美希・雪歩「レディー!」 (27)
【序】
会場が割れんばかりの拍手と歓声に包まれ、観客の誰もが皆、新たなトップアイドルの誕生を祝福する。
その時、ステージに立っているのは俺達じゃなかった。
孤独こそが人を強くする、というのは黒井のおっさんの口癖であり、俺達も散々言い聞かされてきた言葉だ。
実際、その通りだと思った。
今でこそ俺達はユニットを組んでいるが、突き詰めるとこの業界は個人の実力が全てであり、甘えは許されない。
だから、俺は北斗や翔太に対して、常に厳しい姿勢で臨んだ。
ダンスの振りを間違えたり、時間に遅れたり、ここ一番って時に体調を崩したりしようものなら、容赦なく責めた。
逆に、俺にも至らない所があれば、同じように責めてもらった。
馴れ合おうなどとは一切考えなかった。
たとえ仲間同士だろうと、緊張感が無ければ個人の成長なんて望めるはずがない。
他の二人も、同じように考えていたと思う。
だから、765の連中を見ると、俺は虫唾が走って仕方がなかった。
仲良しこよしでオシゴトしてりゃ、そりゃあ楽しいだろうさ。
だが、少なくとも俺はあいつらを認めなかった。
あいつらは互いに馴れ合うばかりで、トップアイドルになるのを目的としているのではないと感じたからだ。
お遊びしてぇなら他所でやれ。心底そう思った。
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実際、オーディションで顔を合わせれば、俺達の圧勝だった。
当然だ。こっちは真剣なんだ。あいつらとは違う。
だが、そんな中でも、対決が終わればあいつらは互いに「良くやった」、「そう気を落とすな」、「次は頑張ろう」などと慰めあっていやがる。
自分の実力が不足している現実を認めようとしないのだ。
とことん腹の立つ連中だぜ。
その中で一度、際どい勝利を収めた時があった。
いや、アクシデントが無ければ、あれは俺達が負けていたのかも知れない。
だが、それも含めての実力だ。
当日に合わせ、万全の準備を整えることができなかった奴が悪いのだ。
しかしそれ以降、765との対決で楽に勝てるケースは少なくなっていった。
俺達を脅かした当人は出てこなくなったが、あの日から、他の奴らの目つきがハッキリと変わったのが見てとれた。
敵討ちのつもりなのか知らねぇが、逆恨みも甚だしいぜ。
こいつらにだけは負けたくない。こいつらにだけは。
だが今日、俺達は負けた。
もし万が一今日という日が来るとしたら、どんなにか悔しいことだろうと恐れていたが、これだけハッキリとした敗北だと逆に清清しい。
それに、あいつらの強さがどこから来るものなのか、良く分かった。
結局俺達は、俺達が否定し続けたものに負けたのだ。
悔しがる筋合いなど、元々俺達には無いのだろう。完敗だ。
こうなったら、とことん見せてもらうぜ。
俺達を負かしたものが、どれだけ観客をワクワクさせられるのかを。
盗めるものは何でも盗んでやる。次は負けねぇ。
北斗と翔太が俺を笑っている。黒井のおっさんが何やらうるせぇ。
構うものか。
観客の一人になって、俺は声の限り合いの手を叫んだ。
【1】
さっきから電車内の騒がしい声を我慢していた律子の鼻先に、タバコの煙が漂ってきた。
煙の元は、優先席に座っている三人組みの男達だった。
京浜東北線の電車内で大声で話すだけでもマナー違反なのに、喫煙までするなどもってのほかだ。
挙句、目の前に老婆がいながら、その男達は彼女に席を譲ろうともしないのだった。
周囲の乗客は、彼らに対し無視を決め込んでいるようだった。
しかし、律子は男達を睨みつけた。
アイドルのプロデューサー、すなわち指導者という職業的な立場もあったが、それよりも一人の乗客として許せなかったのだ。
隣にいた雪歩は、不吉な予感を察知し、何とか律子の気を逸らそうとするが、あまり良い方法が浮かばずにうろたえている。
やがて、彼らの一人が律子の視線に気がついた。
