紬「カチューシャ、前髪を上げて。」 (63)






すっかり忘れたと思っててもさ。
からだが覚えたことって、一生忘れないと思うんだ。






SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1435755884

-高校一年生、夏。-


右、左、右、左…と二つの太ももが交互に回転するたび、ぴりぴりと刺激が走り、重だるさが蓄積していって、動きが鈍くなっていく。

体重をかけるために腰をあげて全身姿勢をとった。
回転が少しだけ加速する。
上がった顎をクッと引きなおす。
額から頬を伝って顎まで、汗の雫が流れていくのがわかった。

頭がくらくらする。
大きく吸い込んだ息が肺いっぱいにたまり、直ちに吐き出される。
はじめ、足のリズムに合わせて繰り返していた呼吸は、次第に乱れてめちゃくちゃになった。

生ぬるい風が伸び気味の前髪を揺らした。
視界を遮られる。
軽く首を振って前髪をかき分けると、開いたその隙間から夕日が射し込んだ。


夕方といっても真夏の日射しは厳しい。

”明日の関西地区一帯は、最高気温が軒並み35度を超えるでしょう”。

昨日の夜、NHKのアナウンサーがそう言っていたっけ・・・。
日が沈み始めても鳴き止むことのない蝉の声が、耳の奥まで響いてなおのこと暑さを強調していた。


「ムギ・・・だ、大丈夫か…?変わろうか?」

「…だい じょう ぶ! あと・・・もう ちょっとだから…大丈夫!頑張る!」

背中にたくさんの汗をかいているのがきもちわるいし、みっともなくて恥ずかしい。
でも今更そんなことを気にしたところでどうしようもなかったし、
とにかくあと少し…あと少し残ったこの坂を上りきろう!

「よ いしょ! よいしょ!」

「頑張れ!あとちょっとだ!」
 

「…ゴール」

地面に足をつける。
倒れそうになるのを我慢して、硬いサドルに腰掛けながら肩で息をする。
そのまま後ろを振り返ると、太陽が山の向こうに沈もうとしていた。
坂の頂上から、街の全景が広がっている。








赤く染まった街。
ふたりの伸びた影。

「…すごい」

「…だろ」

「汗かいた甲斐、あったね」

「お疲れ。なんか…悪いな。ごめん。結局無理させちゃって」

「ううん。楽しかったから!全然大丈夫!」

「……ならよかった」

真っ赤な夕日が汗でべた付いた自転車のハンドルを照らしていた。





高校ではじめた軽音部。
そこでできた友達と、休みの日に二人きりで会うのはこれが初めてだった。
…そもそも休みの日に友達とふたりで遊んだことなんて、今までに数えるほどもなかった。

学校が休みのときほど習い事や家の用事で自由にできる時間はなかったし、
夏休みや冬休み、長期休暇はその大半を遠く離れた海外で過ごしていた。

今年も来週からフィンランド。
その前に、買い物を済ませておこうと出かけた商店街。
わたしをあだ名で呼ぶ声に驚いて振り向くと、澪ちゃんが自転車を引いて歩いていた。


「偶然だな。ムギも買い物?」

「うん。ちょっとね。澪ちゃんも?」

「あ、うん」

わたしは右手に持った日傘を左手に持ち替えた。
わたし達は自転車を挟んで歩き始める。
自転車のカゴに乗せられた鞄の口から、可愛らしいリボンのついた綺麗な包装紙がちらっと見えた。

「それ、かわいいね。もしかして贈り物?」

「ああ、これ?うん、律に」

「りっちゃんに?」

「アイツ、もうすぐ誕生日なんだ。それで…」

「そうなんだ!わたしも何かプレゼント用意しなくっちゃ…澪ちゃんはプレゼント、何を買ったの?」

「”ザ・フー”って知ってる?律が好きなロックバンドなんだけど…そのDVD。アイツが欲しがってたから」


そういえばこの間、部室でふたりがそのロックバンドについて話していたような気がする。
流行りの音楽も、外国のロックバンドも、わたしは全然詳しくない。
話題のアイドルも、有名なお笑い芸人も、わたしはちっとも知らない。

熱心に話しながら時々笑い転げるふたり。
そうだ、紅茶のおかわりを淹れようかしら。
わたしは席を立った。


「…で、すっごくいいんだよ。ムギもよかったら聴いてみて欲しいんだ」

アーケードを抜けると鋭い日射しが目に入って、一瞬顔をしかめる。
日傘を広げる。影になって隠れてしまっても、熱量を帯びた彼女の目の輝きは隠せていなかった。
このバンド、よっぽど好きなのね。

「うん。わかった。一度聴いてみるね」

そうすれば、少しは二人の会話に入れるようになれるかしら。
そうなれるといいな。


「ムギ、帰りは電車?」

「うん、そうだけど」

「乗りなよ、送ってく」

「いいの?重いよ、わたし」

「体重のことは言いっこなし」

「ふふ…ありがと。じゃあ遠慮なく」

自転車の荷台に腰掛けた。
”しっかりつかまってろよ、落ちると危ないから”、
そう言われたけれど、あんまり強く抱きつくのも馴れ馴れしい気がして、
ちょっと遠慮気味に腰に手を回して澪ちゃんの服の裾を掴んだ。

「よし、いくぞ」

自転車は走り出す。風を切って走っていく。
風になびく澪ちゃんの長い黒髪が顔にかかって、ちょっぴりこそばゆい。

ふと、勢い良く回転する前輪に視線を向けると、キーホルダーがゆらゆらと揺れているのが見えた。


「かわいいね」

「…?なにが?」

「自転車の鍵?キーホルダー」

「鍵?ああ」

赤信号に立ち止まると、澪ちゃんは一旦自転車を降りて鍵をかけてキーホルダーを手に取った。

「ほら、うどん」

「ほんと、うどんね。かわいい。こんなのどこで売ってるの?」

小さいけれど作り込まれたキーホルダーのうどんには、まんまるの卵が落とされている。

「昔、香川を旅行したことがあったんだ。そのときに」

「へぇ~。さすがうどん県ね…」

「他にも素うどん、きつねうどん、てんぷらうどん、肉うどん、ざるうどん、釜玉うどん…いろいろあるんだぞ」

「わぁ~そうなんだ。いいなぁわたしもうどん欲しいなぁ…」

友達とお揃い。ちっちゃなキーホルダーが繋いでくれる何かを想像する。

「律はてんぷらうどん持ってるよ」

「りっちゃんも…?」

「うん。一緒に旅行、行ったから」


真夏の街の中は、どこにいっても蝉の声が響いている。
近年大阪ではクマゼミが増えて、アブラゼミが減ったらしいと、家庭教師から聞いた話を思い出した。
この街でもそうなのかな。そう言われると、あまり見かけない気もする。

