開かない扉の前で (790)


◆[Alice] A/a


 とりあえず見てみなさい、と言って祖母が差し出してきた通帳の名義は、どうみてもわたしのものになっていた。

 なんだこれ、と思いながら開いてみると、だーっと並んだ残高欄の果ての果てには、
 いまいち実感の湧きにくい額がそっけなくぽつんと記載されている。

 非現実的な額ってほどではないけど、それでも何気なく見せられた自分名義の通帳に入っていたら、
 大きな戸惑いを覚えても不自然ではない程度の額。

 そういうわけで、わたしはとりあえず呆然とした。

「なにこれ」

「うん。わたしもびっくりした」

 祖母はそう言って、食卓の上の湯のみに口をつけて緑茶をずずっと啜ったあと、ほうっと溜め息をついた。


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 彼女の顔つきも、ここ二、三週間でかなり変わった。というかやつれた。
 溺愛していた息子が二十代前半にして死んでしまったんだから、無理もないだろう。

 叔父が亡くなったのはつい先月のこと。

 夜中に歩いてコンビニに煙草を買いに行ったら、
 信号待ちのあいだに突っ込んできた(と思われる)車か何かに撥ねられたらしい。

 らしいというのは、まだ事故の相手が特定できていないから。

 どうも、ひき逃げという奴らしい。

 ひょろながくて痩せっぽちだった叔父のことだから、車に軽く当たられただけで道路を何バウンドかしてあっさり死んでしまったんだろう。

「ああ、痛いな、うん。これはやばいな」なんて苦笑くらいしたかもしれない。

 今頃は賽の河原で子供たちに混じって石積みでもしていることだろう。そういう姿を想像するとちょっとだけたのしい。


 こんな想像をするからと言って、べつに叔父のことが嫌いだったり、叔父が死んだことを悲しく思っていなかったりするわけじゃない。

 素直に悲しんで見せるよりも、皮肉っぽい想像のなかに彼の死を閉じ込めてしまう方が、
 韜晦に満ちた叔父の生涯の締めくくりに捧げるものとしては、なかなかにふさわしい弔いのように、わたしには思えるのだ。

 実際、たいした隠蔽力だ。誰にも気付かれずにこんなものまで遺すんだから。

「これって、まさかとは思うけど」

 通帳の数字と日付、数年前からの定期的な入金の記録。
 祖母は「びっくりした」と言っているから、たぶん知らなかったのだろう。

「そう。あの子、あんた名義の通帳に、だいぶ入れてたみたい」

「なんでまた」

「なんででしょうねえ」

 呆れたみたいに、祖母は溜め息をついた。


 叔父が死んで以来、溜め息の数と暗い顔をしている時間が増えた祖母だったけど、今はどことなくうれしそうに見える。
 悲しいのを通り越したら呆れが、呆れを通り越したら笑いが湧き出てきたんだろう。

 祖母のそういう表情を見るのはひさしぶりだから、わたしはなんだかうれしくて、
 死んだあとでさえ人にそんな顔をさせられる叔父のことを考えて誇らしくなった。

 それと同時に、彼女の心を少しでも安らがせるためにも、はやくひき逃げ犯が見つかってほしいとも思った。

 きっと叔父自身は、気にしていないだろうけど。
 まあ、死んじゃったんだから、気にすることもできないんだろうけど。

「本当は、あんたが高校を卒業してから見せようかとも考えたんだけど」

 と、祖母は言う。

「……なんだか、秘密にしておくのも、ばからしくてね。わたしもおじいちゃんも、いつまで生きてるかわからないし」

 そうして彼女は困ったように笑った。


 わたしは通帳の数字から目を離して、自分の湯のみに口をつけて、ずずっと緑茶をすする。

「どうして、わたし名義でこんなお金が?」

「口座は、わたしが昔、あんたのお母さんに作らせてたんだけど……どういうつもりなんでしょうね」

「大いなる謎ですね。親なき子だからですかね」

「どうでしょうねえ」

 肩をすくめた祖母の声をききながら、わたしは叔父がよく腰掛けていた定位置の方を見て、その空白をたしかめた。

 叔父は、金銭的に余裕がある生活を送っているようには見えなかった。
 口癖は「金がない」と「金がほしい」だった。

 結婚もしていなければ彼女もいなかったし、特に金のかかる趣味があったわけでもなく、
 酒も呑まず飲み会にもほとんど行っていなかった。


 そんな生活でどうやったら金がない状態になるのか、と、
 わたしはちょっと呆れていたんだけど、蓋を開けてみたらこういうことだ。

 どういうことだ。

「預かっておこうかとも思ったけど」

 と言って祖母はちらりと通帳を見たかと思うと、鼻で笑うように息をつき、

「好きにつかいなさい」

 とまた困り顔をした。

 はあ、とわたしはあっけにとられた。




 そういうわけで、自由にできる七桁の財を大いなる驚きとともに得て、
 そのお金で最初にわたしが最初にしたことはといえば、高校の屋上でサボり仲間に缶コーヒーをおごることだった。

 九月になって最初の金曜日。

 八月上旬頃は各地で猛暑日が連続したとかなんとかと、天気予報士が額に汗をにじませながら言っていたけど、
 下旬頃から一気に気温がさがりはじめて、残暑なんて言葉は最初からなかったみたいに肌寒くなった。

 季節は手品みたいにあっというまに景色と感覚を塗り替えて、
 おかげでわたしも、半袖で平気で出歩いていた先月までの自分の気持ちがわからなくなってしまっていた。

 急に冷えるようになって、鼻風邪をひいたらしいケイくんは、
 わたしが手渡したあたたかい缶コーヒーを受け取ると、ありがとうも言わずにプルタブを捻って飲み始めた。

「感謝の気持ちがたりないよ」

 とわたしが抗議すると、

「気持ちはあるよ」

 と彼はどうでもよさそうに答えた。


「声に出さないとわかりません」

「感情表現が苦手なんだよね」

「居直らないでよ」

 は、とバカにするみたいに鼻で笑って、ケイくんはまたコーヒーに口をつけた。

 吐き出した息が白くなるほどの寒さではないけど、先月までの暑さを思うと、世の終わりかとでも言いたくなる。

「居直りっていうかね、これでも表に出してるつもりなんだ」

 わたしは呆れて溜め息をつく。

「あのね、ケイくん。わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、
 そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。それはね、言葉っていうの」

「はあ」

「それを使うと不思議なことにね、ケイくんみたいな超がつくくらい不器用な人でも、
 たった一秒、文字にしたら五字ほどで相手に感謝を伝えられるんだよ」

「うん」

「ご先祖さまは偉大だよね。はい、ケイくん?」

「ありがとう」

「よくできました」


 ケイくんはまたバカにするみたいに笑った。

 べつにわたしだって、どうしても彼にお礼を言ってほしいわけではなかった。
 ただどうでもいい思いつきをぺらぺらと並べてみただけだ。

 本当のところなんでもよかった。

 彼が返事をよこすかどうかさえどうでもよかった。ただなんとなく口が止まらなかっただけだ。

 わたしのそういう傾向については、たぶん彼も見透かしていると思う。

 放っておかれると、中身のない言葉を延々と、だらだらと、並べ始める。

 それはひょっとしたら、内面のからっぽを見透かされまいとする自己防衛なのかもしれない。


 うちの学校の屋上は開放されていない。
 生徒はもちろん教師でさえ必要に駆られたときにしか出入りできない。

 というのも、開放してしまうと当然危ないし、くわえて人目につかないのをいいことに、
 悪さをしたりいかがわしいことをしたりする生徒が出てくるから。

 なのだが、ケイくんはどうしてか東校舎の屋上の合鍵をもっている。

 そのおこぼれにあずかって、わたしもここでたまに授業をサボってお昼寝をしているのだ。

 というより、ケイくんがここでサボっていたところをわたしが偶然発見して、
 口止め料代わりに屋上への侵入手段を共有させてもらっている、というのが正しいのだけれど。

 とはいえ、今は放課後で、べつに授業をサボっているわけじゃない。

 缶コーヒーを一気に飲み干してしまうと、
 彼は制服のズボンのポケットから煙草の箱とライターを取り出して、いつものように火をつけた。

「不良」とわたしが言うと、

「そのとおり」と楽しげに頷く。


 咎めはするものの、彼に喫煙癖があろうと飲酒癖があろうと本心ではどうでもいいし、
 彼の肺が何色をしていようとわたしの肺とは関係ない。

 むしろ彼が煙草に火をつけて、その煙をたっぷりと吸い込んで、
 やがて吐き出すときのその表情を見ると、安心にさえ似た気持ちを覚える。

 どうしてなのだろう?
 ……分からない。

「それにしても、その金、さっそく手をつけたわけか」

 サボり仲間同士の気安さからか、あるいは屋上という空間が妙にそういう気持ちにさせるのか、
 わたしはケイくんに、わたしについてのいろいろなことを話していたし、ケイくんもけっこう、自分の話をしてくれていた。

 少なくとも、クラスの友達よりも彼の方が、わたしの家庭事情について詳しいことを知っているだろう。

 もちろん、それがすなわち絆の強さや信頼の重さをあらわすわけではない。

 なにもかも包み隠さずに話し合うから良い友だちだなんて、幼稚園児の発想だ。
 友だちだからこそ言いたくないことだってたくさんある。


 ケイくんは煙草の灰を空き缶の縁で落とすと、足元にその灰皿を置いた。

「ゴミ収集の人が困るよ」

「俺は困らない」とケイくんは言う。

 それはそうだ、とわたしは思った。

「でもバカな使い道だな、缶コーヒーってさ。普通こういうのって、進学とか、何かあったときのためとか言って、とっとくもんだろ」

「うん。そう思ったんだけどね……」

 言葉を続けようとしたけど、どう説明していいかわからなくなって、やめた。

 そういう使い方をするところを叔父がもし見ていたら、きっと呆れて笑うだろうから?
 そんな想像に心地よく浸りたかったから?

 あるいはわたしは、叔父が大切に使ってほしいと思って遺しただろうお金をこんなふうに消耗することで、
 こんなお金なんかよりも、もっと生きていてほしかったのだと、けっして伝わらない主張をしているつもりなのかもしれない。

 よくわからない。


「……だけど?」

 言葉に詰まったわたしを見て、ケイくんは続きを促したけど、わたしは何も言わずに、かわりに景色を眺めた。

 放課後の屋上から見える街並。
 今日は朝からよく晴れていて、夕陽はずいぶんと綺麗に街を照らしていた。

 こんなに良い天気なのに、肌を撫でる空気は秋のつめたさ。

 それはある意味で幻想的と言えなくもない光景だった。
 なんだか、現実味がない、嘘くさい、加工した風景写真みたいな、つくりものめいた美しさ。

 そう感じてしまうのはきっと自分のせいなのだろう。

「……なんだか、億劫だな」

 わたしのそんな言葉に、ケイくんは新しく煙草をくわえながら反応した。

「なにが?」

「……生きてるのが?」

 は、とケイくんはまた笑った。


「ね、一本ちょうだい」

「いやだよ」

「なんで?」

「そんなこと言い出したことなかっただろ。どういう心境の変化?」

「べつに深い意味はないけど……」

「一本二十三円」

「ケチくさい」

「割り切れるものは割り切っておくことが大事なんだよ」

「ふうん」

 煙草をわけてもらえなかったわたしは、フェンスの網目をぎゅっと手のひらで掴んでみる。

 金網に指の肉が食い込んで痛い。


 学校の敷地内を、ぼんやりと見下ろす。

 下校しようとしている生徒たちの姿が見える。階下から吹奏楽部の音階練習、剣道部が外周を走っている。
 武道場から畳を打つような音、体育館からバスケットボールの跳ねる音。

 みんな頭をからっぽにして打ち込んでいるんだろう。それがどうしてわたしにはこんなに平坦なんだろう。

「セロトニンの不足だよ」とケイくんが言った。

「なにが?」

「そういうことを考えるのは、脳内物質の問題らしいよ」

「……」

「頭のなかが不調だと、気分が落ち込んで、感情がわかなくなって、幸福が感じ取りにくくなって、だからつまんないことを考えるんだってさ」

「へえ」

「解消する方法を知ってるよ」

「どんなの?」

「日光を浴びること、適度な運動、栄養バランスのとれた食事」

 ケイくんは皮肉っぽく笑った。


 わたしはその言葉を聞き流しながら、いくつかのことを思い出した。

 母さんのこと、叔父のこと、妹のこと。そのどれもがなんだか遠い。

 どうして叔父は――お兄ちゃんは、死んでしまったんだろう?

 煙草を買いにいって、信号待ちで、事故で。
 お兄ちゃんは、どうして、お金を遺したんだろう?
 そのお金を、わたしにどうしてほしかったんだろう?

 分からないことばかりで、嫌になる。

「なんだか、遠いな」

 そう言って、わたしは空を眺める。

 影が後ろに伸びていく、反対側の空が藍色に濃さを増していく、何もかもが融け合ってまざりあって、よく見えなくなっていく。
 
 昔のことを思い出しそうになる。

 わたしはそれを、可能なかぎり素早く頭の内側から追い出してしまう。
 そうやって今日まで生き延びてきたのだ。

 そうして最後に残るのは、お兄ちゃんが死んでしまった、という感慨ですらない感想だけ。

 お兄ちゃんは死んでしまって、わたしはこれから彼のいない世界で生きていかなければならない。



「……どうしてなんだろう?」

 思わず、そう声をあげたとき、ケイくんが不可解そうにこちらを見た気がした。
 わたしは彼の方を見ていなかったから、彼の視線がどこに向かっていたかは、本当のところ分からなかったけど。

「なにが?」

 少ししてから、ケイくんはそう訊ねてきた。

 なにが? なにがだろう。なにが、"どうして"なんだろう。
 自分でも、やっぱりよく分からない。

 だから、言葉にできる部分だけを、問いにして答えてみた。

「どうしてお兄ちゃんは、わたしにお金を遺したりしたんだろう?」

 彼はまだ二十代で、やろうとしていたことも、行きたい場所も、きっとあったはずなのだ。
 わたしに遺しただけのお金があれば、きっと、いろいろなことができたはずなのだ。

 それなのにどうして彼は、わたしにそれを渡してしまったんだろう。
 どうして自分のために、そのお金を使わなかったんだろう。

 それがひどく、申し訳ないことに思える。

「俺が知るわけない」とケイくんは言ったけど、もちろんわたしだって答えを期待していたわけじゃなかった。


「本人に聞けよ」

「だって、もう死んじゃったし」

「そりゃそうだ」、とケイくんは楽しげに笑った。
 わたしは彼の、こういう取り繕わないところが好きだった。
 
「わたしは悲しい」。でも、「彼は悲しくない」。それは本当のことだ

 だったら、わたしの感情を鏡写しに真似されるよりは、まったく気にならないと笑ってくれた方がだいぶやりやすい。
 こっちだって神妙そうな顔をせずに済むし、文句だって言いやすい。

 取り繕った言葉だって言わないで済む。 
 気遣われたら、平気な顔をしないといけない。大丈夫だって強がらなきゃいけない。

 でも、彼にそんな態度をとられると、わたしは反対に、ちょっとくらい気を遣ってくれてもいいじゃないか、とか、
 そんなめんどくさいことを考えそうになって、そのちょっとした不満が鼻の奥をつんと刺激して、
 不覚にも、泣きそうになる。

 そういうとき、彼は決まってこっちを見なかった。
 おかげでわたしは涙をこらえる理由が見つけられなくなって、我慢できなくなる。

 ケイくんは、何も言わない。からかいも、笑いもしない。
 だから近頃のわたしは、彼といるといつも、最後には泣き出してしまう。



 それでも五分もしてしまえば、泣き続けるのにも疲れてくる。
 尽きない悲しみがあったとしても、それをずっと貫けるほど肉体は付き合いがよくない。

 彼は気を遣わないわけじゃない。
 必要以上に気を遣わないことが、気遣いすぎだと言えるくらいの、彼なりの気遣いなのだろう。

 疲れるくらいに泣いてしまったあとは、赤い目を拭って、息をととのえて、滲む視界をもとに戻さなきゃいけない。

 わたしがそうなるまで、ケイくんは黙って煙草を吸っている。 

 やがて落ち着いた頃に、タイミングを見計らったみたいに、なにかを話しかけてくる。

 そのときだってきっと、深い意味なんてなかったんだと思う。

「……そういや、死んだ人に会える場所があるって噂、聞いたことがあるな」

 頭の奥に宿った痛みに額をおさえたまま、わたしはケイくんの方を見る。
 彼は、しくじった、という顔をした。

 たぶん、思わず口をついて出てしまった話題が、悪趣味なものに思えたのだろう。
 彼にはそういう、変な潔癖さがある。
 


「それ、どんな話?」

 わたしは、ただのくだらない噂か何かなんだろうと、そう分かっていたのに、
 どうしてか変に気になって、思わず聞き返してしまった。

 ケイくんは少しためらうような間を置いてから(彼が“ためらい”なんてものを見せるのはかなり珍しい)、
 不承不承という顔つきで、視線をこっちに向けないままで答えてくれた。

「ただの噂、都市伝説だよ」

「ここらへん、都市じゃないけど」

「フォークロアって言えば満足か?」

「どんな?」

 もちろん、信じたわけでも期待したわけでもない。
 ……いや、ひょっとしたら、期待したのかもしれない。なにかに、縋り付きたかったのかもしれない。

 ケイくんは困り顔のまま、足元の缶を拾い上げて煙草の灰を落としてから、話しはじめた。


「……隣の市に、遊園地の廃墟があるの、知ってる?」

「あの、心霊スポットとかっていう?」

「そう。ずっと放置されてとっくに荒れ果てるけど、観覧車とかメリーゴーラウンドなんかは残ってる。
 草だらけで近付きにくいけど、簡単に入れるし、忍びこんでる奴はけっこういるらしい。肝試しにはいいところだろうしな」

「そこが?」

「残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。 
 なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ」

「……景色?」

「俺も詳しい話は知らないけど、その人が見たいと望む光景、過去の思い出や、ありえたかもしれない可能性、もしくは――」

 ――死んでしまった人間と、再会できるって話もある。

 ケイくんはそう言って、「つまらない噂だよ」と言わんばかりに肩をすくめた。

 わたしはなんとなく溜め息をついてから、空を見上げる。
 その瞬間、鼻先にぽつりと何かがあたる。

 雲のない空から、雨粒が降り始めた。



 ケイくんが舌打ちをする。わたしの頭のなかを、いくつかの景色が過ぎる。 
 無性に走り出したいような気持ちになる。何かを叫びたいような。でも、何を叫びたいのかなんて自分じゃ分からない。

「……雨だな。戻るか」

 話を打ち切ろうとするみたいに、ケイくんは空を睨んだ。
 
 わたしが別のことを考えている間に、雨は一気に強くなってきた。

 ケイくんがフェンスから離れて校舎へ戻ろうとする。
 わたしは晴れた空の下の雨に打たれながら、まだ街並を見下ろしている。

「おい、どうした?」

 怪訝げな声。わたしは振り向かずに、言った。

「……ね、ケイくん。もしよかったら、そこに案内してくれない?」

「そこ?」

「その、遊園地」

「……タチの悪い噂だぜ。何にもないに決まってる。心霊スポットなんていっても、事故が起こった記録だってないんだ。
 放置されて景観が不気味になったからあれこれ言われてるだけで、何のいわくもない」

「うん。それでもいいんだよ」

 わたしはそこで、彼の表情が気になって、振り向いた。
 不思議と、心配そうな顔をしていた。
“心配そうな”彼の表情なんて、わたしはそのとき初めて見た。今日はずいぶん、珍しいものを見ている気がする。



「ちょっとした、暇つぶしっていうか、儀式っていうか、ただの肝試しでもいいんだけど、何かしたい気分なんだ」

「……探検?」

「そう、それ」

 本当は違うのかもしれない。本心からそんな軽々しい気持ちだったかと訊ねられれば、違うような気がする。
 藁にもすがるような思い、というのとも違う。

 そこまで切実ではないにせよ、面白半分というほど軽薄でもない。
 かといって、廃墟に対する好奇心だとか、そういうものがまったく含まれていないとも言いがたい。

 感情の割合なんて、自分でも分からない。

 しいていうならきっと、何かをすることで、気を紛らわせたかったのだろう。


 とにかく、その場所に行ってみたいと思った。

 なにもないなら、なにもないことを確認したい。
 なにかあるなら、それがなんなのか知りたい。

「だめかな」

 わたしは、そう訊ねた。ケイくんは少しの間沈黙してから、仕方なさそうに苦笑した。

「……ダメだって言ったら、ひとりでも行きそうだもんな」

「うん」

「じゃあ仕方ない。言っておくけど、見に行くだけだぞ」

「……ケイくん、そんなに付き合いよかったっけ? 心配してくれてるの?」
 
 純粋な問いかけを、ケイくんはバカにするみたいに笑った。

「何もないとは思うけど、仮に何かあったら、俺の寝覚めが悪いだろ」

 それだけだ、とそっけなく呟いてから、ケイくんはこちらに近付いてきて、
 わたしの背中をぽんと押して、「早く中に戻るぞ」と、いつもよりちょっとだけやさしい声で言った。

 その瞬間も、廃墟のミラーハウスのなか、ひとりで立っているかもしれない女の子のことが、
 どうしてだろう、わたしの頭からは、離れてくれなかった。


つづく




 台風だ、と何日か前からテレビで言っていた。
 けれど後になってみれば、問題は台風そのものではなかった。

 詳しいことはわたしには分からなかったけど、気象予報士が言っていたいくつかのキーワードを抜き出すことはできる。

 台風は東海地方に上陸したのち、日本海上で温帯低気圧になった。
 そこにいくつかの要素が絡まった。太平洋側からの暖かく湿った風、もうひとつの台風。

 結果としての線状降水帯。夜中降り続く打ち付けるような雨粒。

 関東から東北に及ぶ長い帯状の雨は数日間降り続いて、
 いくつかの堤防が決壊し、いくつかの川が氾濫し、いくつかの街で特別警報が発令された。

 一言で言えば、未曾有の大雨だった。
 
 死者数名、負傷者多数、建物被害は甚大、農作物被害は深刻、避難指示、避難勧告を受けた人はかなりの数に及ぶ。
 ニュースでは土砂崩れや建物の倒壊や沈没、道路を飲み込んだ圧倒的雨量の映像ばかりが流れ続け、
 避難している人たちの不安そうな表情が痛々しいくらいに繰り返された。

(あとになって考えてみれば、わたしの家の近所の橋が崩れて通行不可になったことは、
 全国ニュースでは一度流れたかどうかというところだった)
 


 そうしてそれから十日もしないうちに、今度は海外で地震が起きた。

 コンビニの募金箱は、それまでは関東から東北に及ぶ広範囲の豪雨災害への義援金を目的とするものとされていたが、
 地震が起きた翌日には、百万人が避難したチリ沖地震の被害への義援金へと名目を変えていた。

 いずれにしてもわたしの周りでみんながしていた話はといえば、
 チリの地震や津波警報のことでもなければ、他県で起きた土砂崩れのことでもなく、
 インパクトのある沈んだ道路の映像のことでもなければ、死者数や被害を被った建物の数のことでもなかった。

 全国ニュースでは一度しか流れなかった橋を通れない不便さ。

 それが一番の話題だった。

 つまり、そういうものなのだ。

 被害の大きさや関わった人間の数が物事の重大さを決めるわけではない。
 近さが、それを決める。

 わたしにとっては、中国で爆発事故が起きようとバンコクで爆破テロが起きようとそれはさして重大なことではなく、
 信号待ちの間にひき逃げされた男の、どこにでもあるような他愛もない死の方が、よほど大きな問題だった。
 
 世間から見れば大きなはずの問題が、わたしにはとても些細なことで、
 世間から見れば些細なはずの問題が、わたしにはとても重要だった。





 だからわたしは、チリで地震が起きた週の土曜に、ケイくんとふたりで例の遊園地の廃墟を訪れた。
 べつにコンビニで募金箱に小銭を入れたりもしなかったし、特にニュースを気にかけたりもしなかった。

「そういえばチリで地震だってね」

「最近おかしいよな。温暖化のせいだな」

 というのがわたしとケイくんが交わしたその地震に関する唯一の会話だった。
 それ以降はどちらも、遠い国のだめになった建物のことや死んでしまったひとびとのことについては何も触れなかった。

 例の大雨から一転、その日は気持ちのいい秋晴れだった。

 公共交通機関を乗り継いで隣の市までやってきたわたしたちは、
 そこから更に電車やらバスやらを駆使して移動した。

 なにせお金なら余るほどある。


 ケイくんとふたりきりで出かけるのは、この日が初めてだった。
 
 というよりは、屋上以外の空間で彼と会うのも、初めてだという気がする。
 
 たまに廊下ですれ違うことがあったけど、わたしも彼も互いに話しかけなかった。
 それは暗黙の了解のようなものだ。

 自分には、誰にも知られていない"誰か"がいる、という事実が、わたしの心をいつも少しだけ強くしてくれる。

 そのケイくんは、寂れた木造のバス停留所に降り立った途端、
 似合うはずがないのに似合っている爽やかな青いシャツに身を包んだまま、いつものように溜め息をついた。

 初めて男の子と出かけるんだからと、ちょっとだけその気になって、
 あざといくらいにフェミニンなワンピースを着てみたりもしたんだけど(おろしたてである)、
 案の定ケイくんは無反応だった。まあ、過剰反応されたらこっちがびっくりしていたところだけど。

 毛先だってちょっと巻いてきたのに。
 位置上目で留めるの、ちょっとむずかしかったのに。



 言うことといったら、

「草がすごいって言ったのにワンピースにヒールのサンダルって、バカなのか?」

 とかだ。

「パンプスだもん」

 とわざわざ言わなきゃいけないのが悲しい。
 ヒールは低めのにしたし、なんて言ったら視線の温度が五度は下がりそうだ。

 ケイくんは馬鹿にするみたいに笑ったかと思うと、

「探検の基本はジーンズにスニーカーだろ。なにせスニーカーは、足音があまりしない」

 と、オモチャの剣を自慢する小学生の子供みたいな調子で言った。

 いわく、スニーカーの語源は「Sneak」なのだとか。それがどうした。

 とはいえ、たしかにけっこう歩くかもしれないのにパンプスで来てしまったあたり、
 やっぱりバカだというのには反論はできない。

「ちなみにジーンズはどうして?」

「目立たないから」

 納得できるような、できないような。


 とにかく、そんなどこかそぐわない調子で、わたしたちは歩き始めた。

 
 つい先日のことだというのに、豪雨なんてなかったみたいに街並は平和だった。 
 ブロック塀に挟まれた狭い道は、きっと十年前もこんな景色だったのだろう。

 
 塀の向こう側に見える民家の敷地のトタンの壁には、キリスト教の聖句風の怪しげなポスターが張られている。
 田舎ではよくある光景だ。

 しばらくわたしとケイくんは、のどかと言ってもいいような静かな景色に紛れて歩いていた。
 車もほとんど通らなければ、人の姿だってろくに見なかった。
 
 目を閉じると濡れた土の匂いがした。

 なにもかもが嘘みたいに平和な景色。

 それが、ある曲がり角を見つけたとき、変わった。
 あきらかに、そちらに曲がる道だけ、何かが違った。

 冷静に考えればすぐに分かる話だ。
 
 横の民家の庭から伸びた木が枝を伸ばして、上から狭い道を覆っている。
 そのせいで日があまり差し込まず、他の場所よりいくらか翳って見えてしまうのだ。
 
 ただそれだけ。ただそれだけのはずなのに、なんだか踏み入るのがためらわれた。

 わたしたちふたりは何も言わずに一度立ち止まってから、視線を合わせて、黙って頷き合って、そちらへと進む。



 暗い道を歩きながら、わたしはケイくんの方を盗み見た。
 
 彼はこちらに気付かずに道の先を見ている。
 案内を勝手に押し付けたから、道が合っているかどうかを確認しながら歩いているのかもしれない。

「ねえ、ケイくん」

 沈黙がなんとなく気まずくて、わたしは声をかけてみた。

「なんだよ」

「どうしてわたしたち、こんなところまで来ちゃったんだろうね?」
 
 ケイくんは一度立ち止まって、あたりの様子を確認した。
 道の脇から伸びた木々の梢が空を隠している、右手に見えるブロック塀の向こうは古い家々。
 この一本道の先、翳る道を抜けたところに、光を浴びた小さな坂道がある。