男達は互いに目配せをした後、タバコを床に捨てて席を立ち、ニヤニヤしながらゆっくりと律子達の方へと近づいてきた。
「どうしたよ、姉ちゃん?」
男の一人が律子に声をかけた。
下劣な視線に、律子は決して動じる素振りは見せまいと思った。
「電車の中は公共の場であり、禁煙です。
自分達の行いを振り返って、人として恥ずかしいと思わないんですか?」
男達は、律子の言う事にまともに取り合う様子も無く、ただニヤニヤしている。
だが、すぐに律子の後ろに隠れているボブヘアーの少女の存在にふと視線を向けた。
「お嬢さん、かわいいね」
声をかけられた雪歩は小さく悲鳴をあげ、律子の服を掴んで肩を震わせている。
「こっちの気の強そうな眼鏡も良いけど、俺はこっちの子の方が好みだなぁ」
「良いじゃん、二人とも俺達とどっかお茶しに行こうぜ」
男が雪歩の肩に手を伸ばした時、律子がその手を掴んだ。
「ウチの子に手を出さないで。駅員さんを呼ぶわよ」
男達は目を合わせ鼻で笑うと、突然その一人が律子のブラウスの胸元を掴んだ。
後ろで雪歩が、きゃあと悲鳴を上げた。
「欲求不満なら俺達が相手してやるってんだよ、下手に出てるからって調子乗ってんじゃねぇぞ」
男がそう言って律子の胸ぐらを揺さぶると、ブラウスのボタンが一つ飛んだ。
他の二人が、ゲラゲラと下品な笑い声をあげる。
律子は、恐怖で涙が出そうになるのを堪えた。
「止めて下さい——お願いですから」
雪歩はそう口に出したつもりだったが、体が震えて思うように声が出ない。
唇を噛み締めている律子の顔を見て、男達はなお満足げにニヤニヤ笑っている。
その時、電車はいつの間にか浜松町に着いたようだった。
扉が開き、一人の少女が乗り込んできた。
「あふぅ、何か変な人だったなぁ」
少女は、喧嘩沙汰で騒然とする車内の空気などお構いなしに、ブツブツと独り言を呟きながら、先ほどまで男達が座っていた優先席に腰を下ろした。
「あれっ、お婆ちゃん何で立ってるの? 席、こんなに空いてるよ?」
呆気に取られている老婆に対し、少女は自分の隣の座席をパシパシと叩き、手招きするのだった。
自分達の座席を横取りされ、男達は露骨に不愉快そうな表情を見せたが、すぐにその顔色は変わった。
ウエストまで伸びるブロンドの髪。
幼さは残るが端正な顔立ち。
良好なスタイルとそれを際立たせるファッション。
男達は、自分達が座っていた席で物憂げに携帯を弄る少女に目を奪われていた。
恐怖感が薄らぎ、憮然とした表情で見つめる律子を他所に、男達は再び互いに目配せをした。
そして、律子を乱暴に突き放すと、ゆっくりと金髪の少女の下へと歩み寄った。
少女は男達に気づいていないようである。
「よぉ、そこの彼女。何それ、あぁ、かわいい携帯だね〜」
男の一人が、少女の携帯を見て声をかけた。
少女は顔を上げ、不思議そうに男達の顔を順番に見た。
「でもさ、知ってた? 優先席って、携帯使っちゃいけないんだよ」
さっきまでタバコを吸っていたくせに何を!
律子は、今にも男達を怒鳴ってやりたい気持ちでいっぱいになった。
「えっ、そうなの? ごめんなさいなの」
少女は、素直にそう返事をすると携帯を閉じ、ポケットにしまおうとした。
その瞬間、男の一人が少女の持っていた携帯をサッと取り上げた。
「あっ、何するの!」
「教育的指導ってヤツさ。あんたのように悪い子の携帯は、お兄さん達が没収しとくぜ」
パッと手を伸ばす少女をあざ笑うかのように、男は携帯を高々と上げてみせた。
少女は、いつの間にか自分が男達に囲まれる位置に立っていることに気づいた。
「今日一日、俺達と一緒に遊んでくれれば、携帯も返してやるよ」
一人の男がそう言うと、残りの男達は少女を威圧するように顔を近づけてきた。
だが、少女の返答は、誰もが予想するよりも短く単純なものだった。
「ヤ」
一瞬、何を言われたのか分からず、男達はもう一度少女に聞いた。
「ヤ、って言ったの。ありえない」
「だってミキ——あっ、ミキっていうんだけどね?
