こんな日が続けばいいのに(1000)


◇01-01[Sad Fad Love]


 人に言ったら鼻で笑われそうなほど嘘くさい話なんだけど、俺には幼馴染がいる。
 それこそ子供の頃からの付き合いで、結婚の約束をしたりなんかもした。

 まあ、だからなんなのよって言われたらそうなんだけど。 
 人にはそうそうない経験らしいので、話の種くらいにはなるかな、と思っていた。

 で、実際にその話をして、鼻で笑われたことがある。

「俺、幼馴染の女の子と結婚の約束したことあるんだよね」

「はあ?」(冷笑)

 こんな具合。

 彼女と話したのはそのときが初めてだった。

 いくらなんでも初対面でその態度はどうなんだよ、と思いつつも。
 そもそも初対面の女の子に、幼馴染と結婚の約束云々なんて話をする方がどうかしてたわけで。

 だからその嘲りに対しても、

「……まあ、うん。そういう反応だろうなって、判ってはいたけどさ」

 情けない声音でそう言い返すくらいしかできなかった。


 そんな出会い方だったけど、彼女とはそれから、割と長い付き合いになった。
 といっても、放課後の暇な時間、屋上で雑談する程度の交流しかなかったんだけど。

 初対面がそんな調子だったせいで、男女二人が一緒にいるというのに、それらしい空気も生まれやしない。
 
 そう思っていたし、そのことにさして不満も感じていなかったので、出会いのたった二ヵ月後に、

「あのさ、あんたのこと、好きかもしんない」

 と真顔で言われたときは、さすがに冗談か、からかっているか、どちらかしか思い浮かばなかった。

 意識は「好き」という一語に吸い取られる。 
 その一方で、「かもしんない」ってどういうことだよ、などと混乱。

 かと思えば、「これ告白? 告白か。いやからかってんのかも」と奇妙な冷静さもあったりした。

 一言で言えば、パニクった。
 とっさに口から漏れたのは、「は、はあっ? えっ?」みたいな、言葉とも言えない声。

俺は心底戸惑った顔をしていたと思う。


 もし、彼女との今までの交流の中で、俺が犯した最大の失敗は何かと誰かに訊ねられたなら。
 たぶん、そのときの反応が一番の失敗だったと答える。

 彼女は俺のその反応に、怯えたような、傷ついたような顔をしたから。

 もちろんそのとき俺はパニクっていたわけで、自分の犯した失敗に、すぐには気付けなかった。
 彼女の表情の変化に、さらに混乱を深めただけだった。
 
「ごめん。今のなし。やっぱ忘れて」

 ようやく俺が冷静さを取り戻したのは、その言葉を聞いてからで。
 そのときには、たぶん手遅れだった。 

 彼女はわりかし不器用な方で、たぶん細かい作業とかは苦手なんだろうと思う。
 それは人間関係とか、そういうものに関しても同じことで。

 怒ってないのに怒ってると思われて、嫌じゃないのに嫌がってると思われて。
 寂しいのに一人が好きなんだって勝手に納得されて。

 そういう俺の中の彼女像が正しいものなのかどうかはともかく。
 そんなふうに見えた。


 彼女が器用だったら、たぶんこのとき「今のなし」なんて言い方はしなかった。

「冗談だよ」って笑ってくれたら、なんだ、今のは冗談か、ってこっちも騙されてたんだけど。
「今のなし」じゃ、言ったことをなかったことにはしたいけど、言った内容は本当なんだと受け取れてしまって。
 
 つまり、俺のことが好きなんじゃね? なんて推測が湧きあがってしまって。
 でも、喜んだり困惑したり、何かのリアクションをするほどの時間はなかった。

 彼女は俺が何かを言いかけるよりも先に立ち上がり、

「わたし、帰るね」

 と言い切ると、振り向きもせずに屋上を後にした。
 声が少し震えているように聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。
 
 その翌日の放課後、ほんの少しの躊躇を振り払い、俺は屋上に向かった。

 そこに彼女の姿はなかった。

 吹奏楽部の練習の音。陸上部のホイッスル。ボールを叩くバットの鳴き声。
 低くて近い青空。切れ目を入れたみたいな細い飛行機雲。からりとした夏の日差し。

 残っていたのは、せいぜいそのくらいのものだった。




 俺の一日は、ぺたぺたという静かな足音から始まる。
 
 それは扉越しに、廊下の奥の方から近付いてきて、いつも俺の部屋の前で止まる。

 次に聞こえるのはノックの音だ。遠慮がちで、どこかそっけない音。
 ノックの音にもその人の性格が出るものなのかもしれない。

 続いて、ドアがぎいと軋む。
 俺の意識は、そのあたりで半分以上浮上している。

 そしていつも思う。また一日が始まったのだ。起きなければならないのだ。
 足音も、ノックの音も、それに続く声も、そのことを知らせようとしている。

「お兄ちゃん、起きてる?」

 開かれたドアから聞こえる、控えめな、気遣うような声。


 俺は腹にぐっと力を込める。そして頭の中で念じる。朝だ、起きろ。
 念じることで、まだ睡魔に支配されている残りの意識を引っ張りあげる。 
 それに成功したら、あとは体を起こすだけだ。

 瞼を開けて上半身を起こすと、妹と目が合った。挨拶する。

「おはよう」

「おはよう。すごい寝癖だよ」

 妹はそう言って、自分の頭を指で示した。
 仕草を真似して自分の頭を触ると、たしかにすごい寝癖のようだった。

 わしゃわしゃと自分の頭をかいていると、意味もなくあくびが出た。
 まあ、あくびには意味なんてないのが当たり前だけど。
 
「二度寝しないでね」

 ぼんやりした調子で言い残すと、妹はドアを閉めてあっさり去って行った。いつもみたいに。


 毎朝六時四十五分。二歳下の妹が俺を起こしに来る。

 歳の割には落ち着いていて、穏やかな俺の妹。勉強もスポーツもできる秀才。
 押しが弱く人見知りはするが、友達は少なくない様子。
 容貌は、ちょっと幼く見えるけれど、身内の欲目を除いても整ってる。 

 宿題だって忘れずにやる。教科書だってちゃんと家に持ち帰る。
 どこに出しても恥ずかしくない妹。根が真面目で勤勉、少し臆病だが心優しい。

 兄はひとりで起きれないほどのダメ人間なのにもかかわらず、よくああも良い子に育ってくれたものだ。

 我がことながら、いい年して自分ひとりで起きられないのはどうかと思う。
 しかも、自分より年下の妹に起こしてもらっているんだからろくでもない。

 まあ、そのあたりは追々改善するとしよう。と言い続けて、もはや結構経つのだが。


 さて、と俺は思う。朝だ。朝だよ。朝が来たんだ。学校へ行く準備をしなければ。
 大丈夫、ちゃんと起きている。余計なことは考えていないし、体にだるさもない。

 今日も元気だ、と俺は思った。大丈夫。

 それでもしばらく動く気になれなかったので、目を閉じて三回深呼吸をした。

 おまじないみたいなものだ。
 それからようやくベッドを抜け出す。

 カーテンを開けるとき、太陽の光がかすかな痛みを伴って目を刺した。
 
 今日も暑くなりそうだ。そう思った。




 俺がなぜ毎朝、妹に起床の手助けを受けているのか。
 理由は単純にして明快だ。朝が苦手なのだ。
 
 別に学校に行きたくないわけではない。
 でも起きるのは嫌だ。つまり眠るのが好きなのだ。

 睡眠はもっとも手軽で原始的で絶対的な快楽だと俺は思う。
 眠るのは気持ちのいいことだ。眠って夢を見るのはとても気分のいいことだ。

 よく晴れた土曜や、寒い冬の朝。そんな日に二度寝するときなど、もうたまらない。
 睡眠は人類に与えられた至上の幸福であると俺は断言できる。

 この人類における至上の悦びを害するものとは何か?
 言うまでもなく目覚まし時計の存在である。

こっちで続けるん?


 俺と目覚まし時計の因縁は、俺がまだ幼稚園児だった頃にはじまったと言われている。
 というか母が昔、そう言ってた。

「ホントに寝るのが好きで、何回起こしたって隙をついて寝ちゃってたなあ」

 なんて具合に。 

 我が家のアルバムを漁れば、その事実を裏付けるような写真がいくつも出てくる。
 まずはスタンダードに、俺が寝ている写真。四歳、とカッコ書きがある。
 
 次のページには、七歳の誕生日のときの写真。
 プレゼントが目覚まし時計だったことに落胆して大泣きしている幼い頃の俺がいる。

 その脇では、これまた幼い頃の妹(五歳)が、どうにかして俺を落ち着かせようとおろおろしていた。
 俺たち兄妹の関係は、この頃から既に決定的なものだったらしい。
 この誕生日の事件を境に、俺は子供の期待に応えられる大人になろうと誓った。


 そして同じく七歳。目覚まし時計が壊れている写真。俺が寝惚けて投げたらしい。

「そりゃもう、すごい音がしたもんだったわよ」

 と母は当時のことを振り返る。 
 その朝、俺はかしましく泣き喚く目覚まし時計を掴み、枕元から思い切り放り投げた。
 
 時計は母が普段使っていた鏡台の上に墜落した。
 幸いにも鏡は割れなかったが、鏡台のうえに散らばっていた母の化粧品のいくつかはダメになったらしい。

 そのような事態が四、五回続いた。母の危機感は次第に強まる。
 ひょっとしたらうちの子は何かの病気なんじゃないのか。そんな懸念が浮かんだのも無理からぬことだろう。
 なんせ、ほっとけば半日は寝てたんだから。

 かといって、与えるたびに目覚まし時計を壊されたんじゃ金も手間もいくらかけたって足りない。


 母は考えた。どこかに抜本的な解決手段が転がっていないものかしら。
 具体的に言うと、この子が毎朝すっきりと目覚めて、二度寝もしなくなるような。

 もちろん、生半可な手段では不可能だと言えた。
 なにせ、毎晩十二時間寝たって、まだ眠りたがるような子供だったのだから。
 
 けれど、母はその解決手段が案外近い場所に隠れていたことを知る。
 それは少し肌寒い秋の朝のことだった。俺、当時八歳。

 その朝、母が俺を起こそうとしたとき、電話のベルがけたたましく鳴った。
 もちろん俺はその程度の音じゃ目をさまさない。
 
 母は仕方なく電話台に向ったが、その際、まだ六歳だった妹にさして期待もせずこう告げたのだ。

 お兄ちゃんのことを起こしてきて。


 それまで母は、俺を起こすことを困難な仕事と考えるあまり、自分以外の誰かに任せたことがなかったのだ。

 電話の内容は今となっては思い出せない、と母は言っていた。
 親戚からの連絡だったことは確かだったらしいが、相手はあまり重要ではない。

 電話を終えて、母は子供部屋へと向かった。
 二段ベッドの下の段が、その頃の俺の領域。けれどそこはもぬけのからだった。

「あのときは本当に驚いたんだから!」

 その日俺は、妹に促されるままベッドを抜け出し、洗面所に向かい、顔を洗い、歯まで磨いていたという。
 そのとき母が受けただろう衝撃は想像に難くない。

 翌朝、母はその事態が偶然かどうかを確認するため、妹に再びこう告げた。

 お兄ちゃんを起こしてきて。

 その実験は今朝まで続き、今のところ問題なく実効性を証明し続けている。

>>10
さすがにいつ復旧するかも分からないとなると待つのもしんどいのでこちらで書くことにしました
仮にすぐ復旧したら速報の方は依頼出してこっちを使おうと思います

こんな日が続けばいいのに - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1387906849/)
でやっていたものの続きです




 小学生になっても俺は眠るのが好きで、授業中でもなんでも関係なく眠り続けた。
 もちろん学校じゃ、叩かれるなり呼ばれるなりすれば、どうにか起きたけど。

 当時つけられたあだ名は、今思えばうってつけだった。女顔だったのも拍車をかけた。
 みんなは俺を、眠り姫、姫、とよくからかった。
 
 今ならもっと怒っただろう。でも当時はあだ名なんてどうでもよかった。
 ただ眠かった。だから姫って呼ばれたところで気になんてしなかったのだ。

 そのうちみんなは、面白がって「姫」と呼ぶのをやめた。
 代わりに真面目なあだ名になった。

「おい、ヒメ。起きろよ、サッカーやろうぜ!」

 そんな具合に。
 そのあだ名を今でも使う奴がいるんだから、人生なんてみんなテキトーだ。

(「三年寝太郎」でなくて本当によかったと思う。そっちの方がよっぽどいやだ)




 太陽の熱気がジリジリと降り注いでいる。

 空はやけに近く、雲はやけに立体的。
 どこかからどこかへ飛行機が飛んでいき、白い航跡を残していった。

 青い空にくっきりと残るその筋が、ひっかき傷みたいに見える。

 グラウンド脇の高いネット。その付近の木陰に、やる気のないクラスメイトどもがたむろしている。
 その中に、俺もちゃんと含まれていた。

 体育の時間が少し余って、残りが自由時間になったのだ。

 指定ジャージ姿の集団は、どこにいても見るからに暑苦しい。
 ネットに力を抜いてもたれかかっても、ジャージが擦れて汗の気持ち悪さに拍車がかかるだけだった。

 木々の梢が風に擦れる音でも聴けば、多少の涼やかさを感じられるかと思ったのだが、あいにく今日は風がない。
 かさりとも音がしない。

 自由時間、なんて言われれば、普段だったらサッカーやらなにやらをやっているところだ。
 でも、今日の暑さは、ちょっと尋常じゃない。……そんなわけで、男子の大半は木陰で休んでいた。

 最初こそ解放感で高まっていたテンションも、時間が経つにつれて下降気味。
 だって暑いし。


 集団の中の誰かが、気だるげな声で言った。

「夏だな」

 ぽつりと。
 水面に雫を垂らしたみたいに、ささやかな一言が波紋のような反応を誘った。

「夏だわ」

「夏だよなぁ」

「夏だわ。この熱気は」

「うん。夏だわ」

 どうでもよさそうに、そこらじゅうから気だるげな声が漏れ出てくる。

 みんなが何を見て夏だと感じたのかは分からない。
 太陽か、空か、木漏れ日か。とにかくそれくらい、そこらじゅう、どこもかしこも、夏だった。


「夏」

 と俺も呟いた。それが最後だった。あとは誰もなにも言わなかった。
 元気に騒いでいるのは、遠くにいる女子たちだけだった。水道近くで濡れながらはしゃいでる。
 おかげで水分補給に赴くにも気が重い。

 グラウンドの方からホイッスルの音が聞こえた。集合の合図ではない。走り始める合図だ。
 誰かが記録を計ろうとしているのだろう。
 
 目を向けると、見慣れた男子がグラウンドを駆け抜けていく。
 誰かが声をあげる。

「佐藤君だな」

 誰かがどうでもよさそうに続けた。

「甘いマスクの佐藤君だ」

 やまびこみたいに次々と重なっていく。

「五月に女子生徒の間で秘密裏に開催された学年別・イケメン男子投票一年の部第一位の佐藤君だ」

 たしかに佐藤君が走っていた。ちょっと唖然とするほど綺麗に。
 遠くの女子が、ささやかに感心するような溜め息をもらしている。そんな気がした。

 あっという間に100メートルを走りきると、彼は教師に駆け寄ってストップウォッチを覗き込む。
 それから大きくガッツポーズをした。遠目で見ても爽やかな笑顔だった。


「佐藤君すげえな」

 と誰かが気だるげに言った。誰かが気だるげに頷いた。

「な。すげえよな。ホントすげえよ」

「……俺ら、嫌な奴じゃねえ?」

「なんで?」

「……なんとなく」

 俺はネットにもたれかかって座り込み、近くの雑草を抜きながら、その話に耳を傾けていた。
 べつに話の内容に興味があったわけじゃない。他に意識を向けるべきものがなかったのだ。
 
 そんな俺に声を掛けてきたのは、タイタンだった。

「暇そうだな、ヒメ」

 頬を伝った汗をシャツの肩口で拭いながら、彼は目を眇めてこちらを見た。
 俺は草をいじっていた手を止めて、声の方を見上げる。彼の身体が俺の上に大きな影を作っていた。


 彼のあだ名の由来はその体格。とにかく大きい。というか、大きかった。
 今となっては成長がだいぶ収まって、俺と並んでいても違和感がないくらいにはなったのだが。
 小学生のころはすごかった。並んでいるとまさに大人と子供。その頃ついたあだ名だ。
 
 当時の彼は遠目で見ると、ランドセルを子供に預けられて困った顔をしている参観日の父兄みたいに見えた。

 巨人タイタン。
 小学時代は卒業までずっと環境美化委員に所属していた。
 毎朝の日課は、ジョウロに水を汲み、花壇のパンジーやマーガレットやチューリップに水をやること。

 気がよく人気者だったタイタン。
 ときどき飼育委員の女の子と一緒に兎小屋で餌をあげていた。
 
 動物を愛し、草木と語らうタイタン。

 ぶっきらぼうでありながらも優しい態度。
 感情を表に出すことこそ滅多にないが、行動の節々に滲み出る誠実な人柄。

 人は言う。まるでラピュタの巨神兵じゃないかと。俺はそのたびに反論した。
 ラピュタのアレはロボット兵だ。巨神兵はナウシカだ、と。


 そんな彼も、年が経つにつれて、体格が平均に近付いてきた。
  
 もはやタイタンでもなんでもない、ただ少し大柄なだけの男子高校生。

 でも彼はいまだにタイタンと呼ばれているし、俺も呼び続けるのだろうなあとぼんやり思っている。
 彼が俺をヒメと呼ぶように。

「まあね」

 俺がしばらく経ってから返事をしたものだから、タイタンは一瞬困った顔をした。 
 自分がどう話しかけたのか、分からなくなってしまったのだろう。

 彼が自分の言葉を思い出すまでに、また十数秒の間があくことになった。

「ああ、うん」

 やっと思い出したあげくのタイタンの返事が、それだった。俺も俺だが、タイタンもタイタンだ。
 まあ、不満はべつにないんだけど。

 なにせ暑くて話をするのもだるい。


「ちょっと常軌を逸した暑さだよね?」

 それでも、何も話さないのもなんだかおかしいような気がして、俺はどうでもいいようなことを言った。
 タイタンもまた、どうでもよさそうに頷いた。

「たしかにな」

「どうして水泳じゃないんだ?」

「プールの設備が故障してるらしい。水泳授業でもどうせ、入る奴ろくにいないだろうしな」

「そりゃ入らないけど、水の近くにいるってだけで、だいぶ違うのにさ」

「学校の授業だって天気と同じだよ。俺たちの事情を省みてくれるわけじゃない」

 タイタンはつまらなさそうに呟くと、また汗をぬぐった。

「あと二週間の辛抱だって思えば、耐えられない暑さじゃない」

 たしかに、あと二週間の辛抱だった。二週間後、一学期が終わり、夏休みが来る。
 期末も終わったし、あとは休みが来るのを待つだけなのだが。
 でも、暑さが変わるわけじゃなかった。頬から顎に汗がつたう。空は透き通っていた。

「どうしてこんなに暑いんだろうね」

「夏だからだよ」

 俺の問いに、タイタンはこれ以上ないほど的確な答えを返してくれた。
 夏なのだ。夏がまた来た。これまで何度もやってきたように。


「眠いのか?」

 暑さにやられてぐたっとしているのを誤解したのか、タイタンが呆れたように訊ねてくる。

「まあね」

 べつにどうでもいい質問だったので、否定もせずにうなずく。
 タイタンは興味なさそうに溜め息をついて、また汗をぬぐった。

「何度も訊いたことあるけど、今になっても疑問だな。なんでそんなに眠っていられるんだ?」

「眠いからだよ」

「どうしてそんなに眠い? 寝不足ってわけでもないんだろ?」

「よくわからないけど、寝るのが好きなんだ」

「分からないな。眠ってると、損してるみたいな気分にならないか?」

「感受性の違いだな。……それに、夢を見られるだろ」

「夢を見てどうなる?」

「楽しくないか?」

 彼はうんざりしたように溜め息をついた。たぶん俺との会話にじゃなく、暑さにだと思う。
 俺に対して溜め息をついてたとしたら、ちょっと傷つく。


「つまり、夢のいいところっていうのはさ」

 タイタンが何も言ってくれなかったので、俺はごまかすみたいな気持ちで話を続けた。

「現実じゃありえないことだって起こりうる、っていうところにあるんだよな」

「空を飛んだり?」

「家の玄関を出たら遊園地だったって夢を、昔見たんだ。それ以来、何度も見る」

「実際に遊園地に行けるわけでもないだろ」

「『もしそうだったら』を想像すると、楽しくないか?」

「むなしいよ。それなら俺は、睡眠時間を削ってバイトでもして金溜めて、遊園地に実際にいくけどね」
 
「……ま、それもありだと思うけどね」

 チャイムが鳴って、追うようにホイッスルが鳴った。授業が終わるのだ。
 遠くの方では佐藤君が女子と楽しそうに話していた。見てるとなんだか胸焼けしてくる。


◇01-02[Xavier]


 どうでもいいような話だけど、高校にあがってから真っ先に驚いたのは、屋上が開放されていたことだった。

 小中と両方開放されてなかったから、屋上が開放されている学校なんてフィクションの中にしか存在しないと思ってた。
 でも開放されてた。このことを喜んだ新入生はたぶん俺だけじゃないと思う。
 
 どきどきしながら鉄扉を押し開くと、春先の乾いた風が俺の髪をぐしゃぐしゃにした。
 目に入ったのは灰色のフェンスと高い空。振り向けば給水塔。そのスペースまで昇るための梯子。
 
 バカと煙は、というわけではないと思いたいけど、俺は昔から高い場所が好きだった。
 だから、屋上にあがれると知ったときはすごくうれしかった。

 期待した通り、空に近くて、爽快で、風が気持ちいい場所だった。
 俺は一週間、毎日、昼休みになるたびに屋上に出た。

 でも、屋上には誰もいなかった。その理由は、一週間後には理解できた。

 屋上って、別にたいした場所じゃないのだ。


 風は埃っぽくて、春先だったから花粉でくしゃみも出る。

 そもそもちょっと肌寒い。それから天気によっては別に爽快でもない。
 夏なら陽射しが厳しいだろうし、秋なら風が冷たいだろう。さらに冬には雪が降る。

 しかも、ちょっと汚い。いつのものとも分からないゴミが引っかかっていたりする。
 昭和の不良でも煙草を吸うなら別の場所にするだろう。
 
 この屋上には、俺が憧れたような利便性もなければ、劇的な要素もありそうもなかった。
 これは勝手な期待と勝手な失望かもしれない。

 それでもときどき屋上に出たり、一時は通っていたりもしたが、結局、今では近寄らなくなってしまった。
 理由はいろいろあるけれど。




 そして、七月のある日の放課後、俺はひさしぶりに屋上を訪れた。
 特別な理由があったわけではないけれど、もうすぐ夏休みになると思うと、なぜか、覗いておきたい気がした。
 
 ひょっとしたら誰かいるかもしれない。
 そういう期待(……なのだろうか?)もあったけど、結局誰もいなかった。

 それでも、長い休みが近いせいか、屋上からの景色は春先に見たときより、ずっと開放的で、爽快に見えた。
 陽射しはぽかぽかで、風はさらさらで、居心地がいい。

 思わず伸びをして、制服のままで寝転んだ。
 太陽がまぶしくて、あたたかい。目を閉じると、世界は赤みがかった肌色に覆われた。
 蝉の鳴き声。

 じっと寝そべっていると、なんだかうたた寝しそうになって、俺は睡魔との格闘することになった。

 そんなときだった。不意に、

「なにしてるの?」

 と、声がした。一瞬、錯覚かと思うくらい、自然な声だった。


 びっくりして体を起こして振り返ると、立っていたのは十数年来の幼馴染の女の子だった。 

「日焼けするよ」と、彼女は呆れたような顔で言った。
 俺は少し唖然としてから、返事をした。

「びっくりした。なんでこんなとこに来たの?」

「お互い様じゃない?」

 呆れたように笑ってから、彼女は俺の隣に腰を下ろした。

「こんなところにいるなんて、珍しいね?」

 からかうでもなく、いぶかるでもなく、世間話でもするみたいな調子で、彼女はそう言ってきた。

「太陽の光がね……」

「太陽?」

「あ、いや」

「なに?」

「……いや。ちょっと、日の光を浴びたくなったっていうかさ」


 変なの。彼女はそんなふうに笑った。それからちょっと気まずそうな顔をする。

「そっちは?」
 
 俺が訊ねると、彼女は困ったような顔をした。

「きみがここに来るの見かけたから、追いかけてきた」

「用事でもあった?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど」

 ふわふわとつかみどころのない、感情を読み取りにくい声。
 表情の変化は曖昧で、何を考えているのか、すぐには分からない。

 物静かだけど口数少ないというわけではない。
 黙っていれば、そこにいることにも気付けないような、うっすらとした存在感。
 
 空気のような。


「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」

 彼女は俺の顔を見ながら口を開いた。数秒、目が合ったままになる。
 気まずくなって、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。

「喧嘩、した?」

「誰と?」

「心当たり、ない?」

「ない」

 と言えば嘘になる。つまり俺は嘘をついた。

「制服、汚れるよ」

 寝そべったままの俺を見下ろして、彼女は困ったようにそう呟いた。
 俺は仕方なく立ち上がって、ぐっと伸びをする。
 夏の日差しは眩しい。


「このあと、何か用事、ある?」

 座り込んだままの彼女に、今度は俺が見下ろすようにして、そう訊ねてみた。

「わたし?」

「ここには他に誰もいない」

「ないよ」

「じゃあ、一緒に帰ろう」

 彼女はまた困ったような顔をした。

「アイス奢るからさ」

 彼女は楽しそうに溜め息をついて、結局、「仕方ないなあ」と笑う。
 それから少し、ほんのちょっとだけ、真面目な顔になった。

 俺は気付かないふりをした。




 屋上から校舎に戻ると、空気が切り替わるのを感じた。
 陽射しがない分、いくらかマシだと感じたのは一瞬のことで、すぐに風通しの悪さに嫌気がさす。
 
「夏休みのご予定は?」

 俺がおどけながら訊ねてみせると、彼女は「特には」とそっけなく答えた。

「部活とか、夏期講習とか、いろいろ」

「夏期講習?」

「夏期講習」

 ふうん、と俺は思った。

「まだ一年なのにたいへんだなあ」

「他人事みたいに言わないでよ」

「他人事だよ」

 思わず笑ってしまったけれど、彼女は笑わなかった。
 俺はなんだか損したような気分になった。


「そっちは?」

「なにが?」

「夏休み」

「特には、なにもないかな」

「部活は?」

「あー」

 俺は少し唸った。部活にはほとんど顔を出していなかった。

「サボり魔」と、見透かしたように彼女はぼそりと呟く。

「もともとサボるつもりで入ったから」

「ふうん?」

 俺の返事に、彼女はちょっと怪訝げに相槌を打った。
 彼女が美術部に所属しているのだって、べつにやる気があってのことじゃないと思うのだが。


 昇降口を出ると、また陽射しにさらされたけれど、さっきよりは遠かった。
 
「自転車?」

 訊ねると、彼女は首を横に振った。

 バス停まで向かう途中で、コンビニに立ち寄ってアイスを買うことにした。
 冷房のよく効いた屋根の下には、何人か同じ学校の生徒もいた。

「奢ってくれるんだよね?」

「ひとつだけならね」

「飲み物もほしいな」

「自分で買って」

「詐欺だ。けち」

「図々しいなあ」

 彼女はちょっと笑った。
 俺は二人分のアイスを買って先に店を出た。
 再びうざったい蝉の鳴き声の下に出ると、なんだか暑さが二割増しになったみたいに感じられる。

 この暑さでは、すぐにアイスは溶けだしてしまうだろう。


 ふと店頭のガラスに目を向けると、このあたりの商店街で行われる夏祭りのチラシが貼られていた。
 夏休みがはじまってすぐの三日間。去年行ったときは三人だった。

 ぼんやりとそのチラシを眺めていると、不意にうしろから声が掛けられる。

「サボりですか?」

 幼馴染の声ではなかった。俺が振り返ると、文芸部の部長が立っていた。

「あ、いや……」

 とっさに言い訳しようとしたけれど、事実俺はサボっていた。

「はい」

「素直でよろしい」と彼女は楽しそうにうなずく。

「部長は?」

「サボりです」

 俺はちょっと呆気にとられた。


「嘘ですよ?」

「……ですよね」

 後輩をからかうのはやめてほしいものだ。反応に困る。
 子供みたいな見た目をしているくせに、つかみどころがなくて、飄々としていて、油断ならない。

 見た目だけなら愛らしいとすら言えてしまうのに、この人を前にすると、俺は妙に緊張してしまう。

「わたしは用事があって、部活はお休みしました」

 訊いてもいないのに、結局説明してくれる。良い人なんだか悪い人なんだか。
 冗談を言ったあとに、真面目に訂正しないと気が済まない。そういう性格なのかもしれない。

「用事ですか」

「はい。家に帰ってお昼寝です」

 ……用事が昼寝?

「気持ちいいものですよ」


「冗談ですよね?」

「はい」

「すみませんけど、笑いどころが分かりません」
 
「そうでしょうね」

 部長はどうでもよさそうに笑った。たぶんどうでもいいんだろう。
 
「それじゃあ、わたしは行きます。ときどきは、部にも顔を出してくださいね」

「……はい」

「みんな寂しがってますよ」

「嘘ですよね?」

「はい」

 彼女はにっこり笑って、そのまま本当に歩き始めてしまった。
 けれど、少し歩いてから、ふと思い出したように立ち止まって、肩越しにこちらを振り返る。

「近頃事故が多いみたいですから、気をつけて帰ってくださいね」

 小学生か、と思いつつも、俺は頷いて頭をさげた。




 バス停の古びた屋根の下のベンチに腰かけて、俺と彼女はふたりで並んでアイスを食べた。

 会話は特になかったけれど、居心地が悪いわけでもない。
 
「久しぶりだね」

 不意に彼女が口を開いた。やっぱりその声は自然すぎて、一瞬錯覚かと思うくらいだ。
 現実か幻聴かをたしかめようと思って俺が目を向けると、彼女はこちらを見つめていた。

 実際の声だったのだろう。

「なにが?」

「一緒に帰るのが」

 たしかに久しぶりだった。特に理由もなく溜め息が出る。

「たしかにね」

「ねえ、後ろめたくない?」

 俺はその質問に答えなかった。


「なあ、あのさ」

 沈黙を挟まずに言葉を投げかけると、彼女は少し意外そうな顔でこちらを見た。

「夏祭り、あるだろ」

「商店街の?」

「うん」

「一緒に行かないか?」

 答えが聞こえるまで、少し間があった。俺は緊張のせいで、相手の顔を上手く見ることができなかった。

「ふたりで?」

「ふたりで」

 彼女は少し考え込むような様子で俯いていたけれど、やがてぽつりと、ささやくように呟いた。
 独り言のように。

「うしろめたくない?」




 バスから降りて、ふたりで家まで並んで歩く。 
 俺の家と幼馴染の家は同じ住宅地のすぐ近くにある。

 だからこそ昔から仲が良かったのだとも言えるのだが、それも奇妙な話だ。
 
 俺は隣を歩く幼馴染の横顔をちらりと覗いた。
 彼女はぼんやりと視線を前方に向けて歩いている。

 昔は活発で、黙っていてくれと頼んだって黙っていてくれないようなところがあったけど。
 中学に入ったあたりから、態度が落ち着いてきて、柔和になった。

「なに見てるの?」

 不機嫌そうに見返されて、俺はさっと目を逸らす。

「美人になったよなあって思って」

「バカみたい」

 彼女はちょっとむっとした様子だった。


「いや、ホントにさ」

 彼女は疑るような目で周囲に視線をめぐらせはじめた。

「からかってるわけじゃなくて、しみじみとそう感じたってだけ」

「へんなの」

 確かに変だったかもしれない。彼女と一緒に帰るのは久々だったから、少し気分が落ち着かない。

「考えてみれば長い付き合いだよな」

 そんなふうに話を振ると、彼女はちょっと困った顔をしてから頷いた。

「子供の頃からだもんね」

 諦めたように溜め息をつくと、恨みがましい目でこちらをじとっと見つめてくる。

「なに?」

「なんでもない」

 拗ねたような口調。すこし戸惑う。

 それから不意に、立ち止まった。


「なに?」

 と思わず訊ねると、

「猫」

 と答えが返ってきた。

 見れば、白い猫が、前の方からゆっくりと歩いてきた。

 幼馴染はとことこと静かに走っていくと、ゆっくりと歩くその猫に近付いて屈みこみ、両手で持ち上げた。
 俺が動物にああいうことをしようとするとすぐに逃げられる。なんでなんだろう。

「かわいいなーおまえ」

 彼女はひとりで猫に話しかけていた。
 猫の方は持ち上げられたまま、「やれやれ」とでも言いたげな表情でそっぽを向いている。


「人懐っこいな。飼い猫かな」

「道路で屈みこむなよ。危ないから」

 住宅地の間を縫うように伸びる道路には、歩道もなければ路側帯もほとんどない。
 車の通りは少ないとはいえ、通ろうとすれば邪魔になる。

「うん」

 猫の方を見ているから表情はよくわからないが、名残惜しそうな声をしている。
 こういうことだと、けっこう分かりやすい態度を示してくれるんだけど。
 肝心なこととなると、いつも煙に巻くような態度をとる。

「公園で遊んでく?」

「いいの?」

 彼女は俺の方を笑顔で振り向いた。べつに好きにすればいいと思うんだけど。どうせすぐ家につくし。


「あっ」

 と彼女が声をあげる直前、猫は腕の中から抜け出して、思いのほか俊敏な動きで道路を駆け抜けていった。

「逃げられた」

「公園の方に向かったな」

 俺の声を最後まで聞かず、彼女は猫を追いかけ始めてしまった。
 仕方なく、俺も公園の方に向かう。

 彼女は入口のところで立ち止まっていた。

 結構な広さのこの公園には、昔はたくさんの遊具があった。

 回転式の円形ジャングルジムにブランコ、シーソー。
 でも、そのほとんどの遊具が、今では使用禁止になったり、撤去されたりしている。
 
 何年か前、学校や公園の遊具で児童が怪我をする事故がそこら中で多発した。
 その影響で、子供を持つ付近の親たちの不安も高まり、最終的には……という事情。
 ジャングルジムやシーソーは撤去された。


 残されたのは鉄棒と、スプリング式の動物の木馬、それから砂場と水飲み場。
 使用禁止になって鎖を縛られたブランコは、ちょっとしたモニュメントみたいに見える。
 公園は公園のままなのに、何かの跡地、何かの残骸になってしまったようだった。 

 それでも住宅地の公園だから、人はなにかと集まる。

 花壇にだって、地域の自然愛好会が集まって植えたらしい花々が、ちゃんと咲いている。

 この公園は、住宅に囲まれているせいで、どこか視界が悪く、空が狭い。
 遊べるものもそんなにないから、子供たちもあまり近寄らない。

 俺は入口で立ち尽くしている幼馴染の横に立って、彼女の顔を覗き込んだ。
 視線を追うと、花壇の傍のベンチに向かっている。

 そこには女の子が座っていた。
 膝の上には、さっきの猫が、眠たそうに瞼を閉じて、くつろいでいる。


 少女は俺たちに気付くと、やわらかく笑って、頭をさげた。
 俺たち二人も、慌てて頭を下げる。幼馴染がベンチに向かって歩き始めたので、俺も追いかけた。

「こんにちは」

 と少女が先に言った。「こんにちは」と俺たちも返した。ずいぶんしっかりした子だ。
 笑顔に怯えや戸惑いがない。手慣れた感じがある。

 歳は、小学の高学年くらいだろうか? 荷物を持っていないから、確信は持てない。
 見た目からはそのくらいという感じがするが、態度がやけに大人びている。

 控えめな、綺麗な笑み。

 気付けば辺りは夕陽で赤く染まっていた。夏だから日が長いとはいえ、暮れはじめればあっという間だ。

「あなたの猫?」

 そう訊ねたのは幼馴染だった。少女は笑顔を貼りつけたまま、首を横に振る。

「野良猫。いつもこのあたりにいるんだよ」


 猫は少女の膝の上であくびをして、尻尾を左右に揺らした。
 少女は白猫の首の後ろのあたりを指先で撫でている。

「知り合いがね」

 と少女は言葉を続けた。

「この猫のこと、いつもかわいがってるの。だから人懐っこいんだよね」

「そうなんだ」

 幼馴染はどうでもよさそうに相槌を打ちながら、猫を膝の上に乗せた少女を羨ましそうに見つめていた。
 
「だっこする?」

 少女はおかしそうに笑って、提案した。

「いいの?」

 言うが早いか、幼馴染は少女の横に腰かけて、わくわくした瞳で猫に手を伸ばした。


 猫は、自分の体が人の膝から人の膝へと受け渡されている間、身じろぎひとつしなかった。

 幼馴染が猫に夢中になっている間、手持無沙汰そうに見えたのだろうか、少女は俺に話しかけてきた。

「付き合ってるの?」

 真面目な顔でそんなことを言われて、俺たちふたりは一瞬硬直した。

 思わず幼馴染の方に視線を向けると、彼女もこちらを見ていた。
 目が合って、気まずくなって、思わず逸らしあう。

「付き合ってない」

「そうなんだ」

 少女は何かを察したみたいに笑った。困った話だ。


 話をすぐに変えてしまいたかったのと、本当に気になっていたこともあって、今度は俺が少女に質問をぶつける。

「きみは、この辺りの子?」 

「そうだよ」

「そうなんだ」
 
 間髪おかない肯定に、それ以上訊ねられなくなる。
 この辺りで、こんな子を見かけたことがあったっけか。

「学校からの帰り?」

 彼女は一瞬、答えに躊躇したように見えたけれど、すぐに取り繕ったように笑みを浮かべた。
 その仕草には、なんだか奇妙な違和感があった。

「そうだよ」

 たぶん錯覚だろう。そう割り切って、荷物は家に置いてきたのかな、と勝手な想像をする。


 それからしばらくのあいだ、幼馴染は少女と一緒に猫の毛並みを堪能していた。
 俺は立ったままぼんやりと空の変化を眺めていた。

 幼馴染が満足するまでたっぷり三十分ほど掛かって、その頃には辺りもだいぶ暗くなってきた。
 東の空は濃紺に、西の空は夕陽の名残で赤く染まっていく。
 
 不意に、少女は、笑顔のままで、変なことを言い始めた。

「願い事って、ある?」

 俺と幼馴染は顔を見合わせてから、もう一度少女の方を見た。
 彼女は付け加えるように言葉を重ねた。

「もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?」

「どうしてそんなことを訊くの?」

 俺が訊ね返すと、少女はちょっとごまかすみたいに笑った。

「単なる例え話だよ」


 俺はちょっと怪訝に思ったけれど、とにかく少しだけ考えてみた。

「お金がほしいかな」

 そんなことを呟くと、

「俗物」

 と幼馴染が尖った声で呟いた。ちょっとひどい。けれど少女は真面目な声音で、俺に言葉を返す。

「お金は手段でしょ?」

「……え?」

 その声は、鋭利な刃物みたいに、今までの親しげな雰囲気を切り裂いた。
 笑顔を浮かべたまま、少女は言葉を続ける。


「お金を手に入れて、何がしたいの? 何かが欲しい、どこかに行きたい、誰かと会いたい。
 不安を消したい、優越感に浸りたい……。お金はそのための手段でしょ?
 わたしが訊いてるのは、手段じゃなくて、その先」

 さっきまでと、声の雰囲気も、表情も、何も変わらないのに、なぜか、居心地が悪くなった。

「……思いつかないな」
 
 俺はそう言ってごまかした。少女は仕方なさそうに溜め息をついて、笑った。

「そっか。みんな、意外と無欲だよね」
 
 つまらなそうに、というよりは、困ったように、少女は呟く。
 それから、それまでの話題を全部忘れてしまったように、猫の顎をくすぐりはじめた。


「さて、と」

 声をあげて、幼馴染は猫を抱き上げ、少女の膝の上に戻す。

「そろそろ帰らなきゃ」

 少女も猫を膝の上から地面の上におろし、立ち上がった。
 幼馴染はごそごそと制服のスカートのポケットをまさぐり、何かを取り出す。

「手を出して」

 幼馴染の声に、少女は従い、手の甲を差し出す。

「手のひら」

「うん」

 少女の手のひらに、飴玉がのせられた。

「今日はありがとね」

 少女は少しの間きょとんとしていたが、やがて、「こちらこそ」、とまた笑った。


「何か願い事ができたら、すぐに教えてね。わたしはいつも、ここにいるから」

 少女は、そんな言葉を、ちょっと切実そうな響きを込めて、ささやいた。
 それから、俺たちに向けて小さく手のひらを振って見せた。
 
 狐につままれたような気持ちで、俺たちは帰路につく。

「かわいい子だったね」

「たしかにね」

 十歳の頃だったら恋に落ちてたくらいに。

 俺は歩きながらもう一度空を見上げた。
 逢魔が時だ。




「なんだったんだろう?」

 俺がそう訊ねると、幼馴染は首をかしげた。
 何が言いたいのか分からない、と言いたげに。

「なにが?」

「さっきの子。願い事がどうこうって」

「さあ?」

 どうでもよさそうに、彼女は振り返る。

「ランプの精か何かだったんじゃない?」
 
「流れ星の化身とか?」

「七夕の織姫とか」

 彼女はからかうみたいに笑いながら言った。
 願い事。


「ねえ、何かある? 願い事」

「思いつかないって、さっき言ったよ、俺は」

「なんでも叶うよって言われたら、どんなことを願う?」

 なんでも、と言われれば。
 いくつも願うようなことはないんだけど。

「……自由すぎるのって不便だよなあ」

「どういう意味?」

「ある程度制限があった方がいろいろ思いつくだろ」

「そういうもの?」

「一万円以内で買えるものの中で、何か欲しいものがあるかって言われたら思いつくけどさ。
 いくらでもいいから何か欲しいものがあるかって言われたら、簡単には思いつかない」

 彼女はちょっと納得いかないような様子だった。
 指先で前髪をくるくるといじっている。


「そっちは?」

 俺が訊ね返すと、彼女は少し驚いたようだった。

「わたし?」

「うん」

 彼女は黙りこんでしまった。
 今の話の流れで、自分が訊かれないと思っていたわけでもないだろうが。

「シュークリーム食べたい」

「……」

 それでいいのか、という疑問を口に出す気にはなれなかった。


「最近、駅の方に新しい喫茶店ができたらしくてね、シュークリームが絶品なんだって」

「……それを食べたいの?」

「うん」

「願い事を使って?」

「……」

 おお、という顔をしている。話の趣旨を忘れていたらしい。

「あれ? でも絶品なのはパンケーキだったかも」

 どうでもいいことを真剣に思い悩み始めてしまった。
 そうこうしているうちに、幼馴染の家の前につく。

 俺は意識的に真面目な声を作った。

「シュークリーム」

 声を掛けると、彼女はぼんやりとこちらを向いて、続きを促すように首を傾げた。


「今度食べにいこうか」

 彼女は少し迷うような素振りを見せた。

「ふたりで?」

 俺は頷いた。

「ふたりで」

「……今日は、なんか変だね?」

「そうでもない」

 彼女はやっぱり、疑わしそうな視線を向けてきた。
 たしかに唐突だったかもしれない。

「どうかしたの?」


 その質問に、答えてしまえばよかったのかもしれない。
 今のタイミングで。真剣に。伝えればよかったのかもしれない。
 ずっと言い損ねてきたこと。

 でも、それはなんだか、ひどく後ろめたいことのように思えた。
 ズルをしているような気がした。

 だから結局、俺はその罪悪感に押しのけられて、

「いや、どうもしない」
 
 なんでもないことのように否定する。
 否定してしまえば、彼女も当然、それ以上は何も訊いてこない。
 
 何かを言いたげな目で、彼女はこちらを見ている。
 それでもやがて、諦めたように溜め息をつくと、

「ばいばい」

 それだけ言い残して、あっさり家の中に入っていった。
 俺はドアが閉まるのを見届けてから、自分の家へと歩き始めた。




 そんなふうにぼんやりとした日々が続いて、一学期が終わった。
 終業式の日は、昼過ぎから細かな雨が降り始め、蒸し暑くなった。
 
 俺と幼馴染はその日、約束通り、シュークリームが絶品らしい喫茶店に立ち寄った。

 俺と二人で並んで歩くとき、彼女はときどき不思議そうな顔をした。
 
「どうしたの?」

 そう訊ねると、決まってハッと気づいたように、

「なんでもない」

 とごまかし笑いを浮かべる。俺は気付かないふりをして、それとなく彼女の方に注意を向ける。
 彼女が考えていることは、なんとなく分かるような気もするのだ。


 店の中は洒落た雰囲気だった。内装はあまり派手ではなくて、落ち着いている。
 俺たち以外の客も何人か来ていて、大半が俺たちと同年代くらいの女子ばかりだった。
 
 その中に、見知った顔があった。

「あれ?」

 先に声をあげたのは幼馴染の方だった。相手の方も、こちらに気付いたようで、頭を下げてくる。
 
「ひさしぶりだね」
 
 幼馴染が当然のように声を掛けたので、俺も歩み寄って挨拶をする。

「お久しぶりです」

 と彼女は丁寧に頭を下げた。共通の友人の妹だった。
 中学の友達と一緒に来ていたらしい。

「久しぶりだね」

 俺が声を掛けると、彼女は少し緊張した様子で頷きを返してきた。
 まあ、あまり話したこともないし、当然かもしれない。
 俺にとっても、同じ中学の後輩、という程度でしかない。


「近くに住んでるはずなのに、全然会わないよね。昔は毎日みたいに遊んでたのにさ」

 幼馴染は、久しぶりに会うというのに、くだけた調子で話しかける。ためらわない奴だ。
 実際、昔は毎日みたいに顔を合わせていた。

 それがなくなったのは、俺たちが高校に入る前くらいからか。

 近所に住んでいるから、たしかにもっと顔を合わせる機会があってもいいはずなのだが。
 俺はとっさに、

「お兄さん、元気?」

 と、そう訊ねてしまったのだけれど、むしろ怪訝そうな顔をされてしまった。

「学校で、会ってないんですか?」

「あ、いや……」

 どう言い訳しようかと思っていると、幼馴染が勝手に話を引き継いでしまった。

「なんか喧嘩してるみたい」


「そうだったんですか。よかった。兄貴、ちゃんと学校には行ってるんですね」

 彼女はほっとしたように溜め息をつく。あいつはどうも信用されていないようだ。

「お二人はデートですか?」

「そうそう」

 俺が何かを言う前に、幼馴染が勝手に答える。
 好きにしてくれ、と思う。別に悪い気はしないから。

「奢ってもらうんだよ」

「……待て。そんな話はしてない」

 えー、という目で見られる。第三者を利用して言質をとろうとしないでほしいものだ。
 俺たちのやりとりを見て、後輩の女の子はくすくす笑った。


「ねえ、ここのシュークリーム美味しいってホント?」

 今から食べるのだから、すぐに分かることだろうに、幼馴染はそんなことを訊ねる。
 後輩は律義に頷いた。

「絶品ですよ。……わたしたちは、そろそろ帰りますね」

 そう言って、彼女は一緒にいた友人たちと帰り支度を始める。

「雨、降ってるよ」

 俺がそう声を掛けると、

「傘、持ってますから」

 あっさりと答えが返ってくる。頭のよさそうな反応だなあとぼんやり思った。

「そう。それじゃあね」

 幼馴染が大袈裟に手を振ると、後輩は小さく振りかえしてから店を出て行った。

 俺たちはシュークリームを食べてしばらく休み、雨が止むのを待って店を出た。
 確かに美味しかった。




 夏祭りの前日まで、幼馴染は「本当に行くの?」と俺に何度も訊ねた。
 そして当日の約束の時間、俺が待ち合わせ場所に姿を現すまで、ずっと疑わしそうな顔をしていた。

 彼女は水色の浴衣を着ていた。
 普段は下ろしたままにしている髪を、高めの位置で結っているせいか、いつもとは印象が違う。

「浴衣か」

 見たままの言葉を出すと、彼女は「うん」と頷いてから、しばらく黙り込んでしまった。
 それから俺の方を見て、

「なんとか言え」

 と助けを求めるみたいな声で言った。

「いいと思うよ」

「……そっか」

 俺の心臓はなんだかばくばくしていたけれど、あんまり気にしないようにしようと決めていた。


 不思議なことに、普段ならほとんど途切れないはずの会話が、その日だけは何度も途切れた。
 俺は相手の方をまともに見ることができなかったし、彼女もこちらをあまり見てこなかった。

 片田舎の寂れた商店街の祭りとはいえ、たくさんの人がごった返していた。

「なんだか、さわがしいね」

 落ち着きのなさをごまかすみたいに、彼女は言った。

「お祭りだから」

 囃子の音が遠くから聞こえた。
 眩暈がしそうな緊張も、夜店を冷やかしたり、偶然会った知り合いと話をしたりしているうちに和らいでくる。

 特設ステージから演歌の歌声。配られる団扇。氷水の中で冷やされたラムネ。
 金魚にスーパーボール。当たりそうもない景品ばかりが並んだクジ屋。

 かき氷を買って人ごみを外れて、座りながら休んでいると、夏休みなんだ、とふと思った。
 これから夏休みなんだ。たくさん時間があるんだ、と思った。


「ねえ、どうして……」

 俺が、かき氷を慌てて食べて、例のきーんという頭痛に苦しめられていると、不意に幼馴染が口を開いた。

「どうして、二人でなんて言ったの?」

 なんとなく訊かれるような気がして、あらかじめ用意しておいた答えを、俺は告げた。

「二人で来たかったからだよ」

「どうして?」

「来たかったから、じゃ駄目か?」

「駄目ってわけじゃないけど……」

 彼女は自分でも何が言いたいのか分からないというように首を振った。
 それからいちご味のかき氷を一口頬張る。その仕草が、ちょっと色っぽく見えた。
 たぶん祭りの熱気のせいでどうかしてしまっているんだろう。


「わたしが聞きたいのは、どうして……」

「言いたいことは分かるよ」

 彼女が言わんとしていることは、本当によく理解できた。
 
「でも、いつかはこうなってたんだよ。今じゃなくたっていつかは。
 あるいは、ここにいたのは俺じゃないかもしれないし、ここには誰もいなかったかもしれないけど」

 彼女は黙り込んでしまった。

「だって俺はずっと前からおまえのことが好きだったし、だから、いつまでも仲のいい友達ってだけじゃ嫌なんだよ。
 いつまでもずっと変わらない関係なんかじゃ、最初からいられなかったんだ」

 思いのほかさらりと言ってしまって、俺は少し後悔した。
 もうちょっとタイミングというか、そういうものを考えたかった。
 まるで話の流れで言ったみたいな感じだ。

 どうせ今日告げるつもりだったんだけど。


 彼女は俺の方をぼんやりと見つめていた。三秒くらい。それから頬が染まって、顔が背けられる。

「……バカみたい。またそんな冗談言って」

「俺はたぶん、ここ一年くらいで一番真面目な話をしてる。とっくに気付かれてるもんだと思ってたけど」

「そんなの、知らない。わたしは……」

「すごく真面目な話をしている」

 話を逸らそうとする幼馴染の方を、俺はじっと見据える。

「俺はさ、おまえと一緒にいると楽しいし、おまえが笑ってると嬉しいんだよ。
 おまえが他の男子と話しているのを見るだけで一日中腹のあたりがむかむかしてきて憂鬱になるんだ。
 だからできるならおまえのことを独り占めしたいんだよ。……俺、いますごくバカなこと言ってる?」

「……バカみたい」

 か細い声でそう言いながら、彼女は俯いた。


「だから、付き合ってくれ」

「……」

 返事がなかった。

「シュークリーム奢るから」

「普通、こういう話するときに、食べ物で釣ろうとしないと思うんだけど」

「……すまん」

 返事がなかったから、ついズルい手を使ってしまった。
 遠くから花火のあがる音が聞こえる。その音と重なって、

「……いいよ」

 と、かすかな声が聞こえた気がした。


「今なんて言った?」

「……バカなの?」

「都合のいい幻聴かと思って」

「……いいよ、って言った」

「つまり?」

「……付き合おう、ってこと」

 言葉よりもむしろ、普段のぼんやりとしたものとは違う、彼女の緊張した表情に心を乱される。
 心臓が、またばくばく言い始める。

「本当に?」

「嘘」

「……」

「……って、言ったら?」


「すごく悲しいかな」

「……そっか」

 まるで何かを確認するみたいな言葉。 
 それから、自分に言い聞かせるような調子で、彼女は繰り返した。

「嘘じゃないよ」

 なんだか胸の内側がむずむずとしてくる。

「わたしも……たぶん、きみのこと、好きだから」

「……たぶんって、どういうことだよ」

「わかんないけど、一緒にいると楽しいから」

「……そっか」

「それに、シュークリームもおごってくれるみたいだし」

 まだ少し赤くなったままの頬に、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 胸焼けするまでおごってやってもいいような気分だった。




「付き合うって、何をするの?」

 かき氷を食べ終えて、ふたたび立ち上がり、歩き始めると、彼女はそんなことを訊ねてきた。

「一緒に出掛けたりするんじゃないか」

「今みたいに?」

「そう」

「それから?」

「……いろんな場所に行くんだよ」

「出掛けるだけなの?」

「わかんないけど」


「他には?」

 俺は少し考えてからちょっと試すような気持ちで、言った。

「手を繋いで歩く」

「……そうなんだ?」

 彼女は不思議そうな顔のまま、俺の手を握った。

 お互いに言葉を失う。
 俺たちはあまりにも子供のころから一緒に居過ぎたせいで、ろくに手を繋いだこともなかった。
 あったとしても、遠い記憶の彼方の出来事。

 俺はなんだか、ひどく不安になってきた。

「こういうのも、悪くないかもね」

 彼女はまた、悪戯っぽく笑う。俺はなんだかかなわないなあという気持ちになった。


「夏休みだから、明日からいろんなところに行こう」

「わたし、夏期講習あるよ」

「……暇なときにさ」

「そっか。うん」

「たくさん時間があるんだ。思いつくこと、たぶん、全部できる」

「バカみたい」

 彼女は楽しそうに笑う。

「今日みたいな日がさ」

 俺が話を続けると、一瞬、彼女が手を握る力を強めた。俺も真似して、軽く握ってみる。
 なんとなく、お互い笑ってしまった。

「……今日みたいな日が続けばいい」

 彼女は一瞬おかしそうに笑って、それからちょっと真面目な顔になった。
 俺はその瞬間、彼女が誰のことを考えたのか、理解できるような気がする。


 そのことをあえて考えないようにして、俺は思いついたことを口に出す。

「なあ」

「なに?」

「浴衣、似合ってる」

「……いまさら、なに?」

「照れくさくて言えなかったんだ。超かわいい」

「……ばかじゃないの」

 彼女は顔を背けた。そんな仕草すら、いつもと違っていた。
 たぶん俺は、それまでの人生で一番って言っても言い過ぎじゃないくらい満たされた気持ちになれた。

 現実感が希薄で、感覚がふわふわとしていて、まるで夢の中にいるみたいだった。

 俺たちは雑踏の中を並んで歩いていく。
 手を繋いだまま。



 
 ――もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?

