こんな日が続けばいいのに (549)


◇01-01[Sad Fad Love]


 人に言ったら鼻で笑われそうなほど嘘くさい話なんだけど、俺には幼馴染がいる。
 それこそ子供の頃からの付き合いで、結婚の約束をしたりなんかもした。

 まあ、だからなんなのよって言われたらそうなんだけど。 
 人にはそうそうない経験らしいので、話の種くらいにはなるかな、と思っていた。

 で、実際にその話をして、鼻で笑われたことがある。

「俺、幼馴染の女の子と結婚の約束したことあるんだよね」

「はあ?」(冷笑)

 こんな具合。

 彼女と話したのはそのときが初めてだった。

 いくらなんでも初対面でその態度はどうなんだよ、と思いつつも。
 そもそも初対面の女の子に、幼馴染と結婚の約束云々なんて話をする方がどうかしてたわけで。

 だからその嘲りに対しても、

「……まあ、うん。そういう反応だろうなって、判ってはいたけどさ」

 情けない声音でそう言い返すくらいしかできなかった。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1387906849



 そんな出会い方だったけど、彼女とはそれから、割と長い付き合いになった。
 といっても、放課後の暇な時間、屋上で雑談する程度の交流しかなかったんだけど。

 初対面がそんな調子だったせいで、男女二人が一緒にいるというのに、それらしい空気も生まれやしない。
 
 そう思っていたし、そのことにさして不満も感じていなかったので、出会いのたった二ヵ月後に、

「あのさ、あんたのこと、好きかもしんない」

 と真顔で言われたときは、さすがに冗談か、からかっているか、どちらかしか思い浮かばなかった。

 意識は「好き」という一語に吸い取られる。 
 その一方で、「かもしんない」ってどういうことだよ、などと混乱。

 かと思えば、「これ告白? 告白か。いやからかってんのかも」と奇妙な冷静さもあったりした。

 一言で言えば、パニクった。
 とっさに口から漏れたのは、「は、はあっ? えっ?」みたいな、言葉とも言えない声。

俺は心底戸惑った顔をしていたと思う。



 もし、彼女との今までの交流の中で、俺が犯した最大の失敗は何かと誰かに訊ねられたなら。
 たぶん、そのときの反応が一番の失敗だったと答える。

 彼女は俺のその反応に、怯えたような、傷ついたような顔をしたから。

 もちろんそのとき俺はパニクっていたわけで、自分の犯した失敗に、すぐには気付けなかった。
 彼女の表情の変化に、さらに混乱を深めただけだった。
 
「ごめん。今のなし。やっぱ忘れて」

 ようやく俺が冷静さを取り戻したのは、その言葉を聞いてからで。
 そのときには、たぶん手遅れだった。 

 彼女はわりかし不器用な方で、たぶん細かい作業とかは苦手なんだろうと思う。
 それは人間関係とか、そういうものに関しても同じことで。

 怒ってないのに怒ってると思われて、嫌じゃないのに嫌がってると思われて。
 寂しいのに一人が好きなんだって勝手に納得されて。

 そういう俺の中の彼女像が正しいものなのかどうかはともかく。
 そんなふうに見えた。


 彼女が器用だったら、たぶんこのとき「今のなし」なんて言い方はしなかった。

「冗談だよ」って笑ってくれたら、なんだ、今のは冗談か、ってこっちも騙されてたんだけど。
「今のなし」じゃ、言ったことをなかったことにはしたいけど、言った内容は本当なんだと受け取れてしまって。
 
 つまり、俺のことが好きなんじゃね? なんて推測が湧きあがってしまって。
 でも、喜んだり困惑したり、何かのリアクションをするほどの時間はなかった。

 彼女は俺が何かを言いかけるよりも先に立ち上がり、

「わたし、帰るね」

 と言い切ると、振り向きもせずに屋上を後にした。
 声が少し震えているように聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。
 
 その翌日の放課後、ほんの少しの躊躇を振り払い、俺は屋上に向かった。

 そこに彼女の姿はなかった。

 吹奏楽部の練習の音。陸上部のホイッスル。ボールを叩くバットの鳴き声。
 低くて近い青空。切れ目を入れたみたいな細い飛行機雲。からりとした夏の日差し。

 残っていたのは、せいぜいそのくらいのものだった。 




 俺の一日は、ぺたぺたという静かな足音から始まる。
 
 それは扉越しに、廊下の奥の方から近付いてきて、いつも俺の部屋の前で止まる。

 次に聞こえるのはノックの音だ。遠慮がちで、どこかそっけない音。
 ノックの音にもその人の性格が出るものなのかもしれない。

 続いて、ドアがぎいと軋む。
 俺の意識は、そのあたりで半分以上浮上している。

 そしていつも思う。また一日が始まったのだ。起きなければならないのだ。
 足音も、ノックの音も、それに続く声も、そのことを知らせようとしている。

「お兄ちゃん、起きてる?」

 開かれたドアから聞こえる、控えめな、気遣うような声。


 俺は腹にぐっと力を込める。そして頭の中で念じる。朝だ、起きろ。
 念じることで、まだ睡魔に支配されている残りの意識を引っ張りあげる。 
 それに成功したら、あとは体を起こすだけだ。

 瞼を開けて上半身を起こすと、妹と目が合った。挨拶する。

「おはよう」

「おはよう。すごい寝癖だよ」

 妹はそう言って、自分の頭を指で示した。
 仕草を真似して自分の頭を触ると、たしかにすごい寝癖のようだった。

 わしゃわしゃと自分の頭をかいていると、意味もなくあくびが出た。
 まあ、あくびには意味なんてないのが当たり前だけど。
 
「二度寝しないでね」

 ぼんやりした調子で言い残すと、妹はドアを閉めてあっさり去って行った。いつもみたいに。


 毎朝六時四十五分。二歳下の妹が俺を起こしに来る。

 歳の割には落ち着いていて、穏やかな俺の妹。勉強もスポーツもできる秀才。
 押しが弱く人見知りはするが、友達は少なくない様子。
 容貌は、ちょっと幼く見えるけれど、身内の欲目を除いても整ってる。 

 宿題だって忘れずにやる。教科書だってちゃんと家に持ち帰る。
 どこに出しても恥ずかしくない妹。根が真面目で勤勉、少し臆病だが心優しい。

 兄はひとりで起きれないほどのダメ人間なのにもかかわらず、よくああも良い子に育ってくれたものだ。

 我がことながら、いい年して自分ひとりで起きられないのはどうかと思う。
 しかも、自分より年下の妹に起こしてもらっているんだからろくでもない。

 まあ、そのあたりは追々改善するとしよう。と言い続けて、もはや結構経つのだが。


 さて、と俺は思う。朝だ。朝だよ。朝が来たんだ。学校へ行く準備をしなければ。
 大丈夫、ちゃんと起きている。余計なことは考えていないし、体にだるさもない。

 今日も元気だ、と俺は思った。大丈夫。

 それでもしばらく動く気になれなかったので、目を閉じて三回深呼吸をした。

 おまじないみたいなものだ。
 それからようやくベッドを抜け出す。

 カーテンを開けるとき、太陽の光がかすかな痛みを伴って目を刺した。
 
 今日も暑くなりそうだ。そう思った。




 俺がなぜ毎朝、妹に起床の手助けを受けているのか。
 理由は単純にして明快だ。朝が苦手なのだ。
 
 別に学校に行きたくないわけではない。
 でも起きるのは嫌だ。つまり眠るのが好きなのだ。

 睡眠はもっとも手軽で原始的で絶対的な快楽だと俺は思う。
 眠るのは気持ちのいいことだ。眠って夢を見るのはとても気分のいいことだ。

 よく晴れた土曜や、寒い冬の朝。そんな日に二度寝するときなど、もうたまらない。
 睡眠は人類に与えられた至上の幸福であると俺は断言できる。

 この人類における至上の悦びを害するものとは何か?
 言うまでもなく目覚まし時計の存在である。


 俺と目覚まし時計の因縁は、俺がまだ幼稚園児だった頃にはじまったと言われている。
 というか母が昔、そう言ってた。

「ホントに寝るのが好きで、何回起こしたって隙をついて寝ちゃってたなあ」

 なんて具合に。 

 我が家のアルバムを漁れば、その事実を裏付けるような写真がいくつか出てくる。
 まずはスタンダードに、俺が寝ている写真。四歳、とカッコ書きがある。
 
 次のページには、七歳の誕生日のときの写真。
 プレゼントが目覚まし時計だったことに落胆して大泣きしている幼い頃の俺がいる。
 その脇では、これまた幼い頃の妹(五歳)が、どうにかして俺を落ち着かせようとおろおろしていた。

 俺たち兄妹の関係は、この頃から既に決定的なものだったらしい。
 この誕生日の事件を境に、俺は子供の期待に応えられる大人になろうと誓った。
 


 そして同じく七歳。目覚まし時計が壊れている写真。俺が寝惚けて投げたらしい。

「そりゃもう、すごい音がしたもんだったわよ」

 と母は当時のことを振り返って語った。 
 その朝、俺はかしましく泣き喚く目覚まし時計を掴み、枕元から思い切り放り投げた。
 
 時計は母が普段使っていた鏡台の上に墜落した。
 幸いにも鏡は割れなかったが、鏡台のうえに散らばっていた母の化粧品のいくつかはダメになったらしい。

 そのような事態が四、五回続いた。母の危機感は次第に強まる。
 ひょっとしたらうちの子は何かの病気なんじゃないのか。そんな懸念が浮かんだのも無理からぬことだろう。
 なんせ、ほっとけば半日は寝てたんだから。

 かといって、与えるたびに目覚まし時計を壊されたんじゃ金も手間もいくらかけたって足りない。


 母は考えた。どこかに抜本的な解決手段が転がっていないものかしら。
 具体的に言うと、この子が毎朝すっきりと目覚めて、二度寝もしなくなるような。

 もちろん、生半可な手段では不可能だと言えた。
 なにせ、毎晩十二時間寝たって、まだ眠りたがるような子供だったのだから。
 
 けれど、母はその解決手段が案外近い場所に隠れていたことを知る。
 それは少し肌寒い秋の朝のことだった。俺、当時八歳。

 その朝、母が俺を起こそうとしたとき、電話のベルがけたたましく鳴った。
 もちろん俺はその程度の音じゃ目をさまさない。
 
 母は仕方なく電話台に向ったが、その際、まだ六歳だった妹にさして期待もせずこう告げたのだ。

 お兄ちゃんのことを起こしてきて。


 それまで母は、俺を起こすことを困難な仕事と考えるあまり、自分以外の誰かに任せたことがなかったのだ。

 電話の内容は今となっては思い出せない、と母は言っていた。
 親戚からの連絡だったことは確かだったらしいが、相手はあまり重要ではない。

 電話を終えて、母は子供部屋へと向かった。
 二段ベッドの下の段が、その頃の俺の領域。けれどそこはもぬけのからだった。

「あのときは本当に驚いたんだから!」

 その日俺は、妹に促されるままベッドを抜け出し、洗面所に向かい、顔を洗い、歯まで磨いていたという。
 そのとき母が受けただろう衝撃は想像に難くない。

 翌朝、母はその事態が偶然かどうかを確認するため、妹に再びこう告げた。

 お兄ちゃんを起こしてきて。

 その実験は今朝まで続き、今のところ問題なく実効性を証明し続けている。




 小学生になっても俺は眠るのが好きで、授業中でもなんでも関係なく眠り続けた。
 もちろん学校じゃ、叩かれるなり呼ばれるなりすれば、どうにか起きたけど。

 当時つけられたあだ名は、今思えばうってつけだった。女顔だったのも拍車をかけた。
 みんなは俺を、眠り姫、姫、とよくからかった。
 
 今ならもっと怒っただろう。でも当時はあだ名なんてどうでもよかった。
 ただ眠かった。だから姫って呼ばれたところで気になんてしなかったのだ。

 そのうちみんなは、面白がって「姫」と呼ぶのをやめた。
 代わりに真面目なあだ名になった。

「おい、ヒメ。起きろよ、サッカーやろうぜ!」

 そんな具合に。
 そのあだ名を今でも使う奴がいるんだから、人生なんてみんなテキトーだ。

(「三年寝太郎」でなくて本当によかったと思う。そっちの方がよっぽどいやだ)




 太陽の熱気がジリジリと降り注いでいる。

 空はやけに近く、雲はやけに立体的。
 どこかからどこかへ飛行機が飛んでいき、白い航跡を残していった。

 青い空にくっきりと残るその筋が、ひっかき傷みたいに見える。

 グラウンド脇の高いネット。その付近の木陰に、やる気のないクラスメイトどもがたむろしている。
 その中に、俺もちゃんと含まれていた。

 体育の時間が少し余って、残りが自由時間になったのだ。

 指定ジャージ姿の集団は、どこにいても見るからに暑苦しい。
 ネットに力を抜いてもたれかかっても、ジャージが擦れて汗の気持ち悪さに拍車がかかるだけだった。

 木々の梢が風に擦れる音でも聴けば、多少の涼やかさを感じられるかと思ったのだが、あいにく今日は風がない。
 かさりとも音がしない。

 自由時間、なんて言われれば、普段だったらサッカーやらなにやらをやっているところだ。
 でも、今日の暑さは、ちょっと尋常じゃない。……そんなわけで、男子の大半は木陰で休んでいた。

 最初こそ解放感で高まっていたテンションも、時間が経つにつれて下降気味。
 だって暑いし。


 集団の中の誰かが、気だるげな声で言った。

「夏だな」

 ぽつりと。
 水面に雫を垂らしたみたいに、ささやかな一言が波紋のような反応を誘った。

「夏だわ」

「夏だよなぁ」

「夏だわ。この熱気は」

「うん。夏だわ」

 どうでもよさそうに、そこらじゅうから気だるげな声が漏れ出てくる。

 みんなが何を見て夏だと感じたのかは分からない。
 太陽か、空か、木漏れ日か。とにかくそれくらい、そこらじゅう、どこもかしこも、夏だった。


「夏」

 と俺も呟いた。それが最後だった。あとは誰もなにも言わなかった。
 元気に騒いでいるのは、遠くにいる女子たちだけだった。水道近くで濡れながらはしゃいでる。
 おかげで水分補給に赴くにも気が重い。

 グラウンドの方からホイッスルの音が聞こえた。集合の合図ではない。走り始める合図だ。
 誰かが記録を計ろうとしているのだろう。
 
 目を向けると、見慣れた男子がグラウンドを駆け抜けていく。
 誰かが声をあげる。

「佐藤君だな」

 誰かがどうでもよさそうに続けた。

「甘いマスクの佐藤君だ」

 やまびこみたいに次々と重なっていく。

「五月に女子生徒の間で秘密裏に開催された学年別・イケメン男子投票一年の部第一位の佐藤君だ」

 たしかに佐藤君が走っていた。ちょっと唖然とするほど綺麗に。
 遠くの女子が、ささやかに感心するような溜め息をもらしている。そんな気がした。

 あっという間に100メートルを走りきると、彼は教師に駆け寄ってストップウォッチを覗き込む。
 それから大きくガッツポーズをした。遠目で見ても爽やかな笑顔だった。


「佐藤君すげえな」

 と誰かが気だるげに言った。誰かが気だるげに頷いた。

「な。すげえよな。ホントすげえよ」

「……俺ら、嫌な奴じゃねえ?」

「なんで?」

「……なんとなく」

 俺はネットにもたれかかって座り込み、近くの雑草を抜きながら、その話に耳を傾けていた。
 べつに話の内容に興味があったわけじゃない。他に意識を向けるべきものがなかったのだ。
 
 そんな俺に声を掛けてきたのは、タイタンだった。

「暇そうだな、ヒメ」

 頬を伝った汗をシャツの肩口で拭いながら、彼は目を眇めてこちらを見た。
 俺は草をいじっていた手を止めて、声の方を見上げる。彼の身体が俺の上に大きな影を作っていた。


 彼のあだ名の由来はその体格。とにかく大きい。というか、大きかった。
 今となっては成長がだいぶ収まって、俺と並んでいても違和感がないくらいにはなったのだが。
 小学生のころはすごかった。並んでいるとまさに大人と子供。その頃ついたあだ名だ。
 
 当時の彼は遠目で見ると、ランドセルを子供に預けられて困った顔をしている参観日の父兄みたいに見えた。

 巨人タイタン。
 小学時代は卒業までずっと環境美化委員に所属していた。
 毎朝の日課は、ジョウロに水を汲み、花壇のパンジーやマーガレットやチューリップに水をやること。

 気がよく人気者だったタイタン。
 ときどき飼育委員の女の子と一緒に兎小屋で餌をあげていた。
 
 動物を愛し、草木と語らうタイタン。

 ぶっきらぼうでありながらも優しい態度。
 感情を表に出すことこそ滅多にないが、行動の節々に滲み出る誠実な人柄。

 人は言う。まるでラピュタの巨神兵じゃないかと。俺はそのたびに反論した。
 ラピュタのアレはロボット兵だ。巨神兵はナウシカだ、と。 


 そんな彼も、年が経つにつれて、体格が平均に近付いてきた。
  
 もはやタイタンでもなんでもない、ただ少し大柄なだけの男子高校生。

 でも彼はいまだにタイタンと呼ばれているし、俺も呼び続けるのだろうなあとぼんやり思っている。
 彼が俺をヒメと呼ぶように。

「まあね」

 俺がしばらく経ってから返事をしたものだから、タイタンは一瞬困った顔をした。 
 自分がどう話しかけたのか、分からなくなってしまったのだろう。

 彼が自分の言葉を思い出すまでに、また十数秒の間があくことになった。

「ああ、うん」

 やっと思い出したあげくのタイタンの返事が、それだった。俺も俺だが、タイタンもタイタンだ。
 まあ、不満はべつにないんだけど。

 なにせ暑くて話をするのもだるい。


「ちょっと常軌を逸した暑さだよね?」

 それでも、何も話さないのもなんだかおかしいような気がして、俺はどうでもいいようなことを言った。
 タイタンもまた、どうでもよさそうに頷いた。

「たしかにな」

「どうして水泳じゃないんだ?」

「プールの設備が故障してるらしい。水泳授業でもどうせ、入る奴ろくにいないだろうしな」

「そりゃ入らないけど、水の近くにいるってだけで、だいぶ違うのにさ」

「学校の授業だって天気と同じだよ。俺たちの事情を省みてくれるわけじゃない」

 タイタンはつまらなさそうに呟くと、また汗をぬぐった。

「あと二週間の辛抱だって思えば、耐えられない暑さじゃない」

 たしかに、あと二週間の辛抱だった。二週間後、一学期が終わり、夏休みが来る。
 期末も終わったし、あとは休みが来るのを待つだけなのだが。
 でも、暑さが変わるわけじゃなかった。頬から顎に汗がつたう。空は透き通っていた。

「どうしてこんなに暑いんだろうね」

「夏だからだよ」

 俺の問いに、タイタンはこれ以上ないほど的確な答えを返してくれた。
 夏なのだ。夏がまた来た。これまで何度もやってきたように。


「眠いのか?」

 暑さにやられてぐたっとしているのを誤解したのか、タイタンが呆れたように訊ねてくる。

「まあね」

 べつにどうでもいい質問だったので、否定もせずにうなずく。
 タイタンは興味なさそうに溜め息をついて、また汗をぬぐった。

「何度も訊いたことあるけど、今になっても疑問だな。なんでそんなに眠っていられるんだ?」

「眠いからだよ」

「どうしてそんなに眠い? 寝不足ってわけでもないんだろ?」

「よくわからないけど、寝るのが好きなんだ」

「分からないな。眠ってると、損してるみたいな気分にならないか?」

「感受性の違いだな。……それに、夢を見られるだろ」

「夢を見てどうなる?」

「楽しくないか?」

 彼はうんざりしたように溜め息をついた。たぶん俺との会話にじゃなく、暑さにだと思う。
 俺に対して溜め息をついてたとしたら、ちょっと傷つく。


「つまり、夢のいいところっていうのはさ」

 タイタンが何も言ってくれなかったので、俺はごまかすみたいな気持ちで話を続けた。

「現実じゃありえないことだって起こりうる、っていうところにあるんだよな」

「空を飛んだり?」

「家の玄関を出たら遊園地だったって夢を、昔見たんだ。それ以来、何度も見る」

「実際に遊園地に行けるわけでもないだろ」

「『もしそうだったら』を想像すると、楽しくないか?」

「むなしいよ。それなら俺は、睡眠時間を削ってバイトでもして金溜めて、遊園地に実際にいくけどね」
 
「……ま、それもありだと思うけどね」

 チャイムが鳴って、追うようにホイッスルが鳴った。授業が終わるのだ。
 遠くの方では佐藤君が女子と楽しそうに話していた。見てるとなんだか胸焼けしてくる。


◇01-02[Xavier]


 どうでもいいような話だけど、高校にあがってから真っ先に驚いたのは、屋上が開放されていたことだった。

 小中と両方開放されてなかったから、屋上が開放されている学校なんてフィクションの中にしか存在しないと思ってた。
 でも開放されてた。このことを喜んだ新入生はたぶん俺だけじゃないと思う。
 
 どきどきしながら鉄扉を押し開くと、春先の乾いた風が俺の髪をぐしゃぐしゃにした。
 目に入ったのは灰色のフェンスと高い空。振り向けば給水塔。そのスペースまで昇るための梯子。
 
 バカと煙は、というわけではないと思いたいけど、俺は昔から高い場所が好きだった。
 だから、屋上にあがれると知ったときはすごくうれしかった。

 期待した通り、空に近くて、爽快で、風が気持ちいい場所だった。
 俺は一週間、毎日、昼休みになるたびに屋上に出た。

 でも、屋上には誰もいなかった。その理由は、一週間後には理解できた。

 屋上って、別にたいした場所じゃないのだ。



 風は埃っぽくて、春先だったから花粉でくしゃみも出る。

 そもそもちょっと肌寒い。それから天気によっては別に爽快でもない。
 夏なら陽射しが厳しいだろうし、秋なら風が冷たいだろう。さらに冬には雪が降る。

 しかも、ちょっと汚い。いつのものとも分からないゴミが引っかかっていたりする。
 昭和の不良でも煙草を吸うなら別の場所にするだろう。
 
 この屋上には、俺が憧れたような利便性もなければ、劇的な要素もありそうもなかった。
 これは勝手な期待と勝手な失望かもしれない。

 それでもときどき屋上に出たり、一時は通っていたりもしたが、結局、今では近寄らなくなってしまった。
 理由はいろいろあるけれど。
 




 そして、七月のある日の放課後、俺はひさしぶりに屋上を訪れた。
 特別な理由があったわけではないけれど、もうすぐ夏休みになると思うと、なぜか、覗いておきたい気がした。
 
 ひょっとしたら誰かいるかもしれない。
 そういう期待(……なのだろうか?)もあったけど、結局誰もいなかった。

 それでも、長い休みが近いせいか、屋上からの景色は春先に見たときより、ずっと開放的で、爽快に見えた。
 陽射しはぽかぽかで、風はさらさらで、居心地がいい。

 思わず伸びをして、制服のままで寝転んだ。
 太陽がまぶしくて、あたたかい。目を閉じると、世界は赤みがかった肌色に覆われた。
 蝉の鳴き声。

 じっと寝そべっていると、なんだかうたた寝しそうになって、俺は睡魔との格闘するはめになった。

 そんなときだった。不意に、

「なにしてるの?」

 と、声がした。一瞬、錯覚かと思うくらい、自然な声。


 びっくりして体を起こして振り返ると、立っていたのは十数年来の幼馴染の女の子だった。 

「日焼けするよ」と、彼女は呆れたような顔で言った。
 俺は少し唖然としてから、返事をした。

「びっくりした。なんでこんなとこに来たの?」

「お互い様じゃない?」

 呆れたように笑ってから、彼女は俺の隣に腰を下ろした。

「こんなところにいるなんて、珍しいね?」

 からかうでもなく、いぶかるでもなく、世間話でもするみたいな調子で、彼女はそう言ってきた。

「太陽の光がね……」

「太陽?」

「あ、いや」

「なに?」

「……いや。ちょっと、日の光を浴びたくなったっていうかさ」


 変なの。彼女はそんなふうに笑った。それからちょっと気まずそうな顔をする。

「そっちは?」
 
 俺が訊ねると、彼女は困ったような顔をした。

「きみがここに来るの見かけたから、追いかけてきた」

「用事でもあった?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど」

 ふわふわとつかみどころのない、感情を読み取りにくい声。
 表情の変化は曖昧で、何を考えているのか、すぐには分からない。

 物静かだけど口数少ないというわけではない。
 黙っていれば、そこにいることにも気付けないような、うっすらとした存在感。
 
 空気のような。



「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」

 彼女は俺の顔を見ながら口を開いた。数秒、目が合ったままになる。
 気まずくなって、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。

「喧嘩した?」

「誰と?」

「心当たり、ない?」

「ない」

 と言えば嘘になる。つまり俺は嘘をついた。

「制服、汚れるよ」

 寝そべったままの俺を見下ろして、彼女は困ったようにそう呟いた。
 俺は仕方なく立ち上がって、ぐっと伸びをする。
 夏の日差しは眩しい。
 


「このあと、何か用事、ある?」

 座り込んだままの彼女に、今度は俺が見下ろすようにして、そう訊ねてみた。

「わたし?」

「ここには他に誰もいない」

「ないよ」

「じゃあ、一緒に帰ろう」

 彼女はまた困ったような顔をした。

「アイス奢るからさ」

 彼女は楽しそうに溜め息をついて、結局、「仕方ないなあ」と笑う。
 それから少し、ほんのちょっとだけ、苦しそうな顔をした。

 俺は気付かないふりをした。




 屋上から校舎に戻ると、空気が切り替わるのを感じた。
 陽射しがない分、いくらかマシだと感じたのは一瞬のことで、すぐに風通しの悪さに嫌気がさす。
 
「夏休みのご予定は?」

 俺がおどけながら訊ねてみせると、彼女は「特には」とそっけなく答えた。

「部活とか、夏期講習とか、いろいろ」

「夏期講習?」

「夏期講習」

 ふうん、と俺は思った。

「まだ一年なのにたいへんだなあ」

「他人事みたいに言わないでよ」

「他人事だよ」

 思わず笑ってしまったけれど、彼女は笑わなかった。
 俺はなんだか損したような気分になった。


「そっちは?」

「なにが?」

「夏休み」

「特には、なにもないかな」

「部活は?」

「あー」

 俺は少し唸った。部活にはほとんど顔を出していなかった。

「サボり魔」と、見透かしたように彼女はぼそりと呟く。

「もともとサボるつもりで入ったから」

「ふうん?」

 俺の返事に、彼女はちょっと怪訝げに相槌を打った。
 彼女が美術部に所属しているのだって、べつにやる気があってのことじゃないと思うのだが。


 昇降口を出ると、また陽射しにさらされたけれど、さっきよりは遠かった。
 
「自転車?」

 訊ねると、彼女は首を横に振った。

 バス停まで向かう途中で、コンビニに立ち寄ってアイスを買うことにした。
 冷房のよく効いた屋根の下には、何人か同じ学校の生徒もいた。

「奢ってくれるんだよね?」

「ひとつだけならね」

「飲み物もほしいな」

「自分で買って」

「詐欺だ。けち」

「図々しいなあ」

 彼女はちょっと笑った。
 俺は二人分のアイスを買って先に店を出た。
 再びうざったい蝉の鳴き声の下に出ると、なんだか暑さが二割増しになったみたいに感じられる。

 この暑さでは、すぐにアイスは溶けだしてしまうだろう。


 ふと店頭のガラスに目を向けると、このあたりの商店街で行われる夏祭りのチラシが貼られていた。
 夏休みがはじまってすぐの三日間。去年行ったときは三人だった。

 ぼんやりとそのチラシを眺めていると、不意にうしろから声が掛けられる。

「サボりですか?」

 幼馴染の声ではなかった。俺が振り返ると、文芸部の部長が立っていた。

「あ、いや……」

 とっさに言い訳しようとしたけれど、事実俺はサボっていた。

「はい」

「素直でよろしい」と彼女は楽しそうにうなずく。

「部長は?」

「サボりです」

 俺はちょっと呆気にとられた。


「嘘ですよ?」

「……ですよね」

 後輩をからかうのはやめてほしいものだ。反応に困る。
 子供みたいな見た目をしているくせに、つかみどころがなくて、飄々としていて、油断ならない。

 見た目だけなら愛らしいとすら言えてしまうのに、この人を前にすると、俺は妙に緊張してしまう。

「わたしは用事があって、部活はお休みしました」

 訊いてもいないのに、結局説明してくれる。良い人なんだか悪い人なんだか。
 冗談を言ったあとに、真面目に訂正しないと気が済まない。そういう性格なのかもしれない。

「用事ですか」

「はい。家に帰ってお昼寝です」

 ……用事が昼寝?