信号はまだ赤いまま。
荷台に乗ったまま、背中越しに澪ちゃんの旅行話を聞いている。

本場のさぬきうどんはとってもおいしかったんだって。
こっちでいつも食べてるうどんと全然ちがったんだって。
欲張りのりっちゃんはてんぷらをたくさんとりすぎて、結局食べきれなかったんだって。
わたしが”食べたいことない”って言ったら、いつかいっしょに行けるといいなって。



遠いよ、うどん県。



ううん。チェーン店なら近くにもあるぞ。

…それじゃ本場にならないよ。
やっぱり行くなら、本場がいいな。みんなと…澪ちゃんと一緒に行けるといいな。

信号の色は、変わる素振りを見せていない。
そのまま視線を横に向けると、街路樹の太い枝にアブラゼミがとまっているのが見えた。

なぁんだ。いるじゃない。アブラゼミ。

二匹並んだクマゼミの横にアブラゼミはとまっていた。
クマゼミのように透き通っていない羽。褐色が妙に醜く思えて目を逸らした。



「ムギ、まだ時間ある?」

「え、あ、うん。大丈夫だけど…」

「それならちょっと、寄り道していいかな」

とおりゃんせが鳴り始めた。
澪ちゃんは立ち漕ぎでスタートを切った。



しばらく澪ちゃんの背中で揺られ続けて、坂の手前で攻守交代(正しい表現なのかしら?)。

この坂を登るのは無理だよ。
律のやつ、いっつもチャレンジするけど、決まって最後まで上り切らずにバテちゃうんだから。

澪ちゃんのひとことがわたしの闘志に火をつけた。

後ろから走って坂を上ってきた小学生がわたし達を追い越していく。
振り向いた彼らのうちのひとりが、わたし達の方を見てぎょっとして表情を変えた。

…そんな、鬼を見たような顔しなくったっていいじゃない。

よっぽと酷い顔、してたのかな。

頂上に着いてから思いかえしてみれば、それも頷ける。
確かにそんな顔をしていそうなくらい、必死だった。余裕なんてひとかけらもなかった。

坂の後半はもう、歩く方が早いようなスピードだったんじゃないかしら。

それでもなお、一度も地面に足をつけることなくこの坂を上りきることで頭の中はいっぱいだった。
わたしって、こんな負けず嫌いの意地っ張りだったかしら?

坂を上りきることができれば、わたし達の中に確かな何かが生まれる気がしてたのかもしれない。





日が沈んでしまう前に間に合って、わたしは胸を撫で下ろした。

「ムギ、汗すごい」

澪ちゃんが差し出したハンカチを断って、自分のもので汗を拭う。

「…わたし、汗臭くない……?」

「ううん。ちっとも。むしろなんかいい匂いがしたよ。制汗剤?シャンプー?どっちだろ」

「……たぶん、シャンプー・・・かな?」


たどり着いた坂の頂上から見た夕焼け。
何層も折り重なって複雑にグラデーションがかかった色合いの空。
この瞬間を写メで撮ろうかと思ったけれど、やっぱりやめた。

空の色は一瞬の暇もなく少しずつ少しずつ変化していって、
きれいだなぁって思ったら次の瞬間にはまたちがう色を見せているんだもの。
一秒も見逃すのが惜しいわ。

そう思って、じっと目を凝らして見てた。


こんな風景が自分の住む街で毎日のように繰り返されていたなんて。
わたしが知らなかった、気が付かなかっただけだったんだ。




それを澪ちゃんが教えてくれた。

でも昨日のおとといもその前も、明日も明後日も明々後日も、この夕焼けを見られたのかな?見られるのかな?
だって、こんな………信じられない。
今日、いま、この瞬間だけ特別にきれいなんじゃないかしら。

きっと、そう。

夕焼けは、地球が生まれた日からずっと、
今日という日まで数えきれないくらいなんども繰り返された当たり前の現象かもしれないけれど、
今わたしの目の前で起きているこの出来事は間違いなくぜったい特別なものだって、・・・。




「ここさ。中学生のとき、律が教えてくれたんだ」







…そう。

ねぇ澪ちゃん。

この坂の上ではじめて夕焼けを見たとき、どんなきもちになった?
やっぱり今のわたしとおなんじ気持ちになったのかしら。
澪ちゃんにとって今日の夕焼けはどう見えているのかしら。
特別に・・・いつもと違う夕焼けに見えているのかしら。


瞼にかかる前髪をかき上げて額の汗を拭う。

「前髪、けっこう伸びてるな」

「そうなの。そろそろ切ろうかしら?それとも…」

「それとも?」









「カチューシャ、しようかな。りっちゃんみたいに」















逆光のせいか、澪ちゃんの表情は見えなかった。
坂を上り下りして行き交う人たち、道沿いに立ち並ぶ商店、駅の方に見える京都タワー、街をぐるっと取り囲む遠く連なる山の峰、みんな黒く染まって表情が見えない。

律といっしょかーそれはどうだろうなー…って真っ黒に染まった澪ちゃんが軽く乾いたように笑う。
その声だけが坂の上に響いた。



「わたしね、ふたり乗りしたのはじめてなの」

「そっか」

「うしろに乗せてもらったのも、前で漕ぐのも」

「そっか」

「こんなにきれいな夕焼けを見るのも」

「そっか」

「軽音部の友達とふたりきりで学校の外で会うのもはじめて」

「はじめて尽くしだな」

「そうね。全部澪ちゃんのおかげ」

そんなことないよ、って。澪ちゃんはちょっと照れてるみたいだった。
影はどこまでも細く長く伸びてゆく。
燃えるような世界の中、夕焼けの色が身体に染み込んでいって、
影はどこまでも伸びていきそうに思えた。



夕日が山の端に消えてしまう前に帰ろう。
下り坂もわたしが自転車の前だった。

上りは淀んで生ぬるく感じられた風がきもちいい。
前じゃないと味わえないから、澪ちゃんはそう言って特等席を譲ってくれた。


風が吹く。前髪がなびいて額があらわになる。
視界良好。自転車はぐんぐんスピードを上げていく。
プール帰りの小学生。野球のユニホームを着た中学生。買い物帰りのおばさんに、忙しそうにケータイを片手に汗を拭くサラリーマンのおにいさん。

