【ぼざろSS】あなたの温度 (26)

[人間 凍死する温度]

(……なんで、こんなの検索してるんだろ)

 霧のように細かな冷雨が髪を濡らす、冬の夜の下北沢。
 その街中を、ギターを背負って傘もささずにあてもなくさまよう後藤ひとりは、肩をすくめてマフラーの中に顔を隠しながら、震える手で絶望的なワードをスマホに打ち込んでいた。
 ずらずらと出てくる検索候補を死んだ魚のような目で流し見する。よくわからないが、とにかく人間は寒いところに居続けると死んでしまうらしい。あまりにも過酷な現在の気候と気温は、行き場を失った女子高生一人をあの世に連れていくことくらい造作もないだろう。
 ミストの粒に光を反射させる液晶画面を服でぬぐってポケットにしまい、貴重な体温が少しでも奪われないように身を縮めて、ひとりはまたとぼとぼ歩き出した。

 どうしてこんなことになってしまったのか。
 大事な本番を間近に控える中、スタジオ練習を終えた結束バンドの面々は、いつもどおりそれぞれの帰途についた。
 本日の合わせは練習は、はっきり言って満足のいく結果ではなかった。本番に向けて四人はモチベーションを高めていたが、弱みを克服しようと焦ってはりきった結果、今までできていた部分までもがぎこちなくなり、全体としての質が落ちてしまった。
「みんなここ最近の疲れが出てきちゃったのかもしれないから、今日はこのあたりで解散しよ? 次は絶対大丈夫だって!」……そう鼓舞する虹夏の声が少し不安気だったのを、リョウも郁代もひとりも肌で感じていた。
 自分が足を引っ張っているのではないか。みんなと呼吸を合わせられるよう、もっと上手くならなくては。下北沢から遠く離れた金沢八景に住むひとりは、すぐにでも家に帰って練習しないといけないと思い、目的の電車に乗るために駅までの道を急いでいた。そのときはまだ雨は降っておらず、空気が湿っている程度だった。

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 駅までもう少しというところで、ポケットのスマホが震えた。メッセージではなく着信だった。慌てて手に取ると、そこには父親からの着信であることを示す画面が。なるべく人の少ない静かな路地に小走りで逃げ込み、ひとりは電話に応じた。
「おっ、出た出た。もしもし、ひとり?」
「え……お父さん、どしたの」
「今どこだ?まだ電車乗ってないか?」
「うん……もう乗るとこだけど」
「ああ待って、まだ乗らない方がいいかもしれない。実はな……」
 ポケットの振動がメッセージではなく着信だとわかったときからなんとなく嫌な予感はしていたが、案の定だった。
 父親の話によると、妹のふたりが熱を出したらしい。

「朝はまだ元気だったんだけど、昼過ぎくらいに先生から電話があってな。明らかに熱っぽいってんで、今日は早引けしたんだ」
「そうなんだ……」
「それでほら、ふたりの幼稚園でも、例の流行り病にかかっちゃった子が結構いるだろ? ふたりももしかしたら貰ってきちゃったのかもしれないから、明日検査に行くんだよ」
「……」
 この時点でひとりは、なんとなく先の展開を察してしまった。ただの風邪ならメッセージのひとつふたつで連絡は済む。珍しく電話するほどの要件があるとすれば、それなりの話を持ち出されるはずだ。
「父さんたちは看病もしなきゃいけないからもう仕方ないんだけど、ひとりは確か、大事な本番が近いんだろ? もしもここでかかっちゃったら、結束バンドのみんなに大変なご迷惑をおかけすることにかもしれないと思ってさ」
「……そう、だね」
「だから急な話で申し訳ないけど、今日はこっちに帰ってこないで、誰かの家に泊まらせてもらったりした方がいいんじゃないか?」
「っ!」
「明日の検査結果次第だけど、ひとりにうつらないような態勢を作れるようこっちも準備しておくからさ、とりあえず今日のところは……」

 それから先の父親の話は、ひとりの耳を素通りしていった。
 こんな夜遅くに、こんなにいきなり、誰かの家に泊めてもらうというような真似が、この娘にできると本気で思っているのだろうか。

「この前遊びに来てくれた子たちを見て思ったんだ。あの子たちとは、きっとそれくらい仲よくなれたんだろうなって。まだ練習終わったばかりなら、話もしやすいだろ?」
(無理無理無理……)
 ひとりの脳内に負のビジョンが思い浮かぶ。
「えっ、そんな急に言われても……」と戸惑う虹夏。「私、人を泊めたりするの無理なんで」ときっぱり断るリョウ。「うちもちょっと……ごめんなさいっ」と愛想笑いを浮かべる郁代。みんなから断られ、絶望に打ちひしがれるひとり。みんなと呼吸のあった演奏もできなくなり、本番は大失敗……結束バンドはこの不和をきっかけに解散……
「ひぃぃぃああぁぁぁぁ!!!」
「ひとり!? 大丈夫か!?」
「あっ、あぁえっと……なんだっけ……」
「だから、今日は誰かお友達のおうちに泊めてもらった方がいいんじゃないかって。今最優先なのは、結束バンドのみんなが本番を無事に迎えることだと思うからさ」
「うん……」
「大丈夫そうか? まあ難しいようなら、こっちに戻ってきてもいいけど……」
「……」
 ここで「難しいです」「無理です」と素直に言えたなら、どれだけよかったか。
 心でそう思っていても、なぜか強がって正反対の言葉が口をついて出てしまうのが、後藤ひとりの一番厄介な部分だ。
「た、頼んでみます……たぶん大丈夫だと思う……」
「おおそうか! よかったよかった。それじゃあこっちのことは父さんたちに任せていいから、お泊まり楽しんでおいで」
「へへへ、はーい……」

 通話を切った瞬間、全身の力が抜け、思わず冷え切ったコンクリートに膝をつきそうになった。
 とんでもない事態になってしまった。こんな時間から急に誰かの家に泊めてもらうなんてできるわけがない。
 LINEを開き、結束バンドのトークルームに並ぶ三人のアイコンを見る。今のひとりが頼れるのはこの三人だけだが、先ほど脳内をよぎった負のビジョンがあながち間違っているとも思えなかった。特に今日の練習後の雰囲気を思い出すと、余計にそんな気がしてしまう。
 外泊なんてハードルの高いこと、やはり自分には難しい。スマホをポケットにしまってため息をつく。

(いや、待てよ……?)
 誰かに泊めてもらわなくても、要は一晩明かせればいいのだ。どうにかして明日の朝を迎えられれば、とりあえず学校が始まっていつもどおりの平日になる。これから約12時間、なんとかして時間がつぶせればいい。眠れなくても、一晩くらいなら徹夜したって平気だろう。無理に結束バンドの誰かにお願いして関係が険悪になるくらいなら、そっちの方が何倍もいい……後藤ひとりの思考回路は、そんな答えに辿り着いてしまった。
 だが問題はこの寒さだ。今日は今シーズン一番といってもいいほどに冷え込んでいる。しかも気づけばうっすらと霧雨まで降り出した。都内で雪が降るのは珍しいが、今夜の寒さは本当に雨が夜更け過ぎに雪へと変わりかねない。しかし、それなりに気合をいれなければコンビニすら入ることができないひとりにとって、どこかの店に避難するというのも敷居が高い。24時間営業の店はあるだろうが、そんなところに一人で入って知らない人に絡まれた日にはこの世の終わりだ。そもそも女子高生が深夜まで店にいたら、客だけでなく店員も気にするだろう。

 人がまったくいなくて、誰にも見られなくて、女子高生がいても違和感のない、雨風がしのげる暖かいところ。そんな実在しないユートピアを求めてあてもなく下北沢をさまようひとり。まず目に入ったのは小さな公園だった。とりあえず立っているだけで疲れてきたので、ベンチにそっと腰掛けてみる。
「ひっ!?」
 もっと状態をよく見てから座ればよかった。霧雨の粒をたっぷりまとったベンチに座った瞬間、ひとりの体温はその無機質な素材に一気に奪われ、思わず鳥肌がたった。こんなところに座るくらいなら立ち続けた方がまだマシだ。
 小走りで公園をあとにし、スカートの濡れた部分が肌に当たらないように気を付けながら、とぼとぼとあてもなく歩く。このままどこにも行くことができなければ、本当に朝になるまでに凍死するだろう。気づけばひとりはスマホで人間が凍死する条件を調べてしまっていた。低体温症どころじゃない、きっと翌朝には氷漬けになっているに違いない。
 そんなスマホのバッテリーも残り数十パーセントしかないことに気付き、慌てて画面をロックしてポケットにしまう。
 こんな調子でこまめに見ていてはすぐに電池切れになりかねない。さすがにこのスマホすら使えなくなってしまうと、いよいよもって「死」が見えてくる。誰かにメッセージを送るにしても、事前に誰に送るかを決めてからだ。

 「……」
 まったく知らない店や民家の横をゆっくりと通り過ぎながら、帰る家があるというのは本当にありがたいことなのだなあとひとりは痛感していた。今までは家にこもりっきりになる負のビジョンを妄想することが多々あったが、引きこもれる家があるだけマシなのだということに、ここに来て気づかされた。
 どうして親を相手に強がってしまったのだろう。どうして今日は傘をもってこなかったのだろう。様々な後悔が濁流のように押し寄せる。
 凍死なんてしたら流行り病にかかるよりよほど悲惨なことになるし、せいいっぱい勇気を出して、本当に誰かに泊めてもらえないか頼んでみようか。頼むとしたら誰がいいだろう。
(虹夏ちゃん……リョウさん……喜多ちゃん……)
 目蓋に浮かぶ「断られるビジョン」を、頭を振って一生懸命跳ねのけながら必死に考える。
 一番大丈夫そうな人は誰か。一番私を受け入れてくれそうな人は誰か。
(そんな人……いるわけないかもしれない……けど……)
 そろそろとスマホを取り出し、震える手で液晶画面をタップする。
(私を……助けてくれる人……っ)

「あれ……嘘っ、ひとりちゃん!?」

 ひとりの耳に突然飛び込んできた、快活な声。
 今まさに、ひとりが震える手でメッセージを送ろうとしていた相手。

「もうとっくに帰ったと思ってた! こんなところで何してるの?」
「きっ……喜多ちゃん……」

 たまたま通りかかった書店から出てきたのは、買い物をしていたらしい郁代だった。

「どうしたの? 早く帰らないと電車なくなっちゃうんじゃ……」
「あっ、あぅぁぅ……」
「きゃっ、ひとりちゃん!?」
 突然目の前に現れた郁代のもとへ、ゾンビのようにふらふらと近づくひとり。リアルに凍死する未来が頭に浮かぶほど精神的にも肉体的にも追い詰められていたせいか、今のひとりにとっては救いの女神以外の何者でもなかった。
「ちょっと、すごい濡れちゃってる! ギターもあるんだから傘くらい差さないと!」
「わ、忘れちゃって……」
 刻一刻と濃さを増していた霧雨のおかげで、額に髪が張りつくほど身体中しとしとになっていたひとりを見かねて、郁代は急いでハンカチを取り出し、ぽんぽんと顔を優しく叩いた。
 ひとりはゾンビの体勢のまま、柔らかい布で顔を撫でられる。

「駅に行かなかったの? こっちでまだ用事でもあった?」
「いやっ、えっと……」
「?」
 こんな状況下にあっても、ついつい「なりゆきを説明するのがわずらわしい」と思ってしまうひとり。全部悪い夢なのではないかと現実逃避し、自分でも今の状況をいまいち飲み込めていなかったため、脳内の整理もできていない。
 ぷるぷると硬直するひとりを見て、質問責めにすると逆効果であると悟った郁代は、とりあえず雨に濡れないよう店の軒下にひとりをずらし、次の言葉をおとなしく待った。
「……ぁ、ぅぅ……」
「……」
「……じ、実はっ、家に……帰れなくて……」
「……帰れない?」
「い、妹が熱を出して、うつっちゃうかもしれなくてっ……それで、もうすぐ大事な本番だから、帰ってこない方がいいんじゃないかって、お父さんが……」
「ああ、なるほど……!」
 まさか高校生にもなって自分の家への帰り道で迷子になったのでは……という可能性を捨てきれなかった郁代は、ひとりの口から想像よりもまともな理由が出てきたくれたことにとりあえず安堵した。
 今はもうどんな理由であれ、熱が出たらまず感染症を疑って行動しなければいけない世の中だ。このままひとりが家に帰って同じように熱を出してしまった場合、演奏に支障が出るどころか、本番を迎えることすらできなくなるかもしれない。
 とすれば、なぜひとりはこんな雨の中をさまよっていたのだろう。

「お父さんは、今夜はどうしなさいって?」
「……だ、誰かの家に……泊めてもらえばって……」
 とても申し訳なさそうに、目を伏せ気味にぽつぽつと話すひとり。頼るあてを見つけられず、こんな極寒の中で夜を明かせる場はないかとさまよっていたのだろうか。事実だとしてもそんな可能性は考えたくもないが、それより何より、こんなときでさえ頼ってもらうことができない自分に、郁代は歯噛みした。
「どうして頼ってくれないの?」「言ってよ、そんなことくらい!」……思わず口をついて出そうになる言葉は、どれもひとりの心を傷つけてしまいそうだ。
 今のひとりに、必要な言葉。

「……じゃあ、私の家に来て?」
「!」

「急に友達が泊まるくらい、うちは全然大丈夫だから。今夜は私の家に泊まって、明日は一緒に学校いきましょ?」
「い、いいんですかぁ……!」
 いいに決まってるじゃない、という言葉を飲み込み、郁代は寒さで赤くなっているひとりの頬をもう一度ハンカチでぽんと撫でた。
 ひとりは嬉しさのあまり泣きそうになったが……それと同時に、急激な自己嫌悪に陥った。
 自分がこう言えば、郁代なら助けてくれるはずだと……本当は心のどこかで思っていたのだ。
 だったらなぜ、最初からメッセージを素直に送れなかったのだろう。
「泊めてほしい」と率直に言えず、自分の身の上を説明して相手から「泊まりにくれば」という言葉を引き出させるような真似をしてしまう自分の性格が、つくづく嫌になった。

 身体をちぢこめてうつむき、いつもの数倍は小さく見えるひとりの手を、郁代はぱっと取って両手で包んだ。
「きゃっ、冷たい……! ひとりちゃん、なんでこんなに冷たいの!?」
「えっ、な、なんででしょう……」
「こうしちゃいられないわ! すぐに私の家に帰りましょ! 今はとにかく温まらなきゃ!」
「は、はひっ……」
 握った手をつないだまま折り畳み傘を開き、ひとりを引き寄せて中に入れ、一緒に歩き出す。
 雨は次第に勢いを増し、さあさあと傘を打ちつけた。その音を聞きながら、ひとりはまたも自己嫌悪に陥っていた。
 どうして自分は、すぐに「ありがとう」と言えないのだろう。



 はじめて来る、郁代の家。
 そんな感慨に浸る間もなく家に引っ張り込まれたひとりは、玄関で荷物を全部下ろすよう言われ、部屋に案内されるよりも先に脱衣所に放り込まれた。
「とにかくまずは身体を温めないと! お風呂も沸かしてあるし、シャンプーも好きに使っていいから。ゆっくり浸かってね♪」
「わ、わかりました……」
 知らない家の、知らない浴室。追いつかない思考はそのままにそろそろと服を脱ぎ、ひとりはシャワーのバルブをひねった。
 ほどなくして熱いお湯が出てくる。指先で温度を確かめながら、足元から徐々に身体を温めていく。寒さでツンとしていた四肢の先端が、徐々に感覚を取り戻していく。

「……ぅぅ……」
 シャワーを頭に打ちつけながら、ひとりはまた泣きそうになっていた。ついさっきまで、本当に凍える夜を過ごすことになると恐れ慄いていた自分が、今はこうして温かいお湯に包まれている。
 両手で器を作って湯をため、たまった涙ごと顔を洗う。郁代の存在が、本当に、心からありがたかった。
 今日のことだけじゃない。郁代に出会えたこと、郁代と友達になれたこと。これまでのすべてに対する感謝の念が、胸いっぱいに湧き上がってきた。
(ぜったい、言わないと……っ)
 ありがとう、なんて言葉だけでは片づけられないが、それでも必ず、まずは言わないといけない。
(三つ指ついて……いや、額を地面にこすりつけながら……!)
 感覚の戻ってきた指先をぎゅっと握って拳を固め、強く決心する。そうと決まれば早く出なくては。
 なにやらオシャレそうなシャンプー類を見てぎょっとなり、これを使わせてもらうのは気が引けると悩んでいると、突然浴室の扉がばたっと開き、ひとりは風呂椅子ごと飛び上がった。
「ひっ!?」
「あ……ごめんなさい、私も入ってもいい?」
(えっえっえっ!?)
「ちょっと雨に濡れちゃったから寒くて……はぁ、あったか~い……」
 突然入ってきたのは一糸まとわぬ郁代だった。ひとりの返事を待たずにそろそろと入って扉を閉め、指先でシャワーの温度を確かめている。
 完全に硬直して風呂椅子から動けなくなってしまうひとりと、後ろからひとりの肩に手をついて、シャワーの温水を手で感じている郁代。同年代の誰かとこんな感じで一緒に風呂に入るなんて、ひとりの人生には一度もなかった。

(もしかして陽キャの人ってこういうことするのが普通なの……!?)
「あっこのシャンプー! もう使った?」
「あっいえまだです」
「最近友達にすすめられて買ってみたんだけど結構いいのよ! イソスタでいつも見てるモデルさんとかもおすすめしててね~。あっそうだ、よかったら今日は背中流してあげるわね♪」
(ひぇぇぇ……)
 桃色の髪を優しく手に取り、シャワーを当てていく郁代。ひとりは前傾姿勢で動けなくなってしまっており、浴槽に逃げることもできなかった。
「うわっ、ひとりちゃんってやっぱり大きいのね……!」
「あっ、あんまり見ないで……」
「きゃーっ、そうやってかがむともっと大きく見える!」
(身を縮めることすら許されない世界!?)
 なーんてね、と笑いながら楽しそうにひとりの髪を洗う郁代と、郁代の素肌がときおり触れるたびに心臓が飛び出そうになっているひとり。親切にされている以上逃げるわけにもいかず、ただひたすらされるがままだった。

 くすぐったさに身をよじりながら身体中を泡だらけにされていると、郁代はおもむろにひとりの左手を手に取った。
「……よかった、温かくなってる」
「……?」
「さっきは本当にびっくりしたんだから。ひとりちゃんの大事な手があんなに冷たくなってるなんて……演奏に支障が出ちゃうわよ?」
「ご、ごめんなさい……」
「でも……やっぱりひとりちゃんの指先って、いつ触ってもすごい。私なんて本当にまだまだなんだなって、感心しちゃう」
「……」
 感触を確かめるように、郁代はひとりの指先をぷにぷにと触る。
 先ほど本屋の前でも握られた左手。あたたかなこの家に付くまで、ずっと繋いでくれていた手。
 ひとりはそのシーンを思い起こしながら、右手をぎゅっと太ももの上に置いて、声を出した。
「……あっ、あのっ」
「?」
「ほ、本当に……ありがとうございますっ!!」
 人前で喋ることに慣れておらず、ボリューム調整を誤ってついつい出てしまった大きな声は、浴室という環境のおかげでさらに反響する。
 ひとりはその大きさに自分でもびっくりしてしまったが、それでも構わないと思えるくらいの感謝を、郁代に抱いていた。
「……ひとりちゃん」
「……」
「指、ぷにぷにされるのそんなに好きなの?」
「えっ!? ああいやそうじゃなくてっ、嫌じゃないですけどっ、ありがとうっていうのは今日のこと全部っていうかっ!」
「ふふっ、わかってる。でもいいのよお礼なんて」
「そんなわけには……いかないです」
「実は私ね、ずっとひとりちゃんを家に招待してみたいって思ってたの。今日のことは本当に偶然だったと思うけど、むしろ思わぬ形で夢が叶ってラッキーって感じ♪」
 郁代はそう言いながら、ひとりの身体を包んでいた泡を流した。全身丸洗いの刑からようやく解放されたひとりは、いそいそと浴槽に移って場所を譲る。

「……本当によかった。寄り道して」
 郁代の小さなつぶやきは、ひとりがちゃぽんと浴槽に沈む音にかき消された。

 「明日の朝までには乾くようにしておくから」と、着てきた服をいつのまにかすべて洗濯されていたひとりは、郁代の私服を貸してもらうことになり、着せ替え人形としてさんざん弄ばれた。
 パシャパシャと写真を撮られながら、今日という日の感謝に比べればこれくらい耐えてしかるべきと何とかふんばっていたひとりだが、その後に開かれた夕餉の席では喜多家の全力のおもてなしを受け、「郁代がいつも話していたひとりちゃん」に興味津々なご家族による質問攻めに合い、最終的には喜多家の面々によるリクエストを受けて「もうどうにでもなれ」とヤケになりながらギター演奏まで披露してしまい、アットホームな拍手喝采を浴びた。
 上手く演奏できたかどうかもまったく記憶にないまま、この家で唯一の避難場所である郁代の部屋に逃げ込み、その隅にへたりこむ。凍死よりはマシ、凍死よりはマシと自分に言い聞かせ、深呼吸しながら緊張で縮み上がっていた心を少しずつ落ち着かせる。

 郁代に借りた充電器に繋いでおいた自分のスマートフォンを手に取る。いつの間にかすっかりフル充電されており、親からのメッセージも入っていた。
 ふたりの熱が一旦落ち着いて今は眠っていること、そして自分がちゃんと宿泊先にありつけたかを心配する文面を、ゆっくりとスクロールする。様々なイベントが短時間で一気に押し寄せ、ここ最近でもっとも目まぐるしく一日が過ぎていった気がするが、振り返ってみればある意味一番理想的な展開だったとも言える。少なくとも、親に対していい報告ができるのは確かだ。
 単純に、自分がこういったもてなしに慣れていないだけ、喜多家の圧倒的な「陽」のオーラに慣れていないだけであり、郁代の家族は本当に良い人たちだった。

 親に送るメッセージを打っていると部屋のドアが開き、両手に敷布団を抱えた郁代がのそのそと入ってきた。ひとりは慌てて立ち上がり、郁代のベッドのすぐ隣に敷くのを手伝う。
「ごめんなさいね、ひとりちゃん」
「へっ……? なにがですか」
「ひとりちゃんがああいうことに慣れてないの、わかってたんだけど……ちょっと私でもびっくりするくらい今日は盛り上がっちゃってたというか、勢いを止められなくて」
「いっ、いえいえ全然っ。喜多ちゃんのご家族みんな、ほんといい人たちでっ」
「あ、ちなみになんだけど、今日はベッドと布団どっちがいい? 私が布団でひとりちゃんがベッドでも……」
「ふっふとんで! ふとんでお願いします!」
「ええ~、遠慮しなくてもいいのに♪」
「ふとんがいいです! ふとんが好きなんです!」
 どこまでも自分をもてなそうとしてくれる郁代にぺこぺこと頭を下げる。郁代の可愛い服に身を包んでいるだけでもドキドキが抑えられないのに、ベッドにまで入ったら翌朝まで完徹してしまうことは必至である。
「もっと遊びたいのはやまやまなんだけど、もう結構遅い時間になっちゃったし、ひとりちゃんも疲れてるだろうし……今日のところはおとなしく寝ましょうか」
「は、はいっ!」
「あははっ、嬉しそう。ひとりちゃんほんと顔に出ちゃうのね」
「……す、すみません」
「いいのいいの。さすがに今日は私も眠いし。明日も普通に学校だしね」
 今日が平日であることが未だに信じられない。これまで自堕落に過ごしてきた週末をいくつかけ合わせれば今日という日の充実度に勝てるだろうか。

 少しひんやりとする布団に身体をすべりこませ、頭まで毛布を持ち上げる。柔らかくて軽くて、どこか落ち着く匂いがする。すっと目を閉じると、ようやく張りつめていた身体が少しずつほぐれていく気がした。
「電気もう消す?」
「あっ、はい」
 ぱちりと明かりが落とされ、その暗さに安心感をおぼえる。ひとりを踏まないように気を付けながら、郁代はそろそろと自分のベッドに辿り着く。もそもそと布団の上を歩く音、ぱふっとベッドに倒れる音。ひとりは毛布から少しだけ顔を出して、郁代の方をちらっと見てから、また顔を覆った。まだ闇に慣れていない目は表情までとらえることはできないが、そのシルエットを見るだけでも、なんだかほほえましい気持ちになった。
(友達のおうちに、お泊まり……)
 心の中でずっと憧れていたイベントのひとつが叶ったことを、今更ながらに実感する。
 このまま眠って、朝になったら、郁代と一緒に登校できる。自分の家から遠く離れた高校を選んだひとりは、こんな出来事を迎えられる日が来るとは微塵も思っていなかった。
 だんだんと布団に自分の体温がこもりはじめ、温かくなっていく。縮こまっていた身体が、徐々に徐々に伸びていく。緊張で眠れるか心配だったが、想像以上に早くリラックスできていた。このぶんなら寝不足になることもないだろう。

「……」
 目を閉じながら耳を澄まし、郁代の気配を探る。まだ眠りに落ちてはいないだろうが、衣擦れの音がもぞりとも聞こえてこないのが少し不思議だった。ベッドに倒れこんだ体勢のまま完全に寝落ちしてしまったのだろうか。

 郁代がどんな寝顔をするのか、少しだけ見てみたい。ひとりは顔まで覆った毛布に手をかけ、少しだけまくって郁代の方を見てみた。
「……えっ」

「あ、ごめんなさい」
「なっ、ななななんでこっち見てるんですか……」
「いや……ひとりちゃんが、私の部屋にいるんだなーと思って」
「えぇぇ……?」
 ひとりが目を開けると、郁代はベッドの上にちんまりと座っていて、大きな目がベッドの上からじっとこちらを見下ろしていた。
 どうやら物音ひとつ立てずにずっとこちらを眺めていたらしい。恥ずかしくなって慌てて毛布の中に隠れると、「それじゃ寝づらくない?」と毛布をめくられてしまった。
 いたずらっぽく笑った郁代は大きな伸びをして寝転がり、ひとりと目が合うよう、ベッドのへりの部分ぎりぎりに横になる。ひとりも少し恥ずかしかったが、顔をそむけずにじっとこらえた。

「今日は楽しかったなぁ……ありがとね、ひとりちゃん」
「いえ、助けてもらったのはこっちですから……」
「……本当によかった。今日たまたま本屋さんに寄ってて」
「……ありがとうございます、ほんとに……」
「ふふっ、いえいえ」
 ぽつぽつと交わす言葉の合間に、沈黙が流れる。けれど、いつものような気まずい沈黙ではなく、心地いい静寂のようにひとりには感じられた。
 こんな風に落ち着いて郁代と言葉を交わしたのも、はじめてかもしれない。

「今日の練習……本当にごめんなさいね」
「えっ」
「もうすぐ本番だっていうのに……みんなの足引っ張っちゃって……」
「いや、喜多ちゃんが悪いわけじゃあ……!」
「ううん、自分でも納得いってないの。ギターも歌も……本当にまだまだだなって感じる、最近」
「……」
 今日のスタジオ練習がうまくいかなかったのは事実だが、決して郁代だけのせいではないとひとりは感じていた。現に自分にも課題はたくさんある。郁代がこうも真剣に思い詰めているとは思わず、少し申し訳ない気持ちになった。
「スランプともちょっと違うっていうか……確かに昔に比べたらいろんなことができるようになったけど、ほかの人たちと比べたら、自分の実力なんてまだまだ全然低いところにあるんだなって……痛感してるの」
「それは……私も同じ、です……」
「でもこれって、一生懸命練習してるだけで乗り越えられる壁なのかしら……」
「……」
「……ひとりちゃん、伊地知先輩、リョウ先輩。結束バンドのためにできることなら何でもしたい。でも、何をすればいいかわからない……」
(喜多ちゃん……)
 額に手の甲をあてて、ぽつぽつとつぶやく郁代。
 ひとりも同じ悩みを抱えることは今まで何度もあった。けれど郁代に比べてあまりにも不器用な自分は、うまい解決策を見出すこともできず、ただひたすらに練習を重ねることしかできなかった。
 何か言葉をかけてあげたいが、何も出てこない。

「ギターはね、ひとりちゃんに見てもらって、どんどんよくなってきてるとは思う……でも歌の方がいまいちで……」
「そんな……喜多ちゃん、本当に上手いなって思いますけど……」
「……」
 郁代は不意にベッドの上から手を伸ばし、ひとりの髪にさらさらと触れた。
 軽率なスキンシップに驚くひとりだったが、少し嬉しいような気持ちもあり、されるがままに髪を撫でられた。

「……今日本屋に寄ったのもね、実はそのあたりの迷いを払拭できるかなって思ってのことだったの」
「そういえば……どんな本を買ったんですか?」
「ううん……結局見つからなかった。たぶん古い本なのよね。新書ばかりの本屋さんにはないみたい」
「タイトルは……?」
 郁代が一呼吸おいて、そっと呟く。
「!」
 そのタイトルは……ひとりが数年前に学校の図書室で読んで感銘を受けた、古い小説の名前だった。

「実はね、リョウ先輩に聞いたの。ひとりちゃん、その本から得たインスピレーションを大事にして、今度の曲の歌詞を考えたんだよって」
「……!」
 その話は、リョウ以外の誰にもしていない。
 しかもそれも、会話の中でぽろっとこぼしたような、ほんの些細な話だ。
 作り上げた歌詞をリョウにじっと読み込まれるのが気恥ずかしくて、言い訳がましく話したエピソード。
 まじめに聞かれているとは思わなかったが、リョウはその言葉をちゃんと受け止めていて、そして郁代はその言葉を聞いて、少しでも歌唱のヒントになればと本屋に探しに行っていたのだ。
 こんな事実、全然知らなかった。
 今日こんな出来事が起こらなければ……あのときふらふらと本屋の前を通らなければ、一生知らずにいたのかもしれない。
 みんなが結束バンドに懸ける想いの強さに改めて気づき、ひとりは毛布をぎゅっと握り締めた。

「その本を読めば、もっと歌詞に想いを乗せられるんじゃないかって思ったんだけど……また今度探しに行かなきゃね」
「……わ、私も探しますっ……久しぶりに読みたいし……」
 指先をくるくると動かして、ひとりの髪をからめて遊ぶ郁代。
 身体に伝わるわずかな感触が、郁代の優しい声が、無性に愛おしく思えた。

「ひとりちゃんが書く歌詞ね……」
(えっ……ダメ出しされる!?)
「ああ、ごめんなさい。けなすつもりじゃないの。本当にいいなって思うけど……」
「ほっ……」
「でも……私はひとりちゃんの想いとか伝えたいメッセージとか、ちゃんと聞いてくれる人に届けられてるのかなぁって……」
「……」
「ひとりちゃんの歌詞に、感情が載せきれていないんじゃないかって……最近すごく不安なの……」
 いつになく弱気な声で、悩みを打ち明ける郁代。
 郁代のこんな声を、ひとりははじめて聞いた。

「私とひとりちゃんって、やっぱり性格とか……違うでしょ。それは仕方ないことだと思うし、みんながみんな似た者同士である必要はないと思う……でも、ひとりちゃんが必死に考え出した歌詞を、何も考えずに歌っちゃう私って、なんなんだろうって……」
「喜多ちゃん……」
「歌詞が暗いって言われることもあるけど、それは大事な個性だと思う。リョウ先輩も、『誰かには深く刺さるんじゃないかな』っていつも言ってるし……でも、まずは私に刺さらなきゃ! 私の心に沁みて、私が本当に心から共感してなきゃ……誰の心にも響かない気がして……」
「……」
「ひとりちゃんが一生懸命考えた、ひとりちゃんの想いがたくさん詰まった、宝石みたいな歌詞だもの……届ける私がしっかりしなきゃ……」
 気づけばひとりは、郁代の手を握っていた。
 あの本屋の前で温めてくれた手。今日は何かとつなぎっぱなしの手。
 今はどちらかといえば、郁代の方が自分よりも冷たい気がする。
「ひとりちゃん……」
「……」
 郁代の悩みを解決する術は、すぐには思い浮かばない。
 けれど、少しでもその不安を解消してあげたかった。

「私……ひとりちゃんの気持ち、もっとわかりたい」
「……」
「ひとりちゃんがどんなことを考えてるのか……どんなことを思いながら生きてるのか……ちゃんと理解したい」
(喜多ちゃん……)
「本当に、一日だけでもいいから、ひとりちゃんと入れ替われたらいいのにね」
「……そう、ですね」
 郁代の指が、ひとりの指に絡まる。
 恋人同士のように、ぴったりと重ね合わせられる。
 どき、どきと、高鳴る鼓動を感じるひとり。
 こちらがその手を少し握れば、向こうも少しだけ握り返してくれる。
 緊張しているけれど、そんなやり取りが、どこか心地よくて。
 こんなことは、生まれてはじめてで。

「……どうすれば、いいんでしょう」
「……」
「自分の気持ちを伝えるのって……どうすればいいんでしょうね。すみません、私、そういうの全然わからなくて……」
「……手を繋ぐだけで分かり合えるようになったら、簡単なのにね」
「ほんと、ですね」
 ひとりは、お風呂でされたときのように、郁代の指先をぷにぷにと触って確かめた。
 前よりも固くなっている。一生懸命練習している証拠だ。
 その皮膚の感触をすりすりと触って確かめながら、一生懸命心の中で思った。
(……大丈夫です。喜多ちゃんは、本当に努力家で……がんばりやさんですから……)
 今はうまくいかないことがあったとしても、きっといつか、全部がうまくいくようになる。だから大丈夫。
 そんな気持ちすら、伝わってくれないのだろうか。

 ひとりが黙ってぷにぷにし続けていると、驚くべきことが起こった。
「手だけじゃ……だめかな」
「?」
「えい」
「ぐえっ!」
 ただひたすらぷにぷにされ続けていた郁代は、するっと手をひっこめたかと思うと、ベッドから転がり落ちるようにして、布団で寝ているひとりの上にばふっと覆い被さった。
「ちょちょちょ、喜多ちゃん!?」
「ん~……このあたりかしら」
 毛布をめくって中に入り、溺れるようにあたふたしているひとりを抱き込む郁代。
 どうやら心臓と心臓を密着させたいらしく、もぞもぞと位置を確かめている。
 しばらくすると納得のいく位置が見つかったのか、ひとりを抱きしめる体制のまま動かなくなった。
(あっ、あわわゎゎ……)
 突然の事態に動揺しすぎて、急激に胸が高鳴るひとり。そんな鼓動までもがダイレクトに郁代へと伝わってしまい、恥ずかしさでさらに加速していく。

「こうしてれば……伝わらないかな」
「えっ……」
「こうして……心と心をくっつけていれば……ひとりちゃんの気持ちが私に伝わって……私の気持ちがひとりちゃんにも伝わって……一緒になれないかな」
「……」

 郁代の髪の香りが、ふわっとくすぐる。
 郁代の身体の熱さ、重さ、柔らかさを全身で感じる。
 飛び出しそうな心臓が奏でるとくん、とくんという音だけが、二人を包む。

「そういえば……人間の心って、どこにあるのかしらね」
「ええと……どこでしょう」
「心臓が心なの……? でも、物事を考えたりするのは頭だから……脳の中?」
 そう言って郁代は、ひとりの額に自分のおでこをくっつける。
 ひとりはぎゅっと目をつむり、息を止めてぷるぷると震えた。
 こんなの、恥ずかしすぎる。

「むっ、胸だと思いますっ、脳じゃないです」
「やっぱりそうかしら」
「そうですよっ」
「そうね……ひとりちゃんのこと考えてると、胸がきゅっとなるときがあるから……やっぱり胸かしらね」
 郁代はまた一段と深くひとりの身体に密着し、胸と胸を重ね合わせた。
 なんだか、お風呂にいるときの何倍も熱い気がする。

「……」
「……」
 何を言えばいいかわからない。
 いくら言葉を探しても見つからない。
 でも、郁代に伝えたい気持ちは、いっぱいいっぱいある。
 感謝も、好意も、尊敬も、信頼も。溢れるほどに。

(……伝わってほしい)
「!」
 強く強く願ううち、ひとりも自然と郁代の背中に手を回し、きゅっと抱き寄せていた。
 胸の鼓動は恥ずかしいくらいにうるさいけど、郁代の心に少しでも自分の気持ちが通じるなら、構わない。

 郁代がもぞりと動くたび、くすぐったさで声が漏れる。
 毛布の中に二人分の体温がこもり、肌がじっとりと汗ばんでしまう。
 温かすぎて、幸せすぎて、このまま溶けてしまうんじゃないかと思うほどに、あつい。
 それでもひとりは恥ずかしがらずに、一生懸命に郁代を抱きしめ続けた。
 通じますように、伝わりますようにと、心から祈りながら。

「……あ、あの……伝わりましたかね」
「……んー、まだみたい」
「えぇぇ……」
「もっと強く抱きしめてくれたら、いけるかも」
「……ぅぅ」
 目をぎゅっとつむって、さらに深く抱きしめるひとり。
 郁代はひとりの髪をくしゃりと指に絡ませ、首筋に顔を埋めた。
(……ありがとう)
 恥ずかしさで何も考えられないのか、ぷるぷると小さく震えるひとりの頬に、郁代はそっと口を寄せた。

――――――
――――
――

 あの夜の、それから先のことを、ひとりはあまり覚えていない。
 抱き合うような格好のまま眠りに落ち、気付いたら朝になっていて、でも二人分の暖かさに包まれていたおかげか、二人ともまったく目覚める気配がなかったと、郁代の母親にあとで言われた。
 結局遅刻ギリギリの時間に家を出ることになってしまい、二人きりでの登校というイベントも慌ただしく終わってしまった。
 いつも通りの学校。いつも通りの授業。
 しかし、郁代との距離はものすごく縮まった気がしていて、それだけで学校が少しだけ楽しいと思えるほどだった。
 ふたりも結局陰性だったそうで、翌日からはきちんと家に帰ることができた。
 なんとか無事に、本番を迎えられそうだ。

「あれー!? なんか今日の演奏、前よりもすっごいよくなってる気がするんだけど気のせい!?」
 本番前最後のスタジオ練習、一回目の合わせを終え、虹夏は嬉しそうにはしゃいだ。
「郁代、なんか歌い方変わった。前よりもいいと思う。ぼっちもちょっと変わったかも」
「本当ですか!?」
 リョウにもそう評され、郁代は頬を上気させて喜んだ。ひとりもその様子を微笑ましく見つめる。
「よかったね、ひとりちゃん♪」
「……はい」
 たくさんお話して、たくさん触れ合って、一緒に眠って。
 あれから少しは、気持ちが通じ合うようになったのだろうか。
 郁代が自分に納得のいく歌唱ができるようになったのなら、何でもいいか。
 あの夜ずっと撫でられ続けた髪を指先でくるくるといじりながら、ひとりは静かにそう思った。

「すごいじゃん喜多ちゃん~! なんか今日は情感こもってるっていうか、いつもの何倍も心にくるものがあったよ! 何度も練習している曲なのにびっくり!」
「そうですか~?」
「うんうんっ、もしかして何かあったの?」
「!」
「前よりも明らかに何かが違う気がするんだよね~。ひょっとして誰かに恋しちゃったとか!?」
「なっ、ななな……なんにもしてないですよ!?」
「……え?」
 虹夏のさりげない質問を受け、郁代ではなくひとりが、ついつい反射的にそう答えてしまった。
 ぴしっと場の空気が凍り、気まずい沈黙が流れる。

「えっ……喜多ちゃんに聞いたんだけど、なんでぼっちっちゃんが答えるの……?」
「えっ、あぁいや、その」
「えっ嘘……もしかして……喜多ちゃんとぼっちちゃん、なんかしたの!?」
「ああぁいや違くて、あの夜はそういうのじゃなくてっ」
「あの夜ってなに!? なんで赤くなるの!? まさか本当にそういうことしちゃったの!?」
「あわわ、うぁぁっ」
 虹夏の質問責めに圧倒されるひとり。
 郁代の方に視線を向けて助けを求めても、ただ微笑み返されるだけだった。

「ちょっと待って今日練習どころじゃない! 気になることが多すぎる! とりあえずその『あの夜』の話、おねーさんに聞かせてみ!?」
「落ち着いて。バンドマンにただれた関係はつきもの」
「いやいや、メンバー同士がただれた関係になっちゃうのって一番解散とかに繋がるやつでしょー!」
 リョウの言葉を受け、さらに錯乱する虹夏。そしてひたすら慌てふためくひとり。
 郁代は微笑みながら胸に手を当てて、あのときの温度を思い出していた。


~fin~

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