続編・羊のうた (47)

地元から少し離れたこの男子校で部活に入るつもりはなかった。
中学時代からの同級生である木下(きのした)や八重樫(やえがし)と会う機会が少なくなってしまうだろうし、中学で所属していた美術部では幽霊部員としての活動しか行っていなかったから才能など欠片も無い。
にも関わらず、高城一砂(たかしろかずな)は誰とも遊ぶ約束をすることなく帰路を辿っている。
あの二人と会う約束が取れなかったからだ。
約束が取れないというよりも、どこか距離を置かれている気がしてならない。
「思ったんだけどさ……なんで二人とも私服なの?」
三人は学校を終えて集まった時、制服姿であるのは自分だけだった。木下と八重樫は同じ高校で、私服制の学校ではない。
気になって尋ねたところ「別にいいじゃん。気にするなよ」としか返ってこなかった。それから何度か放課後に遊んだがやはり二人は私服である。
一砂は何かに違和感を覚え、再度問いただした……それ以来「暫く予定が空かないんだ。ごめん」と告げられ、会うことが出来ていないのだ。

「どうすっかな……」
一砂は思った言葉を地面に吐いた。
電車に乗って地元方面へ買えることが順当かもしれないが、やるせなさが足取りをふらつかせている。
こんなことなら部活に入っておけば良かったのかもしれないと、思考までもが頼りない。
ポケットに手を突っ込み財布に幾らか入っていることを確認した。このまま帰る気にはどうしてもなれないので、喫茶店で暇を潰そうと思い立つ。
宛てもなく歩いていたせいか、いつもとは違う道を歩いていたことに、今までは鼻につくことがなかったビターな香りで気づく。

「Milk Hall(ミルクホール)……ここでいいか」
ノスタルジックを感じさせる入り口が何となく気に入ったということもある。珈琲で時間を潰せればそれで問題はないが。
ドアを開けようとしたその時、ふと目に入ったものは、手書きで書かれた【バイト募集】のマジックボードだった。

「……」
入店を一旦取り止め、一砂は少し考える。
やりたい部活があるわけでもないし、シフトに多少の余裕があるのなら……バイトをしてみるというのも、一つの手ではないかと。


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「さぁさ、飲みなよ!!」
ドアの鈴を鳴らしてすぐに「ここで働いてみたいのですが」と、伝えたところ、ウェイトレス姿の女の子は元気よく珈琲を出してきた。注文したわけでもないのだが。

「すいません。いただきます」

「働くにしてもウチの味がわからないとね~。どぉ?美味しい?」

飲んでる最中に訊かれても困る。更に言えば、珈琲の味の違いなど高校生がわかるはずないだろう……そんなことを思いながら、一砂はカップを置いた。

「美味いです。失礼ですけど、店長さんじゃないですよね?」

「ははっ、やっぱわかっちゃうか~」
見た目で言えば、一砂とそう変わりないくらいの年頃の女の子だ。いかにも活発で店長という役職には見えない。

「杏子さんは今出てるの。あ、店長のことね」

「そうなんですか。テンション高いですね……えっと……」

「アタシはハルだよ。ハルちゃんと呼んでいいからね!!」
一砂はハルちゃんなら女の子のテンションについて行けなかった。だが、悪い人ではなさそうだし、店長さんが戻るまではどうにか合わせておこうと考える。

「じゃあハルさん。は、高校生なんですか?」

「うん、そうそう~……じゃ!!ないよ!!」
一人芝居を打つ彼女が少し可愛らしく思えてきた。一砂は苦し紛れに「肌が綺麗なもんで」と付け加えると、まんざらでもなさそうな表情に戻る。



ゆっくり投下します。
冒頭でハルちゃん登場してますが、イエスタディとクロスってわけじゃないかも。
羊色が濃い内容になります。あと千砂出てきます。


「本当にいいんですか?」

「試作品だから味見役だもん。お金は取らないよ~」
グリーンサラダパンと命名された緑色がかった食べ物を、一砂は表情を殺して飲み込んだ。
その直後、カランと鈴が鳴る。

「楽しそうねー。ハルちゃん?」

「杏子さん!!」

「すっすいません!!バイト募集を見てここに……」
びくりとした彼女連られ、一砂も思わず硬直してしまう。
口周りを拭いたのちに振り返った。

「あら、そうだったの。近くの高校?」

「はい。すぐそこの男子校です」
妙齢とまでいかないものの、どこか上品な雰囲気を漂わせる女性だった。
綺麗な佇まいに少し脈が上がりそうなものだと自分でも思ったが、何故か落ち着いて話せることを不思議に感じる。

「そっかぁ。それで持て成してたのね」

「ついテンションが上がりまして試食品も作っちゃいました!!杏子さんもどうぞ!!」
カウンターに置かれた緑色のパンを見た杏子は、苦そうな顔で笑っていた。

「まぁ……うん。えっと、君の名前は?」

「高城一砂と言います」

「一砂君。それ美味しかった?」
何となく振られるような気こそしていたものの、一砂はなんと答えるべきか言葉が詰まる。
ハルは何も言わずに期待の眼差しを向け、杏子はただただ笑顔でいた。

「……微妙でした」
ハルと目を合わせないようにして答える。




18:00時目前になり、少しずつ客足が増えてきた。
ハルはいそいそと動き回りながらも、時折一砂へジト目を送る。

「……」
一砂は杏子から渡された簡易履歴書に記入しながら、心の底ではアンタのせいだろ。と念を返す。
ただ、好意であったことから少し申し訳ないと思っていた。

「ふーん、二つ下かぁ」
履歴書の生年月日欄を除いたハルが言った。

「……あれ?ハルさん、やっぱり高校生じゃないですか」

「えっ?なんで?」

「だって俺の二つ上なら高三ですし」
考える間もなくわかることであった。やっぱりハルさんは背伸びしていたのだと。

「いや……ガッコは途中で辞めちゃったけど。今年で十九だよ」
計算違いは誰にでもあることだとさほど気にしていないのか、ハルは皿洗いに移った。

「……?」
ハルが中退の経歴を持つことはさほど気にならなかった。
一砂は明らかな違和感を覚える。二つ上なのに十九歳……これは、一体どういったことなのか。

「一砂君。経歴書出来た?」

「はっ……はい」
恐らくは早生まれか何かが関係しているのだろう。一砂は、今まで人の誕生日や何やを深く考えたことはない。
聡明だろう店長に経歴書を見せてしまえば、きっと違和感は解消される。そう思い、問題箇所の生年月日欄を訂正することなく渡した。

「……」
杏子は上から順に目を通している。それも、ゆっくりと。
経歴で人の何がわかるだろうか。通っていた中学や部活で人間性がわかるはずはないだろうに。早くしてくれ……と、一砂には焦りのような感情が募り始めていた。
何故この程度のことで焦りなどを覚えるのか、自身ですらわからない。

「うんっ。明日の17:00に来れるかな?」

「はい!!」
にこやかな笑顔で合格をくれた杏子に対し、一砂は元気に返事を返した。まるで霧が晴れたかのような爽快な色が着いた音声で。

「じゃあ宜しくね一砂君。これから忙しい時期だから助かるわ」

「いえ……こちらこそ宜しく御願いします」
手を差し出す杏子に握手で答える。

「あ、それとなんだけど…・・・」
言葉を発した杏子の笑顔は、先ほどまでとは種類が違う。まるで可愛い子供を諭すのような……そんな笑顔だ。
その表情に気づいた一砂は、再度内心に靄を生む。

「生年月日ね、間違えてたよ」

今日はこんなもんで



「そろそろ一週間だけど、ちょっとは慣れたようだねぇ」

「んー……慣れたんですかね?」
まだまだ甘いよ。としたり顔のハルに対し、一砂は畏まり気味に答える。
仕事終わりに杏子さんが淹れてくれる珈琲は、高校生の一砂にでもわかるほど美味しいものだ。

「初めて仕事するほうにしては覚えが良いと思うわよ。ハルちゃんなんて最初えらくテンパってたんだから」
クスクスと笑う杏子に、ハルはムッとしながら抗弁していた。
その様子を見ながら一砂も笑う。

履歴書の生年月日は、一年だけ訂正しておいた。
あの日、間違いなく何かがおかしいと気づく。
学校の友人にでも誕生日の話題を振れば、確実に焦点が浮き彫りになる。木下や八重樫に直接訊いてしまえば尚更だろう。
しかし、それがどうしても怖くて実行に移せない。記憶の底に……思い出してはいけないことがある。そんな気がしたのだ。

「ハルさん。俺、もっと頑張りますから」

「そ、そっか。それならいいのだよ一砂」
えらく丁重な一砂の返答に、ハルも大人の対応を見せる。少し拍子を抜かれた様子で。

一砂はこの現状に身を置くことが、考えることを放棄して流れに身を委ねることに、とても安堵していた。
可能性は二つ。「空白の一年」と「戸籍上のミス」。後者であることを一砂は望んでいる。
しかし、重症を負って入院していたという、記憶すら曖昧な過去がよりいっそうの不安を駆り立てた。
これ以上考えるのは危険だと本能がシグナルを出している。
それなら……何も考えずに、この空間で新たなモノを手にするほうが気楽でいい。そう思った。

「でもなんだろ……一砂君ってさ、少しミステリアスな雰囲気あるわよね」
唐突に振られた杏子の言葉に、一砂は表情に出さないよう身構える。

「そう、ですかね。普通のコーコーセーだと思ってますけど。自分では」

「杏子さんー。ミステリアス担当はアタシです!!」

「……ははっ」
不安を駆る話題を一掃するようなハルの意見に、一砂は笑いを零す。

「あっ、馬鹿にしたでしょ?」

「してませんよ!!してません!!」

こんな日々が続けばいいなと、そう思っていた。



「わざわざすいません……」

「いや、構わないよ。今日は定時だからね」
恐縮して話す女の子に、水無瀬は疲れ気味に答えた。
年齢が一回りほど違う男女となれば、周囲から辺に思われるかもしれない。そのおり、適当に目に付いた喫茶店に入る。
時間の制約は特にないものの、この子がアポイントを取るということは芳しくない話題であることが想定出来ていた。

「君も何か飲むといい。時間を割く内容なんだろう?」

「はい……珈琲を」
八重樫葉はカウンターでいそいそと業務に励むウェイトレスに注文した。
確かに、息をつきながらでないと、身にこたえる話になる。

「一砂君のことかい?」
水無瀬は想定していたことを、ストレートに出した。
その問いに、八重樫は俯いたままこくりと頷く。

「だと思ったよ。君が私服姿でこの辺りに出向くとなればね」

「一砂君はこの辺りの高校ですから」
持ち運ばれてきた珈琲に口をつけるが、抑揚が上がることもなく答える。

「……彼に、もう異変が起きたということかい?」

「いえ、それはまだだと思いますが……隠し続けることが限界に来ています」
八重樫も水無瀬も、一砂の奇病について知っている。
「遺伝的に発する吸血衝動」。一砂は、この奇病に侵されていた。他人の血液を欲するものだが、誰彼構わず求めてしまうというわけではない。
この衝動に駆られた時、凄まじい頭痛や眩暈に襲われ、それこそ頭が割れそうな激痛や狂ってしまいそうな感覚が伴う。
だが、一砂は現在この奇病の脅威から抜け出した状態にあった。
数ヶ月前、劇薬を飲み死に瀕した結果、記憶障害という形で一時封印されたのだ。忌まわしい記憶と共に。

「江田夫妻は?」

「時折連絡を取っていますが……あの人達も、隠し続けることは無理かもしれないと参っているようです」
一砂の義親である江田夫妻。八重樫は彼らと連絡を取り続けていた。
共に、一砂の記憶障害を隠し続けることが功を奏すと……考えるところは同じだったからである。

「……無理と感じた原因はなんだい」
水無瀬にとってやはり気が滅入ってしまう話題だった。永遠に消えない影が、脳裏でうっすらと揺れる。
正直なところ、もう関わりたくはない。一砂に恩があるわけでもないのだ。

「私生活でのちょっとした変化や、普遍的な話題で……一砂君は何か異変を感じてる気があるんです」

「そうか……やはり、そうなるだろうな」
関わってしまえば、また……彼女を思い出してしまう。
それだけが、水無瀬にとって、彼らへの協力を阻む障壁となっていた。


「核心を知ってしまうと、記憶は戻るのでしょうか」

「僕は脳医学を専攻していたわけじゃないが、可能性は高いと見ていいだろう。記憶だけが戻るか、それともあの奇病だけが発するか……もしくは、両方か」

「……」
八重樫は水無瀬の答えを鑑みた。あの奇病が発しても、己の血で一砂を助けることが出来る。
しかし「記憶だけが戻った場合」はその非じゃないのかもしれない。

「前に君は言ったね。自分の血で彼を救えるかもしれない、と」

「はい……」
そのつもりだ。一砂が己を求めるならいつでも差し出す。

「だが、あの奇病は精神に左右されるところがある……最悪は、彼が求める血は無いのかもしれない」

「……!!」
このケースは……考えてもいなかった。
今はもう、あの人は居ないのだから、一時だけは私の血を求めたのだから、彼はきっと私を求めるだろうとしか考えていなかった。

「で、でも!!」

「落ち着きなさい。これは、最悪の場合だ。可能性は低いだろう」
感情を荒げた八重樫を、水無瀬は諭すように抑える。
持論でこそあるがその可能性は低い。八重樫の経験談を踏まえると、そう答えが出たのだ。

「そう……ですか」
もし最悪のケースが起きてしまった場合、彼を救えるのかと考えると……体が強張った。


「正直、私はこれ以上関わりたくないんだ」
水無瀬は頭を抱え、心中を口にする。

「……ごめんなさい」
水無瀬が関わりたくないだろうことは、八重樫もわかっていた。
それでも、何かの糸口を掴めるならと……迷惑を知って尚、頼ってしまった。

「最後に一つだけアドバイスしておくよ。君の胸中はわからないでもないからね」

「彼の記憶が戻る前に……出来る限り好意を向けてもらえるよう努めるといい。距離を置いたままは良くないよ」
水無瀬自身が、かつて成し得なかったことだ。
どこか、昔の自分と目の前の女の子を重なって見ている……だからこそ、柄でもないことを口にした。

「水無瀬さん……」
八重樫も、彼が重ねているだろうことを理解する。
その時、入り口の鈴がカランと鳴った。

「お疲れ様でーす。買出しから戻りました」

「あっ……お帰り」
カウンターにもたれ掛けていたハルは、ぴくりと反応し一砂に挨拶を返す。

「いらっしゃ……」
一砂は買出してきた品を冷蔵ケースに詰めようとカウンターに戻りつつ、客に挨拶を交わそうとした。
だが、見知った顔がそこにあったことにより、言葉が一瞬詰まる。

「……あ……」
強張った表情を表に出してしまった。
それは八重樫だけでなく、水無瀬も同じである。

「八重樫……と、知り合いの方……ですか?」
八重樫の向かいに座る見慣れない男性に、軽く会釈を交わす。
少し強張り気味であった男性の表情は、次第に色を取り戻していた。

「私は彼女の主治医でね。少しばかりお喋りさせてもらっていたんだ」
冷静に嘘をついた。直後、一砂に気づかれないよう八重樫に目配せを送る。

「そう……なんですか。八重樫、怪我してたのか?」

「腱鞘炎だよ。だいぶ回復しているけどね」
咄嗟に専門知識が浮かぶはずが無いだろうことを考慮し、水無瀬が口を挟む。
その言葉に、八重樫の表情は少しばかり落ち着きの色を見せる。

「うん。病院がこの近くだったから」

「あ……だから最近、都合が空かなかった……とか?」

「そ、そうなの。ごめんね……高城君」
最近会えなかったことを変に思われるよりも嘘で安心させたい。そう考えての回答だった。
ただ、理由があるとはいえ、申し訳ないと思ってしまう。

てか八重樫からの呼称は「高城君」だったな・・・しくった

面白いけど、もう少し地の文に改行(一行余白をあけて)してくれると読みやすいかな


「僕はそろそろお暇しよう……八重樫君はゆっくりしていきなさい」
数枚のお札と気遣いの言葉を置いて席を立つ。
それは流石に申し訳ないと八重樫は返却を試みたが、水無瀬は耳を貸さずに鈴を鳴らした。
本人からすれば、これ以上の関わりを断つための駄賃だったのかもしれない。

「いい先生だな」

「うん……そうだね」
水無瀬を送り返した一砂の瞳を見つめ、八重樫は呟く。
二人は本来、見知っている間柄だ。にも関わらず、一砂は水無瀬を覚えていない。
記憶が無いのだから当然であるが、思い出す素振りが全く見えないことを、瞳を通じて確認した。


「あっ。ハルさん、すいません」
一砂は本来従事すべきことを思い出し、カウンターに振り返える。
それは、買い出してきた品をハルがケースに詰め終えた後のことであった。

「先輩に荷詰めさせるとは、いい度胸だねぇ~一砂ぁ?」
率先して動いたハルは茶化すように叱咤する。

「あらお帰りなさい。一砂君、たまにはお客さんになってもいいのよ?」
奥からひょっこりと顔を出した杏子は状況を読んだのか、二人に気を配る。
だが、一砂がそれに甘えることはなかった。

「……ごめんな、八重樫。仕事しなくちゃだからさ」
あの一件以来、木下や八重樫と話す気になれない。
二人と会って話すことは楽しかった……だが、今は怖い。

「でも折角だから、ゆっくりしていってくれよ」
残念そうな表情を浮き彫りにする八重樫への、一砂なりに気遣った言葉だった。
もとより、八重樫に対して好意が無いわけじゃない。

「じゃあ…何か、作ってくれる?」

「ああ、いいよ」

>>16
すまん。これでも空けてるほうなんだ。
小説書いてる身だからこれ以上空けるのは怖いです……変に癖付きそうで。


「はいどーぞぉ」
ふて腐れ気味の慣用句を述べながら、ハルは三つの珈琲をテーブルに置いた。割と適当に。

「ありがとうございます……なんか、新鮮ですね」
一砂は苦笑いで会釈を返すが、ハルの膨れっ面は収まりそうにもない。
その様子を見て、八重樫と木ノ下はお礼と共に乾き笑いを返していた。

二人が来店した際、偶然にもミルクホールの客足はぱったりと途絶えていた。
来店を知らすベルが鳴り終えた直後、木ノ下が「よぉ、久しぶり」と気さくに挨拶を交わすと、一砂は旧来の友に会ったかのように歩み寄る。一砂は多少の困惑こそあったものの、何を言葉にするか考えるよりも早く木ノ下がすらすらと世辞抜きの絡みを入れたことにより、いつしかの雰囲気がそこに戻っていた。
その様子を鑑みた杏子が「今日こそはお客さんになっていいのよ」と気を回したため、今現在三人はテーブルを囲んでいる。

「杏子さん。なんで一砂だけに甘いんですかぁ~」

「そうかしら?ハルちゃんのつまみ食いも結構見逃してるんだけどなぁ」
一見優しそうで鋭い突っ込みに溜飲を強制的に下げられたハルは、自発的に仕事を探し始める。
その慌てふためく様子を、一砂は笑って見送った。

「んっだよオマエ……羨ましい職場じゃんか」

「そ、そうか?」
木ノ下の呟きに対し肯定も否定もしなかったが、よくよく考えるとそうなのかもしれない。
一砂は、ミルクホールが心地良い空間だと感じていたものの、木ノ下の言うような意味では捉えたことがなかった。

「俺も、あんな姉ちゃんほしいわ……」
カウンターの奥から顔を覗かせる杏子をちょっと見しながら、更に木ノ下は続けた。

「そういや木ノ下って、姉ちゃんいたんだっけ?」

「おぅ。愛想のない姉ちゃんがな……店長さんを見習ってほしいもんだ」
取り留めのない会話が続いていた。事実、何事もなく良い雰囲気が続いている。
だが、今しがたの流れに、八重樫は身を強張らせた。

「あ……八重樫。こないだはゴメンな」

「っ、え?」
雰囲気とは正反対に属する事柄が頭をよぎっていたせいで、一砂が何を謝っているのか八重樫はまったく解らないでいる。
木ノ下が口にした「姉」という言葉で、一砂がどういった反応を見せるのか、何か起きるのではないかと……八重樫の心拍数は弾んでいたのだ。

「こないだはほら、ロクに話せなくてさ」

「ううん。そんなことないよ……高城くんが作ってくれたクレープ美味しかったし」
そんな心配とは裏腹に、一砂に変化は全くと言ってよいほど見られない。
木ノ下が意図せず発言していたことが功を奏しているのかもしれないが、何事もなく普通の高城一砂のままだった。

「また……作ってほしい」
来店する前は、会うに恐れを抱くほどだった。
けれど、こうやって取り留めなく居られることに、八重樫は心から屈託のない表情を生む。




「なんかあの人ってさ、どことなく八重樫に似てねぇか?」

「あの人ってハルさん?」
話題に連れて一砂もカウンターを一瞥する。

「そう、なのかな?」
木ノ下の言う「あの人」との言葉だけでハルを指されたことは、八重樫に取って嬉しいかどうかで言えばあまり嬉しくはなかった。
敢えて重ねられるのならば、店長のほうが良いと思う。

「……性格とかじゃなくて、見た目のことだよ」
八重樫に気を悪くしてほしくない一砂は、もっともな意見でその場を繕った。
木ノ下も続いて「そりゃ性格が違い過ぎる」と付け加える。

「しっかり聞こえてるぞ木ノ下ぁ!!てゆーか一砂はあとで覚えてなよ!!」
突如としてカウンターから顔を出したハルが二人を睨む。木ノ下は笑って過ごすが、一砂は後を予期したじろいでいた。
杏子は、そんな様子を楽しそうにクスクスと笑いながら観察している。

きっと、誰が目にしてもユーモラスに映る空間なのかもしれない。

そうか…


製本されるのが楽しみだな


「あの、そちらの二人は?」
マミは、深夜帯まで営業している喫茶店の片隅に腰を下ろしていた。
待ち合わせ時刻に合せて来訪した三人、一砂と共に足を運んだ同級生らしき二人が気になったらしい。
先ほどのミルクホールで一度顔を合せてはいるものの、何故この場にまで来たのか。

「……友達です」
一砂はそれとなく返事を返した。
八重樫と木ノ下は軽く会釈をし、一砂の両隣に腰をかける。

それよりも、今はマミが何を聞きたがっているのか、本題に移りたいという気持ちが昂ぶっている。
マミは、ミルクホールで「教えてほしいことがあるので……後で、ゆっくり話しませんか?」と一砂に伝えていた。
その場で話せる内容ではないのだろうと一砂はどことなく気づくも、話題になる事柄に心当たりはなかった。
ただ、良い兆候だとは思えていない。
それでも、自分を纏う疑念を少しずつでも解きたいという気持ちが、三人で会った日以来疼いていた。
思い出さないほうがいいのかもしれない。けれど、胸の奥でその何かを渇望している自分がいる。

「先生に聞いたんですけど、知らなかったみたいだから」

「……」
突拍子の無いな言葉に、八重樫と木ノ下は身を固める。
当人である一砂もまた同じだが、言葉を遮らせたくはなかった。

「弟さんにこんなことを聞くのは、酷だってわかっています」

「……弟?」
思わずが言葉が漏れ出ていた。
マミが今口にした弟とは誰を指しているのか。全くを以て検討がつかない。
だが、話の流れからすると、自分を指しているのだろうと予測はつくものの……一人っ子の自分には縁の無い話だ。

「え?違うんですか?弟だって聞いたから……つい」
佐々木マミはそう聞いていた。あの病室で、確かにそう聞いたのだ。

「誰……から……?」
誰から、自分が弟だと聞いたのか。そもそもどういった経緯でそんな話を聞いたのか。
今目の前で語っているマミの言葉には、何一つ思い当たる節がない。
一砂の喉の奥から囀るようにして返された問いは、身体も同様に震わせていた。

「待て、一砂!!」
震える一砂の様子を、見ていられなかったのだろう。木ノ下は間に割って入る。
八重樫はもう気が気でないのか、テーブルに俯いたまま手を震わせるだけだ。

>>43
製本とか以前にもうどうなるかわからないっすね。
レーベルの大賞に送る前に、「白淵玄」ってペンネームが欲しいからニトロプラスに送ることにしたよ。


「な、なんだよ木ノ下」
話を遮られることに一瞥を喰らうかとも思えたが、一砂の様子にはもはや余裕が一切見えない。
返された返事に生気は篭っておらず、その目は虚ろになりつつさえある。

「やっぱ二人とも……何か、知ってるんだな」

「……!!」
何と言葉を返すべきなのか、今この場で何を言えば適切なのか……木ノ下は、判断がつけることが出来ないでいる。

「……ごめん。知ってる」
八重樫が口を開いた。
その返事は一砂の予想通りだが、更に胸を締め付けさせるだけでしかない。

「でもね、高城くんの為だから……ごめん」

「俺の為にってことは、何となく解ってた……だから、教えてくれ」
二人がここまでして隠し通すこと。それは予測していた空白の時間のことなのだろうと、思い当たる節はある。
だが、そこに一体何があったのか。時折過ぎる言い知れない不安の正体は何なのか。体中の孔が開きそうなほど、ざわめきが止まない。

「わかった……けどな、その前にお前がもう一度決めてくれ」
少し間を置いて、木ノ下は静止をかける。

「このまま何も知らずに、知らないフリを続ければ……お前は普通に暮らし続けられると思う」

「けど、全部聞いちまったら……どうなるかわからない。お前自身が危うくなる」
正体を掴むことさえしなければ普通に暮らせる。だが、そうでなければ自身が危うい。その意味が全くわからなかった。
本当に聞くべきか、やはり止めておくべきか……二人の気汲みがあまりにも重過ぎて、決心が揺るぎそうになる。

「高城くん。君がどう変わることがあっても、私はちゃんと一緒にいるから」

「だから、高城くんも私を信頼して。絶対に、私を拒まないで……ほしい」
水無瀬から助言された言葉が、今になって脳裏を過ぎる。
けれど、一砂の記憶が今生残るならば……こうやって伝えておくしかないと、八重樫は一砂を見つめる。
今の八重樫の目は怯えに屈してはいない。今後直面するだろう事態に、真摯に向き合う意思が目に灯っていた。

「そうだ。信頼してくれよ高城。あん時みたいに一人で抱えるのは絶対に止めてくれよな」
木ノ下もまた同じくして、一砂の目を見据える。
二人の従容たる雰囲気を受けて、一砂の胸を締め付ける狭窄は、いつの間にか解かれていた。

「あぁ。頼むよ」
大丈夫。何を聞いても大丈夫だと、そう思えた。




「あ、あの……」
佐々木は困惑を声に出す。
三人の様子、特に一砂の異変が顕著であり、目の前の空気はそれと違うものを孕んでいたから。

「木ノ下、八重樫。やっぱり佐々木さんの話を先に聞いてからでもいいか?」

「うん……順序は、それからでも大丈夫だと思う」
一砂は、置いてけぼりになりつつある佐々木を鑑みたわけではなく、先ほど聞かされた「弟」という言葉が胸につかえたままだった。
八重樫も木ノ下もそれとなく察したのか、一砂の意向を汲み取る。

「話を続けてもらえませんか?俺に何を聞きたかったのか」

「……わかりました」
目の前の彼が何を煩ってこうも疲労した様を見せているのかと気になる。
だが、緊迫を纏う一砂の視線を前にしてそれを聞くことは出来ず、佐々木は仕方なく本題へと戻す。

「千砂さんのお墓は、どこにあるのでしょうか?」

「……」
その話の続きは、全くを以て理解が出来なかった。
彼女が今口にした「千砂」とは誰なのか、脳裏にすら過ぎらない。
突拍子のない「お墓」というのは何のことだ?

「千砂というのは、俺の、知り合いですか……?」

「え……貴方は千砂さんの病室に居たじゃ……」
病院では個室に入院していた。
誰かの病室に足を運んだ記憶などは全く思い出せなかった。

「入院してた千砂さんから聞きました。貴方は弟だって」
思考を回す一砂を怪訝に思いながらも、佐々木は言葉を続ける。
更に飛び出した、千砂という人物が自身の親族であるという発言。
一砂は、もう……何が何のか、理解が及ばないでいる。

「だから、私は、千砂さんの弟である貴方に……千砂さんのお墓の場所を教えてほしくて」

「ごめんなさい。酷なこと、ですよね……お姉さん、だもんね」
彼はショックを受けて未だに立ち直れないのだろうと、佐々木はひとりでに解釈し謝った。

「……」
佐々木が言っている言葉の意味を、沈黙の中で探り当てる。
千砂という人物は、自分の姉なのだろうと。そして、その女性は死んだ。
どこにも、そんな思い出はない。
会ったことも、触れたことも、言の葉を交わしたことも……一度だってあり得はしないのだ。

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