モバP「美波ィ!現実逃避するぞォ!」 (30)



「美波、現実逃避しよう!」

誘うなら今日しかない。

今期の節目となるライブを終えてすぐの休日。

緊張から解放された今日こそが好機と見て前々から計画していたプランを実行に移すことにした。

結果、うれしいことに二つ返事で快諾をいただいた。


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「それでラーメン屋さん、ですか?」

隣にいる美波が興味深そうに店内を見渡す。

L次方のカウンターに4人掛けのテーブルが2つのこぢんまりとした中華料理屋、ここが今日の昼食会場だ。

ところどころ塗装の剥げた赤いカウンターをなでる美波はどこか落ち着かない様子で、
さきほどからメニューを手に取ったりガタガタいう丸椅子の脚を調整したりしている。

「こういうところ、あまり来たことがなさそうだったからな」


わかっている。これが悪手だということは。
女性を連れ込んでラーメン屋もないものだといいたいのだろう、でもそれでは意味がない。

今回の狙いはずばり美波の化けの皮をはがすことにある。

清純ぶった振る舞いの、優等生面した表情の裏に隠された彼女本来の姿。
そいつを暴いてやるために今日までプランを練ってきたのだ。
だからこそ普段と違う場所に連れ出して、非日常の中に彼女をぶち込んでやる必要があったというわけだ。

とはいえラーメン食っただけでそんなんなるか?

たぶんなんない。

まあ行きつけの店に連れてきたかったっていうのもあるよね。


「醤油二つね」

どんぶりが置かれる。

時代を逆行したような透き通ったスープ、やたらと薄く味気のないチャーシュー、最近はあまり見られなくなったナルト、あと海苔。そしてちぢれ麺。

完璧な布陣だ。

俺はすべての麺をいったん高く持ち上げてから(天地返しではない)、おもむろに麺をすすりはじめた。うん、うまい。
その様子を見て美波もおそるおそるスープに口をつける。

「あっ」

目が合う。今の「あっ」は完全に感嘆符だ。どうやら気に入ってもらえたらしい。
それからは彼女もはばかることなく音を立てて食べはじめた。いい兆候だ。
しかし依然として麺をふーふーしたり、すするときに髪をかきあげたりと上品な所作が目立つ。これではいけない、これでは。

もっと大胆な新田美波が見たいのだ。

俺は味がしみてへにゃへにゃになった海苔を口に運んだ。


「すごくおいしかったです。また来たいですね」

と美波は満面の笑顔を見せてくれる。お手本のような台詞だすばらしい。

しかしどうにも気にくわない。

だいたい彼女は真面目すぎるのだ。真面目という言葉は昔ならいざ知らず現代において良い意味でとられることはほとんどない。
正直者が馬鹿を見るこの時代で真面目であることは何のメリットもないのだ。少しズルいくらいがちょうどいい。

加えて彼女は完璧主義者でもある。ダンスでも演技でも自分の納得したレベルに達するまでいっさい妥協を許さないし、
もちろんレッスン自体をさぼることもない。学業を理由に仕事をあけたこともない。

さらに付け加えるならば彼女にはリーダー気質があって、周囲からの信頼も厚い。
年少組のみならず年長組からも何かと頼られることが多く、よくよく飲み会などにも呼ばれているらしい。
年長組はもう少ししっかりしてほしい。

それはともかく、そういう性格が彼女にどう災いするのか。

決まってる。ストレスだ。

つまり、彼女は溜め込まなくていいことまで溜め込んでしまう癖があるのだ。


「次はどうしますか?」

「ふつうのデートなら、映画館や水族館としゃれこみたいところだが……」

「今日は違う、というわけですよね?」

勝手が分かってきたらしい。飲み込みの早さは相変わらずだ。
察しがよすぎるのも問題だと思うけれども。

「現実逃避、させてくれるんですよね。ふふっ、楽しみにしてます」

ん?