ミキ、あまりお兄さん達みたいな人って好みじゃないもん。
タバコ臭いし、服も顔も何か汚いし、ちょっと一緒に歩きたくないって思うな。
だから、携帯返して」
歯に衣着せぬ物言いで、ミキと名乗る少女は男達をバッサリと切り捨てた。
あまりの言い草に、男達はしばし呆然としていたが、やがて一人が激昂し少女に掴みかかった。
「なめてんのか、このクソガキ!」
「ヤ! ちょっと、離してよ!」
「いい加減にしろ!」
男達が少女に乱暴する様子を見るに見かねて、乗客の一人が声を上げた。
男達は咄嗟にその乗客の方を睨んだが、その一声に端を発し、周囲から次々と男達を非難する声が上がった。
「そうよ、嫌がってるじゃない!」
「自分達の方からけしかけといて、何様のつもりだ!」
「その子だけじゃない、皆も迷惑してるんだぞ!」
まさか、さっきまで傍観していただけの連中にここまで言われるとは。
一人二人ならまだしも、同じ車両にいたほぼ全ての乗客が一斉に少女に味方し、男達を取り巻いた。
予想外の展開に、男達は途端に戦意を喪失した。
ちょうど、電車は田町に着くところだった。
扉が開くや否や、男達は少女の携帯を乱暴に投げ捨てると、逃げるように電車から降りて去って行った。
少女は、男が投げ捨てた携帯を手に取った。
そして、角についてしまったキズを見てガッカリした後、再び元の席に腰を下ろした。
「お嬢ちゃん、ありがとうねぇ」
つまらなそうな顔をしていた少女に、隣に座っていた老婆が優しく声をかけた。
「あの人達、騒いだりタバコ吸っていたりして、皆迷惑していたんだけれど、いざってなるとなかなか注意する勇気が出なくて」
「ミキ、ありがとうって言われるような事した?」
「えぇ、そうね。私達が注意しようって思うきっかけを作ってくれたわ」
「んー、良く分かんないけど、こちらこそ助けてくれてありがとうなの!」
少女は元気良く老婆に返事するとその場に立ち上がり、車両の端まで届くよう他の乗客に向かって再びお礼の言葉を述べた。
その後、車両に拍手がポツポツと鳴り響いたのだった。
少女は品川で降りた。
二駅分しか電車に乗っていなかったが、その短い間に彼女が他の乗客に与えたインパクトはあまりにも強烈だった。
律子と雪歩も同様だった。
自分が絡まれた時に助けが無かったことを思い出し、少しムッとしたが、今はそれよりも、律子は天真爛漫な少女の事で頭の中がいっぱいだった。
雪歩は、少女に終始見とれていた。
大勢の乗客からの拍手を受けるその姿は、アイドルの自分よりもずっとアイドルらしかった。
蒲田で東急多摩川線に乗り換えてからも、二人の脳裏にはずっと少女の事が頭から離れなかった。
彼女の金髪が眩しかったせいだろうか。
今も何となく、太陽を直接見た時のように目がシパシパしている。
翌日、新しいアイドル候補生をスカウトしたと、プロデューサーが鼻息を荒くして律子に話した。
その名前に聞き覚えがあったため、律子はどんな子なのかと問いかけた。
「金髪ロングでスタイル抜群、でもあどけなさが残る顔が印象的だったなぁ。
昨日、浜松町を歩いてたところを見かけてさ」
やはりあの子だ。
昨日の出来事をプロデューサーに話すと、プロデューサーはひどく驚いた。
「何とも運命的だな。
今日、午前中にここに来てくれる予定だから、もし時間が合えば律子も同席してくれるか?
昨日の話題を出せば、彼女も食いついてくるだろうし」
今日は、午後から春香と伊織、雪歩のレッスンに付き合うので、それまでで良ければと律子は答えた。
プロデューサーは、今からあの少女に会うのが待ち遠しいようで、何度も事務所の壁にかかった時計に目をやっている。
素っ気無く返事をしたものの、内心は律子も知らず知らずのうちに胸を高鳴らせていた。
まさか再会する日が来ようとは。それもこんな早くに。
思えば、あの電車に彼女が来てくれていなければ、自分はあの後どのような目に遭っていたか分からない。
昨日の話題を出した際に、お礼を言っておくのも良いだろう。
だが、約束の時間が過ぎ、午後になっても少女はやってこない。
レッスンがあるので、律子は候補生の三人を車に乗せ、事務所を出た。
結局、その日のうちに少女が事務所を訪れることはなかった。
少女が事務所に来たのは、その翌日のことだった。
「先生に会いに行ってたの」
星井美希は、昨日事務所に来なかった理由を律子が聞くと、そう答えた。
学校の先生かしら。
「ううん、違うよ。カモ先生なの」
カモ先生? 加茂、賀茂——?