 ケイくんが一向に返事をよこさないので、わたしはなんだか不安になった。
 たしかに、怒らせても仕方ない言葉だったかもしれない。

 でも、なんだか……本当にそんな気分だったのだ。付きあわせているのがわたしだと、分かっているけれど。



「ケイくん……?」

 もう一度声を掛けたとき、彼はふたたび歩きはじめた。

 返事もしてくれない彼の背中を、わたしは何も言えずに追いかける。
 そんなに怒らせちゃったのかな、と、また不安になる。

 どうしてだろう。
 他の人相手だと、あんまりこういうことにはならないんだけど。

 ケイくんは、なんとなく、わたしが何をしても、いつもへらへらバカにして、それでも普段通りに振る舞ってくれるような気がして。 
 だから、やり過ぎてしまうのかもしれない。

 坂道を昇るケイくんの歩調ははやい。わたしの方を振り返りすらしなかった。

 ようやく立ち止まったのは坂を登り切ったときで、そのときも彼は前を向いていた。
 わたしは彼の背中しか見ていなかった。だから、気付くのが遅れた。

「ケイく……」
 
 言いかけたとき、わたしはケイくんの肩越しに、古い観覧車を見た。



「……あそこみたいだな」

 まだ少し、距離があった。ここから見るかぎり、高台にあるらしい。
 あたりには民家が少ないらしく、周囲は林のようになっていて、ここからでは、どこが入り口なのかも分からない。

 わたしたちのすぐ目の前は下り坂になっていて、その先には細い川があった。
 堤防になっているみたいだ。

 少し先に、五メートルくらいの、石造りの橋があった。車が一台通れるかというくらいの、狭い橋だ。

 坂を降りてしまうと、付近の民家や周辺の林が邪魔をして、観覧車はまた見えなくなってしまった。

 ケイくんは黙ったまま橋の上へと進む。

「ケイくん、ごめんね」

「……なにが?」

 わたしの言葉にようやく立ち止まって、彼は振り返った。本当にきょとんとした顔だった。

「……怒ってたんじゃないの? さっきから、返事してくれないから」

「……ああ、聞いてなかった」

 平然と言う。わたしはどう反応するべきか、困ってしまった。
 怒るべきなのか、ほっとするべきなのか。

 心情としてはあきらかに後者だったが、表面的にはむっとして見せた方がよかったかもしれない。
 


「そんなことより」、と、ケイくんは橋の上で立ち止まったまま、わたしの方をじっと見つめてきた。

「……なに?」

 思わずわたしはからだをこわばらせる。 
 彼にまっすぐ見つめられるなんてことは、ほとんどない。

 いつもは隣に並んで、互いの顔を見ずにいるから、ときどき彼と目を合わせると、わたしは前を見ていられなくなる。
 もともと、人に見られるのが苦手だった。

「一応、訊いておきたいんだけど、もし、噂が本当だったら、どうする?」

 なんでもないことを訊ねるような自然さで、彼はそう問いかけてきた。

「えっと、ミラーハウスの噂が本当だったら、ってこと?」

「そう」

「どうかな。抽象的すぎてよくわからない噂だし、どうするもなにも……」

「本当に?」

 ケイくんの真剣な表情に、わたしは思わず立ち止まって考えこんだ。



 橋の上で彼と向かい合ったまま、ついこのあいだ聞いた話を頭のなかで反芻する。

 望む景色を、見せてくれる。
 望む景色。

「どうする気もないなら、どうして突然、来ようなんて思ったんだ?」

 どうしてだろう。

「おまえは、どんな景色を望んで、あそこに行こうとしてるんだ?」

 わたしは、しばらく考えてから、首を横に振った。

「……よく、分からない」

 でも、きっと、彼の言う通り、わたしはどこかで、その噂話に期待していたのかもしれない。

 見たい景色がないなら、行きたい場所がないなら、目指すものがないなら、
 歩くことは無意味だ。

 逆説的だけれど、だからわたしは、何かを望んでいるのだろう。
 だって、歩いているんだから。

「……そっか」

 ケイくんは、わたしの答えに満足したふうでもなく、けれど問いを重ねることもなく、再び歩き始めた。

 わたしたちは、橋を渡った。




 関係者以外立ち入り禁止、の文字があった。
 わたしたちはそれを無視して敷地内に忍び込んだ。

 錆の目立つ大きなアーチをくぐった向こうには、閉ざされた大きな門が見えた。
 幸いというべきか、もぐりこむのは難しくなかった。

 少し草むらを経由すれば、すぐに園内に入ることができた。

 その際ぬかるみで靴が汚れて声をあげたら、

「だからそんなので来るもんじゃないんだ」とケイくんは真面目な声で言った。

「どうしてそう、考え無しなんだ?」

 わたしは大真面目に考えてから、

「天気予報で雨が降るって言われても、傘を持ち歩かないタイプなんだよね」

 と答えた。ケイくんは、よくわからない、という顔をする。

「たぶん、どっか浮かび上がってるんだよ」

 そんな話をしていたら、いつのまにか曇り模様になっていた空から、ぽつぽつと細かな雨が降り始めた。

「……最悪だな」、とケイくんは言った。
 わたしは特に何も感じなかったけど、ひとまず頷いておいた。


 敷地内は、思ったほど荒廃した様子ではなかった。

 まずいちばん近くにあった建物は、シャッターが閉ざされていた。
 建物の位置と大きさを見るに、土産物や食べ物を取り扱っていた売店か何かだったのだろう。
 
 近くには「園内への飲食物の持ち込みはご遠慮ください」という立て札。

 すぐに目についたのは飛行機の形をしたアトラクションと、
 そこからフェンスを挟んだ向こうにあった小さな小屋。

 歩き疲れたわたしたちは、ひとまずそこで雨宿りを兼ねて休憩することにした。

 幸い、フェンスには人一人通れるくらいの小さな隙間があった。
 鎖で遮られてはいるけれど、おそらく出入り口だったのだろう。

 廃屋のなかは思ったほど荒れていなかった。

 従業員用の休憩室か何かだったのか、埃を被ったテーブルと、使われていたらしい扇風機がそのままにされている。

 畳の上には正体不明の何かのかけらが散乱していたし、障子は破れて木枠以外はほとんど残っていた。
 黒ずんだ木枠の向こうは裏手にある山の斜面に面していて、すぐ傍から植物の匂いがした。

「蛇でも出そうだな」とケイくんが言う。あんまり脅さないで欲しい。

 ぽつぽつという雨音は、強まりもしなければおさまりもしなかった。


 わたしは鞄のなかに入れてきた水筒で水分補給をした。

「そういうところは、妙に準備がいいな?」

「うん。もっと褒めて」

 ケイくんは鼻で笑った。

 壁には埃の被ったカレンダーが貼られたままになっていた。
 日付は十数年前のものになっていた。

 こうして見てみると、わたしが生まれた頃も、まだ営業していたのか。
 勝手に、もっとずっと過去のものだと思い込んでいたけれど。

「少し休んだら、歩きまわって探さないとな」

「何を?」

「ミラーハウス」

「……うん」

 ひとけのないレジャーランドの中を歩いていると、自分が奇妙な夢に入り込んだみたいな気分になる。 
 こんなに現実感にあふれる建物すらあるのに、それすらもディティールの凝った悪夢みたいだ。

 耳鳴りのしそうな静けさと、雨粒のささやかな音が、その感覚をいっそう強めた。


 しばらくふたりで黙り込んだまま、雨の音だけを聞いていた。

 今日はなぜか沈黙が落ち着かなくて、うろうろと歩きまわっていると、不意に建物の外から物音が聞こえた。

 思わずケイくんの方を見たけれど、彼が何かに気付いたような様子はない。

「ね、いま……」

 わたしが声をかけると、彼は怪訝げに眉を寄せた。

「なにか、聞こえなかった?」

「なにかって?」

「なんか、物音」

「……猫でもいるんじゃない?」

「……そうなのかな」

 妙に気になって、障子を開けて外に顔を出し、あたりの様子を見渡してみた。
 目の前は草木に阻まれて歩けそうになかったし、すぐそばの斜面のせいで視界は悪かったけど、
 横を見れば広がる敷地の一部が覗けた。


 どくん、と心臓が嫌な鳴り方をした。
 人影が見えた。

「……ケイくん、あれ」

 わたしの声に、ケイくんは少し早足で駆け寄ってきた。

「あそこのアトラクションのそば」

「どれ?」

「コーヒーカップみたいなの。あのそばに、ほら……」

「……なに?」 

「いま、人影が……」

「どこ?」

「……えっと」
 
 もういちど目を凝らしてみたけれど、人らしき姿はもう見えなかった。
 どこかの陰に入ってしまったのか、それとも見間違いなのか。



「……少し、過敏になってるんじゃないか」

 ケイくんは、溜め息をついてから、拳をつくってわたしの肩を軽くトントンと二度叩いた。

「……そうなのかな」

 そうなのかもしれない。
 なんだか、あの橋を渡ったときから、妙に気分が落ち着かない。

 聞きとりにくい声で、誰かに話しかけられているような。
 強い風の音に隠れて、誰かがわたしに何かを言おうとしているような。

 そう分かっているのに、わたしがどれだけ耳をすませても、言おうとしていることがまるでわからないみたいな。

 もちろん、風なんか吹いていないから、そんなのはただの錯覚でしかないのだけれど……。

 少し、雰囲気に呑まれてしまっているのかもしれない。

 でも……本当に見間違いだったのだろうか?

「もう少ししたら、また歩いてみよう。……雨、止んでくれるといいんだけどな」

 ケイくんの言葉に反して、雨は止む気配を見せてはくれなかった。



 
 バイトが始まる十五分前には、もう店についていた。
 
 家から自転車で十分くらいの場所にあるガソリンスタンドで、一年の頃からバイトをしている。
 この店を選んだことに特別な理由はない。
 
 ほどほどに近かったから、ほどほどに時給がよかったから。
 あとは、休みが少なかったから。

 学校が終わったあと、四時から閉店の九時までの五時間、僕はその店で毎日のように働いている。
 日曜日が定休日だから、だいたいの場合は週六日。土曜日と祝日は八時間の勤務。
 
 人件費をギリギリまで削りたがる上の都合で、余計な人員を確保せず、
 今いる人数だけで回すかたちが基本になっている。
(オーナーと店長、事務の女性がひとり、社員がひとり、バイトがふたり)

 休みが思うように取れないからと続かない人間も多いけれど、
 僕に限って言えば、毎日のように働けるのは嬉しいことだった。

 退屈しのぎになるし、金も入る。
 特に欲しいものがあるわけでもないし、目的があるわけでもないけど、
 金というものはあって邪魔になるものではない。



 一度、店長にきかれたものだった。

「碓氷はそんなに働いて、金の使い道とかどうしてるの?」

「特に……」

「遊んだりはしてるんでしょ?」

「あんまり。友だち少ないので」

「彼女とかは?」

「いないですから」

「じゃあなんか趣味とか?」

「特には……」

「……おまえ、何が楽しくて生きてるの?」

 そうだ。そのときも僕は、肩をすくめたのだ。

「さあ?」

 と笑って見せたのだ。
 




 うちは大手の看板を借りただけの個人経営のスタンドで、
 だからマニュアルもなければ規則と呼べるものもほとんどない。

 車に関する作業をインパクト片手に学生がやらされることもあるし、
 それでだいたいの場合問題なく回っている。

 学生が作業を任されるような店で客は不安がらないのかと最初の頃は訝ったものだが、
 ここは二十年以上前からそのように回っていて、
 今となっては固定層の客しか来ないのだと言う。

 契約している企業なんかを除けば、近所の年寄りやその家族が来るばかりというわけだ。

 うちが潰れないのは、先代社長の人脈で、
 大手の企業や会社の給油やタイヤ交換なんかをうちでやってもらえるように話を通してあるかららしい。

 オンボロでサービスもよくないスタンドの経営が、それで毎年黒字だというのだから驚きだ。
 
 そういう店だから店内の雰囲気も大雑把で、
 学生が煙草を吸っていようが、外の人間に見つかりさえしなければ何のお咎めもない。
 
 学生だろうがなんだろうが煙草を吸い放題、らしい。
 一度休憩室でシンナーを吸っている奴がいて、そのときは店長が半殺しにして二度と来るなと追い出したそうだ。
 
 基準が分からない。



 だいたい二時間に一回くらい小休憩を与えられて、その隙にみんな二階に繋がる階段の狭い踊り場で煙草を吸う。
 そこまでいくと『見て見ぬふり』ですらない。
 
 そんなことが当たり前の店の中で、僕は煙草を吸っていない。
 興味がないわけではないけれど吸う機会がなかったし、金もなかった。
 
 ここに来てから何度も「吸ったら?」と聞かれたけど、人に言われるといっそう吸う気がなくなるものだ。

 そういうわけで僕はもらった小休憩の時間を、水筒の中にいれた水を飲みながら過ごしている。
 水筒の中身はもともとお茶なのだけれど、学校で飲みきってしまって、それを一度洗ってそこに水道水を入れている。
 
 あんまり気にしたことはないけど、他人から見ると苦学生みたいに見えるらしい。

 甘ったるいジュースを飲むよりは、水道水を飲んでた方が気分が楽だというだけなんだけど。
 あるいは、もしかしたら、こういう日々を削り取るような行動こそが、近頃の憂鬱の原因なのかもしれないけど。



 水道水というのもぬるいとまずく感じるもので(もともとそう美味くはないけど、それ以上に)、
 最低限喉を潤す以上は飲む気になれない。だからこそいいのだとも思う。

 溜め息をついて、不意に今日の放課後のことを思い出した。

 ふたりの男女。

 男の方は知らない。
 女の方は知っている。

 生見 小夜。
 クラスメイト。中学が一緒だった。小学校も。昔は仲がよかったような気がする。いつのまにか疎遠になった。
 どうして? どうしてだっけ。忘れてしまった。考えなくなったからかもしれない。

 彼女は何を言いかけたんだろう。たいしたことではないのかもしれない。
 でも、妙に気になった。

 いや、妙なことでもないのかもしれない。

 どうなんだろう? 

『かもしれない』、『かもしれない』。自分のことなのに、よくわからないことばかりだ。
 自分の気持ちさえ、あんまりはっきりと考えたくなくなったのは、いつからだろう。

 考えるのは、金のこと、家族のこと、学校のこと、バイトのこと。
 自分のことは、いつ頃からか、考えなくなった。



 篠目の言葉を思い出す。

 ――叶えたい願いって、あったりする?

 ……どうなのだろう。
 
 願い。
 少し考えてから、ふたつのことが思い浮かぶ。

 金のこと、姉のこと。

 でも、そのどちらもが、途方もないことのように思える。 

 遊園地廃墟のミラーハウス? 叶えたい願い?
 
 頭にちらつくのは、生見小夜の声。
 小夜啼鳥の童話。ナイチンゲール。 そんなささやかな連想。

 彼女が俺に向けて声を発したのはいつぶりだろう?
 とっくに存在を忘れられていたと思っていた。

 でも、だからどうだというわけではない。
 と、僕は思おうとする。そうしている自分を見つけて、自嘲する。
 そして、すぐに忘れようとする。……近頃は、そんなふうに、自分の感情に打ち消し線を引くことが増えた。

 叶えたい願い。
 それにも打ち消し線だ。


つづく

100-12 べきい → べき





 翌週の月曜の朝のことだった。

「いま、平気?」

 そう声を掛けてきたのは生見小夜だった。僕は怪訝に思いながら頷いた。

「ちょっときて」

 彼女は少しためらいがちな素振りで、僕のことを廊下の方へと手招きした。
 僕は頷いて、彼女の後を追う。

 彼女は僕がついてきていることを確認すると、すたすたと廊下を進んでいく。

 向かう先は廊下のはずれ、上階へと繋がる、あまり使われていない校舎端の階段だった。

 踊り場までやってくると、彼女は「ふー」と溜め息をついて、僕の方を見た。

「えっと、遼……一、くん」

 続きを待って黙っていると、彼女は不安がるみたいに言い直した。

「……碓氷くん」

「……なに?」

 彼女は僕と目を合わせようとしなかった。
 怯えられているのかもしれないし、気味悪がられているのかもしれない。
 


「あのさ、先週は、ごめん」

 僕の方を見ないままで、彼女はそう言った。
 
「どうして生見が謝るの?」

「どうして、って?」

「生見が僕に何か言ったわけでもないのに」

「えっと、それは……」

 どうも、彼女の話は要領を得ない。
 それとも、違うのか? 僕が彼女の言葉を理解できないだけで、彼女の言葉にはちゃんとした脈絡があるのだろうか。
 よくわからない。

「なんとなく、怒ってるのかな、って」

 生見小夜の言うことは、やっぱり僕にはよく分からない。



「……ううん、ごめん、うそだ」

 と、少しして、生見は自分の言葉を否定した。

「逆だった。ねえ、碓氷くん……あのとき、どうして怒らなかったの?」

 僕は、その問いに面食らった。

「どうして、って?」

「けっこう、ひどいこと言われてたでしょ」

 まあ、たしかに。いくらか傷ついた。
 でも……。

「別に、その通りだと思ったから」

 僕の答えに、生見小夜がぎゅっと手のひらを握りしめたのが分かった。

 苛立っているのかもしれない。そういうことがたくさんある。
 
「なにそれ?」

「それに、あんなことで怒っても仕方ない」

「……なに、それ。達観してるのがかっこいいとでも思ってる?」

 まっすぐにこちらを見つめる生見小夜の眉はつり上がっている。
 さっきまで謝る気だったらしいのに、今はこれだ。気持ちは、わかるけれど。



「べつに、そういうつもりじゃないよ」

「だったら、なに?」

「……」

 別に、答えてもよかった。どうでもよかったから。 
 でも、そんな態度で、何かを推し量ろうとするような態度できかれると、なんとなく……反発心を覚える。
 
 答える義務はない、けれど。

 まあ、いいか。

「怒るのって、エネルギーがいるだろう」

「エネルギーが、もったいないって意味?」

「まあ、そうなる」

 生見は呆れたように溜め息をついた。質問に答えただけで、どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだろう?

「……碓氷くん、変わったよね」

 彼女はそんなことまで言った。



「なんか、遠くなった。壁があるみたい。誰も近付けなくしてるみたい」

 生見小夜は、ときどき、抽象的なことを言う。昔からそうだった。

「距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
 昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
 昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった」

 そう言って、彼女は俯いた。
 冗談だろう。そう思った。

 遠くなったのも、近付けないのも、何を考えているのか分からないのも、僕に言わせれば彼女の方だ。

 昔はそうじゃなかった?
 彼女の知ってる僕にそぐわなければ、僕は生き方を正さなければならないのだろうか。

 いちいち何かに腹を立てなければいけないのか?

「……ちがう、こんなこと、言いたいんじゃなかった。まちがえた」

 生見小夜は、前髪をかきあげて、瞼を閉じた。

「ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……」

 それから彼女は、僕の目を見て、どこか怯えるような顔をした。

「……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの」

 最後まで言い切る頃には、彼女は僕の方を見ていなかった。




 放課後に、「碓氷くんいますか?」と教室にやってきた人がいた。

 入り口に一番近い席に座っていた奴がちらりとこちらを見た。どうやら名前は覚えてもらっているらしい。

 僕は立ち上がった。

「いたいた」

 と彼女は平気そうに笑う。変わった人だ。

「碓氷くん、今日も部活出ないつもり?」

 小さな体だ、とまず思う。中学一年生くらいにすら見える。顔つきもそれくらい幼い。
 これで最上級生で、先輩だというのだから驚きだ。

「……出ませんけど。どうかしましたか?」

 うちの学校は、特別な理由がないかぎりアルバイトは許可されていないし、特別な理由がないかぎりは部活動への参加を義務付けられている。
 そして僕に特別な理由はない。

 それでも僕は金がほしかったので、サボりやすそうな文芸部に入部して、許可をとらずにバイトをしていた。
 ごくたまに、店が休みだったりしたときにだけ顔を出すようにしているけれど、
 部員たちは僕の名前を覚えていないだろうし、僕も彼らの名前を覚えていない。
 
 そうじゃない人がいるとしたら、目の前のこの人くらいだろう。



「文化祭。もうすぐでしょ。部誌、どうするの?」

「ああ。書きません」

「どうして?」

「忙しくて」

「ほんとにー?」

「ほんとに」

「怪しいなあ」

「怪しくないです」

「なんで碓氷くん、部活出ないの?」

「バイトあるんで」

「なんでそんなに働くの?」

「お金がほしいので」

「なーんでそんなに、お金ほしいの?」

「……あるに越したことはないですから」

「……ふーん?」

 意味ありげに首をかしげて、子供みたいに彼女は拗ねてみせる。
 この見た目で文芸部の部長だというのだから、なかなかおもしろい。

 くわえていうなら、何かをさぐろうとするような、観察するような、うかがうような、目も。


「……部長は、暇なんですか?」

「んや。これから部誌まとめる作業しなきゃだよ」

「だったら、俺なんて相手にしてないで作業をしたほうが……」

 うーん、と彼女はちょっと笑いながら腕を組む。

「そんなこと言わないでよ。きみだって部員でしょ、いちおう」

「いちおうって、言っちゃってるじゃないですか」

「あはは」と彼女はわざとらしく笑う。

「ま、きみはちょっと特別だから」

「そうですか」

「あれ、信じてない?」

「冗談ですよね?」

「うーん、どうかなあ」

 部長はへらへら笑って、「ま、気が向いたら顔出してよ」、と、どうでもよさそうに笑って去っていった。

 
 ごくまれに、彼女は似たような質問をしに僕のところにやってくる。 
 意味ありげなことを言っていたようだけど、おそらく、幽霊部員の様子を定期的に覗きに来ているだけだろう。

 たぶん、他の人間にも似たようなことを言っているのだと思う。

 さて、と僕は溜め息をついて、イヤフォンをつける。

 今日もバイトだ。……バイト。こんな生活を、いつまで続けるんだろう? もうずっと変わらないのかもしれない。
 今日は久しぶりに、小夜と話した。部長に会った。でも、どうしてだろう。

 すみれのことばかりを、思い出してしまう。
 

つづく




 彼女の誘いに乗るべきではなかったのかもしれない、と、
 そう思ったのはだいぶあとになってからのことで、
 彼女の後ろで打ち当たるような風を受けている間は、
 ただ流れていく景色のことだけを考えて頭をからっぽにしていた。

 そんな時間は久しぶりだった。

 目的地の正確な場所を僕らはふたりとも知らなくて、
 ヒントは僕が朧気に記憶している地名くらいのもので、
 あとはコンビニに置いてあった地図を頼るしかなかった。

 僕らは何度かコンビニに寄って地図を眺めてみたりした。
 そのたびにすみれが煙草を吸うので、彼女の持っていた煙草はあっというまに減っていって、
 結局新しく買い直していた。

「マイセン」

 店員はいくらか訝しげな目を向けてきたけど、結局売ってくれた。
 


「すみれさ」

 店先の灰皿の前で煙草に火をつけた彼女に声を掛けた。
 いくらか、疲れで頭がぼんやりしていた。

「ん?」

「いくつなの?」

「内緒」

 すみれは笑った。どうでもいいか、と僕は思った。

「ねえ、どうかな? わたしたち、目的地に近付いてると思う?」

「標識が偽物じゃなければね」

「あんた、くだんないこと言うよね」

「嫌い?」

「どうかな」


「癖になってるんだよ」

「なにが?」

「なんだろう。はっきり言わないことかな」

「"どうして?"」

「さあ? そろそろ行こうか」

 時刻は十一時を回っていた。

「急ぐ旅でもないけどね」

「どうかな」

「帰りたい?」

「まさか」と僕は言った。本心なのかどうかは自分でも分からなかった。

 家のことが気になっているのはたしかだ。
 学校や、バイトのことや、いろんなこと、それから……。
 
 でも、帰りたいかと訊ねられると――。

「さ、行こう」とすみれが言ったので、僕は彼女に従った。



 結局、遊園地に辿り着いたのは日付が変わる頃だった。
 
 閑静な街並や狭い道路を走り抜けるとき、バイクの排気音が気になったけど、
 今時間起きている人がいるとしても、きっと「うるさいなあ」と思って特に何もしないだろう(普段の僕だってそうだ)。

 準備の悪い僕たちは懐中電灯すら持っていなかったから、携帯のライトを使ってかろうじて辺りを照らした。

「バイク、停めとくの嫌だなあ」

 と、すみれは心配そうにしていたけど、ここまで来て引き返すなんて僕はごめんだった。
 そう伝えたら、彼女も結局、遊園地の敷地内へとついてきた。
 
 ひとりにされるのが嫌だったのかもしれないし、僕に対して責任感のようなものを覚えたのかもしれない。

 真っ暗闇の遊園地はただでさえ不気味だったし、廃墟だというのだからなおさらだ。
 僕たちは何を目指しているかも分からずに歩きまわった。

 そうしてときどき、錆びた柵にもたれて煙草を吸ったりもした。

 そもそも、ここが目的地なのだ。僕たちは到着している。

「ね、空見て」

 煙草の煙を吐き出しながら、不意にすみれが言う。

「星、綺麗」

「たしかに」と僕は言った。

「星座とか、分かる?」

「いや」

「わたし、知ってるよ。秋の星座は、カシオペア、アンドロメダ、くじら……今も見えるのかな」

 と、彼女はささやくように言ったけれど、僕にはどれのことだか分からなかったし、そもそもくじら座なんて言葉自体初めて聞いた。



 真っ暗闇の遊園地から見える星空は煌々と輝いて綺麗だった。
 周りには空を切り取る建物も光もない

 ひょっとしたら、大昔の人間の見た星空も、こんなふうだったのかもしれないと、ぼんやり考えた。
 
 それとも、その頃の空と今の空は、やはり違っているのだろうか?
 過去と今では、今と未来では、いろんなものが変わってしまっているのだろうか?