「気持ちいいものですよ」


「冗談ですよね?」

「はい」

「すみませんけど、笑いどころが分かりません」
 
「そうでしょうね」

 部長はどうでもよさそうに笑った。たぶんどうでもいいんだろう。
 
「それじゃあ、わたしは行きます。ときどきは、部にも顔を出してくださいね」

「……はい」

「みんな寂しがってますよ」

「嘘ですよね?」

「はい」

 彼女はにっこり笑って、そのまま本当に歩き始めてしまった。
 けれど、少し歩いてから、ふと思い出したように立ち止まって、肩越しにこちらを振り返る。

「近頃事故が多いみたいですから、気をつけて帰ってくださいね」

 小学生か、と思いつつも、俺は頷いて頭をさげた。




 バス停の古びた屋根の下のベンチに腰かけて、俺と彼女はふたりで並んでアイスを食べた。

 会話は特になかったけれど、居心地が悪いわけでもない。
 
「久しぶりだね」

 不意に彼女が口を開いた。やっぱりその声は自然すぎて、一瞬錯覚かと思うくらい。
 現実か幻聴かをたしかめようと思って俺が目を向けると、彼女はこちらを見つめていた。

 実際の声だったのだろう。

「なにが?」

「一緒に帰るのが」

 たしかに久しぶりだった。特に理由もなく溜め息が出る。

「たしかにね」



彼女がそのまま黙り込んでしまったので、俺は言葉を続けた。

「なあ、あのさ」

 彼女は少し意外そうな顔でこちらを見た。

「夏祭り、あるだろ」

「商店街の?」

「うん」

「一緒に行かないか?」

 答えが聞こえるまで、少し間があった。俺は緊張のせいで、相手の顔を上手く見ることができなかった。

「ふたりで?」

「ふたりで」

 彼女は少し考え込むような様子で俯いていたけれど、やがてぽつりと、ささやくように呟いた。
 独り言のように。

「……いいよ」

 その返事を訊いて、俺は少し安堵した。
 それなのに、なんだか居心地が悪くなってしまったような、そんな気がした。

つづく




 べつに寝ようと思ってそうしているわけじゃないんだけど、授業を受けていると、居眠りしそうになる。
「しそうになる」だけで済んでいるのは、自分では成長だと思っているんだけど。

 子供の頃からずっとそんな調子で生きてきたせいで、小学生のときには授業についていけなかった。

 他人にできることが自分にはできないということは、子供ながらに不安でしかたのないことだった。
 危機感から、学校から帰ってから就寝するまでの時間、俺は毎日のように必死になって勉強をした。

 そういうことが習慣になって、最終的には、授業をきいていなくても、授業の内容がある程度理解できるようになった。

 小学校の高学年になる頃には、授業中だって目を覚ましていられるようになったし、夜眠る時間も段々と遅くなった。
 
 ようやく普通に近づけてきたのだけれど、近頃はまた、ひどい眠気を感じるようになってきた。

 頭がぼんやりとして、半分眠っている。自分が起きているのか眠っているのか、それさえも分からなくなる。
 そしてときどき夢を見る。たぶん夢だと思う。幻聴のような声すら聞こえるのだ。

 誰かが泣いている。





「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」

 司書さんは本の整理をしながらそう言った。

 二十代半ばの若い女性で、物静かで落ち着いた雰囲気がある大人の女性。
 茶目っ気もあって、少し抜けたところもあるという、可愛げのある人。

 この学校の図書室は狭い上に本棚が高い。
 圧迫される感じがして手狭に見える分、隠れ家みたいな雰囲気がある。

 で、そんな雰囲気の場所を、この気さくな司書さんと話をするために訪れる生徒が、けっこう大勢いたりする。
 不思議なもので、この人と話をすると本を読みたくなる。知らず知らず誘導されているんだろう。

 昼休み、昼食の後、俺とタイタンは図書室を訪れていた。
 別に本を借りたくなったわけではなくて、暇をしているとき、司書さんと話したくなるときがあるのだ。
 迷惑が掛かっているかもしれないけど、不思議と彼女と話をするのは楽しかった。


「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
 
 司書さんがそう言うと、タイタンがむっとした顔をして「そうですか?」と訊ねかえした。

「そうなんですよ」と俺は言う。

 タイタンが、授業中に眠そうにしている俺について、司書さんに愚痴を言ったのだ。
 俺は思わぬ味方の登場に嬉しくなる。

「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど、意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」

 彼女はやわらかく微笑んだ。春のこもれびみたいなあたたかい微笑。
 そういうふうに笑われると、なんだかもう、しかたないなあ言う通りにしよう、という気持ちになる。
 
「気をつけます」

 俺は真剣に答えた。

「よろしい」

 と司書さんはおどけた。


「それにしても、今日も暑いですね」

 どうでもいい世間話のつもりで話しかけると、「ねー、ほんとにねー」と司書さんは頷いた。

「いくら夏だからって、こんなに暑いと困っちゃうよね。アイス食べたいなあ」

 それからふと、悪戯っぽい顔つきになって、

「ねえ、奢ってあげるからアイス買ってきてくれない?」

 なんてことを言い始める。変な人だ。発覚したら普通にまずいだろうに。

「すみません、無理です。根が真面目なんで」

「嘘だあ」

 彼女は本をしまいながら笑った。気持ちのいい笑い方だ。リラックスした感じの。


「でも、もうすぐ夏休みだね。予定とか、決まってるの?」

 彼女のまた、どうでもいい世間話のつもりだろうか、そんなことを訊いてきた。

「寝ます」

「寝るんだ?」

「寝続けます」

「……そ、そう」
 
 司書さんはちょっと引き気味だったが、嘘をつくわけにもいかない。
 タイタンが呆れたように溜め息をつく。寝て何が悪い。



「すみません」

 と不意に声が聞こえた。今度こそ俺に掛けられた声ではなかった。
 俺が声の主の姿を確認するより先に、司書さんがカウンターの方を向いて返事をした。
 それからととと、と俺たちの脇を駆けていく。

「図書室で走っちゃだめですよ」

 と茶化すと、

「ごめんごめん」

 とあっさり笑う。
 そのまま彼女の背中を追いかけていると、ふとカウンターの前に立っていた女子と目が合う。
 見覚えがある。

「あれ?」

 声をあげたのはタイタンだった。彼は声すら掛けた。「よう」とかなんとか。
 女子の方も俺たちに向けて、「よう」なんて言う。

 俺はうまく反応できなかった。


「借りるの?」

 タイタンがそのまま訊ねる。女子は「返すの」と答えて本の表紙をこちらに向けた。

『同一性・変化・時間』。

「……なにそれ?」

 タイタンがまた訊ねる。彼女は首を傾げた。

「よくわかんなかった」

「……なんで読んだんだ?」

「なんとなく」

 彼らの会話の横で、司書さんが返却の手続きを始める。
 不意に、彼女と目が合う。なぜか分からないけど、俺はそれだけで動揺した。すごく。




「喧嘩でもしたのか?」

 タイタンはそんなことを訊ねてきた。
 彼女は図書室を出ていって、司書さんは作業を再開していた。

「喧嘩?」

「さっき、一言も喋らなかっただろ?」

「べつに、そういうつもりじゃなかったけど……」

 タイタンも同じ小学校だったから、俺と彼女の関係性くらいは知っている。
 だから、様子がおかしいことにだってすぐ気付いたんだろう。

 昔からずっと一緒だったから。
 でも……。

 俺は自分でも、うまく理解できなかった。なぜ俺は、彼女と言葉を交わさなかったのか。
 何か、奇妙な感じがしたのだ。




 別に妹と朝交わした会話のせいってわけでもないけど、放課後は部活に顔を出すことにした。
 文芸部の部室は東校舎の二階にある。隅の方ですよね、と部長が自虐的に言っていた。

 部室には部長と、何人かの文芸部員が顔を出していた。
 
 俺は一瞬、誰かの顔を探した。でも、すぐに分からなくなった。
 俺は誰を探したんだろう。

「久々ですね」と部長は俺に向けて声を掛けた。

「そうですね」

 俺はなんとなく奇妙な感覚のまま、部長とおさだまりの会話をする。

「書いていきます?」

 そう言いながら、部長は俺に向けて青い大学ノートをさしだした。

 うちの文芸部は和気藹々とした雰囲気が売りだった。
 が、あまりに和気藹々としすぎたために一部を除いたメンバーが熱心に活動しなくなってしまったのだ。
 これを危惧した顧問が、せめて何かしらの実績を残さなくては、と全員参加のリレー小説を始めさせた。
 


 順番が決まっているわけではなく、気が向いた部員が適当に続きを書いていくだけの代物だけれど。

 こんなものでも、一応活動実績にするつもりなのだろう。

 まだ始めてから一月くらいしか経っていないけれど、これが意外と部員たちには好評だった。

 名前を書かなくてもいい、と顧問が言ったため、けっこう好き勝手できるし、誰が書いているのか分からない面白みもある。
 もちろん筆跡である程度想像できるのだけれど、あえて分からないままにしておくのも楽しい。

 女子部員が多いため、最初はありがちな高校生同士の恋愛から始まった。

 不良の男子と地味な女子の恋愛もの。不良は最初、生活態度は悪いが成績優秀、という設定だった。
 が、なぜかテストで赤点をとる。そして気付けば主人公である女子に放課後の教室で勉強を教えてもらっていた。
 書いている人間が違うせいで、その手の齟齬は大量にある。あるいはわざと赤点をとったのかもしれない。

 その手の展開はもちろん男子にとっては退屈そのもので、だから男子が書く回になると、毎回血が流れる。
 通り魔、交通事故、災害。さまざまな要因で不良は何度か死んだ。
 そしてだいたいの場合、次の回の女子が夢オチや奇跡を起こして不良の死を回避する。
 
 ちなみに俺は交通事故で不良を三回殺した。交通事故が俺のテーマなのだ、たぶん。知らないけど。

 ここに誰かが(たぶん部長だ)奇妙なつなぎを添えたせいで、最近ではちょっとしたループものになってしまっていた。


 俺はシャープペンを取り出してノートに向かった。
 前に続きを書いたのは、どうも女子だったらしい。ふたりが幸せそうにデートをしていた。

 ふむ、と俺は考え込む。そして書き始めようとしたところに、

「また事故ですか?」

 と部長が声を掛けてきた。

「……俺が書いてたって気付いてたんですか?」

「誰が書いてるのか、だいたい把握してますから」

 部長はあっさりとそう言って、ノートを覗き込んできた。

「どうして事故なんです?」

「俺のテーマなんです」

 部長は「そうなんですか」とどうでもよさそうに言った。
 いまいち何を考えているのか読めない人だ。 


「事故が、ですか」

「はい」

「なぜです?」

 俺は少し考えてから、答えた。

「車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出すとするじゃないですか」

「はい」

「同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかりますよね」

「……はい」

「事故を避けるためには、どちらかが先に進むか、どちらかが止まるしかないわけです」

「つまり?」

「つまり……何の話でしたっけ?」

 部長は呆れたように溜め息をついた。俺はシャープペンを動かして不良を殺した。

 それからすぐに部室を後にして、学校を出た。
 商店街に立ち寄って挽肉を買い、家路を急ぐ。日々はあわただしい。

つづく




 翌朝もまた、俺はノックの音で目をさました。
 妹は俺を起こしてあっさりと部屋を出て行ってしまう。

 俺はその後ろ姿を見て、朝がきたのだという事実を自分の中でしっかりと消化して、ベッドを抜け出す。
 そうした単純な心理的・実際的な動作を意識的に行うことで、自分がどうするべきなのかをしっかりと把握する。

 顔を洗って歯を磨いて制服に着替えて朝食を食べる。
 
 食事の準備は朝と夜でそれぞれに分担していた。
 といっても妹はあまり料理をする方じゃないし、時間が余っているわけでもないから、朝はいつもトーストだ。

 マーガリンやらジャムやらチョコレート、バターにガーリック。実にいろいろなものを俺たちは試した。
 ときどきトーストに飽きて、目玉焼きやらハムエッグやらを作って白米で食べることもある。
 目玉焼きを作れるようになった妹はときどきトーストの上に目玉焼きを載せるようになった。

 朝食のバリエーションは多かった。変わらないのはふたりきりだという事実だけだった。
 そこがどうやっても揺るがないから、それ以外の部分を変えてしまいたくなって、いろんなトーストを試したのかもしれない。

 とにかく俺たちはふたりきりだった。




 
 俺にチュッパチャップスをくれた女の子の名前を俺は知らなかった。
 というより、知っていたのだけれど、なんとなくその名前を信用することができなかった。
 
 イメージとしての文字を思い出すこともできる。でも読みは合っているのだろうか? 漢字は? 発音は?
 なぜだかそういうことがすごく不安だった。

 だから、その日、朝の教室で偶然にもふたりきりで出くわしてしまったとき、少しだけ困った。

 彼女は勘のいい女の子で、たった数分話をしただけで、俺が彼女の名前を覚えていないということを看破してしまった。
 そして笑う。

「ろくに話したことなかったもんね」

 からっとした笑顔。

「仕方ないっちゃ仕方ないよ」

 てっきりその流れで名前を教えてくれると思ったんだけど、彼女はそうはせず、話を変えた。
 数学の授業がさっぱりわからないだとか、現代文の文章問題は内容を理解するのがむずかしいとか。
 ようするに学校の授業にさっぱりついていけない、という話。俺はちょっと拍子抜けした。


 あちらが話を変えたとはいえ、さすがに、名前を未知のまま放置するというのは据わりが悪い。
 そう思って名前を尋ねると、彼女は変なことを言った。

「当ててみて」

「え?」

「名前」
 
 俺は少し考え込んだ。漠然としたイメージはつかめているけれど、それで間違っていたら気まずい。
 だからといってまさか適当に言うわけにもいかないので、俺は彼女のネームをちらりと覗き見ようとした。

 彼女はそれを手のひらでさっと隠す。実にあざやかな手並みだった。
 俺はいまいちこの名前当てゲームの意義が掴めなかったけど、彼女の真剣な様子に少し笑った。

 かといって、そんな状況で本当に名前を当てられるわけがなかった。 
 仕方なく、俺は「こうだったよな」と思いながら彼女の苗字を当ててみた。
 それは当たりだった。彼女はちょっと感心したように手を叩いた。


「下の名前は?」と訊ねられて俺は困った。
 彼女はわくわくした顔で俺の答えを待っていた。自分の名前を玩具にしているのだ。
 俺は仕方なく答えた。

「アメ」

「アメ?」

 当てる気はなかった。

「……なんでアメ?」

「飴くれたから」

「適当だ?」

「適当だよ」

「でも、いいね、それ」

 アメ、アメ、アメ。彼女は三回そう繰り返した。いたく気に入ったようだった。
 初めて名前をつけられて喜んでるみたいに。

「じゃあ、わたしのこと、アメって呼んでいいよ」

 べつに呼びたいと思っていたわけでもないんだけど、彼女が嬉しそうだったし、そうすることにした。




 飴……。

 妹が小学校にあがった年、俺と彼女は母親に夏祭りに連れて行ってもらった。
 母はいろんな夜店を回りながら、食べ物や飲み物やおもちゃを買い与えてくれた。
 当たらないと分かり切ってるクジだって引かせてくれた。射的だって金魚すくいだって。

 俺と妹はほとんどわめくみたいにはしゃぎながら祭り中を歩いた。
 母親は半歩さがった位置から、それでも決してはぐれないように、俺たちのことを見ていた。

 両手に物を抱えて持ちきれなくなって、母が背負っていたリュックサックもぱんぱんに膨らんだ。
 遊び疲れた俺たちに、母はリンゴ飴を買ってくれた。
 
 俺は右手にリンゴ飴を持ち、左手にサービスでもらった金魚の袋を掴んだ。

 賑やかな人の流れの中なのに、俺たちの声は特別大きく響いていた気がする。
 
 赤い飴。

 金魚は二週間後に死んだ。


「どうしたの?」

 アメの声で、自分が考え事をしていたことにようやく気付いた。
 なんでもない、と俺は言って、周囲に人が増え始めていることに気付いた。

「今どんなことを考えてる?」

 アメはそんなふうに質問を続けた。

「どんなことって?」

「だから、何を考えていたってこと」

「飴のことだよ」

 彼女はちょっと息を呑んだ。俺はすぐに彼女の誤解に気付いた。

「ちがう。飴。お菓子の方」

「え? あ、ああ。飴?」

「飴」

 そもそも俺は彼女のことを「飴」ではなく「雨」のイントネーションで呼んでいた。
 そっちの方が人っぽく聞こえるから。慣れてないから仕方ないんだろうけど。


「どうして飴のことなんて考えてたの?」

「どうしてって、飴に関係のある話をしていたからだよ」

 彼女は納得したように頷いた。俺には彼女の思考回路がよく理解できなかった。

「飴は好き?」と彼女は訊ねてきた。甘いものはだいたい好きだよ、と俺は答えた。
 シュークリームもケーキもチョコレートも。でも縁がないんだ。

「じゃああげよう」

 と言って、彼女はまた俺に手のひらを開かせて、強引にチュッパチャップスを載せた。

「好きなの?」と訊ねると、「大好き」と彼女ははっきりした声で言った。
 その言葉と笑顔に俺はどきりとした。
 恋に落ちそうなくらい。落ちなかったけど(たぶん)。あるいは落ちたかもしれない。よくわからない。


 クラスメイトは続々と登校してきた。

「おい佐藤、朝から夫婦で登校か?」

「そんなんじゃないよ」

 なんて会話すら聞こえてきた。俺はそのやりとりを意識的に遮断した。
 耳にするだけで毒になる会話というのがあるものなのだ。

「どうしたの?」

 なんて、アメはきょとんとした顔で訊ねてくる。
 
「どうもしないよ」、と俺は嘘をついた。
 
 彼女は興味深そうにしげしげと俺の顔を眺めてきた。妙に緊張させられる。





 アメは教室の様子なんて気にならないようだった。
 
 何人かの女子は物珍しそうに、俺と話をするアメの方を見ていた。
 物珍しそうに、というよりは、「ふうん、ああいうのが好きなんだ」とでも言いたげな目で。自意識過剰かもしれない。

 ともかく、そんな視線すらもアメは無視した。あまりにも綺麗に無視するのでこっちが気まずくなるくらいだった。

 はっきりいって(はっきり言わなくても分かるだろうが)俺は地味な男子だった。
 滑稽なことに最初から地味だというわけではない。四月までは割と明るかった。

 でもそれは、太陽の光を借りて月が輝いていたようなもので、まあ結局地味な奴は地味なのだ。
 こんな言い方をすると月に失礼かもしれないけど。

 アメの声はよく響く。そのわりに鬱陶しくない。耳にすっと馴染む。だからみんなアメの方を向く。
 だから俺は、名前は知らなくてもアメの存在はちゃんと知っていた。そのくらい目立つ子だ。
 そんな子が地味な奴と一緒にいる。すると、ただでさえ目立つ人が珍しいことをしているなあと余計に目立つ。

 俺の居心地は悪くなる。


「休みの日とか何してるの?」なんて、アメはとるにたらない質問のように言った。

「寝てるかな」

「寝てるの?」

「だいたいはね」

 彼女は少し笑った。ちょっと棘のある笑い方だった。もっとも彼女にそんなつもりはなかっただろう。
 人の笑みのさじ加減ひとつで傷ついてしまうくらい俺がナイーブだということだ。たぶん。知らないけど。

「それ以外は?」 

「本を読んでるかな」

「どんな?」

「どんな……?」

 俺は答えられなかった。なぜかは分からないけれど、とっさに答えが浮かばなかった。
 最後に読んだ本はなに、と訊かれたら答えられた。でも、どんな、と訊ねられると難しかった。
 俺はどんな本を読んでいるんだろう? 

「恋愛指南書かな」

 と俺は答えた。アメが大真面目に「えっ」という顔をしたので、俺は仕方なく冗談だということを明かした。




 昼休みに図書室に行くと、司書さんがカウンターの中で何かの書類を眺めていた。
 こちらに気付いて、彼女は「やあ」と手をあげる。常連だからとても気安い。

「……なんだか疲れた顔をしてるね?」

 俺の顔を見て、彼女は即座にそんなことを言った。
 隣に座っていた図書委員の男子が俺の方をちらりと見て、すぐに逸らす。鬱陶しそうな顔をしていた。

 疲れた顔。しているのだろうか? よくわからない。

「なんだか、最近、変な感じなんですよ」

「変な感じって?」

「頭がぼんやりするんですよ。何か忘れてる感じがする」

「寝不足?」

「まさか」と俺が言うよりも先に、司書さんは自分で否定していた。「きみにかぎって、まさかね」
 俺はちょっとむっとしたけれど、反論があるわけでもなかった。俺が寝不足になんかなるわけがない。

「じゃあ、眠りすぎてるのかもしれないよ」

「眠り過ぎ、ですか」

「うん。睡眠ってけっこう体調に影響するからね」


 昼休みの図書室は結構賑わっている。
 たぶん三年の男子だろうか、四、五人で端の方に集まって、「火の鳥」を読んでいた。

 真剣な顔で黙々と「火の鳥」を読んでいる男子というのはちょっとかっこいいなあと思った。嫌味なく。
 たぶん退屈してるだけなんだろうけど。

「何かを忘れてる感じかあ」

 何の話だろうな、と思ってから、自分の言葉を思い出した。何かどころか五秒間に話した言葉すら忘れてる。
 地に足がついていない。

「健忘かもね」

「もしくは譫妄かも」

 冗談のつもりだったけど、彼女は笑わなかった。まあそんなもんだろう。
 
 今日はタイタンはいなかった。彼は彼で気まぐれに行動することが多いから、授業時間以外はあまり顔を合わせなかったりする。
 昼食を一緒にとったりすることはあるけど、それ以外の時間はほとんど一緒に行動しない。部活も違うし。

 ひょっとしたら花壇の水やりでもしてるのかもしれない。



「本、読んだ?」

 司書さんに訊ねられて、俺は借りていた本のことを思い出した。
 何を借りていたんだっけ。「ぼくらはそれでも肉を食う」だったかもしれない。

「まあ、ぼちぼち」

「ふうん。おもしろかったら教えてね」

「おもしろくない本なんてありませんよ」と俺は答えた。
「まさか」、と彼女は言った。価値観の相違。

「長い付き合いだけど、きみの好みってまだ分からないなあ」

 彼女は長い付き合い、と言ったけど、実際には四月から今までだから、せいぜい三ヵ月くらいの付き合いだ。
 毎日のように顔を合わせているせいで、長くいるような気がするのかもしれない。俺もそんな感じがする。


「きみ、どんな本が好きなの?」

「おもしろい本」と俺は答えた。彼女は少し考えた。

「つまり、本ならなんでもいいってこと?」

「そうかもしれない」

 読書は睡眠と同じ種類の快楽だ。そして読書の優れた点は、いくら読んでも人から咎められないことだ。
 かといって、そのまま話を終わらせたら、なんだか気取ってるみたいでいやだったから、俺は付け加えるように、

「漫画って読みます?」
 
 と訊ねてみた。彼女はぼんやり頷いた。俺は言葉を続けた。

「『フルーツバスケット』が好きなんですよ」

「十二支の奴? 『花とゆめ』の?」

「そう。その『フルーツバスケット』」


「ふうん。少女漫画好きなの?」

「あんまり」

「なにそれ」と、彼女は呆れたように笑った。
 
「じゃあ、小説なら?」

「あー……。『夜の来訪者』かな」

「……プリーストリーの?」

「そう。それ」

「……」

「なぜ黙るんです?」

「おもしろいけど……戯曲でしょ、あれ」

 今度は俺が黙り込む番だった。

つづく




 うちの学校の図書室は一人につき五冊まで本を借りることができる。

 俺が「チェ・ゲバラ伝」を借りて教室に戻ると、アメが声を掛けてきた。
 何か用事かと思ったけれど、そういうわけでもないらしい。彼女は不思議そうな顔で、

「なにその本?」

 と訊ねてきた。

「ファッション」

 と俺は答えた。彼女は楽しげに笑った。

「おもしろいの?」

「読んでないから分からない。面白そうだと思ったから借りてきた」

「ふうん。どんなところが?」

 どんな本なの、と訊かれるかと思っていた。どんなところが、と訊かれてもうまく答えられない。 
 彼女はそういう訊き方をすることが多い気がする。



 答えに詰まったあげく、俺は本を開いて文章の出だしを読み上げて見せた。

「『人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。
 しかし、革命家で在り続けることは、歴史の上に革命家として現れながらも
 暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、
 さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである』」

「……え?」

「なんかかっこよくない?」

「なにそれ。そんな理由?」

「そんなもんだよ」

 彼女は笑って、片手で持っていた袋から一本ポッキーを取り出して、こちらに差し出した。

「はい」

「……くれるの?」


 本を持っていない方の手で受け取ろうとすると、彼女はさっと翻って指先を隠した。

「……なに?」

「あーん」

「は?」

「……」

「……」

「……あーん」

 からかっているわけでもなさそうだった。親しい間柄の人間には、似たようなことをしているのかもしれない。
 冗談の一種か、単なるコミュニケーションの一環か。とにかくなんでもいいんだけど……。

 なんとなく、気味が悪い。


 俺は視線だけで周囲の様子をうかがった。時間が経つにつれて注目が集まっている。
 それでも気にしている人間なんて、ごく一部だったけど。

 そうこうしているうちに、アメは段々不安そうな顔つきになっていった。
 
「いらないの?」

 唇をかすかに持ち上げてそんなことを言っていたけれど、その声もどこか緊張している。
 俺は仕方なくポッキーにかじりついて、そのまま彼女の指から引き抜いた。

 彼女はほっとした様子だった。

「この、焦らし上手」

 なんてアメは笑っている。ことさら、軽い雰囲気を装って。
 やり慣れないことをしたから、もちろん気恥ずかしさはあった。 
 でも、そういうのとはべつに、もっと根本的な居心地の悪さがある。


 鍵のお礼と言って飴をくれた日から、彼女はやけに俺について回るようになった。

「野良猫だって餌をもらっただけじゃなつかない」

 と皮肉半分戸惑い半分くらいの気持ちで俺が言うと、

「わたし、安上がりな女だから」

 なんて胸を張っていた。
 あんまり大きくないから微妙に痛々しいな、と思うと、見透かされたみたいに頭を叩かれた。

 俺が席まで戻ろうとすると、アメは俺の後ろをついてきた。
 俺が椅子に座ると、彼女は机に座ってポッキーをかじりはじめた。

「椅子は座るところじゃない」

 と俺が言うと、

「椅子と机の違いなんて、大きさくらいのもんだよ」

 と得意げな顔で言った。


 クラスメイトの視線も気にせず、俺の気持ちさえ気に掛けず。
 彼女は振る舞いたいように振る舞っているように見えた。
 
 あるいは違うのかもしれない。
 彼女には彼女なりの怯えみたいなものがちゃんとあって、そういうものと戦いながら俺の近くにいるのかもしれない。

 何のために? それはよく分からなかったけど。

「どうして俺の机に座ってるの?」

「きみと話がしたいから」

「どうして?」

 彼女は押し黙った。顔が少し赤くなったような気がした。
 俺はその様子を冷めた気分で眺めていた。他人事のような気持ちで。
 鼻で笑ってしまいたいくらいだった。 

 そういうやりとりのひとつひとつが、どうしてだかわからないけど――すごく気持ち悪い。





 アメは放課後も俺につきまとった。

「部活は?」と訊ねると、「帰宅部だもん」とあっさりと言う。まあそれは別にいい。

「ね、どっか寄っていかない?」
 
 あげくの果てにそんなことまで言い出したから、俺は段々怖くなってきた。
 
「悪いけど、俺は部活があるんだよ」

「うっそだあ。きみが部活とかやってるとこ、見たことない。何部?」

「文芸部」

「そんなのあったんだ。どんなことしてるの?」

「日陰で考え事をしたり、こそこそ話したりするところ」

 古びた紙の匂いと日に褪せたカーテン。悪い場所ではない。
 悪い場所ではないけど、ちょっと人を選ぶ。場が人を選ぶということもあるものなのだ。
 


 てっきり「ならしかたないね」とか言って諦めてくれると思ってたのに、アメはちょっと興味を示していた。
「ふーん」なんて言いつつ、意味もなく頷いてる。

「ちょっと興味あるなあ」

「好奇心は猫をも……」

 言いかけたところで、頭が烈しく痛んだ。眩暈と耳鳴りを伴う鋭い痛み。
 途切れた言葉の続きを、アメは首を傾げて促す。

「猫をも?」
 
 じくじくという痛み。

「猫をも殺す、っていうことわざがあるよ」

「さすが文芸部員。変な言葉知ってるね。どういう意味?」


 どう考えても一般常識の範疇だったけど、俺はそれについては何も言わなかった。

「何にでも首を突っ込んでいたら、命がいくらあっても足りないって意味」

「……そんなに危険なの? 文芸部」

 もちろん文芸部は危険な場所じゃない。そんなのは誰だって知ってる。

 はっきり言わなければ伝わらないのだろうか?
 あるいは、分かっていて無視しているのか?

