何度でも戻ってくる場所 (6)

薄暗い店内に、カップの音だけが響いていた。店主のマスターは、今しがた注ぎ終えた珈琲を静かにテーブルに置き、常連客の目の前に差し出す。

常連客は、マスターに一礼してカップを手に取った。外の雨は強くなり、窓を叩く音が心地よく響く。まるで、この喫茶店だけが時間を止めているかのように感じる。

「……ねぇ、マスター」と、常連客がぽつりと言った。

マスターは顔を上げると、いつものように少し微笑んだ。「どうした、今日は何か悩み事か?」

常連客はしばらく黙ってカップを眺めていたが、ふと目を上げて言った。「人って、どうして同じ場所に戻りたくなるんだろうね?」

マスターは少し驚いたように、静かに目を細める。そして、ゆっくりと答える。

「戻りたい場所、か。どんな場所だと思う?」

常連客は答えを探しながら言葉を続けた。「例えばさ、何度も足を運んだ場所。自分が知らない場所でもいいけど、なぜか落ち着くんだ。そこに何か特別な意味があるわけじゃないのに……」

マスターは一息ついてから、静かに言葉を紡ぐ。

「それは、場所に意味があるのではなく、きっとその場所に『戻る自分』があるからだよ。人は、変わり続けるものの中で、自分が変わらずにいる場所を求めているのかもしれない。」

常連客は黙ったまま、マスターの言葉を噛みしめるように聞いていた。

「……でも、ずっと変わらない場所って、逆に窮屈に感じる時があるよね。変わらないことって、安心するけど、なんだか息苦しくなるような気がするんだ。」

マスターはしばらく考えた後、再び答える。「それもまた、自然なことだよ。変わらないものに囲まれていると、人は次第にその場所に依存してしまう。しかし、変わらないものがあるからこそ、人はそれを基準に変わり続けられるんだ。」

常連客は静かに頷き、カップを持つ手を少しだけ強く握った。

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常連客は少しだけ黙り込んだ。カップを置き、外の雨音に耳を澄ませる。

「でもさ、変わり続けることって、怖くない?」常連客はふとそんな言葉を漏らした。「変わってしまったら、もう戻れなくなる気がして。それが、なんだか怖いんだよ。」

マスターは穏やかな目をして、その言葉を受け止める。彼はゆっくりと腕を組んでから、少しだけ視線を外に向けた。

「変わることが怖いのは、誰もが感じることだろう。でも、怖いからこそ人はその変化を求め続けるんだ。恐れを感じながらも、前に進むことで初めて、新しい自分に出会える。」

常連客は首を傾げてマスターを見つめる。「でも、もしその変化が自分を失わせてしまったらどうする?」

マスターは一度深く考えてから、静かに言った。「それもまた一つの可能性だ。しかし、もし自分を失ってしまったとしても、それは新しい自分を見つけるための一歩に過ぎない。」

常連客は言葉を呑み込み、少しの間黙ったままでいた。マスターが言う通り、変化には痛みが伴うこともある。しかし、痛みを恐れて立ち止まってしまうことが、もっと怖いことなのかもしれない。

「マスター、僕は……変わりたくないと思ってた。でも、きっと変わらなければ、僕はどこにも行けないんだろうな。」

マスターは微笑みながら、カップを持つ手を少しだけ力強く握った常連客を見つめていた。

「変わりたくないという気持ちも、もちろん理解できる。でも、変わらずにいることもまた、ひとつの変化だよ。」

その言葉が心に染み渡るようだった。常連客は目を閉じ、深く息をついた。

「ありがとう、マスター。」そう言って、また静かにカップを持ち上げた。

店内の空気が、少しだけ柔らかく感じられる。外の雨はまだ降り続けているが、この喫茶店の中では、時間がゆっくりと流れているように思えた。

今日も店内にはほとんど客がいなかった。常連客は、いつもの席に腰を下ろすと、いつも通りの静かな雰囲気の中でマスターの顔を見上げた。

「ねぇ、マスター」と、常連客が突然話しかける。

「どうした?」マスターは、珈琲の香りを漂わせながら目を上げる。

「もしも、時間が逆行したら、どうなるんだろうね?」常連客が思いついたように言った。

マスターは驚くことなく、静かに微笑んだ。「時間が逆行する、か。面白い問いだね。」

常連客はカップに口をつけながら続けた。「だって、もし過去に戻れるなら、間違った選択をやり直せるわけだよね。でも、それって本当にいいことなんだろうか?」

「面白い質問だ。」マスターは考え込む。「やり直せると思っても、過去に戻ることができたとしても、結局同じ選択を繰り返してしまう可能性がある。それでも人は、選び直すことを求めるんだ。」

常連客はしばらく黙り込み、視線を外に向けた。「でもさ、そうやって過去を変えていけば、未来だって変わるんじゃない?」

「確かに、そうだろうね。でも、時間が逆行して変えた未来が本当に幸せなものになるのか、それは分からない。」

「じゃあ、時間を戻せば戻すほど、結局は幸せから遠ざかるってこと?」常連客が疑問を投げかける。

マスターは少し考えた後、穏やかな声で言った。「もしも、時間が逆行したとしても、結局人は同じ選択をする可能性が高い。なぜなら、未来を変える力は、自分自身の中にあるからだよ。過去を変えたところで、心の中で変わらなければ、同じところに戻ってしまう。」

常連客はその言葉に、しばらくの間黙って耳を傾けていた。外の雨音が心地よく、店内に落ち着いた空気が流れる。

「それじゃあ、時間が逆行しても、何も変わらないのかな……?」

マスターは静かに答えた。「それは、君がどんな選択をするかによる。過去を変えたいと思うなら、今の自分を変えなくてはならない。過去がどうであれ、未来は今から作っていくものだから。」

常連客は静かに目を閉じ、マスターの言葉を反芻する。時間を戻せるなら、過去を変えてやり直すことができると思っていた。しかし、マスターの言葉が重く響き、心の中で何かが少しずつ変わり始めるのを感じた。

「ありがとう、マスター。」常連客は静かに言って、再びカップを口に運んだ。

外の雨が止む気配はなく、店内の空気はますます穏やかに、そして深くなっていった。

>>3 「もしも、時間が逆行したら」

3
僕は、人を笑わせることが得意だった。みんなの前で、何かしら面白いことを言ったり、やったりすれば、すぐに笑顔が見られた。最初はその笑顔が嬉しくて、もっともっと面白いことをしようと思った。笑わせて、みんなが喜んでくれる。それが僕の役割で、僕の取り柄だった。

でも、時間が経つにつれて、同じことじゃ飽きられてしまうのがわかってきた。だから、もっと過激に、もっと衝撃的に。段々と、それがエスカレートしていった。最初はちょっとした冗談だった。それが、段々と許される範囲を越えていって、最後には本当に取り返しのつかないところまで行ってしまった。

あの時、僕は何をしていたんだろう。みんなが笑うのを見て、嬉しいと思っていた。でも、いつの間にかそれが義務みたいになってしまって、みんなの期待に応えなければいけないというプレッシャーがどんどん強くなっていった。

そして、僕は気づいた。どんなに頑張っても、みんなとの距離は縮まらないどころか、むしろ遠くなっていくばかりだってことに。僕のネタはもはや「笑いのため」ではなくなっていた。みんなの前で笑わせるために、自分を犠牲にしているだけだった。

でも、それをやめられなかった。それが僕の「取り柄」だから。何度も、自分を無理にでも奮い立たせて、笑わせることで、みんなの目を楽しませて、そんな自分に満足しようとした。けれど、空虚な笑顔が僕を取り巻いていくばかりで、その場所にはもう意味がなくなっていた。

結局、あの場所は僕にとって「戻りたい場所」だった。それだけしか残らなかった。それが、僕にとっての全てだった。

「人は同じ場所に戻りたくなるものだ。」

4
「人は同じ場所に戻りたくなるものだ。」

その言葉が胸に突き刺さった。戻りたくなるのは、何もかもが最初からうまくいっていたと思いたいから。でも、僕が戻りたい場所にはもう誰もいない。みんながいたと思っていたその場所は、実は僕が作り上げた幻想だったのかもしれない。

今、ここに来て気づいた。どれだけ戻りたくても、もうそこには何も残っていない。やり直すべきは、過去の選択でもなく、あの場所に戻ることでもない。ただ、自分を許し、前に進むことなんだ。過去の自分を認めることで、初めて新しい場所に進むことができるんだと。

そこで、店主の言葉が頭に響く。

「君が悔いているのは、過去の選択だけじゃない。君はその時、自分自身を見捨てたんだ。でも――今ここで、もう一度自分を選び直すことだってできるんだよ。」

ああ、そうだ。僕は、あの場所に戻ることが正しいと思っていた。でも、もう戻る必要はない。過去を背負いながら、前に進むために今、ここにいるんだ。

「ありがとう。」

その一言で、心が少し軽くなった気がした。

店主は静かに微笑んで、何も言わなかった。それだけで、全てが伝わってくる気がした。過去はもう取り戻せないけれど、今、ここからやり直すことはできる。僕が進むべき道が、きっと見つかると信じて。

店を出るとき、ふと気づいた。あの場所は、もう僕のものではない。でも、それを受け入れることで、きっと新しい場所が見えてくるのだろう。

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