その全てを追い越していく。

スピードが上がるにつれて、わたしの腰を掴む澪ちゃんの腕の力が強くなっていった。


真っ赤に染まる夕焼けの中で、頬を切る風と背中に伝わるやわらかい体温が、
世界の全てに思えた。









「電車、間に合いそう?」

駅前のコンビニで買ったカルピスソーダを飲みながら、澪ちゃんが聞く。

「うん。大丈夫。今日はありがとう。とっても楽しかった」

わたしも同じ、カルピスソーダ。滅多に飲まない炭酸飲料。
喉をしゅわしゅわさせながら通り抜けていく新鮮な冷たさが、
乾いた身体には吸い込まれていく。


「わたしの方こそ楽しかったよ、ありがとう。
 …あ、そうだ。ムギにひとつ聞きたいことがあるんだけど、」

「なぁに?」

「ムギの誕生日って、いつなの?ちゃんとお祝いしたいから」


踏切の警報機がかしましく鳴り始めた。
幸い反対方向の電車みたい。あわてなくても大丈夫。







「7月なの。7月の2日」

「あっ」













ゴォ、と勢い良く電車が走り抜けていく。
風に煽られて揺れた前髪が目にかかる。やっぱり前髪、伸び過ぎね。

「・・・ごめん。知らなくて」

「いいの!謝らないで、わたしもその…自分で言いだすのもあの…おかしいかなって…」

「…あっ、ちょっと待って」

澪ちゃんは唐突にカバンの中をごそごそあさり始めると、鍵を取り出した。
それからそこについたキーホルダーを外して、わたしに差し出す。

「うどん・・・」

種類の違う月見うどん。
もうひとつ、持ってたんだ。

「い、いらなかったかな…ごめん、さっき欲しそうにしてたから・・・。
 せめて今できることってこれくらいだから…もしかしたら喜んでくれるかな、って…」

「…」

「…ごめん、なんかとってつけたみたいだったよな。今更だし汚いし……」


古びて汚れた月見うどん。
器の端が欠けていて、麺はちょっと黒ずんでいる。

ごめん、なかったことにして!また今度ちゃんとプレゼント渡すから!
そう言って引っ込めようとした澪ちゃんの左手を掴んで、わたしはうどんを受け取った。

「ううん。そんなことない!とってもうれしい!わたし、高校の友達に誕生日プレゼントもらうの…」

言いかけて、不意に軽やかなメロディが鳴り出した。澪ちゃんのケータイだ。

ちょっと、ごめん。そう言って澪ちゃんは二三歩離れてから電話に出る。

りっちゃん…かな。


同時に警報機が鳴り始めた。
澪ちゃんはわたしに背を向けて大きな声で何か話している。
カンカンカンカン…と鳴り響く音に消されて、何を言っているかわたしにはわからない。

言えなかった一言を伝えたくて、電話が終わるのを待ったけれど、それより前に電車が駅に滑り込んでくるのが見えた。

わたしは周囲を構わず、最後の一言を叫んだ。

それは電車にかき消されてしまって届かなかったかもしれない。
でもわたしが何か声を出したことだけは伝わったのか、澪ちゃんは振り向いてくれた。

それから左手を大きく上げてひらひらと振った。
手首に赤く、蚊に刺された痕を見つけた。

わたしもそれに応えるように胸のあたりに小さく上げた右手を左右に振った。
よく見ると、わたしの右手の甲も蚊に刺されていた。


走って改札を抜け、閉まる間際の電車に飛び込む。

猛ダッシュのせいか、心臓がばくばくと脈を打っている。

息を切らして飛び乗ってきたわたしを、車内の乗客の人たちは迷惑そうに見ていたけど、そんなことちっとも気にならない。

大きく息を吸って、吐き出す。深呼吸を繰り返す。
それでも鼓動の激しさはやむことがない。
鮮やかな赤に染められた電車が、わたしを運んでいく。

電車が終着駅に着く頃、ようやく心臓が落ち着いて、握りっぱなしだった左手を開いた。



汗にまみれた月見うどんが、そこにあった。





再び激しさを思い出した胸の鼓動が教えてくれたのは、
わたしにとってもう一つの”はじめて”。

改札を抜けるともうとっくに暗闇が街を包んでいる。
見上げた夜空。そこにも月が、ぷっかりと浮かんでいた。


-高校三年生、梅雨。-


黒板を叩く白いチョークの音に混じって、雨粒が窓ガラスを上で跳ねている。

みんな、この世界を支配しているらしい物理学の法則(この先生は口癖のようにこう言う)よりも台風の行き先が気にかかるのか、教室に漂うのはいつもと違う浮き足立った空気だ。

授業がひとつ終わるたびに風の音は強さを増し、休み時間のたびにムギは鏡と睨み合い、ヘアースタイルと悪戦苦闘していた。


来週、桜ヶ丘に台風、来るってさ。


おい、律。親戚の従兄弟が遊びにくる…みたいな言い方するなよ。不謹慎じゃないか。
それに台風なんて、逸れたり小さくなったりするからどうなるかわかんないぞ。

ところが予報を上回るスピードで北上した台風は、その勢いを弱めることなく桜ヶ丘にやってきたのだった。

明日暴風警報が出れば学校が休みになる…なんて律と唯は不謹慎なことを言って騒いでいたけれど、いつもなら一緒になってはしゃぐムギは、珍しく輪に入っていなかった。

だってわたし、学校が好きだから。

ムギの祈りが届いたのかどうなのか、どうやら朝のうちに暴風警報は出なかったらしい。
電車も通常通り運行していたようだし、やや強めの雨風に煽られつつも、みんな無事に登校した。

ところが午後の授業が始まる頃、雷が落ちた。

ドォン!という大きな音に驚いて、クラスがざわつきはじめる。
唯は朗読中だった伊勢物語を放り出して窓の外を眺めていた。

古典の授業中はこの後二回雷が落ちた。
その度にクラスはざわついて、堀込先生が注意する。授業はちっとも進まなかった。
今日も終わらなかった伊勢物語。いつからこの話、やってるんだっけ。



何度も落ちた雷のせいだろう。放課後、みなは早々に校舎を後にした。
これから夜に向けて天気は崩れる一方だろうから、確かにこんな日はさっさと帰ったほうがいいかもしれない。だけど最近いつにも増してちっとも練習できてないことが、頭に引っかかっていた。