 俺はしばらく考え込んだけれど、結局、まあいいか、と思った。
 溜め息さえ出ない。

「じゃあ、見学するといいよ。たいしたことしてるわけじゃないけど、人は結構いるしね」

「うん、そうする。ありがとう、ヒメ」

 アメは当たり前みたいに俺のことを呼んだ。
 まるでずっとそうしてきたみたいに自然に。それが彼女の距離感なのかもしれない。

つづく




 部室には結構な人数が集まっていた。
 落ち着いて話ができる場所だからか、男女問わず集まりがいい。
 
 熱心に活動している人間はそんなに多くないけど。

 部室に入ると同時に、部長がちらりとこちらに視線をよこした。
 それから俺の後ろについてきたアメに気付き、頭を下げて立ち上がる。

「そちらは?」

「見学したいそうです」

 部長は不思議そうな顔をした。無理もない。
 アメは俺の背中越しに、遠慮がちに部長に頭をさげた。

「歓迎しますよ」と部長は大人みたいに笑った。

「どんなことをしてるんですか?」

 とアメが訊ねる。部長はちょっと困った顔をした。



「テニス部はテニスをする」

 俺がそう言うと、アメは首をかしげた。

「サッカー部はサッカー、野球部は野球、カヌー部はカヌー、吹奏楽部は吹奏楽」

「……だから?」

「文芸部は文芸するに決まってるだろ?」

「……だから、文芸ってなにさ?」

「哲学的な疑問だな」

「テツガクってのも、なんだかわかんないけど」

 言いつつ、俺は部室の壁際に置かれた戸棚に歩み寄り、中から辞書を取り出した。

「えーっと……」

「……ヒメも分かんないんじゃん」

「再確認する意義のありそうな疑問だったってことだよ」

「どうだか」

 俺たちのやりとりに、部長がくすくすと笑っていた。


「えーっと……。『言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学』」

「文学ってなに?」

「……『思想や感情を、言語で表現した芸術作品。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など。文芸』」

「よくわかんないけど、つまり、思想や感情を、言語で表現する部活ってこと?」

 俺とアメはたっぷり五秒くらい目を合わせたまま沈黙した。

「そうなんですか? 部長」

 俺が訊ねると、部長は困った顔をして首を傾げた。

「さあ、どうなんでしょうね?」

「そもそも芸術ってなに?」

 アメの問いかけは単純であるがゆえに深遠だった。俺はアメに辞書を手渡した。

「答えはそこにある、かもしれない」

 あるいはないかもしれないけど。
 アメは困った顔をしていた。




「誰かが続きを書き足していたみたいですよ」

 と言って、部長が俺にノートを渡した。
 俺はしぶしぶ受け取って、それを開く。アメが後ろから覗き込んできた。

「なにそれ?」

「思想と感情の発露だよ」

 適当なことを言いながらパイプ椅子に腰かけ、新しいページを開く。

 俺が最後に書いてから、書き足したのは、二人くらいだろうか。 
 交通事故で不良が死に、主人公が意識を失う。再び目を覚ますと死の三日前にさかのぼっている。

 実際に起こったことを「嫌な夢」として処理し、ごく当たり前のように生活をしようとする。
 というところで、主人公の身を襲う奇妙な既視感。主人公はループに勘付きはじめる。

「これ書いたの部長ですか?」

 俺が訊ねると、彼女は曖昧に笑って首を傾げた。話を動かせるのはこの人くらいのものだ。 
 他の奴が書いていたら延々とループしているだろう。


 と思ったのだけど、部長が(おそらく)書いたものの次もまた、話が進んでいた。

 思想と感情の発露、というのはある意味正しい。

 稚拙であれ精巧であれ、少なからずその人の思想、価値観というものが、物語には現れる。

 写実的であるべきだと考えれば写実的に、劇的であるべきだと考えれば劇的に。
 寓話的であるべきだと考えれば寓話的に、現実的であるべきだと考えれば現実的に。
 暗喩的であるべきだと考えれば暗喩的に、直截的であるべきだと考えれば直截的に。
 芸術的であるべきだと考えれば芸術的に、娯楽的であるべきだと考えれば娯楽的に。
 そのようにして、書いている本人すら無意識のうちに、表出してしまう。

 人を殴ることなど何の問題にもならないと思っている人間が書けば、人を殴ることは日常の範疇として描かれる。
 あるいは喜劇的に。

 けれど、人を殴ることは悪だと考える人間が書けば、人を殴ることは一大事件として、物語の中で扱われる。
 とても悲劇的に。
 
 ごく当然の話として。

 そして、「続き」はちょっと重かった。ループの事実に気付いた主人公が、不良の死をすごく重くとらえている。
 すごく重く。ちょっとシリアスすぎる。
 
 主人公は不良の死を繰り返すうちに、死が訪れるタイミングの法則を導き出す。
 そして、不良の代わりに自分が死のうとしてしまう。


「おおう……」
 
 と思わず声が出た。部長は俺の様子を見て、くすくすと笑う。

「部長、これは……」

「わたしじゃありませんよ」

 自分じゃないときは、彼女はちゃんと否定するのだな、と思いつつ、話を続ける。

「なんですか、この展開は」

「リレーですから。予想外の展開をたどるのは仕方ないです」

「部長、我々の部は「携帯小説部」に改名するべきかもしれません」

「……ひねくれてますね」

 部長は呆れたように溜め息をついてから、にっこりと笑った。

「文芸部初の共同制作作品が、ついに完成間近っぽい雰囲気なんですよ。祝いましょう」


 アメは、「なにが悪いの?」という目で俺の方を見た。べつに悪いと言っているわけじゃない。
 
「……まあ、落としどころとしては、こんなもんですよね」

 俺の言葉に、部長は満足げに頷く。

「行先の分からないリレー小説にしては、けっこうまとまった方ですよ。みんな頑張りました」

「ヒメが何を言いたいのか、よくわかんないな」

 アメはそんなことを言いながら、俺の手からノートを奪って、ぺらぺらとめくりはじめた。

「何か駄目なの、これ?」

「べつに。好みの展開じゃなかったってだけ」

「リレーですから、仕方ないですね」

 部長の言葉に頷く。リレー小説を結末まで書き切って、心から満足できる参加者はごく少数だ。
 だいたいの人間は「自分ならこうするのに」という気持ちを抱くことになる。

 そして、「自分ならこうする」と実際に書き始める人間だけが、何かを完成させることができる。


「気に入らないなら、ひとりで書くしかないです」

 俺は部長の言葉にもう一度頷く。
 アメはやっぱり納得がいかないというように、首を傾げつつノートに目を落としている。

「やっぱりわかんない。何が気に入らないの?」

「べつに、たいしたことじゃないけど……」

「……なに?」

 仕方なく、俺は口に出した。

「なんとなく、気持ち悪いんだよ」

「……なにそれ?」

 アメは怪訝そうな顔をしていた。




 俺はしばらくノートに向かって、続きを書くか書かないか、迷っていた。
 でもやめた。いろんな奴がいろんな考えに従って書けるのが、リレー小説のいいところだ。
 だからといって、和を乱してまで自分の考えを押し通そうとする必要はない。

 所詮は交流手段でしかないんだから。好き放題やりたいなら自分で書けばいい。

 ノートを閉じて所定の位置に戻すとき、部長と目があった。

 彼女は、いつも使っている茶色い手帳に何かを書きこみながら、俺に声を掛けてきた。

「ヒメくん、知ってます?」

「はい?」

 どうでもいい話だけど、部長は俺のことをヒメというあだ名で呼ぶ。
 このあだ名を使っているのは小学校からの付き合いの奴ばかりなんだけど。
 部長は誰かからそれを聞いて気に入ったらしく、俺をそう呼んでいる。

「うちの市のどこかに、廃墟になった洋館があるって話」

「なんです、それ?」


「五年くらい前だったと思いますけど、分かりませんか。小学生の女の子二人が誘拐されて……」

「殺された事件ですか」

 部長は頷いた。

「犯人らしき男も死体で発見されたって奴ですよね」

「はい。で、その犯人が、監禁場所につかったのが、その洋館だったって話ですよ」

「うちの市だってことは知ってましたけど、廃墟っていうのは初めて聞きました」

 アメが、物騒な話をしてるなあ、と言いたげな目で俺と部長を見ていた。

「どこかの森の中の、廃墟の洋館だって話です」

「うさんくさいですね」
 
 部長は頷いた。

「ヒメくんなら詳しい話を知ってるんじゃないかと思ったんですけど、やっぱり分かりませんか?」

「生憎、初耳です」

 部長の中で俺のイメージがどうなっているのか、微妙に気にはなったが、とりあえず無視した。



「そんなこときいて、どうするつもりだったんです?」

「個人的に興味があるんですよ。もうすぐ夏休みだし、せっかくなら行ってみたいなあって」

「……人が死んだ場所に?」

「というより、廃墟とか、洋館とか、一度は見てみたいじゃないですか。人が死んだのは嫌ですけど」

 彼女はちょっと興奮気味に握り拳を作った。

「『森の中』で、『廃墟』で、しかも『洋館』で、こんな言い方したら怒られるかもしれないですけど、『いわくつき』ですよ?」

「……不謹慎だなあ。数年前の出来事ですよ」

「いえ、いわくつきって言っても、そっちじゃなくて。なんでもその洋館には、『出る』って話です」

「……死んだ女子児童の霊がですか?」

 そっちじゃないですってば、と彼女は重ねて否定した。

「もっと、別の何かですよ」

 俺はさすがに呆れた。

つづく




「普段、どんなことしてるんですか?」

 俺に訊いていたら話が進まないと思ったのか、アメは部長に対してそんな質問をぶつけた。

「雑談です」

 と部長はあっさり答えた。
 
「えーっと。……『文芸』は?」

「みんな書いてますよ。雑談しつつ」

「どっちがメインですか?」

「八対二で雑談ですかね」

 部長の話も、なかなかに皮肉っぽいなあ、と俺は横で聞きながら思った。
 アメはなんだか落ち着かないような顔をしている。



「つまり、茶飲み部なんですか?」

「よく気付きましたね」

 部長はにっこり笑う。アメは詐欺にでもあったような顔をしていた。
 それにしても、部室の中はもやもやとして暑苦しい。
 窓を開けないのだろうか? 俺はどうせすぐに出て行くつもりだから、いいんだけど。

 アメは、今度は何か納得いかないような顔をした。

「どうしたの?」

 気になって訊ねてみると、彼女は言いにくそうに口をもごもごさせた。
 それでも言葉を待っていると、なんだか居心地悪そうな顔で、うつむきがちに口を開く。

「なんていうか、それでいいのかなあって思って」

「帰宅部に言われてたら世話無いな」


「そういうんじゃなくてさ。ただそう思っただけなんだけど」

 アメはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、うまく言葉にできないようだった。

「何か言いたいことがあるのなら」と部長は笑った。

「文芸部に入って、それを文章にしてみませんか?」

 テレビのコマーシャルみたいな器用で技巧的な笑み。
 この人の笑顔はどことなく信用できない。

 アメはしどろもどろになりながらも「あ、いや、その」とかなんとか言ってる。
 五分くらい放っておいたらホントに入ってしまいそうだ。

「そんなに難しく考えなくていいんですよ。実質茶飲み部ですし」
 
 部長の言葉が皮肉っぽく聞こえるのは、俺の性格のせいなのだろうか。

「昼寝部として使ってる人もいますしね」

 言いながら、部長はちらりと俺を見た。雑談が活動の八割を占める部で雑談する相手がいないなら寝るしかない。
 いや、相手がいても寝るんだけども。


「……考えておきます」

 アメがそういうと、部長は「こんなところか」というふうに笑うのをやめた。
 笑顔と笑顔の間に、ときどき、退屈そうな、断絶めいた無表情が挟まる。
 すごく短い間だから、気付かない奴は気付かないだろうし、大抵の奴は気付いても気のせいだと無視するだろうけど。

 部長はときどき、そういう顔をする。
 目の前で起きてることなんて、どうでもよさそうな顔。

 それがパッという笑顔に変わる。

「そうだ。試しに文集とか読んでいきませんか? 去年の文化祭で発表した奴とか」

 まるで思いつきみたいな適当な発言。

「読んでいったら? 俺は帰るけど」

 と俺が言うと、アメの困り顔は二割くらい深刻さを増した。

「ちょ、っと。なにそれ。待ってよ」

 俺が鞄を持って立ち上がると、アメは慌てながら部長に頭をさげて、丁寧に断りを入れていた。
 こいつの行動原理というものが掴めない。


 部長は残念そうな顔をした――というよりは、作った、というふうに見えた。
 それから笑った。

「しかたないですね。興味があったら、また今度きてください。わたしはいつもいるので、歓迎しますよ」

 ありがとうございます、とアメは頭を下げたけれど、自分の調子を崩されて戸惑っているようだった。

「それじゃあ、俺は帰りますね」

「もうちょっといてください。寂しいじゃないですか」

 部長はあからさまな嘘をついた。俺は彼女が嘘をついていると分かった。 
 彼女は俺が嘘を見抜いていると気付いていた。

「そんなことを言われるとどきどきしてしまいます」

 なんだか冷めた気分でそんな冗談を口に出すと、部長も冷めた感じに笑った。




「変な人だね」

 部室を出て廊下を歩いていると、不意にアメがそんなことを言った。

「誰のこと?」

「部長さん」

「べつに変な人じゃないよ」

「そう?」

「ちょっと機嫌が悪かったんだろ」

「……そんなふうには見えなかったけど」

「そうかもね。ところで、いつまでついてくるの?」

 階段を下りながら訊ねると、アメは意外そうな顔をした。

「あ、一緒に帰っちゃ駄目?」


「方向違うだろ」

「途中まで一緒だよ、たしか」

 階段を一足とびで下りきって振り返ると、アメはリズムに乗るように上下に小さく跳ねながら、俺が追いつくのを待った。

「駄目かな?」

「別にいいっちゃいいんだけど」

 言葉の途中であくびが出そうになって、俺は顔を背けて噛み殺した。

「寝不足?」

 しっかりとみられている。まあ隠そうとしたわけでもないんだけど。

「人とたくさん話した日は、眠くなるよね」

「誰と話したの? そんなに」

 彼女は無邪気に首を傾げた。俺は目の前の女の子のことがちょっと憎らしくなった。


「一緒に帰るのはべつにいいけど、俺、用事あるから」

「なに? 用事って」

 怯まない奴だ。ブレーキが壊れてるのかもしれない。
 下駄箱まで歩く間も、アメはつかず離れずの距離を保っていた。

「買い物」

「何買うの?」

「夕飯の食材」

「自分で作ってるの?」

 俺は靴を履きかえながらその質問を無視した。

「スーパーに寄ってかなきゃいけないんだ」

 彼女はちょっと考えるような素振りを見せてから、

「じゃあ、わたし、ついていってもいい?」

 そんなことを言った。


 俺はいいかげん怖くなってきた。

「あのさ、俺ときみ、そんなに仲良かったっけ?」

「え?」

「一緒に帰ったりさ。放課後部活までついてきたり。そんなことするくらい仲良かった?」

 もっと怯えたような顔をするかと思ったんだけど、アメはきょとんしただけだった。
 段々不安になってくる。
 
「なんでいきなり、俺につきまとうんだ?」

「なんでって……」

 じっと目を合わせると、彼女はちょっと慌てたように顔を背けた。
 
「好きだから」

「……は?」
 
「……」

「……」

 彼女は言葉を重ねなかった。




 俺が昇降口を出ると、アメも慌てて靴を履き替えて追いかけてきた。
 校門を出ていこうとすると、彼女も当然のようについてくる。

 太陽はまだ暑っ苦しい光線をまき散らしている。グラウンドから野球部の掛け声。
 
「自転車は?」

 俺は半ば諦めながらアメに訊ねた。

「え?」

「自転車通学なんだろ?」

「あ、うん。今日はいいや。バスで帰る」

「バスで来たの?」

「ううん。朝は自転車だったけど」

 何を考えているのか分からなくて、いっそ眠たくなってきた。
 まあ、思い返してみれば、人の気持ちなんてわからないものなのかもしれない。

 どうでもいい話だけど。




 商店街には寄らずに、帰り道の途中にあるスーパーで買い物を済ませる。
 冷房のきいた店内が、夏の街並みとのギャップで天国にも感じられる。

 アメは俺の横をとことこ歩きながら、物珍しそうな顔であちこちを眺めていた。

 まさかスーパーに入ったことがないわけでもないだろうけど。

「晩ごはんなに?」

 と、彼女は自分が食べるわけでもないのに訊ねてきた。

「カレー」

 仕方なく答えると、「ふーん、カレーかー」と感心したように息を吐いている。
 ひどく落ち着かない。

 そういえば、サラダ油とキッチンタオルが切れかかっていた。米はまだある。
 まだ、何か買わなければいけないものがあった気がする。

 なんだったっけ……?

 結局思い出せないまま店を出た。人間は大事なことを忘れたまま生きてる。だいたいいつも。
 俺だけかもしれない。




 店を出て、帰路につく。
 分かれ道が来て、アメはようやく俺から離れる素振りを見せた。

「それじゃ、また明日」

 彼女はにっこりと笑った。
 俺はその笑顔をなんだかうさんくさく感じた。
 
 部長の笑顔は――分かりやすい。
 嘘をついている、作り物めいている、と分かる。わざとらしい笑み。
 だからむしろ、親密さを感じる。

 でも、アメの笑顔には嘘っぽさがない。衒いがない。わざとらしさがない。
 俺みたいな奴には、そういう笑顔の方が、よっぽどうさんくさい。

 アメの後ろ姿を見送りながら、俺は彼女の言葉を思い出す。

『好きだから』、とアメは言った。
 
 リアリティのない冗談だ。



◇ 

「本当に好きなんじゃない?」

 夕飯の準備をしながら雑談のつもりでアメのことを話すと、妹はそんなことを言った。

「だったら尚更、リアリティが欠けてる」

「実際に起きたことにリアリティを求めるって、倒錯してると思うよ」

「冗談かもしれない。うそかもしれない」

 妹は溜め息をついた。

「そうかもね」

「落し物探しを手伝ったくらいで人が人を好きになるはずがないだろ」

「もっと前から好きだったのかもしれないよ」

「仮にそうだったとして、どうして今更話しかけてくるんだよ」

「きっかけが欲しかったのかもね」

 食卓に皿を並べている間、妹はスプーンを握って準備が終わるのを待っていた。
 家事は完全分担である。


「リアリティがない」

「なに、リアリティって」

 カレーライスの皿を置くと、妹は手をあわせて「いただきます」と小さく呟いた。
 手を洗ってから、俺も自分の席に着く。

「まだドッキリだって言われた方が信用できるな」

「どうして?」

 俺は答えなかった。アメの行動は、俺をいちいち不安にさせる。
 気味悪さ、居心地の悪さ、居たたまれなさ、そんな感覚すら呼び寄せる。

 その理由は、なんとなく自分でも分かりかけていた。

 彼女の行動には「怖さ」がないのだ。


「たとえば、おまえに好きな男がいるとするだろ」

 妹はちょっと困った顔になった。

「いないけど」

「仮定。で、おまえはその男子に対して、分かりやすく自分の好意を伝えようとする?
 たとえばお菓子を自分の手で直接食べさせたりさ。もしくはそんなに直接的じゃなくてもいい。
 何の用事もなく話しかけたり、理由もなく一緒に帰りたがったりする?」

「……しない。機会があったら、するかもだけど」

「どうして?」

「だって引かれそうだし、恥ずかしいし」

 そういう現実的な感覚が、アメの行動には欠如している。
 だから、全部嘘だと言われた方が、俺にはよっぽど納得がいく。

 彼女は俺のことが好きだという。そう言われてみれば、と思うような行動もとっている。
 でもそこには、リアリティが欠けている。


「リアリティが欠けてるんだよ」

「でも、もし本当だったら?」

 妹の言葉に、俺は黙り込んだ。

 あるいは、俺が見逃しているだけで、アメの行動にもそうした感覚は付随しているのかもしれない。 
 現実感が足りないのは、俺の感覚の方なのかもしれない。
 俺がそうした行動から、実感を見出せないだけなのかもしれない。

 そうだとすれば、俺は彼女に対してかなりひどい態度をとったということになる。
 
「……なんとなく、信用ならないんだよ」

 質問に対しての答えではなく、思考の果ての結論として、気付けば俺はそう口に出していた。

「ところでさ」と、妹は不意に冷たい声を出した。

「このカレー、レトルトだよね?」

「……」

 二個セットで160円だった、二人分に鍋を使うのも手間だし片付けが面倒だ。
 そう説明しても、妹の機嫌はなかなか直らなかった。

つづく

155-9 言いつつ → 聞き流しつつ


作者さんは他のSS書いてたりするんですか?