いずれにせよ、彼女にはお世話になっている先生がいるらしい。
律子は、深く追求するのは止めておいた。
「まぁ、用事で来れなくなったら電話なりで連絡をくれると嬉しいわね。
こちらが招いた手前、強くは言えないけれど」
「うん、分かったの。ごめんね」
今度からは気をつけるように、と律子は念を押した。
言葉遣いも、今後直していく必要がありそうだ。
プロデューサーはこの日、あずさとやよいを連れて営業に出ていた。
だから、美希の面接は律子が担当した。
なぜ私が———。
プロデューサーがスカウトしたのなら、彼が責任を持つべきだとも思ったが、律子自身も彼女に会いたいと思う気持ちはあった。
おあいこという事にしておこう、と無理矢理自分を納得させ、律子は質問を続けた。
「何か音楽に関する経験は? 例えば、ピアノを習っていたとか」
「カラオケは皆とたまに良く行くよ?」
「運動は得意かしら? この業界、ダンス以外にも割と体力勝負な側面もあるのだけれど」
「えー、疲れるのはヤなの」
「ずばり聞くけど、やる気はある?」
「良く分かんない」
質疑を繰り返しても、なかなか前向きな答えが返ってこない。
律子はめまいがしてきた。
美希はおそらく、アイドルという職業に興味があった訳ではないらしい。
一昨日プロデューサーに声を掛けられ、たまたま暇だったから今日来たということだろう。
律子は、15分程度の面接を経てそう解釈した。
ならば、興味を持たせてやろうではないか。
それに、アイドルとしての適正をはかる手段は質疑応答だけではない。
春の陽気に誘われ、まぶたが半分落ちかけている美希を連れて、律子は事務所を出た。
765プロの事務所は、たるき亭ビルというオフィスビルの4階にある。
エレベーターは故障しているので使えないため、屋内の階段を上り下りしなくてはならない。
階段を下りる間、美希は欠伸を繰り返していた。
タクシーを捕まえて向かった先は、地元の自治会館だった。
既に事務所の車が駐車場に停められている。
ちょうど、あずさとやよいの出番が始まる時間であった。
受付を済ませ、美希の手を引き、律子は庁舎内の2階にある大会議室へと向かった。
扉を開けると、パイプ椅子に座った老人や親子連れの前に設けられたステージに、二人が立っていた。
ステージの後ろの壁には、『自治会館会議室改装記念ステージ』と書かれた看板が架かっている。
下の余白には、小さく『765プロダクション 三浦あずさ様、高槻やよい様』とあった。
およそ60名ほどの観客からは概ね好評のようであり、やよいが『おはよう!!朝ご飯』を、あずさが『9:02pm』を歌うと、大きな拍手が沸いた。
子供達はやよいの歌が、大人達はあずさの歌が特に気に入ったようである。
期待通りの仕事を終えた二人を、プロデューサーと律子は暖かく迎えた。
「あら〜、律子さんも来てくれていたんですか〜」
右頬に手を当て、少し恥ずかしげにあずさは言った。
小さなライブを終え、興奮気味のやよいがそれに続く。
「うれしいですー!
あっ、これ自治会館の人たちからもらった、しょ、しょれい? ——しょれい金です!」
茶封筒に入れられた謝礼金を、やよいはプロデューサーに差し出した。
「あぁ、これはやよいがもらって良いんだよ。しかし、君も良く来てくれたな」
プロデューサーは、茶封筒を丁寧にやよいの手元に返すと、律子の後ろにいる美希の顔を上から覗き込んでみた。
美希は、まだ何となく眠そうな顔をしている。
「あふぅ。この人に連れられたから来ただけなの」
それはそうなんだけど———。
何か言い返したくなるのを我慢して、律子は美希にライブの感想を聞いてみた。
「うーん、ちょっと想像してたのと違うってカンジかな」
それはどういう意味なのか、プロデューサーや律子が聞くよりも先に、美希が続けた。
「アイドルって、もっと大っきな会場で、たくさん人がいる前で歌ったりしないの?
