吸血少女と待つ夜明け (144)


 アルバイトを終えた夜の九時。
 昼に降っていた雨は夕方までにやんだようで、今はいくつか水たまりを残すのみだ。
 僕はじっとり湿ったアスファルトの上を駅に向かって歩いていた。

 メインストリートを外れた脇道で、道幅は車がすれ違うのに苦労する程度。
 街灯はそれなりにあるが陰になった場所が多く実際よりも暗い印象を受ける。
 道沿いの飲み屋スナックの汚れた看板が陰気さに拍車をかけている。

 僕の他には人はいない。なんとなく確認した後深いため息をついた。
 肩周りが重く、気分はそれよりさらに重い。
 沈んで行くような錯覚とどろりと鈍い意識。

 この憂鬱な気分の正体は知っていた。
 先の見えない不安といえばいいのか。
 自分はこれからどうなるんだろうという恐れと表現したほうが近いだろうか。


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 具体的に言えば目だ。アルバイト先で僕を見る目。そして見ない目。
 容量いっぱいまで全力で働いて、返ってくるのが「あ、そう。お疲れ」という一瞥。
 じゃあこれやっといて、と僕を見もせず次の仕事を割り当てる。

 僕はそこにいるのだけれど、なんだろう、時々いないような気分になる。
 代わりにそこにいるのは、男一人分の労働力だ。
 最もよく言われるのが「ああ、いたの」。おはようでもなくお疲れでもない

 それ自体は大したことじゃない。
 僕みたいなフリーターの扱いとしては珍しくもないし要領の悪さが原因だからだ。
 大した学もなく仕事も遅い僕自身のせいだと思う。

 ただ、そうやって呑みこんだところで消化できないものは残る。
 それは身体にたまって僕を蝕む。

 それからぼんやりと思う。この先僕はどうなるんだろうと。
 こんなふうにぼんやりしたまま人生を終えるのかな、と。

 そうしたあれこれで疲れは少しずつ身体にたまり、僕を押しつぶそうと重圧をかける。
 きっとこれは一生ついてまわるんだろう。
 寒さに似たものを感じて上着の前を押さえてから、なんとか足を前に進め続けた。


 と、その時頬に冷たい何かが触れた。
 僕は反射的に空を見上げる。
 その額にまた小さなしずくが落ちた。雨だ。

 小雨は降り始めてすぐ勢いを強めた。
 僕は急ぎ足で建物の下に避難した。
 雨粒が地面で強く跳ねる。
 やむ気配はなくさらに激しくなっていく。

 苦々しく空を見上げた。
 あいにく傘は持ってきていないのだ。我慢して走ろうにも駅まではまだまだ距離がある。
 ついてない。何もこんな気分の時に意地悪することはないじゃないか。
 途方に暮れて、重い身体を建物の壁にもたせかけた。

 声が聞こえたのはその少し後だった。
「ねえ」
 いきなりの声に僕は驚いてそちらを振り向いた。
 建物の入り口に少女がいた。


 線の細い少女だった。
 整った顔立ちだが目つきは冷たく、そのせいで無愛想な印象を受ける。
 黒い長髪が薄暗がりでもかすかに艶を放っていて、その光に思わず見とれる。

 目を離せないでいると、彼女はスカートをふわりと揺らして近付いてきた。
「雨宿り?」
「え? あ、まあ……」
「じゃあ中に入った方がいろいろ楽じゃない?」

 言われて見上げるとホテルがどうとか書いてある。
 汚れとうす暗いのとで部分部分しか読めなかった。
 視線を下ろすと少女は既に入口をくぐっている。

 僕は一瞬の躊躇だけをはさんで、すぐにその後を追った。
 なんでかと訊かれると困る。
 中に入って休みたいほど疲れていたのは確かだけど、何しろ僕にはお金がなかった。
 できるだけ節約したいしするべきだったのだが、なぜだか彼女についていかなければならない気がしたのだ。


「部屋一つ」
 狭いフロントに立つ男に彼女は告げた。
 鍵を受け取りすぐ脇のエレベーターに向かう。
 中に入る彼女をぼーっと見ていると、エレベータードアを開けたままこちらをじっと見返してきた。

 しばらくしてこちらを待っているのだと気づいた。
「え、なに?」
 彼女は近付いた僕を無言で引っ張り込むとドアを閉じた。

 もちろん困惑した。
 どういうことか訊ねようとしたけれど彼女は話しかけるなという空気だけで僕を黙らせた。
 エレベーターが上昇を始める。

 ホテル、少女、そして僕。
 何やらよからぬ期待がむくむくと膨らむ。
 一方で僕の良識が危険信号を灯す。
 ホテルって。部屋一つって。


 三階にある部屋の鍵を開けると彼女は中に入っていった。
 ドアはあけ放したままなので、やっぱり僕にも入れということだろう。
 恐る恐る中に入ってドアを閉めた。

 見回して少し驚いた。
 二人用ソファーとベッドが置ける大きさの部屋があるホテルには、外観からは見えなかったのだけれど。
 ただ、広いといっても"意外に"程度だ。
 ソファーもベッドもどこか無理矢理押し込められているようにも見えた。

 そして二人の人間にとっても少し狭い。
 少女の存在を強烈に意識してしまう。

 多めに見積もっても二十を超しているようには見えないがどこか大人っぽい雰囲気。
 もっといえばある方面に熟達した空気がある。
 スカートからのぞく白いふくらはぎに思わず目がいく。

 当の彼女はその視線を知ってか知らずか窓に近づくとカーテンを開けた。
 そして振り向く。
「どっちが先にシャワー浴びる?」

 そのとき僕は気づいた。
 彼女についてきてしまったのは、やはり心のどこかでこうなることを期待していたからなのだ。


……

 それが彼女との出会いだった。

ふとホラーやコメディ以外の吸血鬼物を書こうと思ったので立てました
続きます


「ああ、ヒナちゃんね」
 フロントの男はモップ掃除の手を止めないまま答えた。
「いつもあんな感じだよ」

「あんな、感じ……」
 からからになった喉からは乾いた声しか出ない。
「そう。男をとっかえひっかえ……って程じゃないか。まあいろんな奴を連れ込んでヤってる」

 僕は壁に寄りかかった。
 身体から力が抜けそうになったからだが、男は気づかなかったようだった。
「かくいう俺も誘われたことがあったけどな。笑えるだろ?」
「いえ全く」
 白髪が多い男が言っても冗談にもならない。
 顔が険悪にゆがむのを自覚した。

「したんですか? その……彼女と」
 訊ねると、男は手を止めてこちらを向いた。
「どう思う?」
 知るものか。知りたくもない。


「ここ、一応普通のホテルでしょう」
「ん? だから?」
「そんないかがわしいことに使わせていいんですか」

 強い語気で言うのだが男は気にした風もない。
 肩をすくめて言ってのける。
「年端もいかない少女と淫行に走っていた張本人が何言うかね」
「それは……」
「それにあの娘はここの上客だしな。前払いで三カ月分のホテル代をもらってる」

 そういう問題じゃないだろ!
 叫びそうになって、そうしても何にもならないことに気づき顔を手で覆う。
 喉の奥から我ながら悲壮に過ぎる声が漏れた。
「なんだお前、マジ惚れか」
 うるさい。言い返したかったが言葉にならない。

「ま、頑張れ。命短し恋せよ青少年、ってな」
 男は掃除に戻っていった。


 僕は三階の部屋の前に立っていた。
 ひどく頭が重い。みぞおちも痛い。気を抜いたらもどしそうだ。

 安物のドアの向こうからは何やらくぐもった音と声が聞こえる。
 軋むベッドと男が唸るような声。
 それに混じる少し高い声。

 僕は耳をふさいだ。
 聞きたくなった。
 ヒナが上げる喘ぎ声なんて。
 他の男から与えられる快感に悦ぶ声なんて。

 僕は廊下の隅、陰になった部分にしゃがみこんだ。吐き気を必死に堪えた。
 涙は止めようがなかった。
 僕、結構本気だったんだな。フロントのオヤジの言っていた通りだ。
 冷えた心でそんなことを思った。


 ドアが開く音がした。
 陰から覗くとあの正社員が出ていくところだった。
 エレベーターに乗って消える。
 いつの間にかかなりの時間しゃがみこんでいたらしい。

 僕はしばらくぼうっとしていたが、ようやく気づいて立ち上がった。
 今、ヒナは一人だ。
 ドアの前に立った。
 短くはない躊躇の後、ノックした。

 大した音もなくドアが開いた。少女の白い顔がのぞいた。
 気軽に、「やあ」とか「元気?」とか言おうとして、失敗した。
 僕は沈んだ顔のまま立ち尽くした。

 ヒナはなんとなく事情を察したのかもしれない。
 部屋の奥を示した。入れということだろう。
 それでも動かないでいると手を取られた。
 彼女の手はあたたかかった。


「何か飲む?」
 何も答えないでいると、ヒナはペットボトルのお茶を僕の手に押し付けた。
 自身も同じものの蓋を開けてラッパ飲みしている。
 その額に汗が光った。あいつとのセックスでかいた汗か。

 ぷは、と彼女が飲み物から口を離すと同時、僕は訊いた。
「いつもこんな感じなんだってね」
 ヒナの目がこちらを向く。
「こんなって、どんな?」

「いろんな男を連れ込んでヤりたい放題」
 言った僕がダメージを受けた。心が痛い。
「そうだね。ヤってるよ」
 訂正する。心が砕けそうだ。

 ペットボトルを乱暴に開けて一気にあおる。
 ごくごくと飲みきって、それを握りつぶす。
 それから怒鳴ろうとして、むせた。


「大丈夫?」
 声は淡白だが、背中を優しく撫でてくれる。
 僕はその手を振り払った。
 それから改めて怒鳴った。
「この!」

 そこまでしか出てこない。
 この、なんなのか。売女? ビッチ? それとも腐ったマンコ?
 言えるはずもない。好きな娘に。

 急速にしぼむ怒り。
 崩れ落ちる身体をソファーが受けとめた。
 がっくりうなだれる。

「仕方ないよな、商売だもんな……」
 ようやく出てきたのはそんな言葉だ。
 彼女はあくまで性的サービスを行っていたにすぎない。
 すぎないって程普通のことではないけれど、でもそんなものだ。

 少なくとも僕のことを気に入ったとか好きとかでああいうことをしてくれたわけではない。
 不特定多数の相手にサービスを行うのも当たり前だ。
 そんなこと分かっている。いや、分かっていなかったのかも。
 こんなに悲しいんだから。


 ヒナは黙ってそれを聞いていた。
 静かに近付いてくると、僕の隣に腰を下ろした。
「ごめん」
「ヒナちゃんが謝ることないよ。僕が馬鹿だった」

 顔を上げて虚空を見上げる。
「僕、女の子と全く縁がなくてさ。いやもう笑っちゃうくらい全然」
「ふうん」
「だから、ヒナちゃんみたいな素敵な娘と夢みたいなことできて舞い上がってたんだ」

 苦笑に口元をゆがませる。
「なんて言うんだっけ。こういうの」
「……恋に恋してる?」
「そうそれ。いや違うかもだけど、多分そう」
 僕は頷いた。所詮、本当の恋じゃない。


 立ち上がった。
「だから、もうここには来ないよ。今までありがとう。あ、お茶もね。代わりにプリン置いてくよ」
 彼女は黙ってこちらを見上げていた。
 そんな目をしないでほしい。決別の意志が揺らぐ。

「そっか」
 呟いて彼女も立ち上がった。
 ちょうど僕の前に立ちはだかる位置取りだったので、僕は戸惑った。
「でも最後にひとつ聞いてくれる?」

「なに?」
「作り話」
「え?」
「わたしは」
 彼女はそこで一回深呼吸した。決意を固めるかのように。
「わたしは、吸血鬼なの」

続きます


 初めの日にもそういえば彼女は言っていた。
 自分は吸血鬼だと。
「吸血鬼」
 僕はゆっくり瞬きを二回した。
「って、あの、あれ? 血を吸う」
「そう、日の光に弱い」

 まず思ったのは彼女はどういうつもりなんだろう、ということだった。
 この話に何の意味がある?

「じゃあ、その、君も血を吸うの?」
「吸うよ。でも吸わない」
「どういうこと?」
「血を吸うと、吸われた人にも感染しちゃうから。"吸血鬼"が」

 そういえばそんな性質があったなあと思い出す。
 あくまで創作上の「吸血鬼」の話だけれど。
「君はうつしたくないの?」
「まあ、できれば」


「優しいね。でもそれじゃあどうするのさ。吸えないじゃない。死んじゃうのかな」
「死んじゃうね。だから代わりのもので我慢してる」
「代わり?」
「男の人の精液」

 僕は顔をしかめた。ついでにあの正社員を思い出して吐き気もした。
「それ本当?」
「だけど血より精気が薄いからたくさんもらわなきゃいけない」
「それで大勢の男性と……」
「そういうこと」

 彼女があまり金もとらない理由も納得できる気がした。
 いや、でも作り話だっけ。
 全て話したということか、彼女が道をあけた。
「まあ、"大食い"の言い訳用の作り話だけどね」
「……そっか」


 僕はドアに向かった。
 さっき彼女にも言ったようにもうここには来ない。
 だから最後に彼女に向きあった。

「今までありがとう」
「こちらこそ」
 彼女は無表情だったが答える声は優しかった。

「ところで最後に訊きたい」
「何?」
「さっきの男。僕の上司みたいなもんなんだけど」
「うん」
「上手いの? あっちの方」

 彼女は考え込むような仕草をした。
「多分そうだね。気持ちはいいよ」
「そうか」
 ちょっとへこんだ。訊かなきゃよかった。


 でもね、と彼女は続ける。
「あの人自分勝手」
「そうなんだ」
「うん、勝手にイって、終わったらこっちはいないみたいに扱うし」

 彼女は少しだけ口元を緩めた。
「その点あなたは優しいよね」
「え?」

「わたしを精一杯大事にしてくれてるのが分かったよ。下手っぴだけど」
「……」
「あなたはきっと大丈夫。頑張って」
 僕は。何も言えなかった。なんだか胸が一杯になってしまっていて。

 何も言えないまま、ドアが閉じた。
 ロックの音がした。
 僕は長いことそこに立ち尽くした。

続きます


……

「こっち! 早く!」
 その声に、僕は怒鳴るように返事して重い荷物を手に走り回った。
 物を運ぶことが多い仕事なのだが、僕は人より多めに、二倍三倍を運んだ。
 休み時間も運び続けた。

「そんなことしても給料には反映されねえぞ」
「時間給だしな」
 アルバイト仲間が笑って言う。
 僕は笑い返してそれでも手は止めない。

 働いて働いて働きまくる。どんどんどんどん回転させる。
 正社員たちからの指示は全て完遂し、それ以上の仕事をやっておく。
 アルバイト仲間は笑ったり呆れたりした。
 正社員組からは褒められた。苦手なあの正社員には無視されたけれど。

 夜はぼろぼろになった身体を引きずって安アパートに帰って眠る。
 起きる。出勤する。働く。働く。働く。

 やけくそだった。身体をいじめて悲鳴を上げても黙殺する。
 働いていれば忘れられた。
 不思議だ。こうまでしないとただの売春娘すら忘れられないなんて。

 次第にアルバイト先の人間には怖がられるようになった。
 何考えてるかわからない、だそうだ。
 僕にだって分かるもんか。

 そうして過ぎる二ヶ月と少し。


 夜道はぐらぐらと揺れていた。
 地震ではない。と思う。酔っ払っているわけでもない。
 揺れているのは僕だ。
 目が焦点を合わせてくれず、脚も踏ん張ろうとしないのでこうなる。

 舌打ちする。
 普段仕事の役にもたたないんだからせめて歩く時ぐらいしっかりしろよ。
 まともに歩くこともできないなんて、マジでクソだ。最高級のアホンダラだ。

 ひたすらぶつぶつと悪態をつきながら歩いていた。
 冷静になればかなり危ない、イっちゃってる人なのだが、その時の僕に正常な判断力はない。
 大きくよろめいて電柱に肩をぶつけた。

 その痛みで、というわけかどうかは知らないが、僕はふと母さんのことを思い出した。
 母さんは病院での今際の際に、穏やかな顔は全くしていなかった。
 ひたすら毒づき、暴れ、看護師を困らせた。
 そんな時母が放った一言は忘れられない。
『まだあの子の母でいたい!』

 身体を痛めつけ腫れあがらせる病魔と闘いながら、母は絶叫していた。
 わたしはまだ母でいたい。


 なんで思い出したんだろう。
 なんで僕は泣いているんだろう。
 しゃっくりのような、発作のようなひきつりが止まらない。

 僕は歩き続ける。
 暗い夜道はさらに闇を濃くして、立ちふさがるように――いや。
 僕は本当に歩いているのか?
 脚が動いていない。身体がピクリとも動かない。

 ああそうか。ようやく気づいた。
 僕は倒れていた。
 それを自覚した瞬間、僕は気を失った。

また後ほど来ます


……

 混濁する意識の中、色々な顔が見えた。

 子供の頃の鏡で見た自分の幼い顔。
 現在のしょぼくれた情けない顔。
 あのくそったれの正社員の顔。
 母の厳しく、でも優しい顔。
 最後に、冷たくも美しい少女の顔。

 僕はぼうっとそれを見上げ続けた。
 口が自然と呟く。
「綺麗だ……」

「それはありがとう」
 少女は口元を緩めて答えた。
 僕ははっとした。鈍い頭なりに意識を弾けさせた。

「ヒナ……!?」
「久しぶりだね」
 僕はゆっくり見回した。
 二ヶ月前と何も変わらないホテルの一室。
 僕はベッドに寝かされていた。


「僕は……」
「ホテルの前に倒れてたって」
 フロントの人が見つけて、僕を彼女の部屋まで運んでくれたらしい。
「そうか……」
 僕は再び意識を混濁させながら目をつぶろうと――

 その前にがばっと飛び起きた。
 ヒナが小さく悲鳴を上げる。
「ご、ごめん」
 僕は謝って、それからベッドを下りる。足がふらつきまくるが、歩けないことはない。

「ちょっと」
 僕の腕に触れるヒナから離れるように、まとめてあった荷物の方に歩く。
「何してるの」
「帰る」

「その身体で?」
「明日もアルバイトがあるんだ」
「無理だよ。休まないと」
 僕は肩越しに彼女を振り向いた。
「そうだな。じゃあなおさら家に帰らないと」
 ヒナが悲しそうな顔をした。ように見えた。きっと僕の気のせいだ。


 出口に向かう僕の前に、ヒナが立ちふさがった。
「無理」
「何が?」
「帰る前にまた倒れちゃう」
「大丈夫だよ」
「絶対倒れちゃうよ」
「大丈夫だって、言ってるだろ!」

 突如喉を割った大声に僕は自分でびっくりした。
 でも口は止まらない。

「僕が倒れたところで困る奴なんていないんだよ! 働いてないと認めてもらえないんだよ! いないのと同じなんだ!」
 ヒナは呆然と口を開けて聞いていた。
 彼女の冷静でない顔なんて初めて見た。
「僕はせめて働かないと」
 叫びから呟きに変えて、僕は彼女の横を通り過ぎようとした。

「……ごめん」
 そして彼女の囁きに足を止めた。


 怪訝に思って見やると、彼女は俯いて立ち尽くしている。
 肩が震えているように見えるのは、気のせいか。
「なんで君が謝るんだ」
「だって……」

 僕はため息をついた。
「仕事で男性の相手をしている娘に勝手に惚れた男が、勝手に振られたと思って、勝手に仕事に逃避してる、それだけだよ」
 言っていて、情けなくもなる。
「君のせいじゃない。全く。全然」

 いいながらも彼女に恨みがなかったわけではない。
 なんで僕のものになってくれなかったんだとか思ってしまっている。
 そんなの全くの筋違いだし、僕の理性だけは理解している。
 これは恋じゃない。もちろん愛情なんてものでもない。

「それに大したことじゃないんだ。倒れたってもただちょっと疲れただけで」
 僕の言葉はそこで止まった。
 彼女に抱きすくめられて。

「休もう。ね?」
「……」
「ここにいて」
 彼女はこちらを見上げた。
 なぜだか涙があふれて、僕は泣いてしまった。
 みっともなくぼろぼろと泣いた。
 彼女の言葉にではなく、抱きしめられたぬくもりに。あまりに懐かしすぎて。


 彼女に添い寝してもらっただけで、僕はだいぶ回復していた。
 気分が晴れやかで、どこまでも行けそうな気がした。
 カーテンの隙間から細く光が差し込んでいるがうす暗い。
 隣では彼女が存外可愛い寝顔で眠っていた。

 僕はそっとベッドを抜け出して、支度を始める。
 部屋を出ようとした時、彼女が目を開けた。
 ぼうっとしばらく僕を見て、それから微笑んだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」


 ホテルを出る前にフロントの男にも挨拶した。
「昨日はありがとうございました。助かりました」
「もう大丈夫か?」
「おかげさまで」

 では、と言って行こうとするところを呼びとめられた。
「あの娘をあんまり心配させるなよ」
「あの娘が心配? 僕は心配されるほど価値のある人間じゃありませんよ」
「それは誰が決めたんだ?」
 僕は言葉に詰まった。

「確かに九十九人はお前さんのことなんか知ったこっちゃないだろう」
「……」
「でも一人くらいは心配する。そんなもんだ」
「そう、でしょうか」
「その一人を大事にしろよ」
 彼はそう言って掃除に戻った。もう話す気はないようだ。
 僕はしばらくの間彼の言ったことを噛みしめて、会釈をしてからホテルを出た。

フロントさんがひそかなお気に入り
続きます


「あなたの名前は?」
 アルバイトが終わって、部屋のソファーで。彼女は訊いてきた。
「興味ないんじゃなかったの?」
 僕はプリンの一すくいを口に運びながら微笑む。

「うん、でも今はある」
「雅藤だよ、ガトウ。雅な藤、ね」
「ガトーかあ」
 その発音の仕方に僕は懐かしいものを覚えた。

「昔、僕にはそこからつけられたあだ名があるんだけど、分かる?」
「……なんだろ?」
「ショコラ」
「なんで?」

 僕は黙って彼女に考える時間を与えた。
「ガトーでしょ。ショコラ。あ」
 彼女が合点のいった表情でこちらを見る。
 二人で声を合わせた。
「ガトーショコラ」


 僕は空になったプリンの容器を置いて背もたれに身体を沈めた。
「そういうこと。おまけに甘いもの好きだったからね」
「へえ。ショコラね。ショコラ。ショコラ」
 彼女は口の中で何回か呟いた。

「わたしショコラ、好きだよ」
「僕もだ」
「じゃなくて」
 彼女はこちらに向き直って言う。

「ショコラ、好き」
 僕は一瞬分からず固まった。それから理解して、さらに固まった。
「……チョコケーキっていいもんだよね」
 誤魔化したが無理がある。

 彼女はわずかに顔をしかめてこちらに身を乗り出した。
 のみならずこちらに覆いかぶさって押し倒す。
「ふうん、そういうこと言うんだ」
「……君はいつの間にそんなに砕けた態度になったんだっけ?」


「これがわたしの素なの。知らなかった?」
「知るわけないじゃないか」
「じゃあこれから一杯教えてあげる」

 彼女は身を起こして離れた。
 触れ合っていた部分に名残惜しさを覚えながら僕も起きる。
「じゃあ、行こうか」
 彼女のいきなりの言葉に僕はぽけっとした。
「どこに?」

 彼女は
「わたしを知る旅」
 とだけ答えて、笑った。
 初めて見た彼女の満面の笑みだった。


 駅前にゲームセンターがあることは知っていたが、入ったことは今までなかった。
 入口をくぐると耳を潰す高低様々な音の圧。
 煙草の煙も舞っているのか少し煙たい。

 彼女は迷わずにずんずんと進んで行く。
 僕は控えめにきょろきょろしながらその後を追う。

「ヒナちゃんてこういうところ来るの?」
「割と。夜は長くて暇だからね」
 意外だった。もっと何というか、おしゃれな喫茶店やブティック的なイメージだった。

「そんなに変?」
 少女は振り返って僕を軽く睨む。
 慌てて首を振る。
「いや、よく似合ってるよ」
「それはそれでなんかむかつく」

 ヒナは筐体の一つの前で止まり、
「よし、これ!」
 と、席に着いた。


 格闘ゲームらしい。
 覗きこんでみるとキャラクター選択画面にはずらりとごつい男たちが並んでいる。
 珍しく、流行りの可愛い女の子キャラは一人もいない。
 ヒナはその中でもひときわ大柄なキャラを選んだ。

 超絶似合わない。
 僕は正直に胸中で呟いた。

 半眼の僕を置いてけぼりに彼女は操作を始めた。
 呆れ混じりにぼうっと見ていたが……次第に僕はそれに見入るようになっていた。
 上手い。
 僕はゲームなんてもう何年もやっていないが、そんな素人目にも分かるぐらい彼女の腕前は大したものだった。

 大柄なキャラで動きは鈍く、的も大きい。
 だが彼女は彼を的確に操り、敵の攻撃をいなし、一撃で沈めていく。
「……へえ」
「すごいでしょ」
 彼女は操作の手を止めないままこちらを振り返り、にやりと笑った。


「ショコラもやる?」
 一瞬悩んだけれど、やっぱりやめておいた。
「それじゃ面白くないよね。じゃあ他のを――」
 そう言って彼女はゲームを切り上げようとした。

 その時声がした。
「ちょっといい? ちょっと」
 勢いのある野太い声だった。

 そちらを見るて、僕は反射的に顔をしかめた。
 あまり綺麗でない金髪に頭を染めた青年がそこにいる。
 柄シャツをだらしなく着崩して腰パン。明らかにチャラい。

「何?」
 ヒナが問うと、彼は細い目をさらに嬉しそうに細めて近付いてきた。
「いやーすごいね君、マジかっけーわ。ちょっと俺と対戦しようよ。いいだろ?」
 言葉だけを聞くと友好的だが、僕はその裏にあるよこしまなにおいを感じ取った。

 僕は二人の間に割り込もうとした。
 が、その前にヒナが声を上げた。
「いいよ。勝負しましょう」
 え。僕は驚いて声を漏らした。


「マジ!? やりー!」
 言うなりチャラ男は向かいの筐体に走っていく。
「ちょっと」
 僕はヒナを咎めた。
「負けたら何されるか分からないぞ」

 僕は本気で心配だった。
 あの男、僕が脇にいるにも関わらず、まるで無視を決め込んでいた。
 ヒナはこちらを不敵に見上げた。
「任せて」

 数分後。僕はチャラ男に同情していた。
 彼の戦績は20戦0勝20敗。
 それだけでもきついだろうに、周りにはたくさんのギャラリーが集まってしまっている。
「すっげーな、あの娘」
 そんな声が聞こえた。

「くそ!」
 椅子を蹴ってチャラ男が立ち上がる。
 ずんずんとこちらに歩いてくる。
 僕は再び身体を緊張させた。


「テメエ……!」
 唸る彼に対しヒナは冷静だった。
「次は何で勝負する?」
「あれだ!」
 チャラ男が指さしたのはパズルゲームだ。

 僕の同情はさっきより大きいものになった。
 戦績は……やめておこう。彼がかわいそうだ。
「くっそ!」

 それからクイズゲーム、レースゲーム、シューティングゲームエトセトラエトセトラ。
 徐々にチャラ男はヒートアップしていき、最終的にはなぜか3人でクレーンゲームをやっていた。
「じゃーな! 楽しかったぜ!」
 チャラ男は腕一杯の景品を抱えながらこちらに手を振った。
「また遊ぼうぜヒナちゃん。ショコラもな!」

 本当に幸せそうな顔だったので、僕は苦笑いしながら見送った。
 隣を見ると彼女も愉快そうに笑いを堪えている。
 なるほど、これが彼女の楽しみ方なのかもしれない。


 夜道を歩き、今度は本屋へ。
 中を適当にぶらついて背表紙の列を眺めて回る。
 ヒナも僕もこれといって探している本はなかった。

 と、彼女が足を止めた。
 棚から一冊を引っ張り出す。
「なにそれ」
 問うと、彼女はこちらに本を持ちあげてみせた。
『宮沢賢治』

「詩集?」
 彼女は頷いてパラパラとめくりだす。
「好きなの?」
「特にそういうわけじゃないんだけど」

 その時彼女の手が止まった。
 覗く。
 一遍の詩。題は、
「『眼にて云う』」


 これは僕も知っている。
 病床にある人間の視点から書かれたそれは、不思議な透明感がある。

「あなたの方から見たらずいぶんさんたんたるけしきでしょうが」
「わたくしから見えるのはやっぱりきれいな青空と」
 二人で1行ずつ読みあげ、最後は一緒に唱和した。
「すきとおった風ばかりです」

 彼女は静かに詩集を閉じ、ゆっくりとそれを本棚に戻した。
 二人で外に出る。

「もし死ぬ日が来たら、ああいう風に穏やかに死にたい」
 彼女がどこか遠い口調で言う。
「縁起でもない」
 僕は静かに答えた。

 でも分かるところはある。
 普通、死ぬときは苦しくて痛いのだろう。
 言葉では表すことのできないほど。だから人は死の縁でわめき、叫ぶ。
 死ぬなら「きれいな青空」と「すきとおった風」を眺めながら死にたい。そう思う。


 町の一角にある公園は暗闇に沈んでいた。
 滑り台やブランコなどが眠る大型動物のようにたたずんでいる。
 彼女は先行して滑り台に向かった。
 階段を上り、一番上に座り込む。僕はそれを下から見上げる。

 彼女は遠くを見ていた。
 視線の先を見ると、暗い空を押し上げるように黒い建物がいくつも並んでいた。
 ヒナはそのうちの一つを指さした。
「あれ、中央総合病院」

 僕は頷く。
「僕の母はあそこにいたよ」
「そうなの?」
「僕が高校を卒業する前に死んじゃった」

 いつもしかめつらだった母を思い出す。
 父と離婚してからずっとその表情だった。
 僕が重荷だったに違いない。よくよく体調を崩しては病院の世話になっていた。
 入院して、危篤状態になって、最期の言葉は「まだあの子の母でいたい」だ。


「奇遇だね。わたしのお母さんもあそこにいたよ」
「え?」
「奇病でね。入院してた」

 それは、と僕はうめいた。「大変だったね」
「うん。大変そうだった。吸血症っていうんだけど」
「吸血?」
「そ。わたしが今なってるやつね」

 いわく、人の体液から精気を供給しなければ死に至る。
 また、日光を浴びても同じく死に至る。

「それ以外は普通の人と同じ。いきなり発症するんだ」
 彼女の母も以前は普通に暮らしていたらしい。
 ヒナが小学校を卒業するころに発症して、入院に至った。

「医者は色々試したみたいだけどね、駄目だった。お母さんはどんどん痩せてった」
 母親はやっぱり彼女が高校を卒業する前に死んだ。1年前らしい。
「そして今度はわたしの番。発症して昼夜逆転。そういうわけ」


 つー、と彼女は滑り台を下りてきた。
「見て」
 腕を掲げる。
 近寄って視線を落とすと、そこにあるのは火傷のような傷痕。

「これは?」
「今日、あなたが出発した後、やっちゃった。カーテンが揺れてさ」
 そこに日光が当たったらしい。
「少しだけなんだけどね。でもそれだけでこうなっちゃう」

 僕は黙ってそれを見下ろした。
 その傷にそっと触れる。
「……作り話じゃなかったんだね」

「わたしの名前」
 唐突に彼女が言う。
「ん?」
「わたしのヒナって名前、太陽の菜っぱって書くんだ。陽菜」
「……」
「笑っちゃうよね。太陽が駄目な吸血鬼なのに」


 立ち上がる彼女を抱きしめた。
 街灯の光を反射して光る彼女の目が間近にある。
 かなしく輝くそれを見つめ、僕は彼女と唇を重ねた。

 長く長く。
 彼女の手が僕の手に回される。
 きつくではなく、ゆるく、どこか頼りなく。

 唇を離して僕は空を見上げた。
 町の明かりでかすかにしか星は見えない。
 彼女の頭を胸に抱きながら、僕はそれを見上げ続けた。

 世の中はままならないことばかりだ。
 希望の正体は、あのかすんだ星の光にきっと似ている。

ここまでなんだか妙な投下間隔ですみませんでした
でも明後日までには多分終わりますのでご容赦を
それでは今日はここまで

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