 起きろ、と誰かが言っている。
 俺はその声を聞いている。確実に。呼びかけに応じて、意識がかすかに浮上する。

「起きろ、ヒメ」

 そして目をさますと、俺は教室の自分の席に座っていた。

「次、移動教室だぞ」

 声を掛けてきたのはタイタンだった。俺は気怠さに包まれながらも体を起こす。

「……俺、寝てた?」

「ばっちり寝てた」

「……いつから寝てたんだろ」

「さあ?」とタイタンは肩をすくめた。
 
 しっかりと眠っているはずなのに、眠気が取れない。




「疲れてるのか?」

「疲れるようなことはしてないはずなんだけどね」

 答えてから、タイタンの質問に違和感を抱く。

「……疲れてるのかもなにも、俺が寝てるのなんて、いつものことだろ」

「自分で言うなよ」
 
 タイタンは溜め息をついた。俺はあくびをしながら窓の外を眺める。
 太陽は南の空から俺たちを見下ろしている。

「日差しがまぶしいなあ」

「夏だからな」

 当たり前みたいな調子で、タイタンは返事をくれる。

「太陽の日差しって、あんまりにも眩しくて、眠くならない?」

「……悪いが、さっぱりわからない」

「あ、そう」


 体が無性にだるかった。嫌な夢を見ていたような気がする。

「タイタンはさ、好きな女子とかいる?」

 俺が訊ねると、彼は目を丸くして驚いた。

「なに、急に?」

「べつに。なんとなく」

 ふうん、という顔をして、彼は考え込んだ。

「そういえば、いないな」

「なに? そういえば、って」

「意識してみれば、って意味だよ。普段考えたことなかった」

 へえ、と俺は思った。
 まあたしかに、彼は野球部の新入部員として白球を追いかけるのに夢中だ。
 まだ入学して何ヵ月も経ったわけではない。考えて見れば、べつに不思議な話でもない。


「どうして急にそんな話をするんだ?」

「べつに」

「何かあったの?」

「あったと言えば、あったかな」

 答えながら、俺は辺りの様子をぼんやりとうかがう。
 教室に残っている生徒は、だいたい半数くらい。残りはもう移動しているんだろう。

 いくつか知った顔もあった。そのうちの二人とは目もあったけど、俺は逸らした。
 俺だって本当なら器用に笑いかけるくらいのことはやりたかったけど、タイミングを逸してしまったのだ。

 彼らはちらりと俺の方を見てから、何事もなかったみたいに教室を出て行った。
 
 タイタンは呆れたみたいに溜め息をついたけど、俺はそれを無視して立ち上がる。

「移動教室だろ。俺たちも行こう」
  
「はいはい」

 とタイタンはどことなく投げやりに言った。




 放課後になってすぐ、アメは当たり前みたいに俺に話しかけてきた。

 朝から一度も話しかけられなかったら、やっぱり何かの冗談だと思っていたのに。
 彼女の態度は、昨日までと何も変わらない。

「今日も部活?」

「まあね」と俺は言った。
 普段からそんなに頻繁に参加しているわけでもないけど、夏休みが近いし、なんとなく顔を出しておきたい。

「一緒にいってもいい?」

「好きにしなよ」

「ありがとう」

 アメはお礼を言ったけど、それはどう考えても変だった。
 どうして彼女が俺に感謝したりするんだろう。




 部室にはやっぱり部長がいて、部長はいつもみたいに笑って、昨日みたいにアメを歓迎した。

「今日も来てくれたんですね」

 部長は嬉しそうに笑って、アメに駆け寄って、彼女の手をとって軽く上下に振った。
 アメは相変わらず部長のテンションに戸惑っている。

 俺はそのやり取りを無視して定位置に腰かける。
 
 ノートを開く。物語は鮮やかに完結していた。
 不良を庇って車に轢かれた主人公は意識不明の重症になる。
 
 集中治療室の前で長椅子に腰かけたまま、祈るように俯き涙を流す不良。
 そして奇跡。主人公は目を覚ました。

 当たり前みたいにループが終わる。


 ループがなぜ起こったのかなんて、物語の中ではふれられない。
 ループは「書く側」が思い通りの展開にするために起こった。
 不良を死なせたくないと「書く側」が思ったから、起こった。

 だから、不良が死なず、主人公も幸福であれば、ループは起こらない。
 そして、また新しい不幸が書き足される前に、誰かが幸せなまま完結させてしまった。

 不良は主人公を見舞って、庇われたことを気に病んで、謝る。
 主人公は不良が生きていることを喜び、幸福を噛みしめる。

 術後の回復は奇跡的で、主人公はあっというまに退院する。
 不良は主人公をいい女だなあと思い、ずっと一緒にいて大切にすると誓う。
 そして彼は、茶色かった髪を黒く染める。

 おしまい。


 誰が書いたのかは知らないけど、まあこんなものだろう。
 最後のページの下の方には、「みなさんお疲れ様でした」との書き込み。たぶん部長だろう。
 完結させた奴とは筆跡が違う。

 次のページは白紙だった。

「お疲れ様でした」

 と部長は俺に後ろから声を掛けてきた。

「大作でしたね」

「はい」

 部長はにっこり笑う。

「百万部は売れる」

「ヒメくんは、キャッチーなものが嫌いですか?」

「キャッチーなものが、俺を嫌いなんですよ。悪いって言いたいわけじゃない。馴染めないんです」

 部長は困ったふうに笑った。


「でも、この終わり方は――誰が書いたか知らないけど、いいと思いますよ。
 俺は幸せそうな人たちを見ると、それが物語だって分かってても泣けてくるんですよ。
 こういうのだって別に悪いわけじゃない。ただ、他人事なんです」

「他人事じゃない物語って、どんなのですか?」

「少なくともループはしないでしょうね」

 あるいは、ループしたところで何も変えられない物語。

「とりあえず、わたしにわかるのは」と、彼女は棘のある、それでもどこか楽しそうな声音で言った。

「きみがとてもひねくれてるってことだけですね」

 部長にそんなことを言われるとは思っていなかったから、俺はちょっと傷ついた。

「俺は俺なりに、すごくまともですよ」




「ねえ、土曜日って暇?」

 昇降口を出たとき、当然のように俺と肩を並べて、アメはそう訊ねてきた。

「暇だけど」

「じゃあ、映画観にいかない?」

「映画?」

「気になってるのがあるの。ほら、今CMやってる奴」

 彼女が挙げたタイトルは、最近本屋で平置きされてる日本の小説を原作にした恋愛映画だった。
 まあ、学生が見に行くにはちょうどいい、気軽な感じの奴。たぶん笑いあり涙あり。

「あのさ、だから、どうして……」

「どうして、つきまとうの、って?」

 俺はアメの顔を見た。彼女は真剣な顔をした。

「もう言ったよ。わたし、好きだって」


 彼女の表情は真剣そのもの、のように見えた。
 俺にはよく分からなかった。

「本気で言ってるの?」

 俺はそう訊ねた。自分でも、なぜそこまで彼女を疑わしく思うのか、分からない。

 理由がない。
 彼女が俺を好きになる理由がない。

「本当だよ」

 と彼女は言葉を重ねた。それから俺の目をまっすぐと見据えてくる。

「好きって、なんだよ」

「好きは、好きだよ」

 アメは照れくさそうに笑った。顔を頬を赤らめて。拗ねるみたいに目を逸らして。
 俺は、彼女が怖かった。


「それで」

 と彼女は言葉を続ける。

「映画。どうかな?」

 俺は、気付けば頷いていた。
 彼女は嬉しそうに笑って、具体的な時間と待ち合わせ場所を提示してきた。
 
 夕陽が街を照らしている。
 
 自分の身に今起こっていることが、信用できない。
 これは夢じゃないのか。そう思った。こんなことが起こるわけがないのだ。だから据わりが悪い。

「今すぐじゃなくたっていいし、すぐに信じてくれなくてもかまわない。わたしも唐突だったし」

 でも、と彼女は続ける。

「わたしはヒメのことが好きだし、できたら、付き合いたいって思ってる。返事は、すぐじゃなくていいけど」

 時間が経てば経つほど、俺の頭は混乱していった。自分が何を問題にしているのか、それすら分からない。
 不愉快なわけじゃない。でも、信用できない。心が開けない。

 何が問題なんだろう?




 シロがいなくなったあと、俺はしばらくひとりで空を見ていた。
 飛行機は既に見えなくなっている。
 
 辺りは静まり返っている。気付けば、ベンチに居たはずの猫さえも姿を消していた。

 溜め息をついて、俺は公園を後にする。

 家に帰ると、ダイニングでテレビを見ていた妹が、「どこに行っていたの?」と訊ねてきた。

「散歩」

「この時間に?」

「夜の散歩は、気持ちいいよ」

「そうかもね。麦茶飲む?」

 頷くと、彼女は立ち上がり、俺の分のコップを用意して、麦茶を注いでくれた。




 麦茶を一気に飲み干すと、彼女はちょっと感心したような声を漏らした。
 
「ありがとう」と俺は言う。
「どういたしまして」と妹は言う。

 それから彼女は、ちょっと真面目な顔になった。

「なにか、考え事?」

「どうして?」

「お兄ちゃん、悩みがあるときは、歩く癖があるから」

「……そう?」

「そうだよ。いつも」

 煩わしくなったのか、彼女はリモコンを手に取ってテレビを消した。部屋の中から音が消える。
 静かな家。空虚な家。誰かのせいでからっぽになった家。



「もしかして、この間言ってた話と関係ある? 告白されたっていう」

「おまえには本当に、敵わないよ」

「また、何か言われたの?」

「……好きだって、はっきり言われた。付き合ってほしいって」

 妹は「ふうん」という顔をした。珍しいこともあるもんだ、というような。

「一緒に映画、見に行くことになった」

「ふうん……。何を悩んでるの?」

「自分でも、よくわからないんだよ」

 俺の答えに、妹は黙り込んでしまう。少ししてから、苦笑した。

「それは、困ったね」

 ほんとうに困ったね、と言いたげに。


「その人のこと、好きなの?」

「好きじゃない、と、思う」

「じゃあ、断るの?」

 そう訊ねられて初めて、そうか、断ればいいのか、と気付いた。
 その発想が、なぜか、まったく思い浮かばなかった。

「何か、気になることがあるの?」

 妹は不思議そうな顔で俺を見上げた。

「気になるっていえば、気になるんだ。どうして俺のことなんて好きになったのか」

「ふうん。へんなの」


 でもさ、と妹は言葉を続けた。

「気になるなら、訊いてみたらいいんじゃない?」

「訊いてみたよ」

「ちゃんと?」

 ちゃんと、か、どうかは、分からない。
 妹は何かを察したみたいに溜め息をついた。

「一度、真正面から話してみたらいいと思う。誰かに好かれるのって、べつに悪いことじゃないよ」

 彼女の言葉に、俺は強い抵抗を覚えた。なぜなのかは、分からないけど。

「本当にそう思う?」

 挙げ句俺は、そんな質問までした。

「思うよ。お兄ちゃんもそろそろ、彼女のひとりくらい、作ってもいい頃だよ」

 まるで、妹じゃなくて親みたいな発言だ。


「俺には、そういうの、よくわからないんだよ」

「そういうのって?」

「誰かと付き合うとか、付き合わないとかさ」

 妹はぼんやりとした様子で「うーん」と唸ってから、言う。

「……本当のところ、みんな分かってないのかもしれないよ」

 やけに大人びた声だった。

「恋愛感情だって、最初からそれだと自覚できるものじゃないのかもしれない。
 最初はなんとも思ってなくても、一緒にいるうちに、居心地がよくなって、好きになっていくかもしれない。
 そういう形だって、べつに悪いものじゃないって、わたしは思うよ。深く考えることなんてないと思う」
 
 その言葉に感心しつつ、ぼんやりと妹の手を見ていた。小さな手のひら。
 妹は、何気ない調子で言葉を続ける。

「それとも、他に好きな人でもいるの?」

 俺は、うまく返事ができなかった。





 土曜日、俺とアメは映画館にやってきていた。
 見慣れない私服を着たアメは、そわそわとして落ち着かない様子だった。

 待ち合わせ場所で会ってから、彼女と俺は二言が三言くらいしか話さなかった。
 それ以外の時間はずっと黙っていた。

 余裕をもって到着していたおかげで、上映時間までは時間があった。
 ちょっと休みながら話をすることくらいはできる。

 俺たちはチケットを買ったあと、待合室のテーブルに陣取った。

 この頃になるとさすがに沈黙が気まずくなった。
 俺は話題がほしくて、そこらじゅうに視線をやった。

 話題になりそうなものはたくさんあったけど、どうやって話題にすればいいのかが分からない。
 
 ふと、アメの方に目をやると、彼女は緊張した様子だった。
 自分から誘っておいてこんなに緊張するのもどうなんだ、と思うものの。
 緊張させているのが自分なのだと思うと、申し訳ない気持ちになる。
 
 もっとさばさばした子だと思っていたんだけど。


「そんなに緊張するなよ」

 思わず呆れ気味にそんなことまで言ってしまった。
 アメは即座に顔をあげて、強がるみたいに返事を寄越した。

「緊張なんて、してないよ」

 語尾が少し震えていた。俯いたまま、膝の上で、落ち着かないように何度も手を組み直している。

「それならいいけど」

 あまり深くは追及しないことにして、俺は彼女の様子をぼんやりと眺めた。
 
 かわいい子だ。それは分かる。
 俺のことを好きだ、と言ってくれた。それも分かる。
 順序だって話をすることのできる人。相手の目を見て話ができる人。相手の立場になって物を考えられる人。

「ねえ、どうしてもきいておきたいことがあるんだけど、いい?」

 俺が訊ねると、アメの緊張は強まったようだった。
 こっちまで緊張してしまう。




「……どうして、俺のことを好きになったの?」

 アメは、一瞬きょとんとした顔になった。それからあっけにとられたように、笑う。
 そんなことか、とでも言いたげに。

「そんなに不思議?」

「とても」

 俺はとても真剣に言った。すごく、切実なことだった。

「どうしてそんなことを気にするのか、よくわからない」

「普通、気にすると思う。俺ときみは、話をしたことだってほとんどなかったんだから」

 彼女はちょっとほほ笑んだ。嬉しそうに見えたのは、錯覚かもしれない。

「きみからすれば不思議だろうけど、わたしからしたら、ぜんぜん不思議なんかじゃないんだよ」

 彼女があんまり楽しそうな声で話すものだから、俺は返す言葉に困ってしまった。


「でも、できれば秘密にしておきたいんだ。どうしてもっていうなら、話すけど……」

 俺は少し考えてから、その言葉を遮った。

「いいよ。無理に話さなくて。気にはなるけど、どうしてもってことじゃないんだ」

 ただ、自分で上手く消化できなかっただけで。
 話をしている間に、リラックスしてきたのだろうか。彼女は打ち解けた様子で、俺に話しかけてきた。
 
 学校でのこと。休日の過ごし方のこと。家族のこと。そんなとても些細なこと。

 やがて時間が来て、俺たちはシアターに入場した。
 立ち上がるとき、俺は彼女ともっと話していたいと思っている自分がいることに気付いて、戸惑った。

 いつのまにか、滲むような気味の悪さが湧くこともなくなった。
 納得したのだ、俺は。




 帰りの別れ際、アメは「今日はありがとう」と言った。
 何もしていない、というべきか、こちらこそありがとう、というべきか、分からなかった。

 結局口から出せたのは、

「ああ、うん」

 そんな曖昧な言葉だけだった。

「ねえ、もしよかったら、なんだけど……」

「なに?」

「夏休みに入ってすぐ、お祭りがあるでしょ?」

「……商店街の?」

「そう。できれば、一緒に行ってくれないかな?」

「……いいの?」

「なにが?」

「俺で」


 彼女はちょっと呆れたみたいに笑った。

「きみと一緒がいいんだよ」

 それから、一瞬だけ躊躇うような表情になったけれど、すぐにそれを打ち消して、彼女は言う。

「できれば、そのときまでに、返事をくれると、うれしい」

 俺は、すぐに答えを返せなかった。
 約束はできない、と、そう思った。

「今日は、楽しかったよ」

 俺はごまかすような気持ちで、そう言った。うそではなかった。
 不思議なほど、楽しかった。

 今日、初めて、彼女と真正面から話をしたような気がした。

 これまで俺は、彼女という個人をまったく見ていなかった。
 彼女という人間を含む、俺を取り巻く状況を見ていただけだった。

 そして、ひとりの人間として見てみれば、彼女はとても魅力的だった。
 明るくて話しやすくて、感情表現が豊かで、表情がころころ変わる。指先の動きひとつひとつに心の機微が現れる。
 その変化は、見ていて飽きない。

 彼女は俺を好きだと言ってくれた。


「それじゃあ、また月曜に」

 彼女は不器用に笑った。いかにも、気恥ずかしさをごまかしたような、取り繕ったような笑み。
 
「ばいばい」

 そして、少し離れてから、こちらに向けて手を振る。

 まるで猫でも見ているような気分になった。

 俺は帰路につきながら、気付けばアメのことばかり考えていた。
 彼女と交わしたひとつひとつの会話とか、彼女の仕草のひとつひとつを思い出したりした。

 そして、自分の単純さに愕然とする。

 たぶん俺は、彼女を好きになりつつある。その考えは、すとんと胸に落ちた。
 でも、そう考えると同時、耳鳴りのような感覚が、俺の聴覚を襲う。
 
 何かを忘れているような気がした。何を忘れているのかは、思い出せなかったけれど。


つづく


◇03-01[FOXES]


 ノックの音で、目をさました。

「お兄ちゃん? 起きてる?」

 起きてる、と俺は答えようとする。でも、口が上手く開かなかった。
 擦れるような足音。妹の声。朝がきたのだ。

「お兄ちゃん?」

 返事をしなかったせいか、妹は戸惑ったような声音で、もう一度俺のことを呼んだ。

「起きてるよ」

 と俺は答えた。
 やけに、胸がざわついて、落ち着かない。
 寝起きなのに、奇妙なほど頭が冴えていた。

 俺は目をさましたときの姿勢のまま、ぼんやりと天井を見上げ続けた。


「……どうかしたの?」

 妹はそう訊ねてきたけれど、俺は答えるかわりに、質問を返した。
 
「なあ、夏休みって、いつからだっけ?」

「どうしたの、急に」

「いいから。いつだっけ?」

 視線を向けると、彼女は不安げな表情をしながらも、答えてくれた。

「……あと、二週間くらい」

「そう、だよな」

 そうだろう。俺の認識も、それで合っている。まだ夏休みまで二週間ある。
 
「夏休みの夢、見てた」

 妹はほっとしたように溜め息をついた。そんなことか、とでもいうような。


「やっぱり、寝惚けてたんだ」

「そう、なんだろうな。たぶん」

 俺の言葉に、妹は呆れたように溜め息をついた。

「まだ、寝惚けてるんだ」

「……うん。そうなんだろうな。妙に実感のある夢だったから」

「どんな夢?」

 俺は答えに窮した。
 クラスの女の子と、一緒に夏祭りに行く夢、なんて。
 そんなことを言われたら、きっと笑われてしまうだろう。




「ひょっとしたら、予知夢ってやつかも」

 司書さんは、さして呆れた風でもなく、そんなことを言ってくれた。

 昼休みに暇を持て余してタイタンと共に図書室を訪れると、彼女はいつものように本の整理をしていた。

「そんな大層なもんじゃないですよ、きっと」

 タイタンは呆れたようにそう言いながら、肩をすくめて、椅子の背もたれに体重をあずけた。
 
「普段から眠りすぎてるから、夢と現実の区別がつかなくなってるんですよ」

 彼はときどき、俺に対して批判的になる。もっとしっかりしてほしい、という親心みたいなものなのかもしれない。
 そういうお節介やきな性格が、彼にはある。

 司書さんは、からからと笑う。

「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」

 そこまで言って、彼女は忘れていた傷が痛んだような顔をした。

「どうかしました?」

 訊ねると、「ううん、何も」と愛想笑いを浮かべて首を横に振る。
 何もないにしては、少し不自然な態度だったけれど、俺もタイタンも、それ以上は何も聞かなかった。


 司書さんは、取り繕うみたいな調子で、話を続けた。

「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
 
 タイタンは「そうかなあ」と不機嫌そうに首を傾げている。彼は俺に、緊張感が欠けていると言いたいのだ。

「そうなんですよ」

 と俺は理解者の出現に嬉しくなって声の調子を高めた。
 司書さんはくすくす笑いながら、持っていた本をぱらぱらとめくって、状態を確認しはじめた。

「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど……」
 
 言葉は、途中で途切れる。彼女の様子はすこしおかしかった。

「……意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」

「……どうしたんですか?」

「なにが?」と司書さんはにっこり笑った。

「さっきから、様子がへんだから」


 俺の言葉に、彼女は観念したように溜め息をつき、額を抑えた。

「なにか気がかりなことでもあるんですか?」

 今度は、俺ではなく、タイタンが訊ねる。

「べつに、そういうわけじゃないと思うんだけど……なんだか、さっきから変な感じがして」

「体調が悪いとか?」

「そういうんじゃないと思うんだけど――ううん、そうかもしれない。頭がぼんやりする」

 彼女は本を棚に置いてから、何か思い悩むように固まったまま動かなかった。

「変な感じがする。……ねえ、前もこんな話、しなかったっけ?」

「こんなって、どんな?」

 俺の問いかけに、彼女は答えなかった。


 しばらく沈黙が続き、図書室に静寂が戻った。
 もともと図書室は静かであるべき場所だし、俺たち以外の利用者は、ずっと黙っていたんだけど。
 一応声は控えめにしてるから、そうそう咎められたりはしない。
 
 司書さんは俺たちでなくても、いつも誰かと話をしているような気がするし、みんな慣れっこなんだろう。

 とにかく、彼女は少しの間黙っていた。少しの間だけだったけど。
 最後には、彼女は苦笑を浮かべて、

「たぶん、きみの寝惚け癖がうつったんだよ」

 と俺のことをからかった。
 タイタンが静かに笑った。俺も一応笑った。
 
 気がかりな夢のことや、司書さんの奇妙な態度のことを考えてしまい、その後はいまいち会話にのめりこめなかった。



 
「すみません」

 と不意に声が聞こえた。カウンターの近くから、ひとりの女子生徒が司書さんを読んでいる。

「はーい」

 と彼女は手に持っていた本を近くの机において、カウンターへと駆けていく。

 カウンターの前に立っている女子生徒。
 俺は彼女のことを知っている。

 子供の頃からの付き合いで、家だってすぐ近所で、昔からよく一緒に遊んだ。

 彼女はこちらを見て、「あ」という顔をした。それから何を言っていいのか分からないような顔をする。
 ぼんやりとした目。眠たげな。

 目が合ったまま数秒が経ち、俺はさすがに気まずくなって、口を開いた。

「おう」

 という俺のよく分からない挨拶に、

「オス」

 と彼女はやる気なさ気に呟いた。戸惑ったみたいに。
 俺は続ける言葉に困ったけれど、彼女はちょっと焦ったふうに、口を動かした。

「久しぶりだね」


 たしかに、彼女と話すのは久しぶりだった。最後に話したのは、いつだったか。
 少なくとも春先までは、まだ普通に言葉を交わしていたんだけど。

「……何か、借りるの?」

 訊ねると、彼女は「返すの」と答えながら、本を司書さんに差し出した。

「ねえ、喧嘩したの?」

 彼女は、不意にそんなことを言った。誰とのことを言っているのか、俺にはすぐに分かった。

「べつに、そういうわけじゃないよ」

「……だったら、いいけど」

 本当に、喧嘩したわけじゃない。
 俺と幼馴染の会話は、妙に途切れ途切れだった。

 そうこうしているうちに、司書さんは手続きを終わらせた。
 彼女は「それじゃ、行くから」とだけ言って、こちらに背を向ける。

「おう」と、俺はまたよく分からない挨拶をした。




 放課後になって、俺は、部活に出ようか帰ろうか迷っていた。

 意味もなく幼馴染の方を見ると、目が合う。

 彼女は鞄を持って、教室を出ようとしているところだった。

「待ってよ」

 彼女は教室の外の誰かに向けてそう言った。
 そして、俺に向けて短く手を振って、口を「ばいばい」と動かした。
 ばいばい、と俺も口を動かした。彼女は満足したように頷いて、教室の外の誰かを追いかけた。

 放課後になってまだ少ししか経っていないから、結構な数の人間が教室に残っている。

 
 席についたまま、俺は今朝見た夢のことを思い出そうとしてみたけれど、もう輪郭すら蘇らなかった。 
 漠然とした印象だけが、頭の奥の方で疼いている。



 俺はしばらく、意味もなくクラスメイト達の会話を聞いていた。
 すぐには、立ち上がる気になれなかったのだ。

「そういえば、見つかったの?」

「なにが?」

「自転車の鍵」

「それが、見つからなかったんだよね。結局昨日、学校に自転車置いて帰っちゃった」

「どうするの?」

「大丈夫。今日は合鍵を持ってきたから」

 替えがきくというのはすばらしいことだ。
 
 さて、と俺は立ち上がった。タイタンは既に部活に向かった。
 夏休みが近いし、俺も今のうちに部室に顔を出しておこう。そう思いながら、教室を出た。


251-9 言われたら → 言ったら

つづく




「また、事故ですか?」

 部室に行って定位置に座り、リレー小説用のノートを開くと、部長が静かに近付いてきて、そう訊ねてきた。
 俺は一瞬戸惑って、部長の顔を見た。
 
 部長は、俺のその態度がよっぽど不思議だったのか、わざとらしく首をかしげてみせる。
 一瞬遅れて、俺は彼女の言葉がノートの内容についてのものだと気付いた。

「ああ、いえ……どうなってるかなって、開いてみただけなんです」

「ふうん?」

 部長は少し意外そうな顔で、傍にあったパイプ椅子に腰かけた。
 俺の隣から、彼女はノートを覗き込む。
 
 邪魔になった髪を耳に掛ける何気ない仕草に、妙にどきりとさせられる。
 彼女は一瞬だけ、ちらりと俺の方を見ると、何かに気付いたようにいたずらっぽく笑った。

「どうしました?」

「近いです」

 と俺は正直な気持ちを言った。


「失礼しました」

 と部長はくすくす笑いながら距離を取り直して、俺の前に置かれていたノートを自分の方に引き寄せる。
 からかわれてるんだろう。

 彼女はぼんやりとした表情で紙面を眺めはじめる。

「ループ、してますね」

 その言葉が、なんだか妙に気になった。
 物語の中で、不良が死んでしまった。主人公の意識は暗転し、生活が繰り返される。
 
「……ですね」

「いいかげん、不毛ですよね」

 彼女は溜め息をついた。


「そうは言っても、リレーですし、何もないところから始めたわけですから……」

 しっかりとした結末になんて、最初からなりっこない。俺はそう言おうとしたつもりだった

「だからこそです。みんながみんな納得できるような結末なんて、ないんですよ、こんなの」

 部長の声は、いつもより少し硬質だった。ほんの少しだけど、彼女が苛立っているような気がした。

「みんながみんな思い通りの結末にしようとしても、無理なんです」

 開け放たれた部室の窓から、柔らかい風が吹き込んできて、カーテンを揺らした。
 部室に集まった何人かの部員たちの、ざわざわという話し声。

 車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出す。
 同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかる。

 どちらかが、ブレーキを踏まないといけない。進路を変えないといけない。

「じゃあ、どうするんですか?」

 俺が訊ねると、部長は困ったみたいに笑った。不思議と、泣きだしそうにすら見えた。
 彼女のことは、よくわからない。何を考えているのか。
 


「そろそろ、終わらせてもらうつもりだったんです」

 彼女は、ノートを畳んで、そう言った。

「いつも書いてくれてる人に話して、どんな結末がいいか、相談してもらって、それで……」

 だとすれば、そう間を置かずに、無難なエンディングを迎えることになるだろう。
 俺はふと気になって、こう訊ねてみた。

「部長は、どんな結末が良かったんですか?」

 彼女は何秒かの間、じっと押し黙った。聞こえなかったのかと思うくらい、自然な沈黙が続く。
 それから、彼女は静かに口を開き、小さな声で、「きみと同じですよ」、と言った。

「……最初から、どうでもよかったんです。他人事にしか、感じられませんでしたから」

 まるで見透かしたみたいな言い方だった。そして、それは合っていた。

 たぶん俺と部長の間には、どこかしら似通った部分があるのだと思う。
 彼女も俺も、そのことに対して自覚的だった。その認識を、互いに共有しあっていた。言葉もなく。
 あるいは、俺の妄想かもしれないけど。




「リレーじゃない小説は、書かないんですか?」

 べつに話題を変えようと思ったわけでもないが、なんとなく、そう訊ねる。
 今のままの空気が続いたら、俺自身が妙なことを考えてしまいそうだった。

 部長は取り繕うみたいに笑った。

「書きますよ」

「どんな話ですか?」

「……さあ?」

 困った返事だ。話の続けようがない。
 俺は質問を変えた。

「部長にとって、他人事じゃない小説って、どんなものですか?」

 彼女はむっとした顔で考えこんでしまった。真剣な表情が、なんだか子供みたいに見える。
 普段のような、老成したような、達観したような、大人びたものとは違う。


 彼女はしばらく難しそうな顔で黙り込んでいたけれど、やがて唸るように言葉を吐きだした。

「つまり、他人事じゃない小説っていうのは……」

 まるで、何かを思い出そうとするみたいに、彼女は額を抑えた。

「つまり……」

「……つまり?」

 促すと、部長は苦しげに続けた。

「……"わたし"について、書かれた小説です」

 それはそうだろう、と思ってもいいようなものだけど、俺はその言葉に、いくらか感心した。
 その言葉は的を射ている。「自分のことについて書かれている」と思えない小説は、当然、他人事だ。
 