 ――ひとつだけだから、よく考えてから決めてね。
 
 ――後悔しないように。


◇02-01[Mr.Droopy]


 ノックの音で、目をさました。
 遠慮がちでそっけないノックの音。いつも通りだ。

 朝が来たのだ。

「お兄ちゃん、起きてる?」

 掛けられる声もいつも通り。
 俺は起き上がろうとして、疑問に支配される。

「いま起きた。けど……」

「どうしたの?」

「夏休みじゃないっけ?」

「……寝惚けてるの?」

 妹は呆れたように溜め息をついて、言った。

「まだ学校。夏休みまで二週間近くあるよ」

「……あれ?」


「夏休みの夢でも見てたの?」

 俺は頭を掻きながら夢の内容を思い出そうとする。
 体が妙に気怠くて、疲れが抜けていない。
 
 夢を見ていたような気がする。
 でも、どんな? それがまったく思い出せない。

 なにか、重要な夢だったような。
 というか、夢だったのか? と思うくらい現実感に溢れた夢だったような。

 内容はまったく思い出せないのに、そんな感覚だけが残っている。

 俺は枕元に置きっぱなしになっていた携帯を開いて、日付を確認した。
 たしかに、夏休みまで、まだ二週間ある。

「どうでもいいから、ちゃんと起きてね」

 妹はそれだけ言い残すと、俺に背を向けて部屋を出て行った。


「夏休みの夢でも見てたの?」

 俺は頭を掻きながら夢の内容を思い出そうとする。
 体が妙に気怠い。疲れが抜けていない。
 
 夢を見ていたような気がする。
 でも、どんな? それがまったく思い出せない。

 なにか、重要な夢だったような。
 というか、夢だったのか? と思うくらい現実感に溢れた夢だったような。

 内容はまったく思い出せないのに、そんな感覚だけが残っている。

 俺は枕元に置きっぱなしになっていた携帯を開いて、日付を確認した。
 たしかに、夏休みまで、まだ二週間ある。

「どうでもいいから、ちゃんと起きてね」

 妹はそれだけ言い残すと、俺に背を向けて部屋を出て行った。




 うっとうしいほどの太陽の日差しと蝉の声。
 夏だ。それは分かる。でも何か奇妙な感じがしていた。

「いつも寝てばっかりだから、変な夢見たりするんだよ」

 妹は玄関の鍵をしめながら、俺にそんなことを言った。

「もう少ししっかりしてよ」

「俺は俺なりにすごくしっかりしてるんだけど」

「意味わかんないよ、それ」

 呆れたように溜め息をつかれる。
 我が妹ながら内弁慶というか、他人が相手だとやたら緊張するくせに、身内にはどこまでも強気だ。

 妹が鍵をしめたのを確認してから、並んで歩き始める。
 俺と妹はほとんど同じ時間に登校するから、一緒に家を出るのは習慣になっていた。


「でも、そっか。まだ学校か」

 なんだか憂鬱な気持ちになる。夢の中では、たぶん夏休みだったのだろう。

「そうだよ」

「だるいなあ」

「わたしの前ではべつにいいけど、そういうの、あんまり口に出さない方いいよ。情けないから」

「気を付けるよ」

 言いながら、俺はあくびを噛み殺した。なんだか頭がひどくぼんやりとしている。
 
「今日の晩御飯、何食べたい?」

 歩きながら訊ねると、妹はちょっと考え込んだ様子だった。

「冷麦とか、冷やし中華は飽きたかな」

「だよな……」

 ここ最近やたらと暑かったので、手を抜いて麺類に頼ってしまっていた。


「で、何食べたい?」

「うーん」

 と妹は考え込んでしまった。

「ハンバーグ」

「ハンバーグか」

 こういう質問をすると、妹はいつもハンバーグと答えている気がする。

「帰りは何時ごろ?」

 俺の質問に、妹はちょっと考えるような顔つきで空を仰いだ。

「たぶんいつも通り。六時過ぎくらいかな」

「部活?」

「うん。テスト終わったから再開。お兄ちゃんは出なくていいの?」


「まあ、気が向いたら顔だけでも出してくるよ」

「サボってばっかりだと、クビになるよ」

「それも面白いかな」

「気をつけてよね」

 そんなことを真剣に口にする妹がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。
 もともとそんなに真面目な部でもないし、活動日だってそう多くはないのだ。

 彼女の心配するようなことには、めったなことではならない。
 ましてや、俺よりサボってる奴なんてざらにいるし。




 教室についたのは始業の十五分くらい前で、その頃になるとだいたいの生徒が登校してきている。
 
 なぜか、俺の席にはタイタンが座っていた。窓際で居心地がいいからだろうか。
 空をぼんやりと眺めている。

「おはよう」

 声を掛けると、「おう」とぼんやりとした調子で返される。

「何か考え事?」

「夏だなあと思ってさ」
 
 当たり前のように言うと、彼は立ち上がろうとした。俺はそれを制する。

「いいよ座ってて」

 俺は鞄を机の脇に掛けてから、机の上に座った。

「机は座る場所じゃねえぞ」

 タイタンはからかうみたいに言った。俺は肩をすくめた。

「机と椅子の違いなんて大きさくらいのもんだよ」


「眠そうだな?」

 とタイタンはいつものように俺に声を掛けてきた。
 俺は溜め息をついた。

「夢見が悪くてさ。疲れがとれなかった。安眠妨害で慰謝料取りたいよ」

「誰からだよ」

「悪夢から」

 彼はどうでもよさそうに笑った。

「どんな夢だった?」

「よく覚えてない、けど……」

「けど?」

「……パイプオルガンの音色と、赤い絨毯」

「なに、それ。結婚式?」

「さあ?」


「ねえ」

 と不意に誰かが言った。自分に対しての声じゃないと思って無視していると、もう一度繰り返される。
 いったい誰が誰に話しかけてるんだろうと思って声の方を向くと、一対の瞳がこちらを見ていた。

「え?」

「さっきから呼んでたんだけど、なんで無視するの?」

 見知った顔だった。別の中学から入学した、春からクラスメイトになった女の子。
 そんなに交流はないけど、気さくな性格をしているから、割と話をすることがある。

 染めているわけでもないようだけど、髪色は薄く、赤みがかっている。

「ごめん。なに?」

 とっさのことに戸惑いつつ問い返すと、彼女はちょっとほっとした様子だった。
 
「いや、たいしたことじゃないんだけど、こないだのお礼が言いたくて」

「……お礼?」

 何かしたっけか、と思い出そうとしていると、彼女は慌てたように言葉を続けた。


「ほら。自転車の鍵」

「……自転車の鍵?」

「覚えてない? わたしが駐輪場で落としたとき、一緒に探してくれたでしょ?」

「人違いじゃなくて?」

「間違いないって。先週のことだよ? 覚えてないの?」

 まったく記憶になかった。
 助けを求めるようにタイタンの方を見ると、彼は俺を見ていぶかしげな顔をした。

「先週の金曜なら、おまえが駐輪場のあたりで何かしてたの、俺も部活中に見かけたけど」

「あれ、ホントに?」

 覚えていない。そう思って先週の記憶を探ろうとしたけれど、不思議と何も思い出せなかった。


「記憶喪失じゃないの?」

 と女の子は困った雰囲気で言った。

「じゃないといいけどね」

 いまいち確証を持てないのでそう答えると、はぐらかされたと思ったのか、彼女はちょっとむっとした。

「ま、いいや。それで、お礼。手、出して」

「お礼って、記憶にないのに」

「いいから」

 と彼女は無理やり俺の手のひらを開かせた。

「はい」

 なぜか俺の手のひらにチュッパチャップス(コーラ味)が載せられていた。
 彼女は手のひらの上の飴を見つめてから満足げに頷いた。
 かと思うと、今度は急に不安そうな顔をして、

「プリン味の方よかった?」

 なんて訊いてくる。


「なんでその二択?」

「わたしの中で、チュッパチャップスはコーラとプリンが双璧なの」

「……あ、そうなんだ」

「他のがいいなら、あるけど」

「あ、いや、いいよ。コーラ好きだし」

 彼女はほっとしたように息をついた。

「そっか。えっと、ほんとにありがとね。助かったよ。帰れないかと思って泣きそうだったんだ」

「いいよ、べつに。たいしたことしてないし」

 覚えていないので、何を言われてもなんとなく据わりが悪い。


 会話が終わった後も彼女は俺たちのところを去ろうとしなかった。
 意図が読めなくて、何かを言わなければいけないような気分になる。
 
 そんなとき、タイタンが口を開いた。

「ヒメもたまには良いことするんだな」

「おまえ、人をなんだと思ってるんだよ」

「情緒的ニート」

 ……普通に屈辱的だ。

「その、ヒメってさ」

「なに?」

 呼ばれたのかと思って返事をすると、彼女はちょっと戸惑ったような顔をした。


「呼んだわけじゃなくて、ヒメってあだ名。なんでそう呼ばれてるの?」

 俺は仕方なく自分の小学生時代の出来事を簡潔に説明した。
 彼女は話を聞いている間、五回ほど笑った。
 笑うところなんてない。泣き所しかない。

「ねえ、わたしもヒメって呼んでいい?」
 
 彼女は楽しそうにそう言った。

「いいよ」

 どうでも、と俺は言った。呼び方なんてなんでもよかったし、彼女と頻繁に話す機会があるとは思えなかった。
 そこでチャイムが鳴って、彼女は自分の席に戻っていった。

 特に理由もなくタイタンの方を見ると、彼は不思議そうな顔でこちらを見ている。

「どうしたの?」

「いや、べつに。珍しいなと思って」

 何が珍しいのが分からなかったが、俺は彼を立ち上がらせて、自分の席に座った。
 なんだか変な気分だった。




 べつに寝ようと思ってそうしているわけじゃないんだけど、授業を受けていると、居眠りしそうになる。
「しそうになる」だけで済んでいるのは、自分では成長だと思っているんだけど。

 子供の頃からずっとそんな調子で生きてきたせいで、小学生のときには授業についていけなかった。

 他人にできることが自分にはできないということは、子供ながらに不安でしかたのないことだった。
 危機感から、学校から帰ってから就寝するまでの時間、俺は毎日のように必死になって勉強をした。

 そういうことが習慣になって、最終的には、授業をきいていなくても、授業の内容がある程度理解できるようになった。

 小学校の高学年になる頃には、授業中だって目を覚ましていられるようになったし、夜眠る時間も段々と遅くなった。
 
 ようやく普通に近づけてきたのだけれど、近頃はまた、ひどい眠気を感じるようになってきた。

 頭がぼんやりとして、半分眠っている。自分が起きているのか眠っているのか、それさえも分からなくなる。
 そしてときどき夢を見る。たぶん夢だと思う。幻聴のような声すら聞こえるのだ。

 誰かが泣いている。




「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」

 司書さんは本の整理をしながらそう言った。

 二十代半ばの若い女性。でも、物静かで落ち着いた雰囲気がある。
 茶目っ気もあって、少し抜けたところもあるという、可愛げのある人。

 この学校の図書室は狭い上に本棚が高い。
 圧迫される感じがして手狭に見える分、隠れ家みたいな雰囲気がある。

 で、そんな雰囲気の場所に、この気さくな司書さんと話をするために訪れる生徒が、けっこう大勢いたりする。
 不思議なもので、この人と話をすると本を読みたくなる。知らず知らず誘導されているんだろう。

 昼休み、昼食の後、俺とタイタンは図書室を訪れていた。
 別に本を借りたくなったわけではない。ときどき、他にすることが思いつかない日に、司書さんと話したくなるときがあるのだ。
 迷惑を掛けているのかもしれないけど、不思議と彼女と話をするのは楽しかった。


「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
 
 司書さんがそう言うと、タイタンがむっとした顔をして「そうですか?」と訊ねかえした。

「そうなんですよ」と俺は言う。

 授業中に眠りそうになっている俺について、タイタンが司書さんに愚痴を言ったのだ。
 俺は思わぬ味方の登場に嬉しくなる。

「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど、意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」

 彼女はやわらかく微笑んだ。春のこもれびみたいなあたたかい微笑。
 そういうふうに笑われると、なんだかもう、しかたないなあ言う通りにしよう、という気持ちになる。
 
「気をつけます」

 俺は真剣に答えた。

「よろしい」

 と司書さんはおどけた。


「それにしても、今日も暑いですね」

 どうでもいい世間話のつもりで話しかけると、「ねー、ほんとにねー」と司書さんは頷いた。

「いくら夏だからって、こんなに暑いと困っちゃうよね。アイス食べたいなあ」

 それからふと、悪戯っぽい顔つきになって、

「ねえ、奢ってあげるからアイス買ってきてくれない?」

 なんてことを言い始める。変な人だ。発覚したら普通にまずいだろうに。

「すみません、無理です。根が真面目なんで」

「嘘だあ」

 彼女は本をしまいながら笑った。気持ちのいい笑い方だ。リラックスした感じの。


「でも、もうすぐ夏休みだね。予定とか、決まってるの?」

 彼女のまた、どうでもいい世間話のつもりだろうか、そんなことを訊いてきた。

「寝ます」

「寝るんだ?」

「寝続けます」

「……そ、そう」
 
 司書さんはちょっと引き気味だったが、嘘をつくわけにもいかない。
 タイタンが呆れたように溜め息をついた。


「すみません」

 と不意に声が聞こえた。今度こそ俺に掛けられた声ではなかった。
 俺が声の主の姿を確認するより先に、司書さんがカウンターの方を向いて返事をした。
 それからととと、と俺たちの脇を駆けていく。

「図書室で走っちゃだめですよ」

 と茶化すと、

「ごめんごめん」

 とあっさり笑う。
 そのまま彼女の背中を追いかけていると、ふとカウンターの前に立っていた女子と目が合う。
 見覚えがある。

「あれ?」

 声をあげたのはタイタンだった。彼は声すら掛けた。「よう」とかなんとか。
 女子の方も俺たちに向けて、「よう」なんて言う。

 俺はうまく反応できなかった。


「借りるの?」

 タイタンがそのまま訊ねる。女子は「返すの」と答えて本の表紙をこちらに向けた。

『同一性・変化・時間』。

「……なにそれ?」

 タイタンがまた訊ねる。彼女は首を傾げた。

「よくわかんなかった」

「……なんで読んだんだ?」

「なんとなく」

 彼らの会話の横で、司書さんが返却の手続きを始める。
 不意に、彼女と目が合う。なぜか分からないけど、俺はそれだけで動揺した。すごく。




「喧嘩でもしたのか?」

 タイタンはそんなことを訊ねてきた。
 彼女は図書室を出ていって、司書さんは作業を再開していた。

「喧嘩?」

「さっき、一言も喋らなかっただろ?」

「べつに、そういうわけでもないけど……」

 タイタンも同じ小学校だったから、俺と彼女の関係性くらいは知っている。
 だから、様子がおかしいことにだってすぐ気付いたんだろう。

 昔からずっと一緒だったから。
 でも……。

 俺は自分でも、うまく理解できなかった。なぜ俺は、彼女と言葉を交わさなかったのか。
 何か、奇妙な感じがしたのだ。




 別に妹と朝交わした会話のせいってわけでもないけど、放課後は部活に顔を出すことにした。
 文芸部の部室は東校舎の二階にある。隅の方ですよね、と部長が自虐的に言っていた。

 部室には部長と、何人かの文芸部員が顔を出していた。
 
 俺は一瞬、誰かの顔を探した。でも、すぐに分からなくなった。
 俺は誰を探したんだろう。

「久々ですね」と部長は俺に向けて声を掛けた。

「そうですね」

 俺はなんとなく奇妙な感覚のまま、部長とおさだまりの会話をする。

「書いていきます?」

 そう言いながら、部長は俺に向けて青い大学ノートをさしだした。

 うちの文芸部は和気藹々とした雰囲気が売りだった。
 が、あまりに和気藹々としすぎたために一部を除いたメンバーが熱心に活動しなくなってしまったのだ。
 これを危惧した顧問が、せめて何かしらの実績を残さなくては、と全員参加のリレー小説を始めさせた。


 順番が決まっているわけではなく、気が向いた部員が適当に続きを書いていくだけの代物だけれど。

 こんなものでも、一応活動実績にするつもりなのだろう。

 まだ始めてから一月くらいしか経っていないけれど、これが意外と部員たちには好評だった。

 名前を書かなくてもいい、と顧問が言ったため、けっこう好き勝手できるし、誰が書いているのか分からない面白みもある。
 もちろん筆跡である程度想像できるのだけれど、あえて分からないままにしておくのも楽しい。

 女子部員が多いため、最初はありがちな高校生同士の恋愛から始まった。

 不良の男子と地味な女子の恋愛もの。不良は最初、生活態度は悪いが成績優秀、という設定だった。
 が、なぜかテストで赤点をとる。そして気付けば主人公である女子に放課後の教室で勉強を教えてもらっていた。
 書いている人間が違うせいで、そうした齟齬は大量に生まれた。あるいはわざと赤点をとったのかもしれない。

 その手の展開はもちろん男子にとっては退屈そのもので、だから男子が書く回になると、毎回血が流れる。
 通り魔、交通事故、災害。さまざまな要因で不良は何度か死んだ。
 そしてだいたいの場合、次の回の女子が夢オチや奇跡を起こして不良の死を回避する。
 
 ちなみに俺は交通事故で不良を三回殺した。交通事故が俺のテーマなのだ、たぶん。知らないけど。

 ここに誰かが(たぶん部長だ)奇妙なつなぎを添えたせいで、最近ではちょっとしたループものになってしまっていた。


 俺はシャープペンを取り出してノートに向かった。
 前に続きを書いたのは、どうも女子だったらしい。ふたりが幸せそうにデートをしていた。

 ふむ、と俺は考え込む。そして書き始めようとしたところに、

「また事故ですか?」

 と部長が声を掛けてきた。

「……俺が書いてたって気付いてたんですか?」

「誰が書いてるのか、だいたい把握してますから」

 部長はあっさりとそう言って、ノートを覗き込んできた。

「どうして事故なんです?」

「俺のテーマなんです」

 部長は「そうなんですか」とどうでもよさそうに言った。
 いまいち何を考えているのか読めない人だ。


「事故が、ですか」

「はい」

「なぜです?」

 俺は少し考えてから、答えた。

「車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出すとするじゃないですか」

「はい」

「同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかりますよね」

「……はい」

「事故を避けるためには、どちらかが先に進むか、どちらかが止まるしかないわけです」

「つまり?」

「つまり……何の話でしたっけ?」

 部長は呆れたように溜め息をついた。俺はシャープペンを動かして不良を殺した。
 俺はそれからすぐに部室を後にして、学校を出た。
 商店街に立ち寄って挽肉を買い、家路を急ぐ。日々はあわただしい。




 翌朝もまた、俺はノックの音で目をさました。
 妹は俺を起こしてあっさりと部屋を出て行ってしまう。

 俺はその後ろ姿を見て、朝がきたのだという事実を自分の中でしっかりと消化して、ベッドを抜け出す。
 そうした単純な心理的・実際的な動作を意識的に行うことで、自分がどうするべきなのかをしっかりと把握する。

 顔を洗って歯を磨いて制服に着替えて朝食を食べる。
 
 食事の準備は朝と夜でそれぞれに分担していた。
 といっても妹はあまり料理をする方じゃないし、時間が余っているわけでもないから、朝はいつもトーストだ。

 マーガリンやらジャムやらチョコレート、バターにガーリック。実にいろいろなものを俺たちは試した。
 ときどきトーストに飽きて、目玉焼きやらハムエッグやらを作って白米で食べることもある。
 目玉焼きを作れるようになった妹はときどきトーストの上に目玉焼きを載せるようになった。

 朝食のバリエーションは多かった。変わらないのはふたりきりだという事実だけだった。
 そこがどうやっても揺るがないから、それ以外の部分を変えてしまいたくなって、いろんなトーストを試したのかもしれない。

 とにかく俺たちはふたりきりだった。



 
 チュッパチャップスをくれた例の女の子の名前を、俺は知らなかった。
 というより、知っていたのだけれど、なんとなくその名前を信用することができなかった。
 
 イメージとしての文字を思い出すこともできる。でも読みは合っているのだろうか? 漢字は? 発音は?
 なぜだかそういうことがすごく不安だった。

 だから、その日、朝の教室で偶然にもふたりきりで出くわしてしまったとき、少しだけ困った。

 彼女は勘のいい女の子で、たった数分話をしただけで、俺が彼女の名前を覚えていないということを看破してしまった。
 そして笑う。

「ろくに話したことなかったもんね」

 からっとした笑顔。

「仕方ないっちゃ仕方ないよ」

 てっきりその流れで名前を教えてくれると思ったんだけど、彼女はそうはせず、話を変えた。
 数学の授業がさっぱりわからないだとか、現代文の文章問題は内容を理解するのがむずかしいとか。
 ようするに学校の授業にさっぱりついていけない、という話。俺はちょっと拍子抜けした。


 あちらが話を変えたとはいえ、さすがに、名前を未知のまま放置するというのは据わりが悪い。
 そう思って名前を尋ねると、彼女は変なことを言った。

「当ててみて」

「え?」

「名前」
 
 俺は少し考え込んだ。漠然としたイメージはつかめているけれど、それで間違っていたら気まずい。
 だからといってまさか適当に言うわけにもいかないので、俺は彼女のネームをちらりと覗き見ようとした。

 彼女はそれを手のひらでさっと隠す。実にあざやかな手並みだった。
 俺はいまいちこの名前当てゲームの意義が掴めなかったけど、彼女の真剣な様子に少し笑った。

 かといって、そんな状況で本当に名前を当てられるわけがなかった。 
 仕方なく、俺は「こうだったよな」と思いながら彼女の苗字を当ててみた。
 それは当たりだった。彼女はちょっと感心したように手を叩いた。


「下の名前は?」と訊ねられて俺は困った。
 彼女はわくわくした顔で俺の答えを待っていた。自分の名前を玩具にしているのだ。
 俺は仕方なく答えた。

「アメ」

「アメ?」

 当てる気はなかった。

「……なんでアメ?」

「飴くれたから」

「適当だ?」

「適当だよ」

「でも、いいね、それ」

 アメ、アメ、アメ。彼女は三回そう繰り返した。いたく気に入ったようだった。
 初めて名前をつけられて喜んでるみたいに見えた。

「じゃあ、わたしのこと、アメって呼んでいいよ」

 べつに呼びたいと思っていたわけでもないんだけど、彼女が嬉しそうだったし、そうすることにした。




 飴……。

 妹が小学校にあがった年、俺と彼女は母親に夏祭りに連れて行ってもらった。
 母はいろんな夜店を回りながら、食べ物や飲み物やおもちゃを買い与えてくれた。
 当たらないと分かり切ってるクジだって引かせてくれた。射的だって金魚すくいだって。

 俺と妹はほとんどわめくみたいにはしゃぎながら祭り中を歩いた。
 母親は半歩さがった位置から、それでも決してはぐれないように、俺たちのことを見ていた。

 両手に物を抱えて持ちきれなくなって、母が背負っていたリュックサックもぱんぱんに膨らんだ。
 遊び疲れた俺たちに、母はリンゴ飴を買ってくれた。
 
 俺は右手にリンゴ飴を持ち、左手にサービスでもらった金魚の袋を掴んだ。

 賑やかな人の流れの中なのに、俺たちの声は特別大きく響いていた気がする。
 
 赤い飴。

 金魚は二週間後に死んだ。




「どうしたの?」

 アメの声で、自分が考え事をしていたことにようやく気付いた。
 なんでもない、と俺は言って、教室に人が増え始めていることに気付いた。

「今どんなことを考えてる?」

 アメはそんなふうに質問を続けた。

「どんなことって?」

「だから、何を考えていたってこと」

「飴のことだよ」

 彼女はちょっと息を呑んだ。俺はすぐに彼女の誤解に気付いた。

「ちがう。飴。お菓子の方」

「え? あ、ああ。飴?」

「飴」

 そもそも俺は彼女のことを「飴」ではなく「雨」のイントネーションで呼んでいた。
 そっちの方が人っぽく聞こえるから。慣れてないから仕方ないんだろうけど。


「どうして飴のことなんて考えてたの?」

「どうしてって、飴に関係のある話をしていたからだよ」

 彼女は納得したように頷いた。俺には彼女の思考回路がよく理解できなかった。

「飴は好き?」と彼女は訊ねてきた。甘いものはだいたい好きだよ、と俺は答えた。
 シュークリームもケーキもチョコレートも。でも縁がないんだ。

「じゃああげよう」

 と言って、彼女はまた俺に手のひらを開かせて、強引にチュッパチャップスを載せた。

「好きなの?」と訊ねると、「大好き」と彼女ははっきりした声で言った。
 その言葉と笑顔に俺はどきりとした。
 恋に落ちそうなくらい。落ちなかったけど(たぶん)。あるいは落ちたかもしれない。よくわからない。


 クラスメイトは続々と登校してきた。

「おい佐藤、朝から夫婦で登校か?」

「そんなんじゃないよ」

 なんて会話すら聞こえてきた。俺はそのやりとりを意識的に遮断した。
 耳にするだけで毒になる会話というのがあるものなのだ。

「どうしたの?」

 なんて、アメはきょとんとした顔で訊ねてくる。
 
「どうもしないよ」、と俺は嘘をついた。

 彼女は変な顔をしていた。




 アメは教室の様子なんて気にならないようだった。
 
 何人かの女子は物珍しそうに、俺と話をするアメの方を見ていた。
 物珍しそうに、というよりは、「ふうん、ああいうのが好きなんだ」とでも言いたげな目で。勘違いかもしれない。

 ともかく、そんな視線すらもアメは無視した。あまりにも綺麗に無視するのでこっちが気まずくなるくらいだった。

 はっきりいって(はっきり言わなくても分かるだろうが)俺は地味な男子だった。
 滑稽なことに最初から地味だったというわけでもない。四月までは割と明るかった。

 でもそれは、太陽の光を借りて月が輝いていたようなもので、まあ結局地味な奴は地味なのだ。
 こんな言い方をすると月に失礼かもしれないけど。

 アメの声はよく響く。そのわりに鬱陶しくない。耳にすっと馴染む。だからみんなアメの方を向く。
 だから俺は、名前は知らなくてもアメの存在はちゃんと知っていた。そのくらい目立つ子だ。
 そんな子が地味な奴と一緒にいる。すると、ただでさえ目立つ人が珍しいことをしているなあと余計に目立つ。

 俺の居心地は悪くなる。


「休みの日とか何してるの?」なんて、アメはとるにたらない質問のように言った。

「寝てるかな」

「寝てるの?」

「だいたいはね」

 彼女は少し笑った。ちょっと棘のある笑い方だった。もっとも彼女にそんなつもりはなかっただろう。
 人の笑みのさじ加減ひとつで傷ついてしまうくらい俺がナイーブだということだ。たぶん。知らないけど。

「それ以外は?」 

「本を読んでるかな」

「どんな?」

「どんな……?」

 俺は答えられなかった。なぜかは分からないけれど、とっさに答えが浮かばなかった。
 最後に読んだ本はなに、と訊かれたら答えられた。でも、どんな、と訊ねられると難しかった。
 俺はどんな本を読んでいるんだろう? 

「恋愛指南書かな」

 と俺は答えた。アメが大真面目に「えっ」という顔をしたので、俺は仕方なく冗談だということを明かした。

>>106>>107の間12レスほど飛んでたんでそっちから貼ります




 帰り道の途中、公園に通りかかったとき、ふと気になって中を覗くと、ベンチに女の子が座っていた。
 
 俺はそのまま通り過ぎようとしたけれど、なんとなく気になって、立ち止まる。
 少女は俺の方に気付いて、頭をさげてにっこりと笑った。

 技巧的な冷めた笑み。

「こんにちは」と少女はにっこり笑う。

 その笑みに、なんとなく居心地が悪くなる。なぜだろう?
 俺は返事すらできなかった。

 少女の膝の上には白い猫が丸くなっていた。
 猫には見覚えがある。でも、女の子に見覚えはない、ような気がする。

 彼女は俺の方を見上げてにっこりと笑った。


「このあたりの子?」

「そうだよ」

「こんなところで何をしているの?」

 俺が訊ねると、彼女は猫の背中を撫でながら答えた。

「猫と遊んでるの」

 見たままの答えが返される。
 
「そいつの名前、シロって言うんだ」

 俺がそう言うと、彼女はきょとんとした。

「飼い猫なの?」

「いや。野良。いつもここにいるから、俺がつけた」

「なにそれ。へんなの」

 彼女は楽しそうに笑った。技巧的ではない笑みで。俺はほっとした。


「きみ、名前は?」

 べつに特別な意図があったわけでもなく、会話の流れでそう訊ねてみただけなのだけれど、

「……名前?」

 彼女の表情は、凍りついた。
 鸚鵡返しの声すら、正常ではなかった。まるで「名前」という言葉の意味が分からなかったような。
「なまえ?」ではなく「ナマエ?」という感じだった。知っているはずの言葉なのに、意味を思い出せない、というような。

 俺の居心地はまた悪くなった。
 彼女はしばらく考え込んだあと、思いつきみたいに、

「シロ」

 と答えた。本当の名前を教えたくないんだろう、と俺は想像した。


「シロは、家に帰らないのか?」

 彼女はちょっと考え込んでしまった。

「まだ帰れないの」

「……家の鍵でもなくしたの?」

「まあ、そんなようなものかな」

「どこかに落としたなら、探すの手伝おうか?」

 彼女はおかしそうに笑った。

「いいんだよ。どうせ約束があったから」

 そこまできいてから、家に帰れないという割には、荷物を持っていないな、と、そんなことを考えた。

「約束?」


「人を待たせてるんだよ」

「……待ってるんじゃなくて?」

 待たせてるなら、さっさと約束の場所に行った方がいいのではないか。

「どっちだったかな。とにかく約束があるんだ」

 彼女は困ったように笑った。

「もう忘れられてるかもしれないけど」

 俺は奇妙だと感じたけれど、深くは訊ねなかった。何を訊けばいいのかもわからなかった。

「それより、お兄さん、今日、変わったことなかった?」

「変わったこと、って、どんな?」

「なんでもいいんだ。お兄さんの生活の中の、ちょっとした変化みたいなもの」

 俺は少し考えたけれど、何も思いつかなかった。



「……特にはないかな」

「うーん。そっか」
 
 彼女は考え込んでしまった。いったい何がどうしたというんだろう。
 俺は不意に自分が挽肉を持ったままだったことを思い出して、その場を離れることにした。

「それじゃあ」と俺が声を掛けると、「うん、またね」と少女は親しげに笑った。
 最初の、冷え切ったような技巧的な笑みはなんだったのだろう。

 あるいは、最後の笑顔すら、意図的に作り出した技巧的なものなのかもしれない。
 巧みすぎて気付けなかっただけで。

 俺は公園を出て、家へと急いだ。

 夏の日暮れはいつも物悲しい。




 夕飯を食べた後、ぼんやりと縁側から空を見上げていた。
 夕陽が沈み、外は真っ暗になっていた。
 
 空には星が浮かんでいる。

 ぼんやりと考え事をしていると、後ろから足音が聞こえた。
 
 振り向くと、妹が作り置きの麦茶と、それからコップを二つ持って、後ろに立っていた。
 彼女は俺の隣に腰を下ろすと、何も訊かずにコップに麦茶を注ぎ始める。

「星が綺麗だな」

 俺が声を掛けると、妹はどうでもよさそうに頷いてから、俺にコップを手渡した。

「ありがとう」

「どういたしまして」
 
 それから彼女は麦茶を啜って、ぼんやりと空を見上げた。
 俺も一緒になって空を見る。


「あれはオリオン座かな?」

「……オリオン座は冬の星座だよ」

 妹は呆れたように溜め息をついて、

「あ、流れ星」
 
 そんな声をあげた。追いかけて視線の先を見るが、動く光は見えなかった。

「ほんとに?」

「ほんと」

 なんだか損したような気分になる。べつに見れなくたってどうということはないはずなのに。
 けれど、そのまま空に視線を向けていると、わずかに瞬く光が、少しずつ動いていくのが見えた。

「あ、ほら」

「違うよ、あれは……」

 俺が言いきるよりも先に、妹も気付いたようだった。
 赤い明滅。

「……飛行機だよ」




 飛行機。
 
 飛行機は空を飛ぶ。

 空を飛ぶことができる。

 空を飛ぶことができるから、遠くまで行くことができる。

 とても大きいから、たくさんの人を乗せることができる。

 飛行機。

 そして、俺は飛行機ではない。

 だから、空を飛べない。




「誰かと喧嘩した?」

 ぼんやりと考え事をしていると、不意に妹がそんなことを言い始めた。
 昔から、こういうことに限ってはやけに鋭い。
 
 どうしてなんだろう? 彼女には分かってしまうのだ。
 それとも俺が、無意識に、彼女にだけは伝えているのかもしれない。

「喧嘩ってわけじゃないんだけどね」

 喧嘩ってわけじゃない。それはたしかだ。

「事故みたいなもんだよ。どっちかがブレーキを踏まなきゃいけなかったんだ。で、俺が踏んだ」

 それだけで、彼女はきっと、何かを察してしまったのだと思う。
 何か言いたげな顔で俺の方を見て、でも結局、何も言わない。

「それでいいの? お兄ちゃんもだけど、あの人だって……」

「べつにいいってわけじゃないよ、もちろん。でも仕方ないだろ。もっと悪い結果になりそうだったんだ」

 だからって、ブレーキを踏んでおいて平気な顔をできないのは、俺のずるさかもしれない。


「お兄ちゃんは、ひとりでいろいろ考えすぎだよ」

 妹は柔らかく笑った。その笑顔を見ただけで、体が軽くなったような気がした。

「違うよ。考えるのが嫌だから逃げてるんだ」

「……バカだなあ」

 妹と俺はひとしきり笑い合った。彼女はそれから、不意に俺の頬をつまんだ。

「なに?」

 とたずねると、彼女はにんまり笑って、「ばーか」と言う。

 俺はなんだか笑ってしまった。

「ハンバーグ、どうだった?」

 訊ねると、妹は「美味しかったよ」と本当か嘘か分からないようなことを言った。
「美味しかった」と彼女は俺の心を見透かしたみたいに繰り返して、頬から手を離した。

「いつもありがとう」と妹は言った。
「こちらこそありがとう」と俺は言った。

 こうやって言葉にしておかないと、俺たちはすぐにいろんなことを忘れてしまう。
 日々のあわただしさに呑まれてしまう。

この次に>>107->>116
次からのレスから>>116の続き




 昼休みに図書室に行くと、司書さんがカウンターの中で何かの書類を眺めていた。
 こちらに気付いて、彼女は「やあ」と手をあげる。常連だからとても気安い。

「……なんだか疲れた顔をしてるね?」

 俺の顔を見て、彼女は即座にそんなことを言った。
 隣に座っていた図書委員の男子が俺の方をちらりと見て、すぐに逸らす。鬱陶しそうな顔をしていた。

 疲れた顔。しているのだろうか? よくわからない。

「なんだか、最近、変な感じなんですよ」

「変な感じって?」

「頭がぼんやりするんですよ。何か忘れてる感じがする」

「寝不足?」

「まさか」と俺が言うよりも先に、司書さんは自分で否定していた。「きみにかぎって、まさかね」
 俺はちょっとむっとしたけれど、反論があるわけでもなかった。俺が寝不足になんかなるわけがない。

「じゃあ、眠りすぎてるのかもしれないよ」

「眠り過ぎ、ですか」

「うん。人間はやっぱり早寝早起きが一番ですよ」


 昼休みの図書室は結構賑わっている。
 たぶん三年の男子だろうか、四、五人で端の方に集まって、「火の鳥」を読んでいた。

 真剣な顔で黙々と「火の鳥」を読んでいる男子というのはちょっとかっこいいなあと思った。嫌味なく。
 たぶん退屈してるだけなんだろうけど。

「何かを忘れてる感じかあ」

 何の話だろうな、と思ってから、自分の言葉を思い出した。何かどころか五秒間に話した言葉すら忘れてる。
 地に足がついていない。

「健忘かもね」

「もしくは譫妄かも」

 冗談のつもりだったけど、彼女は笑わなかった。まあそんなもんだろう。
 
 今日はタイタンはいなかった。彼は彼で気まぐれに行動することが多いから、授業時間以外はあまり顔を合わせなかったりする。
 昼食を一緒にとったりすることはあるけど、それ以外の時間はほとんど一緒に行動しない。部活も違うし。

 ひょっとしたら花壇の水やりでもしてるのかもしれない。


「本、読んだ?」

 司書さんに訊ねられて、俺は借りていた本のことを思い出した。
 何を借りていたんだっけ。「ぼくらはそれでも肉を食う」だったかもしれない。

「まあ、ぼちぼち」

「ふうん。おもしろかったら教えてね」

「おもしろくない本なんてありませんよ」と俺は答えた。
「まさか」、と彼女は言った。価値観の相違。

「長い付き合いだけど、きみの好みってまだ分からないなあ」

 彼女は長い付き合い、と言ったけど、実際には四月から今までだから、せいぜい三ヵ月くらいだ。
 毎日のように顔を合わせているせいで、長くいるような気がするのかもしれない。俺もそんな感じがする。


「きみ、どんな本が好きなの?」

「おもしろい本」と俺は答えた。彼女は少し考えた。

「つまり、本ならなんでもいいってこと?」

「そうかもしれない」

 読書は睡眠と同じ種類の快楽だ。そして読書の優れた点は、いくら読んでも人から咎められないところにある。
 かといって、そのまま話を終わらせたら、なんだか気取ってるみたいでいやだったから、俺は付け加えるように、

「漫画って読みます?」
 
 と訊ねてみた。彼女はぼんやり頷いた。

「『フルーツバスケット』が好きなんですよ」

「十二支の奴? 『花とゆめ』の?」

「そう。その『フルーツバスケット』」


「ふうん。少女漫画好きなの?」

「あんまり」

「なにそれ」と、彼女は呆れたように笑った。
 
「じゃあ、小説なら?」

「あー……。『夜の来訪者』かな」

「……プリーストリーの?」

「そう。それ」

「……」

「なぜ黙るんです?」

「おもしろいけど……戯曲でしょ、あれ」

 今度は俺が黙り込む番だった。




 俺が「チェ・ゲバラ伝」を借りて教室に戻ると、アメが声を掛けてきた。
 何か用事かと思ったけれど、そういうわけでもないらしい。彼女は不思議そうな顔で、

「なにその本?」

 と訊ねてきた。

「ファッション」

 と俺は答えた。彼女は楽しげに笑った。

「おもしろいの?」

「読んでないから分からない。面白そうだと思ったから借りてきた」

「ふうん。どんなところが?」

 どんな本なの、と訊かれるかと思っていた。どんなところが、と訊かれてもうまく答えられない。 
 彼女はそういう訊き方をすることが多い気がする。


 答えに詰まったあげく、俺は本を開いて文章の出だしを読み上げて見せた。

「『人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。
 しかし、革命家で在り続けることは、歴史の上に革命家として現れながらも
 暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、
 さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである』」

「……え?」

「なんかかっこよくない?」

「なにそれ。そんな理由?」

「そんなもんだよ」

 彼女は笑って、片手で持っていた袋から一本ポッキーを取り出して、こちらに差し出した。

「はい」

「……くれるの?」


 本を持っていない方の手で受け取ろうとすると、彼女はさっと翻って指先を隠した。

「……なに?」

「あーん」

「は?」

「……」

「……」

「……あーん」

 からかっているわけでもなさそうだった。親しい間柄の人間には、似たようなことをしているのかもしれない。
 冗談の一種か、単なるコミュニケーションの一環か。とにかくなんでもいいんだけど……。

 なんとなく、気味が悪い。


 俺は視線だけで周囲の様子をうかがった。時間が経つにつれて注目が集まっている。
 それでも気にしている人間なんて、ごく一部だったけど。

 そうこうしているうちに、アメは段々不安そうな顔つきになっていった。
 
「いらないの?」

 唇をかすかに持ち上げてそんなことを言っていたけれど、その調子もどこか緊張している。
 俺は仕方なくポッキーにかじりついて、そのまま彼女の指から引き抜いた。

 彼女はほっとした様子だった。

「この、焦らし上手」

 なんて笑っている。ことさら、軽い雰囲気を装って。
 やり慣れないことをしたから、もちろん気恥ずかしさはあった。 
 でも、そういうのとはべつに、もっと根本的な居心地の悪さがある。


 鍵のお礼と言って飴をくれた日から、彼女はやけに俺について回るようになった。

「野良猫だって餌をもらっただけじゃなつかない」

 と皮肉と戸惑いが半々くらいの気持ちで俺が言うと、

「わたし、安上がりな女だから」

 なんて胸を張っていた。
 あんまり大きくないから微妙に痛々しいな、と思うと、見透かされたみたいに頭を叩かれた。

 俺が席まで戻ろうとすると、アメは俺の後ろをついてきた。
 俺が椅子に座ると、彼女は机に座ってポッキーをかじりはじめた。

「椅子は座るところじゃない」

 と俺が言うと、

「椅子と机の違いなんて、大きさくらいのもんだよ」

 と得意げな顔で言った。


 クラスメイトの視線も気にせず、俺の気持ちさえ気に掛けず。
 彼女は振る舞いたいように振る舞っているように見えた。
 
 あるいは違うのかもしれない。
 彼女には彼女なりの怯えみたいなものがちゃんとあって、そういうものと戦いながら俺の近くにいるのかもしれない。

 何のために? それはよく分からなかったけど。

「どうして俺の机に座ってるの?」

「きみと話がしたいから」

「どうして?」

 彼女は押し黙った。顔が少し赤くなったような気がした。
 俺はその様子を冷めた気分で眺めていた。他人事のような気持ちで。
 鼻で笑ってしまいたいくらいだった。 

 そういうやりとりのひとつひとつが、どうしてだかわからないけど――すごく気持ち悪い。

139-9 椅子 → 机
>>128>>129の間、まだ1レス抜けてたんで貼ります


「本当に、星がきれいだね」

 感心するように、妹は呟いた。

「嘘みたいにきれいだ」
 
 俺は視線を空から落として、麦茶を啜った。

「眩しいくらいだな」

「うん」

 嘘みたいな星空。嘘みたいな。

 俺は溜め息をついた。

「ずっと見てると、首が疲れるね」

「情緒がないなあ」

 妹は溜め息をついた。

以下>>140の続き
>>81の重複もミスです




 アメは放課後も俺につきまとった。

「部活は?」と訊ねると、「帰宅部だもん」とあっさりと言う。まあそれは別にいい。

「ね、どっか寄っていかない?」
 
 あげくの果てにそんなことまで言い出したから、俺は段々怖くなってきた。
 
「悪いけど、俺は部活があるんだよ」

「うっそだあ。きみが部活とかやってるとこ、見たことない。何部?」

「文芸部」

「そんなのあったんだ。どんなことしてるの?」

「日陰で考え事をしたり、こそこそ話したりするところ」

 古びた紙の匂いと日に褪せたカーテン。悪い場所ではない。
 悪い場所ではないけど、ちょっと人を選ぶ。場が人を選ぶということもあるものなのだ。


 てっきり「ならしかたないね」とか言って諦めてくれると思ってたのに、アメはちょっと興味を示していた。
「ふーん」なんて言いつつ、意味もなく頷いてる。

「ちょっと興味あるなあ」

「好奇心は猫をも……」

 言いかけたところで、頭が烈しく痛んだ。眩暈と耳鳴りを伴う鋭い痛み。
 途切れた言葉の続きを、アメは首を傾げて促す。

「猫をも?」
 
 じくじくという痛み。

「猫をも殺す、っていうことわざがあるよ」

「さすが文芸部員。変な言葉知ってるね。どういう意味?」


 どう考えても一般常識の範疇だったけど、俺はそれについては何も言わなかった。

「何にでも首を突っ込んでいたら、命がいくらあっても足りないって意味」

「……そんなに危険なの? 文芸部」

 もちろん文芸部は危険な場所じゃない。そんなのは誰だって知ってる。

 はっきり言わなければ伝わらないのだろうか?
 あるいは、分かっていて無視しているのか?

 俺はしばらく考え込んだけれど、結局、まあいいか、と思った。
 溜め息さえ出ない。

「じゃあ、見学するといいよ。たいしたことしてるわけじゃないけど、人は結構いるしね」

「うん、そうする。ありがとう、ヒメ」

 アメは当たり前みたいに俺のことを呼んだ。
 まるでずっとそうしてきたみたいに自然に。それが彼女の距離感なのかもしれない。




 部室には結構な人数が集まっていた。
 落ち着いて話ができる場所だからか、男女問わず集まりがいい。
 
 熱心に活動している人間はそんなに多くないけど。

 部室に入ると同時に、部長がちらりとこちらに視線をよこした。
 それから俺の後ろについてきたアメに気付き、頭を下げて立ち上がる。

「そちらは?」

「見学したいそうです」

 部長は不思議そうな顔をした。無理もない。
 アメは俺の背中越しに、遠慮がちに部長に頭をさげた。

「歓迎しますよ」と部長は大人みたいに笑った。

「どんなことをしてるんですか?」

 とアメが訊ねる。部長はちょっと困った顔をした。


「テニス部はテニスをする」

 俺がそう言うと、アメは首をかしげた。

「サッカー部はサッカー、野球部は野球、カヌー部はカヌー、吹奏楽部は吹奏楽」

「……だから?」

「文芸部は文芸するに決まってるだろ?」

「……だから、文芸ってなにさ?」

「哲学的な疑問だな」

「テツガクってのも、なんだかわかんないけど」

 聞き流しつつ、俺は部室の壁際に置かれた戸棚に歩み寄り、中から辞書を取り出した。

「えーっと……」

「……ヒメも分かんないんじゃん」

「再確認する意義のありそうな疑問だったってことだよ」

「どうだか」

 俺たちのやりとりに、部長がくすくすと笑っていた。


「えーっと……。『言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学』」

「文学ってなに?」

「……『思想や感情を、言語で表現した芸術作品。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など。文芸』」

「よくわかんないけど、つまり、思想や感情を、言語で表現する部活ってこと?」

 俺とアメはたっぷり五秒くらい目を合わせたまま沈黙した。

「そうなんですか? 部長」

 俺が訊ねると、部長は困った顔をして首を傾げた。

「さあ、どうなんでしょうね?」

「そもそも芸術ってなに?」

 アメの問いかけは単純であるがゆえに深遠だった。俺はアメに辞書を手渡した。

「答えはそこにある、かもしれない」

 あるいはないかもしれないけど。
 アメは困った顔をしていた。




「誰かが続きを書き足していたみたいですよ」

 と言って、部長が俺にノートを渡した。
 俺はしぶしぶ受け取って、それを開く。アメが後ろから覗き込んできた。

「なにそれ?」

「思想と感情の発露だよ」

 適当なことを言いながらパイプ椅子に腰かけ、新しいページを開く。

 俺が最後に書いてから、書き足したのは、二人くらいだろうか。 
 交通事故で不良が死に、主人公が意識を失う。再び目を覚ますと死の三日前にさかのぼっている。

 実際に起こったことを「嫌な夢」として処理し、ごく当たり前のように生活をしようとする。
 というところで、主人公の身を襲う奇妙な既視感。主人公はループに勘付きはじめる。

「これ書いたの部長ですか?」

 俺が訊ねると、彼女は曖昧に笑って首を傾げた。話を動かせるのはこの人くらいのものだ。 
 他の奴が書いていたら延々とループしているだろう。


 と思ったのだけど、部長が(おそらく)書いたものの次もまた、話が進んでいた。

 思想と感情の発露、というのはある意味正しい。

 稚拙であれ精巧であれ、少なからずその人の思想、価値観というものが、物語には現れる。

 写実的であるべきだと考えれば写実的に、劇的であるべきだと考えれば劇的に。
 寓話的であるべきだと考えれば寓話的に、現実的であるべきだと考えれば現実的に。
 暗喩的であるべきだと考えれば暗喩的に、直截的であるべきだと考えれば直截的に。
 芸術的であるべきだと考えれば芸術的に、娯楽的であるべきだと考えれば娯楽的に。
 そのようにして、書いている本人すら無意識のうちに、表出してしまう。

 人を殴ることなど何の問題にもならないと思っている人間が書けば、人を殴ることは日常の範疇だ。
 けれど、人を殴ることは悪だと考える人間が書けば、人を殴ることは一大事件として、物語の中で扱われる。
 
 ごく当然の話として。

 そして、「続き」はちょっと重かった。ループの事実に気付いた主人公が、不良の死をすごく重くとらえている。
 すごく重く。ちょっとシリアスすぎる。
 
 主人公は不良の死を繰り返すうちに、死が訪れるタイミングの法則を導き出す。
 そして、不良の代わりに自分が死のうとしてしまう。


「おおう……」
 
 と思わず声が出た。部長は俺の様子を見て、くすくすと笑う。

「部長、これは……」

「わたしじゃありませんよ」

 自分じゃないときは、彼女はちゃんと否定するのだな、と思いつつ、話を続ける。

「なんですか、この展開は」

「リレーですから。予想外の展開をたどるのは仕方ないです」

「部長、我々の部は「携帯小説部」に改名するべきかもしれません」

「……ひねくれてますね」

 部長は呆れたように溜め息をついてから、にっこりと笑った。

「文芸部初の共同制作作品が、ついに完成間近っぽい雰囲気なんですよ。祝いましょう」


 アメは、「なにが悪いの?」という目で俺の方を見た。べつに悪いと言っているわけじゃない。
 
「……まあ、落としどころとしては、こんなもんですよね」

 俺の言葉に、部長は満足げに頷く。

「行先の分からないリレー小説にしては、けっこうまとまった方ですよ。みんな頑張りました」

「ヒメが何を言いたいのか、よくわかんないな」

 アメはそんなことを言いながら、俺の手からノートを奪って、ぺらぺらとめくりはじめた。

「何か駄目なの、これ?」

「べつに。好みの展開じゃなかったってだけ」

「リレーですから、仕方ないですね」

 部長の言葉に頷く。リレー小説を結末まで書き切って、心から満足できる参加者はごく少数だ。
 だいたいの人間は「自分ならこうするのに」という気持ちを抱くことになる。

 そして、「自分ならこうする」と実際に書き始める人間だけが、何かを完成させることができる。


「気に入らないなら、ひとりで書くしかないです」

 俺は部長の言葉にもう一度頷く。
 アメはやっぱり納得がいかないというように、首を傾げつつノートに目を落としている。

「やっぱりわかんない。何が気に入らないの?」

「べつに、たいしたことじゃないけど……」

「……なに?」

 仕方なく、俺は口に出した。

「なんとなく、気持ち悪いんだよ」

「……なにそれ?」

 アメは怪訝そうな顔をしていた。




 俺はしばらくノートに向かって、続きを書くか書かないか、迷っていた。
 でもやめた。いろんな奴がいろんな考えに従って書けるのが、リレー小説のいいところだ。
 だからといって、和を乱してまで自分の考えを押し通そうとする必要はない。

 所詮は交流手段でしかないんだから。

 ノートを閉じて所定の位置に戻していると、部長と目があった。

 彼女はいつも使っている茶色い手帳に、何かを書きこんでいる。

「ヒメくん、知ってます?」

「はい?」

 どうでもいい話だけど、部長は俺のことをヒメというあだ名で呼ぶ。
 このあだ名を使っているのは小学校からの付き合いの奴ばかりなんだけど。
 部長は誰かからそれを聞いて気に入ったらしく、俺をそう呼んでいる。

「うちの市のどこかに、廃墟になった洋館があるって話」

「なんです、それ?」


「五年くらい前だったと思いますけど、分かりませんか。小学生の女の子二人が誘拐されて……」

「殺された事件ですか」

 部長は頷いた。

「犯人らしき男も死体で発見されたって奴ですよね」

「はい。で、その犯人が、監禁場所につかったのが、その洋館だったって話ですよ」

「うちの市だってことは知ってましたけど、廃墟っていうのは初めて聞きました」

 アメが、物騒な話をしてるなあ、と言いたげな目で俺と部長を見ていた。

「どこかの森の中の、廃墟の洋館だって話です」

「うさんくさいですね」
 
 部長は頷いた。

「ヒメくんなら詳しい話を知ってるんじゃないかと思ったんですけど、やっぱり分かりませんか?」

「生憎、初耳です」

 部長の中の俺のイメージが微妙に気になったが、あまり気にしないことにした。


「そんなこときいて、どうするつもりだったんです?」

「個人的に興味があるんですよ。もうすぐ夏休みだし、せっかくなら行ってみたいなあって」

「……人が死んだ場所に?」

「というより、廃墟とか、洋館とか、一度は見てみたいじゃないですか。人が死んだのは嫌ですけど」

 彼女はちょっと興奮気味に握り拳を作った。

「『森の中』で、『廃墟』で、しかも『洋館』で、こんな言い方したら怒られるかもしれないですけど、『いわくつき』ですよ?」

「……不謹慎だなあ。数年前の出来事ですよ」

「いえ、いわくつきって言っても、そっちじゃなくて。なんでもその洋館には、『出る』って話です」

「……死んだ女子小学生の霊がですか?」

 そっちじゃないですってば、と彼女は重ねて否定した。

「もっと、別の何かですよ」

 俺はさすがに呆れた。




「普段、どんなことしてるんですか?」

 俺に訊いていたら話が進まないと思ったのか、アメは部長に対してそんな質問をぶつけた。

「雑談です」

 と部長はあっさり答えた。
 
「えーっと。……『文芸』は?」

「みんな書いてますよ。雑談しつつ」

「どっちがメインですか?」

「八対二で雑談ですかね」

 部長の話も、なかなかに皮肉っぽいなあ、と俺は横で聞きながら思った。
 アメはなんだか落ち着かないような顔をしている。


「つまり、茶飲み部なんですか?」

「よく気付きましたね」

 部長はにっこり笑う。アメは詐欺にでもあったような顔をしていた。
 それにしても、部室の中はもやもやとして暑苦しい。
 窓を開けないのだろうか? 俺はどうせすぐに出て行くつもりだから、いいんだけど。

 アメはまだ何か納得いかないような顔をしていた。

「どうしたの?」

 気になって訊ねてみると、彼女は言いにくそうに口をもごもごさせた。
 それでも言葉を待っていると、なんだか居心地悪そうな顔で、うつむきがちに口を開いた。

「なんていうか、それでいいのかなあって思って」

「帰宅部に言われてたら世話無いな」


「そういうんじゃなくてさ。ただそう思っただけなんだけど」

 アメはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、うまく言葉にできないようだった。

「何か言いたいことがあるのなら」と部長は笑った。

「文芸部に入って、それを文章にしてみませんか?」

 テレビのコマーシャルみたいな器用で技巧的な笑み。
 この人の笑顔はどことなく信用できない。

 アメはしどろもどろになりながらも「あ、いや、その」とかなんとか言ってる。
 五分くらい放っておいたらホントに入ってしまいそうだ。

「そんなに難しく考えなくていいんですよ。実質茶飲み部ですし」
 
 部長の言葉が皮肉っぽく聞こえるのは、俺の性格のせいなのだろうか。

「昼寝部として使ってる人もいますしね」

 言いながら、部長はちらりと俺を見た。雑談が活動の八割を占める部で雑談する相手がいないなら寝るしかない。
 いや、相手がいても寝るんだけども。


「……考えておきます」

 アメがそういうと、部長は「こんなところか」というふうに笑うのをやめた。
 笑顔と笑顔の間に、ときどき、退屈そうな、断絶めいた無表情が挟まる。
 すごく短い間だから、気付かない奴は気付かないだろうし、大抵の奴は気付いても気のせいだと無視するだろうけど。

 部長はときどき、そういう顔をする。
 目の前で起きてることなんて、どうでもよさそうな顔。

 それがパッという笑顔に変わる。

「そうだ。試しに文集とか読んで行きませんか? 去年の文化祭で発表した奴とか」

 まるで思いつきみたいな適当な発言。

「読んでいったら? 俺は帰るけど」

 と俺が言うと、アメの困り顔は二割くらい深刻さを増した。

「ちょ、っと。なにそれ。待ってよ」

 俺が鞄を持って立ち上がると、アメは慌てながら部長に頭をさげて、丁寧に断りを入れていた。
 こいつの行動原理というものが掴めない。


 部長は残念そうな顔をした――というよりは、作った、というふうに見えた。
 それから笑った。

「しかたないですね。興味があったら、また今度きてください。わたしはいつもいるので、歓迎しますよ」

 ありがとうございます、とアメは頭を下げたけれど、自分の調子を崩されて戸惑っているようだった。

「それじゃあ、俺は帰りますね」

「もうちょっといてください。寂しいじゃないですか」

 部長はあからさまな嘘をついた。俺は彼女が嘘をついていると分かった。 
 彼女は俺が嘘を見抜いていると気付いていた。

「そんなことを言われるとどきどきしてしまいます」

 なんだか冷めた気分でそんな冗談を口に出すと、部長も冷めた感じに笑った。




「変な人だね」

 部室を出て廊下を歩いていると、不意にアメがそんなことを言った。

「誰のこと?」

「部長さん」

「べつに変な人じゃないよ」

「そう?」

「ちょっと機嫌が悪かったんだろ」

「……そんなふうには見えなかったけど」

「そうかもね。ところで、いつまでついてくるの?」

 階段を下りながら訊ねると、アメは意外そうな顔をした。

「あ、一緒に帰っちゃ駄目?」


「方向違うだろ」

「途中まで一緒だよ、たしか」

 階段を一足とびで下りきって振り返ると、アメはリズムに乗るように上下に小さく跳ねながら、俺が追いつくのを待った。

「駄目かな?」

「別にいいっちゃいいんだけど」

 言葉の途中であくびが出そうになって、俺は顔を背けて噛み殺した。

「寝不足?」

 しっかりとみられている。まあ隠そうとしたわけでもないんだけど。

「人とたくさん話した日は、眠くなるよね」

「誰とそんなに話したの?」

 彼女は無邪気な顔で首を傾げた。俺は目の前の女の子のことがちょっと憎らしくなった。


「一緒に帰るのはべつにいいけど、俺、用事あるから」

「なに? 用事って」

 怯まない奴だ。ブレーキが壊れてるのかもしれない。
 下駄箱まで歩く間も、アメはつかず離れずの距離を保っていた。

「買い物」

「何買うの?」

「夕飯の食材」

「自分で作ってるの?」

 俺は靴を履きかえながらその言葉を無視した。

「スーパーに寄ってかなきゃいけないんだ」

 彼女はちょっと考えるような素振りを見せてから、

「じゃあ、わたし、ついていってもいい?」

 そんなことを言った。


 俺はいいかげん怖くなってきた。

「あのさ、俺ときみ、そんなに仲良かったっけ?」

「え?」

「一緒に帰ったりさ。放課後部活までついてきたり。そんなことするくらい仲良かった?」

 もっと怯えたような顔をするかと思ったんだけど、アメはきょとんしただけだった。
 
「なんでいきなり、俺につきまとうんだ?」

「なんでって……」

 じっと目を合わせると、彼女はちょっと慌てたように顔を背けた。
 
「好きだから」

「……は?」
 
「……」

「……」

 彼女は言葉を重ねなかった。




 俺が昇降口を出ると、アメも慌てて靴を履き替えて追いかけてきた。
 校門を出ていこうとすると、彼女も当然のようについてくる。

 太陽はまだ暑っ苦しい光線をまき散らしている。グラウンドから野球部の掛け声。
 
「自転車は?」

 俺は半ば諦めながらアメに訊ねた。

「え?」

「自転車通学なんだろ?」

「あ、うん。今日はいいや。バスで帰る」

「バスで来たの?」

「ううん。朝は自転車だったけど」

 何を考えているのか分からなくて、いっそ眠たくなってきた。
 まあ、思い返してみれば、人の気持ちなんてわからないものなのかもしれない。

 どうでもいい話だけど。




 商店街には寄らずに、帰り道の途中にあるスーパーで買い物を済ませる。
 冷房のきいた店内が、夏の街並みとのギャップで天国にも感じられる。

 アメは俺の横をとことこ歩きながら、物珍しそうな顔であちこちを眺めていた。

 まさかスーパーに入ったことがないわけでもないだろうけど。

「晩ごはんなに?」

 と、彼女は自分が食べるわけでもないのに訊ねてきた。

「カレー」

 仕方なく答えると、「ふーん、カレーかー」と感心したように息を吐いている。
 ひどく落ち着かない。

 そういえば、サラダ油とキッチンタオルが切れかかっていた。米はまだある。
 まだ、何か買わなければいけないものがあった気がする。

 なんだったっけ……?