「くじらは怪物なんだよ。お姫様を食べちゃうんだ」

「……?」

 すみれの言葉に、僕は首を傾げた。

「そういうお話」

「誰かがくじらに飲み込まれる話なら、僕も知ってるよ」

「どんなの?」

 答えようと思って、僕は口ごもる。
 今の自分のその状況が、その話に似ているような気がしたのだ。



「ヨナ書だよ」

「なにそれ」

「聖書」

「詳しいの?」

「べつに。ちょっと興味があって」

「悩みでもあるの?」

「子羊だから」

「ジンギスカン、美味しいよね」

「ついでに毛が黒い」

「それも聖書か何か?」

「いや。慣用句」

「ふうん。バカみたい」

「たしかに」

 どうでもいいようなやりとりが心地よかった。


 それから僕たちはまた歩きまわり始める。
 
 べつに新しいものを得られもしなかったし、天啓も降りてこなかったし、腹の底から笑えもしなかった。

 ここじゃないどこか?

 馬鹿らしい。そんなものどこにもない。
 子供にだって分かる。
 
 僕たちは「ここ」にしかいられない。言葉遊びでもなんでもなく、文字通りそうなのだ。

 そんなことを、どこかうんざりした気持ちで考えていたとき、僕らは“それ”を見つけた。

 最初に気付いたのは僕だった。
 一瞬で背筋が粟立った。

 思わず立ち止まった僕の方をすみれが見たけれど、彼女が“それ”に気付くまでは少し時間がかかった。

 無理もない。

 女の子がひとり、建物の前に立っていた。

 真っ黒な服を着て、建物の真っ黒な影に溶け込むようにして。
 そして、僕らの方を見つめながら、何も言わずににやにやと笑っていたのだ。



 それに気付いたとき、すみれは怯えたような頼りない声をあげた。女の子の薄笑いは消えなかった。
 やがて彼女は、口を開いた。

「ひさしぶり。元気だった?」

 その存在の唐突さ、その理解できない発言、不気味な姿、不気味な衣装、不気味な笑み。
 どこをとってもぞっとするような女。

 でも、何よりも僕らを混乱させたのは、
 彼女のその顔と声が、すみれにそっくりだったことだ。
 
 すみれは、信じられないものを見たような顔で、彼女を見る。
 
「……あんた、誰」

 すみれが問う。

「わかってるくせに」と彼女は笑う。

 僕とすみれは後ずさり、互いに体を近付ける。
 それを見て、女の子はまたにやにやと笑い始める。

「寄っていかないの?」と言いながら、彼女はうしろの建物を示した。

 僕は暗闇に目を凝らし、近くにあった看板の文字をどうにか読み上げる。

「……ミラーハウス、か?」

「そう。今なら、鏡の国に連れていけるよ」

「……鏡の国?」

「そう。あなたが望む景色、なんでも見せてあげる」

 僕たちは黙りこんだ。少女は、また笑う。

「心配しないでよ。夢みたいなものだと思ったら?」

 ……夢だと思いたい相手に言われるのも、妙な気分だった。




「……ね、どう?」

 女は言う。僕の方を、じっと見ている、気がする。

「あなたは、叶えたい願いとか、ない?」

 その問いかけを聞いたとき、篠目がしていた話の意味が、ようやく僕の中でつながった。

 夢、幻覚、心霊現象、超常現象、都市伝説、フォークロア。
 いずれにしても、目の前にいるこの少女には、現実を超越したような、高みから見下ろすような不思議な雰囲気がある。

 空には月と星、地上には奇妙な生き物が三匹。ひょっとしたら、ひとりは生きてさえいないかもしれない。根拠もなく、そう思った。

 雰囲気に呑まれたのだろうか?
 それとも、彼女の言葉が、僕の心のどこかに響いたのだろうか?
 そんな他人事めいた気持ちでしか、自分の感情の動きさえ掴めない。

 でも、たぶん僕には、見てみたい景色があったんだと思う。
 きっと僕は、どこかで篠目の話を覚えていて、
 だからこそ、こんな場所に来ることを提案したんだと思う。

 僕は、何も言わず、彼女に近付いていく。

 引き止めるような、すみれの声。
 僕は振り返らなかった。
 


 女は満足そうに頷くと、僕の背後に視線をやり、

「"すみれ"は」と、知るはずのない名前を告げて、

「どうする?」と笑みを浮かべたまま訊ねた。

 すみれは、答えずに、

「……あんた、誰」と、そう繰り返す。それは、僕にはなんでもいいことだった。

「誰でしょう?」と女は笑い、建物の中へと歩き始める。
 僕は何も言わずに、彼女についていく。

 すみれは何も言わなかった。
 僕は一度だけ振り返って、「来ないの?」と肩越しに訊ねた。
 
 彼女は、苦しげに俯いてから、僕の方へと駆け寄ってくる。
 
 そうして僕らは、ミラーハウスに足を踏み入れた。


つづく




「……ね、どういうことだと思う?」

 肩で息をしたまま辺りの様子をうかがって、すみれはそう訊ねてきた。

「どれについて?」と僕は訊いた。

「どれって?」

「どうしてミラーハウスの奥の扉が知らない街に繋がっていたかってこと?」

「それもだけど」

「さっきの女の子はどこに行ったのかってこと?」

「それもだけど、そうじゃなくて」

「じゃあ、どれのこと?」

「本気で言ってる? それとも現実逃避してる?」

「……これが果たして現実なのかな」

「現実だと思いたくないのはやまやまなんだけどね」


 ぐるるる、と音がした。
 摺るような足音。

「……来た?」

 ひそめた声で、すみれが言う。

「……来たみたいだね」

 僕たちはそのまま息を止める。

「逃げた方がいいんじゃないのかな」と僕は言った。

「でも、音を立てたら……」

 気付かれる、とすみれが言いかけたところで、角の方から彼は姿を現した。

 すみれの体がびくっと揺れる。僕も多分揺れたと思う。
 たっぷり三秒ほど、硬直した。

 黄褐色の毛並みとたてがみ。
 逞しい四本足でのそのそと歩き、無機物のような瞳をこちらに向けてくる。
 目線こそ僕らより下にあったけれど、体躯の大きさは比べ物にならない。

 牙を向けば、僕らの腕くらいならやすやすと噛みきれそうだ(というか、噛み切れるのだろう)。

"彼"というのはそういうことだ。鹿と同じくらい、彼らの性別を見分けるのは容易い。

 声も出せずに硬直した場面が、彼が踏み出した前足で動く。
 僕らは翻って全力で逃げ出した。

「……なんで、わたしたち、ライオンに追われてるの!」

 裏返った声で、すみれが叫んだ。そんなの僕にだってわからない。


 夜の遊園地(廃墟)に忍びこんだら、ミラーハウスの前でドッペルゲンガーみたいな女の子に出会いました。
 彼女にしたがって建物の中に入ったら、いちばん奥に大きな扉がありました。

 扉を開けたら鏡があって、女の子はその鏡をすり抜けて進んでいって(?)、
 僕らも鏡に触れてみたらすりぬけてしまって、気付いたら西欧風の箱庭めいた街並に立っていて、
 いつのまにか女の子はいなくなっていて、何がなんだか分からずに歩いていたら女の子の代わりにライオンと出会いました。

 おしまい。

 脈絡の無さが古い童話めいていた。

「遼一、どうしよう?」

 走りながら、すみれは混乱した様子で言う。 
 笑い話だ。

「どうしようって、逃げるしかないよね?」
 
 肩越しに振り向くと、ライオンはバネのように追いかけてきている。

「逃げきれないよ! ライオンだよ? ライオンより速く走れるわけない!」

「べつにライオンより速く走る必要はない」

「え?」

「きみより速く走ればいいだけだ」

 すみれは一瞬考えるような間をおいてから、意味を察したのか、悲痛な声をあげた。



「……わたしが食べられてる間に自分は逃げられるからそれでいいってこと?」

「そういうことになるね。いいんじゃないか。生きてるの、つまらないって言ってただろ」

「あんただって死にたがりじゃない!」

「僕は死にたがりじゃないよ」

「死にたい死にたい言ってる奴に限って、危機に瀕したらこんなもんよね、結局生きてることに実感が沸かないだけなんじゃない!」

「それ、自虐? もっとシンプルな考え方があるよ」

「なに?」

「仮に死にたがりだとしても、痛いのは嫌だし、生きながらかじりつかれるのはごめんだ」

「……それは本当に、そう思うけどね」

 なんて言っている間に、すみれが足をもつれさせた。

 慌てて僕は彼女の腕を引っ張ってスピードを上げる。
 彼女はかろうじて転ばずに済んだ。


「腕、痛い! 肩も!」

「ありがとうが先だろ」

 すみれは鼻を鳴らした。

「……どうもありがとう。あんたってとっても偽悪的ね」

「皮肉を言う余裕があるのは結構なことだけどね」

「お互い様でしょ?」

 そうこう話しながらも走る速度は緩められない。……とはいえ、後ろから迫る四足獣も、必要以上に距離を詰めてはこない。

 いたぶられている気分だ。
 
 追いかけっこの本質は速さ勝負じゃない。体力勝負だ。
 もし圧倒的に体力に自信があるなら、ゴールが設定されておらず、期限が決まっていないのなら、
 勝つのは速い方じゃない。より長く走っていられる方が勝つ。

 いいかげん、すみれも体力の限界が近いらしい。

 他人事みたいな街灯の灯りが憎々しい。



 不意に、見上げた夜空に、僕は思わず笑ってしまった。

「……なあ、すみれ」

「なに?」

「月に目ってある?」

「何言って……」

 と、すみれは僕の視線の先を追いかけて、言葉に詰まったみたいだった。

 貝殻のような笑みを浮かべた三日月のすぐ上に、ふたつ、銀色の円がある。
 星というには大きすぎ、月というには小さすぎる。

「笑われてるみたいね」

「……」

 見下されて、笑われてる。
 
「悪夢的だな」

「言ってる場合?」

 と、後ろからの気配が近付いてくる。
 飛びかかってくるのが分かった。

 まずい、と思った瞬間に、すみれの背中に手を置いて前方に押しやっていた。

 すみれの体が前へと飛ばされていく。彼女の体が地面に向かって倒れていく。
 僕もその勢いでひっくり返って尻餅をつく。
 
 牙、が。
 目の前にあった。



 ああ、これは死んだな、と一瞬、考えて。 
 同時に、ちょっと待てよ、と思う自分を見つける。
 
 僕はそれを望んでいたんじゃないのか?

 自ら選びとることもなく、終わってしまうこと。
 赤信号の交差点で、背中を押されてしまうこと。
 眠っている間に、誰かが首をしめてくれること。

 僕はそれを、期待していたんじゃないのか?
 
 その瞬間、

 パン、と大きな音がして、僕はとっさに目を瞑った。

 奇妙な静寂の後、うしろから、「遼一!」と声が聞こえる。

 瞼を開くと、ライオンの姿は消えていた。

「……なに、いまの」

「遼一、それ」

 すみれが、傍らの地面に落ちている何かを指差す。
 
 ゴムの切れ端のような……。

「……風船?」

 僕らは、目の前で起きたことがよく理解できなかった。

 それでもとにかく互いの無事を確認すると、立ち上がって周囲の様子をうかがう。



 何の気配もしない。落ち着いてみたところで、よくわからない街並。月にはやはり、目があった。

「ここ、どこ?」

「どこだろうね」

 僕たちは息を整えながら、それでも立ち止まることができずに歩き続けた。

 立ち止まったところで何かが分かるとは思えなかったし、歩き続ければ、さっきの女の子に会えるかもしれない。
 そうでないにせよ、何か、事情を知っている誰か(誰だろう?)に出会えるかもしれない。

「……誰か、いるのかな」

 疲れた声で、すみれは言った。もちろんそんなのは僕にもわからない。

 夜風がやけに冷たかった。

「さっき、転んだとき、怪我しなかった?」

 そう訊ねると、すみれはちょっと気まずそうに頷いた。

「うん。平気」


 しばらく何も考えずに歩き続けたけれど、誰とも出会わなかった。
 
 やがて、その道の果てに行き着いた。

 似たような街並は、正面にも続いている。けれど、大きな水路が邪魔していて、向こう側にはいけない。
 橋は見当たらない。

 道は左右に伸びていた。

 僕らのいる地面は、円形の水路に囲まれているらしい。
 
「橋がないね」とすみれが言う。

「あったところで、渡るべきかどうか、わからないけどね」

 彼女は不安そうに押し黙った。

「とにかく、橋を探してみようか」

 うん、と彼女は頷く。



 水路と道との間には白い鉄製の柵が張り巡らされていた。 

 僕は水路の向こうの街並の方に視線を向けてみる。
 夜の暗さで、向こうの様子はわからない。

「……なにか、声みたいなのが聞こえない?」

 不意に、すみれがそう言いながら、水路の向こうを睨んだ。

 耳を澄ませると、たしかにどこかから誰かの声が聞こえる。
 
「灯りが見える」

 灯りが、暗い水路の向こうに、見える。 

 人がいるのだろうか?
 近付いていくたびに、声をはっきりと感じる。
 誰かの話し声。何を話しているのかは、よくわからない。何を言っているのかも。

 あちら側が、あたたかな光に照らされているのは分かる。
 でも、景色はぼんやりとしていたし、人々の話し声もくぐもったように聞き取りづらかった。

 すみれはあちら側の人々に声を掛けようと何度か試みた。
 でも、何度試してみてもあちらからはどんな反応も帰ってこなかった。

 やはり、そこまでの間にも橋は見当たらなかった。
 でも、どこかにはあるはずだ。



 歩いている途中で、柵の傍にいくつかの銅像が並んでいるのを見つけた。

 なんでもない銅像のように見えた。特に偉人や功績者を称えるようなものにも見えなかった。
 ただ銅で出来たマネキンのような。

 すみれはひとつひとつ、こわごわとその像に触れていた。

 そのうちのひとつに触れたとき、何かおかしなことに気付いたような顔をして、
 こつこつ、と手の甲で叩き始める。

「これだけ中が空洞になってる」

「へえ、そう」

 だからなんだ、とは言わないでおいた。

「ね、この像、少しだけあんたに似てない?」

 僕は何も言わなかった。


 それからは特別何も見つけられなかった。結局橋なんかないと分かったのは、ふたたび例の灯りが見えてきたときだった。
 どうやら一周してしまったらしい。橋は結局、どこにも見つからなかった。

「閉じ込められてるみたい」と、気味悪そうにしながらすみれは言う。

「とにかく、内側を探索してみようか」

「……うん」

 頷いてみせたものの、すみれが体力の限界を感じているのは疑いようもない。
 僕だって、徒労感と倦怠感と混乱で、冷静さを失わないのが精一杯だ。

 水路に沿って歩くのをやめ、内側へと引き返した僕たちは、いつのまにか広場のような場所に出ていた。

 人の話し声。

 僕とすみれは目を合わせて、そちらへと向かう。

 最初はよくわからなかったけれど、そこにはちゃんと人がいた。
 シルクハットに燕尾服。大柄の、洋装の男。彼を中心に集まっているのは、小さな子供たちのようだった。
 座り込んで、彼の方をじっと見ている。

 子供たちの表情は、こちらからでは見えないけれど、男の姿はしっかりと見ることができた。
 広場の隅の街灯に照らされた彼の顔は、白い無表情の仮面に覆われている。

 白い手袋をした両手からは糸が垂れている。足元で踊っているのは、人形……。

 操り人形、マリオネット……。


 やがて劇は終わり、男は「今日はこれでおしまい」と言う。子供たちは不平の声を漏らしながらひとりひとりと去っていく。
 子供たちの顔もまた、同じような仮面で覆われていた。

 ヴィネツィアのカーニバルを連想する。
 
 違うのは、子供たちが着ているのは普通の服だということ。
 そのことに子供たちは何の疑問も抱いていないということ。

 真夜中に、こんな人形劇があって、それを見るためにたくさんの子供たちが集まっている。

「悪夢的」、と、今度はすみれが言った。

 名残惜しそうに立ち去ろうとしない何人かの子供に、人形師は飴玉をひとつずつ渡した。
 仮面の子供たちはその場を後にしていく。

 最後に残ったのは僕たち二人と、人形師の男だけだった。

 彼は言う。

「ごめんね。もう飴玉はない。きみの分はないんだよ。本当に残念だけれどね、きみの分はない」

 遠くから笑い声が聞こえた気がした。
 男は荷物を片付けると、落ち着いた足取りで広場を後にした。
 
 残された僕らは、広げられた光景の異様さに立ち尽くした。
 僕に至っては吐き気すら感じていた。

 足元が覚束なくなるような、悪夢と現実の区別が奪われるような、存在と非存在の境が消え失せるような、不気味さ。



「大丈夫?」とすみれがこちらを見上げながら言う。

「大丈夫」と僕は言う。

「……なんなのかな、ここ。わたしたち、変な夢でも見てるのかな」

 ライオン。月。水路。銅像。マリオネット。仮面。

 悪夢以外だとしたら、いったいなんなんだ?

「象徴だよ」、と声がした。

 すみれが僕の服の裾を掴んだ。

 広場の入口、アーチの傍に、ミラーハウスの少女が立っていた。

「あるいは、比喩」

「……なんなのよ、ここ」

 と、すみれが言う。

「だから、その話をしてるんでしょう?」

 女の子は笑う。黒服が月明かりの下で、魔女みたいに見えた。


「鏡は、鏡の世界に繋がってる。そこは扉を開けた人が望む景色。でも、その人が何を望んでるかなんて、鏡は知らない。
 だから鏡は問いかけるの。"あなたが望む景色はどこ?" ここは、その質問の答えの途中」

「……望む景色?」

「扉を開いたのは、あなたよね?」

 そう言って、彼女は僕の方を見た。僕は頷いた。

「だったら、鏡はあなたに問いかけてるの。"あなたのことを教えて"って」

「……意味がわからない」とすみれは言った。 

「そもそも、あなたは誰なの?」

 すみれの問いに、彼女はまた笑った。

「"ざくろ"」と、彼女はそう言った。

 すみれは、その答えに動揺したように見えた。

「そうじゃなくて、あんたは、何なのよ」

「さあ? わたしにもよくわからない。それより……」

 彼女ははぐらかすふうでもなく、本当にわからない、というふうに首をかしげて、言葉を続ける。

「ついてきて。連れて行ってあげる。あなたたち、迷いそうだから」

「連れて行くって、どこに……」

「鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……」
 
 少女は、皮肉っぽく笑った。

「あなたたちが、心の底から笑えるような場所」


つづく





 ずっと前に、ケイくんが言っていたことがある。

「ときどき、不思議になるんだよな」

 この世界にはたくさんの人間がいて、たくさんの生き物が居て、俺はたまたま、"俺"だ。

 俺として生まれて、この腕、この脚、この体を、この心を、心らしきものを、"俺"だと感じる。
 だから、"俺"は俺の身に起きたことを、俺の気持ちを、何か重大なことのように感じる。

 でも、それは結局、俺が俺だから思うだけで、
 客観的に見れば、どこにでもあるありふれた、陳腐で凡庸なものにすぎない。

 それはきっと、現在と過去との関係に似ている。

 私達の意識は"今"にある。
 だから、今起こっている事、今抱いている気持ちを、なにか特権的なものとして扱ってしまう。

 けれど、連綿と続く過去を振り返ってみれば、
 その一瞬一瞬に抱いてきた気持ちだって、「今」と同じくらい大切なものだったはずだ。

 その価値が本来同一であるなら、今だけを特別扱いする理由はない。


 要するに私たちは、意識というまやかしにごまかされて、物事の価値を見誤っているのだ。

"わたし"の意識がここにある。だからわたしは、いま、ここにあるわたしを、何か大切なもののように感じる。
"わたし"の意識はいまにある。だからわたしは、いま、この瞬間を、何よりも重大なもののように感じる。

 けれど、数直線を書いてみて、一秒ごとに並べてみれば、わたしの生れる前であろうと、わたしが死んだあとであろうと、
 一秒はひとしく一秒でしかない。

 わたしたちは、「自分」という余計なものさしを持ってしまったせいで、世界の価値を勘違いしている。

 大きい物を小さく感じ、小さいものを大きく感じる。
 近しいものほど重要で、遠いものほどささやかで。
 そんな勘違いを、平然としてみせる。

 彼の言葉の意味は、わたしには半分もわからない。
 それでもなんとなく、わたしなりの解釈のようなものもある。
 
 物事は本来的に等しく無価値だ、ということだ。







 最初に向かったのは、お兄ちゃんが昔働いていたスタンドだった。
 
 時間は四時を回った頃だった。

 この年の平日、この時間帯なら、お兄ちゃんは既に店先に出て働いているはずだった。
 けれど、いない。

 お兄ちゃんはいない。

 どうしてだろう、と考えても、何もわからなかった。
 何が「どうして」なのかすらわからない。とにかく、何もかもが今はわからなかった。

 わたしたちはしばらく店の前で立ち止まったあと、再び歩き出した。
 
 次に目指したのはお兄ちゃんが通っていた高校だった。
 とにかく彼の姿を確認したかった。




 
 制服姿の学生たちが校門からまばらに外へと流れていく。

 わたしとケイくんはふたりでその場に立ち尽くす。

 祈るような気持ちだった。
 
 とにかくお兄ちゃんがこの世界にもいることを確認したかった。
 そうすることでしか、この世界がわたしの知っているものだと確信が持てない。
 
 わたしはどこにいるのか。
 それが知りたかった。

 不思議なことに、お兄ちゃんを見つけることはとても簡単だった。

 数分も経たないうちに、お兄ちゃんは昇降口から姿を現した。

 あの頃の姿をしていた。
 わたしが子供だった頃の姿で、生きていた。

 誰かと一緒に。



 それは女の子だった。
 
 黒髪を背中まで伸ばした、綺麗な女の子だった。
 それが誰なのか、わたしはすぐにわかった。
  
 わたしが生まれる前から、お兄ちゃんと仲が良かったひとりの女の子。
 いつからか、お兄ちゃんが、彼女の話をすることはなくなった。

 少なくとも、バイトを始めた頃には。

 そのふたりが、並んで歩いている。
 楽しそうに笑いながら。

 どうしてわたしはそれにショックを受けたんだろう。
 自分でもよくわからなかった。
 
 彼らはわたしたちの姿をちらりと見てから、そのまま横切っていった。

 お兄ちゃん、と、
 とっさに呼びそうになって、思いとどまったわたしをわたしだけは褒めてあげたい。

「あの!」

 他人相手にするみたいな言い方で、わたしは彼らを呼び止めた。
 


 見知った人が、自分に向かって見せる怪訝げな表情が、どれだけ自分を傷つけるのか、
 わたしはそのときはじめて知った。
 
 ふたりは立ち止まって、戸惑った表情でわたしの方を見る。
 
 冷静に考えれば当たり前なのだ。
 お兄ちゃんは、この年、まだ高校生で、わたしのことを知ってるとしても、
 わたしのこの姿を見て、わたしだとわかるわけがない。

 それでも何かを期待せずにはいられなかった。

 その冷たい目を見ていても。

「あの、碓氷遼一さんですか」

 わたしの問いに、お兄ちゃんは、何か戸惑ったような顔になった。

「……きみは誰?」
 
 その問いに対する答えの代わりに、わたしは質問を重ねた。

「碓氷愛奈という女の子を、知ってますか?」

 お兄ちゃんは、
 首を横に振った。

「知りません。……きみは誰?」





 人違いでした、と無理のある言い訳をしてから、わたしはその場を後にした。
 
 ずいぶん歩きまわった。長い距離を移動した。
 そのせいで髪だってボサボサだったし、埃だらけのところを通ったせいで服だって汚れていた。
 
 そういえばお腹だってすいたような気がする。何か食べたっけ?

 頭がくらくらした。

 知りません。知りません。
 
 不思議な感じがした。
 これまでに味わったことのないような感覚だ。
 自分のからだが自分のものじゃないような感覚。

 いったいなにが起こったんだ、とわたしは自分に問いかけてみる。

 さっきのはたしかにお兄ちゃんだった。
 でも、お兄ちゃんはわたしの名前を訊いてもわからないと言った。
 じゃああれはお兄ちゃんじゃない?

 違う。お兄ちゃんは死んだ。
 死んだのに、どうして生きてるんだ。
 
 それはここが2008年だから。
 でもお兄ちゃんが生きていた2008年なら、わたしだってたしかにいたはずなのに。
 お兄ちゃんの傍に生きていたはずなのに。

 ……やっぱりこれは、悪い夢?



 くらくらと揺れる視界を引きずったまま、何かから逃げるみたいに歩く。

 ケイくんが後ろから声をかけてくれている。
 うん、大丈夫だよ、とわたしは答えている。それも分かる。

 大丈夫ってなんだ?

 お兄ちゃんがわたしを知らないなんてありえない。
 そうじゃなかったらわたしはどこにいるってことになるんだろう。

 でも、ありえないなんてことを言ってしまえば、そもそもこの状況自体がありえないものだ。
 2008年? タイムスリップ?

 奇妙な夢だと、そう考えたほうがずっと納得がいく。
 こんなわけのわからない状況を、理屈で理解しようとする方が、狂気の沙汰だ。



 高校から離れて、大通り沿いの薬局の敷地に入り、店のそばの自販機まで歩いていく。
 機械に背中をもたれて、わたしは息を整える。
 
 心臓の拍動が現実的だった。

 喉が渇く。息が詰まる。手の先がしびれるような感覚。そのどれもがぜんぶぜんぶ現実的だった。
 でも、夢というのはそういうものだし、そうであるならこれが夢ではないと言える保証なんてどこにもない。

 手のひらで顔を覆った。
 どうすればいいのかわからなかった。

 ケイくんは何も言わない。わたしも今は何も言ってほしくなかった。

 何を考えればいいのかも今はわからなかった。

 とにかく今すぐに誰かがこの場にきて、分かりやすい説明をしてくれないものかと思った。
 さもないと今すぐにだって叫びだしてしまいそうだった。

 そこに、声が降り立った。



「どうしたの?」

 わたしは、黙ったまま、視界を遮っていた手のひらを下ろした。
 声のした方には、小さな女の子が立っていた。

 中学生くらいの、女の子。
 でも、お兄ちゃんの高校の制服を着ている。どこか探るような、瞳。

「あんた、誰」

 怪訝げに訊ねたのは、ケイくんだった。警戒? 興味本位に声をかけられたことに対する苛立ち?
 でも、彼女は怯みもせずに、言葉を続けた。

「迫間 まひる」と彼女は名乗った。でも、名前なんて知ったところで彼女のことはひとつもわからないままだ。

「何の用?」とケイくんは取り合わなかった。

「べつに?」と迫間まひるは笑った。

「ちょっとおもしろそうだと思って。さっき、碓氷に話しかけてたところを見たからさ」

 わたしは、返す言葉を失った。どう答えるのが正解なのか、それが分からなかった。

「あんた、碓氷遼一の知り合いか?」

「ん。ま、ね。でも、わたしあの子にはそんなに興味ないんだよね。どっちかっていうと、きみたちの方」

「……」

「ちょっとさ、どっかでお話しない? ちょっとくらいなら、奢るよ」

 笑った彼女のその言葉に、頷いてしまったのはどうしてだろう。
 他に頼るものがなかったからか、その笑みに、何か懐かしいものを感じたからか。

 それは両方だったのかもしれない。


つづく




 初期値鋭敏性って言葉を知ってる?