子供やおじいちゃんおばあちゃんの前で歌うのって、テレビの1chを見てるみたいで眠くなっちゃったの」
あずさとプロデューサーは、困ったような顔をして笑っている。
やよいは、言い返す言葉が無くて、黙って俯いてしまった。
765プロがまだまだ弱小のアイドル事務所であることは自覚していたが、こうも面と向かって言われると穏やかならぬ気分になる。
悔しさに耐えかねて、律子は再度美希の手を引いた。
「ちょっとレッスンに連れて行きます」
そういう生意気な台詞は、ウチの子達が身を置いている世界がどれだけ厳しいものなのかを知ってから言ってほしいわ。
律子は、昨日の礼を言うのも忘れ、いつの間にか美希を何とか見返してやりたいという気持ちに支配されていた。
プロデューサーから半ば強引に事務所の車の鍵を受け取り、律子は第二京浜を北へ向かった。
五反田駅を過ぎ、品川にある衆議院の議員宿舎へ向かうよう交差点を右折すれば、通り沿いに765プロ御用達のレッスンスタジオがある。
およそ10分ほど車を走らせ、ダンスレッスンが行われている部屋の扉を開けると、春香と雪歩、真が休憩しているところだった。
真の姿を見て、律子はしめたと思った。
今日のこの時間は、確か別の部屋で千早がボイストレーニングを行っているはずである。
ダンスとボーカルそれぞれで看板を張るアイドル達の実力を目の当たりにすれば、美希も765プロを見直すのではないだろうか。
「あっ、律子さん、お疲れ様です! その子は誰ですか?」
真っ先に声をかけたのは、天海春香だった。
765プロに在籍するアイドルの中でもその経歴は長く、メンバーの中心的存在である。
首元にタオルをかけ、ペットボトルを片手に近づいてくる。
「この子はウチの新しい候補生よ。星井美希さん。さっ、自己紹介してもらえるかしら?」
律子は簡単に紹介を済ませると、美希の背中をポンと押した。
「あふぅ。星井美希なの。ここってどこ?」
車の中でウトウトしていた美希は、いまいち自分がなぜここにいるのか分かりかねているようだった。
「ここはウチの事務所が良く使ってるレッスンスタジオだよ。ボクは菊地真、よろしくね!」
黒いタンクトップを着たボーイッシュな少女が美希に握手を求めた。
「うわー、カッコイイの! 男の子もいるんだね」
「ボクは女の子だよ!」
美希がいくら真の容姿を褒めたところで、褒めるベクトルが違うために真は憤慨するのだった。
「ダンスの練習風景をこの子に見せてあげたいの。一度、通しでやってみせてちょうだい」
律子の目線は、真と美希の方へ交互に向けられていた。
三人は元気良く返事をすると、音源をセットし、配置についた。
「真を良く見ていなさい。あの黒いタンクトップの子」
律子は、美希の耳元にそう告げた。
美希は曖昧に返し、ボーッと三人のセンターに立つ真の方へ目を向けた。
曲が始まり、アイドル達のダンスに律子は腕組みをして目を光らせる。
春香は、昨日言われた事がまだ直っていない。半拍遅れている。
雪歩は、どうしてもターンが苦手のようだ。
あと、突然の来客に萎縮しているのか、手の振りもいつもより余計に小さい。
その一方で、真はさすがの切れを見せていた。
比較的背は高い方だが、ダイナミックなダンスでそれ以上に体が大きく見える。リズム感も良い。
持って生まれた資質だけでなく、たゆまぬ努力に裏づけされた実力であることは、プロデューサーも認めるところであった。
約3分程度のダンスを終えると、律子は三人にそれぞれの課題を告げた。
だが、その時の表情がなぜか勝ち誇っているようにも見えたため、アイドル達は少し不思議そうに首を傾げながら返事をした。
「さて、どうだったかしら? ウチの子達のダンスは」
律子は、美希の方へと向き直り、きっと得られるであろう賞賛の言葉を待った。
「すごかったの。特に真クンって人のダンス、すごくカッコ良かったの」
だから君付けで呼ぶの止めてってば———素直に喜べない真を尻目に、美希は続けた。
「今のダンス——えぇと、こうきて、こうなの?」
突然、美希はその場でステップを踏み始めた。
アイドル達のダンスを見て、少し気が乗ってきたのかも知れない。
しかし、律子が次の瞬間驚いたのは、美希のそのセンスであった。
少したどたどしくはあるが、美希は一度見たダンスの振り付けの前半部分を、ほぼ間違えることなく踊ってみせた。
765プロ関係者以外の誰かに披露したのは、今回美希が初めてのダンスである。
「えっ!? す、すごい! 今の見ただけでもう覚えちゃったの?」
春香は動揺を隠せなかった。
雪歩や真も、信じられないと言った表情で互いに顔を見合わせている。
「うーん、間違ってたらごめんなの」
「バッチリ合ってるよ、すごい! ちなみにさ、後半はどう?」
真に促され、美希は首を傾げながらも後半部分を踊った。
その振り付けも、概ね正しいものであったため、アイドルの三人はいよいよ悲鳴にも似た歓声をあげた。
「天才ですよ、天才! 律子さん、良くこんな子を見つけてきましたね!」
春香は律子の方を向き、抑えきれない興奮を露にした。
そして、もう一度美希の方へ向き直ると、一度一緒に踊ってみないかと誘った。
「えー? でもミキ、靴持ってないし」
「あ、あのぅ———良ければ、私の靴を使って下さい。ちょっと、小さいかもだけど」
渋る美希を促すように、雪歩が自分の靴を差し出した。
美希は、断ることもできなくなったことを理解し、雪歩の靴を受け取ると上着を脱ぎ、春香や真と一緒に立った。
まさか———不安と期待が入り混じっていたが、曲が始まるとすぐに律子の気持ちから不安が消し飛んだ。
真には一歩も二歩も譲るが、美希は一度も止まることなく、他の二人と一緒にダンスを踊ってみせたのだった。
しばし呆然としていたが、すぐに我に返り、律子は美希を素直に賞賛した。
「まさか私の方が驚かされるなんてね」
美希は、もう動きたくないと言った様子でその場に座り込みながら、めんどくさそうに律子の顔を見た。
「アイドルって、大変だね」
その実力をつけるまでが大変なのよ、と言い返そうと思ったが、律子は止めておいた。
ダンスの実力は申し分無い。では、ボーカルはどうだろうか。
律子は、三人に労いの言葉をかけると、もう帰りたいと言う美希の手を引き、別の部屋へ向かった。
765プロが誇る歌姫、如月千早のいるボイストレーニングルームである。
扉を開けると、千早はコーチと共に熱心に発声練習を行っていた。
来室にしばらく気づいていない様子だったが、コーチが律子達に挨拶すると、ようやく千早も向き直り丁寧にお辞儀をした。
「お疲れ様です、秋月さん」
「律子で良いと言っているでしょう? 敬語とかも、別に気を使わなくていいわよ」
「そうだったわね」
千早はフッと笑うと、律子の後ろにいる金髪の少女に目をやった。
「ミキも律子って呼んでいい?」
「あなたは、しばらくさん付けで呼びなさい」
えーっ、とわがままな表情を浮かべている美希を見て、千早は手を口元に添えて忍ぶように笑った。
「如月千早です。よろしく」
お互いに簡単な自己紹介を済ますと、律子は真達にそうしたように、千早に一曲通しで歌ってみるように言った。
「曲は———じゃあ、『蒼い鳥』で良いかしら」
コーチにお願いをして音源をセットしてもらい、千早はマイクの前に立った。
『蒼い鳥』は、まさしく千早のためにある曲だと律子は感じていた。
十分な声量に加え、ビブラートを利かせた伸びのある千早の歌声は、765プロでも随一である。
それに加え、どことなく悲壮感を漂わせるこの曲は、時折影を見せる千早のイメージにも合っており、ある種の完成形に達しているとさえ思った。
通しで歌い終えて、千早は少し首を捻っていた。
自分で納得できない箇所がいくつかあったようで、手に持った譜面に何やら細かく書き込んでいる。
ストイックな性格も、千早の良い所であると律子は解釈している。
律子は、美希に感想を聞いた。
やはり、千早の歌唱力は美希も認めたようであり、しきりにすごいと連呼していた。
「普段もずっとこういう練習してるの?」
「えぇ。そうね、レッスン以外にも、例えば自宅で腹筋をしたりだとか」
「えっ、腹筋!? 何で、ちょっと触っても良い?」
突然、美希にお腹をさすられて、千早はかなり戸惑った。
律子が慌てて止めに入る。
「すごいなぁ。ミキには絶対マネできないの」
「あなたも、何か一曲歌ってみない?」
突然の律子の提案に、美希は「えっ」と間の抜けた声を上げた。
美希を連れてきた目的は、765プロの実力を見直してもらうだけでなく、彼女の実力を見るためでもあった。
「歌える曲あるかなぁ」
「最近の曲は、こっちの棚にあるわよ」
千早に案内されると、美希はしばらく曲を探した後、一枚の音源を手に取った。
「カラオケで良く歌う曲なの」
『蒼い鳥』とは趣向の違う、若い女性アーティストのアップテンポで華やかな曲だ。
律子は頷いた。
何となく予感はしていたが、すぐに律子のそれは的中した。
美希は、ボーカル面でも抜群の歌唱力を見せた。
声の質も歌い方も、聞いている人を楽しませ、高揚させる不思議な華がある。
先ほどのダンスも、練習こそ十分でないためにたどたどしかったが、もし十分な練習期間を設けて磨き上げたダンスに、この歌唱力が合わされば——!
「お疲れ様。良い歌声だったわ」
千早は、賞賛の言葉を述べながら、美希に水を渡した。
「そういえば、さっき踊った後も水飲んでなかったから、喉がカラカラなの」
美希は、千早から手渡されたコップを持つと、一息に飲み干し、ふぅと息をついた。
「でも、アイドルって大変だね」
ダンスを終えた時と同じように、美希が疲れた様子で言った。
「そんな事無いわ。あなたは十分やれるわよ、自信を持って」
こんな所で、金の卵をみすみす逃す訳にはいかない。
律子は、何とか美希を引き止めようと必死になった。
「ううん、別にやりたくないって言うんじゃないの。
でも、ミキ的にはもうちょっとのんびりアイドルやりたいって思うな」
どうやら、レッスンに連れて来たのは間違いではなかったらしい。
見返してやる事はあまり出来なかったが、アイドルに興味を持たせる事には成功したようだ。
欠伸をしながら答える天才を見て、律子は何とかしてこのじゃじゃ馬をトップアイドルへと導かなくてはと思った。
【2】
突然、律子がレッスン室に連れてきた少女を見て、雪歩の心臓は大きく高鳴った。
星井美希と名乗るその少女は、つい先日、電車の中で雪歩達を助けた子であった。
二日ぶりの再会でも、彼女の姿は雪歩の瞳の奥にまぶしく映った。
あの日のお礼を言わなくては———
そう思いながら、掛けるべき言葉が思い浮かばずにまごついていると、律子から一度ダンスを通しで行うようにと言われた。
今日レッスン室にいたアイドルの中で、自分だけまだ自己紹介も済んでいない。
雪歩は言われるがまま配置についたが、とてもダンスに集中できる心境ではなかった。
案の定、踊り終えると、律子から振りが小さく縮こまっていることを指摘された。
いつも言われる事なのだが、どうしても直らない。
普段の自信の無さが、ダンスにも現れてしまうのだった。
そして驚いたのが、美希の才能である。
何せ、自分が練習によってようやく通しで踊れるようになったダンスを、あの少女は一度見ただけで覚えてしまったのだ。
一緒に踊ろうという春香の提案に渋る美希へ、雪歩は自分の靴を差し出した。
私も、美希ちゃんのダンスをもっと見てみたい。
普段は真のダンスに見とれるのだが、今日の雪歩は美希のたどたどしいダンスに終始目を奪われていた。
千早の様子も見に行くと言って、律子達が部屋を出てからも、残った三人は美希という少女の話題で持ちきりになった。
「雪歩は、あのダンスを通しで踊れるようになるまでどれくらいかかった?」
春香にそう聞かれ、雪歩は頭の中のカレンダーを一枚ずつめくり直してみた。
「い、一週間———ううん、えっと、十日間、くらいかな」
「だよね、やっぱそれくらいかかったよね!
それがえぇと、5分? 大体5分、すごくない!?」
幾分大げさな仕草で美希のすごさを興奮気味に話す春香に、雪歩は少しおかしくなって笑った。
「真ちゃんは、初日からほとんど止まらずに踊れてたよね」
「いや、それは言い過ぎだよ雪歩。
それにしても、あの美希って子、ちゃんと練習したらどうなるんだろう」
うーん、と唸りながら、真は腕組みをした。
「ダンスだけは、誰にも負けない自信があったんだけどなぁ」
「でも、あれだけすごい子が本当にウチに入ったら、きっとプロデューサーさんも喜ぶよ」
春香はまだ興奮が冷めないようだ。雪歩も同調してそれに続く。
「すごくキラキラしてたなぁ。同い年——いや、少し下かな」
「もしそうなら、ますますボク、負けてられないよ」
雪歩達の話に感化され、真が立ち上がった。
「ほら、練習再開しよう!」
その後の練習中も、雪歩は美希の事をずっと考えていた。
千早ちゃんの所に言った後、もう一度ここに寄るのかなぁ。
だとしたら、今度はちゃんと自己紹介して、お礼を言わないと。
春香ちゃんが事務所の中を案内したいって言ってたから、私も一緒について行こうかな。
結局、律子達が雪歩達のいる部屋に再度立ち寄ることは無かった。
しかし、美希は歌唱力も並外れたものを持っていたらしい。
後日、律子からそれを聞いて、雪歩は何だか嬉しくなった。
翌日から、美希は事務所の話題の中心にいた。
水瀬伊織は、真と同様に美希に対してライバル意識を持った一人だった。
「ちょっと実力があるからって、まだ一花咲かせていないのはあんたも一緒なんだからね!」
ソファーに寝転がっている美希の前に立ち、ウサギのぬいぐるみを抱きながら人差し指を突きつけ、伊織はすごんで見せた。
「うーん、そんな事言われても、ミキ、昨日来たばかりなの。
それに、そんなに急がなくても、皆ももっとのんびりすれば良いんじゃないかな」
「私はあんたと違って、見返さなきゃいけない人がいるからモタモタしてられないのよ!
あんただって、そうやって悠長に構えていられるのも今のうちだってこと、覚えておきなさい!」
「ふーん。頑張ってねデコちゃん、あふぅ」
「なっ———デコちゃん言うな!」
自身の特徴的な額からおかしな愛称で呼ばれてしまい、伊織は赤面した。
双子のアイドルである双海亜美、真美は、すぐに美希に懐いたようだった。
初日から、タバスコ入りツナマヨおにぎりを食べさせられた美希が、亜美と真美を追いかけている。
彼女達の悪戯には、さすがに美希も黙っていられないようだ。
「寝起きになんてもの食べさせるのー!」
「ミキミキがソファーを独り占めしてたのが悪いのだよん!」
「んっふっふ〜、ケーザイセーサイってヤツっしょ!」
やれやれと呟きながら、事務所の事務員である音無小鳥が、美希がテーブルにこぼしたおにぎりを雑巾で拭く。
雪歩は、美希と他のアイドル達とのやり取りを、少し離れた所から見ていた。
春香の焼いてきたクッキーを美味しそうにほおばり、あずさの胸に飛び込んで甘えた。
やよいが来れば逆に頭を撫でてあげたし、真が拳骨を突き出せばパーを出して見せた。
なぜ、嫌がる千早のお腹をさすっていたのかは分からないが。
自分がお茶を出せば、「ありがとうなの!」と言って飲んでくれもした。
プロデューサーだけでなく、律子も口では何か小言を言っているが、彼女の事を嫌う様子は無い。
いつか、ちゃんとあの日のお礼を彼女に言いたいと思っているが、またしてもタイミングが合わない。
今日も雪歩は、昨日と同じレッスンスタジオでダンスの練習があり、午後はそれに費やされた。
今日は、プロデューサーが一緒について見てくれていたが、なかなか彼に進歩した姿を見せられず、申し訳無いと思っていた。
家の用事があるからと、先に帰ったやよい達を見送った後、プロデューサーも雪歩に練習を切り上げようか聞いた。
「いえ———まだ全然、ダメダメだから、もう少しだけ残って練習しますぅ」
意外にも根性があるなと、プロデューサーは事ある毎に思っていた。
しかし、雪歩のそのメンタリティがどこからくるものなのか、彼には分からなかった。
自分を変えたいという思いだけで、ここまで頑張れるものなのか。
自分も一緒に残る旨を伝えると、雪歩は申し訳無さそうに断った。
「プロデューサーに、これ以上迷惑はかけたくないんですぅ」
「迷惑だなんて———」
「——分かった。じゃあ、俺は事務所に戻るよ。
鍵は、管理人さんによろしく言っておくからな」
無茶するなよ、と言い残し、プロデューサーは部屋を出て行った。
一人残ったレッスン室で、雪歩は黙々と練習を続けた。
だが、どうしてもターンがうまくいかない。
時々、それらしく決まる時もあるが、どうしてなのか自分でも分からない。
何より、鏡に映る自分のダンスは、自分の目指す真のそれとは似ても似つかないものだった。
美希は、一回目から自分よりも上手に踊れていた。
本来は、ああいう才能のある人間がトップアイドルを目指すべきなのかも知れない。
でも———。
かぶりを振り、余計な事を考えるのは止めて、雪歩はもう一度同じ所を繰り返そうとした。
その時、レッスン室の扉が開いた。
驚いて振り返ると、美希が立っていた。
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