 結局思い出せないまま店を出た。




 店を出て、帰路につく。
 分かれ道が来て、アメはようやく俺から離れる素振りを見せた。

「それじゃ、また明日」

 彼女はにっこりと笑った。
 俺はその笑顔をなんだかうさんくさく感じた。
 
 部長の笑顔は――分かりやすい。
 嘘をついている、作り物めいている、と分かる。わざとらしい笑み。
 だからむしろ、親密さを感じる。

 でも、アメの笑顔には嘘っぽさがない。衒いがない。わざとらしさがない。
 俺みたいな奴には、そういう笑顔の方が、よっぽどうさんくさい。

 アメの後ろ姿を見送りながら、俺は彼女の言葉を思い出す。

『好きだから』、とアメは言った。
 
 リアリティのない冗談だ。


◇ 

「本当に好きなんじゃない?」

 夕飯の準備をしながら雑談のつもりでアメのことを話すと、妹はそんなことを言った。

「だったら尚更、リアリティが欠けてる」

「実際に起きたことにリアリティを求めるって、倒錯してると思うよ」

「冗談かもしれない。うそかもしれない」

 妹は溜め息をついた。

「そうかもね」

「落し物探しを手伝ったくらいで人が人を好きになるはずがないだろ」

「もっと前から好きだったのかもしれないよ」

「仮にそうだったとして、どうして今更話しかけてくるんだよ」

「きっかけが欲しかったのかもね」

 食卓に皿を並べている間、妹はスプーンを握って準備が終わるのを待っていた。
 家事は完全分担である。


「リアリティがない」

「なに、リアリティって」

 カレーライスの皿を置くと、妹は手をあわせて「いただきます」と小さく呟いた。
 手を洗ってから、俺も自分の席に着く。

「まだドッキリだって言われた方が信用できるな」

「どうして?」

 俺は答えなかった。アメの行動は、俺をいちいち不安にさせる。
 気味悪さ、居心地の悪さ、居たたまれなさ、そんな感覚すら呼び寄せる。

 その理由は、なんとなく自分でも分かりかけていた。

 彼女の行動には「怖さ」がないのだ。


「たとえば、おまえに好きな男がいるとするだろ」

 妹はちょっと困った顔になった。

「いないけど」

「仮定。で、おまえはその男子に対して、分かりやすく自分の好意を伝えようとする?
 たとえばお菓子を自分の手で直接食べさせたりさ。もしくはそんなに直接的じゃなくてもいい。
 何の用事もなく話しかけたり、理由もなく一緒に帰りたがったりする?」

「……しない。機会があったら、するかもだけど」

「どうして?」

「だって引かれそうだし、恥ずかしいし」

 そういう現実的な感覚が、アメの行動には欠如している。
 だから、全部嘘だと言われた方が、俺にはよっぽど納得がいく。

 彼女は俺のことが好きだという。そう言われてみれば、と思うような行動もとっている。
 でもそこには、リアリティが欠けている。


「リアリティが欠けてるんだよ」

「でも、もし本当だったら?」

 妹の言葉に、俺は黙り込んだ。

 あるいは、俺が見逃しているだけで、アメの行動にもそうした感覚は付随しているのかもしれない。 
 現実感が足りないのは、俺の感覚の方なのかもしれない。
 俺がそうした行動から、実感を見出せないだけなのかもしれない。

 そうだとすれば、俺は彼女に対してかなりひどい態度をとったということになる。
 
「……なんとなく、信用ならないんだよ」

 質問に対しての答えではなく、思考の果ての結論として、気付けば俺はそう口に出していた。

「ところでさ」と、妹は不意に冷たい声を出した。

「このカレー、レトルトだよね?」

「……」

 二個セットで160円だった、二人分に鍋を使うのも手間だし片付けが面倒だ。
 そう説明しても、妹の機嫌はなかなか直らなかった。




 起きろ、と誰かが言っている。
 俺はその声を聞いている。確実に。呼びかけに応じて、意識がかすかに浮上する。

「起きろ、ヒメ」

 そして目をさますと、俺は教室の自分の席に座っていた。

「次、移動教室だぞ」

 声を掛けてきたのはタイタンだった。俺は気怠さに包まれながらも体を起こす。

「……俺、寝てた?」

「ばっちり寝てた」

「……いつから寝てたんだろ」

「さあ?」とタイタンは肩をすくめた。
 
 しっかりと眠っているはずなのに、眠気が取れない。


「疲れてるのか?」

「疲れるようなことはしてないはずなんだけどね」

 答えてから、タイタンの質問に違和感を抱く。

「……疲れてるもなにも、俺が寝てるのなんて、いつものことだろ」

「自分で言うなよ」
 
 タイタンは溜め息をついた。俺はあくびをしながら窓の外を眺める。
 太陽は南の空から俺たちを見下ろしている。

「日差しがまぶしいなあ」

「夏だからな」

 当たり前みたいな調子で、タイタンは返事をくれる。

「太陽の日差しって、あんまり眩しくて、眠くならない?」

「……悪いが、さっぱりわからない」

「あ、そう」


 体が無性にだるかった。嫌な夢を見ていたような気がする。

「タイタンはさ、好きな女子とかいる?」

 俺が訊ねると、彼は目を丸くして驚いた。

「なに、急に?」

「べつに。なんとなく」

 ふうん、という顔をして、彼は考え込んだ。

「そういえば、いないな」

「なに? そういえば、って」

「意識してみれば、って意味だよ。普段考えたことなかった」

 へえ、と俺は思った。
 まあたしかに、彼は野球部の新入部員として白球を追いかけるのに夢中だ。
 まだ入学して何ヵ月も経ったわけではない。考えて見れば、べつに不思議な話でもない。


「どうして急にそんな話をするんだ?」

「べつに」

「何かあったの?」

「あったと言えば、あったかな」

 答えながら、俺は辺りの様子をぼんやりとうかがう。
 教室に残っている生徒は、だいたい半数くらい。残りはもう移動しているんだろう。

 いくつか知った顔もあった。そのうちの二人とは目もあったけど、俺は逸らした。
 俺だって本当なら器用に笑いかけるくらいのことはやりたかったけど、タイミングを逸してしまったのだ。

 彼らはちらりと俺の方を見てから、何事もなかったみたいに教室を出て行った。
 
 タイタンは呆れたみたいに溜め息をついたけど、俺はそれを無視して立ち上がる。

「移動教室だろ。俺たちも行こう」
  
「はいはい」

 とタイタンはどことなく投げやりに言った。




 放課後になってすぐ、アメは当たり前みたいに俺に話しかけてきた。

 朝から一度も話しかけられなかったら、やっぱり何かの冗談だと思っていたのに。
 彼女の態度は、昨日までと何も変わらない。

「今日も部活?」

「まあね」と俺は言った。
 普段からそんなに頻繁に参加しているわけでもないけど、夏休みが近いし、なんとなく顔を出しておきたい。

「一緒にいってもいい?」

「好きにしなよ」

「ありがとう」

 アメはお礼を言ったけど、それはどう考えても変だった。
 どうして彼女が俺に感謝したりするんだろう。




 部室にはやっぱり部長がいて、部長はいつもみたいに笑って、昨日みたいにアメを歓迎した。

「今日も来てくれたんですね」

 部長は嬉しそうに笑って、アメに駆け寄って、彼女の手をとって軽く上下に振った。
 アメは相変わらず部長のテンションに戸惑っている。

 俺はそのやり取りを無視して定位置に腰かける。
 
 ノートを開く。物語は鮮やかに完結していた。
 不良を庇って車に轢かれた主人公は意識不明の重症になる。
 
 集中治療室の前で長椅子に腰かけたまま、祈るように俯き涙を流す不良。
 そして奇跡。主人公は目を覚ました。

 当たり前みたいにループが終わる。


 ループがなぜ起こったのかなんて、物語の中ではふれられない。
 ループは「書く側」が思い通りの展開にするために起こった。
 不良を死なせたくないと「書く側」が思ったから、起こった。

 だから、不良が死なず、主人公も幸福であれば、ループは起こらない。
 そして、また新しい不幸が書き足される前に、誰かが幸せなまま完結させてしまった。

 不良は主人公を見舞って、庇われたことを気に病んで、謝る。
 主人公は不良が生きていることを喜び、幸福を噛みしめる。

 術後の回復は奇跡的で、主人公はあっというまに退院する。
 不良は主人公をいい女だなあと思い、ずっと一緒にいて大切にすると誓う。
 そして彼は、茶色かった髪を黒く染める。

 おしまい。


 誰が書いたのかは知らないけど、まあこんなものだろう。
 最後のページの下の方には、「みなさんお疲れ様でした」との書き込み。たぶん部長だろう。
 完結させた奴とは筆跡が違う。

 次のページは白紙だった。

「お疲れ様でした」

 と部長は俺に後ろから声を掛けてきた。

「大作でしたね」

「はい」

 部長はにっこり笑う。

「百万部は売れる」

「ヒメくんは、キャッチーなものが嫌いですか?」

「キャッチーなものが、俺を嫌いなんですよ。悪いっていいたいわけじゃない。馴染めないんです」

 部長は困ったふうに笑った。


「でも、この終わり方は――誰が書いたか知らないけど、いいと思いますよ。
 俺は幸せそうな人たちを見ると、それが物語だって分かってても泣けてくるんですよ。
 こういうのだって別に悪いわけじゃない。でも、ただ、他人事なんです」

「他人事じゃない物語って、どんなのですか?」

「少なくともループはしないでしょうね」

 あるいは、ループしたところで何も変えられない物語。

「とりあえず、わたしにわかるのは」と、彼女は棘のある、それでもどこか楽しそうな声音で言った。

「きみがとてもひねくれてるってことだけですね」

 部長にそんなことを言われるとは思っていなかったから、俺はちょっと傷ついた。

「俺は俺なりに、すごくまともですよ」




「ねえ、土曜日って暇?」

 昇降口を出たとき、当然のように俺と肩を並べて、アメはそう訊ねてきた。

「暇だけど」

「じゃあ、映画観にいかない?」

「映画?」

「気になってるのがあるの。ほら、今CMやってる奴」

 彼女が挙げたタイトルは、最近本屋で平置きされてる日本の小説を原作にした恋愛映画だった。
 まあ、学生が見に行くにはちょうどいい、気軽な感じの奴。たぶん笑いあり涙あり。

「あのさ、だから、どうして……」

「どうして、つきまとうの、って?」

 俺はアメの顔を見た。彼女は真剣な顔をした。

「もう言ったよ。わたし、好きだって」


 彼女の表情は真剣そのもの、のように見えた。
 俺にはよく分からなかった。

「本気で言ってるの?」

 俺はそう訊ねた。自分でも、なぜそこまで彼女を疑わしく思うのか、分からない。

 理由がない。
 彼女が俺を好きになる理由がない。

「本当だよ」

 と彼女は言葉を重ねた。それから俺の目をまっすぐと見据えてくる。

「好きって、なんだよ」

「好きは、好きだよ」

 アメは照れくさそうに笑った。顔を頬を赤らめて。拗ねるみたいに目を逸らして。
 俺は、彼女が怖かった。


「それで」

 と彼女は言葉を続ける。

「映画。どうかな?」

 俺は、気付けば頷いていた。
 彼女は嬉しそうに笑って、具体的な時間と待ち合わせ場所を提示してきた。
 
 夕陽が街を照らしている。
 
 自分の身に今起こっていることが、信用できない。
 これは夢じゃないのか。そう思った。

「今すぐじゃなくたっていいし、すぐに信じてくれなくてもかまわない。わたしも唐突だったし」

 でも、と彼女は続ける。

「わたしはヒメのことが好きだし、できたら、付き合いたいって思ってる。返事は、すぐじゃなくていいけど」

 時間が経てば経つほど、俺の頭は混乱していった。自分が何を問題にしているのか、それすら分からない。
 不愉快なわけじゃない。でも、信用できない。心が開けない。

 何が問題なんだろう?




 家に帰って、自室のベッドに寝転がっていた。
 アメと話すようになってから、俺の頭はぼんやりとして落ち着かない。

 ずっとざわついている。

 開け放した窓から吹き込んでくる夏の風は、俺の部屋の埃っぽい空気を入れ替えていく。
 
 階段を昇る足音。
 追いかけるようなノック。

「お兄ちゃん? 寝てるの?」

 妹が帰ってきたのだ。
 ということは、もう時刻は六時を過ぎているんだろうか?

 目を開けてみると、部屋の中は薄暗くなってしまっていた。
 どれくらいのあいだ、横になっていたんだろう。


 体を起こすと、妹は呆れたみたいに溜め息をつく。

「帰って来てないのかと思った。なにかあったの?」

 俺は答えあぐねた。何か、聞いてほしい話があったような気がする。
 でも、それは言葉としてまとまる前に、塵のようにばらばらになって、形が分からなくなる。
 残るのはなんとなくの印象と、鬱陶しいような憂鬱だけ。

「なんでもないよ」

 と俺は答えた。それからベッドを抜け出す。妹は部屋の入口に立っていた。
 廊下の灯りが暗い部屋の中に差し込んで、光と影を絵のように際立たせる。

 窓を閉めてから、扉へと向かう。
 妹は何か言いたげにしていたけれど、背中を軽く押すと、階段の方へと歩きはじめた。

 部屋を出て扉を閉めたとき、俺の体は廊下の灯りの中にあった。
 それなのに、俺の中の何か、俺の魂の十八分の一くらいが、部屋の暗闇の中に取り残されているような気がした。




 夕飯の後、俺は公園へと向かった。

 気分がどうしても落ち着かなかった。
 何を考えているのかは明らかだ。俺はアメのことを考えていた。

 街灯に照らされた道を歩く。空には月と星。

 ときどき、部屋でじっとしていることが耐えられなくなって、無性に歩き出したくなる。
 そういうときはこらえずに目的もなく歩くことにしているのだけれど。
 
 公園に着いたとき、ベンチに誰かが座っていることに気付いた。
 街灯に照らされていたから、それが誰なのかはすぐに分かった。

「こんばんは」

 とシロは言った。膝の上で、猫の方のシロが丸くなっている。


「こんな時間に出歩いてたら、危ないよ」

「ごめんなさい。ちょっと事情があって」

 シロは口の上では謝りながらも、平然と笑っていた。
 楽しげなくらいに。

「危ない目に遭ってからじゃ遅い」

「そう、遅いんだよ」

 俺は大真面目に言ったつもりだったが、シロはそんな言葉でごまかしただけだった。
 溜め息をつくと、今度は少しだけ申し訳なさそうな顔で、シロはまた笑う。

「星がきれいだね」

 と彼女は言った。

「このところ毎晩だよ」

「毎晩空を見上げているの?」

「気が向いたときだけね」


 ほら、とシロは上空を指差した。

「飛行機だよ」

 赤い明滅。

 飛行機には目的地がある。
 予定、約束、目的がある。

「何か変わったことでもあった?」

 俺がぼんやりと飛行機の動きを見送っていると、シロはそんなこと訊ねてきた。

「みんなそんなことを言うんだ。俺ってそんなに分かりやすいのかな?」

「へえ、そうなんだ。ということは、何かあったんだね?」

 俺はその言い回しに違和感を覚えた。俺の様子から何かを察したわけではなかったのだろうか。
 もちろん、そんなに長い付き合いでもないのだ。当たり前のことといえば、当り前のことだけど。

「まあ、いろいろとね」


「困ってるの?」

「まあ、少し」

 どうして話す気になったのか、分からない。
 年下だからか。普段、あまり話さない相手だからか。直接の関係のない相手だからなのか。
 分からないけど、どうしてか、話す気になってしまった。

「告白されたんだよ」

「おめでとう。よかったね」

「……どうして『おめでとう』なんて言う?」

「嬉しくないの?」

 シロは当然のようにそう訊ねてきた。

「分からない」

 俺はそう答えた。だって俺は彼女のことなんて好きでもなんでもないのだ。
 そんな相手に好かれたからって、何がどうなるというわけでもない。


「お兄さんは寂しかったんじゃないの?」

 まるで、ずっと前から俺のことを知っていたみたいな口調で、シロは言った。
 空には月と星と飛行機。太陽は沈んでしまった。街灯の灯りが辺りをむなしく照らしている。

「好きだって言ってくれる人がいたなら、よかったんじゃない?」

 まるで、どこか、説得するみたいな。

「喜んだって、いいと思うよ」

「信じられないんだよ」

「好きだって言われたことが?」

「そう」

「信じるのが怖いんじゃなくて?」

「……そういうのとはちょっと違う」


「ああ、なるほど、つまり……」

 シロの表情は、そのとき一瞬だけ、嘘みたいに親しげなものになった気がした。

「相手の言葉が信じられないんじゃなくて、自分が好かれるってことが信じられないんだ?」

 俺は言葉に詰まった。

「つまり、相手を信じてないんじゃなくて、自分が信じられないんだね」

 彼女は楽しげに言葉を続ける。街灯の灯りの下で、彼女の表情はきらきらと楽しげだった。

「自分が好かれるわけがないって思ってたんだ? 見かけより臆病なんだね」

 俺は息を吐いた。夏とはいえ、日が沈んでから薄着で出て来たからだろうか。少し肌寒い。
 空を見ると、飛行機の影はもうずっと遠く小さくなって、既に赤い光でしかなくなってしまっていた。

 不意に、猫の鳴き声が聞こえた。俺は空を見ていた視線をベンチに落とす。
 彼女はいなくなっていた。




 シロがいなくなったあと、俺はしばらくひとりで空を見ていた。
 飛行機は既に見えなくなっている。
 
 辺りは静まり返っている。気付けば、ベンチに居たはずの猫さえも姿を消していた。

 溜め息をついて、俺は公園を後にする。

 家に帰ると、ダイニングでテレビを見ていた妹が、「どこに行っていたの?」と訊ねてきた。

「散歩」

「この時間に?」

「夜の散歩は、気持ちいいよ」

「そうかもね。麦茶飲む?」

 頷くと、彼女は立ち上がり、俺の分のコップを用意して、麦茶を注いでくれた。


 麦茶を一気に飲み干すと、彼女はちょっと感心したような声を漏らした。
 
「ありがとう」と俺は言う。
「どういたしまして」と妹は言う。

 それから彼女は、ちょっと真面目な顔になった。

「なにか、考え事?」

「どうして?」

「お兄ちゃん、悩みがあるときは、歩く癖があるから」

「……そう?」

「そうだよ。いつも」

 煩わしくなったのか、彼女はリモコンを手に取ってテレビを消した。部屋の中から音が消える。
 静かな家。空虚な家。誰かのせいでからっぽになった家。


「もしかして、この間言ってた話と関係ある? 告白されたっていう」

「おまえには本当に、敵わないよ」

「また、何か言われたの?」

「……好きだって、はっきり言われた。付き合ってほしいって」

 妹は「ふうん」という顔をした。珍しいこともあるもんだ、というような。

「一緒に映画、見に行くことになった」

「ふうん……。何を悩んでるの?」

「自分でも、よくわからないんだよ」

 俺の答えに、妹は黙り込んでしまう。少ししてから、苦笑した。

「それは、困ったね」

 ほんとうに困ったね、と言いたげに。


「その人のこと、好きなの?」

「好きじゃない、と、思う」

「じゃあ、断るの?」

 そう訊ねられて初めて、そうか、断ればいいのか、と気付いた。
 その発想が、なぜか、まったく思い浮かばなかった。

「何か、気になることがあるの?」

 妹は不思議そうな顔で俺を見上げた。

「気になるっていえば、気になるんだ。どうして俺のことなんて好きになったのか」

「ふうん。へんなの」


 でもさ、と妹は言葉を続けた。

「気になるなら、訊いてみたらいいんじゃない?」

「訊いてみたよ」

「ちゃんと?」

 ちゃんと、か、どうかは、分からない。
 妹は何かを察したみたいに溜め息をついた。

「一度、真正面から話してみたらいいと思う。誰かに好かれるのって、べつに悪いことじゃないよ」

 彼女の言葉に、俺は強い抵抗を覚えた。なぜなのかは、分からないけど。

「本当にそう思う?」

 挙げ句俺は、そんな質問までした。

「思うよ。お兄ちゃんもそろそろ、彼女のひとりくらい、作ってもいい頃だよ」

 まるで、妹じゃなくて親みたいな発言だ。


「俺には、そういうの、よくわからないんだよ」

「そういうのって?」

「誰かと付き合うとか、付き合わないとかさ」

 妹はぼんやりとした様子で「うーん」と唸ってから、言う。

「……本当のところ、みんな分かってないのかもしれないよ」

 やけに大人びた声だった。

「恋愛感情だって、最初からそれだと自覚できるものじゃないのかもしれない。
 最初はなんとも思ってなくても、一緒にいるうちに、居心地がよくなって、好きになっていくかもしれない。
 そういう形だって、べつに悪いものじゃないって、わたしは思うよ。深く考えることなんてないと思う」
 
 その言葉に感心しつつ、ぼんやりと妹の手を見ていた。小さな手のひら。
 妹は、何気ない調子で言葉を続ける。

「それとも、他に好きな人でもいるの?」

 俺は、うまく返事ができなかった。




 土曜日、俺とアメは映画館にやってきていた。
 見慣れない私服を着たアメは、そわそわとして落ち着かない様子だった。

 待ち合わせ場所で会ってから、彼女と俺は二言が三言くらいしか話さなかった。
 それ以外の時間はずっと黙っていた。

 余裕をもって到着していたおかげで、上映時間までは時間があった。
 ちょっと休みながら話をすることくらいはできる。

 俺たちはチケットを買ったあと、待合室のテーブルに陣取った。

 この頃になるとさすがに沈黙が気まずくなった。
 俺は話題がほしくて、そこらじゅうに視線をやった。

 話題になりそうなものはたくさんあったけど、どうやって話題にすればいいのかが分からない。
 
 ふと、アメの方に目をやると、彼女は緊張した様子だった。
 自分から誘っておいてこんなに緊張するのもどうなんだ、と思うものの。
 緊張させているのが自分なのだと思うと、申し訳ない気持ちになる。
 
 もっとさばさばした子だと思っていたんだけど。


「そんなに緊張するなよ」

 思わず呆れ気味にそんなことまで言ってしまった。
 アメは即座に顔をあげて、強がるみたいに返事を寄越した。

「緊張なんて、してないよ」

 語尾が少し震えていた。俯いたまま、膝の上で、落ち着かないように何度も手を組み直している。

「それならいいけど」

 あまり深くは追及しないことにして、俺は彼女の様子をぼんやりと眺めた。
 
 かわいい子だ。それは分かる。
 俺のことを好きだ、と言ってくれた。それも分かる。
 順序だって話をすることのできる人。相手の目を見て話ができる人。相手の立場になって物を考えられる人。

「ねえ、どうしても訊いておきたいことがあるんだけど、いい?」

 俺が訊ねると、アメの緊張は強まったようだった。
 こっちまで緊張してしまう。


「……どうして、俺のことを好きになったの?」

 アメは、一瞬きょとんとした顔になった。それからあっけにとられたように、笑う。
 そんなことか、とでも言いたげに。

「そんなに不思議?」

「とても」

 俺はとても真剣に言った。すごく、切実なことだった。

「どうしてそんなことを気にするのか、よくわからない」

「普通、気にすると思う。俺ときみは、話をしたことだってほとんどなかったんだから」

 彼女はちょっとほほ笑んだ。嬉しそうに見えたのは、錯覚かもしれない。

「きみからすれば不思議だろうけど、わたしからしたら、ぜんぜん不思議なんかじゃないんだよ」

 彼女があんまり楽しそうな声で話すものだから、俺は返す言葉に困ってしまった。


「でも、できれば秘密にしておきたいんだ。どうしてもっていうなら、話すけど……」

 俺は少し考えてから、その言葉を遮った。

「いいよ。無理に話さなくて。気にはなるけど、どうしてもってことじゃないんだ」

 ただ、自分で上手く消化できなかっただけで。
 話をしている間に、リラックスしてきたのだろうか。彼女は打ち解けた様子で、俺に話しかけてきた。
 
 学校でのこと。休日の過ごし方のこと。家族のこと。そんなとても些細なこと。

 やがて時間が来て、俺たちはシアターに入場した。
 立ち上がるとき、俺は彼女ともっと話していたいと思っている自分がいることに気付いて、戸惑った。

 いつのまにか、滲むような気味の悪さが湧くこともなくなった。
 納得したのだ、俺は。




 帰りの別れ際、アメは「今日はありがとう」と言った。
 何もしていない、というべきか、こちらこそありがとう、というべきか、分からなかった。

 結局口から出せたのは、

「ああ、うん」

 そんな曖昧な頷きだけだった。

「ねえ、もしよかったら、なんだけど……」

「なに?」

「夏休みに入ってすぐ、お祭りがあるでしょ?」

「……商店街の?」

「そう。できれば、一緒に行ってくれないかな?」

「……いいの?」

「なにが?」

「俺で」


 彼女はちょっと呆れたみたいに笑った。

「きみと一緒がいいんだよ」

 それから、一瞬だけ躊躇うような表情になったけれど、すぐにそれを打ち消して、彼女は言う。

「できれば、そのときまでに、返事をくれると、うれしい」

 俺は、すぐに答えを返せなかった。
 約束はできない、と、そう思った。

「今日は、楽しかったよ」

 俺はごまかすような気持ちで、そう言った。うそではなかった。
 不思議なほど、楽しかった。

 今日、初めて、彼女と真正面から話をしたような気がした。

 これまで俺は、彼女という個人をまったく見ていなかった。
 彼女という人間を含む、俺を取り巻く状況を見ていただけだった。

 そして、ひとりの人間として見てみれば、彼女はとても魅力的だった。
 明るくて話しやすくて、感情表現が豊かで、表情がころころ変わる。指先の動きひとつひとつに心の機微が現れる。
 その変化は、見ていて飽きない。

 彼女は俺を好きだと言ってくれた。

「それじゃあ、また月曜に」

 彼女は不器用に笑った。いかにも、気恥ずかしさをごまかしたような、取り繕ったような笑み。
 
「ばいばい」

 そして、少し離れてから、こちらに向けて手を振る。

 まるで猫でも見ているような気分になった。

 俺は帰路につきながら、気付けばアメのことばかり考えていた。
 彼女と交わしたひとつひとつの会話とか、彼女の仕草のひとつひとつを思い出したりした。

 そして、自分の単純さに愕然とする。

 たぶん俺は、彼女を好きになりつつある。その考えは、すとんと胸に落ちた。
 でも、そう考えると同時、耳鳴りのような感覚が、俺の聴覚を襲う。
 
 何かを忘れているような気がした。何を忘れているのかは、思い出せなかったけれど。




 起きて、と誰かが言っている。俺の体を揺すりながら、誰かが。

 俺は深く眠っている。飛行機の夢を見ている。

 起きて、ともう一度繰り返される。

 甘い声。柔らかな。困ったような、そんな声。どこか頼りない、女の子の声。

 体を揺さぶられるたびに、俺はその振動に余計に心地よくなる。 
 ゆりかごのような感覚。

 起きて、と誰かは言う。俺の意識は、まどろみのなかで浮上しかかっている。

「起きてよ」
 
 声は何度も、その言葉を繰り返す。起きてよ、起きて。
「起きて」と誰かが言うそのとき、俺は現実に「求められている」。そんな気がする。




「起きろってば」

 ぱし、と、頬に熱のような痛み。鋭い音。
 思わず目を開いて、顔を起こす。状況がすぐにはつかめなかったが、場所は教室で、辺りには誰もいなかった。
 アメを除けば。

「ぜんぜん起きないんだから」

 アメは、呆れたように溜め息をつく。俺は気怠い体を動かして、頭を机から引き上げる。
 自分の席で、居眠りをしたまま、目を覚まさなかったらしい。

 こんなふうに学校で眠りこむことは、最近では、そうそうなかったんだけど。

 アメは、俺の隣の席に座っていた。チュッパチャップスを口にくわえながら。

「寝てる間に、もうみんな帰っちゃったよ」

 言われて時計を見るけれど、まだそんなに遅い時間ではない。
 それなのに、周囲には生徒の姿はない。部活動の声も、聞こえない。
 人気のない、夏の校舎。濃い影と陽射しのコントラスト。

「みんなは?」

「もういないよ」


「どうして?」

「帰ったよ。ヒメが寝てる間に」

 その言葉に、俺は一瞬だけ、すさまじいほどの不安を覚えた。

「俺が寝てる間に?」

「そう」

「みんな?」

 アメは不思議そうな顔をした。

「帰ったよ」

「……そう、なんだ」

 体の節々が、じわじわと痛む。やけに手足が重い。座りながら眠ったせいだろうか。


「もう終わっちゃったよ。眠ってる間に」

「……なにが?」

「なにが、って」

 アメはまた、溜め息をついた。

「終業式」

「……え?」

「途中からずっと寝てたでしょ、ヒメ。教室に戻ってくるときも、半分寝てたみたいだったし」

 苦笑しながら、アメは窓の外を見た。視線を追いかける。空には太陽。外は明るい。
 でも、俺たちのいる場所は暗い。光と影はしっかりとした線で区別されている。
 なんとなく、雨が降りそうな気がした。 

「終業式、終わった、のか」

「うん。もう、夏休みだよ」


 教室には、もうざわめきすら残されていなかった。
 アメが起こしてくれなかったら、俺はきっと、ずっと眠ったままだっただろう。
 
「タイタンは?」

「帰ったよ。用事でもあったの?」

「いや。挨拶くらい、したかったな、と思って」

「本当は、ヒメに声かけてたんだよ、彼」

 起きなかったけど、と、アメはくすくす笑う。俺の居心地は悪くなる。

「でも、わたしが起きるまで待ってるって言ったら、帰っちゃった」

「……帰ったのか」

「気をつかってくれたみたい」

 ここ最近、アメと一緒にいることが多いせいで、タイタンはやけに俺たちに気を使う。
 学校でも、登下校中も、アメが俺のそばにいることは自然になりつつあった。


「飴、食べる?」

 当たり前みたいな顔で差し出されたので、当たり前みたいに受け取ってしまった。
 何も言わず封を開けかけて、ふと思い直して、

「ありがとう」

 と口に出す。彼女はおかしそうに笑った。

「どういたしまして」

 おどけたような声。楽しいやりとり。

「眠るつもりなんてなかったんだよ」

 と俺は言った。アメは不思議そうな顔をする。

「急に、どうしたの?」

「眠るつもりなんてなかったんだ」

 彼女は、よくわからない、というふうに首を傾げた。


「よく分からないけど、起きたんなら、帰ろっか」

 アメは、それが当然のことみたいに提案した。ここ一週間、俺は彼女と一緒に下校していた。
 俺は口の中に飴玉を含んだ。うっとうしいほどの甘味。

「ありがとう」

「……え?」

「起こしてくれて。待っててくれて」

「……どう、いたしまして?」

 アメは、不思議を通り越して、怪訝そうな顔になった。

 彼女は俺のことを好きだと言ってくれた。それは嬉しかった。
 彼女は俺と話す時、よく笑う。それが気持ちいい。心地いい。
 きっと俺は、彼女のことが好きなのだと思う。好きになったのだと思う。

 どうして彼女は、俺のことを好きになったんだろう。

「ねえ、ヒメ――どうして、泣いてるの?」




 夏祭り、商店街の入り口で待ち合わせをした。
 夕方五時過ぎ、俺はアーケードの入口の近くで、アメを待っていた。
 辺りは、まだ明るい。
 
 待ち合わせ時間は、少し過ぎていた。辺りは大勢の人でにぎわっている。
 自分の声も聞こえなくなりそうなほど、騒がしい。

 同じ場所で誰かを待っている人は、他にも大勢いるみたいだった。
 心細さと緊張と不安から、俺はずっと落ち着かなかった。

 アメは、待ち合わせ時間の十分後に、浴衣姿で現れた。

「ごめん、準備、手間取って」

 彼女の声は、いつもよりずっと聞き取りにくかった。 
 雑踏のせいなのか、それとも、彼女の声がいつもより小さいのか、よくわからなかった。
 
 俺がすぐに返事をせずにいると、彼女は不安そうな目をして、自分の姿を何度も確認して、居住まいを正した。

「ああ、うん」

 俺の口からやっと出て来たのは、そんなどうしようもない相槌だった。


 俺たちは十五秒くらい向かい合ったまま黙り込んでいた。
 何を言うべきかは、だいたい心得ていたつもりだし、それを口に出しても、さいわい嘘にはなりそうにない。
 
 でも、うまく言葉にできなかった。言葉にするのが怖かった。
 なんだか――気味悪がられそうで。

 アメは、怯えたように、何度か視線を俺から外した。やがてじれたように、震えた声を出す。

「えっと、どう、かな?」

「……いい、と思う」

「……」

「似合ってる」

 ありがとう、と彼女は俯いた。
 どうしてだろう?

 小さな声だったのに、騒がしい雑踏の中なのに、俺の耳は彼女の声を聞き逃さなかった。
 不思議な引力でも働いてるみたいに。




 俺たちは言葉もなくぶらついた。
 気恥ずかしくて、つかず離れずの距離を保っていたせいで、何度も俺たちの間を、人々が縫うように行き過ぎる。

 それがわずらわしくなったせいだけじゃないけど、俺はアメに手を差し出した。
 彼女はきょとんとしていた。

「はい」

 と、我ながら意味の分からない言葉で、俺は手のひらを求めた。
 少しの間沈黙した後、彼女はほころぶように笑った。

「うん」
 
 浴衣だからか、それとも元々の歩調の違いか、あるいはその両方か。 
 分からないけれど、彼女の歩調に合わせて歩くと、俺はいつもよりずっとゆっくりと歩くことになった。

 いつもは、俺のことをからかったり、おどけてみせたり、はしゃいだりするアメ。
 それが、今日は大人しくて、俺は戸惑う。やけに緊張する。たかだか、夏祭りなのに。
 たかだか、普段と服装が違うだけなのに。「それだけ」だと思えないほど、心臓がうるさかった。


「なにか、食べる?」

「甘いもの」

「かき氷?」

「リンゴ飴」

「ここにきても、飴?」

「嫌い?」

「嫌いじゃないよ」

 俺たちは一度立ち止まって、夜店の中で目的のものを売っている場所を探した。
 人々の流れはうねるみたいで、そこら中を行き交っていて、放っておくと流されそうだった。
 手を繋いでいるせいで、俺とアメの距離はいつもよりいくらか近かった。
 
 温度とか、呼吸の気配とか、そういうものが、やけに近く感じた。


 俺たちはリンゴ飴を買った。アメは財布を出したけど、結局俺が払った。

「ありがとう」

 と言いながらも、彼女は微妙そうな顔をしていた。自分で買いたかったのかもしれない。
 
「どうして、急に……」

「え?」

「おごったり、するの?」

 どこか緊張した様子で、彼女は俺からリンゴ飴を受け取った。
 人ごみの流れから外れて休みながら、俺たちはそれを食べることにした。

「自分でもよくわからない」

「そういうこと、今までしなかったのに」

「うん。でも、今となっては不思議なくらいだ」

「……どういう意味?」


「誰かに何かをおごるって、楽しいし、気分がいいって、やっと分かった」

 俺の言葉に、アメはちょっと不思議そうな顔をした。

「相手が誰でも?」

「誰でも、じゃないかもしれないけど」

「もしそうなら……」

「そうなら?」

「嬉しい」

「……」

「……かも」

 俺は普段なら言わないようなことを口にしたし、彼女も普段ならしないような返事をした。
 なにかが違っていた。だから俺は笑った。これでかまわないのかもしれない。


 リンゴ飴を食べながら休んでいると、彼女はそわそわと落ち着かない様子になった。
 なんとなく、その理由は察しがついた。

 ――できれば、そのときまでに、返事をくれると、うれしい。

 あの言葉に対する返答を、俺はまだ保留していた。
 でも……もう、言っていいのかもしれない。

 なぜか、今までずっと、不安だったけど、もう、俺も信じていいのかもしれない。
 
「今のうちに、言っておこうと思うんだけど……」

 俺の声に、彼女の体は一瞬、小さくこわばった気がした。
 
「今までずっと、返事、してなかったけど……」

 緊張。動悸。雑踏。頬に浮かぶ熱。茹だるような頭。
 アメの表情。不安、かすかな期待と恐怖。

 俺は、口を動かして、口に出そうとして――

 そのとき、雑踏の中に、シロの姿を見つけた。


 なぜか、その瞬間、俺は言葉をうしなった。
 うごめくような雑踏の中、シロは立ち止まっていた。 
 立ち止まって、こちらを見ていた。こちらを眺めて、俺と目が合った瞬間、笑った。
 
 まるで見下ろすみたいに。

 そして、すぐに背を向けて、人ごみの中に消えていく。
 少しの間だけ、俺はすべての状況を忘れて、その背中をずっと見続けていた。

 けれど、

「ヒメ……?」

 と、俺を呼ぶ声がして、意識を取り戻す。震えた声。緊張した声。
 俺はシロの背中を意識から振り払う。そして、アメの顔を見た。
 沈黙が、俺が思っていたよりずっと、彼女を不安にさせていたようだった。

 その表情が、俺の決意を一層強固にさせた。

「俺、アメのこと、好きだ」


 なぜか、その瞬間、俺は言葉をうしなった。
 うごめくような雑踏の中、シロは立ち止まっていた。 
 立ち止まって、こちらを見ていた。こちらを眺めて、俺と目が合った瞬間、笑った。
 
 まるで見下ろすみたいに。

 そして、すぐに背を向けて、人ごみの中に消えていく。
 少しの間だけ、俺はすべての状況を忘れて、その背中をずっと見続けていた。

 けれど、

「ヒメ……?」

 と、俺を呼ぶ声がして、意識を取り戻す。震えた声。緊張した声。
 俺はシロの背中を意識から振り払う。そして、アメの顔を見た。
 沈黙が、俺が思っていたよりずっと、彼女を不安にさせていたようだった。

 その表情が、俺の決意を一層強固にさせた。

「俺、アメのこと、好きだ」


 彼女は、呆気にとられたような顔をした。

 それから、

「ほんとに?」

 と表情のない声で言う。驚いて、声に感情をのせるのを忘れたみたいな空白。

「たぶん、本当」

「たぶんって、なに?」

 拗ねたような声。

「本当」

 と俺は言った。
 戸惑うような溜め息。


「それは、じゃあ、つまり……」

「付き合ってほしい」

「……」

「一緒にいてほしい」

 ほんとうに、そう思った。
 たぶん、口に出したら引かれるくらいに烈しく、そう思っていた。
 きっと彼女は気付かないだろうけど。

「……うん」

 やがて、彼女は頷いた。泣きだしそうな声。

「ほんとは、今日、ずっと、気になってて、飴の味も、よくわからなかったんだよ」

「……ごめん」

「ううん。……嬉しい、から」


 リンゴ飴を食べ終えたあとも、俺たちはしばらくそこで休んでいた。
 
 ずっと手を繋いだままだった。
 彼女は不意に、まるで表情を隠そうとするみたいに、俺の肩に頭を寄せた。
 俺はくすぐったいような、怖いような気持ちになる。

 彼女は言う。

「ねえ、わたしが近付いても、嫌じゃない?」

「嫌じゃない」

 と俺は答えた。

「ありがとう」、と彼女は言った。

 しばらくそのままの姿勢で、俺たちは何も言わずにいた。


 どれくらいそうしていたのか分からない。
 大勢の人たちが、俺たちの前を通り過ぎていった。
 誰も俺たちのことなんて、気に掛けていなかった。

「そろそろ行こうか」

 と俺は言った。アメは返事をしなかった。

「お祭り、始まったばっかりだしさ」

 日が沈みかけ、辺りは暗くなりはじめていた。
 どこかから、子供の鳴き声が聞こえる。
 アメはしばらく黙ったままだったけれど、やがて小さく頷いた。その仕草が、いつもより弱々しく見える。

「行こう」

 手を繋いだまま、俺たちは歩き出した。

 ――歩き出そうとした。




 眩暈のような感覚。耳鳴り。歪む視界。
 手足の感覚がない。平衡感覚が失われる。音が聞こえない。

 誰かが俺のことを呼んでいる気がする。誰かが俺のことを呼んでいる。

 ノックの音。繰り返されている。ノイズ。誰かが泣いている。助けを求めている。

 パイプオルガンの音色と、赤い絨毯の幻覚。
 違う、そうじゃない。

 劈くようなクラクションと、赤い血だまり。

 誰かがそこで、うずくまって泣いている。

 意識が暗転する。引きずられる。

 誰かの声がする。嘲りを含んだ声。

 ――これで満足?

 答えるより先に意識が失われた。笑い声がうつろに響く。
 
 そして、ノックの音。

中断
明日つづきやります

>>222
重複ミスです
再開


◇03-01[FOXES]


 ノックの音で、目をさました。

「お兄ちゃん? 起きてる?」

 起きてる、と俺は答えようとする。でも、口が上手く開かなかった。
 擦れるような足音。妹の声がする。朝がきたのだ。

「お兄ちゃん?」

 返事をしなかったせいか、妹は戸惑ったような声音で、もう一度俺のことを呼んだ。

「起きてるよ」

 と俺は答えた。
 やけに、胸がざわついて、落ち着かない。
 寝起きなのに、奇妙なほど頭が冴えていた。

 俺は目をさましたときの姿勢のまま、ぼんやりと天井を見上げ続けた。


「……どうかしたの?」

 妹はそう訊ねてきたけれど、俺は答えるかわりに、質問を返した。
 
「なあ、夏休みって、いつからだっけ?」

「どうしたの、急に」

「いいから。いつだっけ?」

 視線を向けると、彼女は不安げな表情をしながらも、答えてくれた。

「……あと、二週間くらい」

「そう、だよな」

 そうだろう。俺の認識も、それで合っている。まだ夏休みまで二週間ある。
 
「夏休みの夢、見てた」

 妹はほっとしたように溜め息をついた。そんなことか、とでもいうような。


「やっぱり、寝惚けてたんだ」

「そう、なんだろうな。たぶん」

 俺の言葉に、妹は呆れたように溜め息をついた。

「やっぱり、寝惚けてるんだ」

「……うん。そうなんだろうな。妙に実感のある夢だったから」

「どんな夢?」

 俺は答えに窮した。
 クラスの女の子と、一緒に夏祭りに行く夢、なんて。
 そんなことを言ったら、きっと笑われてしまうだろう。




「ひょっとしたら、予知夢ってやつかもよ」

 司書さんは、さして呆れた風でもなく、そんなことを言ってくれた。

 昼休みに暇を持て余してタイタンと共に図書室を訪れると、彼女はいつものように本の整理をしていた。

「そんな大層なもんじゃないですよ、きっと」

 タイタンは呆れたように肩をすくめて、椅子の背もたれに体重をあずけた。
 
「普段から眠りすぎてるから、夢と現実の区別がつかなくなってるんですよ」

 彼はときどき、俺に対して批判的になる。もっとしっかりしてほしい、という親心みたいなものなのかもしれない。
 そういうお節介やきな性格が、彼にはある。

 司書さんは、からからと笑う。

「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」

 そこまで言って、彼女は忘れていた傷が痛んだような顔をした。

「どうかしました?」

 訊ねると、「ううん、何も」と愛想笑いを浮かべて首を横に振る。
 何もないにしては、少し不自然な態度だったけれど、俺もタイタンも、それ以上は何も聞かなかった。


 司書さんは、取り繕うみたいな調子で、話を続けた。

「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
 
 タイタンは「そうかなあ」と不機嫌そうに首を傾げている。彼は俺に、緊張感が欠けていると言いたいのだ。

「そうなんですよ」

 と俺は理解者の出現に嬉しくなって声の調子を高めた。
 司書さんはくすくす笑いながら、持っていた本をぱらぱらとめくって、状態を確認しはじめた。

「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど……」
 
 言葉は、途中で途切れる。彼女の様子はすこしおかしかった。

「……意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」

「……どうしたんですか?」

「なにが?」と司書さんはにっこり笑った。

「さっきから、様子がへんだから」


 俺の言葉に、彼女は観念したように溜め息をつき、額を抑えた。

「なにか気がかりなことでもあるんですか?」

 今度は、俺ではなく、タイタンが訊ねる。

「べつに、そういうわけじゃないと思うんだけど……なんだか、さっきから変な感じがして」

「体調が悪いとか?」

「そういうんじゃないと思うんだけど――ううん、そうかもしれない。頭がぼんやりする」

 彼女は本を棚に置いてから、何か思い悩むように固まったまま動かなかった。

「変な感じがする。……ねえ、前もこんな話、しなかったっけ?」

「こんなって、どんな?」

 俺の問いかけに、彼女は答えなかった。


 しばらく沈黙が続き、図書室に静寂が戻った。
 もともと図書室は静かであるべき場所だし、俺たち以外の利用者は、ずっと黙っていたんだけど。
 一応声は控えめにしてるから、そうそう咎められたりはしない。
 
 司書さんは俺たちでなくても、いつも誰かと話をしているような気がするし、みんな慣れっこなんだろう。

 とにかく、彼女は少しの間黙っていた。少しの間だけだったけど。
 彼女は苦笑を浮かべて、

「たぶん、きみの寝惚け癖がうつったんだよ」

 と俺のことをからかった。
 タイタンが静かに笑った。俺も一応笑った。
 
 気がかりな夢のことや、司書さんの奇妙な態度のことを気にしてしまい、その後はいまいち会話にのめりこめなかった。



 
「すみません」

 と不意に声が聞こえた。カウンターの近くから、ひとりの女子生徒が司書さんを呼んでいる。

「はーい」

 と彼女は手に持っていた本を近くの机において、カウンターへと駆けていく。
 カウンターの前に立っている女子生徒。
 俺は彼女のことを知っている。

 子供の頃からの付き合いで、家だってすぐ近所で、昔からよく一緒に遊んだ。

 彼女はこちらを見て、「あ」という顔をした。それから何を言っていいのか分からないような顔をする。
 ぼんやりとした目。眠たげな。

 目が合ったまま数秒が経ち、俺はさすがに気まずくなって、口を開いた。

「おう」

 という俺のよく分からない挨拶に、

「オス」

 と彼女はやる気なさ気に呟いた。戸惑ったみたいに。
 俺は続ける言葉に困ったけれど、彼女はちょっと焦ったふうに、口を動かした。

「久しぶりだね」


 たしかに、彼女と話すのは久しぶりだった。最後に話したのは、いつだったか。
 少なくとも春先までは、まだ言葉を交わしていたんだけど。

「……何か、借りるの?」

 訊ねると、彼女は「返すの」と答えながら、本を司書さんに差し出した。

「ねえ、喧嘩したの?」

 彼女は、不意にそんなことを言った。誰とのことを言っているのか、俺にはすぐに分かった。

「べつに、そういうわけじゃないよ」

「……だったら、いいけど」

 本当に、喧嘩したわけじゃない。
 俺と幼馴染の会話は、妙に途切れ途切れだった。

 そうこうしているうちに、司書さんは手続きを終わらせた。
 彼女は「それじゃ、行くから」とだけ言って、こちらに背を向ける。

「おう」と、俺はまたよく分からない挨拶をした。




 放課後になって、部活に出ようか帰ろうか迷っていた。

 意味もなく幼馴染の方を見ると、彼女と目が合った。

 鞄を持って、教室を出ようとしているところだった。

「待ってよ」

 彼女は教室の外の誰かに向けてそう言った。
 そして、俺に向けて短く手を振って、口を「ばいばい」と動かした。
 ばいばい、と俺も口を動かした。彼女は満足したように頷いて、教室の外の誰かを追いかけた。

 放課後になってまだ少ししか経っていないから、結構な数の人間が教室に残っている。
 
 席についたまま、俺は今朝見た夢のことを思い出そうとしてみたけれど、もう輪郭すら蘇らなかった。 
 漠然とした印象だけが、頭の奥の方で疼いている。


 俺はしばらく、意味もなくクラスメイト達の会話を聞いていた。

「そういえば、見つかったの?」

「なにが?」

「自転車の鍵」

「それが、見つからなかったんだよね。結局先週、学校に自転車置いたまま帰っちゃった」

「どうするの?」

「大丈夫。今日は合鍵を持ってきたから」

 替えがきくというのはすばらしいことだ。
 
 さて、と俺は立ち上がった。タイタンは既に部活に向かった。
 夏休みが近いし、俺も今のうちに部室に顔を出しておこう。そう思いながら、教室を出た。




「また、事故ですか?」

 部室に行って定位置に座り、リレー小説用のノートを開くと、部長が静かに近付いてきて、そう訊ねてきた。
 俺は一瞬戸惑って、部長の顔を見た。
 
 彼女は、俺のその態度がよっぽど不思議だったのか、わざとらしく首をかしげてみせる。
 一瞬遅れて、俺は彼女の言葉がノートの内容についてのものだと気付いた。

「ああ、いえ……どうなってるかなって、開いてみただけなんです」

「ふうん?」

 部長は少し意外そうな顔で、傍にあったパイプ椅子に腰かけた。
 俺の隣から、彼女はノートを覗き込む。
 
 邪魔になった髪を耳に掛ける何気ないしぐさに、妙にどきりとさせられる。
 彼女は一瞬だけ、ちらりと俺の方を見ると、何かに気付いたようにいたずらっぽく笑った。

「どうしました?」

「近いです」

 と俺は正直な気持ちを言った。


「失礼しました」

 と部長はくすくす笑いながら距離を取り直して、俺の前に置かれていたノートを自分の方に引き寄せる。
 からかわれてるんだろう。

 彼女はぼんやりとした表情で紙面を眺めはじめる。

「ループ、してますね」

 その言葉が、なんだか妙に気になった。
 物語の中で、不良が死んでしまった。主人公の意識は暗転し、生活が繰り返される。
 
「……ですね」

「いいかげん、不毛ですよね」

 彼女は溜め息をついた。


「そうは言っても、リレーですし、何もないところから始めたわけですから……」

 しっかりとした結末になんて、最初からなりっこない。俺はそう言おうとしたつもりだった

「だからこそです。みんながみんな納得できるような結末なんて、ないんですよ、こんなの」

 部長の声は、いつもより少し硬質だった。ほんの少しだけど、彼女が苛立っているような気がした。

「みんながみんな思い通りの結末にしようとしても、無理なんです」

 開け放たれた部室の窓から、柔らかい風が吹き込んできて、カーテンを揺らした。
 部室に集まった何人かの部員たちの、ざわざわという話し声。

 車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出す。
 同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかる。

 どちらかが、ブレーキを踏まないといけない。進路を変えないといけない。

「じゃあ、どうするんですか?」

 俺が訊ねると、部長は困ったみたいに笑った。不思議と、泣きだしそうにすら見えた。
 彼女のことは、よくわからない。何を考えているのか。


「そろそろ、終わらせてもらうつもりだったんです」

 彼女は、ノートを畳んで、そう言った。

「いつも書いてくれてる人に話して、どんな結末がいいか、相談してもらって、それで……」

 だとすれば、そう間を置かずに、無難なエンディングを迎えることになるだろう。
 俺はふと気になって、こう訊ねてみた。

「部長は、どんな結末が良かったんですか?」

 彼女は何秒かの間、じっと押し黙った。聞こえなかったのかと思うくらい、自然な沈黙が続く。
 それから、彼女は静かに口を開き、小さな声で、「きみと同じですよ」、と言った。

「……最初から、どうでもよかったんです。他人事にしか、感じられませんでしたから」

 まるで見透かしたみたいな言い方だった。そして、それは合っていた。

 たぶん俺と部長の間には、どこかしら似通った部分があるのだと思う。
 彼女も俺も、そのことに対して自覚的だった。その認識を、互いに共有しあっていた。言葉もなく。
 あるいは、俺の妄想かもしれないけど。




「リレーじゃない小説は、書かないんですか?」

 べつに話題を変えようと思ったわけでもないが、なんとなく、そう訊ねる。
 今のままの空気が続いたら、俺自身が妙なことを考えてしまいそうだった。

 部長は取り繕うみたいに笑った。

「書きますよ」

「どんな話ですか?」

「……さあ?」

 困った返事だ。話の続けようがない。
 俺は質問を変えた。

「部長にとって、他人事じゃない小説って、どんなものですか?」

 彼女はむっとした顔で考えこんでしまった。真剣な表情が、なんだか子供みたいに見える。
 普段のような、老成したような、達観したような、大人びたものとは違う。


 彼女はしばらく難しそうな顔で黙り込んでいたけれど、やがて唸るように言葉を吐きだした。

「つまり、他人事じゃない小説っていうのは……」

 まるで、何かを思い出そうとするみたいに、彼女は額を抑えた。

「つまり……」

「……つまり?」

 促すと、部長は苦しげに続けた。

「……"わたし"について、書かれた小説です」

 それはそうだろう、と思ってもいいようなものだけど、俺はその言葉に、いくらか感心した。
 その言葉は的を射ている。「自分のことについて書かれている」と思えない小説は、当然、他人事だ。
 
 フィクションに「他人事」を求める人間もいる。そっちの方が多いくらいだ。
 でも、少なくとも彼女は、「他人事」をあえて書こうとは思えない。そういうことだろう。


 彼女は深い溜め息をついたあと、照れくさそうに笑う。

「ヒメくんは」

 と、彼女は俺を呼んだ。

「書かないんですか?」

「俺ですか?」

「何か、書いてみればいいじゃないですか」

「書いたこと、ないです」

「うそつき」と彼女は言った。

「書いたことない人の文章じゃないですよ。少なくとも、書こうとしたことのある人の文章です」

 たしかに、彼女の言葉は正しかった。俺は書こうとしたことがある。
 でも、俺には無理だったのだ。




 文章は語の集合体だ。語は字の集合体だ。字は線の集合体だ。そして線それ自体に意味はない。

 線はただ線としてそこにあるだけだ。
 たとえば「線」という形に描かれた「線」が、自ら線という意味を手に入れるわけではない。

 線の集合体を字として扱い、字に意味を与えるのは、線そのものではなく、線を眺めている側の存在だ。
 線は本来、線ですらない。

 インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら。それらは物質にすぎない。
 そして物質は意味を持たない。何も語らない。
 音が、単なる空気の震えにすぎないのと同じように。

 けれど人は、空気の震えに、空気の震え以上のものを与えることができる。
 空気の震えから、空気の震え以上のものを掬い取ることができる。

 意味。


 ある人物が、言葉に意味を与える。ある人物が、言葉から意味を読み取る。
 言葉に与えられた意味と、言葉から読み取った意味とが一致する。

 そのとき言葉は、初めて言葉としての役割を果たす。

 言葉は「もの」でも「こと」でもなく、「もの」や「こと」の代理物、代用品に過ぎない。

 言葉の意味は秩序付けられた相対的なネットワークによって管理され、人々の間で共有される。
「猫」は「犬」ではなく、「犬」は「猫」ではない。

 もし秩序がなければ、「犬」が「猫」になり、「猫」が「犬」になる。それは既に言葉として機能していない。
 自由というのはそういうことだ。


 文章は言葉によって構築されている。
 そうである以上、文章は「もの」「こと」そのものではない。

「もの」や「こと」の代理物なのだ。
 
 話者が語ろうとする「もの」「こと」は、代理物としての「言葉」という形をとる。
「もの」「こと」が「言葉」という形になったとき、実際の「もの」「こと」に付随する切実な感覚は霧消し、客観的な「言葉」だけが残る。

 このように、話者と聞き手との間には、「言葉」という一見同一のものを隔てた、大きな断絶が走っている。
 話者の文章によって簡略化された「もの」「こと」を、聞き手は完全に理解することができない。
  
 残るのは「誤解」か、「理解したという錯覚」か、「理解できない」という諦念、あるいは軽蔑だけだ。
 
 文章の価値を決めるのは読む側の人間だ。
 彼らが「読む価値がない」と判断すれば、文章はそれだけで意味と価値を失う。
 
 そうなればどんな文章も、インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら、それ以外の何物でもなくなってしまう。




 文章によって理解されるなどということはありえないし、文章によって誰かと繋がり合うということもありえない。
 
 言葉は言葉として他者の耳に入ったとき、話者の元から離れ、聞き手のものになる。
 聞き手は言葉を自分なりに咀嚼し、理解し、納得する。
 そのプロセスに話者は必要ない。「文章」に、「話者」は必要ない。

 話者の「もの」「こと」が完全に理解されることはありえない。
 そして聞き手は、その宿命的に不完全な理解によって話者を軽蔑し、嫌悪することさえある。
 
 話者の話し方が稚拙なのかもしれないし、聞き手の耳が遠いのかもしれない。
 あるいは意味の不定性が原因かもしれない。単に立場の違いかもしれない。

 いずれにしても、そうしたやりとりは、俺の神経を段々とすり減らしていく。

 どれだけ言葉を並べても、ほとんど誰とも分かり合うことなんてできない。
 文章は文章であり、話者そのものではないからだ。
 
 ……この話は比喩だ。




「……俺には、無理ですよ。考えようとすると、眠りたくなるんです」

 しばらく考えてからそう答えると、彼女はちょっとがっかりしたように見えた。
 
「残念です」と実際に口に出してもいた。本当なのかどうかは、俺には分からない。

「俺には、自分が何を書きたいのか、まるで分からないんですよ」

「そんなの、誰だって分かりませんよ」

 と部長は間髪おかずに言った。

「書き切ってから分かるんです、そういうことは。
 書き切ってから、『ああ、このときの自分はこんなことが書きたかったんだな』って、ようやく納得できるんです。
 書き始める前から自分が何を書こうとしているのか、十全と理解できるなら、書く意味なんてなくなっちゃいます」

 彼女の言いたいことがよくわからなくて、俺は黙り込んだ。
 彼女はばつの悪そうに目を逸らしてから、気を取り直すみたいな声で言った。

「そうだ。もしよかったら、わたしに協力してもらえませんか?」


「協力?」

「はい。えっと、知ってますか? 五年くらい前に、小学生の女の子二人が、監禁されて殺された事件」

 知らないわけがない。被害者は、学区こそ違えど、同い年の子供だったのだ。
 避けようとしたって、いやでも耳に入ってきた。

「……この辺りで起きた事件ですよね、たしか」

「うちの市です。それで、その事件で犯人が監禁場所に使ったっていう廃墟の洋館……。
 そこに、近いうちに行ってみようと思ってるんです。場所は、ネットとかで調べて、大雑把には把握してるんですけど」

「……どうして、そんな場所に?」

「都市伝説みたいなものがあるんです。人が亡くなった場所で、ちょっと不謹慎かもしれないですけど」

「どんな?」

「すみませんけど、それは追々。とにかく、わたしひとりで行くと、さすがに物騒かなって思って、躊躇していたんです」

 でも、と彼女は言う。そして俺の方を見る。俺は奇妙な不安を覚えた。
 不安というよりも、予感のような。でも、それとは別に、ほとんど衝動に近い興味もあった。


「かまいませんけど」

 答えてから、俺はひどく落ち着かない気持ちになった。
 部長もまた、なぜか不安そうな顔つきをしている。

 それでも彼女は、「ありがとうございます」と言った。

「それじゃあ、今週末にでも」

「休みに入ってからじゃ、ダメなんですか?」

「あんまり時間を置くと、怖くなりそうな気がするんです」

 どうしてそんな場所に行きたがるんだろう?
 俺には、彼女の考えていることが、よくわからない。いつも。

「とにかく、お願いしますね」

 俺は、それでもなぜか、頷いてしまった。




 帰り道の途中、いつもの公園で、シロを見かけた。

 いつものように高貴そうなふかふかの尻尾を翻して、とことこと四足で歩いている。
 
 この公園にはやたらと動物が多い。
 
 ミャーコにタヌキチ、ポチ、シロ、ミケ。思いつくかぎりでもそのくらいはいる。

 でも、ミャーコはこないだどっかの子供が拾っていった。ポチとミケは最近顔を見せない。
 タヌキチは、先月川沿いの堤防で車に轢かれて死んでいた。

 俺は砂場の脇で毛繕いをはじめたシロを横切って、公園のベンチに腰かけた。
 細くて長い、白いひげが風に揺れて、心地よさそうに動く。

 昼間の暑さと比べればいくらか涼しいけれど、それでも太陽の余熱は街を息苦しくさせる。

 俺がベンチに座って休んでいると、シロはトコトコと俺の足元に近付いてきて、その場で丸く寝転がった。


 こいつと仲良くなるのは大変だった。
 初めて公園で見かけてから、この白猫に一目ぼれした俺は、制服のポケットに毎日カツオ節のパックを常備するようになった。

 そしてこいつが来たタイミングを見計らって、カツオ節を足元にぱらぱらと撒く。
 カツオ節に夢中になっている間に、抱き上げてしまおうという魂胆だった。
 
 けれど上手くはいかなかった。他の猫がカツオ節をとってしまったり、風で飛ばされたり。
 ようやくシロが足元に来たと思っても、手を伸ばそうとすると跳ね上がるみたいにすぐに俺から距離をとった。

 無理に抱き上げようとしたときに、腕を引っかかれたことだってある。

 そういうさまざまな艱難辛苦の末に、俺とシロの関係性はできあがったわけだ。
 今だったら、きっと膝の上にのせたってシロは怒らない気がする。

 そう思って、俺はシロを抱き上げようとして、手を伸ばした。

 その瞬間、奴は何かに気付いたみたいにひょこりと起き上がって、公園の入り口の方に顔を向けた。
 そして、あっというまに走り去っていく。


 俺はなんだか拗ねたような気持ちで、シロの行方を目で追った。

 そこには女の子が立っていた。

「こんにちは」

 と彼女は言った。
 少女の足元に、シロは心地よさそうに頭を摺り寄せている。

「こんにちは」

 と俺は返事をした。女の子は器用に笑った。ちょっと親密そうな笑み。
 小学校高学年くらいの女の子。年相応とは言いにくい技巧的な笑い方。

 彼女はその場に屈みこんで、シロの頭を撫でた。シロは気持ちよさそうに瞼を閉じて顎をあげた。

 俺は溜め息をついた。きっとこういう運命なんだ。何に関しても。


「そいつ、シロって言うんだ」

 と俺は言った。女の子は笑った。

「知ってる」

「……どうして知ってる?」

 訊ねながら、俺はなんだかひどく落ち着かない気分になった。

「俺がつけたんだ。誰にも教えてない」

「教えてくれたよ」

 と少女は笑った。当たり前みたいな顔で。俺はなんだか怖くなった。
 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。きっと、知らないのに知ってると言っただけだ。
 子供は、意味もなく知っていたふりをすることがある。

「わたしの名前も、シロって言うの」

 彼女は当たり前みたいな顔で言った。

「ホントの名前を忘れちゃったから、自分でつけたの」


 俺はうまく答えられなかった。

「ねえ、お兄さん、ちょっと訊いてもいい?」

 彼女は屈みこんで猫の顎をくすぐりながら、そう言った。俺は頷いた。

「お兄さんの、本当の願い事って、なんだったの?」

「……え?」

「けっこう、上手にやってるつもりなんだけど、いまいち納得できてないみたいだよね?」

「……何の話?」

「だから、ひょっとして、何か隠してるんじゃないかと思って。べつに、いまさら知ったところでどうにもならないんだけどね」

 だって、もう叶えちゃったんだもん、と彼女は笑った。

「でも、教えて、お兄さん。本当の願い事は、いったいなんだったの?」




 意識が、急に浮上する。

 気付けば俺は、自分の部屋のベッドで眠っていた。制服姿のまま。
 床には鞄が投げっぱなしになっている。どうやら、帰ってきてすぐ、眠ってしまっていたらしい。

 体を起こして、額を抑える。頭がズキズキと痛んだ。風邪をひいてしまったんだろうか。

 いつ帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。

 窓の外は、残照で赤く染まっていた。

 立ち上がらなければ、と俺は思った。

 そして夕飯の準備をしないと。妹はすぐに帰ってくるだろう。
 俺が作らないと。……眠ってる場合じゃない。俺には眠っている資格なんてないのだ。本当は。

 でも、体が気怠くて、うまく動かなかった。ずっと眠っていたい気分だった。
 意識があるのが、苦痛だった。




「疲れてる?」

「え?」

 妹の声に、ぼーっとしていた意識を現実に引き上げられる。

 野菜炒めと焼き魚と味噌汁。簡単な夕食。
 目の前に既に並んでいる。
 自分が作ったはずなのに、いつ作ったのか、思い出せない。

「上の空だね」

 いつも思うのだけど、妹の声は、どこか冷めているように聞こえる。
 しっかりしている、とか、凛としている、と言い換えてもいいんだけど。

 どことなく、冷めて聞こえる。

 あるいは、後ろめたさのせいかもしれない。


「今朝から、なんか変だね?」

「……ごめん」

「べつに、謝ってほしいわけじゃないよ。ただ、何かあったのかなって、気になっただけ」

「何かあった、っていうより……」

「て、いうより?」

「……寝惚けてるのかも」

 妹は少しだけ笑った。

「まだ寝足りないの?」

「試験が終わって、気が抜けたのかも」

「まあ、休みも近いしね」

 いつもながら、思うのだけれど、俺の活力のなさとか、そういうものを、妹はあっさりと受け入れてくれる。
 まるで当たり前みたいに。俺は少し、それが怖かった。


「試験、そういえば、どうだった?」

 俺はふと思い出して、そう訊ねた。妹は困った顔をした。

「……」

「悪かった?」

「べつに、そういうわけでもないけど」

「いつもよりは?」

「……ちょっと下がってた」

 俺は少し黙った。ちょっとどころじゃないくらい、意外な話だ。
 とはいえ、時期が時期だし、成績だって不動のものじゃない。不自然なことでもないんだけど。

 俺の沈黙をどう勘違いしたのか、妹は怒ったみたいに口を開いた。

「……いいの! ちょっと一学期はサボり過ぎただけ! これからちゃんと勉強するもん」

「その意欲を、テストの前に出せればよかったよな」

「うるさいな。……お兄ちゃんはどうだったの?」


「俺は……」

「やっぱり、いい。答えなくて」

「どうして?」

「どうせ良いんでしょ?」

「まあ、うん」

 肯定すると、妹はむっとした顔になった。

「自分で言わないでよ」

「良い成績をとった奴は、自分を卑下しちゃだめだって俺は思うんだよな。
 優秀な奴が自分を全然だめだって言ったら、それ以上に駄目だった奴は気持ちをどこに置いたらいいんだよ」

「自分で優秀とか……」

「たとえ話だよ」

 妹は溜め息をついた。俺は自分の言葉について、しばらく考えていた。 
 思ったよりもずっと、その言葉は俺の胸に重くのしかかった。気持ちの置き場がない。




 俺はバスの中にいる。
 バスの座席に腰かけている。

 バスは静かに移動を続けている。

 街並みは普段よりもずっと低く、小さく、遠く見える。

 乗客たちはやけに静かだった。
 ある人は退屈そうに、ある人は眠たそうに、口を閉ざしている。

 ときどき誰かがわざとらしく咳をした。咳は静かな車内にやけに大きく響く。
 咳が響いた後、バスの中はより一層静けさを増す。

 誰かと誰かが交わす囁き声。

 バスは目的地を目指している。




 隣には、リュックサックを膝の上に抱えた部長が座っていた。
 
 約束の週末、俺と彼女は停留所に待ち合わせして、そのままバスに乗った。
 目的地は部長にしか分からない。

 彼女の私服を見るのは初めてだったけれど、意外にも動きやすそうな、ラフな格好だった。
 それも当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

 目的地は「森の中の洋館」なんだから。

 部長の手首には腕時計があった。
 リュックサックの中身を聞くと、「懐中電灯とか、コンパスとか、乾パンとかです」と真面目な顔で答えてくれた。

 俺たちはバスの座席に隣り合って座ったまま、ぼんやりと移り変わる窓の外の景色を眺めていた。


「一応、今のうちに訊いておきたいんですけど」

 俺はバスの静けさを意識して、小声で言った。彼女は聞き取りやすいようにか、耳元を近づけてくる。
 自然と、頭を突き合せるような恰好になった。隣に座っておいて、いまさらどうという距離でもないのだが。

「都市伝説って、なんなんです?」

 彼女は小さく頷いて、俺の方を見上げた。
 立っていても座っていても、部長の頭は俺の顔より低い位置になる。
 
 私服姿だと、ほとんど小学校の高学年くらいか、せいぜい中学生一年生くらいに見える。
 そのくらいの時期に、彼女の中の時間は流れるのをやめてしまったのかもしれない。

「廃墟になった洋館、当り前なんですけど、もともとは人が住んでいたらしいんです」

「……はあ」

「そんなに大きくはない建物みたいなんですけどね。洋館っていうよりは、洋風家屋、というような」

 ひそめられた部長の声が、やけに距離を意識させた。
 こうしていると、なんだか年下の女の子みたいに思えて、妙に後ろめたかった。


「べつに、別荘ってわけでもなかったみたいなんです。それなのに、結構森の奥まった場所に建っている。
 どう考えても、日常生活を営むには不便なんですけど、そこに家を建てなければいけなかった理由があったみたい。
 もちろん、建てられたのはもうずっと昔のことですから、今とは事情が違ったんでしょうけど」

 人目を避けなければいけない理由があったのか、それとも場所自体に意味があったのか。

「ここからは嘘か本当か分からない、ネットで調べた話です。
 なんでも、住んでいたのは五人。家族構成は、父、母、二人の娘と、一人の息子、だったらしいです。
 もともとは都会で暮らしていたんですけど、息子が重い病気を患っていて、療養の為に、家を建てて越してきた……」

 俺は、黙って彼女の言葉の続きを待った。

「でも、療養といっても、単に空気がきれいだからとか、そういうだけじゃなくて……。
 ……ヒメくん、知ってますか? この街の神様のこと」

「……神様?」

「はい。森の神様」

 急に話が変わってしまった。

「ずっと前からの言い伝えなんですよ。神様が住んでいる森って」

「……有名、なんですか?」


 彼女は肩をすくめて笑った。

「逆です、ね。事件が起こって、どうして洋館がそんな場所に建っていたのかって興味をもった人がいたんでしょう。
 そうして調べてみたら、この辺りにはそういう言い伝え、伝承みたいなものが、けっこう残っていることが分かった。
 実際、この辺りに住んでるお年寄りの方なんかと話をすると、簡単に教えてもらえますよ」

「つまり、洋館が建てられたのは……」

「森に神様がいたからかもしれない、っていうお話です。個人的には、納得がいかないんですけど、そういう説もあるんです。
 子供の病気がそれほど重いものだったのかもしれない。そういう伝承を聞きつけて、藁にもすがる思いで越してきたのかも、と」

 詳細はもちろん分かりませんけどね、と部長は言った。
 それはそうだろう。少し根拠に乏しい。神様が住んでいるからって、家まで建てるか?

「もし事実だとすれば、一家は、神様が本当にいる、と考えられるような根拠を持っていたのかもしれません。
 知り合いが実際に神様に会ったとか。まあ、そのあたりのことは、この話とはあんまり関係がないんです」

「それで、その神様って?」

「願いを叶えてくれる神様、らしいですよ」

「……抽象的ですね」

 部長は頷いた。


「小さな子供を自分の使いにして、願いを持つ人間の望みを叶える……そんな神様です」

「どんな目的で、人の願いを叶えるんでしょうね?」

「そのあたりは分からないです。人間に分かるものなのかどうかも、怪しいですけど」

「でも、じゃあ、その子供の病気は、治ったんでしょうか?」

「治らなかったみたいですよ。数年後に死んでしまったみたいです」

 部長はあっさりと言った。俺はなんだか裏切られたような気持ちになる。
 でも、冷静に思い返してみれば、俺たちがしているのは「洋館」についての話だ。
「神様」の話の真偽は、今は問題じゃない。


「一家は結局、この街を後にしたそうなんですが、変なのがここからですね」

「変?」

「二人の娘のうち一人が、行方不明になったそうなんです」

「……ネットのうわさですよね?」

「ある程度の客観的事実を踏まえた上での推論や憶測、と言った方が正確です」

 部長の顔はあくまで真剣だった。

「かなり後になっても、その子は発見されなかったらしいです。生きた姿でも、死体でも。
 ……実を言うとこのあたりの話は、この街に住んでいるお年寄りによる言い伝えでもあるんです」

「……言い伝え?」


「つまり、その一家の話がこんなに事細かに知られているのは、ひとつの神隠し譚として、街に語り継がれているからなんです」

「……神隠し譚、ですか」

「神様の庭に我が物顔で家を建てて、その怒りに触れたから、息子は死に、娘がさらわれた。
 そんなふうに読み取っている人もいました。事実はもちろん分かりません」

「……それ。そこ、疑問なんですけど、神様の助けを借りようとしている人が、神様の庭に家を建てますかね?」

「そのあたりのことは、ちょっとわかりません。本当はもっと別の事情があったのかもしれない」

「……どんな?」

「人目を避けたい事情ですよ。とにかくそれ以来、洋館はずっと森に残されていたみたいです」

 数年前に事件が起こるまで、ずっと。俺はなんだか奇妙な虚脱感を覚えた。




 俺は気付けば、眠ってしまっていた。

 不思議なことに、俺は夢が夢だとすぐに気付いた。明晰夢。
 
 夢の中で、俺はバスに乗っていた。隣には部長が座っていた。
 部長は窓の外をじっと眺めて、何かを考え込んでいる様子だった。

 乗客はもういない。

 窓の外の景色は、だんだんと人の気配のしない、物寂しいものに移り変わっていく。
 
 うんざりしそうな田園風景。
 部長は何かを見逃すまいとしているみたいに、そこにずっと視線を走らせている。

 ほとんど何かに追い立てられるみたいに、必死そうな顔で。




 そして、肩を揺さぶられて、俺は目をさました。

「つきましたよ、ヒメくん」

 その言葉に目をさましたとき、乗客は既に、俺たち以外にはいなかった。
 俺は一瞬、自分がどこにいるのか、何をしているのか、分からなくなってしまっていた。

 促されるままに立ち上がり、料金を払い、バスを降りた。
 地面に降りてからうんと伸びをして、あくびをする。それから、自分がいる場所を確認した。

 辺りに森はない。

「……ここですか?」

「ここから、少し歩くんです」

 部長は笑いもせずに言った。


 それからお世辞にも「少し」とは言えない距離を歩いた。森というより、辺りの様子は山のようだった。

 田畑と木々、ときどき思い出したように立ち現れる人家。
 俺たちは夏の日差しに照らされながらその中を歩いた。
 
 やがて部長が、森の入口を見つける。木々の隙間にぽっかりと口をあけた、切り開かれたような土の道。

「家屋が立っていた場所ですから、獣道みたいにはなっていないはずです」

 俺は自分がどうしてこんな場所にいるのか、その理由が分からなくなりつつあった。

 森は、外から見るとそう広そうには見えなかったのに、中に入ってしまうと、その暗さ、深さに吸い込まれそうだった。
 鬱蒼とした木々。日の差し込まない梢の道。

 ふり返ると、森の入口が、ずっと遠くの方で、明るく光っていた。

 随分と、薄暗い。


 ふと、道の脇の草ががさがさと揺れた。
 そこからひょこりと顔を出したのは狸だった。人間を前にしても、物おじしていない。
 むしろ、怖がっているのは俺たちの方だった。

「狸ですね」

 と、部長は言い聞かせるように言った。「それ以外の何かではない」。

「そういえば、ヒメくんは……」

 まるで沈黙のまま歩き続けることが苦痛だというみたいに、部長は口を開いた。
 ざわざわという風の声が、今だけはすごく気分を落ち着かなくさせる。

「猫を、助けたことがあるんですよね?」

「……何の話ですか?」

「子供の頃に、轢かれそうになった猫を助けたことがあるって、聞きました」

「……ああ。まあ。結果的に自分が轢かれそうになりましたけど」

「そうなんですか?」


「どんな気分なんだろうって思ったんですよ」

「……何がですか?」

「つまり、身を挺して何かを庇うっていうのは、どんな気分なのかって」

「……どんな気分、だったんですか?」

 俺は少し考えた後、首を横に振った。

「一種の自己犠牲、みたいなものだと思ってたんです。ああいうのは。俺の場合は違ったけど」

「なんだったんですか?」

「俺は、犠牲にして惜しいほどの自分なんて、最初から持ち合わせちゃいなかったんですよ。
 たとえば、赤信号の横断歩道の前に立っているとき、誰かが背中を押してくれたらなって思うじゃないですか」

「……」
 
「そういうのと同じなんです。つまり、死ぬための大義名分というか、そういうものが欲しかっただけ。俺の場合は、ですけど」

 部長は返事をしてくれなかった。俺は自分が何を話しているのか、よく分からなかった。
 森の空気は澄んでいるはずなのに、ひどく澱んでいるように感じられた。




 携帯は圏外になっていた。

 午前十一時半を過ぎた頃、俺と部長はようやくひとつの建物を見つけた。
 森に入ってから四十分近く歩いた頃だった。

 部長の言う通り、「洋館」というイメージから想像するよりは、その建物は小さかった。
 何人かの家族が生活するために作られた家屋。

 それでも、建物の雰囲気は瀟洒で、一般的じゃない。二階建ての白い家。

 放置されていた名残りだろう。
 白かったはずの壁には濃い汚れがつきまとい、蔦が絡んでいる。

 周囲の森から草木が侵食し、足元に茂っている。
 家の脇に、大きなドラム缶がいくつか並んでいた。


 廃墟というものには独特の空気がある。
 退廃的、というとあまりに耽美的すぎるし、虚無的、というのもあまりに悲観的すぎる。

 原始的な停滞。

「ここですか?」と俺は訊ねた。

「たぶん」、と部長は答えた。

「入るんですか?」

 部長は頷いた。

「そのために来たんですよ」

 彼女は繕うように笑う。
 この建物の位置を、部長はずっと前から知っていたんだろうか。
 最初話したときには、もっと曖昧に言っていた気がしたのだけれど。


 最初、玄関を見つけることができずに、俺たちは家屋の周りを一周した。
 埃で白っぽく汚れた窓から、中の様子を窺う。
 
 窓は割れていなかった。
 室内にはモノが極端に少なかったけれど、ソファや机、椅子などの家具は当たり前のように残っていた。
 例の一家が置いていったのだろうか。

 玄関を見つけると、部長はリュックサックから軍手を取り出して、俺に手渡した。
 自分の手にもそれをつけると、躊躇せずに扉を開ける。

 扉を開けるとき、そのまま外れてしまうのではないかと思うほど大きな軋みをあげた。

 いくらか引っかかる扉を、半ば引きずるようにして開けると、中の様子がうかがえた。

 部長は扉を開けきってから、何度かこほこほという咳をした。


 灯りのない屋内は薄暗かったが、思ったほどではなかった。 
 そもそもは人家なのだから、昼間から暗くなるようには設計されていないということかもしれない
 部長が次に取り出したのはマスクと懐中電灯だった。

「用意周到ですね」

「ただでさえ、森の中ですから」

 いったい何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
 マスクに懐中電灯、軍手。我ながらどう考えても怪しい。

「ずいぶん古い建物ですね」

「話が間違って居なければ、数十年前の建物ってことになりますから」

「気になっていたんですけど……この洋館、例の誘拐事件のとき、犯人の隠れ家として利用されてたんですよね?」

 何を当たり前のことを、という顔で、部長は頷いた。
 埃っぽい床の上を、彼女は土足のまま進んでいく。

「あの事件のこと。俺、いまだに詳しくは知らないんですけど……」


「まあ、無理もない、というか、いろんな点が謎のまま、報道されなくなりましたからね」

「……どんな事件でしたっけ?」

 部長は少し考え込んだ様子だったが、すぐに話し始めた。

「小学生の女の子三人が行方不明になったんです。
 そのうちの二人は友人同士で、もう一人は違う学校の生徒。合わせて三人、です。
 もっとも、これは後から分かった話で、当時は別々の出来事として受け止められていたみたい。
 つまり、二人の小学生の失踪と、一人の小学生の失踪、というふうに」

 廊下を進んでいくと、進路は三つに別れた。一つはすぐ傍の階段に繋がっている。
 一つは奥へとまっすぐ、もう一つは左側の部屋に。部長は左側の部屋への扉をくぐった。

 中は思ったよりも明るかった。大きな窓。どうやらリビングのようになっていたらしい。
 さっき外から覗いた部屋も、ここなのかもしれない。外に面していて、すぐに出られるようになっている。
 テーブルやソファは埃をかぶっていて、ちょっと直には触れそうにない。
 
 何かの参考になりそうなものはなかった。写真も日記も新聞も。当然だ。


「それが関連したふたつの事件だと分かったのは全部が終わってからでしたけどね。
 というのも、事件が発覚したのは、すべてが終わったあとだったからなんですけど。
 つまり、それまでは誘拐事件だということも、犯人の目的どころか存在も、分かっていなかったんです」

 部長はそこで一度話すのをやめて、周囲の様子を窺い出した。
 
 庭に面した窓にはクリーム色のカーテンが掛けられていた。
 あるいは日に焼けてしまっただけで、もともとは白かったのかもしれない。

 大きめの窓から外の光が差し込むと、屋内の暗さがいっそう際立ったけれど、それは奇妙に静謐な印象をもたらした。

「事件が発覚したのは、通報があったかららしいんですが、この通報っていうのも奇妙なんですよね」

「奇妙?」

「つまり、小学生くらいの女の子だったらしいんですよ、声が」

「……」

 また、小学生くらいの女の子。


「公衆電話からの連絡だったらしいんです。この場所に、女の子が監禁されている、という内容。
 悪戯だと判断しなかった警察は偉いですね。わたしだったら信じませんけど」

 そして、事件が発覚した。

「そして、事件が発覚したわけです。そのときには、女の子は死体だったらしいですが」

 この家の中で。
 昔、女の子が殺された。この不思議と静謐な空間で。

「もちろん後の調査で分かったことですけど、犯人は二ヵ月にわたり女の子たちを監禁していました。
 そして何をしていたかっていうと、まあ、夕方のニュース風にいえば……性的暴行を加えていました」

 このあたりは、かなり曖昧なんですけどね。部長の声は妙にさめていた。

「犯人の男については、よく分かっていないですけど、どこにでもいるような男性だったらしいです。
 普通に学校を出て、普通に働いてて、ニュースに載せて映えるほどの卒業文集も書いていなかったらしい、と」

 つまり、ごく当たり前の男性だったわけです。彼女は笑いもせずに言う。


「でも、この事件のおかしいところっていうのは、そういう部分じゃないんでしょう?」

 俺が言うと、彼女は頷いた。
 森の中はあんなに薄暗かったのに、この家の中から見ると、とても明るく見える。
 木の葉が日に照らされ、黄緑色に輝いている。

「犯人も、死体で発見されたんでしたよね」

「はい。マスコミによれば、他殺体だという見方が強かったみたいですけど」

「しかも、ただの他殺体じゃなくて……」

「焼死体」

 この家の庭で、炭のようになった死体が発見された。
 でも、死因は失血死だった。背中にいくつもの刺突の痕が残っていたのだ。
 ナイフか何かで刺されたような、そんな痕。


「だから、最初の頃、捜査はすごく混乱していたみたいですよ。
 通報に従ってきてみれば、死体が三つ。女の子は、片方が縊死、もう片方は頭を強く殴られて死亡。
 そして庭には焼死体、です。端的にいって、わけがわかりません」

 それでも、捜査の末に、焼死体が犯人であることが判明した。
 犯人には共犯者がおり、その人物が何かの理由で犯人を殺したのかもしれない、という推論もあるにはあった。
 でも、結局その共犯者が見つかることはなく、事件はそのまま忘れ去られた。

「……部長、気になったこと、訊いてもいいですか?」

 外から差し込む光は、彼女の顔を、俺からは見えにくくさせた。

「なんですか?」

「死体は、三つですよね? 女の子二人に、犯人の男が一人」

「はい」

「いなくなった女の子は、三人じゃありませんでしたか?」


 部長は少し考え込むように黙り込んだ後、また口を開いた。

「見つかった女の子は二人。これが奇妙なんですけど、さっき、言いましたよね。
 二人組の子と、一人の女の子が失踪したって」

「はい」

「二人組の片割れだけが、見つからなかったんです。関連がなかったはずの二人が、同じ場所にいたのに」

「……その片割れは?」

「見つかりませんでした。生きた姿でも、死んだ姿でも」

「……数が合いませんよね」

「共犯者に連れ去られた、っていう説もありますけど、そもそも共犯者説自体が、怪しいところです。
 状況的には、そう考えるのが一番自然といえば自然なんですけど……」

「……あるいは、今もどこかで生きているかもしれない?」

「……どうでしょうね」

 部長は曖昧に首を傾げた。それはなさそうだ、と言いたげに。

「でも、もし生きているとしたら、ヒメくんと同い年くらいになりますね」
 
 俺はその言葉に、少しだけ怖くなった。




「もうひとつ、気になっていたことがあるんですけど……」

 と、俺は部長にそう訊ねようとしたのだが、途中で物音が聞こえた。
 二階から。……足音? 

 部長と目が合う。彼女の表情がこわばっている。

 俺たちは声を出せなかった。お互い黙り込んだまま、廊下の方の様子をじっと窺う。
 
 足音は近付いてくる。

 床板の軋みがやけに物々しい。
 俺は部長を促して壁の陰に移動した。

 部長は緊張した面持ちでじっと部屋の入り口を睨んでいた。

 俺たちはどうして隠れたんだろう? 
 数年前に事件が起こった廃墟。そこを調べにきた。興味本位で。
 たしかに褒められた行為じゃない。でも、隠れるほどのことでもないはずだ。


 やがて、壁の向こうから話し声が聞こえた。
 ひそめられているわけでもない、堂々とした声。明るい声。
 
 女の子の声。聞き覚えのある。

 俺と部長は顔を合わせた。彼女は怪訝そうな顔をしていた。俺もしていたと思う。
 どうしてこんな場所で、女の子の声が聞こえたりするんだ?

 さっき聞いたばかりの事件のことを思い出して、俺はひんやりした気分になった。
 馬鹿げてる。子供が遊び場にしているだけかもしれない。

 でも、姿を現す気にはなれなかった。

「とにかく、三つくらい重なっちゃってるみたいなの」

 片方はそんなことを言った。聞き覚えのある声。

「ひとつは、たぶんあんまり影響がないと思うんだけど、そのうち問題が出て来るかも。
 ふたつめはちょっと変な感じ。うまく機能しなかったっていうか、不鮮明だったのかもしれない」

「もうひとつは?」

 訊ね返した声は、聴き覚えのないものだった。静かで、落ち着いていて、少し暗い雰囲気の、これも、少女の声。


「もうひとつは……」

 と明るい声が言う。
 そして、足音が止まる。
 
 静かな沈黙。俺と部長は顔を見合わせた。なぜだろう?
 少女の声なのに……すごくまずいところに居合わせたような、そんな気持ちになる。

 どうしようかと、俺と部長は顔を見合わせた。
 そして、唐突に、

「わっ」

 という声と同時に、部屋の入口から少女がこちらに顔を覗かせた。
 俺の心臓は二秒くらい止まった。

「こんにちは、お兄さん」

 当り前のように、知っていたみたいに、彼女は笑った。俺たちの方をしっかりと見て。
 とっさに俺と部長は抱き合うような格好になった。

「あれ? デート?」

 シロはからかうように笑った。


 追いかけるように、入口から姿を見せたのも、また、少女。
 シロはシロで、控えめな印象があるが、その少女は少し違う。

 控えめというよりは、物静かで、悟ったような。
 見下ろすような。

「初めまして」と少女は笑う。
 
 技巧的な笑み、ではない。
 取り繕う必要がない、とでも言いたげな、自然な笑い方。
 でも、その笑顔は、どこがというわけではないが、どこかしら、おかしかった。どこかしら、不自然だった。

 細くまっすぐ伸びた黒い髪は、首の半ばほどのところで切り揃えられている。
 目は切れ長で、釣り目がちな印象がある。
 
 背丈は、シロとだいたい同じくらい。でも、シロより、どことなく大人びた雰囲気がある。
 大人びた、というより……老成した、というような。

 でも何よりも印象的なのは、そうした細部ではなく、衣服。
 和装だった。それも本格的な。……それがやけに、似合っている。赤い和服。

「どうして、こんなところに?」

 と、俺はシロに訊ねた。公園で出会った少女。奇妙な記憶だったから、半分、夢かと疑っていたのだけど。
 彼女の反応を見るに、実際に起こった出来事だったらしい。


「それはこっちの台詞だよ」

 シロは、以前あったときよりもずっと打ち解けた笑顔だった。

「お兄さん、こんなところに何をしに来たの? 用事なんて、ないよね?」

 自然な笑みだった。暗い森。廃墟の中。怖気づくこともなく、シロは笑っている。
 まるでここにいるのが当たり前みたいな顔で。

 その仕草があまりに自然すぎて、俺は上手く答えられなかった。
 言葉を引き継いだのは、部長だった。

「少し、調べものをしていたんですよ」

 部長は、いかにも子供に話しかけるような調子で、いつもの技巧的な笑みで、シロに返事をした。
 シロは一瞬、部長の返答に驚いたように見えた。
 まるで、それまで部長がそこにいるという事実に、気付いていなかったみたいに。


「調べものって?」

 部長は答えに窮したようだった。シロの質問は、俺が部長にぶつけようとした質問と重なっていた。
 俺は、彼女がなぜ、こんなところを調べたかったのか、事件に興味を持ったのか、分からなかった。

「知りたいことがあったんです」

「そうなんだ」
 
 シロは、特に感慨もなさそうに頷くと、ちょっとだけ真面目な顔でうなった。
 そして、それから、ごく当たり前みたいな調子で、

「じゃあ、教えてあげようか?」

 そんなことを言う。
 部長は一瞬、面食らったようだった。

 なぜだか分からないけれど、俺はその瞬間、

「やめろ!」

 と半ば怒鳴るような調子で声をあげていた。漠然とした不安。
 シロの能天気な声が、なぜか、神経をやけに逆撫でする。


 シロは目を丸くしたけれど、怯えた様子はなかった。
 彼女の隣にいる少女も、値踏みするような視線をこちらに向けているだけだった。

「……ヒメくん?」

 驚いていたのは、部長と、声を出した俺自身だけだった。
 自分でもなぜ、そんなに必死な声をあげたのかは、分からない。

 でもとにかく、それはだめだ、と直感的に思った。

「ねえ、お兄さん」

 けれど、シロは俺の様子を気にもかけずに、にっこりと笑った。

「それは、もしかして――"お願い"?」

 冷え切った声。
 高みから見下ろすような。

「だとしたら、わたしがそれをきく理由は、ちょっとないかな」


 シロの笑顔は、とても自然で、だからこそ、この場面には、不自然だった。

「だって――お願いは一人につき一つだから、よく考えて決めてねって、わたしはちゃんと言ったはずだよ」

 俺はうまく声が出せなかった。
 
「そのくらいに、しておいたら」

 諌めるような声でそう言ったのは、それまで黙り込んでいた、和服の少女だった。
 透徹したような視線が、シロを咎めるように動く。

「怖がっている、みたい、だから」

 少女の声は、途切れ途切れだった。調子はずれのオルゴールみたいに。
 その子の目が、俺をとらえた途端――背筋が凍りつくような感覚がした。

「……この人が、さっき、言ってた、"もうひとり"?」

 視線は俺を見ているのに、声は俺ではなく、シロに向けられていた。
 
「そう。でも、変なんだよ、この人のも。何か、混じっちゃってるのかもしれない」

 シロと、もう一人の目が、じっと俺をとらえる。薄ぼんやりとした暗闇の中で、空気はひんやりとして落ち着かない。


 沈黙を破ったのは、それまで黙り込んでいた部長だった。

「訊いても、かまいませんか?」

 部長は、シロではなく、もうひとりの方を見つめていた。
 もう一人は、少しのあいだ部長を値踏みするように眺めた後、小さく頷いた。

「これは、"お願い"ではないので、答えてくれなくてもかまわないんですが……」

 部長の声はかすかに震えを帯びていた。

「ひょっとして、"神様"ですか?」

 荒唐無稽な言葉が、真剣な声音で、和服の少女に向けられる。
 俺は一瞬、何の話なのか、分からなかった。
 それでも少女は、とくに何の感慨もなさそうに、一足す一の答えを言うみたいに、簡単そうに。

「……はい」

 と、肯定した。俺は眩暈を覚えた。




「……神様?」

 響いたのは俺の声だった。俺以外に、誰もなにも言わなかった。
 部長も、シロも……"神様"ですら、肯きの後には何も言わなかった。

 俺は笑った。我ながら怯えた感じの笑い方だった。

「どういう意味?」

「そのままの意味」

 シロは少しつまらなそうな顔で、俺の問いに答えた。
 
「神様なんだよ」

 たいしたことではない、というように、ごく当たり前の調子で、言う。
 和服の少女は、すこしおどおどした様子で、しばらく何かを言いあぐねていたようだった。


 俺は彼女の言葉をじっと待っていた。何かの冗談か、ごっこ遊び。そう考えてしまえばいいはずなのに。 
 なぜか俺は、すごく真剣に、彼女の言葉を否定したくて仕方なかった。

「でも、神様というのは、本当は少し、語弊がある、と思います」

 誤解を恐れるような口調。

「神様、というわけではなくて、少し、外れている、ような、そんなかたちです、わたしは」

 かたち。

「神様、という言葉は、たぶん、この森に以前あった、偽物のことを指すのだと、思う。
 言葉の上では、似ているけど、わたしがしているのと、その偽物がしていることは、まったくちがうことだから。 
 でも、それは神様と呼ばれていたし、わたしも、そのことを利用もした。けど、わたしは、神様じゃないです」

 俺は何を訊けばいいのか、分からなくなってしまった。どこから訊けばいいのだろう。
 それとも、バカな冗談だと一笑に付せばいいのか?

「偽物が、あまりにひどいものだから、それならわたしが、本物になろう、と思いました。
 だから、わたしは、神様の真似事を、しているの。そういう力が、もともとあったんだけど。
 それも、いつのまにか、強くなっていて。いろんなことが、できるようになったから。
 ねえ、わたしが言ってること、ちゃんと、伝わって、いますか?」

 俺は返事ができなかった。


「つまり……そういう遊びってこと?」

 俺は試すようにそう訊ねた。少女は真剣な顔で黙り込んでしまった。
 沈黙が怖い。

「そう、思われても、特に支障はないです。訊かれたから、答えただけだから。
 信じるか信じないかは、好きにすればいいと思う」

 女の子の言葉は、俺の言葉なんてほとんど無視しているようなものだった。
 嫌な気分になりかけたところで、部長が不意に口を挟んだ。

「神様ということは、誰かのお願いを、叶えているわけですか?」

 女の子は当然のように答えた。

「そう」

「少し疑問なんですけど、どうして人の願いを叶えたりするんですか?」

 少女は押し黙った。答えにくいというよりは、答えがないときのような沈黙。


「わたしは、偽物からうまれました。偽物は、子供を使いにして、人の願いを叶える、そういう存在でした。
 時には子供を隠し、時には子供を殺しました。わたしも、そういう中のひとりでした。
 たぶん、そのことに、わたしは怒っているのだと思う。だから、反抗のようなつもりだったんです。はじめは。
 でも、今は、約束があるから。約束の為に、必要だから」

 だから、と少女は言う。

「わたしは、少し世の中に慣れていなくて、人と上手く話せないから。
 だからこの子に手伝ってもらって、願い事を、集めています。叶えられるもの、だんだん増えてきたから。
 でも、やり方が、そのぶん分からなくなってきて、わたしにも、よくわからなくなってきているんです、けど」

 ふと気付いたように、少女は俺の方を見上げた。 
 視線が、まとわりつくように澱んでいる。

「そろそろ、帰った方がいいと思う。どんな事情であれ、わたしみたいなのと長く話をするのは、よくないから。
 でも、そもそも、ここには何をしにきたの? こんなところ、用事もないでしょう?」

「神様について」、と部長は言った。

「知りたかったんです」

「……どうして?」

 部長は口籠ってしまった。答えなんてなかったのかもしれないし、言いにくかっただけなのかもしれない。


「でも、もしこの森の神様について、何か知りたいなら、この家を出て、道なりにずっと進んでみるといいかもしれない。
 けっこう、歩くけど、開けた場所に出ます。そこに、昔、神様がいました。随分前だけど。偽物だったけど。
 たくさんの人の願いを、叶えた場所です。焼け落ちてしまった、けど。この森の神様の正体は、そこにあると思う」

「……ありがとうございます」

 部長は丁寧に礼を言って頭を下げると、俺を促して部屋から出させた。

「またね」

 とシロは笑った。俺は自分がどんな顔をしていればいいのか分からなかった。

「あなたも」、と和服の少女は俺に声を掛けた。

「気を付けて。わたし、誰かを不幸にしたいわけじゃないんです」

 その言い方だと、まるで。
 俺が不幸になりそうだ、とでも言いたげだ。




 廃墟を出た。女の子をふたり、置き去りにしたまま。
 その選択は明らかに異常だった。俺も部長も、本当ならそんなことをするべきじゃない。
 
 でも、あの二人は……"変"だった。
 自分がおかしくなったんじゃないかと錯覚してしまいそうになるくらい、自然に、おかしかった。

 そうした感覚は数分間俺にまとわりついて離れなかった。
 神秘的、というと少し詩的すぎる。異質な、というと今度は毒々しい。

 ふさわしい言葉が見つからない。いつも。

 とにかく、そうした異質な感覚。それは数分間、俺の思考を支配していた。
 数分後には消えてなくなっていて、今度は彼女たちを置き去りにしたことに対して後ろめたさを感じるようになった。

 でも、その頃には俺も部長も、廃墟を後にしていた。しかも、例の言葉の通り、森の奥へと移動していたのだ。


 どうして歩いているのだろう?
 時刻は正午を回っていた。俺たちは廃墟を出て十五分ほど歩いた。

「そろそろ、お昼にしましょうか」

 部長は歩いてきた道の凹凸を踵で確かめて、少しでも周囲より平らな場所に持参していたビニールシートを広げた。
 
 彼女はそこに腰を下ろすと、リュックサックを置いて、俺に座るように促した。
 普段から土日は昼を抜くことが多いから、俺は食事のことをまったく考えていなかった。
 持ち物だってほとんど何も持っていなかった。

 部長はそんなことは見越していたというように、リュックサックから二人分のランチボックスを取り出した。

「ちょっとしたピクニックですね」

 彼女がそう言って笑ったとき、俺はようやく、張りつめていた緊張の糸がゆるむのを感じた。
 罪悪感、焦燥、恐怖、よくわからない感情。そういうものが、言葉もなく歩いていた間中、ずっと俺の中にあった。
 それがようやく消え失せてくれた。


「ピクニックといえば」と部長は言葉を続けた。

「ピクニック事件ですね」

「……なんです、それ」

 部長は楽しそうにランチボックスを開けた。中にはサンドイッチが入っていた。
 もし陽射しがもう少し差し込んでいたなら、たしかにピクニックみたいだっただろう。

「1989年」

 と部長は言った。

「……どっかのバンドが結成した年とかですか?」

「ベルリンの壁崩壊、です。……あれ? ヒメくんって成績よかったんじゃ」

「詳しい年号までは、そんなに。だいたい前後の文脈で覚えてますから」

「ふうん。さりげなく優等生っぽい発言ですね」

「わりと、優等生ですから」

「授業態度は劣悪なくせに」

 部長はさらっと毒を吐いた。俺は面食らってちょっと笑った。
 ピクニックという単語から歴史上の出来事を連想できる人も、そう多くないような気はする。
 彼女はサンドイッチをランチボックスから取って食べ始める。「どうぞ」、と俺にも促す。俺は従う。


「どうして部長が、俺の授業態度を知ってるんですか」

「聞いたんです」

「誰から?」

「うちの部の佐藤君に」

「……そうですか」

 俺の話をするのか、と思って、妙に気怠い気分になる。
 
「そういえば彼、最近部活に顔を出しませんね」

「体調でも悪いんじゃないですか」

 と俺はつとめてどうでもよさそうな声を出して言った。部長は首を横に振った。

「この間会いましたけど、元気そうでしたよ。サボりですかって訊いたら、はいって言ってました」


「会ったんですか?」

「はい。ついこの前。彼女さんと一緒みたいでしたから、長話はしませんでしたけど」

 変な言い方だ。

「……どこで会ったんです?」

「コンビニです。風除室のガラスに貼られた夏祭りのポスター、じっと眺めてました。
 何をやらせても、絵になる子ですよね。……どうかしましたか?」

「……あ、いえ」

「大丈夫ですか?」

「……少し、頭が痛んだだけです」
 
 ずきずきと。傷口を押し広げられるような。何かを突き立てられたような。
 でもその痛みはずっとそこにあったのだ。忘れてしまっていただけで。

 俺はそんなことを知りたくはなかった。


 部長は心配そうな顔で俺の方を見た。「心配そうな顔」というのは、少しどころじゃないくらい意外な気がした。
 彼女はそんな顔をしそうにもなかった。少なくとも俺の印象ではそうだった。

 きっと俺はそういうふうに、他人のことを決めつけすぎてしまっているんだろう、いつも。
 これまでずっとそうだった。俺は誰かを侮って、決めつけて、見くびって、見下して、そういうふうに過ごしているのだ。
 そんなふうにして誰かを傷つけて、最後にはいつも、誰よりも矮小で惨めなのは自分自身だと思い知らされる。

「……あの」

 沈黙に気まずくなったのか、部長の声はいつもよりおどおどして聞こえた。

「……お茶、飲みます?」

「……いただきます」

 部長は持ってきていたらしい紙コップに水筒から冷たいお茶を注いだ。
 俺は手渡されたコップを受け取って少しお茶を啜った。よく冷えていた。

「荷物」と、俺は気付けば声に出していた。

「重くありませんでしたか」
 
 部長は一瞬、何を言われたのか分からないような表情で、じっと俺の方を見た。
 俺は目を逸らした。気まずさと後ろめたさ。逃げ出したいような気持ちになる。


「ずいぶん、いまさらですね?」

 皮肉というわけでもなさそうだった。単に、思った通りの言葉がでてきてしまった、というような。
 それから部長は、楽しそうに笑う。

「いつも後になってから気付くんです」と俺は答えた。

「毎晩、眠る前に、その日の自分が発した言葉を、洗いざらい検証するんですよ。
 内容とか言い方とか、ニュアンスとか、言葉の選び方とか。そういうことを思い出すんです。
 あんな言い方をしなきゃよかったとか、そもそもあんなこと言わなきゃよかったとか、そんなことを考える。
 考えていると、全部が全部、無神経でどうしようもない言葉に思えてくるんです。そう思うのは後になってからなんです」

「そういうのは、なんとなく、分かるような気もしますけど」

「そうこうしているうちに、考えるのも嫌になって、気付いたら眠っているんです」

 まるで目を逸らすみたいに。逃げるみたいに。

「気にしすぎですよ」

「そうかもしれない」

 でも、気にしないでいることはできない。他の人は、そういうことを気にしなくても、上手くできるかもしれないけど。
 俺は、上手く振る舞うことができない人間だから。人一倍、気をつけなきゃいけない。


「そろそろ、行きましょうか」

 食事を終えて、少し休んでから、部長は荷物を片付けて、そう言った。
 俺はそれを手伝いながら、どうしてあんな話をしてしまったんだろう、と、そんなことを考えていた。
 
 荷物をまとめ、リュックサックを背負おうとした部長の手を、俺は止めた。

「俺が持ちます」

「……でも」

「迷惑なら、いいんです。断ってください。でも、何も言わないでいたら、俺が今晩眠れなくなるんです」

 部長は笑った。

「……じゃあ、お願いします」

 俺はほっとした気持ちで、リュックサックを肩に担いだ。
 本当にたくさんのものを背負っていたんだろう。鞄はずっしりと重かった。おかげで俺の気分まで重くなった。


 再び歩き始めてから、三十分以上、道は曲がりくねったり傾斜を挟んだりしながら続いた。
 不思議と、それでも歩きづらくはなかった。こんな森の奥まで、人の行き来があるとも思えないのに。

 やがて、和服の少女が言っていた通り、開けた場所に出た。
 
 俺と部長は言葉もなく目を合わせた。どうやらここらしい、と互いの目が言った。
 
 開けた、というよりは、広い空間。本当に。学校のグラウンドより広いかもしれない。
 それくらいの平らな空間に、何もない。草花すら生えていない。ただの空き地。

「何も、ない、ですよね?」

「そう、ですね。何もない。でも……」

 どうして、森の中に、何もない、広い空間があるのか。部長の言葉の続きは、聞かなくても想像がついた。

「……"焼け落ちてしまった"」

 部長は不意に、そう言った。"焼け落ちてしまった"。


「……ここが、あの子が言ってた、神様の居た場所、ってことですか?」

「でも、ここ、変ですよ」

 部長は、俺の言葉が聞こえなかったかのように、言葉を続けた。

「変です、ここ。なにかが。だって、こんなの……」

「……変って、何がですか?」

「よく、分からないですけど、なにか――」

 ――気持ち悪い、と部長は言った。彼女の顔は青ざめていた。

「大丈夫ですか?」

 蒼白な表情。少し、体がふらつく。彼女はその場にしゃがみこんで、口元を抑えた。
 俺の言葉に返事すらせずに、けれど彼女は、怯えたような態度で、辺りを見回した。

 彼女の指先が、かすかに震えている。
 彼女は"何か"を感じていた。でも、俺は何も感じなかった。
 そこに何かあるようには思えなかった。




 帰りのバスの中、時刻は四時半を回っていた。部長はあの空地に辿り着いて以来、ほとんど言葉を発していない。
 俺はどうしようもない据わりの悪さを感じていた。

 バスの中に、俺たち以外の乗客はほとんど乗っていなかった。
 ひどく静まり返っていた。普段なら俺も、そこで黙り込んでいただろう。

 でも、今は何かを話したい気分だった。
 何かを話していないと、怖かった。何が怖いのかは、よくわからなかったけれど。

「訊いても、いいですか」

 部長の顔色はだいぶマシになっていたようだったが、それもそう見えただけのことかもしれない。
 それでも、声を掛けずにはいられなかった。

「……なんですか?」

 部長は、いつものような笑顔すら見せてくれなかった。疲れ切ったような、眠そうな、顔。

「部長は……いつ、あいつに会ったんです?」
 
 俺は、けれど、訊きたかったのとは別の疑問を彼女にぶつけた。


「あいつって……」

 訊ね返そうとして、途中で誰の話なのか分かったのだろう。彼女は少し考えてから答えてくれた。

「水曜、だったはずです。部活を休んだ日ですから」

「……部活、休んだんですか? 部長が?」

「意外ですか?」と彼女はようやく笑ってくれた。くたびれた笑みだった。
 
「病院に行ってたんです」

「……病院?」

 繰り返してから、しまった、と思った。部長は気にしたふうでもなく頷いた。

「検査があったんです。脳波の検査。わたし、軽度の癲癇なんですよ。
 日常生活に支障はないし、発作だって数えるくらいしか起こしたことないですけど。
 それでも毎朝、毎晩、欠かさず薬を飲んで、半年に一回、病院に行って検査をしなきゃいけないんです」

 俺はどう答えるのが正しいのか分からなかった。
 でもきっと、部長は正しい答えなんて、最初から求めていなかったのかもしれない。 
 眠たげな顔で、彼女は続けた。


「脳波の検査って、したことありますか? なんかね、頭にたくさん、電極みたいなのをつけられるの。
 電極のコードはたくさんあって、機械に繋がってるの。それを一本一本、頭のいろんなところに貼るの。首と、腕にも貼るんだけど。
 薬みたいなのを塗られて、その上にテープで貼りつけて……。
 でも、最近はやり方もちょっと変わったのかな。昔はゴムの帽子みたいなの、被らされてた。
 子供だったからかもしれない。とにかくね、電極をつけて、脳波室のベッドに横になる」

 まるで、その場面を思い出そうとしているみたいに、彼女は話続けた。

「準備が終わったら、部屋が暗くなって、光の明滅を浴びせられたり、目を開けたり閉じたり、深呼吸をさせられたりして。
 それから、眠ってるときの脳波もはからなきゃいけないから、真っ暗になった脳波室の中で眠るの」

 眠らなくちゃいけないの、と彼女は言った。

「眠らなきゃって思うと、うまく眠れなくなるでしょう? 舌の位置とか、目の向きとか、そういうのが気になって。
 それでね、普段眠るとき、眼球の向きはどうだったっけって考えて、目を動かして落ち着く場所を探そうとするの。
 でも、そうすると、脳波室の扉が少し開いて、目を動かさないでください、って言われるの。分かっちゃうんだよね、きっと。
 わたしは余計に不安になって、余計に眠れなくなる。段々、自分がとてつもなく悪いことをしているような気分になって……」

 不意に彼女は、はっとしたような顔をした。
 それから首を横に振って、取り繕うように笑う。さっきまでのような、ぼんやりとした顔つきではなく。

「ごめんなさい。変な話、聞かせて」

「……いえ」


 また、沈黙が続く。たぶん俺たちは疲れていた。
 
「妹だったの」と、部長は言った。

「……え?」

「五年前、わたしの妹が、あの家で殺されたの。本当は殺されるはずじゃなかった。 
 わたしが殺されるはずだったんだよ。夕方に、おつかいを頼まれてたんだ。
 でも、わたしは居眠りしちゃって、仕方なく、妹が代わりに出掛けて、そのまま帰ってこなかった」

 ばかみたい、と部長は自嘲するように笑った。

「いまさら何をどう調べたって、もう終わったことなのに。
 ごめんなさい、また、変な話して。誰にも話したこと、なかったんだけど。
 ごめんなさい。変なことに、付き合わせて。あんなところまで、連れていっちゃって。
 どうしても、行ってみたかったの。行ったところでどうしようもないって、分かってたんだけど」

 だって、わたし、本当はあそこで死ぬはずだったんだから。

 眠たげな声でそう言ってしまうと、彼女は急に意識を失ったようにすっと眠り込んでしまった。
 俺の肩に彼女の頭の重みが掛かった。俺は何を考えればいいのか分からなかった。
 
 バス停につくまで、部長はずっと眠りこんでいた。
 眠り込んでいたはずなのに、ときどき彼女が泣いているような気がした。




 バスを降りたときには既に、部長は眠たげな雰囲気すら残していなかった。
 自分の手で荷物をもち、自分の足で立って歩いていた。

 そしていつもみたいなよそよそしい敬語を使って、俺との距離を取り直した。

「今日はありがとうございました」と部長は言った。

 俺はなんと答えていいか分からずに、うなずいた。
 結局、今日一日をかけて俺たちがしたことは、なんだったんだろう。

 徒労とまでは言えない。でも、部長はあれだけのことで納得できたのだろうか? 
 でも、できていなかったとして、どうすれば納得できたのだろう? その答えも分からなかった。

 夏の夕暮れは日が沈むのが遅くて、空はまだ暗くなりきってはいなかった。
 俺たちは停留所でしばらく向かい合い、黙り込んでいた。


 何かを、言わなければならない、と思った。
 でも、何を言えばいいのか、分からない。

 何を言えばいいのか、分かったところで、どうせ伝わらない。
 知ったようなことを言っていると、軽蔑されるのがオチだ。

 部長の顔は、夕陽の逆光のせいで、よく見えなかった。

「もうすぐ、夏休みですね」

 そんな、間を持たせるみたいな世間話を、彼女は急にはじめた。

「はい」

「来週、部活、出ますよね?」

「はい」


「何かを……」

「……はい?」

 彼女は少しだけ間を置いた。緊張したような様子で。

「何かを、書いてみる気はありませんか?」

「……どうしてです?」

 彼女は困ったように笑った。みんな、俺を前にすると、そんなふうに笑う。
 子供の相手をしているみたいに。

「興味があるからですよ」

「そうですか」

 俺はどう断るべきか迷った。 
 普段なら、部長はそんなことは言わなかっただろう、と思う。
 でも、今日、彼女は少し疲れていた。だから、そんなことを言ったんだろう。


「なぜ、書くのをやめたんですか?」

 彼女の質問は唐突で、だから俺は一瞬、その文脈が読み取れなかった。
 部長の中ではどうやら、俺が何かを書いていた人間だということは――事実として扱われているらしい。

「なぜでしょうね?」と俺は訊き返してしまった。はぐらかすつもりもなく。
 ただ、本当に自分でも分からなかったのだ。

「たぶん、書くことに疲れたんだと思います」

「どうして?」

「楽しくなかったから」

「最初から?」

「……楽しくなくなったから」

「どうして?」

 どうしてだろう?


「きっと書くことがそんなに好きじゃなかったんでしょうね」

「わたしもですよ」と彼女は言った。

「おそろいですね?」と続けて笑う。ばかばかしさに俺も笑った。

「誰かを軽蔑するつもりなんてなかったんですよ」と俺は言った。

 部長は少しだけ眉を寄せた。言葉の意味を、上手く掬い取れなかったみたいに。

「でも、書いていると、段々といやになってくる。何も伝わらなくて、それはきっと俺のやり方の問題なんだろうけど。
 技量の、問題なんだろうけど、でも、嫌になってくるんです。誤解されて、決めつけられて、見くびられて……」

 その程度のものしか、書けなかった、という意味なのだけれど。

「それでも、好きなように書いてみようって思ったんです。好きなようにやってみようって。
 でも、やっぱり、違うんですよね。誰も思った通りには受け取ってくれない。
 だから人に見せるのが嫌になったんですよ。心底いやになったんです」


「理解者がほしかったんですか?」

「そうじゃないと思っていたんですけどね。そうなのかもしれない。
 よくわからない。それ以前の問題なのかもしれない」

「それ以前……?」

「結局、方法論がすべて間違っていたのかもしれないってことです。対象化に失敗している。
 本来、そこに求めるべきじゃないものを求めていたのかもしれない。つまり、何もかもすべて間違っていたんですよ。
 誰もそんなものを求めていなかったし、俺だって本当はそんなものを書きたいわけじゃなかった」

「でも、書いた」

 俺は頷いた。彼女は首を傾げた。

「どうして?」

 どうしてだろう?

「きっとそれ以外に何もなかったんでしょうね」

 俺の答えに、彼女は溜め息をついた。


「書いていると、段々不安になって、追いつめられてくるんですよ。
 楽しくなんてないし、いつも怯えてるし、段々自分の無知とか、非常識さとかを、責められてるような気がしてくる。
 書き終えたところで達成感なんてない。あるのは虚脱感だけ。
 誰かが褒めてくれるわけでもないし、誰かが感心してくれるわけでもない」

「……それでも、何作も、書いたんですよね?」

「書きました。ぜんぶ無意味でしたけど」

「……どうして、そんな苦痛なだけの作業を続けてきたんですか?」

「さあ? 書き終えてしばらく経つと、どうしようもなく不安になるんですよ。
 とにかく何かを書かなきゃいけない、と思う。それだけでした」

「今は?」

 俺はその質問には答えなかった。

「逆に聞きたいんですけど、部長はどうして書くんですか?」

「どうして?」と彼女は鸚鵡返しした。考えたこともなかった、というような表情。




 部長と別れて家に帰る頃には六時を回っていた。
 
 ひどく疲れていた。

 妹は玄関までぱたぱたとやってきて「おかえり」と言った。「ただいま」と俺は答えた。
 彼女は俺から荷物を受け取ろうとしたけれど、俺は荷物という荷物を持っていなかった。
 なにひとつ持っていなかった。

「なんで急に出迎えなんてするの?」

 そう訊ねると、彼女はちょっと首をかしげた。

「新婚さんごっこ」

「だと思う」とでも言い出しそうな、曖昧な表情。
 俺たちは一人二役の生活をしている。欠けた穴を埋め合わせるみたいに。
 
「どんな気持ちになる?」

「分からないから、してる」

 そうだろうね、と俺は言った。ダイニングを抜けてキッチンに向かい、手を洗ってから冷蔵庫の中身を探る。
 夕飯の準備を始めないといけない。


「ご飯なににするの?」

「うーん……」

 妹の問いかけに対して、俺は迷った。
 今日は遅くなるかもしれないと分かっていたから、あらかじめ買い物は済ませていた。
 それでも夕食の時間に間に合うのかどうか怪しかったから、インスタントのものも用意はしてある。

 正直体が重いから、手抜きしてしまいたいところなのだが。
 自分の都合で手を抜くのも、なんだか悪いという気もする。

「何が食べたい?」

「わたし、肉食系女子」

 真面目な顔でそんなことを言われて、俺は少し戸惑ってしまった。
 虫も殺せないような顔をしているくせに。

「じゃあ、生姜焼き」

 俺の提案に、彼女は、うん、と頷く。

「わたしも手伝う」

「ありがとう」

 どうして頭が痛むんだろう。




「今日はどこに行ってたの?」

 夕飯の席で、妹は当たり前みたいに訊いてきた。

「デート」と俺は答えた。彼女は興味なさそうに頷いた。

 それから少し沈黙が続く。食器が鳴る音。淡々としている。
 
「今日、少し暑かったよね」

 沈黙を嫌ったように妹は口を開く。うん、と俺は頷いた。
 エアコンの排気音。妹はまだ言葉を続ける。

「テレビつける?」

「え? ……いいよ」
 
「……ねえ、何かあった?」

 俺は黙った。


「変だよ、少し」

 真剣な顔。どう誤魔化そうか、と俺はとっさに考えていた。そう考えている自分に気付いて嫌になった。

「何もないよ」

「嘘」

「本当」

 妹は溜め息をついた。

「嫌なことでもあったの?」

「まさか」

 俺の答えに、彼女はむっとした顔になる。
 何を言えっていうんだ? 言えるようなことなんて何も起こってない。
 いやなことなんてひとつも起こっていない。

 伝えるべきことはひとつもない。
 結局妹は、その後食事を終えるまで、一言も話さなくなってしまった。




 夕飯の片付けを済ませてから、俺は公園に散歩に出かけた。

 どこかから悲鳴が聞こえてきそうなくらい静かな夜だった。
 
 日はとうに沈み、人家と街灯の灯りだけが道を照らしている。
 週末の夜。

 公園にはシロが居た。

「こんばんは」と彼女は笑う。「こんばんは」と俺も返す。空の端に赤い明滅。
 飛行機は飛んでいく。

 彼女はベンチに座っていた。街灯の光にまとわりつく羽虫の気配。
 景色が淡く光をまとっている。

「ここにいると思ってたんだよ」と俺は言った。

「わたしに会いたかったの?」

 不思議そうな声。俺は「そう」と頷いた。彼女は笑った。

「どうして?」


「つまり、きみは俺に対して、何か隠していることがあるんじゃないかと思って」

「隠す?」

「つまり、きみは、俺について何かを知ってるんじゃないか」

「なにかってなに?」

 シロの笑い方は技巧的だった。技巧的に隠されていた。せせら笑うような響き。

「それがなにかは分からないけど、きみは俺と会ったことがあるんだろ?」

 空には月が浮かんでいた。

「ねえ、神様のこと、信じた?」

 シロの問いかけは唐突だった。俺は肩をすくめた。

「半信半疑」

「半分は、信じたんだ?」

 俺は答えなかった。シロは退屈そうな顔をする。


「神様はね、すごい力を持ってるの」

 ずいぶん抽象的な話だったが、俺は口を挟まなかった。
 シロはベンチに腰かけたまま、ぼんやりと空を見上げながら、言葉を続けた。

「生まれつき持ってたんだって。そういうのが。それがどんどん強まっていったんだって。
 死んでからよりいっそう、力が強くなっていって、今も強くなり続けてるんだって」

「……今"死んでから"って言った?」

「神様、むかしは人間だったんだって。死んじゃったけど」

 どういうことなのかよくわからなかったけど、俺は考えるのをやめた。
 考えたところでどうしようもなかった。

「神様は、願いを叶えてくれる。それが自分の役目だと思うからって言ってた。
 だからね、わたしの願いも叶えてくれるはずだったの。でもわたしの願いは、ちょっとダメなんだって」

「……ダメ?」

「難しいって言ってた。たぶん無理かもしれないって」

 シロはちょっと冷めた顔をしていた。諦念。


「でも、ひょっとしたらできるかもって、教えてもらったの。
 神様の力は、人の願いを叶えて集めるたびに、強まっていっているらしくて。
 だから、願いを集めれば、わたしの願いもいつか叶えられるようになるかもって」

「だから、協力している?」

「そう。いつになるか分からないって、神様は言ってた」

 奇妙な話だった。
 何よりも奇妙なのは、俺が納得しつつあることだ。

 なんとなく信じてしまっている。シロには、その話を信じさせるだけの雰囲気があった。
 
「わたしは神様の力を分けてもらって、その力を使って、願いを集めてるの」

「願いを集めるって?」

「つまり、願いを叶えるの。たくさん。そうすることで、蓄積されていくの」

「蓄積?」

「集めるっていうよりは、溜めこむっていう方が近いかもしれない。なんというか、強い感情みたいなもの。
 そういうのが一番力になるの。でもべつに、誰かからもらうわけじゃない。自分の中から出てくるの」

「よく分からない。誰かの願いを叶えることで、強い感情が蓄積されていって、それが力になるってこと?」


「そういうこと。その強い感情が、蓄積された感情が、願いを叶える力になるの。 
 つまり、世界を変える力になるわけ。そういうものだけが、力になり得るの」

「たとえばどんな感情?」

「嫉妬と憎悪かな」と、シロはあっさりとした声で言った。
 それからちょっと気まずそうな顔をする。弟からもらったプレゼントが気に入らなかったみたいな顔。

「愛情とか憐憫でも、べつにかまわないんだろうけどね。どんなものでも、それがエネルギーになり得るなら。
 でも、ほら、たとえ誰かの願いが叶ったとしても……それはわたしの願いが叶ったってわけじゃないから」

「誰かの願いを叶えることで、きみは嫉妬のエネルギーを蓄積していっている?」

「基本的にはね」 

 そうだとすれば、それはかなり入り組んだ、倒錯した構造だと言えそうだ。
  
「きみは、俺の願いも叶えたの?」

 シロはしばらく黙っていた。べつに答えたっていいんだけど、答えなくても問題ない、というような曖昧な沈黙。
 
「だって、きみは言ったよね。願い事はひとりにつきひとつまでだから、俺のお願いをきくわけにはいかないって」
 
 ああ、そんなことも言ったっけ、とでも言うような、どうでもよさそうな溜め息。



 どうしてこんなに、話している感覚が他人事のようなんだろう?
 シロと俺との間には、すごく距離がある。壁でもいい。断絶でもいい。とにかく大きな裂け目がある。

「そうだね、叶えたんだよ。ひとつ」

「どうして俺はそのことを覚えていないんだ?」

「わたしの都合としては、そんなことは考えないでいてくれた方がうれしいんだけどね」

 シロは飽き飽きしたとでもいうふうにベンチの背もたれに体重を掛ける。
 
「覚えていようが覚えてなかろうが、とにかくわたしはお兄さんの願い事を叶えたんだよ。
 まあでも、ちょっといろんな都合が重なって、わたしと神様も、その中に閉じ込められちゃったみたいなんだよね」

「……もっと分かりやすく話してくれないか?」

 空気が、やけに張りつめているような気がした。目の前にいる少女。
 彼女は得体の知れない力をもっている。でも問題はそこじゃない。

「わざと分かりにくく話してるんだよ。そんなに長くは続かないと思うけどね。
 安心してほしいのは、べつにこれはお兄さんの願い事の結果じゃないってこと。
 お兄さんはまったく無関係の、巻き込まれちゃっただけの、赤の他人だから。
 でも、同じ時期に叶えちゃったから、一応様子見してるだけ」


 俺には彼女の言っていることがうまく掴めなかった。
 わざと分かりにくく話している、というように、きっと彼女には伝えるつもりがなかったのだろう。
 伝わらなくてもいい、と思いながら話している。
 
 その姿は不愉快だった。でも、不愉快になる資格を、俺は持っていなかった。
 なぜなのかは分からないけど、俺は彼女に対して、何かを言う権利を持っていない。直感的にそう思っている。
 
「どうして、俺にはきみに願いを叶えてもらった記憶がないんだろう?」

 俺は同じ問いを繰り返した。

「そういう願いだったからだと思うよ」
 
 彼女は簡単そうに答えてくれた。ほとんど答えになっていないけれど。

「お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから」

 ひどい言われようだったが、記憶がないから、何を言われても他人事のようにしか感じない。
 でも、なぜだろう? ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。


 不意に、空気が緩んだ。しんと冷え切った異界のような夜の底が、ふと日常の光景へと切り替わる。
 ただの、夜の公園へと戻る。近くの家から家族の笑い声が聞こえた。

 景色は何も変わっていない。でも何かがさっきまでとは違っている。
 その変化はごく些細なものだったけど、すごく自然に世界の在り方すべてを変えてしまった気がした。
 気配の移り変わり。ざわめき。そういう一瞬がときどきある。ちょうど今だった。

 シロが、公園の入り口に視線を向ける。俺はそれを追いかける。
 そこに妹が立っていた。

「お兄ちゃん?」

 と、彼女は俺に向けて声を投げかけた。俺はとっさにどう返事をしていいのか分からなかった。

「ああ、そうなんだ」、と、シロが小さな声で言うのが聞こえた。

「え……?」

「なんでもない。わたし、帰るね」

「どこに?」と俺はとっさに訊ねてしまった。訊ねてから、強い罪悪感に駆られた。
 シロの技巧的な笑みに、一瞬だけヒビが入った気がした。彼女は傷ついたのだ、と俺は思った。

「ばいばい、"お兄ちゃん"」

 最後にわざとらしい皮肉を残して、彼女はあっというまに公園を去っていった。




「さっきの子、誰?」

 妹は公園の中で立ちつくす俺に歩み寄ると、まずそう訊ねてきた。

「このあたりの子?」

「みたいだね」と俺は答えた。

「友達なの?」

「まあ、そうかもしれない」

 本当のことを言っても信じてもらえないだろうと思って、俺は嘘をついた。

「こんなところで何してたの?」

「話をしてただけだよ」

「本当に?」

 と妹は言った。からかうみたいに笑いながら。
 たぶん冗談のつもりだったんだろう。冗談になっていなかったけど。


「どうしてきたの?」

「べつに、ちょっとした散歩みたいなもの」

 妹は当然のように言った。俺は溜め息をついた。
 嫌だったわけではない。嬉しかったわけでもない。

 ただなんとなく、落ち着かない気持ちにさせられる。
 でも、そんな気分でさえ、さっきまでの、シロと話しているときの気分と比べれば、だいぶマシだった。

「ねえ、本当に……」

 彼女は俺の顔を見上げた。

「本当に、何もなかったの?」

「どうして、何かあったって思う?」

「分からないけど……」

 俺たちは話を続けながら公園を出て、家への道を歩く。


 妹は俺に対して何かを言おうとしていた。考えながら歩いていた。
 俺は彼女の言葉を静かに待つ。たぶんあまりよくないことを言われるんだろう、と思いながら。

「ときどき、お兄ちゃんはわたしのことをすごく遠くに見てるって感じるときがあるの」

「遠く?」

「うん。つまり、何かを間に挟んでるっていうか」

 上手く言えないけど、とにかく、"何か"があるんだ、と彼女は言った。

「よく分からないな」

「そうかもしれない。わたしの気のせいなのかも。でも、ときどき思うの」

 彼女は立ち止まって、俺の掌を掴んで、じっと見た。
 俺はとっさに腕を引いて、彼女の手を弾いた。

 数秒の沈黙。

「急に、どうしたんだよ」

「どうして、手を握られただけで怯えるの?」

 妹はまっすぐ俺の目を見据えて、そう言った。射るように鋭い視線。
 そこに攻撃的な意味が含まれていると感じるのは、きっと俺の感じ方の問題なんだろう。
 彼女の言葉を、すぐに否定したかったのに、できなかった。俺はなにも答えられなかった。




「ガングリオン」

「ガングリオン?」

「……」

「なにそれ?」

 俺とタイタンは朝の教室で話をしていた。世間話の種もなくなってしまったので、仕方なく言葉遊びを始める。 
 意味はまっとうなのに、なんとなく技の名前みたいでかっこいい言葉を挙げていく遊び。

「よく知らないけど、関節近くに出来る腫瘍のことなんだそうだ」

 タイタンはどうでもよさそうに言う。俺たちは窓際の席に腰かけて、ただ始業の合図までの時間を潰している。

「技名っていうより、どっちかっていうとロボットの名前みたいだよな。なんとか戦士ガングリオン、みたいな」

「うーん……」

 タイタンは難しそうに腕を組んだ。


 こういうくだらない遊びをするのは別に初めてじゃなかった。
 俺たちはいろんな本や教科書や辞書から、遊びに使えそうな響きの言葉を寄せ集めた。
 かき集めて、響きだけを借りて、意味はその場に打ち捨てる。残骸は見向きもされない。
 
 俺たちの足元には、意味の墓場がある。音から切り離され、役目を果たすことができなかった意味の死骸。

 タイタンはうーんと考え込んで次の言葉を探したが、すぐには思いつかないようだった。

 彼が何かを要求するような目でこちらを見るので、俺も適当に頭の中を浚った。
 朝だというのに、教室の中はいやに暑い。

「オートマティスム」と俺は言った。

「なんだ、それ」

「知らない。技名っぽいだろ」

「カタカナにすれば、だいたいのものは技名っぽく聞こえる」

 そうかもしれない。でも、もし本当にそうだとしたら、この遊びには意味なんてまるでないってことになる。


「あとは何かある?」

 俺が訊ねると、タイタンはまた考え込んだ。教室の賑やかさ。うんざりするような。
 俺の意識はクラスメイトたちの雑多な話し声の中に吸い込まれる。
 
 息苦しいざわめき。

「サバイバーズギルト」

 とタイタンは言った。

「……え?」

「サバイバーズ・ギルト」

「なにそれ」

「サバイバーは生き残り、ギルトは罪悪感、だそうだ」

「ふうん。技名っぽいね」

 サバイバーズ・ギルト。サバイバーズ・ギルト。




 例のピクニック(あるいは、ハイキング)から、三日が経っていた。
 夏休みは、もう目前まで迫っている。

 俺はあの日から部室に顔を出せずにいた。

 なぜか分からないけれど、部長と顔を合わせるのが怖かったのだ。
 自分の中の何が問題なのか、それがよく分からなかった。

 部長から聞かされた話が原因なのか、あの廃墟なのか。
 それとも例の神様少女の話か、シロの意味ありげな言葉なのか。

 あるいは、妹のことなのか。

 とにかくいろんなものが俺の足元に乱雑に放り出されていた。
 無秩序で関連性がなく、一方的。

 それでも、とにかく俺は部室に顔を出すことにした。
 そういう約束だったし、よくよく考えて見れば、部室を避ける理由なんてひとつたりともありはしないのだ。
 ただなんとなく行きづらかっただけで。




 俺が足を踏み入れたとき、部室には誰の姿もなかった。
 
 こんなことは初めてだという気がした。よほどのことがないかぎり、部室にはいつも誰かがいる。
 それなのに、今日はいなかった。

 俺は部室に入って、そのままいつも座っている定位置に置かれていたパイプ椅子に腰かける。
 鞄を椅子の脇に置いて背もたれに体重を預けてから、ホワイトボードに書かれている文字列を見つける。

「夏休みにお会いしましょう」

 とそこには大きな文字で書かれていた。ホワイトボードの前の長机にはプリントが積み上げられている。
 立ち上がって見てみると、それは夏休み中の部活動の日程表だった。

 もう、登校日中に部活はないらい。

 積みかさねられた日程表の一番上の一枚を手に取り、窓際に歩み寄った。
 なんだか空気が澱んでいるような気がして、窓を開ける。


 俺は元のパイプ椅子にもう一度腰かけ、ホワイトボードの文字列をしばらくの間眺め続けた。
 それから理由もなく溜め息が出た。長い長い溜め息。

 ここにはもう誰もいない、と俺は思った。嘘をついてしまった。

 不思議と何もする気が起きなかった。妙な倦怠感が体を支配している。
 
 耳鳴りがきこえるくらいの静寂。

 一人でぼーっとしているとなんだか余計なことまで考えてしまいそうだった。
 俺はここに何をしに来たんだろう?
 
 ――だって、わたし、本当はあそこで死ぬはずだったんだから。

 言葉が頭の中から消えてくれない。

 窓から吹き込む風が日焼けしたカーテンを揺すった。 
 空気が流れて息苦しさは少しだけマシになる。

 俺は何を言えばよかったんだろう。


 ふと思いついて、例のリレー小説のノートを探した。
 所定の位置になっている部室脇の小さな机の上。

 俺は机に歩み寄って、ノートをぱらぱらと開く。

 物語は、たしかに綺麗に終わっていた。 
 登場人物たちはみんな笑っていた。割を食った悪役がいかにも痛快げに痛めつけられていた。
 こういうのは楽でいい。

 俺はノートを閉じて溜め息をついた。自分がどうしてここにいるのか、分からなくなる。

 また定位置のパイプ椅子に戻る。いっそ帰ってしまえばいいのに、何かをやり残しているような感覚が消えてくれない。
 俺は何かを言うべきだった。でも、何を言えばよかったんだろう。ぐるぐるとそんな言葉が意味もなく浮かび続ける。
 風が吹き込む。
 
 駐輪場から誰かが笑い合う声が聞こえた。

 椅子に戻る途中、俺は何かを蹴ってしまった。
 それは床の上をかすかにすべって弾きとんだ。なんだろう、と思って拾い上げると、小さな茶色の手帳だった。

 付着した土ぼこりを軽く払ってから、俺はその手帳をよく眺めた。 
 誰のものなのだろう。誰かが使っているのを見たことがある気がする。


 俺は何気なく、その手帳をぱらぱらと開いた。
 手帳なんだから、名前なんて書く人の方が珍しそうなものだが。

 案の定、手帳を開いたところで何も分かりはしなかった。

「A→罪悪感。焦燥。加害意識、神経質?、悪党、倦怠感。 B→掃除。チョコレートを配る。綺麗なひと。対比。いいやつ」

 脈絡のない単語が繋ぎ合わせられた、ほとんど暗号のような言葉の並び。
 意味は考えようとすればなんとなく分かりそうでもあったが、俺はあまり深く考えないことにした。

「A→B、嫉妬。言い争い(退屈な男)。一方的な敵意。警戒心、懐疑。Bはあくまで綺麗。」

「自己嫌悪、メモ、眼鏡、髪を切る。携帯の不調。チョコレートに対する軽蔑。(1)"とにかくあてもなくても――"」

「(2)結末の逆説。痕跡。「本当にこれでよかったのだろうか?」は反語的に。騙し絵。」

「(3)解決した物語は他人事になる、(そして僕は途方に暮れる)」

 見覚えのある字だと思ったところで、俺はこの手帳が部長のものだと気付いた。
 彼女はこの手帳をいつも持ち歩いていた。
 どうも創作用のメモか何かのように見える。

 このままではどうも役に立ちそうにもないが、おそらくこれを起点に頭の中で考えていることを思いだすつもりなんだろう。


 俺がなんだか申し訳ないような気持ちになりかけたところで、後ろでがらりと引き戸の開く音がした。

 とっさに振り向くと、やっぱりというかなんというか、そこには部長が立っていた。

「あ」

 と、彼女は最初、俺の顔を見て声をあげ、

「あっ」

 と次に、俺の手の中で開かれた手帳を見てもう一度声をあげた。

「あ、これ……」
 
 部長のですか、とか、そういう言葉を続ける暇もなく、彼女はとことこと俺の居る場所へと駆け寄ってきた。
 ほとんど必死そうな顔で俺の手の中の手帳を引っ掴むと、彼女は勢いにブレーキを掛けようとする。
 
 ブレーキは大部分の勢いを殺したけれど、それでも止まりきれなかったようだった。
 俺の手から手帳を引き抜いた部長の体は、そのまま俺の方へと少しだけ傾いた。
 
 距離が一瞬だけものすごく近くなる。
 反動みたいにすぐに離れたけど。


 部長は慌てた様子で俺との距離を取り直すと、手帳を隠すみたいに両手を背中の後ろで組んだ。

「昨日、落としちゃったみたいで」、と彼女は困ったような調子で言った。

「そうみたいですね」、と俺は返事をしたが、この答えはよくよく考えると変だったかもしれない。

「……読んじゃいました?」

「少し」

 部長の頬が朱に染まった。恥ずかしがるほど分かりやすくもないと思うのだが。
 
「忘れてください」

「忘れるほど読んでませんし、意味も把握できてないです」

「本当に?」

「……チョコレートに対する軽蔑っていうのは、比喩か何かですか?」

「忘れてください」
 
 と彼女は泣きそうな声で言った。自分でも意外に思うほど嗜虐心をそそられる。さすがに何も言わないけれど。


 沈黙が続く。部長は俺と目を合わせようとすらしなかった。

「部活、昨日で最後だったんですか?」

 俺の質問に、部長は助かったでも言いたげな勢いで乗っかった。

「はい。昨日で最終日でした」

 それから少し、困ったような顔をした。いつものような。仕方のない子供を見るような。

「てっきり、きみはもう来ないのかと思いました」

「来るって、言ったじゃないですか」

「来なかったじゃないですか。……そうじゃなくて、もう部には顔を出さないかもって」

「どうして?」

「……変な話、しちゃいましたから」

 彼女はしっかりと覚えている。何もかも。いつもより、そわそわと落ち着かない様子。
 俺は何かを言うべきだった。


 しばらく、迷っていた。それでも結局、諦めるような気持ちで口を開く。

「部長、これから帰るところですよね?」

「……はい。そうですけど?」

 彼女は不思議そうな顔をした。

「よければ、一緒に帰りませんか」

「……はい?」

 たしかに自分でも唐突だったとは思うが、そこまで驚かれると悪いことをしたような気分になる。

「少し話したいことがあるんです」

 仕方なくそう付け加えると、彼女は少しだけ緊張した顔で、頷いてくれた。




「……話したいことって、なんですか?」

 校門を出た後、部長は俺の横を歩きながらそう訊ねてきた。

 とても当たり前のことなのだけれど、彼女からすれば、自分の隣に俺がいるように見えているのだろう。
 人が見ている景色はそれぞれ違う。

「話したいこと?」

 と俺は訊ね返した。我ながら白々しい問いかけだった。
 部長は怪訝そうな顔になる。それはそうだろうな、と思いながら、俺は黙った。

「さっき、話したいことがあるから、一緒に帰らないかって」

「……ああ、そのことですか」

「そのことですか、って」

「嘘です」

 部長が息を呑んだような気がした。
 蝉の鳴き声が通りを覆っている。


 沈黙。部長は、立ち止まってしまった。そして傷ついたような顔をする。
 その表情は技巧的には見えなかった。本心から傷ついているように見えた。
 でも、どうなのだろう、そう見えるだけのことかもしれない、あるいは見た目よりずっと傷ついているのかもしれない。

 そんなことが誰に分かるって言うんだろう。

 俺もまた立ち止まり、部長の顔を見つめ、この人はどのように苦しんできたのだろう、と考えた。
 もちろんそんなことを考えたところで仕方なかったけれど、そう考えたくなった。

 俺の方をまっすぐと見つめて、彼女は口を開く。

「わたし、帰りますね」

 怒ったような、呆れたような、失望したような、そんな声音。
 取ってつけたような、悲しい笑顔だった。
 彼女は早足で俺の横を通り過ぎ、道をまっすぐに進んでいく。いつもよりずっと速いスピードで。

 俺は少しの間黙り込んだ。部長の後ろ姿を目で追うことすらしなかった。
"俺は何かを言わなければならない。""そのことはちゃんと分かっている。"
 
 それなのに俺は黙り込んだままだった。
 何かを言わなくてはならないのに。それは分かっているのに。
 言葉が出ない。


「――待ってください」

 かろうじて吐き出した言葉。意味のない言葉。縋るような言葉。
 でも、それは厳密に言えば言葉ではなかった。音だった。意味のない音。

 部長は、けれど、その音に立ち止まり、振り返って、俺の顔を見た。

 よっぽど、惨めな顔をしていたんだろうか、彼女は俺の方を見て、心配そうな顔すらした。
 
「待ってください」、と俺は繰り返した。声が震えていた。どうして俺の声が震えたりするんだろう。

 理由なんて、ない。俺の声が震えたりする理由。
 それなのに、俺の声は、自分でも分かるくらい震えていて、細くて、消え入りそうだった。
 
 俺は、なにもかも全部やめにしてしまいたいような、惨めな気持ちになった。

 部長は立ち止まったまま、何も言ってくれなかった。俺たちはしばらく、その距離を保ったまま、視線を合わせていた。
 その間も、俺は必死に、何かを言わなくては、と考えている。

 もはやこれは、一種の欠陥だな。俺はそう感じた。欠陥。すとんと胸に落ちる。
 自嘲の笑みすら出てこなかった。頬の筋肉が引きつるような感覚。




 俺の母親は六年前、道路に飛び出した俺を庇って交通事故で死んだ。
 俺を庇って死んだんだから、事故というよりはもはや事件だった。殺したのは俺だ。

 俺のせいなんだよ、と当時の俺は言った。妹はわけもわからずに泣いていて、父親は呆然としていた。
 なんていうか、遠い目をしていた。何が起こっているのか掴みとれないような、そんな顔。

 俺のせいなんだ、と俺が繰り返すと、父親はぼんやりとした視線をこちらに寄越した。

 俺が道路に飛び出したんだよ、と説明を付け加える。まだ足りないような感じがした。
 車が来ているって分からなかったんだ。俺のせいなんだ。

 父親は俺のことを怒るだろうと思った。子供が悪いことをすれば親は叱るものだから。
 でも父親は怒らなかった。自分がどんな顔をすればいいのかも分かっていない様子だった。

 おまえのせいじゃないよ、と父親は冷えた声で言った。おまえのせいじゃない、と繰り返す。
 彼は間違っていた。でももっと間違っていたのは俺だった。
 問題は「誰のせいか」じゃない。「何を失ったか」だ。

 父は母の死以降、家に居る時間を少しでも減らしたいかのように仕事に打ち込んだ。
 帰ってきても真っ青な顔で苦しそうな溜め息をつき、ソファで瞼を閉じるくらいしかしなくなった。

 父とはろくに顔を合わせなくなった。こちらから話しかけることもできなかった。
 俺は妹から両親を奪った。そのようにして今も生きている。毎朝妹に起床の手助けを受けている。現実。




 言葉はなにひとつ思い浮かばなかった。
 部長はさっきまでと変わらない目で俺の方を見ている。たぶん俺の言葉を待っている。
 
 でも俺には言えることなんてひとつだってない。

 部長はふっと俺の方から顔を逸らして、歩くのを再開した。
 俺はそれを追いかける。

「ヒメくんは、小説を、書かないんですか」と、少し歩いてから、部長は言った。

 俺はとっさに上手く答えられなかった。どんなふうに返事をするのが正しいのか、分からない。

「わたし、なんとなく、分かりました。きみは、書きたくなくなったんじゃなくて……」

 書けなくなったんですね、と彼女は言う。

「もしかしたら、本当は最初から、書けなかったんじゃないですか?」

 俺が何も言えずにいると、部長は小さく溜め息をついて、まっすぐに俺の目を見て言った。

「わたしは、きみのことが好きですよ」

 大真面目な顔で、そんなことを言った。
 だから俺は怖くなった。


 デレク・ジャーマンの映画を思い出した。ウィトゲンシュタインをモデルにした奴。

「あなたはなぜそんなに愛されたがるの?」と女が訊ねる。

「完璧でありたい」男は頭痛を堪えるようなしかめっつらで答える。

「私は違うわ」と、女は言う。

「それで友人になれると?」男は苦しげに訊ね返す。

「知らないわ」、と女はせせら笑う。人は摩擦がある世界の中でしか生きられない。

「嘘ですよね?」と俺は真剣に訊ねた。部長の表情はほとんど動かない。
 
 彼女は答えてくれなかった。沈黙が重みを増していく。
 
 長い静寂の後、彼女はいつもよりずっと感情の読み取れない顔で、言った。
 
「本当だとわたしが言ったところで、きみはきっと信じないでしょうね」


 部長はそのまま黙り込んで、俺の顔をじっと見つめた。何かを期待しているのかもしれない。
 俺は何かを言うべきだった。それは分かる。ちゃんと分かる。
 
 部長は歩くのを再開した。俺もその後ろ姿を追う。夏の夕方。
 俺は、覚悟を決めた。

「部長は……」

 声を掛けると、彼女の背中は一瞬、こちらを振り返りそうになった。

「部長は、もし、願い事をひとつだけ叶えられるって言われたら、何を願いますか?」

「……彼女たちのお話ですか?」

 あの二人の少女。部長はすたすたと歩いていく。

「ただの質問です」

 俺の声はうさんくさかった。ひどく澱んでいた。


 ふと、部長は立ち止まった。距離を保つように、俺も立ち止まる。
 沈黙。

「……きみは何を願ったんですか?」

 真剣な声で、彼女はそう言った。
 シロの言葉から、察したのだろう。

「自分でも覚えてないんです。大事なことを忘れてるような気がする」

 彼女は溜め息をついた。

「わたしは、何も願ったりしないと思います」

 そうだろうな、と考えながら、俺は話を続けた。

「俺の友達は、すごい奴なんですよ」

「……急に、何の話ですか?」


「去年、何かのきっかけで、願い事を、ひとり、ひとつずつ言っていくって機会があったんですよ。
 三人で集まっていたんです。仲の良い友達同士だったから。俺はすぐには思い浮かばなかったけど、そいつは……」

 あいつは。

「こんな日が続けばいい、って言ったんですよ。こんな日が続けばいいのに、って言ったんです」

 部長は、何が言いたいのか分からない、という顔で、ようやく俺の方を振り返った。
 俺の言葉はいつだって上手く伝わってくれない。

「冗談かと思いました。だって俺には、そんなことを言いたくなる気持ちが、まったく分からなかったんですよ」

 心臓がやけにバクバクしていた。俺は今"話している"。彼女が求めているものと違ったとしても。
  
「こんな日がずっと続くくらいなら、いっそ、って、いつもそんな風に生きてきたんです」


「……その友達のこと、嫌いだったんですか?」

 部長の声は、同情的に聞こえた。俺は首を横に振った。

「羨ましかったんでしょうね、たぶん」

「なんとなく分かるような気がする」

 部長はこちらを見たまま、かすかに笑った。

「……それが本当なら、とても嬉しいんですけどね」

 もしも、それが本当なら。
 部長は溜め息をついた。

「きみはもう少し人を信じるということを覚えた方がいいと思う」

「訊いてもいいですか?」

 なんですか? と部長は少し怒ったような顔で首を傾げた。
 その仕草が無邪気な子供みたいで、俺は思わず笑ってしまった。

「それ、本気で言ってますか?」

 部長は二秒くらい押し黙って、それから笑った。




「変な話を、聞かせちゃいましたね」

 しばらく歩いてから、俺は部長に向けてそう言った。彼女は少しだけきょとんとして、小さく笑った。
 
「きみは皮肉ばかりを言いますね」

「それ以外に喋ることがないですから」

「わたしにもよく分からないんです」

 彼女はそれまでの会話の流れを断ち切って、静かにそう呟いた。

「どうしてきみを、あの廃墟に一緒に行く相手に選んだのか。
 帰りのバスの中で、あんな話をきみにしてしまったのか。よく分からない。
 でも、きみならきっと、変な慰めなんかは言わないだろうと思った」

 彼女は俺の目を見ようとしなかった。声はかすかに震えていた。
 たぶん怯えている。分からないけど。

「慰めって?」

 部長は少し笑った。


「いろんな人が、わたしにいろんなことを言ったんです。
"君のせいじゃない"とか、"妹さんの分も君が一生懸命生きないと"とか、"彼女もそれを望んでいる"とか。
 でもどう考えたって、彼らは間違っているんです。死んでしまった人間には、何かを望むことなんてできない。
 できないからこそ、死んでいると言えるんです。それにもし、何かを考えられるとしたら、彼女はわたしを恨んでいると思う」

 俺は何も言わなかった。俺は彼女と彼女の妹について、ほとんど何も知らない。

「どうして死んだのがわたしじゃなかったんだろう、って、いつも思っているんです。
 でも、そんなことを口に出すと、みんな顔をしかめる。わたしはとても真剣に考えているのに。
 みんな、考えることそれ自体が間違っているみたいに、言うから、だから――」

 口を噤んで、内側に隠した。

「暗いなあ」と俺は茶化してみた。
「性分ですから」と彼女もおどけた。
 
 俺は少し迷ってから、覚悟を決めて、口を開いた。

「俺、部長のこと、好きですよ」

「うそつき」

 と彼女は晴れやかに笑った。


「半分は、たしかに嘘です。今は、好きじゃないです。全然ってわけじゃないけど」

 部長は、なぜだか知らないけど、楽しそうな顔をしていた。
 人の気も知らないで。あるいは、俺の緊張を見透かしているから楽しそうなのだろうか。

「でも、分かるんですよ。俺はこのままじゃ嫌なんです。このまま一人でなんて生きられないんですよ。
 誰かに傍にいてほしいんです。俺だって誰かのことを思い切り好きになりたいんです」

 あまりに、都合の良すぎる話。

 ――お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 ――でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから。

 俺はその瞬間、何かに気付きそうになった。気付きそうになって、目を逸らした。怖くなった。
 
 不意に、部長は、俺に向けて右手を差し出した。
 なんだろう、と思って彼女の顔を見ると、笑ってすらいなかった。作り笑いすら、そこにはなかった。

「手を、握ってくれませんか」

 ひどく、小さな声。頼りなくて、心細そうな声。どこか、怯えるような。
 彼女はまっすぐに、俺の目を見ていた

 その手を、取ってみたくなった。
 信じてみたくなった。

 ――誰かの手を、取ってみたかった。




 終業式の日は、うっすらとした雨がぼんやりと降り続いていた。
 部長は校門で傘を差して俺のことを待っていた。彼女が自分でそう言っていた。

 ぼんやりとした表情。退屈そうな顔。吐き出される生徒の流れを、外側から眺めている。
 超然としている。

「部長」

 俺が声を掛けると、彼女はこちらに顔を向けた。
 
「待ってましたよ」

 彼女がそう言ったとき、俺は心底不思議な気持ちになった。

「どうして?」

 訊ねると、彼女は首を傾げた。

「どうしてだろう?」




 俺たちは歩いていた。バス停までのごく短い時間だったけど。
 それでも一緒に歩いていた。

 部長は傘を差していた。

「傘、もってないんですか?」

「忘れてきたんです」

 嘘だった。
 雨を浴びるのが好きだったのだ。昔から。
 風邪を引いて寝込んだとしても、雨を浴びるのが好きだった。
 
 彼女は少し困ったような顔をした。それから俺の体を、自分の傘の中に入れようとする。
 背丈がだいぶ違うから、彼女が爪先を立てて背伸びするような形になった。

 俺は傘の持ち手を受け取って、彼女の方に傾けがちに傘を握った。
 彼女は少し慌てながらも、どこかほっとしたように溜め息をついた。

「今日で、終わりなんですね」

 どこか落ち着かない雰囲気の傘の中で、部長は言った。


「何がですか?」

「学校。明日から、夏休みですもんね」

「そうですね」

 夏休み。

「部活は、出ますよね?」

 その質問に、すぐに答えられたらよかったのに。
 先のことがなにひとつ、自分でも分からなかった。

「眠っているかもしれません」

「休み中、ずっと?」

「たぶん」

 彼女は俯いてしまった。


「でも、それだと、夏休み中は会えませんね」

 どう答えるのがいいのか、分からない。
 何を求められているのかが、わからない。 

「ねえ、わたしのこと、部長って呼びますよね」

「……そうですね」

 質問の意図が、よく掴めなかった。

「それ、やめませんか」

「どうして?」

「ちょっと遠い気がするじゃないですか」

 そう、なのだろうか? 

「じゃあ、なんて呼べば?」


「名前を……」

 と、途中まで言ってから、彼女は思い直すように首を横に振った。
 
「忘れてください」

「……千紗先輩?」

「いま、わたし、忘れてくださいって言いましたよね?」

 彼女の顔は少し赤くなっていた。そんな気がしただけかもしれない。

「以前先輩が言ってたと思うんですけど、俺はひねくれものなので」

 彼女は怪訝そうな顔で俺を見上げた。

「……わたし、そんなこと言いましたっけ?」

「言ってませんでしたっけ?」

「覚えてません」

「……たしかに言われたような気がするんですけどね」

 ――いつだっただろう?
 まあいいや、と俺は思った。


「今、どんな気持ちですか?」

 先輩は、そう訊ねてきた。まっすぐに前を向いたまま。

「よく、分からないです。しいていうなら……」

 いつもより距離が近くて、やけに緊張する。
 先輩の仕草のひとつひとつが、妙に気になってしまう。

 呼吸の音を聞かれているような気がする。

「……いや、特には」

「平然としてますね」

「そういうわけでもないですが」

「……ずるいなあ」

 その言葉の意味が気になって先輩の顔を見たけれど、彼女はそっぽを向いていて、どんな表情をしているのかは分からなかった。


「千紗先輩」、と俺はもう一度名前を呼んでいた。
 彼女の肩がぴくっと動いた気がした。

「……なんですか?」

 拗ねたような顔で、こちらを見る。

「……なんでそんな顔をするんですか?」

「べつに、たいした意味はないです」

 彼女は溜め息をついてから、どこか不機嫌そうに、「それで?」と訊く。
 こんな態度を見せる人だったっけ。

「先輩は、俺のことが好きなんですか?」

「あれは嘘です」

「……」

 間髪置かない否定に、俺は少し戸惑った。


「……えっと、そうなんですか?」

「……」

 沈黙。

「……嘘です」

「はあ」

「嘘というのが、嘘です」

「……」

 結局どっちなんだろう。


「どうしてそんなことを訊くんですか?」

「もし本当にそうだったら、どうしてなんだろう、と思って」

「どうしてって?」

「好かれるような心当たりが、まったくないので」

「そうですか」

 そうですかって。
 こんな人だったっけ?

「ひとつ言えるのは、きみが見ている世界と、わたしが見ている世界は、まったく別物だということです」

「……はあ」

「同じものを見るとしても、その映り方はまったく違う。
 きみにとって大したことではないことが、わたしにとってはすごく大事なことだったりするんです。
 だから、きみが嫌っているものやことを、そうだからこそ、誰かが好きになってしまうこともあるんですよ」

 彼女の話は、よくわからなかった。いつも通り。




 バスの停留所につくと、先輩は立ち止まった。
 何かを言いたげにしていた。

「本当に、部活には出ないんですか?」

「休み中ですか?」

「はい」

 どうだろう。出たくないわけじゃない。でも、たぶん眠気に負けてしまうだろう。
 何か特別な理由でもないかぎり、部活には出たくない。

「できたら、休み中も、顔を出してください。わたしのために」

「……」

「きみがいるかいないかで、部活中のわたしのやる気は最大50%まで増減するんです」

 こんな冗談を言う人だったっけ、と俺はもう一度思った。
 彼女は真剣な顔をしている。


「もしどうしても出たくないなら」、と彼女は真面目な顔のまま続けた。

「連絡先を教えてください」

 俺は困った。本当にこの人は俺が知っている彼女なのだろうか。
 でも、これまでだってそうだった。
 俺は知った風な気になっていただけで、彼女のことなんて何ひとつ知らなかったのだ。

 そういうふうに、他人のことを決めつけてしまっている。いつも。
 これまでずっと。俺は誰かを侮って、決めつけて、見くびって、見下して、そういうふうに過ごしていた。
 
 俺は制服のポケットから携帯を取り出した。

 彼女はほっとしたような顔をして、それから慌てて取り繕うように、笑顔を作った。
 愛想笑い。きっと癖になってるんだろう。癖になっているとしたら、それはもう作り笑いじゃない。

 彼女は笑っている。とても上手に。
 
 バスが来るまで、俺たちはずっと一緒にいた。
 バスが来て、俺たちは別れた。




 家に帰ったときには、妹はいなかった。
 俺は夕飯の準備をしながら、先輩のことを考えた。

 考えた、のではないかもしれない。思い出していたのだ。
 彼女の仕草とか、言葉とか、表情とか、話とか、そういうものを。

 いろいろなことを思い出しながら、俺は黙々と料理を続けた。
 自分のことがよく分からなかった。

「ただいま」と声がして、妹が帰ってくる。「おかえり」と俺は台所から声をかけた。

「今日、お姉ちゃんたちに会ったよ」

「……どこで?」

「駅の方の喫茶店。友達と行ったら偶然」

「ふうん」


「学校で、あんまり話しないの?」

「まあ、最近はね」

 妹は何かを言いたげな目でこちらを見ていたけれど、結局俺の態度については何も言わず、話を続けた。

「あのふたり、付き合い始めたのかな?」

「さあ?」
 
 どうなのだろう。
 よく分からない。前までなら、もっと気にしていたはずなのに。

 不思議と、今は、そんなに気にならなかった。俺は先輩のことを思い出していた。




 着信音で目を覚ました。

 夏休みに入ってすぐのある日の朝、めったに鳴らない携帯が鳴った。
 寝惚け眼をこすりながら見ると、携帯のディスプレイは「千紗先輩」という文字を表示していた。

 あくびをしてから電話に出ると、「おはようございます」、と先輩の声が聞こえた。

「朝の九時です。良い朝です」

 冗談めかした言葉の割に、彼女の声は少しこわばっていた。

「おはようございます」と俺が返事をすると、電話の向こうで彼女が戸惑ったような気がした。

「おはようございます」と彼女はもう一度言った。

「あの」

 その言葉から、先輩の声は少し途切れた。それだけでは、言葉に意味はない。
 単なる空気の震えでしかない。

 逡巡のような間の後、

「今日、会えませんか」

 彼女は音ではなく言葉を発した。


「今からですか?」

「はい」

 俺は正直眠かったが、それをここで言ったら最悪だよなと自分でも分かっていた。 
 最悪で何が悪いと開き直るような気持ちもないではなかったが、さすがに先輩にそれを押し付けるわけにはいかない。

「大丈夫ですよ」

 実際、用事はなかった。眠る以外には。

「それじゃあ、あの、言いにくいんですけど……」

「……はい?」

「……きみの家に、行ってもかまいませんか?」

「は?」




 一時間後に、先輩は俺の部屋にいた。
 知り合いが遊びに来る、というと、妹は自分の部屋に引っ込んでくれた。
 なんだかおかしな動物でも見るみたいな目で見られたけれど。

「ずいぶん急でしたね」

 当たり前の事実として話しただけだったのだけれど、彼女は皮肉として受け取ったのか、弱ったような顔をした。

「すみません」

「……いえ、いいんですけど」

 先輩の私服は森に行ったときとは違うよそ行きのもので、その姿はなんとなく俺を緊張させた。
 対する俺は休みだからと気の抜けた格好で、かろうじて着替えてはいるものの、並んで座るとやけに間抜けさが際立った。

「どうして急に?」

「……ごめんなさい」

 別に気にしているわけではない。目的が分からないだけで。


「急に押しかけておいて、こんなことを言うのはなんなんですけど……」

「はい」

「……すごく散らかってますね」

「……片付ける時間がなかったもので」

 今度はまぎれもなく皮肉のつもりだった。
 先輩は困った顔をした。

「掃除、あんまりしないんですか?」

「はあ。まあ、月に一度くらい」

「……」

「……ほんとは三ヵ月に一回くらい」

 彼女は溜め息をついた。


「掃除、した方がいいですよ」

「まあ、しないよりはした方がいいですよね」

「そうではなくて、掃除は世界に対する小規模な反乱ですから」

「……は?」

 彼女は自分の発言を後悔しているように見えた。
 その態度のせいで逆に、俺はその言葉の真意が妙に気になってしまう。

「どういう意味ですか?」

 先輩は諦めたように口を開く。

「つまり、こんなことをいきなりいうと、なんだか変な人みたいでいやなんですけど……」
 
 十分変な人だと思うけど、といったらたぶん傷ついてしまうのだろう。


「この世界、宇宙っていうのは、秩序から無秩序へと向かい続ける性質があるわけです。人間の尺度で見ると」

「……はあ」

「放っておけば散らかって、埃がたまって、どんどん汚れていく。そういう向きがあるわけです」

「はい」

「汚れた部屋を掃除して片付けて、秩序ある状態に戻したとしても、ゴミや埃はありますよね。
 それを部屋から追い出しても、ゴミは依然として存在する。世界全体としては、無秩序に向かう一方なわけです」

「……はい」

 よくわからなくなってきた。

「どうがんばったところで、世界は無秩序へと向かって行くんです。どんどんと混乱していく。
 掃除をしたところで逆らえない。でも、だからこそ掃除をしなきゃいけないんです。
 身の回りだけでも、手の届く範囲だけでも、綺麗にしようと努めるべきなんです。
 無秩序になっていくことが当然だと、受け入れてしまわないためにも」

「世界に対する反乱ですね」

「反乱です」と彼女は話を結んだ。




 それから彼女は本当に掃除を始めてしまった。

 ばらばらに積みかさねられた俺の衣服はまとめられ、畳まれ、片付けられた。
 幸い見られて困るようなものはなかったけど、唐突に来た先輩が自分の部屋を掃除するというのも変な話だ。

 俺の部屋は徐々に秩序を取り戻していった。
 枕元に積みかさねられたたくさんの本は本棚へと戻り、衣服は洋服箪笥へとしまわれ、教科書は学習机に立てかけられた。

 開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。

「いい天気ですね」

 一通り部屋を片付け終えてからコーヒーを淹れ、ふたりで休んだ。
 時刻は昼過ぎを回っていた。

「そうですね」

 俺が頷くと、彼女はちょっと笑った。

「どうして笑うんですか?」

「だって、窓の外見てなかったじゃないですか。適当に相槌打ちましたよね」

 俺は苦笑した。


 さて、と俺は思った。さすがに何もせずに二人でいるには、間が持たないだろう。

「映画でも見ますか?」

「あるんですか?」

「DVDが何枚か」

「いいですよ。おすすめなのをかけてください」

 セレクトを任されたとはいえ、さすがに「ウィトゲンシュタイン」を掛けるわけにはいかなかった。
 とはいえ、俺の部屋にまともな映画なんていくつもない。

 そんなわけで仕方なく、中でもまともな方だった「汚れた顔の天使」を掛けた。
 まともなのが白黒映画だけというのは、考えてみれば切ない話だ。

「古いですね」と案の定先輩は言った。


 物語の筋は知っていた。
 パッケージの裏に書いてある解説を読むと、少年時代からの親友二人の友情がメインテーマらしい。
 でも、正直どうなのだろう、と俺は考えてしまう。

 二人の少年はあるとき貨車強盗をたくらみ実行しようとするが、失敗して逃走するはめになる。 
 けれど、片割れのロッキー・サリバンだけが途中で追跡者に捕まり、少年鑑別所に送られる。

 無事に逃げ切ったもう一人は自分だけが助かってしまった後ろめたさに自白しようとするが、ロッキーが押しとどめる。
 そしてふたりの道は分かれる。ロッキーは悪名高いギャングになり、親友であるジェリーは少年たちを導く神父となる。
 
 ふたりの運命を分けたのは、足の速さか、あるいは運か、せいぜいそんなものでしかなかった。

 何かが違えば、立場は入れ替わっていた。

 たぶん、宗教や信仰の違いがあるから仕方ないのだろうけど、俺にはこれが友情の話だなんて思えなかった。
 ジェリーは「偶然」逃げ切っただけ、「偶然」ロッキーのようにならずに済んだだけなのだ。
 
 彼はそれを忘れて(あるいは理解しながらも)、ラストシーンでロッキーに誇りすら捨てるように言う。
「より尊い誇り」とやらの為に。高みから見下ろしたように。そう感じるのは俺だけかもしれない。

 せめて誇りだけでも、持たせたままで死なせてやればよかったのだ。
 もちろん、ロッキー・サリバンのあの死にざまは、たしかに誇りあるものだったのだろうけど。




「先輩は、どうして敬語なんですか?」

 映画を観終えて、俺たちは雑談を始めた。その流れで、俺はずっと気になっていたことを訊ねた。

「……どうしてって、理由はないですけど」

 彼女は困ったような顔をしていた。

「嘘ですよね?」

「……どうして分かるんですか?」

「最近、分かるようになってきました」

 本当は勘だった。

「……敬語にしておかないと、人との距離の取り方が、分からなくなるんです」

「距離の取り方?」

「敬語なら、あまり、近付けませんから。敬語を保てば、自然と距離も保てるんです」


「そうですか」

「……呆れてますか?」

「というよりは、そうですね」

 俺は少し考えてから、言った。

「突然家にやってきて、掃除をして、一緒に映画を観て、それでもなお保つべき距離って、どんなものなのかなって思って」

 先輩はしばらく考え込んでから、急におかしくなったみたいに笑った。

「……たしかに、そうかもしれない」

「全部、いまさらですよ」

「そう、だね」

 俺は何も考えずに、彼女の顔を見ていた。

「いまさら、だね」

 くすぐったそうな顔で、彼女は笑った。




 夕方頃まで、くだらない話が続いた。何をそんなに話すことがあるのかと思うくらい長い時間が、気付けば経っていた。
 不思議なほど、時間の流れが早かった。

「そういえば、今日、お祭り……」

 先輩がそう言ったのは、街並みが赤く染まり始めた頃だった。

「そう、でしたっけ?」

「はい」

 また敬語に戻ってる。これも癖になっているんだろう。
 まあいいや、と俺は思う。そんなものは、時間が経てばどうにでもなるだろう。 
 時間さえ流れれば。

「……せっかくですから、行きましょうか?」
 
 自分でも意外なほど、するりとその言葉が出てきた。
 たぶん俺は、環境や状況に左右されやすいタイプなんだろう。

 一緒にいるのが楽しかった。

「……うん」

 短い沈黙のあと、先輩は頷いた。




 行きのバスの中には、浴衣姿の人たちも何人かいた。
 はしゃぐ子供たち。浴衣姿の女の子。

 俺たちはバスに乗っている。
 みんな、どこかしら、はしゃいでいる。

 その気持ちが、今ならなんとなく分かるような気がした。

「楽しみですね」、と先輩は言った。言ってから、はっと気づいて、「……だね」と言い直した。
 俺はその流れがおかしくて、少し笑う。

「どうして笑うの?」

 むっとしたような顔。
 俺はこの人のことを好きになれたのだ、と思った。
 好きになることができたのだ、と。どうしてそんなことを思ったのかも、分からない。

『好きになることができた』
 音は同じだけれど、意味は二種類ある。
 自分で考えておいて、どちらの意味なのか、分からなかった。


 夏祭りはなかなかに盛況で、俺たちはすぐに人ごみの中ではぐれそうになった。
 先輩は背が低いから、ふと気付くと見失いそうになる。
 
 だから、俺たちは、きわめて実際的な結論から、手を繋いだ。
 
 バカみたいだな、と俺は思った。

 手まで繋いで、いまさら何を考えることがあるんだろう?
 
 そう思うと、なんとなく、言わずにはいられなくなった。

「先輩」

 と俺は彼女のことを呼んだけれど、うまく聞き取れなかったらしい。

「はい?」

 また敬語だ。あるいは敬語じゃないかもしれない。でも敬語に聞こえた。いや、もうどっちでもいい。

「千紗先輩」、と俺は少し大きな声で彼女のことを呼んだ。

「はい」

 彼女はちょっとびっくりしていた。


「俺、先輩のこと、好きです。好きだと思います」

「は、はい」

 彼女は、状況をつかみかねているみたいに、戸惑っていた。

「先輩も、俺のことが好きだって、言いましたよね」

「はい」

「それが本当なら、俺と付き合ってくれませんか」

「えっと、はい」

 沈黙。

 人ごみは当たり前のように流れ続ける。


「……あの」

「はい?」

「今のは、返事ですか?」

「……えっと。そのつもり、でしたけど」

 どことなく不安そうな顔で、彼女は俯いた。

「そう、なんですか?」

「……はい。そのつもりでした」

「それじゃあ、つまり……」

「はい。……よろしくお願いします」

 何が変わるというわけでもなかった。
 口にしたからといって、関係性がすぐに切り替わるわけではなかった。
 俺たちは手を繋いだまま人の流れの中にいる。


「とりあえず、歩きましょうか」

「……はい」

 なんとも間抜けなやりとりだ。人が見ていたら笑うだろう。さいわい、誰も俺たちのことなんて、見ていなかったけれど。
 話す言葉も失って、俺たちは黙々と夜店を見て回る。
 
 水ヨーヨーにはしゃぐ子供たち。
 救急車のサイレン。

「……あの」

 小さな声で、先輩がそう言った気がした。気のせいかと聞き流しそうになるくらい、小さな声。
 俺は先輩の顔を見て、続きを待った。

「うれしいんですよ、すごく。うまく、表せないんですけど。うまく表せないんですけど、うれしいって思ってるって、わかってください」
  
 もどかしそうな顔で、彼女はそう言った。
 俺はその言葉に、なんだか急に泣きたくなって、手を握る力を強めた。


「……俺も、うれしいですよ。手を繋いでいるのも、一緒に歩くのも。でも」

「――でも?」

 訊ね返されて、俺は怖くなった。
 どうして俺は「でも」なんて言ったんだろう?

「でも、なんですか?」

 先輩は真剣な顔でそう訊ねてきた。俺は正直であるために、自分の気持ちを静かに確かめた。

「……でも、少し怖いんです」

「……なにが?」

 すぐには答えられなかった。考えても、よくわからなかった。
 なんとなく、本当になんとなくだけれど。

『自分が幸せになっていいのだろうか』、と、そんな気持ちが湧き出るのを感じた。
 あるいはそれは、ずっと昔からそこにあった感情かもしれない。


「なにはともあれ」と彼女は言った。

「なにはともあれ、今は一緒にいます」

 振り払うような声。手を、少し強く握られる。
 俺はなんだかうれしくなって、肯いた。

「そうですね」

「なにもかも、すぐには割り切れないかもしれない。
 でもわたしたちには時間があるし、これからできることだってたくさんある。
 わたしはまだ、きみに言っていないことがたくさんあるし、きみにしてほしいことだってたくさんあるんです」

「してほしいことって?」

「それは――」




 言葉は途中で途切れてしまった。
 続きを失ったのだ。意味を剥奪された。単なる音になる。空気の震えでしかなくなる。
 誰もそこから意味を掬い取ることができない。

 世界から音が消えた。

 一瞬の停滞の後、景色が逆巻くようにうねりはじめる。
 俺はその中に立ち尽くしている。光の洪水。

 戸惑う暇もなく、世界が崩れていく。照明が消えたステージ。暗転。

 耳鳴りと眩暈。繰り返されている。続いている。何かを忘れている。
 誰かが遠くで泣いているような気がする。誰かが遠くで泣いている。助けを求めている。

 ノイズ。視界から光が失われる。俺はうねる景色の中で誰かの手を離した。離してしまった。
 それが誰の手なのか、もう思い出せない。誰かが笑っている。
 すべては暗闇の中に収斂する。

 そして、ノックの音。

つづきは明日


◇04-01[Nightmare]


 ノックの音で、目をさました。
 遠慮がちでそっけないノックの音。何度も何度も、繰り返し聞いた。
 
 俺の体はその音を覚えている。その音を聞いたら、起きなきゃいけない。
 ちゃんと分かってる。

「お兄ちゃん、朝だよ。起きてる?」

 起きてる。俺は頭の中で答える。そして、目を開く。身体を起こす。
 
 扉が軋みながら開く。妹は少し驚いた顔になる。

「起きてたの?」

「……いや、今起きた」
 
 眠気はほとんどない。自然に目がさめた。

 体を起こしてすぐ、俺は部屋の状態をぼんやりと眺めた。
 床に散らばった衣服、乱雑に積み上げられた本やDVD……。
 溜め息が出るような無秩序な景色。いつもの通り。


「どうしたの?」

「……変な夢を見た」

「どんな夢?」

「夏祭りに行く夢」

「……夏祭り、まだだよ?」

「うん。分かってる」

 ちゃんと分かっている。夢は夢だ。
 夏休みはまだ始まっていない。俺はちゃんと状況を理解してる。
 
 夢の内容は、もう思い出せない。それなのに、なぜだろう?
 夢が夢だったことが、すごく悲しい。




「疲れてるんだよ」

 と、トーストにいちごジャムを塗りながら妹は言った。

「そうかな」

「うん。お兄ちゃん、最近様子が変だったもん」

「……そうだっけ?」

「うん。なんか、ぐだってしてた」

「……それ、どんな感じ?」

「だから、ぐだって感じ」

 さっぱり分からなかった。妹はジャムを塗り終えたトーストにかじりつく。
 どうでもいいけど、いちごジャムっていうのは見ていて気持ちのいい色合いをしている。

「なにかあったのかなってちょっと心配していた」

「それは、悪かったな」


「なにかあったの?」

「……」

 あったのか? よく、思い出せない。夢の印象が深すぎるせいだろうか。
 まだ、寝惚けているような気がする。ここ最近、どんなことをしていたか、よく思い出せない。

「なにもなかった、と思う」

 俺は自分の分のトーストにジャムを塗った。
 テレビの中で、気象予報士が今週の気温について何かを言っていた。
 
 言葉は聞こえているのに、具体的なイメージができない。
 現実の印象が、思考に引っ張られて曖昧になっていく。
 
 しばらく黙り込んだ後、妹は、「そっか」と、どこか寂しそうに呟いた。
 なにか、悪いことをしているような気分になる。

 結局、その後は会話らしい会話もないまま、二人で家を出た。




 教室につくと、タイタンが俺の机で眠っていた。

 彼が学校で眠っている姿なんて、初めて見た。
 なんとなく感心してしまう。
 なぜ俺の机で、という疑問はあるけれど。

「タイタン?」

 声を掛けると、彼は軽く身じろぎして瞼を閉じたまま顔をしかめた。
 ずいぶんと眠そうに見える。

「寝不足?」

 彼は身体を机から離し、あくびを噛み殺すと、大きく伸びをした。
 それから深く溜め息をつき、手のひらで頬を揉み解しはじめる。

「そういうわけじゃないはずなんだけどな」

 それでもたしかに眠そうだった。


「疲れてるの?」

「かもしれない。休みが近付いて、緊張感がなくなってるのかもな」

「ふうん」

 だとすると、俺には万年緊張感が足りていないのかもしれない。
 
 タイタンは、何か気がかりなことがあるみたいに眉を寄せた。
 元々顔立ちが整ってるせいもあって、こうしていると思慮深い学者みたいに見える。

「どうして俺の机で寝てたんだ?」

「ああ、うん。……学校で眠るって、どんな気分だろうなって思ったんだよ」

「珍しいね」

「何が?」

「前に言ってたじゃん。眠ってると、損してるような気がするって」

「……そんなこと言ったっけ」

「言ってた」


 彼は深く溜め息をつくと、椅子の背もたれに体重を預けて窓の外を睨んだ。
 やけに絵になる。

「夢を見たよ」

「どんな?」

「幸せなやつ」

「ふうん」

 意外な話だ。

「見なきゃよかった」

「……どうして?」

「嫌になってくる。ヒメは、平気なのか?」

「平気じゃないよ」、と俺は言った。

「目がさめたあと、いつもさめざめと泣くんだ」

 タイタンは少し笑った。


「夢を見たり、本を読んだりすると、決まってこんな気分になるんだよ、俺は。だから避けてるんだな、きっと」

 彼と俺は真逆な性格をしているんだな、とこのとき俺は納得した。

「でも、夢を見ないでいることはできない」

 タイタンは再び溜め息をつく。窓の外は気持ちのいい快晴だった。
 太陽は暑苦しい熱気をまき散らして、俺たちの体力を奪っていく。
 じわじわと。毒みたいに。

「それでも俺たちは現実に生きていかないとな」

 珍しく抽象的なことを言って、それでもタイタンは憂鬱そうな顔をしていた。
 彼はどんな夢を見るんだろう。妙にそのことが気になった。

 タイタンが俺の席に座りっぱなしだったせいで、俺は机の脇にずっと立っていた。
 当然、通路をふさぐような形。


「えっと」、と声が掛けられた。すぐ後ろから。

「ごめん、通ってもいい?」

「あ、うん」

 女子の声。俺が邪魔にならないように避けると、彼女は「ありがとう」と言って脇をすり抜けて行った。
 通り過ぎてから、彼女は少しだけ俺の方を振り向いた。

 どこか不思議そうな顔。

「なに?」

 訊ねると、彼女は不思議そうに「え?」と首を傾げた。

「いや、見てたから」

「……あ、うん。ごめん」

 自分でもなぜそうしていたのか分からない、というような不思議そうな顔。
 あんまり話したことはない子。いつも飴をくわえている、よく笑う子。

 彼女はすぐに俺たちから離れていったけれど、なぜか、ちらちらとこちらを見ていた。


「ヒメ、あの子に何かしたのか?」

「まさか」

「本当に?」

「俺がどんなことをするっていうんだよ」

「おまえの場合、自分のやっている行動に自覚がないことがあるからな」

「なんだか、その言い方だと心配になるな。自分が無自覚にいやなことばかりしてるみたいで」

「おまえはいつも現実から意識を切り離しすぎてるんだよ」


 まあ、そうかもしれない。

「おまえから見れば、たいしたことじゃないように思えることも、人からしたらすごく重要なことだったりするんだ。
 些細なことで傷ついたり、浮かれたりするんだ。もうちょっと、自覚的に振る舞えよ」

 彼は、どこか苛立っているように見えた。
 俺じゃなくて、他の誰かの話をしているみたいに聞こえる。

 本当に、いやな夢だったのかもしれない。
 少し黙り込んでいると、タイタンは急に後ろめたくなったみたいに首を横に振った。

「……すまん。今のは八つ当たりだった」

 べつに気にしたわけでもなかったけど、頷く。そこでチャイムが鳴った。
 日々は忙しない。




 なんとなくぼんやりとしたまま授業を終え、放課後を迎えた。
 クラスメイトたちは部活に行くのか、他に用事でもあるのか、すぐに散らばってしまった。

 俺は窓際の自分の席に腰かけたまま、ぼんやりと空を眺めた。まだ明るい空。

「部活には出ないのか?」

 タイタンはそう訊ねてきた。俺は小さく頷く。返事をするのも億劫なほど気怠い気分だった。
 何が原因なのかはわからない。 

 とにかく部活には出たくなかった。何か嫌なことを思い出しそうだった。
 それがなんなのかは分からない。でも、部活に出れば、きっといつも通りの景色が広がっているんだろう。
 その事実は俺を少なからず傷つける。そんな予感があった。

 タイタンは短く溜め息をつくと「それじゃあ」と言って教室を出ようとした。
 たぶん部活に出るんだろう。彼には出ない理由がない。
 
 彼がいなくなると、教室に残っていた数人のクラスメイトたちも荷物をまとめはじめた。 
 俺がもう一度窓の外に視線を戻そうとしたとき、

「おい、ヒメ」

 と、教室の入り口から今出て行ったばかりのタイタンが声を掛けてきた。


「なに?」

「待ってるみたいだ」

「誰が?」

 タイタンはまた溜め息をついた。それから廊下の方を小さく指し示すと、すたすたと去っていく。
 怪訝に思いながらも、俺は鞄を持って立ち上がった。

「あ……」

 廊下に出ると同時に、そんな声が聞こえた。
 思わず声の主を見遣ると、彼女の方もこちらを見ている。俺は眉をひそめる。

 俺はその子を知っている。

「……ヒナ?」
 
「……」

 名前を呼ぶと、彼女はさっと目を逸らして、あちこちに視線を巡らせた。


 俺は彼女のことを知っている。
 四月に屋上で出会った。六月に屋上で告白された。それから付き合うようになった。
 ちゃんと分かってる。そういう記憶があるのだ。

「なんで廊下で待ってたの?」

「べつに、待ってたわけじゃ……」

「……」

「……なんとなく、入りづらくて」

「いいかげん慣れなよ」

 慣れるべきだ。
 こんなやりとりだって、もう一ヵ月以上続けているんだから。
 それなのに彼女は、いつも一歩引いたような、気恥ずかしそうな態度で俺に接する。

 関係が変わる前の方が、よっぽど距離が近かった。
 
 それだって、別段不愉快なわけじゃない。むしろ心地よくすらあるのだけど。


 一ヵ月。短くない時間だ。
 ヒナはこの学校に入学するのと同時にこの街に引っ越してきた。
 だから、俺と彼女の家は意外なほど近くにある。

 そのことに気付いた俺たちは、関係が変わってからというもの毎日のように一緒に登下校していた。
 そういうことをちゃんとしておかないと、関係が変わったということをうまく自分に溶け込ませることができなかった。

 下の名前で呼ぶようにしたのだってそうしたやりとりの一環だ。

 週末には映画を観に行ったり、買い物に行ったりもした。
 放課後に教室で一緒に勉強をすることだってあった(俺が教える側だったけど)。

 ヒナが俺の部屋を見てみたいというので、招いて一緒に映画を観たこともあった。
 我ながらレパートリーの少ない人間だと思うが、そのあたりは街に責任がある。

 観た映画は「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」だった。
 その日は夕方頃に通り雨が降り始めて、帰るタイミングを逸したヒナを、俺は家まで送った。
 
 ちゃんと覚えてる。そういう記憶がある。


「帰ろうか」

 そう声を掛けると、ヒナは頷いて、どことなくこわばった面持ちでとことこと歩み寄ってくる。
 そういう態度をとられると、こっちもなんとなく緊張してしまって、心臓の鼓動が妙に速くなる。

 当たり前のように、彼女は俺の隣を歩く。
 歩きながら、ヒナはちょっと困ったような顔で訊ねてくる。

「部活、出なくていいの?」

「ああ、うん」

「最近、ずっと出てないよね」

「べつに部活に出ないからって死ぬわけじゃない」

「……そうだけど」

 べつに不真面目であることを咎めたいわけではないんだろう。
 ヒナは帰宅部だから、俺がそれに合わせて休んでいるんだと感じているのかもしれない。

 実際それだって、ないわけじゃない。でも、それだけが理由なら、俺はちゃんと部活に顔を出す。
 ヒナが気にするって分かってるんだから。


 ふと思い出して、俺は自分の鞄をぽんぽんと叩いてみた。
 想像した通り、いつもよりちょっと堅い。

「……なにやってるの?」

 ヒナは奇妙なものを見るような目で俺を見ていた。

「本。図書室に返しに行かなきゃ」

「そっか。じゃ、寄っていかなきゃね」

 俺たちは当然のように並んで図書室に向かった。
 
 司書さんは本の整理をしている。俺が声を掛けると、彼女はちょっと笑った。

「また彼女さんと一緒?」

「ですね」

 と俺は事実を認めた。


「そっか。いいねえ、青春って」

"青春"という言葉を口に出した途端、彼女の年齢が十くらい上がったような感じがした。
 過ぎ去ってしまったものを遠くから眺めるたびに、人は老いていく。

「本当に?」

 と俺は試しに訊ねてみた。べつに深い意味があったわけでもないのに、司書さんの表情は凍りつく。
 一瞬の沈黙の後、彼女は気まずそうに笑った。今までに見たことがないくらい寂しげな笑い方だった。

 彼女は何も言わないまま、手に持っていた本を近くの机の上に置くと、カウンターの中へと向かった。
 それからいつものように笑って、俺を手招きする。

「返却に来たんでしょ?」

「はい」

 と俺は仕方なく頷いた。べつに何かを訊きたかったわけでもないし、何かを言いたかったわけでもない。
"青春"とか、"思春期"とか、そういう安い言葉で十把一絡げにして。
 言葉以上の何かがそこにあったことを思い出そうともしない。

 そういう、「他人事めいた印象」を押し付けられるのが、なんとなく腹立たしかっただけだ。




 本を返して図書室から出ると、ヒナはなんだか心配そうな顔でこちらを見ていた。

「なに?」

 と訊ねると、首を横に振って、なんでもない、と小さく呟く。
 
「ヒメはさ」

 ヒナはもともと、俺のことを「あんた」なんてぶっきらぼうに呼んでいたんだけど。
 付き合い始めてから、急に引っ込み思案になったというか、そういう態度がなりをひそめたというか。
 なんとなく、物静かで、遠慮がちで、こちらの態度をうかがうような、そんなふうになった。

 名前で呼んだら、と提案したけど、彼女は恥ずかしがったのか、結局あだ名に落ち着いた。
 どこでそのあだ名を知ったのか、俺には分からないんだけど。

「人に、意地悪をするよね」

「そう?」

「うん」

「そんなつもりは、ないんだけどね」


 ヒナは、べつに責めるわけでも咎めるわけでもないような、自然な口調だった。
 だから俺も、べつに怒ったり反論したりする気にもなれない。

「ヒメの意地悪は、反撃みたいな感じがする」

「……反撃?」

「うん」

 彼女のたとえはよく分からなかった。
 
「前からずっと気になってたんだけど……」

「……なに?」

「ヒメはいつも、何気ないことで、必要以上に傷ついている気がする」
 
 ヒナの言葉の意味が、よくつかめなくて、うまく答えられなかった。

 俺はそこで話を区切って、そろそろ帰ろう、とヒナに言った。
 ヒナは俺の目を数秒間じっと見つめたあと、静かに頷いた。




 昇降口から外に出た途端、アスファルトがじりじりとした熱気を伝えてくる。
 すぐに汗が止まらなくなる。俺はなんだか居たたまれなくなった。

「暑いね」

 ヒナが不思議なほど涼しげな顔でそういうものだから、俺は反応に困った。
 
「そうは見えないけど」

「そうは見えないだけだから」

「……なるほど」

 そう言われてしまうと、それ以上は何も言いようがない。
 太陽の光は痛いほど眩しい。きらきらとしていて目を潰す。
 有害なほど。


「もうすぐ夏休みだね」

 校門を出てすぐ、ヒナはそう口を開いた。
 頷きだけを返すと、彼女はまだ何か言いたげに、ちらちらとこちらを見る。
 俺は黙って続きを待つ。

「……夏休みも、会えるよね?」

 もちろん、と答えようとしたのに。
 なぜか一瞬、言葉に詰まった。

 ごまかすみたいに、俺は笑った。
 ヒナはそれを肯定の態度だと思ったのだろう、ほっとしたように息を漏らす。
 
 蝉の声。
 なぜか気分が落ち着かない。

 途中でコンビニに寄って、アイスとジュースをそれぞれ買う。


 風除室のガラスに貼られたポスターを、ヒナはじっと見つめていた。
 夏祭りの日程の書かれたポスター。

「行こう」
 
 と俺が声を掛けると、ヒナは小さく頷いた。
 俺たちはバス停へと歩き出した。

 停留所でバスを待つ間、隣り合ってベンチに座る。

 俺たちは言葉も交わさずにいた。外の熱気で話す気力がなかった、というわけじゃない。
 会話がなくても自然な関係になった、というわけでもない。

 何かがおかしかった。

「ヒナ」

 名前を呼ぶと、彼女は小さく首をかしげた。

「俺たちさ、付き合ってる、んだよな?」

 彼女は一瞬、きょとんとした顔になる。感情は読み取れない。
 見慣れているはずの表情。


 少ししてから、彼女は頷く。
 俺はほっとする。"俺の認識は事実に背いてはいない"、と感じる。

「何か、不安?」

 ちょっとした言葉のやりとりから、彼女はすぐに俺の心境を察してしまう。
 言葉にされた途端、俺の不安は形をはっきりとさせた。

 彼女はふと、俺の手を握った。そうされてから初めて気付く。
 俺の手は震えていた。

「どうしたの?」

 ヒナは、戸惑ったように、俺の顔を覗き込んでくる。俺はヒナの手に握られた自分の手を見つめた。
 俺は答えられなかった。何かがたまらなく不安だった。
 足元の影から、何かが這い出してきそうな予感。

「何を、考えてるの?」

 彼女は、真剣に、俺と向かい合おうとする。俺の手が震える理由を、確かめようとする。


「わたしのこと?」

 違う、と俺は首を振った。声が上手く出せない。

「友達のこと?」

 違う、と俺はまた首を横に振る。

「部活のこと?」

 俺は首を振って否定する。

「……ご両親のこと?」

 息が詰まるような感覚。
 俺は否定する。

「大丈夫だよ」とヒナは言った。

「そんなに自分を責めること、ないと思うよ。誰かのせいじゃない。
 どうすることもできないことって、たくさんあるんだと思う。ヒメは少し、思いつめすぎてるんだよ」

 それ以上、彼女は何も言わなかった。こちらを慮るような、窺うような沈黙。
 彼女は俺のことを考えて、俺のために何かを言おうとしている。


 ヒナの右手が、俺の左手を柔らかく包んでいる。
 それは心地よい感触だった。震えは、少しずつ収まっていく。

「ごめん、ヒナ」

 声はわずかに震えていた。でも、本当にわずかに、だった。自分ではそう感じた。

「……面倒な奴だ。俺は」

 こんなことを、わざわざ口に出すほどに。
 ヒナの瞳は、じっと俺の顔を見上げていた。少し怖いほどまっすぐ。

 そして、彼女は笑った。

「いいよ。こんな人だって考えたこともなかったけど、べつに嫌じゃないから。
 ヒメは、もっと正直に、泣いたり笑ったりしていいんだと思う。誰かを、好きになってもいいんだと思う。
 誰もそのことを否定したりしない。もし誰かが否定したとしても、わたしは否定しない」


 手のひらの震えは、もうおさまっていた。

「ありがとう」

 やっとの思いで吐き出した声も、もう震えていなかった。
 ヒナは何も言わずに頷いてくれた。

 彼女と一緒にいるのは居心地がよくて、すごく心が落ち着く。
 安心できる。心細さが消えてしまう。胸の内側が強く締め付けられる。

 彼女の言葉、彼女の態度、彼女の表情が、俺を安堵させる。
 
 そして、その安堵を自覚するたびに、俺は不可解な恐怖を抱く。
 
 だって、まるで嘘みたいだから。




「夏休み中も、部活はあるんでしょ?」

 少ししてから、話題を変えようとしたのか、彼女はそんなことを言った。

「たぶんね」

「どのくらい?」

「そんなに多くはないと思う」
 
 べつに運動部や吹奏楽のように練習があるわけでもないから、出なくても怒られることはないだろう。
 
「文芸部って、どんなことをするの?」

「文芸をするんだよ」

「文芸ってなに?」

「思想や感情を、言語によって表現すること」

「本当にそう思ってる?」

 俺は答えなかった。ヒナは呆れたみたいに溜め息をついて、また笑う。

「ヒメはさ、何か書いたことがあるの?」

「……」


「答えたくないなら、べつにいいけど」

「……一応、あるにはある」

「何を書いたの?」

 俺は少し躊躇したけれど、結局答えた。

「まあ、一応小説、だと思う。たぶん」

「……どんなの?」

「変なの」

「……ジャンルは?」

「分からない」

「どういうこと?」

「特に考えたことがなかった」

 ヒナは、よくわからない、というように首を傾げた。それから気を取り直すように質問を重ねた。

「どんな話だったの?」


「箱の話だった」

「……箱?」

「うん。箱」

「箱の、どんな話?」

「箱についての話」

「……どんな箱なの?」

 まるでカウンセリングみたいだな、と俺は思った。
 ヒナは我慢強い。

「高さ・幅・奥行がそれぞれ三メートルの正立方体だよ」

「大きいね」

「うん。大きい。天井が高めで少し広い部屋や物置みたいな感じ。
 でも、扉もなければ窓もない。窓は必要ないんだ。透明な、ガラスみたいな素材でできてるから。
 本当にガラスなのかどうかは分からない。透明で、硬質で、触るとひんやりしてる。
 ガラスみたいに見えるけど、本当にガラスなのかは確かめられないし、ガラスだと分かったところでどうしようもない」

「……その箱が、どうしたの?」


「たくさん並んでる。とても広い場所に。たぶん、どこかの荒野か何かだ。 
 あまりにも多すぎて、正確な数は分からないけど、少なくとも百や二百ではきかないだろう。
 とにかく、透明な、大きな箱が、たくさん並んでいる」

「……うん」

 それで? と彼女は続きを促した。

「箱の中身はそれぞれに異なる。いろんな物が、箱ごとに無作為に詰め込まれている。
 共通して入っているのはふたつ。箱ひとつにつき一人の人間と、ひとつにつき一つのナイフ。
 ナイフは刃渡り八センチくらいの素っ気ないデザイン。
 人間は老若男女さまざまで、子供もいれば老人もいた。それ以外には、箱の中身に共通点はない」

「……ねえ、それ、小説?」

「たぶん。確認したことはないけど。でも、べつに小説じゃないとしたってかまわない」

「どうして、人々は箱の中にいるの?」

「さあ?」
 
 と俺が真剣に答えると、ヒナは困ったような顔をする。


「箱にはドアがないから、出ることはできない。箱の中には食糧だってない。
 でも、箱の中の人々は食事を必要としない。同様に、睡眠も排泄も必要としない。
 だから本当のところ、彼らを人間と呼んでいいのかどうかすら、怪しいものだ」

「……ヒメが、書いたんだよね?」

「そうだよ。箱の壁は透明だから、人々は隣り合った箱の中にいる人の姿を確認することができた。
 でも、ほとんど誰も、隣の箱に入っている人間に興味を示さなかった」

「……どうして?」

「意味がないから。箱の壁は分厚くて、隣の箱にも音なんて粒ほども届けてくれない。
 話をすることもできないし、物を渡しあったりすることもできない。
 だから、隣の箱にいる人間が、絵の中の景色みたいに見えるんだ」

 ヒナは黙って俺の顔を見つめた。俺はかまわずに言葉を続けた。

「ある女の子がいた。彼女の箱はぬいぐるみと化粧道具と綺麗なドレスで埋まっていた。 
 彼女の箱ほど、物に溢れた箱はなかったから、周りの箱の人々は、一度は彼女の姿を見た。
 人々は一度、たくさんのものの中ではしゃぐ彼女の姿を見たんだ」

「……」


「でも、誰かがもう一度視線を向けたときには、女の子は死んでいた。たぶん窒息したんだろう。
 誰も、いつ彼女が死んだのか、分からなかった。たぶんずっと気付かない奴だっていた。
 当たり前だけど、誰も彼女の死を悲しまなかったし、誰も助けようとはしなかった。
 とにかくその子は、いつのまにか死んでいた。そのくらいみんな、他の箱に興味を持っていなかったんだ」

「……よく分からない」

「うん。結局、分厚い壁っていうのはそういうものなんだよ。何も通さないんだ。
 そうなると誰も、何かを壁越しに伝えようという気にならなくなる。
 だから、そこに誰かがいるって知っていたところで、仕方がない」

「そうしてみんな、壁の向こうに興味を持たなくなっていくの?」

「扉だってない。音すら届かないんじゃ、どうしようもない。
 偶然、箱の中に金槌を見つけた男もいた。男は何日も金槌で壁を叩き続けたけど、壁は壊れなかった。
 物理的に破壊することはきっと困難だったんだろうね。でも、中にはどうしてか壁を壊せる奴もいた」

「……どうやって?」

「さあ? とにかく、壊せたんだろう。並んだ箱の真上を、男女二人組が、駆け抜けていくことがある。
 すごく疲弊していているんだ。どのあたりから走ってきて、どのあたりまで走っていくのか、分からない。
 箱の天井から脱出したことは、たしかなんだろうね。
 でも、箱は彼らの足元に延々と続いていて、どれだけ走ったところで箱の海から抜け出せない」

「……」


「天井も壁と同じ素材で出来ているから、二人が箱の上を走っていたことに気付く奴は少なかった。
 気付いた奴は驚いて、どうにか箱から出る手段を探そうとしたけど、結局諦めて、すぐに忘れてしまった」

「……そのふたりは、どうやって箱から出たんだろう?」

「さあね」

 できれば俺が教えてほしいくらいだ。

「それだけたくさん箱が並んでると、奇妙なこともあるものなんだ。
 ある箱に入っている女は、四方の壁の一つだけが、ガラスではなくて鏡になっていることに気付く。
 そこには自分と同じ服、自分と同じ背格好の女が映っていた。
 箱の中身も、物の位置も、同じなんだ。でも、もちろんそれは鏡じゃなかった。やっぱり箱なんだ」

「……?」

「偶然にも、鏡に映ったように物の配置が同じで、背格好の似た女の箱が並んだんだ。
 違ったのは、ふたりの容姿。それも、顔だけだった。
 片方は目を瞠るような美人だけど、もう片方は唖然とするほどの不細工だった」

 ヒナは少しびくびくしながら、話の続きを聞いていた。


「片方は、最初に鏡に気付いたとき、自分の醜さに溜め息をついた。もう片方は美しさに溜め息をついた。
 彼女たちの仕草は、一挙一動まで、全部が全部重なった。偶然にも。
 鏡みたいな配置になっていることは珍しくなかったけど、彼女たちみたいに行動がすべて重なるケースは珍しかった。
 だから彼女たちは、それが自分の姿ではなく他人の姿だと気付けなかった。他に確認する手段がなかったんだ」

「……それ、どうなるの?」

「美しい方は、こんなに醜いのでは、仮に箱から出られたとしても仕方ない、と泣いた。
 醜い方は、こんなに美しいのに箱から出られないなんて、と嘆いた。
 そして、箱の中にあったナイフを首筋に当てて、自らの肌に突き刺した。
 でも、最後の瞬間、彼女たちは、自分の鏡像が、自分とは違う動きをするのを見る。そして血を流して死ぬ」

 ヒナは何も言わなかった。
 話をやめるべきかもしれない、と俺はようやく思い至った。
 続けるかどうかためらっていると、彼女は「それから?」と促してきた。

 俺は、続ける気にはなれなかった。


「つまらないだろう?」

「いいから、最後まで聞きたい」

 俺は溜め息をついた。バスはまだやってこない。

「物語の中で、俺も箱の中にいる。この俺、というのは、語り手としての「俺」だけど。
 俺は、少女の死、金槌の男、天井の男女、鏡面の女たち、そのすべての姿を見ていた。
 俺の箱はからっぽで、何もない。俺は部屋の壁にもたれて、ただじっとナイフを見つめる。
 それから、ふと、自分が決してこの箱から出られないだろうと悟る」

「……それで?」

「それで、俺は……」

「……」

「死ぬ。ナイフで自分の首を掻っ切って」

「それで?」

「……そこで終わり」

 ヒナは溜め息をついた。俺は後悔した。たぶん今夜は眠れないだろう。



 
 俺の家とヒナの家は驚くほど近くにある。
 今まで登下校の途中で出会わなかったのが不思議なくらいに。

 ヒナの家の前に着いた後、俺はヒナが玄関に入るまでそこから動かない。
 ヒナもまた、後ろ髪をひかれるように、家の中に入ろうとしない。

 だから、このところ毎日、別れる前に、ヒナの家の前で少し話をしている。
 このあたりには顔見知りが多いから、そのうち誰かにからかわれるんじゃないかとひやひやする。

 話題と言えるほどの話題なんてなかった。

 天気のこと。食べ物のこと。昨日見たテレビのこと。学校でのこと。授業のこと。
 俺たちの会話はぎこちなくて、途切れ途切れで、でも心地よかった。

 ヒナは話が途切れるたびに、「あー」とか「うー」とか言って言葉を探す。
 言葉を探しているんだろうな、と俺は感じる。

 そのたびに、差し出せる言葉は差し出す。
 差し出せる言葉が見当たらなければ、俺も「あー」とか「うー」とか唸る。
 
 そのやりとりはなぜか心地よかった。
 沈黙さえ苦痛ではなかった。


 ときどき柔らかな風が吹いて、夕陽の余熱を静かに押し流した。
 近くの家の庭で、背の低い開きかけの向日葵がこてんと首を傾げる。

 とにかく何でもいいから言葉を発したくて、俺は目の前で起こったことすべてを口に出した。
 意識的に目の前で起こっていることを捉えようと努めた。

「風が気持ちいいな」と俺は言った。「うん」とヒナは頷いた。「肌寒くなってきたね」と彼女は続けた。
「向日葵、もう咲きそうだよ」と俺は言った。「そうだね」とヒナは頷いた。「少し早いよね?」

 向日葵は太陽を追いかける。太陽を見上げ続ける。
 花言葉はそのままだ。「あなただけを見つめる」。だから月や星には目もくれない。

 太陽の光。

「夏って、いいよね」

 不意に、ヒナはそんなことを言った。


「なに?」

「だから、夏。いいよね、夏って。あれ、夏、きらい?」

「好きではない。だって、暑いだろ」

 ヒナは少しむっとした顔になった。

「きっと、冬も好きじゃないんでしょ、ヒメは。寒いから」

 俺は答えなかった。彼女の言葉は当たっていた。

「逆に、夏のどんなところが好きなの?」

 俺の質問に、彼女は少し考え込んだようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
 こんな日常会話のどの部分に、決意が必要なのかは分からなかったけど。

「あのね、わたし、ガソリンスタンドの匂いが好きなんだ」

「……は?」

「黒板消しを叩いて掃除したときの、埃っぽい空気とか。
 泳いでるときに水を吸い込んじゃったときの、ちょっと苦しい感じとかも」

「……」

 変な子だとは思っていたが、突然こんな話をされるとさすがに反応に困る。


「そういう、匂いとか、空気とかが、夏になると、すごく鮮やかに感じられる気がするんだよ。
 向日葵の影が伸びる様子とか、蝉の鳴き声とか、雨や土の匂いとか」

「……ヒナは、たぶんさ」

「……なに?」

「同じ理由で、冬も好きだろ」

 彼女は少し考え込んでから、大真面目な顔で頷いた。

「そうかもしれない。朝目を覚ました時の布団のあたたかさとか、フローリングのきしっとした冷たさとか。
 よく晴れた日の朝に窓の外を見たときの、積もった雪の眩しさとか、ココアの甘味とか」

 俺が思わず笑うと、ヒナはまたむっとした顔になる。

「なんで笑うの?」

「ちょっとおかしかったから」


「おかしなことなんて何もないよ」とヒナは言った。

「そうかもしれない」

 俺が頷いた後も、彼女はまだ何か納得できないみたいに不機嫌そうな顔をしていた。
 聞き流されたと思ったのかもしれない。

「匂いか」

 と俺は呟くつもりもなく呟いた。ヒナは聞き逃さなかった。

「うん。ヒメは、ないの? 好きな匂い」

 世の中のどのくらいの学生が、好きな匂いの話なんてするんだろう。
 まあ、俺が思ってるよりは多いのかもしれない。知らないけど。

 雨上がりの土の匂い。プールの匂い。檸檬や蜜柑の香り。
 ヒナの言葉に影響されたせいかもしれない。思いつくイメージがやけに爽やかだった。
 それから……。


「ヒメ?」

「――え?」

「いま、ちょっとぼーっとしてたよ?」

 彼女は俺の顔を見上げて、少し心配そうに首を傾げる。
 俺は自分がイメージしていた光景を振り払おうとした。

「いや……」

 一瞬だけ、遠い記憶の中の"匂い"が、鼻先をかすめた気がした。
 それはただの錯覚だ。でも、そんな匂いがあったということを、俺は思い出してしまった。
 泣きそうになるくらい生々しい感覚。

 匂いは景色と結びついていたし、触覚と結びついていたし、出来事と結びついていた。
 匂い。"だれか"の。


「また、考え事?」

 ヒナは「仕方ないなあ」とでも言いたげな顔で笑った。なんでもないことのように。
 彼女はあっさりと俺を受け止める。簡単そうに。まるで子供の相手でもするみたいに。
 
 さっきまで不機嫌そうにしていたことも忘れて。

「ん」

 ヒナは、背伸びをした。それから俺の頭の上に手のひらを載せた。

「……なにやってんの?」

「撫でてあげようと思って」

「……」

「……ちょっと屈んでくれない?」

 なんとも間抜けな話だ。


 言われるがままに少し膝を折ると、ヒナは機嫌よさそうに俺の頭の上で手を軽く動かした。
 野良猫でも撫でるみたいに。

 それからふと思い出したみたいに、

「……こういうの、いや?」

 と不安そうに訊ねてくる。やってから不安になるっていうのも変なものだ。
 普通に恥ずかしいし、男子としてはいろいろと気まずいんだけれど。

 困ったことに、いやというわけでもなかった。
 それよりも彼女は、ここが自分の家の目の前だということを忘れているんだろうか。

「ヒナと話していると、いろんなことを考えているのが馬鹿らしくなってくる」

「それはとてもいいことだよ」

 たしかに、俺みたいな奴にとってはそうかもしれない。

「ありがたいことだ」

「うん。感謝しなさい」

 彼女はおどけて笑った。最近、ヒナはよく笑う。前までの、どこか怯えた感じはなりをひそめた。


 近くから人の話し声が聞こえて、ヒナは俺の頭から手を下ろした。俺は姿勢を元に戻す。
 向こうの角から、犬を連れて男の子が歩いてきた。散歩をしているんだろう。
 反対側から、主婦らしき女性が二人、世間話に興じながら、こちらに向かて歩いてくる。

 ここは誰かの生活の一部だ。

「……カレーの匂いがする」

 ヒナの言葉と同じことを、俺も感じる。
 同じ場所に立っている。同じ景色を見ている。映り方が違うとしても。

「そろそろ帰るよ」と俺は言った。俺がそう言わないと、いつまで経っても話は終わらなかった。

 ヒナはいつも、俺のその言葉に、ちょっと迷うような素振りを見せる。
 単に惜しんでいるというだけではなく、何かを言い損ねたような仕草。
 でも結局、彼女はわずかな沈黙の後、静かに頷く。

「また明日」とヒナは言う。
「また明日」と俺も答える。

 明日があるのはいいことだ。




 家に帰ってからすぐに自室に戻り、ベッドに寝そべった。
 何もする気が起きなかった。いろんなことが面倒だった。
 
 俺は仰向けに寝転がったまま、天井を見つめた。 
 正確にいうと天井を見つめるふりをして考え事をしていた。

 ヒナと話したあとは、いつも時間の流れる感覚が希薄だった。

 ただいま、と階下から声が聞こえた。
 妹が帰ってきたんだろう、と考えてから、少し驚く。

 時計を見ると、たしかに部活を終えた彼女が帰ってくる時間になっていた。

 溜め息をついて、天井から視線を下ろす。
 不思議と何もする気が起きなかった。


 そのまましばらくじっとしていると、下から階段を昇る足音が聞こえてくる。
 今は誰かと話をするのも億劫だった。

 やがて、不安げなノックの音な響き、ドアが軋んだ。
 
「お兄ちゃん?」

 続く声は、感情を隠すみたいな、素っ気ない声。

「……寝てるの?」

 返事をせずにいると、パチンという音がして部屋の灯りがつけられた。
 室内が明るくなった途端、さっきまで当然のように受け入れていた暗さが浮き彫りになった。
 まぶしさ。窓の外は深い青に沈んでいる。

 人家の灯り。

「……起きてた」

 独り言みたいに呟いてから、妹は静かに歩み寄ってくる。
 声の調子は、どこか怯えているようにも聞こえた。


 何も言わずに、彼女はベッドに腰掛けた。すぐ隣。俺は目も向けなかった。

「どうかしたの?」

 訊ねられて、俺はどうすればいいのか分からなくなってしまった。
 たまらない不安。泣きだしたいような衝動。何かが間違っている、と直感的に感じている。

「何かあったの?」

 返事もせずにいるのに、妹は続けてそう問いかけてくる。 
 彼女は既に悟っているのだ。「何かがあった」ということを。

 だから本当は、「何かあったの?」ではなく「何があったの?」と言ったのかもしれない。
 どちらにしても同じことだった。説明できるほどはっきりとしたことなんて、なにひとつ起こっていない。

 何も起こってなんていない。"にもかかわらず"、というところに問題がある。

「何もないよ」

 俺は取り繕うつもりもなくそう答えた。妹は静かに溜め息をついた。


「ね、お兄ちゃん」

「なに?」

 問い返す声は、自分でも呆れたくなるくらい、どうしようもなく、澱んだ声だった。
 馬鹿げてる。どうしてこんな気分になるんだろう。

 それなのに妹は、まるで気にしていないような素振りで、いつものような声で応じてくれる。

「おなかすいた」

「……うん」

 食事の用意は、分担していて。
 夕飯は、俺の担当だ。

 ちゃんと分かってる。身体がうまく動かないだけで。

「……体調悪いんだったら、何か買ってこようか?」

 黙り込んだままでいると、妹は気安げにそう言った。「仕方ないなあ」というような調子で。
 楽しそうに。でも、不安そうに聞こえる。たぶん何かを不安がってるんだろう。


 どうすればいいんだろう。その答えを俺はちゃんと知っていた。
 起き上がればいいのだ。起き上がって夕飯の準備をすればいい。

 冷蔵庫のなかにはまだ食材が残っているはずだった。
 手早く用意すればそう時間もかからない。手順だって浮かぶ。

 だって俺は至って健康なのだ。肉体的な不調はなにもない。ただなんとなく気怠いだけで。
 ただなんとなく、漠然とした不安があるだけで。

 なにが不安なんだろう。
 俺はヒナの顔を思い浮かべていた。不安になる理由なんてきっとないはずなのだ。
 彼女は俺を安心させるはずだ。現に俺は、彼女と一緒にいるとき、安心している。ちゃんと。

 じゃあ、この据わりの悪さはなんなんだろう。
 ひょっとしたら俺は、安心したくないのかもしれない。

 気分は戻らなかったけど、無理矢理体を起こす。このままでいるわけにはいかなかった。

 妹は一瞬、ほっとしたような顔をしたように見えたが、すぐにちょっと責めるみたいな顔を無理やりに作った。

「おなかすいた」


「うん」

 頷いて、どうしようかなと俺は考えた。料理をするのは別にいい。
 でも、いつも通りに料理をしてしまったら、きっと俺はこのまま気分を持ち直すことができそうにない。
 こういうときは、普段と違うことをするのが大事なのだ。

「外食しようか」

「今から?」

「うん」

 近所には一応手軽なファミリーレストランがあった。
 ファミリーレストラン。店の種類を気にしたって仕方ないけど、ちょっと毒素の強い言葉だ。
  
 妹はしばらく逡巡する気配を見せた。たぶん気が進まないんだろう。
 どうせ父親は帰ってこない。彼女だってちゃんと分かっているはずなのだ。
 俺のせいだけど。


「わかった」

 しばらくの沈黙の後、妹は溜め息交じりに頷いた。
 支度をして家を出た時には、辺りは真っ暗だった。

 街灯の灯りに羽虫が舞っている。人家の並ぶ通りだから、そう暗くはないけれど、夜だ。
 少し粘つくような鬱陶しい熱気。夜道を歩きながら、妹は大真面目な声で言った。

「ときどき、お兄ちゃんはわたしのことを遠くに見てるって気がする」

「遠くに?」

「うん。何か、自分とは別の場所にいる人間として見てるみたいな」

「なんだよ、それ」
 
 俺は笑い飛ばそうとしたけど、できなかった。喉が絡まったみたいに。
 ごまかすように咳払いをする。妹の視線はあくまでも平坦だった。

「ねえ、わたしは、いつだってお兄ちゃんの味方だよ」

 俺は答えなかった。"だからこそ"という問題もある。


 俺が思っていることを見透かしたのかもしれない、妹はあっさりとした口調で続けた。

「きっとお兄ちゃんが思っている以上に」

「それは、心強いな」

 どうして? と、問い返したかったけど、できなかった。そんな問い、答えがないに決まっている。
 あったとしても、俺はきっと信じられない。

「ねえ、だから、困ったり嫌になったりしたら、遠慮しなくていいんだよ。
 文句があるなら言ってもいいし、不安なことがあったら頼ってもいいんだよ。
 家族って、きっとそういうものなんでしょ?」

 その言葉は、たぶん本心からのものだったのだろう。そう思った。信じることはできた。
 できないのは納得だけだ。

「ごめんな」

 ごまかすみたいに謝ると、彼女は一瞬だけむっとした顔になったが、結局諦めたように溜め息をついた。
 それ以上は何も言ってくれなかった。




 ファミレスの中はそう混雑していなかった。流行っていない店なんだろう。
 あるいは時間帯の関係かもしれない。そもそもこんなものなのかもしれない。

 とにかく店の中は静かなものだった。

 ご自由な席にお座りください、と書かれた札が入ってすぐのカウンターのそばに立てられていた。
 めぼしい席に向かって歩く途中で、水を運ぶウェイトレスが「いらっしゃいませ」と愛想たっぷりの声で言った。
 声の割に、顔の愛想はそれほどでもなかった。

 俺たちは向かい合って座った。それからメニューを開く。
 妹はしばらく悩んでいた。

 店員が水を運んできて、注文が決まったらボタンを鳴らせという旨を儀礼的に伝えてくる。
 話しかけるというよりは、決まった音を再生するような調子で。

 オルゴールみたいに。
 でも、そのオルゴールの鳴らす音は健気に聞こえた。
「どうせわたしはオルゴールですが、オルゴールなりにあなたを歓迎しています。あなたは期待していないでしょうけど」というような。 
 やさしい人なんだろう。


 店の中ではビートルズが流れていた。
 たぶんビートルズだと思う。よく分からない。ひょっとしたらビートルズじゃないかもしれない。
 何もかもに自信が持てない。
 
 俺たちが店に入ってから、曲が三つ終わった。短くない時間が流れたのだ。

「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」が流れて、やっぱりビートルズだった、と俺は確信を持った。 

 必要なのは愛だ。愛。愛だよ。愛なんだよ。愛なんだって。愛だけなんだってば!
 どこか洗脳的にさえ聞こえる。なんて言ったら誰かに怒られそうだけど。

 どちらかというと説得的だったのかもしれない。
 信じてくれよ、と彼らが言外に言っているような気がした。分かるだろ、と。
 だからこそしつこいくらいに同じ言葉を繰り返したのかもしれない。ひょっとしたら。

 そういうふうに思った。なんとなく。
 まあどうでもいい。べつにビートルズに詳しいわけでもないし、好きなわけでもないから。


 次に「ハロー・グッドバイ」が流れ始めて、俺がほっとしたとき、妹はようやく注文を決めた。 
 かなり長い時間、何を注文するか迷っていた。たぶんこういう場所に慣れていないのだ。
 
 ボタンを押すと、従業員は静かに歩み寄ってきた。とても静かに。
 
 同じ人だったけれど、今度はオルゴールというよりは自動販売機みたいに見えた。
 こちらが何かを言うのを辛抱強く待っている。愛情深い自動販売機。

「わたしは自動販売機ですけど、自動販売機なりにがんばろうと思っています」
 そんなことを彼女の笑顔が言っているような気がした。

「それがあなたなりの労働倫理という奴ですか?」と俺は頭の中で問いかけた。

「どんな形であれ」と頭の中の彼女は答える。「関わる人を不愉快にさせたいとは思いません」
 すばらしい人格者だ。

「わたしが愛想を振りまいたり、丁寧な接客をすることで、誰かが喜んでくれるとしたら」と彼女は続ける。
「それはとても気持ちのいいことなんです」

 俺が頭のなかで腹話術みたいに会話を作っているうちに、妹は注文を済ませてしまった。
 ウェイトレスは優雅に注文を繰り返してから、機械と人間のちょうど中間くらいの声で何かを言った。
 それから可憐に去っていった。


 少ししてから、妹はじとっとした目でこちらを見た。

「見とれてた?」

「なにが」

「綺麗な人だったよね」

「誰が」

「さっきの人」

 なぜか責められている気がする。

「べつに見とれてたわけじゃない」

 事実を言っているのに、言い訳しているような気分になった。 

「そのわりには、じっと見てたよ」


「働いている人を見るとね」

「うん?」

「しっかりしなきゃって思うんだよ。もっと、自分のことだけじゃなくて、いろんな人の事を考えなきゃって」

「なにそれ?」
  
「まあ、働いている人なら誰でもってわけじゃない。ときどきそういう気分にさせられるんだ」

「よくわからないなあ」

 妹は溜め息をついて水を一口飲み、少し心配そうな顔で呟いた。

「……つまり、その、制服フェチなの?」

「……」

「……」




 ご注文の品は以上でお揃いでしょうか、とウェイトレスが言う。はい、と妹は頷く。
 ごゆっくりどうぞ、とウェイトレスは言う。俺は黙ってそのやりとりを聞き流した。

「こんなことわたしが訊くのも、変だと思うんだけどさ」

 妹は唐揚げを箸でつかんだまま、何か思い悩むような様子で、口を開いた。

「なに?」と俺は口に含んでいたハンバーグを咀嚼して飲み込んでから聞き返す。

「彼女できた?」

「うん」

「……そっか」

 沈黙。

 数秒後、

「……そっかあ」

 と彼女は深い溜め息をついた。


「なんかダメなの?」

 と俺は問い返す。いや、ダメと言われれば、まあ、毎朝妹に起こされておいて彼女というのも、とは思うのだが。

「ダメっていうか。ダメっていうか……」

「うん」

「なんか、こう……」

「なに」

「世話の焼ける弟に初めて彼女ができたみたいな気分」

「……」

 俺が兄なんだけどね。
 妹はそのまま黙り込んでしまった。


「良い子だよ」と俺は言った。

「かわいい?」

「とても」

「どのくらい?」

「ペーパームーンのアディとか、レオンのマチルダみたいに」

「……前から思ってたんだけど」

 彼女はまた心配そうな顔をした。

「なに?」

「……お兄ちゃんって、ロリコンじゃないよね?」

「……それ、前から思ってたの?」




「それにしても、お兄ちゃんに彼女かあ」

 感慨深げに、妹は溜め息をついた。俺はちょっと疲れた。

「どんな人?」

「猫みたいな子」

 そう言ってから、なんとなく不十分だった気がして付け加える。

「屋上が好きなんだ」

「屋上?」

「うん」

「わたしも好きだよ、屋上」

「……」

 なぜそこで張り合うんだろう。


「ねえ、訊いてもいい?」

 妹は真剣な顔で言う。俺は頷いた。

「どうぞ」

「どんな気分なの?」

「何が?」

「誰かと付き合うって」

 変な質問だ。
 でも、彼女が聞きたがっていることはなんとなく分かった。だから俺は真剣に考えた。

「ずっと悪いことをしてるみたいな気がする」

「どうして?」

「性格の問題だろうね」

「わたしのせい?」

 俺は溜め息をついた。


「なんでもかんでも自分のせいだと思うのは、なんでもかんでも自分のおかげだって思うくらいの自意識過剰だ」

「そうかもしれないけど」

 でも、そう感じる、と言いたげに、彼女は俺をじっと見つめた。

「お兄ちゃんはわたしに遠慮してるみたいに感じる」

「遠慮?」

「お兄ちゃんは、まだ自分のせいだって思ってるんでしょ」

「何を?」

「……お母さんのこと」

「そういうわけじゃないよ」

 彼女は小さく溜め息をついた。

「お兄ちゃんは、嘘をつくとき、いつも目を逸らして、笑うよね」

 俺は溜め息をついた。


「ちょっとした仕草のひとつだよ。必然性なんてない」

「そうかもしれない」と妹は物わかりよく頷いた。
 そうじゃないかもしれない、とでも言いたげな顔で。

 思わず溜め息をつくと、妹もまた、小さく息を吐いた。

「お兄ちゃんは、覚えてないかもしれないけど、わたしは……」

 どこか苦しそうに、妹は言う。

「わたしは、わたしたちはね、覚えてないだろうけど、一度だけ……」

 やめろ、と俺は思った。その言葉の続きは言うな、と。
 
「たった一度だけ……」

 そこまで言いかけてから、彼女は思い直すように小さく頭を振った。
 俺はほっとして息を吐く。記憶に鼻をくすぐられて、耐えられないような後ろめたさを覚えた。
 俺はごまかすみたいに店内に視線を巡らせる。妹もまた、俯いたまま黙り込む。

 ふと、俺は店の中に知った顔を見つけた。
 喫煙席にひとりで座っている。テーブルの上にはたぶんコーヒーのカップだけ。
 高校の図書室の、司書さん。でも、なぜだろう?

 彼女は泣いていた。




 俺たちは食事を済ませた後店を出て、元来た道を歩き、家へと帰った。
 
 帰り道では言葉ひとつ交わさなかった。

 じりじりという虫の声がどこかから聞こえる。人家と街灯の薄明かり。
 隣を歩く、少しテンポの違う足音。

 俺たちは一緒に歩いているけれど、別々の線上を辿っている。
 それは平行線だった。ただ進んでいてはいつまでも交わることはない。
 そんなことは知っていた。

 何かを言いたかった。言葉が必要だったのだ。
 自分の中で渦巻いている不安や空虚感を紛らわすために。
 その感覚を表現し、助けを求めるために。

 でもそれは所詮絵空事でしかない。そこから得られるものは何もない。
 そんなことは知っていた。

 だから俺は何も言わない。


 家に帰った後も俺たちは言葉を交わさなかった。
 風呂を沸かして順番に入ってしまうと、そのままテレビもつけずに眠ることにした。
 俺も妹も何も言わないままそれぞれの部屋に戻った。

 そのあと彼女が眠ったのか、それとも何かほかのことをしていたのか、俺には分からない。
 部屋と部屋との間には壁がある。確認のしようがない。当り前の事だ。

 俺はベッドに寝転がって天井を見つめた。天井の一点を見つめていた。
 けれどそのうち分からなくなった。見つめていたのは天井ではなく壁だったのかもしれない。

 俺は瞼を閉じた。瞼を閉じると部屋の片隅で影がうごめくのが分かった。
 気配。物音だったかもしれない。影は触手のように腕を伸ばして俺の足首を掴んだ。
 そして声ならぬ声で俺にささやきかける。

"おまえが死ねばよかったんだ"

 俺の体は凍てついたように身動きできなくなる。思考さえ凍り付き、何も分からなくなる。

"違う"、と俺は言う。"違う、違う"。


 影は世界だった。影の声は世界の声だった。けれど影の声は俺の声のようにも聞こえた。

 世界は俺の声というフィルターを通して俺に語り掛けていた。
 俺の目は俺の目というフィルター越しに世界を見ていた。

 だから俺の耳には世界がそう言っているように聞こえる。

 俺の意識は影に飲み込まれている。眠りが降ってくる。暴力的なほど唐突に。
 眠りの中の世界で、意味は混乱していた。

 眠りの世界において、人は人ではなかったし、声は声ではなかった。
 人も声も、一種の言葉でしかなかった。眠りの世界は言葉で構成されている。
 
 その中で「誰か」の言葉は「俺」の言葉だった。「誰か」は「俺」の一部だった。
「世界」は俺の意識だった。だから眠りの世界には俺しかいない。
 
 眠りについたままでは。




 暗闇の中、誰かがそばにいる。そばに座っている。
 目を瞑っているのに、そこに誰かがいるということが分かる。

 気配や感覚ではない。そこに誰かがいる、という事実が、ちゃんと理解できている。

 暖かい感触。誰かが俺の手のひらに触れる。

 感触。誰かが俺の腕を撫でている。俺はそれを静かに受け入れている。
 その感触はかすかに尖っていた。ちりちりというくすぐったさに似た性感。

 俺の体は緊張にこわばる。
 誰かは見透かしたように笑う。

 そこにあるのは契約だ。契約と履行。きわめて商業的で実務的なやりとり。
 対価は既に支払われていた。求められているのは対価に応じた業務。
 
 その空間の中で、人は人の形をした"もの"でしかなかった。何か別の"もの"。
 それは代替可能の記号だ。

 その記号は"だれか"という名前だった。


"だれか"である彼女たちは実に上手に業務を遂行していた。
 契約は履行されている。

 手のひらは静かに俺の体を撫でまわし始める。
 それは明らかに俺の肉体に対して働き掛けようとしていた。
 おそらくそれは官能的な出来事だった。そこで行われているのはきわめて肉体的なことだった。

 予感と刺激と感触。嗅覚を刺激する甘い匂い。それは"そう感じるように出来ている"。
"あらかじめ仕組まれている"。

"彼女たち"は神様によってつくられた。ある種の人々に快楽や一時の幸福感を与える為につくられた。
 あるいはひとつの代償、代替として。ひとつの歯車として。あるいは夢想、空想、理想として。
 人形劇の人形として。観賞用のドールとして。彼女たちはそのためだけに作られた。

 少女たちは実務的に体を動かす。実務的には見えないほど実務的に体を動かす。
 何もかもが、望みどおりになる。"そういうふうに作られている"。

 笑ってほしいと客が望めば笑う。泣いてほしいと客が望めば泣く。
 彼女たちはそれをとても上手にこなした。

 彼女たちは春を売らされていた。春を売るためだけに生み出された。


 少女はすべてを受け入れる。すべてを望むままにする。
 あるいは受け入れてほしくないと思うなら、少女は受け入れない。

 少女は何もかも望む通りに動く。
 求めれば、少女は肉体ではなく、精神を満たす。

 少女は"道具"だった。

 売り物は少女そのものではなく、少女を"使用"することで生れる満足、幸福、安心、充足だった。
 
「大丈夫だよ」と彼女たちは言う。

「何も心配しなくてもいい」と言う。

「あなたが必要」と言う。「わたしはあなたを必要としている」と何度も繰り返す。
「あなたがいてくれてよかった」とも彼女たちは言う。

「あなたのことが好き」、と彼女たちは言う。

 そして当然のように手を繋ぎ、唇を塞ぎ、肌を重ねる。
 誰かが望んだとおりに恥じらい、誰かが望んだとおりに喘ぎ、誰かが望んだとおりに乱れる。

 そして、誰に対しても、「こんな姿を見せるのは、あなただけ」だと言う。


 あるいは反対に、少女たちは「あなたなんていらない」とも言ってくれる。

「あなたなんていなければよかったのに」とも言ってくれる。
「あなたなんて大嫌い」とも言う。

「あなたのことなんて誰も好きにならない」、と彼女たちは言う。

 当然のように腕を弾き、目を逸らし、顔をしかめる。
 誰かが望んだとおりに拒み、誰かが望んだとおりに踏みつけにし、誰かが望んだとおりに蔑む。

「どうしてあんたなんかと」、と彼女たちは言う。

 すべては望みどおりになる。そういう場所。そのための場所。


「きみが好きだよ」と少女は言う。手のひらは俺の体を優しく撫でまわす。
 静かに体をこすりつけながら、彼女は俺の反応を窺う。

「嘘だね」と俺は言う。俺は怯えていた。

「本当」と少女は言う。言いながら唇を俺の首筋に当てる。
 舌先がちろちろと動き、生暖かい感触が伝わる。

 少女の髪からは甘い匂いがする。そういうふうに作られている。

「嘘だ」、と俺は繰り返す。彼女はくすりと笑うが、すぐにそれをかき消す。

「本当に好きだよ」と彼女は悲しげに微笑して俯く。俺は騙されて、罪悪感に目を逸らす。


「本当だよ」と少女は少し震えた声でささやく。
 動かしていた体を止め、真摯そうな瞳で俺を見つめる。

「……本当に?」と、俺は最後の抵抗を見せる。

「本当」と、彼女は苦しそうに言う。それからわずかに身じろぎする。
 彼女の髪の先が俺の肌をわずかにくすぐる。

「それが本当なら」、と俺は言う。彼女は怯えたような表情をつくってこちらを見上げる。

「とても嬉しい」と俺は騙される。彼女は嬉しそうに笑うと、目を細めて静かに顔を寄せてくる。
 俺は彼女の背中に手を回す。

 俺たちは唇を重ねる。
 虚構と現実。




 そして俺は、暗い部屋の中で目を覚ました。
 時刻はまだ夜だった。夜中に目をさましたのは初めてのことだ。

 暗闇の中で俺は得体の知れない気持ち悪さを覚えた。

 今すぐに戻してしまいそうな吐き気。誰かに全身をまさぐられているような言いようのない悪寒。
 何匹もの芋虫が服の中で這いうねっているような幻覚。
 
 その感覚を俺は感じていたけれど、きっとそれは俺が感じたものではなかった。
"だれか"が感じたものだ。"だれか"の感覚を、俺は想像してしまった。そしてそれは俺の脳で再現されている。

 喉までせり上がってきた胃の中のものが、少しでも体を動かしたら口の中に流れ出しそうだった。
 俺はみじろぎもせずにその感覚を受け流そうとする。
 呼吸の仕方をひとつ間違えば何もかもを吐き出してしまいそうだ。


"気持ち悪い"、と俺は思った。"気持ち悪い"。

 悪夢。悪夢だったのだ。そう思うと少し安堵できた。
 でも違う。それは"現実"なのだ。

"現に起こったことなのだ"。あるいは"起こっていること"なのだ。

 そしてそれは"俺"がしていることでもあった。
 俺は必死に体を折り曲げ、涙を流しながらこみあげてくる嗚咽を堪えた。
 
 けれど不思議な充足感があった。この気持ち悪さ、吐き気、罪悪感……。
 それらはすべて俺が望んだことでもあったのだ。




 ノックの音が聞こえた。俺は意識を失っていた自分に気付く。
 窓からは太陽の光が差し込んでいた。その光がおぼろげに視界に入り込んでくる。

 いつものように妹の声が聞こえた。「起きてる?」と。「起きてる」と俺はやっとの思いで答えた。

「大丈夫?」

 声の調子で何かを察したんだろう。妹はすぐにベッドに近付いてきて、俺の顔を覗き込んだ。

「ひどい顔」

「元からだよ」

「もっとひどくなってる」

 否定してほしかった。

「大丈夫?」

 俺は身体を起こそうとした。起こそうとしたのに、体に力が入らなかった。

「……風邪?」

「どうかな」


 風邪ではないような気がした。でも、原因が分からない。ただ、肉体が不調を訴えている。
 間接が軋むたびに鋭い痛みが走り、頭痛は鐘の音のように鈍く響き続けている。
 体を起こそうとするとバランスが崩れる。世界がまるごとひっくり返ってしまいそうな感覚。

「……ひどいみたいだね」

 腕に力が入らない。声も、思うように出ない。意識がうすぼんやりとしていて、瞼を開けているのがつらい。

 何もかもが思う通りにならない。

「今日、休んだ方がいいんじゃない?」

 返事ができなかった。
 右手の肘から指先までに、びりびりという痺れが走る。感覚が鋭敏になる。

 妹は俺の額に手を当てた。その手の冷たさが心地よかった。
 心地良い分だけ、"気持ち悪い"。


「うん。今日は寝てなよ」

 妹は勝手に納得してしまったようだった。
 
 意識は既にあやふやで、何が起こっているのかよくわからない。
 泣きたいような感覚。

 俺は額に当てられた妹の手を探す。
 腕の感覚は既になかった。

「……どうしたの?」

 手のひらを握ると、彼女は戸惑ったような声をあげる。
 ただでさえおぼろげな視界が、涙で濁る。

 手のひらは冷たかった。暖かかった。心地よかった。気持ち悪かった。
 混濁した意識は"だれか"の手を求めていた。
 でも、"だれでもよかった"。

 俺の意識はふたたび失われる。「大丈夫だよ」、と誰かが最後に言う。
"気持ち悪い"。



 
「ねえ、お兄さん」

 眠りの淵で、そんな声を聞いた。

「わたしのことを憐れんでいるの?」

 彼女の声は澄んでいた。

「違うよ」

 俺の答えに、彼女は黙った。

「"捌け口探し"じゃなかったんだね」、と彼女は言った。

「お兄さん、わたしは、お兄さんみたいな人、あんまり好きじゃないけど、少しだけ同情してあげる」

 彼女は悲しそうだった。たぶん、泣いていたのだと思う。

「自己処罰のつもりだったんでしょ?」

 俺は答えなかった。

「わたしたちは少しだけ似ているのかもしれないね」

 声は途絶えた。俺の意識は眠りの中に引き戻される。




 そして、目を覚ました。ノックの音。でも違う。いつもとは違う。
 音の調子はほとんど変わらないけれど、控えめというよりは神経質な感じ。
 
 どこか堅い感じのするノック。それでも、俺は目をさました。

 でも、それは不思議なことだった。俺は妹の手助けがなければ、基本的に目を覚まさない。
 起きられるのは、眠りが浅いときだけ。夢まで見ていたのに、深い眠りではなかったんだろうか。

"だれか"がやってきた。

 窓の外の景色は藍色に染まっている。もう夕方なのだ。

 気配はふたつ、並んでいた。緊張しているように感じる。
 でも、その気配は、この場所に慣れている。俺の家を知っている。俺の部屋を知っている。
 俺のことを知っている。

「ヒメ?」

 と、俺を呼んだのは、女の声だった。
 次いで、繰り返されるノックの音。こちらの様子を窺っているのだ。
 俺は目をさましている。体調は悪くない。でも、返事はしなかった。

 声だけで、誰なのか分かってしまった。隣にいる相手のことだって。


 扉は俺の意思とは無関係にひらかれた。

「起きてた」

 部屋の外から顔を覗かせたのは、幼馴染の二人組だった。
 小学校のときからの付き合い。男二人に女一人の三人で、いつも遊んだ。

 馬鹿みたいにはしゃいで歩いた。
 自転車に乗って街中を探検した。くだらない遊びだっていくつも考えた。
 河川敷にロープや板切れを集めて、秘密基地を作った。人形遊びにも付き合わされた。

 俺たちはいつも一緒だった。

「やあ」、と女の方が言った。「やあ」、と俺は掠れた声で返事をした。

 目が合うと、男の方も「よう」と言った。「よう」、と少し間を置いてから俺は言った。

「なんだか久しぶりだね?」と女の方が言った。たいした皮肉だと俺は苦笑した。


「一年ぶりくらいかな」と俺は言った。

「数ヵ月ぶりだよ」、と男の方は言った。相変わらず冗談の通じない奴だ。

「学校休んでたから、心配で来ちゃった」

 女の方はたいして心配でもなさそうにそう言った。
 いつものようなぼんやりとした声。感情がうまく読み取れない表情。

「心配?」と鼻で笑うと、男の方の幼馴染が不愉快そうに目を眇めた。

「なんだよ、その態度。せっかく人が心配して――」

「――来てやったのに、って言いたいの?」

 我ながら見舞客に向ける態度じゃない。でも、彼らは不法侵入者でもあった。法的には。
 まあいいや、と俺は思った。

「来てくれてありがとう。ちょうど誰でもいいから来てほしいところだったんだ」

「相変わらず皮肉っぽい奴」

 男の方が苛立たしげに溜め息をつくと、女の方は楽しそうに笑った。


「家の鍵さ、場所変えてなかったんだね。玄関の植木鉢の下。防犯上よくないよ」

 女の方は真面目なんだかそうじゃないんだかよくわからない声で言った。
 そうだね、と俺は言った。

「ところで、なにをしにきたの?」

「なにしにって――」

 また、腹を立てて声を荒げそうになった男の方を、女の方が手で制する。
 そのまま彼女が言葉を引き継いだ。

「だから、お見舞い」

 そう言われても、俺は嬉しくなかったし、実感も持てなかった。
 そもそも、自分が学校を休んだのだという事実すら、いまいちつかめていなかった。
 学校への連絡は……たぶん、妹がしたのだろう。頭痛はまだ重く響いている。

「本当にそれだけ?」と俺は訊ねてみた。
 
 女は指先に棘が刺さったみたいな顔をした。


「本当に」と言いかけた女の言葉に、俺は声を重ねた。

「嘘つき」

 俺はせせら笑う。

「本当は?」

「……喧嘩の理由を、ね。聞かせてもらおうと思って」

「喧嘩?」

「したんでしょう?」

 彼女は静かに、俺ともうひとりの表情を見比べる。
 
「べつにしてないよ」

「嘘だよ」
 
 俺の返事に被せるように、彼女は言った。

「そのくらい、わたしにも分かるよ。もし何もないなら、どうして急に、話してくれなくなったの?」


「つまり、俺が体調を崩したのをいいことに、気になってたことを確認しにきたってわけか」

 吐き出す息が熱かった。言葉を発しているという実感が希薄だった。
 夢でも見ているような気がする。それもとびきり悪い夢。

 男の方が声を荒げた。

「そんな言い方することないだろ。俺だって、こいつだって、心配したよ」

「……」
 
 茶番じみていた。何もかもが。
 でも、いちいちそれを指摘することさえ億劫だ。
 なあ、頭が痛いんだよ、と、俺は心の中だけで呟いた。心配してくれよ、と。
 
「良い奴だよな、おまえらは」

 本心から吐き出した言葉。泣きだしそうになるくらい、実感のこもった言葉。
 それなのに、彼らは傷ついたような顔をした。
 まるで俺が、からかうか何かしたみたいに。

 長い時間一緒にいたとしても、それは結局、一緒にいただけのことだ。


 男の方は溜め息をついた。落ち着け、と彼は自分に言い聞かせているようだった。
 喧嘩をしにきたんじゃない、と彼の顔は言っていた。俺にもその程度のことは分かるのに。
 きっと、それは"俺のせい"なのだ。

「俺が、何か不愉快なことをしたなら、謝るよ」

 深呼吸をすると、彼の緊張は収まったみたいだった。
 久しぶりに会ったのに、俺が皮肉ばかり言ったせいだろう。彼はすごく苛立っていた。 
 でも、普段はとても穏やかな奴だ。たぶん。本当のことは分からない。

「べつに、そういうわけじゃない」

「……なら、いいんだ。別に。見舞いにきただけだからさ」

 男の方がそう言うと、女の方がほっとしたように溜め息をついた。
 この茶番はいつまで続くんだ?


「どうして急に体調なんて崩したんだ?」と男の方が訊ねる。

「さあ」

「もうよくなったの?」と女の方。

「正直、朝から今まで、記憶がない。ずっと眠ってた」

「……ひょっとして仮病だったとか?」からかうような声で、女の方。

 俺は、ごく控えめにいって、かなり苛立った。

「ま、結果だけ言えば、寝てただけだからね」

「なんだ、サボりだったのか」と、間延びした声で女は言う。
 こいつらの頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
 
「ヒメのことだからきっと、変なところで居眠りして、風邪ひいたとか、そんなことだろうと思ってた」

 女が笑うと、男も笑った。俺も笑った。彼らは俺が笑ったのを見て安心したように笑いを強めた。
 ――バカバカしかった。


「テストが終わったからって、あんまりサボるなよ」と男の方。

「ヒメはどうせ、授業でなくても勉強できるからいいんだろうけどさ」と女。

「あはは」と俺は笑った。自分でも分かるくらい平板な笑い方だった。
 でも、彼らは気にならないみたいだった。どうやら俺には愛想笑いの才能があるらしい。

「ねえ、ヒメ」と女の方が不安げに口を開く。

「昔みたいに、また、遊びに来てもいい?」

「いいよ」と俺は言ったが、少ししてヒナのことを思い出した。彼女はなんていうだろう。
 それすらも、今はどうでもいい。頭が痛い。うまく、考え事ができない。

「こうやって話してると、やっぱり落ち着く」、と女は言う。

「うん」と男の方はそっけなく頷いた。

 そうなんだ、と俺は思った。なあ、でも、そんなことより、俺はいま、頭が痛いんだ。とても。


 不意に、玄関の扉が開く音がした。俺は時計を見たけれど、まだ妹が帰ってくる時間ではない。 
 誰だろう、と考える。母は死んだ。父は帰ってこない。この家に来る人なんて誰もいないはずなのだ。
 俺のせいで。

 この二人と話していると、俺はすごく孤独になる。強烈な疎外感に揺さぶられる。
 それも俺のせいで。

 靴を脱ぐ音。階段を昇る音。廊下を歩く音。
「誰?」と男の方が言う。「たぶん」と女の方が何かを言いかける。

 控えめなノックの音。

 ドアが軋む。

 当たり前のように部屋の中に踏み込んでくると、妹は周囲の様子を確認した。
 ベッドから体を起こさないままでいる俺を見て、少し不安そうな顔になる。

 それから、客人ふたりの姿を見て、怪訝げな顔をした。

「お邪魔してます」と女の方が言った。男の方は頭をさげた。


「どうも」と妹は儀礼的に返事をした。そしてごまかすような愛想笑い。
 彼女はきっと、彼らのことをあまり好きじゃなかった。

「えっと、お見舞いに来てて。ごめんね、勝手にあがっちゃって」女が言う。

 男は頷く。俺は溜め息をついた。

 妹はすぐに状況を把握したのか、戸惑ったような素振りも見せずに、二人に向き直る。

「そうですか」と、それだけ言って、彼女は手に持っていたビニール袋からペットボトルを取り出した。

「飲む?」

 俺は差し出されたスポーツドリンクを受け取る。ひどく、喉が渇いていたのだ。

「ありがとう」と俺は言った。

「どういたしまして」と妹はそっけなく言った。
 
 言葉以上に、俺は感謝していた。


「相変わらず、仲良いんだね?」

 女の方が言う。妹は返事をしなかった。さすがにまずいなと思って、俺が言葉を引き継ぐ。

「過保護なんだよ」

 もちろん、嘘だった。体よくあしらうための。

「ヒメがいけないんでしょ。その気になればなんでもできるくせに」

「なにそれ」

「わたしたちが苦労しないとできないことを、ヒメは簡単にこなすもんね。そのくせ、一番やる気がなくてさ」

 そういうふうに思われていたのか、と俺は思った。なんとなく、知っていたけれど。

「勉強もそうだし、家事も、運動も、ほとんどのこと」

 女の方は独り言のように続ける。男の方は気まずそうに黙っている。まるで口惜しがっているみたいだ。


 なあ、気付かないみたいだけど、気付かせないようにしてたんだけど、俺は頭が痛いんだよ。
 頭が痛い。隠していたから分からないんだろうけど。

 なんだか胸が苦しくなった、そんなとき、

「――帰ってください」

 声が鋭く、部屋に落ちた。

 声は、それまでの空気を切り裂いて粉々にした。
 俺は呆気にとられた。

「兄貴、まだ体調悪いみたいなんで、帰って下さい。話があるなら、治ってからにしてください」

「……あ、そうだよね」

 女の方は、少し唖然としていたが、やがて納得したように頷く。本心から納得したようには見えなかった。
 たぶん、彼女は俺の不調に気付いていなかった。あるいは信じていなかった。

 久しぶりだから? いろんなやりとりがあったせいで、表情の意味が掴みづらかったから?
 いずれにしても。


「それじゃあ、帰るね。また学校で」

 女の方はそう言って部屋から出る。男の方は軽く頭をさげて、それを追いかける。
 妹は追い出すみたいにして部屋の扉を閉めた。

 遠ざかる足音。階段の軋み。玄関のドア。閉まった。

 部屋の中には俺と妹だけが取り残された。痛いほどの静寂。

「学校、休んだの?」

 少しの沈黙の後、俺はそう訊ねた。

「覚えてないかもしれないけど、お兄ちゃん、ほとんど気を失うみたいに眠ってたんだよ」

「……放っておいてくれてよかったのに」
 
「真っ青な顔で眠りながら、ずっとうなされてる人を? ねえ、放っておくわけ、ないでしょ?」

「……うん。ありがとう」
 
 俺は本心からそう言った。妹は俯いてしまった。


「なあ」

「……なに?」

「どうしておまえが泣くんだ?」

「……お兄ちゃんは、どうして泣かないの?」

 俺は答えなかった。

「悲しくないの?」

「何が?」

「あの人たち、ずっと一緒にいたのに、お兄ちゃんのこと、何も知らないんだよ」

「……」


「お兄ちゃんが眠りたくて眠ってるんじゃないってこと。みんなに追いつくために、陰で一生懸命勉強してるってこと。
 家事だって、しなきゃならないから覚えたんだって。どうして、それをあんなふうに言えるの?」

「隠してるのに気付いてほしいなんて、虫の良すぎる話だろ」

「……どうして隠すの?」

「がんばるって、なんか、恥ずかしいだろ」

「……バカみたい」、と彼女は泣きながら笑った。俺は少しほっとした。

 隠しているから気付かれない。気付かれないのも、俺のせいだ。
 何もかもが全部。

「あの人たちは、お兄ちゃんのこと、何にも知らないんだよ」

「うん」

「それでも、お兄ちゃんは……」

 何かを言いかけて、妹の言葉は途切れた。
 きっと、彼女にだけは、全部を見透かされていた。いろんなことのすべて。
 反論のしようもないくらいに。




 玄関のベルが鳴った。微睡みから目を覚ます。意識が浮上する。
 俺は相変わらずベッドの上にいる。妹は既に部屋にはいなかった。
 
 時間は、いつ流れたのだろう?

 分からないけれど、とにかく時間は流れたに違いなかった。
 妹がこの場にいないんだから。

 体を起こす。ベルがもう一度鳴る。家の中からは物音がしない。
 妹はどこに行ってしまったんだろう? 誰が訪ねてきたんだろう?

 確認するには起き上がるしかない。

 重い体を動かして、ベッドから降りる。体調はまだ悪かったけれど、さっきまでよりだいぶマシだった。


「よう」

 体を引きずるようにして玄関に向かい扉を開けると、立っていたのはタイタンだった。

「これ、お土産」

 と言って、彼はコンビニのビニール袋をこちらに差し出してくる。受け取る。

「なにこれ」

「ポテチ」

 病人に対する手土産とは思えなかったが、まあ気遣いの形ではあるのだろう。

「体調平気?」

「まあ、なんとかね。心配かけた?」

「いや。でもまあ、一応見舞いしとこうと思って。義理でな」

 義理ですか、と俺は溜め息をついた。そうですか。


「風邪かなんか?」

「よく分からん。起きられなかった」

「……おまえ、やっぱり病気なんじゃないの?」

「かもしれない。あがっていく?」

「いいよ。まだ本調子じゃないんだろ」

「でも、何か用事があるんじゃないの?」

 タイタンは戸惑ったような顔をした。

「べつに、用事ってほどのもんはないけど」
 
「でも、なにか話があるんだろ」

「……なんで分かった?」


「顔つきがね」

「顔つき?」

「……うん。顔つき」

 タイタンはそのまま考え込んでしまった。体調はだいぶマシになった。
 それなのに、どうしても、さっきまでこの家にいた二人のことを思い出してしまう。

 あれは夢だったんだろうか? 
 どこからが現実なんだろう?

「じゃあ、あがらせてもらうよ」

 彼が頷いてくれたので、俺は自分の部屋に彼を招いた。 
 さすがに起き上がっているとつらいので、ことわりを入れてベッドに横になりながら話を聞こうとした。

 話を聞く準備は整っていたのに、彼は五分くらい、何も言ってくれなかった。
 枕元にリンゴと皿と包丁があったので、俺は暇つぶしに、上半身だけを起こしてリンゴの皮を剥いた。
 思ったよりもするすると手は動いた。こういうささやかな達成感の積み重ねが大事なのだ。


 リンゴの皮を剥き終え、切り分ける。そして種を取り始めた頃、タイタンは口を開いた。

「司書さんがさ」

 俺は彼の方を見たけれど、彼は俺の方を見ていなかった。自分の膝を見つめていた。

「司書さんの様子がさ、変なんだよ」

「……変?」

「うん。変なんだ」

 正直、戸惑った。いくつかの理由で。
 タイタンが司書さんの様子を気に掛けるのも意外だったし、それを俺に相談するのも意外だった。

「どんなふうに?」

「上の空なんだ」

「いつもぼんやりしてないか、あの人は」

「そういうのとはまた違うんだよ」とタイタンは少し強い口調で言った。
 俺が押し黙ると、彼は「すまん」と頭を振って額を抑える。

 俺は昨日ファミレスで見た光景を思い出す。彼女は泣いていた。


「なんていうか、思いつめてるみたいな。気のせいかもしれないけど」

 気のせいかもしれない、と思えるくらいの微細な変化に、彼はどうして気付けたんだろう。
 それだけ、普段から彼女のことを気に掛けていた、ということだろうか。

「何かあったんじゃないか」

 俺の適当きわまる答えに、タイタンは大真面目な顔で頷いた。

「そうかもしれない」

「……なあ、タイタン。それで、どうしたの?」

「どうしたって?」

「いや、落ち込んでるときくらい、誰にだってあるだろ」

「……そう、だよな」

 そうなんだけど、と彼は続けた。それから溜め息をつく。

「でも、気になるんだよ」


「気になる?」

 鸚鵡返し。タイタンは答えてくれなかった。

「ひょっとして……」

「何も言うな」

 俺は黙った。

「何も言うな」とタイタンは繰り返した。

 必死そうな顔。何かを押し殺すみたいな声。
 さすがに何も言えなくなった。俺はリンゴをかじる。しゃりしゃりという音がする。

「……食べる?」

 訊ねながら皿を向けると、タイタンはリンゴをひとつ受け取り、黙ったままそれをかじった。


 続く沈黙に耐えられなくなって、俺は口を開いた。

「明日、学校に行ってさ」

「うん」とタイタンは頷く。俺はその反応に少しほっとする。

「司書さんに会って、話して、それでも様子がおかしかったら」

「……うん」

「何かあったんですか、って訊いてみるといい。訊いてみるしか、ない」

「なんでもないって言われたら?」

「その言葉を疑うにしろ、信じるにしろ、もうそれ以上は何も訊けないだろうな」

 タイタンはまた黙り込んだ。十五秒くらい。それからリンゴをもうひとつ手に取った。
 そしてあっというまに食べきってしまうと、彼は俺の方に顔を向けた。

「そうするよ。……今日はもう帰る」


「悪かったね、わざわざ来てもらって」

「いいよ、こっちも気まぐれで来ただけだから。明日にはよくなりそうか?」

「どうだろうね。いよいよ悪くなっていくばかりだという気がするな」

「どうして?」

 きっと本心では眠っていたいから。

「言ってみただけだよ」

「まあ、ゆっくり休めよ。近頃は、おまえも疲れてたみたいだから」

「……そう?」

「うん。そういうふうに見えたよ」

 そんな言葉を残して、タイタンは部屋を出て行った。




 それから俺はまた少し眠ったらしい。記憶は断絶的であてにならない。
 浮き沈みを繰り返す意識が、少しの間だけ現実で固定される。

 足音が聞こえて、ノックもなく扉が開いた。

「お兄ちゃん?」、と妹は俺を呼ぶ。とてもやさしい声だった。困ったことに。

「食欲、ある?」

「あんまり」

「でも、朝からほとんど何も食べてないよ」

"ほとんど"? 俺は今日、何かを口にしただろうか。
 そもそも今日は、本当に俺が思っている今日なのか? 
 意識がぼんやりとしているせいで、うまく考えがまとまらない。

「お粥つくったら、食べられる?」

「……うん」

 ふと、枕元に置きっぱなしだった携帯電話の存在を思い出す。 
 画面を見ると、メールが何通か届いていた。そのうちの一通はヒナからのものだった。


「風邪ひいたの? 大丈夫?」

 そっけない内容。午前十時頃に届いている。
 ふと時計を見ると、時刻は六時半を回っていた。

「今起きた。大丈夫」

 そう返信しよう、と思った。これでいいんだろうか、と俺は文章を点検する。
 たったこれだけの文章。俺はそれを四、五回読み返した。

 そして結局送った。

 もう一度携帯を枕元に放り投げ、ベッドに体を沈める。

「お兄ちゃん」と妹がもう一度俺のことを呼んだ。
 視線を向けても、彼女は何も言わなかった。
 何かを言いたげな顔でこちらを見ている。


「なに?」

 携帯をいじったり話をしたりしているうちに、意識は段々と冴えてきた。
 口から吐き出す息は熱くて苦しい。頭の中にはまだ鈍い痛みが響いている。

「早く元気になって」

 少し苦しそうな声。
 それだけで、少しだけ、何もかもが救われたような気がした。
 
 何もかもを受け入れられるような気がした。
 不思議と体調までが、楽になってくる。

「待ってるから」と妹は続けた。

「……うん」

 がんばるよ、と俺は言った。妹は頷いて、部屋を出て行った。

 暗くなった部屋に、俺だけが取り残される。
 さて、と俺は思う。

 がんばろう。




 妹がつくってくれたお粥を食べたあと、一日眠り続けたにも関わらず、俺は更に眠った。
 不思議なくらい、眠り続けることができた。

 醒めかけた夢の続きを取り戻そうとするみたいに。
 
 そして翌日の朝には、体調は万全になっていた。

 ベッドから体を起こし、カーテンを開ける。
 夏の太陽の光は躊躇なく部屋の中にそそぎこんだ。

 朝方静かに降っていたらしい雨が、わずかにアスファルトを濡らしている。
 陽射しの反射が、目に柔らかな痛みを伝えた。

 俺が目をさました時刻は、午前五時四十五分だった。
 こんなに朝早くに目がさめたのは初めてのことだ。

 神に祈りたくなるくらいの快挙。




 足音と、小さなノックの音。六時四十五分。
 俺が相槌のような返事をすると、妹は声も掛けずに扉を開けた。

 彼女はパジャマ姿のまま、ドアの陰からこちらを覗き込むようにした。
 俺は既に制服に着替え、鞄の中の教科書類を入れ替え、すっかり準備を終えていた。

「体調は?」

 あっけにとられたような表情で、妹はそう訊ねてきた。
 俺は端的に返事をした。

「とても元気」

「……どうして?」

「きっと看病が適切だったんだろ」

「……ばかみたい」

 彼女は少し照れたように顔を俯けた。


「学校、行くの?」

「学校に行かないのに制服に着替える奴なんているか?」

「たぶん、どこかにはいる。でも、熱、計った?」

「計ってないけど、たぶん平気」

「計って」

 妹は強い調子でそう言うと、部屋の中をぺたぺたと歩き、枕元に置きっぱなしになっていた体温計を俺に差し出す。

「計って」

 俺は仕方なく頷く。

「昨日は三十九度近くあったんだよ」

「嘘だろ?」と俺は訊ねた。

「本当」と彼女は答えた。




 体温計が弾き出した数字は平熱そのものだった。
 妹はその数字がよほど信用できなかったようで、三回計り直しを要求された。

 それでも似たような数字しか出なかったのがまだ不服だったらしい。
 最終的には自分の手のひらで俺の体温を計った。

 その後、まだどこか納得していないような顔のまま、ようやく体温計をしまってくれた。

「本当に学校に行くの?」

「身体がまともに動くうちは、休むわけにはいかないよ」

「病み上がりだし、無理したらその方が面倒だし、人に迷惑も掛かるよ」


「無理なんて全然感じないんだよな、それが。まるで体重がないみたいに簡単に動くんだ」

「……それ、余計にまずいんじゃ」

 妹の目元にはクマが見えた。かすかに。俺はそれについては何も言わなかった。

「面倒掛けたな。おかげで助かったよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 妹はまだ不安そうな顔をしていた。

 でも、俺の気分は晴れ晴れとしていた。
 まるで何もなかったみたいに。




「今日は学校に行く」と朝のうちにヒナにメールを送っておいたら、すぐに返信が来た。

「もう平気なの?」という内容。

「たぶんね」とすぐに返信する。

「迎えにいくから待ってて」

 そのメールが届いてから十五分後、玄関のチャイムが鳴った。

「おはよう」

 走ってきたのだろうか。玄関に立つヒナは息を切らしていた。

「おはよう」と俺はこれ以上ないくらい爽やかな笑顔で挨拶した。
 が、彼女はかえって心配そうなそぶりを強めた。

「やっぱり今日も休んだ方がいいんじゃ……」
 
 失礼な奴だ。


 玄関で立ち話というのもなんだし、時間もまだ余裕があったので、ヒナをリビングにあげる。
 妹はきょとんとしていた。

「誰?」

 ヒナは慌てたように頭を下げた。

「はじめまして」

 妹も追いかけるように頭を下げた。

「はじめまして」

 そういえば、以前ヒナを招いたときは、妹がいないタイミングを見計らったんだっけ。
 説明が面倒で。

「妹」と、俺はまずヒナに向けて身内を紹介した。

「どうも、妹です」と彼女は名乗りもせずに立場を繰り返した。

「彼女」と今度は妹にヒナを示す。

「かの」

 とヒナは変な声を出した。


「……え、なに?」

「あ、ううん。なんでもない。彼女、彼女か」

 目を伏せられる。表情の変化が希薄なので、照れてるのか嫌がってるのかも分からない。

 それ以上に奇妙なのは妹の反応だった。
 ぼーっとした目でヒナを見ている。何かを確かめるみたいな目。

「どうした?」

 訊ねてみても、返事がない。
 ヒナは自分が見られているのだと気付いて、落ち着かなそうに体を揺らした。

「彼女?」

 と妹は繰り返した。

「たぶんね」と俺は答えた。

「たぶんってなに?」

 聞き捨てならないというふうにヒナが口を挟む。


「いや、なんか納得いかないみたいだったから」

「そんなことないよ。彼女。彼女です。彼女でいいです」

『でいいです』ってなんだよ、と思ったけど、きりがないのでやめた。

 妹は俺とヒナのやりとりをぼんやり眺めている。
 地上から飛行機を見上げるような目。
  
 妹はなんだか変な顔をした。彼女ができた、という話は、既にしていたはずだったのに。
 まるで初めて聞かされたみたいな顔をしている。

「うん」

 不意に、妹は頷いた。唐突に。そして俺の顔を振り返って、

「いいんじゃない?」

 と笑った。


「なにが?」

「良い人そうだよ」

 上から目線だ。ヒナは据わりが悪そうに身じろぎしている。
 無遠慮な視線に戸惑ったのか、もっと別の原因があるのか。
 
「えっと……」

「よろしくおねがいします」

 妹ははっきりした口調でヒナに向けてそういうと、深々と頭を下げた。

「こ、こちらこそ」

 ヒナはか細い声でそう返事をした。




 それじゃ、わたし今日日直だから早めに出るね、と見え透いた嘘をついて、妹は家を出た。

 いつも家を出る時間まで、時間が余っていたので、俺とヒナは空白の時間に取り残されてしまった。

「妹さん、綺麗だね」

「この町いちばんの美人だから」

 俺の答えに、ヒナは微妙そうな顔をする。
 まさか自分が町いちばんの美人だとは思っていないけれど、そう言われたら自分の立つ瀬がない、というような。

「自慢の妹だよ。目に入れても痛くない」

「シスコン」

「うん」

「……」

 彼女は溜め息をついた。


「だからヒナは町で二番目だな」

 喜んでいいのか微妙、という顔を彼女はする。
 もうちょっと言い方というものがあったはずだ。我ながら。 

 でも、冗談めかして言ったせいで、否定するとわざとらしくなる。

 それでちょっと黙ってしまうかと思ったら、ヒナはさして気にする風でもなく、話を変えた。

「ねえ、本当に平気?」

「なにが?」

「体調」

「元気」

「でも、変だよ、ヒメ」

「何が?」

「変だよ」

 とヒナは繰り返した。俺は何を言えばいいのか分からなかった。


「だって、ヒメ、いつもより、笑ってる」

 困惑した口調。

「すごく上手に笑ってる。自然に笑ってる。でも……」

 彼女は自分自身の言葉に戸惑っている。たぶん。
 
「……ひょっとして、無理してる?」

「べつに、そういうつもりはないんだけど」

 本当に、そういうつもりはなかった。

「じゃあ……」

 彼女はまだ何かの言葉を続けようとしていた。


 でも、そこで、奇妙な音が響いた。空虚な家の中で。数少ない、生きている感じがする音。

 ヒナはぎくりとした顔で俯いた。

「……ヒナ、朝ごはん食べてきた?」

 彼女はそれを肯定しなかったけれど、否定もしなかった。ただ頬を少し赤くして俯いた。

「パンでよければ焼くけど」

「……ごめん」

 俺は少し笑った。彼女もまた、少しほっとしたように笑った。




「ジャムは?」

「何があるの?」

「ブルーベリーとかいちごとかマーマレードとか。チョコもある」

「……じゃあ、いちご」

「うん。俺もそれがいいと思った」

「ヒメも食べるの?」

「俺は食べない。でもヒナはいかにもブルーベリーを選びそうだから」

「……どういうこと?」

「いかにもブルーベリーを選びそうな子がいちごを選ぶってかわいいと思う」

「……バカみたい」

 ヒナはダイニングの椅子に腰かけたまま。拗ねたみたいに顔を赤くしていた。
 そうなんだよな、と俺は思った。バカみたいなんだよ。


 トースターからはじき出された焦げ目のついた食パンに、バターナイフでジャムを塗りたくる。
 瓶詰のいちごジャムからは甘い匂いがした。

 窓の外を見ると、少し前までは残っていた雨の名残りが、綺麗に消えてなくなっていた。
 太陽の偉業。朝の光。闇を打ち消す。巨大な穴。

「ねえ、訊いてもいい?」

 俺が訪ねると、ヒナはトーストにかじりついたままこちらを睨んだ。
 睨んだように見えただけかもしれない。

「心配した?」と俺は訊ねた。

 ヒナはもぐもぐとトーストを咀嚼し、嚥下してから、口元を軽く拭った。
 それから長い溜め息をつき、

「とても」

 と小さく呟いて、食べるのを再開した。




 一緒に家を出て、一緒に登校すると、なんだか同棲してるみたいだよな、と思った。

 思ったままに口に出したら、ヒナは「ばかみたい」とまた目を逸らす。

 玄関の鍵をしめた後、俺は植木鉢の下を確かめた。鍵はそこに入っていた。
 俺も妹も合鍵を持っている。俺はその鍵をそのままポケットに入れた。

「行こうか」

 声を掛けると、ヒナは何も言わずに頷いた。
 住宅地を抜けてバス停まで。

 太陽の光は朝だけあってまだ控えめだったけれど、それでも滲むような熱を伴っている。


 ヒナはもう、俺の体調について何か訊こうとはしなかった。俺の態度についても。

 でも、どこか、引っかかってしまったんだろうか。
 体調についてでも態度についてでもない質問が、ひとつだけ続いた。

「ねえ、ヒメ」

「なに?」

「何か、忘れてない?」

「べつに何も」

 何も忘れてなんていない。そのはずだ。




 学校に着いた後、ヒナと別れて教室に向かう途中で、やっぱり何かを忘れているような気がした。

 それがなんなのかは分からない。
 とにかく「何か」を忘れているような気がした。
 その感覚はしばらく俺に付きまとっていたけれど、無視しているうちに消えてくれた。

 重要なのは半径十五メートルの現実だ。
 
 俺の席にはタイタンが座っていた。なぜか。彼はぼんやりとした顔で空を眺めている。
 横顔だけだと荘厳だ。

 声を掛けると、彼はちらりと視線をこちらによこして頷くと、また窓の外を見るのを再開した。

 タイタンの周りだけ、秋の日暮れのような空気になっている。


「考えごと?」

「まあな」

「昨日の話?」

「……うん。そういえばおまえ、体調は?」

「まあ、だいぶマシになったよ」

 タイタンは俺の席を立つと、空いていた前の席の椅子を借りた。

「本当にマシになったみたいだな」と彼は言った。どういう意味だろう?

「顔つきがね」
 
 彼にしては珍しい、わざとらしい口調。

「顔つきがいつもと違う」

「いつもより爽やか?」

「というより、若返ってるな」

 軽い冗談のつもりだったのだが、受け流されると自分が痛い。


「バカみたいに明るい顔をしてる。自然に。それもまあ、べつに悪くない」

「明るくもなるだろ。見ろよ、窓の外を」

 俺の言葉に、タイタンはもう一度窓の外を睨む。眩しそうに。

「太陽がバカみたいに眩しい。空がバカみたいに青い」

「うん」

「これで明るくならなかったら嘘だろ?」

「……意味が分からん」

 タイタンは呆れたように溜め息をついた。どうも落ち込んでいるらしい。
 俺は仕方なく話を振った。

「図書室、行ったの?」

「まあ、うん」


 よく分からなかったよ、とタイタンは言った。

「どういう意味?」

「一応、話してくれたんだけど、よく分からなかった。はぐらかされたのかもしれない。
 それはそうなんだよな。何かあったとしても、俺に話すわけがないんだ」

「……まあ、そうだな」

 タイタンは何も言わなかった。俺も何も言えなかった。
 沈黙。

「……元気出せよ」

 自分が発した言葉なのに、すごく安っぽく聞こえた。
 でもまあ、こんなもんだ、と俺は思った。こんなもんなんだ。

 安っぽいものなんだよ。そうじゃない言葉は簡単には出てこない。
 受け入れろ。受け入れてしまえば簡単なことなんだ。

 授業が始まる間際、例の幼馴染の二人組が教室に入ってきた。
 急いで来たらしく、息を切らしている。彼等は俺に向けて手を振った。俺は軽く振りかえした。




 昼休みになると、教室の入り口からヒナが姿を覗かせた。
 俺は彼女がこちらを見ていることに気付いた。

 目が合うと、ヒナは俺を小さく手招きした。人目をちらちらと気にしながら。
 仕方なく立ち上がり、歩み寄る。

「なに?」

「お昼。いっしょに食べようと思って」

「ああ、うん。いいよ」

 そう返事をしてから、席に戻って鞄を開ける。
 弁当箱の入った小さな巾着袋。

 一瞬ちょっとした違和感が生まれたが、すぐに気にならなくなった。




「天気がいいから屋上にしよう」
 
 提案したのはヒナだった。俺たちは階段を昇って校舎の屋上に出る。
 風はゆるく吹いていた。真昼の太陽が街中を照らしている。
 
 俺たちは給水塔の陰に腰かけた。
 ぬるい風。

 俺たちは並んで腰かけて、それぞれに弁当を広げた。
 特に意味もなく距離が近い。

「ヒメは、お弁当、自分で作ってるの?」

「うん。あ、いや」

「……どっち?」

「妹が作ってくれてる。俺、朝起きられないから」

「ふうん。自分の分と一緒に?」


「いや。中学は給食だから……」

「ヒメの分だけ? なんか、それって……」

 ヒナは何かを言いかけてやめた。俺はその言葉の続きをあまり気にしないことにした。
 
「じゃあ、とにかく、ヒメのお弁当は、町いちばんの美人作ってことだ」

「そうなるな」と俺は曖昧に頷いた。

「俺には過ぎた幸せですよ」

 ヒナは少し笑ってから、目を伏せた。すごく短い時間のことだったけど、目を伏せたように見えた。
 彼女はどう思っただろう。そう考えると怖くなった。

 ふと空を見ると鳥の影が降ってきた。一瞬のことだ。すぐに通り過ぎていってしまった。


 柔らかな真昼の日差しは、抽象的なぬくもりになって俺たちを包んでいた。
 春の風や秋の夜や冬の朝のように。
 世界は光とぬくもりに満ちている。

 嘘みたいに。

 溜め息が漏れ出た。「どうしたの?」と箸をとめてヒナは訊ねてくる。

「なんでもないよ。ただ、穏やかだと思って」

「穏やか?」

「太陽の光が……」

「……どういう意味?」

「いつもは、もっと刺々しい感じがする」

「……そう?」

 ヒナはまったく共感できないというふうに首をかしげて、ちょっと笑った。
 感覚の違いが面白かったのかもしれない。


「ヒナと一緒だからかもしれない」

「なにが?」

「太陽が穏やかなのは」

「……ばかみたい」と彼女は照れもせず笑った。

 変なことを言ってしまった、とまた少し怖くなる。
 いつもの裁判。
 
 弁護人も証人もいない裁判。
 ただ被告の罪だけが読み上げられる。整合性も客観性も必要とされない。
 自分の言葉、行動のひとつひとつがとりあげられ、何度も繰り返され、責めたてられる。

 少し前まで胸から離れることのなかった、そうした心の動き。
 でも、今日はそんな気持ちすら、長続きしなかった。太陽がすごく穏やかだから。

「風が気持ちいいね」とヒナは言った。本当に風が気持ちよかった。

 ふと、風に『匂い』があることに気付く。あるいは、思い出す。
 俺は笑ってしまった。


「どうしたの、急に」

「いや、こんな時間の過ごし方もあるんだと思って」

「どういう意味?」

 俺は少し答えあぐねた。簡単には言葉にできそうにない。
 でも、口に出してみたくなった。

「時間の経過っていうのを、俺は重く考えすぎていたのかもしれない。
 切迫した事態が目の前にあって、それを今すぐにどうにかしなくちゃいけない、というふうに」

「……うん」

「でも、そうじゃないんだよな。大事なのはこの感覚なんだよ、きっと。
 半径十五メートルの現実の手触りみたいなもの。俺はちょっと遠くのことを考えすぎていたんだ」

「ヒメは生きるのが下手だからね」

「ヒナもね」

「だから好きなんだよ」とヒナは言った。俺はちょっとびっくりした。
 俺の顔を見て、彼女は「してやったり」というような得意げな顔で笑った。
 かなわないな、と俺は思った。




「なんだか、眠い……」

「あったかいもんね」

「……うん」

「眠ってもいいよ」

「……でも」

「ちゃんとわたしが起こすから」

「……俺は」

「大丈夫。問題なんて何もないよ」

「……うん」

「不安がることなんて、なにひとつない。当たり前みたいな日々が、続いていくだけなんだよ」

「……うん」

 柔らかな日差しとぬくもり。誰かの手が俺の手を握っている。瞼越しに感じる肌色の明かり。 
 ぬるい風が運ぶ夏の匂い。階下から誰かがはしゃぐ遠い声。心地いい微睡み。誰かが傍にいる。

 こんな日が続けばいいのに。




 放課後、俺はヒナを連れて図書室に向かった。
 タイタンが言っていた通り様子がおかしいのかどうか、確かめておきたかったのだ。

 隠れ家のような図書室のカウンターの中、司書さんは一人で本を読んでいた。

「何を読んでるんですか」

 俺がそう声を掛けると、彼女はそのときようやくこちらの存在に気付いたみたいだった。
 ごまかすみたいに笑う。

「ちょっとね」

 言いたくないのかもしれない。
 それから司書さんは、思い出したように続けた。

「そういえば、昨日体調崩して休んだって聞いたけど」

「朝起きたら治ってました」

 司書さんは笑った。

「疲れ、溜まってたのかもね。今日は、なにか借りていく?」


「いえ、やめときます」
 
 俺の答えに、司書さんは意外そうな顔をした。

「珍しいね?」

「読みたい本があったんですよ。ずっと思い出せなかったんですけど、ようやく思い出せました」

「なんて本?」

「生誕の災厄」

「……」

「でも、やめました。忘れてたから気になっていただけで、特別読みたいとも思いませんから」

「そもそも、この図書室にシオランはないような気がするな」

「もうやめることにしたんですよ」

 司書さんは困った顔をしていた。


「あ、そうだ。一昨日、ごめんね」

「なにがですか?」

 本当に何の話なのか分からずに問い返すと、彼女はちょっと気まずそうな顔をする。

「いや、変なこと言って、怒らせちゃったような気がしたから」

 ああ、と俺は思った。

「こちらこそ、なんか妙な態度をとっちゃって」

 謝りながら、俺は一昨日交わした会話の詳細を思い出せなくなってしまっている自分に気が付いた。
 
 それにしても、と俺は思った。
 たしかに、司書さんの態度はいつもと違う。
 発する言葉や表情はいつもとそう変わらないのに、雰囲気がまったくちがう。

 落ち込んでいるというよりは、とめどない憂鬱に体を乗っ取られてしまっているみたいだ。


「なにかありましたか?」

 訊ねると、司書さんの表情はこわばった。

「みんなに言われる。そんなに分かりやすい?」

「まあ、はい」

 嘘をついた。タイタンに言われていなかったら、俺は変化に気付かなかっただろう。

「夢を見るの」

「夢?」

「うん。夢。幸せな夢。ほとんど、現実にあったことみたいに、リアリティのある夢。
 毎晩のように見るの。今だって思い出せる。たしかに起こったことみたいに思えるの。
 そしてそれが――これから、現実に起こるんだ、って感じる。変でしょう?」

「……予知夢、ですか?」

 うん、と司書さんは頷く。俺の隣で、ヒナは落ち着かなさそうに周囲の様子をうかがっている。


「つまりね、わたしは未来の現実を夢に見てるの。
 それはこれから起こることなんだけど、"起こった"ことなの。そのことを知ってるんだよ。
 これから起こるっていうのが分かるんじゃない。現に起こったことを、知っている」

 はぐらかされた、とタイタンが言った意味が、なんとなく分かった。
 彼女はもどかしそうに頭を振る。

「伝わらないだろうけど、でも、わたしは知っているの。これから起こることを、既に知っている。 
 夢を見るって言ったけど、ちょっと違うかもしれない。
 記憶として抱えているの。それがたしかに起こったっていう記憶を。だから思い返すように夢に見ているだけなんだ」

 彼女は溜め息をついた。

「ごめんなさい。自分でも、よく分からないんだけど、今だってその夢の内容を、本当にあったことみたいに感じてるの」

「……どんな夢なんですか?」

「とても幸せなことが起こるの。今週の、土曜の夜。時間だって場所だって思い出せる。
 とても嬉しかったから……だからわたしはお願いしたの。
 たとえ後悔することになってもかまわないから、何があっても今日のことを絶対に忘れないままでいさせてって。 
 こんなにも大きな幸せを感じた日があったことを、絶対に忘れたくないって」


「"お願い"? 誰に?」

 彼女は口を噤んでしまった。何をどういえば分からない、というふうに。

「でも、幸せな夢なんでしょう?」

 司書さんは困ったふうに笑った。俺は彼女のことが分からなくなった。

「ずっと覚えていると、段々と不安になってきてね、冷静になるだけの時間が、あるからなんだろうけど……。
 その夢の中のわたしは、まったく感じていないんだけど……段々、怖くなるの。
 わたしにその幸せを受け取るだけの権利があるんだろうか、って。幸せになる資格があるんだろうかって」

「幸せになるのに、資格も権利もないでしょう」

 と俺は一般論を言った。一般論。こういうのは楽でいい。
 自分であることを求められない。大勢の他者によってあらかじめ結論が補強されている。
 権威主義的なきれいごと。とても高圧的。

「実際的な思考とは関係ないの。そういうのはね、思考じゃなくて、認知なのよ。実感なの。
 無時間的に"降ってくる"感覚なの。逃れようがない。
 そういう認識は主観的に肥大して、思考を停止させる。一種の確信なのよ」

「分かるような気がする」と俺は本心のつもりで頷いたが、彼女が信じてくれたかどうかは怪しいところだ。
「怪しいところだ」と感じてしまう自分自身の心理過程。無時間的に"降ってきた"実感。


 本人の意思とは無関係に、胸を塞ぐような不安を押し付ける、強迫観念。
 問答無用に脳を埋め尽くし、視野狭窄を招く、衝動のような感覚。

 ほとんどパニックのような感情のうねり。

「タイタンが」、と俺は言った。

「心配していましたよ。元気がないみたいだって」

 司書さんは答えてくれなかった。彼女は疑わしそうな目で俺を見た。

「俺も、心配しています」

 彼女はたぶん、俺の言葉を信じていない。「嘘ばっかり」というふうに笑った。
「疑いたい」わけじゃない。「疑ってしまう」のだ。意思とは無関係に。
 実感として"信じられない"。思考とは関係ない。

 そういうことは俺にだって分かる。ちゃんと分かる。




 図書室を出た後、すぐに帰ろうとしたのだけれど、どうしても気分が落ち着かなかった。
 何かしら変化を求めていた。

「なあ」

「なに?」

「屋上に行きたい」

「どうして?」

「高い場所から街を見下ろしてみたい」

 ヒナは変なものを見るような顔をした。




 屋上に出ると、昼下がりの太陽はまだ眩しかった。

「ねえ、ヒメ、訊いてもいい?」

「なに?」

「ヒメが書いた小説のこと」

 ヒナの髪は風にさらわれて細くなびく。強い日差しの下で、彼女の横顔は作り物みたいに綺麗だった。
 本当に綺麗だと思った。見とれるくらいに。

「箱って、結局なんなの?」

「なにって?」

「つまり、何かの比喩なのかなって思ったの」

「比喩?」

「つまり、肉体とか、もしくは、外面とか」


「べつにそういうつもりじゃなかったよ」

「じゃあ、どういうつもりだったの?」

 説明するのは難しかっし、仮に説明できたとしても、誰かを納得させることなんてできないだろう。
 そう思ったから、物語という形をとらざるを得なかった。
 閉じた話。

「あれは実感だよ」

「実感?」

「つまり、箱の中にいる、って感じるときがあるんだよ」

 ヒナは黙って俺の言葉の続きを待った。彼女は俺をせかさない。

「箱。どうあがいても壊せない壁があって、そのせいでときどき誰かが死ぬ。
 みんな箱に対していろんな考え方をしてる。箱なんてないみたいに振る舞う奴もいる。
 どうにかして箱を壊そうとする奴もいるし、諦めて死んでしまう奴もいる」


「そして、箱から抜け出せる人も、ときどきいる、ってこと?」

「たぶんね。抜け出したように見えるだけかもしれないけど。でも、問題はそこじゃないだ。
 抜け出した人がいるとして……でも、"抜け出せる"のは俺じゃないんだ。
 俺はその人を眺めているだけなんだよ。俺は箱の中に取り残されているんだ。身じろぎもせずに」

「よく分からないけど、それが"実感"っていうなら……。
 ヒメは、そういうふうに感じてたの? ヒメには、世界がそんなふうに見えていたの?」

 そうなんだろう。たぶん。よくわからないまま書いたから、自分でもはっきりとは言い切れないけど。
 それでも、俺は頷いた。たぶん、そういうふうに感じていた。たぶん、今もそういうふうに感じている。

「じゃあさ」

 彼女は、感情の読み取りにくい、そっけない表情で、言った。


「わたしとヒメも、別々の箱? 音も伝わらないような箱の中?」

「……まあ、そうなんだろうね」

 あの話の中では、というつもりで、俺は言った。

「ヒメは今も、箱の中?」

 さあ、と俺は思った。よく分からなかった。何がどうなれば、箱の中にいないことになるのか。

「どうかな。ときどき、箱なんてないんじゃないかと思うときもある。
 でも、折に触れて実感するんだよ。やっぱり箱があるんだって」

「そんな考え方、やめたら?」


 俺は溜め息をついて言葉を重ねた。

「コップに、半分水が入っているとき、"半分も"と思うか、"半分しか"と思うか」

「心理テスト? ポジティブかネガティブかっていう」

「うん」

「わたしは、半分しか、って思っちゃうけどな」

「このテストの結果に信頼がおけるかどうかはどうでもいいんだ。
 問題はさ、"半分も"とか、"半分しか"とか、そう感じるのに、その人の意思は関係ないってところにあるんだよ」

「どういうこと?」

「そういうのは、意識してそう考えようとして出てくる感覚じゃない。
"コップに水が半分入っている"と感じた次の瞬間には、"半分しか"とか"半分も"とか考えてるんだ。
 意思じゃどうにもならない。それは降ってくる実感なんだよ。反射みたいにさ」

「……」

「簡単には逃れられないよ。本人からすれば、それは『事実』みたいに思えるんだ」


 ゆるい風が俺たちの間を吹き抜けていった。「隙間」がある。宿命的な隙間。
 それを"どう感じるか"は、人それぞれ違う。

 隙間があったってかまわない。隙間があるからこそ、と誰かが言う。
 でもその"だれか"は俺じゃない。

「それって、寂しいね」

 ヒナは、俺の顔を見ないで、呟くみたいに言った。

「わたし、そんなこと考えたこともなかった。ただ、人と話すのが苦手なんだよ。
 上手く話せなくて、きっとみんなに呆れられるって思うから、あんまり話さなくなった。
 そしたら、どんどん、話せなくなってきた。本当は、誰かに聞いてほしかったんだよ」


 ばかみたい、と彼女は自嘲した。

「みんな、わたしに話しかけなくなったけど、ヒメは、わたしの話、聞いてくれた。
 どれだけ下手でも、わたしの話を最後まで聞いてくれた。話し終わるまで、ちゃんと待っててくれた。
 だからわたしは、ヒメともっと近づきたくなったんだ。でも、ヒメは、わたしにも透明な壁を感じていたの?」

 もう一度、風が吹き抜けた。どうだろう、と、俺は少し考えた。
 少しだけ気分は晴れていた。

 壁? 壁なんてどこにもない。
 ここはとても風通しのいい場所だ。

「少なくとも今は……ヒナと話しているときは、箱なんてないような気がする」
 
 ヒナは楽しそうに笑った。俺はその笑顔が嬉しかった。

 嬉しかったのだ。




 鉄扉が軋みをあげたとき、俺の心臓は少し跳ねた。嫌な感じに。

 思わず顔を向けると、そこには知った顔があった。

 幼馴染の片割れ。男の方。

 彼はこちらに気付いて、はっとした。

「……やあ」

「ああ、うん」

 俺は曖昧に頷いた。あまり話したい相手じゃない。
 避けているわけじゃない。どんな言葉を交わせばいいのか、分からないのだ。

「体調は、どう?」
 
 社交辞令みたいに、彼は言った。昨日みたいに緊張した様子はない。
 しいていうなら、少し気まずそうではある。

「元気だよ。昨日休んだ理由が分からないくらいに」


「なあ、ヒメ……その子、彼女?」

 彼はヒナの方をちらりと見た。ヒナは俺の体の影に隠れて自分の姿を隠した。

「まあ、うん」

「まあってなに?」と、彼女は小声で俺を非難した。

「そっか」

 彼は何か言いたげに唇をもごもごさせていた。

「こんなこと言うべきじゃないんだろうけど、俺は、てっきり……」

「てっきり?」

「……いや」

 まあ、何が言いたいのかは、分かっていたけど。
 俺はべつに、あいつが好きだったわけじゃない。

 ただ悲しかっただけだ。


「俺たちは帰るよ」

 俺がそう言ったとき、彼は逃がさないとでも言うみたいに言葉を続けた。

「なあ、おまえはさ、どうして、俺たちを避けるようになったんだ?」

 言葉を失う。どうして、と訊かれても答えようがない。
 俺はただ、実感しただけなのだ。

「べつに、たいした理由じゃない。ただ、なんとなく……」

「……なんだよ、それ」

 彼は少し困ったような顔をした。

 いつまでも一緒にいられない。どれだけ居心地がよくても、一緒にいるのが楽しくても。
 形は変わる。蝉だって羽化する。たぶん俺は抜け殻だ。

 俺はいらない。そう感じた。そう思ったら、もう一緒にはいられなかった。たとえ思い込みだったとしても。




 帰り道の途中で、部長に遭遇した。
 彼女はヒナの姿を見て、ちょっと意外そうな顔をした。

 俺はその視線を取り合わず、世間話のつもりで言葉を投げかける。

「部活は、出ないんですか?」

「それはこっちの台詞です」

 と部長は至極まっとうな返事を寄越す。 

 こうして話してみると、どうして部活に出るのを避けていたのか、その理由が自分でも分からなかった。


「あんまりサボってばかりいると、クビにしますよ」

 部長は大真面目な顔で言った。
 それから溜め息をついて話を続ける。

「わたしは用事があるので、部活はお休みしたんです」

「そうだったんですか」

「もう行きますけど、近頃事故が多いみたいですから、ふたりも車に気を付けて帰ってくださいね」

「横断歩道は手を挙げて渡ることにします」

 彼女はきょとんとしてから、少しだけ笑った。少しだけだったけど。それは嬉しかった。
 半径十五メートルの現実。




 バスを降りて住宅の間を縫うように歩く。

「暑いね」とヒナは言う。

「すごくね」と俺は頷いた。

 自転車に乗った小学生くらいの男の子たちが、家々の隙間を楽しげに走り抜けていく。
 コンビニにでも行くのか。もっと遠くまでいくのか。目的地は分からない。

 でも、楽しそうだった。

「そういえばさ、ヒメ」

「なに?」

「屋上で、初めて会ったときにさ、言ってたよね。幼馴染の女の子と、結婚の約束をしたことがあるって」

「……」

 言わなきゃよかったな、と俺は思った。


「それってさ……」

 ヒナはそれから少し、何かを言いあぐねていた。ほんの短い時間。
 そのわずかな隙間を縫うみたいな、鳴き声。

 俺とヒナは、揃って鳴き声の聞こえた方を振り返った。

 白い猫。

「シロだ」

「シロ?」

 思わずあげた声を、ヒナが繰り返した。

「うん。近所の公園で見かける猫」

「見たことない」

「あれ、そうだっけ?」

 付き合い始めてから、シロを見かけたことはなかったんだっけか。
 猫はこちらをちらりと見てから、俺たちの横を素早く駆け抜けていった。
 通りの向こうの児童公園に、姿が消える。


「綺麗な猫」

「うん。たぶん公園にいる」

「どうして?」

「公園が好きなんじゃないか。いつもいるんだよ」

「ふうん」

「寄っていく?」

「うん。ちょっと見てみたい」

 俺たちはシロの姿を追いかけて、公園へと向かった。




 公園の入り口で、ヒナは立ち止まった。呆然と立ち尽くすみたいに。

「どうしたの?」

「遊具、ないね」

 引っ越してきてから、この公園の中を覗かなかったんだろうか。

「何年か前に、撤去されたんだよ」

「なにかの残骸みたい。……前は、たくさんあったのに」

「うん。何もない場所になった。ただの広場みたいだ」

 ……“前は”?

 俺がその言葉に引っ掛かりを覚えるより先に、ヒナは公園に足を踏み入れた。
 だからその疑問も、宙ぶらりんのままほったらかしになった。
 さっきヒナが口にしかけた疑問と同じように。

「誰かいるね」

 ヒナの言葉に、俺は視線を前に向ける。ベンチに、少女が座っていた。


「こんにちは」と少女は言う。

「こんにちは」と、ヒナが少し緊張した感じで答えた。俺は頭を下げる。
 少女の膝の上に、シロが丸くなっている。

 思わず溜め息が出る。

「どうしたの?」

 ヒナは耳聡く俺の溜め息を聞きつけて、その理由を聞きたがった。

「いや、シロと仲良くなるのは、大変だったんだよ。カツオ節まで使ってようやくなついてくれたんだ。
 それなのに、なんかこう、簡単そうに膝に乗ってるとさ、虚脱感っていうか、徒労感っていうか」

「ばかみたい」とヒナは俺の憂鬱を一蹴した。たしかにバカみたいだ。


 女の子は困ったみたいに笑った。
 上手な笑い方をする子だな、と俺は思った。小学生くらいに見えるのにとても上手な。
 真似できない。尊敬に値する。

 見覚えがある。この辺りの子なのかもしれない。
 
「お兄さんたちは、学校帰り?」

「それ以外にどんなふうに見える?」

 皮肉っぽいよ、とヒナが俺の言葉を咎めた。そういうつもりでもなかったのに。
 少女はちょっと笑った。それから意味ありげに呟く。

「仲、いいんだね?」

 ヒナがさっと頬を赤らめた。子供にからかわれて顔を赤くしている。
 なんてかわいい奴なんだ、と俺は素直に感動した。バカみたいに。


 そうしたどうでもいいような仕草には反応もせずに、少女は言葉を続けた。
 当たり前みたいな顔で。

「ねえ、最近、変わったこと、起こらなかった?」

「変わったこと?」

「うん。なんでもいいんだけど」

「特には、何も」

「じゃあ、うれしいこととか」

 少女は俺の顔をまっすぐ見ていた。俺はその目をまっすぐに見返した。
 奇妙な質問。

「ああ、あったな」と俺は言った。
 
 ヒナが俺の顔を見ている気がした。だからこそ俺は自信を持って頷くことができた。
 だって、それは本心なのだ。

「あったよ。うれしいこと」

 そうなんだ、と少女は笑う。でも、どうしてだろう?
 彼女の顔は悲しそうに見えた。


 少女は、それからしばらく黙り込んだまま、猫の背中を撫でていた。
 猫は気持ちよさそうに唸る。物寂しい夏の日暮れ。]

 涼やかな風が、公園の中を吹き抜ける。

「……そうなんだね。うれしいことが、あったんだね」

 不意に、彼女の顔が、歪んだように見えた。
 一瞬のことだ。気のせいだったのかもしれないけど。

「ねえ、わたし、いいかげん飽きてきたんだ。ただ眺めてるのにも、退屈してきたんだ」

 だからね、と彼女は言う。

「――思い出させてあげようか?」

 凍てついたような硬質な声。
 その響きが、切り裂いた。




 眩暈。奇妙な感覚。俺を取り巻く世界のすべてが変貌する。
 何かが入り込んでくる。"降ってくる"。実感として。何かが。

 俺はそれに逆らえない。何かを挟み込む余地がない。

 作り変えられている。光が消える。太陽が沈む。時間が流れる。
 巨大な変化の中に取り残されている。

 変わるんじゃないよ、と声が言う。思い出すんだよ、と。
 それは知っていたはずのことだった。忘れていただけでずっとそこにあったのだ。

 白く染め上げられた世界。やさしい世界。丸い、棘がない世界。俺を傷つけない世界。
 求めていたもの。

 けれど、人は摩擦がない世界では生きられない。
 誰かが泣いている。その声が半径十五メートルの現実を切り裂く。

 誰かがどこかで春を売っている。

つづく
524-8 頷くと → 頷いて

>>493までは速報に投下したものの貼り直し
>>494以降が未投下分です

今までの詳しく

きついな
魔法使いと魔女のときよりもきついかもしれん




 昼休み、ヒナが俺を教室に迎えに来た。

 頭がぼんやりしている。覚醒しきっていない。現実に生きていない。
 俺は何をやっているんだろう?

「ヒメ、今週の土日、何か用事ある?」

 俺たちは屋上で食事をとっている。

「……いや、いつも通り」

「いつも通りって?」

「暇してる」

「普段、土日どんなことしてるの?」

「……本読んだり、映画観たり」


「映画?」

「うん」

「ふうん。ヒメ、映画好きだよね。映画館とか、行ったりするの?」

「まあ、ときどきね」

「最後に観に行ったのは何?」

「……なんだったかな」

 俺は思い出せないふりをした。ポケットの中には飴玉がひとつ。
 少し緊張したような調子で、ヒナは言う。

「じゃあ、最後に観たのは?」

 なんだったっけ。この世界では「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」のはずだ。
 でも、それは『事実』として記憶されているだけで、観たという実感は存在しない。

 それはシロによってつくられた記憶だ。ヒナと過ごした何週間かの記憶と同様に。


「汚れた顔の天使」

「どんな映画?」

「二人の男がいるんだよ。片方はまっとうに生きて、片方は惨めに生きる。
 惨めさというのも度を越えると劇的に見えてくるもので……劇的だからこそ、死ななきゃならなくなった」

「惨めに死ぬの?」

「どうかな。まっとうな奴は最後までまっとうに生きて、惨めな奴は、惨めかどうかは分からないが、死ぬしかなかった」

「……それがどうしたの?」

「悲しくないか?」

「少しね」


「そうだ、そういえば、もうすぐ夏休みだね」

「……うん」

「ねえ、ヒメ、知ってる?」

「何を?」

「夏休みに入ってすぐに、商店街でお祭りがあるの」

「うん。知ってる。何度も行ったよ」

 べつにたいした意味をこめて発した言葉じゃなかった。
 それなのに、その言葉の意味に気付いて驚いた。急に悲しくなった。

 ヒナはごく一般的な意味だと思ったのだろう、何気なく言葉を続ける。

「そっか。……ねえ、お祭り、一緒に行かない?」

 俺は口籠る。


 俺の胸を満たしている気持ちを何と呼べばいいのだろう?

 空虚感? 罪悪感? 徒労感? 
 どれも間違っている。どれも合っている。もう何もする気が起きない。

 俺は今どこに居るんだろう。この世界はどうなっているんだろう。
 いろんな疑問が湧き出てくる。いったいどうしてこの世界は繰り返されているんだろう。

 でも思考はすぐに止まってしまった。

 現実が夢に取り込まれてしまったのだ。
 何もかもがあやふやで、相対的で、現実感がない。

 夢の中にいる。


 記憶。
 
 ――わたしの中で、チュッパチャップスはコーラとプリンが双璧なの。

 ――えっと、ほんとにありがとね。助かったよ。帰れないかと思って泣きそうだったんだ。
 
 ――きみからすれば不思議だろうけど、わたしからしたら、ぜんぜん不思議なんかじゃないんだよ。

 ――もしそうなら……嬉しい、かも。

 声。

 ――あれは嘘です。

 ――……嘘です。嘘というのが、嘘です。

 ――そう、だね。……いまさら、だね。

 ――なにはともあれ、今は一緒にいます。
 
 あれは夢だ、と俺は自分に言い聞かせる。でも、それは現に起こったことでもある。
 この混乱を、自分の中でどう取り扱えばいいのか、もう分からない。


 現実で聞いた言葉。
 
 ――ヒメは、もっと正直に、泣いたり笑ったりしていいんだと思う。誰かを、好きになってもいいんだと思う。
 
 ――誰もそのことを否定したりしない。もし誰かが否定したとしても、わたしは否定しない。

 ――夏って、いいよね。

 ――……ひょっとして、無理してる?

 ――不安がることなんて、なにひとつない。当たり前みたいな日々が、続いていくだけなんだよ。

 心地よい言葉。ぬくもり。態度。
 誰かと一緒にいたという事実。感覚。実感。

 そういうものが全部抜け落ちていく。
 優しい言葉の、ぜんぶがぜんぶ、惨めで、歪なものに感じられる。

 嘘は嘘でしかない。
 全身から気力というものが根こそぎ奪われていく。

 俺が望んだこと。


「ヒメ?」

「……なに?」

「だから、お祭り。大丈夫? また、具合悪い?」

「……いや、大丈夫」

 大丈夫だよ、と俺は答える。ただ悲しいだけだ。それも、とても身勝手な悲しみだ。

「行こうか、夏祭り」

 繰り返しているんだな、と俺はシロに訊ねた。シロは肯定した。
 ということは、この世界は、俺にとって都合よく捻じ曲げられていたとしても、『現実』なのだ。


 ヒナも、アメも、先輩も、みんな、『現実』の存在で、人物で、『妄想』なんかじゃない。
 都合のいい妄想に、俺が付き合わせていただけで。

 ヒナが俺を好きだというのは、都合よく捻じ曲げられた事実で。
 でも、この世界において、彼女は『事実』として、俺のことが好きなのだ。

 夢はさめて、安心感も、幸福感も消えてしまっていたけど。
 本当はもう投げ出して、どこか遠い場所に逃げ出したかったけど。

 どうするのが正しいのかは分からないけれど、彼女を拒むわけにはいかないと思った。

 それをしてしまったら、本当に身勝手だという気がした。

 ヒナは、俺の顔を見て、何か奇妙そうな顔をした。それでも返事は明るかった。

「――うん。いこう……楽しみだなあ」

 でも、すべてが白々しくて、刺々しくて、苦くて、曖昧で、意識を保っているのがつらかった。
 眠ってしまいたかった。


『お兄さんは、"夢が見たい"って言ったんだよ。"自分がこうじゃなかったら"って世界を見てみたいって。
 だからわたしは見せてあげた。何か少しの違いで起こったかもしれない現実の世界を。
 でも、"現実には起きなかった出来事"を、お兄さんに見せてあげたんだよ。
 お兄さんの都合の良いように、世界を作り変えていたの』

 何か少しの違いで、起こったかもしれない現実。
 でも、起こらなかった出来事。

 ……結局のところ、俺が見てきた景色はなんだったのだろう?

 ただ、世界は繰り返されている。シロがどういうつもりなのかは分からない。
 いつまで繰り返されるんだろう?

 世界が繰り返されているうちは、俺もまた、ずっと同じことを繰り返すんだろうか。
 嘘だと分かり切った幸福な夢を見続けるんだろうか?




 夏祭りは賑わっていた。でも、俺はそうであろうことを知っていた。

 人はごった返す。誰かと誰かが待ち合わせをしている。
 人々は隣を歩く人と笑い合いながら夜店を冷やかす。

 囃子の音がどこかから聞こえる。仮設ステージからバンドの演奏が聞こえる。
 子供の泣き声。救急車のサイレン。

 ラムネやかき氷の味だって思い出せる。

 既視感だらけの景色の中で、浴衣姿のヒナは、いっそう新鮮に思えて。
 そのせいで、俺の罪悪感は更に強まった。

「どうかな?」

 と、照れたみたいにヒナは訊ねてきた。

「いいと思うよ」と俺は照れもせずに答えることができた。
 どうせ、もうすぐなかったことになるんだ。そう思うと、どんなことだって言えた。
 ちょっとした笑顔だってすぐに作ることができた。


 ヒナは最初、俺の態度にちょっと怪訝そうな顔をしていた。
 でも、たぶん、祭りの熱気のせいだと解釈したんだろう。
 何も訊いてこなかった。

「人がたくさんだね」

「うん。はぐれそうだな」

「……手、つないでもいい?」

 俺は手を差し出した。

「ありがとう」とヒナは言った。

 日が落ちて、辺りの喧噪は強まっていく。
 騒々しい音に、自分の意識が吸い込まれていくような錯覚。


 自分をこの場に繋ぎとめていたくって、俺はヒナの手を強く握った。

「どうしたの?」

 びっくりしたみたいに、彼女はこちらを見る。
 俺はすぐには、答えられなかった。

「……いや、少し悲しくなっただけだよ」
 
「せっかくのお祭りなのに?」

「……ごめん」

「……楽しくない?」

「楽しいよ」

 ヒナの手のひらは暖かい。ヒナの笑顔は嬉しい。
 はしゃいだり、拗ねたり、怒ったり、笑ったり、落ち込んだり、ヒナの仕草は想像がつかない。
 耳に掛かった髪を指先で後ろに流す仕草。

 通行人とぶつかりそうになったとき、さりげなく寄せられる体。そのとき不意に鼻をかすめる爽やかな匂い。


 金魚すくいをするために屈みこむ仕草。網が破けてしまったときの、困ったような笑顔。
 サービスでもらったビニールの中の金魚を、顔の前にかかげて覗き込む、楽しそうな表情。

 シロはどうして、俺に苦しめと言ったんだろう。
 たしかに、俺がしていたことは、苦しんでしかるべきと言えるくらい、馬鹿げたものだったことかもしれない。

 でも、彼女にとって俺は、「願いを叶えてあげた大勢の中のひとり」くらいの意味しか持たないはずなのに。

 いずれにしても、と俺は思う。俺を苦しませようとして、俺の記憶を呼び覚ましたのなら、彼女のたくらみは成功している。

 綿あめが食べたい、とヒナは言った。どうせなかったことになるんだ、と俺は思った。
 金を使ったってなかったことになるんだ。だから支払いは、ほとんど全部俺が済ませた。

「いいの?」

「今日は特別だからね。それに、人におごったりするのって、気分がいいものだよ」

「ありがとう」

 どこか申し訳なさそうに、ヒナは俯いて、それでも表情は、うれしそうに見えた。


 最初の自分が、どんな境遇にあったのか。それだけが思い出せない。
 アメのことも、先輩のことも、ちゃんと思い出せるのに。

 どうして、こんなことを願ったんだろう。

 苦しかったんだろうか。寂しかったんだろうか。つらかったんだろうか。 
 耐えられなかったんだろうか。現実を歪めてしまいたいくらい、悲しかったんだろうか。

 たとえどんな苦しみがそこにあったとしても。
 俺はそんなことを願うべきじゃなかった。

 どうして、俺は、そんな願いを叶えてもらったんだろう。


 俺たちは、綿あめを食べ終えて、少し歩き疲れた体を休ませていた。
 飲み物を買って、道端に寄り、人の流れからはずれる。

「……ねえ、ヒメ」

 ヒナが言う。なに? と俺は首を傾げる。

「わたしね、いま、すごく楽しいよ」

「……そっか」

「うん。来てよかったって思う」

「それは、よかったな」

「ヒメが、居てくれてよかったよ」

 どこか懇願するような顔で、ヒナは俺を見上げた。
 分かってほしい、というような目。ちゃんと伝わるだろうか、という目。

「わたしの現実に、ヒメがいてくれて、良かった。
 そうじゃなかったら、きっと、こんな気持ちになることもなかったって思う」

「……」


「ヒメは、楽しい?」

「楽しいよ」

 楽しい。それは嘘じゃない。幸せだ。嬉しい。
 だからこそ悲しい。

「それなら、よかった」

 ほっとしたように、ヒナは溜め息をついた。

「……今日は、すごく楽しい」

 ヒナは笑う。その笑顔は、いつもより、なんだかすごく大人びて見えた。
 綺麗に見えた。

「こんな日が、続けばいいのにね」


 ふと、こんな考えがよぎった。

 ヒナだって、こう言っているじゃないか。
 こんな日が続けばいいと、ヒナだって言っているのだ。
 俺だって、そう思う。ヒナとこのまま、こんな日々を重ねていけたらいい。

 俺はたしかに、シロの力を借りて現実を歪めた。
 でも、その事実を、惨めさを、いびつさを引き受けてしまえばいい。

 そうして、このまま、ヒナと一緒に、何事もなかったみたいに、日々を重ねていけばいい。
 それは自分本位な考えだったけれど、とても良いアイディアのように思えた。

 でも、実行はできないのだろう。世界は俺の都合とは無関係に、繰り返されているんだから。

 それにしても、世界はどうして、繰り返されているんだろう?


 不意に、ヒナが俺の手を軽く引っ張った。

「なに?」

「……あのね」

 ヒナの声は、いつもより小さかった。
 あるいは、雑踏の騒がしさのせいでそう聞こえただけなのか。
 
「あの……」

 彼女は顔を真っ赤にして、俺を見上げている。
 
「その、ね……」

 彼女は、何かを求めているのだろうか?
 仮にそうだとして――俺は、それに応える権利を持っているんだろうか?


「……うー」
 
 俺が何も言わずにいると、ヒナは目を逸らして、拗ねるみたいな唸り声をあげた。
 かわいい子だ。

 たぶん、俺の望みどおりに。
 思わず俺は笑ってしまった。自分の惨めさを笑ったのか、ヒナの仕草を笑ったのか、分からない。

「……ヒメは、意地悪、だね」

 真っ赤に染まった頬。少し潤んだ瞳。ヒナの長い睫毛が、かすかに揺れている。
 声は、心細そうに震えている。

 不意に、たまらなく寂しくなって、俺はヒナの手を握った。そして彼女を抱きしめようとした。
 そうしないと、自分がばらばらに砕け散ってしまいそうな気がした。

 でも、そんな俺をせせら笑うみたいに、景色は歪む。

 ――時間が来たのだ。




 眩暈。
 穏やかな、眩暈。

 当たり前に訪れるはずの、眩暈。

 最後に見たヒナの表情が、歪む。

 誰かが俺に向けて言った言葉、誰かが俺にしてくれたこと。
 その全部が、俺の思考を掠めては通り過ぎ、消えていく。

 もっと苦しんでよ、とシロは言った。だとするなら、俺は次の世界でも、同じことを繰り返すんだろうか。

 もし、この記憶を、次の世界でも引き継いでいるのなら。
 たとえシロがどんなに都合の良い世界を作ったとしても、俺はもう誰の手も握らないでいよう。

 くだらない願い。音と光の洪水の中で、俺は自分が泣いているような気がした。

 どうしてこんなことを願ってしまったんだろう。
 ――どうして世界は、繰り返されているんだろう。

つづく
226-8 鳴き声 → 泣き声

>>588
あまりお勧めしませんがタイトルだけ貼っておきます
>>589の人が言っているのは上から五番目の奴だと思います

幼馴染「……童貞、なの?」男「」
男「だったら俺が悪いのかよ!」
後輩「それじゃ、本当にこれでお別れです」
妹「なぜ触ったし」
姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「そう?」
少女「雨が止んだなら」
後輩「わたしは、待ってるんですからね」
女「じゃあ、一緒に帰ろっか」




「お兄ちゃん、朝だよ」

 ノックの音。

「今日も学校だよ。起きないと、遅刻するよ?」

 声。
 
 そうだな、と俺は思う。

 朝だ。
 朝が来たら、起きなきゃいけない。

 体を起こす。

 瞼を手のひらでこする。妙な夢を見ていたような気がする。

「目、覚めた?」

 声に、目を向ける。妹はこちらを見つめている。目が合うと、にっこり笑った。

「おはよう、お兄ちゃん」

 おはよう、と俺は返事をした。




 太陽の光が街並みに降り注いでいる。
 朝だというのに、うっとうしいくらいの蝉の鳴き声が聞こえる。元気な奴らだ。分けてほしいくらいだ。

「暑いね」

 手のひらで庇を作って目元をかばいながら、妹は辺りの様子を眺めた。

「うん。ちょっと常軌を逸してる」

「今日、三十度超えるかもって」

「夏だなあ」

「日焼けしそう」

「クリーム塗った?」

「もちろん」

 妹は得意げに笑う。


 二人で並んで通学路を歩いていると、道の向こうに、ふたりが待っていた。

「おはよう」

 と、ユキトは言った。
 追いかけるみたいに、サクラが、

「おはよう」

 と同じ言葉を放って笑う。

「おはよう」、と俺も笑う。

「おはようございます」と妹がにっこりと頭を下げる。
 俺たちは特別な言葉もなく合流し、四人並んで通学路を歩き始めた。


「もうすぐ夏休みだけど、何か予定ある?」

 サクラは俺とユキトの間を堂々と歩いた。いつも前を歩くのは彼女だった。
 妹は、どことなく距離を置いて、俺の斜め後ろを黙ってついてきている。

「特には」と答えると、サクラは間髪おかずに「部活は?」と訊ねてきた。

「まあ、多少は顔を出すけど、基本は出なくても問題ないはずだし」

「そっか」

 頷いて、サクラは何かを考え込んだ。

「どうしたの?」

 訊ねたのはユキトだった。俺と彼はふたりでサクラの方を見る。彼女の言葉の続きを待つ。

「わたしは、夏期講習にいったり、友達と遊んだり、部活に出なきゃいけないんだよね」


「ふうん?」

 そりゃそうだろ、という思いを飲み込みながら、俺は頷いた。

「でも、それだけじゃなんかなあって思うの」

「……それだけ、って」

「つまり、わたしたちは高校生になったわけでしょう?」

「そうだね」

「言いたいこと、分かる?」

 さっぱり分からない。

「苦しかった受験勉強のシーズンを終えて、期末のテストも終えて、久しぶりの長期休みなんだよ?」

「うん」

「遊ぶしかないでしょ?」

 サクラは当然みたいな顔で言う。俺とユキトは顔を見合わせた。


「だから、友達と遊ぶんだろ?」とユキト。

「もちろん。でも、もっと他に、何かあってもいいと思うんだよ」

 サクラはにっこり笑う。

「一緒に苦しい受験勉強の時間を乗り越えてきた仲だし、せっかくの休みなんだから、一緒にたくさん遊ぼうよ」

「……」
 
 その"苦しい受験勉強の時間"の大半を、俺は「勉強ができるから」という理由で一緒に過ごせなかった気がするのだが。
 視線を向けると、サクラはさっと顔を逸らして、ごまかすみたいに笑った。

「……そのことは謝ったんだから、いいでしょ」

 俺は溜め息をついた。べつに本気で咎めたいわけでもないんだけど。

「急に避けられて、俺がどんな気持ちで毎晩勉強してたと思ってるんだよ」

「だから、そのことは謝ったってば」

 開き直るみたいなサクラの声に、ユキトが声をあげて笑った。




「それはさておき」、とサクラは真顔で話を戻した。

「夏休みの話。ふたりとも、暇?」

「暇だよ」

 ユキトは躊躇なく答えた。

「部活もサボるつもりだったし」

 俺は呆れて溜め息をついた。

「ユキト、最近サボりすぎじゃない?」

「……え、そう?」

「部長、けっこう気にしてるみたいだよ」

「自分としては、けっこう出てたつもりだったんだけど」

「まあ、どうでもいいけど、休み中も多少は顔出した方いいよ」


「部活中寝てばっかりのヒメに言われてもな……」

 寝てばっかりなんだ、と、斜め後ろで妹が呆れた声音で呟くのが聞こえた。

「部活の話はともかく」と、サクラが強い調子で話を区切った。
 
 ちょっと前までぼんやりした感じだったのに、最近の喋り方はやけに活力に満ちている。
 また三人で登下校するようになってから、だろうか? よく思い出せない。 

「ともかく、夏休みの話。わたしは、たくさん遊びたいの」

 サクラは胸の前でぐっと握り拳をつくった。

「プールに行ったり、バーベキューしたり、海にいったり、花火をしたりしたいの」

「……すればいいだろ」

 俺の声に、サクラはちょっとむっとした様子だった。

「ヒメ、最近わたしに冷たい」

 俺は溜め息をついた。彼女は五年くらい前から、同じ台詞を何度も言い続けている気がする。


「やっぱり、彼女ができたから?」

 サクラは不機嫌そうに質問をぶつけてくる。ユキトが「え? 彼女できたの?」と大袈裟に目を見開く。
 何気なく妹の方に目を向けると、「そんな話は聞いていません」と言いたげな視線で俺を見ていた。
 ……もし本当に彼女ができたとしても、妹に教える義務はないはずなのだが。

「彼女じゃないって、五回くらい言ったよ」

「でも、仲良さそうだったし。毎日みたいに会ってるんでしょ?」

「おまえとだって毎日みたいに話してるけど、べつに付き合ってるわけじゃないだろ」

 俺の言葉に、サクラはちょっと戸惑ったみたいに視線を揺らした。

「わたしの場合は、あれだよ」

「どれ?」

「……ウェスターマーク効果、みたいな?」

「それ、仮説ですよ」と、なぜか妹が真剣な顔で口を挟む。
 サクラは虚を突かれておろおろしていた。




「実際問題、付き合ってないの?」

 サクラはやけにしつこくそのことを気にした。

「付き合ってないし、そもそも、今はもう会ってない」

「……どうして?」

「……」

 告白されて、逃げられて、それ以来顔を合わせていない、と言ったら、話が変な方向に進みそうだ。

「それにしても、今日は暑いね」

 俺があからさまに話を逸らすと、サクラはじとっとした目でこちらを見つめた。

「だなー」とユキトは相槌を打ってくれる。ほんわかした彼の性格には、こういうとき助けられる。
 ふと視線を感じて振り返ると、妹もまたこちらを疑わしげに眺めていた。

 俺は視線を空に逃がす。夏の青空は低くて近い。




 教室につくと、タイタンが俺の席に座って窓の外をぼんやりと眺めていた。
 透明なガラス越しに、彼は外の世界を眺めている。

 鳥が飛んでいる。木々がざわめいている。太陽の灼熱。土色に光るグラウンド。
 すべてがガラス越しの。
 タイタンは鬱陶しげに額の汗をぬぐった。

「おはよう」と俺が声を掛けると、「おはよう」と彼も返事をしてくれた。

 ユキトとサクラの席は離れているから、彼らはそちらに鞄を置きにいく。

 暑さのせいだろうか、タイタンの表情はいつもより気だるげだ。
 ……あるいは、眠いのだろうか?

「どうした?」

 訊ねると、彼は「ああ、うん」と曖昧に頷く。それからしばらく黙り込んでしまった。
 俺は机に鞄を置く。そのまま手持無沙汰に立ち尽くした。
 
 たっぷり十五秒の沈黙の後、声が掛けられる。

「ヒメ、最近、図書室に行った?」


「図書室?」

「うん」

「……いや」 

 行った、だろうか?
 ……行っていない、ような気がする。
 
 妙に気になって、俺は鞄の中身を探る。

『ぼくらはそれでも肉を食う』。

 ……こんな本、借りたっけ? でも、たしかに図書室の本だ。

「たぶん、行ったみたいだ」

 俺はそんなふうに、曖昧に答えた。奇妙な返事だったけれど、彼は気にしなかったらしい。

「そっか」

「図書室がどうかした?」


「司書さんの様子がおかしいんだよ」

「おかしい?」

「うん」

 彼は真面目な顔で頷く。そしてまた視線を窓の外に向けた。
 何を見ているんだろう? 何も見ていないのかもしれない。窓を見ているのかもしれない。

「ちょっと落ち込んでるみたいだ」

「ふうん。心配だな」

 タイタンは胡散臭そうな顔で俺の方をちらりと見た。

「何、その顔」

「ヒメの口から"心配"なんて言葉が出てくると、ちょっと不安になる」

 人をなんだと思っているんだ。俺だって、普通に人を心配したりする。


「まあ、落ち込むことくらい誰にだってあると思うけど……昼休みにでも、顔出してみるか」

 俺の言葉に、タイタンは何気ないふうに頷く。
 それから、ちょっと怪訝げな顔をして、またこちらを見た。

「今日のヒメは、変だな」

「どこが?」

「普段なら、もっとどうでもよさそうな顔してる」

「そんなことないだろ」

「あると思う」

「……おまえ、俺をなんだと思ってるんだよ」

「情緒的ニート」とタイタンは笑いもせずに言う。




 昼休み、本を返しにいくために教室を出ようとしたところで、サクラに声を掛けられる。

「ヒメ、どこ行くの?」

「図書室」

「お弁当食べてからにしたら?」

 彼女は自分の巾着を掲げて指で示した。俺は肩をすくめる。

「後にする。返すの忘れそうだし」

「じゃあ、待ってるから早く戻ってきて」

「二人で食べてなよ」

「なんで?」

 なんで? と。
 本当に不思議そうにサクラが首を傾げるものだから、俺はなんだか、不安になった。
 その光景。俺をまっすぐに見て、堂々と話しかけてくるサクラの姿。


 逃げるみたいに背を向けて、教室を出ようとしたところで、誰かにぶつかった。

「あ、ごめん」

 謝ってから、相手の顔を見る。

 残像。
 幻聴。

 景色が歪む。蘇りそうになった記憶の予感に、俺の中の何かが蓋をした。

 ぶつかった女の子は、体勢を崩したり、転んだりはしなかったようだった。
 俺は少しほっとしてから、もう一度謝る。

「悪い。前見てなかった」

「いや、こっちこそ、ごめん」

 女の子は謝った。何を謝ったのかは、よく分からなかった。


 教室に入りたいのかと思って、入口から少し体をずらしたけれど、彼女はそのまま立ち尽くしていた。

「入らないの?」

「あ……」

 どうかしたのだろうか、こちらを見て、黙り込んでしまった。 
 見覚えのあるクラスメイト。何度か話したことだってある。
 
 名前だって、ちゃんと……覚えている、はずだ。

 彼女はもう一度「ごめん」と言うと、目を逸らして、教室の中にぱたぱたと入っていく。

 俺はその姿を見送ってから、溜め息をついて教室を出る。
 どうにもクラスで浮いているような気がした。

つづく




「なんだか久しぶりだね?」と、司書さんは言った。
 
「そうでしたっけ?」と俺は問い返す。

「そんな気がする」

 彼女は貸出カウンターの内側でパイプ椅子に腰かけて休んでいた。
 俺は本を差し出して返却を申し出る。司書さんは手続きをしながら口を開いた。

「今日は何か借りていくの?」

「……気分じゃないので」

「ふうん?」

 ちょっと不思議そうな顔をしながら、彼女は本を受け取った。
 彼女はどことなく疲れたような顔をしているように見えた。


「なにかありましたか?」

「え? どうして?」

「いや。疲れてるみたいだから」

「そんなことないよ。なんでかな」

 彼女は本当になんでもないみたいに笑った。

 昼休みが始まったばかりだからか、図書室には、まだ人の姿がない。
 俺以外の利用者はいないようだった。

 真昼の太陽が外を照らしているせいで、ただでさえ薄暗い図書室がいっそう影を帯びて見える。
 廊下の向こうから騒々しい笑い声が聞こえた。誰かがどこかで笑っている。
 でも、そのどこかは、ここではない。

 静けさのせいで、世界を遠く感じる。こういう気分だって、べつにきらいってわけでもないけど。
 なんとなく寂しそうだった。


「きみは……」

 司書さんは口を開いた。俺は黙って続きを待った。
 彼女は、けれど、思い直すみたいに首を振って、自嘲気味に笑った。

「ごめんなさい。何か、言いたいことがあったはずなんだけど……」

 思い出せないや、と小さな子供みたいに笑った。 
 俺も合わせて笑うべきだったかもしれないけど、それはなんとなく嫌だった。

 それから、ふと、思いついたように、彼女はもういちど口を開く。

「ねえ、きみは、この世界についてどう思う?」

「……は?」

 ずいぶん抽象的な問いかけ。


「どういう意味ですか?」

「つまり、この世界」

「……さあ。他の世界を知らないもので」

 彼女はちょっと目を細めて、俺の顔をじっと見つめた。
 どういう意味だ?

「変って、感じない?」

「……変?」

「つまり、同じことを何度も繰り返してるような感じ」

 俺には彼女の言いたいことが分かりかけたような気がしたけれど、その感覚は具体的な言葉になる前に封じ込められた。
 押さえつけられている。

「同じ日々。でも、どこか違う。そんなふうに、何度も繰り返されている気がする。錯覚かもしれない」

「……なにかの、本の話ですか?」

 彼女は苦笑した。今度は俺も合わせて笑った。ごまかすみたいに。
 廊下の向こうから誰かの話し声が聞こえる。ざわめきを、遠くに感じる。


「もし繰り返されているとしたら、それはわたしのせいなのかもしれない」

「……どういう意味ですか?」

「わたしね、もうすぐプロポーズされるのよ」

「……はあ」

「でも、たぶん、わたしは幸せになっちゃいけないんだ。だから、"その先"に進めなくなっちゃったの。 
 たぶん、そうだと思う。わたしは幸せになっちゃいけない。それを忘れてたから、怒られてるんだ。きっと」

「……何の話ですか?」

「中絶経験があるのよ」と司書さんは言った。

「何もなかったみたいに自分だけが幸せになろうだなんて、無理な話だったんだよね。
 だから、幸せになる手前で、何度も引き離されてるんだ。そのことを、わたしに思い出させようとしてたんだよ」

 俺は答えられなかった。違う、と言いたかった。そうじゃない、と。
 でもそう言いきれるだけの根拠を俺は持っていない。だから俺は……。

「何かの勘違いじゃないんですか?」

 何も知らないようなふりをして笑い飛ばした。
"知っている"ことを思い出そうとすると、記憶に蓋がされる。反射みたいに。




 図書室からの帰り道の途中で、廊下の喧噪を耳にしたとき、俺はほっとした。
 ざわめきが近くにやってくる。現実感。他者の存在感。そういうものが現れる。

 他者を実感するとき、世界はたしかにそこに存在する。
 
 司書さんと二人きりの図書室は、現実感に乏しくて、隔絶されているような気がした。
 箱の中にいるような。

 校舎のざわめきも、蝉の鳴き声も、太陽の光もすべてを遠く感じる場所。
 地上から飛行機を見上げるような。

 俺はそんな場所にもう戻りたくない。




 教室に戻ると、サクラとユキトは俺のことを待っていた。
 こちらに気付くと声をあげて手招きしてくる。周囲の視線がこちらに集まる。

 正直困る。

 教室にタイタンはいなかった。図書室に行く途中もすれ違わなかったけど、いったいどこにいるんだろう。
 彼の行動はいつもよく分からない。彼にとっては俺だってそうかもしれないけど。

 俺が近付くと、ふたりは「遅い」と不満げな声をあげた。
 サクラとユキトの席と、それから俺は近くの空いていた席を借りて、弁当を広げる。

「ヒメはどうして本が好きなの?」

 弁当をつつきながら、サクラは呆れたような調子でそう訊ねてきた。

「どうしてって?」

「つまんないでしょ、本なんて読んでも」


 どうだろうね、と俺は曖昧に答えた。感じ方の問題だ。
 
 俺が答えずにいると、サクラは「よくわからない」という顔で食べるのに集中し始めた。

 サクラとユキトはそれからいくつかの話題を机の上に広げた。
 俺はそれらにことごとく触れることができなかった。

 財布に入っている金じゃ買えないものばかり置かれている服屋みたいだ。
 でも俺はあまり気にしないことにした。

 一緒にいる友人の財布に金が入っている。
 俺には買えないかもしれないが、ここにいてはいけないわけじゃない。 

 べつに悪いことをしてるわけじゃない。




 昼食を取り終えてそのまま雑談していると(俺はほとんど黙っていたけど)、声が掛けられた。
 誰だろうと思って三人そろって声の方を振り返ると、クラスメイトが立っていた。

 さっきぶつかった女の子。

「ごめんね、話してる途中で声かけて」
 
 と彼女は言った。

「どうしたの?」と訊ねたのはサクラだった。俺とユキトは黙って成り行きを見守る。

「こないだのお礼言っとこうと思って。ほら、先週、自転車の鍵探すの手伝ってもらったでしょ?」

 ああ、とユキトは頷いた。サクラも頷いた。
 俺は思い出せなかった。そんなことしたっけか。

 でも、したような気がする。「した」と言われれば。「した」ような気がする。


「ありがとね、ホントに」

 女の子は言う。サクラは頷く。

「いいよべつに、お礼なんて」

 それからサクラは、ちらりと、俺とユキトの方に目を向けた。
 
「うん。でもホントに助かったからさ。だから、はい」

 と言って、彼女はポケットから飴を取り出した。

「お礼」

 彼女が差し出したチュッパチャップスを、サクラは遠慮がちに受け取った。

「はい、二人も」

 いいよ、と断れる雰囲気でもなかった。

「ありがとね」
 
 と彼女はもう一度言う。サクラが受け取ったのはコーラ味だった。ユキトがプリン味。俺はグレープ。





 そんなふうに昼休みは過ぎていった。

 満腹になったせいか、午後の授業は眠くて仕方ない。
  
 妹の弁当は美味しかったなあ、と俺は思い出した。
 昼過ぎの日差しはまぶしくて、窓際の席では目を開けていられない。

 誰かがカーテンを閉める。教室が薄暗くなる。俺は眠くなる。

 教師の念仏。もわもわという熱気。誰かが窓を開ける。風も吹きこまない。
 チョークの擦れる音、時計の分針の進みがやけに遅く感じる。

 頭が重い。
 ノートの上に頬杖をつき、机に開いた穴をぼんやりと見つめる。
 シャープペンの先を使って、コツコツとその穴をつついてみる。別に意味があるわけでもない。
 
 瞼が重い。今度は手の甲をシャープペンでつついてみた。

 痛みでは目は覚めない。




 放課後、俺が鞄を持って立ち上がると、ユキトが声を掛けてきた。

「ヒメ、帰ろう」

 サクラは? と訊ねると、あいつは部活だから、とすぐに答えてくれた。俺は溜め息をつく。

「俺も部活」

「出るの?」

「おまえも、部活は?」

 彼はちょっと困った顔で頬を掻いた。

「文芸部の空気、苦手なんだよ、俺」

「なんで入ったんだよ」

「そりゃ、ヒメが入ったからだよ。二人ともどうせ帰宅部だと思って油断してたら、どっちも部活に入っちゃうんだもん」

「なんだよ、それ。……とにかく、おまえは出ないの?」


 んー、と唸りながら腕を組み、しばらく悩んでいたようだったが、結局彼は首を横に振った。

「今日は帰る」

「用事あるの?」

「まあ、べつにないけど」

「じゃあ、顔だけでも出せよ」

「えー?」

「俺も今日は長居しないから、そしたら一緒に帰れるだろ」

「うーん」

 ユキトはまた、十秒くらい唸っていた。その後ようやく首を縦に振った。不承不承、というように。




 部室までの廊下を歩く途中で、ユキトはぼんやりと口を開いた。

「最近、サクラ、元気じゃない?」

「おまえもそう思う?」

 そう返事をすると、うん、と彼は頷いた。

「やっぱり、ヒメが居なきゃダメなんだよ、サクラは」

「まさか」と俺は言った。言ってしまってから少し後悔した。

 彼はそれきり黙り込んでしまった。




 花火が尽きた。シメの線香花火まで終わってしまった。
 人数のせいもあるだろうけど、尋常じゃない量なのにあっというまだった。

 サクラとユキトは満足そうな顔をしていた。妹は物足りなさそうな顔をしていた。
 タイタンは、ずっとぼんやりした様子だった。

 女の子は、ごく当たり前みたいに笑いながら、サクラにお礼を言っていた。

「約束だから、これからちゃんと家に帰るんだよ?」

 当たり前のように加わっていると思ったら、ひそかにそんな取決めをしていたらしかった。

「うん、ありがとう」と女の子は大人びた表情で笑った。
 嘘みたいな笑顔。


 後片付けを済ませた後、サクラとユキトははしゃいだ様子で帰っていった。
 帰らないの、と訊ねられたけれど、タイタンと話があるから、と答えると、奇妙そうな顔でこちらを見ていた。
 サクラはちらりと少女を見てから、俺に目配せをして、そのまま公園を出て行った。

 妹にも先に帰るように言うと、彼女は他の二人と並んで家路についてくれた。

 物わかりのいい家族で非常に助かる。

 残ったのは、俺と、タイタン、それから例の女の子だった。

「子供って損だね」と、サクラの背中を見送りながら、彼女は呟いた。

「どうして?」

「誰も信じてくれない。わたしには本当に帰る場所がないのに」

 俺は答えられなかった。タイタンもまた、困ったような顔をしていた。

「本当に帰る場所がないの?」

「うん」


 言葉を信じるにしても、信じないにしても、タイタンは彼女が去るのを待っていた。
 でも、俺には、さっき見た彼女の泣き顔が忘れられない。

 今はもう、何事もなかったような顔をしているのに。

「……タイタン、話って何?」
 
 訊ねると、彼は戸惑ったように少女の方を見た。

「この子のいる前じゃ……」

「わたしがいた方が話が早く済むのに」

 少女は当たり前のように言う。
 俺とタイタンは顔を見合わせる。笑い飛ばせたはずなのに、なんとなく気味が悪かった。


「ねえ、『エスター』って映画、知ってる?」

 女の子は綺麗に笑ってそう訊ねてきた。
 俺はその映画の内容を知っていたけど、目の前の少女の口からそのタイトルが出たことに違和感を覚えた。
 
「帰る場所がないとしても、俺たちにはどうしようもないんだよ」

 タイタンはそう言った。

「放っておくか、警察でも呼ぶしかないんだ。君とこんな時間に話していたら、むしろ俺たちが通報されかねない」

「世知辛いね」

「世知辛いんだよ」

 少女は少し笑った。タイタンも合わせるみたいに笑った。すると彼女は笑顔を崩してこう言った。

「いいから話を始めたら?」


 タイタンは呆気にとられて少女の顔を見返す。
 俺は仕方なく溜め息をついた。

「タイタン、俺の家に行くか?」

「でも……」

 タイタンは少女の方をちらりと見た。放ってはおけない、と思ってはいるんだろう。
 
「なあ、きみ、帰る場所がないんだろ?」

「きみじゃなくて、シロ」

 俺は少し戸惑ったけれど、その呼び名を使うことにした。

「シロ、帰る場所がないのか?」

「そうだよ」

「今夜はどうするんだ?」

「どうしようかな」


「普段はどうしてるんだ?」

「いろいろ。野宿したり、誰か親切な人が現れるのを待ったり……」

「親切な人?」

「うん。ときどき、声を掛けてくれるんだよ。このあたりだとなかなかいないけど、街中だとね。
 ご飯を食べさせてくれて、寝る場所も用意してくれる」

 俺は少し嫌な想像をしたけれど、まさか『そんなこと』が身の回りで起きるなんて本気で思ったりはしなかった。
 ましてや彼女は小学生くらいに見えた。

 彼女はじっと俺の方を見上げている。


『エスター』。

 まともに受け止めるのが難しい映画だった。あれはホラーだったんだろうか。

 主人公と少女という対立。映画の中では、主人公が被害者であるかのように描写される。
 主人公は「努力しているにも関わらず、報われない人物」として描かれている。

「少女」の方は、奇行ばかりの、得体の知れない、理解不能の少女として描かれる。
 でも、おかしいのはむしろ主人公の方だった。
 情報を正確に並べれば、それははっきりしている。

 そしてその分だけ、主人公と対立する「少女」の言葉はきわめてまっとうに響く。
「少女」の過去の罪や、実際の悪行が伴わなければ、糾弾されるべきはむしろ主人公の方だったのだ。

 だから、「主人公」ではなく「少女」の方に、俺は感情移入してしまった。

 殺人者に恐怖よりもむしろ憐みを抱いてしまうホラー映画。
 あの顛倒が意図的なものでなかったとしたら、やっつけ仕事にもほどがある。

 憐れなエスター。
 世界を呪い、憎み、誰にも受け入れられず、誰にも愛されず、誰にも理解されず、それでもぬくもりを求めていた。


「帰る場所がないんだろ」

 と、俺はもう一度シロにそう声を掛けた。

「だったら、俺の家に泊まるか?」
 
 おい、とタイタンが慌てたような声をあげた。

「誘拐で捕まるぞ」

「そのときはそのときだよ」、と俺は言った。

「朝までここにいるわけにもいかない。放っておくわけにもいかない。本人には帰れる場所がない」
 
「嘘かもしれないだろ」

「少なくとも帰る気はなさそうだ」

「でも、だからって、俺たちがどうこうするのは話が違う」


「じゃあ、おまえが警察を呼べばいい」

 タイタンは、その言葉に怯んだみたいだった。

 どうして、こんな事態になったのかは分からない。
 泣き顔を見てしまったから、なんて話じゃなくて。

「放っておけない。……放っておくわけにはいかない」

 シロの方をちらりと見遣ると、彼女は戸惑ったような顔をしていた。
「なんだか変な流れになってしまった」というふうな。

 現に、こんなことを言った。

「わたしとしては、べつに放っておいてもらってかまわないんだけど」

「そういうわけにもいかない」と俺は即座に否定した。

「……帰るって、嘘つけばよかった。子供って不便」

 彼女は不服げに唇をとがらせている。
 まあいいか、おもしろそうだし、と彼女は小さく呟いた。


 俺はシロを家に連れ帰ることにした。

 彼女の言葉が嘘だと思えなかった。
 仮に嘘で、本当は彼女に帰る場所があったとするなら、それはそれでかまわなかった。
 
 でも、もし本当だったなら、彼女を放置できない。見て見ぬふりはできない。
 
 タイタンは最後まで不服そうな顔をしていた。
 俺たちは三人並んで歩いたが、その間喋っていたのはシロだけだった。

 俺は彼女の歩く姿を見ながら、何かを思い出しそうになっていた。

 何かを忘れているような感覚が、頭の中でじくじくと痛み続けていた。




 家の灯りはついていなかった。

 俺は怪訝に思いながらも玄関に入り、「ただいま」と声をあげた。
 二人は俺に続いて玄関で靴を脱いだ。

 玄関に妹の靴はなかった。

 怪訝に思いながらもリビングに向かう。灯りをつけるが、外出する前と部屋の様子は変わらなかった。
 妹はまだ帰ってきていないんだろうか。

「泊めるっていったって、どうする気だよ」

 タイタンはまだそのことにこだわっていた。

「風呂と寝床を貸して、食べ物を食わせる」

「それで明日になったら放り出すのか?」

 俺はとっさに答えられなかった。


「いつまでもこの家で預かっていられるわけでもないし、預かるべきでもないだろ。
 帰る場所がないんだったら警察に任せた方が早い」

「そりゃあね」

「泊めるなんて、本気で言ってるのかよ。捨て猫を家に置くのとはわけが違うんだぞ」

「どこが違う?」と俺は訊ね返したが、負け惜しみみたいなものだった。
 タイタンは首を横に振って苛立たしげに溜め息をついた。

「最後まで責任を持てないなら、最初から距離を保つべきだって俺は思う」

「心配しなくても、明日の朝には出て行くよ」、とシロは言った。

「なんなら警察を呼んでくれてもいいよ。ややこしいことになる前に、逃げさせてもらうけど」
 
 タイタンは諦めたように溜め息をついた。貧乏くじを引いたような気がしたのかもしれない。

つづく




 妹の携帯に電話を掛けてみたけれど、留守電に繋がった。
 
 たぶんコンビニかどこかに出掛けているんだろうと思い、とりあえずは気にしないことにした。
 俺はとりあえず二人をリビングにあげた。

「腹減ってる?」
 
 俺は二人にそう問いかけた。タイタンは首を横に振った。そういえばファミレスにいたんだっけ。

「とても」とシロが答えた。

「じゃあ、何か作るから」

「ありがとう」とシロはにっこりと笑う。

 俺は冷蔵庫の中身を軽く漁り、何か食べられるものがないかを確認する。
 買い物をしてきたから、一応食材はあるにはあった。


「何が食べたい?」

「なんでもいいよ」

 シロはまたにっこりと笑う。

「じゃあ、カップラーメンでいい?」

「食べられるものなら、なんでも」

 冗談のつもりで訊いたのに、シロはまったく頓着しないようだった。
 本当は空腹でもないのかもしれない。

 なんとなく毒気を抜かれて、そのままお湯を沸かしてカップラーメンを出すことにした。

「風呂沸かすから、それ食ったら入りなよ。あとは和室に布団敷くから」

「ありがとう」

 遠慮とか、気兼ねとか、そういう言葉とは無縁そうな、どうでもよさそうな顔。
 別になんだっていいけれど、というふうな。


 寝間着はどうするか、と思った。
 本当は妹が前に使ってた奴でも貸してやろうと勝手に思っていたのに、本人がいない。

 本当にどこにいってしまったんだろう。

 シロは勝手にリビングのテレビをつけてバラエティを見始めた。
 テレビの中の騒ぎと反比例して室内は静まり返っていく。
 まるで自分の家みたいに、シロはくつろいでいた。

 彼女は三分待ってカップヌードルの蓋を剥がした。
 割り箸を割って「いただきます」と手を合わせてから、ちらりとこちらを見る。

 俺とタイタンの視線に気付くと、彼女は「どうぞ」という顔をした。

「……それで、タイタン。話って?」

「この子の前では……」

「あんまり気にしないで。置物みたいなものだと思ってくれて構わないから」

 タイタンは溜め息をついてから、結局話し始めた。


「今日、司書さんと話してきたんだよ」

「いつ?」

「さっき」

「さっきって、ファミレスで?」

「ああ。……勘違いするなよ。別に変な意味があったわけじゃない」

 変な意味というのが思いつかなかったけれど、俺は頷いた。

「かなり様子が変だったから」

 ……たしかに、変だった。

「世界が繰り返されてるって言ってた」
 
 タイタンが司書さんから聞かされたという話は、俺が聞かされたものとほとんど同じようだった。


「世界が、何度も繰り返されていて、それは司書さんのせいなんだって言ってた。どう思う?」

「ゆっくり休んでもらうしかないと思うけど」

「俺もそう思った。でも、嘘とは思えない」

「どうして?」

「真剣な顔をしていたから」

 なるほどね、と俺は思った。根拠にならない。
 もちろん、俺だって、まるっきりの嘘だと思っているわけじゃない。
 常識的に考えたら馬鹿げているけど、俺はその話を信じてもいた。

 でも、それについてまともに考えたくない。なぜか分からないけど。

 不意にテレビの音が消えた。

「あの女の人のせいじゃないよ」

 と言ったのはシロだった。


 俺とタイタンは顔を見合わせた。

「何の話?」

「だから、世界の話でしょ?」

 カップラーメンを食べきって、ソファの背もたれに体を預けたまま、シロは満足げな表情をしている。

「繰り返してるのはあの女の人のせいじゃない。あの人は覚えてるだけ」

「……悪いんだけど、今真面目な話をしてるんだよ」

 タイタンは少し苛立った声でシロを諌めた。シロは呆れたみたいに溜め息をついて、話を続ける。

「繰り返してるのは、別の人のせい。少しずつ違うのは……」

 タイタンは溜め息をついてから俺の方を睨んだ。
 シロもまた、まっすぐ俺の方を見た。

 沈黙。


「シロは、何か知ってる?」

 俺はそう訊ねた。タイタンは怪訝げな目を俺に向ける。

「もちろん」、と彼女は頷いた。たいしたことじゃない、というような顔で。

「どうしてそんなことを知ってる?」

「どうしてって、わたしがそうしたから」

「……シロが?」

「ねえ、この話、前にもしたよ?」

「前……?」

「だから、前の世界でも」

「何を言ってるんだ?」

 タイタンは腹を立てたみたいに声を荒げたけど、俺は咄嗟に反応できなかった。


 光の奔流。
 情報が頭の中を飛び交い、連結される。
 弾ける火花。暗闇。

 耳鳴りと眩暈。
 クラクションと血だまり。赤い明滅。

 誰かが俺の手を握っていた。

 でも、俺は思い出さなかった。
 ぎりぎりのところで、蓋を閉じた。

「どうしたの、お兄さん」

 シロはにっこりと笑う。
 俺は今、何かを見た。


 とにかく、とタイタンは苛立たしげに声をあげた。

「世界は繰り返されているって、司書さんは言ってたんだ」

 頭痛が、かすかに残っている。俺は少し怖くなって、

「それで?」

 と訊ね返す。続きを聞きたいわけじゃなかったのに。

「……ヒメ、おまえ、何か知ってるんじゃないのか」

「何かって?」

「司書さんが言ってたんだよ。彼女は繰り返しの記憶を、部分部分持っているらしいんだ。
 それで、他の出来事はだいたい変わらないのに……おまえの周りだけ、毎回様子が違うらしいんだ」

 俺は首を横に振った。そんな話、俺は知らない。


「おまえ、何か知ってるんじゃないのか?」

「……何の話だよ」

「もし、知ってるとしたら、教えてほしいんだ。本当なのかどうかは分からない。
 でも、司書さんは苦しんでるみたいなんだ。もしそれが事実だとしたら、俺はそれをどうにかしたい」

「……」

「ヒメ、何か、知らないか?」

「知ってるよね?」

 とシロは口を挟んだ。タイタンは眉をひそめる。俺の心臓が怯えたように跳ねる。


「お兄さんはもう知ってるはずだよ」

「……ヒメ?」

 タイタンは、ようやく場の空気の変化に気付いた。
 今この場を支配しているのは、俺でもタイタンでもなく、シロだ。

 超越的な視線で、彼女は俺たちを見下している。

「お兄さんは、ちゃんと思い出したはず。忘れたふりをしてるだけで」

 ……シロが、何を言っているのか分からない。

「何を言っているのか、分からない?」

 俺は息を呑んだ。

「それは、分からないふりをしてるだけだよ」


 タイタンの、疑わしそうな視線。シロの、見下すような笑み。
 俺は俯く。そして思う。俺はなにも知らない、と。

「うそつき」

 そう、シロが呟いた。その瞬間、

「あ……」

 鋭い痛みが、頭の中を暴れまわった。

 ――もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?
 
 記憶。

"一回目"の、記憶。


「そんなに思い出したくないの? この世界が嘘のかたまりだってこと」

"見てみたい"、と俺は答えた。

"もっと別の、有り得たかもしれない可能性を、少しでいいから覗いてみたいんだ。"

 焼けるような熱が、心臓の鼓動に呼応して激しく頭の中を暴れまわった。
 強い光の明滅。全身にいくつもの太い管が通っていくような錯覚。
 
 ふと気付いたとき、俺はリビングにいた。
 シロとタイタンのふたりが、こちらを見ている。

「思い出した?」とシロは笑った。

 思い出した、と俺は頭の中で答えた。

 バカげた話だ。


「……忘れて、また繰り返してたのか、俺は」

「だって、お兄さん、前のときに、変なこと考えてたみたいだったから。
 だから忘れさせてあげたの。せっかく叶えてあげた願いなんだから、思う存分楽しんでもらわないとね?」

 俺は黙り込んだまま頷いた。また同じことを繰り返していたのだ、俺は。
 それにしても、随分悪趣味だ。

「つまり、これも作り物で、本当じゃないってことか」

「そうだね。そういうことになるよ。あの二人は"一回目"ではお兄さんに話しかけたりしなかった。
 花火に誘ったりしなかった。夏休みに遊ぶ約束もしなかった。登下校だってばらばらだった」

「ヒメ……?」

 タイタンは、俺の態度の変化を怪訝に思っているようだった。
 だとするなら、彼がここにいることも、俺の都合によって世界が書き換えられた結果……? 
 違うか。司書さんの記憶の影響だという気がする。


「惨めだね?」とシロは笑った。

 俺は少し苛立ったけれど、それよりももっと気になることがあった。

「なあ、シロ。きみは、何を考えてるんだ?」

 彼女は虚を突かれたみたいな真顔になった。
 
「なにって?」

「言っただろ、俺に対して、"もっと苦しめ"って。あれは、いったいどういう意味だったんだ?」

「……どういう意味って?」

「きみは、俺の願いを叶えたんだよな?」

「そうだね」


「きみは神様に与えられた力で、人の願いを叶える。そうだったよな?」

「うん」

 真面目な顔で、シロは頷く。

「きみは願いを叶えることで、感情を蓄えるって言ってた。そうすることでできることが増えていくって。
 でも、そうだとすると、きみはどうして俺の記憶を蘇らせたんだ?」

「退屈だから、って、言わなかったっけ」

「本当にそれだけ?」

 彼女は押し黙った。

「きみは、人の願いを叶えることで力を溜めていくんだろ。
 俺や、司書さんや、誰かも分からない他の人の願いを叶えた。
 その願いが入り組んだ結果、きみたちも願いの中に"閉じ込められてしまった"。そう言ってた」

「よく覚えてるね。閉じ込められて退屈だったから、暇つぶしをしてたんだよ」

「本当に?」

 彼女は苛立たしげに目を細めた。


「それ以上に何があるって言いたいの?」

「きみはこの世界の、繰り返しの中に閉じ込められている。それはきみたちにとって予想外のことだった。
 でも、きみたちはこの世界の"繰り返し"をどうにかしようとはしていないようだった」

「……まあ、たしかに、どうにかしようとはしてなかったけどね」

 シロは溜め息をついて、「そんなことよりココアが飲みたいんだけど」とちょっと横柄な口調で言った。
 俺は立ち上がってカップを用意した。
 タイタンは状況が飲み込めていないのだろう、ただじっと俺たちのやりとりに耳を傾けている。 

「つまり、きみたちにとって、"繰り返し"は支障にならなかったんだ。
 世界が繰り返されていようと、それが少しずつ変化していようと、きみたちには問題にならない」

 シロは溜め息をついた。好きにしてくれ、というように。
 肩をすくめた彼女の前に、俺はインスタントのココアを差し出す。

「たしかに、願い集めには支障がなかったかな」

「じゃあ、どうして暇つぶしが必要だったんだ?」

 ああ、という顔を彼女はした。ようやく得心がいった、というふうに。


「何が言いたいのかと思ったら、その話」

「うん。つまり、暇つぶしをするまでもなく、願い集めとやらをすればよかったはずなんだ。
 でも、きみはそうはしなかった。それどころか、一度叶えた願い……つまり俺に干渉した。
 誰かにお願いされたわけでもないのに、俺の記憶を刺激して、俺に苦しめと言った」

 彼女はココアに息を掛けて軽くさましてから、口をつけた。「それで?」というふうにこちらを見上げている。

「推測だけど、繰り返しの最中に、きみたちにとって想定外のことが起こったんじゃないのか」

「ねえ、そういうのは推測って言わないんだよ、お兄さん」

 シロは平然と笑った。

「こじつけとか、思い込みって言うの」

「じゃあ、俺に苦しめと言ったのは、本当に暇つぶしか?」

「……そうだよ」


「違うな」と俺は言ったが、べつに確信があったわけじゃない。

「何が違うって言うの」とシロは少し焦ったように言った。
 その態度自体を証拠にはできそうにもない。

「……いや、まあ、今のは言ってみたかっただけだけど」

「え?」

「だから、分かったようなふりをしてみたかっただけ。別に否定の根拠はない」

「……お兄さんって、バカだよね?」

「割とね」

 俺はポケットから携帯を取り出してみた。妹からの連絡はない。いくらなんでも遅すぎる。
 もう一度電話を掛けてみたけれど、やはり留守電に繋がった。

「なあ、シロ。きみが嘘をついているかどうかは、ひとまずいいんだ。
 とりあえず今知りたいのは、どうすればこのループから抜け出せるかってことだ」

「……"ぬけだす"?」と彼女は繰り返した。聞いたことのない虫の名前みたいな調子で。


「きみは言ってた。"繰り返しのついで"に、"世界を作り変えていた"って。
 要するに、パラレルワールドなんかとは違うんだろ。この世界は唯一無二の世界で、でも、時間が巻き戻ってる。
 その結果、何度も世界は"なかったこと"になってる。そのついでに、きみが微細な変化を加えてる」

「……うん。その認識であってる」

「その"巻き戻し"を止めるには、どうすればいいんだ?」

「……ねえ、どうしてわたしが、そんな質問に答えなきゃいけないの?」

「頼むよ」

「それは、お願い?」

「……そう、お願いだ」

「ねえ、わたし、言ったよね、お願いは……」

「これは、そういうお願いじゃなくて、猫友達に対する、個人的な"お願い"だ」

「……バカ?」

 彼女はココアにもう一度口をつけてしまうと、目を合わせてくれなくなった。
 今の言葉でどうにかしてくれるなんて、本当に思っていたわけではないけど。


「いったい、何の話をしてるんだ?」

 タイタンは混乱した様子でそう訊ねてきた。俺は説明せずに、シロの方をじっと見つめる。
 もう、これ以上繰り返すわけにはいかない。

「ねえ、お兄さん。どうして、繰り返しを止めたいの?」

「……きみがどんなふうに世界を作り変えているかは知らないけど……。
 俺は、もうこれ以上、自分の都合に合わせた世界を楽しむなんてことには耐えられないんだ。
 そんな世界を"現実"として受け入れることができないんだ」

 これ以上は耐えられない。……そう考えてループを止めようとするのも、やっぱり自分の都合なのかもしれない。
 でも、と俺はタイタンの方とちらりと見た。

 この世界の繰り返しは、司書さんのせいじゃない。彼女に与えられた罰なんかじゃない。
 彼女はたまたま、「覚えているだけ」で。だから、これ以上彼女を苦しませたくない。

 この世界に影響を与えられるのは、事実をシロに教えられた俺と、記憶がある司書さんしかありえない。

「じゃあ、シロ。反対に、俺の願いをなかったことにはできないか?」

 俺の問いに、彼女は怪訝そうな顔をした。


 俺の願いがなかったことになれば……つまり、世界が最初の状態に戻れば。
 変化がなくなり、世界は同じ形で繰り返されることになる。

 そうすれば、ループの原因をはっきりさせるのが、いくらか容易になる。
 今は世界に変化が加わりすぎて、何が原因で繰り返しが起こるのか、判然としない。

 そう思ったのだけれど、

「ダメ」

 とシロはむっとした顔でそっぽを向いた。

「願いをなかったことにするのも、願いの一種だから」

「つまり、願いは一人につき一つなんだな?」

「そう。もっとも、これは神様が決めたルールじゃなくてわたしが決めたルール。
 一人の相手にそんなに力を使ったら、不公平だし、そもそもきりがないから」

 ……今回のシロは、ずいぶん饒舌な気がする。
 とにかく。


「じゃあ、タイタンが願ったら?」

「……それは」

 シロは口籠った。タイタンは、いきなり話が自分に戻ってきたせいか、戸惑っているようだった。
 願いをなかったことにするのが願いの一種なら、“誰か”が願えば、それは叶えられるかもしれない。

「タイタンが、俺の願いの無効や、巻き戻しの無効を願ったら、それは叶うんだな?」

「……そういうことになる、けど」

「じゃあ、世界を元通りにするようにタイタンが願ったら、元通りになるか?」

 シロは溜め息をついた。

「それはやめておいた方がいいと思う」

「……どうして?」

「お兄さんが混乱しちゃうだろうから、全部は説明しないけど……。
 世界に変化を加える願いはこれが初めてじゃないんだよ。
 実際に起こったことを歪めたり、誰かの好意の方向を変えたり。そんな願いを、わたしはいくつも叶えてきた。
 だから、全部の願いがなくなった状態にしたら、世界がどんなふうになるのか、わたしにも想像できない」


「じゃあ、巻き戻しと、変化の両方を同時になくすのは……?」

「どちらか一方をなかったことにするなら、できるけど……。両方は、できない。
 それに、巻き戻しの願いをなかったことにするのは、個人的にはおすすめしないかな」

「どうして?」

「巻き戻るのには、理由があるからだよ。
 もちろん、誰かにお願いして世界を巻き戻そうなんて願い、身勝手には違いないけど。
 でも、理由があるっていうことは、そこには問題があるってこと。
 巻き戻らなくなるってことは、問題が"現実"として降りかかるってことだから」

「……きみは、もちろん巻き戻しの願いの主を知ってるよな?」

「もちろん。教えないけどね」

 そうだろうな、と俺は思った。面倒な話だ。


「それにしても」、とシロはごまかすみたいに言った。

「今回は、急に冷静だね?」

「……いいかげん、ショックを受けてばかりもいられないから」

「お兄さんは、世界を偽物だって言ったけど、世界はいつだって本物なんだよ。
 ただ作り変えられてしまっているだけで、人間はみんな人間。
 抱いている気持ちだって、ちゃんと本物なんだよ。作り変えられているだけで。
 女の子たちは、みんなちゃんと、お兄さんのことが好きだったんだよ」

「でも、それは、本物かもしれないけど、"現実"じゃなかった。都合よく改竄されていた。
 そんなんじゃ俺は喜べないし、喜ぶべきでもない。そう思うよ」

 シロは溜め息をついた。俺は話を続けた。

「とにかく、タイタンが願えば、俺の願いを無効にすることは可能なんだな?」

「一応ね」


 俺はタイタンの顔を見据えた。彼はいまだに状況を掴みかねているようだった。
 それはもちろん、そうだろう。何も説明していなかったんだから。

 俺はそれから、タイタンに長い説明をすることになった。
 この世界のこと。シロのこと。神様のこと。荒唐無稽なおとぎ話。これまでの世界のこと。
 司書さんのこと。全部を、過不足なく伝えた。自分のことでさえ。

 タイタンは混乱していたようだったけど、最後には無理やり納得してくれたようだった。

「でも、本当にいいの?」

 タイタンと話をして、シロに願いを伝えてもらおうとすると、彼女は真剣な声で俺にそう訊ねてきた。

「……なにが?」

「お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
 お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
 現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?」


 俺は、答えに窮した。
 少なくとも、現実には、俺の隣にアメはいない。先輩もいない。ヒナもいない。サクラも、ユキトもいない。

「……でも、それが自然だ」

 そう、俺は答えた。

「お兄さん、お兄さんの願いをなくさなくても、シショさんを解放する手段はあるんだよ」

「……」

「シショさんの願いを、なかったことにすればいい。
 そうすれば、繰り返しは続くけど、シショさんは苦しまなくて済む。そっちの方が手っ取り早いでしょ?」

 タイタンは困ったような目で俺の方を見た。

「そうすれば司書さんは苦しまないけど、巻き戻しのせいで幸せにもなれない」

 俺はそう答えた。タイタンは少し思い悩んだようだったが、結局、頷いた。