P「律子の淹れるコーヒーはすげー苦い」 (102)

 飲みたい、と思うとタイミングよく、
律子は俺のお気に入りのマグカップにコーヒーを淹れて持ってきてくれる。

 時々、雪歩や小鳥さんが淹れてくれることもあるが、
大抵は律子が俺のカップを運んでくる。

 雪歩の淹れてくれるコーヒーは少し薄くて、小鳥さんのはなぜか香りが弱い。
そして、律子の淹れるコーヒーはすげー苦い。

 口を付けた瞬間、思わず顔をしかめるくらい苦い。

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「律子、コーヒーすげー苦いんだけど」

「その方が目、覚めるでしょう」

 淹れてくれるのはありがたいんだけど、もうちょっと美味く淹れてくれよ。
 そう言うと、じゃあ自分で淹れたらどうです、と律子は口を尖らす。

 その次の日から淹れてくれなくなった、なんてことはなく、
俺が飲みたいと思うタイミングでマグカップを持ってくる。

 そして、味の方も変わらず、すげー苦いままだ。

「律子、苦い」

「はい、気をつけます」

「それ前も言ってたろ」

 毎日、律子との会話は、コーヒーの味への文句の他にはあまりない。
 以前の765プロならコーヒーを自分で淹れるくらいの暇はあったが、近ごろはやたらと忙しい。

 律子がアイドルだった頃は候補生も今の半分くらいしかいなかったし、仕事の量に至っては半分もなかった。
精々三分の一から四分の一くらいだ。

 逆に言えば、今はその頃の三、四倍の仕事があるってことだ。

 そろそろ、事務員増やしてもいいんじゃないですか。
 何度か社長にそれとなく伝えたものの未だに事務員は小鳥さん一人で、俺も律子も事務仕事を手伝っている。

 一年近く前、良い形で律子はアイドルを引退した、と思う。

 たった一年間の活動だったが、アイドルとプロデューサーとして二人三脚で頑張ったことは報われた。
 ラストライブのあと、765プロの子会社を立ち上げて二人で一緒に経営したいと誘われた時には、
高揚感もあって二つ返事で了承した。

 社長はその話を快く承諾してくれたが、俺も律子も経験が少ないことを憂慮して、
もう少し765プロで経験を積んでからでも遅くはないのではないかと言った。

 その提案を受けて俺と律子の二人は765プロに留まり、
律子はプロデューサーに転身、俺はプロデューサーとして働くかたわら経営について少しずつ学んでいる。

 それから一年間、765プロは出来過ぎたくらいに仕事を増やしていった。
 律子の淹れるコーヒーがすげー苦くなったのも、この一年の間だ。

 忙しくなって、俺が日中眠そうにしているのを見かねて、
濃いコーヒーを淹れるようになったのかもしれない。

 それにしたって苦い。

 半分ほど飲んで、お湯を足しに給湯室に行くのはもはや習慣になった。
デスクに戻る時に、律子がこっちをじっと見ているのもいつものことだ。

「なんだよ。あんまり苦いから、こうしないと胃に穴が空いちまうんだよ」

 憎まれ口を叩いてやると、律子はふんと鼻を鳴らしてパソコンの画面に目を戻す。
 こういうピリピリしたやりとりも、最近の習慣だ。思わず溜息が出る。

 律子のプロデュースするユニットと、俺のプロデュースするユニットが仕事を奪い合う形になってしまってるのが大きい。
それがなかったら、たかがコーヒーで一々突っかかったりしない。
律子の淹れるコーヒーがすげー苦いことに変わりはないが。

「溜息をつくと、幸せが逃げますよ」

「うるせーな。ほっとけ」

 俺たちのやりとりを見て、小鳥さんがハラハラとしているのもいつものこと。
 二倍に薄めてやっとちょうどいいコーヒーを啜り、俺はキーボードを叩いた。

 以前はどうだったか。下らないやりとりでも今よりピリピリしてなかったし、仕事は少なかったが今よりずっと楽しかった。

 律子のコーヒーは今よりずっと美味しかった。

 事務仕事が長引いて残業になっても、律子と一緒なら疲れなかった。
 前は、前は……。

 また溜息をついてしまう。
 今は楽しくなかった。律子といると疲れる。コーヒーは美味しくない。

「こっちまで憂鬱になるので、やめてくれませんか」

 律子がパソコンの画面から目を離さずに言った。
 小鳥さんは向かいのデスクから心配そうに俺を覗いていた。

 一人になりたかった。俺は断りなくデスクを立って、事務所を出た。
階段を上って、屋上に続くドアを開けると湿った空気とコンクリートの匂い。

 後ろ手にドアを閉める。霧雨がしとしとと髪や肩に落ちてきた。
 泣きたくなった。泣けば、涙は霧雨に溶けてこの星に落ちて行くような気がした。

 遠くのビルは白くぼやけていた。遠くのビルから見れば、俺の居るこの場所も白くぼやけているんだろう。

 ぼやけているのは、霧雨のせいだけじゃなかった。俺の目に涙が溜まり始めていた。
ぼやけた風景が、さらに滲んだ。もう、俺に見えるのは白と灰の水彩画だけだった。

 涙を拭ってから顔を上げると、すぐそばに傘を持つ白い手が見えた。

 律子、と呼びかけると、傘の持ち主は短く溜息をついた。

「幸せが逃げるぞ」

 律子はまた溜息をついた。もう、逃げる幸せも持ち合わせていないように。

「傘、差しても意味ないって。霧雨なんだし」

 今も俺のスーツや律子の頬には、細かい粉のような水がふわふわとくっついてくる。

「風邪引いたらどうするんです」

 言いつつも、律子は傘を畳んだ。黒い生地が白く縁取られた、シックな傘だった。
 律子の眼鏡に砂を落とすように霧雨が付着した。

「いい機会なので、話そうと思うんですけど」

 霧雨が積もる屋上で二人きり。本当にいい機会なのか、疑問だ。

「ここ、辞めようと思うんです」

 他のプロダクションに移ろうかと、と律子は無表情に言った。
その無表情のせいで、背中を押せばいいのか、引き留めればいいのか、分からなかった。
濡れた靴のつま先を見つめるしかできなかった。

「なにか、言わないんですか。嫌味の一つでも?」

 嫌味も思いつかなかった。無言で踵を返して、屋上から逃げた。

 律子は俺よりずっと優秀だ。頭の回転は速いし、俺の苦手な細かい仕事もそつなくこなす。
人を見る目だってある。いつだって冷静だけど情熱を欠かさない。

 俺に足りないものを、律子は全部持っているような気がした。
俺が律子の足を引っ張っている。

 俺が自分のデスクに戻って、ぬるくなり始めたコーヒーを飲み干した頃に、律子は帰ってきた。
スーツは濡れて色を濃くしていた。律子の前髪から頬へと水滴がぴたりと落ちた。
傘を畳んだままでしばらく屋上にいたらしいことが分かった。

 小鳥さんが慌ててタオルを持ってきて、律子に渡した。

「風邪引いたらどうするんですか」

「プロデューサーがなんとかしますよ」

 ちらりと俺の方を見て、律子は言った。俺は思わず目を逸らす。
 律子が居なくなったら、なんとかできるだろうか。想像できなかった。

 律子はデスクに眼鏡を置き、顔をごしごしと拭いた。
それからティッシュでレンズの水滴を丁寧に拭って、眼鏡をかけ直した。
数瞬見えた律子の裸眼は、なぜだか愁いを帯びていた。

 ―――

 二、三日続いた霧雨が重さを増して、ばしゃばしゃと地面に跳ね返るようになった。
事務所の窓には水滴が伝って、冷たい宝石のように溶けて落ちた。

 すげー苦いコーヒーを啜って、キーボードを叩きながら律子のことを考えた。

 いつも通り、律子は黙々と業務をこなしている。
担当しているユニットに関する電話や、スケジュールの作成、ついでに事務仕事。

 律子が辞めたら、他のプロダクションへ行ったら、765プロはどうなるだろう。
 いや、俺はどうなるだろう?

 隣のデスクの律子が怪訝そうに俺の方を向いた。

「なんです? じろじろと」

「……見てないよ」

「見てたじゃないですか、じろじろと」

 律子が辞めたら、担当していたユニットはどこへ行くだろう。
やはり、俺がプロデュースするのだろうか。

 だが、根回ししてユニットごと他のプロダクションへ、
なんてことも律子ならやりかねないような気がした。

「なあ、辞めるって話だけどさ」

「ああ、はい」

 律子は作業の手を止め、椅子をくるりと回して俺の方へ向き直った。

「いつ頃にするつもりなんだ?」

「まだ、決めてません」

 こち、こち、と時計の秒針が雨音を均整に切り分けていく。
 みんな帰ったあとだ。小鳥さんも。でなければ、こんなこと訊けない。

「お前が辞めたあと、ユニットはどうするんだ?」

「決めてません」

「移る予定のプロダクションは決まったのか?」

「……まだです」

 律子はむすっと仏頂面で、苛立たしげに指で自分の膝をとんとんと叩いた。

「どこかに打診はしてみたか?」

「……そんなこと、いちいち訊かなくてもいいでしょう!」

 そんなこと、は囁くように。いちいち、はハッキリと。訊かなくてもいいでしょう、と激しく。
 モルモローソ、エストリンチェンド、コンチタート。

 律子は立ち上がった。勢い込んで椅子が倒れる。
雨と秒針と二人の駆動音が全てのこの部屋には少々派手な、音を立てた。
安物だから壊れても構わないか、と変に冷静な頭で妙なことを考える。

「……帰ります」

 倒れた椅子を起こして定位置に戻してから、律子は荷物をデスクから拾い上げた。

 俺はその場を動かなかった。それとも動けなかったのか。
脳みそと目だけは冷え冷えと冴えていて、律子をじっと追っていた。

 ばたり、と、わざとらしい音がこの部屋を密封する。はあ、と、憂鬱な溜息が肺から漏れる。

 なにもそんなに怒らなくても。そう、なだめることも忘れてしまった。
普段のピリピリとした付き合いが原因だろうか。

 椅子に座り直すと背もたれが、ぎっ、と安っぽい音を立てた。
俺の背骨も、普段からこんな音を立てるのかもしれない。

 律子の出て行ったドアの方へ目をやる。傍に底に水の溜まった傘立てに濡れた傘が一本、突き刺さっていた。。
まだ、雨は止まないらしいと、俺は窓の外に耳を澄ませてみた。

 この濡れた傘は、誰のか知らないが使わせてもらおう。
デスクを立って、その傘を手に取った。俺の手に良く馴染んだ。

 黒い生地が白く縁どられた、シックな傘。見覚えがあった。
 この傘は、律子の傘だ。

 雨の音は止んでいない。

 慌てて事務所を出た。律子が出て行ってから、時間はそんなに経ってない。
濡れて滑りやすい階段に冷や汗をかきながら、俺は雨の中に走り出た。

 すぐに雨が髪を濡らす。ばしゃばしゃと皮膚を打つ以外の雨は、
服に吸い込まれ重く、その下に冷たく手を伸ばした。

 少し走ると、一つ先の電柱に律子の後姿を見た。傘はさしていない。

「律子!」

 俺が呼ぶと律子は振り返って、怯えた表情をちらりと浮かべたあと、
逃げるように――実際、逃げたと言うべきか――走り出した。

 待てよ。俺の声は雨音に消えるくらいに弱弱しかった。

 全力で走って、ようやく律子の腕を捕まえた。
しばらくの間、息が上がってしまって言葉が出なかった。

 律子はびしょびしょだった。俺も、同じくらいびしょびしょなんだろう。

 律子の顔に前髪が濡れて貼り付いていた。律子は怯えた表情を濡らして、俺を見上げていた。

「律子、傘……どうして……」

 離してください。律子の声は雨音に溶けたことにした。律子の腕を掴む手に力が入る。

「お前の傘だろ」

 律子は苦々しく顔を歪めた。俺に掴まれた腕が痛いのか、雨が冷たいのか、それとも別のなにか。

 律子が口を開けると、ラジオノイズのような雨音がひたりと途切れた気がした。

「あなたに使ってほしかった」

 音のない雨が冷たかった。いつの間にか全身が水浸しで、俺の服は氷のように冷たかった。
 我に返ると、雨音が煩かった。

 律子の腕を掴んでいた手から力がくたりと抜ける。
するりと、律子は拘束から逃れた。

「……私、行きますから」

 律子はいつもの仏頂面を取り戻した。自分の二の腕の辺りを軽く揉んで、鼻をふんと鳴らした。
 頭蓋の下で、火花が散ったような気がした。

「要らねえよ」

 身体は冷たかった。律子だってそうに違いない。

「傘は要らねえ!」

 燃える頭が、氷のような身体を動かした。俺は傘を足元に投げ捨てた。

 ばしゃん、街灯が波紋の白を作った。黒はコンクリートと夜が。
雨水は、俺のズボンに、律子の靴に飛んだ。

 律子がその波打つ水面に表情を浮かべてしまう前に、俺はその場を走り去った。

 爆発寸前の心臓とざらざらの一対の肺を抱いて、雨を走った。
 事務所に着く頃には頭は冷えていた。

 事務所の灯りを消し忘れたままで出てきてしまった。鍵をかけるのも忘れていた。
誰も入った様子はなく、ひとまずほっとする。

 ガスの元栓と戸締りの確認をする。
振り返ると身体から伝い落ちた足跡が、床を濡らしていた。

 ひやりとした眠気が骨の髄まで滲んで、それが頭の方まで来ると、
帰るのが億劫になった。傘はないし、雨が止む気配もない。

 律子は傘を拾ったのだろうか。

 備え付けのタオルで髪と顔を拭きながら考えた。
結局、律子も俺も雨に濡れて、傘は開かないまま二人の間を行ったり来たりしただけだ。

 二人で使っていれば。

 ふと浮かんだことに思わず、くくっと苦笑いした。
なんのジョークだ。苦笑いから笑みが抜けて、ただ苦々しい表情になったのを感じた。

 湿ったタオルを椅子の背もたれに引っかけて、鍵を手に事務所を出た。
 雨音に飛び込むと、胸の辺りに熱がぐるぐると回った。

 ――――

 翌日、律子は休んだ。

「風邪だそうです。プロデューサーには申し訳ない、と伝えてくださいって」

 朝一番に電話を取った小鳥さんが、俺に言った。

「俺が休んだときは律子が俺の分まで仕事してくれたし、
 気にすることじゃない、と伝えてください」

「直接言ったらいかがです」

「律子が俺に電話をしてたら、そう言ってましたよ」

 強がりだと思った。俺が電話を真っ先に取っていたら、
あるいは律子が俺に直接電話をしてきたら、本当にそう言えただろうか。

 ずっと前、同じように風邪をひいたとき、律子は俺の携帯に電話をした。
そのとき俺は、気にするなと気負わず言えた。

 風邪か。やはり、昨日の雨のせいだろうか。
律子の頬に作られたこげ茶の髪の模様を思い出す。

 外では今日もぱしゃぱしゃと雨が弾けている。傘は忘れなかった。

「ええっ、律子さん、お休みなんですか?」

 ソファーで三人固まって雑誌を読んでいた中の一人が訊いた。
三人ともどこかそわそわとした様子だ。

「風邪だってさ。なんでそんな焦ってんだ」

「だって、明日は律子さんの誕生日なのに」

 ああ、と思い出した。

 そういえば、去年も一昨年も律子の誕生日を忘れなかった。
忘れたのは、きっと、忙しくなったからだと無意識に言い訳する。

「プレゼントはあとでも渡せますけど、やっぱり当日にあげたいですよね」

 そうだなあ、となにもプレゼントを用意してないことに気がついた。
 小鳥さんがデスクからひょこっと顔を覗かせた。

「プロデューサーさん、プレゼントは?」

「用意してますよ、もちろん」

 アイドルたちの前で、誕生日のことを忘れてたと言えなかった。変な見栄だった。

「律子さん、きっと喜びますよ」

 声の調子で察したのか、小鳥さんはどこか心配そうに言った。

 そうだといいんですけど。呟いて、パソコンの電源を入れた。
俺からなにかあげても、喜ぶとは思えなかった。

 律子の分の仕事もやるとなると相当忙しいだろうと覚悟していたが、
危惧していたほどではなかった。電話の対応とレッスンの付き添いと、それから書類仕事が少しだけ。

 今日は早く帰ろうと決めて、昼休みを返上して業務に励んだ。

 日が傾き始めると、小鳥さんがコーヒーを淹れてくれた。
香りの弱いコーヒーを飲んで、律子のことを思い出した。

 明日、アイツは二十歳になる。

 もう子供じゃない。俺が口を出せる歳じゃなくなる。
 思わず溜息が抜ける。

「律子さんのことですか?」

「わかりましたか」

 マグカップを傾けて、残りを飲み干した。やはり、小鳥さんの淹れるコーヒーは薄い。

「プレゼントあげたら、喜ぶと思いますよ?」

「そうですかね」

「まだ用意してないんでしょう? 今からでも買ったらいかがです」

 俺は生返事をして、パソコンのキーボードに向き直った。

「また、前みたいに仲良くできますよ」

 小鳥さんは俺のマグカップをデスクから拾って、コーヒーのおかわりを淹れに行った。

 少し、濃く淹れてください。給湯室に向かって言うと、はあい、と返事が聞こえた。

 律子とは、前だって仲が良かったわけではない。だから、平気だ。

「今日はどうもすみませんでした」

 それで、なにかご用ですか。なんてトゲが続きそうな言い方だったが、風邪のせいかそれで終わりだった。

「ああ、いや、まあ」

 事務所からの帰り道、傘をさして歩いた。
不意に律子に電話してみる気になったのだ。

「なにかありました?」

 俺から電話がきたのがよほどおかしいらしい。
律子は仕事のことで俺がミスしたのかと思ったみたいだ。

「死んでないか、心配だった」

「おあいにくさま」

 電気信号の向こうで、律子がふんと鼻を鳴らした気がした。

「なあ、律子」

「なんです」

「昨日は、傘……悪かった」

 返事はなかった。しばらく無音が続き、雨だけが俺の聴覚を濡らした。
間を置いて、携帯電話の小さいスピーカーから聴こえたのは、電子音だった。電話は切られた。

 つーつー、ざあざあ、ばしゃばしゃ。誰の言葉も聞こえない。

 律子はなにか欲しいものがあるか。先に訊くべきだった。頭をがしがしと掻く。

 俺は携帯電話をポケットに入れて、少し遠回りの道を歩いた。靴に雨が染み始めた。

 ふと、律子へのプレゼントに時計を買おうと思い立った。ちょっと高い腕時計を。

 俺と律子の間の空洞を、秒針が細かく切り刻んでくれればいい。

 なぜだか悲しげにぐるぐる回る頭と一緒に、道の途中の時計屋に俺は入った。
 入口の傘立てに傘を置いて、店内を見渡した。大きくはない店だった。
店員が二人きり居るだけの静かな空間にチクタクと時計の音が鳴っている。不思議と愉快だった。

 時計、時計、時計。時計屋なのだから、時計がたくさんあるのは当たり前だ。
どの時計も違う音を、表情を、魂を持っていた。

 三つ目のショーケースの前で、俺は立ち止まった。
落書きのような値札の数字はあまり見ないように、並んだ腕時計の金属の質感を想像する。

「お探し物ですか」

 俺より一回りか二回り年上の店員が傍へ立った。

「誕生日プレゼントを」

 彼は、ほお、と思案顔をした。冷やかしでないと分かってか、彼はすぐに打ち解けた様子を見せた。

「女性ですか?」

「ええ。その……友人です」

 同僚、と言いかけた。もうすぐ、同僚ではなくなる。友人と言うのもなんだか違うような気がしたが、知り合いと言うのは嫌だった。

「こちらはいかがです」
 彼は俺の目に留まっていた時計を拾い上げて見せた。
 銀と白を基調にしたシンプルな文字盤がしゃれている。
全体的に小振りなデザインで、律子の細い手首に良く似合いそうだった。

「いいですね」

「これ以外になにか、お気に召した物は?」

「ないです。これ以外には」

「そうでしょう。他のはアウトオブ眼中というところでしたから」

 古ぼけたような言い回しに思わず吹き出した。

「いいんですけど、ね。もう少し見ようかと」

 見ようかと、と言ったところで彼の言う通り他の時計はあまりピンとこない。
ぐるぐる見回しても、結局彼の手にある銀の時計に目が留まる。

 ただ、この時計のバンドはスティール製だ。
バンドが革の物を買うと決めていた。調整が面倒だろうから。

「ご友人様とご一緒に来ていただければ、無料で調整いたしますよ」

「……それは、どうも」

 話によると調整はすぐに終えられるらしいが、律子とここへ来るのかと思うと憂鬱になってしまう。

「一人ではいけませんか。俺のご友人様一人でここへ調整に」

 構いませんが、と彼は言った。構いませんが、なんだと言うのだ。

「じゃあ、これにします」

「かしこまりました」

 彼は時計を元の場所へ置いた。そしてカウンターへと戻り、その後方の薄暗い戸口に入った。
一、二分間を空けて帰ってきた彼の手には四角の箱がある。

 彼がカウンターに箱を置き、上蓋を開けると、傷一つない腕時計が静かに止まったままでいる。
暖色の電灯にその銀色がぎらぎらときらめいた。

「使うときはここのねじを右に巻いてください。いっぱいに巻けば、丸一日は動きます」

 彼のいかにも器用そうな手指が時計を真四角の寝台から取り出して、きりきりと小さなねじを巻いた。
処女的な潔癖さを漂わすその時計が、息を吹き返したように秒針を動かし始める。

「時刻を合わせるときはつまみを引っ張って……普通の時計と同じように」

 メンテナンスについて一通り話を聞き終わる頃、いつの間にか秒針は七時の方向で動きを止めていた。分針は少し傾いていた。

「ありがとうございました」

 止まった針の指す時刻以外は元の通りに、時計は箱の中へしまわれた。
何も言わなかったのに、彼は簡単だが上品なプレゼント用の包装をしてくれた。

「調整のときには、私の名刺を見せてください」

 会計を済ませると、彼は時計の箱と一緒に自分の名刺を渡してくれた。
彼の名刺を財布の中にしまい込んで、外へ出た。

 まだ雨は降っていた。傘立てから傘を取って、ばさりと開く。
水滴が飛び散った。振り向くと、彼が微笑んでいた。

 ――――

 かれこれ一週間くらいはずっと雨続きのはずだった。
しとしととすすり泣きの雨が街に乾く暇も与えない。
律子の誕生日に晴れたことはあるのだろうか。去年も一昨年も雨が降っていた覚えがある。

「私も、二十歳なんですね」

 律子がホワイトボードにきゅっとスポンジを這わすと、「HAPPY BIRTHDAY」の水性文字は消えてなくなった。
みんなが書きこんだバースデーメッセージも一緒に。

 風邪は大したことなかったらしく、律子はいつもと同じ時間に出社してきた。
みんなからの「誕生日祝い」を受け取って、お礼もそこそこに仕事をテキパキとこなした。

「二十歳になったら、なにか変わるような気がしてました」

 そう言って、律子はふっと溜息をついた。俺も二十歳の誕生日には同じことを考えていたと思う。

 みんなから貰ったプレゼントを入れた紙袋から覗く紙箱はワインだろうか。一体誰がプレゼントしたのだろう。

 紙袋をデスクから取って、律子は俺の方を見もせずつま先を戸口へ向けた。

「お先、失礼します」

 出て行きかけた背中に、律子、と声をかける。
数拍置いて、なんです、と律子はくるりと振り返った。

 なにか言いかけて、それより渡すのが先だと思った。
デスクの見えないところに隠してた四角の箱を取った。

「プレゼント。誕生日の……」

 律子は驚いたように目を見開いて動かないので、
渡すのに俺は律子の傍に行かなきゃならなかった。

 シンプルなリボンのかかった小さな四角を律子の手に握らせた。
 手の中の箱を見つめて、律子はぽつりと呟いた。

「覚えててくれたんですね」

「いやまあ、そりゃあ」

 前日まで忘れていた。

「開けてもいいですか」

 どうぞ、と言うと律子は紙袋をデスクの上に置いて、包装を解いた。
上蓋を開けると中の文字盤がきらりと蛍光灯を反射したらしく、律子は目を細めた。

「時計……?」

 俺は財布から時計屋の店員の名刺を取り出して、律子に渡した。

「サイズとか知らなかったからさ、きっとゆるゆるだ。
 この店行って名刺見せれば、調整してくれるから……」

 律子は時計を取り出して、箱と名刺を机に置いた。
時計のバンドに手を通して、ぱちんと金具を留める。
手首でかちゃかちゃと時計が揺れ動いた。

「本当だ。合いません」

「でも似合ってる」

 不思議にするりと出た言葉だった。律子はにっと笑った。
 それからしばらくの間、律子はベルトのゆるい腕時計を楽しげに眺めていた。

「あのさ、律子」

「はい、プロデューサー」

 律子は時計から目を離して、俺の方を見た。かちゃりと音がした。

「ここ、辞めるって話、いつどこへとか決めてないんだよな」

 律子は気まずそうに頷いた。

「辞めたあとのお前のユニットとか、会社のアレコレとか、心配しなくていいから行ってこい」

「はあ……?」

「俺じゃあ頼りないだろうけど、お前が居なくなってもなんとかやってみせるから。心配すんな」

「心配って、私は……別に」

 律子はそこで言葉を切って、俯いた。

 しん、とした室内は誰かの胃の中のように温かで湿っていた。

 耳を澄ますと雨と時計の音がした。
 それと、しゃくり上げるような音。

「……なんで、泣いてんだよ」

「引き留めないんですか」

 正確に文字に起こせばきっと「ひぎとめにゃいんでっ、す、か」という発音のしかただった。

 律子が泣いているのを見たのは、数えるくらいしかない。
初めて喧嘩したときだって、律子は泣かなかった。

「俺は引き留めないよ」

 律子はぐすぐすと俯いたままデスクの椅子に腰かけた。
涙を拭くたび、時計の金具がかちゃかちゃと音を立てる。

「引き留めてくださいよ!」

 律子の顔は涙と汗でぐしゃぐしゃだった。
 これも正確に文字に起こせば「ひぎどめでくらさいよぉ」という発音だった。

 何遍も何遍も涙を拭って、泣き崩れるという表現がぴったりくる律子の様子だった。
 律子はティッシュを一枚取って、ちーんと鼻をかんだ。

「……わがままだって、分かってます」

 そう言って律子は、すん、と鼻を鳴らした。

「私が他のところへ行って、やっていけるわけないじゃないですか」

「俺はやっていけると思ったけど」

「買い被りすぎですよ」

 律子はくすりと笑った。そして、ティッシュを取って、もう一度鼻をかんだ。

「ごめんなさい。我ながら、子供じみてますね」

 律子は腰を上げて、給湯室からマグカップを二つ持ってきた。
デスクに置かれたマグカップに、いつもは真っ黒いコーヒーが入っている。

 俺は律子の隣の椅子に腰かけた。

 律子は紙袋の中からワインの箱を取り出して、開けた。
ごとりと緑のボトルが現れ、蛍光灯を透かしてデスクに緑の輪郭を描いた。

「あずささんが、プレゼントしてくれたんです」

 そう言って、律子は口の銀紙を取って、懐から小さなコルク抜きを取り出した。
 そのスティールの螺旋を上から、横から眺めて、律子は首を捻った。

「どうやって開けるんですか?」

「ああ、貸せよ」

 律子の手からコルク抜きを受け取って、ワインの口に金具を当てる。
今まで数えるくらいしかやったことはないが、難なく開けることができた。

「コルクは記念に」

 くるくるとコルクを取って、律子に渡す。

「飲みましょう。もう二十歳ですから」

 コルク栓をポケットにしまって、律子は二つのマグカップにワインを注いだ。
晴れた夜空のようにゆらゆらと、カップの中に葡萄色の満月を作る。

 乾杯、と律子はマグカップを目の高さまで掲げた。

「誕生日、おめでとう」

「そうだ、誕生日ですよ。私」

 おめでとうって今日初めて言いましたよね、と律子は意地の悪い笑みを浮かべた。

「言いづらかったんだ。なんとなく」

「結構、寂しかったんですよ」

 律子はくいっとワインを一口飲んで、ずっと寂しかった、と呟いた。

 俺もマグカップを持ち上げて、一口飲んだ。

 外では相変わらず雨が降っている。
濃紺の空気の中にさらさらと水が流れて、アクアリウムのような匂いがした。

「この一年、どうでした?」

「どうって?」

 思わず聞き返すと、律子はばつが悪そうに左手首の時計をかちゃかちゃといじった。

「……ごめんなさい。あの、私」

「俺も寂しかったよ」

 胸が詰まる思いだった。隣で、律子は泣き笑いの表情をした。

「なら、そう言えばよかったじゃないですか」

「律子こそ」

 俺と律子の間の空白は、なんだったんだろう。一年もその正体に気付けなかった。

 律子は悔しそうに下唇を噛んだ。俺は肺から煤を吐き出すよう、溜息をついた。

「ごめんな」

 律子は、ばかと小さく呟いた。ばか、ばか、と何度も呟いた。
お前こそ、と言うと頷いて、どうせばかですよ、とまた目から溢れる涙を拭った。

 ぐいっとワインを飲み干すと、律子はボトルを取っておかわりを注いでくれた。
 そして、自分もカップを空にして、また注いだ。

「あー、頭がくらくらします」

 見ると、律子の頬には赤みが差していた。
律子は身体をゆらゆら揺らしながらニヤッと笑った。

「プロデューサー、謝っていいですか?」

「なにを謝る?」

「たくさんあります」

「俺もだ」

 自然に笑い合えた。くつくつと笑い声が雨音をかき消す。

「コーヒー、苦くしてすみませんでした」

「ああ、すげー苦かったな」

 思わずマグカップの中を覗き込んだ。
夜を汲んだような黒い水面から、今は葡萄の香りがする。

「明日からアレ、やめてくれよな」

「たくさんお話ししてくれるなら、そうします」

「どういうことだよ」

「だって、全然話さなかったから……」

 ああ、と合点がいった。

「そう言えばよかったろ」

「言えるわけ、ないじゃないですか」

 律子は口を尖らせた。

 コーヒーがすげー苦い。思い返せば、俺と律子の会話はそれだけだった。
コーヒーが苦くなかったら、きっと俺は律子に声をかけなかった。
それだけの理由で、毎日すげー苦いコーヒーを淹れ続けていたのだった。

 互いに傷つけ合うよりも、なにもなくなってしまう方が不安だった。

 俺たちはばかだ。

「傘、ごめんな」

「あれ、ショックでした」

 律子は寂しそうに笑った。

「あんなに乱暴なことするの、初めて見たから」

「ごめんって」

 許してあげます、とおどけて、律子はまた一口ワインを啜った。

「律子、ここ、辞めないよな?」

「辞める、と言ったら?」

「引き留めるさ」

「じゃ、辞めません!」

 あははは、と律子は大きく笑った。俺もつられて笑った。雨のように笑った。
 お互いの謝罪を肴に飲んでいると、じきにボトルは空になった。

「あーあ、すっきりしました」

 律子は椅子から立ち上がると、ふらっとよろめいた。慌てて手を伸ばして身体を支える。

「あ、すみません……」

「初めてのアルコールはどうだ?」

「あはは、悪くないです」

 律子の腕が俺の首の辺りにまわってきた。
のぼせたように赤い顔がニコニコと笑って、俺に体重を預けた。

 俺も若干酔いが回っているが、足元はしっかりしているはずだ。
律子の両足を手繰り寄せ、その身体を抱え上げる。

「わっ、わ、わ、プロデューサー!」

「はははは、お姫様抱っこだー」

「うわーぐらんぐらんします」

 律子を抱えたまま、ガスの元栓、戸締りの確認をした。
どうせ、事務所には誰も居ないのだから構わないだろう。

「それじゃ、帰ろう」

「このまま? 傘、持ちますよ」

 律子はニヤッと笑った。

「悪い、もう腕が疲れた」

「あ、私のこと重いって言ってるんですかー?」

 律子は両手で俺の頬をつねった。

「いててて、降りろ降りろ、落ちたくなけりゃ」

「わかりましたよ」

 ゆっくりと降ろしてやる。まだ少し律子の足取りは怪しいが、歩けなくはないだろう。

「傘、あるだろう」

「ありますよ。プロデューサーは?」

「あるよ」

 傘立てから傘を取って、事務所を出た。ノイズのような雨音が耳に心地よい。
 がちゃりと鍵を回して階段を降りて行った。

「プロデューサー。実は私の傘の柄、欠けちゃったんです」

 見ると、確かに欠けていた。手に当たるところではないだろうが、
欠けた部分は鋭利で、触れたら切ってしまいそうだった。

「……ごめん」

「許すというのは、これも含んでました」

 律子は俺の手から傘を取って、ばさりと開いた。そしてまた俺の手に握らせた。

「危ないので、今日はこの傘で帰らせてください」

「分かったよ」

 傘の下で、律子の頬を見た。
この気持ちはもう失ってしまって、二度と還らないものだと決めつけていた。

「律子、誕生日はいつも雨だったか?」

「どうだったかな……でも、誕生日は雨って印象があります」

 誕生日おめでとう。律子の方へ傘を少し傾けた。
 雨音にかき消されないように。

 ――――

 コーヒーが飲みたい、と思った。
 タイミングよく、律子がマグカップを運んでくる。

「プロデューサー、コーヒーです」

「ああ、ありがとう」

 目と目が合って、なんとなく気恥ずかしくお互いに笑ってしまった。
 そんな俺と律子の様子を、小鳥さんが微笑ましく見ているのに気付いた。

「今日、律子の誕生日にあげた腕時計の調整に行くんですよ」

 聞かれてもいないのに俺がそう言うと、小鳥さんはニコニコと嬉しそうな顔をした。
 律子はポケットに手を入れた。きっと腕時計を撫でているのだろう。

 律子からカップを受け取って、口に付け、コーヒーを啜る。と、思わずむせてしまう。

「だ、大丈夫ですか?」

 小鳥さんが寄こしてくれたティッシュで口元を拭った。

 律子の方を見ると、ニヤニヤと笑っている。
 律子、と名前を呼ぶ。律子は、はい、と返事をした。

「このコーヒー、すげー甘いんだけど」

 律子は悪戯っぽく笑い声をあげて、窓際に逃げた。

「ねぇ、プロデューサー。見てください」

 マグカップを置いて、窓の方へ行ってみると外は青に晴れていた。

「昨日晴れればよかったのにな」

「まあ、言いっこなしですよ。それよりほら」

 律子は空の淡い青を切り裂く光のスペクトルを指差した。

「虹か」

「虹です」

 少しして虹から目を離して横を向くと、律子の瞳に出会った。

「なあ、律子」

「はい、なんですか」



「もう一度、ダーリンと呼んでくれ」


 律子のコーヒーはすげー苦かった。

 今はすげー甘いけど、糖尿が心配ですね、と、

 また以前のように美味しいコーヒーを淹れてくれるようになった。



 P「律子のコーヒーはすげー苦い」 END


仕事辞めて時間が腐るほどあるから過去作を教えてもらえると嬉しい

>>84
律子SSだと
P「律子と同級生」 律子「いえーい」
P「メモリーズ」律子「カスタム?」
とか書きました。

最近は
千早「生き死にさえパラレル」
を書きました。


P「律子と同級生」律子「いえーい」
P「律子と同級生」 律子「いえーい」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1367845909/)

P「メモリーズ」律子「カスタム?」
P「メモリーズ」 律子「カスタム?」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1370767468/)

千早「生き死にさえパラレル」
千早「生き死にさえパラレル」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1400910778/)


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