阿良々木「みんなが僕のことを好きだって?」(879)


 001

 阿良々木暦について何かを語ろうとしたところで、
実際に口に出来ることには、特別な話なんて意外なくらいほとんどなくて、
基本的にただの事実にしかならないプロフィールばかりである。

 自らのことを語る際に、そこから主観を取り除いたら、
他のどんな他人を語るよりも情報が少なくなるのは、ある意味当然と言えなくもない。
自分のこと以上に主観に頼って捉えている物事は――普通、ほぼないからだ。


 他人の目から見えている自らの姿形を見ることは、
鏡をもってしても絶対に不可能であるのと同じように。

 他人が聴いている自らの生の声を聴くことは、
録音機器をもってしても確実に不可能であるのと同じように。

 鏡を通した自分はあくまで虚像でしかないし、
スピーカーから排出される自分の声は、
頭蓋骨の振動によって聞こえる自らが認識している声とも、
生の空気の振動で伝わる声とも異なっているのは――今更、言うまでもないだろう。


 なんてことを考え始めると、『自分』という存在の不確かさに目眩さえ起こしかねない、
なんとも不思議な気分に僕はなってしまうのだけれど、
その違和感とも不快感ともとれるような軽いトリップは、ひとまず置いておくとして。

 阿良々木暦。

 私立直江津高校三年生。

 薄くて弱い性格。

 吸血鬼――もどきの人間。

 人間――もどきの吸血鬼。


 なんて。
 大仰に大袈裟な言い方を散々してきたけれど。

 これは、そんな僕にとっての平和な日々に訪れた、ちょっとした不協和音。
阿良々木暦という存在が、
他人にどう思われているのか、主観を省いて考えなおすきっかけになった、
ただの慌ただしいある日の出来事だ。

 だからなにも深刻な話はなく。
 決して誰も傷付かない。

 さしずめ食玩に申し訳程度についているラムネのような。

 あるいは新聞をとるとどうだとばかりに同封されるテーマパークのチケットのような。

 もしくは本屋で買い物をするとプレゼントしてくれる紙の栞のような。

 そんな、本当にどうしようもなくて、
馬鹿馬鹿しくてくだらない、笑ってしまうような――オマケのお話。


 【こよみラクーンドッグ】



 002

 僕や、僕の二人の妹、他にも怪異に携わった多くの人間にいろんな形で変化を与えた夏休みを終え、
二学期の授業が始まってから数日が経過していた。

 その間、休み明けのテストで恐ろしい高得点を叩き出した僕にカンニング疑惑が持ち上がったりとか、
ツンドラからドロデレへと属性を変化させた戦場ヶ原にクラスメイトがドン引いたりとか、
僕が強化された――あるいは狂化された羽川の人格矯正プログラムの餌食になりかけたりとか、
細かいイベントは数え出したらキリがないのだけれど、
そんなこんなで今日は週に一度の休日、日曜日なのである。


 偶数日は学年トップクラスの成績を有する戦場ヶ原、
奇数日には学年トップの成績の羽川に勉強を教えてもらうという、
受験生としては尋常じゃなく恵まれた破格の生活を送っていた僕だけれど、
最近では戦場ヶ原は二人きりになるとこれっぽっちも勉強させてくれないので
(理由及びその手段は各人の推測に任せることにする)、
お盆――即ち僕の下の妹の事件の前に暇を出した。

 戦場ヶ原みたいな美人が甘えてくれるのは、
それはもう男として嬉しくないわけがないが、
この頃の戦場ヶ原はちょっといきすぎという気がしないでもない。


 ともあれそういうわけで、しかし日曜日は無条件で休みと決まっているものの、
早朝に暗記ドリルをやるという自らに科したルールは健在で、
とはいえさすがに短針が7にも至っていない時間に目が覚めてしまったことに
若干の腹立たしさとやるせなさを覚えつつ、周りの確認なんか一切しないで目をすぐに閉じて、
二度寝に臨もうとしたところで。

「……………んむ?」

 寝苦しいことに気付いた。
 身動きがとれない。
 ていうか、狭い。

 幼い頃、ありったけの毛布や羽毛布団に一人を埋めて妹たちと遊んだことを思い出す。
あの、柔らかいものに確かに包まれているのに、体を動かせなくて息苦しい感覚。

 しかし、今はまだ茹だるような残暑のうっとうしい季節である。
羽毛布団どころかタオルケット一枚で寝ている僕が、
そんな状態になることは考えにくい。


 あり得る話としては、僕が寝ている間に妹たちの遊びに巻き込まれて、
大量の寝具の下敷きになっているというのが一番有力だ。
二番目に……えっと、うーん。
 未だに寝ぼけている頭では選択肢を考えることさえままならない。

 最悪なのは、怪異絡みの厄介事に放り込まれて誘拐されたとか。
でも僕の周りで唯一そんなことをしうる――というか貝木泥舟の一件の際に事実、
拉致監禁を実行した前科を持つ戦場ヶ原ひたぎは、
更正してもうすっかり丸くなっているし、
なにより僕の右半身に下敷きにされている、少し骨張って痛い感触は紛れもなく僕のベッドである。

 となると、やっぱり前者か。
しっかり叱ってから寝具の類を片付けさせなくちゃな……
とか砂糖をたっぷり入れたミルクティーみたいに薄ぼやけた思考で目を開けて。


「――、―――なっ、――っ!!!!」

 一瞬ですっかり目が覚めたし、頭も醒めた。
 叫び声を抑えられたのは、我ながら誉めてやりたい。

「な、なんだこれ……」

 阿良々木火憐。

 栂の木二中のファイヤーシスターズ。

 その実戦担当。

 自称「正義の味方」。

 空手二段の腕前。

 洒落にならないくらい喧嘩が強い。

 僕の二人の妹のうち、上の妹で。

 そして――蜂に刺された少女。

 そんな阿良々木火憐が――僕の目の前で、ぐっすりと寝息を立てていた。


 下手に動けば、唇と唇がくっついてしまいそうな超至近距離。
ところどころ触れている体はそこだけ異様に鮮烈な灼熱さを醸していて、
凶暴で、どちらかといえば格好良い外見の火憐は――しかしこうしてあどけない寝顔を見ている限り、
ただの可愛い女の子だ。
 あとどうでもいいけれど、涎垂れてるぞ。きったねえな。

「……………………」

 なんて、冷静なフリをしておきながらも、
実際には、あまりの出来事に絶句している。

 なんだこれ。

 ………なんだこれ!?


 いや、まあ、確かに火憐は、囲い火蜂の事件付近からスキンシップが過剰というか、
変に従順みたいになっていたが、
しかしこんな添い寝染みたことはさすがに冗談が過ぎると思うし、
火憐が弱っているときにキスをしたやつは誰だと言われればそれまでだけれど、
しかし、だがしかしだ、
調子に乗ってやってみた歯磨きなんかの後に月火に散々怒られたのは記憶に新しいのに、
なんだってこんな……いや、ちょっと待て――月火ちゃん?


 阿良々木月火。

 栂の木二中のファイヤーシスターズ。

 その参謀担当。

 自称「正義そのもの」。

 外見に似合わない攻撃性に、ピーキーな性格。

 ころころ変わる髪型。

 僕の二人の妹のうち、下の妹にして。

 そして――ホトトギスの少女。

 そうだ、と気付く。マズイ。こんなところ月火に見られたらどうなることか。
圧倒的トップランカーの戦場ヶ原が突如として転落したせいか、
『身近な危険人物ランキング(肉体編)』の頂点には、
現在、阿良々木月火が君臨しているのだ。
包丁とか平気で持ち出すからな、笑えねえ。


「………よし」

 とにかく火憐を起こさないでここから脱出するために、
一先ず寝返りを打って。

「………、うぁ? う、あああああああああああああああああっ!?」

 叫び声を、抑えられなかった。

 ほとんど反射的に上半身を起こす。
 反対側では、件の阿良々木月火が――心地良さそうに、
さながら猫のように身体を丸めていたのである。

しえn


 すぅ、すぅ、と規則的に上下する胸。
乱れてはだけた、胸元どころか肩ごと剥き出しになっている浴衣。

寝てる。……寝てる? なんで?

 ていうか、そりゃあ、狭っ苦しいに決まってるだろう。
なにが嬉しくて、シングルのベッドで
中学生と高校生の兄妹3人が、一緒に寝ないといけないのだ。

 もう今度こそ、一切の疑いもなくきっちりフリーズした僕の背中で、
もぞりと起き上がる気配があった。

「んみゅ……兄ちゃん?
叫び声なんかあげて、どうかしたのか……?」

 火憐が起きた。
 月火は寝付きがいいしばらくはなんとかなるとして、
とりあえず異性と同じベッドで寝起きの状態を共有するというのは、
なかなか鋭敏な羞恥心がある。
しかも恐ろしいことに相手は身内ときたもんだ。
やってらんねえ。


 とりあえず、丸くなったままの月火を見下ろしながら、
僕の背中にぴったりと額をくっつけて、
もにゅもにゅと口の中で言葉にならない言葉を転がしているらしい火憐に答えた。

「いや、どうかしたというかどうかしてるっていうか……」
「うん?
兄ちゃんがどうかしてるって、そんなの今更気に病むことか?」
「お前ら二人がだよ、どうかしてるのは!」「…………なにがぁ?」

 まだしっかり覚醒しきっていないのか、
どこかぼんやりと間延びした声に色っぽさを感じてしまった自分が
心の底から憎くて憎くてしょうがない。


 ところで実際、いくらこんなわけのわからない状況だろうと、
妹に欲情するなんて100%ありえないと僕は断言できる。
そんな、妹がいないやつ限定の気色悪い妄想など、
完膚なきまでに否定しつくせるだろう。

 妹萌えだなんて、幾千、幾万の言葉をもってして、
全力でそのふざけた幻想をぶち壊す自信があった。

 はっきり言おう。

 リアル妹萌えは、異常だ。


 だから僕は、一旦最初のインパクトさえ通り越して落ち着いてしまえば、
妹たちのおかしな行動に対して若干の嫌悪感すら含んだ呆れをもってして言葉を投げる、
いつものスタンスを取り戻すことはそんなに難しいことではない。

 つーか普通にキモいわ。
 なんだこの状況。

 第一、こんな惨状を目の当たりにしておいて何を言っているのだと思われるかもしれないが、
阿良々木兄妹の仲は決して良くはない。
勿論悪いわけでもないけれど、だからといってこれまでの話を聞いて、
まさか揃って添い寝が基本だと思う稀少で貴重で意味深長な価値観をお持ちの人もいまい。


 夏休みの二つの事件を挟み、先程ほんの少し前述したように、
ちょっとはお互いに歩み寄りの姿勢こそ見せたものの、
それはぎこちないながらも仲の良いように見えなくないレベルになっただけである。

 それどころかあの夏休みは、
阿良々木火憐と阿良々木月火、四六時中べったりで、
時には裸で抱き合いながら眠るなんてことまでしていた
気色悪いハイパー仲良し百合姉妹の関係を、
彼女たちの中であるいは見直すことにさえなった事件だ。

 彼女らの間で恐らく行われたのであろう話し合いによりどんな結論が出て、
どんな変化があったのか――それともなかったのかは、
僕の預かり知るところではないが。

(´・ω・`)支援 n
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(


 閑話休題。

 そんなわけで普通の兄妹並みには妹たちを愛しく、
また同時に疎ましくも思っている僕は、ため息を一つついてから、
振り向き様に、もたれかかるみたいに背中にくっついていた火憐を引き剥がし、
どうやらもうすっかり覚醒を済ませた様子の我がでっかい方の妹に言った。

「なにがってさ、普通に分かるだろうが。
ていうか分かれよ、そこまで馬鹿じゃないだろ。
なんでお前ら二人が、僕のベッドで寝てるんだよ」

 火憐は一瞬、本気で何を言ってるのか分からないとでも言いたげに特徴的な吊り目を丸くしてみせ、
今度は呆れたみたいに肩をすくませる。

「なんだよ、兄ちゃん。
そんなことも分かんねーのか?」


「なんでお前が僕のことを馬鹿にするみたいな言い方をするのかという辺りから
既にさっぱり理解できないけれど、常識的に考えろよ。
朝、目が覚めたら自分の妹が揃ってベッドに潜り込んで添い寝していたという事実に、
なんの躊躇いもなく納得できる理由を即座に見い出せる兄なんかいてたまるかっ!」
「え、本気で分かんねーの?」
「分かんねーな!」

 すると火憐は、今まで見せたことのないような、
ちょっと眉をハの字気味にして恥ずかしそうな笑顔で。

 頬を、染めて。

 だけどはっきりと、偽ることなく。

 偽物の正義ではなく。

 本物の誠意で。

「そんなの、兄ちゃんのことが好きだから意外に理由なんかねーだろ?
ひゃはは、本当、変な兄ちゃんだな」


「……………っ!」

 ごめんなさい、お父さん、お母さん。
 僕はもう我慢できそうにありません。

 宣言しよう。

 リアル妹萌えは、異常なんかじゃない。

 そもそも夏休み、火憐のことを、魅せ方によっては、
羽川とまではいかないにしても、
なんとか張り合えるくらいには可愛いと思った瞬間があったのもまた事実なのである。

 それが火憐をベッドに押し倒して、
おっぱいを揉もうと手を伸ばした時だったことは、
なんというか、なんともあれだが。

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「……火憐ちゃん」

 なんとも、あれではあるのだが。

「……兄ちゃん」

 一度起こした火憐の体を、再びベッドに沈め、覆い被さる。

 なんとも、あれなのだけれど。

 奇しくもその時と同じ体勢になって見下ろした火憐は、
やっぱり普通に可愛かった。
寝起きだからだろうか、いつものように溌溂としきれない目元や、
トレードマークの長いポニーテイルをすっかり失った短い髪もむしろ健康的な魅惑さを持っていて、
きっと羞恥のためだろう、ほんのりと上気した肌も艶めかしい。
 そういう目で見てみれば、口元に残る涎の跡さえエロティックだし、
色気の欠片もないはずの家用ジャージも、
この時ばかりは不思議な魅力さえ放っていた。
 ……ジャージっ娘萌えになってしまいそうだ。


「兄ちゃん……いいよ」

 いつかと同じ台詞が、妹の口から発される。

 いいんですか。

 いいんですか。

 ……いいんですか!?

 ばくばくと喧しい心臓の音をあえて無視して、僕は。

「……火憐ちゃん」

 名前を呼んで、その頬に優しく指を這わせる。

「んっ……」

 驚いたようにぴくりと反応する、火憐の声。

「火憐ちゃん」

 もう一度呼んで。

 火憐の唇に、自らの唇を――。


「……お兄ちゃん? 火憐ちゃん? なにしてるの」

「うわあああああああああああああっ!!!!」

 突如隣から上がった、ぼんやりとした月火の声で、
僕は火憐よろしく見事なムーンソルトでベッドから離脱、床に着地した。

「おお、兄ちゃんすげー」

 うるさい黙れ。
 大変だ。
 月火ちゃんが起きた。

 月火ちゃんが起きたっ!

 なんかもう、一日に二度も目を覚ましたわ!
さっきまでの僕は僕ではない偽物です!
僕を陥れようとした何者かの恐ろしい陰謀だ。
ファイヤーシスターズが言うところの、敵対組織(笑)みたいな。
そうだ、そうに違いない。

 ……僕はシスコンなんかじゃない、信じてくれよっ!


「お兄ちゃん」

 寝起きが悪いはずのちっちゃいほうの妹こと阿良々木月火は、
どうやら運の悪いことに――不幸中の幸いならぬ、不幸中に辛い感じに、
今日に限ってすっきりばっちり意識を確立しているようだった。
見た目的にはいつもと変わらない眠たげな垂れ目なのだけれど、
さすがに兄貴たるもの、それくらい声の張りで分かる。

 ちなみに上半身を起こした月火の浴衣は、
もうはだけてるどころかただ腰に巻き付いているだけみたいになっていた。
当然、子供体型の胸は完璧に露出しているし、
それどころかもちもち卵肌なお腹、へそまでもはや世界丸見えである。

 和服好きはいいんだけどさ、そういうところ素人が趣味だけでやるとろくなことにならないんだよ、
詰めが甘いっていうかさ。
着方とか帯とか、いい加減なんだもん。


 しかし不思議なもので、遺伝子が似ていると、
ただだらしないなぁと思うだけで、そんな扇情的な格好にもこれといって、
特にいやらしい気持ちにはならないのだった。

 ならないのだった。

 ならないのだったっ!

 ……はい。

 なりました。

 なりましたとも。

 どれだけ格好つけて体裁を整えてみても、
直前まで上の妹とちゅーする三秒前みたいな状態だったら、
今更あんまり関係ないかと諦めた。

 どうしたというのだろう、今日の僕は。
普段は(歯磨きの時の悪ノリは別として)こんなこと全然ないのに、
実の妹に対して劣情を抱くなんて兄として最高に最低な振る舞いだ。


「ねえ、お兄ちゃん?」
「………はっ!?
な、なんだ、月火ちゃん!」

 ヤバいヤバい、あまりのことに軽く現実逃避していた。
ベッドの上からこちらをジト目で見つめてくる
ちっちゃい方の妹(半裸)に対してどう言い訳するか考えなくてはならない。

 更正前の恐ろしい旧戦場ヶ原みたいに、
文房具を凶器にするわけじゃねえしな、こいつは。
普通に凶器となりうるものを、普通に凶器として使うのだから、
正直、手におえない。

私怨


「お兄ちゃん、火憐ちゃんと二人でなにやってたの」
「うぁ、え、えっと……」

 月火の追及。
 来るぞ、来るぞ……と、最高に嫌な予感が鎌首を振り上げる。

 阿良々木月火。

 ピーキーな性格。

 その沸点は――ビニルエチルエーテルを遥かに下回る。

 ぞわっ、と、もうすっかり旧戦場ヶ原並みの長さになった綺麗な黒髪を逆立てて。

「二人でなにしてたのって訊いてるのっ!!!」

 炸裂した。
 それはもう、見事なまでに。

眠いから最後の紫煙


おやすみ


 ここのところファイヤーシスターズ的活動が沈静化していたから、
自然と僕が小言を言う機会も少なくなっていたことも手伝って、
なんというか久しぶりな爆発だった。

 つーか、朝っぱらからこんな大声を出して、両親が起きたらどうするつもりだ。
そんなに家族会議が好きか、M格好良いのは火憐ちゃんだったはずだろうが。

 ……いやまあ、深夜に僕の(ほぼ)全裸を見た羽川が上げた悲鳴でさえ起きなかった両親なのだから、
それに関してはそこまで心配しているわけではないのだけれど。


「いや、なにっていうか……」
「うるさいうるさいうるさい!
言い訳なんか聞きたくない! 聞いてあげないっ!」

 じゃあ訊くなや。

「絶対に許せないっ!」

 月火は僕がなにか言葉を挟む間も与えず、叫んだ。

 絶叫した。

「なんでお兄ちゃんと火憐ちゃんばっかりそんなに仲良しになって、
私も混ぜてくれないの、ズルいよっ!!」


「………………」
「はぁ……はぁ……」
「………………はい?」

 はいぃ?
 今、なんて?

 あれかな、僕の耳がおかしくなったのかな。
絶対に聞こえちゃいけない言葉が、月火ちゃんの口から吐き出された気がするのだけれど。
 いやいやそんなわけないよな、だってあの月火ちゃんだぜ?

 寝込みを襲って初ちゅーを奪ったら(それも兄としてどうなんだという話だが)、
涙目になって罵倒しつくした月火ちゃんだぜ?

 風呂上がりに全裸にひん剥いて帯で手首を拘束した挙句、
そのまま押し倒して身体中にじろじろ舐め回すような視線を這わせ、
おまけに貧相なおっぱいを揉んだだけではなく、
ついでに足でぷにぷにぷにぷに踏みつけたら
(これは普通に人としてどうなんだという話だ)、
散々っぱら本気で怒って嫌がった月火ちゃんだぜ?

 ははは、朝から訳の分からない状況だったから、
僕の耳、馬鹿になっちゃったのかな。
参ったなぁ。


「大体、火憐ちゃんも火憐ちゃんだよ!」

 なんて思っていたら、月火の怒りは後ろでぼんやりとしていた火憐に飛び火した。

「昨日、お兄ちゃんのベッドにこっそり忍びこむ時に、
抜け駆けはなしって約束したのに!」
「いや、ごめん、月火ちゃん。でも仕方ねぇだろ?
目が覚めたら至近距離に兄ちゃんがいたんだ、我慢なんかできねーって」
「気持ちは分かるけど、でも約束は約束でしょ?
そもそも、今回は一緒にお兄ちゃんを陥落させるって言い出したのは火憐ちゃんじゃない」
「……じゃあ月火ちゃん、今日の午前中は兄ちゃんと月火ちゃんが二人で遊んでいい。
あたしは邪魔しない。それならいいだろ?」
「うーん……いいけど……」


 と、ベッドの上で交渉を始めたファイヤーシスターズを呆然と眺める。
 分かったことは、僕の耳がおかしくなったわけではないということと、
彼女たちの間で僕の人権は無視されているということだけだ。

 つーか勝手にベッドに忍びこむなや……。

 あとなんでこんな二人していきなりデレてんだよ、気持ち悪いな。

 まあ、話を聞く限り、最近勉強ばかりに気をとられて二人とあんまり遊んでやらなかったから、
寂しかったとかそんなところだろう。
その不満がよく分からないところで化学変化を起こし、
夜這い→添い寝とかいう行動に移されたと、そういうわけだ。

 火憐も月火も、まだまだ子供だしな、なんといっても。


「おいこら、ファイヤーシスターズ」

 果ては敵対組織がどうとか悪の大軍団がどうとかいう、
元の話がなんなのか分からない言い争いをしていた二人の馬鹿妹を止める。

「なんだよ、兄ちゃん」
「なに、お兄ちゃん」

 てへりとなぜか恥ずかしそうに笑う火憐に、
垂れ目で器用にジト目を作る月火。

 うん。
 受験勉強も大切だけれど、家族以上に優先すべき勉強なんて――ない。
 ないのだから。


「分かった、今日は二人と遊んでやるよ。
ただし僕にも勉強があるし、午前中だけな。
ついでにどちらか一方とかじゃなくて、三人一緒にだ。
それでいいか?」

 せっかくの日曜日、家族サービスってやつである。

 それに、まあ、こうも素直なファイヤーシスターズは、
なんだか遥か昔の
「お兄ちゃんと結婚する」
とか言ってた時代の二人みたいで、悪い気はしないし。
馬鹿みたいな正義の味方ごっこをする小生意気な妹に比べれば、可愛いものである。

「お兄ちゃん、それ、本当?」
「本当だとも、月火ちゃん」
「さすが兄ちゃん、太ってるな!」
「失礼なことを言うな!」
「うん? ああ、間違えた。さすが兄ちゃん、デブだな!」
「悪意しか感じねえよ!」

 さすがの火憐である。
 正しくは太っ腹、だ。


「で、まだ朝早いけど、なにして遊ぶんだ?
さすがに今更ボードゲームやカードゲームってガラではないだろうけれど、
外に出ても店はどこも開いてないぜ」

 よっこらせ、と立ち上がって訊いた僕に、
しかし火憐ちゃんも月火ちゃんも揃って訳が分からないという顔をしてみせた。

 うん? 僕、なんか変なこと言ったか?

「外に出る必要も、ボードゲームやる必要もないよ、お兄ちゃん」
「たまーによく分かんねえこと言うよな、兄ちゃんって」

 言って。

 するりと、ファイヤーシスターズは、服を脱ぎ捨てる。


「なっ……なにしてんだ、二人とも!?」
「なにって、若い男女が三人ですることっていったらあれしかないでしょ」
「あれしかねーよな」
「あれってなんだ!?」

 頭がぐるぐるする。
せっかく上手いこと軌道修正できたと思ったのに、理解が追いつかない。
理性がついてこない。

 何が起こってるんだ。

 何が起こってるんだ!?


 パニックになる僕を尻目に、全裸になった二人が迫る。
不思議なことで、二人の裸体に対して先程までのような兄らしからぬ感情は生まれなかった。

 一度軌道修正して、今度こそ本当に冷静になれたのだろう。

 ただいま、ギャグパート。

 ぐっばい、エロパート。


「兄ちゃん、いいよ」
「お兄ちゃん、一緒に気持ち良くなろうよ」

 手招きする死神二人を、覚醒した僕は手早く部屋から蹴り出した。
脱ぎ散らかされた妹二人の衣類も同時に放り投げ、背中でドアを押さえる。

「な、なにすんだ、兄ちゃん!」
「開けてよ、お兄ちゃん!」

 どんどん、と扉を叩く音と衝撃が背中にダイレクトに伝わり、
ややくぐもった声も一緒に叩きつけられる。


「うるせえ! お前ら絶対変だよ! 変すぎるよ!
朝っぱらからなんのドッキリだ、なんの嫌がらせだ!」
「嫌がらせなんかしてないよ、お兄ちゃん!
私たちはお兄ちゃんのことが好きなだけだよ!
だから開けてよ!」
「そうだぞ、兄ちゃん!
好き合ってる男女がああいうことするのに理由なんかねぇだろ!」
「いやいやいや好き合ってはねえよ!?
前提がおかしいだろ、僕はお前らなんか嫌いだ!
いいから部屋に戻れ、普通になら遊んでやるから!」
「でもそんなんじゃだ~め!」
「もうそんなんじゃほ~ら!」
「黙れ、歌うな!」

 しかもそれは千石の歌だ。


「よし、分かった、お前ら二人、どっか連れてってやるよ、それならいいだろ!
だからお前らは部屋に戻ってろ! 僕は今から着替える!」
「「手伝ってあげる!」」
「いらねぇよ、気色悪いわ! 無駄にハモるなっ!」

 妹に着替えを手伝ってもらう兄なんか嫌だ。絶対嫌だ。

 なんてやっていると、扉の向こうが大人しくなった。
よかった、納得してくれたのか。

 さて、なんだかすごい展開だったけれど、しかし言ってしまった手前どこかに連れていくしかないだろう。
 でもこんな田舎にレジャー施設なんかないしなぁ。
隣町の商店街でも行くか。


 ……なんて安心して考えた矢先。

「こんな木の板程度、この阿良々木火憐の前で障害になりうると思うなんて、
兄ちゃんはまだまだ認識が甘いなぁ」

 ……なんか聞こえた!

 聞こえちゃった!

 やべえ!

 とん、とん、と準備運動でジャンプをするような音まで聞こえる。
こえー! いや、マジでこえー!
あいつ、本気出したら、それこそそこらのコンクリートの壁すら壁じゃねえもん!
 土の壁みたいにぼろぼろ破壊できるやつなのだ。


 そんな火憐だから木のドアが障害じゃないという言葉には嘘はないし、
中に押し入られたら最後、
取り押さえられたら悔しいことに僕なんか敵じゃない。

 勝てない。

 敵わない。

 背筋が凍る。

 何が嬉しくて、妹から本気で逆レイプされる一歩手前まで詰まされなくちゃならないんだよ。
嫌な人生だ。普通に気持ち悪いわ! 気色悪いわ!

 僕はマジで色々なものの危機を感じて、
慌ててドアから離れると、超高速で着替えと貴重品を回収、
一切の躊躇いもなく、唯一の逃げ道である窓から飛び降りた。

「うわああああああああああああああああああああっ!?」

 屋根を経由して、庭に着地。
ごろごろと転がって痛みを和らげたところで、上からばこぉん!という音が響いた。

 ドアが、蹴破られたのだ。

 おいおい、直すの誰だと思ってんだよ……。

 つーかいい加減起きろや、両親……。


「あ、兄ちゃんがいねえ! 消えたぞ、月火ちゃん!」
「え、うそ!?」
「兄ちゃんは瞬間移動の使い手だったか……
さすが、それでこそ世界の絶対悪と戦うファイヤーシスターズの兄だぜ!」
「違うよ火憐ちゃん、窓から逃げられたんだよ!
急いで追いかけなくちゃ!」

 なんて慌ただしい声もここまで届いてきて、
僕は痺れる足に鞭を打って自転車に飛び乗ると、
寝間着のまま我が家から――我が妹から逃げ出したのだった。



 003

「はぁ……」

 ファイヤーシスターズから命からがら逃げ出した僕は、
ひとまずかつて忍野が住み着いていた廃墟で持ち出していた私服に着替え、
寝間着を分かりやすいところに置くと、外に出て歩いていた。

 目的なんて特にないが、せっかく朝早くに外出するハメになったのだから、
このまま早朝サイクリングすることにしたのである。


 しっかし、朝っぱらから、えらい目にあった。
 あいつらいつの間に僕のベッドに忍び込んだんだ。

 昨日は羽川との勉強会から帰った後、寝付きが悪かったから外に出て、
どこかの自治体が開催しているのであろう、ちょっとだけ季節外れの祭囃子の和太鼓を遠くに聞きつつ、
いくらか散歩をした。
帰ったのは随分遅くだから、ファイヤーシスターズはぐっすり夢の中だったはずなのに。

 つまりその後わざわざ起き出して、僕の部屋に突撃してきたのだろう。
アホじゃないのか。


 つーか久々に、本気で家に帰りたくねえ。

 ………あ。

 ああ。

 あー、そういえば前にもこんなことを考えながらサイクリングしたことがあったなあ。
その時はこんなママチャリじゃなくて、マウンテンバイクだったけれど。

 なんて考えていると、噂をすればなんとやら。

「お、八九寺じゃん」

 大きなリュックサックを背負ったツインテールの小学生、
八九寺真宵の後ろ姿を見つけた。

 八九寺真宵。

 蝸牛に迷った少女。


 それにしても、八九寺かぁ。
 あいつには散々、セクハラ紛いのことしちゃったしなぁ。

 火憐と月火にやられてみて初めて分かったというか、強制的に性的なイタズラをされるのは正直、あまりいい気分ではない。
つーか、不快だ。
気持ち悪い。

 あぁ、あんな気持ちを、僕は八九寺にさせちゃってたんだなぁ。

 改めて実感。
 僕って、最低なやつだ。マジで最低だ。死ねばいい。


 第一、冷静になってみてほしい。

 八九寺のあんな凹凸のない体にセクハラして、何が楽しかったのだろう。
魅力がない。
身内であることを除けば、肉体的にはまだ月火の方がマシである。

 一部で僕のロリコン疑惑が持ち上がって大変なことになっているらしいけれど、
僕の彼女の戦場ヶ原然り、異性における理想系である羽川然り、
僕の好みはまず間違いなくロリ系ではないのだ。

 つるぺたとか、まったく魅力を感じないね。
ちっちっぱいぱん、ちっちぱいぱん。


 あーぁ。

 なんか冷めた。

 冷めちゃったよ。

 冷やし暦始めましたってなもんだよ。

 八九寺なんかにセクハラして、何をあんなに喜んでたんだろう、ちょっと前の僕って。
やってらんねえ。普通にヤバい人じゃん。
普通にロリコンだよ。

 アホか。
 これからはいかに八九寺相手だろうと、紳士的でいよう。
むしろ八九寺相手だからこそ、紳士的でいるべきだ。


 よし。

 僕はそう決意すると、自転車を停めた。

 コミュニケーションの基本は、挨拶から。
紳士な僕は、ゆっくりと八九寺の背後に歩み寄ると……。

「はっっっっっちっっっっっくっっっっっっ、じぃぃいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいーーーー!!!
会いたかったぞ、ちくしょうっ!!!!!!!!」

 思いきり、抱きついた。


「きゃぁぁぁぁああああああああああああああああああああっ!?」

「八九寺、冷めたとか言ってごめんな!
冷めてなんかないぜ、相変わらず僕は熱々だよ!
冷やし暦は始まる予兆すら見せないぜ!
凹凸がないからなんだってんだ、お前のロリハリボディが僕、大好きだ!
だから安心してくれ、僕はお前を裏切ったりしないからなっ!」

 摩擦熱で火傷するくらいの勢いで頬擦りをして、バタバタと暴れる八九寺を押さえ込む。

「ほらほらほらほら! 可愛いなぁ、八九寺ちゃんは!
柔らかほっぺにキスしちゃうぞー! 舐めちゃうぞー! 甘噛みしちゃうぞー!」

「ぎゃー! ぎゃーっ! ぎゃーっ!?」

 僕は思う存分キスの雨を振らせてから、八九寺のスカートの中に頭を突っ込んだ。

「こら、暴れるな! パンツの中に顔を突っ込めないだろうが!」

「みぎゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 一際大きな声を上げたかと思ったら。

「がうっ!」

 八九寺を拘束していた僕の手を、思いっきり噛んだ。
 今までに類を見ない本気噛みだった。
 ぶちぶちって音したもん。

「いてえっ! なにすんだこの馬鹿野郎っ!」

 叫んでおいてなんだけれど。
 痛いのも。
 なにすんだこの馬鹿野郎も、勿論僕だった。
 言い訳のしようもない。


「ふかーっ!!」

 およそ人のものとは思えない声に視線を向けると、
少し離れたところでスカートを押さえてこちらを睨む八九寺の姿があった。

 すげえ、我を忘れてやがる。
 ありていに言って、裏コード『ザ・ビースト』状態である。
 制御棒こそ出ていないけれど。

「落ち着け、八九寺! 僕だ!
冷静になれば、こんなことするのは僕くらいしかいないのは分かるだろう!」

 僕しかいないならそれがなんなのだと言われればそれまでの台詞を吐くと、
しかし八九寺はようやく意識を取り戻した。
プラグ深度は人に戻れなくなるレベルまではいかなかったらしい。

>>90
忍は完結させてどうにかするよ

というか俺より確実に上手いだろ
喧嘩売ってんのかちくしょう
支援

>>92

こんな事してないで早く書けよ


「おや、誰かと思えばミララ木さんではありませんか」
「おれ、ミラじゃねーし。
人のことをダイハツ工業の生産する軽自動車みたいに言うな、
相変わらずどこからそんな絶妙な噛み方をする語彙を調達してくるのか
ほとんど感心に近い気持ちすら抱いてしまうけれど、
それでも僕の名前は阿良々木だ」
「失礼、噛みました」
「違う、わざとだ……」
「かみまみた!」
「わざとじゃない!?」
「かめはめ波!」
「まさかのスーパーハチク人!?」

 ていうか撃つなら撃つで、ポーズまでしっかりキメたんならちゃんと『め』で溜めを作れよ。
あっさり撃っちゃったら必殺技っぽさがなくなっちゃうし、
溜めてる間は敵は攻撃しちゃいけない法則が、姿を見せる暇すらない。

おれミラじゃねーし


 まあ、それはいいとして。

 八九寺は相手が僕だと分かると、
とんとん、とスキップでもするような軽さで、離れていた距離を詰めた。

「まったく、最初から阿良々木さんだと分かっていたらあんなに嫌がったりなんかしなかったのに、
惜しいことをしましたね」
「マジで? くっそう、今度からは声をかけてからセクハラすることにしよう!」

 いや、まあ、セクハラっていうかもうほとんど犯罪の域なんだけれど。


「わたし、阿良々木さんにだったら何をされたって嫌じゃありませんよ。
ボディタッチもキスも、パンツを見せるどころか
果てはその中を公開することだってやぶさかじゃないです」
「八九寺、お前はいいやつだなぁ……」

 とか言って、やったら即通報とか、どうせそういう手口である。

 挨拶代わりにそんなちょっとハードな冗談を交わして。


「ともあれ、おはよう、八九寺。こんな早朝から散歩か?」
「おはようございます、阿良々木さん。
この時期は朝の空気が一番歩きやすいですからね」
「あぁ……そういえばそうだな」

 さすがに8月ほどではないにしても、日が昇ればまだまだ暑くなる。
夕方から夜にかけても、空気に残った熱に蒸し焼かれる感覚はあまり心地良いとは言えないだろう。

 となるとなるほど、早朝というのは適度な涼しさと捌けた湿気で、
気ままに出歩くには丁度いいかもしれない。

「そういう阿良々々々々々々々々々木さんも、こんな早くにどうしたんですか?
早起きして出歩くタイプではなかったでしょう?」
「いや、あのさ、八九寺、名前伸ばしすぎだから。
もう噛んでるのかそれとも舌を巻いてるのか、ほとんど分かんねえレベルだよ」
「これは失礼。テイク8です」

 2だと思う。

「こんなに早い時間に会うなんて珍しいですね、阿木さん」
「今度は消しすぎだ! 0か1しかないのかよ、お前には!」

 無駄に言いにくいしな、アギさんって!


「ふむ……失敗してしまいました。
ではテイク9です!」

 回数すっとばしすぎである。

「こんなに早い時間に会うなんて珍しいですね、五色沼さん」
「跡形もねえよ!」

 誰だよ、ゴシキヌマさん……。
無意味に自然の神秘っぽい名前だ。

「テイク10、いっちゃいます?」
「いや、もういいよ……」

 しかもテイク5だしな。
 ……ん?
 ああ、テイク8、9、10で八九寺なのか。無意味な芸の細かさだ……。


 八九寺は。
 そんな、もうお決まりに近い冗談の応酬の間に、
ぴったりと僕の腕に絡み付くようにしてぶら下がっていた。

「……お前、なにやってんの?」
「いえ、最近阿良々木さんにやけに筋肉がついたと一部で評判でして。
男性の筋肉には並々ならぬセクシーさを感じるわたしとしては、
チェックしない手はないかと」

 だからと言ってそれが腕にしがみついてぶら下がる理由になるとは到底思えなかったけれど、
まあ、せっかく懐いてくれている小学生を無下に扱う必要性も特に感じない。

 八九寺をくっつけたまま右腕を振り回すようにぐりぐりと動かしてやると、
幽霊少女はきゃーきゃーと無邪気な悲鳴をあげた。


「……筋肉はさ、ほら、吸血鬼性の名残なんだよ。
吸血鬼には体を万全の状態に整えるみたいな能力があってさ」

 だから吸血鬼は基本的に汚れなんかつかないし、風呂の必要もないのである。

「なるほど……って、阿良々木さんは吸血鬼だったんですか!?」
「なんで今更そこに驚くんだよ、僕を語る上でかなりメインにきそうな重要なパーソナルだろ!?
ていうかこのやり取り、夏に1回やってるよな!」

 相変わらず最高にいい顔で驚きやがった。

 とても演技とは思えない……。


「繰り返しギャグは2回までと言いますから、
つまり2回目までは何らかの形でやっておくべきなのかと」
「確かに同じギャグを3回もやるとさすがに笑えないけれど、
だからといってそれは無理に2回やらなくちゃいけないってことではないんだぜ……?」

 貝木みたいなわけ分かんない屁理屈こねやがって。

「しかし阿良々木さん、2度あることは3度あると言いますし」
「もう1回やる気満々じゃねえか!
ギャグの繰り返しは2回までってさっき自分で言った台詞すら覚えてないのか!?」
「仏の顔も3度までと言いますし」
「だからなんで3回はやるのが前提なんだよ!」


 もういいよ、お前が自分の驚いた顔に自信があるのは分かったから、
もっと別のところでそれ使ってくれよ。
 同じところで同じことを何回も繰り返されると、なんだか僕の話の振り方が下手みたいじゃん。

「いえ、阿良々木さんは会話、下手ですけれどね」
「辛口だ!」

 やっぱりそうだったのか!
たまに司会進行役失格、なんて言われるから薄々感付いていたけれど、
こうはっきり言われるとさすがに傷付く!


「きっと、長らく友達を持たなかったせいで、
コミュニケーションスキルが退化してしまったんですね。
生き物って、自分にとって必要のない器官は失うものらしいですし」
「マジで激辛すぎる……」
「でも安心してください、阿良々木さん。
わたしは阿良々木さんがどんな状態になってしまっても、一緒にいますよ。
永遠に、あなたのことを好きでい続けてあげます」
「なぜか急激に甘口だーっ!」

 一人飴と鞭戦法。

 使い所を間違えれば、あるいはただの情緒不安定な人になってしまうこの高度なコミュニケーションスキルを、
いとも容易く使いこなす八九寺真宵。

 ……もう八九寺が司会進行役やれよ。
 つーか普通に凹むよ。
 万能だな、この小学生。


「それで、阿良々木さんは何を……ああ、えっと、自分探しのカビでしたか?」
「なんだかちょっと涙無しでは語れない青春のドラマがありそうな感じで、
人のことを子実体を形成しない菌糸でできた体を持つ菌類扱いするな!」

 正しくは、自分探しの旅。

「しかもさ、唐突にそんなけったいなことをするほど、
僕は自分を見失っていねえよ」
「見失う自分がいませんもんね」
「もはや罵倒の意味が分からない!」

 どんな状態だよ、見失う自分がいないって。
 いくら日本語のプロ・八九寺とは言え、なんでも言えばいいというものではない。
 ちょっとは考えて喋れよな。


「いやあ、だって阿良々木さん。
阿良々木さんって存在がフィクションじゃないですか」
「存在がフィクション!?
僕は誰かの手によって作り出された架空の存在だとでも言うのか!?」

 初めて言われたよ、存在がフィクションって。
ともすればちょっといいことを言っているようにも解釈できそうだけれど、
これ、僕の存在を実在しないものだって言い切っているだけの言葉だよな。
 何気に「存在がウザイ」よりも傷付く。

 八九寺はわざとらしくこほんと咳払いをすると、
仕切り直しますと前置きをしてから口を開いた。


「それで、阿良々木さんはせっかくできた彼女さんにフラレて、
傷心のまま飛び込む路線を探してふらふらと出歩いていたのでしたっけ?」
「でしたっけ、じゃねえよ、縁起でもないこと言うな!
フラレてなんかいないしそんな兆候も見られねえよ!」

 せっかくあの戦場ヶ原がデレたのに、そんな段階で破局してたまるか。

「まだフラレていないんですか!?」
「驚くなっ!」

 驚きの表情は、別のところで使えとは確かに思ったけれど、
使うタイミングが今度は今度でやっぱりまた最悪だった。

 八九寺は何か僕に恨みでもあるのか。

 ………心当たりしかねえ。

ぎゃああああさるさるくらって解除待ってたら寝てしまった
すいません保守本当にありがとうございます


「ちっ」
「舌打ちするなよ!
そんなに僕が戦場ヶ原と別れていなかったことが気にくわないのか!」
「ええ、阿良々木さんには申し訳ありませんが、正直、気に入りませんね」

 思いっきりぶっちゃけやがった。
出来れば知りたくなかった本心だ。

 八九寺は続ける。

「略奪愛はわたしの主義に反しますから、
この恋心が報われるためには、お二人にやはり別れていただかないと」

 …………うん?

 略奪愛?

 恋心?

 なんだか変に際どいワードが飛び出したけれど、南無三宝。
危ない危ないと思い直す。これは罠だ。
用意周到に張り巡らされた八九寺真宵の冗談の罠である。

 最近、羽川と仲の良い八九寺は、僕に効く悪質な類の冗談を身につけ始めているのだ。
油断するとすぐに絡めとられてしまう。


「時に吸血鬼の阿良々木さん」
「うん?」

 上手いこと引っ掛からなかった僕に痺れを切らしたのか、
八九寺は相変わらず僕の右腕にべったりとくっつきながら、言った。

 不意に笑顔を消して。

 真面目な声で。

「阿良々木さんの吸血鬼性は――寿命にも作用するのでしょうか」


「寿命って……」

 寿命。

 吸血鬼の寿命。

 彼らの寿命は、当然のことながら、人間の比では到底ない。
事実、今も僕の影に潜む忍野忍の前身、
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは、
実に500歳、5世紀もの時代を生き抜いた貴族の血統の吸血鬼である。

 しかしそれは、吸血鬼の話。

 僕はあくまで人間だ――吸血鬼もどきの人間だ。

 だからその恐るべき不死性が、
果たして今の僕にどこまで効力を放つのか、
正直なところ不明なのである。
この話は8月に忍と歩み寄ってから、
度々議論を重ねているのだけれど、結論は出ない。


 普通に考えて、吸血鬼性と人間性では遥かに人間の性質の方を多く体に保有する僕は、
普通の人間と同じように年をとって、普通の人間と同じように死ぬだろう。
しかし僕に残っている吸血鬼性は決して身体能力ではなく、
新陳代謝――即ち、回復能力に比重が偏っているのである。

 回復能力。

 傷の治りが早い。

 吸血鬼の――不死性。

 だから僕は不老不死を持っていないと、
一概に否定することはできないし――肯定することも、許されない。


「どうなんだろうな。その辺、よく分かんないだよ。
僕と忍の関係は複雑で、お互い思いっきり血を与えあえば、
元の吸血鬼状態に近付けたりするくらいには、不安定だから」

 だから何をトリガーにして、どこに吸血鬼性を発揮するのか、
その全容は忍にさえはっきりとは判別しにくいらしい。

 あるいは忍野なら――分かるのだろうか。

 あの軽薄な、アロハ男なら。


「わたしはですね、阿良々木さん」

 こつんと足元の小石を蹴飛ばしながら、
八九寺は言葉を落っことした。

「わたしは、阿良々木さんが不老不死ならいいとさえ、思うんですよ」
「……どうしてだよ」

 不老不死なんかきっと、いいことなんかない。

 愛する人もみんな先に死んで。

 新たな出会いに更に別れを重ねて。

 そうやって、ただ喪失し続けていく中で、
自分だけは決して大人になれないのだから。

「だってそれならわたしと阿良々木さんは――ずっとずっと、永遠に一緒にいられるじゃないですか」
「………………」

 八九寺の言葉には。
 きっとすべてが、詰まっていたのだと、思う。

 八九寺真宵という少女の孤独の全部が、内包されていた。


「幽霊であるところのわたしは、もう終わった存在。
止まってしまった人間なのですから」

 幽霊。
 そうだ、八九寺もまた、永遠を生きる存在なのだ。

 不死ではないけれど。

 不老ではあるのだ。

 決して大人になれない。
 これから先ずっと――小学生のまま。
 喪失を、重ねていく。

「ですから、もしそこに阿良々木さんがいてくれたら……
一緒に隣で、こうやって、いつまでもおかしなことをやっていられたらいいな、
なんて……たまに、思ったりなんかするんです」

 ぎゅっ、と。
 僕の右腕に伝わる力が、強くなった。

 それでも尚弱い、八九寺の握力。
たったこれだけの握力で、八九寺はこれから先、
大切な出会いを掴み取り、切実な喪失を握り締めていくしか、ないのだろうか。
 たった一人で。


「………八九寺」

 その名前を、呼ぶ。

 八九寺真宵。
 僕の、友達だ。

「もっともこんなの、わたしの身勝手な願望なんですけれどね。
今や阿良々木さんは、いくらかの吸血鬼性を残していようと、
生きた人間なのですから。
普通に年をとるのが幸せに決まっています。
阿良々木さんの――好きな人と」

 だからこれはわたしの自分勝手な妄想だと思ってください、
と、照れくさそうに八九寺は笑って。
 僕の右腕から、離れようとした。

「八九寺」

 だけど僕は、それを、止める。

 一瞬離れた八九寺の体を――右腕で抱き締めた。


「わ、わわっ! ちょ、ちょっと、阿良々木さん!?」
「八九寺、聞いてくれ――僕にはお前の孤独は埋められない。
僕の不死性は不完全だから、永遠に一緒にいてやるよなんて気休めは、言えない」
「ええ、ですから……ですから、それは分かっていますっ!」

 ちょっと鼻にかかった、八九寺の声。

 彼女は、僕の腹にそのいたいけな顔を押し付けて、
あるいは、泣いているのかもしれなかった。

 だって僕は今、本当に残酷なことを言っているのだから。

「なんとかしてやるなんて言えないし、きっと僕じゃ、なんともできないと思う。
生きて、死んでいくその流れは僕には止められない。
だからお前と永遠に一緒にいてやるって約束することは――できない」


「…………、………」

 ぐすっという音。
抱き締めた僕の体を押し退けようと暴れる八九寺。

 弱い力。

 その小さな孤独の体を離すまいと、僕は力を込めた。

「だけどさ、八九寺。永遠に一緒にはいられないけれど」

 だけど、せめて。

「少なくとも――一生一緒には、いるから。
僕が死ぬまでは、絶対にお前の側にいるから」

 何もできない。
 永遠を約束することはできない。
 僕に出来るのはせめて、一生を約定することくらいだ。


 八九寺真宵。

 蝸牛に迷った少女。

 僕の友達。

 一生、友達だ。

 無責任な僕の一生じゃ、彼女の孤独を埋めきることはできないかもしれないけれど。

「今のところ、こんなことしか約束してやることが、出来ないけれど……」
「………いえ」

 ぐいっと僕の体を押し退けた八九寺は、うつ向いて必死に目元を擦ると、
それからしばらくして、ゆっくりと顔をあげた。

 ちょっとだけ赤い目
 だけど――晴れやかな、笑顔だった。

 幸せそうな、笑顔だった。

「わたしにはそれで充分ですよ、阿良々木さん」

 充分すぎるくらいです、と。
 うさぎの目で僕を見つめた。


「ごめんな、八九寺」
「何を謝っているんですか、阿良々木さん。
なんで阿良々木さんが泣きそうな顔になっているんですか。
やめてくださいよー、変な人ですねー」

 茶化すような、八九寺の声。

「そうだな、なんか変だ。
なんだろうなー、やっぱり僕は変なやつだなー!」
「存在がフィクションですもんね」
「まだ引っ張るか!
それ意外にダメージのでかい言葉だからあんまり使わないでくれないか!」
「存在がノンフィクション」
「逆にびっくりするくらい貶してねえな!」

 意味は分からないけれど。
 存在がノンフィクション。
 なんだそりゃ。


「阿良々木さんは存在がファンフィクションですもんね」
「確かにこれは二次創作のSSだから間違ってはいないな……」
「阿良々木さんの存在がカビ」
「普通に悪口だっ!」

 なんてやつだ。
各地で好き勝手罵倒され続けてきた僕も、
さすがに今更そんなありがちな悪口を言われるとは思わなかった。


「八九寺、そうやって人を馬鹿にしてると、いつか痛い目を見るぞ」
「はぁ? ああ、やだやだ、またセクハラの話ですかぁ?」
「なんて腹の立つ言い方と見下しきった目をしやがる!
セクハラなんてしねえよ!」
「分かっています。信頼していますよ、阿良々木さんは菌糸的ですもんね」
「そこまでして僕をカビ扱いしたいか!?」

 正しくは、紳士的。


「まったく、阿良々木さんったら、小学生相手にそんなにムキにならないでくださいよ。
そんなだから友達が出来ないんですよ?」
「なんだとこら!」

 きゃーきゃーと追いかけっこをして。
 わざとらしく、いつも以上に、必要以上に、騒いで。

 笑った。

 笑い合った。

「では、わたしはそろそろ行きます」
「え? なんか用事でもあるのか?」
 突如切り出した別れに、少なからず僕は驚愕する。

「気ままに散歩とか言ってなかったっけ?」

 それならこのまま僕と、と言おうと思うと、
八九寺は首をゆるゆると振って道の先を指差した。

「やっぱりわたしでは――お二人には、敵いませんから」


 そこには、きっと同じく早朝の散歩のつもりなのだろう。

 先月、ロングヘアーをばっさりと切り落とし、ショートカットに揃えられ、
ぎざぎざとシャギーの入った前髪。
取り外された鉄仮面。

 蟹に行き遭った少女。

 戦場ヶ原ひたぎが歩いてきていた。

「それでは阿良々木さん、また会いましょう」

 八九寺はそう囁いて。

「ああ、うん……またな」

 最後ににっこりと今日一番の笑顔を見せて、去っていった。


「………ふむ」

 その後ろ姿を見ながら、思う。

 『また会いましょう』。

 いい言葉だ。次がある。また会える。

 なんて思っていたら、戦場ヶ原がこちらに気付いた。
 ぱあ、と表情を輝かせ、にぱっと笑顔になると、ぱたぱたと手を振ってこちらに駆け寄ってくる。

「よう。奇遇だな、こんな朝っぱらから散歩か?」
「そうよ、散歩」
「はあん。とりあえずガハラさん、おはよう」
「うん、おはよ、暦きゅ


 004

 あっぶっねぇー。

 秘技・章変えリセット。

 いや、本当に危なかった。
ついうっかり、原作では体よく退場させられた
ドロデレ状態のガハラさんを登場させてしまうところだった。

 つーかどうしろって言うんだよ、
暴言吐かないで
用がなくても電話してきて
絵文字できゃぴきゃぴなメールを送ってきて
にこにこ笑顔で
おまけに僕にちょっとアレなニックネームをつけるような普通の女の子の戦場ヶ原なんて、どうしろというのか。

 いや、彼氏の僕としては命の危険はないし、デレてくれたことによる弊害は欠片もないのだけれど、
オーディエンス的にこれほどつまらないものもないだろう。

 そんなわけで、戦場ヶ原としばらく仲良く喋った僕は、
再び自転車に乗って走っているのだった。

おい


 目的地というか、目的人は我が可愛い後輩にして自他共に認めるエロ娘こと、神原駿河。

 さっき戦場ヶ原と出会った時に言われたのだけれど、
最近神原と会う機会がなかったから、寂しがっているのだそうだ。
当然悪い気はしないけれど、しかし相変わらず無駄に仲が良いよな、
この頃のヴァルハラコンビ。
そのうちあそこで百合カップルが成立し、
僕の方が邪魔者みたいな扱いをされかねない。

 ………笑えねえー。

 まあそんなわけで、戦場ヶ原の情報によると休日のこの時間はランニングをしているらしい神原を探して、
ふらふらと町中を走っているという結論に辿り着くわけである。

 神原はもう携帯電話を持っているのだから、
会うんだったら電話をすれば早い話なのだけれど、
それはそれ、なんとなく宝探しみたいで面白い程度の理由。

 ……要するに、暇なのだ。

ちょっとご飯食べてきます


>>150
えへっ☆ミ


「しっかし、神原ねぇ……」

 あいつ、毎朝10キロ走ってるとか言ってたしな。
普通に考えて、神原の家から半径5キロ以内にいるということだが、
この狭い町じゃ、5キロはなかなかの距離である。

 とりあえず神原の家に向かってみるかと方向を見定めたところで。

「うん?」

 ポケットに入れていた携帯電話が振動した。
取り出してみると、液晶画面に表示されていた名前は。

「……千石?」


 千石撫子。

 月火の友達。

 僕の妹的存在。

 極度の人見知りの前髪っ娘。

 そして――蛇に巻かれた少女。

 まだ中学生の千石は携帯電話を持っていないので、自宅からの発信である。
うちみたいな田舎町では、携帯電話を持つのは高校生になってからと相場が決まっているのだ。

 もっとも僕の二人の妹は、私立中学に通っているということもあるが、
なによりその突飛なファイヤーシスターズ的活動の危険度から、
首輪の鈴のような意味合いで持たされているのだけれど、
しかし実態は悪い方向にしか作用していない気がする。
ファイヤーシスターズが得る情報を増やすのは、
更なる危険以外のなんでもない。


 なにはともあれ、千石である。

 蛇の一件以来、僕と千石は、こうしてたまに連絡を取り合うような仲になっていた。
 僕は自転車を停めると、電話に応じる。

「はい、もしも「もっ! もひもひ暦お兄ひゃん!? 千石撫子れすっ!」

「……………」
「………、ひぅ……っ!」

 噛み噛みだった。
 八九寺なんか目じゃない噛み方だ。
 しかもこっちが返事する前に言葉を被せてきた。
どれだけ力一杯電話しているのだ、と思う。

 これじゃあまるで、好きな人に電話をするのに、
電話の前で1時間くらい、コールしようかしまいか、したらなんと言おうか考えて考えて、
その末になんとか電話したのはいいものの相手の声が聞こえて舞い上がってしまい、
結局用意していた気の効いた挨拶もなにもなく、
大きな声でなんの代わり映えもしない決まり文句を言ったのだけれど、
それすら噛んでしまった恋する乙女みたいじゃないか。

 いや、まあ、僕と千石に限ってそんなことはあり得ないのは、百も承知なのだけれど。


 あの引っ込み思案な千石のことだ、元々電話は苦手とかそんなところだろう。
前から電話の時はこんな感じだったしな。

 相手が僕でよかったな、千石。
これで相手がクラスの男子だったら、勘違いさせてしまうこともあるかもしれないし、
まあ、そんなことにならないようにこうして僕が練習台になってあげられているのならば、
兄的存在としては冥利に尽きる。

「ああ、僕だけど。どうしたんだ、千石?」

 自らを落ち着かせるためだろう、
受話器のスピーカーの向こうで深呼吸をしている雰囲気が伝わってきた。
 電話くらいでこれだもん、まったく初々しいなぁ。

「あ、うん。暦お兄ちゃん、あのね」

 千石は、自らを鼓舞するように小さく掛け声をかけて。

「あのね、暦お兄ちゃん。撫子、今日、暇なの!」
「…………ふうん」

 自らに今日、これといった予定がないということを、宣言した。


 だからどうしたのだろうと、とりあえずリアクションは相づちをうつに留めたところ、
千石はちょっと落ち込んだみたいな声色になって続けた。

「……暦お兄ちゃんは、今日、なにか用事ある?」
「いや、これといってはないけれど」

 というか家を飛び出して、暇をしていたところだ。

「だ、だったら、よかったらなんだけど、撫子と遊ぼう?
ううん、暦お兄ちゃんは今日、撫子と遊ぶ以外にないんだよ」

 そっかぁ、遊ぶしかないのかぁ、と変に納得してしまった。
相変わらずの消去法主義である。

 しかし、なんだかその消去法の使い方が、以前より積極性を帯びてきているような気がした。
前までは今回のように、他人の行動について消去法で呼びかけるみたいなやり方は、
あまりしなかったように思う。

 対人恐怖症の千石が、少しずつだけれどそうやって積極的になっていくのは、
兄的存在としては素直に喜ばしいことだ。


「まあ、僕はいいんだけれど……」

 問題は、月火だ。
千石は元々月火の友達であり、その千石が遊ぼうと誘ってきたからには、
『ららちゃんと遊びたいのだけれど、ついでに暦お兄ちゃんも一緒にどう?』
というニュアンスが、言わずとも含まれて然るべきである。
まさか千石が、友達の兄単体と積極的に遊びたがるわけもない。

 だが、僕は今、その月火(と火憐)から逃げ出したからこそ、
暇を持て余しているのであった。

「月火ちゃんはちょっと……えー、忙しいみたいなんだよ。
だから遊ぶとしたって、僕一人になっちゃうのだけれど」
「い、いいよ。撫子、暦お兄ちゃんと二人っきりでいい。むしろ都合がいいくらいだよ」

 ……僕に気を遣って、友達と遊べないことを都合がいいだなんて言わせてしまった。

 うわあ、なんか罪悪感。


「甲斐性なしの兄的存在でごめんな、千石……」
「かっ……甲斐性? え、えっと、男の人が異性に甲斐性の話をするのって、つまり……」

 なぜか慌てた声。

「う、ううん、大丈夫だよ暦お兄ちゃん!
その、式は別に無理してしなくてもいいし、そうだ、撫子もパートとかするから……
だって撫子は、暦お兄ちゃんと一緒にいられるだけで、し、幸せだよ!」

 なんだかこちらが思っていた以上に気を遣わせてしまっていたようで、
場を和ませようと慣れない冗談を言って顔を赤くしている千石の様子まで浮かんでくる。
 ……不甲斐ない限りだった。


 それにしてもどうしてだろう、そんなことは絶対にあり得ないのに、
実はこの会話が録音されていて、
後々自分の首を絞めかねない重要なポイントになるかもしれないなんて、
失礼極まりない気分になった。
徐々に包囲網を狭められている錯覚。

 そんなこと、本当に絶対、100%、あり得ないのは分かってあるのに。

 特に千石相手の時に、そんな妄想は本当にナンセンスだ。

 変に息苦しいのはきっと、千石は僕の周囲にいる人間の中では珍しく女の子女の子しているタイプだから、うっかり変なことを言って嫌われたりしないよう、少なからず緊張しているせいなのだろう。
あっはっは、ダメなやつだなあ、僕は。


「よし。とにかく、千石が僕だけでもいいんならいいぜ、遊ぼう。
どうする、どこか出かけようか?」
「あ……撫子の家、今日、お父さんもお母さんもいないの」
「そっか、千石のところも共働きだったな」
「うん。だから撫子、お留守番してなくちゃいけなくて、だから……」

 なるほど。
遊びに誘われた理由が分かった、一人で留守番をするのが寂しかったのか。
そういうところはやっぱりうちの馬鹿妹二人と違って、中学生相応な感じが可愛らしい。


「あー、じゃあ、千石の家にお邪魔させてもらっていいかな?」
「う、うん。撫子の家で遊ぼう。撫子の家で遊ぶ以外にないんだよ」
「今のケースの場合、本当に千石が家を留守に出来ないのだから、確かにそれ以外にないな」

 もはや消去法でもなんでもないただの事実確認だった。

 千石の方にも都合というものがあるだろうから、
昼辺りに千石家にお邪魔させてもらう約束を取り付けて、電話を切った僕は。

 丁度タイミングよく、後方から、
たったったっ……という小気味のいいリズムが耳に忍び込んでくるのを感じた。


 携帯をポケットにしまい、振り返る。

 そこには、健康的な肌を剥き出しにする、タンクトップとショートパンツという格好で、こちらに向かって走ってくる神原の姿があった。

 神原駿河。

 バスケットボール部の元エース。

 そして――猿に願った少女。

「おーい、神原!」

 神原は僕の姿を見つけると、あっという間に僕の前まで走ってくると、
まるでちょっと水溜まりを避けるみたいな気軽さで僕の頭上を飛び込し
(決して僕の背が低いわけではなく、神原駿河の尋常じゃないジャンプ力のおかげだ。
僕の身長は決して低くない。決してだ!)、
着地を済ませると爽やかに笑った。


「ふぅ……おはよう、阿良々木先輩。
いやあ、朝から敬愛する阿良々木先輩に会えるとは、
神の偶然は私になんという幸運を与えてくれたのだろうか。
いや、違うな。私にとっての神は即ち阿良々木先輩なのだから、
阿良々木先輩のもたらすすべての行為、偶然、そしてその結果は
私にとって感服しうる奇跡と成るのだ!」
「…………おはよう、神原」

 出会って早々、訳が分からない誉め殺しトークが爆発した。
猿の一件で出会った時から、無闇矢鱈に僕に絶大な信託を寄せる神原だけれど、
相変わらず僕はこの神原のスタンスに慣れることができない。

 謂われのない敬意。

 身に余る尊敬。

 当然、悪い気分ではないのだけれど。

 だけどやっぱり、たまにはフィフティフィフティの関係でありたいという願望も、持ってしまうのだ。


 ところでそれはさておき神原駿河、
あんなペースで走ってきて更に僕を飛び越す大ジャンプまでしたというのに、
まったく息が乱れていなかった。
僕のような帰宅部にしてみれば恐るべきスピードだったのだけれど、
ともすれば自動車と並走したっておかしくない神原のことだ、
あの程度の速度は慣らしなのだろう。
しかもあのまま、あるいは更にスピードアップして10キロマラソン。
信じられねえ。

 長距離走は苦手とかいう初期設定はどこにいったんだと言いたい。

 つーか自分を鍛えるのが好きって点、
それに関して言えば火憐の方が一枚上手かと思ったけれど、
やっぱり神原も負けちゃいなかった。
毎朝夜、苦手なはずのマラソンをするとか、M格好良いよ。


「それで阿良々木先輩はどうしたのだ?
今日は日曜日だから、こんな朝から外に出ても、
ランドセルを背負った可愛い女子小学生を視姦することは叶わないぞ」
「本当にいい笑顔で何を言ってやがる!
僕にそんな趣味はないし、そんな趣味をした知り合いも皆無だ!
なによりもし仮にあったとしたって視姦という言葉を使うな!」
「え……私のライフワークの一つなのだが」
「そうだった!」
「そのためにほら、飴ちゃんは常備している」
「そのためって何のためだ、手懐ける気満々じゃねえか!」
「てっ、手懐けるなんてとんでもない!
その程度でこの私の幼女に対する愛よ……愛情が収まるか!」
「ギリギリ愛欲と言わなかった理性は誉めてやるけれど、頼むから誘拐とか止めてくれよな!」
「もし私が捕まったら、テレビの取材に対して『あいつはいつかやると思っていましたよ』と答える役を頼んでいいか、阿良々木先輩」
「M格好良いってレベルじゃねーぞ!」

 世間的に死ぬことすら快感に変えるのか。怖すぎる。


「まあ冗談は置いておくとして」
「ちょっと待て、神原。
どこから冗談なのかでこれからのお前に対する僕の接し方が変わるぞ」

 僕の言葉に、神原は何でもないことのように即答する。

「そんなの、『もし私が捕まったら』のくだりの、
『答える役を頼んでいいか、阿良々木先輩』の
『阿良々木先輩』の部分が冗談に決まっているだろう」
「なんの解決にもなってねえ!
それはただ、その台詞を言うように頼む相手が僕じゃなくなるだけだ!」

 もう最低だ。

 結局何か間違いを犯すことは前提なんじゃねえか。

 ろくな話じゃねえ。


「……ふむ。少し冗談が過ぎてしまったな」

 神原はちょっと反省したようにそう言葉を落とすと、
爽やかに微笑んだ。

「安心してくれ、阿良々木先輩。
真面目に言えば、私の『やあ、阿良々木先輩。奇遇だな』という台詞からが冗談だ」
「……うん? 神原、お前、今日そんなこと言ってたっけ?」
「いや、今日の台詞ではない。
かなり前の……そうだな、具体的に言えばの化物語(上)の261ページ上段5行目の台詞だ」
「それシリーズ通してのお前の初登場時の台詞じゃねえか!
そこからすべてが冗談だったのかよっ!?」

 神原駿河の存在そのものが冗談だった。

 いやまあ、何かと冗談みたいなスペックのやつではあるけれど。
 なんてことだ、今日は散々「存在がフィクション」と八九寺に言われていたが、
まさか本当にそのような人物が存在しようとは。

よんえん


 ふふ、と、そこで神原は笑みを漏らす。

「まったく相変わらずノリがいい。
阿良々木先輩との会話があまりにも楽しいものだから、
ついつい遊んでしまった。
さすがは阿良々木先輩、会話にノらせたら当代無双と言われるだけある」
「いや、そんなこと言われたことねえし、
言われても全然嬉しくねえ……」

 そんなやり取りをしながら、神原は何気ない動きで、
左手で自分の肩をちょっとだけ触った。

 嫌でも目に入るのは、鮮烈な白。

 神原。

 神原駿河の、左腕。


 百合で腐女子でネコで受けでロリコンで露出狂でマゾで欲求不満を自称する彼女の左腕は、
かつて怪異絡みの厄介事に巻き込まれた際の後遺症で、
包帯でぐるぐる巻きにされている。

 その下には更に――レイニー・デヴィル、猿の手が。

 神原は、僕らのように怪異に関わった人間の末路として、
体にその一部に残しているレアケースだ。
 戦場ヶ原と千石、それに火憐はしっかりと離別しているし、
八九寺は浮遊霊へと二階級特進。
月火は実際微妙なところだけれど、少なくとも祓った末に後遺症が残っているわけではない。


 ……とは言いつつも、少なくとも僕が知る中で残り3人、
神原と同様の状態の人間がいる。

 阿良々木暦は――血液に吸血鬼のそれが含まれ。

 神原駿河は――左腕に猿を宿し。

 羽川翼は――精神に猫を飼っている。

 違いがあるとしたら、神原と羽川は成人を迎えるまでには怪異と別れを告げることが出来るが、
僕は一生、死ぬまで――それこそ八九寺の言うように、
下手に不老不死性なんかが残っていたら、永遠に吸血鬼だ。

 まあ、それは、僕が背負うべきだと納得している罪なのだから、いいのだけれど。

 とにかくそんな神原だから、僕としては、怪異と関わってからの彼女の経過を、
ある意味一番気にかけている人物でもあるのだ。

 勿論、神原は僕程度に心配されるような柔な人間ではないのは言うまでもないのだけれど、
怪異を身に宿す人間としてなんとなく親近感に近いものを感じているのも確かなのである。

 羽川は障り猫の性質上、怪異の記憶をしっかりと保有出来ているわけではないし。


 閑話……で済ませていいような軽い話ではなかったけれど、とにかく閑話休題。

「そういや神原、今日もポニーテイルなんだな」
「ああ、うむ。やっぱり走るときはこうしているのが一番楽なのだ」

 出会った当初は僕よりも短いくらいだった神原の髪は、
しかし猿の手の件が終わってから伸ばし始め、
夏休みには短い二つ結びみたいにしていて、男勝りな口調とのギャップでたまらない可愛さを持っていたのだけれど、
最近は更に長くなってきたのか後頭部で一つに纏めていることが多い。
 先が首にも届かないような短いポニーテイルは、
正直、なんだか以前の二つ結びよりも余計に幼く見えて、
僕の中で神原駿河はギャップ萌えキャラの地位を着々と確立しようとしていた。


「私のような者がこのような髪型をするのは、やはり変だろうか……?」
「いや、何言ってんだ、かなり似合ってるよ。
お前、元々が可愛い顔しているんだからさ、どんどん女の子っぽくしてけばいい」
「そうか……よかった」

 神原はちょっと照れくさそうにポニーテイルを触り、はにかんで続けた。

「いや、阿良々木先輩が買うエロ本の表紙は大抵、ポニーテイルの女性の写真だからな。
参考にしたのだ。気に入ってもらえてよかった!」
「……………なっ!?」

 一瞬、言葉が出なかった。


「お、おおお前、なんでそんなことを知ってんだ!?」
「ふふ、阿良々木先輩はいつも決まって、ご家族が寝静まってからエロ本を買いに行くのだな。
最近買った一番新しいのは女子校生モノ。
ちょっと前に試しで買った人妻モノはあまりヒットしなかったのか、
二度と手を出さなくなった。
むしろ書店で人妻モノの本を見かける度に睨み付けるくらいなのだ、
よっぽどのハズレを引いてしまったようだな」

 全部筒抜けだった。

 後輩の女子に、夜のオカズどころかエロ本を選ぶ時の挙動の一つさえ筒抜けだった。

 もう嫌だ。

 ……もう嫌だ!


「神原……なんで……」
「奇宇壮大な人柄で有名な阿良々木先輩ともあろう人が、
まさか忘れたわけではあるまい――私は最初からストーカーキャラだぞ!」
「わざわざ『ダッシュ』まで使って格好良さげに言って胸を張るな!
しかも確かにそうだったけれど、別にそこは全然メインのパーソナルじゃなかっただろ!」

 つーか全然気付かなかった。
 まさか尾行されていただなんて。

 そこで、にやりと。
 神原、実に嫌な、意地悪な笑みを浮かべた。

 神原が戦場ヶ原と再び仲良くなってから、彼女がデレるまでの間に戦場ヶ原(旧)から受け取ったスキル。
対阿良々木暦いじめっ子に特有の、本当にうんざりとする笑みだった。

 さすがはタダではデレない戦場ヶ原ひたぎ。

 いい迷惑である。
火憐には絶対に受け継がせないで欲しい。


「さあ、阿良々木先輩」

 神原は、言う。

「後輩に性生活を把握された憐れな阿良々木先輩。
今すぐここで、自らがエロ本で重視している点でも叫んでしまわないと、
最近買ったエロ本リスト(日付や自慰行為のスケジュール付き)が校内に出回ることになるぞ?」

 ……やり方が陰湿だった。
 まんま初期の戦場ヶ原だ。
 本当、ろくな話じゃねえ。

「くっ………」

 だが僕は、その程度の脅しには屈しない!

 戦い抜いてみせる!


忍野「バイバイさるさん。古くからVIPに伝わる妖怪だよ」

暦「また……猿か」

忍野「と、言っても。エロっ娘ちゃんの時は、正確には猿じゃなくて悪魔だったけどね。
    はっはぁ!するがデビルって感じかな」

忍野「でも今度は正真正銘、猿の怪異さ」

暦「で、そいつを退治するにはどうしたらいい?」

忍野「退治だなんて、阿良々木くんは物騒な事を言うなぁ、何か良いことでもあったのかい?

暦「茶化すなよ」

忍野「わかったわかった。じゃあ簡潔に述べるよ。さるさんを祓うにはこう言うだけで良い」

暦「へぇ、なんだか口裂け女みたいだな」

忍野「口裂け女は『ポマード』だったけど、さるさんの場合はこうさ」



忍野「支援」 



「そうだ、戦場ヶ原先輩にもバラしてしまおう。
戦場ヶ原先輩はああ見えて、ある意味私以上に阿良々木先輩を神格視しているからな、
以前ならまだしも、今の戦場ヶ原先輩がこれを知ったら
少なからずショックを受けて涙を流すことになるだろう」



「素人の投稿ページが特にエロいッ!!!」



 日曜日の午前。
 後輩の女子に散々いじめられて、住宅地でエロ本の好きなポイントを叫ぶ男子高校生の姿が、そこにはあった。

 ……僕じゃないと信じたい。

 僕だけれど。

 僕だよ。

 くそう……。


「あっはっは、さすがは起居挙動の一つひとつでさえ余すことない雄大さな満ちた阿良々木先輩、
エロ本の好きなところを叫ぶ姿さえ神々しい!」
「もうお前それ完っっっ璧に馬鹿にして言ってるだろ!?
大笑いじゃねえかっ!」

 分かって欲しいのだけれど、旧戦場ヶ原や八九寺ならともかく、
神原にいじめられると僕は夢に出るくらいに凹むのだ。
千石も最近神原と仲が良いし、悪影響が伝播しまくりである。
もし仮に千石にいじめられるようなことがあったら、
多分、僕は立ち直れないで1週間は寝込む。

 勘弁してください。


「しかし阿良々木先輩、昨日はわざわざ深夜に外出したのに、
コンビニにすら近寄らなかったな。エロ本を買いに出たのではなかったのか?」
「昨日もつけられてたのか!?
まったく気付かなかった、お前マジでストーカーの才能ありすぎだろ」
「いやあ……」
「誉めてない!」

 なんで今更になって、こんなベタなギャグをやらなきゃならないんだ。

「夜道は危険だからな、私は尊敬する阿良々木先輩を、影ながら見守っているのだ」
「いや、こんな田舎町で、早々危険になんて出会わねえよ……」

 入間人間の作品じゃあるまいし。
ていうかあの人の某作品はやたらめったら殺人が起こりすぎで、
正直、あんまり好きじゃないんだよな。
 嘘だけど。


「何を言うか、阿良々木先輩、危険はどこにでも潜んでいるぞ!
例えば深夜、全裸にコートを来た露出狂に襲われるかもしれないし、
あるいはその人が百合だからと安心しても阿良々木先輩個人に好意を抱いていたらそんなもの関係ないし、
他には雨合羽を着た悪魔に襲われたりとかするかもしれないではないか!」
「すべからくすべてお前のことじゃねえか!
つーか裸コートって、お前、何やってるんだよ!」
「頑張る駿河ちゃん!」
「頑張るところが無駄すぎる!」

 つーかマジでやめろよ。
バスケットボール部の元エースだろうと、神原だってそれ以外は普通の女の子だ。
そんな痴女みたいなことをして、本当に取り返しのつかないことになったらどうするんだ。

「痴女って、阿良々木先輩、よしてくれ!」
「あ、そうだな、ごめん。女の子に名指しで言うような言葉ではなかった」
「照れるではないかっ!」
「……神原的には言われると嬉しい言葉なんだ、痴女って……」

 がっくりと力が抜けた。

 底無しすぎる。
 どんだけだよ。

すいません、ちょっと休憩させてください
指がプルプルプルプルプルプルー♪してきた


 気を取り直して。

「ああ、そうだ、神原」

 さっきの話を聞いて、ちょっとした疑問を神原にぶつけてみることにした。

「昨日の夜、僕をつけて外に出てたんならさ、祭の太鼓の音聞いただろ?
あれって、どこでやっているのか分かるか?」

 もし近くでやっているのなら、2日間開催しているか調べて
戦場ヶ原でも誘おうかと思ってそう言うと、神原は首を捻った。

「太鼓? なんの話だ、阿良々木先輩」
「あれ、聞こえなかったのか? 和太鼓だよ、祭囃子。
ちょっと季節外れな祭だなって思っていたのだけれど」
「……いや、私には聞こえなかったが。祭囃子?」
「うん。あぁ……もしかしてあれかな。
吸血鬼補正で、耳がよくなり過ぎていたのかもしれない」

 阿良々木暦の、細やかな吸血鬼性。

 それも多少、吸血鬼の力は夜の方が効果が上がるし。

ktkr


 僕がそう呟くと、神原はしかし、「そんなはずはないのだが」とかブツブツ言いながら怪訝そうな顔をしていた。
そんなはずはないって、この辺りで祭のスケジュールはないということだろうか。
気になるけれど、まあ、昨夜は静かだったから、
神原の知らない町の音でも拾ったのだろう。

 吸血鬼の耳は、本当に敏感なのだ。

 だから僕はぼんやりと、改めて神原の姿を眺めて。

「しかし神原、相変わらずすげえ格好だな」

 呟いた。


 動きやすそうなタンクトップにランニングショートパンツ。
すらりと伸びた、文字通りカモシカみたいな足に引き締まった腕。
ほとんど裸みたいな格好なのだけれど、神原が着ていると、
どこかひどく健康的な姿にさえ見える。

「……へ?」
「いや、お前に露出狂の気があるのは分かっているけれどさ、
ちょっと刺激が強すぎるんじゃないか?
神原が着る分には、僕からすればむしろ健全で色気とは無関係に格好良いけれど、
みんながそうとは限らないんだし……」

 なんて、ちょっとお節介を働かせたら。


 それはまさに、奇奇怪怪と呼ぶにふさわしい――奇妙な光景だった。

「なっ……な、な……!」

 神原が。

 あの、神原が。

 自他共に認めるエロ娘。

 百合で腐女子でネコで受けでロリコンで露出狂でマゾで欲求不満な神原駿河が。

 自らの姿と僕の顔を順番に見て――顔を真っ赤に染めた。
ぼん、っと音が出そうな勢いで、もう耳まで赤い。

 そう、それは、まるで。

 ……羞恥に身を染めるように。


「ちょ、神原? 大丈夫か?」
「だっ、だ、だだだだ……だいじょぶなわけないだろうっ!」

 金魚みたいに口をぱくぱくさせて、真っ赤な顔で神原は叫んだ。
ちょっと呂律が回っていない上に、声が裏返っている。

 神原は、本当に羞恥からなのだろう、
ちょっと前屈みになり、ばっとその腕で露出だらけの体を抱き締めるようにして、
隠そうと躍起になっていた。

 なに、この神原。

 なにこれ、めちゃくちゃ可愛い……。


 じゃなくて!

 そうじゃなくて!

 ファイヤーシスターズといい神原といい、なんだっていうんだ。

「おいおい、どうしたんだよ、神原、お前らしくもない」
「だっ、だだだ、だって、あ、あああ阿良々木先輩に!」
「僕に?」
「こ、こんなはしたない格好を……み、みみみ見るぁれてしまった!」

 神原は、そんな、なんだか千石みたいなことを言いつつ。
 絶叫した。


「これでは変態だと思われてしまうっ!!!!」

「今更気にするような話か、それは!?」

 僕の中じゃとっくに変態=神原みたいになってるよ!
手遅れにもほどがあるだろう。

 つーか割と初期から、お前は変態キャラを押し通していただろうが。
「神原は実は変態じゃない」と言われることが人生で一番屈辱だとまで言い切っていたくせに。
 キャラの方向転換は、戦場ヶ原だけで既に手一杯だぞ。

「う、うぁ……なぜだか物凄く恥ずかしいぞ……なんだこれは。
ダメだ、やめてくれ、こんな格好の私を見ないでくれ、阿良々木先輩!」
「いや……見ないでもなにも、今の今まで、その格好の神原と向かい合って喋っていたのだけれど」
「ひゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
 そんな、およそ神原らしくない叫び声と共に、彼女は真っ赤な顔を両手で隠し、
その場にぺたりと座り込んでしまった。

 なんだこの生き物、可愛すぎる……。
 さすがギャップ萌えランキング急上昇キャラクター。


「あ、えっと、神原……?」

 しかし、あれだな。
「ひぅ……ひっく……」

 と肩を震わせ始めた神原を前にしていたら、まるで僕が苛めているみたいな図みたいだ。

 最近、戦場ヶ原は阿良々木と付き合うようになってからおかしくなった(半分くらい事実)とか
、町中でいきなり女子小学生に抱き着いてセクハラをしている阿良々木を見た(紛れもない真実)とか、
阿良々木が女子バスケットボール部の元スターといきなり仲良くなったのはおかしい(まごうことなき現実)とか、
校門前で女子中学生からブルマーとスクール水着を受け取っていた男子高校生は阿良々木だ(100%史実)とか、
羽川が委員長スタイルをやめたのは阿良々木のせいだ(まあ……嘘ではない)とか、
阿良々木は妹と歯磨きを使ってエロいことをしているらしい(くっ……虚偽とは言い切れない)とか、
いやもう一人の妹の寝込みを襲ってキスをした(もうやめて!)とか、
各所で地味に評判が悪い僕である。
 こんなところを誰かに見られるわけにはいかないのだ。


「神原?」
「………っ、……」
「駿河?」
「………ひっ、」
「駿河さん?」
「っく……っ」
「ひらがなみっつでするがさん?」
「…………、……ひぅ」
「するがちゃーん?」
「な、なんだ、阿良々木先輩……」

 反応しやがった。
 すげえ、ことみパワー。

「えっと、その……さ。大丈夫だって、ほら、僕、別に神原のそんな姿見ても、
いやらしい気分になったりはしないし……」
「阿良々木先輩がどうとかではない! 私が恥ずかしいのだ……!」
「……………」

 いや……。

 ……なんつーか。

 かぁーわぁーいぃーいぃー!


「ま、まあ、神原。とりあえず立てよ」

 僕が何気なく神原の肩に触れると、大袈裟にびくんと体をすくませる。

「わっ!」
「………わ?」
「私のことは忘れてくれ、阿良々木先輩っ!
うわあああああああああああああああ、もういやだあああああああああああああああああああああ!!!」
「あ、神原っ!」


 そう叫んで、自称エロ娘は、
自動車と並走どころか追い抜くような速度で走り去っていってしまった。

「阿良々木先輩に嫌われるうううぅぅぅぅー……」

 という声が遠ざかっていく。

「………………」

 うぅむ。

 訳が分からないけれど、なんだか本当に台風みたいなやつだ。

 さて。
 取り残された僕は。

「眼福」

 とりあえず、拝んでおいた。


 005

 所変わって、千石家。

 阿良々木家からの逃避行は、一度神原家の近くというかなり遠くまで行ったくせに、
結局、自宅から自転車で10分圏内の地点に戻ってきていた。
まあ、妹たちもまさか、僕が千石と一緒にいるとは思わないだろう。

「暦お兄ちゃん、どうしたの?」
「うん? ああ、なんでもないよ。ちょっと考え事」

 ふっと、空気に染み込むようなウィスパーボイスが僕の意識を引っ張り起こすと、
千石の僅かに赤い顔が目の前にあった。
ぼーっとしてしまった僕を心配してか、顔を覗き込んでいたようだ。

 千石は、普段は目元をすっかり隠す前髪を、
今日はカチューシャであげるのではなく、一つにまとめてゴムで結び、
更にそれを可愛らしいヘアピンで寝かせるようにしていた。
 夏休みに家に招かれて最初見たときは、千石の自宅スタイルに散々驚いたものだけれど、
さすがに何度か訪ねるうちに慣れてきた。


 ちなみに千石の部屋では、相変わらずクーラーが稼働していない。
エコとか環境問題とか、やたらと気にしてしまう年頃だしな。
兄的存在としてそれに付き合うことに、なんら不満はない。

 ないの、だけれど。

「千石……その、扇風機……」
「扇風機? これがどうかしたの?」
「どうかしたっていうかさ……」

 ううむ。
 なんと言うべきか。

 さしもの千石もずっと冷房機器無しでは辛いと感じたのか、
満を持して今日は扇風機が登場したのだけれど、
その首のスウィングが千石の方に向く度に、ばたばたとワンピースがはためいてはしたない。


 そもそも千石の今日のワンピースというのが、
また変にだぼだぼというかぐてっとしたデザインで、
たまに肩までずり落ちては慌てて戻す動作を繰り返していた。

 ……ていうか、あのワンピース、腰の周りもなにもなく、すとんと一直線で、
正直メンズの大きなティーシャツにしか見えないんだよな。
まあ、最近の女子中学生の間で流行っているスタイルのワンピースなのだろう。
ルーズソックスみたいなものだ。

 ファイヤーシスターズがこんなタイプのワンピースを着ているところは見たことないけれど、
あれを参考に女子中学生の流行りを見極めようなどという愚行が無意味であることくらい、
兄の僕は充分にわきまえている。

 火憐は機能性重視のジャージ一択、月火は月火で和服至上主義だ。
まったくアテにはならない。


 とにかく、千石相手に余計な詮索は無用だが。

 しかしなんと言って注意するべきかな。
千石は僕を完全に信頼しているというか、
男の前でそういう格好をすることを、恐ろしいくらい意識していない。

 まあ、中学生だしそんなもんかとも思うし、
勿論僕は千石相手にそんなやましい気は一切ないから、
この場においてはまったく心配ないのだけれど、
いつか千石がクラスの男子を家に招くような時が来るまでにはなんとかしてやらないと。

 かと言って変にそういうことを言って、
不潔だなんだと軽蔑なんかされたりしたら嫌だという、
チキン根性も未だ根強い。

 ……ま、いいか。
 いずれ千石にもそういう意識が芽生える日が来るだろう。

「……なんでもない」

 と、とりあえず僕は断りを入れてから。

「それで千石、何して遊ぶ?
テレビゲームとかは、あんまり複数でできるの持ってなかったよな」

 そう訊いた。


「うん。ごめんね」
「いや、謝るようなことじゃないけれど……」
「あ、そうだ。撫子、この前新しい携帯ゲーム機買ったよ」
「マジで? DSは、確か持ってたから……」

 この前、やたらと綺麗に使っていたDSを貸してもらった。
 PSPかな?

「これ。ワンダースワン」
「またなんでこう微妙な……」

 ていうかまだ売ってるところあったのか。

「面白いよね」

 くすくすと楽しそうに笑う千石。
 いや、千石が満足しているのならいいんだけれど。
 いいんだけどさぁ……。


「しっかし、ワンダースワンね。
僕、ワンダースワンの起動した時の音が好きで、
それを聞くために何度も電源入れたり消したりしてたら、
結局1週間で壊したんだよな」
「あ、分かるよ、暦お兄ちゃん。
ふぃーん、みたいな音だよね。
なんだかすごく近未来な感じがして、撫子も好き」
「そのハード自体は近未来どころかもう遠い過去の産物だけどな……」

 でもやっぱりあの起動音は、現在発売されているどんな携帯ゲーム機のものよりも落ち着く。
ソニーはあの起動音だけ買いとって、PSPに搭載すればいいのに。


「つーか携帯ゲーム機じゃあやっぱり、二人ではできないな」
「うん……あ、そういえば据え置きのも新しいの買ったの」
「お、いいじゃん。それやろうぜ!」

 据え置きゲームか。
Wiiスポーツとか、千石がやったら可愛い気がするなぁ。
 なんて思っていたら。

「じじゃーん。 セガ・サターン」
「なんでさっきからもう普通に作ってないようなチョイスばっかりなんだ!?」

 そりゃあ、MSX2やポピラ2をやる女子中学生よりはいいかもしれないけれど。
 何かと極端すぎる。


 つーか、目が悪くなるからテレビとかゲームはあんまりやらないみたいなことを言っていたのに、
千石、いつの間にかすっかりマイナーゲーム機収集キャラだ。
ほぼ全キャラが初期設定から変わりすぎて、収拾がつかなくなるぞ。

「暦お兄ちゃん、セガ・サターンは嫌いだった……?」
「嫌いもなにも、実は触ったこともないよ……」

 恐ろしく反応に困るネタ振りだ。

「そうなんだ。撫子、セガ・サターン好きだよ。
でも実はハードは売ってたんだけど、ソフトが全然なくて一つしか買えなかったんだ」
「まあ、そうなるよな。
まともにセガ・サターンのソフトと取り扱ってるゲーム屋なんて、もうほとんどないし」


 近所のゲームショップじゃ、そもそも中古コーナーですら猫の額程度のスペースしか設けていなかったのに、
DSやらPSPやらPS3やらWiiやら一気に新たなハードが出たせいでそこも追いやられ、
しばらくは投げ売りワゴンに放り込まれていたけれど最近それすらなくなった。

 セガ・サターン。
 デザインは嫌いじゃないんだけれど。

 カプコンの格ゲーマーには夢のようなハードである。


「で、その買ったソフトってのは、なんなんだ?」
「うん、これ」

 千石がごそごそと取り出したのは。

「なっ……それはっ……!」

 なんと。
 あろうことか。

 『QUIZなないろDREAMS~虹色町の奇跡~』だった。

 『QUIZなないろDREAMS~虹色町の奇跡~』。
 あれはいつのことだったか、
以前、八九寺とこのゲームについて熱く語った幻の恋愛クイズゲームであるところの、
『QUIZなないろDREAMS~虹色町の奇跡~』だ。
ゲームについての説明はもはや不要だろう。
ていうかあんな長い説明台詞を一から言い直したくない。お察しください。

 マジかよ。
 八九寺、お前の続編を望む草の根活動は、とんでもない局所で地味に花を咲かせかけているぞ。


「暦お兄ちゃん、これ知ってるの?」
「知っているとも」

 勿論、知っているとも。

 八九寺に『阿良々木さんはリンツを狙うような人』呼ばわりされた作品なのだ。

 だが、僕はあえて声を大にして言いたい。言ってやりたい。

 よし。
 言おう。

「残念ながら僕はリンツよりも絵美さん派だッ!!!」

 言ってやった。
 唐突にそこだけ叫んでやった。

 僕は決してロリコンじゃないから、シャルロッテ――通称ロッテなるロリキャラに心を動かされることなど、あり得ないのである。


「………………」
「はっ……!」

 やべえ。
 思いっきり千石に引かれていた。

「……こ、暦お兄ちゃんは、絵美さんが好きなんだ?」
「やめてくれ! そんな同情に満ちた慈愛の表情で僕に話を合わせないでくれ!」
「だ、大丈夫だよ、暦お兄ちゃん。
撫子はロッテちゃん可愛いって思うし……」

 千石がロリコンだった。
 衝撃の新事実である。

 つーかあの千石が、クイズ形式とは言え恋愛ゲームの類を、
咄嗟に好きなキャラ名が出る程度にやり込んでいることの方がむしろ驚きだ。


「ロッテと言えば千石、知ってるか?」
「うん? なぁに?」
「このゲーム、元はといえばアーケードでゲームセンターに置いてあったゲームを
家庭用ゲーム機に移植した、いわゆるコンシューマ版なのだけれど、
アーケード版ではロッテが貧乳を思いっきり露出してしまうシーンがあるんだぜっ!!」
「………………」
「カプコンの奴ら、コンシューマ版ではそのシーンをカットしやがったんだ。
ロッテの貧乳の代償がリンツ攻略可能への仕様変更だと言うのなら、
むしろ僕はリンツルートなんかいらなかったねっ!!!」
「………………」
「はっ……!」

 やべえ。
 思いっきり千石にドン引かれていた。

「こ、暦お兄ちゃんは、ロリコンなの……?」
「違う、僕はロリコンじゃない!」

 自分でもびっくりするくらい説得力のない言葉だった。

 つーか、なんの話をしてるんだっていう。
 誰もついてこれない話だろう。


「ご、ごほん。気を取り直して……」

 僕は誤魔化すためにぽんと手を打つと。

「どうする? 一応クイズゲームだから、それなら二人でできるけれど」

 恋愛ゲーム的な要素があるというのは、男女でやるのに適しているとは言えないけれど。

「ううーん、これは実は自慢したかっただけだから」
「あ、そうなのか」

 ワンダースワンとセガ・サターンを自慢っていうのもどうなんだろう。

 別にいいけど。

「だけど暦お兄ちゃんがやりたいなら、撫子、いいよ」
「いや、僕は別に……千石のやりたいことでいいよ。なんかあるんだろ?」
「うん」

 僕の言葉に千石は頷いて。

「実は今日は暦お兄ちゃんに、お勉強を教えてもらおうと思ってたの」
「………勉強」
「お勉強」


 断っておくけれど、はっきり言って僕は落ちこぼれだ。
数学ならまだしも他の教科なんてさっぱり分からない。最近の受験勉強のおかげで全体的に成績は上がっているとは言っても、それはやっぱりまだまだ付け焼き刃で、他人に教えることが出来るレベルではない。

 誰かにものを教える際には、三倍の理解が必要と言うし。

 でも、中学生の範囲だしな。
 なんとかなるか。

「よし。僕なんかでどこまで為になるかは正直、保証できないけれど、いいよ」

 千石の期待に満ちた目に負けて、見栄を張ったという理由が大部分で頷いた。

「それで、教科はなんなんだ?」


「えっとね、待ってて」

 そう断りを入れてから、千石は四つん這いで部屋の隅のスクールバッグを漁り……、

 って、パンツ見えてる、パンツ!

「えっと……確か、この辺に……」
「………………」

 比較的シンプルな、薄い水色のパンツ。
 ふりふりとなぜかやたら揺れる腰が、あるいは誘われてるようにすら思えて、生唾を飲み込んだ。

 いや、うん、勿論、そりゃあもう勿論、千石にそういう意識がないのは分かっているけれど、
むしろその意識のなさが問題だ。
大体、ワンピースでそんな格好をするとどうなるかも分かっていないのか、この子は。

 これはさすがに注意するべきだよなぁ、と思いつつ。

「………………」

 全力で目を反らした。
いくら妹的存在とはいえ、
女の子に対して「パンツ見えてるぞ」なんて気安く言えるような男では僕はないのだ。

 ……小学生には散々セクハラしてるくせに。


「こ、暦お兄ちゃん……」
「う、うん!? あー、ああ、見つかったのか……」

 気付けば千石が僕の前に戻ってきていた。

 千石はなぜか変に赤い顔をしつつ、ずるりと肩を滑り落ちたワンピースを戻す。

「あー、えっ、と。勉強だったな。
そ、それで……教科はなんなんだ?」
「う、うん。…………こっ、これっ!!」

 そう言って、思い切るように千石がばっと突きつけてきた教科書には。

「……………はい?」


 保健体育と、書かれていた。


「えっと、その……」
 もじもじと、教科書に顔を隠してしまう千石。

「撫子……その、よく、分からないから、暦お兄ちゃんに……」

 何かを覚悟するような一瞬の間があって。


「じ、実技指導を……して欲しいの」


「………………はいぃ?

 今、なんか僕、物凄いこと言われてないか?
部屋に入った時に例の消去法主義で勧められ、
逆らえずにベットに腰かけているという状況も、その勘違いに拍車をかけている。

>>277
× 「………………はいぃ?
○ 「………………はいぃ?」


「……実技、指導?」
「う、うん……実技指導」

 ずいっと身を乗り出して、至近距離で見つめてくる千石。

 星空を詰め込んだみたいなキラキラ光る潤んだ瞳に、
動揺する僕が映っているのさえはっきり分かった。

「暦お兄ちゃんは大人だから、きっと慣れてる、よね?」

 いや、別に、慣れてはいないけれど。


「そ、その、千石……?」
「暦お兄ちゃん……」

 その綺麗な瞳に吸い込まれる。
ふわりと甘い香りが鼻先を擽り、吐息さえ触れ合うような距離。

 前髪を上げた千石の顔はやっぱり恐ろしいくらい整っていて、
すっと通った鼻筋や、真っ白い肌に浮かぶ鮮烈な赤い唇が、
艶めかしく言葉を滑り出させる。


「優しく、してね……?」

「………………っ!」

 前屈みになっているせいで、
だぼだぼの胸元から千石の大人しめの白い乳房とその先の――って、ノーブラかよっ!
ラフな格好ってレベルじゃねえ!

 これはさすがに見てはいけないと全身全霊をかけて反らした目線の先に。
僕は、それを見つけた。


「あ」

 声を漏らす。
 視界の端っこで、潤んだ瞳を不思議そうに揺らす千石が、
ちょこんと首をかしげるのが分かった。

「あ、ああ、うん、分かった、千石――やろう」

 千石の肩に手を置くと、びくんと大袈裟に体が跳ねるのが愛らしい。
はっはっは、僕相手に、そんなに緊張することなんかないのになあ。

「ぁぅう……」

 真っ赤な顔で何事かを呟き、何故か目を閉じた千石に。

 僕は、言った。





「よし、やろうか――バドミントン!」


 そう、千石の部屋の隅には、
この前来たときはなかったバドミントンのラケットと羽根があったのである。

 おそらく最近学校の授業でやっているから出しっぱなしなのだろうけれど、
千石のことだ、スポーツが得意というわけでは、決してないと思う。
そこで僕の出番というわけだ。

 簡単な話。

 千石の出した『保健体育』の教科書において、
千石の教わりたかった部分は『保健』ではなく『体育』だったのである。

 まあ、当然か。
 男の僕を軽々しく部屋に招き、
無防備な格好でその素肌を晒け出しているような千石が、
そんな性的知識を持っていると考える方が難しい。

 いやあ、恥ずかしい勘違いをしてしまった。
人見知りで恥ずかしがり屋な千石に限って、
自ら迫ってくるなんて展開は、絶対にあり得ないと分かっていたのに。


「…………え?」

 一方の千石は、閉じていた瞳を開け、
ちょっとぽかんとした感じで声を上げる。

 まるで必死に勇気を出して誘惑してあとちょっとのところまでいったのに、
すんでのところで相手が訳の分からないことを言い出して
状況がまったくつかめていないような、
そんな女の子みたいに見えてしまうのは――まず間違いなく、僕の思い込みである。

 さっきの勘違いが尾を引いて、思考がちょっと不純な感じに寄りすぎだ。


「……………え?」

 もう一度繰り返す千石。

「ん? だから、バドミントンだろ?そこにラケットと羽根あるしさ。
最近の授業でやってるのか?」

 言いつつ、千石の手から保健体育の教科書を受け取ると、
バドミントンのページを開く。
無意味に丁寧な絵で、サーブやスマッシュを打つ男の図があった。

「ああ、これ、懐かしいなあ。
そっか、千石は同じ中学だから、使ってる教科書も同じなのか」
「……………う、うん?」

 なんだかいまいちぼんやりしたままの千石は、ベットの縁にかけていた足を降ろし、
ぺたんとカーペットに座り込む。

「とは言ってもさ、僕だって運動はそんなに得意なわけじゃないぜ?
まあ、バドミントンくらいならそこそこはできるけどさ」
「えっと………」
「うん?」

 千石は、なぜかポンと手を打ち、何かに納得したように頷いて。


「……そう、バドミントン? うん、バドミントン。
撫子、暦お兄ちゃんとバドミントンやりたかったの」
「うっし、そうと決まればさっそくやるか」
「でも、ラケット一つしかないけど」
「なんで一つしかないんだよ!?」

 ああ、そっか、一人っ子だと体育の授業くらいでしかバドミントンなんかやらないから、
複数は持ってなかったりするのか。

「でも暦お兄ちゃんなら大丈夫だよね」
「いや、さすがの僕も、それはなにをどうしたら大丈夫になるのか、全然分からねえぞ……」
「プロゴルファー猿もドライバー一本で戦ってたし」
「またえらく古いのを引っ張り出してきたな!」

 プロゴルファー猿って。
 僕らが産まれる前の漫画だろ?
 つーか僕、猿谷猿丸と同格の扱いかよ。

 ……………ちょっと嬉しい。


「多分、探せばお母さんとお父さんのあると思うから、探してくるね」

 そんな言葉を残して部屋から出ていく千石を見送り。

「………はぁ」

 溜め息を、ついた。

 危なかった。今のは、本当に、危なかった。
 勝手に自分で盛り上がって勘違いをして、取り返しのつかない暴挙に出るところだった。

 落ち着けよ、僕。相手はあの千石だぜ?
 あー、嫌な汗かいた。

「あっ、暦お兄ちゃん……」

 なんて動揺を隠そうとしていると、千石が部屋に戻ってくる。
 不意に先程までの出来事が頭をよぎり、自然と肩に力が入るのを感じた。


「ど、どうした?」
「うん。ちょっと探すの時間かかりそうだから……」
「あ、そうか。
よし、だったら僕も一緒に探そうか」
「ううん、いいの、大丈夫だよ!
暦お兄ちゃんはこの部屋で、飲み物でも飲みながら撫子を待ってなきゃいけないんだよ!
それ以外にないんだよ!」

 ……僕は待ってなきゃいけないのか。
 それ以外にないのか。
 いよいよ強制力が強い言葉になってきたぞ、千石の消去法主義。
つーかもはや消去法の態を取れているのかすら怪しい。

 ……まあ、他人の家の物置なんて、見られたくないものが入っている可能性は否定できないしな。
僕だって、家の物置で小学生の頃の恥ずかしい作文を詰めた段ボールなんか発掘したとしても、
笑いながら懐かしめる程にはまだ大人になっていないと自覚しているし、
なんせ相手は中学生の、思春期真っ盛りな千石なのだから尚更だろう。


「だ、だから、その、これっ……!」

 言って千石が差し出してきたのは、からんと涼やかな氷の音を鳴らす麦茶入りのコップ。
変に気合いが入った渡し方だったのが気になるけれど、とりあえず受け取る。

 汗をかいたコップから伝わってくる確かな冷気に、
それだけで暑さが霧撒するような気がした。

「なんか悪いな。ありがとう」
「いいんだよ、暦お兄ちゃん」

 千石は。

 いや、千石に限ってそんなことがないのは、
勿論当然のように言うまでもなく百も承知だけど、
それでもあえて言うのならば。

 照れくさそうというよりはむしろ、悪戯が成功したかのように、にっこりと笑って。

「じゃあ、撫子、ラケット探してくるよ。
暦お兄ちゃん、麦茶――絶対飲んでね」

 すっと、廊下に消えていった。


「………………」

 手の中のコップを見つめる。

 いや、飲むよ。
 丁度喉渇いてたしさ。
 飲みますよ。
 飲むけどさ。

 あんなに念を押すほど、僕って千石の前じゃ遠慮してるように見えるのかな。
実際はそりゃもうそんなこと全然ないのだけれど、
もともとの彼女の性格も相まってか、千石にはやたらと気を遣わせちゃってる気がする。

 高校生が中学生に気を遣わせてどうすんだよ……。

「……ま、考えすぎか」

 そう勝手に結論を出して、思考を放棄。ゴミ箱にぽい。
僕は綺麗な琥珀色の麦茶がたっぷり入ったコップを煽った。

 焦がれた喉を通る痛みにも似た冷気に、胃が流動するのを自覚する。

 美味いなあ、麦茶。

 なんて考えながら、半分ほど飲んだ頃だろうか。


「あれ……」

 なんだか頭が重い。くらくらするというか、瞼の開閉がやたらと困難になり、
思考も視点も標準が定まらず、
靄がかかったように――ああ、これ、あれだ。眠い時になる症状だ。

 寝起きの直後から続いていた緊張の糸が、どういうわけか麦茶を飲んで安心したのか、
いきなりの耐えがたい睡魔に襲われて。

「………ごめん、千石」

 ラケット見つかったら、起こして。

 泥に沈んでいくような、不思議で不自由な拘束感に負けて。


 そのまま僕は――意識を手放した。


―――

「………んむ?」

 水中でゆっくりと浮上していく空気のように、意識がぼんやりと持ち上がった。

 はっきりしない視界の中で、
しかし手首と足首に感じた痛みと不自由さに、顔をしかめる。
現状を確認するまでもない、あまりに明瞭な事態に滅入りそうになった。

 首を回して周囲を確認。

 僕がいるのは相も変わらず千石の部屋で、
しかしいつの間にかベッドに寝かされていて――そして、手足が、キツく縛られていた。


「なんだよこれ……」

 ぼんやりと呟く。

 今朝のファイヤーシスターズの襲撃よりも尚、明確に自由を奪われた状態。
寝ている間に拘束されていたという状況は、夏休みに旧戦場ヶ原から食らわされているけれど、
その戦場ヶ原は自然と候補から外れるとなると、
犯人の人と成りがまったく掴めない。
僕の知り合いに、そういうバイオレンスな発想力を持つ人間は、当然のようにそうはいないのだ。

 ところで人間は過去を振り返る生き物なので、
僕は過去、こういう不自由さを味わわされた経験を振り返ってみる――までもないか。

 大抵、怪異絡みの問題ばかりだ。

 と、なると。

「………っ!」

 ぞくりと、背筋が凍った。
まったくどうかしている。
どうしてすぐにその結論に至らなかったのか。

 怪異絡みの厄介事で。
 吸血鬼もどきである僕の自由を奪うだけの認識はあって。

 そしてここは――千石の家だ。

「千石っ!!!」

 張り上げた大声に、喉が裂けるかと思った。
それくらい、強烈で狂乱しそうなくらいの脅威を感じる。

 これまでの情報を分析して得られる答えは、ただ一つ。

 千石が危ない。

 犯人の狙いは――千石だ。

「千石、どこだっ!!!」

 絶叫した。
 首を回しても、部屋の中に内気で恥ずかしがりな女子中学生の姿はない。

 脊髄にドライアイスを直接放り込まれたみたいな、
不愉快で不条理な、ざらざらとした目眩みたいな浮遊感。


 くそ、いったいどれほどの時間、眠っていたのだろうか。
僕が傍についていながら、どうしてこうなった。
相手がなんなのか分からないけれど、しっかりと起きて千石の傍にいれば、
少なくとも彼女を安全な場所に逃がすことくらいできたはずなのに。

 ちきしょう。

 ちきしょう!

「千、石っ!!! どこだ、いないのかっ!!!」

 身を捩りながら放った叫びに答えた声は。

「ど……どうしたの、暦お兄ちゃん。そんなに大きな声を出して」
「………………あれ?」

 紛れもなく、千石撫子その人のものだった。

おはよう


 視線を巡らせると、部屋の入り口で怯えたように立ちすくんでいる千石の姿が目に入る。
後ろで犯人に包丁で脅されているなんて様子もなく、
相変わらずのおかしなデザインのワンピースという装いで、
怪我をしている様相も皆無だ。

 紛れもなく、いつも通りの、千石である。

 おや?

 おやおや?

 どういうことだ?

「千石……?」
「うん、暦お兄ちゃん。撫子だよ」

 暦だぜ。予告編クイズ!

 じゃねえ。

 そんなことをやっている場合じゃないし、
次回に引くほどの内容もないから予告編なんかやる必要もない。


 えっと。

 うん。

 状況がさっぱり分からない。

「……ともあれ、千石は無事なのか?」
「うん。どうして? 何かあったの?」

 僕の質問に、千石はちょこんと首をかしげて答える。

 いや、何かあったっていうか、現在進行形で僕はどうにかなっちゃってるんだけどさ。
手足、縛られるし。
まさか見えていない訳でもないだろうから、
千石を待ってる間に僕が変な遊びを始めたとか思って、
見て見ぬふりをしてくれているのだろうか。

 大変な汚名だった。

 妹の友達の女子中学生の部屋のベッドで、
自らの手足を縛って寝転がる遊びが好きな男子高校生になんか、僕はなりたくない。


 しかし僕が記憶障害にでもなっていない限り、
僕をこんな変態だと勘違いされかねない危機的状況に放り込んだ犯人は確実にいるわけで、
千石の様子を見る限り現在の家にはもうその姿は見えないようだけれど、
となると今度は単純な泥棒という可能性もある。
なくなった物の確認とかしなくてはならないだろう。

 まあ。

 兎にも角にも、早いところ自由を確保したい。

「千石、事情が気になると思うんだけれどさ、それは追々話すから、
とりあえずこの手足を縛っている縄をほどいてくれないか?」

 しかし、千石は。

 にっこりと、今まで見たことのないような楽しそうな笑顔で。

 短く、答えた。



「やだ」

マジですいませんが
ちょっち飯を食ってきます


「……………ん?」

 今、なんて?

「それは無理だよ、暦お兄ちゃん」

 千石は、同じ笑顔のまま言った。
 無理って?

「……え、僕の側からはよく見えないのだけれど、これ、そんなに強く結ばれてるのか?」
「そうじゃなくてね」

 まるで物分かりの悪い子供を諭すような口調。

「それ、結んだの、撫子だもん。なのにそんなに簡単に、ほどいてあげるわけないよ」

「…………………ほう」

 ……………。
 ……ほほう。
 意味が分からない。

 千石が? どうしたって?

 僕を、拘束した。

 ………なんで?


 部屋に満ちていたはずのストロベリーオーラが、
なんだかいつもと違う――あるいは妖艶とも言えてしまうような千石の様子に影響されたのか、
知らない間にラズベリーオーラに変わってしまったように思えた。
 空気に味がついているみたいな甘い部屋だったのに。
 今やなんだか呼吸が苦しい。
 ちなみにどうしてラズベリーかというと、個人的に、
なんとなくラズベリーには大人っぽいイメージがあるからだ。
どうしてだろうな。

 まあ、いいや。

 現実逃避をしている場合じゃない。

「あー、千石?
じゃあ訊くけれど、どうして僕を拘束したりしたんだ?
さすがの僕も、こんな状態でする遊びに心当たりはないぜ」

 王様ゲームを二人でやろうとする子だから、
どんなゲームをどんな風に勘違いしているのか分かったものじゃない。
ツイスターゲームは面白かったけれど。

「暦お兄ちゃんが何を言ってるのか、撫子、ちょっとよく分からないよ……」
「なんで悲しそうな顔をする……」

 ぶっちゃけ僕のほうがさっぱり分からない。
まさしく五里霧中である。


「あ、そうだ! ねえ、暦お兄ちゃん。
撫子、ちゃんと物置で見つけたんだよ!」

 ぴょん、と跳び跳ねるようにして――そんな、およそらしくない仕草をして、
千石は言葉を放る。

「見つけた?
……ああ、ラケットか。
バドミントン、やるって話だったもんな」
「違うよ、これだよ」
「…………………」

 のこぎりだった。


 僕の目が、おかしくなってしまったのでないのなら。

 千石の手に握られているのは間違いなく、のこぎりである。

 金属板にジグザグの刃をつけた工具であり、主に木材や金属を切断する際に使用される。
千石の持ってきたそれは、ごくごく一般的な両刃のこぎりだ。

「……なあ、千石?
のこぎりでバドミントンは、ちょっと難しいんじゃないか」
「バドミントンは、もういいの」

 叩きつけるように言葉を重ねられる。

「じゃあ、のこぎりなんて、一体何に……」

 千石は、みょんみょんとのこぎりの刃を曲げながら、
鈍い光を反射させるそれをうっとりと眺めて口を開く。

 ああ。

 ああー。

 嫌な予感しかしない。

 で、僕は悪い予感ばっかり当たるのだ。


「暦お兄ちゃんの足を、切り落とすためだよ」


「な………」

 戦場ヶ原がデレてからはほとんど言われる機会のなくなった、
久々なバイオレンスな発言である。

「千石、僕、ジョークでもそういうのは嫌だな……」
「ジョークじゃないよ」

 ぷう、と可愛らしく頬を膨らませて、僕の妹的存在は不満を表した。
対照的に、僕は脂汗が吹き出るのを感じる。

 ……なんだこれ。

 なんだよこれ!?

 心臓が悪い意味でばくばくして落ち着かない。

 千石の目にはいつものような怯えた風はなく、
むしろ自信に満ち溢れた妖しさを携えていた。
くいっと吊り上がる口元も、笑みらしい笑みこそ浮かべているが、
狂気と狂喜が滲んでいる。
のこぎりという凶器に反射して写る顔が、歪んで――感情の麻痺した、虫のような笑顔。


「それにしても、予想外だったよ。
お茶に混ぜた睡眠薬、普通もうちょっと効き目が長いはずなんだけどな……」
「睡眠薬って、千石、そんなもの入れたのかよ……」

 道理でお茶を飲んだ途端に眠気が襲ってきたわけだ。

 ていうか、わざわざ睡眠薬まで用意していたとなると、この一連の流れは、
おそらく千石が電話をしてきた辺りから入念に計画されていたということなのだろう。

 嫌な寒気がして、全身の鳥肌が立った。

「やっぱり暦お兄ちゃんの吸血鬼の力なのかな。
睡眠薬が、あんまり効かないのって」
「さ、さあ……どうだろうな……」

 のこぎりを持った千石が、一歩ベッドに近付いてくる。


「ちょ、ちょっと待て、千石! 落ち着け、な?」
「撫子は冷静だよ」
「のこぎり持って言われても闘争本能剥き出しにしか見えない!」
「撫子は冷戦だよ」
「冷酷すぎるっ!」

 このタイミングでその台詞は怖い。

 水面下で火花バチバチじゃねえか。

「り、理由をきかせてくれよ、千石!
なんでこんなことするんだ、僕の足なんか食べても絶対美味くないぞ!」
「た、食べたりなんかしないよ……暦お兄ちゃんは面白いことを言うよね……」
「そいつはどうも!」


 すると千石は――気付けばもうベッドの傍に立って僕を見下ろしていた千石は、
その瞳に鈍い光をぎらぎらとさせながら、口を開いた。

「だ……だって暦お兄ちゃん、足がなかったらずっと撫子のところにいてくれるでしょ?」

 だから切り落とすんだよ、と。

 さも当然のことのように、犯行の動機を告げる。

「あ……え……?」


「ううん、分かってるの。撫子、本当はちゃんと分かってるんだ。
暦お兄ちゃんには彼女さんがいるんだよね。
とっても綺麗な人なんだよね。
それに、神原さんみたいなすごくかっこよくて魅力的な後輩さんもいるし、
えっと、なんとかさんっていう委員長さんとも仲がいいって聞いたよ。
ららちゃんと火憐ちゃんにも、撫子じゃ全然適わないし……諦めるしかないと思ってた。
だけどね、撫子、それでも暦お兄ちゃんのこと、諦めたくないの。
だからどうすれば暦お兄ちゃんを、撫子だけの暦お兄ちゃんにできるか考えてたんだよ。
必死で考えてたら、そうしたら……閃いたんだ。
他の女の子に勝てなくても、暦お兄ちゃんをもう二度とここから出れないようにしちゃえば、結局独り占めできるって。
あはは、そうだよ、暦お兄ちゃんは撫子だけの暦お兄ちゃんになるんだよ。
嬉しいな。暦お兄ちゃんも嬉しいでしょ?
だから、他の女の子に会いに行く足なんかいらないよね。
だから切り落とすの。そうだ、他の女の子に今まで触ってきた手もいらないから切り落としちゃっていいよね。
……え? 大丈夫だよ、撫子、止血の仕方も、保健の授業でちゃあーんと勉強したし。
あ、でも暦お兄ちゃんは、吸血鬼だから、切っても治っちゃうんだよね。
任せて、手足が伸びてくる度に、撫子が元の長さに切り揃えてあげる。
お食事とかおトイレとかのお世話も、全部全部ぜぇーんぶ撫子がやってあげる。
撫子、暦お兄ちゃんのだったら全然嫌じゃないよ。
ほ……本当だよ? うん。だからね、暦お兄ちゃんはずっとこの部屋で、
撫子だけの暦お兄ちゃんとして生きればいいの。
撫子だけを好きでいてくれれば、一生一緒にいられるんだよ。
幸せだね。えへへ」

ごめん
どうしてこうなった


「………、……………」

 …………………。

 …………………。

 …………………。

 絶、句。

 まるで千石が千石でないような、
息をつく暇もないマシンガントークで繰り出された感情の吐露に、
理解がついていかない。

 えっと。

 千石が僕に睡眠薬を飲ませて。

 どこにも行けないように、足を切る?

 ………はい?


「じょ、冗談はよすんだ、千石。
意味が分からないし、笑えない。
戦場ヶ原や神原や羽川が、どうしたって?」

「撫子以外の女の名前を口にしないでよ暦お兄ちゃんッ!!!」

 叫んだ。

 千石撫子が、絶叫した。

「お……お前、そんなでかい声出せたのか……」
「暦お兄ちゃんのためなら撫子、大きな声も出すよ。
もう、せっかくこんなに説明してもまだ彼女さんの呪いは解けないんだね」
「の……呪い? なんの話だよ」
「でも心配しないで、撫子が暦お兄ちゃんを助けてあげる。
暦お兄ちゃんの足を落としたら、
きちんと彼女さんも神原さんも委員長さんもららちゃんも火憐ちゃんも――みんな仲良くあの世に送ってあげるの。
そうすれば、暦お兄ちゃんももう間違わなくて済むよね?」

 よかったな、八九寺。
 お前は安全みたいだぞ。
 って、もう幽霊だっけか、あいつ。
 あっはっは。

「笑えねえー……」

 つまらない冗談だった。


 それに――くだらない状況だ。

 千石に何があったのか知らないけれど、明らかに、普通じゃない。
まともじゃない。
何か大変な勘違いとか、洗脳とか――あるいは、怪異とか、そういったものの影響さえ見え隠れする。

 だったら。

 だったら兄的存在の僕が、それを正してやらなくて、一体どうするというのだ。

「あのな、千石」
「すぐに終わるから待っててね」
「いや、あの……千石……さん?」

 ぴたりと、のこぎりの刃が左脚の太股に乗せられた。
ジーンズ越しに、ざらざらとした痛覚が弾ける。


 春休みから始まって、つい先日まで続いていた夏休みの間。

 実は僕、阿良々木暦は、
足から下が無くなるなんていうような怪我は数えきれないくらいに負っている。
腕だって何度も吹き飛んだし、
それどころか首から下がぐしゃぐしゃになったことだってあるのだ。

 しかし、それらはすべて、吸血鬼としての回復能力にかなり依存していた時期の話で。

 僕が最後に忍に血をやったのは、もう十日以上前。
 となると、現在の僕の回復能力は、まだ重度の火傷くらいなら一瞬で治癒する程度にはあるものの、
さすがに四肢をすべて切り落としたら再生する前に出血多量で生命活動が停止するのは間違いない。
千石は止血の勉強をしたとは言ったが、一体全体どこの保健の教科書に、
達磨になった人間に有効な止血方法が載っているというのだ。

 ぞわぞわと、明確な命の危機に寒気が沸き上がる。

>>1よ、ペース大丈夫か?


「いくよ、暦お兄ちゃん」

「……ぃ、………っ!」

 ぎりぎりぎりぎりという音と不快な肌触りを残して、
のこぎりが千石の手前に引かれた。
まだほとんど身体には到達していないが、
ジーンズが一瞬にしてイケてない感じダメージ加工されてしまっている。

 やばい。

 マジでやばい。

 ちょっと漏らしそう!

「千石、た、頼みがある!」
「うん? 何かな、暦お兄ちゃん」
「あ、ああ……あー」

 咄嗟に叫んだ僕の声に、千石は動きを停止。
 僕は必死で頭脳をフル回転させる。

 何か。
 何かないのか。
 うまい言い訳の種になるようなことは……。

「時間稼ぎのつもりなら、撫子、作業を始めるよ?」


「す、……そうだ、睡眠薬!
千石、さっき僕に飲ませた睡眠薬って、まだあるのか!?」
「う、うん。あるけど、なんで?」
「その、なんだ。
僕もさ、千石に管理されて生活するのには不満なんてないのだけれど、
やっぱり足を切り落とすのは怖いんだ。
体の一部を無くす恐怖は、どんなに経験しても慣れるものじゃないしさ」
「……………」

 いぶかしむような視線。

 千石のこんな表情を見れるのはレアだけれど、
出来ればもっとまともなシチュエーションで見たかったな。


「だからさ、その……睡眠薬を僕に飲ませてくれないか。
眠ってる間に千石が手足を切ってくれるんなら、ほら、僕は怖くないだろ?」
「うーん………」

 千石は、しばらく悩むように首をかしげてから、ゆっくりとのこぎりを持ち上げた。
同時に、じくじくと嫌な痛みから解放。

「いいよ、暦お兄ちゃんのお願いだもん。撫子が断る理由なんかないよ。
暦お兄ちゃんが撫子に管理されたいって言ってくれて、きゅんってしちゃったし」

 ぱたんと、ちょっとだけ血のついたのこぎりをテーブルに置くと、
ぎちりという効果音が似合いそうな、歪んだ笑顔を浮かべる。

「じゃあ持ってくるから、暦お兄ちゃんはおとなしく待っててね。
ううん、暦お兄ちゃんはここで待ってる以外にないんだよ。
だから――」

 そう、だから。

「だから絶対、逃げちゃダメだよ?」

 そう言い残し、千石は部屋を出ていった。


「…………ふう」

 息をつく。

 逃げちゃダメ、らしい。

 無論。

 逃げないわけが、ないのだけれど。

「おい、忍。寝ているかもしれないけれど、大至急起きてこの紐なんとかしてくれ」

 すぱん、と。
 「大至急起きて」の辺りまで言い切るより早く、手足の自由を奪っていた紐が見事に切れていた。
 ずっと起きてたんじゃねえか。

「………サンキュ、忍」

 起き上がりながら呟いて、影を撫でる。


 さあ。
 本日二度目の、窓からダイブで大脱出だ。

ヤンデレ撫子とか……



いいぞもっとやれ


 006

「はぁ……はぁ……」

 裸足で走るコンクリートは、たまらなく痛いし、
どうしようもなく熱いし、
言うまでもなく不愉快だった。
だけど走る。千石の家からちょっとでも離れて安全を確保するまで、走り続ける。

 さっきまで兄的存在の僕が助ける、
とか格好つけてほざいていたけれど、千石、ごめん。
もうちょっと待っていてくれ。

 そもそも、千石がおかしくなった原因に心当たりがありそうなやつか、
あるいはそういう方面に詳しいやつに話を聞かないと、
なんの知識もない僕には何も出来ないのだ。

 千石がおかしくなった原因。

 そして、そういう方面に詳しいやつ。

 怪異ならば――忍。

 それ以外なら――羽川か。


「とにかく、まずは、安全な場所まで……」

 と思いながら走っていると、なんとも都合のいいことに、
前方に見慣れた後ろ姿を見つけた。
ちょっと遠くて吸血鬼補正に頼らないと見えないが、
この僕が彼女の後ろ姿を見間違えるわけがない。

 なぜなら、彼女は、僕の命の恩人だから。

 一生かかっても返しきれないような、そんな恩がある相手だから。

 しっかし、相変わらず、休日だっていうのに制服である。
 長い三つ編みだった髪は今や肩口で揃えられて。

 僕は声を張り上げる。

「おーい、羽川!」

 そう、羽川。

 羽川翼。

 猫に魅せられた少女。

おっぱいおっぱい


 僕の知る限り、最高峰の知識を持つ彼女は――頭の上に生えた耳を、ぴくりとこちらに向けて。

 …………ん?

 段々と距離が詰まり、もう吸血鬼補正に頼らなくてもはっきりと彼女の姿が見える。

 頭の上に――白い、猫耳。

 真っ黒なはずの髪の毛は――強烈に脱色されたように、白銀。

 振り向いた羽川が、くいっと口元を歪めるような、
だけどどこか能天気で楽しそうな顔をして、言った。

「にゃははは――にゃんじゃ、人間。
ちょうど俺の方から会いに行こうと思っていたのに、
人間の方からわざわざ食い殺されに来るだにゃんて、にゃんと殊勝なやつだにゃん」

「……………………」
 ………………。

 うそーん。

ブラックか……


 ブラック羽川――だった。

 ブラック羽川。

 障り猫に魅せられた羽川が生み出した、羽川の裏の人格。

 羽川の抑制された欲望――いや、ストレスの体現者。

 多重人格。

 羽川翼の対照図。

 黒くて悪い――羽川翼。

 一度目は夜な夜な暴虐の限りを尽くして二人の入院者を出し。
 二度目は怪異との関わり方を僕に忠告した。
 今まで僕の出会った怪異の中でも、危険度としては、吸血鬼の次を誇る。

 そんな――もう現れるはずのない、怪異。


「ブラック羽川あああああああああ!!!!」

 全速力で、ブラック羽川に向かって走る。

「にゃはっ、にゃんじゃ人間っ!!」

 迎えるように手を広げ、障り猫も走ってきた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

「そんなに焦るにゃよ! ごろにゃん!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

「俺も会いたかったにゃあっ!!」

 僕らの距離はほぼゼロへと迫り。

 がばっと飛び付くようにして、地面を蹴ったブラック羽川に。

「うおりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

「ぎゅ!? にゅ、……にゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 思いっきり、ラリアットをぶちかましてやった。


「はあっ……はあっ……!」

 少し勢いを殺すために前進を続けた後に立ち止まり、振り返る。
ちょうど椅子に座ったままで空中に放られたみたいな体制になっていたブラック羽川が、
べちゃっという音を立てて頭から地面に落っこちるところだった。

「ふぎゃっ!?」

「………………」

 動かない。
 ブラック羽川は、動かない。
 地面に寝たまま、動かない。

 そろそろと近付いて顔を覗き込むと、
そこにはおよそ羽川らしからぬ不細工な顔で完全にノびているブラック羽川がいた。

「………………やべえ」

 なんか変なテンションだったからって、羽川に全身全霊でラリアットしちゃった☆ミ

「…………いや」

 しちゃった☆ミ じゃねえよ。
 マジでどうすんだよ。
 人格矯正技術を物にしてからというもの、羽川、マジで怖いんだぞ……。


「…………………」

 ま、いっか。

 相手はブラック羽川だしな。
 ブラック羽川の間の記憶は、羽川本人には残らないしな。
 言わなきゃバレないだろ。
 なんとかなるさ。
 最悪、羽川に人格矯正されるだけだし。

 薄くて弱い阿良々木から、白くて正しいホワイト阿良々木に生まれ変わるくらいである。

「あっはっは――じゃねえよっ!」

 そうじゃねえよ!

 なんか動揺して一人で高笑いしちゃったよ!

 完璧に痛い人じゃん!

「そうじゃなくて、問題は……」

 どうして、ブラック羽川が現れたのか、だ。
 夏休み前の一件で、羽川は障り猫を飼い慣らすことが出来るようになったはずなのに。


「…………ふむ」

 冷静になって見れば、朝のファイヤーシスターズの時点で気付くべきだったのだろう。
戦場ヶ原は……まあ、いつも通りぶっ飛んだ蕩け方をしていたけれど、
言われてみれば八九寺も神原もどこか様子がおかしかった。

 しかし僕は、ここにきて。

 千石撫子と羽川翼の豹変という圧倒的な日常の軋轢をもってして、
初めて、ようやく、やっとのことで、理解した。

 今の僕の状況を的確に表現する言葉を、僕はたった一つだけ知っている。
 正直、もう聞き飽きて耳にタコかもしれないが。
 しかし僕はあえて、偉大な先人に敬意を示し、引用させてもらうことにしよう。

 熱気の駐留した空気を吸い込み。

 残暑のコンクリートで寝転がるブラック羽川を見下ろしながら。

「何かおかしい――なんとなく、そんな気がした」

 もう8月は、とっくに終わったはずなのに。


 ともあれ、羽川がこんな調子な以上、頼る相手は一人しかいない。
 まあ、僕としては、いつでもすぐそこにいるこいつに頼むのが、
一番楽っちゃあ楽なんだけれど。
 後々何か要求される可能性を考えると、
ちょっとそう簡単に頼りたくもない。

「仕方ないか」

 こつこつと、足元に出来た強烈な黒色を爪先で小突く。

「忍。起きてんだろ? ちょっと出てきてくれよ」

 ずぅるりと。

 あるいは艶めかしいほどの非現実さを撒き散らしながら、
僕の影から金髪の美幼女が現れて。
 やや舌足らずな声で、尊大に言い放つ。

「なんじゃ、騒がしい。
よいか、お前様。儂とお前様の感覚はリンクしているとついこの間教えたばかりじゃろう。
だっていうのに今日は一日、朝から心臓をばっくばっくばっくばっくさせおって――おちおち昼寝もできんわ」

 かかっ、と笑う。


 見た目は八歳児、頭脳は数百歳という、
どこぞの名探偵を高跳びの如く越えていけそうなプロフィールを持つこいつは、
ご存知、忍野忍である。

 吸血鬼――の成れの果て。

 吸血鬼――の搾り粕。

 身も凍るような美人で。

 鉄血にして。

 熱血にして。

 冷血の吸血鬼――怪異の王。

 僕を殺し――僕が殺した吸血鬼だ。

 いろいろと紆余曲折を経て、現在の忍と僕は、
こうしてコミュニケーションを取るくらいには歩み寄りを見せている。


「ああ、そいつは悪かったよ」
「ま、ミスタードーナツ5つで許そう」
「5つも食うのかよ!」

 なにちゃっかり変な約束を取り付けようとしてんだ。

「なんじゃ、5つじゃ不満か。
仕方ないのう、お前様がそういうのであれば儂も譲歩して、
10個で手を打つのもやぶさかではないぞ」
「なんで譲歩しておいて増えてんだよ!
そしてなぜ僕が我が侭を言ったみたいな言い方をするのかさっぱり分からねえぞ!?」

 とりあえず突っ込んで、と。

「状況は分かってるだろ、忍。
お前が人間の味方じゃないのは分かっているけれど、それでもあえて頼む。
お前の力を借りたい」
「ふむ……」

 小さな顎を、尊厳な動作で引き。

「確かに儂は人間の味方ではないが――少なくともお前様の味方ではある」

 忍は、金色の瞳をちょっと優しげに細めて言った。


「だったら……!」
「しかし、お前様が何を訊きたいのか儂には分からぬ。
巨大な妹御と極小の妹御の暴走?
蝸牛の娘の動揺?
エロ娘の羞恥か、照れ娘の乱心か、はたまたそこの元委員長のくそ生意気な飼い猫の話かの」
「……とりあえず突っ込んでおくけれど、
羽川は元じゃなくて今も委員長だ」
「どうでもよい」

 ソウデスネ。

 一蹴された。

 瞬殺だ。


「まあ、いいか。
とにかく忍、とりあえず最初に僕が訊きたいのは、その全部だよ。
今日のみんなが何かと様子がおかしかったのに、怪異が関係あるのかないのか。
ひとまずそれだけでいい」

 それが分かるだけで、これからの対処の仕方が変わってくる。

「お前になら、分かるだろ?」
「……単刀直入に言えば」

 僕の言葉に、さらりと流れるような声色で。

「ちょっと前から、不味そうな飯の匂いはしておった。
あまりに微弱で品がないから、放っておいたがの」
「つまり」
「あの娘御たちに関係があるのかは知らぬが――少なくとも、
今この町で悪さを働いている怪異はいるということじゃ」

 怪異。

 怪しくて、異なる。

 春休みから散々苦しめられて、散々困らせられた存在が、性懲りもなくまた存在している。

チラッと思ったこと言っていいか?
本当にチラッと思っただけなんだが

怪異ってのはただそこに在るだけで
悪さを働いてるとは言わないんじゃないかな支援

わっふるわっふる


 一度怪異に曳かれた者はそれからも怪異に曳かれやすくなるとは、忍野の言葉だ。
怪異は、認識の差で生じるものなのだから、
知っている者のところに生じやすくなるのはある意味当然ではある。

 しかし、こんな時に忍がいてくれてよかった。
 忍野から怪異についての知識を託された、元怪異の王。
 彼女が正常に機能しているのなら、話は早く片付く。

 僕は安心して、忍に声をかけた。

「ああ、そうだ。忍、さっきはありがとな。手足の縄切ってくれて」

 あれは勿論僕の秘められた能力が突如として覚醒したわけではなく、
僕の影に潜んだ忍が、影の中から切ってくれたのである。
 どうせ厭味の一つでも言われるだろうけれど、
お礼を言わないわけにもいかないと口にした言葉に、
忍はしかし、やたらと爽やかに微笑んだ。

「なあに、気にするでない。
あれはお前様の為ではなく、この儂の――私欲の為じゃ」
「……私欲?」
「うぬ。
儂の大事なあるじ様であるお前様を、
あのような気の違えた小娘如きに、
そうそうくれてやるわけにもいくまいよ」

>>429
oh...
それもそうだ、焦りすぎたかな
今回は撫子のところで阿良々木さんが露骨に迷惑を被っているから
あえて忍がそういう言い回しをしたってことにでもしといてくれると助かる


「……………なんて?」

「うん? なんじゃ、聞こえんかったのか。まったくお前様は本当に仕様がないの。
じゃが、まあ、そんなちょっと腑抜けた所もお前様の魅力ではあるか」

 なかなか恥ずかしいことを言ってしまったの、と頬を染める忍。


 目眩がした。

 もう無理だ。

 もう我慢の限界だ。

 僕は大きく息を吸い込んで――叫んだ。


「お前もかよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」


 鉄血にして熱血にして冷血の元吸血鬼。

 不味そうで品がない怪異に、あっさり陥落してんじゃねえか。


「もういい、忍!
ありがとうな、だからお前はもう影に入れ!」
「なんでじゃ。せっかく昼に起きたのじゃから、
儂としては愛しいお前様とミスタードーナツデートをご所望なのじゃが?」
「うるせえ! なのじゃが? じゃねえんだよ、デレんな!
お前はルックスが飛び抜けすぎてんだから、
デレると反則級に可愛いんだよ、ちきしょうがっ!」
「可愛いだなんて……もっと言ってたもれ」
「その口調はなんかキャラが違う!」

 何かと混ざってる。
 配合相手は知らないけど。


「いいからさっさと影に帰れよ、頼むから! もう面倒くさいんだよ!
大体、対怪異に関しては最高の特効薬のお前があっさりやられちまったら、
僕もう打つ手なしじゃねえか、ふざけんな!」

「失礼なことを言うでない、儂は怪異なんぞにやられてなどおらんわ!
もっとも、お前様の魅力にはとっくにやられておるがの!」

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 やめてくれ! 頬を染めてそんなことを言わないでくれ!

 くっそう、相手は外見八歳児なのに!
 間違いを犯してしまいたいっ!


言われてみてぇな


「仕方ないの。お前様よ、儂のロリロリボディに魅力を感じないのなら、
儂に血を飲ますのじゃ。
15歳でも、20歳でも、お前様の好きな年齢の身体になってやろう」
「…………ゴクリ」

 キスショットフルパワーバージョン時の、あの破壊的な胸を思い出す。

 あれは、やばいよなあ。

 マジでやばいよなあ。


「い、いやいやいやいや!」

 騙されちゃいけない。
阿良々木さんはそんな簡単に流される男じゃない。

「朝っぱらから妹御に対して下腹部を反応させておった男が何を言うか……」
「そんなことを今更言うな、不可抗力だ!」
「ほうら、お前様。
八歳児のスカートたくし上げを見たくないわけあるまい?」
「やめなさい、はしたない」
「むう……」

 本当にスカートの裾を持ち上げだした忍の手を叩いた。
デレ忍は可愛いし、その可愛さには間違いのボーダーを越えたくもなるけれど、
さすがに八歳児のお色気には欲情しない。

 つーかお前、そういうのどこで覚えてくんの?


「忍、いい加減に影に入らないと僕はこのまま全速力で走るぞ」

 忍野忍は、僕の影に縛られている。

 つまり日中の屋外、他に影のないこのような場所で僕が走ると、
影から出れない忍はそのまま引っ張られて地面を引き摺られることになるのだ。
プライドの高い忍にとって、最高の屈辱であろう。

 それに対して金髪美幼女忍ちゃんは、ちょっとだけうつ向いて。

「かかっ、なるほどの、そういうSMプレイか。
お前様にはそんな趣味があったのじゃな」

「…………………」


 全速力で、走った。


「あ、ああっ、痛っ! ちょ、待つのじゃお前様、ちょっとした冗談じゃろう!?」

 あまりに必死な叫びに、立ち止まって振り返る。
ざりざりと地面を擦られた忍が、涙目になった尻餅をついていた。

「………ぐすっ」
「あ、ごめんな、忍。ちょっとやり過ぎた」
「……お前様が望むなら、儂にはこんなSMプレイだって快感じゃ」


 全速力で、走った。

「あ、あぅっ、……いた、いたたたた、石が、石が当たっ……ぅあっ!? ひゃ、ひゃあんっ!?」

影にくっついたままだったっけ?
ミスドの店じゃ、普通にいられたんだから、くっついてるわけじゃなかろうに


「こんな世界もう嫌だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 もう、どこに向かって走っているのかも分からなかった。

 忍の声が止んで、どうやら影に戻ったらしくても、僕は走り続けた。

 羽川をラリアットかましたまま放置してきたことも、すっかり忘れた。


 怖い。

 女、怖い。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!!!」

>>461
屋内みたいな常時影がある場所は自由に動けるけど、太陽の下では阿良々木さんの影の上(下?)でしかいられない
だから自転車に乗るときは阿良々木さんが前屈みになれば影がつくれる籠に乗るし、
家の前で斧乃木余接に阿良々木さんが飛びかかったときは引き摺られた
みたいな感じだったはず
間違ってたらこのSSではこういう設定ってことで許してください><

―――

 気付けば僕は、かつて忍野が住処にしていた元学習塾の廃墟へと戻ってきていた。

「………はあ」

 朝に来た時に隠しておいた寝間着があることを確認して。

「どうしよう……?」

 頭を抱えてしゃがみこんだ。

 怪異がいる。
 この町には今、怪異がいる。
 だけど――忍は頼れない。

「どうしろってんだ……」


 僕はこれまで、いくつもの怪異に出会ってきた。

 鬼。
 蟹。
 牛。
 猿。
 蛇。
 猫。
 蜂。
 鳥。

 だけど果たして、本当に誰の力も借りずに解決するようなことが、出来ただろうか。

 答えは――否だ。

 僕の周りには、いつだって誰かがいた。
 いてくれた。
 だからなんとかなってきたのだ。


 のこぎりに切られた、ジーンズの裂け目に触れる。
その奥にある肌は、もう傷も残っていないけれど――あの時触れたのは、明確な死だ。
 あのままだったら、死んでいたのだ。

 おかしくなってしまった千石も、助けられずに。

 そうだ、千石を助けなくちゃ。助けなくちゃ――いけないのに。

 立ち上がれない。
 僕一人じゃ――何も出来ない。

「どうすりゃいいんだよ……忍野……」

 思わず口をついて出た弱音。
 それに。
 応えたものが、あった。


「そんなところで一人で頭を抱えていたって、僕は誰も助けてなんかくれないと思うよ」


 一瞬硬直した後に、ゆるゆると、恐れるように顔をあげる。
 そこに、いたのは。

「なっ……」

 驚きで、思考が止まった。

「お前、どうして……!」

 オレンジのドロストブラウス。
 可愛いデザインのティアードスカート。  淡々とした、真っ平らな更地を思わせる無表情。


「――僕はキメ顔でそう言った」


 かつて阿良々木月火の上半身を吹き飛ばし、
僕の血を飲んだ忍野忍に叩き潰された式神。

 斧乃木余接が、そこにいた。


 007

 斧乃木余接が式神である以上、彼女が一人でこの町に戻って来たということ、普通は考えにくい。
 というわけで、いつも忍野が居座っていた四階の一番左端の――夏休みのバトルパートで、
床の中央にドでかい風穴が空いてしまっている教室では、
体の軸が恐ろしく直線的な女性が、恐ろしく真っ直ぐな姿勢で立っていた。

 ダークカラーのパンツルックに、ストライプの入ったシャツ。
相変わらず、小学校で国語でも教えてそうな印象だ。

「久しぶり……でもあれへんな。まあでも、他にええ挨拶も見当たらんし――久しぶりやな、鬼畜なお兄やん」

 影縫余弦。

 あくなき現代の陰陽師。

 斧乃木余接と合わせて、怪異転がしと呼ばれるツーマンセルは、不死身の怪異の専門家である。


「あんたら……なんでここにいるんだ」

 ぐっと腰を落として、腹の底から声を絞り出す。

 不死身殺し。

 この町にいる不死身の怪異で、
彼女たちのターゲットになりうる不死身の怪異は――阿良々木月火くらいなはずである。
 くそ、なんで忍が使い物にならないこんな時に、この二人が町に来るんだよ。
 ギリギリまで吸血鬼に戻っても、影縫さん一人にすらまったく歯が立たなかった僕が、
今のほぼ人間に近い状態で2対1なんかやったら、文字通り瞬殺である。

 それでも、戦わないわけにはいかない。

 怪異転がしの目的が――月火ちゃんなら。

 兄として。

 阿良々木暦として。


 ところが、ぐっと拳を握った僕の背後で、
斧乃木ちゃんの無機質すぎて、およそ生物っぽさを感じさせない声が鳴る。

「鬼のお兄ちゃん。
そんなに構えても、今回僕たちは仕事で来たわけじゃないから大丈夫だよ
――僕はキメ顔でそう言った」
「…………………」

 やっぱり語尾うぜえ。
 ちらりと振り返ると、案の定真顔だし。
 徹底しろよ、いろいろと。

「ま、そーゆーことやから」
「な……」

 一瞬のうちに目の前まで接近しついた影縫さんが、
そう呟いてから僕の耳元に口をよせ、撫でるように息を吹き掛けながら囁いた。


 斧乃木ちゃんに聞こえないように配慮したのか、色っぽい京都弁が耳にかかる。

「正直に言うとな、リハビリやねん」
「………リハビリ?」
「そ。ほら、余接、前に来た時、例の怪異殺しに、こっぴどぉくやられたやん?
あれがトラウマになってしもうたみたいで、以来ずっと調子が悪いんよ」
「で、ここに連れてきたんですか」
「せや」

 にっこりと、思わず見とれてしまうような可愛らしい笑顔で言う影縫さん。

 ……いや、それを言ったら僕だって、あんたにボコられて割とトラウマなんだけど。
今までいろんな人にボコられてきたけれど、
20ページ以上を使って僕のことを延々と殺しまくったのはおそらく影縫さんだけである。

 つーか、影縫さん。斧乃木ちゃんのトラウマ解消のために、
斧乃木ちゃんがトラウマを作った場所に連れて来てどうすんだよ。
正直、ショック療法だろう。

 いいけどさ。
 他の家庭の教育方針なんか、どうでも。


「で、鬼畜なお兄やんは何をそんなに悩んでるん?」
「は?」
「せやから、さっき入り口で頭抱えとったんやろ?」
「……なんで」

 知ってるんですか、と言いかけて、堪えた。
そうだ、斧乃木ちゃんは、影縫さんの式神なのだ。
言葉を介さずとも意思疎通を図る術なんて、ないと考える方がよっぽど不自然で、不可思議だった。

「…………えっと」
「おらおら、お兄ちゃんよお、さっさと話して楽になっちゃえよ――僕はキメ顔でそう言った」
「……………………」

 殴りてえ。

 返り討ちにあって即死だけれど。

紫煙


「これでも、鬼畜なお兄やんよりは人生の先輩や。
つい最近殺し合った人間を信用なんかでけへんのも、分かるけどな」

 影縫さんは、すっと距離を離しながら陽気に言う。

「ま、これもなんかの縁やろ。
殺し合ったのも――こうして再会したのも。
そら話したくないならしゃーないけど、話して損はさせんよ」
「……相談料とか言って後から金とったりしませんよね?」
「そんなこと、この僕たちがするわけないじゃん
――僕はキメ顔d「かかか、貝木くんやったらやるんやろなあ、そういうセコい詐欺」
「キ、キメ顔で……」
「あ、すまん、余接」
「…………………」

 こいつら息合ってねぇー。

 すっげえ不安だ。

 一応シリーズ通して、既刊の中ではラスボスの立ち位置なんだから、
もうちょっと威厳のあるキャラを演じてほしい。


 しかし、影縫余弦と斧乃木余接。

 怪異関係の専門家であることは、間違いない。

 誰にも頼ることのできない現状において、
彼女たちとの再会は渡りに船であるとも言えた。

「あの、影縫さん」

 僕が言うと、非常に人懐っこい猫みたいな笑顔を浮かべる。

「うん?」
「じゃあ、ちょっと――話を聞いてもらえますか」


―――

 で、事の一部始終を語り終えると。

「……なるほど」

 影縫さんは神妙に頷き、僕の目を真っ直ぐ見つめて。
 答えた。

「さっぱり分からへん」

「あー……ああ?」

 散々語らせといて、今、なんつった?

「余接はなんか引っかかるとこ、あったか?」
「途中から興味がまったく無くなったから、全然聞いてなかったよ――僕はキメ顔でそう言った」

 当然のように無表情である。

 決めた。

 こいつぶん殴る。

 絶対ぶん殴る。

ブラッディ・マンデイつまんねえな

寝落ち?

保守時間目安表 (休日用)
00:00-02:00 40分以内
02:00-04:00 90分以内
04:00-09:00 180分以内
09:00-16:00 80分以内
16:00-19:00 60分以内
19:00-00:00 30分以内
         
保守時間の目安 (平日用)
00:00-02:00 60分以内
02:00-04:00 120分以内
04:00-09:00 210分以内
09:00-16:00 120分以内
16:00-19:00 60分以内
19:00-00:00 30分以内

(´・ω・`)保守 n
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(

( ^ω^)しらんがな

(´・ω・`)保守 n
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(

おやすみー(^^)/~

おはよー(^^)/~

(ましゅ

ぎゃあああああ2日連続寝落ちとかマジ死ね!
ありがとうございますありがとうございます


「僕とやりあうつもり?
僕は別に構わないよ、鬼のお兄ちゃん。
なんならハンディもつけてあげようか
――僕はキメ顔でそう言った」
「………やらねえよ」

 逃げた。

 いや、だって、勝てないし。

 今の僕がこいつ相手にしたら絶対に死ぬし。

「なんや、鬼畜なお兄やん、チキンやなぁ」
「生身でコンクリートの床ぶち抜ける人と比べないでくださいよ……」
「あんなもん気合いやん」
「んなわけあるかっ!」

 気合いって言っとけばすべて解決する時代は終わったんだよ。
今や主人公にはハイレベルな知能戦が求められる時代である。

 ……あれ。

 毎回、吸血鬼の回復能力にものを言わせたごり押しで戦っている僕は、
見事に時代に乗り遅れていた。


「そもそも、怪異転がしは不死身の怪異の専門家やし……
その方面なら負けへん自信があるけどな。
さすがに忍野くんみたいに、なんでもかんでも答えられるほど幅広くないわ」

 それもそうか。
 いなくなって分かるとはよく言う表現だけれど、
忍野って本当にすごいやつだったんだな。

「……影縫さんって、忍野と学生時代の知り合いなんですよね?
連絡とかつかないんですか」
「つかへんなぁ。そもそも忍野くん、携帯持たんし」
「ですよね」

 打つ手無しか、と諦めかけた瞬間。

 教室の隅で瓦礫を投げて遊んでいた斧乃木ちゃんが、
平然と、やっぱり平坦な声で、言葉を放ってきた。


「お姉ちゃん。僕、忍野っていうのは知らないけれど、
貝木っていうのとは今でも連絡つくんじゃないの?
――僕はキメ顔でそう言った」
「………貝木?」

 貝木泥舟。

 戦場ヶ原を騙した最初の詐欺師。

 全身黒ずくめの、「不吉」の具現者。

 本物の、偽物。

「せやな。ああ、鬼畜なお兄やんは貝木くんとも知り合いやったっけ。
貝木くん自体は怪異なんか信じてないいっぱしの詐欺師やから、
使い物になるとは思へんけど――ま、一応連絡してみるわ」
「ちょ……ちょっと、待っ……!」

 なんて僕が止めた時には影縫さんはもう携帯電話を操作して、
にっこり笑って僕に向けて差し出していた。

―――

「ほう、阿良々木か。
画面には影縫の携帯電話からの着信だと表示されていたと思うのだが、
どうしてお前が?」

 電話越しに、地の底を這い回るようなド低い声が耳に流れ込んできた。

 相変わらず、声だけでかなり不吉な響きである。
物凄く気分が滅入るからその喋り方はやめてほしい。
面と向かって聞くとあるいは威圧されているようにも思える貝木は声は、
電話口だと自殺する五秒前と言われても信じられるくらいの異様さだ。

 まあ、こいつがいきなりフランクに話してきたらそれはそれで不吉だけれど。


「いろいろ事情があってな……そんなことよりお前、
僕らの前で携帯へし折ったはずだろ。
聞いた話じゃお前と影縫さんが最後に会ったのって半年以上前らしいじゃねえか。
そんなお前が、どうして影縫さんの番号を登録した携帯電話を持ってるんだよ」
「ふっ……」

 貝木は小馬鹿にするように息を漏らすと。

「阿良々木。今回の件からお前が得るべき教訓は、
詐欺師が自らに不利な条件を抵抗せずに承諾する時というのは、
その条件は実は詐欺師にとって不利にはなりえない時だということだ」
「てめえ……」

 バックアップ用の携帯でも隠してたのか。
 さすが詐欺師である。
 死んでしまえ。


「いいか、阿良々木。詐欺師はいついかなる時でも詐欺師だ。
相手が詐欺師の場合、すべての言動を疑ってかかれ。
詐欺師が真実を言うのは、金を積まれた時だけだよ」
「嘘つけよ、てめえ。
僕が金積んで影縫さんたちの情報を聞き出した時、
実際会ったことはないとかほざいてただろうが」

 電話番号交換して、
未だに連絡が取れるようにしているくらいには仲良しさんじゃねえかよ。

「俺の望む額に、お前の積んだ額は届いていなかったとでも解釈しておけ」
「…………………」

 くそう、腹立つ。

 おい、忍野。
 忍野関連の知り合いはろくなやつがいねえぞ。


「それで? 阿良々木、今回はいくら払う」
「まだなにも言っていないうちから、
金をふんだくる話を始めるんじゃねえ!」
「商談は常に有利に進めるため、先手を取るのは常識だろう。
今回の件からお前が得るべき教訓は、
詐欺師を相手にするときは絶対に先に喋らせないことだ」
「どうでもいいけれど、お前、電話だと割と饒舌なのな」
「何を言う。俺は元々饒舌なほうだ」
「はあん」

 どうでもいい。

 平均的なミドリガメの時速の次の次の次くらいにどうでもいい。


「とにかく、お前に訊きたいことは一つだ。
金は――えっと、今手持ちで財布には1万円ある」
「なるほど、少なくとも1万3000円ほどは持っているな。
ならば1万5000円でいい。
俺が知っている情報なら、素直に一切の嘘をつかずに答えよう」
「………………」

 あっさり嘘を見破られた上に、まったく信用できない。
何が素直に、だ。

 つーか本当の手持ちが1万5000円って、ぴったり当てやがった。
 怖すぎる。

 しかし現状、頼れる相手はこいつしかいないのだった。


「……くそ、分かった、それでいいよ。
ただし、お前が情報を知らなかったりガセだったりしたら絶対に払わないからな」
「勿論だ。
俺は詐欺師だが、報酬はきちんと騙してとった金でないと
俺のポリシーに反する」

 そんなポリシー、命と一緒に溝に捨てちまえ。
 つーかお前、手負いの火憐から財布掻っ払うとかいう
ただのかつあげみたいなことしたんじゃないのか。

 まあ、いいや。
 僕はゆっくりと息を吸い込むと、言った。

 貝木に頼むのは、ただ一つ。
 絶対的な、願いだ。

「僕は――」

 僕の、願いは。


「――忍野と連絡が取りたい」

ごはん


 008

「袋青狸」

 電話越しで聞こえた、懐かしい、本当に懐かしくて、
軽薄で小馬鹿にするような態度のくせに誰よりも頼もしい声に、
ほとんど泣き出しそうになりながら僕がなんとか事の顛末を説明し終えると、
忍野はきっといつものようにちょっとだけ悩むような仕草をしたのだと
スピーカーを挟んでいても分かる間な取り方をして、
一度「そうだね」と呟いてから、そう結論を出した。

「知らない間に人の部屋の襖の中に住み着いて、
どら焼きを要求しまくる耳が無い狸の怪異さ。
毛の色は青で、人語を解し、ぐふふふふぅと不気味に笑い、
思春期の少年に怪しいアイテムを渡すことで楽をすることを覚えさせ、堕落させるんだよ」
「………忍野、僕、久しぶりのお前の声に、
感極まって泣きそうにすらなっていたんだけれど、どうしてくれる」

 本気で相談してんだぞ。
 ドラえもんの話なんか聞きたくねえんだよ。


「はっはー。相変わらず阿良々木くんは元気がいいなあ。
何かいいことでもあったのかい?」
「ねえよ。一つもねえよ。
頼みの綱のお前にも、せっかく作ったシリアスムードもぶち壊しにされたしな」
「まあ、そう怒るなよ。
僕だってせっかく新しい拠点での生活に慣れてきたっていうのに、
いきなり全然キメ顔じゃないキメ顔ちゃんが訪ねてきたと思ったら、
前の町で知り合った友達から『女の子にモテてモテて困る』って相談されたんだぜ?
厭味の一つだって言いたくもなるさ」
「いや……モテるとかそういう話じゃねえよ。
僕の話の、一体何を聞いてたんだ」

 僕がそう呟くと、忍野は唐突に黙った。

 え、なんだよ。
 僕、なんか変なこと言ったか?


「いや……そうだね。阿良々木くんはそういうやつだった。
阿良々木くんみたいな女の子の敵は、みんな死んでしまえばいいのにな」
「なんでそんなわけの分かんねえ理由で、
いきなり死ぬことを願われなくちゃならないんだ!?」

 どちらかと言えば、女の子の味方だぜ、僕。

 妹と八九寺にはセクハラし放題だけれど。

「……ま、いいや。
阿良々木くんのそれは、今に始まったことじゃないしね」

 やれやれ、みんな苦労するだろうね、とかんとか呟いて。

「じゃあ、仕切り直しにしようか」

 忍野はわざとらしく、こほんと咳払いをした。


「八股狸」

 で、忍野が改めて、いつものような口調で短く発したのは、
そういう怪異の名前だった。

「まあ、電話越しじゃあ、そこまで詳しい状況とかを聞けないから
以前ほどはっきりとは言えないんだけれど――昨日の夜、阿良々木くんは、
あの百合っ娘ちゃんにも聞こえない祭囃子を聞いたんだろ?
だったら少なくとも、狸の怪異であることは間違いないよ」

「………狸、か」

 懐かしい語り口に溢れ出る涙を堪えて、かろうじて言った。

「そう、狸」

 忍野は小さく繰り返す。

「狸だよ」


 狸。
 ネコ目イヌ科タヌキ属に分類される哺乳動物。
 短い足と太い尾を持ち、目の周りと足の先が黒い。

「そもそも一般的に、人を化かす動物っていうと狐が一番って思われがちだけれどね、
一説じゃあ、化ける能力は狸のほうが上なんじゃないかって話もあるんだよ。
狐の七化け狸の八化けって言葉があるくらいだし
――って、阿良々木くんは知らないかな」

 あくまでいつもの調子の忍野。

 あくまで、僕を小馬鹿にするような――優しい悪態。


 忍野。

 忍野メメ。

 怪異関係の専門家。オーソリティ。

 旅から旅、町から町の根無し草。

 僕や、戦場ヶ原や、八九寺や、神原や、千石や、羽川――春休みから夏前までの間、
この町で怪異に関わったそれらすべての人間の恩人。

「……ああ、知らないな」

 僕が素直に答えると、忍野は「だよね」と笑った。


 結論から言って、貝木は忍野の居場所を知っていた。

 なんでも忍野がこの町を去り、貝木がこの町に向かう間のとある場所で、
偶然出会ったそうである。
その際に、忍野がこれからしばらく活動拠点にする予定の場所を、
何かで金に変わる可能性があるかもしれない情報として聞き出していたらしい。

 そこは僕の町からは結構距離がある場所だったのだけれど、
そこは斧乃木ちゃんの式神としての面目躍如。
リハビリの一環だとか言って、影縫さんの携帯電話を持たされた斧乃木ちゃんが、
凄まじい速度でそれを忍野に届けに行った。
本気を出せば、100メートルを1秒未満で疾走できるらしい。
式神すげえ。


 とにかくその結果、こうして僕は僕の携帯電話を通して、携帯電話を持たず、
それどころか使い方さえも分からないような旧友・忍野と会話をすることが出来るのである。

 ちなみに僕のなけなしの1万5000円も斧乃木ちゃんに持たせた。
帰りに貝木のところに寄り、渡してもらうという約束だ。


「ま、ともあれ今は、八股狸の話だ。八股狸ってのはね、阿良々木くん。
愛媛県の今治市のとある村に伝わる怪異の名前だよ。
境内の山桃の木に、八本の尻尾を持った狸が住んでるって話さ」
「愛媛県?」
「うん。愛媛県ってのは、なんでか知らないけれど、
狸に関する言い伝えが割とたくさんあったりするんだよね。
例えば、そうだな。有名なおみつ狸の話なんかも愛媛なんだけど……
当然のように、阿良々木くんは知らないよね?」

 やっぱりいちいちムカつく話し方をするやつである。

 まあ、知らないんだけど。


「おみつ狸ってのは、あるおじいさんの前に美人の女の人が現れたんだけれど、
尻尾みたいなのが垂れていたから火で炙ったら、
雑魚を狙った狸だったって話さ。
ま、それは今は置いておいて」
「ああ。八股狸だ」
「うん」

 忍野は頷き。

「とは言っても、八股狸はちょっとばかり特別な怪異でね。
ううん、どう説明したらいいのかな。
八股狸は、逸話と怪異の性質が違いすぎるんだ」
「性質?」

 どういう意味だ?

「そう。八股狸はそもそも、村の守り神なんだよ。それ以上でも以下でもない。
ただ八股の狸が境内に住んでいて、村人たちを守っていたってだけの、
ろくなストーリー性もない伝承なんだよね」
「……それはおかしいだろ。
こっちは明らかにおかしくなった人間が存在するんだから、
今回この町にいるのが八股狸だっていうんなら、
それに見合った説話がないと辻褄が合わないんじゃないのか」

「その通り。阿良々木くんもなかなか分かってきたね」

 なんだか全然誉められている気がしない。


「八股狸を怪異として見るときに重要になるのは、
説話じゃなくて――名前なんだよ」
「……名前?」
「そう、名前。
この怪異はね、八股狸の言い伝えそのものじゃなくて、八股狸って名前から怪異が派生したんだ。
ほら、二人の異性と同時に付き合うことを、二股をかけるって言うだろ?
あれと同じで、八股狸は――八人の異性に同時に好かれた人間が、憑かされる怪異だ」
「はあっ?」

 自分でもびっくりするくらい間抜けな声が出た。
危うく携帯電話を取り落としそうになる。

 みんなが僕のことを好きだって?

 そんなアホな。


「忍野、またふざけてるんだったら早いところ――」
「ふざけてなんかいない」

 ぴしゃりと言葉を重ねられる。

「僕は至って真剣だよ、阿良々木くん」
「…………………」

 確かにその声色には、ふざけた様子は感じとれない。

 いや、でも、なあ。

 八人の異性に好かれている?

 今日会った異性と言えば、ファイヤーシスターズ、八九寺、戦場ヶ原、神原、千石に、忍で八人か。

 まあ、影縫さんと斧乃木ちゃんは別枠として。
だってこの二人には、絶対に、確実に、何があっても好かれてないということくらい、さすがの僕でも分かる。
斧乃木ちゃんに至っては、忍にボコられたこともあるし、むしろ嫌われてるんじゃないかとも思う。

>>606
× 今日会った異性と言えば、ファイヤーシスターズ、八九寺、戦場ヶ原、神原、千石に、忍で八人か。
○ 今日会った異性と言えば、ファイヤーシスターズ、八九寺、戦場ヶ原、神原、千石、羽川に、忍で八人か。


「勿論、阿良々木くん。
この場合の好意ってのは、何も恋愛感情の話とは限らない。
恋愛感情の好意を寄せている人間は、少なくとも一人いればいいのさ」
「そうならそうと先に言えよ……」

 無駄に動揺しただろうが。

 それだったら、僕だって心当たりはある。
その人だけは、僕に向けて確かに恋愛感情を向けてくれていると、
自惚れも含めて断言することができる人物が、たった一人だけ存在するからだ。


 戦場ヶ原ひたぎ。


 彼女からの好意は、確かに惚れた腫れたの好意に違いない。

「あー、あー、ああー!
なーんか阿良々木くんが阿良々木くんのくせにのろけたこと考えてるのが電話越しでも伝わってくるよ!
嫌だ嫌だ、幸せな阿良々木くんなんかさっさとこっぴどくフラレて死んじゃえばいいのになぁー!!」
「………忍野、お前なんかやさぐれてないか」

 この町を離れて何があったんだよ。
 ちょっと心配だ。


「つまりだよ、八股狸が発生する条件ってのは、簡単に言ってしまえばこういうことだ。
ある一組のカップルがいて、そのどちらかのことを、
恋愛感情でも、家族としてでも、単純な友情でもいいから好意を寄せる七人の異性がこう願えばいいのさ。
『もっと自分のこともかまってほしい』ってね」
「はあん……」

 なるほど。
 そういう話か。
 確かに戦場ヶ原がデレた喜びで、もうここしばらくはずっと、
僕は戦場ヶ原フィーバーだったけれど。

「もっとも阿良々木くんの場合、
何だかんだで恋愛感情要因ばっかりな気がするけどね」

 なんだか拗ねている忍野は、この際無視することにした。

忍野「僕もその8人のうちに入ってるんだけどね」


「それで、忍野。
八股狸が現れる条件については分かったけれど、
結局のところ八股狸ってのはどんな怪異で、今回は誰が憑かれてんだよ」
「ん? なんだ、ここまで説明してもまだ分からなかったのかい?
相変わらず阿良々木くんは愚鈍だなあ」
「………………」

 忍野含め、大人なんかみんな大嫌いである。

「まさか自覚がないとは思わなかったよ。
いいかい、阿良々木くん。
分からないのなら仕方ないからわざわざ言ってあげるけれど、
今回八股狸に憑かれているのは――君自身だよ」


「………はあ?」

 忍野の言葉に、僕は首をかしげる。

「じゃあ、僕が八股狸を呼び寄せたってことかよ。
だってそれじゃ、僕が戦場ヶ原以外の女の人といちゃいちゃしたいとか思ったから、八股狸が来たってわけだろ?
忍野、専門家の意見を否定するのは心苦しいけれど、そんなわけないぜ」

 そりゃあ、勿論好意を持ってはいるけれど。

 ファイヤーシスターズは妹として。

 八九寺や神原は友達として。

 千石は妹的存在として。

 羽川は命の恩人として。

 忍は相棒であり、自らの罪として。

 あくまで僕が恋愛感情を持ってして愛していると言えるのは、戦場ヶ原だけだ。

「そういう小っ恥ずかしい台詞はさ、僕じゃなくて、ツンデレちゃんに直接言ってあげなよ」
「断る」

 昔の戦場ヶ原に言っても当然あれだったけれど、
今のドロドロな戦場ヶ原にこんなことを言ったら、
原形を留めなくなるかもしれなくて怖い。


「クソ阿良々木くんのクソみたいなクソのろけはおいてといて、
だから言っただろ、八股狸は特殊なんだ。
さっきちらっとそれっぽいニュアンスは出したんだけれど――」
「おい、忍野。言葉遣い言葉遣い」

 気をつけろよな。
 お前までおかしくなったのかと不安になるから。

 忍野はそんな僕の忠告に反応もせず、続けた。

「八股狸は憑かれる怪異じゃなくて――憑かされる怪異だぜ?」


 つまり。

 八股狸とは、本人の意思に関係なく、
条件が揃えば無条件で、八人の異性によって憑かされてしまう怪異らしい。
 その効果は単純で、件の八人の異性の中の好意のメーターを爆発的に跳ね上げて、
強制的に八股状態を生みだそうとするというもののようだ。

 ファイヤーシスターズの色仕掛けも。

 八九寺真宵の弱音の吐露も。

 戦場ヶ原――はいつもとあんまり変わらなかったけど。

 神原駿河の唐突な羞恥心も。

 千石撫子の異様な病み方も。

 羽川翼のブラック羽川解放も。

 忍野忍の大胆発言も、すべて。

「僕の中にいる怪異が原因ってことか」


「怪異が原因とか怪異の仕業とか、そういう言い方は好きじゃないけれどね」
「怪異はただ――そこにあるだけ」
「そう。だってさ、そもそも八股狸は彼女らの感情を振り切らせているだけなんだから、
さすがにそこまで過激ではなくとも、
彼女らが似たような願望を持っている可能性は否定できないんだぜ?」

 勘弁してくれ。
 八九寺、神原、忍辺りは可愛かったけれど、
ファイヤーシスターズと千石と羽川は割と洒落になっていない。

「とりあえず、八股狸のことは分かった。
分かった上で、忍野。こいつは一体どうすれば祓えるんだ?」
「まったく気が早いよ。相変わらず阿良々木くんは元気がいいなあ。
何かいいことでもあったのかい?」

 早くねえ、むしろ遅いくらいだ。
こっちはマジで千石に殺されかけてんだよ。


「ま、八股狸自体は非常にマイナーな怪異だし、ランクも下級中の下級だ。
祓い方は今までに類を見ないくらいに簡単だよ」

 忍野は、くあ、と欠伸をしたような気配をスピーカーの向こうで漂わせ、続けた。

「狸ってのはさ、実は物凄く臆病な動物なんだよね。
狸寝入りってそもそも、当たってもいない猟銃の音にびっくりして気絶しちゃう狸の習性から出来た言葉だし」
「………それがどうしたって言うんだよ」
「うん? つまり、狸の怪異は得てして祓いやすいってことだよ、阿良々木くん。
どんな大物の怪異だろうと、相手が狸なら大抵この方法でなんとかなる」

 そんな方法があるのなら早く教えて欲しかった。
 勿体振るのが好きなやつだ。


「で、その方法って?」
「阿良々木くん、さすがにカチカチ山の狸さんの話は知ってるかい?」
「そら、知ってるけれど……」
「うん。だから、そういうことだよ」

 カチカチ山の狸?

 あれってええと、どんな話だっけ。
確か老婆を殺した狸を成敗するために、兎が狸の背負った薪に――。

 !

「お……おい、忍野、まさか……!」
「さっきのおみつ狸の話でも言っただろ?」

 おみつ狸。
 炙ったら正体を見せた化け狸。

「八股狸を祓う方法は――火炙りだよ」

 はっはー、狸は火に弱いんだ、と心底楽しそうに笑う。


「う、嘘だろ!?」
「えらくマジさ。
阿良々木くん、忍ちゃんに血をやったのは十日前だって?
よかったじゃないか、それなら丁度、
大火傷くらいなら一瞬で治るくらいの回復能力だろ」

 待て。

 待てよ。

 火炙りだって?


「あ、そうそう。
この方法はさ、予めこっちのキメ顔ちゃんには教えておいたから、
この子を通して影縫ちゃんにも伝わってると思うよ。
確かこの子たち、テレパシーみたいなことできるんだろ?
影縫ちゃんは、あれはあれでなかなかいい子だから……
はっはー――そろそろ、準備が整った頃じゃないかな」

 がこん、という物音に振り返ると。

「あ、鬼畜なお兄やん。忍野くんとの電話は終わったん?」

 教室の入り口で、灯油を入れた赤いポリタンクと、
山ほどの100円ライターを抱えた、影縫さんが――。

「ほな、始めよか」

 にっこりと、笑った。

「ちょ、ま………やめ、嘘だろ、なあ、忍野っ!
うわ、灯油くさっ……待っ……タンマ、影縫さん、タン……………
ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

マララ木さんざまぁwwwwwww


 009

 後日談というか、今回のオチ。

 翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされた僕は、
ファイヤーシスターズがどうやらいつも通りであり、
昨日の記憶がぼんやりしているといぶかしむ様子を見て安心すると学校に行き、
同じように自らの記憶の欠如を訴える羽川には、
ブラック羽川が現れたけれどそれは羽川のせいではなく僕の憑かれた怪異のせいであることを説明し、

「物凄い回転でコンクリートの地面にぶつけたみたいに後頭部が痛いんだけど、
もしかして阿良々木くん何か知らない?」

 と言う羽川はやっぱり怖すぎると思いつつなんとか誤魔化して、
放課後、家に寄っていかないかという旨のキュン場ヶ原さんの必死の誘いを泣く泣く断ると、
昨日の忍との約束通り、ミスタードーナツにやってきていた。


「かかっ、どうやら火炙りは楽しかったようじゃの、お前様」
「んなわけあるかよ……」

 足をぱたぱた落ち着きなく動かしながら、
もふもふとエンゼルクリームを頬張る金髪幼女を見つつ、ため息を吐く。
全身大火傷しては治り、大火傷しては治りを一時間くらい延々と繰り返したんだぞ。
楽しいわけがない。

 ところで昨日、全身全霊で高笑いしながら、
本当に楽しそうに散々僕を焼いた影縫さんは、
どうやら斧乃木ちゃんが今回の仕事――というか忍野と貝木のところへのお使いでスランプを抜けたらしく、
二人揃って町を出ていった。
安いスランプである。

 その一方で見事に服ごと燃やし尽くされた僕は、
朝持ってきて隠しておいた寝間着を着て家に帰ったのだった。
 ……みみっちい伏線だ。


「はあ……」
「なんじゃ、せっかくこの儂とデートしておるのじゃぞ、
ちーぃとは楽しそうにしたらどうなんじゃ」
「………おい、僕のオールドファッションを勝手に食うな」
「もふっ! ……美味い!」

 まあ、いいか。

 忍から視線を外し、ミスタードーナツの店内をぼんやりと見やる。
超速再生と灼熱焼失の繰り返しのせいで、まだ身体が火照っている気がした。

「……………はぁ」

 落ち着いた音楽の流れる店内。
レジの方では、若い女店員たちがちらちらとこちらを見ては、
忍がドーナツにかじりつく度に黄色い悲鳴を上げていた。


「有名になっちゃったしなあ……」

 髪を染めている人すらいない田舎の町で、
めちゃくちゃ目立つ容姿と言動の忍を連れて何度もミスタードーナツを訪れていたせいで、
すっかり有名になってしまい、今では女子中高生の間で
忍はおみくじみたいな扱いすらされているらしい。

 ミスタードーナツに行って忍に会えたら、一週間運気急上昇なんだってよ。

 常時忍を影に潜ませている僕は、運気急上昇どころか完璧に焼かれたぞ。


 なんてぼんやり考えていると。

「八股狸」
「………うん?」

 不意に、忍が件の怪異の名前を口にした。

 視線を向けると、口の周りをべとべとしにた元吸血鬼の、
ぞっとするほど真剣な瞳とかち合う。

「ほら、お前、威厳もなにもあったもんじゃねえぞ」
「………ぅぎゅっ」

 ナプキンを取って口の周りを拭いてやる。

「んみ、…………むっ……んぅ……や、やめんかっ、それくらい自分で出来るっ!」
「当たり前だ」

 出来なくてどうする。


「まったく、お前様は時折、儂のことを勘違いしたような態度を取るの」
「別に、勘違いはしてねえよ」

 忍野忍の立ち位置は、ちゃんと分かっている。

 僕の従僕で。

 僕の主人で。

 人類の味方でもなければ敵でもない――500歳の貴族の吸血鬼の一欠片。

「ただ少なくともミスタードーナツに来ている時だけは、
お前はただの生意気な八歳児だ」

 ぱないの! とか言うしな。
 小さな手で不器用に口元を拭う忍は、やや不満そうに口を尖らせる。


「で? 八股狸が、なんだって言うんだよ」
「うむ。あの小僧から八股狸に関して聞いた話を、今更ながら思い出しての」

 忍の言う「あの小僧」とは、忍野メメのことである。

「おそらくじゃが、お前様よ。
この話、まだまだ厄介なことになるかもしれんぞ?」
「厄介なこと?
……あ、おい、それは僕のフレンチクルーラーだ!」
「もきゅもきゅ」

 二人で5個ずつ買ったのに、忍はもう7個目である。

「んぐ……うむ。厄介なことじゃ」
「なにナチュラルに続けようとしてやがる、僕のドーナツ返せ!」
「嫌じゃ」

 んべ、とザクロみたいに真っ赤な舌を出す忍。

 お前、そんなことするやつが、どの口で儂のことを勘違いしておるとか言ったんだよ……。


「それで、話を戻すが、厄介なこととは八股狸に惑わされた者の記憶じゃ」
「記憶……?」
「うむ。元委員長はレアケースとして、
よいか、八股狸に惑わされた者には、その間の記憶が残る者と残らぬ者がいる。
残る者は元々怪異についてその存在を認識している者で――残らぬ者は、その逆じゃ」

 怪異を知る者と、知らない者。

 なるほど、そうなると確かにファイヤーシスターズは昨日の記憶はすっぽり無くしているはずだ。
羽川は障り猫のシステム上、ブラック羽川時の記憶は残らないから例外として。


 だから忍とはこうして八股狸の話ができるのだ。

「で、それのどこが厄介なんだよ」
「分からぬか?
つまり蝸牛の娘とエロ娘と照れ娘には、あの間のおかしくなっていた記憶が残るのじゃぞ?」

 うん。
 だから、それの何が厄介なんだ。

「あいつらには怪異のせいだってちゃんと説明してやればいいだけだろ?
確か今日、神原は千石と会うみたいなことを戦場ヶ原が言っていたから、
神原にメールを入れておけばいいか。
八九寺は、まあ、会えたときに説明するとして」
「はあ。お前様は本当に阿呆じゃ。
小僧が愚鈍だと馬鹿にするのも分かるわ」
「………あん?」

 忍が僕の最後のフロッキーシューを食べようとする手をたしなめながら、
携帯を取り出し神原にメールを送信した。


「これでよし、と」
「なんて送ったのじゃ?」
「んー、お前らがおかしくなってたのは怪異のせいだ、ごめんって」
「……ちゃんともう祓ったと付け加えたほうがよいと、儂は思うがの」
「いや、この文脈なら分かるだろ」

「……ま、お前様がよいなら儂は文句は言わん」

 フロッキーシューを半分に割って渡してやると、
忍はぱくりと食い付きながら続けた。

「ところでお前様よ、あの小僧に言われたことはどう思っているのじゃ?」

「忍野に言われたこと?」
「あの娘御みんなが、お前様のことを好いておるという話じゃ」

「ああ。お前、そんなの気にしてたのか。
いいか、忍。冷静に考えろよ、そんなことあり得るわけがないだろ?
僕は元ぼっちの根暗野郎だぜ。
好きになる要素なんてまったくねえよ」
「元じゃなくて今もぼっちじゃろう」
「…………………」
「女御ばかりに現を抜かしおって、クラスに男の友達は一人もおらんし。
ぶっちゃけ、同性から一番嫌われるタイプじゃ」
「…………………」

 死にたい。

「ま、お前様が一生ぼっちなのは置いておいて」
「今、一生っつったか?
見てろよ、大学デビュー決めてやるからな!」
「うざい」

 なんだか忍が冷たい。
 あんだけ焼かれた後くらい、優しくしてくれよ。

忍野「リア充爆発しろ」


「で、お前様よ。
お前様は別に、あの娘御たちから好かれておらんとは限らんのではないか」

 忍はにやにやと笑いながらそんなことを言う。

「少なくともあの娘御たちにとって、お前様は命の恩人じゃろう。
それに、自分が自分に下した評価ほど当てにならないものもあるまいて」
「まあ……確かに一理あるけれど」

 人間が一人の人間として自らのことを語る際に、そこから主観を取り除いたら、
他のどんな他人を語るよりも情報が少なくなるのは、ある意味当然である。

「自分のことほど主観に頼って捉えていることなぞ、普通、ありはせんしの」

 忍は、ぺろりと口元のクリームを舐めとって笑う。


 そう。

 他人の目から見えている自らの姿形を見ることは、
鏡をもってしても絶対に不可能であるのと同じように。

 他人が聴いている自らの生の声を聴くことは、
録音機器をもってしても確実に不可能であるのと同じように。

 鏡を通した自分はあくまで虚像でしかないし、
スピーカーから排出される自分の声は、頭蓋骨の振動によって聞こえる自らが認識している声とも、
生の空気の振動で伝わる声とも異なっているのは――今更、言うまでもない。

「じゃから、あの娘御たちも――あるいは儂も、
お前様をこっそりと愛しているという可能性は、否定できんじゃろう?」
「はあん………そうかね」

 そうは思えないけれど。

 特にお前なんか、僕のことを殺したいほど憎んでいて当然なわけだし。


「まあ、でも、いい機会にはなったかもな」
「ん?」
「自分が、周りにどんな風に思ってもらえているのか、
改めて考えてみるいい機会にはさ」
「………ふん」

 つまらなそう鼻を鳴らす忍は、しかし窓の外を見て、にぃい、と口元を歪める。

「どうした?」
「見てみるがよい。お出ましじゃ」
「…………なっ、……にい?」

 店舗の外には。

 さっきメールを送ったばかりの神原駿河が、
千石撫子をお姫様抱っこしたまま走ってきていた。

「………なあ」
「なんじゃ?」
「あれさ……千石、何か持ってない?」
「持っておるの」
「銀色の……」
「のこぎり、じゃの」

 なんでだよ……なんでなんだよっ!?


 ぞくぞくとした寒気が沸き上がる。

「お、こちらに気付いたの」
「ばっ……馬鹿忍、お前なに笑顔で手ぇ振ってんだ、逃げるぞっ!」

 僕は忍を小脇に抱えると、全速力で外に飛び出し、
神原と千石の位置から逆方向へと走り出した。

「阿良々木先輩、どうして逃げるのだ!」
「ま、待ってよ、暦お兄ちゃん!」
「うるせえ、誰が待つか!
つーか千石、なんでお前のこぎり持ってんだよ!?」
「え!? な、撫子は別に、暦お兄ちゃんの足を切り落としたいなんて思ってないよっ!?」

 僕もそんなこと言ってねえ。

「仕方ないのだ、阿良々木先輩! これは私達の意思じゃない!」
「そうだよ、暦お兄ちゃん! これは怪異のせいなんだよ!」
「いやいやいやいやいや!」

 大爆笑する忍を抱えながら、町を走る。


「忍、てめえこうなることが分かってやがったな!」
「いや、まさかここまで見事になるとは思っておらんかったがの。
あの娘御たちのことじゃ、どれだけ全力でお前様に迫っても、
そのすべてを怪異のせいにできる状況があると言われたら、
行動を起こさないわけはないと思っておったわ」
「ふざけんな、そういうことは先に言え!」

 なんてやっているうちに、追いかけてくる足音が真後ろに近付く。

 いや、無理だって。
 いくら千石を抱えていようと、神原の足に勝てるわけがない。

 その神原の、嬉々とした声が鳴る。

「阿良々木先輩にも穴はあるのだよなっ!」

 なんか聞こえた。

 聞こえちゃった!

 やべえ、マジで逃げなきゃ!

>>701
サンクス
ドラえもんの銀色のダーツしか思い浮かばなかった

なんか欧米の妖怪って銀に弱いのが結構いるよな
なんでだろ?

>>704
ビッグライト!!


 走りながら、思う。

 阿良々木暦。

 私立直江津高校三年生。

 薄くて弱い性格。

 吸血鬼――もどきの人間。

 人間――もどきの吸血鬼。

 そんな僕にとっての、ちょっとした不協和音。
阿良々木暦という存在が、他人に――彼女たちにどう思われているのか、
主観を省いて考えなおすきっかけになった、慌ただしい日。

>>705
銀は、砒素に反応して黒ずむ性質を持っている。
銀食器にいれて水は腐りにくい。
といった性質から神聖なものと尊重されたという経緯がある。

ちなみに中世時代の精製不足な砒素に硫黄成分が混じっていたため黒ずむので、砒素に反応するわけではない。


 だから、ちょっとくらいは深刻な話もあって。
 ほんの少しだけ傷付いた人もいるかもしれないけれど。

 さしずめ食玩に申し訳程度についているラムネのような。

 あるいは新聞をとるとどうだとばかりに同封されるテーマパークのチケットのような。

 もしくは本屋で買い物をするとプレゼントしてくれる紙の栞のような。

 これは、そんな、本当にどうしようもなくて、
馬鹿馬鹿しくてくだらない、心の底から笑ってしまうような――。

「待つのだ、阿良々木先輩っ!」
「暦お兄ちゃん、待って!」
「ほれ、可愛い女御が二人もお前様を呼んでおるぞ。
止まってやったらどうじゃ」

「誰が待つかああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」



 ――狸に化かされた、ある一日の物語だ。



おしまい

>>1
乙!!!
面白かったぜ!!




神原「そうか、いま私が阿良々木先輩を押し倒したいと思ってもそれはそれで仕方の無いことなんだなっ」
ガッツポーズをする神原。
撫子「暦お兄ちゃん、撫子は怪異に負けないから」
と、なぜかのこぎりを持つ千石。

こうですね。

今回は一日と半分くらい、こんな駄文に付き合っていただきありがとうございました。
なんとか完走できました。
あとどっかで言われてたけど、一応かれんバタフライの作者さんにも悪いので、
もう一度人違いだと否定しておきます。

前回はほぼ完全に書き溜めしてから投下したので、
今回は全体像と一部だけ作ってからの即興でやったら、
ちょっとエロい娘で終わるはずの千石が大変なことになって動揺しました。


で、デレ場ヶ原さん分が足りないって声があったので、
ちょっとしたオマケがあるんですが……需要ありますかね?

わあい
お兄さん調子にのっちゃうよ


 戦場ヶ原ひたぎは、僕こと阿良々木暦の彼女である。

 戦場ヶ原ひたぎ。

 蟹に行き遭った少女。

 今や当初の原形などまったく留めていないほどにデレてしまったが――いや、勿論それは悪いことではなく、
当然のように大変喜ばしいことなのだけれど、ともかく戦場ヶ原は、元ツンドラだ。

 というか、正直、恐ろしいレベルの狂気をぎっちりと内包していたと思う。
普通、いくら自分の秘密がバレたからって、
話したこともないクラスメイトの口をホッチキスで閉じたりはしない。


 ともあれ、戦場ヶ原ひたぎ。

 ドロデレになってしまった今の彼女は、むしろ常時過剰なほどにデレすぎているようなものだが、
ならばツンドラ時代の旧戦場ヶ原が決してデレなかったのかと言われれば、
やはりというか当然というか、決してそういうわけではない。
もっとも、頻度こそ、低かったものの。

 と、言うわけで。

 そんな戦場ヶ原ひたぎのツンドラ時代のエピソードの一つを、紹介しようと思う。

乙と思ったら来てる





支援

―――

「ところで阿良々木くん、受験勉強は捗っているのかしら」

 ふと、すっかり忘れていた用事を思い出したみたいな気軽さで
戦場ヶ原がそんなことを言ったのは、
羽川の障り猫騒動リベンジが片付いてからしばらくが経った、
とある帰り道のことだった。

 戦場ヶ原は、このためだけにわざわざ朝から座布団を装備してきた僕の自転車の荷台に乗り、
おでこは僕の背中ぴったりとくっついているくせに、
腰に回した手だけはなんだか無意味に遠慮がちで、そわそわと落ち着かない。

 今日は珍しく神原がしつこく僕らに付き纏ってくることもなく、
戦場ヶ原といるからか八九寺の大きなリュックサックは見あたらず、
千石は以前のように僕を高校の門で待ってもいなかったし、
羽川は羽川で含みのある笑顔と共に見送ってくれた。

 まあ、つまり。

 久しぶりに、なんの心配もなく、二人きりの下校だった。


 正直。
 なんとなくと言っては失礼なくらい、ていうかぶっちゃけかなり露骨に、
僕のテンションはあがる。
そりゃあもう、あがっていた。ぐんぐん上昇。
エベレストのてっぺんなんか突き抜ける勢いだ。

 別にこのハイパーツンだらけ女、戦場ヶ原ひたぎとの間に、
なにかきゃっきゃうふふなイベントが起こりうることを期待していたわけでは勿論ないけれど、
僕だって一般的な男子高校生だ。
 付き合ってる彼女との下校に、なにか思うところがあったって、いいだろう。
特に最近は知り合いが増えたせいで、こうしてゆっくり二人きりになることが少なくなってきていたし。

 だっていうのに、それが分からない戦場ヶ原ではないだろうに――いや、あるいはだからこそ、
そんなことを言いやがるのだった。


「戦場ヶ原、いきなり勉強の話かよ……」
「あら、阿良々木くん。
私たち受験生の本分は遊びでも恋愛でも、
はたまた付き合っている異性とのいちゃこらに夢を膨らませることでもなく、
きっちりと勉学を修めて大学に合格することよ」
「そりゃそうだろうけれど……」

 いちゃこらって。
 表現が古すぎる。

「阿良々木くん、ちょっとこの前のテストがまぐれで、たまたま、、ついうっかり、ほんの出来心で、
調子が良かったからっていい気になっているんじゃない?」
「いや、いい気にはなってないけどさ……
つーか、『調子がよかったから』の前につく言葉のチョイスに
抑えきれない悪意が見え隠れしてるんだけど」
「カンニングの調子がよかったからって」
「ああ、理解した、100%悪意だ!!
もういろいろと泥沼だよ!!」
「池沼ですって?
いくらマントヒヒと同じくらいの知能レベルの阿良々木くんとはいえ、
そんなに自分のことを卑下するものではないわ」
「その略し方はモラル的にマズイからやめろ!
つーか戦場ヶ原が喩えに使うにしては、マントヒヒは比較的知能レベルの高そうな動物じゃないか!?」


「ねえ、阿良々木くん。
マントヒヒって、見てると楽しいわよね」
「マントヒヒが? うーん……なんで?」
「顔面ぐちゃぐちゃじゃない?」
「……何が言いたい」
「マントヒヒ野郎には、丁寧に最後まで言わなくちゃ分からないかしら」
「……いや、やめて」

 死んじゃう。

「阿良々木くんの顔面ってマントヒヒみたいにぐちゃぐちゃって意味よ」
「やめてって言ったのになんで言うんだよ!?」
「嫌よ嫌よも」
「嫌でしかねえ!」

 付き合っている彼女が、彼氏を顔面マントヒヒ呼ばわりである。

 戦場ヶ原ごと自転車を川に放り込んで逃げ出してしまいたい気分だった。
もうほんと、僕は僕が不憫で仕方ない。


「ありがとう、阿良々木タクシー」
「………いや、いいよ」

 その後もそんな調子で戦場ヶ原にいじめられているうちに、もう戦場ヶ原の家の前。
きゃっきゃうふふ? なんだそれ。生ゴミの日に出しとけ。

 戦場ヶ原は、もしかして僕のことを本当にアッシーくんとしてしか見ていないんじゃないだろうかと不安になった。

 ……そういや戦場ヶ原に告白された日って、マウンテンバイクでサイクリングしてた日だしなあ。
 マウンテンバイクに惚れたのかなあ。

「ところで阿良々木くん」

 すたっと華麗に自転車から降りた戦場ヶ原は、
しかしなぜか無意味に、その場でくるりと一回転した。
ふわりと舞った裾の長いスカートが、戦場ヶ原の動きの停止から一瞬遅れて、
ぱさっとその真っ白で綺麗な太ももに弾ける。
 絵になるなあ、なんてノロケてみたり。

「ん? どうした、戦場ヶ原。忘れ物でもしたのか」
「忘れ物。そう、忘れ物。忘れ物ね。
……阿良々木くん。あなた、忘れ物をしているわ」
「え?」

 僕が?

「明日提出の宿題とか、あったっけ」


 ところが戦場ヶ原はあくまで無表情に、首を横に振った。

「明日ではなく、今日。むしろ――今よ」
「あん?」

 わけもわからず唸った僕を、一瞬だけ恨めしそうに睨んだあと。

 戦場ヶ原は、目を閉じて。

 くいっと持ち上げた顎。

 すぅ、という呼吸。

 何かを待つような――濡れた、唇。

「あ? え、……えっと……戦場ヶ原?」
「本当に甲斐性無しね、阿良々木くん。
女の子に、皆まで言わせるつもり?」

 不満げな、そう、もしくは、拗ねたような、声。
よくできた麻薬のように、
僕の耳から入ってきて脳の底まで甘く甘く浸していく。

 そんな、錯覚。

「せ、戦場ヶ原……」

 こ、これって、つまり、あれだよな。

 ……いいのだろうか。

 いいんだよな!?

 僕は、戦場ヶ原の、本当に陶器みたいな、いや――それよりももっと綺麗で純粋な頬に手をあてて。
 ぴくっと体に力を入れた戦場ヶ原が、たまらなく愛しい。

 そして、僕は。

 ゆっくりと。

 唇を、重ねた。


「………、んっ………」
「………………」

 すっと、ほとんど怯えるみたいにして唇を離す。

「……………ぁ」
 
 目の前には、超至近距離に戦場ヶ原の顔。
 その黒く、夏の星空を丸ごと詰め込んだみたいな輝きに、言葉を失う。
心臓がばくばくと好き勝手に跳ねまくり、顔が真っ赤なのが自覚できた。

 う、うわ、……うわあ、僕、たぶん今、すんげえ情けない顔してるよ。
戦場ヶ原は戦場ヶ原で、やたら満足げに目を細めただけで、顔色一つ変えていないし。
 これじゃ僕だけ一人でテンパっているみたいじゃないか。



「ねえ」
「はっ、はいっ!」

 優しげな戦場ヶ原のに、びくんと体が跳ねた。

「阿良々木くん、今のこれは、なにかしら」
「え? え、えっと……」

 なにって?

 戦場ヶ原の望みそうな答えを必死で検索する。
 勿論ただのキス、というわけでもないだろう。
 あ、愛情の証?
 ………忘れ物。

「その、さよならの、キス……?」


「ふふ、そうね」

 どうやら正解だったらしい。戦場ヶ原はやんわりと頷いて。
 だけど、と続ける。
「『さよならのキス』って、私はあんまり好きじゃないわ」
「へ、へえ……どうして?」

 正直こっちは、心臓の痛さと顔の熱さでそれどころではないのだけれど。
 さっきまで触れ合っていた、
あの死ぬほど柔らかくて気持ち良いの唇で、優しく言葉を紡がないで欲しい。

「だって『さよならのキス』は、明日がないじゃない。
なんだかそのあと死に別れるドラマの最後みたいで――不吉だから」

 ふわりと。

 今度は戦場ヶ原のほうから、僕の頬を、ほとんど撫でるように挟んで。

追い付いた支援


 そうして。

 二度目の、キス。

「んむ………!?」

 じんじんと発熱するみたいな酷く甘くて淡い匂いが――戦場ヶ原の、匂いが、
はっきりと、僕の脳みそを、溶かした。

「………………」
「………………」

 長い。

 長い、キスだった。

 あるいは僕が勝手にそう感じただけで、本当はほんの一瞬だったのかもしれないけれど。

 けど、僕は、長い時間、そうしていたような気がしたし――そうしていたいとも思った。

 このまま、この一瞬のまま、時間が――世界が止まってしまえばいい。


 もう時間の感覚もなくなって呆然と固まる僕に、
熱の余韻を残すような艶めかしさで離れた戦場ヶ原は、
やっぱり相変わらずの無表情で、言う。

「今日は送ってくれてありがとう。
久しぶりに阿良々木くんとゆっくり話せて、楽しかったわ」

 そして、茫然自失の僕を置き捨て、
まるで何事もなかったようにさっさと家へと帰っていってしまう。

「な、………………」

 僕はといえば、もうなにがなんだか分からなくて。

 唇は甘く痺れていて。

 まだ戦場ヶ原の匂いがそこにあるような気がして。

 だから、そのまま立ち尽くしていた。
 戦場ヶ原がとっくに見えなくなったことにも。
自転車が倒れて制服の裾を削っていることにすら、気付かなかった。


 久しぶりに、なんの心配もなく、二人きりの下校で。


 僕たちは、『また明日のキス』をした。


本当におしまい

>>1
本当に乙!!!

ちなみに、これは「こよみラクーン」とかになるの?


なんかただでさえオナニーなのに更にオナニー臭がくさいな、オマケ……
ドロデレ戦場ヶ原さんはやっぱり力量が間に合わないので、
ツンドラ時代のデレ場ヶ原さんでした
たぶんみんなドロデレを希望していたはずだから、期待には沿えてないと思う
ごめんなさい


もし次があるとするなら、一番好きな忍野メインの話の案が一つあるので、
需要と気力とがありそうだったらあるいはやるかもしれません
あくまでかもですので聞かなかったことにしてください
ただもし見つけたら読んでくださると大変調子に乗ります


では、最後に。

蛯沢真冬ちゃんは俺の嫁!!!!!!!

>>805
001の最後にあるけど、一応
こよみラクーンドッグ
ってことにしてます
ドッグをつけるかは最後まで悩んだけど、
ラクーンだけだとなんかアライグマのニュアンスが強くなるかなあって気がしてラクーンドッグにしました
でも好きに呼んでやってください

乙!
忍野って、忍の方だよな…?

>>814
メメたんに決まってるだろ?

(´・ω・`)おつ n
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ ノ
ミ(こノこノ `ー´
)にノこ(


    , ': : : : i: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ヽ / 〉_ヽ、: : : : : : : : : : `丶、: : : : : :`丶
             /: : : : : i: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : V\. 「: :: : : : : : : : : : : : : : 丶: : : : : : :\
           ': : : : : :::! :!: : : : : ; : : : : : : : : : : : :.:: i: : : : : : /:', /_レヽ:: : : : : : : : : : : : : : : : :\: : : : : :ヽ
          ! : : : :i:::,イ:|:: : : : : ': : : : : : : : : : : : : ::l: : : : : :: : : :/iヽ、/: :,、 -――――――― - 、: : : : : ',
.           !: /: : :|/ l::|ヽ:: : : : ',:: : : : : : : : : : : : :': : : : : :!: : / :ト、//               }: : : : : :}
           !:/; : : :!`丶!|  \:: : ヘ、:: : : : : : : : : : ': : : : : :.|: // :.!                 /: : : : : /
.           |,' {: : : | ァミ、!ヽ   \: :ヽ=::::: : : : : /: : : : : : :!:./: : :!                /: : : : : :/
         |. ハ: : :Y {イヽ    ´`丶\ヽ、 : : /: : : : : : : |/: : : '             ,, '’ : : : : : :/
.         i:::::\{'、_マリ     ァ'"て`ヽヽ/ : : : : : : : !`ヽ: ;'             ,,: : : : : : : : ;、 '´
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              !::::|ヽ `       /-― '   / j: :,'      /   ヽ: : : : : : : : : : : : : : : : : :/
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                  !|  `¨  T ¨´       .l  j:/   }               ̄ ̄  ̄  ̄  ̄`丶}
                   i      ____L__/_                               ノ
                   |   , =三三三ヽ、|
                       リ __/三三三三三.ヽ         勘違いしないでくれる?
              __ ァ ァ== '´ /三三三三三三三=i        これは>>1乙ではなくて
          /ニ/ /    /三三三三三三三三ニi        ポニーテールなのだけれど
         /三./ /  //三三三三三三三三三三.i
        /三ニ/ / /ニ/三三三三三三三三三三ニ.i


イヒ牛勿言吾さいこーーー

>>1乙。
再編(抜出とちっちゃい修正)して配布しておk?

暦ロブスター

>>843
とりあえず逝っとけ

>>843ってどういう意味?

コピペブログに載せちゃうよって事でしょ

いや、改変する気まんまんだから
編集自分で発表するんじゃ?

>>857>>859
ありがとう
正直、個人的にはコピペブログに関しては賛否どちらの意見も持ってないっていう、
そんなやつだからなんにも言うつもりも権利も当然ないんだけれど、
編集発表?みたいなのは出来うることならご遠慮願いたいなあって感じです
だってこんなの、他人の名前を借りるまでもない俺の自己満オナニーだしさ
……ってので>>843さんの返事になってるのかな?


じゃあいい加減消えますね
またどこかのスレで ノシ

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