 ものすごく簡単に言うとね、『最初の状態が少し違うだけで結果は大きく変わる』みたいなこと。
 
 たとえば、この世界にはきみがいない。
 碓氷愛奈という少女がいない。

 最初からいなかったのかもしれないし、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。
 
 ううん、死んでしまったのだとしたら碓氷が名前くらいは知っているだろうから、いなかったんだろうね。

 その結果どうなるだろう?

 たとえばきみは碓氷と暮らしていた。詳しい事情は知らないけど、とにかく碓氷と暮らしていた。
 そして、きみの母親がきみのお父さんとは違う人との間につくった子供は、碓氷とは暮らしていなかった。

 でも、この世界ではその子が碓氷と暮らしている。
  
 名前や見た目はそのままだったの? それっておもしろいね。



 勝手な想像で悪いんだけど、つまりきみのお母さん、再婚して子供を産んだんだよね。 
 半分血の繋がった妹と一緒に暮らしていなかったってことは、つまり、きみは母親と暮らしていなかった。

 どうしてそうなるのか、わたしにはよくわからないけど。

 じゃあ仮に、この一連の流れにきみがいなかったら、どうなるかな。

 仮に。きみのお母さんは、きみのお父さんと結婚しなかった。あるいは、きみのお父さんとの間に子供をつくらなかった。
 
 そして離婚したとして、きみの妹のお父さんと再婚するとする。

 きみの妹が生まれる。そして彼女がきみの家で暮らしているということは、
『きみがいないから』、きみのお母さんはきみの家で暮らしている、とか、あるいは子供を預かってもらっている、とか。

 そこには碓氷遼一が住んでいるわけだから、ふたりは当然、一緒に暮らすなり、一緒に過ごすなりしていることになる。

 きみがいない。
 だから、この世界はこうなってる。

 どうかな。納得できないかな。





 わたしは黙り込んだ。何を言えばいいのかよく分からなくなってしまった。
 頭をよぎったのは、校門から出てきたときの、お兄ちゃんのあの表情。
 
 楽しそうな笑顔。

 あんな顔を、わたしは見たことがない。
 お兄ちゃんはいつも、大人びた表情をしていて、どんなときも、平然としていて、
 あんなふうに、子供みたいに楽しそうに笑うことなんてなかった。

 グラスに浮かぶ結露に触れる。視線が自然と落ちていく。
 何も言える気がしなかった。

 耳から入ってきた情報をうまく整理できない。
 
 それじゃまるで……。

 わたしがいたから。 
 わたしがいたから、お兄ちゃんは。
 
 誰とも笑い合わずに、
 寂しさを隠すような顔で、
 生き続けていたかのような。

 わたしがいたから。

 お兄ちゃんはお母さんと一緒にいられなくなって。
 わたしが――いたから。



「――納得できないな」

 そう言ったのは、ケイくんだった。

 まひるが、目を丸くする。

 ケイくんは退屈そうに前髪を揺すり、ウーロン茶の入ったグラスに口をつけた。

「どうして?」とまひるは言った。

 ケイくんは少し間を置いてから、静かに話し始めた。

「……理屈は分かる。たしかに、そういうふうに考えることもできる。
 でも、それがどうして『そう』じゃなきゃいけない?」

「どういう意味?」

「仮にこの世界が並行世界だとする。ここが『こいつ』のいない世界だとする。
 でも、『だから』こうなったなんて言い切れるか?」

「……というと?」

「並行世界なんてものを仮定してしまえば、可能性は無限だ。
 こいつがいなかった世界、こいつがいた世界。俺たちが見たのがそのふたつだとする。
 ここがたしかに、そういう世界だとする。でも、だ」

 彼はまっすぐにまひるを見据えた。ほとんど、睨むような目で。


「『こいつ』がいなかったからこの世界はこうなのか? 
 あんたの言葉を借りるなら、初期値鋭敏性……その初期値の差だけで、本当に世界がここまで違っているのか?」

「でも、そうじゃないとしたらなんなの?」

「たしかに、この世界は、可能性として有り得るかもしれない。実際に目の前に広がってる。
 でも、並行世界の存在を前提にするなら、『こいつがいても、こいつの叔父がそうだった世界』だってどこかにあるんじゃないのか?」

 まひるは、考え込むように目を伏せた。

「『こいつが母親と暮らした世界』『こいつが妹と暮らしていた世界』あるいは『叔父がいなかった世界』。なんだって言えるだろう」

「……」

「どうしてこいつの妹が、『こいつのいない世界』でも同じ名前で同じ顔なんだ?
 あんたの言う初期値鋭敏性ってものを問題にするなら、こいつの母親が同じ相手と再婚すること、同じ名前をつけることだって変じゃないか?」

「……」

「もっといろんなことが変わってもいいはずだ。でも、違いはそういうところだけだろう。
『こいつがいなくて』、『叔父が別人みたいになっている』。『妹が叔父と暮らしている』」

「……でも、だったら、どう説明するの?」

「作為的すぎるんだよ」
 
 ケイくんは不快そうに眉間に皺を寄せて、吐き捨てるようにそう言った。



「並行世界なんて普通に生きてたら存在すら確認できないんだ。それなのに俺たちは巻き込まれてる。
 変な状況だ。その変な状況を、自然現象みたいな理屈で解釈するのが間違ってる。
 仮に無数の並行世界があったとしたら、俺たちは何かの悪意によって、この世界に招き寄せられたんじゃないのか」

「誇大妄想的だね」

「はじめから妄想的な説明しかできないような事態なんだよ」

「じゃあ、いったい何なの?」

「こういうのはどうだ? ここは無数の並行世界の中で、もっともこいつにとって不愉快な世界だっていうのは」

「……」

「単にこいつがいなくて叔父が変化してるっていうのは、まあ納得がいく話だ。
 でも、どうしてそこに妹のことまで関わってくる? それだと分かるような妹がいる?
 初期値鋭敏性って理屈に則るなら、こいつの家は引っ越してるかもしれないし、誰かが死んでるかもしれない」

 隕石が降って人類が滅亡してるかもしれないし、解決不能の疫病が蔓延して危機に瀕しているかもしれない。
 でも、ここはこうだ。


 仮に並行世界間の移動が無作為なものだったとしたら、もっとわけのわからない世界に巻き込まれたってよかったはずだ。

「だからこれは、誰かの悪意なんじゃないのか?」

「悪意?」

「俺には、そうとしか思えないけどね。俺たちの前に、あんたみたいな人間が現れたことも込みで、だ」

 ケイくんは、そう言ったきり黙り込んだ。まひるは何も反論しなかった。

「……そうかもね。たしかに」

 けれど、わたしはなにひとつ救われなかった。
 並行世界? ふたりとも、それを前提に話をしている。
 でも、そうじゃないとしたら? 世界が無数なんかじゃなく、このふたつしかなかったとしたら?

 だとしたらやっぱり、わたしがいる世界と、いない世界しかなくて。
 わたしがいない世界の方が、お兄ちゃんは幸せそうだった。

 そういうことにはならないだろうか。


「ところでさ、きみたち、このあとどうするの?」

「……このあと?」

「だって、この世界にあなたたちの居場所なんてないんじゃない?」

「……」

 ケイくんがまた、何かを言いかけた。

「ごめん、言い方が悪かった。行き場がないんじゃないかな、って思ったの」

「……だったら?」

「ふたりとも、うちに来ない?」

 その一言に、わたしたちは呆気にとられた。

「……どうして?」

「どうしてって、人助けに理由はいらないでしょ?」

「……胡散臭いな」


 ケイくんは睨めつけるような目でまひるを見ている。
 さっきからずっとこうだ。

「いい加減、イライラするな、あんたと喋ってると。
 人助け? 冗談じゃない。あんた、そういう人間じゃない。見れば分かる。
 目を見れば分かるんだよ。そういうの、通じる相手を選べよ」

「余裕ないね、きみ。でもいいの? 泊まるアテ、あるの?」

 そう言ってまひるは窓の外を見た。もう、暗くなりかかっている。

「明日以降、どうするかは置いておいて。とにかく今日は宿が必要なんじゃない?」

 ケイくんは舌打ちした。

「何考えてるんだ、あんた」

 まひるは、少し考えるような間を置いたあと、笑った。

「おもしろそう、かな」

 また、ケイくんは舌打ちをした。
 

つづく




 まひるの部屋は地下鉄駅から十分ほど歩いたところにある六階建てのマンションの一室だった。
 彼女はそこで一人暮らしをしているという。

 トイレ、浴室洗面所、バルコニー、エアコン、クローゼット付き1K。

 玄関で靴をそろえると、「どうぞ」と彼女はわたしたちを室内に手招きした。

「狭いし一部屋しかないけど、まあ三人寝れないこともないからね」

 おじゃまします、となんだか奇妙な気持ちでつぶやきながら上がり込んだ部屋には、あまり物が置かれていなかった。
 テレビ台の上のテレビ、本棚の中の本、
 小さな収納ラックには、無機質な印象の部屋のなかで少しだけ浮かび上がった旧世代のゲーム機。

「ゲームなんてするんだ。意外」

 場にそぐわない素直な感想をわたしが漏らすと、まひるはきょとんとした顔で、「しないよ?」と返事をよこした。
 だったらどうしてあるんだ、と思ったけれど、考えないことにした。

 まひるが一人でこの部屋に住んでいる理由だってわたしには関係ないし、
 彼女の部屋にゲーム機があるかないかだってどっちだってかまわない。

 絨毯の上にはちいさなクッションとシンプルなテーブル、その上にはカバーに覆われた文庫本。

 たしかにやりようによっては三人寝られなくもなさそうだった。
 それでも、見ず知らずの他人を泊める気になるのは不思議だったけど、
 けっきょくわたしたちには他に行き場なんてなかった。



「とりあえず、ふたりとも、お風呂入る? すぐ沸かすけど」

 間延びした口調でそんなことを言うと、彼女は手慣れた様子でぱたぱたと浴室の方へと向かった。

「ありがたい、けど……」

「ん?」

「着替えが……」

 わたしの声に、彼女は廊下の向こうから返事をよこした。

「あ、うん。わたしの貸すよ。ちょっと小さいかもしれないけど。ケイくんも」

「……俺に女物の服を着ろっていうのか」

「借りる立場で贅沢言っちゃだめだよ」

 まひるの言葉に、ケイくんは溜め息をついて額を押さえた。

「……いい。今日はこの服で寝るから」

 あはは、とまひるの声が浴室で響いた。

「冗談だよ。ちょっと待ってて、たぶん、あると思うから」


 まひるは白い柔らかそうなタオルで手を拭きながら部屋に戻ってくると、
 クローゼットの方へと近付いて、取っ手を握る。

 そして一瞬硬直した後、

「ちょっとそっち向いてて」

 と照れたように笑う。
 わたしたちは顔を見合わせてから、体ごと後ろを向いた。

 そのまま横目にケイくんの顔を見ると、彼は気まずそうに天井に視線を向けていた。
 こんなケイくん、はじめてだ。

「あったあったー」

 軽い声のあと、クローゼットを閉める音がした。

「もういいよ。ごめんね」
 
 わたしたちが振り返ると、たしかにまひるは女物の服と一緒に、男物の青いパジャマを持っていた。
 
「あとこれ、下着」

 と彼女はにっこりと笑ってわたしたちの目の前でトランクスを広げた。
 なんとなく気まずくて、わたしは目をそらした。

「……誰のだか知らないけど、さすがに下着は借りる気になれない」

「大丈夫だよ。未使用だもん。ほら」

 と言って、彼女は下着についたままになっているタグをこちらに見せた。



「……一人暮らしなんじゃないのか?」

「ん、そうだよ」

「彼氏が泊まりにくるとか?」

「まさか。そんなのいないもん」

 だったらどうして男物の下着を常備しているんだろう。
 
「ま、あんまり詮索しないのが良い男だよ、ケイくん」

 そうやってまひるが当たり前のように「ケイくん」と呼ぶのに、わたしはなんとなくもやもやしたものを感じたけれど、
 たぶん彼女に他意はないのだろうし、ケイくんも気にしたふうではなかったし、
 そもそもそういうあれこれについてわたしは何かを言えるような立場ではなかった。

「そういえば、ふたりはどんな関係なの? 愛奈ちゃんの事情はなんとなく聞いたけど、ケイくんは?」

 どんな関係、と言われて、わたしたちはまた顔を見合わせた。
 


「……どんな、と言われてもな」

 困ったように、ケイくんが頭を掻いた。

「ともだち、かな」

 わたしはケイくんの方を見ないようにしながらそう答えた。

「ふうん」

 まひるはなんだか意外そうな顔をした。

「まあいいや。さっき何も食べなかったけど、お腹すいてる? なにか作っちゃうけど」

 さっきまで彼女に何か得体の知れないような印象を抱いていたわたしは、
 そんなふうに親切にされると、申し訳ないような、うしろめたいような気持ちになった。
 
 それでも、今日(という言い方でいいかわからないが……)は遊園地に行く前からずっと歩きっぱなしで、
 湯船につかってゆっくり休みたい気持ちも、着替えて体を落ち着かせたい気持ちも、否定できなかった。

 わたしはケイくんの方を見た。

 彼はまだ困り顔をしていたけど、わたしの方を見て小さく頷く。

「甘えておこう。どうせ俺らには関係のない相手なんだし」

「そうそう。お姉ちゃんに甘えておきなよ」

 まひるはからから笑う。



「お姉ちゃんって、おまえいくつだ?」

「ん。高三」

 高三、とわたしはちょっと驚いた。
 身長や体型が子供っぽいせいで、てっきり一年生だと思い込んでいた。

「きみたちは?」

「……高一だった」

「じゃあ、どっちにしたってわたしがお姉ちゃんなんだね」

 まひるは満足げに腕を組んで頷いたかと思うと、キッチンへと向かった。

 カウンターの上に置いてあった髪留めをとったかと思うと、髪を後ろでひとつに結んで、制服のまま冷蔵庫を開ける。

「何食べたい?」

 わたしは、少し考えたけれど、結局、思いついた言葉をそのまま吐き出していた。

「……オムライス」

 まひるは面食らったような顔をした。

「オムライス? で、いいの?」

「……うん」

「ケイくんも?」

「なんでも、ありがたくいただきます」

 まだ少し皮肉っぽい調子でそう呟くと、ケイくんは羽織っていたシャツを脱いで、床に腰を下ろした。
 クッションはおろか絨毯すら拒否するように、フローリングの上で。ケイくんらしいな、とわたしは思う。

「わたし、手伝う」

 そう言ってキッチンに向かうと、まひるは楽しそうに頷いた。

つづく




 目をさましたのは夕方を過ぎた頃だった。

「起きた?」と、すぐ隣からすみれの声が聞こえた。なんだか楽しそうだった。

「うん……今、何時?」

「四時ちょっと前。お腹すいたから、ごはん買ってきちゃった。なにか食べる?」

 そう言って、彼女は傍に置いてあったビニール袋に入ったおにぎりを取り出した。
 スナック菓子に炭酸飲料、よく見ると酒とつまみと煙草も入っている。

「……酒盛りでもするの?」

「あはは」とすみれは他人事っぽく笑う。
 
「どう? お腹すいてない?」

「先に、シャワーを浴びたいかな」

「あー、そっか。替えの服、ないけど」

「いいよ。明日買う」

「うん。選んであげる」

 すみれは楽しそうだったし、僕も否定しなかった。



「誰も帰ってきてないの?」

「たぶん。そういう家だから」

 どういう家だよ、と僕は思ったけど、べつに問い詰める気にもならなかった。
 
「歯ブラシ買ってきたよ。いる?」

「いる」

「あとね、インスタントカメラ」

「なんで?」

「いえーい」

 ぱしゃ、とすみれは勝手に僕の写真を撮った。

「……なに、急に」

「なんとなく」

 本当に理由はなさそうだった。



 とりあえず僕はすみれの案内に従ってシャワーを浴びて、それから部屋に戻ってすみれの買ってきたおにぎりを食べて、
 この世界のすみれの部屋のなかで、遠慮がちに煙草を吸った。

 僕はいくらかすみれに遠慮を感じていたけれど、よく考えればこいつだってこの世界においては不法侵入者なのだ。
 そう考えると何もかもがどうでもいいような気がして、何かおもしろいものでもないかと部屋をあさってみたりした。

「あ、クローゼットの引き出しはあけないでね」

「なんで」

「下着が入ってるから」

「この世界では違うかもしれない」

「とかいいつつ開けようとしない」

「下着がひょっとしたらジョン・コルトレーンのレコードになっているかもしれない。その可能性を誰かに否定できると思う?」

「遼一、意外と欲求に素直。言葉はひねくれてるくせに」

 なにせ途中で酒が入っていた。アルコールが入ると性格が変わる。気分が変わる。気持ちが変わる。
 からだのなかの物質の変化。それだけで景色すら違って見える。

 すみれの顔だって紅潮していて、気分よさげに緩んでいて、おかげで僕も気分がよかった。


「ね、そんなに下着って見たいもの?」

「べつに。物珍しいから」

「見せたげよっか?」

「……」

「ん?」

「冷静に考えると、そこまで見たいものでもないかも」

「うそつき」とすみれは笑った。たしかに僕は今嘘をついたような気がする。

 とはいえ彼女も本気ではなかったらしく、どうでもよさそうに溜め息をついただけだった。

「遼一」

「なに?」

「何か話をして」

「何の?」

「遼一の」

「話すことなんてなんにもないよ」

「ホントに?」


「本当に」

「でも、何か話して」

「どうして?」

「なんとなく、だけど。わたしと遼一は仲間だから」

「仲間」

 仲間。面白い表現だった。

「ね、遼一はどうして死にたがりなの?」

「べつに、死にたがりってわけじゃない」

「そう?」

「ただ、なんていうか……そうだな」

「うん」

「たとえば、僕らは、べつに望んで生まれてきたわけじゃないだろ?
 頼んだわけじゃない。頼んだわけじゃないのに、勝手に生んだんだ」

「……うん」

「勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だって思わないか?」

「……」

「生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうの……気持ち悪いんだ」

「……ふうん?」

「退屈?」

「少しね」




 それから二時間ほどばかみたいな話をしながら過ごしたけれど、その間玄関の扉の開く音は一度もしなかった。
 すみれのいうとおり、そういう家らしい。

 酒を飲んで満足した僕らはふたたび眠ることにした。シングルのベッドで薄いタオルケットにくるまって抱き合って眠った。
 べつに何もしなかった。不思議とお互い文句も言わなかった。

 当たり前のように朝が来て、そのときもやはりすみれの家で、日付もおかしなままで、すぐ傍からすみれの寝息が聞こえた。

 そうして僕たちは片付けをしてからすみれの家をあとにした。
 
 まずは服屋の開店を待つ為に、近くにあるという喫茶店に行ってコーヒーを飲んで暇を潰した。
 特に話すこともなかったから、雑誌ラックに立ててあった雑誌で暇をつぶしながらトーストを食べた。

 服屋に行くと僕よりもすみれが楽しそうにはしゃいだ。僕は普段の自分なら選ばないようないくつかの服を買わされた。
 不思議と悪い気はしなかった。

 買い物を済ませたあと映画館に向かった。
 すみれの観たがっていた映画は昼過ぎからの上映で、僕たちはそれまでウィンドウショッピングをしながら暇を潰すことにした。
 ただなんとなく、目抜き通りを歩きながら。

 篠目あさひが僕の前に姿をあらわしたのは、そんなときだった。





 はっきり言って、僕は篠目の姿を見たとき、とても混乱した。
 図書委員。そう、図書委員。僕と一緒に図書カウンターの中にいた。そういうことを思い出す。
 
 すると、どんどんと「ここに来る前」の自分のことを思い出してしまう。記憶はするすると頭の中に巻き取られていく。

 篠目あさひは僕の顔を見て唖然としていた。

「碓氷……?」

 僕は彼女の「唖然とする表情」なんてものを初めてみた。
 けれど、表情のことを除いてしまえば、篠目あさひは僕の知っている篠目あさひのままだった。
 
 顔つきも背丈も喋り方も、篠目あさひはあくまでも篠目あさひ的だった。
 そして、僕はあくまでも冷静になろうと心がける。この篠目あさひは、僕の知っている篠目あさひではない、と。

「……あなた、誰?」

「……誰、って」

 どういうこと、と僕が訊ねようとしたとき、篠目の視線は僕から逸れて人混みの方へと流れていった。
 
 僕は、その視線の流れを追う。隣にいたすみれも、同じようにした。

 さすがにどきりとした。

 そこにいたのは僕だった。
 僕と、生見小夜だった。

 仲良さそうに、並んで笑って歩いている。

 なるほど、と僕は思って、篠目の方をもう一度見る。

 彼女は、僕ではない『僕』を見ていた。


つづく




 女の人が去ってしまったあと、わたしたちはとりあえず歩いて、ようやく見つけたファミレスに入ることにした。

 本当は、あの女の人を呼び止めようと思った。彼女にいろいろなことを確認するのが、一番手っ取り早いはずだからだ。
 彼女はお兄ちゃんの望みを知らないと言っていたけれど、それでも顔や姿は見たはずだし、言葉も交わしただろう。

 そのときの様子や、お兄ちゃんの何気ない言葉のひとつでも聞き出せれば、これからの行動方針の参考くらいにはなったかもしれない。

 でも、彼女に話す気はなさそうだったし、それならいくら詰め寄ったところで仕方ない。
 それに、なんとなくだけれど……わたしは彼女に、なんとなく嫌な雰囲気を感じていた。

 その嫌な雰囲気というのは、別のどこかで感じたことがあるもののような気がしたけれど、それについてはあまり考えないことにした。
 考えるべきことは他にあった。

「さて」とケイくんが口を開いた。

「これからどうする?」

 それが問題だった。
 
 ここに来るまでの間少し考えてみたけれど、やはりたいしたことは思いつかない。
 頭に血がのぼっていたからといって、よくまあ考えなしに沈没間近の豪華客船に進んで残ろうとするようなことをしてしまったものだ。

 いくらか気分が落ち着いた今になっても、やはり間違った判断だったとは思わないが、それにしてもとっかかりがなさすぎる。



 とりあえずわたしたちはドリンクバーを頼んだ。割高にはなるが、お腹は空いていないし仕方がない。

 日が出てきて気温があがったせいか、少し暑さを感じていた。まだ残暑が抜け切らないらしい。
 だというのに熱そうなコーヒーをすすりながら、ケイくんは拗ねたみたいにわたしと目を合わせようとしなかった。

「あの、怒ってる?」

「怒ってはない。腹が立つだけだ」

「それって同じでは?」

「……そうだな。『頭にくる』じゃなくて、『腹が立つ』ってことだ」

「えっと?」

「なんとなくで解釈してくれ。べつにいいんだ、俺のことは。俺は最初から負けてるんだ」

「……何に?」

 ケイくんは答えるかわりに、カップをテーブルの上に置いた。

「いいんだって、俺のことは」

 もどかしそうに首を横に振って、ケイくんは話を変えた。


「それより、これからのことを話そう」

 そう言われても、わたしにはケイくんの態度が気になって仕方なかった。
 さっきは心強さが勝ってなんとも思わなかったけれど、彼はどうして残ってくれたんだろう。
 
 無理矢理にだってわたしを従わせることだって、彼ならできたはずだ。

 乗りかかった船だから責任を感じているのだろうか。
 
「最初に決めておきたいことがある」

「あ、うん」

「まず、期間。多少金はあるが、何日もこっちで耐えられるような余裕はない」

「期間……」

「余裕がなくなるとストレスが溜まる。ストレスが溜まると何をやってもうまくいかない。先の見通しは大事だ」

「……うん。そうだね」

「寝床に関しては、まあ、まひるがアテにできるだろうが……だからってずっと世話になるわけにもいかない」

 わたしは頷いた。そう考えると、わたしたちにはあまり時間的余裕はない。
 彼女は「帰りたくなったら会いに来て」と言ったけれど、それだって、いつ気が変わるか、忘れてしまわないか、わかったものじゃない。

 それに……もし、元来た世界で同じように時間が流れていたとしたら、家族も心配している。
 下手をしたら、浦島太郎みたいになりかねない。



「だから、あんまり長くいることはできない。長くても一週間だ」

「一週間」

「ひとつの目安だ。本当なら、今日明日で帰れるのが一番いい」

「……そうだね」

 いろんな事情を考えるなら、一週間でも、ケイくんとしては多すぎるくらいだろう。
 わたしはケイくんに甘えている……いつもそうだ。
 
 わたしは、黙って頷いてから、心のなかで更に短く期限を定めた。
 ……今日を含めて、三日。明後日まで。もし、それで収穫がなければ、きっといつまでいても変わらない。

「とりあえず、ひとつめはそれでいいな。次は、勝利条件だ」

「勝利条件、というと」

「何をしたら、目的が達成されたことになるのか、だ。何を探してるかも分からずに歩き回っていても埒が明かない」

「目的……」

「おまえは、叔父さんが何を望んでいたのかを知りたいと言った。俺には、そのためにこの世界でできることなんて、見当もつかない」

「……」

 わたしにも、よく分かっていなかった。この世界で何をしたら、お兄ちゃんの気持ちが分かるのか?
 そのためには、きっと、この世界のお兄ちゃんの様子や、その周りで起きている出来事を見るしかないのだろう。

 その結果、お兄ちゃんの望みについてなんて、なにひとつわからないかもしれない。
 でも、わたしが知りたいのは、この世界のこと。お兄ちゃんのこと。




「さっきも、似たようなことを言ったかもしれないが、一応改めて言っておく」

「……うん」

「他人の心なんて覗いたところで、きっとろくなことはない。知れるとしても、知らないでいるのがマナーだと思う」

「……うん。そうだね」

 他人の日記が目の前にあるからといって、興味本位でそれを眺めて、その人の思いを覗くのは、きっと浅ましい行為だ。
 そのなかに、他人を呪う言葉や、他人を蔑む言葉がないとも限らない。
 もしそれを見つけてしまったら、わたしはお兄ちゃんに落胆せずにいられるだろうか……?