 フィクションに「他人事」を求める人間もいる。そっちの方が多いくらいだ。
 でも、少なくとも彼女は、「他人事」をあえて書こうとは思わない。そういうことだろう。


 彼女は深い溜め息をついたあと、照れくさそうに笑う。

「ヒメくんは」

 と、彼女は俺を呼んだ。

「書かないんですか?」

「俺ですか?」

「何か、書いてみればいいじゃないですか」

「書いたこと、ないです」

「うそつき」と彼女は言った。

「書いたことない人の文章じゃないですよ。少なくとも、書こうとしたことのある人の文章です」

 たしかに、彼女の言葉は正しかった。俺は書こうとしたことがある。
 でも、俺には無理だったのだ。




 文章は語の集合体だ。語は字の集合体だ。字は線の集合体だ。そして線それ自体に意味はない。

 線はただ線としてそこにあるだけだ。
 たとえば「線」という形に描かれた「線」が、自ら線という意味を手に入れるわけではない。

 線の集合体を字として扱い、字に意味を与えるのは、線そのものではなく、線を眺めている側の存在だ。
 線は本来、線ですらない。

 インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら。それらは物質にすぎない。
 そして物質は意味を持たない。何も語らない。
 音が、単なる空気の震えにすぎないのと同じように。

 けれど人は、空気の震えに、空気の震え以上のものを与えることができる。
 空気の震えから、空気の震え以上のものを掬い取ることができる。

 意味。


 ある人物が、言葉に意味を与える。ある人物が、言葉から意味を読み取る。
 言葉に与えられた意味と、言葉から読み取った意味とが一致する。

 そのとき言葉は、初めて言葉としての役割を果たす。

 言葉は「もの」でも「こと」でもなく、「もの」や「こと」の代理物、代用品に過ぎない。

 言葉の意味は秩序付けられた相対的なネットワークによって管理され、人々の間で共有される。
「猫」は「犬」ではなく、「犬」は「猫」ではない。

 もし秩序がなければ、「犬」が「猫」になり、「猫」が「犬」になる。それは既に言葉として機能していない。
 自由というのはそういうことだ。
 


 文章は言葉によって構築されている。
 そうである以上、文章は「もの」「こと」そのものではない。

「もの」や「こと」の代理物なのだ。
 
 話者が語ろうとする「もの」「こと」は、代理物としての「言葉」という形をとる。
「もの」「こと」が「言葉」という形になったとき、実際の「もの」「こと」に付随する切実な感覚は霧消し、客観的な「言葉」だけが残る。

 このように、話者と聞き手との間には、「言葉」という一見同一のものを隔てた、大きな断絶が走っている。
 話者の文章によって簡略化された「もの」「こと」を、聞き手は完全に理解することができない。
  
 残るのは「誤解」か、「理解したという錯覚」か、「理解できない」という諦念、あるいは軽蔑だけだ。
 
 文章の価値を決めるのは読む側の人間だ。
 彼らが「読む価値がない」と判断すれば、文章はそれだけで意味と価値を失う。
 
 そうなればどんな文章も、インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら、それ以外の何物でもなくなってしまう。
 




 文章によって理解されるなどということはありえないし、文章によって誰かと繋がり合うということもありえない。
 
 言葉は言葉として他者の耳に入ったとき、話者の元から離れ、聞き手のものになる。
 聞き手は言葉を自分なりに咀嚼し、理解し、納得する。
 そのプロセスに話者は必要ない。「文章」に、「話者」は必要ない。

 話者の「もの」「こと」が完全に理解されることはありえない。
 そして聞き手は、その宿命的に不完全な理解によって話者を軽蔑し、嫌悪することさえある。
 
 話者の話し方が稚拙なのかもしれないし、聞き手の耳が遠いのかもしれない。
 あるいは意味の不定性が原因かもしれない。単に立場の違いかもしれない。

 いずれにしても、そうしたやりとりは、俺の神経を段々とすり減らしていく。

 どれだけ言葉を並べても、ほとんど誰とも分かり合うことなんてできない。
 文章は文章であり、話者そのものではないからだ。
 
 ……この話は比喩だ。




「……俺には、無理ですよ。考えようとすると、眠りたくなるんです」

 しばらく考えてからそう答えると、彼女はちょっとがっかりしたように見えた。
 
「残念です」と実際に口に出してもいた。本当なのかどうかは、俺には分からない。

「俺には、自分が何を書きたいのか、まるで分からないんですよ」

「そんなの、誰だって分かりませんよ」

 と部長は間髪おかずに言った。

「書き切ってから分かるんです、そういうことは。
 書き切ってから、『ああ、このときの自分はこんなことが書きたかったんだな』って、ようやく納得できるんです。
 書き始める前から自分が何を書こうとしているのか十全と理解できるなら、何かを書く意味なんてなくなっちゃいますよ」

 彼女の言いたいことがよくわからなくて、俺は黙り込んだ。
 彼女はばつの悪そうに目を逸らしてから、気を取り直すみたいな声で言った。

「そうだ。もしよかったら、わたしに協力してもらえませんか?」



「協力?」

「はい。えっと、知ってますか? 五年くらい前に、小学生の女の子二人が、監禁されて殺された事件」

 知らないわけがない。被害者は、学区こそ違えど、同い年の子供だったのだ。
 避けようとしたって、いやでも耳に入ってきた。

「……この辺りで起きた事件ですよね、たしか」

「うちの市です。それで、その事件で犯人が監禁場所に使ったっていう廃墟の洋館……。
 そこに、近いうちに行ってみようと思ってるんです。場所は、ネットとかで調べて、大雑把には把握してるんですけど」

「……どうして、そんな場所に?」

「都市伝説みたいなものがあるんです。人が亡くなった場所で、ちょっと不謹慎かもしれないですけど」

「どんな?」

「すみませんけど、それは追々。とにかく、わたしひとりで行くと、さすがに物騒かなって思って、躊躇していたんです」

 でも、と彼女は言う。そして俺の方を見る。俺は奇妙な不安を覚えた。
 不安というよりも、予感のような。でも、それとは別に、ほとんど衝動に近い興味もあった。
 


「かまいませんけど」

 答えてから、俺はひどく落ち着かない気持ちになった。
 部長もまた、なぜか不安そうな顔つきをしている。

 それでも彼女は、「ありがとうございます」と言った。

「それじゃあ、今週末にでも」

「休みに入ってからじゃ、ダメなんですか?」

「あんまり時間を置くと、怖くなりそうな気がするんです」

 どうしてそんな場所に行きたがるんだろう?
 俺には、彼女の考えていることが、よくわからない。いつも。

「とにかく、お願いしますね」

 俺は、それでもなぜか、頷いてしまった。

259-6 昨日 → 先週
 
つづく




 俺はバスの中にいる。
 バスの座席に腰かけている。

 バスは静かに移動を続けている。

 街並みは普段よりもずっと低く、小さく、遠く見える。

 乗客たちはやけに静かだった。
 ある人は退屈そうに、ある人は眠たそうに、口を閉ざしている。

 ときどき誰かがわざとらしく咳をした。咳は静かな車内にやけに大きく響く。
 咳が響いた後、バスの中はより一層静けさを増す。

 誰かと誰かが交わす囁き声。

 バスは目的地を目指している。




 隣には、リュックサックを膝の上に抱えた部長が座っていた。
 
 約束の週末、俺と彼女は停留所に待ち合わせして、そのままバスに乗った。
 目的地は部長にしか分からない。

 彼女の私服を見るのは初めてだったけれど、意外にも動きやすそうな、ラフな格好だった。
 それも当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

 目的地は「森の中の洋館」なんだから。

 部長の手首には腕時計があった。
 リュックサックの中身を聞くと、「懐中電灯とか、コンパスとか、乾パンとかです」と真面目な顔で答えてくれた。

 俺たちはバスの座席に隣り合って座ったまま、ぼんやりと移り変わる窓の外の景色を眺めていた。



「一応、今のうちに訊いておきたいんですけど」

 俺はバスの静けさを意識して、小声で言った。彼女は聞き取りやすいようにか、耳元を近づけてくる。
 自然と、頭を突き合せるような恰好になった。隣に座っておいて、いまさらどうという距離でもないのだが。

「都市伝説って、なんなんです?」

 彼女は小さく頷いて、俺の方を見上げた。
 立っていても座っていても、部長の頭は俺の顔より低い位置になる。
 
 私服姿だと、ほとんど小学校の高学年くらいか、せいぜい中学生一年生くらいに見える。
 そのくらいの時期に、彼女の中の時間は流れるのをやめてしまったのかもしれない。

「廃墟になった洋館、当り前なんですけど、もともとは人が住んでいたらしいんです」

「……はあ」

「そんなに大きくはない建物みたいなんですけどね。洋館っていうよりは、洋風家屋、というような」

 ひそめられた部長の声が、やけに距離を意識させた。
 こうしていると、なんだか年下の女の子みたいに思えて、妙に後ろめたかった。


「べつに、別荘ってわけでもなかったみたいなんです。それなのに、結構森の奥まった場所に建っている。
 どう考えても、日常生活を営むには不便なんですけど、そこに家を建てなければいけなかった理由があったみたい。
 もちろん、建てられたのはもうずっと昔のことですから、今とは事情が違ったんでしょうけど」

 人目を避けなければいけない理由があったのか、それとも場所自体に意味があったのか。

「ここからは嘘か本当か分からない、ネットで調べた話です。
 なんでも、住んでいたのは五人。家族構成は、父、母、二人の娘と、一人の息子、だったらしいです。
 もともとは都会で暮らしていたんですけど、息子が重い病気を患っていて、療養の為に、家を建てて越してきた……」

 俺は、黙って彼女の言葉の続きを待った。

「でも、療養といっても、単に空気がきれいだからとか、そういうだけじゃなくて……。
 ……ヒメくん、知ってますか? この街の神様のこと」

「……神様?」

「はい。森の神様」

 急に話が変わってしまった。

「ずっと前からの言い伝えなんですよ。神様が住んでいる森って」

「……有名、なんですか?」
 


 彼女は肩をすくめて笑った。

「逆です、ね。事件が起こって、どうして洋館がそんな場所に建っていたのかって興味をもった人がいたんでしょう。
 そうして調べてみたら、この辺りにはそういう言い伝え、伝承みたいなものが、けっこう残っていることが分かった」

「つまり、洋館が建てられたのは……」

「森に神様がいたからかもしれない、っていうお話です。個人的には、納得がいかないんですけど、そういう説もあるんです。
 子供の病気がそれほど重いものだったのかもしれない。そういう伝承を聞きつけて、藁にもすがる思いで越してきたのかも、と」

 詳細はもちろん分かりませんけどね、と部長は言った。
 それはそうだろう。少し根拠に乏しい。神様が住んでいるからって、家まで建てるか?

「もし事実だとすれば、一家は、神様が本当にいる、と考えられるような根拠を持っていたのかもしれません。
 知り合いが実際に神様に会ったとか。まあ、そのあたりのことは、この話とはあんまり関係がないんです」

「それで、その神様って?」

「願いを叶えてくれる神様、らしいですよ」

「……抽象的ですね」

 部長は頷いた。


「小さな子供を自分の使いにして、願いを持つ人間の望みを叶える……そんな神様です」

「どんな目的で、人の願いを叶えるんでしょうね?」

「そのあたりは分からないです。人間に分かるものなのかどうかも、怪しいですけど」

「でも、じゃあ、その子供の病気は、治ったんでしょうか?」

「治らなかったみたいですよ。数年後に死んでしまったみたいです」

 とあっさりと部長は言った。俺はなんだか裏切られたような気持ちになった。
 でも、冷静に思い返してみれば、俺たちがしているのは「洋館」についての話だ。
「神様」の話の真偽は、今は問題じゃない。

「一家は結局、この街を後にしたそうなんですが、変なのがここからですね」

「変?」

「二人の娘のうち一人が、行方不明になったそうなんです」

「……ネットのうわさですよね?」

「ある程度の客観的事実を踏まえた上での推論や憶測、と言った方が正確です」

 部長の顔はあくまで真剣だった。


「かなり後になっても、その子は発見されなかったらしいです。生きた姿でも、死体でも。
 ……実を言うとこのあたりの話は、この街に住んでいるお年寄りによる言い伝えでもあるんです」

「……言い伝え?」

「つまり、その一家の話がこんなに事細かに知られているのは、ひとつの神隠し譚として、街に語り継がれているからなんです」

「……神隠し譚、ですか」

「神様の庭に我が物顔で家を建てて、その怒りに触れたから、息子は死に、娘がさらわれた。
 そんなふうに読み取っている人もいました。事実はもちろん分かりません」

「それ。そこ、疑問なんですけど、神様の助けを借りようとしている人が、神様の庭に家を建てますかね?」

「そのあたりのことも、ちょっとわかりません。本当はもっと別の事情があったのかもしれない」

「……どんな?」

「人目を避けたい事情ですよ。とにかくそれ以来、洋館はずっと森に残されていたみたいです」

 数年前に事件が起こるまで、ずっと。俺はなんだか奇妙な虚脱感を覚えた。




 俺は気付けば、眠ってしまっていた。

 不思議なことに、俺は夢が夢だとすぐに気付いた。明晰夢。
 
 夢の中で、俺はバスに乗っていた。隣には部長が座っていた。
 部長は窓の外をじっと眺めて、何かを考え込んでいる様子だった。

 乗客はもういない。

 窓の外の景色は、だんだんと人の気配のしない、物寂しいものに移り変わっていく。
 
 うんざりしそうな田園風景。
 部長は何かを見逃すまいとしているみたいに、そこにずっと視線を走らせている。

 ほとんど何かに追い立てられるみたいに、必死そうな顔で。




 そして、肩を揺さぶられて、俺は目をさました。

「つきましたよ、ヒメくん」

 その言葉に目をさましたとき、乗客は既に、俺たち以外にはいなかった。
 俺は一瞬、自分がどこにいるのか、何をしているのか、分からなくなってしまっていた。

 俺は促されるままに立ち上がり、料金を払い、バスを降りた。
 地面に降りてからうんと伸びをして、あくびをする。それから、自分がいる場所を確認した。

 辺りに森はない。

「……ここですか?」

「ここから、少し歩くんです」

 部長は笑いもせずに言った。


 それからお世辞にも「少し」とは言えない距離を歩いた。森というより、辺りの様子は山のようだった。

 田畑と木々、ときどき思い出したように立ち現れる人家。
 俺たちは夏の日差しに照らされながらその中を歩いた。
 
 やがて部長が、森の入口を見つける。木々の隙間にぽっかりと口をあけた、切り開かれたような土の道。

「家屋が立っていた場所に続く道ですから、獣道みたいにはなっていないはずです」

 俺は自分がどうしてこんな場所にいるのか、その理由が分からなくなりつつあった。

 森は、外から見るとそう広そうには見えなかったのに、中に入ってしまうと、その暗さ、深さに吸い込まれそうだった。
 鬱蒼とした木々。日の差し込まない、暗い道。

 しばらく歩いてから振り返ると、森の入口が、ずっと遠くの方で、明るく光って見えた。

 随分と、薄暗い。


 ふと、道の脇の草ががさがさと揺れた。
 そこからひょこりと顔を出したのは狸だった。人間を前にしても、物おじしていない。
 むしろ、怖がっているのは俺たちの方だった。

「狸ですね」

 と、部長は言い聞かせるように言った。「それ以外の何かではない」。

「そういえば、ヒメくんは……」

 まるで沈黙のまま歩き続けることが苦痛だというみたいに、部長は口を開いた。
 ざわざわという風の声が、今だけはすごく気分を落ち着かなくさせる。

「猫を、助けたことがあるんですよね?」

「……何の話ですか?」

「子供の頃に、轢かれそうになった猫を助けたことがあるって、聞きました」

「……ああ。まあ。結果的に自分が轢かれそうになりましたけど」

「そうなんですか?」


「どんな気分なんだろうって思ったんですよ」

「……何がですか?」

「つまり、身を挺して何かを庇うっていうのは、どんな気分なのかって」

「……どんな気分、だったんですか?」

 俺は少し考えた後、首を横に振った。

「一種の自己犠牲、みたいなものだと思ってたんです。ああいうのは。俺の場合は違ったけど」

「なんだったんですか?」

「俺は、犠牲にして惜しいほどの自分なんて、最初から持ち合わせちゃいなかったんですよ。
 たとえば、赤信号の横断歩道の前に立っているとき、誰かが背中を押してくれたらなって思うじゃないですか」

「……」
 
「そういうのと同じなんです。つまり、死ぬための大義名分というか、そういうものが欲しかっただけ。俺の場合は、ですけど」

 部長は返事をしてくれなかった。俺は自分が何を話しているのか、よく分からなかった。
 森の空気は澄んでいるはずなのに、ひどく澱んでいるように感じられた。

つづく




 バスを降りたときには既に、部長は眠たげな雰囲気すら残していなかった。
 自分の手で荷物をもち、自分の足で立って歩いていた。

 そしていつもみたいなよそよそしい敬語を使って、俺との距離を取り直した。

「今日はありがとうございました」と部長は言った。

 俺はなんと答えていいか分からずに、うなずいた。
 結局、今日一日をかけて俺たちがしたことは、いったいなんだったんだろう。

 徒労とまでは言えない。部長はあれだけのことで納得できたのだろうか? 
 でも、ほかにどうすることができたんだろう? その答えも分からなかった。

 夏の夕暮れは日が沈むのが遅くて、空はまだ暗くなりきってはいなかった。
 俺たちは停留所でしばらく向かい合い、黙り込んでいた。


 何かを、言わなければならない、と思った。
 でも、何を言えばいいのか、分からない。

 何を言えばいいのか、分かったところで、どうせ伝わらない。
 知ったようなことを言っていると、軽蔑されるのがオチだ。

 部長の顔は、夕陽の逆光のせいで、よく見えなかった。

「もうすぐ、夏休みですね」

 そんな、間を持たせるみたいな世間話を、彼女は急にはじめた。

「はい」

「来週、部活、出ますよね?」

「はい」


「何かを……」

「……はい?」

 彼女は少しだけ間を置いた。緊張したような様子で。

「何かを、書いてみる気はありませんか?」

「……どうしてです?」

 彼女は困ったように笑った。みんな、俺を前にすると、そんなふうに笑う。
 子供の相手をしているみたいに。

「興味があるからですよ」

「そうですか」

 俺はどう断るべきか迷った。 
 普段なら、部長はそんなことは言わなかっただろう、と思う。
 でも、今日、彼女は少し疲れていた。だから、そんなことを言ったんだろう。



「なぜ、書くのをやめたんですか?」

 彼女の質問は唐突で、だから俺は一瞬、その文脈が読み取れなかった。
 部長の中ではどうやら、俺が何かを書いていた人間だということは――事実として扱われているらしい。

「なぜでしょうね?」と俺は訊き返してしまった。はぐらかすつもりもなく。
 ただ、本当に自分でも分からなかったのだ。

「たぶん、書くことに疲れたんだと思います」

「どうして?」

「楽しくなかったから」

「最初から?」

「……楽しくなくなったから」

「どうして?」

 どうしてだろう?


「きっと書くことがそんなに好きじゃなかったんでしょうね」

「わたしもですよ」と彼女は言った。

「おそろいですね?」と続けて笑う。ばかばかしさに俺も笑った。

「誰かを軽蔑するつもりなんてなかったんですよ」と俺は言った。

 部長は少しだけ眉を寄せた。言葉の意味を、上手く掬い取れなかったみたいに。

「でも、書いていると、段々といやになってくる。何も伝わらなくて、それはきっと俺のやり方の問題なんだろうけど。
 技量の、問題なんだろうけど、でも、嫌になってくるんです。誤解されて、決めつけられて、見くびられて……」

 その程度のものしか、書けなかった、という意味なのだけれど。

「それでも、好きなように書いてみようって思ったんです。好きなようにやってみようって。
 でも、やっぱり、違うんですよね。誰も思った通りには受け取ってくれない。
 だから人に見せるのが嫌になったんですよ。心底いやになったんです」


「理解者がほしかったんですか?」

「そうじゃないと思っていたつもりだったんですけどね。そうなのかもしれない。
 よくわからない。それ以前の問題なのかもしれない」

「それ以前……?」

「結局、方法論がすべて間違っていたのかもしれないってことです。対象化に失敗している。
 本来、そこに求めるべきじゃないものを求めていたのかもしれない。つまり、何もかもすべて間違っていたんですよ。
 誰もそんなものを求めていなかったし、俺だって本当はそんなものを書きたいわけじゃなかった」

「でも、書いた」

 俺は頷いた。彼女は首を傾げた。

「どうして?」

 どうしてだろう?

「きっとそれ以外に何もなかったんでしょうね」

 俺の答えに、彼女は溜め息をついた。


「書いていると、段々不安になって、追いつめられてくるんですよ。
 楽しくなんてないし、いつも怯えてるし、段々自分の無知とか、非常識さとかを、責められてるような気がしてくる。
 書き終えたところで達成感なんてない。あるのは虚脱感だけ。
 誰かが褒めてくれるわけでもないし、誰かが感心してくれるわけでもない」

「……それでも、何作も、書いたんですよね?」

「書きました。ぜんぶ無意味でしたけど」

「……どうして、そんな苦痛なだけの作業を続けてきたんですか?」

「さあ? 書き終えてしばらく経つと、どうしようもなく不安になるんですよ。
 とにかく何かを書かなきゃいけない、と思う。それだけでした」

「今は?」

 俺はその質問には答えなかった。

「逆に聞きたいんですけど、部長はどうして書くんですか?」

「どうして?」と彼女は鸚鵡返しした。考えたこともなかった、というような表情。 



「考えたこともなかった」

 部長は顔と同じことを口でも言った。

「冷静に考えてみれば」と俺は言う。「書く理由なんてなにひとつないんですよ」

 好きでもない。必要でもない。なにかがもたらされるわけでもない。
 なら書かなければいい。

 部長は黙り込んでしまった。
 日が沈む。俺たちは無言の中で向かい合っている。

 彼女はきっと疲れている。
 それでも口を開いて、言葉を続ける。それは俺がやめたことだった。

「寂しくないですか?」
 
 俺は答えなかった。




 部長と別れて家に帰る頃には六時を回っていた。
 
 ひどく疲れていた。

 妹は玄関までぱたぱたとやってきて「おかえり」と言った。「ただいま」と俺は答えた。
 彼女は俺から荷物を受け取ろうとしたけれど、俺は荷物という荷物を持っていなかった。
 なにひとつ持っていなかった。

「なんで急に出迎えなんてするの?」

 そう訊ねると、彼女はちょっと首をかしげた。

「新婚さんごっこ」

「だと思う」とでも言い出しそうな、曖昧な表情。
 俺たちは一人二役の生活をしている。欠けた穴を埋め合わせるみたいに。
 
「どんな気持ちになる?」

「分からないから、してる」

 そうだろうね、と俺は言った。ダイニングを抜けてキッチンに向かい、手を洗ってから冷蔵庫の中身を探る。
 夕飯の準備を始めないといけない。


「ご飯なににするの?」

「うーん……」

 妹の問いかけに対して、俺は迷った。
 今日は遅くなるかもしれないと分かっていたから、あらかじめ買い物は済ませていた。
 それでも夕食の時間に間に合うのかどうか怪しかったから、インスタントのものも用意はしてある。

 正直体が重いから、手抜きしてしまいたいところなのだが。
 自分の都合で手を抜くのも、なんだか悪いという気もする。

「何が食べたい?」

「わたし、肉食系女子」

 真面目な顔でそんなことを言われて、俺は少し戸惑ってしまった。
 虫も殺しそうにない顔をしているくせに。

「じゃあ、生姜焼き」

 俺の提案に、彼女は、うん、と頷く。

「わたしも手伝う」

「ありがとう」

 どうして頭が痛むんだろう。




「今日はどこに行ってたの?」

 夕飯の席で、妹は当たり前みたいに訊いてきた。

「デート」と俺は答えた。彼女は興味なさそうに頷いた。

 それから少し沈黙が続く。食器が鳴る音。淡々としている。
 
「今日、少し暑かったよね」

 沈黙を嫌ったように妹は口を開く。うん、と俺は頷いた。
 エアコンの排気音。妹はまだ言葉を続ける。

「テレビつける?」

「え? ……いいよ」
 
「……ねえ、何かあった?」

 俺は黙った。


「変だよ、少し」

 真剣な顔。どう誤魔化そうか、と俺はとっさに考えていた。そう考えている自分に気付いて嫌になった。

「何もないよ」

「嘘」

「本当」

 妹は溜め息をついた。

「嫌なことでもあったの?」

「まさか」

 俺の答えに、彼女はむっとした顔になる。
 何を言えっていうんだ? 言えるようなことなんて何も起こってない。
 いやなことなんてひとつも起こっていない。

 伝えるべきことはひとつもない。
 結局妹は、その後食事を終えるまで、一言も言葉を発さなかった。




 夕飯の片付けを済ませてから、俺は公園に散歩に出かけた。

 どこかから悲鳴が聞こえてきそうなくらい静かな夜だった。
 
 日はとうに沈み、人家と街灯の灯りだけが道を照らしている。
 週末の夜。

 公園にはシロが居た。

「こんばんは」と彼女は笑う。「こんばんは」と俺も返す。空の端に赤い明滅。
 飛行機は飛んでいく。

 彼女はベンチに座っていた。街灯の光にまとわりつく羽虫の気配。
 景色が淡く光をまとっている。

「ここにいると思ってたんだよ」と俺は言った。

「わたしに会いたかったの?」

 不思議そうな声。俺は「そう」と頷いた。彼女は笑った。

「どうして?」



「きみは俺に対して、何か隠していることがあるんじゃないかと思って」

「隠す?」

「つまり、きみは、俺について何かを知ってるんじゃないか」

「なにかってなに?」

 シロの笑い方は技巧的だった。技巧的に隠されていた。せせら笑うような響きが。

「それがなにかは分からないけど、きみは俺と会ったことがあるんだろ? この間より、もっと前にも」

 空には月が浮かんでいた。夏の夜なのに、なぜだろう、寒気がするほど空気が冷えている。

「ねえ、神様のこと、信じた?」

 シロの問いかけは唐突だった。俺は肩をすくめた。

「半信半疑」

「半分は、信じたんだ?」

 俺は答えなかった。シロは退屈そうな顔をする。


「神様はね、すごい力を持ってるの」

 ずいぶん抽象的な話だったが、俺は口を挟まなかった。
 シロはベンチに腰かけたまま、ぼんやりと空を見上げながら、言葉を続けた。

「生まれつき持ってたんだって。そういうのを。それがどんどん強まっていったんだって。
 死んでからよりいっそう、力が強くなっていって、今も強くなり続けてるんだって」

「……今“死んでから”って言った?」

「神様、むかしは人間だったんだって。死んじゃったけど」

 どういうことなのかよくわからなかったけど、俺は考えるのをやめた。
 考えたところでどうしようもなかった。

「神様は、人の願いを叶えてくれる。それが自分の役目だと思うからって言ってた。
 だからね、わたしの願いも叶えてくれるはずだったの。でもわたしの願いは、ちょっとダメなんだって」

「……ダメ?」

「難しいって言ってた。たぶん無理かもしれないって」

 シロはちょっと冷めた顔をしていた。諦念。


「でも、ひょっとしたらできるかもって、教えてもらったの。
 神様の力は、人の願いを叶えて集めるたびに、強まっていっているらしくて。
 だから、願いを集めれば、わたしの願いもいつか叶えられるようになるかもって」

「だから、協力している?」

「そう。いつになるか分からないって、神様は言ってた」

 奇妙な話だった。
 何よりも奇妙なのは、俺が納得しつつあることだ。

 なんとなく信じてしまっている。シロには、その話を信じさせるだけの雰囲気があった。
 
「わたしは神様の力を分けてもらって、その力を使って、願いを集めてるの」

「願いを集めるって、どういうこと?」

「つまり、願いを叶えるの。たくさん。そうすることで、蓄積されていくの」

「蓄積?」

「集めるっていうよりは、溜めこむっていう方が近いかもしれない。なんというか、強い感情みたいなもの。
 そういうのが一番力になるの。でもべつに、誰かからもらうわけじゃない。自分の中から出てくるの」

「よく分からない。誰かの願いを叶えることで、強い感情が蓄積されていって、それが力になるってこと?」


「そういうこと。その強い感情が、蓄積された感情が、願いを叶える力になるの。 
 つまり、世界を変える力になるわけ。そういうものだけが、力になり得るの」

「たとえばどんな感情?」

「嫉妬と憎悪かな」と、シロはあっさりとした声で言った。
 それからちょっと気まずそうな顔をする。弟からもらったプレゼントが気に入らなかったみたいな顔。

「愛情とか憐憫でも、べつにかまわないんだろうけどね。どんなものでも、それがエネルギーになり得るなら。
 でも、ほら、たとえ誰かの願いが叶ったとしても……それはわたしの願いが叶ったってわけじゃないから」

「誰かの願いを叶えることで、きみは嫉妬のエネルギーを蓄積していっている?」

「基本的にはね」 

 そうだとすれば、それはかなり入り組んだ、倒錯した構造だと言えそうだ。
  
「きみは、俺の願いも叶えたの?」

 シロはしばらく黙っていた。べつに答えたっていいんだけど、答えなくても問題ない、というような曖昧な沈黙。
 
「だって、きみは言ったよね。願い事はひとりにつきひとつまでだから、俺のお願いをきくわけにはいかないって」
 
 ああ、そんなことも言ったっけ、とでも言うような、どうでもよさそうな溜め息。


 どうしてこんなに、話している感覚が他人事のようなんだろう?
 シロと俺との間には、すごく距離がある。壁でもいい。断絶でもいい。とにかく大きな裂け目がある。
 立場が違う。対等じゃない。

「そうだね、叶えたんだよ。ひとつ」

「どうして俺はそのことを覚えていないんだ?」

「わたしの都合としては、そんなことは考えないでいてくれた方がうれしいんだけどね」

 シロは飽き飽きしたとでもいうふうにベンチの背もたれに体重を掛ける。
 
「覚えていようが覚えてなかろうが、とにかくわたしはお兄さんの願い事を叶えたんだよ。
 まあでも、ちょっといろんな都合が重なって、わたしと神様も、その中に閉じ込められちゃったみたいなんだよね」

「……もっと分かりやすく話してくれないか?」

 空気が、やけに張りつめているような気がした。
 目の前にいる少女は得体の知れない力をもっている。でも問題はそこじゃない。

「わざと分かりにくく話してるんだよ。そんなに長くは続かないと思うけどね。
 安心してほしいのは、べつにこれはお兄さんの願い事の結果じゃないってこと。
 お兄さんはまったく無関係の、巻き込まれちゃっただけの、赤の他人だから。
 でも、同じ時期に叶えちゃったから、わたしも一応様子見してるだけ」



 俺には彼女の言っていることがうまく掴めなかった。
 わざと分かりにくく話している、というように、きっと彼女には伝えるつもりがなかったのだろう。
 伝わらなくてもいい、と思いながら話している。
 
 その姿は不愉快だった。でも、不愉快になる資格を、俺は持っていなかった。
 なぜなのかは分からないけど、俺は彼女に対して、何かを言う権利を持っていない。直感的にそう思っている。
 
「どうして、俺にはきみに願いを叶えてもらった記憶がないんだろう?」

 俺は同じ問いを繰り返した。

「そういう願いだったからだと思うよ」
 
 彼女は簡単そうに答えてくれた。ほとんど答えになっていない。

「お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから」

 ひどい言われようだった。記憶がないから、何を言われても他人事のようにしか感じない。
 でも、なぜだろう? ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。


 不意に、空気が緩んだ。しんと冷え切った異界のような夜の底が、ふと日常の光景へと切り替わる。
 ただの、夜の公園へと戻る。近くの家から家族の笑い声が聞こえた。

 景色は何も変わっていない。でも何かがさっきまでとは違っている。
 その変化はごく些細なものだったけど、すごく自然に世界の在り方すべてを変えてしまった気がした。
 気配の移り変わり。ざわめき。そういう一瞬がときどきある。ちょうど今だった。

 シロが、公園の入り口に視線を向ける。俺はそれを追いかける。
 そこに妹が立っていた。

「お兄ちゃん?」

 と、彼女は俺に向けて声を投げかけた。俺はとっさにどう返事をしていいのか分からなかった。

「ああ、そうなんだ」、と、シロが小さな声で言うのが聞こえた。

「え……?」

「なんでもない。わたし、帰るね」

「どこに?」と俺はとっさに訊ねてしまった。訊ねてから、強い罪悪感に駆られた。
 シロの技巧的な笑みに、一瞬だけヒビが入った気がした。彼女は傷ついたのだ、と俺は思った。

「ばいばい、“お兄ちゃん”」

 最後にわざとらしい皮肉を残して、彼女はあっというまに公園を去っていった。




「さっきの子、誰?」

 妹は公園の中で立ちつくす俺に歩み寄ると、まずそう訊ねてきた。

「このあたりの子?」

「みたいだね」と俺は答えた。

「友達なの?」

「まあ、そうかもしれない」

 本当のことを言っても信じてもらえないだろうと思って、俺は嘘をついた。

「こんなところで何してたの?」

「話をしてただけだよ」

「本当に?」

 と妹は言った。からかうみたいに笑いながら。
 たぶん冗談のつもりだったんだろう。冗談になっていなかったけど。


「どうしてきたの?」

「べつに、ちょっとした散歩みたいなもの」

 妹は当然のように言った。俺は溜め息をついた。
 嫌だったわけではない。嬉しかったわけでもない。

 ただなんとなく、落ち着かない気持ちにさせられる。
 でも、そんな気分でさえ、さっきまでの、シロと話しているときの気分と比べれば、だいぶマシだった。

「ねえ、本当に……」

 彼女は俺の顔を見上げた。

「本当に、今日、何もなかったの?」

「どうして、何かあったって思う?」

「分からないけど……」

 俺たちは公園を出て、家へと戻る道を歩き始める。


 妹は俺に対して何かを言おうとしていた。考えながら歩いていた。
 俺は彼女の言葉を静かに待つ。たぶんあまりよくないことを言われるんだろう、と思いながら。

「ときどき、お兄ちゃんはわたしのことをすごく遠くに見てるって感じるときがあるの」

「遠く?」

「うん。つまり、何かを間に挟んでるっていうか」

 上手く言えないけど、とにかく、“何か”があるんだ、と彼女は言った。

「よく分からないな」

「そうかもしれない。わたしの気のせいなのかも。でも、ときどき思うの」

 彼女は立ち止まって、俺の掌を掴んで、じっと見た。
 俺はとっさに腕を引いて、彼女の手を弾いた。

 数秒の沈黙。

「急に、どうしたんだよ」

「どうして、手を握られただけで怯えるの?」

 妹はまっすぐ俺の目を見据えて、そう言った。射るように鋭い視線。
 そこに攻撃的な意味が含まれていると感じるのは、きっと俺の感じ方の問題なんだろう。
 彼女の言葉を、すぐに否定したかったのに、できなかった。

 俺はなにも答えられなかった。

つづく


「……話したいことって、なんですか?」

 校門を出た後、部長は俺の横を歩きながらそう訊ねてきた。

 とても当たり前のことなのだけれど、彼女からすれば、自分の隣に俺がいるように見えているのだろう。
 人が見ている景色はそれぞれ違う。

「話したいこと?」

 と俺は訊ね返した。我ながら白々しい問いかけだった。
 部長は怪訝そうな顔になる。それはそうだろうな、と思いながら、俺は黙った。

「さっき、話したいことがあるから、一緒に帰らないかって」

「……ああ、そのことですか」

「そのことですか、って」

「嘘です」

 部長が息を呑んだような気がした。
 蝉の鳴き声が通りを覆っている。
 


 沈黙。部長は、立ち止まってしまった。そして傷ついたような顔をする。
 その表情は技巧的には見えなかった。本心から傷ついているように見えた。
 でも、どうなのだろう、そう見えるだけのことかもしれない、あるいは見た目よりずっと傷ついているのかもしれない。

 そんなことが誰に分かるって言うんだろう。

 俺もまた立ち止まり、部長の顔を見つめ、この人はどのように苦しんできたのだろう、と考えた。
 もちろんそんなことを考えたところで仕方なかったけれど、そう考えたくなった。

 俺の方をまっすぐと見つめて、彼女は口を開く。

「わたし、帰りますね」

 怒ったような、呆れたような、失望したような、そんな声音。
 取ってつけたような、悲しい笑顔だった。
 彼女は早足で俺の横を通り過ぎ、道をまっすぐに進んでいく。いつもよりずっと速いスピードで。

 俺は少しの間黙り込んだ。部長の後ろ姿を目で追うことすらしなかった。
"俺は何かを言わなければならない。""そのことはちゃんと分かっている。"
 
 それなのに俺は黙り込んだままだった。
 何かを言わなくてはならないのに。それは分かっているのに。
 言葉が出ない。



「――待ってください」

 かろうじて吐き出した言葉。意味のない言葉。縋るような言葉。
 でも、それは厳密に言えば言葉ではなかった。音だった。意味のない音。

 部長は、けれど、その音に立ち止まり、振り返って、俺の顔を見た。

 よっぽど、惨めな顔をしていたんだろうか、彼女は俺の方を見て、心配そうな顔すらした。
 
「待ってください」、と俺は繰り返した。声が震えていた。どうして俺の声が震えたりするんだろう。

 理由なんて、ない。俺の声が震えたりする理由。
 それなのに、俺の声は、自分でも分かるくらい震えていて、細くて、消え入りそうだった。
 
 俺は、なにもかも全部やめにしてしまいたいような、惨めな気持ちになった。

 部長は立ち止まったまま、何も言ってくれなかった。俺たちはしばらく、その距離を保ったまま、視線を合わせていた。
 その間も、俺は必死に、何かを言わなくては、と考えている。

 もはやこれは、一種の欠陥だな、と俺はそう感じた。欠陥。すとんと胸に落ちる。
 自嘲の笑みすら出てこなかった。頬の筋肉が引きつるような感覚。





 俺の母親は六年前、道路に飛び出した俺を庇って交通事故で死んだ。
 俺を庇って死んだんだから、事故というよりはもはや事件だった。殺したのは俺だ。

 俺のせいなんだよ、と当時の俺は言った。妹はわけもわからずに泣いていて、父親は呆然としていた。
 なんていうか、遠い目をしていた。何が起こっているのか掴みとれないような、そんな顔。

 俺のせいなんだ、と俺が繰り返すと、父親はぼんやりとした視線をこちらに寄越した。

 俺が道路に飛び出したんだよ、と説明を付け加える。まだ足りないような感じがした。
 車が来ているって分からなかったんだ。俺のせいなんだ。

 父親は俺のことを怒るだろうと思った。子供が悪いことをすれば親は怒るものだから。
 でも父親は怒らなかった。自分がどんな顔をすればいいのかも分かっていない様子だった。

 おまえのせいじゃないよ、と父親は冷えた声で言った。おまえのせいじゃない、と繰り返す。
 彼は間違っていた。でももっと間違っていたのは俺だった。
 問題は「誰のせいか」じゃない。「何を失ったか」だ。

 父は母の死以降、家に居る時間を少しでも減らしたいかのように仕事に打ち込んだ。
 帰ってきても真っ青な顔で苦しそうな溜め息をつき、ソファで瞼を閉じるくらいしかしなくなった。

 父とはろくに顔を合わせなくなった。こちらから話しかけることもできなかった。
 俺は妹から両親を奪った。そのようにして今も生きている。毎朝妹に起床の手助けを起きている。現実。




 言葉はなにひとつ思い浮かばなかった。
 部長はさっきまでと変わらない目で俺の方を見ている。たぶん俺の言葉を待っている。
 
 でも俺には言えることなんてひとつだってない。

 部長はふっと俺の方から顔を逸らして、歩くのを再開した。
 俺はそれを追いかける。

「ヒメくんは、小説を、書かないんですか」と、少し歩いてから、部長は言った。

 俺はとっさに上手く答えられなかった。どんなふうに返事をするのが正しいのか、分からない。

「わたし、なんとなく、分かりました。きみは、書きたくなくなったんじゃなくて……」

 書けなくなったんですね、と彼女は言う。

「もしかしたら、本当は最初から、書けなかったんじゃないですか?」

 俺が何も言えずにいると、部長は小さく溜め息をついて、まっすぐに俺の目を見て言った。

「わたしは、きみのことが好きですよ」

 大真面目な顔で、そんなことを言った。
 だから俺は怖くなった。



 デレク・ジャーマンの映画を思い出した。ウィトゲンシュタインをモデルにした奴。

「あなたはなぜそんなに愛されたがるの?」と女が訊ねる。

「完璧でありたい」男は頭痛を堪えるようなしかめっつらで答える。

「私は違うわ」と、女は言う。

「それで友人になれると?」男は苦しげに訊ね返す。

「知らないわ」、と女はせせら笑う。人は摩擦がある世界の中でしか生きられない。

「嘘ですよね?」と俺は真剣に訊ねた。部長の表情はほとんど動かない。
 
 彼女は答えてくれなかった。沈黙が重みを増していく。
 
 長い静寂の後、彼女はいつもよりずっと感情の読めない表情で口を開いた。
 
「本当だとわたしが言ったところで、きみはきっと信じないでしょうね」



 部長はそのまま黙り込んで、俺の顔をじっと見つめた。何かを期待しているのかもしれない。
 俺は何かを言うべきだった。それは分かる。ちゃんと分かる。
 
 部長は歩くのを再開した。俺もその後ろ姿を追う。夏の夕方。
 俺は、覚悟を決めた。

「部長は……」

 声を掛けると、彼女の背中は一瞬、こちらを振り返りそうになった。

「部長は、もし、願い事をひとつだけ叶えられるって言われたら、何を願いますか?」

「……彼女たちのお話ですか?」

 あの二人の少女。部長はすたすたと歩いていく。

「ただの質問です」

 俺の声はうさんくさかった。ひどく澱んでいた。



 ふと、部長は立ち止まった。距離を保つように、俺も立ち止まる。
 沈黙。

「……きみは何を願ったんですか?」

 真剣な声で、彼女はそう言った。
 シロの言葉から、察したのだろう。

「自分でも覚えてないんです。大事なことを忘れてるような気がする」

 彼女は溜め息をついた。

「わたしは、何も願ったりしないと思います」

 そうだろうな、と考えながら、俺は話を続けた。

「俺の友達は、すごい奴なんですよ」

「……急に、何の話ですか?」


「去年、何かのきっかけで、願い事を、ひとり、ひとつずつ言っていくって機会があったんですよ。
 三人で集まっていたんです。仲の良い友達同士だったから。俺はすぐには思い浮かばなかったけど、そいつは……」

 あいつは。

「こんな日が続けばいい、って言ったんですよ。こんな日が続けばいいのに、って言ったんです」

 部長は、何が言いたいのか分からない、という顔で、ようやく俺の方を振り返った。
 俺の言葉はいつだって上手く伝わってくれない。

「冗談かと思いました。だって俺には、そんなことを言いたくなる気持ちが、まったく分からなかったんですよ」

 心臓がやけにバクバクしていた。俺は今"話している"。彼女が求めているものと違ったとしても。
  
「こんな日がずっと続くくらいなら、いっそ、って、いつもそんな風に生きてきたんです」



「……その友達のこと、嫌いだったんですか?」

 部長の声は、同情的に聞こえた。俺は首を横に振った。

「羨ましかったんでしょうね、たぶん」

「なんとなく分かるような気がする」

 部長はこちらを見たまま、かすかに笑った。

「……それが本当なら、とても嬉しいんですけどね」

 もしも、それが本当なら。
 部長は溜め息をついた。

「きみはもう少し人を信じるということを覚えた方がいいと思う」

「訊いてもいいですか?」

 なんですか? と部長は少し怒ったような顔で首を傾げた。
 その仕草が無邪気な子供みたいで、俺は思わず笑ってしまった。

「それ、本気で言ってますか?」

 部長は二秒くらい押し黙って、それから笑った。




「変な話を、聞かせちゃいましたね」

 しばらく歩いてから、俺は部長に向けてそう言った。彼女は少しだけきょとんとして、小さく笑った。
 
「きみは皮肉ばかりを言いますね」

「それ以外に喋ることがないですから」

「わたしにもよく分からないんです」

 彼女はそれまでの会話の流れを断ち切って、静かにそう呟いた。

「どうしてきみを、あの廃墟に一緒に行く相手に選んだのか。
 帰りのバスの中で、あんな話をきみにしてしまったのか。よく分からない。
 でも、きみならきっと、変な慰めなんかは言わないだろうと思った」

 彼女は俺の目を見ようとしなかった。声はかすかに震えていた。
 たぶん怯えている。分からないけど。

「慰めって?」

 部長は少し笑った。



「いろんな人が、わたしにいろんなことを言ったんです。
"君のせいじゃない"とか、"妹さんの分も君が一生懸命生きないと"とか、"彼女もそれを望んでいる"とか。
 でもどう考えたって、彼らは間違っているんです。死んでしまった人間には、何かを望むことなんてできない。
 できないからこそ、死んでいると言えるんです。それにもし、何かを考えられるとしたら、彼女はわたしを恨んでいると思う」

 俺は何も言わなかった。俺は彼女と彼女の妹について、ほとんど何も知らない。

「どうして死んだのがわたしじゃなかったんだろう、って、いつも思っているんです。
 でも、そんなことを口に出すと、みんな顔をしかめる。わたしはとても真剣に考えているのに。
 みんな、考えることそれ自体が間違っているみたいに、言うから、だから――」

 口を噤んで、内側に隠した。

「暗いなあ」と俺は茶化してみた。
「性分ですから」と彼女もおどけた。
 
 俺は少し迷ってから、覚悟を決めて、口を開いた。

「俺、部長のこと、好きですよ」

「うそつき」

 と彼女は晴れやかに笑った。



「半分は、たしかに嘘です。今は、好きじゃないです。全然ってわけじゃないけど」

 部長は、なぜだか知らないけど、楽しそうな顔をしていた。
 人の気も知らないで。あるいは、俺の緊張を見透かしているから楽しそうなのだろうか。

「でも、分かるんですよ。俺はこのままじゃ嫌なんです。このまま一人でなんて生きられないんですよ。
 誰かに傍にいてほしいんです。俺だって誰かのことを思い切り好きになりたいんです」

 あまりに、都合の良すぎる話。

 ――お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 ――でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから。

「……」

 俺はその瞬間、何かに気付きそうになった。気付きそうになって、目を逸らした。怖くなった。
 
 不意に、部長は、俺に向けて右手を差し出した。
 なんだろう、と思って彼女の顔を見ると、笑ってすらいなかった。作り笑いすら、そこにはなかった。

「手を、握ってくれませんか」

 ひどく、小さな声。頼りなくて、心細そうな声。どこか、怯えるような。
 彼女はまっすぐに、俺の目を見ていた

 その手を、取ってみたくなった。
 信じてみたくなった。

 ――誰かの手を、取ってみたかった。





 終業式の日は、うっすらとした雨がぼんやりと降り続いていた。
 部長は校門で傘を差して俺のことを待っていた。彼女が自分でそう言っていた。

 ぼんやりとした表情。退屈そうな顔。吐き出される生徒の流れを、外側から眺めている。
 超然としている。

「部長」

 俺が声を掛けると、彼女はこちらに顔を向けた。
 
「待ってましたよ」

 彼女がそう言ったとき、俺は心底不思議な気持ちになった。

「どうして?」

 訊ねると、彼女は首を傾げた。

「どうしてだろう?」





 俺たちは歩いていた。分かれ道までのごく短い時間だったけど。
 それでも一緒に歩いていた。

 部長は傘を差していた。

「傘、もってないんですか?」

「忘れてきたんです」

 嘘だった。
 雨を浴びるのが好きだったのだ。昔から。
 風邪を引いて寝込んだとしても、雨を浴びるのが好きだった。
 
 彼女は少し困ったような顔をした。それから俺の体を、自分の傘の中に入れようとする。
 背丈がだいぶ違うから、彼女はほとんど背伸びするような形になった。

 俺は傘の持ち手を受け取って、彼女の方に傾けがちに傘を握った。
 彼女は少し慌てながらも、どこかほっとしたように溜め息をついた。

「今日で、終わりなんですね」

 どこか落ち着かない雰囲気の傘の中で、部長は言った。



「何がですか?」

「学校。今日から、夏休みですもんね」

「そうですね」

 夏休み。

「部活は、出ますよね?」

 その質問に、すぐに答えられたらよかったのに。
 先のことがなにひとつ、自分でも分からなかった。

「眠っているかもしれません」

「休み中、ずっと?」

「たぶん」

 彼女は俯いてしまった。


「でも、それだと、夏休み中は会えませんね」

 どう答えるのがいいのか、分からない。
 何を求められているのかが、わからない。 

「ねえ、わたしのこと、部長って呼びますよね」

「……そうですね」

 質問の意図が、よく掴めなかった。

「それ、やめませんか」

「どうして?」

「ちょっと遠い気がするじゃないですか」

 そう、なのだろうか? 

「じゃあ、なんて呼べば?」



「名前を……」

 と、途中まで言ってから、彼女は思い直すように首を横に振った。
 
「忘れてください」

「……千紗先輩?」

「いま、わたし、忘れてくださいって言いましたよね?」

 彼女の顔は少し赤くなっていた。そんな気がしただけかもしれない。

「以前先輩が言ってたと思うんですけど、俺はひねくれものなので」

 彼女は怪訝そうな顔で俺を見上げた。

「……わたし、そんなこと言いましたっけ?」

「言ってませんでしたっけ?」

「覚えてません」

「……たしかに言われたような気がするんですけどね」

 ――いつだっただろう?
 まあいいや、と俺は思った。



「今、どんな気持ちですか?」

 先輩は、そう訊ねてきた。まっすぐに前を向いたまま。

「よく、分からないです。しいていうなら……」

 いつもより距離が近くて、やけに緊張する。
 先輩の仕草のひとつひとつが、妙に気になってしまう。

 呼吸の音を聞かれているような気がする。

「……特には」

「平然としてますね」

「そういうわけでもないですが」

「……ずるいなあ」

 その言葉の意味が気になって先輩の顔を見たけれど、彼女はそっぽを向いていて、どんな表情をしているのかは分からなかった。


「千紗先輩」、と俺はもう一度名前を呼んでいた。
 彼女の肩がぴくっと動いた気がした。

「……なんですか?」

 拗ねたような顔で、こちらを見る。

「……なんでそんな顔をするんですか?」

「べつに、たいした意味はないです」

 彼女は溜め息をついてから、どこか不機嫌そうに、「それで?」と訊く。
 こんな態度を見せる人だったっけ。

「先輩は、俺のことが好きなんですか?」

「あれは嘘です」

「……」

 間髪置かない否定に、俺は少し戸惑った。


「……えっと、そうなんですか?」

「……」

 沈黙。

「……嘘です」

「はあ」

「嘘というのが、嘘です」

「……」

 結局どっちなんだろう。


「どうしてそんなことを訊くんですか?」

「もし本当にそうだったら、どうしてなんだろう、と思って」

「どうしてって?」

「好かれるような心当たりが、まったくないので」

「そうですか」

 そうですかって。
 こんな人だったっけ?

「ひとつ言えるのは、きみが見ている世界と、わたしが見ている世界は、まったく別物だということです」

「……はあ」

「同じものを見るとしても、その映り方はまったく違う。
 きみにとって大したことではないことが、わたしにとってはすごく大事なことだったりするんです。
 だから、きみが嫌っているものやことを、そうだからこそ、誰かが好きになってしまうこともあるんですよ」

 彼女の話は、よくわからなかった。いつも通り。




 バスの停留所につくと、先輩は立ち止まった。
 何かを言いたげにしていた。

「本当に、部活には出ないんですか?」

「休み中ですか?」

「はい」

 どうだろう。出たくないわけじゃない。でも、たぶん眠気に負けてしまうだろう。
 何か特別な理由でもないかぎり、部活には出たくない。

「できたら、休み中も、顔を出してください。わたしのために」

「……」

「きみがいるかいないかで、部活中のわたしのやる気は五割ほど増減するんです」

 こんな冗談を言う人だったっけ、と俺はもう一度思った。
 彼女は真剣な顔をしている。


「もしどうしても出たくないなら」、と彼女は真面目な顔のまま続けた。

「連絡先を教えてください」

 俺は困った。本当にこの人は俺が知っている彼女なのだろうか。
 でも、これまでだってそうだった。
 俺は知った風な気になっていただけで、彼女のことなんて何ひとつ知らなかったのだ。

 そういうふうに、他人のことを決めつけてしまっている。いつも。
 これまでずっと。俺は誰かを侮って、決めつけて、見くびって、見下して、そういうふうに過ごしていた。
 
 俺は制服のポケットから携帯を取り出した。

 彼女はほっとしたような顔をして、それから慌てて取り繕うように、笑顔を作った。
 愛想笑い。きっと癖になってるんだろう。癖になっているとしたら、それはもう作り笑いじゃない。

 彼女は笑っている。とても上手に。
 
 バスが来るまで、俺たちはずっと一緒にいた。
 バスが来て、俺たちは別れた。




 家に帰ったときには、妹はいなかった。
 俺は夕飯の準備をしながら、先輩のことを考えた。

 考えた、のではないかもしれない。思い出していたのだ。
 彼女の仕草とか、言葉とか、表情とか、話とか、そういうものを。

 いろいろなことを思い出しながら、俺は黙々と料理を続けた。
 自分のことがよく分からなかった。

「ただいま」と声がして、妹が帰ってくる。「おかえり」と俺は台所から声をかけた。

「今日、お姉ちゃんたちに会ったよ」

「……どこで?」

「駅の方の喫茶店。友達と行ったら偶然」

「ふうん」


「学校で、あんまり話しないの?」

「まあ、最近はね」

 妹は何かを言いたげな目でこちらを見ていたけれど、結局俺の態度については何も言わず、話を続けた。

「あのふたり、付き合い始めたのかな?」

「さあ?」
 
 どうなのだろう。
 よく分からない。前までなら、もっと気にしていたはずなのに。

 不思議と、今は、そんなに気にならなかった。俺は先輩のことを思い出していた。





 着信音で目を覚ました。

 夏休みに入ってすぐのある日の朝、めったに鳴らない携帯が鳴った。
 寝惚け眼をこすりながら見ると、携帯のディスプレイは「千紗先輩」という文字を表示していた。

 あくびをしてから電話に出ると、「おはようございます」、と先輩の声が聞こえた。

「朝の九時です。良い朝です」

 冗談めかした言葉の割に、彼女の声は少しこわばっていた。

「おはようございます」と俺が返事をすると、電話の向こうで彼女が戸惑ったような気がした。

「おはようございます」と彼女はもう一度言った。

「あの」

 その言葉から、先輩の声は少し途切れた。それだけでは、言葉に意味はない。
 単なる空気の震えでしかない。

 逡巡のような間の後、

「今日、会えませんか」

 彼女は音ではなく言葉を発した。


「今からですか?」

「はい」

 俺は正直眠かったが、それをここで言ったら最悪だよなと自分でも分かっていた。 
 最悪で何が悪いと開き直るような気持ちもないではなかったが、さすがに先輩にそれを押し付けるわけにはいかない。

「大丈夫ですよ」

 実際、用事はなかった。眠る以外には。

「それじゃあ、あの、言いにくいんですけど……」

「……はい?」

「……きみの家に、行ってもかまいませんか?」

「は?」




 一時間後に、先輩は俺の部屋にいた。
 知り合いが遊びに来る、というと、妹は自分の部屋に引っ込んでくれた。
 なんだかおかしな動物でも見るみたいな目で見られたけれど。

「ずいぶん急でしたね」

 当たり前の事実として話しただけだったのだけれど、彼女は皮肉として受け取ったのか、弱ったような顔をした。

「すみません」

「……いえ、いいんですけど」

 先輩の私服は森に行ったときとは違うよそ行きのもので、その姿はなんとなく俺を緊張させた。
 対する俺は休みだからと気の抜けた格好で、かろうじて着替えてはいるものの、並んで座るとやけに間抜けさが際立った。

「どうして急に?」

「……ごめんなさい」

 別に気にしているわけではない。目的が分からないだけで。


「急に押しかけておいて、こんなことを言うのはなんなんですけど……」

「はい」

「……すごく散らかってますね」

「……片付ける時間がなかったもので」

 今度はまぎれもなく皮肉のつもりで言うと、先輩は困った顔をした。

「掃除、あんまりしないんですか?」

「はあ。まあ、月に一度くらい」

「……」

「……ほんとは三ヵ月に一回くらい」

 彼女は溜め息をついた。


「掃除、した方がいいですよ」

「まあ、しないよりはした方がいいですよね」

「そうではなくて、掃除は世界に対する小規模な反乱ですから」

「……は?」

 彼女は自分の発言を後悔しているように見えた。
 その態度のせいで逆に、俺はその言葉の真意が妙に気になってしまった。

「どういう意味ですか?」

 先輩は諦めたように口を開く。

「つまり、こんなことをいきなりいうと、なんだか変な人みたいでいやなんですけど……」
 
 十分変な人だと思うけど、といったらたぶん傷ついてしまうのだろう。



「この世界、宇宙っていうのは、秩序から無秩序へと向かい続ける性質があるわけです。人間の尺度で見ると」

「……はあ」

「放っておけば散らかって、埃がたまって、どんどん汚れていく。そういう向きがあるわけです」

「はい」

「汚れた部屋を掃除して片付けて、秩序ある状態に戻したとしても、ゴミや埃はありますよね。
 それを部屋から追い出しても、ゴミは依然として存在する。世界全体としては、無秩序に向かう一方なわけです」

「……はい」

 よくわからなくなってきた。

「どうがんばったところで、世界は無秩序へと向かって行くんです。どんどんと混乱していく。
 掃除をしたところで逆らえない。でも、だからこそ掃除をしなきゃいけないんです。
 身の回りだけでも、手の届く範囲だけでも、綺麗にしようと努めるべきなんです。
 無秩序になっていくことが当然だと、受け入れてしまわないためにも」

「世界に対する反乱ですね」

「反乱です」と彼女は話を結んだ。




 それから彼女は本当に掃除を始めてしまった。

 ばらばらに積みかさねられた俺の衣服はまとめられ、畳まれ、片付けられた。
 幸い見られて困るようなものはなかったけど、唐突に来た先輩が自分の部屋を掃除するというのも変な話だ。

 俺の部屋は徐々に秩序を取り戻していった。
 枕元に積みかさねられたたくさんの本は本棚へと戻り、衣服は洋服箪笥へとしまわれ、教科書は学習机に立てかけられた。

 開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。

「いい天気ですね」

 一通り部屋を片付け終えてからコーヒーを淹れ、ふたりで休んだ。
 時刻は昼過ぎを回っていた。

「そうですね」

 俺が頷くと、彼女はちょっと笑った。

「どうして笑うんですか?」

「だって、窓の外、見てなかったじゃないですか。適当に相槌打ちましたよね」

 俺は苦笑した。


 さて、と俺は思った。さすがに何もせずに二人でいるには、間が持たないだろう。

「映画でも見ますか?」

「あるんですか?」

「DVDが何枚か」

「いいですよ。おすすめなのをかけてください」

 セレクトを任されたとはいえ、さすがに「ウィトゲンシュタイン」を掛けるわけにはいかなかった。
 とはいえ、俺の部屋にまともな映画なんていくつもない。

 そんなわけで仕方なく、中でもまともな方だった「汚れた顔の天使」を掛けた。
 まともなのが白黒映画だけというのは、考えてみれば切ない話だ。

「古いですね」と案の定先輩は言った。


 物語の筋は知っていた。
 パッケージの裏に書いてある解説を読むと、少年時代からの親友二人の友情がメインテーマらしい。
 でも、正直どうなのだろう、と俺は考えてしまう。

 二人の少年はあるとき貨車強盗をたくらみ実行しようとするが、失敗して逃走するはめになる。 
 けれど、片割れのロッキー・サリバンだけが途中で追跡者に捕まり、少年鑑別所に送られる。

 無事に逃げ切ったもう一人は自分だけが助かってしまった後ろめたさに自白しようとするが、ロッキーが押しとどめる。
 そしてふたりの道は分かれる。ロッキーは悪名高いギャングになり、親友であるジェリーは少年たちを導く神父となる。
 
 ふたりの運命を分けたのは、足の速さか、あるいは運か、せいぜいそんなものでしかなかった。

 何かが違えば、立場は入れ替わっていた。

 たぶん、宗教や信仰の違いがあるから仕方ないのだろうけど、俺にはこれが友情の話だなんて思えなかった。
 ジェリーは「偶然」逃げ切っただけ、「偶然」ロッキーのようにならずに済んだだけなのだ。
 
 彼はそれを忘れて(あるいは理解しながらも)、ラストシーンでロッキーに誇りすら捨てるように言う。
「より尊い誇り」とやらの為に。高みから見下ろしたように。そう感じるのは俺だけかもしれない。

 せめて誇りだけでも、持たせたままで死なせてやればよかったのだ。
 もちろん、ロッキー・サリバンのあの死にざまは、たしかに誇りあるものだったのだろうけど。
 




「先輩は、どうして敬語なんですか?」

 映画を観終えて、俺たちは雑談を始めた。その流れで、俺はずっと気になっていたことを訊ねた。

「……どうしてって、理由はないですけど」

 彼女は困ったような顔をしていた。

「嘘ですよね?」

「……どうして分かるんですか?」

「最近、分かるようになってきました」

 本当は勘だった。

「……敬語にしておかないと、人との距離の取り方が、分からなくなるんです」

「距離の取り方?」

「敬語なら、あまり、近付けませんから。敬語を保てば、自然と距離も保てるんです」


「そうですか」

「……呆れてますか?」

「というよりは、そうですね」

 俺は少し考えてから、言った。

「突然家にやってきて、掃除をして、一緒に映画を観て、それでもなお保つべき距離って、どんなものなのかなって思って」

 先輩はしばらく考え込んでから、急におかしくなったみたいに笑った。

「……たしかに、そうかもしれない」

「全部、いまさらですよ」

「そう、だね」

 俺は何も考えずに、彼女の顔を見ていた。

「いまさら、だね」

 くすぐったそうな顔で、彼女は笑った。




 夕方頃まで、くだらない話が続いた。何をそんなに話すことがあるのかと思うくらい長い時間が、気付けば経っていた。
 不思議なほど、時間の流れが早かった。

「そういえば、今日、お祭り……」

 先輩がそう言ったのは、街並みが赤く染まり始めた頃だった。

「そう、でしたっけ?」

「はい」

 また敬語に戻ってる。これも癖になっているんだろう。
 まあいいや、と俺は思う。そんなものは、時間が経てばどうにでもなるだろう。 
 時間さえ流れれば。

「……せっかくですから、行きましょうか?」
 
 自分でも意外なほど、するりとその言葉が出てきた。
 たぶん俺は、環境や状況に左右されやすいタイプなんだろう。

 一緒にいるのが楽しかった。

「……うん」

 短い沈黙のあと、先輩は頷いた。




 行きのバスの中には、浴衣姿の人たちも何人かいた。
 はしゃぐ子供たち。浴衣姿の女の子。

 俺たちはバスに乗っている。
 みんな、どこかしら、はしゃいでいる。

 その気持ちが、今ならなんとなく分かるような気がした。

「楽しみですね」、と先輩は言った。言ってから、はっと気づいて、「……だね」と言い直した。
 俺はその流れがおかしくて、少し笑う。

「どうして笑うの?」

 むっとしたような顔。
 俺はこの人のことを好きになれたのだ、と思った。
 好きになることができたのだ、と。どうしてそんなことを思ったのかも、分からない。

『好きになることができた』
 音は同じだけれど、意味は二種類ある。
 自分で考えておいて、どちらの意味なのか、分からなかった。


 夏祭りはなかなかに盛況で、俺たちはすぐに人ごみの中ではぐれそうになった。
 先輩は背が低いから、ふと気付くと見失いそうになる。
 
 だから、俺たちは、きわめて実際的な結論から、手を繋いだ。
 
 バカみたいだな、と俺は思った。

 手まで繋いで、いまさら何を考えることがあるんだろう?
 
 そう思うと、なんとなく、言わずにはいられなくなった。

「先輩」

 と俺は彼女のことを呼んだけれど、うまく聞き取れなかったらしい。

「はい?」

 また敬語だ。あるいは敬語じゃないかもしれない。でも敬語に聞こえた。いや、もうどっちでもいい。

「千紗先輩」、と俺は少し大きな声で彼女のことを呼んだ。

「はい」

 彼女はちょっとびっくりしていた。



「俺、先輩のこと、好きです。好きだと思います」

「は、はい」

 彼女は、状況をつかみかねているみたいに、戸惑っていた。

「先輩も、俺のことが好きだって、言いましたよね」

「はい」

「それが本当なら、俺と付き合ってくれませんか」

「えっと、はい」

 沈黙。

 人ごみは当たり前のように流れ続ける。


「……あの」

「はい?」

「今のは、返事ですか?」

「……えっと。そのつもり、でしたけど」

 どことなく不安そうな顔で、彼女は俯いた。

「そう、なんですか?」

「……はい。そのつもりでした」

「それじゃあ、つまり……」

「はい。……よろしくお願いします」

 何が変わるというわけでもなかった。
 口にしたからといって、関係性がすぐに切り替わるわけではなかった。
 俺たちは手を繋いだまま人の流れの中にいる。


「とりあえず、歩きましょうか」

「……はい」

 なんとも間抜けなやりとりだ。人が見ていたら笑うだろう。さいわい、誰も俺たちのことなんて、見ていなかったけれど。
 話す言葉も失って、俺たちは黙々と夜店を見て回る。
 
 水ヨーヨーにはしゃぐ子供たち。
 救急車のサイレン。

「……あの」

 小さな声で、先輩がそう言った気がした。気のせいかと聞き流しそうになるくらい、小さな声。
 俺は先輩の顔を見て、続きを待った。

「うれしいんですよ、すごく。うまく、表せないんですけど。うまく表せないんですけど、うれしいって思ってるって、わかっておいてください」
  
 もどかしそうな顔で、彼女はそう言った。
 俺はその言葉に、なんだか急に泣きたくなって、手を握る力を強めた。



「……俺も、うれしいですよ。手を繋いでいるのも、一緒に歩くのも。でも」

「――でも?」

 訊ね返されて、俺は怖くなった。
 どうして俺は「でも」なんて言ったんだろう?

「でも、なんですか?」

 先輩は真剣な顔でそう訊ねてきた。俺は正直であるために、自分の気持ちを静かに確かめた。

「……でも、少し怖いんです」

「……なにが?」

 すぐには答えられなかった。考えても、よくわからなかった。
 なんとなく、本当になんとなくだけれど。

『自分が幸せになっていいのだろうか』、と、そんな気持ちが湧き出るのを感じた。
 あるいはそれは、ずっと昔からそこにあった感情かもしれない。


「なにはともあれ」と彼女は言った。

「なにはともあれ、今は一緒にいます」

 振り払うような声。手を、少し強く握られる。
 俺はなんだかうれしくなって、肯いた。

「そうですね」

「なにもかも、すぐには割り切れないかもしれない。
 でもわたしたちには時間があるし、これからできることだってたくさんある。
 わたしはまだ、きみに言っていないことがたくさんあるし、きみにしてほしいことだってたくさんあるんです」

「してほしいことって?」

「それは――」




 言葉は途中で途切れてしまった。
 続きを失ったのだ。意味を剥奪された。単なる音になる。空気の震えでしかなくなる。
 誰もそこから意味を掬い取ることができない。

 世界から音が消えた。

 一瞬の停滞の後、景色が逆巻くようにうねりはじめる。
 俺はその中に立ち尽くしている。光の洪水。

 戸惑う暇もなく、世界が崩れていく。照明が消えたステージ。暗転。

 耳鳴りと眩暈。繰り返されている。続いている。何かを忘れている。
 誰かが遠くで泣いているような気がする。誰かが遠くで泣いている。助けを求めている。

 ノイズ。視界から光が失われる。俺はうねる景色の中で誰かの手を離した。離してしまった。
 それが誰の手なのか、もう思い出せない。誰かが笑っている。
 すべては暗闇の中に収斂する。

 そして、ノックの音。

つづく




 なんとなくぼんやりとしたまま授業を終え、放課後を迎えた。
 クラスメイトたちは部活に行くのか、委員会でもあるのか、他に用事でもあるのか、すぐに散らばってしまった。

 俺は窓際の自分の席に腰かけたまま、ぼんやりと空を眺めた。まだ明るい空。

「部活には出ないのか?」

 タイタンはそう訊ねてきた。俺は小さく頷く。返事をするのも億劫なほど気怠い気分だった。
 何が原因なのかはわからない。 

 とにかく部活には出たくなかった。何か嫌なことを思い出しそうだった。
 それがなんなのかは分からない。でも、部活に出れば、きっといつも通りの景色が広がっているんだろう。
 その事実は俺を少なからず傷つける。そんな予感があった。

 タイタンは短く溜め息をつくと「それじゃあ」と言って教室を出ようとした。
 たぶん部活に出るんだろう。彼には出ない理由がない。

 
 彼がいなくなると、教室に残っていた数人のクラスメイトたちも荷物をまとめはじめた。 
 俺がもう一度窓の外に視線を戻そうとしたとき、


「おい、ヒメ」

 と、教室の入り口から今出て行ったばかりのタイタンが声を掛けてきた。



「なに?」

「待ってるみたいだ」

「誰が?」

 タイタンはまた溜め息をついた。それから廊下の方を小さく指し示すと、すたすたと去っていく。
 怪訝に思いながらも、俺は鞄を持って立ち上がった。

「あ……」

 廊下に出ると同時に、そんな声が聞こえた。
 思わず声の主を見遣ると、彼女の方もこちらを見ている。俺は眉をひそめる。

 俺はその子を知っている。

「……ヒナ?」
 
「……」

 名前を呼ぶと、彼女はさっと目を逸らして、あちこちに視線を巡らせた。


 俺は彼女のことを知っている。
 四月に屋上で出会った。六月に屋上で告白された。それから付き合うようになった。
 ちゃんと分かってる。そういう記憶があるのだ。

「なんで廊下で待ってたの?」

「べつに、待ってたわけじゃ……」

「……」

「……なんとなく、入りづらくて」

「いいかげん慣れなよ」

 慣れるべきだ。
 こんなやりとりだって、もう一ヵ月以上続けているんだから。
 それなのに彼女は、いつも一歩引いたような、気恥ずかしそうな態度で俺に接する。

 関係が変わる前の方が、よっぽど距離が近かった。
 
 それだって、別段不愉快なわけじゃない。むしろ心地よくすらあるのだけど。



 一ヵ月。短くない時間だ。
 ヒナはこの学校に入学するのと同時にこの街に引っ越してきた。
 だから、俺と彼女の家は意外なほど近くにある。

 そのことに気付いた俺たちは、関係が変わってからというもの毎日のように一緒に登下校していた。
 そういうことをちゃんとしておかないと、関係が変わったということをうまく自分に溶け込ませることができなかった。

 下の名前で呼ぶようにしたのだってそうしたやりとりの一環だ。

 週末には映画を観に行ったり、買い物に行ったりもした。
 放課後に教室で一緒に勉強をすることだってあった(俺が教える側だったけど)。

 ヒナが俺の部屋を見てみたいというので、招いて一緒に映画を観たこともあった。
 我ながらレパートリーの少ない人間だと思うが、そのあたりは街に責任がある。

 観た映画は「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」だった。
 その日は夕方頃に通り雨が降り始めて、帰るタイミングを逸したヒナを、俺は家まで送った。
 
 ちゃんと覚えてる。そういう記憶がある。
 


「帰ろうか」

 そう声を掛けると、ヒナは頷いて、どことなくこわばった面持ちでとことこと歩み寄ってくる。
 そういう態度をとられると、こっちもなんとなく緊張してしまって、心臓の鼓動が妙に速くなる。

 当たり前のように、彼女は俺の隣を歩く。
 歩きながら、ヒナはちょっと困ったような顔で訊ねてくる。

「部活、出なくていいの?」

「ああ、うん」

「最近、ずっと出てないよね」

「べつに部活に出ないからって死ぬわけじゃない」

「……そうだけど」

 べつに不真面目であることを咎めたいわけではないんだろう。
 ヒナは帰宅部だから、俺がそれに合わせて休んでいるんだと感じているのかもしれない。

 実際それだって、ないわけじゃない。でも、それだけが理由なら、俺はちゃんと部活に顔を出す。
 ヒナが気にするって分かってるんだから。


 ふと思い出して、俺は自分の鞄をぽんぽんと叩いてみた。
 想像した通り、いつもよりちょっと堅い。

「……なにやってるの?」

 ヒナは奇妙なものを見るような目で俺を見ていた。

「本。図書室に返しに行かなきゃ」

「そっか。じゃ、寄っていかなきゃね」

 俺たちは当然のように並んで図書室に向かった。
 
 司書さんは本の整理をしている。俺が声を掛けると、彼女はちょっと笑った。

「また彼女さんと一緒?」

「ですね」

 と俺は事実を認めた。



「そっか。いいねえ、青春って」

"青春"という言葉を口に出した途端、彼女の年齢が十くらい上がったような感じがした。
 過ぎ去ってしまったものを遠くから眺めるたびに、人は老いていく。

「本当に?」

 と俺は試しに訊ねてみた。べつに深い意味があったわけでもないのに、司書さんの表情は凍りつく。
 一瞬の沈黙の後、彼女は気まずそうに笑った。今までに見たことがないくらい寂しげな笑い方だった。

 彼女は何も言わないまま、手に持っていた本を近くの机の上に置くと、カウンターの中へと向かった。
 それからいつものように笑って、俺を手招きする。

「返却に来たんでしょ?」

「はい」

 と俺は仕方なく頷いた。べつに何かを訊きたかったわけでもないし、何かを言いたかったわけでもない。
"青春"とか、"思春期"とか、そういう安い言葉で十把一絡げにして。
 言葉以上の何かがそこにあったことを思い出そうともしない。

 そういう、「他人事めいた印象」を押し付けられるのが、なんとなく腹立たしかっただけだ。




 本を返して図書室から出ると、ヒナはなんだか心配そうな顔でこちらを見ていた。

「なに?」

 と訊ねると、首を横に振って、なんでもない、と小さく呟く。
 
「ヒメはさ」

 ヒナはもともと、俺のことを「あんた」なんてぶっきらぼうに呼んでいたんだけど。
 付き合い始めてから、急に引っ込み思案になったというか、そういう態度がなりをひそめたというか。
 なんとなく、物静かで、遠慮がちで、こちらの態度をうかがうような、そんなふうになった。

 名前で呼んだら、と提案したけど、彼女は恥ずかしがったのか、結局あだ名に落ち着いた。
 どこでそのあだ名を知ったのか、俺には分からないんだけど。

「人に、意地悪をするよね」

「そう?」

「うん」

「そんなつもりは、ないんだけどね」


 ヒナは、べつに責めるわけでも咎めるわけでもないような、自然な口調だった。
 だから俺も、べつに怒ったり反論したりする気にもなれない。

「ヒメの意地悪は、反撃みたいな感じがする」

「……反撃?」

「うん」

 彼女のたとえはよく分からなかった。
 
「前からずっと気になってたんだけど……」

「……なに?」

「ヒメはいつも、何気ないことで、必要以上に傷ついている気がする」
 
 ヒナの言葉の意味が、よくつかめなくて、うまく答えられなかった。

 俺はそこで話を区切って、そろそろ帰ろう、とヒナに言った。
 ヒナは俺の目を数秒間じっと見つめたあと、静かに頷いた。


つづく



 
 俺の家とヒナの家は驚くほど近くにある。
 今まで登下校の途中で出会わなかったのが不思議なくらいに。

 ヒナの家の前に着いた後、俺はヒナが玄関に入るまでそこから動かない。
 ヒナもまた、後ろ髪をひかれるように、家の中に入ろうとしない。

 だから、このところ毎日、別れる前に、ヒナの家の前で少し話をしている。
 このあたりには顔見知りが多いから、そのうち誰かにからかわれるんじゃないかとひやひやする。

 話題と言えるほどの話題なんてなかった。

 天気のこと。食べ物のこと。昨日見たテレビのこと。学校でのこと。授業のこと。
 俺たちの会話はぎこちなくて、途切れ途切れで、でも心地よかった。

 ヒナは話が途切れるたびに、「あー」とか「うー」とか言って言葉を探す。
 言葉を探しているんだろうな、と俺は感じる。

 そのたびに、差し出せる言葉は差し出す。
 差し出せる言葉が見当たらなければ、俺も「あー」とか「うー」とか唸る。
 
 そのやりとりはなぜか心地よかった。
 沈黙さえ苦痛ではなかった。



 ときどき柔らかな風が吹いて、昼の余熱を静かに押し流した。
 近くの家の庭で、背の低い開きかけの向日葵がこてんと首を傾げる。

 とにかく何でもいいから言葉を発したくて、俺は目の前で起こったことすべてを口に出した。
 意識的に目の前で起こっていることを捉えようと努めた。

「風が気持ちいいな」と俺は言った。「うん」とヒナは頷いた。「肌寒くなってきたね」と彼女は続けた。
「向日葵、もう咲きそうだよ」と俺は言った。「そうだね」とヒナは頷いた。「少し早いよね?」

 向日葵は太陽を追いかける。太陽を見上げ続ける。
 花言葉はそのままだ。「あなただけを見つめる」。だから月や星には目もくれない。

 太陽の光。

「夏って、いいよね」

 不意に、ヒナはそんなことを言った。


「なに?」

「だから、夏。いいよね、夏って。あれ、夏、きらい?」

「好きではない。だって、暑いだろ」

 ヒナは少しむっとした顔になった。

「きっと、冬も寒いから好きじゃないんでしょ、ヒメは」

 俺は答えなかった。彼女の言葉は当たっていた。

「逆に、夏のどんなところが好きなの?」

 俺の質問に、彼女は少し考え込んだようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
 こんな日常会話のどの部分に、決意が必要なのかは分からなかったけど。

「あのね、わたし、ガソリンスタンドの匂いが好きなんだ」

「……は?」

「黒板消しを叩いて掃除したときの、埃っぽい空気とか。
 泳いでるときに水を吸い込んじゃったときの、ちょっと苦しい感じとかも」

「……」

 変な子だとは思っていたが、突然こんな話をされるとさすがに反応に困る。


「そういう、匂いとか、空気とかが、夏になると、すごく鮮やかに感じられる気がするんだよ。
 向日葵の影が伸びる様子とか、蝉の鳴き声とか、雨や土の匂いとか」

「……ヒナは、たぶんさ」

「……なに?」

「同じ理由で、冬も好きだろ」

 彼女は少し考え込んでから、大真面目な顔で頷いた。

「そうかもしれない。朝目を覚ました時の布団のあたたかさとか、フローリングのきしっとした冷たさとか。
 よく晴れた日の朝に窓の外を見たときの、積もった雪の眩しさとか、ココアの甘味とか」

 思わず笑うと、ヒナはまたむっとした顔になる。

「なんで笑うの?」

「ちょっとおかしかったから」


「おかしなことなんて何もないよ」とヒナは言った。

「そうかもしれない」

 俺が頷いた後も、彼女はまだ何か納得できないみたいに不機嫌そうな顔をしていた。
 聞き流されたと思ったのかもしれない。

「匂いか」

 と俺は呟くつもりもなく呟いた。ヒナは聞き逃さなかった。

「うん。ヒメは、ないの? 好きな匂い」

 世の中のどのくらいの学生が、好きな匂いの話なんてするんだろう。
 まあ、俺が思ってるよりは多いのかもしれない。知らないけど。

 雨上がりの土の匂い。プールの匂い。檸檬や蜜柑の香り。
 ヒナの言葉に影響されたせいかもしれない。思いつくイメージがやけに爽やかだった。
 それから……。


「ヒメ?」

「――え?」

「いま、ちょっとぼーっとしてたよ?」

 彼女は俺の顔を見上げて、少し心配そうに首を傾げる。
 俺は自分がイメージしていた光景を振り払おうとした。

「いや……」

 一瞬だけ、遠い記憶の中の“匂い”が、鼻先をかすめた気がした。
 それはただの錯覚だ。でも、そんな匂いがあったということを、俺は思い出してしまった。
 泣きそうになるくらい生々しい感覚。

 匂いは景色と結びついていたし、触覚と結びついていたし、出来事と結びついていた。
 匂い。“だれか”の。 


「また、考え事?」

 ヒナは「仕方ないなあ」とでも言いたげな顔で笑った。なんでもないことのように。
 彼女はあっさりと俺を受け止める。簡単そうに。まるで子供の相手でもするみたいに。
 
 さっきまで不機嫌そうにしていたことも忘れて。

「ん」

 ヒナは、背伸びをした。それから俺の頭の上に手のひらを載せた。

「……なにやってんの?」

「撫でてあげようと思って」

「……」

「……ちょっと屈んでくれない?」

 なんとも間抜けな話だ。



 言われるがままに少し膝を折ると、ヒナは機嫌よさそうに俺の頭の上で手を軽く動かした。
 野良猫でも撫でるみたいに。

 それからふと思い出したみたいに、

「……こういうの、いや?」

 と不安そうに訊ねてくる。やってから不安になるっていうのも変なものだ。
 普通に恥ずかしいし、男子としてはいろいろと気まずいんだけれど。

 困ったことに、いやというわけでもなかった。
 それよりも彼女は、ここが自分の家の目の前だということを忘れているんだろうか。

「ヒナと話していると、いろんなことを考えているのが馬鹿らしくなってくる」

「それはとてもいいことだよ」

 たしかに、俺みたいな奴にとってはそうかもしれない。

「ありがたいことだ」

「うん。感謝しなさい」

 彼女はおどけて笑った。最近、ヒナはよく笑う。前までの、どこか怯えた感じはなりをひそめた。


 近くから人の話し声が聞こえて、ヒナは俺の頭から手を下ろした。俺は姿勢を元に戻す。
 向こうの角から、犬を連れて男の子が歩いてきた。散歩をしているんだろう。
 反対側から、主婦らしき女性が二人、世間話に興じながら、こちらに向かて歩いてくる。

 ここは誰かの生活の一部だ。

「……カレーの匂いがする」

 ヒナの言葉と同じことを、俺も感じる。
 同じ場所に立っている。

「そろそろ帰るよ」と俺は言った。俺がそう言わないと、いつまで経っても話は終わらなかった。

 ヒナはいつも、俺のその言葉に、ちょっと迷うような素振りを見せる。
 単に惜しんでいるというだけではなく、何かを言い損ねたような仕草。
 でも結局、彼女はわずかな沈黙の後、静かに頷く。

「また明日」とヒナは言う。
「また明日」と俺も答える。

 明日があるのはいいことだ。

476-15 疲弊していている → 疲弊している

つづく




 俺たちは食事を済ませた後店を出て、元来た道を歩き、家へと帰った。
 
 帰り道では言葉ひとつ交わさなかった。

 じりじりという虫の声がどこかから聞こえる。人家と街灯の薄明かり。
 隣を歩く、少しテンポの違う足音。

 俺たちは一緒に歩いているけれど、別々の線上を辿っている。
 それは平行線だった。ただ進んでいてはいつまでも交わることはない。
 そんなことは知っていた。

 何かを言いたかった。言葉が必要だったのだ。
 自分の中で渦巻いている不安や空虚感を紛らわすために。
 その感覚を表現し、助けを求めるために。

 でもそれは所詮絵空事でしかない。そこから得られるものは何もない。
 そんなことは知っていた。

 だから俺は何も言わない。



 家に帰った後も俺たちは言葉を交わさなかった。
 風呂を沸かして順番に入ってしまうと、そのままテレビもつけずに眠ることにした。
 俺も妹も何も言わないままそれぞれの部屋に戻った。

 そのあと彼女が眠ったのか、それとも何かほかのことをしていたのか、俺には分からない。
 部屋と部屋との間には壁がある。確認のしようがない。当り前の事だ。

 俺はベッドに寝転がって天井を見つめた。天井の一点を見つめていた。
 けれどそのうち分からなくなった。見つめていたのは天井ではなく壁だったのかもしれない。

 俺は瞼を閉じた。瞼を閉じると部屋の片隅で影がうごめくのが分かった。
 気配。物音だったかもしれない。影は触手のように腕を伸ばして俺の足首を掴んだ。
 そして声ならぬ声で俺にささやきかける。

"おまえが死ねばよかったんだ"

 俺の体は凍てついたように身動きできなくなる。思考さえ凍り付き、何も分からなくなる。

"違う"、と俺は言う。"違う、違う"。


 影は世界だった。影の声は世界の声だった。けれど影の声は俺の声のようにも聞こえた。

 世界は俺の声というフィルターを通して俺に語り掛けていた。
 俺の目は俺の目というフィルター越しに世界を見ていた。

 だから俺の耳には世界がそう言っているように聞こえる。

 俺の意識は影に飲み込まれている。眠りが降ってくる。暴力的なほど唐突に。
 眠りの中の世界で、意味は混乱していた。

 眠りの世界において、人は人ではなかったし、声は声ではなかった。
 人も声も、一種の言葉でしかなかった。眠りの世界は言葉で構成されている。
 
 その中で「誰か」の言葉は「俺」の言葉だった。「誰か」は「俺」の一部だった。
「世界」は俺の意識だった。だから眠りの世界には俺しかいない。
 
 眠りについたままでは。





 暗闇の中、誰かがそばにいる。そばに座っている。
 目を瞑っているのに、そこに誰かがいるということが分かる。

 気配や感覚ではない。そこに誰かがいる、という事実が、ちゃんと理解できている。

 暖かい感触。誰かが俺の手のひらに触れる。

 感触。誰かが俺の腕を撫でている。俺はそれを静かに受け入れている。
 その感触はかすかに尖っていた。ちりちりというくすぐったさに似た性感。

 俺の体は緊張にこわばる。
 誰かは見透かしたように笑う。

 そこにあるのは契約だ。契約と履行。きわめて商業的で実務的なやりとり。
 対価は既に支払われていた。求められているのは対価に応じた業務。
 
 その空間の中で、人は人の形をした"もの"でしかなかった。何か別の"もの"。
 それは代替可能の記号だ。

 その記号は"だれか"という名前だった。



"だれか"である彼女たちは実に上手に業務を遂行していた。
 契約は履行されている。

 手のひらは静かに体を俺の体を撫でまわし始める。
 それは明らかに俺の肉体に対して働き掛けようとしていた。
 おそらくそれは官能的な出来事だった。そこで行われているのはきわめて肉体的なことだった。

 予感と刺激と感触。嗅覚を刺激する甘い匂い。それは"そう感じるように出来ている"。
"あらかじめ仕組まれている"。

"彼女たち"は神様によってつくられた。ある種の人々に快楽や一時の幸福感を与える為につくられた。
 あるいはひとつの代償、代替として。ひとつの歯車として。あるいは夢想、空想、理想として。
 人形劇の人形として。観賞用のドールとして。彼女たちはそのためだけに作られた。

 少女たちは実務的に体を動かす。実務的には見えないほど実務的に体を動かす。
 何もかもが、望みどおりになる。"そういうふうに作られている"。

 笑ってほしいと客が望めば笑う。泣いてほしいと客が望めば泣く。
 彼女たちはそれをとても上手にこなした。

 彼女たちは春を売らされていた。春を売るためだけに生み出された。


 少女はすべてを受け入れる。すべてを望むままにする。
 あるいは受け入れてほしくないと思うなら、少女は受け入れない。

 少女は何もかも望む通りに動く。
 求めれば、少女は肉体ではなく、精神を満たす。

 少女は"道具"だった。

 売り物は少女そのものではなく、少女を"使用"することで生れる満足、幸福、安心、充足だった。
 
「大丈夫だよ」と彼女たちは言う。

「何も心配しなくてもいい」と言う。

「あなたが必要」と言う。「わたしはあなたを必要としている」と何度も繰り返す。
「あなたがいてくれてよかった」とも彼女たちは言う。

「あなたのことが好き」、と彼女たちは言う。

 そして当然のように手を繋ぎ、唇を塞ぎ、肌を重ねる。
 誰かが望んだとおりに恥じらい、誰かが望んだとおりに喘ぎ、誰かが望んだとおりに乱れる。

 そして、誰に対しても、「こんな姿を見せるのは、あなただけ」だと言う。
 


 あるいは反対に、少女たちは「あなたなんていらない」とも言ってくれる。

「あなたなんていなければよかったのに」とも言ってくれる。
「あなたなんて大嫌い」とも言う。

「あなたのことなんて誰も好きにならない」、と彼女たちは言う。

 当然のように腕を弾き、目を逸らし、顔をしかめる。
 誰かが望んだとおりに拒み、誰かが望んだとおりに踏みつけにし、誰かが望んだとおりに蔑む。

「どうしてあんたなんかと」、と彼女たちは言う。

 すべては望みどおりになる。そういう場所。そのための場所。
 


「きみが好きだよ」と少女は言う。手のひらは俺の体を優しく撫でまわす。
 静かに体をこすりつけながら、彼女は俺の反応を窺う。

「嘘だね」と俺は言う。俺は怯えていた。

「本当」と少女は言う。言いながら唇を俺の首筋に当てる。
 舌先がちろちろと動き、生暖かい感触が伝わる。

 少女の髪からは甘い匂いがする。そういうふうに作られている。

「嘘だ」、と俺は繰り返す。彼女はくすりと笑うが、すぐにそれをかき消す。

「本当に好きだよ」と彼女は悲しげに微笑する。そして俯く。とても技巧的に。
 俺は騙されて、罪悪感に目を逸らす。

「本当だよ」と少女は少し震えた声で繰り返す。動かしていた体を止め、真摯そうな瞳で俺を見つめる。

「……本当に?」と、俺は最後の抵抗を見せる。

「本当」と、彼女は苦しそうに言う。それからわずかに身じろぎする。彼女の髪の先が俺の首筋をかすかにくすぐる。

「もし本当なら」、と俺は言う。彼女は怯えたような表情をつくってこちらを見上げる。

「とても嬉しい」と俺は騙される。彼女は嬉しそうに笑うと、目を細めて静かに顔を寄せてくる。
 俺は彼女の背中に手を回す。

 俺たちは唇を重ねる。
 虚構と現実。




 そして俺は、暗い部屋の中で目を覚ました。
 時刻はまだ夜だった。夜中に目をさましたのは初めてのことだ。

 暗闇の中で俺は得体の知れない気持ち悪さを覚えた。

 今すぐに戻してしまいそうな吐き気。誰かに全身をまさぐられているような言いようのない悪寒。
 何匹もの芋虫が服の中で這いうねっているような幻覚。
 
 その感覚を俺は感じていたけれど、きっとそれは俺が感じたものではなかった。
"だれか"が感じたものだ。"だれか"の感覚を、俺は想像してしまった。そしてそれは俺の脳で再現されている。

 喉までせり上がってきた胃の中のものが、少しでも体を動かしたら口の中に流れ出しそうだった。
 俺はみじろぎもせずにその感覚を受け流そうとする。呼吸の仕方をひとつ間違えば何もかもを吐き出してしまいそうだ。

"気持ち悪い"、と俺は思った。"気持ち悪い"。

 悪夢。悪夢だったのだ。そう思うと少し安堵できた。
 でも違う。それは"現実"なのだ。"現に起こったことなのだ"。あるいは"起こっていること"なのだ。

 そしてそれは"俺"がしていることでもあった。
 俺は必死に体を折り曲げ、涙を流しながらこみあげてくる嗚咽を堪えた。
 
 けれど不思議な充足感があった。この気持ち悪さ、吐き気、罪悪感……。
 それらはすべて俺が望んだことでもあったのだ。




 ノックの音が聞こえた。俺は意識を失っていた自分に気付く。
 窓からは太陽の光が差し込んでいた。その光がおぼろげに視界に入り込んでくる。

 いつものように妹の声が聞こえた。「起きてる?」と。「起きてる」と俺はやっとの思いで答えた。

「大丈夫?」

 声の調子で何かを察したんだろう。妹はすぐにベッドに近付いてきて、俺の顔を覗き込んだ。

「ひどい顔」

「元からだよ」

「もっとひどくなってる」

 否定してほしかった。

「大丈夫?」

 俺は身体を起こそうとした。起こそうとしたのに、体に力が入らなかった。

「……風邪?」

「どうかな」


 風邪ではないような気がした。でも、原因が分からない。ただ、肉体が不調を訴えている。
 間接が軋むたびに鋭い痛みが走り、頭痛は鐘の音のように鈍く響き続けている。
 体を起こそうとするとバランスが崩れる。世界がまるごとひっくり返ってしまいそうな感覚。

「……ひどいみたいだね」

 腕に力が入らない。声も、思うように出ない。意識がうすぼんやりとしていて、瞼を開けているのがつらい。

 何もかもが思う通りにならない。

「今日、休んだ方がいいんじゃない?」

 返事ができなかった。
 右手の肘から指先までに、びりびりという痺れが走る。感覚が鋭敏になる。

 妹は俺の額に手を当てた。その手の冷たさが心地よかった。
 心地良い分だけ、“気持ち悪い”。


「うん。今日は寝てなよ」

 妹は勝手に納得してしまったようだった。
 
 意識は既にあやふやで、何が起こっているのかよくわからない。
 泣きたいような感覚。

 俺は額に当てられた妹の手を探す。
 腕の感覚は既になかった。

「……どうしたの?」

 手のひらを握ると、彼女は戸惑ったような声をあげる。
 ただでさえおぼろげな視界が、涙で濁る。

 手のひらは冷たかった。暖かかった。心地よかった。気持ち悪かった。
 混濁した意識は“だれか”の手を求めていた。
 でも、“だれでもよかった”。

 俺の意識はふたたび失われる。「大丈夫だよ」、と誰かが最後に言う。
“気持ち悪い”。


つづく



 
「ねえ、お兄さん」

 眠りの淵で、そんな声を聞いた。

「わたしのことを憐れんでいるの?」

 彼女の声は澄んでいた。

「違うよ」

 俺の答えに、彼女は黙った。

「“捌け口探し”じゃなかったんだね」、と彼女は言った。

「お兄さん、わたしは、お兄さんみたいな人、あんまり好きじゃないけど、少しだけ同情してあげる」

 彼女は悲しそうだった。たぶん、泣いていたのだと思う。

「自己処罰のつもりだったんでしょ?」

 俺は答えなかった。

「わたしたちは少しだけ似ているのかもしれないね」

 声は途絶えた。俺の意識は眠りの中に引き戻される。





 そして、目を覚ました。ノックの音。でも違う。いつもとは違う。
 音の調子はほとんど変わらないけれど、控えめというよりは神経質な感じ。
 
 どこか堅い感じのするノック。それでも、俺は目をさました。

 でも、それは不思議なことだった。俺は妹の手助けがなければ、基本的に目を覚まさない。
 起きられるのは、眠りが浅いときだけ。夢まで見ていたのに、深い眠りではなかったんだろうか。

“だれか”がやってきた。

 気配はふたつ、並んでいた。緊張しているように感じる。
 でも、その気配は、この場所に慣れている。俺の家を知っている。俺の部屋を知っている。
 俺のことを知っている。

「ヒメ?」

 と、俺を呼んだのは、女の声だった。
 次いで、繰り返されるノックの音。こちらの様子を窺っているのだ。
 俺は目をさましている。体調は悪くない。でも、返事はしなかった。

 声だけで、誰なのか分かってしまった。隣にいる相手のことだって。
 


 でも、扉は俺の意思とは無関係にひらかれた。

「起きてた」

 部屋の外から顔を覗かせたのは、幼馴染の二人組だった。
 小学校のときからの付き合い。男二人に女一人の三人で、いつも遊んだ。

 馬鹿みたいにはしゃいで歩いた。
 自転車に乗って街中を探検した。くだらない遊びだっていくつも考えた。
 河川敷にロープや板切れを集めて、秘密基地を作った。人形遊びにも付き合わされた。

 俺たちはいつも一緒だった。

「やあ」、と女の方が言った。「やあ」、と俺は掠れた声で返事をした。

 目が合うと、男の方も「よう」と言った。「よう」、と少し間を置いてから俺は言った。

「なんだか久しぶりだね?」と女の方が言った。たいした皮肉だと俺は苦笑した。


「一年ぶりくらいかな」と俺は言った。

「数ヵ月ぶりだよ」、と男の方は言った。相変わらず冗談の通じない奴だ。

「学校休んでたから、心配で来ちゃった」

 女の方はたいして心配でもなさそうにそう言った。
 いつものようなぼんやりとした声。感情がうまく読み取れない表情。

「心配?」と鼻で笑うと、男の方の幼馴染が不愉快そうに目を眇めた。

「なんだよ、その態度。せっかく人が心配して――」

「――来てやったのに、って言いたいの?」

 我ながら見舞客に向ける態度じゃない。でも、彼らは不法侵入者でもあった。法的には。
 まあいいや、と俺は思った。

「来てくれてありがとう。ちょうど誰でもいいから来てほしいところだったんだ」

「相変わらず皮肉っぽい奴」

 男の方が苛立たしげに溜め息をつくと、女の方は楽しそうに笑った。


「家の鍵さ、場所変えてなかったんだね。玄関の植木鉢の下。防犯上よくないよ」

 女の方は真面目なんだかそうじゃないんだかよくわからない声で言った。
 そうだね、と俺は言った。

「ところで、なにをしにきたの?」

「なにしにって――」

 また、腹を立てて声を荒げそうになった男の方を、女の方が手で制する。
 そのまま彼女が言葉を引き継いだ。

「だから、お見舞い」

 そう言われても、俺は嬉しくなかったし、実感も持てなかった。
 そもそも、自分が学校を休んだのだという事実すら、いまいちつかめていなかった。
 学校への連絡は……たぶん、妹がしたのだろう。頭痛はまだ重く響いている。

「本当にそれだけ?」と俺は訊ねてみた。
 
 女は指先に棘が刺さったみたいな顔をした。


「本当に」と言いかけた女の言葉に、俺は声を重ねた。

「嘘つき」

 俺はせせら笑う。

「本当は?」

「……喧嘩の理由を、ね。聞かせてもらおうと思って」

「喧嘩?」

「したんでしょう?」

 彼女は静かに、俺ともうひとりの表情を見比べる。
 
「べつにしてないよ」

「嘘だよ」
 
 俺の返事に被せるように、彼女は言った。

「そのくらい、わたしにも分かるよ。もし何もないなら、どうして急に、話してくれなくなったの?」



「つまり、俺が体調を崩したのをいいことに、気になってたことを確認しにきたってわけか」

 吐き出す息が熱かった。言葉を発しているという実感が希薄だった。
 夢でも見ているような気がする。それもとびきり悪い夢。

 男の方が声を荒げた。

「そんな言い方することないだろ。俺だって、こいつだって、心配したよ」

「……」
 
 茶番じみていた。何もかもが。
 でも、いちいちそれを指摘することさえ億劫だ。
 なあ、頭が痛いんだよ、と、俺は心の中だけで呟いた。心配してくれよ、と。
 
「良い奴だよな、おまえらは」

 本心から吐き出した言葉。泣きだしそうになるくらい、実感のこもった言葉。
 それなのに、彼らは傷ついたような顔をした。
 まるで俺が、からかうか何かしたみたいに。

 長い時間一緒にいたとしても、それは結局、一緒にいただけのことだ。



 男の方は溜め息をついた。落ち着け、と彼は自分に言い聞かせているようだった。
 喧嘩をしにきたんじゃない、と彼の顔は言っていた。俺にはその程度のことは分かるのに。
 でもきっと、それは"俺のせい"なのだ。

「俺が、何か不愉快なことをしたなら、謝るよ」

 深呼吸をすると、彼の緊張は収まったみたいだった。
 久しぶりに会ったのに、俺が皮肉ばかり言ったせいだろう。彼はすごく苛立っていた。 
 でも、普段はとても穏やかな奴だ。たぶん。本当のことは分からない。

「べつに、そういうわけじゃない」

「……なら、いいんだ。別に。見舞いにきただけだからさ」

 男の方がそう言うと、女の方がほっとしたように溜め息をついた。
 この茶番はいつまで続くんだ?



「どうして急に体調なんて崩したんだ?」と男の方が訊ねる。

「さあ」

「もうよくなったの?」と女の方。

「正直、朝から今まで、記憶がない。ずっと眠ってた」

「……ひょっとして仮病だったとか?」からかうような声で、女の方。

 俺は、ごく控えめにいって、かなり苛立った。

「ま、結果だけ言えば、寝てただけだからね」

「なんだ、サボりだったのか」と、間延びした声で女は言う。
 こいつらの頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
 
「ヒメのことだからきっと、変なところで居眠りして、風邪ひいたとか、そんなことだろうと思ってた」

 女が笑うと、男も笑った。俺も笑った。彼らは俺が笑ったのを見て安心したように笑いを強めた。
 ――バカバカしかった。



「テストが終わったからって、あんまりサボるなよ」と男の方。

「ヒメはどうせ、授業でなくても勉強できるからいいんだろうけどさ」と女。

「あはは」と俺は笑った。自分でも分かるくらい平板な笑い方だった。
 でも、彼らは気にならないみたいだった。どうやら俺には愛想笑いの才能があるらしい。

「ねえ、ヒメ」と女の方が不安げに口を開く。

「昔みたいに、また、遊びに来てもいい?」

「いいよ」と俺は言ったが、少ししてヒナのことを思い出した。彼女はなんていうだろう。
 それすらも、今はどうでもいい。頭が痛い。うまく、考え事ができない。

「こうやって話してると、やっぱり落ち着く」、と女は言う。

「うん」と男の方はそっけなく頷いた。

 そうなんだ、と俺は思った。なあ、でも、そんなことより、俺はいま、頭が痛いんだ。とても。


 不意に、玄関の扉が開く音がした。俺は時計を見たけれど、まだ妹が帰ってくる時間ではない。 
 誰だろう、と考える。母は死んだ。父は帰ってこない。この家に来る人なんて誰もいないはずなのだ。
 俺のせいだ。

 この二人と話していると、俺はすごく孤独になる。強烈な疎外感に揺さぶられる。
 それも俺のせいだ。

 靴を脱ぐ音。階段を昇る音。廊下を歩く音。
「誰?」と男の方が言う。「たぶん」と女の方が何かを言いかける。

 控えめなノックの音。

 ドアが軋む。

 当たり前のように部屋の中に踏み込んでくると、妹は部屋の様子を確認した。
 ベッドから体を起こさないままでいる俺を見て、少し不安そうな顔になる。

 それから、客人ふたりの姿を見て、怪訝げな顔をした。

「お邪魔してます」と女の方が言った。男の方は頭をさげた。



「どうも」と妹は儀礼的に返事をした。そしてごまかすような愛想笑い。
 彼女はきっと、彼らのことをあまり好きじゃなかった。

「えっと、お見舞いに来てて。ごめんね、勝手にあがっちゃって」女が言う。

 男は頷く。俺は溜め息をついた。

 妹はすぐに状況を把握したのか、戸惑ったような素振りも見せずに、二人に向き直る。

「そうですか」と、それだけ言って、彼女は手に持っていたビニール袋からペットボトルを取り出した。

「飲む?」

 俺は差し出されたスポーツドリンクを受け取る。ひどく、喉が渇いていたのだ。

「ありがとう」と俺は言った。

「どういたしまして」と妹はそっけなく言った。
 
 言葉以上に、俺は感謝していた。



「相変わらず、仲良いんだね?」

 女の方が言う。妹は返事をしなかった。さすがにまずいなと思って、俺が言葉を引き継ぐ。

「過保護なんだよ」

 もちろん、本気じゃない。体よくあしらうために、適当なことを言った。

「ヒメがいけないんでしょ。その気になれば自分でなんでもできるくせに、人任せにして」

「なにそれ」

「わたしたちが苦労しないとできないことを、ヒメは簡単にこなすもんね。そのくせ、一番やる気がなくてさ」

 そういうふうに思われていたのか、と俺は思った。なんとなく、知っていたけれど。

「勉強もそうだし、家事も、運動も、ほとんどのこと」

 女は独り言のように続ける。男は気まずそうに黙っている。まるで口惜しがっているみたいだ。
 


 なあ、気付かないみたいだけど、気付かせないようにしてたんだけど、俺は頭が痛いんだよ。
 頭が痛い。隠していたから分からないんだろうけど。

 なんだか胸が苦しくなって、現実逃避に眠ってしまいたくなった、そんなとき、

「――帰ってください」

 声が鋭く、部屋に落ちた。

 声は、それまでの空気を切り裂いて粉々にした。
 俺は呆気にとられた。

「兄貴、まだ体調悪いみたいなんで、帰って下さい。話があるなら、治ってからにしてください」

「……あ、そうだよね」

 女の方は、少し唖然としていたが、やがて納得したように頷く。本心から納得したようには見えなかった。
 たぶん、彼女は俺の不調に気付いていなかった。あるいは信じていなかった。

 久しぶりだから? いろんなやりとりがあったせいで、表情の意味が掴みづらかったから?
 いずれにしても、気にしていなかった。


「それじゃあ、帰るね。また学校で」

 女の方はそう言って部屋から出る。男の方は軽く頭をさげて、それを追いかける。
 妹は追い出すみたいにして部屋の扉を閉めた。

 遠ざかる足音。階段の軋み。玄関のドア。閉まった。

 部屋の中には俺と妹だけが取り残された。痛いほどの静寂。

「学校、休んだの?」

 少しの沈黙の後、俺はそう訊ねた。

「覚えてないかもしれないけど、お兄ちゃん、ほとんど気を失うみたいに眠ってたんだよ」

「……放っておいてくれてよかったのに」
 
「真っ青な顔で眠りながら、ずっとうなされてる人を? ねえ、放っておくわけ、ないでしょ?」

「……うん。ありがとう」
 
 俺は本心からそう言った。妹は俯いてしまった。


「なあ」

「……なに?」

「どうしておまえが泣くんだ?」

「……お兄ちゃんは、どうして泣かないの?」

 俺は答えなかった。

「悲しくないの?」

「何が?」

「あの人たち、ずっと一緒にいたのに、お兄ちゃんのこと、何も知らないんだよ」

「……」


「お兄ちゃんが眠りたくて眠ってるんじゃないってこと。みんなに追いつくために、陰で一生懸命勉強してるってこと。
 家事だって、しなきゃならないから覚えたんだって。どうして、それをあんなふうに言えるの?」

「隠してるのに気付いてほしいなんて、虫の良すぎる話だろ」

「……どうして隠すの?」

「がんばるって、なんか、恥ずかしいだろ」

「……バカみたい」、と彼女は泣きながら笑った。俺は少しほっとした。

 隠しているから気付かれない。気付かれないのも、俺のせいだ。
 何もかもが全部。

「あの人たちは、お兄ちゃんのこと、何にも知らないんだよ」

「うん」

「それでも、お兄ちゃんは……」

 何かを言いかけて、妹の言葉は途切れた。
 きっと、彼女にだけは、全部を見透かされていた。いろんなことのすべて。
 反論のしようもないくらいに。

つづく

520-3 体を俺の体を → 俺の体を

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom