鷺沢文香「fall」 (19)


シトラスと私と真っ赤な傘

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闇の中から真っ赤な傘が歩いてきました。私の恋人でした。

夜の闇がいっそう深さを増しました。街灯の明かりが私達から距離をとりました。

雨が降り始めた、事務所近くの公園。午後7時。
彼女のローファーが雨粒を弾きながら、一歩ずつ私へと近づいてきます。

「お待たせ、文香」

 背筋が伸びた、かっこの良いシルエット。街の夜景を閉じ込めたような黄色の瞳。
 首元までの紺のショートヘア―は光沢を放ち、夜の中で際立っています。

 雨宿りをしていた私に真っ赤な傘を差しだしました。
 
 その礼節に満ちた身のこなしは一緒に見た古い洋画のワンシーンを見ているようで、
 どこか現実離れした美しさがありました。私はしばらく目の前の、年下の恋人に見惚れていました。

 目が合うと奏さんは優しく笑い、私を傘の中へと引っ張りました。
 少し着崩れた制服からは柑橘とアルコールが混ざった、香水の匂いがしました。

 
 真っ赤な傘の下、大通りへと歩き始めました。
 10月の街はこれから来る冬へと向けて、様々なものが変化をしている最中でした。

 私の恰好は、灰色のタートルネックに薄い紺のカーディガンで、
 秋の夜風を受け止めるには頼りないものでした。

 私の震えに気づくと、奏さんは握る手の力を強め、私の方へと身を寄せました。
 香水の、シトラスの匂いが強くなりました。身体が温かくなる分、冷たい風が心に染みました。
 夏の夜には感じられなかった、草木の匂いと大人の匂いが喜びを運んできて、次第に悲しみへと色を塗り変えていきました。
 
 私は再び、何もわからなくなってしまいました。
 
 目の前で、真っ赤に染まった葉っぱが一枚、秋風に揺られて落ちていきました。



 雨降りの並木通りはたくさんの人で溢れていました。
 
 その人波を二人、足早に通り抜けました。
 今までと同じように。距離を置きすぎないよう、ぶつからないよう、歩きました。
 奏さんはいつも通り、私と同じペースで歩いてくれました。

 ときおり、刺すような視線を感じました。

 透明な傘から真っ赤な傘へ。世界は好奇や非難の目で私達を見ていました。

 私はその視線に向き合うことが出来ず、目を下へと背けました。
 石が敷き詰められた歩道には真っ赤な葉っぱが数枚、落ちていました。
 
 靴で踏むと、落ち葉は音を立て、破れました。
 赤くなっていた手を離そうとすると、奏さんはいっそうきつく、私の手を握りました。

「今日は冷えるわね文香」

 私より聡明な恋人は視線に気づかないふりをして笑いました。

 見ると、奏さんの右肩は雨で黒くにじんでいました。
 それに引き換え、私は何一つ濡れていません。
 真っ赤な傘は驚くほどの角度で私の方へと傾いていました。

 私は唇を噛みました。昔も今もこれからも、私には何もできません。
 目の前で奏さんだけが雨粒に濡れていきます。
 身体は濡れず、心が濡れました。奏さんは大人で、私は子供のようでした。
 
 真っ赤な傘は私だけを守るように夜の中で咲いていました。


 部屋につくまでの間、他愛のない話を繰り返しました。

 もともとお互い、多くは語らない性格なのですが、
 恋人が濡れていく様をただ黙って見届けるのはとても耐えがたく、
 少しでも温かくなったらと、私は寒さに気づかないふりをして、笑顔で話を振り続けました。

 朝の空気が冷たくて布団から出るのが難しくなってきた話。
 ダンスレッスン中に転んでしまい、トレーナーさんに本気で心配された話。

 雨音がしきりに強くなる中、かき消されてもおかしくない私の声を
 奏さんは一つも逃さず聞きとり、話を終えると、とても優しく笑うのでした。


 私が住むアパートは都心部から少し離れた、灯りの少ない、静かな場所に建っていました。
 風と雨の音だけが私達を出迎えてくれました。

 上着をハンガーにかけ、温かい飲み物を淹れると、
 私たちはベッドを背もたれに、本を読み始めました。
 私は日本の近代小説を奏さんは海外のお話を好みました。

 最近、恋愛小説を読むことが増えました。
 昔は安易な感想しか浮かんでこなかった物語が、今では痛いほど染みるようになりました。

 叶わぬ恋に苦悩する、登場人物の一挙一動に、作者の一字一句に、胸が締め付けられました。

 あぁ、この人たちも私と同じ悩みを抱えていたのだと、
 偉大なる先人の方々に共感し、私の道を後押しされているような感覚を覚え、
 そして最後は悲しみが私を包むのでした。

 物語の中の彼らは愛を貫きました。
 たとえ自分が燃えてしまっても、あなたに伝わればそれで構わない。
 彼らの恋は情熱的で美しく、また勇敢でもありました。

 それに比べて私は勇気が足りていないのです。
 人前で歌う勇気も感謝を告げる勇気も、くれたのはいつも奏さんでした。

 私1人では、隣に座っている恋人の手を握る勇気も、愛していると伝える勇気も、出てこないのです。
 私にはあなたを愛する勇気も、あなたを傷つける勇気も、二人で痛みを分かち合う勇気さえもないのです。


 本のページをめくる音が止みました。代わりに奏さんの息をする音が聞こえてきました。
 一定の間隔で聞こえてくる呼吸の音は、私の読書を止め、しまいには私の心臓をも止めてしまいそうでした。

 呼吸の仕方を忘れ、陸にあがってしまった人魚のようになった私は本を閉じ、隣に座る恋人と向き合いました。

「文香」

 とひとこと名前を呼んで、奏さんは柔らかく微笑みました。それから私の頬へと手を伸ばして、もう一度

「文香」

 と私の名前を呼びました。
 冷たい手には優しさの炎が灯っていました。私の弱さは見透かされているようでした。
 黄色の瞳に映る私は奏さんの悲しみを帯びて、今にも泣きだしそうでした。


 そのまま二人、ベッドへと入りました。
 奏さんは覆いかぶさるように私に身体をのせました。
 香水の、シトラスの匂いが香りました。心がきゅっと痛みました。

 真っ赤な唇を私の唇へと合わせてきました。
 自分の一番好きなところでもあり、嫌いなところでもあると言っていた唇でした。
 唇は動かず、じっとしていました。触れ合った部分から熱が広がっていくのを感じました。
 お互いの身体から、涙がつたうように、汗がじんわりと流れてきました。

 私は目を閉じました。

 息が、唇が、服の上を辿って、私の身体を巡り始めました。
 手足や首といったところに、奏さんは印をつけていきました。

 タートルネックの首元や袖をまくって。真っ赤な唇の色に私を染めるように。
 淡々と。切々と。

 愛というのは性欲を美化したものだと以前どこかでお聞きしましたが、
 奏さんのこの行為は自身の愛の証明なのだと思えました。

 奏さんは自身の愛を少しでも伝えるために私の身体に触れている。そう思いました。

 瞼の裏に涙が溜まり、溺れてしまいそうになりました。
 
 手を伸ばせば、触れられる距離に奏さんがいます。
 ですが目を開けるわけにも、手を伸ばすわけにもいけませんでした。

 私と奏さんは人魚と王子様どころか、男と女ですらないのです。
 涙を見せる勇気も、涙を見る強さも私にはありませんでした。私はきつく目を瞑り続けました。

 
 やがて唇が離れると奏さんは私の背中に手を回して、頬を私の頬へと持ってきました。
 呼吸は荒く、奏さんの心臓の音が直接、私の心に響きました。

「文香」

 と私の名前を呟きました。
 耳元で聞こえたその声はあまりにも弱く、外の雨の音にかき消されてしまいました。

 奏さんはそれっきり何も言いませんでした。奏さんの音と雨の音が二人だけの部屋に静かに響きました。 
 

 
 奏さんの呼吸が整ったのをみて、私は目を開けました。
 私の横に、眠る奏さんの顔がありました。目元には涙の跡が残っていました。

 私は優しく奏さんの身体を抱きしめました。
 シトラスの匂いは汗で流れて消えていました。
 代わりに柔らかい匂いがしました。年相応の子供の匂いでした。

 私は首筋にそっと、口づけをしました。

 目を覚ますと、雨の音は聞こえませんでした。隣に奏さんの姿もありません。
 私の部屋には一人分の音と温もりしか残されていませんでした。

 急いでベッドから飛び出し、ハンガーにかけてあったカーディガンを取って、扉を開けました。
 玄関の傘立てに、真っ赤な傘が差してあるのが目に入りました。

『文香、愛してる』

 奏さんが告白をした次の日、シトラスの香りを纏いながら、買ってきた傘でした。

 特に装飾も施されていない、シンプルな赤い傘。
 以前の奏さんなら絶対に選ばない、目立ってしまうだけのデザイン。


 よかった。奏さんはいなくなってなんかいない。

 安堵の息をこぼすと、すぐさま不安が現れました。

 もし奏さんが本当にいなくなってしまったら、私は奏さんを探すのでしょうか。
 私は一人で生きていけるのでしょうか。

 もし奏さんが真っ赤な傘の中から、文香も来る? と手を差し伸ばしたら、私は自ら傘の中に入るのでしょうか。
 私たちは二人だけで生きていけるのでしょうか。
 
 真っ赤な傘は奏さんの恋心であり、世界への宣言でもありました。

 
 

 気づくと私はその場に立ち尽くしていました。私はその場から一歩も動くことが出来ませんでした。

「奏さん」

 助けを求めるように名前を呼びました。
 名前を呼んだら囚われました。奏さんへの思いが私の中で決壊し、溢れてきました。

「奏さん」「奏さん」

 私は恋人の名前を何度も何度も呼び続けました。返事は返ってきませんでした。
 部屋の外から鳥の声が聞こえてきました。

 朝を告げる規則正しいその声から私は耳を塞ぎました。
 真っ赤な葉っぱのように、涙が一粒、頬をつたって落ちました。


 おしまい

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