 きっとわたしは、どこまでも勝手な生き物なんだろう。

 わたしはケイくんの言葉を受けて、頷いた。

「でも、やります。お兄ちゃんには悪いけど。わたしはお兄ちゃんのことを、知らなきゃいけないって思う」

 いけない、ね、と、ケイくんは小さな声で呟いた。

「そのために、最初にわたしがすることはひとつ」

「というと?」

「この世界のお兄ちゃんと、話すこと」

「……そうなるよな」

 そうなる。何よりもそれが手っ取り早い。
 少なくとも、何かの足しにはなるはずだ。

 この世界からわたしがすくい上げることのできるものなんて僅かに違いない。
 それでもやるしかない。
  
 日記ひとつ残さなかったお兄ちゃんの心の中を、わたしは勝手に覗き見る。
 彼の思いをわたしが知らなければ……彼は、報われない、ような、気がする。



「……さっきは詳しくは言わなかったけど、ひとつ疑問があるんだよな」

「というと?」

「あの女、俺たちがこの世界に"紛れ込んだ"って言ってただろ」

「たしか、言ってたと思う」

「ここが叔父さんの望んだ世界だ、というようなことも言った」

「うん」

「でも、"紛れ込んだ"って言い方をされると、俺たちは別の人間の扉に紛れ込んだ気がしないか?」

「……あの、眼帯の人?」

「そう。仕組みがわからないから何とも言えないけど、単純に想像したら、あの人の望んだ世界に紛れ込んだような気がするんだよな」

 わたしは少し考えたけれど、ケイくんが言ったとおり、仕組みがわからないので何とも言いがたかった。

「……まあ、俺の考えすぎかもしれないし、問題にもならないのかもしれない」

「あの女の人は、"使い回し"とも言ってたよ」

 わたしの言葉に、ケイくんが頷く。

「意味深ではあるが……まあ、俺たちには関係のない話かもしれない」

「少し気にはなるけどね」


「そういえば」と、思い出したようにケイくんが声をあげる。

「"このあたりで一番高い場所"って、どこのことだ?」

「ああ。それ」

「分かるのか?」

「うん。二年で一番じゃなくなるって言ってたから」

「……」

「二年後に、そこより大きなビルが完成するはずだから」

「……ビル?」

「うん。そのビルが完成するより前なら、一番高い場所は……」
 
 街の中心部に十五年以上前からある、ひとつのオフィスビル。
 保険会社が保有している三十階建のそのビルの頂上には、無料で開放されている展望台がある。

 彼女はきっと、そこで待っている。


つづく




 両親の不在が、わたしの心の奥底に暗い影を落としているわけじゃない、とは、もちろんわたしには断言できない。
 けれど、それを理由にわたしが何かしらの性格上の欠陥を持っていたとか、精神的不安定さを抱えていたとか、そういうこともなかった。
 と思う。たぶん。

 問題なんて、誰だって大なり小なり抱えているものだ。
 他人のそれと比べて、自分のそれが特別違うものだとは、わたしは考えない。戒めるまでもなくそういう実感がある。
 
 ケイくんはそれを、初期値の違いだと言った。
 
 ケイくんのお母さんが言い残した言葉や、ケイくんのお父さんがケイくんのお姉さんにしたことや、
 ケイくん自身が考えたたくさんのことについて、わたしはほんのすこしだけ知っている。
  
 べつに秘密にしているわけじゃない、とケイくんは言ったけれど、
 わたしはそのことについて誰かに話す予定もないし、また話すべきでもないと思っている。

 ケイくんはわたしとは違う。抱えている問題も、持っている強さと弱さの質も、わたしとはまったく違う。
 でもそれは、人間がふたりいれば当たり前に浮き彫りになるような個体差でしかない。





 やることは決まった。
 とはいえ、("この世界の")お兄ちゃんが学校を終えるまでは、話しかけるのも簡単ではない。
 
 幸いまひるはお兄ちゃんと部活が一緒だと言っていたから、彼女を頼ればなんとかなるかもしれないが、
 どちらにしても放課後までは手も足も出せない状態ということになる。

 そうなるとわたしたちにできることは、昼の間は何もないことになってしまう。

 途方に暮れたわたしにケイくんが提案したのは、図書館に行くことだった。

「元いた世界とこの世界がどの程度違うのか、把握しておいて損はないと思う」

 迂遠な方法だという気もしたが、たしかに試してみる価値はありそうだった。
 ひょっとしたらこの世界は、わたしたちが気付いているよりももっと大きな形で違っているかもしれないのだ。
(日本の首都が東京じゃなくなっているとか)

 とにかく地方紙のバックナンバーならば図書館の蔵書にあるはずだし、
 それを見ればこの世界に起きたさまざまなことについて、いくらか学べるかもしれない。
 問題は、わたしたちが、七年以上前の記憶をしっかりと持っているかどうかということだ。



 さて、図書館には駅からバスで三十分近く揺られなければならない。

 停留所の名前は「図書館前」で、着いてしまえば目前に駐車場を挟んで白くて大きな建物がそびえている。
 
「……ねえ、ケイくん、ところで、今日って何曜日?」

「……さあ?」

 わたしたちは朝起きてから、テレビも新聞も見ていなかった。携帯は使い物にならない。
 日付すら怪しい。

「休館日だったりして」

「いや。車がいくらか停まってる。大丈夫だろ」

 実際、図書館は開いていた。自動ドアをくぐった先にはコルクの掲示板がある。
 わたしたちはそこで開館予定の案内ポスターを見た。

 やさしいことに、かたわらの壁にはホワイトボードがあって、そこには今日の日付があった。
 九月十三日。少しさびしく見えるが、おそらく何かの催しや企画があるときに記入するスペースなのだろう。

「……あれ」

「どうした」

「土曜日だね」

「ああ。休館日は月曜だろ?」

「うん。ううん、そのことじゃなくて……」



 ケイくんは不思議そうに眉を寄せた。

「学校。休みでしょう?」

「……ああ、そうか」

 お兄ちゃんの学校が終わるまでの時間潰し。そのつもりだった。でも、そもそも今日、お兄ちゃんが学校に行っているとは限らない。

「ちゃんと確認しとけばよかったな。時間を無駄にした」

「ううん、どっちにしても、休みってことになったら、簡単に捕まえられないよ」

 まひるに相談して、と言いかけて、朝方、まひるが制服姿で学校に行くと言っていたのを思い出す。

「……部活に出てるかも」

「ああ、同じ部活って言ってたな」

「出てれば、だけど……」

「……あてもなく探すよりは、いくらかマシだろうな。どっちにしてもまひるにはもう一度会いにいかなきゃいけないだろうし」

 どうする、とケイくんは訊ねてきた。わたしは少し考えた。

「……ちょっとだけ、新聞見ていこう。焦ったところで仕方ないし」

 べつに、何かを恐れて後回しにしたつもりではない、と、自分ではそう思っている。



 受付で新聞の縮刷版の位置を教えてもらい、あまり人気のない館内を歩いていく。
 
 この図書館には何度も来たことがあるわけではないが、わたしの知っているそれとかわりはなさそうだ。
 土曜日とはいえ、近くに大学があるせいだろうか、わたしたちより少し上くらいの学生たちの姿がいくつも見受けられた。
 
 新聞の縮刷版というものをあまり目にしたことはなかったけれど、眺めてしまえばなんということはなかった。

 わたしたちは特に調べたいことがあってきたわけではない。
 とにかく起きたことだけ確認したいだけだ。そうであれば、見出しだけ追っていっても事足りる。
(書いた人には失礼かもしれないけど、時間もまた有限の資源なのだ)

 そして少なくとも全国紙の見出しには、わたしたちに大きな違和感を与えるような内容のものはなかった。

 なつかしさは、あったかもしれない。
 昔は理解できなかった出来事。なんだか騒がれているなあと思っていただけのこと。
 そういうことを、この年になって改めて見てみると、世界の見え方が変わるような感じがした。

 わたしは、世界は徐々に変わっているんだと思っていた。
 でも、そうではないような気がした。

 世界が変わったのではなく、世界を見るわたしのまなざしの方が変わったのだ。
 そんな感じがした。それもまた錯覚なのかもしれない。

 世界は変わっている。でも、その変わり方は、いつもそんなに大きくは変わらないのかもしれない、と。
 少なくとも……まなざしの変化ほど大きく変わることはないだろう。



 わたしがそんなことを思っていると、ケイくんが不意にわたしの肩を指先でとんとんと叩いた。

「なに?」

 今度は、指をよっつならべて上下に揺らし、「ちょっとこい」のジェスチャー。
 図書館だからって、小声なら話せると思うんだけど。人気のある場所でもないし。

 わたしはケイくんの横に近付いて、彼が手にしていた紙面に目を下ろした。
 地方紙……2008年、8月……。

 ささやき声で、「これ見ろ」とケイくん。
 
 その言葉にしたがって、わたしは見出しに目を落とす。

 少年 遺体で発見……。刺殺……現場には凶器と見られるナイフ……先月の事件……関連を調べて……。
 被害者の名前は……。

「……沢村翔太……?」

「こんな事件、あったか?」

「……あった、のかな。わかんない」



「書き方によると、どうもこれだけじゃないみたいだ。この前にも、何かあったらしい」

「……だったら、なかったと思う」

 そんなことがあれば、辺りで騒ぎになっていたはずだし、ニュースだってうるさかったはずだ。
 第一、お兄ちゃんだって、この時期は高校生で、それだったら、話題の端にのぼっていてもおかしくないはずだ。

 そんな記憶は一切ない。不安がらせないためにニュースを知らせなかった?
 でも……こういうことがあるからあなたも気をつけなさい、と、おばあちゃんならそのくらいのことは言ってきそうだ。

「どうも、はっきりしないかな……」

「俺は記憶にないんだよな。他のニュースは、ああ、たしかにこんなことがあった、って思い出せるのもあるんだが……」

 これはピンとこない、とケイくんは肩をすくめた。

「まあ、関係ないかもしれないが……少し物騒だ。俺たちも気をつけた方がいいかもな」

「うん。……ね、ケイくん」

「なに」

「少し、外を歩かない?」


 わたしたちはロビーにあった自販機で紙カップのあたたかい飲み物を買った。
 ケイくんはコーヒー、わたしはカフェラテだ。

 湯気が立つカップを持ちながら、入口から出てすぐに脇の道に進んでいく。

 丘陵地に立つこの図書館の南側には、なだらかな坂道に並ぶ木々の間を縫うような遊歩道がある。
 秋になれば紅葉が綺麗だけれど、見頃にはまだ早い。木々の葉は瑞々しいとまでは言えないにせよ、緑に青に染まっていた。

 鬱蒼としているというほどではないけれど、遠くを見ることはできないほどに、植物は密生している。

 たぶん、誰かが通りがかりでもしないかぎり、誰もわたしたちに気付かないだろう。
 誰も、わたしたちを見つけられないだろう。そんな気がする場所だ。

 少し、肌寒い気もした。日差しはかすかに暖かかったけれど、吹き込む風は冷たい。
 木漏れ日は弱々しく儚げに思える、と、もし口に出したら感傷的だと笑われただろう。

 わたしはモネの絵を思い出した。思い出したあと、あれに比べたら、目の前に広がる景色は少し、当たり前すぎると感じる。 
 あるいは……モネが絵にしたもともとの景色も、こんなふうに当たり前のような姿をしていたのだろうか。

 モネのような景色を見るための才能が、わたしにはないだけで?

 ……よく分からない。



 わたしはカフェラテに息をふきかけてから口をつけた。
 少し熱い。

「ねえ、ケイくん」

「なに」

「ありがとう」

「……なにが」

「わたしのわがままに付き合ってくれて」

「成り行きだから」

「最初からそうだった?」

 ケイくんは返事をしてくれなかった。わたしは彼の表情を横目で覗く。
 いつものように退屈そうだ。
 そういえば、今朝からずっと、彼は煙草を吸っていない。……たいした意味は、ないのかもしれないけれど。

「ごめんね」

「いいよべつに」

「うん。あのね、ケイくん」

「なんだよ」

  
 少しうっとうしそうに、前を向いたまま、ケイくんは言う。 
 彼のそういう態度はぜんぶ、きっと、見かけより柔らかいものなんだと、わたしはなんとなく気付いていた。


「手をつないで歩きませんか?」

 わたしは、そう言ってみた。
 


 ケイくんは、呆気にとられたみたいだった。

「なぜ?」

 わたしはケイくんが右手に持っていた紙カップをするりと奪った。
 そうしてから、彼の左手の前にそれを差し出す。

 彼は左手でそれを受け取る。
 開いた右手をわたしの左手が掴んだ。

「……なんだよ、いったい」

「なんでもない」

 これはわたしのずるさかな、と少しだけ思った。
 
 わたしは、少しずつ、余裕を取り戻しつつあった。
 お兄ちゃんのこと、穂海のこと、お母さんのこと、考えることはたくさんあった。知りたいこともたくさんあった。
 
 でもそれは、眼前をすべて覆い尽くしてしまう暗幕のような悩みではなくて、
 ただ本棚の片隅に並べたままいつまでも手をつけられない読みさしの本のようなものなのだ。

 もしその本を読み終えることができなかったとしても、きっとわたしは生きていける。
 ただ、今はそのことが、どうしても気になっているだけで。
 
 そんなふうに考えるだけの余裕が、今のわたしにはあった。



 だからわたしは、彼の指に自分の指を絡めてみて、どきどきしながら軽く握ってみたりした。
 これはわたしにはけっこう勇気のいることだったんだけれど、
 ケイくんは平然と左手でカップを持ってコーヒーなんて啜っている。

 こなれた感じの態度がなんとなく寂しかったけど、わたしはわざと彼の顔の方を見ないことにした。
 嫌がられないだけでよしとしよう。

 文句のひとつも言わないというのは、これはもう相手がケイくんだということを考えれば奇跡のようなものだ。

 とはいえ会話が急に途切れてしまって、わたしは少し不安になった。
 そこでケイくんの方を見ると、彼もちらりとこちらを見た。

 目が合うと、わたしは照れとも困惑ともつかない落ち着かないきもちに胸の奥がざわつくのを感じて、
 思わずごまかすように笑ってしまった。

 彼は合わせて笑ってくれることもなく、はあ、と呆れたような疲れたような溜め息をつくと、不意に、
 ――キスをしてきた。

 一瞬だった。
 一瞬だったので、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。

「ケイく……」

 思わずわたしは手をはなしそうになった。
 ケイくんは放してくれなかった。おかげで距離を取ることもできない。
 今のは何かと訊ねるには、距離が少し近すぎる。


 それからも彼は何にも言わなくて、わたしも何も言えなくて、木の葉の落ちる音が聞こえそうな静寂があたりに満ちていた。
 
 いやだったとかそういうわけではなくて、
 とはいえ、前もってなにかあるべきじゃないかとかも思うし、
 でも、いまの状況ですることとは思えなくて、
 かといって、わたしの態度だってたしかにいまの状況にはそぐわないものだったかもしれなくて、
 でもそもそもどんなつもりでそんなことをしたのかとか、
 いろいろ考えているうちに分からなくなって、

 思わず、

「ケイくんは……」

 と、声が出てしまった。

「……ん」

 返事をしてくれたことに、まずほっとした。

「……なんか、慣れてる?」

 彼は立ち止まった。

「あのな」

「だって、なんでもないみたいだった」

「……あのなあ」

「違うの?」

 ケイくんは黙った。



「……そろそろ行こうぜ」

 とケイくんは言った。

「うん」

 そうだね、とわたしは頷いた。
 今するような話では、ないのかもしれない。

 わたしとケイくんとの間に、どのような言葉がふさわしいのかも、よくわからない。

 たとえばこんなタイミングで、好きです、付き合ってくださいなんて話をするものだろうか?
 そういうのは、足場がしっかりしている人たちがする話なのだ。

 無人島に遭難したふたりの男女が、結婚してください、なんて話をするだろうか?
 そんなのは結局、平穏が前提の余興にすぎない。

 もしするとしても、こうなるだろう。

『もし、無事に帰ることができたら、僕と結婚してくれないか』

 そう、全部は無事に帰ってからのお話だ。
 わたしはイメージの中で、男役をケイくんにして、女役をわたしにしてみた。

 返事はこうなった。

『でもね、ケイくん、わたしは、結婚とか、家族とか、そういうものがよくわからないの。
 誰かとずっと一緒にいるってことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの』

 あっというまに過ぎ去ってしまった唇の感触がそれでも得がたいものに思えて、 
 わたしはしばらくカフェラテに口をつけることができなかった。


つづく


「よくここまで来られたね、ふたりとも」

 まひるはにっこり笑う。その笑顔がなんとなく、作り笑いめいていた。
 どうしてだろう、と少し考えて、まあそういうこともあるだろう、と納得する。

 わたしだって教師や大人に取り囲まれれば愛想笑いくらい浮かべる。
 まひるが誰に対してそうしていたって、誰かに責められる謂れもないだろう。

「先輩、その人たちは?」

 訝しげな顔をする部員たちに、まひるは平然と返事をする。

「わたしの友達」

「が、どうして部室に?」

「さあ? どうしてだろう?」

「あ、ううん。お兄……」

 言いかけてこの呼び方はまずいかな、と思い直す。

 そもそも、呼び方以前の問題か。他の人がいる前で、わたしが「碓氷遼一」を知っているように振る舞うと不自然だ。

「それで、どうだった?」

 まひるはそう訊ねてきた。わたしは頷いた。


「うん。まあ、どうにか」

 帰る方法は見つかった、とこれだけで伝わるだろうか?

「どうして学校に?」

「少し確認したいことができたから」

「ふうん……? そっか。そうだね。うん。ちょうどよかったかもしれない」

「……何が?」

「そのまえに、ね、ふたりとも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだ」

「……相談?」

 どちらかというと相談したいのはこちらの方なんだけど、と思いながらも、あたりの目を気にして頷く。

 部室にいる生徒はまひるを含んだ四名。全員が女子。さっき「先輩」と呼んでいた人がいたから、下級生も含まれるのだろう。

「実はね、今月末にうちの学校の文化祭があるんだよ」

「はあ」

「それでわたしたち文芸部も、部誌を出すことになってるんだけど……」

 まひるはそこで一呼吸おいて、にへらっと笑った。

「ちょっと困ったことになってるんだよね」


「困ったこと?」

「手伝ってくれるとうれしいかな」

「断る」

 ときっぱり言ったのはケイくんだった。

「あはは。ケイくん、わたしのパンツ履いてる分際で偉そう」

 軽い口調のまひるの呟きに、三人の部員たちが顔を見合わせてこそこそと話を始めた。

「下着……」「どういう関係……?」「変態……」

「殺すぞ」とケイくん。まひるは平気そうに笑う。

 ていうか、まひるの風評にも被害がありそうだけど。

「否定しない……」「まさかほんとに……」「先輩って意外と……」

 やっぱり。

「それで相談って?」
 
 ケイくんが見知らぬ女の子にどういう目で見られようとわたしは痛くも痒くもないので、話をそのまま進めることにした。
 まひるは目を丸くしたあと、ちょっとつまらないような顔をして、「そうそう」と話を戻す。



「部員たちがね、部誌に寄稿してくれないんだよ」

「はあ。それは大変ですね」

 ケイくんはあからさまに不機嫌な顔をして、勝手に部室の奥に入り込むと、出しっぱなしにしてあったパイプ椅子にドンと腰掛けた。

「このままだと部誌の総ページ数が8ページ」

「ずいぶんぺらぺらだね」

「うち2ページは表紙、と表紙裏の白紙」

「実質6ページか」

「そのうち5ページの担当者はわたし」

「……この場にいる奴らは何をやってるんだよ」

 ケイくんの呆れたような口調に、三人の部員たちが顔を見合わせる。

「この三人はまあ、がんばってくれてるんだけど、みんな一年生だからね。ちょっと遅れがあるのは仕方ないし」

「他の部員は?」

「大半が幽霊部員。ほら、わたし人望ないから」

 そうは見えないけれど……。

「でね、よかったらふたり、何か書いてくれない?」

「は……?」

 ケイくんはイライラしているみたいだった。
 わたしもまあ、戸惑いはした。


「部外者だよ、わたしたち」

「うん。そうだけどまあ、べつに問題ないし」

 ないんだ。ありそうなのに。

 開け放した文芸部室の窓からは中庭の大きな欅が見えた。
 首でも吊れそうな太い枝だな、とわたしはぼんやり思う。

「……大半が幽霊部員っていっても、全員じゃないんだろ?」

「まあ、あと数人はいるんだけど……なんか面倒で」

 まひるがあっさりした口調でそう呟くと、他の部員たちが困った顔で頷いた。
 それにしても、この子達も順応性が高い。まひるが平然としているから、気にしていないのかもしれない。

「一応、わたしも部長だし、書いてくれそうな人に声かけたりもしたいところなんだけど」

「しろよ」

「うん。でもね、あんまり興味を持てる相手がいなくてさ」

「先輩ひどい」「ひどーい」

 部員たちの声。みんながからからと笑った。

「こっちも興味なくて、あっちも書く気ないのに、書いてくれって声かけるのって、ほら、失礼じゃないかな?」

「……」

 どうやらまひるは、真剣にそう思っているようだった。


「だからって、わたしたちに言われても」

「うん。べつに無理に頼もうとは思わないんだよ。薄くても問題ないっちゃないわけだしねー」

 でもほら、見た目がね、とまひるは苦笑する。

「多少厚い方が、迫力あるでしょ?」

「そんなの、数枚分白紙の原稿並べて、タイトルに『タブラ・ラサの不可能性』とでも書いとけよ」

「あは。意味分かんないけどそれ採用」

 まひるは本当に面白そうに笑った。

「ケイくん、名前はなんて書いておく?」

「俺の名前でやるな」

「でもケイくんのアイディアだし」

「ページの水増しなんて、読む奴の心証悪くするだけだ」

「でもほら、なんか現代アートっぽくない? 他人の顔色窺わない感じもまた」

「バカかよ」

 ふたりが話す姿は、とても自然なものに見えて、わたしはそのせいでいくらか落ち着かなくなる。
 


「他に部員はいないの?」とわたしは訊ねた。

「他……?」

 まひるは、その話はさっきしたはず、と言わんばかりの顔をした。
 わたしは少し考えた。

「えっと……ほら、前に話してた、碓氷って人とか」

 ああ、という顔を彼女はする。

「今はいないよ」

「どうして……?」

「用事があるって言って、抜けちゃってる」

「……ね、彼は原稿を書いたの?」

「ううん。いまのところ。気が向いたら書くって言ってたけど、わたし興味ないし」

「……」

 わたしは興味があるんだけど、とまひるに言ったところで仕方ない。


「まあ、ふたりとも、よかったら部誌に協力してよ。ほら、バックナンバー参考にしていいから」

 そう言ってまひるは壁際の書棚を指差す。

「……そのうち戻ってくると思うよ」と、最後にまひるは言った。
 
 わたしは溜め息をついて、書棚に近寄る。
 仕方ない。今は待つしかない。自然に顔を合わせるために。

 いや、この場で会うことが果たして自然なのか、わたしにはわからないけど。

 退屈しのぎに、わたしは示されたバックナンバーのいくつかを手に取った。

「ところで、あの、質問なんですけど」

 さっきからこそこそ話をしていた部員たちが、わたしとケイくんを交互に見ながら口を開いた。

「ふたりは付き合ってるんですか?」

「いいえ?」

「先輩とはどういう関係なんですか?」

 ケイくんは何も答える気がないらしい。わたしは小さく溜め息をついた。

「わたしは会ったばかりだけれど」と言ってから、ケイくんを指差す。

「この人は下着を借りるくらいの関係性らしいですね」

 ケイくんは、好きに言え、というふうに肩をすくめてみせた。



「服が汚れた。替えがなかった。そいつが持っていた。借りた。それだけだよ」

 端的でありながらも不機嫌そうな強い口調に、女の子たちは圧倒されたみたいだった。

 気になることがまだあるようだったけど、さすがにそのまま続ける気にはならなかったらしい。
 三人が黙ると、今度はまひるが手を打ち鳴らして、またホワイトボードに向かった。

 わたしたちのことはとりあえず放置して、話し合いを再開するらしい。
 内容は、どうやら、さっき言った文化祭のこと。
 
「ついに今月末かあ。あっというまだね」

「しばらくバタついてたもんね……」

「でも、本当に文化祭するつもりなのかなあ。何かあったら……」

「そうは言っても、そんなこと言ってたら学校来られないし」

「それはそうなんだけど……」

「こら。話聞いてる?」

「はい」「聞いてます」「すみません」

 ……バタついてた?




「ねえ、まひる……」

「ん?」

「バタついてるって?」

「あ、えっと……知らない? あの、ほら。うちの高校の生徒が……」

「……ひょっとして、例の死体か?」

 黙っていたケイくんが口を挟むと、まひるは気まずげに頷いた。

「そうそう。さすがに、うちの高校だけで二人目だからね……」

「怖いよね」「犯人、捕まってないんだよね?」「さすがにもう終わりじゃないのかな……」
「関連性が見つかったってテレビで言ってた」「なにそれ?」
「ほら、一人目の男の子と、うちの学校の沢村って人が同じ中学で……」
「だったら、無差別じゃないってことなのかな?」「でもさ、無差別じゃないとしたら、うちの学校の生徒が怪しくない?」
「たしかに。個人的な恨みとかでってことでしょ?」「でも、沢村先輩は知らないけど、弓部先輩が恨まれるとは思えないけど……」
「……あのさ、わたし知ってるんだけど、うちの部の碓氷先輩ってさ……」「碓氷先輩?」
「被害者の男子生徒ふたりと同じ中学だったんだって……」「え、嘘」「じゃあ何か知ってるのかな?」「心当たりあったりして」
「本人が犯人だったり?」「ちょっと、やめなよ」「ごめん、冗談」「でも、可能性としてはあるよね。全員と繋がりあるわけでしょ?」

「みんなストップ。あんまり良い趣味じゃないよ。不安なのも分かるけど、今は忘れよ?」

 まひるの声で、女の子たちの会話が止んだ。
 まひるが趣味の良し悪しを気にするのは少し意外だった。


 わたしは少し今の話題について考えてから、部誌のバックナンバーを手慰みにパラパラとめくりはじめた。
 なんとはなしに目を通し始めたのだが、不思議と目が止まるページがあった。


  おなかがずいぶんすきました
  すきました ので ごはんをたべます
  たぶん いつもの サラダとスープ
  玉子がない から うまくいかない

  あとで掃除をしようと思って
  こたつに入って テレビをつけて
  そうしたらほら もう動けない
  今日の降水確率は
  どうやらずいぶん高い様子で
  平らな平らな灰色ぐもは
  気鬱のわけには恰好で

  灰色の雲があるせいと
  いつもの玉子がないせいで
  こんな怠惰な生活です
  そういうことにしておきました


「生活」と題された詩のようだった。
 作者の名前はない。

 四つか五つほど、似たような詩が並んでいる。
 こういうのだったらわたしにも書けるかもしれない。


 ……そういえば。
 お兄ちゃんは、元の世界の、お兄ちゃんは、高校時代、何かを書いていたはずだ。
 わたしはそれを読んだことがある。お兄ちゃんに隠れて、勝手に部屋に忍び込んで。

 どんな内容だったっけ……?
 
 ――風船は、がらんどうなので、

 ――からかうように、ぱちんと弾け、

 ……なんとなく、思い出せる部分と、思い出せない部分がある。

 少し、思いつく。
 ひょっとしたら、この世界のお兄ちゃんと話すよりも、お兄ちゃんの考えに近付けるかもしれない方法。

 この世界の、この時間のことをヒントに、お兄ちゃんと過ごした日のことを、わたしが思い出す。
 そうすることによって、わたしは改めて彼に近付けるかもしれない。

 それはちょうど、本と読み手の関係のようだ。

 ある種の読み手が文章を読むとき、彼は文章そのものを読んでいるだけではない。
 文章から読み手自身の思想や記憶を連想し、“書かれていないこと”を読み始める。

 そうすることによって、文章は完成する。
 この世界、この時間という“文章”を、
 わたしという読み手が、わたしの記憶と思想のはたらくままに任せ、“解釈”する。
  
 結果、そこに新しい“物語”が生まれる。
 それは不可能ではなく、突拍子もない夢物語でもないように思える。

 試しにやってみよう。
 お兄ちゃんは、どんな文章を書いていたっけ?
 