「他の部は早めに帰ってるとこが多いみたいですね。わたしたちも帰らなくて大丈夫でしょうか…」

「大丈夫だよあずにゃん!わたしがあずにゃんを守るっ!」

「唯先輩では頼りになりません」

「あずにゃんしどい……」

唯が梓に抱きついて、梓が頬を赤らめる。いつもと変わらぬじゃれつきを、少し離れたところにいるムギが遠巻きに微笑ましい笑顔で見守っている。

「大丈夫じゃないかー?だって暴風警報、まだ出てないみたいだし?それよりケーキ食べよっぜ~」

「いや、出てからじゃ危なくて帰れなくなっちゃうだろ。風もきついし雷も鳴ってたし。今日は一回だけでいいから音合わせして、それでおわりにしよう」

「澪ちゅわんはこわがりでしゅからね~。そういえば小学生のときも雷がこわくて…」

「なっ…!昔の話はやめろっ!」

「なになに~♪、りっちゃんと澪ちゃんの昔話、聞きたい聞きたい~~☆」ウキウキ

「お、おいムギ…やめないか?そんな昔の話聞いてもまったく面白くないぞ??」

「え~、ふたりの小さい頃の話いっつも面白いじゃない。
 わたし大好きなの!もっといっぱい聞かせて聞かせて~♪」

「よ~し、じゃあ話すぞー!あのときはたしか・・・」

「やめろぉりつっ!」


…そんないつもの調子でだらだらとお茶にお菓子におしゃべりを続け、ようやくひと段落してさてそろそろ練習を……というタイミングで、

「あら?あなたたち、まだ残ってたの?」

扉が開いて、現れたのはさわ子先生だった。

「大丈夫ですよ。先生の分のケーキ、ちゃんと残してありますから」

ムギがそう言うと先生は少し微笑んで、でもすぐに真剣な表情に変わった。

「あら、ありがとう。…でもそれどころじゃないわ。
 今さっき、暴風警報が出たのよ。それで今校舎に残ってる生徒がどれぐらいいるか確認しに回っててるところ」

「えっ、じゃあいますぐ帰らなきゃいけないんですか?」

「ううん。この嵐の中を帰すのは危ないから、できればおうちの人に連絡して迎えに来てもらって。
 どうしても連絡つかなくて迎えのない生徒は先生たちで送っていくから」

今日も練習できない……でもこんな緊急事態じゃ仕方ないか。
あきらめてケータイを取り出し、電話をかけようとすると…


”圏外”


「うそ」

「台風のせい?」

「そうとしか考えようが…」

「おかしいわね……さっきまでそんなことなかったのに」

「仕方ないじゃーん。じゃあみんなさわちゃんの車でかえろうぜー!」

「一度にみんなが乗れるほどわたしの車は大きくないの!それに…」

先生は渋々といった調子でため息をついて言う。

「他に校舎に残っている生徒もいるから。あなた達はその後。しばらくここで待ってなさい」

それまで待機。


やることのなくなったわたし達はお茶を再開した。
天候は荒れ狂い、雨風は猛威を振るっているというのに、いつだって平常運転なわたし達ってなんなのだろう。
飽きもせずにだらだらとお茶を飲み、ケーキを食べ、しゃべり続ける。

その間も雨は勢いよく窓を叩き、風は激しく校舎を揺らし続けた。

「さわ子先生、なかなか来ませんね」

「もう結構時間経ったと思うんだけど……」

「ケータイも繋がんないしなー……」

「事故にあっていなければいいんだけど……」

「りっちゃん隊長!緊急事態です!どうしましょうか!」

そういう唯の口からはちっとも緊急事態の緊迫感は伝わってこない。
律はそれらしく腕を組んでしかめっ面をしているが、きっとコイツもこの事態を大したことだと思ってやしないんだろう。それくらい付き合いの長さでわかる。ふざけている感がびんびん伝わってくる。

「うん……唯隊員、こうなったらな……」

「こうなったら……」

「学校に泊まっちゃうかぁ!」

「学校に………お泊まり!?おもしろそうです!隊長!!」

「うわぁ~、みんなで学校にお泊まりなんて楽しそう!」

はじまった……悪ノリ以外の何物でもない。
けれど外の様子を荒れ狂う天気を見ていれば、それも確かにやむを得ない…。

隣では唯に抱きつかれた梓が唸り声をあげていた。
ムギはいつも通り、少し離れたところでニコニコ微笑み続けている。


  ◆  ◆  ◆ 

「わっくわくするね~」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ…とにかくまずは食べ物と寝るところを…」

「運動部が合宿に使ってる宿泊施設に布団があるだろ。食べ物は…」

食堂にいくらか残っているのものを調理させてもらおう。

嵐はひどいけれど停電になることもなく、廊下は電灯に照らされている。
このところ雨続きで昼の間も一日中太陽は隠れている。
だから、昼も夜も大して代わり映えしなかった。
おかげであまりこわくない。こわくないのは唯と律が騒いでるせいもあるかもしれない。

その日はみんなでカレーを作って食べた。

「おいしい!わたしこんなにおいしいカレー食べるのはじめて!」

「大げさだなぁ~ムギは。でもカレーってどこで食べるかでおいしさ変わるよな」

「言えてますね。キャンプでつくるカレーってやたらおいしく感じますし」

「ええ!キャンプのカレーってそんなにおいしいの!?」

「ああ、そりゃもう…この世のものとは思えないくらい…だな!」

「だね!」

「盛りすぎだ」

「澪だってカレー好きじゃん。中学のときキャンプ行って、わたしの作ったカレー三杯もおかわりしてたじゃん」

「あ、あれはまぁ……たしかにおいしかった…けど」

「キャンプのカレー……」ウットリ

「夏休みになったらみんなでキャンプでもいくかっ」

「行こう行こう~!」

「何言ってんだ。わたし達受験生だぞ。そんなことしてる暇は……」

「そうですよ、ちょっとは現実をみてください」

作りすぎて残ったカレーはタッパーに移し替えて冷蔵庫に入れた。

お風呂は運動部が合宿につかう宿泊施設に備え付きの浴場を借りた。
湯船はちょっとした銭湯みたいなサイズでみんなでバカみたいにはしゃいだ。
スポーツ強豪校でもないのに、ここまで優遇された設備があったなんて。

もうそこで寝てしまってもいいくらいなんだけど、部室で寝るほうが面白そうじゃないかって話になって、わざわざ校舎の三階まで布団を運んだ。

布団に入ってもなんだかんだおしゃべりは続く。
激しく吹きつける雨風の中、校舎の三階の一室だけが煌々と灯りを放っていた。

  ◆  ◆  ◆ 

はるか先まで続いているような廊下の端に、かたつむり。
いつの間にどこから入り込んでしまったのだろう。

角を伸ばしたり縮めたりしながら、ゆっくりゆっくりと進んで行く。
この子がここから廊下の反対側の端まで行くのにどれくらい時間がかかるのかな。

誰かに踏まれてしまわないように、殻を掴んでひょいと持ち上げると窓のサッシのところまで持ち上げた。

「…あら。やさしいのね」

「…気まぐれだよ。
 あ、そうだムギ。律知らない?」

「りっちゃん?なにか用事?」

「いや別に。特に用があるわけでもないけど・・・」

ムギは窓際に肘をかけて、かたつむりの甲羅をつんとつつく。それから視線を窓の外に向けた。
その先は群青色に塗りつぶされている。

「りっちゃん、プールに行ったよ」

「またか。よく飽きないな」

「流れるプールとかウォータースライダーとかあるしね。波も出てるのよ。ザパーン!…って」

それ、波のマネ?ムギがバタフライみたいな振り付けで説明してくれる。

「しっかし、いつの間にできたんだっけ?屋外プールしかなかったような気がするんだけど…
 学校のプールらしくないよなぁ。いいのかなぁ。学校にそんなものつくったりして」

「さぁ…でもいいんじゃない?たのしいし」

「たのしいけどさ…でも飽きずに遊べるのもすごいよな」

「飽きないよ。なんだかこういうの。ロビンソンクルーソーみたいでたのしいじゃない?」

「ロビンソンクルーソー…かぁ」

漂流しちゃったようなもんか。


廊下の窓から眺める景色はいつもと何も代わり映えしない。
校舎内はいつでも薄暗い。目が覚めたときも、朝なのか夕方なのかわからない。

ケータイの電池はとっくに切れた。
台風で電話線が切断されたのか、学校の電話は使い物にならない。



「本当に大変な事態なんだったら、とっくに助けがきてるさ」

へらへらと気楽に律は言う。
そう言って日がな、屋内プールで泳ぎ回っている。

「食べ物はたくさんあるんだし、大丈夫だよ」モグモグ

食堂には十分すぎるほどの備蓄があり、デザートも含めて不足はない。
冷蔵庫には誰が収納したのか、尽きることがないほどのアイス。発注ミスか?
唯が食べても食べても減ることがない。

「心配ではありますけど……学校からは出られそうにありませんし」

視聴覚室になぜか大量に保存されていたロックミュージシャンたちのライブDVDや古いレコード。
すっかりそこの住人と化した梓。

電気は通っているのにネット回線は繋がらず、TVやラジオの放送も受信できない。
雨風の勢いは、毎日何も変わることはなく続いている。
年季の入った校舎が壊れやしないかと心配もするけれど、そこまでではないみたい。


「澪ちゃんは今日、何する予定?」

「わたしは・・・そうだなぁ…」

「今日も読書?」

「うーん、図書館の本もあらかた読んじゃったし……」

「じゃあ卓球でもしない?それともテニス?バドミントン?バスケでもいいよ?」

「スポーツ、って気分でもないな」

「あのねあのね。こないだ倉庫でボーリングのピンを見つけたの。久しぶりにどう?」

「ん……ごめん。いいよ」

「そうだ、講堂で映画が観られるみたいなんだけど……」

「………ごめん」

「………そっか」


校庭の桜の木はどれだけ激しく雨に打たれても葉を落とすことがないのか、
前後に揺れている緑色がぼんやりと見えた。

「やっぱりわたしもプールに行こうかな」

「…」

「…どうした?」

「ううん。わたしとじゃ退屈なのかなぁ…って」

「え、いやそういうわけじゃ…」

「ごめんごめん、ちょっと羨ましかっただけ」

「羨ましい…?」

「ほら。澪ちゃんってりっちゃんと一緒のときが一番たのしそうだから。
 幼なじみっていいな、って思って。わたしにはそういう友達、いないから」

「…ただの腐れ縁だよ」

「そこがいいのよ」

「わかんないな」

「澪ちゃんにとっては当たり前すぎて価値がわからないのよ」

「そういうもんかな」

「そういうものよ」


悪戯めいて笑う。
わたしはムギに背を向けて歩き出した。

「プール?そっちじゃないよ?」

「知ってる」

「じゃあ、どこに行くの?」

「外」

「プールじゃないの?外って…危ないよ」

「気が変わった。ここに居続けるだけじゃ、何も変わらないだろ」

「…いいじゃない。変わらなくて。変わらなくても、いいじゃない」

「心配するだろ、おうちのひと」

「大丈夫よ。それにたのしいじゃない。毎日が夏休みみたいで。わたし、今がとってもたのしい。
 澪ちゃんと…みんなと一緒に学校でお泊まりするの、夢だったもの」

「夏休みは梅雨が明けた先だ。それに夏休みだからって遊んでばっかりいられないよ」

「……いいじゃない。ちょっとくらい。だって高校最後の夏休みだよ。
 みんなで過ごすの、これで最後だよ。たのしく過ごしたいもの」

「最後って…そりゃそうだけど。大げさだな、ムギは」

「大げさじゃないよ。だって本当だもの。卒業したらみんなバラバラ、でしょ?
 澪ちゃんとこうして二人になることだって…」


潤んだ瞳がきゅっと細くなった。

「……一生会えなくなるわけじゃない」

「……そうだと、いいね」

雨風が止んだ気がした。
変わらずに降り続けているのかもしれないけれど、何も音が聞こえなくなった、そんな風に感じた。

「……そうだよ」

「……行っちゃうの?」

「……行くよ」

「じゃあわたしも行く」

ムギがわたしを追い越して、前を歩いていく。
長い髪がふわりと揺れた。

シャンプーの香り。
いつかどこかで、嗅いだことのあるような。


このままずっとここに居続けたら、わたし達もずっとこのままでいられるんだろうか。
それはいいことなのかわるいことなのか。

わたしはそれを望んでいるのか、いないのか。

ムギの背中についていく。

  ◆  ◆  ◆ 

今まで何度だって、外に出ようとしたことはあったんだ。
けど、ごうごうと風にあおられた扉を見るたび、こりゃ外に出られそうにないな、と諦めた。
それが今日はどうだろう。

