結衣「おぼえてる?」 (35)


 京子と「約束の話」をしたのは、いつもと同じような日のことだった。

 いつもと同じ平日の午後。
 いつもと変わらない休み時間。
 私の視界に映っているのは教室の真ん中でクラスメートと話す金髪の幼なじみの姿。
 いつもと同じ金色。

 その日私は机に向かって頬杖をついて、なにをすることもなく私はその金色を見ていた。


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 京子には友人が多い。
 私だって人並みの付き合いはするけれど、京子の場合はクラス中が友達という感じだ。
 私がよく話す綾乃や千歳だって、どちらかと言えば京子の友達って感じだし。
 もし京子がいなかったら、教室の私は「静かなやつ」という評価になるのかもしれないな。

 京子の周りには、いつも人の輪ができる。
 みんながあいつのことを好きらしい。
 それはとても良いことだと思う。

「あはは、それで結衣がさー」

 会話をしながらも小刻みに動く京子を見てると、なんか動物みたいだな、という感想がわいた。
 ていうか私がなんだよ。
 変なことは言うなよな。


「京子はいつも結衣といっしょにいるよね」
 と、京子の話し相手のクラスメートが言った。

「うん、結衣と私はマブダチだかんなー」

「夫婦の域だよね。結衣と結婚するの?」

 思わずびくりと身体を動かしそうになる。
 京子と夫婦?

「それもいいかもね」
 からかいの言葉をものともせず、京子は堂々と言う。

 そのとき京子と目があった。

 少し見つめすぎていたかもしれない。
 なんとなく気恥ずかしくて、私は目をそらす。


 それからすぐに授業開始のチャイムが鳴って、京子とクラスメートの会話は打ち切りになったようだ。
 授業が始まっても、私は上の空だった。

 ――夫婦、ね。
 ただの冗談なのに、なにか気にかかる。
 京子は気にしてないみたいだけど……ううん、そうじゃない。
 京子が気にしてないのが、気になるんだ。
 気に食わない。
 どうして?


 私は自分のいらだちの理由を追求することはせず、そういえば、前にもこんなことがあったなと考えた。
 小学生の頃は、よくクラスの男子に夫婦みたいだってからかわれたっけ。
 あのころの私は、自覚はなかったけれど、男まさりなところがあったし。
 それに反して「女の子」らしかった小さいころの京子と一緒にいると、大人からもよく「男の子」と「女の子」の二人組に間違われた。

 いや、それよりももっと前。
 私と京子には大切な約束が会ったことを思い出す。
 ううん、「思い出す」なんて言葉は正しくない。
 その記憶はいつだって私の胸の中に潜んでいたから。


―――――――――
―――――――
―――――


 まだ京子が「今みたい」じゃなかった頃。

 小学校に上がった年のことだ。
 放課後、小学校の中庭で泣いている女の子を見つけた。
「京子。家に帰ろう」
 私は彼女に声をかける。

「ひっく……結衣ぃ……」

 京子は私の声に反応したが、木陰にしゃがみこんだまま動こうとしない。
 しかたなく私は彼女の隣に腰を下ろす。


「今日はどうしたの」
 なるべくやさしく聞こえるように、私は声をかけた。
 やさしくするのは得意じゃなかった。
 うまくできるかわからない。
 あかりがいればいいのに、と私は思った。

 でもそのとき私たちは一年生で、歳下のあかりはまだ小学校に上がってなかった。
 小学校に入ってからの京子は、ほとんど毎日泣いて過ごしていた。
 あかりちゃんがいないと言って泣いた。
 クラスでいじめられて泣いた。 
 給食が苦手なおかずばかりだった日はすごく泣いた。
 私はその日の献立は好きな食べものばかりだったので、「京子はばかだなあ」と思った。
 せめて私と京子が同じクラスだったらよかったのだけど、あいにく一年生のときはクラスが別々だったのだ。
 私が一組で、京子が二組。
 同じクラスなら、京子の苦手なものを代わりに食べてやれたのに。
 そういえば、京子と離れ離れになったのはあの頃だけだった。
 小二から中学校一年までのあとの七年間は、私たちはずっと同じクラス。
 あのころだけ京子がいなかった。


 京子は私の質問に答えない。

「……またいじめられた?」
 私は隣に座って身体を震わせている京子をよく観察する。
 怪我はしていないし、服も汚れてない。
 ランドセルもちゃんとある。
 なにかものを取られたりしたんだろうか。
 悪口を言われたとか。
「いじめられたんなら、私が仕返しするから」

「ち、ちがうよ、結衣……」
 京子は首を左右にふる。

 いじめじゃないのか……。
 私はひとまず安心する。


「じゃあ、どうしたの? 給食、食べられなくて、先生に怒られた?」

「わたし、そんなに好き嫌いしないもん」

「え、でもこのあいだ……」

「しないもん!」

 涙目でがんこに言い張る京子に気圧されて私は黙った。
 でも、とりあえず京子が泣いているのは給食のことじゃないらしい。
 だったら、なんなのだろう。


 私は戦法を変えることにした。


「京子、わたしたち、今日は帰ったらあかりと遊ぶ約束してたよな」

「うん……」

「そのときまでずっと泣いてたら、あかりに笑われるよ。
 京子はもう、小学生のおねえさんなのに」

「あう……」

「それとも、泣いてるからあかりとは会わないつもり?
 あかり、悲しむだろうなー。京子と遊ぶの、楽しみにしてたのに。
 かわいそうなあかり。京子と遊べないなんて」

「うあ……でも……」

「あー! いいかげんめそめそするな! 京子はもう小学生だろ!」

「でもぉ……」

 しまった、余計泣かせてしまった。
 あかりなら、こんなときどうするんだろう……。


 悔しい。
 私だって、小学生のお姉さんなのに。
 あかりがいなきゃ、京子を笑わせることもできないのか?
 私は唇をグッと噛んだ。
 こんなんじゃ、私こそあかりに笑われちゃう。

 深呼吸をして、心を落ち着かせる。
 大丈夫、あかりみたいにやさしく。
 私ならできる。
 私だってあかりの友達だし、あかりよりお姉さんだし、あかりができることくらい私にだってできる。
 京子を笑わせることくらい。


 京子を驚かせないように、やさしく京子の手を掴む。
 京子は一瞬ビクリとするが、抵抗はしない。
「京子、私待つから」
 私にできるかぎりの、優しい声で言う。
 京子を怖がらせないように。
「あかりもちょっとくらいなら待っててくれるよ」

「結衣……」

「だから、がんばって泣き止もうな」

 かすかに「うん」と言って、京子は私が掴んでる手とは反対の袖で顔を拭った。
 京子の手はあたたかい。
 湿っているのは私の手かな。京子の手かな。


「あのね」
 しばらくして、京子はまだ半分泣き声で喋り始めた。
「今日、クラスの子たちと、お昼休みに、お話してたの」

「話って、なんの?」

「将来どんな人と結婚するかって」

「はあ?」
 結婚?

「うん。みんな好きな人がいるみたいで、どんな風に結婚するかとか、新婚生活のこととか、いろいろ話してくれたんだけど……」

 京子のやつ、そんな話を。
 なんだか想像のつかない世界だ……。
 昼休みといえば、私は校庭で男子とドッジボールをしてた頃じゃないか。

「でもね、それから……ぐすっ」


「どうしたんだ? そいつらに悪口言われたのか?」

「ううん、違うよ……『京子ちゃんは、どうするの?』って聞かれたの。でも、私なんにも言えなくて……」

「そんなことで泣かないでもいいのに」

「そんなことじゃないよ、大事なことだよ!」

「ごめん」

「あ、ご、ごめんね、大きい声出して……。それでね、お昼休み終わった後もずっと考えてたんだけど。
 わ、私、泣き虫で……、ダメだから、結婚なんてできないんじゃないかなって……」
 京子の目からふたたび涙が流れだす。
「私、暗いし、友達も少ないし、声ちいさいし、結衣みたいに運動もできないし……。
 こんな私と、誰も結婚なんてしてくれないよねって、思ってたら、悲しくなって……
 私、大人になったら、ずっとひとりで暮らすんだって……」

「そんなことないよ!」


「ゆ、結衣?」

「京子と結婚したいやつなんか、たくさんいるって」

「う、嘘だ……」

「嘘じゃない」

「嘘だよ……。結衣、いつも嘘つくもん」


 人がせっかく慰めようとしてるのに、失礼なやつだな、京子は。
 私が京子に嘘ついたことなんか……
 最近、ヨーグルトは猿の脳みそから作るって教えたことと、
 それから、その前にチューリップには毒あるから触りすぎると死ぬって言ったことと……
 そういえば、人参を食べると脚が早くなるよ、と教えたこともあったな。
 でも人参を食べると脚が早くなるのは嘘じゃない。
 私だってお母さんからそう言われたし。
 私もそれ言われて、がんばって人参食べてたら、速く走れるようになったし。
 まあ、私は信じてないんだけど。
 それはともかく、とにかく今のは嘘でも適当でもない。


「本当だよ。嘘じゃない。ぜったい、嘘じゃない。
 京子はかわいいし、優しいんだから、ぜったい結婚できるよ」

「私と結婚したい人なんかいないもん」
 こいつはなんでこう、変なところで頑固なんだ。
 せっかく私が慰めてやろうとしてるのに。

「いるって」

「いない」

「いるって!」

「どこにいるの。じゃあ連れてきてよ、じゃなきゃ結衣、嘘つきだから」

 私はカーっとなって、次の瞬間には叫んでいた。

「私。私は京子と結婚したい!」


―――――――――
―――――――
―――――


「――結衣。ゆーい」
 京子の声で目を覚ました。
「部室行くぞー」

「あ、悪い。寝てた」
 いつの間にか放課後になっていたのか。
 なんだか今日は、ぼんやりしているうちに時間が過ぎてしまった。
 私は突っ伏していた机から顔を上げて、京子の姿を見る。

 そこにいるのは、中学生の、今の京子だ。
 なんだか変な感じがする。

「なに?そんなに見つめて?」

「あ、いや別に」

「さては私に惚れたか」

「ばか」
 時計を確認して、私は立ち上がった。
 もうあかりたちが待ってる時間だろう。
 早く部室に行かないと。


「結衣が教室で寝るなんて、珍しいね。昨日遅かったの?」

「そうじゃないけど、なんか日差しが気持ちよくって」
 教室を出て、いつもの部室に向かいながら話す。

「あー、あるよねー。私もよく寝ますよー」

「お前は寝過ぎ」

「結衣だって居眠りしたくせに」
 うるさい。
「……さっき、夢でも見てた?」

「ん。なんで?」

「いや、なんか寝言言ってたから」


「嘘」
 私は先ほどまで見ていた夢を思い出して、顔が赤くなるのを感じる。
 まさか、変なこと言ってないよな。

「お?なんだー、その反応は。さては結衣―」

「う、うるさい」

「エッチな夢を見ていたな!」

「ねえよ」
 ないから。

「結衣の夢に私出てきた?」

「うるせえ」

「あ、出てきたんだ。やりー。京子ちゃん愛されてるー」

「う・る・さ・い」

「まさか結衣が私にエッチなことを……」

「だから違うって言ってるだろ。昔の夢見てただけだから」

「昔の夢って?」


「……京子がかわいかったころの夢」

「今もかわいいじゃん?」
 と言って、ぐいっと顔を近づけてくる。
 ……じゃん?じゃねえ。

「ちっちゃいころの京子は、今みたいにうるさくなくて、かわいかった」

「ちぇー、なんだよ。どうせ今の京子たんはうるさいですよ」
 そう言って、不満気に口を尖らせて、
 それからにひひと笑う。
 笑う動きに合わせて金色が揺れる。
 京子の青い瞳が動く。
 光が踊ってる。


 今の中学生の京子。
 昔から大して変わらない幼い顔。
 でも、今の彼女は昔よりさらに魅力的で。
 かわいくて。
 そんな京子のことを、きっと皆好きになる。
 京子と結婚したいやつなんか、たくさんいる。
 ぜったいに。
 あの頃だって本心から言った言葉だけど。
 あの言葉はまるで予言みたいに今の私の心に響いた。
 京子はこれからもどんどん大きくなる。
 京子のことを好きってやつがこれから現れて。
 京子もそいつのことを好きになって。
 それから二人で、私の知らないところに行ってしまう。
 それはなんだかたまらないな、と思った。


「――結衣?どうかした?」

「……約束」
 と、私は言った。
 切り札を差し出すような気持ちで。

「?」

「約束、今でもおぼえてるか」
 私、なにを言ってるんだろう。
 あんな子供の頃の思い出。
 本当にあったのかもわからない、夢みたいな話。
 急にこんなこと言ったって、京子に伝わるわけない。
 どうかしてる。
 京子とクラスメートのあの会話を聴いてから、私はおかしかった。


 京子はキョトンとした顔でこっちを見ている。


 言うんじゃなかった。
 ばかみたいな話だけど、私にとっては大切な思い出だったんだ。
 ずっと隠しておけばよかった。

 ごめん、なんでもないよ。
 私が言いかけたとき。

「約束、今でも本気にしてていい?」
 と、京子は言った。


「え?」

「と、言ってるうちに部室とうちゃーく。寒いから入ろうぜ」

「え、ちょっと待って、京子」

「ちなつちゃーん、あかりー!かっこいい京子ちゃんが来たよー」
 私の制止も聞かずに京子は部室に戸を開けて部室に飛び込んでいく。
 さっきのって、どういう意味なの。
 私はわからなくて混乱する。
 でも。

 髪の隙間から一瞬見えた京子の耳の色は。


「ちなつちゃん、お茶ー!」

「もう、今お茶淹れますからじっとしててください」

「熱いのよろしくー」

「――あれ? 京子ちゃん、なんかお顔赤いね?」

「そ、そう?」
 開けっ放しの引き戸越しに、京子のすこし上ずった声が聞こえる。


「結衣ー、そんなとこいないで早くおいでよー」

「結衣せんぱーい、お茶入りましたよー」

「……うん」
 私は身震いして、部室に入る。
 うん。
 わかったよ、京子。


「結衣ちゃんもお顔赤いね。それになんだかうれしそうだよぉ」
 と、あかりが私の顔を覗きこんでいった。
 そういうあかりこそ楽しそうだ。

 あかりは京子と私の顔を交互に眺めて、一層にっこりと笑った。
 どういう意味だよ。

「……見るなよ、あかり」
 今、私、どんな顔してるんだろう。



 京子の「約束」と私の「約束」。

 それが同じ「約束」なのか、そのあとも結局私は確かめなかった。
 でも、信じていいんじゃないかと思った。
 もう少しだけ、この思い出を大切にしていいんじゃないかって。
 大人になるまでの、もう少しの間、信じて。
 そうすれば、京子も忘れずにいてくれる。
 夢みたいな話が、夢みたいな本当になるって。
 そう願った。


 ……。

 私は、京子にはじめて会ったときから、今まで、
 ずっと京子と結婚したいと思ってた。

 ほんと?結衣。

 嘘じゃない。約束する。

 結衣、私をおよめさんにしてくれる?

 うん。約束。京子も忘れないで。おとなになったら、結婚しよ。

 えへへ、ありがとう、結衣。

 約束。

 うん、わかったよ、結衣。約束ね。

 きっとだよ。

 きっと。


終わり。

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