  風船は がらんどうなので、
  軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
  針でつつけば ごらんのとおり
  からかうように ぱちんと弾け
  川面に浮かんだ あぶくのようだ
  
  風船は がらんどうなので
  割れてもだれも気にしません
  割れてもだれも気にしないのに
  割れてもだれも気にしないことを
  みんながみんな気にしていません

  みんな気にせずぷかぷか浮かんで
  よくも平気でいられるものだ
  どんなにぷかぷか浮かんでも
  どうせ割れるか萎むかするのに







 ――そうだ。
 
 お兄ちゃんは……“風船”が好きだった。
“好き”? 違う。
 愛着を持っていた、と言っても間違いだ。

 お兄ちゃんは、風船に、“何か”をオーバーラップさせていた。

 お兄ちゃんの書いた文章を隠れて読んだとき、なぜだかたまらなく怖くなったことを覚えている。

 そこに何が書いているのかは、わたしにはわからなかったけど。
  
 お兄ちゃんはやさしくてあたたかい人だった。

 でも、それは本当だろうか? 仮に事実だったとして、それだけ、だっただろうか。
 
 あの韜晦の裏に、お兄ちゃんが隠していたもの。
 わたしはそれを、もしかしたらどこかで目にしていたんじゃないか……?


つづく





「何を書くにせよ」と碓氷遼一は言う。

「結局は本人がどういうつもりなのかだけが問題なんだ」

「どういうつもり、っていうと?」

「何を書きたくて書きたくないか。だから本来強制されることでもないし教わることでもない」

 碓氷遼一は、ずいぶんとはっきりとした言い回しを好む様子だった。
 そこには予断や冗談が挟まる隙間さえなさそうに思える。

 それについての判断を一旦保留にして、わたしは彼との会話を続ける。

「つまり、ひとりで考えろ、と?」

「それが一番だと思う」

 そんな会話のあとに彼はわたしの前に原稿用紙をさしだした。
 引きうけたようなことを言っていたけれど、どうやらあんまり乗り気ではないらしい。


 まあ、とはいえわたしとしても、本当は文章の書き方なんてまったく興味がない。
 
 原稿用紙を受け取って、筆記用具を借りる。シャープペンシルを手に考え込んだふりをする。
 さて、何を話したものだろう。

「碓氷先輩」

「なに?」

「ちょっと意見を聞きたいんですけど」

「うん」

「突然、未来から来たって言われたら、どうします?」

「時をかける少女か?」

 言われてみれば。

「何言ってんだって思うだろうけどな」

「ですよね」

「タイムリープもの?」

「え、何が?」

「いや、そういう話を書くのかと……」

「なんでわたしが?」

「……」

 碓氷遼一は不機嫌そうに眉をひそめた。さすがにちょっとからかいすぎたか。



「えっと、それはともかくです」

 ああそうか、この状況だと、碓氷遼一にとってわたしは、一個下のよくわからない後輩ってことになるんだな。
 なんだか不思議な感じがした。

 彼から見たら、まるで物語みたいだろうな。

 たとえばほら、ある日突然奇妙な女の子に出会う。
 その子と話して仲良くなる。そして何かのきっかけで、彼女が未来から来たことを知ってしまう。
 実は彼女は彼の姪で、死んでしまった彼の面影を追って不思議な力で時間を遡ってきたのだ、と。

 あとひとつくらい何かを足せば、本当に物語みたいだろう。
 もっとも、それを裏側から眺める気分はあんまり良いものとは言いがたかった。

 本当に、ときどき、生活というものは、「物語みたいだ」と、他人事のように思わせてくれる。
 その現実感の遠さが、反対に「物語らしさ」を剥奪していくような気がする。

「……ともかく?」

 わたしははっとして彼の顔を見た。怪訝気な表情。おかしなやつだと思っているのかもしれない。


「未来から来たっていうのは、とりあえず、いいです。じゃあ、未来を知ってるって言われたら?」

「信じないだろうと思うよ」

「そうですよね」

「確かめようもない」

「うん。たしかに。なるほど……」

「それがどうしたの」

「ううん。未来を知ってても、誰も信じてくれないなら、意味がないなあ、って」

「まるで知ってるみたいに言うね」

「あはは」

 とわたしはこっちの世界に来てからはじめてわざとらしく笑った。
 ケイくんやまひるほど、気の抜ける相手ではない……。相性が、あまりよくない、ということだ。

 なんとなく、"当たり前のことを、当たり前にできる、当たり前な人"、という感じがする。


「知ってることは知っていますよ」

 でも、わたしは正直に答えることにした。

 結局のところ、率直さというものを軽視するべきではないようだ。
 曖昧にしたってごまかしたって、話はいつまでも進められないままだ。
 
 もやもやとさせていたってストレスが溜まるだけの平行線。
 そんなに時間があるわけでもない。切り込んでいかなければならない。

 もちろん、かといって、こんな言葉、どうせ信じてもらえないだろうけど。

「どのくらい未来について?」

「七年後くらい。まあ、知っていることは、ですし、当たらないかもしれないけど」

「じゃあ訊きたいことがひとつあるんだけど」

「はい?」

「ハンターハンターってちゃんと完結する?」

「……わたしが知るかぎりでは、まだ終わってませんね」

「そっか。ふうん。いつ終わるんだろう」

 ……前言撤回。
 この人も、やっぱり、どこか変だ。

 お兄ちゃんとは、違う意味で。



「碓氷先輩って……変ですね?」

「心外だな」

 といって、碓氷遼一は溜め息をついた。

「カサンドラってあるだろ」

「はい?」

「カサンドラ」

「……なんですか、それ」

「ギリシア神話。知らない?」

 有名だと思ったけど、と碓氷遼一は首を傾げる。本当に変わった人だという気がしてきた。
 参考になるんだろうか? 色んな意味で。

「神様の寵愛で予知能力を手に入れたんだけど、神様の呪いでその予知を誰も信じてくれなくなったっていう、女の人」

「なんですか、その……」

「うん。タチ悪いよね、神様って。まあ、神様っていうか、アポロンなんだけどね」

 ああ、アポロンなら納得。やりそう。

「まあ、そんなのなくたって、予知なんて誰も信じないだろうけどね」


「先輩は……」

「ん?」

「未来と過去、どっちかを見られるとしたら、どっちが見たいですか?」

「ん。柳田国男とか好きなの?」

「違います。ただの質問です」

「そっか。残念」

 どうして柳田国男が出てくるんだろう。衒学趣味な人なんだろうか……。

 いや、違う……。

 柳田国男。
 お兄ちゃんも読んでた。

 柳田国男なんて読む高校生、なかなかいない。

 ひょっとしてお兄ちゃんは……。
 自分の知識を、ひけらかえしたかった? だから、こんなふうに?

 あるいは、誰かに話を聞いてもらいたかった?

 もしかしたら、もっと単純に、自分の好きなものについて、誰かと話したかったのかもしれない。

 今の段階じゃ、何も決めつけることはできないけど。


「そうだなあ。どちらかというと、未来がいいな」

「どうしてですか?」

「過去のことは、まあ、本なり映画なりで、事実はどうあれ、なんとなく輪郭は掴めるだろう。
 でも、未来のことはどうしようもない。見当もつかない」

「……三日以内に」

「ん?」

「世界的な金融危機が起きますよ」

 あるいは、起きないかもしれないけど。
 本当のところ、わたしは、「この世界」については何も知らないし。

 碓氷遼一は目を丸くして、何か考えるような間を少し置いたあと、笑った。

「それは困ったね」

 カサンドラ。
 でも事実は逆だ。

 わたしは過去が見たかった。だからわたしはここにいる。

「ところで、先輩」

「ん?」

「人を殺したいって思ったこと、ありますか?」

 なんてことのない調子で言ったつもりだったけど、碓氷遼一は言葉に詰まったみたいだった。

「ないよ」

 と、それだけだった。「なにその質問」、なんて戸惑った声もない。

「きみはあるの?」

 その反撃に、わたしはうまく応えられなかった。


 それからわたしは、どうでもいい会話をしながら、適当な文章をでっちあげた。
 何かをでっちあげるのは苦手じゃない。わたしの存在だって気持ちだってほとんどでっちあげのようなものなのだ。

 碓氷遼一はアドバイスらしいアドバイスをしてくれなかったけど、それが逆によかったのかもしれない。
 おかげで余計なプレッシャーもなく自由にやらせていただけた。

 わたしの書いた文章が小説じゃなかったことに、まひるは少し不満げだったが、それでも感謝はしてくれた。

 文章を書きながら、わたしは、お兄ちゃんが書いた詩のことを思い出した。

  “風船は がらんどうなので、
   軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
   針でつつけば ごらんのとおり”

 あの詩の風船は、まるで、人間のことのようだった。
 
"針でつつけば ごらんのとおり"……。
 
 わたしの頭をよぎったのは、ケイくんが図書館で見つけた新聞記事。
 刺殺……凶器と見られるナイフ……。そして、さっきの噂話。

 でも、この連想には根本的な破綻がある。
 
 あの詩があった世界では物騒な事件なんて起きていなかった。
 この世界にはあの詩は存在しない。
 
 だから、繋がりにもヒントにもなるはずがないのだ。
 
 でも、
 もしこの世界が、お兄ちゃんの願いを反映しているとしたら?

 その自問の答えを、わたしははっきり言葉にできずにいた。


つづく




 泣きじゃくる愛奈ちゃんをベンチに座らせて、わたしは自販機で温かいお茶を買って彼女に渡した。
 ありがとうございます、と、こんなときも愛奈ちゃんは礼儀正しかった。

「それで、遼ちゃんが家に帰ってないって……」

 愛奈ちゃんは、わたしの言葉にこくんと頷いた。
 それ以上、続きはないらしい。

 遼ちゃんが、帰ってこない。 
 遼ちゃんが、いなくなった。

 わたしはそれを、どうしてだろう、意外だとは思わなかった。

 遼ちゃんはいつも、そこにいるのにいないような顔をしていた。
 いついなくなってもおかしくないような、そんな。

 でも、同時に、ありえない、とも思った。

 遼ちゃんが愛奈ちゃんを残してどこかにいなくなるなんて、ありえない。

 それはわたしの、勝手な思い込みだったのだろうか?



 愛奈ちゃんは俯いたまま深く息を吐き出して、それからゆっくりと吸い込んだ。

 そしてわたしの方を見上げる。

「月曜日、お兄ちゃんはいつもみたいに学校に行きました。
 わたしが最後にお兄ちゃんに会ったのはその日の朝です。
 お兄ちゃんは高校に入ってから、ほとんど毎日、学校が終わったらそのままバイトに行っていました」

 とても小学生とは思えない、丁寧で落ち着いた話し方だった。
 そういう子なのだ。

「火曜の朝に、おばあちゃんがお兄ちゃんのバイト先に連絡しました。
 バイト先の人によると、お兄ちゃんは閉店までしっかり働いていたそうです。
 特に様子がおかしいわけでもなかったと言われたそうです。
 おばあちゃんは、何かあったのかもしれないと言って、バイト先の人に事情を説明しました」

 愛奈ちゃんの話し方はとても真剣だったけれど、なぜだろう、
 それが子供の言うことだというだけで、ある種のおかしみのような気配が生まれる。
 
 それって悲しくないだろうか?



「おばあちゃんが、学校には風邪を引いたと連絡して、バイト先の人にも似たような説明をしました。
 どうして、とわたしは思ったけど、もしお兄ちゃんが戻ってきたとき、妙な噂になるといけないから、と言ってました。
 そうして今日になりました。おじいちゃんはいつものように仕事に行って、おばあちゃんもいつもみたいに家事をしています。
 まるで困ったことなんてなんにも起こってないみたい」

 それを恨まないであげてほしいな、とわたしは思った。
 どんなときでも、そうせずにはいられないのだ。

「小夜さん、お兄ちゃんを、どこかで見かけませんでしたか?」

 愛奈ちゃんは、何かにすがりつくみたいな目でわたしの方を見た。

 残念だけど、とわたしは首を横に振った。

「わたしが遼ちゃんを見たのも、月曜日が最後なの。わたしが見たとき……」

 遼ちゃんは。
 そうだ。

 ――怒るのって、エネルギーがいるだろう。

 ああ、あのときのあの言葉は、もしかしたら、
 そんなエネルギーは残っていない、という意味だったのかもしれない。

 遼ちゃんは……。

「遼ちゃんは……普通だったよ」

 そのときわたしは、愛奈ちゃんに嘘をついた。
 それがどうしてなのかは、自分でもよくわからない。

 そうですか、と愛奈ちゃんは目を伏せた。


 愛奈ちゃんはそのあと、何かを考えるみたいにずっと黙り込んでしまった。
 そうしてまたポロポロと涙をこぼし始める。

 自然と溢れてきてとまらないみたいに。
 そうやって涙を流せるのが、ほんのすこしだけ羨ましいとも思った。

 同時に、ほんのすこしだけ、怒りに近い感情が自分の中で渦巻くのに、気付かずにはいられなかった。

 どうしてだろう。

 でも、それは、わたしがどうこう言えることじゃない。

 愛奈ちゃん。
 彼女は知ってるんだろうか?

 遼ちゃんのことを、ちゃんと分かっていたんだろうか?




 遼ちゃんのお姉さんが愛奈ちゃんを残して家を出ていったときから、
 遼ちゃんのなかで何かが変わったのがわたしには分かった。

 彼はそのときから、ごく当たり前の子供時代を投げ捨ててしまったように思えた。

 まるでそこで得られるものが取るに足らないがらくたにすぎないというように、
 何かを楽しむことも、何かではしゃぐことも、声をあげて笑うことだってしなくなった。

 ただ気遣うような愛想笑いと、本音の見えない追従があるだけ。

 その韜晦に秘められたものがなんなのか、わたしはほんのすこしだけ分かるような気がしていた。
 それも、分かったつもりになっていただけなのかもしれない。


「どうしてこんなことになるんだろう?」

 公園のベンチに並んで腰掛けて、ただぼんやりと過ごしていたとき、
 遼ちゃんは突然そう言った。

 わたしは遼ちゃんから、愛奈ちゃんのことやお姉さんのことを聞かされていたから、
 遼ちゃんが気にする理由もわかるような気がした。

 でも、それは遼ちゃんが抱え込むようなことではないはずだ、とも思った。
 
 だって、わたしたちはそのとき、まだほんの子供だった。
 今だってまだ、子供でしかない。

「僕にはどうしても分からないんだよ」

 本当に、心底疑問だというふうに、彼は言うのだ。
 
「愛奈ちゃんのこと?」

「どうして平気なんだ? どうしてそんなことを、平気でできるんだ?」

「平気じゃ、ないのかもしれないよ」

「だとしても……」と遼ちゃんは言う。

「平気じゃないとしても、そんなのおかしい」

「うん……」

 でも、仕方ないよ、と、わたしはそう言った。

 遼ちゃんは苦しげに俯いた。

「……間違ってる」

 ――遼ちゃんのことを、わたしは、愛奈ちゃんは、分かっていたんだろうか?
 そんな疑問の答えは、とっくのとうに分かりきっている。
 
 分かるわけなんか、ないのだ。





 立ち上がろうとしない愛奈ちゃんを連れて、彼女の家まで向かった。
 
 遼ちゃんの家に行くのは初めてではないけれど、珍しいことではあった。

 遼ちゃんは自分の家に友達を連れて行こうとはしなかった。

 どうしてなのか、遼ちゃんは言おうとしなかったけど、わたしにはなんとなく分かるような気がする。
 
 遼ちゃんの家にわたしが行ったとき、遼ちゃんのお母さんとお祖父ちゃんは口喧嘩をしていた。
 
 いつもなんだ、と遼ちゃんは恥ずかしそうに言っていた。

 そういうことなのだろうと思う。

 愛奈ちゃんはわたしを家の中に招いてくれた。

 もう、お祖父ちゃんはとっくに亡くなっている。
 
 家には遼ちゃんのお母さんがいた。
 愛奈ちゃんの面倒を見るために、それまでしていた仕事をやめて家にいるようになったのだと聞いていた。

「なんだか久しぶりじゃない?」と、当たり前みたいに笑うおばさんが、
 わたしはほんのすこしだけ怖かったけれど、ほんのすこしだけかわいそうだと思った。

 遼ちゃんがいなくなったのに。
 まるでそれを認めたくないみたいに。




 わたしは、それをそうだと分かったうえで、それでも他に放つ言葉を見つけられなかった。

「遼ちゃんのことなんです」

「ああ、うん」

 おばさんはキッチンに向かって、麦茶とコップを用意してくれた。
 もう九月なのに、風は冷たいくらいなのに。

 それがなんだか寂しいと思った。

「帰ってこないの」

 おばさんはそれ以上何も言わなかった。

 どうぞ、と差し出されたコップに口をつけて、麦茶を飲む。

「どうしてだろう?」

「どうしてでしょうね」

「何も言わずに無断外泊なんてする子じゃないし、もう三日も連絡がないなんて……」

「警察には?」

 おばさんは小さく首を横に振った。まるでその言葉を恐れていたみたいだった。
 


 それから彼女はつけっぱなしになっていたテレビに視線を向けた。
 ぼんやりとした、何も見ていないような目だな、とわたしは思う。
 
 小夜ちゃんはランドセルを置いて手を洗った。
 それから自分の分のグラスをもってきて麦茶を口にすると、鞄を広げてプリントを取り出した。

 宿題らしい。
 宿題。

「小夜ちゃんは、何か聞いてない?」

 期待のこもった目で、おばさんはわたしを見た。

「すみませんけど、何も。遼ちゃんとは、あんまり話してなかったから」

「そう、よね。子供の頃、仲が良かったって言ってもね」

 そうじゃない、とわたしは思ったけれど、うまく説明できる気がしなかった。
 ただ、遼ちゃんはわたしに何も教えてくれなかった。

 ただそれだけなのだ。



「何か、抱えてることがあるなら、話してほしいって、わたしはそういうことを言ったんです」

「……それって、いつ?」

「月曜の、朝です」

「……」

「遼ちゃんは、わたしには何も言ってくれなかった」

 いろんな可能性が、あるとは思う。
 何かに巻き込まれた、と、そう考える方が、もしかしたら自然なのかもしれない。

 でもわたしは、遼ちゃんは自分の意思で、どこかに行ってしまったような気がしてならない。

 遼ちゃんは……。
 どうしてわたしは、遼ちゃんと一緒にいることができなかったんだろう。
 以前のように、ただ一緒にいるという、ただそれだけのことができなくなってしまったんだろう?
 
 どうしてもそれがわからない。



「何か、追い立てられてるみたいだな、と、思ってはいたの」

 おばさんは、そう言った。

「思ったことを口に出さない子だったし、自分でこうと決めたことは、絶対に譲らないところがあったから……。
 危なっかしいとは、思っていたの。でも、当たり前みたいに過ごしているから、わからなくなっちゃった」

 自嘲するみたいに笑って、彼女は言葉を続ける。

「ねえ小夜ちゃん。わたしが悪いんだと思う?」

「おばさんは、わたしが悪いと思いますか?」

「……」

「わたし、ひとつだけ分かることがあります」

「……?」

「何が起きたにせよ、遼ちゃんはきっと、自分のせいだ、自分の責任だって思ってます」

「……そうかもしれない」

 そう言って彼女はまたテレビに視線を投げ出した。そうして何かに気付いたみたいに声をあげた。
 わたしも画面に目を向ける。


 隣町で殺人があったとの報道。
 
 死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
 誰かに刺されていたらしい、と言っていた。

 職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに死体を見つけたのだという。

 不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。

 姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
 バイクがないから、今回もただ帰っていないだけなのかもしれない、と。

 妹の方は、真面目で挨拶もちゃんとする良い子だった、と同じ人物。
 何かに巻き込まれていないといいんだけど、と、そこで話は終わった。

 死体。

 おばさんの表情がこわばるのが見て取れた。

 大丈夫ですよ、心配しなくてもきっとそのうち帰ってきますよ。
 そんな気休めがわたしにはどうしても言えなかった。

 遼ちゃんは帰ってこないかもしれない。そう思うと胸が締め付けられるような思いがした。





 翌日の学校にも、やはり遼ちゃんの姿はなかった。

 不思議なことに、その日は沢村くんも学校を休んでいた。
 うるさいくらいの健康優良児だった彼が病欠なんて、珍しいと思ったけど、わたしは気にも留めなかった。

 わたしはその日、クラスの人たちや、文芸部の人なんかに話を聞きに行った。
 
 でも、誰も遼ちゃんのことなんて誰も知らなかった。

 文芸部の部長さんは、「ただの風邪じゃないの?」と不思議がっていた。

 クラスメイトたちは、「そんな奴居たっけ?」とでも言いたげだった。

 わたしの苛立ちが誰かに伝わればいいと思った。

 最後に、わたしは図書室に向かった。

 図書委員の女の子はわたしと同じ学年で、篠目さんという名前だった。

 彼女に、碓氷くんのことについて知らないか、とそれとなく訊ねた。

「来てない」と彼女はそっけなく言った。まるでわたしなんてとっとといなくなってほしいみたいな言い方だった。

「いないの?」と彼女は聞いてきた。

「そうみたい」

「遊園地かもしれない」

「遊園地?」

「そんな話をしたから」

 冗談だと思って、わたしはそれ以上話を聞かなかった。

 誰も遼ちゃんの行方について知らない。

 どうしてわたしたちは後悔ばかりなんだろう?


つづく



 三階にたどり着いた瞬間に、空気がぴしりと音を立てて変わるのを感じた。
 
 具体的に何がどう違うというわけではない。
 
 ただ何かが決定的に変わっていた。
  
 閉ざされた窓、薄暗闇の廊下、ずっと続いている。

 教室の扉はすべて閉ざされている。
 誰の気配もない。

 ただいつまでも続いているのだ。

 やめておけばよかった、と僕はほんのすこしだけ思った。

 僕はこんなところに来るべきではなかった。
 僕はこんなところに来るつもりではなかったのだ。

「大丈夫?」とすみれが訊いてきた。何がだろう、と僕は思う。

「真っ青だよ」と彼女は言った。

 僕は首を横に振る。

 大丈夫? と僕は頭の中で繰り返した。



 僕はただ歩いていただけだ。
 何もおかしなところなんてない。

 すみれが喉を鳴らすのを聴いた。

 僕たちはただ廊下を歩いている。

 薄暗い、光の刺さない、埃っぽい空気。
 なんだか、少し前にもこんな場所を歩いた気がする。

 どこだろう。
 もしかしたら、あの地下貯蔵庫だろうか。

 この世界に来るときに覗いた、あの。

 僕は不意に、あのときに見つけたラテン語の本のことを思い出した。
 ただ箴言を並べただけのような言葉たち。
 
 今の僕は、いくつか、その言葉を思い出せるし、その意味も知っている。
 あのときは、不思議と忘れていた、というより、意識できなかった。そういうつくりなのだろう。

"In vino veritas."――酒の中の真実。

 酒の中。

 ワインの貯蔵庫。カタコンベ。あの暗闇、饐えた匂い。
 僕は一度、あの貯蔵庫の先にあった扉が、僕の望みだったんじゃないか、と、そう思った。
 
 さっきすみれに話したのだって、そういうことだ。




 でも、そうなのだろうか?
 
 そうではなくて、ひょっとしたら、あの光景こそが、僕にとっての真実だったんじゃないか?
 あの空虚、あの暗闇。

 あそこには愛奈の姿も、愛奈を思わせるものも存在しなかった。

 そして埃をかぶった本にはこんな一節があった。

"Peior odio amoris simulatio"――愛の見せかけは憎しみよりも悪い。
"Aliis si licet, tibi non licet."――たとえ他人が許しても、自分自身に許されはしない。
"Non omne quod licet honestum est."――許されることすべてが正しいとは限らない。

 あの光景は……僕が愛奈を、本当の意味で愛してもいないし、大切にもしていないのだと、突きつけていただけなんじゃないか。
 僕にとってはあの空虚こそが真実で、
 金を貯めるとか、愛奈と過ごすとか、そんなのはすべて言い訳でしかなく、
 僕はただ、愛奈を大事にするという大義名分の上に、自分自身の生を懸命に生きることから逃げているだけなんじゃないか。

 それを僕は心の奥底ではわかっているんじゃないか。

 そんなことばかりが、どうして頭をよぎるのか?

 最初から気付いていたからじゃないのか?

「……」

 不意に、僕は立ち止まった。
 気付いたのは、そうしてからだった。

「遼一……?」

 肩越しに振り返るすみれ。
 その向こうに、立っていた。

 沢村翔太だった。



 僕の視線の先を追って、すみれのからだがきゅっと小さく縮こまるのが分かった。
 僕はなんとなく、こうなるのが分かっていたような気がした。

「遼一」とかすかな声で彼女が僕のことを呼んだ。
 
「すみれ、悪いんだけど、やっぱり君はあさひのところに戻ってくれないか?」

「え……?」

「少しふたりで話したいことがある」

「でも」

「大丈夫だから」

 すみれはしばらく僕と沢村のことを交互に眺めていた。
 沢村はその間何も言わなかった。どこかに行こうともしなかったし、襲い掛かってくるようなこともなかった。
  
 どうしても納得がいかないような顔をしていたけれど、すみれは結局そのまま階段の方へと戻っていった。

「無茶しないで」と最後に彼女は言ったけど、僕がする無茶なんて何があるだろう。

 さて、と僕は沢村と向かい合う。
 
 沢村は黙ってこっちを見ている。

 鏡でも見ている気分だった。





「久しぶりだな」と沢村は言った。
 
「会ったばかりだろう」と僕は言った。

 沢村の様子は、僕がこちらに来る前と、なにひとつ変わっていないようにも見える。
 姿も、立ち居振る舞いも、何もかも。

「それもそうだな。痛かったか?」

「少しね」、と僕は言う。「でも、ほんの少しだよ」

「さっきの子は?」

「友達だよ。たぶんね」

「おまえはひとりじゃなかったんだな」
 
「そうだね。……ねえ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」

「そうだろうな」と彼は言う。「俺も話したかったのかもしれない」

「僕に?」

 いや、と彼は言う。

 誰かに、さ。



 きみは、ひとりでこっちに来たんだな。

「そうだな」、と彼は言った。「ひとりだった」

 いったい、いつこっちに来たんだ?

「それは、どっちの意味だ? あっちの時間か、こっちの時間か」

 両方かな。

「おまえがいなくなってから、三日と経っていなかったと思う。どうだったかな。一週間くらいだったかな。
 覚えていないな。なにせ、けっこう前だから。おまえはいつ頃こっちに来たんだ?」

 ついこの間だよ、と僕は言う。
 八月十八日。

「それはすごいな」と沢村は言った。

「一昨日じゃないか。ずいぶんこの世界に慣れてるな」

 そうか、と僕は思った。
 今は、八月二十日。

 それで、きみはこっちの、いつに来たの?

 そのズレが、僕の気になっているところだった。

「たいした時間じゃない」と彼は言った。

「ほんの半年前だよ」

 僕の疑問のひとつは、その一言で解けた。



 僕がこちら側に来る前、沢村翔太はまだあちらにいた。
 沢村がこちらに来るタイミングは、だとすれば、僕よりも後だったはずだ。

 にもかかわらず、どうして沢村は僕たちが来るよりも前に、人を殺せたか?

 簡単なことだ。

 こちらとあちらを行き来したとき、僕たちだって同じ日から同じ日に飛んできたわけじゃない。
 あの扉をくぐったときに、時間のズレがあるのだ。
 
 そして、沢村の場合は、僕たちよりも大きく過去にずれた。

 理由は知らない。理由なんてなさそうだ。

「それで、ここに来たのはどういう用件だ? というより、ここに俺がいるとよく分かったな」

 べつに確信があったわけじゃないんだけどね、と僕は言う。
 まぐれ当たりだよ。

 沢村は嘲笑した。

「やっぱりお前は、そういう奴だな」

 その言葉の意味が僕には分からない。

「それで、もうひとつの質問の方だ。用件は、いったい何だ?」

 僕は呼吸を整える。





「きみはいったい、どうして人を殺したりしたんだ?」

「やっぱり、止めに来たんだな?」

「少し違う。話を聞きに来た」

「返答次第じゃ、俺を殺さなきゃいけないからか?」

「……」

「そうなんだろ?」

「……」

「まあいいさ。なんだったっけ。どうして人を殺したりした、って?
 どうしてそれがわかったんだ? って、これは自白だな」

「知る限りだと、四人だ」

「……四人? どうして知ってる?」

「知ってる奴がいた」

「そうか……。まあ、そういうものかもしれないな」

「……それで?」

「なんだっけ?」

「どうして殺したか、って話」

「まるで審問官だな」

「どうでもいい」


「審問っていうのは、よくないぜ」
 
「……」

「審問っていうのは、つまり、善悪や当否を裁く側の人間の語法だ。
 客観性、公平性を拠り所に、他人の是非を決める立場の人間の話法だ。
 でもな、そんな俯瞰的な立場なんてありえない。客観性も公平性もありえない。
 にもかかわらず審問を行うとどうなると思う?」

「……」

「錯誤するんだよ。自分が裁く立場に値する上位者で、自分の判断が正当なはずだと誤解してしまう。
 だから、何かを裁くっていうのは地獄なんだ。自分がまるで、ひとつも瑕疵のない善人のような気分になってしまう……。
 まあ、俺が言えたことでもないけどな」

「それは自虐?」

「かもしれない。いや……こういう話をするときは、どうしても自虐的にならざるを得ないもんだ」

「でも、どうでもいいんだ。……どうして殺した?」

「その答えも、同じだな。『なぜ』なんて分からないよ。そうだろう?
 どうしてここに行き着いたかなんて、俺たちには分からない。俺だって、結果として人を殺した自分を知っただけだ」

「そういうので煙に巻かれたくない。教えてくれよ。なあ、きみは、生きてて楽しかったんじゃないのか?
 だったらどうしてこっちにいるんだ? どうしてこっちに来たんだ?」




「俺がそう言ったか?」

「……」

「生きてて楽しいって、俺が一回でも、俺の口から言ったか?」

「……なんなんだよ」

「べつにいいさ。どう思ってもらっても。俺がおまえを詰ったのは、ただ不幸ぶった顔つきが気に入らなかったからだよ」

「……」

「自分以外を馬鹿だと思って、平気で他人を侮って、そうして平気で羨むような、そんな拗ねた目が気に入らなかった。それだけだ」

「……」

「例の廃墟の遊園地。なあ、おまえもあそこを通ったんだろ? 俺もそうだよ。そこでざくろに会った。
 ざくろに会って、こっちに来た。あいつはとんだ詐欺師だよ。あいつには、望みを叶えるなんて器用な真似できやしなかったんだ」

「……どういう意味だ?」

「気付いてなかったのか? あいつは俺たちの望みなんて叶えちゃいないよ。
 あいつにできるのは、ただ、ふたつの世界を結ぶことだけだ。適当な口車に乗せておけば、
 こっちに来た段階で、乗せられた奴はこう思う。『ああ、自分の形がこういうふうに叶った世界なんだ』ってな」

「……どういうことだ?」

「分からないか? ふたつ、よく似た異なる世界がある。客はどちらかの世界から来る。
 すると、その変化に気付く。そしてその変化を、『自分の願望の投影』として解釈する。
 ああ、本心では自分はこういうことを望んでいたのか、と、勝手に受け取る。
 だからこの世界は俺たちにとって、事後的に『願いどおりの景色』に見えるんだ」

「……」

「本当はざくろにそんな力はない。あいつは、繋ぐことしかできない」



「なあ、そんなことはどうでもいいんだよ。どうして殺したりしたんだ?」

「分からないか? 本当に?」

「……」

「別に煙に巻きたいわけじゃない。それはそんなに難しい話じゃないからだよ。
 ただ、まあ、そうだな。順番に話そう。俺だってこっちに来てから、いろいろ見たよ。
 いろんなものを見て、いろんなことを考えた。そうしてそのうち嫌になって帰りたくなった。
 でも、改めて考えてみると分からないんだ。本当に俺はあっちに帰りたいのか? 帰ってどうするんだ?
 誰が俺を待っているわけでもない、誰も俺を求めちゃいない、そんな場所にもう一度帰って、平気で暮らしたいのか、って」

「……」

「答えはすぐ出たよ。別に帰りたくなんてない。どうだっていいんだ、こっちもあっちも」

「理由になってない」

「聞けよ。そうしているうちに、こっちで過ごしている俺の姿を見て、馬鹿らしくなったんだ。
 ああこいつはなんでこんなにばかみたいに笑ったりしてるんだろう、どうしてばかみたいに生きてるんだろうって。
 そうしたらだんだん憎らしくなってきた。感じないか? 俺の顔で、俺の声で、まるで楽しそうに笑う自分を見て、
 なあ、おまえなら殺したくならないか?」

「……他は」

「ん?」

「他の人たちは、どうして?」

「……ああ、なんとなく、個人的に、な」

「……」

「弓部玲奈、鷹野亘、寺坂智也……俺が殺した。理由に関しては言いたくないけど、そうだな。よくある理由だよ」

「よくあってたまるか」

「こういう状況になったら、俺でなくても誰か殺したくなるさ。だろう?」

「……」


「おまえを殺そうとした理由と、ほとんど変わらないよ。
 気に入らないから……あるいは……逆恨みって言ってもいい」

「そう分かってるなら、どうして殺した?」

「失うものなんてないからさ」

「だったら、殺さなくても別によかった」

「でも、殺しても別によかった」

「……」

「平行線だよ。これ以上は」

「……小夜は」

「……」

「小夜も、殺す気だったか?」

「……どうだろうな。おまえの次には、殺したかもしれない。
 そう言ったら、おまえは俺を殺してでも止めるだろう?」

「……」

「俺にはわからないな。おまえは全部持ってるようにみえるよ。
 俺が持ってないもの、全部持ってて、そのうえでそれを蔑ろにしてるように見える」

「……」

「俺はおまえみたいになりたかったんだ」

  ああ、本当に、鏡でも見ているみたいだ。





「安心しろよ。もう殺さない」

「……」

「今まで、たまたま誰にも見つからなかったから、続けてきただけだ。
 誰かに追われてまで、そんな面倒をしてまで、続ける気はない」

「それを僕は信じるか?」

「さあ。信じてくれてもかまわないし、信じなくてもかまわない。
 どっちにしろ、俺はやめるよ……とりあえず。あとのことは、ざくろ次第だな」

「……ざくろ」

「ああ」

「あの子は……何なんだ?」

「知らない。ただ、あるがままのものだと思うよ」

「……なあ、きみは知ってるのか? あっちに、帰る方法」

「……そうだな。知っている、と言えば知っている。ざくろに会えばいい」

「だから、そのざくろは、どこにいる?」

「あいつはどこにでも現れる。待ってりゃそのうち会えるだろう」


「……きみは、どうする気だ?」

「言ったろ。ざくろ次第だって。でも、そうだな……。
 おまえは、殺してやりたいな。いつか、殺してやりたい。でも、とりあえずやめておいてやるよ。
 どうせ、死んだも同然の人間だ。野垂れ死ぬのを待つさ」

「……」

「おまえ、帰りたいのか?」

「……ああ、そうだね」

「だったらひとつ、教えておいてやるよ。ざくろに言えば、たしかにあっちに連れ戻してくれる。
 でも、さっきも言った通り、ざくろにできるのは繋ぐことだけだ。
 そして、俺やおまえがそうだったみたいに、ざくろの案内にしたがってあっちとこっちを行き来するとき、
 時間がずれるんだ。そのズレは、大きいときもあれば、小さいときもある。
 一週間で済むときもあれば、何年もズレることもあるらしい。言いたいこと、分かるか?」

「……」

「俺たちの肉体はそのままだ。そのまま、何年もずれ込むかもしれない……。
 それは、扉をくぐってみなけりゃ分からない。一種の賭けだな。
 つまり、俺たちはもう、こっちに来た時点で、ざくろの扉をくぐった時点で、俺たちは元通りになんて戻れない。
 そういうことを、よく考えておいた方がいいぜ」

「……覚えておくよ」

「そうだな。そうしてくれ。……それじゃあ、お別れだな」

つづく

478-3 夏休み → 土日 
602-4 訊ねた → 訪ねた


 ◇

 その日の夕方、僕たちは碓氷遼一の姿を探した。

 彼の家の近くの公園に、僕らはまた訪れた。
 
 何度似たようなことをやっても懲りない。
 ほかの手段が思いつかない。

 公園のベンチには一人の女の子が座っていた。

 それは見覚えのある女の子だ。

 穂海だ。

 彼女は僕に気付いて、なんだか変な生き物を見るような目をした。

「お兄ちゃん?」

 穂海は僕のことをそんなふうには呼ばなかった。



 穂海。

 姉は愛奈の父親である元夫と離婚したのち、再婚し、穂海を産んだ。

 そして今、夫と、穂海と、三人で生活している。
 愛奈だけを残して。

 僕はそれをまちがいだと思った。

 そんなのはどこか変だ、いびつだ、おかしい、あってはならない、と思った。

 けれど……。

 どうして穂海がここにいるんだ?

 どうして穂海が僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだりする?

「お姉ちゃんは?」と僕は試しに聞いてみた。

「お姉ちゃん?」

 穂海は首を傾げる。

「……誰のこと?」

「誰って、愛奈だよ」

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

 僕は立ち上がった。



「お兄ちゃん、その人たち誰?」

 穂海はすみれとあさひを見上げた。

 こんなに滑稽な話があるものだろうか?

 碓氷遼一がどうしてあんな人間なのか。
 どうして僕はあんなにも、彼に相容れない印象を覚えたのか。
 
 結局のところ何もかもがはっきりしていた。

 この世界には愛奈はいないのだ。

 愛奈がいない世界で、僕はずいぶん幸せそうだ。

 愛奈さえいなければ、何もかもうまくいったみたいに。

 きっと姉は、母との間に何のしがらみも持っていないだろう。
 穂海もまた、祖父母に愛されて過ごしているのだろう。

 この世界の僕は、僕として生きているのだろう。
 平然と。
 当たり前に。

 問題なんてなにひとつないかのような顔で。



 そんなことが許されていいのか?

 僕たちがその場から離れてすぐに、後ろから声が聞こえた。

 振り返ると、碓氷遼一がこちらを睨んでいた。
 少し、怯えているようにも見える。

 僕はその姿を、ただ、なんとなく、見つめる。

 赤の他人でも見つめているような、
 でもどこか、何か大切な、忘れてはいけないものが宿っているような、
 そんな姿を。

 彼は穂海の手を掴んだ。

 彼のような素直さで、僕は愛奈を愛しているのだろうか?

 僕と彼とで、何が違った?

 僕はどこで間違えてこんな生き物になった?

 どうして僕は、こんなところに来てしまったんだ?

 何もかもがわからない。




 その日の夜、僕らはあさひの家で休んだ。

 翌朝あさひは夢を見なかった。

 テレビのニュースでも、誰かが刺されたなんて情報は流れてこなかった。

「ねえ遼一、あのとき、あいつとどんな話をしたの?」

 すみれはそのことについて聞きたがったけれど、僕はうまく説明できなかった。

「でも、とにかく止まったみたいね」

 たしかにその通りだった。あさひはもう夢を見なくなった。
 でも、考えてみればおかしな話だ。

 どうしてあさひは、沢村の目線の夢を見たのだろう?

 どうして沢村が殺そうとした人々の夢ばかり見たのだろう?

 この街には、死んでしまう人間なんてたくさんいるはずなのに。
 これからも、たくさん死に続けるのに。
 どうしてあさひは、沢村に関わる死だけを前もって教えられたのだろう?

 きっと、どれだけ考えても、正解なんてないんだろうと僕は思った。

 世界がふたつある理由を、あのざくろという女の子すら知らないのかもしれない。
 
 僕たちは、「なぜ」を知ることができない。
 物事はいつだって、ただそうあるだけのもので、
 僕たちがしているのは、ただ解釈でしかない。
 
「とにかく、遼一が止めてくれたってことなんだよね」

 すみれはそう言って話をまとめた。

「違うよ」と僕は言った。

「僕は何もしてない」

 その言葉を言った瞬間、僕は本当に泣きそうになってしまった。
 僕は何もしていない。ただ振り回されていただけだ。






 僕たちはあさひのいれてくれたコーヒーを飲みながら話をした。
 これが夢だったらどんなにいいだろうな、と僕は思った。
 
「これからどうするの?」

 あさひにそう訊かれたときも、僕はうまく返事ができなかった。

「帰るよ」とかろうじて返事ができた。
 
 荷物を整理しなければいけないな。
 
「方法は?」

「分からないけど、でも、見つかると思う」

 そんな話をしながら、僕の頭をよぎっていたのは、沢村の言葉ばかりだった。

 元通りの時間に帰れるとは限らない。
 
 そもそも、帰ってどうする?
 お前は帰りたいのか?

 僕のことなんて誰も待っていないかもしれないな、と僕は思った。
 
 でも、それも仕方ないことだろう。
 いつまでもあさひに迷惑をかけているわけにもいかない。

「とにかく、探してみないことにはな」

「そっか」とあさひはあっさりと頷いた。

「いろいろありがとう。がんばってね」
 
 ありがとう、がんばってね、か。
 用済みって意味だ。

 なんて、そこまで卑屈でもないけれど。


つづく


¬[Jerusalem] S



 まだわたしたちが当たり前の姉妹でいられた頃、ざくろが教えてくれた。
 
 花の名にまつわるふたつの神話。

 一つ目はこうだった。

 あるところに、ひとりの女の子がいた。

 アポロンは、他の多くの女を求めたのと同じように、彼女を見初め、彼女を求めた。
 けれど、彼女には婚約者があったので、その求めを受け入れるわけにはいかなかった。

 かといって、もしも自分がアポロンの要求を拒めば、彼は自分や自分の周りの人間に激怒して罰を与えるだろう。

 自らの境遇に苦悩した彼女は、貞潔の女神にこう祈りを捧げる。

「どうか私を、人間以外の姿にしてください」

 女神アルテミスは彼女の祈りを聞き届け、その身を一輪の花に変えた。

 それが"すみれ"。だから、花言葉は「誠実」。



 二つ目は、また別の話。

 あるところに、ひとりの女の子がいた。

 彼女の母親が亡くなったあと、父親は彼女に対して情交を迫った。
 
 彼女はその求めから逃れるが、自らの境遇を嘆き、母親の墓前でその命を絶った。

 神は彼女を憐れに思い、その魂を花に宿らせ、父を鳶に変えた。
 
 そして、鳶が決してその花のなる枝に泊まらぬようにさせた。

 それが"ざくろ"。花言葉は「愚かしさ」。

 ふたつのお話には類似点と相違点がある。

 同じなのは、情交を迫られること。
 異なるのは、片一方は自らの祈りを聞き届けられ花になり、片一方は自ら嘆き擲った魂を花に宿らされたこと。
 


 このふたつの神話はギリシアのものだったはずだ。
 でも、ギリシア神話について書かれた本をいくつか探したけれど、
 わたしはこのふたつのお話を見つけることができなかった。

 彼女は何か思い違いをしていたのかもしれない。

 代わりにわたしが見つけたのは、"ざくろ"にまつわるふたつのお話。

 一つ目は、酒神バッカスにまつわるもの。

 占い師に、「いつか王冠を戴くことになる」と言われたひとりの妖精は、
 酒神バッカスに「王冠を与える」と欺かれ、弄ばれて捨てられてしまう。

 妖精は悲嘆に暮れ、そのまま死んでしまう。

 あまりの様子に気が咎めたバッカスは、彼女をざくろの木に変えて、
 その実に王冠を与えたという。だからざくろの実には、王冠に似た部分がある。

 二つ目は、冥府の女王ペルセポネにまつわるもの。

 デメテルの娘ペルセポネは、冥府の支配者であるハデスにさらわれる。
 ペルセポネを見初めたハデスが、彼女を妻にしようと拉致したのだ。

 怒ったデメテルがゼウスに抗議すると、ハデスは一計を案じた。

 ペルセポネにざくろの実を食べさせたのだ。

 神々の間には、冥界の食べ物を口にしたものは、冥界に属するという掟があった。

 ペルセポネは、一年のうち、食べた実の数に応じた時間だけ冥界にいなければならなくなり、結局ハデスに嫁ぐことになった。
 そして豊穣の神であるデメテルは、ペルセポネが冥府にいる間だけ、地上に実りをもたらすことをやめた。

 これが冬という季節の始まりの神話。


 三つすべてに、相似点がある。
 
 まず、すべてに共通するのが、合意を待たない強引な交合の求め。

 鳶とバッカスの物語に共通するのが、女の子は死に、その後哀れみから花になったこと。

 最後に、鳶とペルセポネの物語に共通するのが、近親姦のモチーフだ。

 ざくろに変えられた少女は父に犯されそうになり、自死した。

 そして、ハデスにさらわれたペルセポネは、そもそもゼウスとデメテルの子であり、二人は姉弟だった。
 くわえてハデスもまた、ゼウスとデメテルの兄であったので、ペルセポネはハデスの姪にあたる。
 
 ざくろは自らの名前を恥じていた。

「わたしがすみれならよかったのに」とざくろは言った。

 だってこんな名前、なんだか呪われている。
 花言葉だって、"愚かしさ"なんて、と。

「でも、ざくろには他の花言葉もあるでしょう?」

 わたしはそう言って彼女を諭した。

 王冠に似た部分があるから、権威の象徴とされていたって話もあるし、再生のシンボルとも言われる。
 花言葉だって、愚かしさだけじゃない。円熟した優美、結合……。

 それに、すみれだっていい意味ばかりじゃないわよ、とわたしは続けた。

「小さな幸せ、慎ましい喜び……わたしは大きな幸せを求めちゃいけないってわけ?」

 わたしがそう言ったとき、ざくろはようやく笑ってくれた。

「それに、白昼夢っていうのもあった。でも、こんなの気にするだけ無駄。名前は名前でしかないんだから」



 そう、わたしはそう言った。
 べつに、気にすることはない。

 名前なんて、所詮、音の連なりでしかない。

 名前で人間の何かが決まるなら、世界中の人がみんなおんなじ名前だったらどうなるの?
 誰もが同じ境遇になるの? そんなわけはない。

 こじつけで不幸になることはない。

 わたしたちはわたしたちなんだから。

「ねえ、ざくろ。だったらざくろが、思い切りやさしくて、思い切り幸せな人間になって、ものすごく有名になればいいの。
 世界中のひとたちが、ざくろって言葉を聞いた瞬間に、とっさにやさしさと幸せを思い浮かべるくらいに。
 神話や聖書よりも先に思い浮かぶくらいに。言葉の意味なんて、そんなものよ」

 ざくろはくすくす笑って頷いた。

「だったらすみれも、ものすごく大きな幸せも手に入れないとね」

「そうよ。そういうもの」

 そう言ってわたしたちは、くすくすと笑い合った。

 わたしたちは仲の良い姉妹だった。

 母が死んで、父が変わってしまうまでは。




 
 ――水滴の音が、ずっと聞こえていた。
 
 ふと、目が醒めたとき、わたしはそれを意識した。
 目が醒めてそれに気付いたというわけではない。

 というよりはむしろ、その音がずっと、絶え間なく続くのを聞いていた自分に、気が付いた。
 そんな感じがした。

 同じように、わたしは遅れて、目をずっと瞑っていたことに気付き、頭が鼓動のような痛みを訴えていることに気付き、
 自分が拘束されていることに気付いた。

 驚いて瞼を開いても、状況はつかめないままだった。

 黴臭い匂い、水滴の落ちる音、暗闇の中にちらちらと揺れる蝋燭、張り付くような湿った空気。

 意識の連続が、唐突に絶たれて、それから急にこの場に放り込まれたような気がする。

 わたしは、いったいいつ、意識を失ったのだろう?
 
 そして、この状況は、いったいなんなのか?

 考えてみても、頭に響く痛みをこらえながら記憶を辿るのは難しかった。

 静かに、自分の手足を見る。

 何かが、わたしの手足を縛っている。これは、植物の蔓? あるいは、枝……だろうか。

 その蔓は、わたしの体を椅子にくくりつけていた。

 身をよじって振り返ってたしかめる。どうやら、アンティーク風の、上品そうな椅子だった。
 漫画や映画でしか見たことがないような代物。

 背もたれと座の部分は、赤い革張りになっている。
 わたしの手は椅子の肘付きの部分の上にのせられ、そこで縛られている。
 足もまた、椅子の脚の部分に、長い蔓でくくりつけられていた。
 



 これは悪い夢だろうか?
 それにしてはいやに……感覚が、意識が、はっきりとしている。

 痛みも、変に現実的だ。

 けれど、ここは、どこなのだろう?

 よく見れば、わたしは奇妙な服を着せられている。
 真っ黒な、ドレスのような衣装。

 水滴の音が響いている。

 わたしは、どうしていたんだっけ?
 
 何も、思い出せない。

 
 そこに、向こうの方にずっと続く暗闇。 
 差し出されるような蝋燭。


 体が重くて、うまく頭が働かない。



 どれくらい、じっと座ったまま、痛みが引くのを待っていただろう?
 水滴の音と、蝋燭の灯りだけが、わたしの意識を保たせていた。

 やがて、暗闇の向こう側から、カツカツと足音が聞こえ始める。

 そして彼女が現れた。

 真っ黒な服を着て、どこか青ざめた顔をして、ざくろが現れた。

「具合はどう?」と彼女は訊ねてくる。わたしはうまく返事ができなかった。

「混乱してるみたいね」

 口がうまく開かなかった。
 何を言えばいいのかも、わからない。

「ねえ、すみれ、わたしが分かる?」

「……」

「わたしのことが、分かる? ねえ、すみれ……」

 朦朧とした意識は、目の前で起きていることをたしかに認識しているけれど、
 それをうまく消化できずにいる。

「わからないかもしれないね。……だって、一度、逃げ出したものね」

 わたしは、何も返事ができない。

「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」

 彼女は、ただ冷たい目で、わたしを見ている。

「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」



 分かっていたでしょう、とざくろは言う。

「あなたは、わたしからも、お父さんからも逃げたのよ。そして自分だけ、へらへら楽のできる場所に逃げようとしたの。
 だから、わたし、お父さんに殺されて、こんな姿になって――お父さんのことも、殺しちゃった」

「……どういう」

 そこでわたしは、ようやく声を発することができた。
 自分でも驚くくらい、かすかな声だった。水滴の音にかき消されそうなほど。

「どういう、意味……」

「そのままの意味よ」と、ざくろは言う。

「ねえすみれ。わたしが嫌い? わたしが悪かった? 鬱陶しかった?
 すみれ。すみれ。どうしてあなたがすみれなの? どうしてわたしがざくろなの?
 どうしてあなたがざくろじゃなかったの?」

 どうしてあなたじゃなかったの?

 彼女はそう言った。

 彼女の右手に握られている、鈍く輝くひとつの刃物に、わたしはそのときようやく気付いた。

「ね、分かる? すみれ」

 鋏だ。

「分からないわよね。あなたは、すみれだものね……」

 ざくろは、振りかぶる。
 わたしは、身じろぎもできない。ただ、それを見上げているだけだ。

 それは、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしの目前へと迫ってくる。
 それはきっと、本当なら、一瞬の出来事だったのに。

 わたしはそれを、ただ――見ていた。

つづく


∴[Dorian Gray]K/b


 理由があったわけじゃない。
 きっかけがあったわけでもない。

 それでも、嘘でも誇張でもない。

 自分が、自分を取り巻く景色が、
 何が足りないわけでもなく、何が欠けているわけでもなく、
 それなのに、
 俺は、ただ、憂鬱でしかたなかった。

 なんとなく。
 わけもなく。

 嫌いというのとは違う。憎いと言っても、もちろん違う。
 楽しめないわけでもないし、何もかもに価値がないと悲観しているわけでもない。

 ただ、なんとなく、どこか遠いような、何か隔たりがあるような、そんな奇妙な感覚。

 起きながら眠っているような、夢を見ながら醒めているような、あるいはそれは、たとえるならば、
 一枚の皮膜。

 その一枚の皮膜が、俺の視界をときどき覆う。


 夕方のニュースが、救急車のサイレンが、月曜の朝の曇り空が、真夜中に観た映画が、
 誰かと過ごした思い出が、いつか読んだ本の些細な台詞が、地下鉄の吊り広告が、
 ダムの傍にある「いのちの電話」の看板が、コンビニの優先で流れるポップソングが、
 全部が鋭い刃物みたいに、やけに刺さって仕方なかった。

 棘みたいに付けなくて仕方なかった。

 その棘が、いつのまにか俺の中で少女のイメージをとった。
 どこかで見たというわけではない、現実に見たというわけでもない。

 ドラマや映画や小説や漫画や、そんなありとあらゆるもののなかの、
 その『傾向』と『性質』を備えたものを寄せ集めて作り上げられたような、
 ひとりの、泣いている女の子。

 きっと、誰の中にもいる、俺の中にもいる、ひとりの少女。

 彼女の視線を、俺はふとした瞬間に感じる。

 振り返っても、その姿はない。ただのイメージなのだから、当たり前だ。

 でも、彼女はいる。

 夕方のニュースや、動物の死体や、あるいはもっと日常的な風景の一部として。
 空気に混じった塵のように、いろんなものに形を変えて、その少女は世界に存在し続けている。

 




 屋上の合鍵は、そもそもは俺の持ち物ではなかった。

 去年生徒会長をしていた先輩が、職員室に出入りできるのを良いことに、屋上の鍵を持ち出して合鍵を作った。
 そうして鍵を作った彼女は、その鍵を一回千円でカップル相手に貸すことで金を儲けていた。

 それに満足すると、彼女はそれを俺によこした。
 
 俺は選ばれたわけではなく、彼女がその気になったときに、たまたま彼女の近くを通りかかっただけにすぎない。

「内緒だよ。これがバレたら、大変なことになるから」

 誰にも言わない、って、約束してくれたら、あげるよ。

 そうして俺は、開かないはずの扉を開ける鍵を手に入れた。

 偶然。

 すべて、偶然なのだと思う。
 初期値鋭敏性。

 俺はたまたま、屋上に至る扉を開ける鍵を手に入れた。

 授業をサボって昼寝をする癖がついた。

 そして、ふとした瞬間、碓氷愛奈が俺の領域にひょっこりと顔を見せた。





 自分でノブをひねって扉を開けたくせに、彼女は扉が開いたことが不思議でしかたないような顔をしていた。

 そうして俺が煙草をふかしているのを見て、なんだか変な顔をした。

 まるで俺を見た瞬間に、何か別のものを見つけたみたいな顔だ。

 俺もまた、彼女を見た瞬間、何かを思い出しそうになった。
 
 その目が、表象の少女に似ていた。

 碓氷愛奈は、普通に笑い、普通に喋り、普通に過ごす、普通に振る舞う、けれどどこか寂しそうな女の子だった。
 でも、寂しそうな女の子なんてどこにでもいる。抱えこんだ寂しさなんてありふれている。

 だから、たぶん、そこじゃない。

 俺が碓氷愛奈を特別に思ったのは、それが理由じゃない。
 それは理由のひとつだったかもしれないけど、すべてじゃない。

 俺はその答えを知っている。

 時間だ。





 誰にも告げ口をしない、という条件で、屋上の共有を持ちかけてきた碓氷愛奈は、
 少しすると当たり前のような顔で俺の時間に割り込んでくるようになった。

 自分でも意外なことに、俺はそれを不愉快とは思わなかった。
 ただ、自分が不愉快に思っていないという事実に、少しだけ苛立った。

 まるで誰かにかまってほしかったみたいじゃないか。
 ひょっとしたら、それは事実かもしれないけれど。

 そんな俺たちは、べつに他人同士の関係から進もうとも思わなかった。

 彼女はべつに俺と友達になりたかったわけではなく、俺の方もそうだった。

 だから平気だったのかもしれない。
 彼女が近くに居ても、鬱陶しくなかったのかもしれない。

 要するに、彼女は俺に興味を持っていなかったし、興味がないのに興味があるふりをしたりもしなかった。

 ただの暇つぶしのように、俺たちは話をしていた。
 今にして思えば、罠だった。

 あらゆるものは、最初から特別なわけじゃない。
 時が経つにすれ、その重大性が増していく。

 ふと見た花よりも、育てた花が愛しいように、
 見ず知らずの猫の死よりも、飼い猫の死が悲しいように、
 暇つぶしでやっていたことが、いつのまにか自分から切り離せない性質になるように、
 反復した感情が、そのとき以上のものに膨らんでいくように、
 時間がすべてを変える。

 碓氷愛菜は、俺にとって、他の誰かとなんら変わるところのない、いてもいなくてもいいような存在だった。
 そして、何かの転機があったわけでもなく、理由やきっかけがあったわけでもなく、俺たちはただなんとなく過ごし続けた。
 
 だから、俺は気付きすらしなかった。

 碓氷愛菜のことなんてなんとも思っていないと、俺はそう思い続けてきた。





「名前、なんていうの?」

 彼女がそう問いかけてきたとき、俺も彼女の名前を知らなかった。
 べつに知ろうとも思わなかった。それは、そんなに重要なことではないように思えた。

 何組なのかとか、部活はどこで委員会は何だとか、得意や苦手がなんだとか、期末テストの順位とか、そんなことはどうでもいいことに思えた。
 
 話をされたら聞いたかもしれないし、覚えたかもしれない。
 でも、実際、そのときまで、名前のことが話題になることはなかった。

 俺は彼女の質問に答えなかった。

「ねえ」

 俺が彼女の質問を無視するのは、よくあることだった。そのたびに彼女は、俺の肩を揺すった。
 どうでもいいことでも。どうでもいいことなら特に、彼女はそうした。それ自体が目的みたいに。

 俺はやっぱり、そうされるのが不思議と不愉快ではなかった。

 この理由は説明できると思う。

 他の人間の言葉は、俺に裏側の痛みを感じさせることが多く、彼女の言葉はそうではなかった。

 彼女の棘は外ではなく内に向いていた。だから、俺には刺さらなかった。
 そういうことなのだと思う。

 だから、俺は彼女が不愉快ではなかったのだと思う。
 もちろん、こんなのは全部、後付の理屈でしかないのかもしれないが。




「ねえ、名前……」

 本当は名前なんてどうでもよかったんだけど、俺は教えなかった。
 どうでもいい質問をされるたびに、俺は答えない。彼女は不満そうにする。

 俺はそれを楽しんでいた。いつのまにか。

「当ててみたら」

 と俺は言った。
 彼女は少し考えた素振りを見せてから、

「佐々木小次郎」

 と真顔で言った。俺は笑わなかった。

「ハズレ?」

「当たると思ったのか」

「じゃあ宮本武蔵?」

「……」

「今度から武蔵くんって呼ぶね」

「……慶介」

「ん?」

「佐野慶介」

「慶介……」

 くだらないノリに気恥ずかしくなって、思わず明かした俺の名前を、彼女は響きをたしかめるみたいに繰り返した。

「わたし、碓氷愛奈」

「へえ、そう」


「慶介、くん。慶介くん。ふうん」

「なんだよ」

「なんでもない。ふうん。慶介くん、ね」

「俺がつけたわけじゃない」

 と思わず俺は言い訳した。

「親がつけたんだ」

「べつに文句なんて言ってないでしょ?」

「何か言いたげだったろ」

「べつに、普通の名前だと思うけど」

「……そうかよ」

「ケイ、くん、かな」

「なにが」

「呼び方」

「なんで」

「だって、なんか、慶介くんって、そぐわない」

「……文句じゃないのか、それは」

「そうじゃなくて、その呼び方が、この場にね」

「……何が言いたいのか、わからないんだけど」

「符牒があったほうが楽しい」

「そうかい。よろしく、あーちゃん」

「それ、わたしはべつにいいけど、ケイくんは平気なの?」

 俺の方が平気じゃなかったから、その呼び方は二度と使っていない。
 俺は碓氷愛奈には負けっぱなしだった。




 碓氷愛奈。
 特別な存在じゃない。
 みんなのうちのひとりだ。

 ささやかな存在だ。

 たとえば、ある日突然彼女が死んでも、世界は傷一つ負わないだろう。
 周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまうだろう。

 あまりにもちっぽけで、些細で、軽微な存在。

 彼女の寂しさも、悲しみも、きっと世界にとってはよくあるもので、
 取り沙汰するにも値しない、とてもささやかなもので、
 彼女のそれよりも重大な問題が、きっとそこらじゅうに転がっている。

 でも、俺の隣にいたのは彼女だった。





 
 倒れた碓氷遼一と、
 泣きじゃくる女の子と、
 走り去っていく誰か。
 
 そのとき、呆然と立ち尽くしていた碓氷愛奈は、
 その場で一番気にかける必要のない存在だった。

 それなのに俺は、彼女のその表情を見て、
 どうしても、なんとかしなければと思った。

 この悪趣味な出来事の連続の、その始末をつけなければいけないと思った。

 傍にいた方がよかったのかもしれない。
 別の方法なら、もっとうまくいったかもしれない。

 でも、俺は腹を立てていた。

 いったいこの世界は、この子にどれだけ悪趣味な景色を見せ続けるんだ、と。
 どんな理由があって、どんな必要があって、この子を傷つけているんだ、と。

 だから俺は追いかけた。

 正解だったのか、間違いだったのかは分からない。

 知りたかったことを知れた、とは思う。
 でも、知りたくなかった、とも思う。

 それは後悔しても仕方ないことだ。

 一度、開けてしまった扉。くぐり抜けてしまった扉。それはもう、閉じてしまっている。
 やっぱりあっちの扉に進めばよかった、なんて理屈は通じない。

 やり直しはきかない。

 とにかく俺は追いかけて――碓氷遼一に出会った。

 

つづく

726-21,24 愛菜 → 愛奈





 進む道はどこまでも古びていた。
 
 古臭い家の並ぶ通り、夕焼けの下で景色は馬鹿みたいに幻想的だった。

 俺は、彼の姿をあっさりと見失っていた。
 曲がり角を曲がったときにはもう、背中も見つけられなくなっていた。

 でも、結局、その人を見つけるのは簡単だった。

 通りには路地がいくつもあった。一本道だったわけでもない。
 身を隠そうとするなら、それは簡単だったろう。

 あるいは、俺は見失ってしまったのだから、言い逃れでもされればそこまでだったかもしれない。

 けれど、俺には彼がそうだと分かった。

 きっと、俺だから彼がそうだと分かった。



 街を切り分けるような河川の上に伸びる橋。
 その歩道の欄干の上で両腕を組んで、彼は水面を見下ろしていた。

 あたりはもう暗くなりはじめていて、互いの顔すら影がさしてはっきりそれとは分からない。

 それでも、俺ははっきりとそれが誰だか分かったし、そのことに気付いた瞬間、多少混乱した。

 なにせ、さっき倒れていた人間と同じ顔をしているのだ。
 細部は違うかもしれない。けれど、それは明らかに碓氷遼一だった。

 悪い夢でも見ているのかと思った。

 立ち止まったままの彼に近付いて、俺はその横顔を確かめる。
 
 ここ数日で、何度か見ただけの顔。知らないはずの顔。
 それがもう、俺にとってはその他大勢とは違う意味を持っている。
 
 何も言わずに、俺は隣に並んだ。



 そうして気付く。

 背丈はほとんど同じくらいだ。
 顔立ちも、お互い、同年代なんだと思えるくらい。

 服装だって、髪型だってそうだ。今の俺と、何も変わるところがない。

「……訊いてもいいかな」

 俺は、そう声をかけてみた。
 どう思うのだろう。彼には俺が、どう見えているのだろう。

 同年代の普通の学生だと、思われているんだろうか。

 まさか、未来から来たとは思いもよらないだろう。

「――あんた、なんて名前?」

 彼はちらりとこちらを見た。まるで興味がなさそうな顔だ。
 ――ふと、彼の呼吸が浅いことに気付く。

「名前……」

 何か感じ入るところがあったかのように、彼は繰り返した。

「名前……そうだね。誰なんだろう、僕は」

「何言ってんだ?」

「ときどき、僕は思うんだ。僕はひょっとしたら、僕が僕自身だと思っている当の人物ではないのかもしれないって。
 僕は僕を僕だと思い込んでいるだけの別人なんじゃないかって。僕は、本当は、碓氷遼一じゃないんじゃないかって」

「心配するなよ」と俺は言った。

「あんたはたぶん碓氷遼一で合ってるよ。そんなことを疑い始めたらキリがない」

「きみは僕を知らないと思うけど、そう言ってもらえると安心できるよ。ありがとう」

 回りくどい言い回しをする奴だ。俺はいくらか面倒になったが、一応は年上相手だ。言わずに置いた。


「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな」

「どうぞ」と彼は言った。俺は頷いて頭の中で言葉を整理した。

「さっきあっちで、碓氷遼一が刺されてるのを見た」

「――」

「一瞬、混乱したよ。どうして二人いるのかって。でもすぐに分かった。
 あんた……『あっち』の碓氷遼一だな?」

 彼は、そこでようやく、能面のようだった無表情に、ほんの少し驚きの色見を加えた。

「『あっち』、って?」

「あんたも、ざくろに会ったんだろ?」

 彼は黙り込んだままだった。沈黙が、肯定のようなものだ。

「ざくろが言ってた。ここは使い回しの世界だって。『碓氷遼一がわたしのお客さん』だって、あいつは言ってた。
 考えてみればそうだ。『あっち』のあんたは、こっちに来たことがあるんだ。あいつは、帰ったとまでは言ってなかった」

「きみは?」

「俺の話はあとでするよ。たぶん、話が前後するから」

「そう」

「――なんだかつらそうだな」

「気にしないでくれ」

「……そうか」

 気にするなというなら、気にすることはないだろう。それにたぶん、彼の様子も、俺の質問と無関係ではない。


「俺が訊きたいのは、どっちにしてもひとつだ。――あっちで碓氷遼一が刺されていたことと、あんたは、関係があるのか?」

「……」

「単純な質問のはずだ」

「……そうだね」

「それは、どっちだ?」

「……僕が刺した」

 何かを諦めたみたいに、彼はポケットから小さな刃物を取り出した。

 血が、ついている。

「ホームセンターで売ってた。アウトドア用品だね。
 こっちでも六月のあれはあったみたいだから、てっきり売ってもらえないかと思ったけど、運がよかったな」

 他人事みたいに、彼は言った。
 ほんの少しだけ、俺は身勝手な怒りを覚えていた。

「なあ、そんなことはどうでもいいんだ。……どうして、そんなことをした?」

 いや、違う。本当に俺が訊きたいのは、そんなことじゃない。
 いつのまにか、俺だって知りたくなっていた。



 その疑問をうまく言語化できないうちに、碓氷遼一は答えにもなっていない答えをよこした。

「……どうして、なんだろうね」

 彼は、逃げもしない。
 べつに、捕まってもいいと思っているわけでもなさそうだ。
 ただ、何もかもがどうでもいいみたいに、投げやりになったみたいに、彼はただ、水面を見ていた。

「よくわからない。よくわからないな……。よくわからない」

 俺は何も言えなかった。何を言えるだろう。俺は彼のことなんてなにひとつ知らないのだ。

「わからないんだ。どうしてだろうね、どうしてだろう……」

 耳を塞ぎたくなる。彼は何度も同じ言葉を繰り返した。

 どうしてなんだ?
 どうしてこんなところにいるんだ?
 
 どうしてこんなことになったんだ?

 わからない。わからないな。



「きみもざくろに会ったのか?」

 やがて、さっきまでの話なんて忘れたみたいに、彼はそう訊ねてきた。
 まるで、本当に、刺したことなんて忘れたみたいに見えた。
 
 今話していたことを全部、忘れてしまったみたいに。そのくらい、彼の表情には、不思議な静寂があった。

「きみはもう知ってるかな。どうなんだろう。ねえ、ざくろには、人の望みを叶える力なんてなかったんだ。
 この世界は、ただ、分かれてしまったふたつの世界で、ざくろにできるのは、それを繋いで、そこを行き来するだけだったんだって」

「……」

「だからね、全部、意味なんてなかったんだ。この世界の僕が小夜と一緒にいたことも、愛奈がいないことも、穂海が笑ってることも。
 全部、全部、誰が望んだわけでもない、ただ、そうなっただけのこと、らしいんだ」

「……」

「そんなのさ、そんなの、あんまりじゃないか?」

「……」

「ああ、ごめん。きみに言っても、わからないよな」

「分かるよ」と俺は言った。彼は不思議そうに目を細めた。

「俺は、愛奈とこっちに来たんだ」

 また、彼の表情にひびが入った。

「2015年……七年後。俺と愛奈は、そこから来た。あんたを探しに来た」

「……ああ、そうか。時間が大きくズレることもあるって、ざくろはそうも言ってたな。そういうことも、有り得るのか」

「……」

「僕を探しに、か。……じゃあ、七年後、僕は愛奈の傍にはいないってことかな」

「……」

「……探してもらうほどの人間じゃないのに」

「そうみたいだな」

 彼はそこで、初めて笑った。



「どうして、刺したか、か……。うん。たぶん、だけど、認めたくなかったんだろうな。
 愛奈がいない方が、僕が幸せそうだなんて、そんなのさ、そんなの……」

 あんまりだ、と、彼はまた繰り返した。

 俺には、この人の考えてることなんて、かけらも分からない。
 でも、言いたいことはある。

「だったら、幸せになればよかっただろ」

 彼は俺の目をまっすぐに見た。

「愛奈がいた方が幸せだったって、こっちのあんたには愛奈がいなくて残念だったなって、笑えれよかっただろ。
 愛奈がいなくてかわいそうだって、そう思えるくらい、あんたが幸せになったらよかっただろ。
 そう思えなかったってことは……あんたが、ざくろの言葉に釣られてこっちにいるってことは、結局、違うんだろ。
 あんたは……心のどこかで、愛奈がいるせいで不幸だって、いない方が幸せだって、自分で認めてたんだろ」

 そうじゃない、と、言ってほしかった。口にした言葉が自分に刺さって仕方なかった。
 だって、そんなの……あんまりだ。

 愛奈が求めていた人。
 愛奈が一緒にいてほしかった人。

 その人が、そんなふうに思ってるなんて、心のどこかのひとかけらでさえ、そんなことを考えてるなんて、思いたくなかった。
 
 俺は否定してほしかった。

 そして、実際、彼は否定した。

「それは、少し、違うと思うんだ」




 何かを伝えようというよりは、自分の考えていることを整理しようとしているみたいに、彼は言葉を続けた。

「愛奈のせいじゃない。それは分かる。それは結局のところ、僕の問題なんだ。
 でも、愛奈がいない世界では、僕はそんなことで悩んでいないみたいだ。だから、結局、それもバタフライエフェクトなんだろうね」

「……初期値鋭敏性」

「そう。どうしてだろうな。愛奈は大事だ。愛奈のために、がんばらなきゃ、って。あの子が何か困ったら、僕がなんとかしなきゃって。
 僕が、あの子の、親代わりとまではいかない、それでも、寄る辺になれたらって、そう思ってた。それが僕の責任だ。
 誰もやらないなら、僕がやらなきゃいけない。そのためなら、僕の人生なんてどうなってもいいって思った」

 そう言ってから、ほんのすこしだけ間を置いて、いや、違うな、と彼は自分の言葉を否定する。

「違う。最初から僕は、自分の人生なんてどうなってもいいと思っていて……ただ、そこに愛奈という大義名分を当てはめただけなのかもしれない」

「……」

「わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
 愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
 そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
 だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった」


「……なんとなく、わかったような気がするよ」

「……なにが?」

「あんたは、背負い込みすぎたんだ」

 彼はからっぽな目をしていた。

「……そう、なのかな」

「あんたはもっと、愛奈を大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃいけなかったんだ」

「……」

 愛奈が、あんなふうになった理由が分かった気がした。
 あんなふうに自分を責めてばかりいる理由が。

 この人は、ずっとこんな顔をしていたんだ。

 愛奈の前で、幸せそうになんて笑ってなかったんだ。だから愛奈は不安だったんだ。
 ずっと、自分が周りを不幸にしてるって思い込んでいたんだ。

 この人は――愛奈のためにがんばって、愛奈のために、自分を擲って、そうすることで自分自身の人生から逃げて、
 そうすることで、愛奈を不安にさせていた。

 金を貯めて、遺して、それがこの人なりの、大事に仕方だったんだろう。他にやり方が思いつかなかったんだろう。

 だから愛奈は――この人といても、安心できないままだったんだ。

 自分がいてもいい存在なんだって、そう思うことができなかったんだ。

 ……それをこの人のせいだと、そう言って責める権利が、俺にあるだろうか?

 何も背負っていない俺が?
 この人はきっと、今、俺と同い年くらいで。
 俺はただ、倦んでいただけで、誰のためにも生きていなかった。


 理由はどうあれ、この人は愛奈のために生きて、死んだ。

 愛奈の生を支えようとして、それを一面的には成し遂げた。

 彼を取り巻く空虚が、こうして、別の世界で刃物になって誰かを悲しませようとしている。
 それを俺は、裁けるだろうか。身勝手だと、自分の問題で他人を傷つけるなと、憤る権利があるだろうか。

 法になら、あるかもしれない。
 でも、俺自身には、ないような気がした。

 それでも……どうして、どうしてもっと、上手くいかなかったんだ、と、そんな言葉を吐きたくもなるけれど、
 結局そんなのは、他のありふれた後悔と同じで、言っても仕方ない結果論なのかもしれない。

「刺して、しまったな」

 長い沈黙の後、彼はそう、静かに呟いた。

「……もう、戻れないな」

 その言葉に、不意に恐怖が湧き上がるのを感じる。
 やってしまったこと。そのせいで彼は、もう本当に、幸せになんてなれないかもしれない。
 
 彼が幸せになれなかったら、愛奈だってきっと、そうなのだろう。

 あるいは、本当の意味で、彼が未来で幸せになれなかったのは、
 この時点で、彼がこの世界の自分自身を刺してしまったからなのかもしれない。

 そう気付いた瞬間、たまらなくなった。

 自分には何も変えることができないんだと、そう言われたような気がして。

 何かを言わなければいけないと、そう思ったけれど、言葉なんてひとつも思いつかなかった。

 彼の瞳は、とても空虚な色をしていた。
 俺の言葉なんて、届きそうになかった。


つづく






「ねえ、ケイくん」

「ん」

「わたし、わたしさ」

「……なんだよ」

「わたし――」




 結局、離す理由も見つけられなくて、手を握りあったまま、俺たちはまひるの部屋に戻った。

 扉の前で、ほんの一瞬だけ目を合わせて、その手を離した。俺も愛奈も両方とも何も言わなかった。

 まひるは当然みたいな顔で俺たちを迎え入れた。それから、夕飯のこととか、風呂のこととか、あれこれと訊いてきた。
 煙草の匂いのことや、今までどこでどうしていたのかなんてことは、まったく訊いてこなかった。

 俺は、さっき愛奈に言われた言葉のことを考えた。

 ――ケイくん……帰ろう?
 ――わたし、もう、やだ。

「なあ、まひる」

「……ん?」

「明日、俺たち、帰るよ」

 まひるは、俺の方を見て、いくらか驚いたような表情をした。

「明日?」

「うん」

「帰れるの?」

「たぶん、大丈夫だと思う」

 確認の意味で、愛奈を見る。彼女は静かに頷いた。

「うん。大丈夫」

「そっか。……なんだか、急に来て急に帰っちゃうんだね」


 まひるは不思議な表情を見せた。単に、別れを惜しんでいるというのでもなさそうな。
 それはそうだ。惜しむほどの関係性なんて、俺たちの間にはない。

 だったら、これはなんなんだろう?

 よく分からないけど、気にしないことにした。

 まひると愛奈はふたりでキッチンに立ち、遅い夕食を作り始めた。

 俺は窓の外で降る雨を聞きながら何かを考えようとする。

 料理が出来上がると、三人揃って食事をとった。

 まひるの料理はこなれていて美味かった。
 それがなぜだか悲しくて仕方ない。身勝手な感情だとわかっているつもりなのだけれど。

 この世界を去ると思うと、愛奈の身に起きたさまざまなことのすべてが俺の頭にのしかかってきた。

 母親のこと、叔父のこと。

 ――わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。

 俺にはよくわからない。

 ――愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。

 わからない。

 ―― そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
  
 わからない。



 誰のせいなのか、何が間違っていて、何が正しいのか。
 誰も悪くないなら、どうしてなのか。

 それを知りたい。

 夕食を食べ終えると、愛奈は壁にもたれて静かに座っていたが、やがて、疲れていたのだろう、目を閉じて眠ってしまったようだった。

 俺は彼女の閉じた瞼からのびた睫毛の長さを、なんとはなしに眺めている。

 小さな女の子みたいに見える。

 迷子になって、不安で、寂しくて、怖くて、どうしたらいいかわからなくて、それでも涙をこらえている、そんな子供みたいに見える。

 いつだって、本当は泣き出したいくらい不安なくせに、寂しいくせに、
 取り繕って笑って、無理をして、それで本当にときどき泣いて、少しあとには何もなかったみたいな顔で笑おうとして。

 ……こいつのために、何ができるんだ、なんて、そんな思い上がりは持ってない。
 そんなに殊勝な人間じゃない。

 考えてみれば分かる話だ。

 どうしようもないことばかりだ。

 親と暮らせない。頼りにしていた家族が死んだ。

 それはきっと、替えがきかないものだ。
 他の何かでは、埋めることのない空白だ。

 その空白のせいで、こいつは今だって崩れそうになっている。
 取り戻せないとわかっているのに、すがりつこうとしている。

『……わたしのせいかなあ』『ごめんね』『……ごめん。巻き込んで』
『わたしのせいなのかな』『……ケイくん、ごめん』『……ごめんね』『……ごめんなさい』
『……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?』

 もう、その扉は開かないのに。
 開かないと、自分でもわかっているはずなのに。

 それでも、こいつは、ずっと、今までも、これからも、ずっと、開かない扉の前で、もう来ない迎えを待ち続ける。

 期待しているわけでもないのに、離れることもできずに、いつまでも。





「ねえ、ケイくん」

「ん」

「わたし、わたしさ」

「……なんだよ」

「わたし――生まれてこないほうが、よかったのかな」

 バカ言えよ、と俺は言った。






 それでも、俺の言葉なんて、信じてないみたいな顔をしていた。

 いったい、どうしたらこいつは自分を許してやれるんだ?
 どうして、自分が悪いって、自分のせいだって、そんなふうに自分のことばかり責めるんだ?

 誰かのせいにして泣きわめいたっていいはずだ。
 誰かを恨んだっていいはずだ。

 おまえのせいじゃないって、俺は、何度も言ってきたつもりだ。
 おまえに責任なんてない。おまえに何の罪がある? おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
 
 何かが、この子を縛り付けているんだ。
 からたちの枝みたいに絡みついて、がんじがらめにして、逃げられなくしている。

 俺は……。





「ケイくん」

 考えごとに沈み込んでしまっていた。
 声に顔をあげると、まひるが困ったような顔をしてこちらを見ている。

「……ん」

「コーヒー、飲む?」

「……いや、いい。ありがとう」

「そう?」

 首を傾げてから、彼女は含み笑いを見せた。

「……なんだよ?」

「ううん。なんか、ケイくん、ひねくれものって感じなのに、お礼は素直に言うんだなって思って」

 ひねくれもの。……まあ、いい。

「べつに、礼くらい言うだろ」

「うん。それはまあ、そういう言い方をすればそうなんだけどね」

「感謝の気持ちくらいなら、言葉に……」

 ――あのね、ケイくん。

 ――わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。

 ―― それはね、言葉っていうの。

 そうだ。
 ……俺は、教えてもらったんだった。

 言葉にしないと分からないというなら、言葉にするしかない。
 その結果、伝わらないかもしれない。何も変わらないかもしれない。


 でも、ぐだぐだと考えるのを続けるくらいなら、
 いっそ俺も、覚悟を決めるべきなのかもしれない。

 それが、なんのためにもならない結果になったとしても。

「……どうしたの、急に黙り込んじゃって」

「いや」

「さっきから、へんなの」

「ちょっと、いろいろ考えてたんだ」

 とりあえず、頭のなかで漠然と、自分がやることを決めた。

 そうしてしまってからは、それ以上そのことについて考えないことにする。
 余計なことを思いついたら、決意が鈍ってしまいそうだ。

 それで、思わず俺は、碓氷遼一のことを考えてしまった。

 ――だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった。

 あのときの彼の表情が、どうして、なんだろう、瞼の裏にちらついて、離れない。

つづく

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