今の顔はちょっとよかった気がする。いや、気のせいか。

腹ごなしに少し歩いてから、俺たちは場所を変えることにした。


「ここは……」

ラケットを二つにボールをいくつか、それにシューズも二人分借りることにした。

スポッチャ、都市部を中心に店舗数を増やしつつある複合型アミューズメント施設だ。
ボウリングをはじめとして、ダーツやビリヤード、場所によってはフットサルやバッティング練習もできるという割となんでもありの施設である。

俺たちはその一角、四方を壁に囲まれたまっさらな部屋の中にいた。

ぶんぶんとラケットを試し振りしてみる。
年のせいか以前ほどスピードが出なくなったように感じる。加齢はいやだな、本当。

「やったことある? スカッシュ」

たぶんやったことないだろうけど、一応聞いておいた。


「名前だけは知っていましたけど……」

さすが。ともすれば話は早い。

一応説明しておくと、スカッシュとは簡単に言えば屋内でやるテニスである。
テニスと違うところは、コートが半面しかないところと、四方の壁の跳ね返りを利用できるというところだ。

コートが半面しかないので、自然と二人とも同じ場所でプレーする事になる。
テニスでいうダブルスの相手が敵になったようなものだ。前に出たり後ろに下がったりで相手を攪乱することもできる。

そして最大の特徴が左右もしくは後ろの壁の跳ね返りを利用できるという点だ。
プレーヤーは必ずしも正面だけに球を返さなくてもよく、あたかもビリヤードのように左右の壁を利用してラリーを続けることもできるのである。
この点がテニスとの大きな違いであり、またスカッシュというスポーツを戦略的に奥深いものとしている。

だいたいの概要はこんなところで、美波もこの辺りのルールは知っていたようだ。何でも知ってんね。


で、なぜスカッシュか?

理由は簡単で、近場にテニスコートが無かったからだ。

俺の見たところ、テニスに興じている美波はアイドルとしてステージに立つときとはまた違った顔をしているように思う。
いきいきしているというか、勝負師の顔をしているというか……。

べつだんアイドルをしているときの彼女を貶めているわけではない。
女神と称されるような麗しく慈愛に満ちた美波もそれはまた素晴らしいものだ。

しかし今回の目的に沿っているのは明らかに前者だろう。
スポーツを通じて彼女のストレス解消を図るとともに、内面のどろりとした部分を覗き見てやろうというわけだ。

美波は入念に準備体操をしている、まめなことだ。

しかしスカートで来させたのはまずかったかもしれない。動きやすい格好でと一言付け加えておけばよかった。
ジャンプの度にひらひらするスカートが気になってしょうがない。俺は頭をぶんぶんと振った。


まずは壁当てをして感じをつかむ。

壁の跳ね返りを利用するのは結構なテクニックが必要で、ねらったところに当てるのはかなり難しい。
素人は大抵いきあたりばったりで壁に当てるので戦略もクソもなくなってしまうことが多々ある。

本来は相手と自分の位置を把握した上でもっとも効果的な球を打つのがセオリーだ。
といってもその辺はテニスも似たようなものなので、飲み込みの早い美波なら問題ないだろう。

実際何回か壁当てしただけでコツをつかんできたようである。
左の壁に当てて正面の壁を介して右に持っていく。右側にいる俺の足下にうまくボールが落ちてくる。天才か?

今度はラリーを続けてみた。かなり動きがよい。スピードも速い。ラリーも途切れない。
これが19歳の力か……若さ、若さとは。

「そろそろ始めましょうか!」

声色からだいぶテンションがあがっていることが窺える。
ここまで期待してもらえると俺もうれしい。


サーブは美波からだ。

サーブだけは例外的に左右の壁に当ててはならず、正面の壁に当てて相手のコートに入れる必要がある。
言い忘れていたがコートは左右に分割されている。テニスと同様に床にT字のラインが引かれているのだ。
いうてもこれはサービスの時だけに使われる便宜上のものと思ってよく、サービス後は二人ともコートに関係なく自由に動きまわることができる。

いよいよ試合開始だ。左側に美波、右側に俺が陣取った。
美波のサーブが正面に当たり俺のコートに落ちてくる。

素直な球だ、素直すぎる。

俺は角度をつけてレシーブして、正面の壁から左の壁に跳ね返るように返球した。
右から打ったボールが再び右に戻ってくる。こういうことはテニスではないだろう。
美波が俺の後ろ側に回り込んで打ち返す。また正面をねらった素直な球だ。

それではこのゲーム勝てないぞ――。

やや酷だが、洗礼と思ってここらでひとつお見舞いしてやるか。
俺は再び角度をつけて今度は右の壁めがけて全力で打ち込んだ。
ボールは右の壁から正面をつたい左の壁に当たって戻ってくる。計三回の跳ね返りを利用した高度なテクニックだ。

美波はめまぐるしく動くボールについていくことができず、かろうじて振ったラケットもむなしく空を切った。
てんてんと転がっていくボールを彼女は眺める。

「俺のポイントだな」

やや挑発的にいうのもポイントだ。


「……」

俺にサーブ権が移る。美波は無言で構え直す。

サーブは一度正面の壁に当てさえすれば、後は相手コートに落ちるまでどの壁に当ててもよいというルールがある。
つまり正面→左の壁→相手コートでも、正面→後ろの壁→相手コートでもどちらでもいいのだ。
もちろん律儀に正面から直接相手コートに落としてもよい。
ここでは後ろの壁に当てるショットを選択した。

うまく術中にはまってくれた。

下から上に打ち上げるようなサーブは腰を落として低く構えている美波の頭上を通り越し、後ろの壁に当たって一回、二回とバウンドし戻ってきた。
彼女はボールの行方を目で追っただけで、全く動くことができない。

「2ポイント先取だな」

美波が俺を見つめる。そんなに見られちゃ照れるな。

俺はそこから続けざまに2ポイント奪取した。これでスコアは0-4。


大人げないと思うだろうか。

しかし美波が相手の場合、かえって手を抜くほうが失礼にあたる。
彼女はいつも真剣に生きてるし、一瞬一瞬に本気で取り組んでいる。
アイドルだって資格取得だって一度も手を抜いたことはないだろう。
そんな彼女の前に出て「手加減する」などと言えるだろうか。彼女の目を見て本当に言うことができるか。

本気で戦うのが新田美波に対する敬意だ。俺は負けるつもりはない。

美波はガットの張りを確かめた後、再びレシーブの構えを取った。
口を半開きにしてくるくるとラケットを回している。その眼光は鋭い。

俺は再び下から上にサーブを打った。ふわりと飛んだボールが後ろの壁に跳ね返る。
駄目だぜ、ここはボレーが最善だ――。

しかし俺の予想を越えて彼女の反応は速かった。
構えを解くことなく大股に2、3歩バックステップするとワンバウンドして戻ってくるボールに強烈なフォアハンドを打ち込んだ。

正面の壁に当たったボールは左の壁沿いに落ちてくる。まずい、これは。
スカッシュにおいて壁があることはメリットだけではない。壁沿いに落ちてくるボールはその一例といえる。
壁があるためにプレーヤーはラケットを満足に振り回すことができなくなるし、ラケットの中心でボールをとらえることもできなくなる。
結果として力ない中途半端な返球になってしまうことが多く、その隙をつかれて一気に崩されてしまうのである。

今回も例外ではなかった。
かろうじて打ち返しはしたものの、体勢が崩され左側に寄りすぎてしまった。これでは。

俺の予想通り美波は右側めがけてクロスを放ってきた。とても追いつけない。
それでも必死になって食らいつく、腕を目いっぱいにのばす。
それこそが彼女に対する礼儀だと思うからだ。

「1-4、ですね!」

畜生、いい顔してやがる。


ぺりぺりと一枚一枚はがれていく感触があった。
何かといえば新田美波の化けの皮である。

サーブを放つ度に、なめらかなステップを踏む度に、額から汗を滴らせる度に彼女の本性が露わになっていく気がした。
本性というとおかしいかもしれない、きっと別の一面と言った方がいいのだろう。
表に対する裏ではなく、寄り添うような二つの顔、ちょうどスカッシュに興じる俺たちのような関係性なのだろう。

ここでは彼女はまるで体育会系だった。はじめはささやかだったガッツポーズは徐々に大きくなっていった。
もう不意をつかれて黙っている彼女ではない。俺にポイントを取られると大げさに天を仰いだのち「次はとります!」と叫んでみせた。

これだ、俺が見たかった新田美波は。
普段のいい子ちゃんの顔はどこへやら、思うままに激情のまま感情をぶつけてくる。
そんな彼女の姿は例えようも無く美しい。流れる汗も素晴らしい。ガッツポーズがまずかわいい。

できることならファンのみんなにもこの新田美波を見てほしい。
今の彼女を知らしめることこそが俺のプロデューサーとして使命なのだろう。

よっしゃ、この勝負絶対勝ってみせるぞ。



いや、甘かった。

新田美波さんを甘く見てました。
本番に強いとか試合の中で強くなるとかってよく言われるけれども本当にそんな人がいるなんて思ってもみなかった。

スコアは9-8、なんと俺が負けてる。

美波がドロップショットを放つ。
完全に虚を突かれた俺はうおおと叫びながらダッシュするが、時すでに遅く飛びついたときには明後日の方向にボールが転がっていた。
前のめりにつまづいた挙句、したたかに頭を打ち付けた俺を見て彼女は言う、

「ふふふ、プロデューサーさん、大丈夫ですか?」

――あれ?

今一瞬とんでもない美波の顔が見えた気がしたけど、気のせいだろうか。
なんか、嗜虐的というかストレートに言ってサディスティックな表情を垣間見た気がするのだけど……。

目をこすってもう一度彼女の顔を見る。
その表情は嘘偽り無く俺の身を案じている風で、さっきまでの印象は1ミリたりとも残っていなかった。

気のせいだよな。

何か変な扉開けちゃったんじゃないよな。


10-8で美波のマッチポイント。せめてタイブレークには持ち込まないと。
俺にもメンツというものがある。この一点を逃すわけにはいかない。

美波がサーブをしてくる。もはや跳ね返りにも慣れたもので正面から右の壁を伝ってボールが落ちてくる。
レシーブの後、何度かラリーを交わす。ここまでくると自分の動きはほとんど意識しなくなる。代わりに意識するのは相手の動きだ。
格闘ゲームのプロは自キャラはまったく見ていなく、敵キャラのみを注視しているという話を聞いたことがある。
これに限らず一対一の対戦では自分ではなく相手をよく観察することが何よりも重要になる。

美波は打ったあと必ずコートの真ん中に戻る癖がある。
テニスでもスカッシュでもこの動きは当然のセオリーだが、あまりに何度も続けていればそこに隙が生まれてくる。

俺はクロスを放ち美波を左側に寄せる。彼女はバックハンドで左の壁の跳弾を利用して返球してくる。
ここで美波はまた真ん中に戻ってくるはずだ。今だ。俺は得意の三回跳ね返りショットを放ち、再び左側のそれも前方ぎりぎりのところを狙い打ちした。
俺はビリヤードだってできるんだぜ。


とことん俺は甘かった。
俺が美波を見ていたなら、美波も俺を見ていたのだ。

彼女は真ん中に戻ってなどいなかった。左側に陣取って俺の動きを予測し前方に走り出していたのだ。
まるで吸い寄せられるように彼女の手元に向かってボールが落ちてくる。しまった。痛烈なバックハンドが炸裂する。どこにくる?

ボールの行方を見て俺は負けを確信した。うそだろ。

ニックショットという技がある。これもスカッシュの特性を利用した必殺技だ。
壁の跳ね返りがあるスカッシュにおいて、もっとも相手が嫌がるボールとはどんなものだろうと考えてみると、一つの答えが導き出せる。
それは正面の壁に当たって弾まずに転がっていくボールである。弾まないのでドロップショットよりも始末が悪く、打ち返すことはほとんど不可能に近い。
そんなショットが打てるのか? 結論から言えば打てる。

床と壁の境目、ちょうど角となる部分を狙って打ち込めばいいのだ。

彼女が放ったのは紛れもなくそのニックショットだった。

勢いを失ってビー玉のように転がっていくボールを唖然としながら見送った俺は、そのまま膝から崩れ落ちた。
こんなんどうしようもないじゃん。

「私の勝ち、ですねっ、ふふふふ」

今、確信した。笑っている彼女の顔を見ればわかる。
あれは美波ではない。

美波様、だ。

化けの皮をはぐとは言ったが、ここまでするつもりは無かった。ほんとに。


その後も3ゲーム続けてやって、3ゲームとも負けた。
最後の方は右に左といいように振り回されたあげく、ニックショットでフィニッシュを決められて完全に心を折られてしまった。
『美波様』はすごい笑顔だった。

いや、最後まで力を尽くすことが彼女に対する礼儀のはずだ。
でもこんなのあんまりじゃないですか。もう足がぼろぼろで一歩も動けないんですけど。

小一時間後、俺は傷心のままスポッチャを後にすることになった。
隣で爽やかに微笑む美波はすでに『美波様』ではなくなっていた。あれはすごいレアキャラなんだなあ。
そういえば前にメイド服を着せたときもそんな感じだったような……。

一人うんうんと得心していると美波が物足りなそうに聞いてきた。

「次はどこに行きます?」

次? どうしよう、次は考えていなかった。
もう夜遅いし、見たいものも見れたし、そろそろ解散でも――。

「……」

すごい。


この顔されて、堕ちない男がいるのか。


とはいえ俺も良識ある大人である。やっていいことと悪いことの区別は付いている。
最終的には行きつけのバーで軽い食事を取ることで話がまとまった。反社会的な行為はいけない。

バーとはいうが、そんなにお堅いものじゃない。どちらかというとカジュアル寄りなところだ。
美波自身、高垣楓さんや川島瑞樹さんに誘われて何回か来たことがあるらしい。
未成年を連れ回すのはやめろと注意したいところだが、今は人のことを言える立場ではないので黙っておいた。

そうこうしているうちに店に着く。
木製の重いドアを開けると、からんというベルの音がした。
サングラスをした渋いマスターに連れられてカウンター席に案内される。

「ビールと……何飲む?」

「えっと、じゃあシンデレラでお願いします」

シンデレラ? 俺は知らなかったがそういうノンアルコールカクテルがあるらしい。
よくよく楓さんや川島さんに薦められて飲んでいるのだそうな。
曰く、ほろ酔いの年長組に「美波ちゃんはまさにシンデレラだもんねー」とおだてられるので飲みにくくてしょうがないらしい。

シンデレラね。

俺はビールをぐいっとあおった。あ、乾杯忘れた。


「お疲れさまです」

ちん、という音とともに改めて乾杯をする。
この楽しい時間もこれで終わりかと思うと胸の奥から寂しさがこみ上げてくる。

「どうでしたか?」

なにが。

「現実逃避、できました?」

ん?

美波を見る。その目は優しさに満ちていた。いやいや、おかしいでしょ。
俺自身が現実逃避したかったんじゃなくて、美波を現実逃避させたかったんだ。
澄まし顔でお姉さんやってるような毎日のくびきから少しでも解放させてあげたくて、ちょっとでも気分が楽になれたらいいなと思って今日は誘ったんだ。
そのついでで美波の内面を覗くことができればプロデューサーとしてこれ以上の幸せはねえよなと思ってそれで勇気を振り絞って頑張って――。

そういうことを言おうとして、ふと手が止まった。
スカッシュをやっていたときのことを思い出す。

『俺が美波を見ていたなら、美波も俺を見ていたのだ』


なんだ。これは深淵のコピペ(元)だ。
『深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ』そのまんまだ。

「誘われて二つ返事で受けちゃいましたけど、私、これはチャンスだなって思ったんです」

後に続く言葉は何となくわかった。

「プロデューサーさんがずっと気を張ってて疲れているのをわかってましたから。
プロデューサーさんていつも、その、自分で溜め込んじゃうというか、そういうところがありますよね。だから気分転換にもいいんじゃないかなって」

「それに、前々からプロデューサーさんのこともっと知りたいって思ってたんです。
今日はだからいいものが見れたなって、ふふっ、ちょっとはしゃぎすぎちゃいましたけど」

美波は俺とまったく同じことを考えていたのだ。

こんなの、独り相撲もいいところだ。
俺は上から目線で美波のストレス解消だの裏の顔を暴くだのと偉そうに啖呵を切っていたのだが、そんなことはすべて彼女は承知の上だったというわけだ。
俺が自らの境遇をそのまま美波に重ねているということまで、彼女はわかっていたのだろう。
全部わかったうえで俺の誘いを受けてくれたのだ。

要するに俺は美波を接待していたつもりだったが、実際接待されていたのは俺だったというオチだ。
現実逃避していたのは彼女ではなく、俺自身だったのだ。

『深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ』ほんとだよ。

俺は頭を抱えた。そんなことも気付かないでなにが「現実逃避しようぜ!」だ。
恥ずかしくて顔が焼けるわ。自分のエゴでアイドルを一日中連れ回しておいて悦に浸ろうだなんてこんなふてえ野郎がいるか?

「気を使わせたな。すまん」

自分の愚鈍さに呆れつつ、彼女の聡明さに感心しつつ、どうにかひり出した言葉はあまりに弱々しくて彼女に届いているか不安になった。


「なんで謝るんですか? 私、すごく楽しかったですよ?」

それが嘘でないことは声色ですぐにわかった。ささやかな救いだ。

「私の意外な一面に気付けましたし、何より――」

「スカッシュ、本気で闘ってくれましたよね? それが本当にうれしかったです」

そう、本気で闘った。これだけは嘘じゃない。
俺は彼女に手加減しなかった。真摯に彼女と向き合おうとしたからだ。
深淵のコピペが本当なら、それはすなわち自分自身と向き合うことと同義なはずだ。

ラリーを続けることはキャッチボールとは意味合いが違う。でも会話をするという点では変わらない。
壁に跳ね返るボールを追いながら、幾度と無く美波とポジションを交換しながら、俺は彼女と会話するとともに自分自身とも会話していたのだ。
一つのコートに敵味方両方が入り交じるスカッシュという競技の特殊性がそれを可能としていた。
そして何より、俺と同じくらい真剣に挑んできてくれた美波がいたから、だから――。

だからつまり、これは大団円なんだ。


普段は見れない美波の一面を垣間見て、彼女のストレス解消にも一役買うことができ、
そして俺は、彼女を通じて自分の弱さを知ることができた。これが大団円でなくて何か。

その事実に気付いたとたん、心がふっと軽くなっていくのを感じた。
ボールを打つ感触がまだ手に残っている、あくせく走り回った両足はすっかり固くなってしまった。きっと明日は筋肉痛だ。

俺はそれら全ての屈託をビールとともに流し込むことに決めた。炭酸の刺激が心地よく喉に響く。
うまい、こんなうまいビールいつぶりだろう。

胸中をさわやかなものが吹き抜けていく。
心の奥底に巣くっていたわだかまりが消えていく。

なるほど、俺は心底疲れていたのだな。
手遅れになってしまう前に気付けて本当によかった。

隣で微笑む美波を見る。全て包みこむような慈愛に満ちた瞳。
そこには間違いなく俺が映っていた。

何となく、何となくでしかないが、
俺は明日からもやっていけそうな気がする。
今まで以上にプロデューサー業を頑張れそうな気がする。

全ては美波のおかげだ。彼女に感謝しなくては。

「ありがとう、美波。俺も美波が真剣になってくれてうれしかった。ただ……」

後に続く言葉を彼女は待っている。

「ただもうニックショットは、勘弁してほしいかな」

二人して笑った。

二杯目をどうするかと聞かれたので、俺は迷い無くシンデレラを頼んだ。



――――
――


あれから気分は上々で、仕事もいつになくはかどっている。
こんな気持ちで毎日を過ごすことができるなんて以前は考えられなかった。
新田美波さまさまだ。決して『美波様』ではない、ここは重要だ。

噂をすると何とやら、美波とアナスタシアさんがやってきた。

「プロデューサーさん! 聞いてください、この間ですね」

なにやらハイテンションで美波が話してくる。
聞くと、先日またスポッチャに行ってスカッシュをしてきたらしい。
相手はアナスタシアさんで、一からルールを教えて二人で特訓してきたのだそうだ。

そんなにハマるとは思っていなかったので意外そうに聞いていると、
会員カードも作って専用のラケットまで用意してもらったという。それはまた、ずいぶんご執心ですな。

「それで、あの、もしよければなんですけど……」

この展開は正直予想できた。
予想できたがそのときの俺の喜びようといったら、
まあ、内心飛び上がらんばかりだったとだけ言っておこう。

新田美波の笑顔は相変わらず優しさにあふれている。しかし俺は彼女の違う一面も知っている。
きっとこれからも折に触れて見せてくれることだろう。俺はそのときを楽しみに待っている。


「プロデューサーさん、現実逃避、しませんか?」


しかしまいったな、次までにニックショットの攻略法を考えてこなくては。





おわり


スカッシュやったことないです。

html依頼してきます。

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