昇降口はしんと静まり返ってふたりの足音だけが響いている。

いくつか残った傘のうち、ムギは赤色の傘を手に取った。

「あれ?それ、ムギの傘だっけ?」

わたしも適当に目についた傘を手にとる。

「いいじゃない。あとで返せば」

鍵を外して扉を開く。
雨…は降ってない?
でも全面に霧が広がっていて、数メートル先も見通せない。

なんにも見えない。影も形も色さえない。白い闇のような、モノクロームの世界。

傘を広げたムギは、少しの躊躇もみせずその中を歩きだした。

モノクロームの中に一点の赤。

わたしはムギの背中が見えなくなってしまわないよう、赤を目印に小走りで追いかけた。

どこまで歩いても霧は晴れる様子がない。
時々ぱしゃっと音が鳴り、水たまりに踏み入れたとわかる。
右肩がしっとりと濡れて冷たくなってきた。

赤い傘は等距離を保ちながら前に進む。
わたしの歩く速さを知っているように。

学校を出てからずっと、ムギは一言も喋らなかった。
わたしはただ黙って後ろをついていく。

赤い傘が止まる。
くるっと傘が回転し、雨粒が飛沫となってちらばった。
ムギがこちらを振り向いて、傘を折りたたんだ。

「雨宿り」

彼女が見上げた先を視線を向けると、広葉樹が大きく枝を広げていた。
霧の中に曖昧に濁った色合いの葉がすっぽりとふたりを包んでいる。



「ねぇ。覚えてる?」







夏の日。夕立にあった。

降水確率は10%。
ふたりは傘を持っていなくて、突然の雨に慌てて駆け込んだ。

「あの日とおんなじね」

急いで走ったせいなのか、買ったばかりの靴のサイズが合っていなかったせいもあって、わたしは転んで膝を擦りむいた。

雷が鳴った。

怯えたわたしはもう、立ち上がることさえできなかった。
すると彼女は黙って背を屈めてわたしを背負うと、そのまま走りだした。

雨に濡れた彼女の髪に散らばった水滴。

白い肌に髪をひと筋張り付けたまま。
びっくりした!、降ると思ってなかったよね~…、って、
そのままおしゃべりしていたら、いつの間にか雨がやんでいた。
雷なんか、ちっとも怖くなくなってた。

「覚えてないの?」

しょうがないね、子供の頃の話だもの。

彼女はそう言って笑うと、また赤い傘を広げた。
顔を隠すようにしながらくるくると傘を回し、自分も一緒に一回転してみせる。
スカートがふわっと翻り、わたしに背を向けるとまた、歩き出した。

  ◆  ◆  ◆ 

降り続ける雨がより一層勢いを増して、まるで世界を洗い流すようなスコールになった。

豪雨に押しつぶされてしまないよう、必死に傘の柄の部分を両手でギュっと掴んで、重さに耐える。

ああ、もうダメかも…そう思って目を瞑った瞬間、全ての音が止んで、両手が軽くなった。
恐る恐る瞼を開く。





すると周囲は全て水に囲まれた世界に変わっていた。

側面から天井にかけて、ドーム状になった水のかたまりがわたし達を見下ろしている。
しばらくして水槽だと気がついた。
下を向くとガラス張りになった地面から透けて、大小様々な種類の魚たちがいくつも泳いでいくのが見えた。
頭上の水槽のそのさらに上からはわずかな光が降り注ぎ、照らされた水面はゆらゆらと揺れていた。

悠然と泳いでいく名前の知らない大きな魚。身体のサイズの割りに目がやたらと小さくてちょっとおかしい。
その横側を、わずかに発色してぴかぴか光るクラゲがぷかぷかと浮かんで上を目指し上っていく。


「ねぇ覚えてる?

 はじめてふたりで水族館に行った日のこと」

全面を水で覆われた空間は本当に水の底みたいで、降り注ぐ光はさまざまに屈折していてどこともなく光を放っている。
どっちが上なのか下なのか。左なのか右なのか。

「本当はわたし達、遊園地に行きたかったんだけど、雨が降っちゃって。
 すっごく楽しみにしてたのにいけなくなっちゃって」

ただ彼女が進む方向だけが前なんだろうな、って信じてついていく。
もしかしたら彼女は逆方向に進んでいるかもしれないのだけど。

「落ち込んですっかり出かける気をなくしてたあなたをわたしが、引っ張るようにして連れて行ったんだったね。
 ”今日は絶好の水族館日和よ!”なんて」

水の底には色がない。
わずかな光を受けた魚たちは、ぼんやりと曖昧な色を乗せて泳いでいる。

「でも考えることはみんな一緒で…すっごく混んでたね。
 魚を見に来たのか人を見に来たのかわかんなくなりそうだったけど、
 わたし達ずっと手をつないでたおかげではぐれずに済んで、よかった」

その中で唯一、一匹だけ真っ赤な魚がいた。
赤い色のおかげで、彼女だけはどこにいてもその姿を捉えることができた。

「わたし、実はちょっと気にしてたの。無理に連れて来ちゃったけど、あなたはたのしんでるのかな…って。
 でもあなた、目をキラキラさせて水槽を眺めてたから、わたし安心しちゃった」

彼女はどこを泳いでいてもわずかに他の魚から距離をとっている。
離れた場所から群れを眺めているようだった。

「あの頃まだ小さかったのに、あなたは色んな魚の名前を知ってて、ひとつひとつわたしに教えくれたよね。
 わたしがあなたを連れてきたはずだったのに、あなたがわたしを連れてきたみたいになっちゃって……たのしかったね」


泡が。
どこからともなく生まれては弾け、細かくなって浮かんでは消えた。

「あれ見て。あの魚」

わたしとは反対方向を向いていた彼女が指を指す。
深い群青の中の鮮血。

「かわいそう」

なにが。

「かわいそうよ」

きれいな魚だと、思うよ。

「きれいとかそういうんじゃないよ。あなたにはわからないのね」


山椒魚がいる。

足元にまるで岩のように動かない山椒魚がいる。
彼女は山椒魚をまたいで、進んでいった。

  ◆  ◆  ◆ 

また霧が立ち込めてきて、彼女は赤い傘を広げた。わたしもそれに続く。
真っ白い霧はだんだんと濁ってゆき、あたりを暗闇が包み始める。
鮮やかな赤は真っ暗な空間にぽっかりと浮かび上がりながら進んでいく。

その赤が消えた。

彼女は立ち止まって傘をたたんだ。


「もういいよ。ここまできたら、だいじょうぶ」

言われてわたしも傘をたたむ。
始終身体にまとわりついていたはずの湿り気がなくなっている。

「ほら、見て見て!星がきれい!」

頭上を見上げると満天の星空が広がっている。
ふたりを照らす、まばゆいばかりの星の輝き。

「あれ見て。あれ!」

彼女が指をさす先に、赤い星があった。
夜空に輝く赤い星。

「きれいね…。あー、寝っ転がって空を見てみたいわ」

気持ち良さそうだな。
でも、背中濡れちゃうよ。

「そうね、それはちょっと困るね。子供の頃だったらそんなこと気にしたりしなかったのにな」

はは…そうだな。


「ねぇ覚えてる?

 夏休みの宿題で星座の観察したときのこと。あの日も星がきれいだったね。
 それで”ちょっとでも空に近いところのほうが、きっともっと星がきれい見えるよ”って、
 わたしがワガママ言って…無理にあなたを引っ張って学校の裏山に登ったんだったね」

夜空を大きく横断する天の川。
その近くに、大きくS字を描くように光るのがさそり座。

「山の上は空気が澄んでたね。
 あの日はとくに天気がよくて晴れていたから、天の川がとってもきれいだったわ。
 あんまりきれいだったからふたりで寝転んで、ずっと見てたよね。
 それでずっと寝転んでいたからいつの間にか寝ちゃってて…」

さそり座の星たちの中に赤く光る星がひとつある。
赤い星の名前はアンタレス。
遠くわずかに明滅を繰り返しているように見える。

「気がついたら随分夜遅い時間になってて。しかも懐中電灯の電池が切れちゃって。真っ暗な帰り道がすっごく怖くて…
 わたしもう、今にも泣きだしちゃいそうだったわ。
 でもね。泣いちゃダメ、泣いちゃダメ、って、必死に泣くの我慢してたの」

アンタレスから少し離れたところにもう一つ赤く光る星がある。
それが火星。

「だって、普段とっても怖がりで泣き虫のあなたが泣いていなかったんだもの。
 わたし、きっとひとりじゃ帰れなかった。
 あなたがいてくれたおかげ。ぎゅっと手を握ってわたしを引っ張っていってくれたおかげ。

 ありがとう。わたしね、あの夜のこと、ふたりで手をつないで帰った夜のこと、
 
 一生忘れないと思う」


”さそり座”なんて言っても本物のさそりが空の上にいるわけじゃない。

ただ空の上でバラバラに散らばっているようにしか見えない星と星を結びつけて、それを”⚪︎⚪︎座”って名前をつけてしまうなんて、昔の人の想像力ってすごいなと思う。

何もないように見えるところに一つの形を作り上げてしまう。
一旦名前の付けられてしまったそれは、以後ずっとその名で呼ばれる。

この広い夜空に広がる星たちの名前は、全て誰かが作り上げたものなんだ。

本物のさそりじゃない。ニセモノ。
そうであったらいいな、というだけの、想像の産物。

真っ暗な夜空に浮かぶ星が、一際明るく光を放った。

眩しさに一瞬目を閉じる。

星が弾けた。

「あっ」

つられてひとつふたつ…どんどん星が弾けていく。
鮮やかな色を光を放って弾けるそれは、まるで花火のようだった。

丸く綺麗な弧を描いて星は弾けていく。


「花火、また二人で見に行きたいね」

……また?

「…行ったじゃない。忘れちゃったの?」

…。

「大丈夫、あなたが忘れちゃったとしても、わたしが全部覚えてるから」

…。

「どうしたの。黙ったまま……」

カチューシャ。

「カチューシャ?これがどうかした?」

…いつからしてた?

「何言ってるの?昔からしてたじゃない。あなたと出逢ったときからずっとこうじゃない。
 
 忘れちゃったの?」

…。

「ヘンなの」

…ああ。ヘンだな。おかしいよ。

「そうよ。あなた、おかしいわ」

そうだ。おかしい。
そのカチューシャ……
























全然似合ってないよ。























「……え」

いつもはカチューシャなんて、つけてなかったろ。

「…してるよ」

してない。

「…してるもん」

こうしてる間にも星は弾け続けていく。
ぱちんぱちんとポップコーンが爆ぜるみたいに弾けていく。

星が弾けるときの光が集まって、ふたりを照らした。

ムギはカチューシャであらわになった額を覆うように両手で顔を隠していた。

「全部…覚えてないの?」

「違う。覚えてないんじゃない。なかったんだ」

「…あるよ」

「ないよ。
 ……他人の思い出を間借りしても、何の意味もないよ」

星が減って、空はまたどんどんと暗くなっていく。

ムギが顔を上げてわたしの目をじっと見た。


「ねぇ澪ちゃん。星の数って、偶数だと思う?それとも奇数だと思う?」

「……」

「わたしはね、偶数ならいいな、って思うの。奇数は、嫌いだから」

そう言って、カチューシャを外して首を左右に振ると、長く伸びた金色の前髪が彼女の青い目にかかった。


「バカみたいね、わたし」


瞳を隠す前髪のせいで、表情は見えない。

鼻先に冷たさを感じて仰ぎ見ると、灰色の空から雨粒が降ってきていた。
続いて雨音が戻ってくる。

「…雨。いつまで降るんだろ」

「雨はやまないよ。ずっとずっと。世界が水の底に埋まるまで。それでもう世界はおしまいなの」

「困るよ、それじゃ」

「澪ちゃんは、梅雨がキライ?」

「どうだろ。決して好きってわけでもないけど…キライでもないよ。雨を見て詩をつくるときもあるし…ムギは?」

「キライ」

「好きかと思ってた」

「どうして」

「だって」


「だって…









 誕生日、もうすぐだろ?わくわくしたり、しないのか?」

















「…覚えててくれたの?」

「忘れるもんか。軽音部でわたしが一番最初にムギの誕生日、教えてもらったんだぞ。
 忘れるわけ、ないじゃないか。ほら、うどんのキーホルダー、あげただろ?
 
 ねぇ覚えてる?」


…忘れちゃったかと思ってた。全部。

澪ちゃん、ズルいね。不意打ちだよ、そんなの。
わたしはポケットの中のキーホルダーをぎゅっと握りしめた。
いつだって持ってるキーホルダー。わたしのお守り。

「だから雨が上がらないと困るんだ。学校の外に出られなきゃ、困るんだよ。

 プレゼント、用意してるんだから。渡せなくなっちゃう…だろ」






やわらかい。

いつの間にか真後ろに立っていた澪ちゃんが、背中からわたしを抱きしめていた。
お互いの身体は雨に濡れて冷たいはずなのに、ちっとも寒くなんかなかった。


ねぇ覚えてる?

あの日もこうやってわたしの腰に、腕を回してくれていたね。


鼓動のスピードがどんどん増していることに気づかれないように、ゆっくりと深呼吸を繰り返したけれど、無理みたい。どうしようもないわ。



「ひとつだけ、お願い。約束して」


「なに?」


「誕生日に欲しいものがあるの」



ねぇ。わたしが今までどんなきもちで澪ちゃんのこと見てたか、あなた知ってる?
知らないよね。それなのにこんなこと言って…
ねぇ。今わたしがどんなきもちなのかわかる?わかんないよね。でもね、それじゃ困るの…


「いいよ、なんでも言って」


わたしをこんなきもちにさせておいて、ただじゃおかないわ。
だからね、澪ちゃん。ひとつだけ、お願い。







「さぬきうどん、食べに連れてってね♪」







これは借り物の思い出じゃないよ。ほんとうのことだからね。だからぜったいにわすれないでね。
きっと。やくそくよ。







風が吹いた。
靡いた前髪の間から、ムギのニコッと笑う顔が見えたかと思うと世界がぐるっと反転して、
わたしは空をめがけて落ちていった。

すべての星が弾けたと思っていた夜空にはまだ、
赤い星がふたつ、輝いていた。

-大学三回生、梅雨。


「それじゃまるで、わたしがストーカーみたいじゃない……」

この街全部が見渡せる坂のいちばんてっぺんで、ムギが不満そうに呟いた。

「澪ちゃんひどい。わたしのこと、そんな風に見てたの?」

「いや……ゼェゼェ そう いう わけじゃ ヒィフゥ だって ハァハァ ゆめだし……しょうが ないだろ……」

「…澪ちゃん 意外と体力ない」

「……う うるさい」

太ももはピキピキしっぱなしだし、膝もガクガクする。
額の汗を拭う気力もなく、自転車をムギに預けたままわたしは両手を膝について肩で息をしていた。

「澪ちゃん、背中。ブラ、透けてるよ」

「えっ、ホント!?うわぁ…どうしよ…」

「ハァ・・・クールでかっこいい澪ちゃんはどこに行っちゃったのかしら……なーんかゲンメツ」

「そ そんなこと言うなよ・・・わっ」

頬にピタッと冷たさを感じて顔を上げた。
視線の先にムギの悪戯めいた笑顔。


「えへ。はい、カルピスソーダ。澪ちゃんこの、白くて甘くてしゅわしゅわするの、好きだったよね~。
 あ、それともビールのほうがよかった?」

「バカ。まだ日が暮れる前だぞ。それに自転車だって飲酒運転で捕まるんだ」

マジメねぇ…わたしは休みの日なら昼からでも飲むわ。それに缶一本くらいじゃ、顔に出ないから絶対にバレないし。

余裕綽々といった感のムギは、笑いながらトートバックから取り出したタオルを手渡してくれる。
随分と準備いいな。さすが経験者。

ごくごくと音を鳴らしながら、喉を通って身体の中を流れていく。
乾いた全身に炭酸飲料が染み渡っていく。

「ああ、生き返る…ってオイ」

プシュ

「おっとっと…こぼれちゃうこぼれちゃう…もったいないもったいない…」

「飲むのかよ…」

「え?だってせっかく買ったんだもん。澪ちゃん、飲まないんでしょ?もったいないじゃない」

星のマークがついた缶ビール。
腰に手を当て腰を大きく反らすと、音を鳴らして流し込んでいく。
よりよって500ml…。まぁいいか。今日のところは多めに見よう。
漕ぐのは帰りもわたしだし。


「さて、帰りましょうか」

「え。もういいのか?」

「だって今日曇ってるから夕日見えないし。明日の朝、家出るの早いし」

「いやまぁそうなんだけど…ここに来たいって言ったのムギはじゃないか」

「そうよ。このしんど~~~い上り坂をね。
 自転車の後部座席に乗って優雅にのんびり上るのがわたしの夢だったの~☆」エヘ

可愛らしい眉が垂れ下がる。
最近短めに揃えた前髪のせいで、年齢以上に幼く見えるムギ。
この可愛らしい女の子のお腹に黒いものが潜んでいるなんて、誰が思うだろう……

「…な……それなら原付でもよかったじゃないか……!」

「澪ちゃんご自慢のベスパ?ああ、あれじゃダメよ。
 だって、筋肉痛はもちろん、あのときのわたしが体験した感覚全てを澪ちゃんに体験してもらうのが今回の狙いだったんだもん。
 おかげで当初の目的はほぼ達成したわ☆」

「そ、そんなことのために…大体あのときだって漕ぎたいって言い出したのムギだろ!わたしは途中で替わろうか?って何度も言ったじゃないか!」

「ふーん、自分に都合のいいことは随分細かいところまで覚えているのね」

…もう何を言ってもどうにもならない気がして、わたしは大きくため息をついた。

雲に覆われて夕日は見えないし、灰色の街はお世辞にもきれいだとは思えなかった。
京都タワーもちゃちなロウソクにしか見えない。感動を呼ぶ要素はひとかけらもなかった。

せめて雨が降らなかったことだけが幸いかな。


「ほら、もう行こう」

「あれ?もう飲んだのか?」

「残りは自転車の後ろでゆっく~~~り楽しむことにするの♪」

「そうですか…」

突っ張る太ももに鞭を打つようにして足を上げて自転車にまたがる。
硬いサドルがおしりに厳しい。
荷台にムギが腰掛けるのを確認して、えいやっ、とペダルを踏み込んだ。

長い坂道をゆっくりと下っていく。
ひんやりとした風が火照った身体を通り過ぎる。
ムギは右手をわたしの腰に回して、左手でビールをちびちびやりながら時々口笛を吹いて上機嫌だ。

うしろのムギが転げ落ちたりしないように、ブレーキを程よくかけながら、ゆっくりゆっくり坂道を下っていく。

「随分ゆっくり下るのね。澪ちゃんってホント小心者なんだから」

誰のためにゆっくり下ってると思ってるんだ……!
でも、声には出さない。

「…ここまで来るのに、時間がかかったね」

「上りは仕方ないだろ…最近運動してないから体力落ちちゃって…自転車乗るのも久しぶりだし」

「ちがうちがう。うどんよ、うどん。

 さ ぬ き う ど ん !」

「……あ、ああ。そっちか」

「誕生日に本場のさぬきうどん食べさせてやる、って約束してくれてから、もう何年経ったのかしら?」

「高校生の財力じゃカンタンに香川まで行けるわけないだろ… (イヤミっぽいなぁ、昔はこんなんじゃなかったのに…)ボソ 」

「なにか言った?」

「なにも」


坂の途中で、坂を上っていく自転車の高校生二人組とすれ違った。
わたしたちと同じ真っ赤な自転車に乗っていた。

まるで鬼みたいな顔して必死にペダルを漕いで坂を上っていく。
今日は夕焼け、見れないぞ?
罰ゲームかなにかか?
まぁ、夕焼けが見れなくっても、案外上る価値、あるんだけどな。











ムギの身体がわたしの背中に密着した。
ビール、飲み干したのかな。
わたしの身体を伝ってムギの心音が響いてくる。
少し鼓動が早いのは、アルコールのせいか、
それともわたしの心音と混じってしまってるせいか、
どっちだろう。







ムギが耳元でふっと囁いた。
わたしはそれに頷く。

腰に回した両手の力が、また強くなった。
ブレーキを緩める。

自転車はスピードを上げて長い坂を下っていく。

風が吹いている。

最高速度を超えて、このままどこへでも行けそうな気がした。




おしまい。

長々とありがとうございました。

ちょっと早いですが、7月2日はけいおん!、放課後ティータイムの琴吹紬ことムギちゃんの誕生日。ハッピーバースデー!
というわけで誕生日SSでした。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom