦士」

戦士「叔父上」

隻眼の老将が戦士の隣に腰を下ろした。
盾士は戦士よりも戦の経験が豊富だ。
本来なら、将軍を盾士が務め副将を戦士が務めるはずだった。

しかし、彼は将軍の座を甥へ譲った。
戦士はいずれ、王国にとって不可欠な存在となる。
そう判断したからだった。

盾士「よくぞ儂の陣を破った」

戦士「叔父上、今回は兵士達がよく踏ん張ってくれた。そして信じてくれた。彼らのお陰で無茶な作戦も実行できたのです」

盾士「あの戦法が、いつまでも通用するとは限らぬぞ。戦とは砂の大海。時が経ち、風が吹けば形は別物となる」

戦士「肝に銘じておきます」

盾士「……後で兵達を労わってやれ」

戦士「ええ。叔父上も肉を肴に一杯、どうです」

盾士「ありがたく、いただこう」

二人の豪傑は静かに笑って杯を重ねた。

魔剣士「剣士様が消えた、ですって!?」

王都アルマリクから北西に数里。
タシケントとサマルカンドの間にある小都市ジザフの朝は、令嬢剣士の叫び声で幕を開けた。

将校D「ええ。魔剣士様なら、将軍の居場所に心当たりがあるのではないかと存じまして」

朝一番に乗馬の訓練があった。
木馬を馬に見立て、走りながら飛び乗る。
訓練自体は上級将校が行い、結果をまとめて将軍に報告する。

その将軍が軍営から煙のように消えてしまったのだ。
これでは将校の報告する相手がいない。
どうしようもないので、剣士の副将である魔剣士に相談しに来た次第であった。

魔剣士「あなた達、乗馬の訓練に戻りなさい。非常事態であっても、冷静に監督すること。心の乱れは、弱さを生みますわ」

魔剣士は寝間着を脱ぐと、緋色の髪をしっかりまとめ、いそいそと戦袍に着替え始めた。
将校達の前でもお構いなしである。
というより、焦って周りが見えていないのだろう。

将校D「承知致しました。ところで魔剣士様」

魔剣士「まだいらっしゃるの? わたくしの話、聞いておりまして?」

将校D「魔剣士様。着替える際は、我々が全員退出の後にしていただくと大変嬉しいのですが」

魔剣士「……そうね。今のは見なかったことにしなさい」

ドタールの柔らかな音色が聞こえた。
ジザフで唯一の妓館。
給料が良いので、ここに勤める十代の女性は少なくない。

魔剣士「所詮は妓館。負の印象が拭えませんわ」

呼び込みの遊妓が桑の木の下で、絹服を縫っていた。
官員の着物を縫っているのだ。
ジザフの妓館では性的サービスだけでなく、実用的な雑務もこなしてくれる。

子供の世話から畑の農作業までお手の物。
何でも屋のような側面も持つのだった。
そのため、衣類を担いだ老婆が妓館へ入っていく様子もたまに見かける。

魔剣士「剣士様が行きそうな場所といったら、ここしかないですわね」

扉を乱暴に開け、ずかずかと中に押し入る。
武装した女がいきなり飛び込んできたのだ。
悲鳴をあげて逃げ惑う遊妓達。
魔剣士は部屋の並ぶ2階へと足を運んだ。

剣士「ほらほら、もっとしゃぶりなよ」

遊妓「よろしいの……ですかぁ……」

半ば喘ぐような女の声。思わず魔剣の柄に手をかける。

魔剣士(しゃぶる……? 一体ナニを……)

剣士「好きなだけ、しゃぶっていいんだよ。洗濯とか、料理とか、いつもお世話になってるじゃない。そのお礼だ」

遊妓「あふッ……んッ……んッ……///」

魔剣士(ななッ! とてもヒワイな音がしますわ!)

剣士「イイねぇ~! イイ顔するじゃない君、俺まで興奮してきちゃったよ。やっぱり美味しいよね」

魔剣士「何してらっしゃるの、このヘンターイ!」

剣士「わーッ! ってなんだ、魔剣士ちゃんか……」

銀髪の青年は笑いながら、寝台の上にあった桃色の花をつまみ上げた。

剣士「庭先に花が咲いてたんだけど、これが美味いのなんの。魔剣士ちゃんもしゃぶってみる? 蜜のまろやかさと花の芳しい香りが絶妙にマッチし(ry」

魔剣士は無言で拳を握りしめ、ヘラヘラ笑っている剣士の顔面を殴り飛ばした。

剣士「え、どうして!? どうして殴るの!」

魔剣士「わたくしがどれだけ心配したと……兵士の皆様にも迷惑かけて、許せませんわ!」

馬乗りになって、兵士の頭をポカポカ殴り続ける魔剣士。

遊妓(なにアレ……マジ引くわ)

遊妓「あらあら、お時間が来たようです。名残惜しいですが、私はこれで~」

思わぬ修羅場に出くわした遊妓は、そそくさと部屋を出ていってしまった。

剣士「え、ちょっと待って! そりゃないでしょ、まだ会って数分しか経ってないじゃないのよ~!」

魔剣士「まだあの女の尻を追っかけるおつもり!?」

剣士「魔剣士ちゃん、ごめん! 謝るから! 暴力反対! やめてえぇ~!」

騎士に呼ばれ、剣士は軍営の天幕に戻った。

剣士「こんにひわ」

騎士「派手に殴られたな。大きな痣、できているぞ」

騎士が右目の周りを指差しながら微笑む。
兜で表情が隠れているものの、声を聞けば笑っているのか怒っているのか分かるのだ。

剣士「本妻を怒らせた、なんてね」

騎士「冗談はそこまでにしておけ。朝一番に、良い知らせと悪い知らせが飛び込んできた。どちらから聞きたい」

剣士「もちろん、良いニュースっしょ!」

騎士「バルフで新たな勇者が誕生した。世代交代というやつだ。目的は知らんが、英雄が生まれたのは喜ばしい」

剣士「なぁんだ、つまんないのー。英雄がいたって敵がいないんじゃ、意味ないもんねー」

剣士「で、悪い知らせは?」

騎士「サマルカンドを陥とせと、王都から命令が出ている」

剣士「命令? サマルカンドって確か、エルフの住む町でしょ。不可侵条約、だいぶ前に結んだはずだけどなー」

騎士「勅命だ。陛下は外交で遠回りするよりも、手っ取り早く武力での制圧を選んだらしい」

剣士「なんかやだなぁ。どうしてそんなバカな王様のために、俺達が恨まれるような真似しなくちゃいけないんだい?」

騎士「それが、組織に所属するということだ。国家に忠誠を誓うということだ。私の家は代々、陛下の剣として傍で仕えてきた。たとえ煮え湯を飲まされようと、先祖の名に泥を塗ることだけは許されん」

剣士「縛られてるね~息苦しそうだね~。ザ・頭でっかち。ご先祖様も、あの世で呆れ返っておられるだろーよ」

騎士「なんだと?」

剣士「なぁ騎士。主君を見定めるのも、臣下の務めなんだぜ。暴君に仕える軍人ほど、暇なやつはいないさ」

天幕を出ると、魔剣士が立っていた。
サマルカンド征伐の話も、もちろん立ち聞きしていたのだろう。

魔剣士「剣士様」

剣士「どれが正しくてどれが間違っているかくらい、俺にだって分かる」

魔剣士「やはりあなた様は……」

剣士「さてと。魔剣士ちゃん、遊びに行こうぜ!」

剣士の手を、すげなく払いのける魔剣士。

魔剣士「イヤですわ。汚い手で触らないでくださる?」

剣士「ひどッ! 上官への態度じゃない!」

魔剣士「そのエラーイ上官が、部下を放って妓館で卑猥な遊びですか。最低な男。尊敬する価値など微塵もありませんわね」

剣士「卑猥な遊びなんてしていないでしょ~! 許しておくれよ、明日から真面目に訓練するから~!」

魔剣士「明日から? その腐れきった根性が嫌なのですわ! 剣士様にお弁当を作るのは、しばらく控えることにします」

剣士「ゲーッ! こんなことなら、夜こっそり行くべきだった……」

魔剣士「夜でもダメです!」

遠ざかっていく二人の後ろ姿を眺めながら、騎士は呟いた。

騎士「ハッハ、仲のよろしいことだ。見せつけてくれるね」

魔女「これから干戈を交えるであろう相手。王国軍の将軍。騎士、戦士、剣士について少し語っておこうか」

勇者「知っているのか?」

魔女「そりゃ、ボクも王都で働いていたからね。戦士とは魔王討伐の旅を共に乗り越えた仲だし」

ハザラ族の集落を出た後、盗賊団は鉄門街道を北に進んでいた。
勇者と魔女を、盗賊団の牙城に招待するらしい。

先頭を女盗賊が歩き、しんがりは盗賊が務める。
張りつめた空気。
客として招かれているはずが、まるで連行されているような気分だった。

魔女「王国軍には大きく分けて三つの階級があってね。五千人以上の軍を率いる将軍。千人程度の軍を率いる上級将校。そして百人を取りまとめる下級将校」

アルマリクは人材が少ない。
そのため、他国から力のある指揮官を金で引き抜いていた。
騎士もその一人である。

彼の甲冑は魚鱗鎧ではない。
薄い鉄板を繋ぎ合わせた簡素な鎧だが、従来の魚鱗鎧と比べると、耐久性は遥かに高かった。

魔女「騎士は頭が固かった。一度決めたら曲げない人でね。性格が敷く陣形によく表れていたよ」

魔女「戦士はそうだなぁ、大雑把な豪傑……かな。酒と戦のことしか頭になくて、勇者から脳筋脳筋ってバカにされてた。ふふふ」

魔女「三人の中で一番、下の管理がなっていないのが剣士。いっつも妓館に入り浸っていて、強いんだか弱いんだかよく分からない」

懐かしそうに語る魔女の横顔が、とても眩しかった。
同時に、暗澹たる思いも湧き上がってきた。
そうか、魔女は再び知己と殺し合わなければならないのか。

魔女「言ったでしょ、覚悟はできてる」

ギュッと心臓をわし掴みされたような衝撃。
かつて、自分も国に立ち向かう覚悟があると、魔女に宣言したことがある。

違う。

勇者の覚悟と、魔女の覚悟では、言葉の重みに差があり過ぎる。

魔女「よしよし。怖がらないで」

頭を撫でる魔女の手が、普段よりも冷たく感じた。

先頭を歩く褐色の女が、ふと立ち止まった。

女盗賊「これが鉄門。街道の名前の由来にもなってる門さ。あんたら、鉄門目指して来たんだろ? 目ェかっぽじってよく見とくんだね」

目をかっぽじったら、見えなくなるのではないか。
そんな野暮な突っ込みは許されない。しかし、どうしても気になる点がある。

勇者「そもそもさ、何もないんだけど」

灰褐色の隘路が、どこまでも続いているのみ。

女盗賊「もっと近づいてみな」

言われるがまま近づいてみると、硬い岩のようなものが爪先にぶつかった。
赤茶色に風化した鉄が、あちらこちらに散らばっている。
女盗賊の伝えたいことが、分かったような気がした。

勇者「これ、ひょっとして掛け金だろう。掛け金が砕けて散らばっているんだ。だから、ここに門があった。鉄の門があったんだ」

女盗賊「正解。掛け金だけじゃなく蝶番もある。魔族と人間の大戦で、ぶっ壊されちまったみたいでさ」

勇者「立派な門だったんだろうな」

女盗賊「ったく、どうして魔族なんかが攻めてきたのかねぇ」

ここで、魔女が静かに口を開いた。

魔女「少し、過去の話をしよう」

魔女「元々、鉄門街道は誰の物でもなかった。人間族、精霊族、魔族。三つの種族が領有権を主張し合う、衢地だったのさ」

勇者「こんな緑のない痩せた土地を、どうして奪い合っていたんだ? 稀少な鉱石でも採れたのか?」

魔女「北の土地は比較的痩せているからね。外敵の襲撃を受けにくい交通路を確保して、南の土地へ進出する足掛かりにしたかったんだと思うよ」

考え抜いた人間族の王は、エルフ族の精霊王にサマルカンドへの永久不可侵と鉄門街道の共同統治を約束し、やっと交通路を手に入れたのである。
北のサマルカンドと南のバルフが繋がったことで、都市間の交易が盛んになり、王国の懐もずっと豊かになった。

無論、仲間外れにされた魔族が黙っているはずがない。
魔王は檄文を書き、人間族と精霊族を地上から消し去るべく討伐の旗を揚げたのであった。

勇者「人間が魔族を滅ぼしたと思ったら、今度は人間同士で紛争が起ころうとしている。同じことの繰り返しだ」

魔女「いつの世も、どこの世界でもそうだよ。欲望から争いは生まれる。キミも妹さんを守りたいという欲があるだろう?」

魔女「そういえば、妹さんから小説を託されてね。キミはあまり字が読めないようだから、読み聞かせてあげる」

勇者「妹の、小説?」

魔女「まぁ、そんなに長くないから楽にして聞いてくれ給え」

魔女は一冊の本を取り出した。


『昔々、あるところに、とても仲良しな男の子と女の子がいた

いつものように二人で花畑を歩いていると、森の奥から魔王が現れ、たちまち女の子を闇の国へさらっていってしまった

魔王にさらわれた女の子を救うべく、男の子は道端で会った賢者様と一緒に、冒険の旅へ出発したのだった

険しい岩山を越え、極寒の湖を渡り、知らない魔物に襲われながら、ようやく男の子と賢者様は魔王の城へ辿り着いた

魔王は男の子が忌々しい賢者様を連れているのを見て、顔を真っ赤に染めて怒り狂った

そして、その夜

怒った魔王は二匹の毒蛇で賢者様を殺してしまったのである』


魔女「おしまい」

勇者「え、それでおしまい?」

不気味な小説だった。
小難しい文字を用いたがる妹にしては、珍しく簡単な文章だ。
題名も目次もない。
羊皮紙の端切れに、小さな文字で物語がつらつらと書いてあるだけだ。

魔女「昨夜見た夢を書き起こしただけ、かもね」

勇者「この『賢者様』がお前でないことを祈るよ」

魔女「ひょっとしたら、殺されるのはキミかもしれない」

勇者「変な冗談はよせ。どう考えても俺は『男の子』で、あんたが『賢者様』だろ。俺より自分の心配した方がいいぞ」

魔女「うんうん、用心しろってことだよね。国王が本格的に動き出した。サマルカンドで、一悶着あるかもしれないよ」

勇者「流石、厄介事を招き寄せる天才は言うことが違うな」

魔女「それはキミだろ」

勇者「いいや、お前だね」

魔女「キミ!」

勇者「お前!」

女盗賊「あんたらガキか!」

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom