速水奏「二年越しの想い」 (205)




それはまるで太陽のように――まばゆく、あたたかく、まっすぐに、私の心を照らしだす。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1473518875

躍動するその姿を初めて見た時、私は彼女の魔法に掛かってしまった。

掛けられた魔法は、今も私の心を掴んで離さないままでいる。

その気になれば、いつでもその一歩を踏み出し近づけたはずだった。だけど――

光り輝くその場所に近づけば近づくほど、足元の影が濃くなるのを恐れて、その勇気を持てないでいた。

軽やかに、鮮やかに、縦横無尽に所狭しと舞うその姿は、私の一番の目標であり、憧れだった。

壇上に立ってひとたび動き出せば、離れて見ていた私の心もそれに呼応するように躍り始める。

そして動く心とは対照的に、体は芯から痺れるような感覚に釘付けにされた。

その自由奔放さがまぶしくて、うらやましくて、ときには目を背けたくなってしまうくらい。

そんな溢れんばかりの輝きに照らされた私の姿は、遠く離れた貴女の隣で、どんな風に映っているんだろう。

――答えを聞くことさえも、ためらってしまっていた。

――――――――――――――――――――

あの人に誘われてアイドルの仕事を始めてからというもの、私にはたくさんの仲間が出来た。

そこで過ごす毎日は、彼女達が放つ様々な色に彩られていて、どこを見ても違う景色が映っていた。

それぞれから私の知らない事や、知らない世界を教えてもらい、日々新しい色が自分の中に増えていった。

共に頂点を目指すうえで、互いを高めあえる大切な存在でもあった。

そんな中でも同年代付近の仲間に対して、私は基本的にみんなを呼び捨てにしている。

どうしてかといざ聞かれると、返答に困ってしまう。

単にそのほうが呼びやすいから? ――即座に浮かんだのは、答えにもならない実に曖昧な疑問形だった。

そして基本的にというからには、当然例外が存在する。年齢が近くとも、呼び捨てにしていない仲間もいた。

これもどうしてかと聞かれると、また返答に困ってしまう。

呼びやすいのが同じ理由だとして、本当にそれだけ? ……今度は疑問形ですら、浮かんでこない。

でも心の奥底ではきっと、そんな不確かなものだけじゃないとも思っていて――

ミーンミンミンミン……ジジジジジー……



そんな、やかましく響き渡っていた蝉の鳴き声も昨日まで。今日は、めっきりと聞こえなくなっていた。

うるさく感じていたはずの――しかし聞こえるはずのものが聞こえないことへの違和感が、そこにはあった。

もちろん、自分の耳に異常をきたしたわけではない。

静かな部屋から一歩出て、その違和感を熱気とともに身をもって知ることで、今がまだ夏なんだと改めて実感する。

もうすぐ立秋を迎えるというのに、秋の気配は一向に姿を表さない。代わりに見えるのは、空を覆う灰色の塊。

並び立つ街路樹の緑色とのコントラストは、気が滅入ってしまうほどの不気味さを備えている。

夏の暑さに説得力を持たせる光も今はここまで届きそうもなく、その気味の悪さに拍車をかけた。

そんな塊を手で掴めそうなほどの近さに置きながら、かき分けるようにして歩いていた。

遊びではない用事で、制服ではない服を着て、学校ではない場所へ行くことも、もうすっかり慣れてしまった。

学校帰りですらOLに間違えられるほどの私にとって、もはや制服は全身を絡めとる枷のよう。

高校生としての私と、アイドルとしての私。どちらも大事なはずが、混ざり合うことで窮屈になっていた。

その分仕事での衣装や私服を着ていると、抑圧された自分を解放できるような気持ちになれていた。

しかし、慣れたはず、いい気持ちだったはずのことが、今はどうにも足が重く、まぶたも重いように感じている。

行き交う人々、景色の移る速度が早くなったり遅くなったりしているように見えるのは、決して気のせいじゃない。

高揚感と倦怠感。二つの相反する思いが、待ち合わせ場所に向かう私の歩く速度を不規則にさせていた。

場所が場所なら、野に咲く花を眺めるために足を止めていただろうけど……残念ながらここは都会のど真ん中。

時間が時間なら、秘密の待ち合わせになっただろうけど……残念ながら今は朝。

そしてこのまとわりつくような空気も、くもりのち雨という天気予報に寸分違わぬ、見えない枷になっていた。

コンタクトレンズを常用している私にとって、朝という時間帯はまぶたがなかなか持ち上がらなくて億劫になる。

私自身が朝に弱いというのもあるけど、昼下がりの陽気にうとうとしてそのまま……なんてこともできない。

それは一度着けてしまえばまどろみに落ちることを許さない、薄くて柔らかい透明な鎧のようで。

……このレンズも、制服と同じような存在なのかもしれなかった。



「おはよう――」

扉を開け、待ち合わせ場所の主に呼びかける。

「Pさん。……あら?」

そこには私よりも眠そうな顔を貼り付けて、ディスプレイと睨めっこしているPさんの姿があった。

そういえば、彼もコンタクトを着けていたわね。……私と同じような悩みや思いを抱えていたりするのかしら。

「んー、奏おはよう……」

私の存在に気付いて、間の抜けた挨拶が返ってきた。

とはいえ、わざわざ女の子を呼んでおいて、その顔と声はないんじゃないかしら。

気心知れた者同士であっても、最低限の礼節は弁えるべきだと思うの。

たとえそれが悩みによるものだとしても、ね?



心の声が届いたのか――

「すまん……」

手元にあったコーヒーを一気に飲み干し、こちらに向き直って。

「ふふっ……目は覚めた?」

まぁ、私だって似たようなものだったから。

「よし、もう大丈夫だ! さて……重ねてすまん、休日なのにこんな早く呼びつけたりして」

「別に気にしないで? それで、どうかしたの?」

それで似た様子の貴方を見つけて、いつものように他愛もないやりとりをしたかっただけ。

朝が弱いなんて言っておきながら――

「次の仕事について話があってな」

これが夜だったら、一人で勝手に舞い上がって、一人で勝手に気を落としてたのかも。

「なにかしら?」

そんな私の胸中は露知らず、彼は仕事についての話を進めていく。

「今までの撮影で使ってきた衣装は黒や紫だったり青と、暗いイメージのものが多かったけど」

「ええ」

「今度はガラッと志向を変えていこうと思うんだ。ほら」

そう言って、ノートパソコンをこちらに向けた。

「あら……これはまた、情熱的な色ね」

画面に表示されたのは、真っ赤なドレス。これまでの私には、無かった色。

「目に映る色のことならまさにそうだな。だが、もうちょっとひねりを加えるつもりなんだ」

灰色の塊の切れ目から白い光が一瞬顔を出し、わずかな間ぼんやりと窓を金色に染め上げる。

私の今日が、少し遅れて始まった。

「ひねり?」

「今までは幻想的な魅力を押してきたけど、今回は空虚で退廃的な感じも出してみようと思ってな」

「この前の決め事もあるし、そういう世界を奏一人で作ってみないか?」

決め事。

「俺からのリクエストはこの赤いドレスだけ。あとは奏が納得いくまで仕上げるんだ」

約束というには大げさかもしれない。でも、彼と二人で決めた事。

「必要なものがあれば、よっぽどなものじゃなければ大丈夫だ。なんとかするから安心していい」

試すには、絶好の機会ね。

「もちろん、なにか困ったことがあれば、その都度全力でサポートする」

いえ……元々そうするつもりでPさんは、あの相談を持ちかけたのかしら。

「どうだ?」

どちらにせよ、彼が期待を寄せていることは、まっすぐに私を捉えるその眼差しからも明らかだった。

さっきまでの寝ぼけ眼はどこへやら。同時に、実に挑戦的な目でもあった。

それにつられるように……私の目も、頭も、徐々に覚醒していく。

「――ええ。Pさんの期待、応えてみせるわ」

ありがとう――言外にお礼を込めて、私もしっかりと彼を見つめ返す。

「そっか。うん、そうだな、期待してる」

言いたいことを先に言われて面食らったのか――

「……そこで、俺からのプレゼントがある」

少し間が開いて、Pさんが机の引き出しから二冊の本を取り出した。

「これは、聖書? もう一冊は……なにかの画集かしら」

静物画――聞き慣れない単語だった。

「見ても?」

「あー、うん。まぁ、今ならいいかな……」

私の問いかけに一転、また妙に歯切れの悪くなったPさん。

そんな彼の様子を訝しげに思いながら表紙をめくると、目の前に飛び込んできたのは――

それからは、毎日の荷物に二冊の本が増えた。

Pさんにプレゼントとして渡された、空虚で退廃的な雰囲気を醸し出すための、魔法の本。

仕事の合間や移動の際など、時間があれば、聖書については読むようにしている。

一方画集に関しては、常に鞄に入れてはいるものの、寮に居るときなど、一人の場合に眺めることにした。

――さすがにアレを人前で広げる勇気は持ち合わせていなかった。だって、ねえ。

めくって1ページ目からいきなり、骸骨が真ん中に描かれた画が飛び出してくるんだもの。

おまけに、その存在感に負けじと並んだ活字で、それの説明や歴史的背景を事細かに考察していたり。

いくら撮影のための参考資料とはいえ、女子高生に贈るものとしてはおかしいんじゃないかしら。

魔法の本というよりは、呪術に使えそうな本と形容したほうが、より正確かもしれない。

渡す相手を間違えれば、見たその場で突き返されることだって有り得ると思う。

そこのところはさすがに彼も分かっていたみたいで、指摘すると本当に申し訳なさそうな顔をしていた。

まぁ、そんなあの人の珍しい表情が見られたということもあって、すぐに許してあげちゃったけど。

その後に浮かべた安堵の表情も、いつものように誘惑したときに見せるものとは、また違って見えた。

もっとも、そんなことで許してしまえるあたり、私もおよそ女子高生らしくないのかもしれなかった。

「Pさん、おはよう」

「おっす、おはよう奏」

今日のPさんからは、この前の気だるそうな雰囲気は見られない。

代わりに、少し気を張っているように見えるのは、私の勘違いなのかしら。

今では日常となった彼との掛け合いもそこそこにソファに座り、魔法の本を開く。



――プレゼントから、一週間が過ぎた。

画集も最初のうちは怖いもの見たさで覗く程度だったのが、夜寝る前に眺めるようになっていた。

よくよく考えるとこれまでも、合わせ鏡の部屋でザクロをかじってみろだの、おかしなリクエストがあったわね。

結局アレも面白くなってしまって、おいしいなんて言いながら撮影はノリノリで演じたんだったかしら……

それを踏まえると、今回のこの聖書や画集もまた、今までと同じような運命に導いてくれるのかもしれない。

普段は私がこの人を振り回してると思っていたけど、肝心の部分ではちゃんと手綱を握っているってことね。

そしてそれをどこか心地良く思っている自分が、期待に応えたいと思っている自分が、確かに存在した。

「しかし、ここまで雰囲気が変わるとは。まるで別人だな……」

「ふふっ、そうかしら。まぁこういうのも、たまには悪くないかもね」

「鷺沢さんや古澤さんとはまた違った文学少女の趣が出てて、なかなかいいギャップだと思う」

文学少女。確かにそれもいいんだけど、今回は事情が違う。

「ただまぁ、ここからだな」

目指す先は……さしずめ生死の境目ってところね。――私は、あの世界をちゃんと表現できるのかしら。

「ええ、そうね」

そんなことを考えながら、手に持った魔法の本のページをめくっていく。

彼のキーボードを叩く音や私の紙をめくる音が、さながらブックカフェに流れる名も無きデュエットを奏でていた。

この空間だけは、都会の喧騒からどこか置き去りにされたような、おだやかな時間が流れていく。

壁に掛けられた時計の針の音が、少しだけゆっくり聞こえる気がした。



読むのに集中していたせいか、はたまた演奏に集中していたせいだろうか――

もう一人の住人の帰還に気付くのが遅れてしまう。

「……あら、ごめんなさい。おかえりなさい伊吹ちゃん、お疲れ様」

例外の小松伊吹ちゃんが、レッスンから戻ってきていた。

彼女は共にPさんに面倒を見てもらっていて、仕事でも遊びでも、一番接する機会が多い人物だ。

「ただいまー、奏とここで顔合わせるのもしばらくぶりかなー……」

ここで会うのは……一週間ぶりってところだったかしら。

――静かでゆるやかに流れていた時が一転、音を立てて澱みなく動き始めるのを感じていた。

彼女は私のことを”奏”と、呼び捨てにする。

一方私は彼女に対して呼び捨てにはせず、”伊吹ちゃん”と呼ぶ。

年齢で考えれば、二つ上の彼女が私を呼び捨てにするのは、特別変なことじゃない。

そして二つ下の私が彼女のことを”ちゃん”と敬称をつけて呼ぶことも、なんらおかしくはない。

少し離れた程度の年齢に即した、ごく普通の呼び合い。そんな当たり前が、私にとっては唯一無二のものだった。

他の人相手だと、その逆だったり、双方が呼び捨てにしたり、あるいは敬称をつけたり。

文香や美波なんて伊吹ちゃんと同じ年齢なのに、年下の私のことを、あろうことか”さん”を付けて呼ぶんだもの。

まぁそこのところは、私だって年上の彼女達のことを呼び捨てにしてるから、お互い様なのかもしれない。

「って、珍しいじゃん眼鏡かけてるなんて! どしたの?」

そんなことを考えていると、早速私の変化に気付いたみたい。

「それに、なんか難しそうな本でも読んでるの……あれ、聖書?」

下から覗き込む彼女の頭に、続けざまに疑問符が増えていく。

私の変化は、なにも聖書や画集を読み始めたことだけに限らない。

「ああ、これは……予習ってところかしら、ね」

予習。

Pさんにあの赤いドレスを見せてもらった後に、追加の注文があった。

『ごめん、ドレスだけなんて言ったけど、もう一つ頼まれてくれるか』

『なあに?』

『儚さを出すためにイメチェンでもどうかなーと思って。奏の手持ちから何か心当たり、あるか?』

『なるほどねぇ。うーん……じゃあ、眼鏡なんてどう?』



私の武器が、魔法の本二冊と魔法の眼鏡になった。



――そこで終わってしまえばきれいに幕が下りたのに、記憶のフィルムはそれを許してくれなかった。

引きずられるようにその日の夜のことが、頭の中で再び上映されていく……

事務所を出て、外もすっかり暗くなった帰りに――

『お疲れ様。朝早くから悪かったな、レッスンもいつも通りあったのに』

『大丈夫よ。Pさんも、お疲れ様』

『とりあえずこの撮影が終わるまでは、スケジュール等はこの仕事を最優先に考えていく』

『それと、多少不自由かもしれんがその間コンタクトはなしで頼む』

『ええ、わかったわ』

『それと眼鏡ということで、一部レッスンも取り止めなり差し替えをしておく』

『ありがとう、Pさん』

『簡単な予定は後でメールを送る。明日にはまとめたのを紙にして渡すよ。ひとまずはこんなもんかな……』

『何か分からないことがあれば、その都度連絡なりよこしてくれ。――支度ができ次第、寮まで送っていくよ』

色々なものがいい風を吹かせ始めて、分厚い雲も徐々に晴れていくような、そんな気がしていた。

それなのに――

『……苦労かけて、ごめんな』

おやすみに付け加えられた、別れ際の一言。いつもは湧くように飛び出る軽口が、喉から先に続いていかない。

どうしてそんなに優しいの? 期間中ずっと外すのはPさんのアイデアだけど、元々は私が提案したことなのに。

彼にしてみればなんてことはない気遣いの言葉が、私の心をひどく揺さぶった。

心がこもっていたからこそ、短く単純な言葉が直接届いてしまう。

顔なんて、見ていられなかった。目を合わせたら、また溢れてしまいそうだったもの。

あの約束を取り付けた時と同じように、私は弱いままだった。

『いいのよ、Pさん。今日もありがとう。おやすみ、また明日ね』

今の私には、明後日の方向を向いた感謝の言葉だけで精一杯。見ていられなかったのは、私の顔のほう。

背を向けて、手を振る動作さえぎこちない。こんな大根役者じゃ大人の恋愛映画なんて、夢のまた夢。

部屋に入るなり、外から雨が叩く音が聞こえてくる。車の音は、まだ聞こえてこない。

いっそこの雨に濡れて、この心のざわめきを洗い流してしまいたかった。

そうすれば、気付いた彼に慰めてもらえたかもしれないのに。そして、そんな勇気があるわけないことも。

彼の優しさが、雨となって私の心をすすぎ、照らしていた。

……魔法は、本と眼鏡だけじゃなかったみたいね。いいえ、むしろ――

「へえー……ん、今気付いたけどこっちに置いてあるのは……画集?」

闇の中で縮こまっていたところをふと、彼女の声に呼び戻された。

外は今にも雨が落ちてきそうな暗さなのに、部屋の中はそんなことを微塵も感じさせないくらいに明るい。

もちろんそれは部屋の明かりが点いているからだけど、それだけでもないように思えた。

「静物画……なかなか聞かない言葉だけど、どんなのだろ……」

――伊吹ちゃんはというと、置いていた画集に興味津々。

「うわっ! これは強烈な……」

めくった途端、案の定のしかめっ面。かと思えば――

「うーん……ヘンな絵……」

満面の笑みとはいかないまでも、面白そうに凝視したり。

私やPさんの言動一つで目まぐるしく表情や振る舞いを変化させてゆくさまは、見ているだけで心が躍る。

それは雨の日であってもたちまち晴れ渡るような、そんな気分にさせてくれた――例えば、さっきのように。

そして、思ったことや感じたことを、飾ることなくぶつけてくる芯の通ったまっすぐな目。

瞳の色、髪の色、性格、得意分野……何から何まで、私と正反対だった。似ているのは、背丈とスタイルくらい。

あべこべに映る鏡があったとしたら、私と顔を合わせるのは間違いなく彼女だろう。

そんな、近くて遠い彼女に憧れを抱いているからこその、”ちゃん”付けなんだと思う。

この前のパーティーでも、私にロマンチックな恋の始まりを力説してたら、自分がその当事者になっちゃうものね。

彼との関係は今後、どうなっていくのかしら。それこそ映画みたいに……なんてね。

「へぇー、聖書ってそんなに面白いんだ? じゃあ今度アタシにも貸してよ!」

「楽しみにしてるからねー!」

「おおー真っ赤なドレスじゃん! 真紅! これは雰囲気変わりそう……」

「っていうか、奏の標準衣装がドレスなことに今更ながら驚きを隠せない」

「むむむ……アタシも負けないようにならなきゃね!」



心が躍るだけじゃない――彼女は、私を照らす光そのものだった。

私を闇夜に浮かぶ月とすれば、伊吹ちゃんはその闇を切り裂くように照らす太陽。そんなところかしら。

あの太陽は、私にはない魅力を全て持ち合わせているかのよう。

揺らぐことも沈むこともない、永遠にも思える輝きに満ちたその姿は、嫉妬してしまいそうなほど美しくて。

だからこそ、遠くで眺めていることしかできなかったのかもしれない。

近づくにつれて、その光に溶かされてしまうような気がして――

彼女を見ていると、誰かの言葉ひとつで簡単に揺らいでしまえる私は、本当に弱く、醜く映った。

一旦ここで切ります。続きはまた明日以降に。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

乙です

これからPVの打ち合わせらしい。伊吹ちゃんは風のようにこの部屋を出ていった。

にぎやかで心が躍動するトリオから再び、この部屋に静寂が舞い戻る。

そして、私以外の誰にも分からないくらいほんのわずかだけど……部屋が暗くなった気がする。

きっと魔法は本や眼鏡、Pさんだけじゃない。彼女もそうなんだと思えた。

――さっきの後であんまり静かすぎるのも変に思い、小石を落としてみたくなった。

「ふふっ、さすがね、Pさん♪」

「え?」

「とぼけちゃって……伊吹ちゃんのことよ。あの調子だと、出るものが大分出たってところかしら」

ぽちゃり

「……奏は本当に目敏いな……別に隠してたわけじゃないんだけど」

落ちた小石は、絶妙な高さの波を立ててゆく。我ながら、上手くやったなと思う。

「そりゃあ、二人とは一緒に過ごす時間が長いもの。これくらいは、乙女のたしなみよ?」

「それに、伊吹ちゃんとはここで顔を合わせること最近なかったから、余計目についたのかも」

さっきドレスの話になった時に、少し違和感があったのは事実。でも、確信があったわけじゃなかった。

「しかし、こうも核心を突かれると、心を見られてるようでドキッとするんだよ」

本当は何も見えてなかったりするものよ? ただ、適当に落としていても反応があるから、ね。

「悪いことなんて何もしてないのに、怒られると思っちゃう感覚っていうのかな」

そんなことを言われると、また落としたくなるじゃない。……今度は、少し強めに。

「へぇ……Pさんは、私とお話してると胸がドキドキしちゃうの?」

ぽいっ ぽちゃん

「……何を言い出すか分からん危うさに対してのドキドキはあると思う」

うーん……さっきよりも波は高くなったけど、さすがにあふれるまではいかない、か。

「あら……つれないわねぇ」

しかし口ではそんなことを言いつつも、心はすっかり充足感で満たされていた。

Pさんの困った顔や驚く顔が見たくて、私は小石をポチャポチャ落としたり、投げたくなるのかもしれない。

「しっかり体勢整えてるのに、思いもしない方向から投げてくるからな。しかも変化球」

「ふふっ、この前の時みたいに、なかなか上手くはいかないものよ、Pさん♪」

今度こそ、この部屋を静寂が支配する。

その中から再び、ゆったりと流れるデュエットが始まった。

それにしても、あの時は本当に上手くいったものだと思う。

私がギリギリのところで踏みとどまって、彼もそれに気づかないでいてくれた。

彼の心底慌てた顔が、何よりの証拠だった。



―――――――――

――――――

―――

『え……?』

『そ、それって』

『…………』

『Pさんは、私のこと……嫌いなの?』

『じゃあ、どうしてこんなこと……』

『そ、それは……その……』

『――っ!』

『なーんて、冗談よ、冗談。……私の演技力も、大したものでしょう?』

『Pさんをそんな顔にさせられたんだもの。ちょっとはドキッとしたんじゃない?』

『…………』

『……でも確かにPさんの言う通り、少し窮屈になっていたのかもしれないわね』

『だから、いいお仕事……期待して待ってるわ。お願いね?』

―――

――――――

―――――――――



彼が何を言ったかなんて、ほとんど覚えていない。

覚えているのは、決まった事と彼の優しさくらいだった。あの雨の日と同じように……

だからこそ、今回の撮影のように自分で一から作り上げる仕事は、今の私には実にぴったりだった。

何も知らないからこそ、目の前のやるべき事に集中できる。

迷いを振り切るように、歩みを進めることができる。

いつものような、ただ衣装を着るだけの内容だったら……彼の優しさに甘えてしまっていたと思う。

本当に、いい仕事を貰えた。そして、そんな彼の期待にも応えたかった。

彼の方をちらりと見やる。さっきまで波を立てていたことなど微塵も感じさせない、頼もしい姿があった。

――――――――――――――――――――

「今日もまた、雨なのね」

ため息とともに、ぽつりとこぼす。窓の外を見やる。空はまだ、分厚い雲に覆われていた。

今後の天気予報を確認する。ここしばらく――特に朝方――は、この湿った空気と暑さが続くらしい。

雨は嫌いではない。でも、今の私には心の中がそのまま映し出されているように思えて、憂鬱だった。



撮影が終わるまでは眼鏡で過ごすという役作りは、なにも仕事中や事務所に居る間だけではない。

より入り込めるようにと、日常生活でも眼鏡をかけることにしていた。もちろんそれは、学校へ行くときも。

今は夏休み真っ只中だけど、私の場合は勉強部屋代わりに学校の図書室を頻繁に利用していた。

空調がよく効いていて静かで、気分転換に適当に本を見繕える……最高の環境。

少々にぎやかすぎるのを気にしてしまって、集中したいときは寮から離れることが多かった私。

そんな”真面目”な私にはこれ以上ないくらいピッタリの場所。そのはずだった。

なぜなら、思いもよらない障害が立ちはだかることになったから。

――年頃の女の子が急にファッションや髪型など、外見をガラッと変えれば当然、何かあったと話題になる。

好きな人が、彼氏が。出来た、別れた。振った、振られた。……まるでワイドショーの様相を呈するものよね。

もちろん私にだって、そのくらいの覚悟ができていなかったわけじゃない。

だけど、それはただの”つもり”だっただけで、少し甘かったのかもしれない。

部活動中のグラウンドの横を通り過ぎたり、廊下で誰かとすれ違うたびに、痛感したこと。

普段真面目で通っていた私は、そんな興味を真正面からぶつけてくる相手がいないことに、今更気付かされた。

別に悪いことをしたわけじゃないから、嫌がらせ等は何もされていない。

でも直接言ってこない分、余計に心にストレスを掛けてしまっていた。

向こうから来てくれれば適当なことを言って煙に巻けるのに、それができない。

かといってこちらから出向けばどうなるかなんて、火を見るより明らかだった。

人がまばらな休み期間でさえこれ。明けたらどうなるかもまた、明らかだった。

これが名前も知らない誰か――例えば雑踏ですれ違うような――だったら、気にも留めずにいられたのに。

なんてくだらないことなんだと、一蹴できずにいた。

なんのことはない。コンタクトレンズという枷を外したつもりが、新しく眼鏡という枷に付け替えただけ。

無数の視線を、興味を浴びて輝くはずのアイドルが、台無しになっていた。

『おやすみ。……苦労かけて、ごめんな』

私の心をそっと撫でた、彼の言葉――大丈夫だって言ったのに、すがるように思い出してしまっている。

『珍しいじゃん眼鏡かけてるなんて! どしたの?』

そして、久しぶりに顔を合わせた彼女の、好奇心にあふれた言葉と表情が、再び思い起こされる。

――それこそ、あの太陽のような友達がいれば……そう思わずにはいられなかった。

かといって寮に篭って勉強するというのも、ただの一時しのぎでしかない。

この分だと夏休みが明けて二学期に入ってからも、眼鏡をかけることはしばらく続くだろう。

人目に付かないところでいくら小細工をしようと、意味が無いようにも思えた。

何より、この精神状態と向き合っていかなければ、その先にあるものが見えなくなってしまいそうだった。

「まだもう少し時間に余裕があるわね……アレでも眺めておこうかしら」

そんな厄介事をなんとかしたくて思いついたのが、とある魔法の出番を増やすこと。

画集を眺めるのは夜寝る前だけにしていたのを、朝にもなるべく時間を作るようにした。

朝夜だけではなく、レッスンの合間にも一人の時間をできるだけ増やすように心がけもした。

様々なことがストレスになっていた自覚もあり、それらをどうにか解消させるためのただの思いつき。

思いつきらしく最初のうちは撮影に集中すべく、雑念を振り払うためのこと程度にしか考えていなかった。

しかしどうして、ストレス解消はもちろんのこと、よりあの世界にのめり込んでいくような気分になれた。

まるで一本の映画を観るために、体ごと飛び込んでいくような感覚。

3D映画なんて目じゃないくらいに極上の――まさに私の、私による、私のための鑑賞会。

鑑賞どころか、自分があの世界の主人公のようにも思えるほどだった。

あの世界を理解し体現するにあたって、これほど効果的な使い方ができるとは思いもしなかった。

初めは外をなぞっていただけのはずが、いつの間にか物事の核心に迫っていく感覚。

今まで悩んでいたことが、本当にちっぽけなものになっていた。

思わぬところから状況が好転してきているのを感じる。今見えるあの空とは、まるで正反対だった。

映画に正反対といえば、伊吹ちゃんとは映画の好みはもちろん、楽しみ方も正反対だった。

彼女は誰かと観るのが好きで、私は一人で観るのが好き。

思ったことや感じたことを、自分の中だけで留めておきたくて、そんな楽しみ方が好きなんだと思う。

いうなれば自分だけが持っている小説を、そのまま大画面に映像として映したような感覚に浸ることができた。

改めて考えてみると、画集を一人っきりのときに眺めるのは、そんな理由もあったのかもしれない。

”それ”を誰かと触れ合わせることで、確固たるモノが崩れて失くなってしまうのが、怖かったのかもしれない。

だからといって、全く一緒に観に行かないわけじゃない。適当な話題作だったり、互いの観たいものだったり。

恋愛映画に関しては私があまりに嫌がったから、めったなことじゃ観る機会がなかったけど。

それでも、一度だけ強引に連れていかれたことがあって。

あの時は映画を観ていて、いや人生で一番の苦痛といっていいんじゃないかというほどに、ひどかった。

全身がむず痒くて、甘ったるいセリフに口の中は乾ききって、おまけにコンタクトだから寝たふりもできずに。

まるで拷問だった。後で感想を求められても、ろくに返事もできずに半ば死んだような目をしていたと思う。

そしてそんな様子の私を見て、ここぞとばかりに徹底的にいじめてくるんだもの。

その瞳は映画を観ることよりも、そっちに楽しみが向かっていたんじゃないかと思えるほどに、輝いていた。

映画館を出るなり、ずっとニヤニヤした顔でこっちを見ていたことは、きっと一生忘れない思い出。

本当にひどい話――それなのに、嫌な気持ちには一切ならなくて。むしろ、嬉しく感じるほどだった。

理由は実に単純で、彼女が近くにいるとよく分からなくて、離れているとよく分かること。

思えば、私のことを呼び捨てにして、私のことを馬鹿にしてくれるような相手は、学校内に誰もいなかった。

――――――――――――――――――――

「へぇ……よく見てみると西洋の芸術なのに、日本刀が描かれているのね。これも富の象徴、なのかしら」

――さらに日が過ぎた。もう夏休みも終わりが近づいている。しかし、暑さと天気は依然変わらぬままだ。

物を使って虚しさや儚さを表現……改めて思うけど、私じゃ頭の片隅にさえ浮かばない発想よね。

私がこれを自分なりに表現するとなると、何をどう使えばいいだろう。



…………



廃墟の中を散りゆく花びら、なんかはどうかしら?

そう、まるでほろ苦い結末を迎える映画のエンドロールを切り取ったような……

綺麗に咲き誇っていた花が散って崩れるさまは、まさしく虚しさそのもののように思えた。

ある程度、自分の中でイメージが出来上がりつつある……ように思う。

あのドレスを最初に見た時は情熱的な色だと形容したけど、今は血塗れの赤のようにも思える。

目に映る色は鮮やかでも、心に映る色は黒より暗い赤。

かといって心に影が差しているわけではなく、実に平常心を保てている。あの世界に馴染めてきた証拠だ。

ひとまず、使いたいものは明確になってきた。あとは、どう使うか。

あんまり一人で考えすぎても良くないし、頭の中を整理することも兼ねて、Pさんに相談してみようかしら。

……きっと大丈夫、よね?

「ねぇ、Pさん」

「んー?」

「撮影のことだけど、私の中で使いたいものがある程度見えてきたの。組み立てはもう少しかかりそうだけど」

「ほー。詳しく聞いてもいいか?」

「ええ。それで、用意してほしいものがいくつかあってね」

「前も言ったけど、変な心配はしなくていいからな。――で、何をだ?」

言われるままに、列挙していく。翼を模した石像、石柱、朱色の花びら。えっと、それから――

「…………」

だんだんと彼の顔が歪んできたようにも見えるけど、気にしない気にしない。

「マジで? いや、別にいいんだけど……あー、あそこなら用意できるかな……」

「そう?」

「前に伊吹が使わせてもらったスタジオがあるんだけど、そこなら多分大丈夫だと思う」

言葉通り――心配は、するだけ無駄だったみたいね。

「ただ、ここ結構遠いんだよな……今は暑いし、それでも大丈夫か?」

「ええ、そんなのは別に気にしないわ。それより……思いつきの無茶でも、言ってみるものね」

「まぁ元々は俺が言い出したことだしな。多少の無茶なら叶えてやらんと立つ瀬が……それにしても」

Pさんは目を閉じ少し思案して、さらに続ける。

「うーん、使うものがそこまで明確に定まってるとなると……全体の画は、俺はまだ知らないほうがいいかもな」

「いいの? 私もまだはっきりしてるってわけじゃなかったけど……」

「多分な。それにどういう答えを出すのか、俄然気になった。楽しみにしてる」

「そう? じゃあPさんのお望み通り、私の好きにさせてもらうわね」

彼の声が、どこか上ずっているように聞こえた。

夏休みも終わり、二学期を迎えていた。

だけどアイドルである私にとっては、区切りがついた、終わってしまったという感覚は微々たるもの。

不特定多数の人間に見られることを常に意識する都合上、休み中も毎日を実に健康的に過ごせていた。

この健康的にというのが、アイドルになってから一番変わり身を遂げたところだと密かに思っている。

それまでは身体を動かすこともろくにせずに、夜更かしもよくやっていたっけ……

このあたりに関しては、本当に別人になったと思える。まぁ、前までが良くなかっただけとも言えるけど。

いや……夜更かしについては、時折レイトを観たりもするから、そこまで変わっていないかも、しれない。

――ともかく。休みが明けて変わることは学校の時間が増えて、仕事の時間が土日に増えるということくらい。

さすがに休みの間と全く同じわけにはいかないが、オンオフのメリハリがつくと思えば、悪いものでもなかった。

日課を欠かすことなく実行できることでストレス解消になり、それが撮影の出来をも高めていくであろう好循環。

最初は気になって仕方なかった周囲の視線や秘めたる興味も、まるで予行演習のように思えていた。

ただ変わらぬことといえば……この天気も、ずっと不安定なままだった。

せめて、撮影の日くらいは晴れてほしいなと思いながら、緩めに制服を着て、鞄と傘を持って寮を出る。

――出ると、厄介な居候がもう一人顔を見せていることに気付く。

この蒸し暑さも、少しはおさまってくれるといいんだけど。……お願いふたつは、ちょっと欲張りかしら?

そんなことを考えながら歩いていると、軒下など、道路のあちこちに水溜まりが出来ているのが見えた。

――頭に、同じくふたつの工夫が思い浮かぶ。

晴れるかどうかは私の手の届かないところだけど、この蒸し暑さなら……

そしてそれらはきっと、あの世界の虚しさや儚さを表現するのに一役も二役も買ってくれるはず。

今度打ち合わせをするときに、このことを提案してみよう。

この雨さえも味方につけた気がして、心の中はまた少し晴れていった。

「奏はこれから撮影の打ち合わせだな」

打ち合わせは私の希望で、撮影するスタジオで行うことになった。

あの世界を一秒でも長く見て、感じて、触れることで、私の表現したいことがより鮮明になると思った。

たとえ場所が多少遠くて不便であっても、今はなんの障害にもなりはしない。

あそこに行けば、今の私の全てが置いてある、そんな気持ちでいた。

「すまんがよろしく頼む」

「ええ……Pさんは何も気にすることなんてないのよ?」

「そ、そうだな……」

そう答えるPさんは、しきりに落ち着かない様子を見せている。

どうしてかというと、打ち合わせには私が一人で行くことにしたから。

そうしたいと言った時の彼の第一声は、『いやいや、俺が車で送っていくって』だった。

上から目線になってしまうけど、当たり前といえば当たり前の反応だった。

場所は遠くてましてやこの暑さ、電車でとなると多少の距離を歩くことにもなるものね。

『あの取り決めと送り迎えはまた別の問題だろ?』とも言われた。それもまったくもって正しいと思う。

でも、そんな彼の気遣いも今だけは突っぱねてしまいたかった。

あのスタジオに一人で向かうことで、撮影がより良いものになるという確信があったから。

肌を伝う汗が余計なものをそぎ落として、より洗練されたものが出来上がる予感さえあった。

行きは離れ離れな分、帰りはとびきりのエスコートでお願いと言ったら、彼が渋々折れたというのが一連の顛末。

馬鹿みたいな口説き文句だったけど、あの場所に一人で行くということに関しては、譲る気はなかった。

……ところで、エスコートは少しは期待してもいいのかしらね?

「じゃあ、いってくるわね、伊吹ちゃん。Pさんも、後でね」

「いってらっしゃーい!」

「ん、また後でな」



ふふっ! ああ、おかしかった。

確かに元々はPさんが言い出したことだけど、それでも場所を指定して一人で行くと言ったのは私。

それなのにばつが悪いような、残念そうな顔をしているなんて。

そんなに私のことが心配なのかしら? それがちょっとおかしくもあり、嬉しい。

それとも、私と一緒に行けないのを寂しがってくれていたの?

それならそれでまたおかしくもあり、また嬉しいと思う。

気付けば足取りは非常に軽やかで、思わずスキップしてしまいそう。

途中で聖書を事務所に置き忘れたことに気付いても、どうでもよくなってしまうくらい。

今ならこの思いを胸に、あの雲さえも突き破ってどこへでも飛んでいける……そんな気分ね。

――――――――――――――――――――

打ち合わせも無事に終わり、細かな調整を除けば、あとは本番を迎えるのみ。

あの画集をスタッフの人達に見せて、意見を仰いだりもした。

見せた時の呆気に取られた表情が、とても印象に残っている。

持ち込んだアイデアも、問題ないとのことで一安心。本番に向けて、完璧に準備が整いつつあった。



――私が編み出したふたつの工夫のひとつ目。それは、水を使うことだった。

暑いから水浴びをする、実に単純な考え。

でも……ただ水浴びをするだけでは、はじけるような笑顔、夏、遊びといったイメージが先行してしまう。

そのいずれもが、今回の撮影では邪魔になってしまう要素だった。

そこであの日見た、どんよりとした空に取り残された水溜まりの出番。

注目したのは、それとそれが出来る過程――落ちる水滴を強調すれば、撮影に上手く取り込めるんじゃない?

私が水に浸かっているということは、あくまでもオマケ。そういうことにすればいい。

滴り落ちる水も花びらと同じく、元いた場所から落ちてしまえば二度とは戻らない儚いモノ。

それは本来のテーマである虚しさの表現に、きっと役立てられると思った。

……あら?

事務所に戻るべくPさんが迎えに来るであろう駐車場へ向かうと、そこにあったのは見慣れたいつもの馬車。

いつもと違ったのは、車体がまるで水面のようにキラキラと瞬くところ。

この曇り空の下にあっても、色が違えば夕日に照らされているようにも見える……そんな輝き。

”あの車”じゃないのは少し残念だけど、それにも負けないくらいの輝きを取り戻していた。

――もう少し時間が後ろにずれてたら、あの車で迎えに来てくれたのかしら?

そんなことを思いながら、その輝きに吸い寄せられるように歩みを進めていった。

事務所に戻る途中、赤信号で停車中の車内で――

「とりあえず、今のところはこんな感じでいこうと考えてるんだけど……どうかしら?」

ふたつの工夫のうち、ひとつだけを施したイメージ画像を見せた。

後ろには石柱や翼を模した石像が置かれており、天から降り注ぐおぼろげな光によって照らされる。

その中央には手を掲げぼんやりと虚空を見つめる、全身を真っ赤に染めた私の姿。

空からは水滴と花びらが零れ落ち、膝を折り曲げて座る私の下に水溜まりが出来ていた。

「……参ったよ」

「ふふっ……なにが?」

その横顔と口調は、敗戦の弁というにはあまりに清々しいものだった。



残りひとつは……もう少し後でね。

サプライズは二段構えでやったほうが、それも二段目は最後の最後までとっておくものでしょう?

どんでん返しのシナリオは、まだまだ始まったばかりなんだから。

撮影当日。ついに、私の創りあげた世界をこの世に浮かばせ、形として残す時がやってきた。



自分で言うのもなんだけど、今回に限ってはPさんの手はほとんど借りなかった。

もちろん撮影に必要な物は逐一用意してもらったし、入り口で渡されたあの二冊の本も。

でもそこからは自分の足でであの世界を旅して回って、自分なりに理解できたという思いはある。

それだけに……その結末を見届けるのが、少し怖いのかもしれなかった。

当たり前のことだけど、止まっている画を撮るためには、被写体である私は止まらなければならない。

これまでは周りの景色なんて気にせずに、ただ目標に向けてずっと歩いたり、走ったりしていればよかった。

それがいざ立ち止まってみると、この世界の奥深くまでたった一人で来ていることにようやく気付く。

そこでは太陽も月もなく、ただ白黒が広がっていて。

……本当に今更だけど、緊張していた。

私の振る舞いひとつでどんな色にも染めてしまえる、その重みをここにきて実感していた。

どうせならこの空も、きれいな青に塗り替えられればよかったのに……

――そして、晴れますようにとの願いは、残念ながら叶わなかった。

「今日は撮影本番だから、最終チェックは俺も立ち会うよ」

まぁ、自分でどうにかできないことを嘆いていても仕方がない。

「ええ、お願いするわね」

それも受け入れて私は、自分にできることを精一杯やらないとね。

そのために、あのふたつの工夫があるんだもの。

「いってらっしゃーい」

…………?

二人との何気ない言葉のやりとり。でも、表情にほんの少しの違和感を抱いた。

今度はこの前と違ってPさんが妙ににこやかなのは……私の気のせい?

そして伊吹ちゃんのほうは……なにやらわくわくしているように見えるような。これはもしかして――

「……ふふっ、じゃあね、二人とも」

ひとまず、今は何も言わずに、事務所を後にすることにしましょうか。

私の予感が当たっていたとして、ここで何かを言ってしまうとサプライズにならないものね。

――――――――――――――――――――

電車に揺られてスタジオに向かう私の心は、規則的に音を立てる車輪のように平静を取り戻しつつあった。

伊吹ちゃんが撮影を見に来てくれるかもしれないと思えるだけで、さっきまでの緊張はどこへやら。

本当に、太陽の光で溶かしてしまったみたいで。

空を埋め尽くす分厚い雲も、彼女が来ればそんなものは一瞬で吹き飛んでしまう……そう思えた。

共演したものを除けば、私の現場にやってきたことは過去になかったはず。

彼女に見せる、絶好の機会だとも思った。

控え室に着くと、すでにドレスが用意されていた。

真っ赤なそれは、小さな白い部屋に置いておくには明らかに場違いな雰囲気を纏っている。

部屋の端に掛けられているのに――まるで私に見せつけるかのように、それはもう自信満々な佇まい。

私に着られるのを待ちわびて、ついぞふんぞりかえっているようにも見えた。

ふふっ……そんなにせかさなくても、ちゃんと着てあげるから――

そんな振る舞いに、妙に満足げな私。

準備をするべく、最初に見た時から少し様変わりした赤いドレスに、身を包む。

着た感触も、何も問題はない。大きすぎず、小さすぎず。まさに私だけのドレス。

急なお願いにも、見事な仕立てで応えてもらっていた。

鏡の前で、クルリと一回転。映る色が、ある地点で全く別の表情を見せる。

――よし。

ふたつ目の工夫もしっかりと決まっている。ほころびや違和感は、何一つない。

あとは、彼に見てもらうだけ。

いいえ……彼に見てもらわないと、始まらない。

映画が始まる直前の、照明が消えて真っ暗になる、嵐の前の静けさとでも言うべき瞬間が思い浮かぶ。

これから、どんな物語が待ち受けているのか、そしてその結末は。

全ての音と光が消えた瞬間、そんな昂る感情が、広くて冷たい無の中から沸き立つように体を熱くさせる。

ある意味では、映画を観ていて最も好きで、最も大切にしたい瞬間。

彼に見せて、どんな反応が返ってくるのか、そしてその結末は。

映画館とは正反対の白くて明るくて小さな控え室で、同じことを感じ、同じことを思っていた。

そして、その静寂を破る扉の音。

どうやら、サプライズの観客が来たようだ。

私の渾身の作品の、上映に向けて。

「お疲れ様、Pさん」

砕けた言葉とは裏腹に、礼儀正しくノックをして静かに扉を開けたその人は――

「おっすお疲れー……っと」

「どうしたの? そんなところで固まっちゃって」

中に入らず、開けたまま動かずにいた。

「あー、いや……」

まずは一人目ね。

「まるで、ノックもせずに入ったら、偶然着替え中のアイドルを見ちゃった――そんな顔してるわよ?」

「ぐっ……どうしてそこまでピンポイントに過去のアクシデントを……! つーかノックはたった今しただろ」

「だって、そんな顔してるように見えたんだもの、仕方ないわよね」

「いやそんなことは……待てよ。そんな顔とは言ったが、今はそこからだとはっきりとは見えてないよな?」

「あら、そういえばそうだったかしら」

指摘のポイントが少しズレてるのは、半分くらいは当たってるってことでいいのよね?

「まったく、油断もスキもあったもんじゃない……」

いつもの他愛もないやりとり。心はすっかり平常心を取り戻していた。

「最近は別々に行動してばかりだったもの。たまのおしゃべりくらい、いいじゃない」

「……そのあたりのことも含めて、負担を強いてるのは俺も重々承知してる。本当にごめん」

――不意に、奥底で眠るほんの少しの気持ちが、壊れないようにそっと掬い上げられる。

そんな言葉や顔が欲しいわけじゃない。でも、ここで私までそんな顔をするわけにもいかない。

「ふふっ、冗談よ。久しぶりの意地悪くらい、許してくれるわよね?」

心配無用だと取り繕って、そのまま後ずさりで彼を招き入れた。

「それでちょっと、見てほしいところがあってね」

許してもらったところで、本題に入る。

「ドレスを少しアレンジしてみたんだけど……」

ふたつ目の工夫は、このドレスにあった。

これも内容は実に明快。布地を減らして、肌の露出を増やした。暑いから脱ぐ、ただそれだけのこと。

でも単に露出を増やすだけでは、グラビア撮影と同じになってしまう。それに、そんなのは水着を着れば済む話。

さらに、元々のテーマは儚さや空虚さ。水浴び同様、露出することでそれらを邪魔しては元も子もない。

「あー、入った時の違和感はそれだったか。どうりで肩のあたりがスッキリしたように思えたわけだ」

だから――

「とはいえ、今日ここに来てからか? よく間に合ったな。まぁサイズとかが合ってればいいんだけど」

納得がいったようで、それでいて言い聞かせるかのように落ち着きを取り戻す彼。

「ふふっ……さぁ、どうかしらね」

本当にそれだけかしら? まぁいいわ。そんなものとはすぐにお別れだもの。

「それでPさん。どこかおかしいところ……そうねぇ、違和感は――」

そう言いながら、見せつけて舐め回させるように、ゆっくりとターンをしてみせる。

「ないかしら?」

半周余分に回って顔だけを向けると、またPさんが固まっていた。

少し遅れて何かに合点がいったように、額に手を置いて。

その表情からは、違和感を見つけたどころじゃない驚きに満ちているのが、はっきりと見てとれた。

ようやくコトの真相に気付いたようね。ま、私がギリギリまで隠してたからなんだけど♪

「……ここまでやるとはさすがに想像してなかった。大丈夫かよそれ……?」

邪魔しないよう快活さや下品さを極力抑えつつも露出を増やすには、どうすればいいか。

考えた先に行きついたのは――例えば横からしか映らない背中は、むき出しにしちゃってもいいんじゃない?

もちろん涼むためだけじゃない。後ろに置く翼の石像が直接生えているような錯覚を起こすのも、狙いだった。

そして目の前の人にも、それとは別のインパクトをしっかりと残すことに成功していた。

大人になりきれない子供が、様々な魔法を手に背伸びをして行う撮影だもの。

子供だましのふたつの仕掛けは、実にピッタリだった。

ここまでは、自分でも驚くほどに順調ね。そのせいか、追撃の言葉が流れるようにスラスラと出てくる。

「ふふっ、答えになってないわよ、Pさん♪」

もちろん体勢はまだ半周を過ぎたまま、互いの目だけが合っていて。

「あの時見せたのはフェイクだったか……」

「出会ってすぐの頃、女は嘘つきだって言ったでしょう? これを機に、肝に銘じておくことね」

「まぁ、何かの拍子に脱げなきゃいいんじゃないかと思う……うん」

「――で、おかしいところ、あるの? ないの? なんなら、今ここで脱げそうかどうか……確かめてみる?」

肌色と赤色の境目を指でなぞって、さらには隙間に指を出し入れして、ダメ押しとばかりに挑発を続けてみた。

「……降参だって言ったろ? 俺なんかがいじくっていい領域じゃない」

「奏の思うように……やりたいようにすれば、それでいいんだから」

一息ついて、付け加えられる。

「……おかしいところなんてどこにもない。よく似合ってる」

いや……でじゃなくてがだったな――また、妙なところを気にするのよね。どうせなら、もう少し。

「もう……こういうときは、綺麗だとか素敵だとか、少しくらい気の利いた言葉をくれるものよ?」

向き直り彼を見据えて、最後のおねだり。

「……また、今度な」

もう一押しには足りないみたい。プイと横を向いた顔からは、期待していた答えなんてまるで返ってこない。

でも、彼の困った顔が見られるだけで十分だった。

そして彼のそんな仕草こそが、最も期待していた答えだったのかもしれない。

「ふふっ、意気地なしねぇ。期待してるから、ね?」

彼の口に人差し指を当てて、最後のお願い。

「――じゃあ、いってくるわ」

今は、これで許してあげましょうか。

「……ねぇ」

少しとまどう彼の横を通り過ぎて、扉の前で立ち止まり――

「私の輝く姿……隅々まで見ててね」

振り返らずに今度は手を扉にかけたまま、別れの言葉を投げかける。

あの時と背を向けるのは同じでも、今度は確かな決意を込めた言葉。震えなんて、もう微塵もない。

そして……同じ言葉を心の中で、今は見えないけど、きっと来てくれているであろうあの人にも。

ガチャリ キィ……

誰もいない廊下を通り、無骨で大仰な扉を開けて目的地に足を踏み入れると――

その一歩目から、さっきまで居た控え室とは明らかに異なる、ぼやけていても分かるほど明確な空気の差。

打ち合わせの帰りにPさんに見せたものと同じ、いやそれ以上の世界が色づいていた。

この目ではっきりと見られないのが残念なくらい、この空間は独立していた。

むしろ、よく見えないことで……こうして呑まれることなく平常心を保てているのかもしれないほどに。

そして、同じくらい残念に感じていることがもうひとつ。

こんなに綺麗に浮かび上がったこの世界も、撮影が終わってしまえばその姿を消してしまうということだ。

もちろん、なにかの機会に再びこのスタジオで、また同じ撮影を行う可能性もあるだろう。

しかし、今日この撮影が終わってしまえば一度は跡形もなくなるのは、動かしようのない事実だった。

そんなことはこれまでも同じだったはずなのに、今の私には深く胸に突き刺さる。

今までの仕事に対して、どこか適当に済ませてしまっていたりはしなかっただろうか。

どうせまた撮るんだからと、蔑ろにしていた部分があったんじゃないか。

――YESのはずがない。しかし、きっぱりとNOを突きつけることもまた、できなかった。

今日この時が来るまで、それをほんの少しでいいから頭の片隅に置いておけなかったことへの後悔。

そんな曇り空を取り払うには、一回一回手を抜くことなくやりきる以外にない。

だからこそ今回はこれまで以上に精一杯、悔いのない仕事にしたいと思った。いや……今回”から”は。

何より、彼女が見に来るかもしれない。そんな後悔は、もう最後にしたかった。

「よろしくお願いします」

挨拶の言葉にも、クールでミステリアスな像からはかけ離れた、情熱や気迫がこもる。

私の中に潜む、自分でも知らないもう一人の私が顔を覗かせて――

いよいよ、撮影が始まった。

あるときは誰かが声を上げて、またあるときは私が声を上げて。

表情や目線、頭のてっぺんから手足の爪の先にいたるまで、細かな改善と修正を繰り返す。

シャッター音とともに眼前を駆け抜ける閃光の数の多さが、確かな手応えとなってわずかに全身を紅潮させる。

ほのかに紅く染まった肌がドレスや花びらの色と重なり、儚さだけでなく妖艶さをも増してゆく。

それらを包む――垂れ落ちる雫や背景として置かれた像が、ここが異世界であると明確に主張する。

その中心で膝を折り曲げ虚空を見つめて佇む私は、まるで天から堕ちてきた神の使いのような気分でいた。

中でも一番の思いは、ふたつの工夫がしっかりとものになっていたということ。

個人的な事情はもちろん、仕事としてもその役目を十二分に果たせていることが、たまらなく嬉しい。

暑さに負けて表情を崩すこともなく、実に快適な環境で撮影を行うことができていた。

さっきのおしゃべりでリラックスができたせいか、この世界の全貌を把握できていないせいか。

それとも、さっきの決意がそうさせるのか。あるいはそれらの全てが。

この小さな世界の主として君臨する私。

傍に置かれた物だけでなく少し離れた人までをも圧倒し、手足として従わせるような感覚。

そこではヒトとモノの区別などなく、さらには視界がぼやけているにもかかわらず――

自分を捉えた、あるいは自分が捉えた対象全てに、”息を呑ませて”いた。

まるでそこら中からゴクリと、唾を飲み込む音が聞こえてくるほどに。

撮影は滞りなく、極めて順調に進んでいた。

しかし――



あまりに順調だったせいか、意識の奥に追いやられていたこと。

一見とてもうまくいっているように見える撮影。そこに大事なものが欠けていることに気付いた。




伊吹ちゃんの姿を、ここに来てから私はまだ見ていない。


事務所を出る前の彼女の表情。あれは間違いなく私の撮影に興味を持ち、楽しみにしていたものだ。

興味を持つのはもちろん、楽しみにする理由は、現場でそれを直接見るため。

きっと、この部屋のどこかにいて、赤く染まった私の姿を見ているはず。

全身全霊で撮影に挑む、この私を。

……どこで、見ているんだろう。

……どんな思いで、見ているんだろう。

終わってから直接聞くのもいい。でも、撮影中の今、それが知りたくなってしまった。

肝心の撮影は特に支障もなく続き、もうすぐ終わりに差し掛かろうとしている。

私は、迷っていた。

今、聞きたい。

今、知りたい。

でも、今は。

…………

逡巡していると、いてもたってもいられなくなったのか――

ふふっ……さんざんこの世界を旅した後で、その一歩を踏み出せないでいるなんて。あなたらしくもない。

今まで完璧に演じてきたんだもの……少しくらいよそ見して寄り道しても、いいんじゃない?

このまま何事もなく終わってしまうのは、もったいないんじゃないかしら。

それに、多少のスリルがあるほうが、あなたもより楽しくなれるでしょう?

大丈夫……これも遊び心のうち、よ。ねぇ……?



――悪魔が、そっと妖しく囁いた。

頭の中を、甘ったるい声が徐々に侵食していく。

傾きかけていた今の私に、抗う術などあるはずもない。

その声に、ただ身を任せるしかなかった。

声に従ってある一点、また別のある一点を見つめ続けていた私。

それが今日この撮影で初めて、その誘導によらずに瞳が揺れ動く。

あてもなくさまよわせていると、どこか懐かしさを帯びた橙色の影を遠目に見つけた。

はっきりと見えたわけではない。そもそも、あれが私の思う人かどうかさえ分からない。

ただ、近くて遠い場所からいつも見ていたシルエットと、同じだっただけ。

それでも、ほんの一瞬だけ、目が合った。そんな気がした。

やっぱり、彼女は来ていたんだ――

そう思えるだけで、自然と口元が緩んで――いや、歪んでしまった。

口元が歪むのと同時に、周りの空気もわずかに変化していることに気付く。

だけど――もう止められない。

悪魔に魅せられ、くすぐられた悪戯心が、二つの月に魔力をもたらす。

空からの光に照らされるだけだったはずの、ぼやけていたはずの金色の瞳。

闇の中から隠しきれない輝きを放つ、少し遠くの太陽の存在に呼応するように、月は自ら輝きはじめる。

ああ、この時が永遠に続けばいいのに――

そんな、祈りにも似た願いが世界を新たに掌握し、橙色の影に魅了の魔法となって飛んでいく。

この闇を切り裂くように、一直線に飛んでいく。

影の大きさから顔の位置にあたりをつけて、そこをぼんやりと、じっくりと見つめる。

影は、微動だにしていないように見えた。

まるで、彼女の踊りを見る私のようにも映った。

もし私と同じように――魅了され、心打たれて動けないでいるとしたら。

これほど嬉しいことはない。

ずっと、そんな思いに浸っていたかった。

だけど――ずっと晴れるわけじゃないのと同じように、雨もずっと降り続けるわけじゃない。

いつかは曇る時が来るように、いつかは止む時が来てしまうもの。

そしてその時は、案の定すぐにやってきてしまう。

「これで撮影終わりまーす。お疲れ様でしたー」

カメラを携えた一人が、夢のようなひとときに終止符を打った。

憂鬱な時間を長く感じ、悦楽の時間を短く感じるのは、この世の常。

自分の周り一帯を異世界へと運んでいたはずでも、残念ながらそんな常識にまでは逆らえないようだった。

ああ、この時が永遠に続けばよかったのに――

決して叶わぬ願いを胸に秘めていると、掲げた手のひらに最後の雫一滴と、遅れてふわりと花びらが舞い込む。

あの影から視線を外して――私の魔法は、ここで幕が下りてしまった。

今日の夜にまた続きを投下できれば。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

乙です

20コスのやつだっけ

奏ほんとすき

だけど、それを残念に思うことはこれっぽっちもない。

「あっ、あの」

むしろあるとすればそれは――

「最後のほうはその……好き勝手に動いてしまって、ごめんなさい」

スタッフの皆――特に撮影担当の人達を無視して、暴走気味にやってしまったこと。

口元を歪めたあの瞬間に、周りの空気をも歪めてしまったことは、自分でもよく分かっていた。

だけど……どうしても止めたくなくてそのまま突っ走ってしまって。

なにせ理由が理由なものだから、平謝りする以外に方法がない。

チクリと注意のひとつやふたつ、覚悟はできている。



「あーアレですか。いえいえ、いいんですよ」



しかし、返ってきたのは意外な答えだった。

「え……?」

その返答に思わず、呆気にとられてしまっていた。

「正直に言うと、おやっと思って声をかけようとしたんですが、なんというかあまりに迫力があったもので」

「あそこで切るのはもったいないなと思いそのまま流しましたが、おかげでいいものが撮れましたよ」

「何より、ずっと見ていたいと思わせるような……そんな力があったように思うんです」

ずっと見ていたい――その言葉に、ハッと気付かされる。

今回の撮影では、”どう見られるか”についてはほとんど頭になかったような気がした。

最初にあの画集を一目見た時から、”どう作っていくか”ばかり考えていたかもしれない。

伊吹ちゃんが来ると気付いてからは、”彼女に見てほしい”という思いが最も強かったような。

特定の誰かを意識して行う仕事は、無数のファンを相手にするアイドルとしてはどうなんだろう。

――今の私には、答えを導き出すことはできそうになかった。

「まぁこのあたりは、言葉で伝えるよりも出来上がったものを直にご覧になるのが、一番響かれるかなと」

「今日は、お疲れ様でした。ありがとうございました。我々も楽しかったですよ」

「いえそんな……私のほうこそ急なお願いを聞いていただいたりもして」

初めてのことが多くて、全部が全部うまくいったわけではないけど、次こそはもう少し……

「こちらこそ、お疲れ様でした。ありがとうございました」

答えが出なくて、失敗をして、迷惑を掛けてしまったけど、それでも確かなものが見つかった。

この仕事を、私なりに全力で取り組めたということだ。

あのよそ見も、手を抜くつもりのことでは断じてない。

全ては彼女に見てほしくて、彼女を見たくてやったこと。

そんな今回の撮影は、失敗は多くとも、後悔を何一つせずやり切れた、初めての仕事だったように思う。

『我々も楽しかったですよ』

私も、本当に楽しかった。夢のような世界で、夢のような時を過ごせていた。

そんな、夢の感覚からまだ抜けきれていなかったのか――

あるいは、夢から目覚めたくなかったのか――

足元から水が乾いていく間も、まるで撮影がまだ続いているかのように、虚空をあてもなく見つめていた。

そして、瞳はぼんやりとしているのに、なぜか頭は妙に冴え渡っていて。

再びあの甘ったるい声に誘われて、思考を張り巡らせる。

そのおかげか、また次の仕掛けを思いついてしまった。

今度のターゲットは、もちろんあの人。

「あの、すみません」

仕掛けを施すべく、衣装担当の人に声をかけた。

「はい、どうかしましたか?」

施すといっても、先のふたつと同様、実に単純なもの。さらにそれらと比べて、特別なことは何もない。

「少しお願いがあるんですけど……このドレス、もうしばらく着ていても構いませんか?」

ただ、このドレスを着て控え室に向かいたかっただけ。

「? ここでジャージにでも着替えてもらって、控え室までって思ってたんだけど……」

「はい。ここで乾かしてから、後で私が責任をもってお返ししますので」

「あー、そういえば奏ちゃんはずっと濡れたままでしたね。ふふ、どこか散歩でもしたくなりましたか?」

そう言われて、このドレスを乾いた状態で何かするということが、ほとんどなかったことに気付く。

撮影中やっていたことは、有り体に言えば水溜りの中をずっと座っていただけ。

……これなら控え室に向かうまででも、十分散歩と言えるんじゃないだろうか。

「それに、こういう色のドレスは初めてですもんね。できるだけ着ていたいっていうの、分かる気がします」

「はい、そんなところです」

ええ、きっとそう。理由にほんの少しだけ、その散歩も付け加えることにしておこう。

「はーい、分かりました。えっと……じゃあこれ、衣装室への地図。渡しておきますね」

「返すときは、こちらに直接来てもらえますか。私が居ますので」

「はい。ありがとうございます」

「くれぐれも裾を自分で踏んで転んだりしないよう、気をつけてくださいね!」

私の企みを知らずに差し出される気遣いの言葉が、心に沁みる。

この場に似つかわしくない弾けるようなその笑顔が、彼女に似ていた気がして――



そして次の瞬間、ガチャリと扉の音が聞こえる。

音がした方向を見やると、あの橙色の影がこの部屋を出て行くところだった。

――そう、彼女に似ていた気がした。

――――――――――――――――――――

仕掛けを施し終えた私は、元居た白くて小さな部屋でただ一人、待っていた。

私の目論見は、当たるのかしら。いいえ――必ず当たる。

根拠はない。見えていた影の正体が、彼女だとはっきりしていたわけでもない。

もしかしたらただの見間違えで、私がそう思いたいだけなのかもしれない。

でも、きっとあれは彼女。来てくれると信じていた。

こんなこと言うガラじゃないけど、今だけは、互いを引き寄せる運命のようなものを感じていた。

Pさんを待っていた時とはまた違う昂りが、私の心と体を熱くさせる。

ふふっ……熱くなりすぎかしら――すかさず深呼吸をして、落ち着きを取り戻す。



ここにはセットも、カメラも、映写機も、スクリーンさえ見当たらない。

それなのに、これから彼女に会えると思うだけで、どんどんと心臓が高鳴っていくのを感じる。

……もしかしたら、今までのどんな仕事よりも緊張しているかもしれない。

言い聞かせるようにもう一度、深呼吸。

その時――



コンコン



――来た!

扉をノックする音。

私の心臓の音と混ざって、直後に発せられたよく知る人物の声が、それらを包み込む。

――ここにはないはずの、運命のフィルムが回り始めた。

「この声は……伊吹ちゃん?」

声の主なんて分かりきっているのに、確認をする。

っと……了承の返事をする前に、もう一度だけ深呼吸をしてから。

「ええ、いいわよ」

はやる気持ちを抑えるように、クッションをはさんでいく。

本当なら伊吹ちゃんかどうか確かめることなく、こっちから扉を開けて飛びつきたいくらいだ。

「これはまた珍しい客人ね。いらっしゃい、伊吹ちゃん♪」

珍しい客人。そして、待ちわびていた大切な客人だった。

そして想像通り、彼女は私のドレス姿に困惑していた。まさかこの姿で帰るわけないもの、当然よね。

「こういう色はなかなか着る機会がなかったから、名残惜しくてね」

名残惜しいのも本当。でも真実は、貴女のために、この赤いドレスを脱がないでおいた。

でも……そんなことを面と向かって言っても、きっと信じてはくれないでしょうね。

それに、誓いの言葉――というわけではないけど、口にしないほうが素敵な思いだった。

「今日はどうしたの? 伊吹ちゃんはこの時間、レッスンじゃなかったかしら」

「あっ、えっとそれは……Pに無理言って付いてきたんだ」

さっきの撮影がよっぽど効いたらしい。この場面で出てくる当然の質問にも、どこか曖昧な答えが返ってくる。

「ふぅん……出る時にPさんが妙に元気だったのは、ソレが理由だったのね」

「あ、あはは……」

あの違和感が、そのまま現実となって目論見通りに事を運ばせる。

でも……人は思い通りになりすぎると、かえって挙動不審に陥ってしまうもの。

私も、不自然に見えないようにシャンとしていないと。

――前置きはこのあたりにして、そろそろ攻めてみましょうか。

「それで、さっきの撮影、どうだった?」

「えっ!?」

驚きの声とともに、彼女の肩口に浮かぶかわいらしい二つの炎が、びくりと揺らめく。

「ずっと見てたんでしょ? 私はコンタクトしてなかったから、ぼんやりとしか見えなかったけど……」

「そ、それは……」

ふふっ……バレてたー! ってそのまま顔に書いてあるわよ……? 伊吹ちゃんはウソがつけないものね。

「そういえば今も着けてないんだったわね。……ねえ、もっと近くで聞かせてくれる?」

少しにじり寄ると、彼女は覚悟を決めたのか、その一瞬目つきが変わり――




「……これまでのアタシだと思ってたら大間違いだからねっ!」


声を張った彼女は、手を突き出しながらこちらに向かってきた。そのあまりの迫力に、思わずのけぞり――

手は顔のすぐ横を捉え、彼女と壁の間に挟まれる格好になってしまった。

「あら……」

俗に言う、壁ドンってやつね。クラスの女子がそんなようなことを話題にしてたっけ……

まさか私が、しかも女の子にされる時が来るなんて。まさにアイドルならではの、貴重な体験ね。

不意を衝かれ少々縮こまっていたせいか、彼女の背がいつもより高いように感じる。

「ふっふーん、こうして改めて見るとアタシのほうが背高いんだよねー」

そして、ここぞとばかりに得意げな顔を向けていて。

「そうね、伊吹お姉ちゃん♪」

――私なんかじゃ、逆立ちしても背伸びしても届かないかわいらしさが、目の前いっぱいに広がっていた。

「この距離なら、伊吹ちゃんの顔がはっきりと見えるわね。ふふっ」

「そんな態度を取ってられるのも、今のうちだけなんだからっ」

壁を背にしてすぐ横には腕が伸び、逃げ道はない。だけど、不思議と追い詰められた感覚は全くない。

「ふぅん、今日はやけに積極的ね」

むしろ彼女のほうから近づいてきて、こちらから向かう手間が省けたとすら思えるほどに、冷静でいた。

頭は、これから彼女をどうこねくり回してやろうか――その目的のために、静かにフル回転。

一方心臓は、鼓動がこの部屋に響き渡るんじゃないか――そのくらい、熱く高鳴っている。

耳に届く音がそれで埋め尽くされるほどで、彼女の声も聞こえなくなってしまいそう。

そんな中冷静でいられたのは、彼女の顔に、何を思い、何を感じ、何を言っているかが書いてあったから……

「それで、ここから私をどうするつもりなのかしら」

私は、ここからどうしたいんだろう。

「気の向くままに事を運ぶのも、伊吹ちゃんらしくて素敵よ♪」

ねぇ伊吹ちゃん。私も、気の向くままに事を運んでみてもいいかしら……?

「もしかして、キスでもしたいの?」

口に出してはみたけど……今はそんな気分じゃないかも。それよりももっと欲しいものが、目の前にあるもの。

「もうおしまいなのかしら……ふふっ、じゃあ私からいーい?」

そう、目の前の貴女から――

「で、さっきの続きだけど……今日の私、どうだった? 雰囲気出てたかしら」

個人的には、今日の撮影は今までにないくらいの手応えを掴めていた。

でも……私は欲張りだから。自分一人じゃ満足できなくて、周りにもそれを求めてしまうの。

「ふふっ……ずっとこの目、見てたんでしょう……?」

この瞳も、それを欲しがってまたさっきのように輝いているのが自分でもよく分かる。

さっきよりも一段と近い、眼前のこの太陽にあてられて……

「どうしたの、伊吹ちゃん? よく聞こえないわ」

――面と向かって誰かに認めてもらったり褒めてもらうのって、とっても大事なことだと思わない?

それが例えば普段から近くにいて、今も目の前にいる憧れの人だったら、とっても素晴らしいことでしょう?

「ん~?」

見つめると、またさらに燃え上がった。

「また顔が真っ赤よ? ……ふふっ、今度は熱でも出たのかしら」

今度は私の番。ゆらりと手を伸ばし、頭の後ろに手を回す。

払いのけられたらそこでおしまいにしようと思っていたのに、もう止まらなくなってしまう。

ふふっ……捕まえた。――さっきも、こんな風に動けずにいたのかしら。

そのまま手を引き寄せて……



――コツン。



おでことおでこが合わさる音。互いの距離が、ある場所はゼロに、またある場所は限りなくゼロに近づく。

唇は、大切な誰かのためにとっておかないと、ね? ……なんてね。

声にならない悲鳴。噴き出るような熱を額に感じる。――熱が出ていたのは、本当は私のほうかもしれない。

もう、自分の声さえ遠くにいってしまった気がする。それでも――

ねえ……

聞かせてくれるかしら……



――真っ赤に燃えさかるこの自由奔放な太陽も、今だけは、私の思いのまま。

――さっきは遠くでぼやけていた姿も、今ならはっきりと見えるの。ねぇ……



わたし、どう、だった?



――私の記憶の中に、一番綺麗な貴女をそっと置いた瞬間。

――貴女の記憶の中にも、そんな私を置くことができたかしら……?



あ……



――ごめんなさい、伊吹ちゃん。ちょっと、調子に乗りすぎたかもしれないわ……



待っている間はあんなにも長く感じたのに、いざその時がやってくると一瞬で通り過ぎてしまう。

そしてまた、魔法は少しの間しかもたなかった。

――――――――――――――――――――

「二人にとっては何を今更と思うかもしれないが、ちゃんと体は休めておくようにな」

「特に奏は今回撮影を一から自分で試行錯誤したわけだし、見えない疲れが相当溜まっているはずだ」

「そうそう、そんなに動いてなくても実は無理してたってのはよくあることだもんね」

「伊吹もだけどなー」

「ぁ……アタシは大丈夫だって!」

「いや、伊吹もPV撮影控えてるしな?」

「あ……そうだったね、あはは!」

「ありがとう、Pさん。また明日ね」

「おやすみなさい、伊吹ちゃん。また明日ね」

「う、うん。おやすみー」

残念だけど、今日はここでさよなら。

どちらかの部屋に二人で居たら、聞けなかった言葉を聞きたくなっちゃうものね。

Pさんに送ってもらって、伊吹ちゃんとも別れて――



ガチャリ パチッ



もう何日も空にしていたような気がする、寮の自室に戻ってきた。

靴下を脱ぐと、足に伝わる床の硬くて少し冷たい感触に、さっきまで浸かっていた水の冷たさが重なった。

達成感。充足感。安堵感。開放感。様々な思いが胸に渦巻き去来して、自然と口元が緩んでしまう。

ふふっ……私、ちゃんとできたのね……

この魔法の道具ともしばらくのお別れかしら――やや名残惜しく思いながら眼鏡を外して、グイと伸びをする。

その瞬間――



ぐにゃり



視界が、ゆがむ。

見えていた景色が、ふっと色を無くした。

あれ……?

伸びをしようと宙に腕を投げ出そうとしたはずが、どういうわけだか手に伝わる感触は硬く、わずかに冷たい。

ここは……?

景色に、色が戻る。

しかし、さっきまで見えていたものとはまるで違っていて。

自分が両手をついて床にへたり込んでいることに気付いたのは、そこから少し経った後だった。

あら……床に手をついて、座ってしまっていたのね。

自分が現在、どういう体勢なのかは分かった。

でも……どうして? いつの間に? 立っていて、腕を上げて伸びをしようとしたはずなのに……

しかし、その理由が分からない。そしてそれらについて考えようとするよりも早く――



「っ!」



自分が現在どういう状態なのかが、矢継ぎ早に押し寄せてきた。

「はぁっ……! はぁっ……!」

震え。

発汗。

息切れ。

めまい。

――疲れを形容する、ありとあらゆる警告が全身に襲いかかる。

「はぁっ……! はぁ……はぁ……」

さっきまで三人で楽しくおしゃべりできていたのに、今は言葉を絞り出すことさえ困難だった。

……視界がぼやけるのは、どうやら眼鏡を外したからだけじゃ……ないみたい、ね。

――息も絶え絶えに、改めて理由を考えてみる。

少し、無茶をしすぎたかしら……控え室でのコトとか。うーん……他に考えられることは……

あっ……もしかしたらさっきのおしゃべりに夢中で、車酔いになった可能性だって、あるじゃない。

そうよ、何事も決めつけるのは……良くないわよね。――ふふっ、なんてね……

二人、特に伊吹ちゃんの前で弱いところは見せられない――胸の奥に潜む思いが、私を突き動かしていたんだろう。

それが終わりを迎えて、一人になって安心した途端、堰を切ったように流れ出た結果。ただそれだけのこと。

これがなんでもない日常で起こったことなら、二人に助けを求めたかもしれない。

でも、これは究極の非日常での出来事。そこにさっきみたいなくだらない冗談が思いつくんだもの、きっと大丈夫。

それに明日は日曜日。事務所へ行くのも午後からだし、いくらでも寝坊ができる。

この疲労感に身をゆだねてそのまま沈み落ちていくのも、たまには悪くない。

「はぁ……はぁ……ふふっ……」

車酔いなんていう、すこぶる出来の悪い”言い訳”に、自嘲めいた渇いた笑いが今更ながらにこぼれ出る。

どうやら、頭の回転も相当に鈍っているようだった。そして体はもう、動かすことさえままならない。

……私のこんな姿を見たら、二人はどんな顔をするだろう。

Pさんもそうだけど、特に伊吹ちゃんの場合は血相を変えて飛んでくるのかしら。

それとも、からかい気味に軽口を飛ばしながら、少しの間寄り添ってくれるのかしら。あるいは……

どれであっても嬉しくて、どれであっても悔しい――そんな、不思議な思いが交じり合った。

「はぁ……ふぅ……」

……ああ、もう、何かを考えるのもこれでおしまいね。

いよいよ頭も回らなくなってきた。早くベッドに横になって楽にならないと。でも、その前に――

アイドルとして、女の子として、最低限やるべきことはやらないと、ね……

全身にのしかかる気だるさを振り切って、周りにあるものを支えにしながら鏡に向かう。



なんとかメイクを落とすことだけは済ませたものの、それ以外のことはろくにできずに――

結局シャワーも浴びずにベッドに倒れ込み、服もそのままに泥のように眠った。

薄れゆく意識の中で――



ふふっ……あなたがこんなことになるなんて、初めてなんじゃないかしら。

それだけ、今回の撮影には期するものがあったみたいね。

旅の終わりに少し寄り道しちゃったけど、こうして戻ってこれたんだもの、大丈夫よ。

それで、自分一人で行き着くところまで行って、やりたいことをやりきれた感想は、いかがかしら?

ああ……そういえば、ろくに口も利けないんだったわね。ふふっ、いつもの余裕はどこへやら……

今日はお疲れ様。おやすみなさい……



――天使が、そっと優しく囁いた。




夢を、見ていた。

少し冷たい海の中を、一糸纏わずさまよう夢。

ゆったりとした浮遊感が、心と体を優しく包んでいた。


「ん……」

どこから来て、どこへ行くのか。そしてここがどこかも不明瞭なまま、波に身を任せ、浮いては沈み流れゆく。

この世界は、自分にとても都合よく出来ていた。水の中にいるのにちゃんと呼吸もでき、まるで人魚のよう。

おまけに、コンタクトも眼鏡も着けていないのに海の底までくっきりと見えるほど。

先の疑問も、湧いたそばから一瞬で彼方へ追いやってしまうほどに、実に綺麗で見事なものだった。

そのよく見える目でふと周りを見渡すと、撮影で使ったようなオブジェがところどころに散見される。

まるで昨日いた撮影現場を広大なスケールで再現したかのようで、漂う私も被写体なのかと錯覚してしまう。

ということは……あの花びらやドレスなんかはぷかぷかと浮かんでいるのかもしれない。

体を器用にひねり水面を見上げると、か細くも優しい光が差し込んでいた。

あの光を全身に浴びてみたい――そんな思いが、なすがままだった体を動かし浮かび上がらせようと誘導する。

水面が近づくにつれ、差し込む光は優しさだけではなく力強さも増してゆく。

やがて水しぶきとともに勢いよく飛び出し頭を左右に振って、降り注ぐ光をまぶしく思い手をかざして……

目を開けるとそこに見えたのは――

「あ、あれ……?」

そこにはまばゆい日差しなどなく、どこか見覚えのある、ぼやけた薄暗い天井だった。

望んでいた、見えるはずだった景色とのあまりの違いに、思わず自分の腕で体を抱き締めてしまう。

それが夢で、そこが自室のベッドだということを理解できたのは、体に伝わる布の感触に気付いてからだった。

そしてその感触は、さっきまで揺られていた海の感覚と、どこか似ている気がした。

「えっと……そうだった」

ここでようやく、昨日シャワーはおろか着替えもせずに寝てしまったことを思い出す。

カーテンをめくり窓を開けて顔を出してみると、まだ日も昇っておらず、少し肌寒い。

いくらでも寝坊ができると思っていたのに、これまでにないくらいの早起きだった。

「…………」

朝に弱い私。今日は事務所に向かうのも午後からとくれば、むにゃむにゃ言いながら二度寝するのが定石。

それなのに、今日に限って心と体はそれを拒み、むしろ起きるべく立ち上がらせる。

「……ひとまず、シャワーと着替えね」

起きたばかりのはずなのに、脱衣所に向かう足取りは実にしっかりとしていて、視界がぐらつくこともない。

――寝汗で少しべたついてひんやりとした肌触りが、なぜか妙に懐かしくて心地良かった。

シャアアア……

いつもより少し温度を下げた水が、私の肌を空から打ちつけ、きれいさっぱり洗い流していく。

まだ太陽も昇る前の目覚めに相応しい、気持ちよくて少し冷たくも感じる水。

さっきまで見ていた、夢のような夢の感覚。

そして撮影の時の記憶が、鮮明によみがえる。

キュッ

レバーをひねると、空から降り注ぐ存在が消え、代わりに体から滴り落ちる存在が自分の意識を支配する。

それらはまるで一粒一粒が意思を持っているかのように、名残惜しそうに自分の元から離れていく。

そして夢の感覚も記憶も、同じように離れて消えてしまう。

少し寂しくて、切なくなった。

感傷にも似た思いで浴室の床を見つめていると、窓が金色に輝いているのに気付く。

開けると舞い込んできたのは、今日の始まりを告げる力強い光。

毛先から落ちる水滴がまるで小さな太陽に見えて、目覚めを促すように目の前を通り過ぎていく。

本番当日なんて贅沢は言わない。でも一回くらいは、こんな朝があってもよかったのに――

今度は少しだけ、恨めしい。

昨日の撮影があってから、心がスッキリしていた。

そして夜を越してからは、体もスッキリしていた。

やりたいことやできることをやり切れたからか、心身ともに軽くなっているのが自分でもよく分かる。

これは、あの画集を少しは理解し、体現できたということなのかもしれない。

少し、誇らしくもあった。

……昨日のアレに関しては、顔を合わせた時に謝ろう。

「おはようございます……あら?」

針もずいぶんと傾いた頃、事務所の扉を開けると、二人がなにやらおしゃべりをしていた。

「あ、お疲れ奏! ねーねー聞いてよーPがねー……」

もうずいぶんと遅い、私の一日の始まりを告げる快活な声が、部屋中を駆け巡る。

「ちょっと待て! それはナシって言っただろ? あっ奏、お疲れさん」

それに合わせるように、少し焦りを含ませたPさんの声とで追いかけっこ。

この前の私とのデュエットとは、まるで正反対だった。

「ふふっ、伊吹ちゃんにPさん、お疲れ様。二人ともどうしたの?」

そして昨日あんなことがあった――正確に言うと私がやった――のに、その余韻は全く見てとれない。

窓の向こうに見える夕日は赤く焼けかかっているのに、また新しく昇り本来の姿を取り戻したかのようで。

……本来の姿っていう意味では、私にも同じことが言えるかもしれないけど。

「い、いやなんでもない! ほら、伊吹もそろそろレッスンだろ? PVに向けて重要な踏ん張りどころなんだから」

「ちぇー、つまんないの。後でどこかごちそうしてもらうんだからね!」

そんなことを考えている間にも――

「わかったわかった。そのためにもしっかり体動かして、腹空かせてこいよ」

「おおっいいねーいいよー! じゃ、いってきまーす」

彼女は、私の知らないところへと行ってしまう。

「はいよー」

「いってらっしゃい、伊吹ちゃん」

昨日のことを軽くでもいいから謝ろうと思っていたのに、完全にタイミングを失ってしまうなんて。

二人の様子を見るに、Pさんがまた一役買ったというところかしら。なんにせよ――

ごめんなさいの一言さえ言わせてくれないなんて、本当に強いのね。

「さてと……」

「助かった――って顔、してるわよ」

「……まぁ、否定はしない」

「そう? じゃあ正直者のPさんには、ご褒美として追究しないでおいてあげましょうか」

私だって、少しは強くなれたと思っていたのに……また、遠ざかってしまったみたい。

「おーおー、やけに素直なことで。――でだ」

「昨日撮ったものが出来上がってるから、それの整理をするんだ。奏にも手伝ってほしい」

私も、あなたのように強くなれたら――

「昨日のこと、いろんな人に聞いたんだけどな。みんな口を揃えて『圧倒された』って言ってた」

「そう。あの場に居る人みんなを引きずり込めたってことね」

自分で言うのもなんだけど、本当に輝けていたと思う。あのまま、時を止めてほしいと願うほどに。

ただ、カメラが回っていなかった時のほうが調子が良かったのは、二人だけの秘密だった。

その秘密を、彼に見えるか見えないかの際どいところでチラつかせながら――

「――で、Pさん。あなたの感想は? ちゃんと見ててくれたんでしょ?」

そんな風に引きずり込めたのは貴方もなのかどうか、聞いてみたくて。

「終わったんだし、聞かせてくれてもいいんじゃないかしら」

でも控え室の時と同じく、答えはわりとどうでもよくて。ただ反応を見たかっただけだった。

だけど――

「……月並みな言葉だが、ものすごく良かったと思う。任せて正解だったと思ってるよ」

「……こんなところでいいだろ? それに、まだ終わっちゃいないんだから――」

「…………」

「ん? どしたの」

「あ……えっと、そうね。その……ありがとう」

二重の意味で理解が追いつかなくて、とまどっていた。

嫌な言い方だけど……Pさんがこんなに真面目に答えてくれるなんて、全く思っていなかったから。

いつものくだらない言葉遊びだと、思っていた。

「えっと……Pさん。終わってないっていうのは、なんのこと? まだなにか、あったかしら」

そして後半の意味を、まだ掴めずにいた。

「まぁその話は後でな。今は別のやるべきことをやらないと」

これはドレスの映り方が――

こっちは水滴の量が――

リボンの垂れ方が――

花びらの数が――

石像の影が――

一枚一枚、あるいはまとめて眺め、比較し、互いの意見を交えながら取捨選択を繰り返していく。

「これは……」

整理もあらかた終え、もう少しで最終候補の絞込みが完了というところで、Pさんが呟いた。

「どうしたの?」

Pさんは、思い出したように周りを見て、その写真に近しいものを集めていた。

「ああ、ごめん。ええと、どうした?」

よっぽど見入っていたのか、私の問いかけにも上の空な様子。

「どうしたの? 何か思いつめたような顔してたけど」

「あー、うん。この辺のがちょっと他とは違うなと思って。この番号は……最後のほうになるのかな」

「どれ?」

――横から見ると、一目で分かってしまった。

「ちょっと変な表現だけど、目だけで全てを支配できそうな……うーん」

「言い方を変えると、写真なのに手を伸ばせば中に入りそうで躊躇う……って言えばいいのか?」

なんて言えばいいんだろ、上手く言葉にできないけど、そんな感じ――表現を確かめるように、繰り返す。

「顔がこっち向いてないのが惜しいところだけど、有無を言わさぬ迫力があるよ」

撮影の人が言っていた意味が、少しだけ分かった気がした。

「それと……一連の最初のこれは特に不思議な画だな。儚い佇まいの中に心なしか、笑顔が垣間見えるだろ」

自分で見ても、本当に不思議な画だった。

Pさんが指差したそれは――

「現場でも見ていたはずなのに、こうして写真で改めて見ると、全く別のように見えるんだもんな……」

「……Pさん。これ、もらってもいいかしら?」

「え? まぁいいけど……これならちょっと使えそうにないしな」

撮影の仕事としては……まぁ、彼が言う通りの失敗作ね。

だって……誘われるままに、思いのままに、フラッと寄り道ばかりしていたから。

「ふふっ、ありがとう。これ、大切にするわね」

でも、ちっとも残念なんかじゃない。月が太陽を思いのままにできた、奇跡の瞬間なんだもの。

もう二度とは行けないかもしれない、夢の世界――そこに居た、たった一つの証だった。

そこに後悔なんて、あるはずがなかった。

「レッスンから帰ってきたら、後で伊吹にもどれがいいか見てもらおう」

「そ、そうね……あはは……」

――それはちょっと、止めたほうがいいかもしれないわ……

「……写真の整理だけとはいえ、ここまで疲れるとはな……量が多かったってのもあるけど」

「そうね。私もこんなにたくさん自分の写真をまじまじと見たのは初めてかも」

こんなに多く撮られたのは初めてだった。

私としては例のサプライズに夢中で、こんなに撮られていたという実感がまるでなかった。

特にあの太陽を見つけてからは、シャッター音すらろくに聞けていなかったくらい。

今思えば、撮影終了の声を聞けたのは運がよかった。

声が聞こえずにスイッチが入ったままだったら、大変なことになっていたのかもしれない。

「続いてで悪いが、俺のリクエストに応えてくれるか」

「なあに? またキスでもしたくなっちゃった? でもこういう場所じゃちょっと――」

「なりません。それに、前にしたくなったことがあるみたいな口ぶりはやめよう?」

「ふふっ、残念ねぇ。正直者のPさんへのご褒美にってことでもよかったんだけど……」

「まぁいい、さっきの話の続きに入るぞ」

何がまぁいいのかは、あえて聞かないままにしておいた。

「来週土曜日の日付が変わるぐらいから朝にかけて、空いてるか?」

「来週の土曜日?」

カレンダーを見やり指でなぞると……その言葉が指し示す日付は9月17日。

「仕事やレッスンの予定等は入れてないから大丈夫かと思ったが……」

「ここに来てやることがなければ、多分大丈夫よ」

個人的な予定も、今のところは何もなかった。

昨日撮影が終わってから、この日に限らずしばらくはオフが続くことになっていた。

だから別にいつでもいいはずなのに、その中から日にちだけじゃなく、わざわざ時間帯も指定するなんて。

平日だったら私も学校があるし、こんな時間の取り方はできないだろうけど――

何か、彼の都合があるのだろうか。それとも、私に何か関係のあることなのか。

9月17日……私には、思い当たることは何もなかった。

「でも……そんな時間だったら事務所でってわけにもいかないわよね。どこか遠出でも?」

最近は特に本を読んだり眺めることに時間を費やしていて、レッスンでも体を動かすことが少なかった。

撮影には確かな手応えがあった。でもそれは、あの世界に長く居すぎたということでもあるのかもしれない。

久々に外へ出て羽を伸ばすのも、悪くないと思った。そしておそらく、心の底では必要としていたことだった。

でも……ただそれだけじゃ、つまらないわよね。

「それに、その口ぶりだと……あなたと夜から朝まで一緒に過ごすってことかしら」

そう思い少しの期待と悪戯心を含ませて、声色を変えてみたけど――

「あー、先に言っておくと打ち上げで遊びに行くわけじゃない。一応場所は海の近くにするつもりだけど……」

あら……すかさず先手を取られてしまったわね。

「ふぅん……海辺で一夜を共に過ごすデート、しかも朝までだなんて。いつの間にそんなこと考えてたのかしら」

しつこく食い下がってみても――

「この前チラッと俺が言ったこと、覚えてるか? オフショット云々ってやつだ。それの撮影に行こうと思う」

私のちょっかいなんてまるで無視して、彼は仕事のことについて話し始める。

……手綱をグイと引っ張ろうとしたけど、存外真面目な顔と口調だったものだから、それ以上は止めておいた。

「海辺でたそがれてるだの言ったけど、夕方じゃなくて朝にすることにしたから」

海辺でたそがれて――その言葉を聞いて、ようやく思い出す。

「それと……悪いがその撮影が終わるまでは、これまで同様眼鏡はかけたままにしておいてほしい」

あの時はあまり聞けていなかったけど、確かにそんなことを言っていたような。

えっと……制服か私服を着て、海辺でたそがれてるイメージ、だったかしら?

――記憶を辿ると、画集を眺める伊吹ちゃんの起伏に満ちた声が頭の中に響いた。

「うーん……よく覚えてないんだけど確か、衣装の指定は特にないのよね?」

「そうだなあ。そんなに肩肘張った格好じゃなければなんでもいいぞ」

「……まぁ、休みを満喫ってわけにはいかないかもしれないが、ささやかなサプライズも用意してあるから」

「その様子だと準備万端ってところかしら? 素敵なバカンス、期待してるわね」

どうやら彼にとっては、9月17日その日でなくてはならないようだった。

理由は、まだわからないまま。




――準備なぁ。このまま晴れてくれるといいんだけどなー……

彼のお願いが、静かな部屋に消えていった。

叶わなかった、私と同じお願いが。


その翌日から――

「オフショット、ねぇ」

空いた時間を見つけては、部屋のクローゼットを開けて眺めて、あれこれ考えていた。

その中で吊るされている様々な色や形の服が、主人である私に着てほしいと出番を待ち続けている。

Pさんとは対照的に私は、準備万端というわけではなく――

「動きやすければなんでもいいとは言われたけど……」

迷っていた。

まるで心の中がそのまま表れたような、頼りなさげに手を伸ばしては胸元に寄せる動作の繰り返し。

普段はなんの気なしに、適当にサッサッと選んでいたはずのものが、なかなか決められずにいた。

とりあえず、候補を絞り込む作業から始めていく。

「まぁまず第一段階として、制服は却下ね……」

いくら気にならなくなったとはいえあの枷は、私にとっては仕事に持ち込みたくないものの最上位。

かといってあのドレスをもう一度着るわけにもいかないし、とすれば自然と私服になるわけだけど。

……みんながみんなそんな目で私を見つめるから、かえって選びにくくなっちゃうじゃない。

「控え室のときはたった一人だったっていうのに……」

たくさんの人に見られるアイドルなのに今は見られたくないなんて、私ったら本当に身勝手ね。

思えば、今までの衣装は明確に指定されたり、用意されたものばかりだった気がする。

無意識のうちに、選ぶということにストレスを掛けていたのだろうか。

様々な事情も重なって、それだけ本気だという証なのかもしれない。

事実、発声はおろか呼吸さえままならない状態になってしまった。もちろんそんなことは初めてのことで。

――この仕事を通して、私の知らない私が次々に明らかになっていくようだった。

だけど、過ぎ去ったことをいつまでも考えているわけにもいかない。

その時は、一定の速度で着実に近づいていた。

「うーん……やっぱり、迷うわね」

こうなったら、これから迎える秋物や冬物を探すついでに適当なものを見繕ってくるべきか……

……ふふっ、仕事だって分かってるはずなのに、どうしてデートみたいな心構えになっているのかしら。

変に着飾ってもうまくいかなくなるだけだもの、やっぱりすでに手持ちにあるもののほうがいいわよね。

ドレスが今までの私に無かった赤。だったら……私服もその方面でいこうかな。

でも――

いったんクローゼットを閉め、目を閉じて思案する。

夜の海……か。

頭に浮かんでくるのは、暗がりの中から黒くきらめく水面。そして、あの夢の感覚がよみがえる。

――せっかくのバカンスだもの。いくらお仕事とはいえ、少しくらいは遊んでみてもいいでしょう?

ある日の学校の帰り。事務所に寄る前に、とっておきを見つけに、迷いを振り切るように飛び出していった。

また明日の夜に続きを投下します。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

乙です

――リリリリリィン……コロコロコロ……



日付も替わってすぐの時分に、静まりかえった寮を一歩出る。

見上げると、暗くてもはっきりと分かるほど、晴れた空が広がっている。

少し前までは毎朝嫌になるほど見えていた灰色の塊も、今に至ってはその気配すら感じられない。

そんな中から騒がしい鳴き声が聞こえてこないことにも、もう違和感を抱かなくなっていた。

代わりに響き渡る、涼しげなコオロギの鳴き声を聞くと、夏が過ぎ去りつつあると改めて実感する。

もうすぐ秋分を迎えるにあたって、秋の準備も着実に進んでいると感じさせる風が通り抜けていく。

あれだけ蒸し暑かった熱気も、この時間のせいか今はその姿を遠くへとくらませていた。

そして私は寮の前で一人その風を受けながら、大切な約束を待っている。

夜というにはやや後ろにずれてしまったけど、待っている時間さえも楽しく感じられた。



やがて一台の車が向かいの車道に止まり、ウィンカーが点滅する。

もうすっかり見慣れたその馬車は、夜の逢瀬を演出するには少し頼りなくて。

それでもあの時と同じように、車は違えど私の足元にまで煌びやかな絨毯が伸びていた。

「年頃の男女が夜も遅くに待ち合わせ。それなのに、この車でお出迎えなの?」

車に乗り込むやいなや、笑いながらチクリと一刺し。

「仕方ない、こんな時間だけど仕事なんだから。こういうときに自分の車を使うと色々良くないんだ」

そういや最近、あっちは全然乗れてないな――少し懐かしむように、キーをひねりながらPさんが呟く。

つーかどっちかというともう朝に近いよな――今度は少し憂鬱そうに、眉間を押さえながら続けた。

「ふふっ、残念ね……」

「まぁ、そんな時間を選んだのは俺なんだけどな……」

Pさんの車には、パーティーに出席した時に伊吹ちゃんと一緒に乗せてもらったことがある。共に後部座席だった。

矢印のような変わったエンブレムを身に付けたそれは、シートに腰を下ろすだけで身が引き締まる思いがした。

外見、内装、走行音、乗り心地。全てにおいて格好よさと美しさを兼ね備えていて、言葉にならないほど圧倒された。

流れてくるラジオの音さえも邪魔に感じたのは、車に乗っていて初めてのことだった。

二人揃って浮き足立って、彼がミラー越しに疑問符を投げかけてきたことは、昨日のことのように覚えている。

その後に、どこか茶化すような笑顔を見せたことも。

そして、それに対してごまかすことしかできずに見合わせた私達のことも。

もしかしたら、会場内にいた時よりも車内にいた時のほうが緊張していたかもしれない。

あの車の中が、まるでひとつのステージのようだった。

それなのに――綺麗なドレスを着せてもらっておきながら、全然思ったように振る舞えなくて……少し悔しかった。

「……ところで。色々の中身はなんなのか、聞いてもいいのかしら」

今は、少しくたびれた助手席に一人。そして、眠りこけた街を起こして回るほどの音を、中にも外にも響かせている。

この不格好さが、残念という言葉とは裏腹に、どこか奇妙な安息をもたらしていた。

ああいう車は、今の私にはたまに乗るくらいがちょうどいいのかもしれない。ましてや助手席なんてなおさら。

それでもいつかは、あんな車に見合う人間になりたいと思った。

……自分で運転するのは、あんまり似合わないかもしれないけど。

「……伊吹のPV撮影が終わったら、二人をディナーにでも連れて行ってやる」

それにしても――

「今度は最高のエスコート、期待してるわ」

また、答えてくれないのね。おまけに、今は見えない人のことまで口に出して、本当に意地悪な人なんだから。

「うーん、期待されるのは別にいいけど――」

それはもう、私に負けないくらいに……

「前みたいに二人してあたふたするのは勘弁してくれよー? 俺としても調子が狂って仕方なかったんだから」



――私の、完敗だった。

「ふふっ……あははっ、あははははっ!」

あまりに予想外で見事な切り返しに、笑いをこらえきれなくなってしまう。

「あ、おかしい……」

「えーとその……どうかなさいましたか」

俺、何かしたか? とでも言いたげな声色。まったく、調子が狂ったのはどっちだろう。

「ええ……いい勝負するかなと思ってたらボロ負けしたの。降参よ、こーさん。まいりましたー」

手も足も出ないとはまさにこういうことを指すんだと思う。悔しさよりも、感心してしまった。

代わりに、舌を出してあっかんべーのポーズを作ってみせる。

「お、おう……。ん……? 俺は勝負に勝ったのか。でも、なんの……?」

わけが分からないといった表情。正直言って、どっちもどっちだった。

――――――――――――――――――――

窓から見えていたネオンサインや建物が、少しずつその姿を減らしていく。

代わりに、はるか遠くで光る点が、少しずつその数と輝きを増やしていく。

気付けば、見慣れた景色は面影すら失せていて。視線を横に向けると、闇の中に無数の宝石が散らばっていた。

「窓、開けてもいい?」

「ん。どうせなら両方開けるか」

途端、わずかな隙間を見逃さずに、轟音が、強烈な風が舞い込む。

この時間のせいかそれは思っていたよりもずっとひんやりとしていて、確かな秋の到来を感じさせるものだった。

「朝や昼の日差しや、空気の肌触りでも分かるけど――」

「こうやって夜風を受けても、季節の移り変わりが鮮明に感じられるよな」

改めて周りを見渡すと、道路を走る車はこの一台だけ。この風を独占できることで、より心地良く感じられる。

「それと、場所の移り変わりもね」

都会では味わえない、涼しげな潮の香りが鼻をくすぐった。

「少し、歩かないか」

「いいわね」

車を降り、普段は見ることの叶わない、澄み渡った夜空の下を、Pさんと歩いていく。

見上げると、ぼんやりとではあるが街灯がなくても周りが見えるほど、空の満月は輝きに満ちている。

まさに夜に浮かぶ太陽のようで、月明かりがこんなにも綺麗で力強いものかと、歩いているだけで感動する。

その光を引き立てるのは、それ以外の全てを覆い尽くす闇。

走行中の車内からは、暗がりの中から飛び出すように輝いていた無数の星。

しかしここにきては、月の周りだけはひれ伏す以外になく、闇の奥に逃げるようにその姿を消していた。

そして、今日の奏者は波音とそよ風。観客は私とPさんの二人だけ。私は手ぶらで、彼は双眼鏡とカメラを携えて。

双眼鏡は、詳しく聞こうとしても「ま、ちょっとな」の一点張りで、それ以上は教えてくれなかった。

カメラについては、別にコンサート会場や風景を撮ったりするわけじゃない。私を撮るためのもの。



『いいなと思ったタイミングで撮ろうと考えてるから、奏は好きにしてていい。ポーズなんかも要らないから』



――スクリーンに憧れていた私にとって、自然体というのは演技より比べ物にならないほど難しかった。

自然でいるということを意識してしまって、まるで体がバラバラになって離れていくような感覚になってしまう。

それに前と違って、いつ撮るのかも分からない。出口の見えない迷宮に、一人取り残されたようにも感じていた。

この場に彼女が見えないということも、影響があったのかもしれない。

今になって、とても難しいお題を要求されていることに気付く。そしてそれは、彼の期待の表れでもあった。

だけど今の私は、この暗い空と海にすっかり溶けてしまっていて。

もちろん、そんな揺らめきを美しいと思う人もいるかもしれない。

でも、それはあくまでただの一般論。重要なのは、今横を歩く彼にとってどうなのかということ。

どうすれば彼に撮ってもらえるのかしら。

どうすれば彼を満足させられるのかしら。

どうすれば彼と――その全てが、雑念だった。こんな精神状態じゃ、いい画なんて撮れるわけがない。

そこに答えなんてあるはずもないのに、さりげなく様子をうかがってみても……

車内での他愛もない会話と散歩で、少しは目が覚めたと思っていたのに、どこか頼りなさげに上を向いていた。

今が最高のタイミングかもしれないのに、どうして――

どうしてそんなに呑気に夜空を眺めていられるのかしら。

どうしてそんなに眠そうな目をしているのかしら。

どうしてそんなに私のことを――自分が一番分かっているはずなのに、そんな思いが無性にこみ上げてくる。

どうしてあの日のように――自分に問うてみても、それは同じだった。

ただ一つ明らかなのは、彼にとって今の私は、あの煌めく紺と輝く白に負けているんだということ。

いつだったか自分のことを闇夜に浮かぶ月にたとえたのは、他ならぬ私。まるで、自分に負けたかのようだった。

見とれて足を止め、ため息が出るほどに美しい、朝を待つ夜の色。だからこそ、それがどうしようもなく悔しくて。

なんでもいいからこのもやもやを晴らすべく、彼にぶつけてみたかったのかもしれない。

ともかく、彼を揺さぶってみる。それはいつもの馬鹿げたものじゃなく、何よりも愚かな理由だった。

「ねぇ、Pさん」

街灯の下で立ち止まり、彼を呼び止めた。満月が目の前までやってきて、眠そうな顔がはっきりと浮かび上がる。

「こんな所まで連れ回して、なあに? 撮影なんて言ってたけど、本当に愛の逃避行でもするつもりなのかしら」

「さてなあ。どこまで行ってみたいもんかねえ」

ちょっと小突いたくらいじゃちっとも手応えがない。

……場所がダメでも、時間ならどうかしら。

「そういえば私、昨日から寮には戻ってないの」

「ん……?」

「これから明るくなって帰ったら、Pさんと朝帰りになっちゃうわね」

さっきまでの眠そうだった顔が、みるみるうちに覚醒していく。

「ねぇ……素敵な言い訳、考えておいてもらえるかしら」

「……は? ちょっと待って、何を」

目覚めたそばから言葉の意味を噛み砕き、まるで口にしてはいけないものを入れてしまったような顔。

「ふふっ、冗談よ。またPさんのいい顔が見られたわ。とっておきのが、ね」

「え……?」

熱々のブラックコーヒーは、効果てきめんだった。

「ほら、よく見なさいよ。服、昨日と違うでしょう?」

そう言って、上着をめくってみせる。中からは月明かりに照らされた布地が、光に包まれて浮かび上がる。

悩んだ結果私が選んだのは、白のノースリーブ。ドレスとともに、普段はあまり着ることのない色にした。

そして今は目立たないけど、この日のためにこのブルーのネクタイを新調したことは、私だけの秘密。

「これで少しは目が覚めたかしら?」

「わ、悪かったって……」

見慣れた、いつもの慌てる彼の姿がそこにはあった。

とはいえ――

「へぇ……本当にそう思ってる?」

ぐいっ

「え……? っとと、おお?」

安心するのはまだ早い――そっとPさんの腕に抱きついてしゃがませ、挑発的な目で射抜き、至近距離で囁く。

「ちゃんと見てないと絶好のチャンス、逃しちゃうわよ?」

「~~!!」

声にならない悲鳴を上げ、瞬時に腕を解かれる。さっき以上に、動揺の色がはっきりと見てとれた。

ふふっ……そろそろこの瞳にも、月の魔力が宿ってきたかしらね。

Pさんはやれやれといった感じで一息ついて――また、歩いていく。

よくよく考えると、この人が面白い反応を見せてくれないというのも、理由のひとつだったのかもしれない。

そう思うと、徐々にいつもの調子が戻ってきたような気がする。そしてそれは、彼も同じなんだと思えた。

不意に、今度はPさんが立ち止まり――

「おっ、もうそろそろだな」

時計を見て、待っていたとばかりに声を上げた。どうやら、眠気は無事に飛んでいったようだ。

「どうかしたの?」

「ほれ」

私の問いには答えないまま、Pさんは持っていた双眼鏡をよこしてくる。

「降りた時から気にはなってたけど……愛の逃避行じゃなくて、天体観測デートだったの?」

「うーん、星座はアナスタシアさんに頼んだほうがいいんじゃないかと思う」

「じゃあ、コレはどうするのよ」

「星座じゃなくて、アレだ」

Pさんは、空に浮かぶ満月を指差した。

「普通に見ると、なんでもないただの綺麗な満月に映るだろ」

「ええ、そうね」

改めて見上げると、本当に綺麗な満月。

なんでもないなんて言うけど、そんな綺麗な満月を見られるのは、雲もないほど晴れたからに他ならない。

今日、この月を見るためといってもいいくらいだ。

……月のようだとたとえていたのに、私のときは曇り空のままだったのは、どうしてなのかしら。

Pさんのお願いは聞けるっていうのに、私のお願いは聞けないっていうのは、不公平なんじゃない?

あまつさえ、あの日の翌日からはまるで当てつけのように、その姿をすっかり消してしまうなんて。

あなたも私に意地悪するのね――なんて、少し恨めしくもあった。

でも……あの日彼女が来たからこそ、そんな小言が思い浮かぶのかもしれない。

中途半端ですが、今日はこれで区切りをつけます。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

乙です

「半影月食っていうんだけどな」

「はんえい……げっしょく?」

また、初めて聞く言葉だった。

「漢字で表すと、半分の影によって出来る月食だな」

「簡単に言うと、普通の月食だと欠けたり赤みがかるけど、これは月面の一部がわずかに暗くなる現象なんだ」

「ふぅん……」

今聞いた限りでは、比較するとそこまで派手なものというわけではない……のかしら。

「肉眼じゃほとんど確認できないけど、双眼鏡や望遠鏡で見ると分かりやすいらしい」

そもそも、月食といえば皆既だとか部分だとか、そんな接頭語しか知らなかった。

それも言葉だけで、詳しい見え方や原理なんてのは、それ以前の問題。ただそうなるとしか言えなくて。

そこへいきなり半影だのわずかに暗くなるだの、彼から知らない言葉と現象について教わってしまう。

――自分がたとえる対象について、知らない事柄があるということが、妙に滑稽に思えた。

そして、知らない世界を教えて見せてくれる存在は、伊吹ちゃんや他のアイドル達だけじゃない。

そこにPさんの存在がしっかりとあることを、改めて感じた。

また、私の知らない色が増えていく。

この一点の曇りもない夜空にただひとつ浮かぶ、満月の輝きのように。

それなのに――

「この前言ってたささやかなサプライズって、このこと?」

「ま、まぁ一応……」

ただの確認のつもりだった問いかけに、どこかおぼつかない態度を見せたPさん。

頼もしく見えていた姿が、次の瞬間にはバラバラになりそうなぐらつき具合を見て、思わず笑ってしまう。

「ふふっ……どうして自信なさげなのよ?」

その様子からは、どうやら知ってはいても、実物を見たわけではないようだった。

「いやまぁその……自分が経験したことないものを教えるって、なんか変な気がするだろ?」

……確かに、自分が見たことないものを誰かに見せるっていうのは、不安に思うのも仕方ない気がする。

映画をお勧めするときに、「これ面白い”らしい”よ」なんて言って渡したら、どう考えても変に思われるもの。

だったらここは、私がその背中を押してあげないとね。

「別にいいじゃない、これから見て知るんだもの。やってみなきゃ、分からないことだってあるでしょう?」

「もしダメだったら、笑い話にでもしてしまえばいいと思うわ。何事も経験、よ」

「……仰る通りだな。肉眼で判別不能ってことは、見比べると違いがより鮮明になるってことだもんな」

「もうすっかり目が覚めたみたいね。その調子よ♪」

「よし、早速見てみようか」

そんな私の後押しに、彼の不安も無事に吹き飛んだようだった。

二つのレンズ越しに、月をのぞきこむ。

「ぁ……」

「おおー……」

二人共が、その見えた景色に思わず驚嘆の声を漏らす。

双眼鏡越しに見た月は、さっきまで眼鏡越しに見ていたものと違って確かに少し、暗くなっていた。

特に円の上側が、すぐ外の闇に溶けて消えかかっているように見える。

満月という画の額縁が外れかかっているような、初めて見る月の表情。

表と裏を同時に見せるような、光から闇への美しい色の移り変わり。

それはまるで神が隠していた月の秘密を垣間見たような、文字通り神秘的ともいうべき魔法だった。

今度は外して。……暗いところなんてどこにもない、等しい輝きに満ちた綺麗な月が見えていた。

「暗くなってるの、分かったか?」

顔から双眼鏡を外して、Pさんがこちらに問いかけてくる。

「ええ」

「俺が言うのもなんだけど、比べると結構違うんだな。正直言って半信半疑だったけど」

その言葉が持つ意味とは裏腹に、さっきの反動なのかPさんは自信満々でやけに得意げだった。

「ふふっ、企画したあなたがそれを言っちゃあ、身も蓋もないわよね」

「ニュースなんかで大々的に紹介される、分かりやすいものもいいけど……」

「こうして注意深く見てやっと分かるのも、とてもいいものね」

こんな月の二面性を見たのは初めてのことで、その事実が、月にたとえていた自分と重なる。

まるで、私自身がまじまじと見つめられているみたい。そして、私の知らない私を見ているようで。

どちらの意味か、はたまた両方か――少し、恥ずかしくもあった。



――私の知らない私。

あの月のように、誰かから見える私の姿は完璧でも、別の誰かからは陰りを帯びて映るのかもしれない。

だとすれば、それは一体誰だろう。

せめて片方だけでも教えてくれるなら、知りたいのは”別の誰か”のほうだろうか……

そして、その人に私はどんな風に映っているのか。

そんな、答えの出ない問いに浸っていたくて、また二枚のレンズ越しに映る月を眺めていた。

強さと脆さを併せ持ったような輝きに、私も魔法に掛かったかのように釘付けになってしまう。

時間も、自分のことさえも忘れてしまって、このままずっと見ていたい――

そんな、不思議な輝き。

「とっても楽しかったわ、ありがとう」

礼を言ってから、ふと思う。

今は輝きに満ちているあの月も、いずれはその姿をくらませ、私の意識から遠のいてしまうということを。

「そうだ……ねぇPさん」

自身を月にたとえていた私。あそこにあるのは、自分の分身のように感じていた。だからだろうか。

「あの月は、いつ沈むのかしら」

その行く末を知りたくて、こんなことを聞いたのは。

「えーと、5時半頃だったかなあ」

「そう……ありがとう」

あと1時間半ほど。それは、あの月が私と一緒にいられる残りわずかな時間だった。

今日のように晴れていれば、明日も明後日もまた、同じような月を迎えられるはず。

それなのに、今見えている月とは永遠の別れのように思えてしまうのは……どうして?

そして……それは私の一部がどこかへ消えてしまうということなのかもしれない。



――それがどうしようもなく不安で、仕方がないの?



質問の意図が分からないといった表情のPさんを横に置いて、そんなことを考えていた。

……またしても、答えは出そうになかった。

――――――――――――――――――――

「少し、歩き疲れちゃったわね。適当な所で休憩しましょうか」

またしばらく歩いて、私達は名前も知らない港にやって来ていた。

「普段こういうところに来ないから分からなかったけど、灯台ってすごいのね……」

失われることのない輝きが、どこまでも伸びていた。

「あんなに小さく見えるぐらい遠いのに、どこにいても見つけられそうな光だよな」

あんな光があれば、どこにいても迷うことなく戻ってこられる。

未知の世界でも、元いた場所へ絶対に。不安なんて何も感じさせないという、確かな気持ちを発していた。

「ねぇ、Pさん」

……私や伊吹ちゃんとPさんの場合は、どうだろう。

上着を脱ぎ、埠頭に腰を下ろして、少し考えてみた。全身を撫でるそよ風が、歩き疲れた体を癒していく。

「『男は船、女は港』って言うらしいけど……」

「私達の場合は逆なのかもしれないわ……なんとなく……そう思うの」

「私達アイドルが船で、Pさんが港。いつだって私達が未知の世界へ漕ぎ出していけるのも」

「送り出してくれて……そして、帰ってこれる港があるから……」

「…………」

「どうしたの?」

「……奏と会話してると、自分のほうが年下だったかと錯覚するときがあるなと思って」

「相手を思う気持ちがあれば、そこに年齢なんて関係ないわ……そうは思わない?」

「うーん……そういう言葉は、俺じゃなく配偶者や恋人に対して向けるものじゃないかなあ」

「……違うの?」

「そこはハッキリ違うだろ! 我々の関係は、アイドルとその担当、だからな?」

「あら、つまらないの……」

まぁ、日が昇る前だと、何かにあてられてついってわけにはいかないものよね。

でも……今の私には、あの月明かりだけでも十分すぎるほどだった。

「……今更だけどさ。この前よりテンション高くないか?」

「ふふっ、そうかしら。喧騒から隔絶された場所で朝を迎えようとすることに対して、心が躍っているのかも」

それに……こうやって遊びを入れていないと、バラバラになってどこかへ飛んでいってしまいそうだったから。

普通、逆なんじゃないかなあ――そんな呟きも、おだやかな潮騒にのまれて消えていく。

水平線から視線を上げる。大丈夫、まだ間に合う。

「……話を戻しましょうか。さっきのたとえには、続きがあってね。――私は月なのよ」

だってこんなこと、太陽が見てる前じゃ、恥ずかしくって口に出せないもの。

「んー?」

「私が月だとしたら、伊吹ちゃんが太陽。で、ファンの人は地球のどこかにいる誰か、そんな風にも思うの」

「Pさんは……そうね。それらを自由自在に行き来できる宇宙船ってところかしら」

「へー、それはまた面白い例えだな。でも、それだと帰ってこれなくなるんじゃないか? ほら、遠いぞー」

そう言って、親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。

私も、輪っかを作ってみる。その内側は、余すことなく光で埋め尽くされていた。

「ええ、そうね。だからPさん、お願いね?」

「……なるほどな」

「私はファンの人に魔法を掛けて、Pさんは私に魔法を掛けるの」

「ひとたび魔法に掛かったら、どこへでも飛んでいけるのよ。素敵でしょう?」

「確かに素敵だけど、あんまり無茶振りはな? 俺はそんなに高等な魔法を使えるわけじゃないんだから」

「ふふっ……言ったでしょう? 思いがあれば、多少の無茶なんてわけないわ」

「言ってくれるぜ……」

そんなこと言いながら、私のワガママに応えてちゃんと素敵な魔法を用意してくれたのは、他ならぬ貴方。

「それに、離れていても通じ合う関係って、とっても素敵じゃない?」

目と目で通じ合う関係よりも……ずっと。

「離れたところに居る、顔も名前も知らない誰かが望む姿を、完璧に演じるの。心が繋がっているみたいに」

「そういうアイドルになりたいって、今は思うわ」

潮風に乗せられて、流れるように自然と言葉が出てくる。

以前に考えていた、”どう見られるか”の集大成ともいえる像が、真っ先に思い浮かんでいた。

今まではあまり深く考えたことのなかった、どんなアイドルになりたいかという問いの答え。

それがたった今急に、どこかから現れた気がした。

「まぁ、たまの顔見せぐらいは頼むぞ? 遠くから輝きを眺めてるだけじゃ、いつか飽きてしまう……あ」

「だから……ね?」

「うーん、振り出しに戻ってしまった」

「それにしても、奏がそういうこと言うなんて珍しいな」

「そうね……伊吹ちゃんとはもちろん、Pさんともこんな話をするのは初めてかもしれないわね」

普段は言わない、言えないようなことが、喉から先へ次々と続いていく。

こうして会話の合間に吹き抜ける風を感じる間にも、何か言いたいことが出てくるかもしれない。

この時がずっと続けばいいのに――何度も抱いた叶わぬ願いが、心の隙間を埋めていく。

しかし、タイムリミットは刻一刻と迫る。少しずつではあるが確実に、その時は近づいていた。

――もう少しだけ、待っていて?

こんな機会、もう二度と訪れることなんてないかもしれないんだから……

できればまた明日に続きを投下します。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

乙です

「……じゃあ今度は、俺の話を聞いてくれるか」

ここからまた、言っておきたいことが思い浮かぶんだろう。そして、それを楽しみにしている自分がいた。

「ふふっ、どうぞ?」

と、さっきまでと違いどこか神妙な面持ちのPさん。

一息ついて……時の流れが、ゆるやかになるのを感じる。

だけど、あの時のデュエットとは何もかもが違っていて。

「最初に撮影の話を持ちかけた日の帰り際……」

――止まない雨がないように、止まない風もまた同じ。

さっきまで吹いていたそよ風が、かき消されて。



「実は、迷ってた」

ささやかな願いは、思わぬところから叶えられてしまった。

私とPさんと、波音だけを残して――

止まってしまった時の中で――



迷ってたって……どういうこと?

私は……



迷う――その言葉の意味するところを、そこからずっと考えていた。

「奏の言った、眼鏡で雰囲気を変えるっていうのはとてもいいと思った。でも同時に、いや――」

ひとつひとつ確かめるように、Pさんが言葉を並べていく。

「正確には、その少し後か。本当に馬鹿な話だけど、奏が女子高生だってことを今更ながらに思い出したんだ」

いつもならこのあたりで相槌のように出てくる横槍。私は、また入れられずにいた。

「アイドル一本ならともかく、奏の場合はそういうところで少し不安がよぎった。夏休みもあったし余計にな」

こちらをうかがいながら続けようとするPさん。私は、また合わせられずにいた。

「でも、その程度スリルとして難なく交わすだろうとも思ってた。――おやすみを言うまでは」

「あの時、声……ほんの少しだけど、震えてただろ?」

――やっぱり私は、自然体どころか演技さえも下手くそだった。

憧れの対象は、いつだって手が届かないもの――今は見えない、あの太陽と同じように。

この間の出来事は奇跡だと分かっていたはずなのに、胸が締め付けられる思いだった。

「キスの一つでもねだってくるかと思ったのに、そんなアクションを一切見せなくて……正直言って戸惑った」

あーいや、してほしいとかそういうわけじゃないからな? ――とおどけてみせるも、今の私には何も返せない。

そんな私の様子に気付いて、彼は少し憂いを帯びた微笑みを見せた。

それに対して肯定も否定もするわけでもなく、無言のまま続きを促す。

「別れてから車を出さずに考えてると、雨が降ってきて……俺には、泣いているように思えた」

言葉は詰まったまま――何から何まで、見抜かれていた。

「いろんなものがのしかかって負担にさせている自覚は、これでもかというほど分かっていたはずだった」

「でも、だからといって別の方法を探すのも躊躇った。それが邪魔になるかもしれないと考えてしまった」

彼の優しさが私の心を強く揺さぶり、それが彼に悩みや後悔の念を抱かせていたということ。

私のせいで、彼を傷付けてしまった――私が、弱いせいで。

「このままいくと、なにか取り返しのつかないことになるんじゃないかとさえ思った」

取り返しのつかないこと――連想される不吉な言葉が、嫌でも頭を駆け巡る。

それは、最も言わせてはいけない言葉だった――たとえ、もしもの話だとしても。

そして、最も聞きたくない言葉でもあった――私が、言わせてしまったのに。

「だから……このまま進むか止めるのか、ずっと迷ってた」

――どうして、そんなことを言うの?

――どうして、そんなことを言わせてしまったの?

声にならない悲鳴が雫となって、私の頬を伝う。すがるように、彼を見つめていた。

そんな私に彼は慌てるでもなく、ハンカチを差し出す。

「でもな、それは間違いで、見当外れもいいとこだった」

目が合う――私とは正反対の、さっきとはまた違う柔らかな笑顔。

――どうして、そんなに優しい顔をしているの?

「奏から用意してほしいものを聞いた時に、全てが杞憂だったんだと分かったんだ」

止まってしまっていた時が、また動き出す。

夜の紺色に、朝の橙色や青色が混ざり始めた瞬間だった。

Pさんの言葉には、さっきまであった迷いがなくなっていた。

温かくて、優しくて、嬉しそうな声だった。

「用意できるかどうかも多少は心配だったけど、それ以上にそれらをどう使うのか……楽しみで仕方なかった」

「目敏い奏のことだから気付いていたかもしれないが、飛び上がりそうなほど嬉しかった」

「でもな、嬉しいと同時に、また不安もやってくるんだよ。これが面白いところでな」

いや、冷静に考えるとちょっとヤバいような気もするんだけどな――と、笑いながら続ける。

「この調子だと、俺は邪魔なんじゃ、要らないんじゃないか、してやれること何にもないなって思えてくるんだよ」

それは、最も聞きたくない、最も言わせてはいけない言葉のはずだったのに、不思議と痛みは全くなくて。

「打ち合わせの帰りに見せてもらった時、本当に降参だった――まぁ、それで油断してもう一発もらったわけだけど」

本当に間抜けだ。ついこの間偉そうに講釈垂れたのが見事なブーメラン――なんて言いながら、子供みたいな笑顔で。

「それにな、これは俺だけじゃない。伊吹のお墨付きでもあるんだ」

――そしてそれは思いがけずとも、心の奥底で最も待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。

軽やかに、鮮やかに、縦横無尽に所狭しと舞う貴女は、私の一番の目標であり、憧れだった。

私の世界に足を踏み入れると気付いた時から、ずっとその姿を探していた。

闇の中から隠しきれない輝きを放つ、その影を見つけた途端に、全身に魔力が満ちていくようで。

視界がぼやけていなければ、きっとそのまぶしさに目が眩んで、目を背けてしまっていたくらい。

そんな溢れんばかりの輝きに照らされた私の姿は、遠く離れた貴女の隣で、どんな風に映ったんだろう。

――その答えが、彼を通して返ってきた。

彼女の、様々な思いを聞いた。

あのパーティーで、リラックスしてほしくて私にずっと話しかけてくれていたこと。

それなのに、いつの間にか逆の立場になっていたことをPさんに愚痴っていたこと。

私の撮影を間近で見て、自信がなくなりそうなほど圧倒されたこと。

彼女の知らない、もう一人の私がいるような気がしたこと。

彼女の踊りを見る時、私も同じように思っていると聞いて、心が軽くなったこと。

――正反対のはずの彼女が、私と同じようなことを思っていた。

だけど……欲張りで、愚かな私は、どうしても彼女の口から直接聞きたいと思ってしまう。

そして、あの日聞けずにそのままだったこと、謝りたかったことを思い出す。

「だったら、直接聞けばいいんじゃないか? 伊吹だったら、真面目に聞けば教えてくれるって」

――自分でも知らない間に、そんな願いが言葉になって彼に届いていた。

――そして、真面目なんかじゃなく、舞い上がってしまって自分勝手にやったことを。

「あの日撮影の前後で妙に上機嫌だったのは、奏の中で何か思うところがあったからだろ?」

「……今回の仕事は、奏にとってどういうもので、どんな思いがあったんだろうな」

彼が再び、心の奥底で眠っていた思いを壊れないように掬おうとする。

「聞かせてくれないか?」

今度こそ洗い流してほしくて――最初の雨の日の記憶とともに、胸の内を明かしていった。

静寂の中を行ったり来たりするおだやかな波の音と、しんとした中から叩きつけるような雨の音。

耳に届く音は全然違うのに、彼の優しさが乗せられているだけで、心に届く音はまるで同じに感じてしまう。

「初めのうちはあの相談もあって、Pさんの期待に応えたい、応えなきゃっていう思いがあったんだと思う」

Pさんは、黙ったまま続きを促す。

音にならなくとも、優しい音色が心に沁みていく。

「そこからは多少思い悩んだこともあったんだけど……そんな時にふと、伊吹ちゃんのことが頭に浮かんで」

始まりは、全くそんなことを意識していなかった。

ずっと、どうやればいいか、どう創ればいいか――そればかりを考えていた。

「それで本番当日に、伊吹ちゃんが見に来るってなんとなく分かって」

でも、ひょんなことから意識し始め、それはすぐに期待に変わっていく。

「改めて思い返してみれば、先に向かう時に何かに気付いたようなフシもあったか。うん……それで?」

「いつの間にか、彼女に見てほしいっていう思いに変わっていった……んだと思う」

思わぬ幸運は、最大の好機でもあった。だからこそ――

「でも……撮影の終わりに迷惑を掛けてしまって、また分からないことができたのよ」

「分からないこと?」

「”どう見られるか”について、全然考えてなかったなって気付いて」

「……なるほどな」

土壇場では、”彼女に見てほしい”そんな思いが一番強かった。

そこにはさっき自分で口に出したはずの、”顔も名前も知らない誰か”の存在はどこにもない。

あの時感じた疑問の答えを、今もまだ、出せずにいた。

今の私には、そんな疑問は遠くて重くて、とても一人では背負いきれないものなのかもしれなかった。

だから、光と闇の狭間で揺れる月を、ずっと眺めていたかったのだろうか。

自分の分身が、月に降り立った神が、答えを導いてくれる気がして……

その一方で私は、またあの白黒の世界に迷い込んでしまっていた。

あの時は、物語の結末を見届けるのが怖かった。

今はその結末さえも、どこに行けば見られるのか、分からなかった。

だけど、次の瞬間――

「……奏。今回の撮影、楽しかったか?」

「えっ……?」

そこに、再び一筋の光が差し込む。

溶かしてしまうようなまばゆい光は、彼女のものと似ている気がした。

突拍子もない問いを投げかけられて、少し言葉に詰まってしまう。

「それはその……もちろんよ。今までで一番といっていいくらいだったわ」

本当に楽しくて、まさに夢の中に居た気分だった。

私の答えに、Pさんは得心がいったような、それでいて少し残念なような表情を見せる。

「……じゃあ、後悔はしてないか?」

この質問は少し、答えるのをためらってしまう。……それでも。

「嫌な言い方だけど……不安もあっていろんな人に迷惑を掛けたけど、不思議と後悔は何一つしてないの」

偽らざる本心。できることならもう一度あの世界に飛び込みたい、そんな気持ちだった。



「それなら何も問題はない。改めて言うよ、お疲れさん。ここまで一人でよくやったな」



そしてあの時と同じようにまた、返ってきたのは意外な答えだった。

――出せずにいた疑問の答えが、転がり込んできたような気がした。

世界に、色が戻っていく。

しかしその返答にまた、呆気にとられてしまっていた。

「え……? それってどういう……」

「どう見られるかはそりゃ大事なことだよな。でも、誰かに見てほしいっていうのも大事だと思うんだ」

「これは別に、誰でもいいんだ。たとえ特定の身近な人であってもな」

私の、身近な誰か。

そんなの、Pさんと伊吹ちゃんに決まってる……

――その時、まぶしくて、優しい光が辺りを染めてゆく。

闇を切り裂く魔法の光が弱まって、おだやかな光が徐々に強まっていく。

夜明け前の、月明かりがずいぶんと落ちた空の下、やっと辿り着いた。



私はずっと、この二つの光に支えられてきたんだ――


あまりにまぶしくて、まっすぐ見られないでいた。

いや……一瞬は見たのに、そこから逃げるように、見ないままでいた。

その気になれば、いつでもその一歩を踏み出し近づけたはずだった。だけど――

光り輝くその場所に近づけば近づくほど、足元の影が濃くなるのを恐れて、その勇気を持てないでいた。

”そこ”がおだやかで優しい光に包まれる瞬間に、今まで見てこなかったことが、ようやく見えた。

「例えば伊吹の場合だと、奏が撮影を見に来るって知ったら、絶対にいいとこ見せようとはりきると思う」

控え室でわずかな間だけ見せた、私じゃどこまでいっても届かない、とびきりの笑顔。

「その結果、想像もしてなかったぐらいにいいモノが出来上がるんだよ。今回のようにな」

あの表情で舞う姿は、さぞかし素晴らしいものに違いない。

初めて見た時からずっと胸に抱いていた、運命にも似た確かな予感。

そこには私が思い描く理想の全てが、一部の隙もなく詰め込まれている気がした。

「顔も名前も知らない誰かが望む姿をって言ってたけど、それを徹底できればなるほど確かに素晴らしい」

「だが水を差すようで悪いが、それを貫き通すのはなかなかに困難なことだと思う」

「だから、身近な誰かを思って臨むのも、とても大切なことだと思っていてほしいんだ」

理想だからこそ……それにそぐわない心と振る舞いに、自分でもどうすればいいのか分からなくなっていた。

でも……そうじゃなかったのね。

「それであまりにもダメそうなら、俺や他のスタッフの人が止めるよ。でも、今回は違っただろ?」

「誰からも止められなくて――いや、”止めさせなかった”んだよ。あそこに居た人間はそう思わされた」

そう言われて、万物を従え支配できていたような感覚を思い出す。

あの橙色の影を……彼女を身動き取れなくさせるほど魅了した、魔法のこと。

「そして結果後悔なく楽しめたなら、その理想に負けないぐらいに素晴らしいことだと思う」

一人になって気が抜けた途端、その反動が一気にやってきて、動けなくなったこと。

……背伸びしたがりの私には、眺めるにはまだ少し早い場所だったのかもしれない。

「今まではそういうのが少し欠けてたから、お互い窮屈に感じていたのかも……しれないな」

自由になんでもできたからこそ、後先考えずに一心不乱に向かっていけた。

自分を演じることすら、すっかり頭から抜け落ちていた。誰かの望みを演じるなんて、まだまだ足りなくて。

足りなかったとしても、それで皆を夢中にさせたのは紛れもない真実。

私は、この仕事を通して、初めてアイドルになれたのかもしれない――そう思えた。

空はそれを祝福するかのように、闇が徐々に晴れていく。

――――――――――――――――――――

「そういえば伊吹ちゃんは、どうして今回の撮影に来ることになったの?」

「んーどうだったかな……元々は、奏が撮影の時は別人みたいになるんだ、って話をしたことがあって」

「ふふっ……そうなんだ」

目の前にいる人に向かって、別人みたいになる――なんて言われるのが、妙にくすぐったい。

そんなに私、別人みたいになってたのかしら。

改めて、自分のことさえもよく分かっていなかったと、痛感させられる。

「それで、今回の撮影がタイミングよく来たってとこかな。ほら、特にドレスに興味持ってただろ」

「あれを見た時から、ずっと心の奥底では行きたいって思ってたのかもな」

一週間ぶりに顔を合わせて、あの違和感を抱いた時から……か。

「そう……」

私なんて、最初に見た時からずっと行きたいと思っていた。それなのに、足がすくんでしまっていて。

また、私にはない魅力が明らかになっていく。

どこまでいっても、彼女は近くて遠い憧れの人だった。

太陽が昇るまで、もうあとわずか。

空と月の間に明確な境界線が出来ていたのも、今はぼやけて曖昧になっていて。

改めて双眼鏡でのぞいてみても、明るさの違いは分からなくなってしまっていた。

「Pさん。さっきの半影月食っていうのは、またこれからも観られるのかしら?」

あの輝きを名残惜しく思って、また見たくて、そんなことを聞いてみる。

「うーん……普通の月食は年一回ぐらいの頻度だけど、半影月食は毎年ってわけじゃなくてな」

「そうなんだ……」

あら、残念……

あんなに綺麗だったもの、そうそうあるわけないのも当然……ってところかしら。

「でも今年は3月23日と8月18日と今日の、計3回観測できたんだよ。加えて普通の月食はないんだ」

「ふぅん……そうだったんだ」

「珍しいものが年に3回もあって、よくあるものが1回もないっていうのは本当に珍しいんじゃないか?」

「……じゃあ、今年みたいなことは、もうないかもしれないってこと?」

「年3回なんてのは……もうないのかもしれないな」

「ふふっ……そう……」

なんて偶然なんだと、思わず笑ってしまう。

まるで私のために、月があの表情を見せてくれたような気になって。

そして、もうないかもしれないからこそ、今がその一歩を踏み出すチャンスなんだ――そう思えた。

たとえ、その先にどんな物語が待っていようとも、どんな結末を迎えても……

「それが、どうかしたのか?」

Pさんが、嬉しそうな私を見て首をかしげた。

「ちょっと、勇気が出てきた気がしてね」

「勇気、か」

「Pさん。伊吹ちゃんが今度やるPV撮影の本番って、もうすぐよね」

「ん? ああ、そうだけど」

疑問に思っているところをさらに疑問が増えたようで、どこか落ち着かない様子だった。

「私も、見学に行っていいかしら」

「……もちろんだ」

「なぁにその間は。……もしかして、意外だった?」

「……そういうことを、自分から切り出すとは思わなかったから」

やっぱり、お見通しのようだった。以前の私なら、間違いなく話題にも出せないままだったと思う。

遠くで見ているだけで全てを知った気になって、何も知らないままでいた。

でも……それはもうおしまい。

「遠くから眺めてるだけじゃいつか飽きてしまう、そうなんでしょ? それは多分、私達にも当てはまるのよ」

自分に飽きてしまえば、これほど悲しいことはないもの。

「そうかもしれんな。あ……でも」

「どうかしたの?」

「打ち合わせした頃に比べて伊吹のやりたいことがやけに増えてな、今構成を練り直してるところなんだよ」

「だから、少し延びるかもしれん」

「あら、そうだったの……」

以前なら、遠くから見ているだけで満足していた。でも、今は違う。

「……誰かさんのおかげで、以前にも増して火が大きくなったってとこかな」

遠くからでも確かに感じていた熱を、今度は間近で受け止めてみたいと思っている。

その結果どうなるかは……今のところは何も分からない。

もしかしたら、立場が完全に入れ替わってしまうかも。

「そう……ずいぶんと意地悪な人なのね、その誰かさん」

「会話してても何を言い出すか分からんし、すぐに話の腰を折ってきて、揚げ足取りが上手いのなんの」

そう言いながら、Pさんは意地悪なその人をまっすぐに見つめる。

「Pさんや伊吹ちゃんとお話するのが楽しくてしょうがないのね、その人。きっと、これからもずっとそうよ」

「……そうだな」

今度は、半ば諦めたように微笑みながら視線を海に移した。

「まぁ、細かな撮影スケジュールが決まったら後でこっそり教えるよ。でも奏のほうがな……」

「私が?」

「これは俺の勘なんだが、おそらくベテトレさんの個人レッスンがブッキングするはずなんだよな」

――まったくこの人はもう……どうしてこうも毎回毎回、変な企みをよこしてくるのかしら。

勘なんて言いながら、明らかにそれが的中する自信。もはや隠すつもりもないってところね。

諦めたような表情からそんな反撃の仕方をしてくるとは、さすがに想像できなかった。だけど――

「というわけで、どうしても付いて来たきゃ、振り替えのレッスンをマストレさんに頼んで――」

「ねぇ。それって伊吹ちゃんのときも、同じようなこと言ってそそのかしたわけ?」

まぁ、私も似たようなものかしら。

「ひ、人聞きの悪い言い方を……いや伊吹のときは本当に被ってたからなあ」

そう……この人に似て、本当に意地悪な人。

「ふぅん、じゃあ私には嘘ついて誘い出すんだ」

でも、言質くらいは取っておきたいものよね。

「……女は嘘つき、なんだろ? そんなこと言うのが相手だったら、俺も嘘つくぐらいがちょうどいいって」

「……なるほどねぇ、言ってくれるじゃない。いいわ、乗ってあげる」

――そんな見え透いた嘘が今の私にはぴったりで、とても心地良かった。

「そっか。……今更俺が言うことでもないけど、伊吹のダンスパフォーマンスは特に凄いからなー」

「覚悟しとけよ? いくら奏といえど、動くと空気が一変して、雷に打たれたように動けなくなるかも」

ふふっ……どうして貴方が得意げな顔をしているのかしら。

まるで自分のことのように、嬉しそうに見せつけるように突き付けられた気分だった。それでも――

「大丈夫、そんな心配は無用よ……」

心配要らないのは、動けなくなるということに対してじゃない。むしろ逆。

またあの痺れる感覚に魅了されて、立ち尽くして、酔いしれてみたかった。そして今度はもう一歩……

覚悟だったら、魔法に掛かったあの時からずっとできているもの。

必要だったのは、ほんの少しの勇気だけ。

それをくれたのは、あなたたち二人。

「……それに、自信がなくなりそうになったら、またこうしてあなたに慰めてもらうもの」

またいつか帰ってくるかもしれない港に、どこまでも届く目印をつけた。

――――――――――――――――――――

普段は言えないようなことを言えるのもこれが最後だと、静かに告げられた。

言いたいことが、伝えたいことがあるはずなのに。それが出てこない、思いつかない。

あともう少し時間があれば――何度もした願いは、ついに一度も聞き入れてはくれなかった。

……思いつかないなら、覚えていることから引っ張り出してこよう。

最後を飾るに相応しいであろう、最初に貰った本のことを。

初めのうちは堅苦しそうだったけど、気が付いたら面白くなって……所構わずずっと読んでいた本。

「……ねぇ、Pさん」

太陽が昇る前に伝えられる、最後の言葉を貴方へ。

「世界のどこかで咲き誇っている花も、いつかはその花弁を散らせる時が来るの」

さっきまで私達を支配していた紺色も今はすっかり溶けてしまい、橙色と青色が混ざりつつある。

「それはこの今日という日も同じ。いずれ虚しく崩れ去っていくのよ」

それもやがては青一色に染まり、その青もまた。それは、いまにも沈みゆくあの月も同じこと。

「だからこそ……今を精一杯、生きるの」

二冊の本が、眼鏡が、大切な二人が、私に掛けてくれた魔法。

「……陽が昇るわ」

今日のこの太陽を、この朝を。

「今日を摘みにいきましょうか。Pさん」

この世で一番待ちわびていたのは他の何者でもなく、きっと私。

空と山の隙間から、光が溢れて――

まばゆく、あたたかく、まっすぐに、私の心と体を照らしだす。

髪が、服が、肌が、海が、光を吸い込み反射する。全身が、周りの景色が音もなく金色に燃え上がってゆく。

撮影の時のように、いやそれ以上に、今の私は輝いていた。

それを少し悔しく思いながら昇る陽を眺めていると、波音の中にたった一度のシャッター音が響く。

それは……貴方の記憶の中に、一番綺麗な私をそっと置いた瞬間。

記憶の中にしかないはずのものが、またこうして形となって残った。

「……綺麗だよ。あの太陽に負けないぐらいにな」

控え室で聞きそびれた言葉が、波風に乗って私の心を優しく撫でる。

……優しく撫でてもらって、欲しがっていた言葉も貰えた。それなのに――




『負けない』その言葉に対抗心が芽生えてしまうのは、また私が欲張りな女だからかしら?



”勝った”って言ってほしかったと思ってしまうのは、また私が愚かな女だからかしら?


ねぇ、聞かせて……?

……また、答えてくれないの……?

……そう。あなたがそのつもりなら、今はそれでもいいわ。

でも、いつか必ず答え、聞かせてもらうんだから……

「やっと……撮ってもらえた。嬉しい」

それでも、発した言葉に嘘はない。そしてさっきの言葉も、私の記憶の中に残り続けるんだろう。

「どういたしまして。……自分で言うのもなんだが、最高の一枚だと思うんだ」

「……ずっと、見ていてくれたのね。ありがとう、Pさん」

それを嬉しいと思うことがまた悔しくて……そっぽを向いてしまう。そうだと分からないように、さりげなく。

気付くと空に浮かんでいた月は、私が成り代わり役目を終えたかのごとく、その姿を消していた。

「Pさん、お仕事お疲れ様。そして……Pさん、おはよう。今日もまた、頑張りましょう?」

私の今日は、今日の私は、日の出とともに始まっていく。こんなに晴れやかで気持ちのいい朝は、いつぶりだろう。

奏、おはよー! ――今日の始まりを告げる彼女の声が、光の中から聞こえた気がした。

伊吹ちゃん、おはよう――今はまだ夢の中にいるであろう憧れの貴女へ、そっと呼びかけた。

振り返り虚空を見つめ、あんなに綺麗に輝いていたはずの、今はもう手が届かない月の跡をなぞってみる。

輪っかを作ってみても、埋め尽くしていた光は空っぽで――雲も、一片の陰りさえもない澄み切った青色の空。

やっと追いついて、横に並び立てたと思っていたのに……また、先へ行ってしまうなんて。

天気、言葉、仕草、写真……あのくもりのち雨の日から様々な願いが叶ったのに、どこか切ないこの気持ち。

揺らぐことも、沈むこともない、永遠の輝きを背に受けながら、想う。




まるで自分が消えてしまったかのように――儚くて、少し物悲しい、二度と逢えないかもしれない朝だった。


おわり

タイトルの二年越しという言葉について、何のことか分からない方がいるかもしれないので少し補足をば。

追憶のヴァニタス特訓前イラストの背景構図とは異なりますが、
元々太陽が昇った直後に反対側で満月が沈むという場面を使いたくて書いており、
ふと、現実でそんな状況になる日はいつだろうかと調べたところ、2016年9月17日がそれに該当していました。
これはこのSSの題材である、追憶のヴァニタスが実装された2014年9月17日のちょうど2年後であり、
奏と伊吹の年齢差である2年と日付の一致に、勝手に奇跡を感じたというところからタイトルに用いています。
また、Pがサプライズとして用意した半影月食の観測も、実際にこの日の夜明け前に今年3回目として起こります。
もう何十時間後かに起こることですけども……

雑な箇所もあったかとは思いますが、読んでくださった方、ありがとうございました。

お疲れ様でした
次回も

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom