SS「半透明な恋をした」 (247)

 人は誰しも、思い出を抱えて生きている。
 
 一分一秒と命を燃やし続ける限り、側頭葉には続々と長期記憶が蓄積される。その際受け取った印象が鮮烈であればあるほど、記憶は顕在意識として深く刻み込まれる。
思い出の在庫というものは、各個人によって多い少ないの差はあれども、長い道のりを征く中で一方的に増え続けていくことになる。
 
 思い出の抱え方は人それぞれだ。
 
 地にめり込むほどに思い出を引き摺り回す人もいれば、スノーボードみたく軽々と思い出を乗り回す人もいる。そこには正解も不正解もない。正義に明確な答えがないことと同じなのだろう。
 
『われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。』
 近世に名を上げた作家の一人であるジャン・パウルは、ある著書にこのような言葉を残した。
 それはある側面では正しいことだし、もう一方の側面では酷く間違ったことだ、と僕は強く思う。
 確かに、僕達は不意に立ち止まって、生き抜く中で必死にかき集めた思い出に浸り、ひと時の慰めを得ることはある。それはまさしく、誰にも干渉されず、また好きなだけ
引き籠っていられる素敵な憩いの場であると言えよう。その意味で思い出が楽園であることに疑いはないし、人が生きる上で、最後の絶対的な拠り所として思い出が君臨することにも異論はない。
 だが別方向から眺めてみると、こうも考えられはしないだろうか。
 
 もし、楽園の中に毒林檎が混ざっていたら?と。
 
 楽園に長居すれば、人は必ず腹を空かせてしまう。これ幸いとよく熟れた林檎をもぎ取り、大きな口で瑞々しいそれを齧る。その瞬間、楽園で味わうはずのない苦痛の味が舌先に広がり、
辛抱堪らず顔を歪めてしまう。こんなものは食えたものじゃないと吐き出さずにはいられない。だがそれでは腹の虫は収まらない。そいつを宥めるために仕方なく、僕らはそこを発って食料を探しに行くことになる。
 畢竟、他でもない自らが己を追いやる羽目になるのだ。
 他の誰かに邪魔されることはないが、楽園であったはずの空間から逃げ出すのは自分自身である。それでも楽園で過ごした束の間の安楽は忘れられない。痛い目を見ると解ったうえで、僕らはまたそこに戻ってきてしまう。
 要するに、思い出というものは酷く不合理な両面的存在だということだ。
 もちろん、その霧の如く不確かで掴みようのないものをどのように捉えるかはその人次第だ。あくまでも僕はこう考えると言うだけの話だ。

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 この世界に生を授かって二十年と少し、僕も多くの例に漏れず、山のように思い出を連れ歩いていた。ふと足を止め、振り返りその一つ一つを眺めてみる。
 しかし、その大部分は一度も思い起こされることのなかった記憶たちだ。彼らは最早脳の検索が上手く行かないほどに重く埃を被っていた。
 そんな腐るほどある灰被りの思い出の中に、一つ、宝石のようにきれいに磨き上げられた思い出が目に映る。改めて手に取ってみると、それは異様なほどに光り輝いていた。ともすれば限界以上に丁寧に磨き上げたせいか、もう元の輪郭が捉えられないようにも見えた。
 しかしそれは、この思い出だけが何度となく楽園として機能したゆるぎない間接証拠とも言える。結局のところ、記憶に難色を示す僕もまた、所詮は立派な思い出廃人の一人だった。その果てに待ち受ける結末は必ずこの胸奥を切り裂くことになる。だのに性懲りもなく刹那的な快楽に身を浸してしまう。僕はそういう人間なのだ。

 少し、集中力が切れてしまっただろうか。ジャン・パウル作 『目に見えぬ会話』の一節を読み終えると、僕は何気なく窓枠の向こうへ目をやった。
 真昼の衛星都市は右から左へと早々に流れていく。僕は何を見るでもなく、茫然とその街並みを眺めていた。列車は単調な律動で上下に揺れている。揺動に合わせて、風鈴が軽やかに音を響かせる。
 その穏やかなメトロノームが、自然な流れで僕を遠くの日々へ運びゆく。先程拾い上げた思い出が忘れられず、僕はまた輝きの中を覗き込もうとするのだ。
 楽園の誘惑に抗えないことは重々承知していた。大人しく手元の古い書物を閉ざすと、僕は回送列車みたいに頭を空っぽにして、かつての回想に身を投じた。
 
 今から僕が逃げ込む一生の楽園は、十一歳から十二歳までの約一年間だ。
 
 始まりは、湿っぽい夏のある日だった。

♦♦♦


 名も知れぬ雑草を踏みしめ、左手でひび割れた樹皮を力強く掴む。片脚で力いっぱい踏ん張り、やっとのことで急勾配を登り切る。大きく息を吐き出す。それからすぐ空気を吸い込み、足りない酸素を補う。額から零れる汗が目に入らぬよう袖で拭った。
 苦労して登り詰めた上り坂の先には、しかし特別な景色が広がっているわけではない。これまでと変わらない雑多な緑が生え広がっているだけであった。それでも、労力を掛けた分だけ見える世界は美しく見える。眼前に広がる光景を独り占めしようとするも、視界の端には先客が一人、僕の姿を認めていた。
 一足早くゴールに到達した褐色の少年に向けて、僕は牽制するように軽く睨みを利かせた。
 
 「今日も俺の勝ちだな」自慢げな面持ちで彼は言った。
 「…うるさいな、日向」「たったの三秒差じゃないか。そんなので僕に勝った気でいるのか」僕は言い訳がましく言葉を返した。
 日向、と呼ばれた色黒の少年は、僕が幼少期から仲良くやって来ている友達の一人だった。僕よりも頭一つ分背が高くて、肩幅も大きい。子供ながら体格に優れた奴だった。勉強はてんで駄目だったが、そんなものは当時の僕らに必要とされているものではなかった。
 
 「なんだよ、負け惜しみか?」僕の意図を読み取ったらしい日向は、今度は憎たらしい笑顔で言った。
 図星を突かれた僕も僕で、何か言ってやらないと気が済まなくなる。だが口を動かそうとした直前になって、今度は隣から二つ分の声が聞こえてきた。
 
 「こっちからしたら、二人共充分速いんだけどな」「明日はお前が勝つんじゃねーの?」
 
 遅れて到着した二人が、息を切らしながらそう言ってくれる。その言葉に一旦の納得を覚えた僕は、くだらない口論を切り上げることにした。この四人の面子で障害物競走の真似事をするのが、最近僕らの間で流行っている遊びだった。
 草木は四方八方無秩序に生い茂り、厚い緑に遮られた陽光は不規則な形で大地を照らしている。樹木は蟻たちの移動路になっていて、蝉は至る所から音波攻撃を仕掛けていた。一度この状況を体験すれば、街に戻った時には音の失われた世界に突入したかに思えてしまうものだ。

 「じゃ、そろそろ戻ろうぜ」
 
 飽きるほどの緑と土色の世界を眺め終えると、日向が肩を回しながら言った。僕ら三人もそれに同調し、今度は木々を足場として活用しながら急傾斜を下っていった。
 来たときは汚れ一つなかった衣類は土で台無しになって、或いは枝に引っ掛けて破れてしまったりと、帰る頃には大目玉な状態と化していた。でもそれはいつものことだから、母さんも何も言わずにいてくれるだろう。
 噂に聞くと、都会の子供たちは公園やテーマパークなんて場所でよく遊ぶらしい。一方、時代に取り残されつつある山間部の田舎町に生まれた子供にとって、男女隔たりのない一番の遊び場は山だった。
 山には川があって、花が咲いて、木の実が落ちて、生き物が溢れている。その大自然の一つ一つが天然の遊び道具で、性別問わずあらゆる子供たちを魅了しているのだ。かくいう僕も同様に、山の虜になっている少年だったというわけだ。
 平坦な地形の場所まで戻って来ると、そのまま真っ直ぐ進めば森の出口はすぐそこだった。森と田舎の境目で三人と解散すると、僕は家に帰ることなく、皆に悟られないよう気配を消してもう一度森の方へと向かった。
 動機は至って単純だ。次の山登り対決で一等賞を取る為の特訓をしてやろうと思ったわけだ。いつも日向にはあと一歩及ばないのだから、明日こそはあいつを負かしてやりたかったのだ。

 そんな子供らしい対抗心を燃やしながら、早く移動することだけを念頭に僕は奥へ奥へと森を突き進んでいった。毎日のように入り浸っている森林なのだから、多少の土地勘は持っている、などと過信したのが間違いだった。
 もう練習は充分か、と思って後ろを振り返ると、そこはどうにも見覚えのない場所だった。右へ左へと首を振っても、何か記憶に残っている目印が見える訳でもない。目に映るのは、足元に草木が茂り、疎らに雑木が立ち並んでいる光景だけであった。おろおろと変わり映えのない周囲を見回しているうちに、段々とどちらが北で東なのかも分からなくなり始める。そうして方向感覚が失われ、辿って来た道のりさえあやふやになったところで、ようやく背筋には一滴の冷や汗が流れ落ちた。
 
 ──山で迷子になったのだ。
 
 幼いながらもそれを認識するには充分過ぎる要素が揃っていた。こうなってくると、山地という場所の持つ意味合いが一転する。身体を伝う嫌な汗と同じように、心の淵からじわじわと何か畏れのような感情が浮かび上がってくる。
 右へ行こうか左へ行こうか。その場で立ち往生している間にも日は傾き、緑の地面の上で小さな影法師が縦に伸びていった。迷っても仕方がない、と適当に一歩足を進めた時には、見上げる木々の隙間から薄い橙の色が伺えた。
 もう日没までに時間がないと思った。山は上空が林冠で覆われているせいで日照時間が短くなりがちで、実際外はまだ夕方初めであることに、当時の僕が気が付けるはずもなかった。
 一人で山を下りるとなると、途端に途方もない孤独感が襲い来る。誰かが傍に居てくれると心地良く感じる森林は、打って変わって凍てつくような空気を醸し出していた。身体中を外側からも内側からも押さえつけられている気分で、日向の鼻につくような笑顔も今は恋しかった。

 心細い時に限って、蝉しぐれはやけにうるさく聞こえる。しかしその鳴き声は僕を勇気づけることはなく、寧ろ僕こそが世界の異物であると言わんばかりに、彼らは執拗に人間を責め立てていた。
 その爆音が心身の圧迫に拍車をかけた。森の出口を目指す足取りは急激に速まる。心臓は大きく乱れ打ち、呼吸が浅くなっていく。しかしいつまで経っても木々の終わりが見える様子もない。言い表せない恐怖に心が屈し、喉から堪え切れない悲鳴が飛び出す寸前のことだった。
 そこは、一際大きな古木の聳え立っている場所だった。いつもならその偉大な姿を見上げる余裕があったろうが、僕は無視してそこを通り抜けようとした。
 ちょうど大樹から三歩ほど進んだところで、背後から何か物音が聞こえた。
 音の大きさからして、小動物や虫が飛び出したわけではなかった。明らかに大自然の規則から外れた音色を、己の聴覚が鋭く捉えたのだ。
 たったそれだけのことで蒸れた体温が一つ分下がり、僕の身体は金縛りにあったように強張った。足が杭に打ち付けられたように動かない。その間にも動悸は尋常じゃない速度で激しさを増していく。是が非でもこの場から逃げ出すべく、頭の中では緊急サイレンの唸り声が響き渡った。
 とうとう過度に力の伝わった両足が震え、身体は一目散に前へと飛び出そうとした。だが相反するように、背後の謎を確かめるべく頭はそちらに振り返ろうとした。結果、僕は左脚を前に踏み出したまま顔を背後に向けるという、なんとも中途半端な体勢で音の正体を突き止めようとした。
 
 眼球が捉えたのは、全身が黒に染まり切った細長い人型の『何か』だった。

 思考は遠くへ放り投げられた。僕は愕然としたままに地面に映ったそれを凝視していた。
 数秒その状態が続くと、ゆっくりと黒のシルエットがこちらに向かって動き出した。思い出したように顔を上向け、しかし僕はまた固まった。認識した光景が、にわかに信じ難いものだったから。
 そこに居たのは、僕と歳が変わらないであろう少女であった。
 ベージュっぽくもあり白っぽくもあり、いわゆるアイボリーカラーの薄っぺらいワンピースをその少女は身に付けていた。サンダルか草履か、日焼けを知らないように真っ白な肌は素足にまで露出している。肩に掛かるか掛からないかの長さの黒髪は日差しを飲み込むかの如く光沢のある艶やかさを誇っており、つぶらな瞳は大きく丸々としていて、僕は思わず吸い込まれるように両目を見つめてしまった。まるで彼女が世界の中心であるかと言わんばかりだった。
 少女の影が細長く見えたのは、橙色に輝く斜陽のせいばかりではない。背は僕と同じかそれより低いぐらいだが、その柔らかなラインを描く体つきには女性特有の華奢さが秘められていた。その整った小顔にしろ流れる睫毛にしろ、彼女はまさしく、黄金比の体現者であった。
 いま目の前にいる彼女は、一言で言い表すのならば、可憐な少女であった。
 しかし同時に、僕は彼女にある種の違和感を覚えていた。それはまるで地底で星空を眺めるように、薄暗い路地裏で深窓の令嬢と出会うように、この少女には山という空間がまるで似合っていなかったからだ。
 色素が抜け落ちたみたいに透き通った肌をしている清純な少女は、とてもじゃないが森林に入り浸り山を駆け回るような人間には思えなかった。場違いで奇妙で、何処か歯車が一つ分ズレているようで、しかしその全てが彼女のために存在しているような、言わば必然的なシンクロニシティがその場に演出されていた。

 たっぷり数秒の間、僕は黙りこくって少女に視線を送り続けていたわけだが、対して少女もまた、ただでさえ丸っこい目をより一層丸めてこちらを眺め続けていた。
 先に沈黙を破ったのは少女の方であった。ほんのりと桃色に染まった薄い唇が柔らかい動きを見せた。
 
 「どうして君は、こんな場所に居るの?」
 
 周囲にひしめくアブラゼミの鳴き声が、力んだ弓で演奏される擦弦楽器であるとするのならば、こちらは微風に揺られた風鈴の奏でる淡い響きであったとでも言えばよいのだろうか。細く、柔らかく、小さな声量であったが、その声には雑音にかき消されない芯のある張りが感じられた。
 それが単なる音の調べである以上に、少女から発せられた言葉であったということを認識するまでにやや間を必要とした。ようやく脳髄に彼女の言葉を反響させた頃に、僕は反射的に答えていた。
 
 「なんでって、山で遊んでたからだよ」
 
 僕は涼しい顔でうそぶいた。山で迷った、などと正直に答えるのは恥ずかしかったのだ。そんなことは知らずに、僕の答えを聞いた少女はその言葉を咀嚼するように瞳を閉ざし、次いで目を細めた。
 
 「そっかぁ。君にとってこの場所は遊び場なんだ」

「そっちだって、その口だろ?」と今度は僕が何気なく問い掛けた。
 「んー、どうだろうね?」少女はのらりくらりと質問をかわした。彼女は人差し指を立てながら続けざまに言った。
 
 「ね、このあたりから山を下りる近道、君は知ってたりする?」
 
 「いや、知らないな」
 
 今一番欲している情報の手がかりをつかんだ僕は、しかしそれを悟られないよう努めて冷静に言い返した。だがどういう訳だろう。僕が彼女から視線を逸らしているうちに、辺りには鈴を転がすような笑声が木霊した。
 「じゃあ、折角だし教えてあげる」「このまま真っすぐ進んで行ったら、森の切れ目が見えてくるはずだよ」くすくすと上品な笑い声を抑えた彼女はあちらに手を向けた。
 彼女が指差す方角を忘れぬよう目に焼き付け、「ありがとう。助かった」と僕は短く言葉を返した。少女は間を置くことなく「どーいたしまして」と上機嫌に言った。
 脱出経路を確保した今、僕はとにかく山を下りることしか考えていなかった。これ以上得も言われぬ不安感に苛まれるのはごめんだった。電柱でも軽トラでもなんでもいいから、何か人の軌跡を見て些細な安堵を得たかった。

 助言を皮切りに、僕は彼女に背を向けた。そして草地を一歩踏み出したその時だった。
 
 「あっ」
 
 後方六メートルあたりから、先程の良く澄んだ声が響いた。後ろ髪を引かれるように振り返ると、少女は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
 
 「えっと、君は山でよく遊ぶんだよね?」

 僕がその言葉にすぐ首肯すると、「じゃあ、明日もこの場所に来てくれるの?」と彼女は興味深そうにまた尋ねた。
 しかし、今度は二つ返事とはいかなかった。闇雲に山を駆け巡った挙句辿り着いたこの場所に、明日もやって来れるのかと問われると、無責任な約束は出来なかった。
 
 「どうかな。それは分からないけど…」
 
 それ故、僕は曖昧な返事をした。途端、少女の表情が僅かに曇ったのを僕は見逃さなかった。なるほど、彼女は山で一緒に遊んでくれる友達がいないのか。だからこんなところに一人でいるんだ。と勝手に納得した僕は「そっちも来るのか?」と試しに尋ね返した。
 少女は気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「うん、そんな感じ。だから良かったら、明日も会えないかなー、って」
 頬を掻く彼女を眺め、同情心六割、恩返し二割と善意一割、そして残りの一割を合算した結果、僕は浅いため息を吐き出した。
 
 「分かった、約束するよ」

 了承を受けた少女は、太陽が雲の切れ目から覗いたみたいに表情を輝かせた。その単純な様子を前に、僕は思わず相好を崩していた。緊迫していた神経が僅かに緩み、残りの道中を恐れる微かな気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。「本当!?楽しみにしてるね!じゃ、また明日!」彼女は僕に向けて無邪気に手を振る。同じように手を振り返し、僕は彼女の指差した先を歩いた。
 緩やかな山道を下っていくと、やがて森の端が伺えた。その先には懐かしい灰色のアスファルトが垣間見え、それを目にした瞬間、我慢ならなかった僕は飛ぶようにように出口に駆けて行った。
 茂った植物を身体ごと突き抜けると、なだらかなカーブの坂道が僕を待ち受けていた。車体で何度も擦られたガードレールは傷だらけになっており、くすんだカーブミラーが西日を反射していた。
 やっとのことで人間様がのさばる世界に戻って来たのだ。見慣れた人工物を拝むや否や、身体は一気に脱力した。思わずその場で膝をつきそうになったが、僕はそれを堪えてゆっくりと坂道を下り始めた。
 折角山から抜け出せたのに、そこはまた見知らぬ土地だった、などと言うことは起きまい。そのまま道に沿って慣れ親しんだ農道を通り抜けると、僕はまもなく帰路へと着いた。

 暗く閉ざした瞼の向こうで、眩い朝日が差し込んでいる気がした。眠っているとも起きているともつかない、不明瞭ないつもの寝覚めだ。身体に先立って意識だけが覚醒の手順を辿り始める。身体がそれに追いつくように何度か寝返りを繰り返した。ようやく神経系が起床を把握したところで、僕はゆっくりと寝床で目覚めた。
 薄い掛布団を払い除け、蒸れた両足で藺草を踏む。窓に向かって身体をほぐしながら、ぼうっと外の世界の様子を確かめる。
 照りつける白い太陽、眼下に広がる青い畑、遠い蝉の声。今日も今日とて、世界は青空に覆われている。
 それらを形式的に認識すると、僕は目を擦りながら洗面所に向かった。ぬるい水で顔を濡らし、程よい爽やかさを感じる。床鳴りが激しい階段を降りると、風に運ばれた香ばしさが胃袋を刺激した。
 
 「おはよう。ちゃっちゃと食べちゃって」

 匂いに惹かれて居間に辿り着くと、こちらに気が付いた母さんが僕に挨拶を投げ掛けた。もう化粧は完璧に済ませているようで、今は朝の準備に追われているようだ。
 一方急ぐ必要のない僕は同じような言葉を返し、食卓にて合掌。天気予報を横目に朝食を食べ進めていくと、徐々に頭が糖分を取り込んでいった。

 ふと昨日のことを思い出した。というのは、今日はあの少女と遊ぶ約束を交わしたことだ。と同時に、その約束に一つの重大な欠点を発見する。僕は彼女と待ち合わせる時間を決め忘れていたのだ。
 一見なんともなさそうに思えることだが、これは深刻な問題だ。いつもの面子で集まるのならば身内での不文律が通用する一方で、昨日であったばかりの少女とはそうもいくまい。メモに残すなどの成文律が必要とまでは言わないが、何かしらの口約束はしておくべきだったろう。幸い集合場所は判明しているが、遊ぶ時間が分からなければ、それだけですれ違いの生じる恐れがあるのだ。
 とは言ったものの、では昨日と同じ時間に向かったとして、あれでは日暮れ前で遊ぶ時間が皆無であることは簡単に想像のつくことだ。となると、朝ご飯を食べたらすぐに向かうべきだろうか?いや普通に考えて、お昼頃からなのだろうか?
 
 「食欲ないの?」
 
 形式的な確認の声掛けが、僕を思考の海から釣り上げた。どうやらすっかり箸が止まっていたらしい。時間のない母さんに急かされ、僕は慌てて汁ものを飲み干した。

 

 連日晴天が続いており、お天道さまは今日も遮蔽物のない田圃道をこれでもかと照らし出している。数歩足を進めるごとに、路肩の小さな茂みから蛙が飛び退いた。干乾びないよう水田に逃げ込んだ彼らは、残念ながらそこに安息を見出すことはできない。白鷺にとって格好の獲物になることだろう。
 あれから少し経った今、僕は昨日辿った細い農道をたどたどしく逆行していた。当然その理由は、彼女との約束を守る為だった。
 色々と考えた結果、お昼過ぎというのが一番無難ではないかという結論に落ち着いた。もちろん、遊ぶ時間を示し合わせることを忘れた以上、彼女との約束をなかったことにしてしまうという選択肢もあるにはあった。日向達との遊びであれば、そうする可能性も大いにあり得ただろう。
 だが、昨日の独りぼっちな少女の様子を見た身としては、そういう訳にもいかなかった。ようやく一緒に遊べる人が見つかったというのに、期待のその人にまで無視されるなんてことがあれば、いくらなんでもあの少女が可哀想ではないか。誰かを傷付けると解っている上でその行動を選べるほどに、僕は温かくない人間ではないのだ。

 森の入り口に辿り着いた頃には、シャツはびっしりと汗を吸っていた。太陽熱を直に受ける頭は暑くて敵わない。帽子でも持ってこれば良かった、と思いつつも僕は木陰の多い山に忍び込んだ。
 自然のさざめきに包まれながら、妙に覚え易かった山道を登っていく。案外迷うことなく突き進んでいくと、目印の大樹が伺えた。昨日の見間違えだったというわけではないらしい。それは周囲の木々と比べても一段と背が高く、両手を広げても到底抱えられないような太さの幹を持った巨木だった。
 しかし、そこに肝心の少女の姿は見えなかった。場所を間違えたとは思えないし、大方彼女は来なかったという結果なのだろう。少しも残念でなかったと言えば噓になるが、その事実に特段何を思うこともなく、僕は踵を返そうとした。

 「あっ、来てくれたんだ」

 何処からともなく澄んだ声が聞こえてきたかと思ったら、大樹の裏から小さな影が飛び出した。昨日と同じ白いワンピースを身に着けた彼女は手振りを交えながら挨拶すると、昨日と変わらない様子でこちらに笑い掛けてくれた。彼女も今し方来たところなのか、或いは過剰な灼熱から逃れるために古木の日陰で休んでいたのかもしれない。

 「こっちだよ」と手招きされた僕は、彼女と同じように木陰の恩恵に預かった。少女は僕のすぐ隣で幹に背を預け、当たり障りのない会話を切り出した。
 
 「随分早かったね~」

 「…まぁ、遊ぶ時間がなくなったらあれだしさ」

 その旧友に喋り掛けるような軽い調子を前に、僕は少々言葉に詰まってしまった。目の焦点をあちらこちらに動かしながら、頭を掻いて言葉を返す羽目になった。
 何も自慢できるようなことではないが、僕には特別仲の良い女の子はいない。普段行動を共にしている日向達が女子の大グループと対立しているものだから、当然のように僕も彼女らと親身にする機会がないのだ。
 だから客観的なことを言えるわけではないし、これは僕の気にし過ぎなのかもしれない。しかしそれを加味しても彼女は物理的にも精神的にも距離が近いと言うか、だがまぁ、一緒に遊ぶ約束をした手前もう友達みたいなものなのかもしれない。
 適当な所でそれを割り切った、若しくは自己解決したことにした僕は、そこからは目の前の彼女が日向達であるように振舞った。

 「そんじゃ、今から何して遊ぶんだ?」

 第一声とは打って変わって、僕が少女の目を見てハキハキと問い掛けた。対して彼女は入れ替わるように視線を下向け、「ん~…ん~…」と悩ましそうな唸り声を上げた。それを十数秒続けた後になって、彼女はようやくこちらに目を向けた。

 「君はいつも、何して遊んでるの?」

 もしかしたら、彼女もこういう場所で男の子と遊ぶのは初めてなのかもしれないな。質問返しをされた僕は少女に一種の共感を得つつも、何気ない日々の記憶を辿った。

 「僕、か。そうだな…僕は普段、虫を捕まえに行ったり、何気なく山の中を巡ったり…後は、最近だと山登りの勝負とか──」
 
 「それ!それにしようよ!」
 
 日向達との下らない時間を言葉にしていると、突如として彼女が大きな声をあげた。僕はびっくりして口を閉ざした。僅かな沈黙が訪れると、少女はそれがさも不思議でならなそうに首を傾げた。
 
 「虫取り?」

 恐らく、少女はこちらの言葉を待っている。それに気が付いた僕がそう訊ねると、彼女は小さく首を横に振った。女子は虫が苦手な子も多い。そんな固定観念に僕は落ち着いた。

 「…山巡り?」
 
 二度目の問い掛けに対して、彼女はまたも首を横に振った。十中八九で彼女がここで頷き、これから適当に散策することになるだろうと思っていた僕は当てが外れたことに驚いた。

 「……山登り対決?」

 「うん!競争しよーよ!」

 よもや有り得ないだろうと思っていた第三の選択肢を、僕は半信半疑でゆっくりと訊ねた。彼女は清々しいまでの笑顔で首肯した。
 まず己の耳を疑った。次いで言語を解釈した脳内を隈なく検査した。そのどちらもに異常が無いことを確かめた上で、最後に少女へと疑心を向けた。疑念の視線をぶつけられた彼女は、何故だか申し訳なさそうな表情を作った。

 「…えっと、もしかして、嫌だったりする?」

 「いや、嫌な訳じゃない。ただ…その、勝負にならないんじゃないかなー、って」

 僕が歯切れの悪い様子で言葉を返すと、少女は心外そうに頬を膨らませた。
 遊びの方針を打ち立てた僕らは、適当な斜面を探すために集合地点を出発した。彼女はこの辺りについて詳しいようで、すぐに手ごろな登り坂を見つけ出せた。実際には無いのだろうが四十五度ぐらいありそうな急斜面では、木々がそれに逆らうよう真っすぐ天へと伸びていた。

 「じゃあ、ここのてっぺんまで先に着いた方が勝ちだからね?まぁ、私は負けないだろうけど」

 実力を下に見られたのが余程腹立たしかったのだろう。さっきから少々ご機嫌斜めな彼女は隠すことなくこちらに敵視をぶつけ、威勢よく言った。
 その言葉に軽く頷き返すと、僕はすぐに勝負のコースへと視線を移した。あの木々を支えにして、そこの岩を取っ掛かりにしようか。といった具合にレースを勝ち抜くためのルートを模索し終えた僕は、準備完了の意を示した。少女も作戦を練り終えたのか、ゴールに視線を固定させながら大きく言った。

 「よーいどん!」

 せめてカウントダウンぐらい取ってくれ。心の中でそんな悪態をつきながらも、僕はゴール目掛けて勢いよく駆け出した。目星を付けておいた岩を蹴り上げ、左手で太い枝を掴む。似たような動きを何度か続けたところで、目標地点までは後どれくらいだろうか、と僕は視線を上向けた。
 今度は自分の目を疑った。何せ、ついさっきまで隣に居たはずの彼女が既に二歩も三歩も僕の先を行っていたのだから。余りの驚愕に足はそれ以上動かず、僕は彼女の動きに釘付けとなった。
 一体、あのか細い身体の何処にそんな力が隠されていたのだろうか。彼女は流れるように木々を掴み、平地を走るのと変わらない調子で斜面をトップスピードで駆け続けていた。
 圧巻であった。もしや彼女の背中には翅が生えているのかと錯覚するぐらいに、その動きはこの上なく洗礼されていた。その華麗なる舞踊に目を奪われている内に、彼女は瞬く間にゴールへと辿り着いてしまった。
 井の中の蛙大海を知らず。当時の僕がそんな言葉を知っている訳もなかったが、知識ではなく実体験としてそれを思い知ることになった。田圃で王者を気取っていた蛙が、大空からやって来た鳥たちに悠々と喰われてしまったみたいだった。
 彼女と比べると随分遅れてゴールに到着した僕は、その急こう配に息絶え絶えだった。一方彼女はと言えば息を切らした様子もない。一から十まで彼女の独壇場であったことを痛感し、天狗の鼻をへし折られた僕は何も言えなかった。対する彼女は勝ち誇った笑顔で、こちらに勝利のvサインを見せつけてくれた。

 如何にもわざとらしい様子で煽り文句を頂戴されたわけだが、こうにまでも完膚なきまで打ちのめされては、いつものように負け惜しみをすることさえ憚れた。嫌味のない素直な拍手を送ってやると、彼女は満足そうに頷いてくれた。
 山登りで急上昇した心拍数を整えている間、僕はいつもの如く呆然と周囲を俯瞰した。草が伸びて木々が生え渡り、それを蔦植物が覆い隠している。林冠で遮られた太陽光がまばらに差し込み、幾つもの透明なカーテンを作り出している。耳を澄ませば小鳥の羽ばたく音色が反復していて、そのどれもがいつもと変わらない森中であった。
 だけど、いつもと一点違っていることがある。普段は聞こえないはずの柔らかな声が、すぐ隣から僕の耳奥を擽るのだ。

 「ね。君はさ、この植物が何か分かる?」

 透き通った音色と共に、彼女はすぐ足元を指差した。そちらに視線を向けるも、そこに何か目ぼしい草木が見えることはなかった。僕が目配せで疑問を呈示すると、彼女は身を屈めてその植物に触れた。
 
 「ほら、よく見てよ。君も見覚えあるんじゃない?」

 彼女が優しく撫でた植物は、大きな丸い葉が特徴的な、だがどこにでもありそうな背の低い野草であった。それも凛々しく一本咲き誇っている特別なものという訳でもなく、向こうの方にまで群生しているもののうちの一つだ。
 再び少女へと視線を向けてみると、彼女は今にもため息を吐き出しそうな表情を作った。「蕗だよ、蕗。ほら、蕗の薹とか聞いたことない?」
 ようやく聞き覚えのある名前を耳にした僕は、謎の植物の正体に得心した。「あぁ、フキノトウだったのか。でも、全然見た目が違うんだな」
 確かに、フキノトウは頻繁に食卓に並んでいる気がするが、目の前の野草は僕の見知った姿とは似ても似つかなかったわけだ。こちらの疑問の本質を見抜いたのか、彼女は意気揚々とその口を動かした。
 
 「だって、蕗の薹は春の野草だからね。蕗は今みたいな暑い時期に採れるんだよ?あっ、蕗の薹って言うのは、蕾の部分を食べるんだけどさ、蕗は葉っぱの部分も食べられるから、言ってしまえばこの子は二度美味しい山菜で──」

 それからも少女は間欠泉のように止めどなく蕗の魅力を語り続けた。僕は適当な相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けていた。それはいつまでも聞いていられそうな語り口だったけれど、ある時、「あっ」と彼女は小さな声をあげた。

 僕と少女の目と目が合う。途端に饒舌であった彼女の口先は固く結ばれ、やがて茹蛸みたいに顔を一色に染めあげた。その分かりやすい様子に僕が笑い声を洩らすと、彼女はしどろもどろに取り乱した。
 
 「ご、ごめんね。わたし、ちょっと夢中になっちゃって…退屈だったよね」少女は取り返しのつかない失態を犯したように目を伏せ、つっかえながらそう言った。
 「そんなことない。聞いていて面白かったし、為になった」そんな卑屈が過ぎるとも取れる彼女の言動に、僕は反射的に返事をしていた。
 「…ほんと?」彼女は逸らしていた視線を上向け、慎重に訊ねた。「あぁ、嘘じゃない。もっと聞きたいぐらいだ」僕が何の迷いもなくそう答えると、彼女はほっと笑みを零した。
 それ以降、登った急斜面を下って元の集合場所に戻るまでに、彼女は森のあちこちを指差しては次から次へとその手の豆知識を披露してくれた。そのあれやこれやについて、僕は子守唄を聞くように拝聴し続けた。
 大樹の傍まで戻って来ると、今度の彼女は年季の入った樹木の枝先を指し示した。そこでは、樹皮の茶色に混じって青い蝉が鳴き声を響かせていた。

 「この鳴き声はどの蝉だと思う?」

 そいつは蝉の中でも一際高い音を奏で、消え入るような締め括り方をする。そして鳴き始めるのは、大体空が赤く染まり出した時だ。そこまで判断材料が揃っていれば、間違うことなど有り得なかった。

 「ひぐらしだろ?」

 「おー、正解。意外だったなぁ」

 「虫のことには自信があるんだ」

 彼女は心底驚いたような表情で、大袈裟に胸を張る僕を眺めていた。もしかせずとも、僕は今日初めて自信満々になれたんじゃないだろうか。山のことに関しては知識でもフィジカルでも敵わなかったけど、昆虫についてまでそういう訳にはいかないぞ、と僕は意気込んでいたというのに、彼女はにやりとした笑みを浮かべて忘れず言ってくれるのだ。

 「植物に関してはてんで駄目だったけどね~」

 「そっちが物知りすぎるんだよ」

 流れるように言葉を返し、僕らは示し合わせたみたいに小さな笑い声を洩らした。僕は他人事のように、彼女とのやり取りにもだいぶ慣れてきたことを実感した。
 これなら大丈夫そうだ、と彼女に対する過度な気遣いを止めたところで、不意に気が付いた。今日一日、何かが欠けているような気がしてならなかったが、ようやくその謎が解けたのだ。

 一度それを意識し始めると、縫い針に糸の通らないようなもどかしさが身体中を撫でた。時間的にもそろそろお別れだろうし、タイミング的にもここしかないのではないだろうか。あとになって訊ねたりしたら、それこそおかしいのではないだろうか。だがなんにせよ、早く訊ねておかなければ。
 不思議な強迫観念に駆られた僕が「なぁ」と会話の切り出すと、彼女はこちらに目を向けてくれた。一日一緒に遊んだ上で、今更こんなことを聞くのも奇妙な話だとは思ったが、僕はこう言ったのだ。

 「あのさ…君の名前って、なんなんだ?」

 思い返せば、僕は彼女の名前を知らないまま今日一日を共に過ごしたわけだ。適当な代名詞で会話を成立させていたが、これからもそれを続けるわけにはいかないだろう。何か理由があるわけではなかったが、僕は僅かに手汗を滲ませ、割れ物に触れるような慎重さで彼女の名を訊ねた。
 すると名無しの少女は、ほんの少しばかり身を強張らせた。それはよくよく考えてみると不自然ではあったが、通常であれば気にも止めないような間の置き方とも言えた。だから当時の僕はそれを気にすることはなかったのだと思う。彼女の一足遅れた沈黙は僅か一瞬のことで、すぐに無邪気な笑顔が戻ってきた。

 「んー、なんだと思う?当ててみてよ」

 「え?」

 唐突な無茶ぶりに、僕は思わず頓狂な声をあげた。現実的に考えて、なんのヒントもなしに名前を正確に言い当てるなんてことは不可能だと思えた。
 「冗談だろう?」と僕が苦笑いを浮かべるも、彼女は微笑んだままこちらの答えを待つのみだった。そこから、彼女が自発的に名乗り出るつもりは微塵もないことが良く伺えた。無理だ無理だとは思いつつも、最終的には、僕は彼女の名前を推測することに決めた。
 数分か数秒か、彼女とのささやかな交友期間を振り返ると、頭の中には驚くほど流暢に答えが浮かび上がっていた。導き出した言葉は一切つっかえることなく喉奥を通り抜け、だが言葉と化す前にもう一度吟味の機会を得るべく、一旦腹の中に納まった。
 反復するように脳内でその名前を呟き、それを目の前の彼女に重ね合わせる。その行為を繰り返せば繰り返すほど、やっぱり彼女にはこの名前が似合うと思えたし、何より一度思い浮かんでしまえば、もうそうであるとしか考えられなかった。大袈裟に言ってしまえば、良く晴れた夜空には必ず星々が煌めくように、その名前こそが世界の理であると、彼女のあるべき姿を証明するに違いないと、僕は疑いなく信じられたのだ。
 気づかぬうちに、口の端から彼女の名前が零れ落ちていた。

 「…鈴音…」

 その独りごちるような小さな呟きは、蝉しぐれに掻き消されてしまっただろうか。伏し目を上げて少女の方を見やると、彼女は瞳を閉ざし、胸に両手を当てていた。そして口元を緩く綻ばせ、やがてゆっくりと瞼を開いた。

 「鈴音…うん、良い名前だね。じゃあ、今日から私は鈴音だよ」

 答えの当否には全く触れることなく、彼女は良く分からないことを宣った。一日中振り回され続けている僕は、また振り落とされないよう必死に空間にしがみ付きながら彼女に言葉を返した。

 「今日から?」僕の疑問を受け取った彼女は大きく頷きながら言った。

 「そそ。せっかく君がくれた名前なんだから──って、もう君じゃ駄目だよね。ほら、君も名前教えてよ」彼女は催促するように僕の目を見据えた。偽名でも使おうか、なんてことが一瞬脳裏に過ったが、結局僕は彼女の要望通りに自らの名を告げた。

 「…千風…だ」

 まるで記憶喪失者のように、僕は覚束ない調子で名乗りを上げていた。何故かはわからないが、これまで何度となく自己紹介を繰り返してきたはずなのに、この時ばかりは妙に自分の名前に自信を持てなかったのだ。
 不安そうな僕に気が付いたのか否か、「君も良い名前なんだね」と彼女は優しく言葉を返してくれた。その時、僕は不思議と心が温かくなったのを覚えている。その柔らかな声は、往々にしてある心にもないお世辞ではなく、彼女が心から僕の名前を褒めてくれているような気にさせてくれたのだ。
 「千風くん、千風くん」と彼女が発音の抑揚を確かめるように数度僕の名前を繰り返している間、僕は先程の言葉の意味について吟味していた。彼女に名前を呟かれる度に背中がこそばゆくて上手く頭が回らなかったが、恐らく、彼女の言い草からして本当の名前はまた別にあるのだろう。要するに、彼女はあだ名みたいなものとして「鈴音」という名前を受け入れただろうと、僕はそんな結論に至った。
 だが何はともあれ、この時初めて少女は鈴音になって、僕は千風になったのだ。

 

 「そろそろ良い時間かなぁ」

 彼女は不意と呟き、徐に顔を上向けた。その先に僕もまたゆっくりと視線を移した。木々の隙間から伺えるはずであった青色は、いつの間にか塗装屋の手に掛かっていたらしい。知らぬ間に見事なまでの赤黄色へと塗り替えられていた。その中で一匹黒いカラスが、一日の終わりを告げて回るように空を旋回していた。
 一日の初めと終わりを直接繋ぎ合わせたみたいに、今日という日は瞬く間に過ぎ去っていった。もう日照時間が終わってしまうのが名残惜しいぐらいだった。
 日が沈むと言うことは、当然僕らにもお別れの時間がやって来るわけだ。まだまだ遊び足りなそうに空を眺める鈴音を見ていると、夕陽をもう一度東側に引っ張ってやりたくなった。何か言葉で示し合わせたわけではないが、僕らはお別れの準備をしていた。大樹を境に僕は向こうへ、そして彼女はあちらへと足を向けた。

 「それじゃあ、またね、千風くん」

 「ああ、またな、鈴音」

 そうして確かめるようにお互いの名前を呼び合うと、やがて僕らは離れ離れになった。緩やかな下り坂を辿り、森の切れ目に辿り着いたところで、僕は突発的に二つのことに気が付いた。
 気づいたことの一つ目は、また詳細な待ち合わせをし忘れたことだった。しまったと森の方に首を向けたが、僕がもう一度山に向かうことはなかった。なるようになると思ったのだ。実際、今日の僕らは問題なかったわけだから。
 そしてもう一つは、僕は彼女の名前を知りたくなったその時から、『また』が確実に訪れるものだと無条件に信じていたことだった。何気なく発見した事実に疑問を提唱してみるも、山のことを知り尽くした鈴音に感心した。だからまた一緒に遊んでみたくなった、程度のことしか思い浮かばなかった。いや実際、当時は本当にそうとしか思っていなかったのだと思う。
 とは言え、その時の僕にはそんなことに目を向けるだけの余力はなかった。今はただ彼女の名を忘れぬよう、あぜ道の先に見える大きな斜陽を目指しながら、何度も何度も脳内で君の名を唱え続けていたのだから。
 
 このようにして僕らの一日目は終わりを迎え、続く日々が幕を開けた。


 ♦♦♦


 それからというもの、陽が頂点に昇り世界が明るく照らし出されると、僕らは毎日のように山中で落ち合った。
 鈴音は生ける辞書のように新鮮な知識を溜め込んでいて、度々飛び出してくる智恵はそのどれもが刺激的だった。昨日よりも今日、今日よりも明日と、僕は鈴音から生の情報を味わうと、日を追うごとに彼女と遊ぶことが楽しみになっていった。自室の窓際にてるてる坊主を垂らして、明日も晴れますようにと健気にお祈りするぐらいだった。
 だからこそ、瞼の裏を刺激する目覚めの日差しが弱く、加えて一定間隔で屋根を激しく叩く音が聞こえてきた時には酷く気分が落ち込んだ。先ほどほぼ毎日と言ったのは、例えば雨の日なんかは流石に山には入れないからだ。
 これが小雨程度であれば、遊び時間の午後までに止む可能性もあり得るだろう。だが傘が押しつぶされそうな程の土砂降りとなると、それも無理な話だった。
 その日の雨模様は、まるで遥か天空から何者かにバケツをひっくり返されているかのように勢いに凄味があった。アスファルトの上は曇天を映し出す鏡みたいに雨水で覆われており、歩く度に道路に跳ねた雨粒が足首を襲った。靴下が雨水にやられるのが先か、それとも僕が屋内に逃げ込めるのが先か、なんて馬鹿らしいことを考えているうちに、僕は目的地まで辿り着いた。

 そこでは平屋式の建物が僕を待ち構えていた。横幅は一軒家のニ、三倍以上は裕にあるだろう。何枚もの窓が敷き詰められているのが特徴的で、それは自然採光を意識した結果なのだと思う。もっとも、今日はその目論見も全く機能していないのだが。
 重い引き戸を潜り抜けると、館内は薄暗い電灯で照らし出されていた。子供にとってはちょっとした大空間であるその場には、かび臭いのような、それでいて落ち着く香りが漂っている。
 豪雨で一層湿っぽかった空気は、空調設備によって快適に保たれていた。辺りを見渡すと利用客がちらほらと伺える。僕も同じように慣れた調子で縦列に並ぶ幾つもの本棚を通り抜けていった。
 奥まで行って左に曲がると、そこにお目当ての本棚があった。うちの一つである分厚いその本を両手で抱えると、一目散に休憩スペースへ向かう。こちらはまだ誰も居ないようで、僕は気兼ねなく椅子を一つ占領し、大きな冊子を途中から捲り始めた。空気の流れる音と本を捲る音だけが周囲を湛えていた。もし静けさに音があるとすれば、この空間のことを意味するのだと僕は思う。

 かなり集中していたらしい。知識を詰め込む作業に限界を感じて、僕は一度本から目を逸らした。凝り固まった筋肉を解すように、大きく伸びをして前方を向いた。
 そこで気が付いた。僕の前の席に一人の女性が腰掛けていることに。
 年は二十代辺りだろうか。その黒縁眼鏡をかけた女性は、肩甲骨まで長く伸びた髪をダークブラウンに染めており、黒いエプロンの上に首から「斎藤」と刻まれたネームプレートを垂らしていた。
 周りを見ても、相変わらず休憩スペースは閑散としている。そんな中この人は、何故わざわざ僕の目の前に腰掛けたのだろうか。と自意識過剰とも言える不思議さを覚えるのは、ある意味当然のことだった。
 何せ彼女の目的は読書ではないらしく、その証拠に手元には本の一冊もない。彼女は僕の持ってきた本へと視線を移し、次いで僕の顔をまじまじと眺めた。

 「少年、最近よく図書館に来てるね」

 よもや話し掛けられるとは思っていなかった。少し低めの声がこちらに飛んできて、僕は大きく瞬きをした。それを目配せだと思ったのか、彼女は続けて唇を動かした。

 「溜め込んだ宿題に追われて、自由研究の題材でも探しに来たの?」

 そんなことはない。宿題には計画的に取り組んで、今や全ての課題が終わっているのだ。彼女の言葉を否定するように僕は首を横に振った。僕の答えを聞いたお姉さんは、如何にも怪訝そうな表情を作った。

 「だったらどうして?そんなに日に焼けた少年は座って本を読むよりも、外で元気に駆けまわる方が似合ってると思うんだけど」

 「そりゃそうですよ。でも、こんな土砂降りの中で駆け回るなんて蛙ぐらいですから」

 彼女の問い掛けに対して、僕は窓を濡らす雨粒を眺めながらようやく言葉で応えた。
 堅苦しい丁寧語を使うのが嫌だったわけではない。高学年となった今、目上の人には敬語を使うことが習慣化していた。だから発声するのを躊躇った理由は、ひとえにここが図書館という沈黙空間であるから他ならない。
 しかしお姉さんはそんなことお構いなしに、「確かに、人間様にとっては大雨は嫌なものよね」と感心したように頷いた。

 「ここ、私語厳禁なんじゃないんですか?」

 そろそろ手元の本に集中し直したかった。だから僕は痛いところを突いてやったわけだ。
 図書館がお喋りをする場所ではないことは周知の事実なのだから、これを機にお姉さんも押し黙ざるを得なかった。という未来を予想していたのだが、現実には彼女はすました顔で言い返してきた。

 「あたしはここの司書さんだよ。だから別にいいの」

 卑怯な手を使われた気分だった。ネームプレートを誇示するように見せつけてくる彼女に軽い睨みを利かせてみるも、向こうは素知らぬ顔で話をやめようとはしない。「それよりも」と話題を転換してくる。

 「少年みたいな子がよく図書館に来るなんてさ、やっぱりちょっと疑問なのよね」

 「はぁ」

 先程から固定観念が強過ぎはしないだろうか。僕はため息交じりの相槌を打った。
 まぁ確かに、彼女の言い分には一理ある。以前の僕が図書館に寄り付くような人間じゃなかったことだけは間違いない。やはり僕みたいな褐色少年が姿勢正しく本を読んでいる姿など、場違いという言葉がこれ以上になく似合ってしまうのだろう。
 お姉さんは僕の読みかけていた本の端を指で叩きながら言葉を続けた。

 「毎度毎度その植物図鑑読んでるみたいだし…あれかな?女の子にお花をプレゼントしようとしてるのかな?」

 「違います」

 脊髄反射であるかのように僕はその言葉を一刀両断した。お姉さんは何とも言えない笑顔を浮かべながら、「ほぉ~」と良く分からない感嘆を表した。
 僕が図書館を訪れ、植物図鑑を読み漁っている理由。また、そもそも僕が図書館に足を運ぶようになった訳。この二つが不可分である事には疑いがなく、その全てに鈴音の存在が関連付けられていることにも異議はない。
 平たく言えば、鈴音があんまり山に詳しいものだから、僕は少しでも彼女の知識に追いつきたいと思ったが故なのだ。与えられるだけではなく、偶には鈴音に知見を誇ってみたかった。そして願わくば僕がいつもそうするように、僕は彼女に感心されてみたかった。そんな小さな競争心と羨望を望む感情こそが、僕を似合わない場所へと導いているものの正体であった。
 お姉さんがにんまり表情を浮かべている間、僕はそんな風に自らの行動を再確認していた。彼女はようやく表情を戻すと、徐に席から立ち上がった。何処かへ移動する素振りを見せると、手招きで僕を誘導する。それに大人しく着いて行くと、お姉さんは書架から一冊の本を抜き取った。

 「図鑑は借りられないけどさ、こういう本だったら貸し出しもしてるんだよ?」

 彼女が差し出した書物を、僕は受け取り数ページ眺めた。さしずめ、それは植物に関する情報が詰まった簡易版辞典のようなものであった。お姉さんの紹介してくれた書物は僕に多大な衝撃をもたらしていた。
 目から鱗が落ちた。図鑑以外にも各種植物の詳細が記載されている書物があることなど、僕は今日まで知る由もなかったのだ。本を借りることなく図書館で図鑑を読み耽っていたのは、図鑑が貸し出し対象から外れていたせいだ。この本を借りることができれば、毎朝家から図書館までを歩く手間が省けることになる。夏の怠い暑さに加え、移動手段に乏しかった当時の僕にとっては、その一冊が画期的な発明と同一視されていた。
 僕がこの手の本を大変お気に召したことに気が付いたのだろう。お姉さんは続けて似たような書籍を数冊紹介してくれた。僕は彼女に促されるままに受付カウンターに向かい、貸し出しの手続きを済ませてもらった。
 初対面で浮上したお姉さんを鬱陶しく思う気持ちは、既に何処かへ拡散していた。心のほくほくした僕が純粋な気持ちでお礼を述べると、彼女はふと目的を思い出したように言った。

 「いやいや、女の子にお近づきになろうとしている少年を見過ごすことなんてねぇー。とてもあたしには出来ないかな?」

 その性懲りもない様子に一転して呆れを抱いた僕は、その言葉を無視して出口へと進んだ。それなのに「少年、頑張ってね!」とお姉さんは威勢の良い声を背中に飛ばしてきた。
 何を勘違いしているのだろうか。僕は浅く息を吐き出し、図書館を後にした。

 ♦♦♦


 扉を押し開け外へ繰り出すと、蒸し暑い世界が妙に明るく輝いていることに気が付いた。何気なく光の差す方へ眼をやると、厚い雲の隙間から太陽が姿を見せていた。
 どうやらバケツの水はすっからかんになってしまったようだ。てっきり午後も降雨に見舞われると思っていた僕は、空っぽなはずの貯金箱から一枚の硬貨を見つけたみたいに、予想外の雨上がりに喜びを隠せなかった。
 雨が止めば山に向かえる。あそこに行けば鈴音が待っている。また彼女から色々を教えてもらえる。
 箇条書きのように嬉しいことばかりが脳裏に列挙され、その時が待ち遠しくなった僕は居ても経ってもいられなくなった。
 当時の僕の心模様の起伏は、その日の急な天気と似たようなものだったのだろう。秒読みで逸る心に身体が置いていかれないよう、僕はアスファルトに反射する家々の屋根を勢いよく踏みつけながら自宅へと急行した。借りてきた本を玄関前に放置する。居間にいるであろう母さんに向けて「行ってきます」を叫んでから、僕はその足で外に飛び出した。
 何度か道を曲がりくねり、水位の上がった田んぼを両脇にあぜ道を駆け抜けた。そのままの勢いで森に突入し、そこからは感覚で山道を辿る。少しばかり斜面を登ると、相も変わらぬ巨大な威容を目が捉えた。
 すっかり僕らのシンボルツリーになってしまったその樹木に近寄ろうとすると、やっぱり小さな姿が飛び出してくれる。君の姿を捉えた僕は思わず頬を緩ませた。彼女は変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。

 「晴れて良かったね~」と鈴音は空の遠くを眺めながら言った。僕も軽く頷き、彼女の傍へ向かう。そこからはここ一、二週間の流れだ。
 まずは直射日光を避けるために大樹の陰に隠れ、僕も鈴音も他愛もない話に花を咲かせた。とは言ったが、基本的には僕が話題を振りかけ、鈴音が相槌を打つという形だ。たとえば、今朝の大雨が凄かったとか、青かった稲が黄金に輝き始めてたとか、そんな世間話だ。
 だがその合間合間に、地上に降る雨は実は三十分も前の雨粒なんだとか、浮塵子と呼ばれる小虫が稲を食い荒らしてしまうのだとか、鈴音は話の中で付け加えるように説明してくれるのだ。そこには凡そ僕と同じ年代とは思えないような彼女の博識が見え隠れしているから、僕にとってそれは雑談以上の意味を有していた。
 満足いくまで話に花を咲かせると、僕らは徐に立ち上がった。

 「千風くん。今日はさ、山の中を色々見て回ろーよ!」

 鈴音はそう告げると、大樹の裏へと弾む足取りで向かって行った。この辺は彼女の庭であることをこれまでの日々の中でよく知っていた僕は、導かれるようにその後を追った。
 地表にまで露出した大きな根に躓かないよう気を付けながら、僕らは大樹から少しばかり離れていく。今までにこちらの方面へ向かったことがなく、奥に進むほど緑の層は厚くなった。森の創り出す独特な昼間の暗がりの中では、地面と木々の茶色がよく映えていた。森はさながら樹海みたいな深さであったが、そこに陰気な雰囲気は感じられなかった。それどころか却って心が穏やかになるような極相林だとさえ感じた。

 そこからもう数メートル歩みを進めれば、周囲にはいつもの巨木に負けず劣らずの樹木が幾つも横に大きく倒れていた。まるで行く手を阻んでいるような倒木を、鈴音はいともたやすく飛び越えてしまう。あとに続く僕は苔むした樹皮に手を掛け、なんとかそこを乗り越えた。
 あれほど大きな樹木たちが役目を終えたからなのだろう。転倒した木々の越えたその向こう側には、輪っかみたいにポッカリと穴の開いた広場が生成されていた。いわゆるギャップと呼ばれる空間だ。
 大空に浮かぶ太陽がちょうどその輪の真ん中に入っていて、溢れんばかりの白日がその場に注ぎ込まれていた。辺りを囲む森の薄暗さも相俟って、そこに形成された円柱状の光の障壁は見事なまでのものだった。
 その中心には、背丈が一・五メートル程度の若木が一本、凛々しく輝いていた。何か理由があった訳ではないが、先へ先へと移動する素振りを見せていた鈴音の後を追うことを忘れ、僕は立ち止まりその若木を長らく見つめていた。それに気が付いた君はこちらに振り返った。

 「そんなに気になるの?」

 「あぁ、綺麗だなって思ってさ」

 思ったままの言葉を返すと、君は何度か瞬きをしてから呑気に答えた。

 「まだまだ成長途中だからね。いずれはこの山の主になるんだよ~」

 「それは楽しみだ」

 いつかこの小さな木があの大樹を上回るのだと思うと、なんだか大きな自然の循環を感じ取れた気がした。若木を囲む光のベールにゆっくり近づくと、僕は弾かれることなく温かな光に包まれた。本当にこの山の主になれるのかどうかは置いておいて、頑張れよ、という意味を込めて若木を優しく一撫でしてやった。それを見た彼女はくすぐったそうに笑っていた。

 「そう言えばあの若木、どんな樹種だったんだ?」あれから少し歩いた先で、僕は不意にそう訊ねた。「内緒だよ~。千風くんが当ててみたらいいんじゃないかな?」前方を歩く鈴音は足を止めることなく、お得意ののらりくらりとした濁し方で流してしまった。
 彼女に言われた通りに脳内検索を掛けてみるも、まだまだ知識の薄い僕では全く見当がつかなかった。そういう訳で、今日も鈴音が要所要所で立ち止まっては自然の素晴らしさを伝えてくれて、僕もまたこれまでと変わらず、彼女の詠う終わりのない叡知を聴講していた。
 そうしてあれやこれやとしていると、あっという間に夕暮れが訪れてしまった。鈴音と過ごしている時間は本当に一瞬のように思える。冗談抜きの話で、何者かが時計の針を回していたりはしないだろうか。

 「早くしないと日が暮れちゃうよ」

 「あぁ、ごめんごめん」

 足音が途絶えたことに気が付いたのだろう。後ろを振り返った彼女は、動きを止めていた僕をそう急かした。日没後に山地に取り残されるなんて事態はご遠慮願いたい。沈む太陽の速度に負けないよう、僕らはいつもの場所へと足を進めていった。その最中、今度は鈴音が立ち止まった。
 再びこちらを向いた彼女は、黙って僕を手招きした。僕が隣にまでやって来ると、彼女は小さな指を茂みへと向けた。

 「今日最後の問題だよ。あの花が何か分かるかな?」

 鈴音の指差した方向には、茂みに隠れて黄色い花が数輪咲き誇っていた。葉っぱの形は大葉のようで、中心にあるイガグリみたいな黄緑色の球体は五つの花弁に囲まれている。
 本来であれば、その程度の情報量では到底その植物を特定できるわけがなかった。だが幸いかな。僕はその姿を見たその時から、花の正体にある程度の見当が付いていた。たまたま今日読んでいた図鑑の右下の方に、これとそっくりの写真が貼られていたからだ。万が一にも間違う気がしなかった僕は、間を置くことなく言ってやった。

 「ダイコンソウだろ?」

 多分僕は、この上なく得意満面答えたのだと思う。だってそうだろう?これまで鈴音には数々の知識を授けてもらって、対して僕は彼女に何を教えてやれたというのか。これは日々の努力が実ったというよりは運の力が勝ったようなものだが、それでもようやく彼女の領域に片脚踏み込めた気がして、僕は鼻を高くしていたのだ。
 誇らしげな僕を暫く見つめていた鈴音は、とうとう耐えられないといった様子で大きく吹き出した。それにやや遅れて、僕は今の自分がどれほどに幼稚であるかを思い知った。顔面が大火事になった。彼女はその様子を見てまたお腹を抱えていた。あんまり馬鹿にされて僕が拗ねてしまう前に、鈴音は笑い声を抑え、気を取り直したように言った。

 「正解だよ、これは大根草。この時期になったら綺麗な花を咲かせてくれるんだ」彼女は大根草の青い葉をそっと撫でると、今度は優し気な笑顔でこちらに向き直った。

 「大根草の花言葉はね、将来有望なんだよ。今の千風くんにピッタリなんじゃない?」

 鈴音がにこにことこちらを見やった時、「なんのことだよ」と僕は白を切ろうとした。「大根草に気が付くなんて…千風くん。さては私に隠れて色々勉強してるんでしょ~?」やはり彼女は僕の嘘をすぐに見破った。

 「…まぁね」

 誤魔化し切れなくなった僕は、左下に視点を置きながら渋々それを認めることにした。それを肯定してしまうことで、彼女にちっぽけな対抗心を燃やしているとか、本当は少し認めてもらいたいと思ってるとか、そういった色んな感情が透けてしまうことが堪らなく恥ずかしかった。
 すると鈴音はなんの前触れもなく、真正面から一歩こちらに身体を寄せてきた。ふわりと甘い香りが鼻を擽る。至近距離で見るその宇宙のように深い黒をした瞳に吸い込まれているうちに、僕の頭にはそっと温かい感触が乗せられた。

 「えらいえらい。これからもしっかり勉強するんだよ~」

 彼女は目を細めながら、少し背伸びをして僕の髪をわしゃわしゃと優しく撫でていた。
 一瞬の硬直、そして退避。自身の身に起こった事象を把握するや否や、僕は条件反射的に後退りしていた。心臓が異常なほどに締め付けられていることに気が付く。身体中からは尋常ではない量の汗が流れ落ちていた。
 こんなにも恐ろしい思いをしたのは初めてだった。あれ以上その場に長居しては、身体中が何かに呑み込まれてしまうような気さえしたのだ。
 僕が後ろに下がったことで、鈴音の手は僕が居た場所に取り残された。余韻のように動いている手のひらが、寂しそうに宙を彷徨っていた。

 「何するんだよ」親以外の誰かに頭を撫でられるなど、僕の予想だにするところではなかった。未知が故に動揺を隠せないまま僕は目を泳がせた。
 「なにって、ちゃんと頑張ったんだからご褒美だよ?」視界の端でしっかりと捉えられている鈴音はあくまでも平常運転で、まるで小動物を愛でるかのような調子でそう言ってのけた。
 「別に、そういうのはいいから」脳内を襲った混乱状態も徐々に落ち着いてきたところで、僕は早口で伝えておいた。
 「そう?じゃあやめとこーかな」君は僕の気持ちが余り分かっていないようだった。

 「そろそろ行こっか」と彼女は何気なく前方を向き直る。その横顔には小さな笑みが浮かんでいたが、僕は頭上に残った君の手のひらの妙なもどかしさにばかり気を取られてしまって、そんなことには全く気が付けなかった。
 やがて元の場所に辿り着くと、僕らは手を振り「またね」を交わした。そうして君との一日が終わって、僕は夕陽を見失わないうちに山を出るのだ。
 
 いま思い返せば、「また」が具体的にいつを指すのかなんて、僕らはたったの一度しか約束を交わさなかった。
 雨なき日中にあの大樹の傍で。その不文律が既に僕らの間で完成しているのだと、僕はそう信じてやまなかったのだろう。出会った時からそうであったからこそ、僕らには以心伝心に似た何かがあるのではないだろうかと、そんな風にさえ思っていたのかもしれない。
 だが結果から言えば、当然の如くそんなわけがなかった。以心伝心であるのならば、僕は鈴音のことはなんでも分かっていられたはずなのだから。訪れる結末を捻じ曲げることは出来ずとも、その過程をより良いものに出来ただろうから。

 ♦♦♦


 毎朝目覚まし時計を設定していると、人は段々とその騒がしい音に拒絶感を覚えるようになる。そのせいなのか、いつからか不協和音が鳴り響く前にふと目を覚ますようになる人は多い。そう言う僕も、ここ数年はそんな調子の毎日が続いている。
 僕はそれが、正確な体内時計によってもたらされる良い現象だとばかり思っていた。しかし、実際はその真逆であることを知ったのはごく最近だ。なんでもそれは過緊張と呼ばれるストレスの一種らしく、放っておくとまず精神が、そして次第に肉体が不健康になるらしい。過緊張に陥らないようにするには、睡眠前のリラックスが重要なのだとか。まるで流し見た記事の受け売りだが、気を付けるに越したことはないだろう。
 最も、当時の僕に目覚まし機能を使う必要はなかった。仮に寝坊したとしても母さんが叩き起こしてくれるし、あの鬱陶しい雑音以外にも寝覚めに繋がるものが多数あったのだ。
 喉奥に感じた干ばつと、肌を覆う湿った熱気。それが自然の目覚ましとなって、意識が覚醒する。眠気の抜けない身体に鞭打って瞼をこじ開けると、まずは窓枠の中に浮かぶお日様を目視した。
 天気良好であることを確認すると、早速朝の支度に取り掛かる。生温い水で顔を洗い、朝ご飯を食べて寝間着から着替える。そこまで終わると、残りの準備を慌ただしく済ませて玄関を開けた。

 そのまま僕は外の世界を歩き回り始めた訳だが、向かう先はいつもの場所ではなかった。数十メートルほどの等間隔で、家々の白い瓦塀と小さな雑木林が繰り返される。ときおり、刈り取られた雑草の積み上げられた空き地を通り抜けたりもした。
 漬物石が入っているのかと思うぐらいにずっしりとした鞄を背負い、古いアスファルト上をひたすら歩き続ける。被る黄色い帽子に汗が滲み始めたところで、この町で一番の建造物に出くわした。
 縦横何メートルという具体的な大きさを図ったことはないが、その気になればこの街の住民のほとんどがここに収まるのではないだろうか。雨風に晒され、白というよりは灰色と化した外壁は三階部分まで続いており、のっぺりとした屋根は青銅色をしている。左のだだっ広い砂地へ目をやれば、そこには申し訳程度の遊具が点在していた。
 改めて正面に向き直ると、門の前では教師が数人、活力のある挨拶を飛ばしていた。キャッチボールを受け取った児童たちは元気よく挨拶を返している。僕もまたその中に紛れ込んで校門を潜り、下駄箱で靴を履き替えると、真っすぐ自らの教室に向かった。要するに、僕は学校に来たわけだ。

 つい一週間ほど前、長きに渡った長期休暇には終止符が打たれてしまった。世界は未だ異常な高温で包まれているし、蝉たちが鳴り止んだわけでもない。それでも季節に一つの節目がやって来たことは明らかで、今や陽が沈むと秋虫が騒ぎ立て始めている。そうなると当然、名目上猛暑の危険性ゆえに与えられるお休みも打ち切りということだ。
 そんなこんなで二学期の日常に吞まれつつある僕は、以来山に向かうことはめっきり減った、という訳ではない。僕は学校が終わればいつもの場所に飛んで行ったし、やっぱり鈴音も僕より一足先に大樹の傍で待っていてくれた。これまでと比べると遊ぶ時間が限られてはいたが、僕らは相変わらず山中で落ち合っていた。
 学校に通うようになって一つ疑問に思ったのが、ここでは彼女の姿形が一切見えないことだった。あんまり露骨に探すのもみっともない気がした。だからそれとなく学校内を見渡しているだけだが、どの学年にも鈴音らしき人物は見当たらなかった。
 まぁ恐らく、彼女は隣町のお嬢様学校にでも通っているのだろう。実際、この辺りに住んでいる子供たちには少なからずそういう奴らもいた。それに、こんな辺鄙の学校ではあれ程の知識を手にすることは不可能に近い話だとも思えた。

 教室に到着して程なくすると、まずは担任の主導する朝学活が始まった。それが終わると退屈な一時間目の国語が始まって、次は図工の時間で…という風にして、学校での一日が過ぎ去っていく。
 しかし僕が真面目に授業に取り組んでいるのかと言われると、それは体裁だけのことだ。ノートと教科書を開いて鉛筆を握っているが、頭の中は放課後のことにしか意識が向いていなかった。
 給食を食べ終えると昼休みが訪れた。僕は当たり前のように鞄から図書館で借りてきた本を一冊取り出して、自然に関する造詣を深めようとした。

 「千風。今日こそサッカーしに行こうぜ!」

 すんでのところで横槍が入って、僕は声の主を見やった。夏休み中遊び回っていたのだろう。僕と同じかそれ以上に日に焼けている日向が、いつものメンバーを代表して声を掛けてくれていた。
 しかし僕はと言えば、変わらぬ一点張りだ。

 「ごめん。今日は本読みたいから、また今度な」

 昨日まではこれで引き下がっていたのだが、今日の日向はまだ諦めないらしい。彼は眉を寄せて言った。

 「お前、そういう奴じゃなかっただろ?」

 「読書も悪くないもんだって気づいたんだよ」

 合気道のような受け流しで言葉を返すと、ぞろぞろと彼の後に続いた数人の友人が顔を顰めた。

 「夏休みの時も全然遊びに来なかったしさ、最近付き合い悪いんじゃねーの?」

 そう言われてしまっては、こちらとしても立つ瀬がなかった。確かに僕は夏休み中、日向達をほったらかしにして鈴音との時間を過ごしていたのだから。
 少しばかり居心地の良くない雰囲気を感じ取った。返す言葉を失った僕は、今日ぐらいはみんなとサッカーするか、と状況を好転させるために席から立ち上がろうとした。
 だがそのタイミングで、電撃的に一つ良い考えが思い浮かんだ。僕は席から立ち上がる前に、日向達にこう言ったのだ。

それとその酉は割れてるから変えた方が良いぞ

 ♦♦♦


 七日に二度訪れる休日。安息日一歩手前であるその週末は、風の強い日であった。
 青い空に浮かぶうろこ雲は左から右へと忙しく流れ去っていく。太陽だけがその位置取りを変えることなく、薄雲をすり抜けて輝きを放っていた。
 
 それは絵に描いたような気持ちの良い秋晴れだ。
 しかし、それとは真逆の気怠げなリズムが、アスファルトを物憂げに鳴らしている。一歩進む度にため息が聞こえてきそうなほどに、その足取りは異常に重々しかった。まるで彼の周りだけが酷く重力の影響を受けているようだ。
 
 その少年こそが、今の僕だ。
 
 こんなにも良く晴れた日だというのに、僕は山に向かっていない。その事実が頭に圧し掛かり、一層憂鬱な気分を味わわされる。頭上に見える太陽を恨めしく思いながら、僕は本来辿っていたであろう目的地とは別の方へと向かっていた。
 
 鈴音と遊ばなくなって、一体どれぐらいの日々が過ぎただろうか。
 少なくとも、ここ一カ月近くは彼女の姿を見ていない気がする。
 鈴音と会わないうちに世界は随分と涼しくなって、山はあちこちで赤黄色へと模様替えをしていた。

 季節に合わせて姿を変えていく遠くの山々を眺めていると、「秋になったらさ、紅葉狩りなんかもしよーね!」とその時が待ち遠しそうに話してくれた鈴音を、そして「あぁ、楽しみだな」と軽く頷いた僕を思い出してしまう。約束破りな自分が嫌いになりそうだ。
 
 だがその美しい記憶を塗り潰すように、次いで苦しげに笑ったあの日の鈴音の姿が脳裏に蘇る。
 とっくに胸の中心にまで食い込んでいた杭は、今日も背中から飛び出す勢いで何度も打ち付けられた。
 胃に詰まった苦い空気を無理矢理吐き出し、僕は胸を穿つ痛みを堪えた。
 その記憶こそが、何から何まで自分が悪かったことをいつ何時でも思い知らせてくれる。今度こそ僕は自分が大嫌いになる。
 
 思い出すのは三週間ほど前、鈴音を傷付けたあの日のことだ。
 日向達に取るに足らないプライドを踏みにじられ、下らない苛立ちを覚えた僕は、あろうことか彼女に八つ当たりしてしまった。その瞬間に燃え上がった怒りのエネルギーは確かにすさまじかったが、この手の感情というものは長続きはしない。
 鈴音が走り去ったその時には、既に僅かながら燻る火種にも冷水を掛けられていたし、家に帰って一晩寝てしまえば、翌日にはすっかり別の感情だけが胸を覆い隠していた。
 
 怒りの次に訪れる感情など、後悔以外の何物でもないだろう。
 翌日からの僕はと言えば、あの日の選択全てを恨み、やり直したいと願い、だがその場で足踏みを続けていた。
 だからこそ、こうして鈴音と会わない日々が続いて、今も山に向かおうとしない僕がここに居るのだ。

 そして今日もまた、僕は彼女の元に行けなかった。今度こそ隠さずため息を吐き出してから、僕は図書館に入ろうとした。

 「少年、最近元気ないねー」

 ドアノブに手を掛けたところで、見知った声が僕を引き留めた。入り口から離れて後ろを振り返り、一応その姿を確認してから返事をした。

 「…斎藤さん。こんにちは」

 これから勤務時間なのだろう。まだ首元からネームプレートを垂らしているわけではなかったが、ここ数カ月の付き合いで声の主があのお節介が過ぎる司書さんであることはすぐに分かった。
 
 斎藤さんは「こんにちはー」と適当な挨拶を返すと、こちらが本題であると言わんばかりに身を乗り出した。

 「で、どうして少年はそんなに落ち込んでるのかな?しかもここ数週間も」

 「別に、落ち込んでなんかないですよ」

 僕の顔を覗き込むようにして尋ねる彼女に対して、僕は適当な言葉でやり過ごすという選択肢を選んだ。
 斎藤さんは呆れた様子で首を振った。

 「ほらほら、すぐそうやって君は誤魔化すよねー。お姉さんに話してみなさいよ。自分で抱えてたって解決しないものは、誰かに話すのが一番なんだから。あ、これ経験則ね」

 「…」

 自分の悪癖を見抜かれて、尚且つそれらしいことを年上の人に言われてしまえば、話してみる価値があるように思えた。
 実際のところ、僕一人で色々考えた結果が、約一カ月も鈴音に会えていないという事実なのだから。
 
 僕は恥も外聞もかなぐり捨てて、極力言葉を選びながらあの日のことを簡潔に説明した。
 そのなんとも情けない話に耳を傾けたお姉さんは、一通り僕が話し終えると言った。

 「ふ~ん…なるほど…。つまり少年は、その子と仲直りしたいってこと?」

 縦に首を小さく振ると、彼女はケロッとした様子で答えを出した。

 「だったら早いとこ『ごめんなさい』って言えばいいだけじゃん」

 「…それが出来たら苦労しないんですよ」

 その一見近道に見える答えを前に、僕は落胆しながら言葉を返した。その失望は果たして彼女の案に向けられた物なのか、それとも僕自身に向けられた物なのかは火を見るより明らかである。
 
 そうだ。僕だってとっくに気が付いているのだ。彼是一カ月も悩んでいることなんていうものは、実は簡単に解決出来るものだということぐらい。
 斎藤さんの言う通り、僕が今すぐに山に向かって、それでもし鈴音が居てくれたらその場で全力で謝って、また仲良くして欲しいと言えばそれで済む話なのだ。
 
 でも僕にとってそれはいばらの道であった。
 
 もし鈴音が僕を赦してくれなかったら?もう絶交だと言われたら?そもそも、二度とあそこに来てくれなかったら?

 その諸々の不確定要素に一度目を向けてしまうと、臆病な僕はその行動を選べなかった。

 「やらない後悔よりやる後悔。謝られて嫌な気分する人なんていない。さ、レッツアポロジャイズ!」

 僕の重い腰を無理矢理押し上げるようにして、斎藤さんは軽い調子で僕を鼓舞しようとしてくれた。
 だがいつまで経っても思い迷って椅子から退こうとしない僕を前にして、彼女は珍しく真剣な表情を作った。

 「…あのさ、その子に嫌なことしちゃって、それで会えなくなっても、少年はこうやって植物のこと知ろうとしてるわけでしょ?ってことはさ、少なくとも少年は、まだその子と仲良くしたいって思ってるんだよね?」

 お姉さんに核心を突かれて、僕ははっと気が付かされた。
 彼女が言ったことは、何もかもがその通りであった。鈴音を傷付けて一緒に遊べなくなった今、それでも僕がなんとなく図書館に足を運び、自然に関する知識を追い求め続けた理由なんて、それ以外に有り得ないではないか。
 僕が素直に頷くと、お姉さんは諭すように続けた。

 「じゃあ、やっぱり早く仲直りした方が良いよ。ここで頑張んなきゃ一生このままだよ?少年はそれで良いの?」

 もう二度と鈴音とは遊べない。僕は彼女と笑い合うことが出来ない。
 そんな光景がふと脳裏に浮かび上がった。一瞬の沈黙の後に、僕はお姉さんに決意表明をした。

 「…分かりました。ちゃんと謝りに行きます」

 「えらい!良くぞそう言った少年!折角ならさ、お花屋さんで手向けの花用意してあげれば?植物好きの子なら絶対喜んでくれると思うよ!」

 親指を立てて叱咤激励してくれるお姉さんの良さげな案を採用することにした僕は、すぐさま下準備を始めることに決めた。
 思い立ったが吉日というやつだ。本を借りるのはまたの機会にすることにして、まずは自宅へと舞い戻ろうと思った。
 
 僕が駆け足でその場を去ろうとすると、「頑張りなさいよ、少年」と斎藤さんは手を振ってくれた。

 振り返った僕は元気よくお礼の言葉を述べ、急いで踵を返した。
 
 この一カ月の間、僕の心身を蝕んでいた暗澹は、爽やかな秋空に吸い込まれていった。

 間もなく家に帰ってきた僕は、手を洗うこともなく二階の自室へ駆け込み、机の上にあった銀の缶を迷うことなくひっくり返した。
 その小さな貯金箱に入っていたなけなしのお小遣いを握り締めると、その足で花屋へと急行した。そこで仲直りに相応しい花を一つ購入した。
 
 心も身体も、今すぐに鈴音の元へと駆けていくつもりだった。
 しかし、その頃にはもう世界は赤焼けに包まれていた。
 今日は時間がないことを悟った僕は、明日こそは、と意気込みながら帰路を辿った。気持ちの逸る自分を落ち着けられず、その夜は上手く寝付けなかった。
 
 翌日、僕が重い瞼を擦って目を覚ますと、まずは肌寒さが皮膚を襲った。その時点で、限りなく嫌な予感がしていた。続いて耳が痛くなるほどの轟音を聞き取り、僕は寝床から飛び起きた。
 慌てて身を乗り出した窓の外には、深い曇天に包まれた街並みが広がっていた。
 幾層にも重なった暗雲からは大粒の雨が激しく降り注ぐばかりでなく、ごうごうとおどろしい音を立てながら横風を吹き荒れさせている。外に見える木々が暗がりの中で横に揺られたと思ったら、自宅が軋み音を立てて悲鳴を上げた。

 これは山に向かえるような日ではない。鈴音に謝りに行くのはまた明日にしようか。
 
 最悪の気象状況を前に、僕はすぐさま合理的な判断を下した。
 
 が、そこでふと立ち止まる。僕は脳裏に過らせてしまったのだ。
 
 この一カ月もの間、心の中で何かしらの言い訳を重ねてはごめんなさいが出来なかったような愚者が行動を先送りにしたのならば、果たしてそれは実現されるのだろうか、と。
 
 自分のことは自分が一番解っている。答えは自明の理であった。
 明日の僕に託すことを数十回と繰り返してきたのが今日の僕だ。こうしてまた都合の良い理由に縋り付いていては、きっと明日の僕は今日の僕になって、また実現不能な明日の僕を思い描くのだろう。
 
 僕はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ。もうそんなことを繰り返している暇はないぞ。せっかく花も買ったんだ。花弁が落ちないうちに渡した方が、鈴音がもう一度屈託のない笑顔を零してくれる可能性だって高くなるに決まっている。だから今日に行け。今すぐ山に向かえ。
 
 言い聞かせるように自分を駆り立てた僕は、直ちに朝の準備に取り掛かった。
 もし母さんが家に居たなら、強風と大雨の中外へ繰り出そうとする僕を引き留めたことだろう。
 だが運が良かったのか悪かったのか、今日の母さんは朝早くから仕事に出ていた。
 作り置きのおにぎりで朝食を済ませ、手早く合羽を身に付け仲直りの印を携えると、僕は意を決して玄関を出た。

 正面から吹き乱れるあからしま風が、合羽に覆われている頭をいとも簡単に露出させた。
 風に呷られ身体を浮かされないよう、姿勢を低くして一歩ずつ足を進める。単なる住宅路を歩いているだけだというのに、自転車で向かい風に突っ込む以上に体力を消耗させられた。
 
 豪雨に身体を晒しながら田圃のあぜ道に辿り着くも、ここに来るまでに傘どころか人一人として見ることはなかった。
 どんよりと暗い空も相俟って、さながらゴーストタウンにやって来たかのようだった。
 
 用水路の水流が荒くうねっている横を突き進んでいくと、やっとのことで森の入り口が伺えた。薄暗い木々の住処に立ち入れば、気休め程度には雨風がましになった。
 
 それでも時間が経過するごとに暴風が狂風に、豪雨が一段と凄まじく大地を叩き付け、僕は徐々に疲労を蓄積させていった。
 季節のせいもあって冷雨が身体を打ち付けていたことや、風に吹き飛ばされないよう木々の枝にしがみ付いたりしたことも影響していたのだとは思う。
 髪はシャワーを浴びたようにびしょ濡れになって、身体はもう芯まで冷え切っていた。加えて指先の感覚が分からなくなり始めた。

 軽く息を切らしながら、僕は現在地点を確かめるよう周囲を見渡す。
 目的のシンボルツリーに向かうには、ここからどう動けば良いのかを再確認したわけだ。
 
 しかし、僕はその場から一歩も足を動かすことができなかった。
 最近この辺を歩いていなかったからだろう。季節が転じて森の様子も変化したのか、僕にはここが何処なのかいまいち判然としなかった。
 
 だがこの場で立ち止まり続ける訳にもいかない。身体を動かすことをやめてしまえば、気温と雨風にやられた身体が震えてしまう。
 僕は感覚に頼って前進を再開した。
 
 糸のように細かい雨が周囲に霧を作り出していた。日光の代わりに雨粒が注ぎ込まれる薄暗い木々の密集地帯は、一転して僕に陰鬱な印象を与えた。

 こんな状況で山に迷い込んだというのに、不思議と恐怖心は芽生えなかった。
 
 今の僕には目指す場所と目的があるからこそ、余計なことに頭を使わなくて良かったからなのかもしれない。いや寧ろ、今さら後ろを振り返っても深い森を出られる気がしなくて、無理にでも他のことから目を逸らしていたとも言えるだろう。

 一旦孤独と恐怖を認識してしまえば、もう正常な判断を下せる気がしなかったのだ。
 とは言え、引き返すという道を選べなかった時点で、まともな思考が出来ていたどうかは怪しいものだろうが。

 絶え間なく降り落ちる雨水は、次第に合羽の隙間から内側へと染み込んでいった。
 靴の中までもが冷水で浸食され、身体から熱量という熱量が奪われていく。徐々に震え出した身体は、やがて小刻みに揺れ始めた。雨に打たれて身体が重くなり、唇が色を失いつつあった。
 
 それでも前へ前へと突き進み続け、だがシンボルツリーの蜃気楼さえ浮かんでこない。
 見覚えのある山道を歩いているはずなのに、暴雨の世界では映るもの何もかもが違って見えた。
 
 激しい雨水に穿たれた斜面には、所々で古い石段のようなものが露出していた。
 嵐で幹を傾かせている木々の中で、頑強にも真っすぐ伸び続ける大樹が一本視界の端で捉えられた。ようやく着いたのかと思って右手に視線を移すと、それは途中でポッキリと折れてしまっている禿げた木の円柱だった。

 感覚的にはもう目の前に大樹が見えるはずなのに、一向にその姿は伺えない。いつまで経っても同じ場所を歩き続けているような気がしてならなかったが、僕は低回するように右往左往するしかなかった。

 そうこうしているうちに暗雲の立ち込める空は一層の悪天候に見舞われた。
 ときおり鼓膜を破壊するような白の嘶きが不気味に辺りを照らすようになり、雨音の中には帰れ帰れと世界が僕を拒む声が聞こえた気がした。
 
 だとしても、僕は撤退の二文字を選ぶことは出来なかった。最早何かに導かれるようにして、ひたすらに突き進み続けることを選択した。
 
 下風に足元を掬われないよう大地を踏みしめる。森の遥か先に視点を固定させ、シンボルツリーを探し求め続ける。少しずつ少しずつ、だが確実に一歩前進を繰り返す。
 霧のような豪雨で視界不良の中、僕は懸命に視線を左右へと動かし、遠くを眺めていた。
 
 結論から言えば、それがいけなかったのだろう。
 
 一際強い逆風が吹き込み、僕は押し返されないよう両足で踏ん張った。幾ばくか風が弱くなったところで、右足を大きく前に出した。それから右足に力を込めて、今度は左足を蹴り上げるように前へ持ってくる。
 
 その幾度も繰り返した作業に不意の異変が生じた。

 どれだけ右足に重心を寄せても、どういう訳か大地の感覚が掴めなかった。
 おかしいな、と何気なく視線を下に向けたところで、目には衝撃的な光景が飛び込んできた。
 
 僕の右足は宙に浮かんでいた。大地が続くと思われていたその場所には、地滑りが起きたような空間が広がっていたのだ。
 
 全身の毛穴という毛穴が広がるように、背筋にはゾッと悪寒が走った。あっと気が付き身体を引っ込めようとするも、もう全てが手遅れだった。既に身体は前のめりになってしまっていた。
 
 死に物狂いで崖上へと手を伸ばす。微かに片指が崖先に届いた。
 が、その程度で全体重を支えられる訳もなく崖先の突起から左手が剥がれ落ちた。重苦しい重力は僕を掴んで離さなかった。
 
 今度こそ宙に投げ出されて、僕は元居た場所を見上げる形で仰向けになった。
 
 頭の中は真っ白だった。情けない悲鳴を上げることすらできずに、僕は崖地から身を投げる嵌めになったのだ。
 受け身を取ることもままならない。自分の身に起きたことを脳が上手く処理できなくて、僕は身を藻掻かせることさえ忘れていた。
 
 放心状態で自由落下に身を任せていると、突然、背中を突き破るような衝撃が身体中を貫いた。それは金属バットで脛を叩き割られたように凄まじい威力だった。
 視界が暗転と明転をせわしなく繰り返す。そのまま二転、三転と跳ねるように崖地とぶつかり合いながら、やがて僕は投げ捨てられたように崖下に倒れ込んだ。

 長い間、辺りは静まり返っていた。
 
 僕はうつ伏せの状態で地にへたり込み、体中の機能が停止したかのように肉体はピクリとも動かなかった。音という音を掻き消すような大雨に打ちのめされ、身体は増々冷えていった。
 そのせいか、興奮状態で麻痺していた感覚も元に戻り始め、段々と身体の至る所に鈍い衝撃や鋭い激痛が襲い来た。
 
 掛け値無しに、それは顔面が渦を巻いて歪むほどに酷い苦しみだった。言葉にならない呻き声が喉奥から漏れ出し、余りの辛さに無意識に身を捩れば、それが無理に動かした身体の痛みを増長させた。僕は悪循環の中で獣のような呻き声を上げていた。
 
 だけど、その状態がしばらく続いてしまうと、次第に身体に起こった異常事態がどうでも良くなっていった。
 熱を帯びた傷口に死神の吐息が纏わりつく。呼吸が遠のくように深くなっていく。なんだか身体がやけに軽いというか、まるで空に浮かんでいるような心地良い気分だとさえ思えた。

 ぼんやりと霞む視界の先には、薄暗い緑が映え広がっていた。突然片目が鮮やかな赤に覆われて、でもそれを拭う力さえ僕は振り絞れなかった。
 
 朦朧とする身体に反して、意識は異常なほどに鋭敏であった。
 だから、今の僕の身体に何が起きて、これがどういう状況なのかはなんとなく理解出来てしまった。
 
 まぁ、誰かを傷付けるような人間にはお似合いの末路だろう、と僕はこの理不尽を不思議と受け入れてしまう。
 色々とやり残したことはあるけれど、一番に思い浮かぶのはやっぱり、鈴音と仲直り出来ず仕舞いになってしまうことだろうか。でもこの結果は因果応報なのだから、致し方がないことだ。それに、あれから一カ月も経ったのだから、きっと鈴音は僕のことなんて忘れて日常に戻っていることだろう。
 
 このまま誰も居ない場所で、雨粒と共に大地に染み込んでしまえばいい。

 僕は投げやりな気持ちで自ら全身の力を抜き、自然な流れで重い瞼をゆっくりと閉ざした。

 胸の奥で大事に抱え込んだもの全てを手放そうとして、その時、何かが駆け寄って来るような音が聞こえた気がした。
 
 なんだろう、と思って瞼を薄く持ち上げると、二重にも三重にも重なった輪郭の覚束ない君の姿が見えた。

 「なんで…なんでこんな嵐の中…」

 そんな君は今にも泣き出してしまいそうな程に表情を歪ませていて、繰り出した言葉は酷く取り乱したように震えていた。
 
 君が動揺するなんてらしくないな、とひとごとのように思いつつも、結局僕は最後まで君を笑顔にしてやれないんだな、とどう足掻いても僕は僕が大嫌いになった。
 
 きっと、目の前にいる君は幻なのだろう。僕の未練が形となって現れただけなのだろう。
 だとしても、もう身体は動かないけれど、心は君に伝えたがっていた。ちゃんと言葉にしておかないと死んでも死にきれないように思えた。
 だから僕は残る力を振り絞って、微かに唇を震わせたのだ。

 「……ごめん、鈴音…嫌なこと、たくさん、言って…」

 「……ずっと…ずっと謝れ、なかったけど……僕はやっぱり、鈴音と一緒に居たくて…うん、許してくれないかもしれないけど、ごめん…」

 僕はちゃんと伝えきれただろうか。徐々に鈴音の姿が霞んで、突然真っ暗が訪れた。それは黒よりも深くて、行方の見えない深淵であった。
 たぶん僕は、これからずっとこの場所に縛り付けられるのだろうな、と思った。
 
 そんな中、身体は何か温かいものに包まれた感覚があった。
 想像していたものよりもずっと気持ちの良い余韻を残しながら、僕はとうとう残る意識を手放した。

 

 初めに僕を促したのは、腹の底に響くような恐ろし気な拍子でもなければ、数多の業を煮詰めた暗赤色の光線でもなかった。
 何処からか間延びした小鳥の囀りが飛んできて、ゆったりとした光が閉じた目に注ぎ込まれている。そんな呑気な環境だった。
 
 地獄行きのはずの僕が、何かの手違いで天国に迷い込んでしまったのだろうか。
 目を閉ざしたまま、僕はそんな疑問を抱いていた。
 
 頭は何か柔らかいものに乗せられていて、僕はもう身体を一歩も動かしたくない気分だった。
 動かせるけど動かさないで、ずっとこの心地良さに浸っていたいような、そんな感じだ。
 
 なんてことを考えて気が付いた。今の僕には、『動かせなかった筈の身体が動かせるようになっている』という事実に。
 
 信じられない事態に目を見開くと、「あっ」と可憐な声がすぐ近くで響いた。
 視界の遥か先には透き通るような青空と白い雲が浮かんでいて、その少し手前には青々とした大樹がそよ風に揺られていた。そこには天地がひっくり返ったように穏やかな天候が何処までも広がっていたのだ。

 がしかし、そんなことはどうでも良かった。
 空、樹と遠くから順番に焦点を当てて、最後に一番手前に映るものへ視線を移す。
 丸い瞳に反射する僕は間抜けな表情で瞬きを繰り返していて、そんな僕を見つめる君は面白そうに桜色の唇を引いていた。

 「おはよう、千風くん」

 屈託のない笑顔で挨拶を交わされ、僕は未だ狐につままれたままであった。
 一度身体を起そうとすると、僕のおでこに彼女の人差し指が添えられた。僕はそのまま頭を押し返されて、結局彼女の膝の上から起き上がることは許されなかった。

 「えっと、これは一体どういう状況なんだ…?」

 ようやく頭が追い付いてきたところで、僕は彼女を見上げながらそう訊ねた。

 君は一度僕から目を逸らし、遠くを眺めて考える素振りを見せた。すぐに視線を戻すと、彼女は微笑みながら「さぁ~?」といつもの調子で言った。
 
 君の大きな両目が余すことなく僕を捉えていて、僕もまた君で視界の大部分を覆っている。
 こうして君の笑顔を至近距離で眺めていると、なんだか妙にむずかゆい心地に陥った。自然と僕の視界はその他の部分に移動してしまった。

 このままで居ると、彼女から発せられる見えない何かが胸奥に溶け込んでくる気がした。だから僕は転がるように彼女の元から脱出したのだ。

 そうして実際に身体を動かして気が付いた。上半身に纏わりついているナイロンのボロ切れが、合羽の無惨ななれ果てであることに。

 数秒合羽を凝視して、再び僕は考え込んだ。果たしてどこからどこまでが現実で、どの部分が夢であったのだろうか、と。
 
 少なくとも合羽を着ている以上、僕は無謀にもあの大嵐を突っ切って山にやって来たことまでは確信を持てる。
 がしかし、その後のことには些か自信がなかった。濃霧に包まれたようにそれ以降の記憶が曖昧で、引き出せる記憶の断片のどれもが非現実的でしかなかったからだ。
 
 でも今は記憶を探ること以上に、為さなければならないことがあった。僕が苦労して森を突き進み、ここにやって来た理由を果たさねばならないのだ。
 夢の中で予行練習をしたお陰なのか、一カ月も言葉に出来なかったこの気持ちは驚くほどにすんなりと喉から繰り出された。

 「…鈴音。その、この前は酷いこと言って、ごめん。ずっと謝りたいと思ってた」

 大樹の下で横座りしていた君は足を解すようにゆったりと立ち上がると、人懐っこい笑顔で呆気なくこう言った。

 「いいよー、そんなことぐらい。全然気にしてないもん」

 誇張でも捏造でもなんでもなくて、本当になんとも思ってなさそうに思える鈴音を前に、「じゃあ、仲直りってことで良いのか?」と僕は念押しするように確かめた。

 君は間を置くこともなく「うん!これからも一緒にいよーね!」と快活な様子で応えた。
 
 時間が掛かり過ぎたとも言えるが、これでようやく鈴音とのひび割れた関係を修復できたのだろう。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、僕はもう一つやらねばならぬことを思い出した。
 
 確か、雨風にやられないようシャツの胸ポケットに仕舞っておいたはずだ。僕はレインコートの中に手を伸ばして、鈴音の為に用意していた贈り物を取り出したつもりだった。
 
 しかし僕の手に握られていたものは、昨日購入した可憐な花ではなかった。やけに軽いそれの正体は、千切れた茎の部分だけであったのだ。
 山を彷徨っているうちに花の上半分を失ってしまったのだろうか。僕は呆然と己の手の内を眺めていた。
 一方鈴音は僕の取り出した茎をジッと見つめていた。

 「蔦葉天竺葵」

 「え?」

 突として鈴音が呪文のような早口言葉を呟き、僕は素の調子で聞き返した。
 彼女は意を汲み取ったように、今度はゆっくりとその口を動かした。

 「つたばてんじくあおい。その花の名前だよ?知らなかったの?」

 「うん。花屋のおじさんに選んでもらったから」

 あの美しい花にそんな複雑な名前が付いているとは想像も出来なかった。

 「茎だけでも花の種類が分かるなんて流石だな」と僕は感心して褒め称えた。

 「そんなことないよー」と彼女は満更じゃなさそうな返事をした。

 「天竺って言うと、あの西遊記の?」

 「そうそう。三蔵法師や孫悟空なんかが出てくるお話だよ。あれすごいよね~」

 なんだかんだ一カ月以上も植物に関する見聞を広げてきたはずなのだが、この花に関連した内容はさっぱりであった。なので花名に関連した単語から会話を繋げてみると、これは当たりを引いたらしい。彼女は嬉々と僕の話に応じた。
 
 鈴音はこの手の話も好きなのか、と頭の中で彼女の趣向を把握しつつも、仲直りの証という意味で、僕は緑の茎だけとなった花を差し出した。
 暫しそれを眺めていた彼女は、明るい笑顔を振りまきながら言った。

 「ん~…私、今は受け取りたくない気分かなぁ~」

 予想外であった。
 いや確かに、花の魅力の大部分を占めているであろう花弁が失われている以上、贈り物としての価値もまた消失したと言っても過言ではないのかもしれない。だが鈴音も形としては受け取ってくれるだろうと、断られるとまでは夢にも思っていなかったのだ。
 
 何が衝撃的だったのかが自分でもよく分からないまま、僕は棒立ち状態を強要された。
 彼女は心配そうに一歩こちらに近づき、首を軽く傾げた。

 「…どうしたの?もしかして、まだどこか痛かったりする?」

 「…いや、ただ、ちょっと胸が」

 そんなにも不安そうに眺められては、僕も取り繕うことができなかった。隠すべき本音を少し洩らしてしまうと、鈴音はもう一歩こちらに寄ってきた。

 「胸?」

 「あぁ。一応、この花を買うためにお小遣い叩いたからさ、ちょっとばかしショックというか──」

 その小さな指で胸元を指差され、僕はおどけた調子で強がりの鍍金を張ろうとした、瞬間だった。僕の身体が引力に攫われ、時の流れが感じられなくなったのは。
 
 突然僕の身体はぎゅっと柔らかい肌に包み込まれて、背中には温かい君の手のひらを感じ取った。真っ白な首元に艶のある黒髪が目と鼻の先にあって、君の優しい香りが鼻孔いっぱいに広がった。ほとんど理解が及んでいない状態で、耳裏に君の声が響いた。

 「えっとね、それは分かってるよ。仲直りは仲直り。でも、なんて言うのかな。上手く言葉に出来ないんだ」

 すぐ側で耳に残るような囁きが伝わって、途端に僕の胸は強く締め付けられた。
 それは鈴音を傷付けてしまった時に味わった壊滅的なものではなく、きゅうと痺れるような感覚であった。
 
 周りからは酸素が根こそぎ奪われたみたいで、だけど君のしゃぼん玉みたいな匂いだけがその場に溢れ返っている。
 酷く甘い息苦しさを覚えながら、僕は君という透明なベールに覆われていた。
 
 「どう?もう胸は痛くない?」

 滑らかな声が肉体を突き抜け、危うく魂が掴まれそうになる。徐々に全身の中へ何かが浸透していくのを肌で感じ取り、いつしかその正体不明の存在が、僕自身の形を余さず変えてしまうような不安心を覚えさせられた。
 
 ここには長居してはいけない、といつもの如く頭の中は危険信号を発していた。そしてこれまでもそうしてきたように、僕はその場から脱するべきであった。
 
 でも君に包まれていると、伝播する温もりと共にだんだんとそんな淡い不安の色さえもが塗り替えられていった。
 そのうちに僕は、もうこの甘美なる芳香に逆らう気も起きなくなってしまった。鈴音に言葉を返すこともなく身体を脱力させ、鼻孔を蕩かしながらただただ抱擁され続けていた。
 
 心の隅の方でまずいと思っているうちに、手足の先からじわじわと不思議な心地がせり上がっていった。
 やがてそれは溢れるほどの勢いで頭と心の中枢にまで行き届いた。
 
 その瞬間、一秒を引き延ばして十秒を作り出す世界が訪れた。
 音も匂いも、周囲の景色さえも覚束ない。だけど君の姿だけは鮮明に捉えられた。瞬きを忘れて魅入る先では、鈴音が眩しくて見ていられないほどの煌めく笑顔を零していた。
 君から目が離せなくなった僕は、息継ぎすることすら出来ずに、ひたすら君という海に溺れていった。

 
 
 握り締めていたはずの折れ花は、いつしか大地に音を奏でた。


 ♦♦♦


 何度思い返そうとも、その日、僕の世界には大革命が生じ、君があらゆる物事の中心になったことに疑いはない。
 鈴音が右だと指差せばそこが右となり、彼女が夜だと唱えれば空は黒く染まって、天に丸い月が昇るようになったのだ。
 僕のすることなすこと全てに彼女の存在が関連付けられるようになったし、僕の生きる世界は君がいて初めて成り立つものになった。
 
 つまるところ、当時僕が築き上げようとした要塞はあっさりと陥落してしまったというわけだ。
 
 気だるげなブレーキ音と共に、列車が大きく左右に揺れ動いた。
 どうやら目的地に着いたらしい。回想を一時中断し、僕は列車が停止するのを待った。
 いつも通り、終点で降りるのは僕だけのようだ。足音を響かせながら廃れたプラットフォームを通り抜け、無人の改札窓口に切符を捨て置いた。
 
 古臭い駅を出て、はたと足を止める。降り注ぐ日差しを遮るように手をかざし、頭上を仰ぐ。
 そこには青天井の大空が広がっていた。白雲は上下に大きくたなびき、その中で自己主張の激しい太陽が輝いている。
 強烈な陽光によって、剥き出しの皮膚は焼きつくような痛みを覚える。微かな風が立ったと思えば、籠った熱気が身体を包み込んだ。懐かしい炎天下の匂いだ。
 
 閑古鳥さえ寄り付かない駅前を歩み、近くのバス停の時刻表を確認する。どうやら十分ほど前に先発が行ってしまったようで、今からだと三十分待ちらしい。
 
 まぁ、待つことには随分と慣れてしまった。それぐらいは許容範囲だ。
 
 気長に次のバスを待つことにした僕は、ゆったりと錆びたベンチに腰を下ろした。
 何処からか締まりのない蝉の声が聞こえていた。夏らしい夏に放り込まれたせいか、頭の中では風鈴の調べがちらついてやまない。その爽やかな音に導かれるように、僕はまた頭を空っぽにするのだ。
 
 在りし日の追憶は続く。

 ♦♦♦


 あの日を契機として、僕らは再び時を共にするようになった。
 一年でも数少ない快適な気候の中、どんぐり拾いに繰り出す日もあれば、遠目に鹿の親子を見守る日もあった。秋風に揺られ、赤く燃える葉や黄に輝く葉が舞い散る森を駆け回る日もあったし、約束通り、幾色にも染まった帳の世界に見惚れる日もあった。
 それは季節に似合った穏やかな日々だった。
 
 そうこう毎日を過ごしていくうちに、木々の隙間を縫うような木枯らしが吹き抜けるようになった。
 首を垂れる黄金の稲穂は綺麗さっぱり刈り取られ、美しかったあぜ道には殺風景な土色だけが広がるようになった。
 色彩に富んだ紅葉樹も、山香ばしを除いてすっかり葉を落としてしまった。
 
 二度目の季節の移ろいを前にして、馴染みの図書館から借り出した蔵書を片手に、僕は今日も今日とて山に入り浸っている。
 こちらもすっかり慣れた道になってしまっていて、僕はすぐにシンボルツリーに辿り着いた。
 
 周囲の木々が剝げ始めたからこそ、常緑樹であるシンボルツリーは一層の存在感を放っている。近くには赤黄色の落ち葉や既に褐色化した枯れ葉が散り積もっており、その下には地面に張り付いたナズナの緑が見え隠れしていた。
 三色に彩られた大地はさながら錦の絨毯のようであった。
 
 紅葉が最後の輝きを放っている世界で、巨木の大きな幹に寄りかかっている君は、僕の姿を見つけるや否や大きく手を振ってくれた。
 それだけで僅かに血の巡りが速まり、僕は飛ぶように彼女の傍に駆け寄った。

 「そう言えば、今回は千風くんの番だったよね」

 鈴音は思い出したようにそう言うと、その場に腰を下ろした。同じように僕も大樹に身を預け、足を台替わりにして本を用意した。

 「今日はなんのお話なの?」

 「これは司書さんにお勧めされたんだ本なんだけど…」

 僕の持ち寄った本が気になるのか、隣に座る鈴音はこちらに身体を傾けた。
 黒髪が僅かに揺れると、君の柔らかな匂いがこちらに流れ込んだ。そしてその度に僕の心臓は早鐘を打つのだ。
 
 言わずもがなではあるが、それは変化のほんの一部分に過ぎない。
 たとえばあれ以来、僕は長いあいだ君と瞳を合わせることが出来なくなった。一瞬間目が合う程度なら問題ないのだが、その状態が続くと胸の奥がこそばゆくて仕方がなくなるのだ。
 
 しかし、いつまでもそんな調子ではいられない。冷たい空気を熱の籠った身体に吸い込み、僕は平静を取り戻した。

 「今日はエロスとプシュケの話…ギリシャ神話だな」

 気を取り直して古臭い表紙を見せてやると、「あ~、あの二人のことかー!」と彼女は得心したように声をあげた。
 
 「これも知ってるのか?」僕は驚き声で尋ね返した。

 「前も言ったでしょ?私は全部覚えてるって」鈴音は堂々と答えた。
 
 なんと本人が言うには、彼女は御伽噺の全てをその頭の中にインプットしているらしい。
 さてそれが真実かどうかは定かではないが、彼女が僕にその手の話を語るときは、確かに本を持って来ずに、自分の言葉で話し始めるのだ。
 
 鈴音の方が内容を把握しているなら、このように隣り合わせに座り、これからわざわざ二人で文章をなぞる必要もないのかもしれない。
 だけど、こうやって二人で息を合わせて黙読をすることは、仲直りを境とした僕らの日常の新たな一コマに加わっていた。
 
 鈴音がこういう御伽噺にも精通していることを知って以来、僕らはこうして大樹の下で並んで座っては、数日に一度はそれぞれの持ち寄ったお話を語らうようになった。
 僕が本に触れる習慣を身に付けられたのは、間違いなく隣で熱心に文字を追っている君のお陰なのだろう。
 差し詰め、僕にも読書の秋がやって来たとでも言えばよいだろうか。もっとも、もうそろそろ秋も終わりが近しいし、季節が変わろうともこの時間は続いていくのだろうが。

 「愛と疑いは一緒にいられない」

 最終頁を見届けると同時に、嘆息の混じった淡い声が聞こえた。ふと横に首を向けると、彼女は薄い青の秋空の先を眺めていた。

 「千風くんはさ、どう思うかな?」
 
 数拍の間を置いてから、鈴音は僕に問い掛けた。
 『愛と疑いは一緒にいられない』それはエロスとプシュケの物語の一節に出てくる格言のようなものだ。
 
 エロスとプシュケについて大雑把な説明をすると、プシュケと呼ばれる絶世の美女と、彼女を愛したエロスという神が、様々な苦難を乗り越え最後には幸せに至るという物語である。
 
 格言が出てくる場面に焦点を当てると、人間と神が結ばれるには、人は決して神の姿を見てはいけないというルールが存在していて、そのためエロスはプシュケに姿を見せないように生活していた。
 しかし、プシュケは夫であるエロスが人食いの怪物なのでは、という疑心を捨てられず、とうとうエロスの姿を目視してしまった。言いつけを守ってくれなかったプシュケに対して、エロスはその言葉を残し、去ってしまった。大体こんな感じだろう。
 
 内容を追っている間は気にも留めなかったが、なるほど、言われてみれば深い意味の籠った言葉なのかもしれない。
 僕はたっぷり熟考した末に、彼女を見やりながら答えを出した。

 「愛と疑いは共存できる。僕はそう思う」

 鈴音は目配せで続きを促した。言い切った僕は、なんだか先生に発表しているような緊張感で解答に理由を付した。

 「例えば、愛している人がいたとして、その人に一滴の疑いも向けないなんてことがあったら、それはもう盲目の愛情じゃないか?相手を疑う気持ちが芽生えて、それが胸中を渦巻いたとしても、相手を愛することは出来ると思うんだ。だから愛と疑いっていう気持ちは、必ずどっちか一つしか選べないものなんかじゃなくて…えっと…」

 「一方を立てると他方が立たないものじゃないってことだね」

 頭の中に思い浮かべるイメージを言語化しようとして、でも話しているうちにどんどんこんがらがって言葉を纏められなくなっていると、彼女はくすっと笑いながら上手い言い回しを与えてくれた。
 解答に三角を付けられた僕は、「はい、そうです」と畏まった返事をしてしまった。

 「鈴音はどう思ってるんだ?」

 「私はね、愛と疑いは一緒にいられないと思うよ」

 代わり番こに訊ね返せば、鈴音は僕と真逆の答えを呈示した。同じように視線を送ると、彼女はすらすらと言った。

 「だってさ、どれだけ愛してる人がいてもね、その人に疑いを抱かせるようなことをしたら、或いは疑心の念を抱かせたままにしていたら、きっと相手は愛してなんかいられなくなる。その人の愛は疑いに塗り潰され、そうでなくとも疑いが勝るだろうからさ。私にとって愛と疑いは相反するものだと思うの」

 鈴音は確固たる様子でキッパリとそう主張した。そこには水と油の如き僕と君との決定的な価値観の差異が現れているように思えた。
 
 愛情が別の形に歪められてしまう。
 彼女の語ったその言葉は、僕にとってはどこかもの寂しいものに思えた。それでも出来るだけ鈴音の思考回路に基づく為に僕が懸命に頭を捻らせていると、「それにね」と彼女は続けた。

 「『信じることは見ること』って言葉もその本には書かれてたでしょ?それってさ、信じることが前提になってるよね。疑っていたら信じれないのはもちろんだけど、そもそも愛と信頼は表裏一体だと思わない?」

 「それはそう思う。信じられなきゃ愛することは出来ない。…って、これじゃ鈴音の解釈の方が正しいってことなのか」

 信頼と愛は強固に繋がっている。彼女の問い掛けに対して、僕は迷うことなく同調した。
 そして思ったのだ。物語上では『愛と疑いは一緒にいられない』とエロスに言われてしまった当の本人であるプシュケこそが、最終的には『信じることは見ること』であると語るようになった。となると、回り回って疑いと愛もまた相容れないものなのではないだろうか、と。
 
 君の完璧な推論にはぐうの音も出ず、僕は両手を上げて降参した。

 「あ、別に言い負かしたかったわけじゃないよ。千風くんの考え方だって素敵だし、それぞれ思うことなんて千差万別なんだから」

 気を落とした僕を気に掛けてくれたのか、鈴音は僕の肩を持つように微笑んでくれた。
 ささやかな同情を噛み締めた僕は「読んでて一つ疑問に思ったんだけど」と話を続けた。

 「『信じることは見ること』じゃなくて、『見ることは信じること』じゃないのか?ことわざだってそうだろ?」

 『見ることは信じること』これは確か英語圏のことわざを日本語訳したもので、『百聞は一見に如かず』と同じような意味を持っているものだったはずだ。夏休みの国語の課題を真面目に取り組んだことが功を奏したのか、僕はそんな言葉を覚えていた。
 尋ねられた鈴音は、一つも躊躇うことなく言った。

 「ううん、信じることは見ることなんだよ」

 目線で続きを欲すると、彼女は流暢に言葉を並べ始めた。

 「信じることで…つまりそう在ると考えることで、信じた世界が見えるようになる。これはね、イエスの奇跡によって盲目が解かれた人の話なんだけど、見えない状態でもイエスを信じたことで本当に見えるようになったって言う──」

 「あっ、ごめん。ちょっと難しい話だったね」

 饒舌に語り尽くそうとしていた彼女はこちらを眺め、しまった、と言わんばかりの様子で口元を抑えた。次いで苦笑いを浮かべると、申し訳なさげにそう付け加えた。
 その難解過ぎる問答を前に、思わず放心していた僕に気が付いたのだ。
 
 最初こそ鈴音の言わんとすることを噛み砕こうと必死になっていた僕も、いつの間にか限界を迎え、相槌を打つことさえ忘れてしまっていた。
 鈴音の蓄えた知識が放出されることを妨げてしまった僕は、代わりに彼女を称賛するべく口を動かした。

 「いや、構わない。…ほんと、鈴音はなんでもかんでも知ってるんだな。いつも僕の方が与えられてばかりだ」

 僕は誇張なしの褒め言葉を贈ってやった。
 対する鈴音の反応は、僕の望んだものとは大きくかけ離れていた。
 間違いなくあの満面の笑みが見られると思っていたのに、実際の彼女はというと、微妙な思案顔を浮かべた。

 「んー、そんなことないんだけどなぁ」

 別に、鈴音を褒め上げるために自分のことを下げたわけではない。僕は紛れもない本心でそう言ったつもりだったのだ。
 だが彼女曰く、そういう訳でもないらしい。

 「じゃあさ、僕は鈴音に何を与えられてるんだ?」

 僕の口がその形に動こうとしたその手前で鈴音は立ち上がると、お望み通りの無垢な微笑みを浮かべてくれた。

 「さ、日が暮れる前に駆けっこしに行こうよ!」

 今日も一番欲していたものを拝めて、僕の心は充分に満足を示していた。
 完璧にその笑顔に持っていかれた僕は、二の句を継ぐことなく、駆け出した君を追い掛けるように大樹の下を発った。
 
 見える世界が丸ごと変わって以来、僕は事ある毎に、君の一挙一動に振り回され続けていた。君の横顔に見惚れ、微笑みに脳を蕩けさせ、その声で名前を呼ばれれば心臓が大きく脈打った。
 そんな風に、僕は目の前に浮上した初めての感情にばかり没頭していたのだ。
 
 だからこそ、僕は最も注意を払わなければならないことに意識を向けられなかった。
 
 それをあえて言葉にするのならば、『愛と疑い』に関する僕と鈴音の価値観は、確かに食い違っているように見えたかもしれない。
 だけどもっと注意すべきことだったのは、僕らは『愛と疑い』に対するアプローチの方向性こそが、全くの真逆であったということだろう。

 ♦♦♦


 あれから更に月日は流れ、朝は布団から出られない時期がやって来た。
 窓には結露が生じ、空気は身を裂くように冷え込むようになった。多くの人はこの季節を、灯油ストーブで暖かくなった家の中で、更には炬燵に引き籠って過ごすべきものとして捉えているだろう。
 
 しかし僕はそうせず、当然ながら山へと足を運んでいた。
 僕は彼女と一緒に居られるだけで、その心に一足も二足も気の早い春が訪れるのだから。
 
 現状、僕の気持ちは三つ巴と呼ぶに相応しい状態だった。かつての僕が抱いた君に対する心の内は、友愛と敬愛、そして親愛の三強であって、心はそれ以外が立場を主張する隙間のないほどに三色で塗りたくられていた。
 
 だがあの一件を切っ掛けに、新たに四色目が頭角を現した。
 それが友愛と親愛のどちらが塗り替えてしまったのかは定かではないが、心が甘く踊るような気持ちが台頭したことは確かだ。
 今はまだそれぞれが均衡しているが、いつかその前線が破壊され、たったの一色に染まる日も近いのかもしれない。
 
 詰まる所、綻びが修復されたその日、解けた糸は別の形に結ばれてしまったのだ。
 もちろん、僕にとってはそれは天地が入れ替わるような大事件だったけれど、悲しいことにも鈴音にとっては何一つとして変化はなかったのだろうが。

 もしあんなことさえ起きなければ、僕はこうはならなかっただろうか。
 いや、彼女の傍に居続ければ、遅かれ早かれ似たような気持ちを抱かされていたのだろうな。
 
 以前は混じり気のない友情が先行していたからこそ、僕は君本人ではなく、彼女の持つ才気にばかり気を取られていた。
 しかし今となっては鈴音にこそ心惹かれ、好奇心を駆り立てられていることは言うまでもない。君のたわいない一言一句、そして何気ない身振り手振りの一つ一つに、今日も僕の世界は大きく揺さぶられている。
 
 こうして僕が自らの感情を再確認しているのは、そうすることで胸に抱くこの想いを身に深く染みさせ、より強固なものへと発展させること以上の意味があった。
 近頃僕の頭を悩ませているものが、この感情と大きく関係しているように思われたからだ。
 
 と言うのも、これはそうして彼女自身に意識を向けるようになって以来の話だ。
 いつからか僕は、鈴音に対して幾つかの不可思議な点を見つけ出していた。それは普通は見落としてしまいそうな極々細かな点であったが、それでも僕がそれらに気が付いてしまったのは、やはり鈴音に夢中になった僕の心境の変化ゆえなのだろう。

 であれば、件の七不思議とは一体なんなのか。

 「千風くーん?もう疲れちゃったの?」

 毎晩のように思い浮かべる疑問のあれこれを整理していると、数メートル先で枯れすすきをかき分ける鈴音が大きな声で呼び掛けてきた。
 
 「ちょっと考え事してただけだ。僕が歩き回るぐらいで疲れるわけないだろ?」

 僕が息巻いた言葉で応えると、彼女はペースを上げて森を突き進み始めた。
 僕の強がりを試すつもりなのだろうか。まぁ自分としても、最近は以前に増して虚勢を張りがちな傾向にあることは自覚しているのだけれど。
 
 話を戻そう。
 別に七つも見つけられたわけではないが、一つ目。まずは薄の群生地で藻掻く僕の姿に着目して欲しい。次いで一足早く抜け出した鈴音に目を向けてくれ。
 夏の過剰な熱線を浴びた僕はすっかり小麦色に焼けてしまったというのに、一方同じく時を過ごした彼女は、出会った時と変わらず透き通る乳白色のままである。視認出来ない純白のドレスでも纏っているのだろうか。

 次に二つ目、兎みたいに木々の茂る斜面を登り詰めていく彼女を、僕は大きく遅れて後ろから眺めることにしよう。
 
 こうして派手に動き回ろうとも汗を掻かない季節になって、僕も少しばかり髪を伸ばすようになった。
 対して彼女の滑らかな黒髪は、今日も鏡のように美しく木漏れ日を反射させているが、これまた夏の頃から一ミリも髪が伸びたように見えない。加えて、毛先までもが依然として綺麗に纏まっているのだ。
 
 とは言え、言ってしまえば上記の二つは前菜や副菜のようなものであり、主菜はこれから語る最後の一つこそである。
 何せこの二つは、それを実際に行うのが現実的であるかどうかは別として、何かしらの形で辻褄が合わないこともないのだ。
 
 例えば前者は、鈴音が毎日肌の手入れを行って日焼け止めを絶やさず塗ったとか、元々日焼けしにくい体質だとでも言えばいいし、後者に関しても、鈴音が毎晩髪型を維持する努力をしたとか、或いは家族に気の利く美容師がいるとでも言えばいいだろう。
 
 がしかし、最後の一つばかりは筋の通る理由を見つけられなかった。

 「おー、段々速くなってきてるね~」

 軽々と斜面を登り切った彼女は、余裕綽々の表情でこちらを眺めていた。それに大分と遅れてゴールに辿り着いた僕は、両膝に手を置いて白い息を切らした。

 「鈴音は、相変わらず速過ぎる、だろ…」

 あれから数カ月経とうとも、どうにも彼女には敵わないらしい。僕もそれなりに成長したとは思うのだが、鈴音にはまだまだ余力が残っているように思えた。
 息の乱れた僕が愚痴をこぼすと、鈴音は一層のしたり顔になった。それからはいつも通り、僕が息を整えるまでの間、暫し僕らは勾配の急な斜面の下を眺めているのだ。
 
 一見、こんなことは僕の発見した不可思議とは無関係にも思えるかもしれない。
 がしかし、よく注意して欲しい。空気が涼しくなり、更には底冷えに差し掛かっているのに合わせて、半袖で過ごしていた僕も長袖を、そして今はパーカーまで羽織っている。
 
 こうして身体を動かして初めて手足がじんわりと熱を取り戻し、身体が温かくなるような季節になった。
 例えば御伽噺を読んでいる時なんかは身体を動かすわけでもない。当たり前のことだが、半袖などでは震えが止まらず読書どころの話ではないだろう。そんなことをした翌日には体調を崩して痛い目を見るだけだ。
 それだけに、僕には解せなかった。

 最後に三つ目、僕が季節に合わせて厚手をするようになったというのに、鈴音は相も変わらず薄手のワンピースを身に着けていた。それも、夏ごろから色も形も変わらないものを、だ。

 この寒さの中、平気で素肌を晒していられるなんておかしくはないだろうか。現に今の彼女は何食わぬ顔で、白いワンピースを一枚だけ纏っていた。
 
 尚も僕を理解不能に追い込んだのが、そんな恰好をしていたら寒くて凍えてしまうはずなのに、君は一切白い息を吐き出さないことだった。
 呼気が湯気のようになってしまうのは、体内と外部の温度差によるものだと理科の授業で習った覚えがある。
 となると、鈴音の身体はこの冷気と変わりない…はずがない。だって、あの時触れた鈴音の身体には、確かな温もりが宿っていたのだから。
 
 であれば何故なのか。これ以上は堂々巡りだった。僕程度の頭脳では到底解き明かせない謎がそこにあった。
 
 しかし一旦意識してしまえば、それを端に追いやり消滅させることは難しかった。
 鈴音のことを考えれば必ずと言っていいほどにそのことが脳裏を過った。家に居ようと学校に行こうと君と遊んでいようと、悶々と晴れない靄が僕に纏わりつき、彼女に対する疑念は日を追うごとに雲の如く膨らんでいった。
 その上、これまでの僕は余りに鈴音のことを知らなかった。
 
 だからこそ、貪欲にも僕はもっと君を知りたいと願うようになっていたのだろう、自らを制御できないほどに。

 「なぁ、鈴音」

 好奇心という名の欲心に抗えなかった僕は、とうとう話を切り出してしまった。
 鈴音がこちらに顔を向けた。「ちょっと聞きたいんだけどさ」僕は間を置くことなく続けた。

 「鈴音は寒くないのか?こんな季節に半袖なんか着てて」

 募った疑念をようやく言葉に出来て、僕の心のもやもやは些かすっきりした。
 問い掛けられた鈴音は、きょとんと豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべていた。
 
 しかし、その唖然としていた顔にも次第に雲が立ち込めていくではないか。
 やがて彼女は落ち着かない様子で自身の身体を見回すようになった。終いには僕を上目に見やり、その表情を憂わしげなものに変えた。
 
 「…おかしいかな?」

 いつもと違って不安げな調子で尋ねられては、徒に疑問を解消した僕こそが悪者であるように思えた。
 やってはいけないことをしてしまっただろうか。自信なさげにワンピースの裾を掴む鈴音を前に、僕は久々にそんな心地に陥った。

 「いや、おかしいとかそういう訳じゃなくて…その、寒くないなら構わないんだ。鈴音が風邪ひいたら心配だしな」

 「…そっか。でも大丈夫だよ、私は風邪なんてひかないから」

 彼女を安心させるよう、僕は努めて言葉を選んだ。そのお陰か、ようやく鈴音の表情にも微笑みが戻った。
 が、納得いかない部分もあるらしい。彼女は暫し小さな声で何事かを呟いていた。
 僕はそんな彼女をぼんやりと眺めながら、頭はまた別なことに作用していた。
 
 少なくとも今の問答を通して、分かったことが二つある。
 
 一つは、鈴音が冬の寒さを意にも介していないこと。
 そしてもう一つが、気温云々以前の問題として、『彼女はこの季節に半袖で居ることが異常であることを認識していないこと』だろう。
 
 率直に言って、こんなことが有り得るのだろうか?鈴音の体感覚は通常とは違っているとか、そういうことなのだろうか?
 
 疑問を解消出来たと思ったら、また新たな疑問がふわふわと頭に憑りついた。手で払いのけようとも霧が晴れることはなく、僕はどんどんと濃霧に呑み込まれていく。
 謎が謎を呼ぶ。上手くジグソーパズルを解いたつもりが、盤面からピースがそこから根こそぎ抜け落ちたようだった。
 
 それでも僕は性懲りもなく、ばらばらになったピースをはめ直そうと両手を動かし始める。かき集めた情報の断片を繋ぎ合わせることで、鈴音の全てを丸裸に出来るように。

 しかして以降の僕は、鈴音の不可解な点を見つけ出してはその原因を突き止めようとした。
 だがそれは、僕は探偵にでもなった気分だったとか、そんな自分に有頂天になっていたとかでは断じてない。
 僕はただ純粋に、彼女をより深く知り、もっと強く理解したかったのだ。

 それ故、この日のように鈴音の表情を曇らせることのないよう、それからの僕は疑問を頭の中で解消しようとするに留めた。
 僕にとっての優先順位を履き違えることはなかったのだ。
 
 と言っても、僕が不可思議を解き明かそうとしたことに変わりはない。
 秘密を暴くということには、得られるリターンが未知数である一方で、強大なリスクが付き物であることには留意しなければならない。それは分の悪い賭けに挑んでいると言っても構わないだろう。

 公然であろうと内密であろうと、秘密が秘密でなくなったその時、何かが破綻してしまう。暗黙の了解がいい例だ。
 そこまで分かっておきながら、僕は彼女の不可思議について考えることをやめはしなかった。

 恋は人を盲目にするとはよく言うが、実際はそればかりではない。
 恋とは、自分本位の自己中心的な思考回路へと至らせる破滅的な病でもある。
 そして過ぎた好奇心が滅ぼすのは猫でも人間でもなく、目には見えぬが大切なものなのだ。

 ♦♦♦


 その次の日は、生憎の雨天であった。
 朝から糸雨が絶え間なく降り注ぎ、昼間だというのに空気は冷え切っていた。
 土に汚れた運動靴が濡れた地面に茶色い足跡を残しては、雨粒が手早くそれを掻き消していく。僕は雨と鼬ごっこを繰り返しながら、霧雨に見舞われた曇り空の下を歩いていた。傘を差すことはなく、代わりに黒いポンチョをぽすりと被っていた。
 
 であれば、その足は毎度の如く図書館へと向いていたのか。
 はたと動きを止めた先には、雨粒を纏い艶やかな緑たちが待ち構えていた。
 なんの躊躇もなく濡れた草木をかき分け、やがて僕は目的の場所に辿り着いた。と同時に、太い幹の裏から彼女が顔を覗かせた。

 「おはよう。鈴音」

 「ん、おはよー。千風くん」

 実際にはもう午後三時を回っていたが、今日鈴音と会うのはこれが初めだ。だからこの挨拶にも何の問題もないだろう。
 そうして定型的な言葉を交わしてから、僕は鈴音の待つ大樹へと向かった。
 
 君との距離あと五メートルというところになって、彼女は突如「待って」と僕を立ち止まらせた。

 「どうしたんだ?」

 「えっとねー」

 鈴音は微笑みを浮かべながら言葉を濁した。彼女が何かを企んでいるのは一目瞭然だった。僅かな間を置いてから、鈴音は調子の良い掛け声と共にこちらに躍り出た。

 「じゃーん!どうかな~?」

 裾を掴んでそれらしい姿勢を取った彼女は、この薄暗い天気に似合わないぐらいにいつもに増して陽気な様子であった。
 
 そんな鈴音を目にして、僕はただただ不思議でならなかった。
 だって、彼女はいつもと変わらず下駄っぽいサンダルに白いワンピースを纏って、鏡のような黒髪とその魅惑の頬笑を──。
 
 と、そこで気が付く。星のように僕の両目を惹き付ける微笑みから目を逸らし、まず彼女の足に着目した。
 山を駆け巡っているうちにいつかポッキリ折れてしまうのではないかと、見ている方がヒヤヒヤするほどに細い線を描いた乳白色の脚が、今日は幾ばくか見え辛くなっている。
 
 更に彼女の上体に視線を移してみれば、いよいよその変化は明らかになった。
 いつもは余すことなく外界に晒されていた華奢な腕が、今やすっかり白い生地に覆われてしまっているではないか。

 「長袖にしたのか?」

 再び彼女の顔を見やって問い掛けると、「うん、そうだよ!」と二つ返事が返された。

 やはり鈴音も来たる冬の寒さには耐えられず、半袖は止めにしたということだろうか。いやしかし、結局あの生地の薄さではどんぐりの背比べといったところだろう。となると、何故長袖を着るようになったのだろうか。
 
 などと考えていると、鈴音は妙な咳払いを挟んでから、耳打ちするみたいな小声を発した。

 「それで、千風くん的には、どう?」

 「どうって…」

 君の曖昧な言葉に対して、僕は幾通りかの答えを思い浮かべた。
 鈴音は何かを待ち望むように何度か僕の目を見てはそっぽを向いた。
 そのいかにも褒めて欲しそうな君の様子を前に、自ずと頬は緩んでいた。微笑みを浮かべた僕は、どうとでもとれるその言葉を贈った。

 「すごく、似合ってると思う。やっぱり鈴音には白が一番なんだろうなって思わされるぐらい」

 決してお世辞ではない。それは鈴音を良い気分にさせつつも、僕の気持ちのごく一部を入り交えた嘘偽りのない本音だった。
 それでも胸に抱く感情は悟られたくなくて、それが表に出ないよう僕は努めて真顔で言ってのけた。

 賛辞を受け取った君は、「そっかそっかぁー」と何気ない素振りで即応した。
 
 程なくして、僕らは隣り合わせに大樹に寄りかかった。
 お互いに言葉を発することはなく、霧雨が葉を叩く音に暫し耳を澄ませた。そこには悪くない沈黙が漂っていた。
 
 だから時折、「えへへ…」と照れくさそうな笑声が隣から聞こえたのは、抗えず横目を向ければ、そこに気恥ずかしそうな君が居たのは、全て僕の気のせいなのだろう。

 

 暫時雨止みを待ってはみたが、今日のバケツはまだまだ空っぽにならないらしい。
 僕らはその場から一歩も動き出せないまま、静謐に身を任せていた。
 
 どうして僕は雨の日だというのにここに来たのか。それは単純なことで、嵐の日に鈴音が僕と同じように山を訪れていたから他ならない。
 以前の僕はてっきり、鈴音は雨天時には足を運んでいないものだと思い込んでいたのだが、あの日、実際はそうでないことを理解したのだ。
 
 そういうわけで、僕はあれから天気に関わらずここにやって来ている。
 もちろん、雨の日に出来ることは少ない。こうして大樹の下で雨宿りすることが関の山だろう。あとはぽつぽつと僕が日常の話題を持ち出しては、彼女が優しく相槌を打ってくれるぐらいだった。
 
 遠い雲から零れ落ちた無数の雨粒は、大樹が命一杯広げた葉を容赦なく打ち付けていた。真上の方では雨が葉を叩く乾いた音が無数に響き渡り、正面では枝から滴り落ちる雫が深い水溜まりを作っていた。それは鹿威しみたく一定間隔で耳障りのいい水音を奏でていた。
 
 僕はこの時間にある種の心地良さを見出していた。
 普段は快活に笑い、活動的に動き回っている僕らが、この時ばかりは人が変わったように静かな時間を過ごす。その緩急が良かったとでも言えばいいのだろうか。鈴音と共に雨音へ耳を傾け、のんびりと時の流れを感じるこの瞬間は嫌いじゃなかった。
 いつしか雨が降ると妙に荒ぶるようになった心音も、何故だか君と共にいれば唸りを潜めるのだ。

 まぁ、少し前までは雨模様が嫌いだった癖に、今となっては雨天をも快晴と同列に扱うようになっている自分の手のひら返しには呆れてしまうのだが。

 結局、その日は日暮れまでに雨足が弱まることも止まることもなく、僕らは長閑けな一日を終えた。
 まだ鈴音との時間を終わらせたくないと思う反面、また明日には素晴らしい時間が訪れることを訳もなく期待する。
 そうやってなんとか名残惜しい気持ちに区切りをつけて、僕は重い腰を上げるのだ。

 「あっ、そうだった」

 僕らが別れを交わそうとしたその時、鈴音は言い忘れていたように両手を叩いた。

 「明日はさ、千風くんは山に来ちゃ駄目だからね」彼女は別れ際にその言葉を付け加えた。
 
 一瞬の間を置いてから「…?鈴音も来ないのか?」と僕はたいそう疑問気に尋ね返した。
 
 僕らは明確に遊ぶ時間帯を決めず、野良猫みたいに気ままな調子でここに集まっている。だからこそ、来るなと言われるのは初めてのことであり、それは同時に意外な発言でもあったのだ。

 僕の問い掛けに対して、鈴音はさらっと「うん、まぁそんな感じ」と答えた。

 厚い雨雲のせいもあって、帰り道はもう薄闇に包まれていた。

 僕が慎重に足を進めようとすると、「ちゃんと足元に気を付けてね」と彼女は何処か不安そうに言った。

 「ん、じゃあ、またな」と僕が言葉で応じれば、「ん、ばいばい」と君もまた相槌を打った。
 
 別れの言葉を皮切りに、僕は長い下り道を進んでいった。
 その間、いつも僕は一度読んだ本を見返すように一日を振り返っている。例えばその日は、何気ない情景の一つ一つを描いては、僕は長袖ワンピースを纏った君の姿を噛み締めるように何度も再生していた。
 
 ふと足が止まった。今日の鈴音を思い返していると、変な引っ掛かりを感じたのだ。
 
 一秒前に頭をもたげたことを掘り返すように、僕はもう一度じっくり今日という日の日記を読み込んだ。
 するとやはり、ある描写に違和感が見つかる。その不可思議を具体的な形にしたくなって、僕は誰に言うでもなく、雨音に包まれた森でそれを言葉にしていた。
 
 そう言えば、雨具を持っていない鈴音は、どうやってに濡れずにあそこまで来たのだろうか。

 ♦♦♦
 

 その次の次の日の放課後、僕は山に向かうことなく図書館へと繰り出した。
 水気の多い絵の具で塗りたくったような空には、異国の夏を追い掛けたばかりに遠くでひかめいている太陽が浮かんでいた。
 今日はこの季節にしては、外で動き回るのに最適な日だった。
 
 せっかくの晴れに彼女と遊べないことは残念極まりないが、一度その寂しさに身を浸すことで、明日がより楽しみになることだろう。
 そうやってある意味での正当化を図ることで、今にも百八十度回転しそうな我儘な足をなんとか言い聞かせる。
 彼女に会いたい欲求を抑え切ったところで、僕は図書館の扉をゆっくりと開いた。
 
 館内入場三歩目のことだった、長身の彼女がこちらに向かって来たのは。

 「お、少年。珍しいね、雨が降ってもない昼下がりにここに来るなんて」

 僕の姿を認めた斎藤さんは心底意外そうに言った。
 
 「そういう日もあるんです」と挨拶がてらに言葉を返すと、僕らはそのまま図書館の一角へと足を進めた。
 
 こうして図書館を訪れる度に斎藤さんが僕を気に掛けてくれるから、いつの間にか彼女は僕専属の秘書みたく振舞うようになった。
 彼女は慣れた手つきで本棚から数冊引っこ抜いては、それらをざっとテーブルの上に並べた。

 「で、今日はどっちの本探してるの?植物系?それとも神話系?お勧めはこれとこれなんだけど」

 毎度僕の趣向にピッタリ合った本を提供してくれる斎藤さんは、もしかせずとも何か別のことに才能を活かした方が良いのかもしれない。
 まずは数冊分の表紙を眺め、それらを一冊ずつ手にとっては数頁を捲って感性と相談する。

 暫く経ってから「じゃあ、今日はお勧めどっちも借りることにします」と僕は答えた。

 本来なら斎藤さんの仕事もここで終わりのはずなのだが「そう言えば」と彼女は言葉を続けた。

 「えーっと…日向祐介くん、だっけ?少年のこと探してたよ」

 「日向が?なんでですか?」

 よもや斎藤さんからアイツの名前が出てくるとは思わなかった。
 何処がどう繋がってこんな伝言が届けられたのか。と言うか、同じクラスに属しているというのに探しているとはどういう意味なのか。
 
 疑問が後者に偏った結果、僕はそちらについて訊ね返した。

 「さぁ?まぁ察しは付くけどね。少年は雨の日とかに良く来るよー、って教えてあげたんだけど、どうやらその生態も移り変わりつつあるみたい」

 「人を観察動物みたいに扱わないでください」

 斎藤さんとしょうもないやり取りを交わしながら、僕は久々に日向のことを思い出していた。
 しかしあの時の怒りは再燃するどころか、今や完全に沈下していた。僕は根に持つ性分ではないのだ。
 
 とは言え、あれ以来僕は彼らと遊ぶことはなくなった。でもそれは別に、彼らが許せないとかそういうわけではない。
 学校の時間は本を読んでいればいいし、放課後には鈴音に会いに行くわけだし、ただ彼らがいなくとも僕の世界は成立していたというだけの話だ。
 人というのは、どこにも居場所がないことは辛いが、どこか一つでも安息地が見つけられたならそれで充分な生き物なのだ。
 
 まぁ、用があるならそのうち向こうから話し掛けてくるか、と適当な考えに落ち着いた僕は、受付にて本を借りるべく動き出そうとした。
 しかし一歩目でその足を止めると、僕は首を後ろに向けた。

 「一つ、聞きたいんですけど」と僕は話を切り出した。

 「私に答えられることなら」斎藤さんは頼もしい返答をくれた。

 昨晩から頭をひねっては答えを導き出せなかった疑問。僕はそれについて訊ねた。

 「今日は山に入るなって言われたんですけど、何か知ってたりします?」

 これまで毎日のように(あれ以前は天候によりけりだったが)森の中で落ち合っていた僕らが、何故今日に限ってそれを制限しなければならなかったのか。
 僕にはそれがどうしても理解が出来なかったのだ。
 
 僕が顔を出せば必ず姿を現してくれる以上、鈴音があそこで待ってくれているのは当然のことのように思えてしまう。
 だから今日も言いつけを破って山に向かえば、「来ちゃダメだよって言ったのにさ~」と朗らかに笑う君が居る気がしてならなかったのだ。
 
 僕の質問を受けて、斎藤さんは少々考える素振りを見せた。

 「そうねぇー…禁足日とかじゃないの?」

 「禁足日?」

 聞き慣れない言葉を前に、僕は鸚鵡返しをした。斎藤さんは重ねて推測の予防線を張りながら続けた。

 「そう、日頃狩りや木々の伐採でお世話になってる山の神様に感謝する日のこと。その日は山に入っちゃいけないんだって。私はよく知らないけど、多分今日がその日なのよ、きっと」

 「なるほど…」

 「禁足日って言うのはねぇ、一時的に禁足地に早変わりするみたいなものだから中々に背筋の凍る話が揃ってるのよ。例えばこの怪異小説なんかは──」

 「結構です」

 楽しげな様子で赤い表紙の本を紹介しようとしている辺り、図書館で働いている斎藤さんもやはり本の虫ということなのだろう。
 
 しかし、それは僕にとって耐え難い内容であった。
 訪問セールスをあしらうよう片手を前に出す。身振りでも意思表明を済ませると、僕は早々に受付に向かった。
 
 大きな体で行く手が阻まれた。彼女は嫌な笑みを浮かべながら「ん?もしや少年は怖いものが苦手なのかな~?」などと僕を煽った。
 それでも知らんぷりを貫き通すと、「ちぇ」と詰まらなそうな舌打ちが聞こえた。
 
 難は乗り越えたか。
 流石の斎藤さんも、僕がそれを明言しないからと言って本を貸さないなどという暴動に出ることもなかった。
 結果、僕は無事に目的の本を借り出すことに成功した。
 
 だがそこはあの人だ。僕は借りるつもりのなかった本を一冊、彼女は無理に預けてきた。

 「ま、少年もこれでホラー慣れしときなさい」

 よし、一頁も捲ることなく返却しよう。
 僕はげんなりとした気分で堅い決意を抱きながら、対照的にニマニマとした笑顔の斎藤さんからホラー小説を受け取った。表紙でさえも見たくなかったが、それが視界の端に映るのは不可抗力であった。
 
 瞬間、僕は見えない何かに頭を固定されたように表紙に釘付けとなった。
 
 長らく手入れされていないであろう乱れた長髪。病的にまで青白い肌。原始的恐怖を呼び起こす真っ黒な眼窩。そしてくすんだ白のワンピース。
 典型的且つ王道の幽霊が、そこに描かれていた。
 
 だが脳内の情報処理はまだ止まらなかった。
 長いことズレていた歯車が噛み合い、確かな音を立ててつっかえていた絡繰りを起動させる。神経細胞にシナプスが駆け巡る。脳裏に断片的な単語が浮かんでは消えていく。
 
 綺麗な白のワンピース、雪のような肌色、寒さを感じない、雨にも濡れない肌は焼けない髪は伸びない、そう言えばどうして彼女はいつも時間ピッタリにあそこに居てくれてる──。

 「…まさかな」

 脇下に僅かな湿り気を感じ取り、嫌な痺れと共に背筋がピンと伸びた。
 
 「少年、どしたの?」

 斎藤さんは不思議そうにこちらを眺めていた。

 「いえ、なんでもないです」

 現実に引き戻された僕はぎこちない笑顔を浮かべた。
 
 正直、妙な合致点が多過ぎると思った。
 
 しかしまぁ、そんなことがある訳ないじゃないか。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、幽霊なんて科学的根拠に欠ける存在だろう?あぁ、その通りだ。うん、くだらないことを考えるのはよそう。
 
 土砂崩れのような思考を強引に堰き止め、僕はその余りに飛躍した可能性を頭から追いやった。

 ♦♦♦
 

 一周回って日が天に上ると、僕はまた山へと向かうようになった。
 
 僕があそこに辿り着けば、やっぱり鈴音もひょっこりと姿を現した。そんなことを何カ月も繰り返しているなんて、もしや僕らは磁石のように引かれ合っているのだろうか。
 いや、残念ながらそれは一方的な思い込みなのだろう。実際の僕らはS極とN極などではなく、単に僕の方が引き込まれているだけに違いない。
 
 だがこの数日間を境に、僕はそんな甘い幻想に浸っているばかりではいられなくなった。馬鹿げた思考が脳裏を過っては、事ある毎に僕の心に陰りを与え始めたのだ。
 
 これがそのれっきとした証拠だろう。彼女は懸命に首を伸ばしてこちらを覗き見ながら、不服そうに言った。

 「もうちょっとこっち寄ってよー。じゃないと見えないからさ~」

 二人揃って大樹の麓に腰を下ろし、今日は僕が本を開けている。最早恒例となった読書会だ。
 しかしそこには、以前と違っている点が一つあった。
 
 それは隣り合った僕らの距離感覚である。
 前までの僕と鈴音は肌と肌がかろうじて触れ合わないぐらいの間隔で座り込んでいた。微風が吹けば君の髪が流れ、僕の頬にくすぐったい感覚を残す。鼻孔には落ち着く匂いが広がり、僕の全身は骨が抜けたのように和らいだ。
 それはそれは、実に安らかな心地でいられる時間だった。
 
 しかし今はどうか。僕らの間には一人分ぐらいの奇妙な空間が生じているし、彼女がこちらににじり寄れば、僕は距離をとるまではせずとも仄かな緊張感を覚えた。
 この排他的な合間を設けたのは僕の一方的なことだし、そもそもこれまで彼女の傍に寄っていたのも、君が何も言わないことを良い事にしていた僕の方であった。

 僕は不自然に鈴音を遠ざけようとしている。

 それは自分でも自覚していることであった。
 そしてまた鈴音も、薄々何か勘づいてきたのだろう。つい昨日から僕の真意を図りかねた様子で、

 「…ね、どうしたの?」

 と頻りに尋ねてくるようになった。その度に僕は精一杯の貼り付け笑顔で、

 「どうかしたのか?なんでもないけど?」

 と応じるのだ。
 
 「…そう?なら良いんだけど…」と君は答えたものの、その表情はほんの少しの憂いを残したままであった。そんな君に出会えば出会うほど、僕の胸は爪楊枝で突かれたみたいにチクリと小さな痛みを感じ取った。
 
 僕は繰り返し自分に言い聞かせる。脳内に纏わりつく二つのイメージをなんとかして切り離そうとする。
 しかしそれは溶解した金属みたいに接合点で溶け合って離れず、じわじわと彼女への心象に不純物が混じっていく。
 
 そうだ。鈴音は何も悪くない。邪まなのは割り切れない僕なのだ。
 
 こうして鈴音に忌避感めいたものを抱いてしまった原因は分かっている。赤い表紙のせいだ。清廉な鈴音とあの汚らわしく陰湿な表紙絵は似ても似つかないはずなのに、いつしか僕はそれを混同してしまっていた。

 一度でも錯覚が生じてしまえば、物事の見え方は大きく歪む。
 言わば、その正否に関わらず、仮説の肯定に繋がる要素ばかりに囚われてしまうのだ。
 
 世にいう確証バイアス。僕はまさにその状態に陥っていた。
 
 加えて、これまで腑に落ちなかった疑問の数々も、彼女が非科学的な存在であると仮定すれば説明がついてしまうのも問題であった。
 もっとも、前提をそんな都合の良いものにしてしまえば、当たり前の如く疑問というものは大概が解決してしまえるのだが、当時の僕はそんな簡単なことさえ見落としていた。
 
 例えば、仮に彼女が隣町の学校に通っているのだとしたら、距離的に考えて僕の方が先にここに着くはずなのだ。なのにいつもここで待ってくれているというのは一体どういうことなのか。
 他にも、そう言えば何故彼女は僕よりも先に帰ることはないのか。何故僕を見送っているのか。そもそもいかで日常の話題を一つも吹っ掛けてこないのか。
 
 考えたことを一から挙げるとキリがないが、それら全てが鈴音と幽霊との結びつきを強めたことに違いはない。

 言わずと知れたことだが、人は正体不明の未知を恐れる生き物だ。
 
 それは僕とて例外ではなかった。

 僕には幽霊なんて居るわけないだろうと笑い飛ばせる勇気もないし、襲い来る幽霊に向かって強気に立ち向かえるような度胸もない。
 もし独り暗闇の中に放り込まれるようなことがあれば、何処かで何かが血眼になって生者を睨み付けているのでは、と訳もなく恐怖に苛まれ、膝を掛けて震えあがることだろう。
 
 恐れという感情には人一倍敏感な僕が、僅かにでもその可能性を見出してしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
 鈴音をそんな風に見てしまうなど、己の審美眼が曇ったようでこの上なく不快だったが、それでも原始的本能には打ち勝てなかった。
 
 もちろん、とって食われるかもしれない、などとまで思っているわけではないはずだ。
 だが彼女はいつか正体を露わにし、血走った目で僕の首を両手で締め上げるのではないか、と思うと、とても無防備に傍には居られなかった。

 「んー…今日はもう読書やめよっか。千風くん、実は身体動かしたいんでしょ?」

 鈴音は徐に立ち上がり、見当違いなことを言ってのけた。
 
 「…あぁ、そうしよう。やっぱり冬は寒いからな」

 適当な言葉を返し、僕は彼女の提案に乗った。歩き回るとなれば、距離を開けても怪しまれはしないだろうと思ったのだ。
 
 そうして僕らがぎこちない距離感で大樹の下を発とうとした矢先のことだった。

 「千風!」

 何処で聞き覚えのある声が響いた気がした。それは彼女の清らかな声とは違い、若い男の子が発するような大きな声だった。
 辺りを見回してみれば、僕らの前方に日に焼けた少年が見えた。

 「日向か、久しぶりだな」

 「…あぁ、こうやって話し掛けるのは、久しぶりだ」

 僕がいつもと変わらない調子で言葉を切り出したのに対して、日向はやけに慎重に言葉を選んでいた。僕らがまともに口を利いたのは、実に数カ月ぶりのことだった。

 「よく僕がここにいるって分かったな」

 「最近放課後になったら居なくなるから、もしかしたらここかと思って来たんだ。当たりみたいだったな」

 二言目を発する時には、日向も以前の様子に戻っていた。なるほど彼がここにやって来られたのは、僕が一度連れてきてやったからか。

 「それで、わざわざここまで来てどうしたんだ?」

 「そのー…」

 三言目になると、日向はまた言葉に詰まった。
 首裏に手を当てながら煮え切れない様子で右のつま先を立てる。数度靴先で円を描いたところで、意を決したようにこちらに顔を向けた。

 「この前は、結構言い過ぎたなって思って…。やっぱり、このままじゃダメかと思ってさ…その、悪かった」

 「あぁ、そんなの気にするな。僕らの間じゃ珍しくないことだろ?」

 僕はあっさりと日向を許した。実際、僕らは喧嘩が日常茶飯事みたいなものだったし、今回も特に深刻な仲違いをしたという訳でもない。これまでは大体、どちらかが謝りたい雰囲気を醸し出したところでそれとなく仲直りを繰り返していたが、今回の僕はそんなことそっちのけであった。
 
 その最大の理由が、僕の隣で身体を強張らせ、黙りこくっている彼女である。
 せっかくの機会だと、僕は鈴音に目配せした。それから、「それよりさ」と僕が日向に向き直れば、

 「だめっ──」

 鈴音は小さな悲鳴を上げると共に、慌てて僕の服の裾を掴んだ。しかしそれは一歩遅く、僕は胸を張って彼女を紹介してしまっていた。

 「ほら、こいつが前に言ってた鈴音だ。植物博士で御伽噺にも詳しいんだけど…鈴音?」

 遅れて彼女の妙な反応に気が付く。
 鈴音は裾をぎゅっと握り絞めたまま、僕の身体を遮蔽物にするように後ろへ隠れてしまった。
 鈴音に手の近くを掴まれ、僕の心臓は喜びと恐怖の二つの意味で大きく脈動した。
 肩
 越しに振り返った視点を元に戻す。日向は僕を眺めて唖然としていた。数秒口が閉じないような素振りを見せた末に、我が目を疑う様子で恐る恐る言った。

 「……千風?お前一人でどうしたんだ…?」

 「……は……?」

 頭が困惑一色に染まり切った。
 日向が放った短い言葉を三度ほど繰り返し、長い時間を掛けてそれが聞き間違いなどではないことを把握した。
 
 そして同時に、もう一つ理解せざるを得なかった。
 僕と同じか或いはそれ以上に愕然としていた日向は、動揺したままに言葉を続けようとした。

 「いや、だから一人で──」

 それ以上は言わせてはならない。言わせたくない。言って欲しくない。
 様々な感情が入り混じった結果、僕は直感的な判断を下し、すぐさま言葉を重ねた。

 「あぁ、ちょっと寝ぼけてたみたいだ。さっきそこで昼寝してたからさ。…まぁ、日向は先に帰ってくれ。また明日な」

 春や秋ならまだしも、この寒さの中外でうたた寝する馬鹿者など居るはずがないだろう。僕の口から出まかせは甚だ杜撰なものであったが、混乱状態の日向には効果覿面であった。
 
 捲し立てるように堂々と言い切ってやれば、彼もひとまずそういうものだと飲み込むことにしたらしい。何かを不思議がりながらも、「…あぁ、また明日な」と別れの言葉を残して去っていった。
 
 その背中が確実に見えなくなるまで見送り続ける。残された僅かな間で目が回るほどに思案を繰り返す。
 僕と鈴音との空間に嵐が襲い来たことで、これまでの安寧は根こそぎ破壊されてしまった。
 
 まぁずっと前に僕は日向達を連れてきたのだから、どう転んでもこのような結果には行き着いたのだろう。これは僕の蒔いた種だ。誰にも文句は言えまい。
 さて、これから僕はどうしたものだろうか。いざという時には、全力でこの場から逃げ出さねばならないのだろう。
 
 虫の音はおろか、鳥一匹の囀りさえ聞こえない。冬の寂しい空気だけがその場を突き抜けていた。
 僕はあらゆる可能性を想定しつつ、思い切って身体ごと振り返った。
 
 その先には、視線を落として縮こまっている鈴音が居た。そこには普段の彼女が放つ明るい様子は微塵も見受けられなかった。
 僕は警戒を怠らず、彼女の予備動作に備えた。
 僅かな沈黙ののちに、鈴音は滲んだような瞳で僕を覗き込んだ。

 「…え…っと、ね…。その…わ、私は…」

 しかしそれは言葉とならず、君は怯えたように声だけでなく身体をも震わせた。それはまるで、大きな罪を犯したが故に相応の罰を待つ子供のような姿だった。
 
 鬼が出るか蛇が出るか、といった心構えで後ろを向いた僕は、そのどちらもが姿を現さなかったことに唖然としていた。
 やがて鈴音の目尻には光るものが浮かび、君はそれを隠すように俯いた。数滴の雫が大地を微かに湿らせた。
 
 途端、訳もなく胸が締め付けられた。
 大地に染み渡る水滴が己の心にも及んでいるように、いま自分が何にも代えられない耐え難い苦しさを覚えていることを強く意識させられた。
 
 ──あぁ、そういうことだったのか。
 
 その時、巨石が音を立てて瓦解するように、或いは波にさらわれた砂城のように、僕の中の変に凝り固まった価値観は一掃された。
 十年近くと一緒にいるはずの自分の一端をようやく理解できた気がして、それは心地良ささえ感じるほどに不思議と腑に落ちる答えだった。
 
 あんなにも掻き乱されていた心が、今は迷い一つ感じられない。
 僕は何気なく身体を伸ばすと、彼女を追い越すようにゆっくりと歩き出した。

 「じゃ、ちょっと身体動かしに行こうぜ。ずっと座ってて身体鈍ってるしなー」

 「…千風、くん…?」

 僕の間延びした言葉が辺りに木霊した。それはこの緊迫した空気に不相応なもので、君は戸惑いに塗れた声色で僕の名前を呟いていた。
 僕は思い直したように数歩進めた足を戻して、徐にポケットからハンカチを取り出した。それで彼女の目尻から柔らかい頬にかけてを丁寧に拭ってやると、僕はいつも通りの、嘘偽りのない微笑みを向けた。

 「ん?なんかあったか?ほら、早くしないと時間なくなるぞ」

 まるで僕の行動が全く理解出来ないといった様子で、君は狼狽したように長らく僕を見つめていた。
 しかしある時になって、ようやくその表情に日を差し込ませてくれた。
 僕がほっと胸を撫で下ろすと、そのまま鈴音は僕を追い抜くように駆け出し、やがてはいつものように僕を先導し始めた。

 やっぱりこれで良かったんだな。

 彼女の屈託のない笑顔を眺めていると、僕は深くそう思わされた。
 暗黙の秘密が暴かれそうになった直前で、僕は何よりも優先するべきものを再認識出来たのだ。
 
 あんなにも不安そうに怖がる君を見たその時、鈴音にはそんな顔をして欲しくないんだと、いつでも太陽みたいな笑顔を魅せて欲しいんだと、僕の魂は切に叫んでいた。
 回りくどい事はなしにして、結局のところ、それが全てだった。
 
 要するに、君がこの地に囚われた地縛霊だろうと人の形に化けた妖狐だろうと、僕が君に抱く気持ちは変わらないのだ。
 もちろん、本当のことが気にならなかったと言えば嘘になる。
 だがそれで鈴音が嫌な思いをするぐらいなら、そんなことは知らずにいるほうがマシだった。そういうことだ。
 
 如何に表面が暗い靄に覆われようとも、奥底では真っ直ぐな感情が息をしている。大切なのは属性ではない。そこに想いが宿るか否かだけなのだろう。
 
 そもそも、これほどにまで純粋な君が悪霊な訳がないし、よしや呪いを掛けられたとしてもどうってことはないのだ。僕にとって鈴音から授かる呪いというものは、驚喜の福音に等しいだろうから。

 ♦♦♦


 それ以外には何もない、駅前のバス停に佇むこと三十分強。ふと身体が陰に覆われ、目の前で空気の抜ける音が聞こえた。
 
 やっとのことで古びたバスが到着したようだ。かつては鮮やかであったろう外装は剥がれ落ち、バスは今や傷だらけの姿をしていた。
 ディーゼルエンジンからは黒い排気ガスが噴き出しているが、その間隔は不規則で今にも動きを止めてしまいそうだ。
 
 という感想を抱くのはこれで何度目だろう。案外故障しない所を見るに、こいつもブラウン管テレビみたいなものなのかもしれない。
 軋んだ音を立ててドアが開くと、僕はバスに乗り込んだ。特段冷房が効いている訳でもなく、当然のように蒸した空気が室内を覆っている。窓が大きく開け放たれていることが唯一の救いだった。
 
 定刻には十分ほど遅れているものの、定年間近と見える白髪の運転手は謝りもしないし、一方僕もそれを咎めることはない。
 この街では皆、時間にルーズなのだ。まるで徒競走でもしているような忙しなさの都会とは違っていて、時の流れはゆったりと動いている。
 ここで暮らしていると、時計の針が止まっているのかと勘違いしてしまうぐらいだ。

 勿論、それはあくまで錯覚である。実際にそうであればどれだけ嬉しいことだろう。
 ともかく、ここで生まれ育った僕はそれを知っているから、この程度で腹を立てることもないのだ。
 
 適当な座席に腰を下ろすと、バスは再び大きな音を立てて出発した。
 どうやら道の方にもガタが来ているらしく、頻繁に車体が上下に揺れた。その度に風鈴が大きな音を奏で、僕はまた遠い思い出に浸ろうとしていた。

 しかしその直前に、どうにも聞き覚えのある声が響いた。
 それに気が付けたのは、ちょうど掘り起こす記憶の中に同じようなトーンの声の持ち主が現れたからだ。

 「よぉ、奇遇だな、千風」

 後部座席に首を向けると、相変わらず色黒な彼が笑みを浮かべていた。
 記憶の中の彼と比べると、その輪郭には枠からはみ出したような違和感を覚えたが、それはあどけなかった表情が大人らしいものに成長した証だろう。
 こうして旧友の姿を見ると、この町にも時が流れていることがようやく実感できた。
 
 「あぁ、久しぶりだな、日向。何年ぶりだ?」

 僕は同じように言葉を返した。

 「何言ってんだ。つい一カ月前も会っただろ」

 彼は気さくに僕の冗談を笑い飛ばした。
 
 共に幼少期を経た旧友の中で、このようにしばしば顔を合わせる奴はこいつぐらいだ。
 他の連中は退屈なこの街に嫌気が差して都会に出て行ったものだから、皆で集まる機会は中々ない。
 日向は家業を継いだものだから、僕を含む多くの人間と違って、今も生まれ育った故郷で暮らしを営んでいるのだ。
 
 彼は最寄りのバス停に着かないうちに降車ボタンを赤く点滅させた。そして手に何かを握る仕草をしながら、それを口に呷るようにして見せた。
 
 「せっかく一カ月ぶりに会ったんだ。一杯やろうぜ」

 彼はにやりと笑った。

 「まだ昼だぞ?」

 僕は形式だけの浅いため息を吐き出した。そういうのも嫌いではない。小腹が空いていたのも事実だ。
 
 次のバス停で降りると、僕らは小さな商店街に繰り出した。
 道の両脇には細々と店が立ち並び、しかし活気が失われているわけではない。そんな田舎町の小さな飲み街だった。
 
 どうやら、毒林檎に手を伸ばすのはもうしばらく後で済みそうだ。


 ♦♦♦


 その年の夏を契機として、そして秋冬と季節を経るにつれて、僕は減少傾向にある新たな読書家の一人に加わった。
 とは言ったものの、学校図書館に入り浸り、書架を征服する勢いで読書に没頭することもなければ、かと言って街の図書館の閲覧室に引き籠ったわけでもなかった。
 
 確かに本は好きだ。だが僕が本当に好きなのは、本を読むこと自体ではなかった。
 
 読書が全く嫌いというわけではない。
 しかしそれ以上に、僕は聞き手となることが好きだった。読み手が朗読する物語を受け取り、脳裏に美しい情景を描いては咀嚼することに魅力を感じていたのだ。
 この世に生を授かった時にはとっくに絶滅してしまっていたが、生まれる時代が違えば、僕は紙芝居屋なんかに虜となっていたのかもしれない。
 
 けれども僕はそれを惜しむことはなかった。紙芝居屋などに出会わずとも、こちらの方がより素晴らしいものだと確信しているから。

 「其の島に天降りまして、天之御柱を見立みたて──」

 音楽のように澄み切った玉音がすぐ隣で響いている。
 高尚な演奏に身を浸すように伏せた目を僅かに横へ向けると、目を閉ざし長い睫毛を際立たせた君が、心まで洗い流してしまいそうな清音で詩を詠っていた。
 
 口を挟みかけた僕は何も言わず、鈴音を邪魔しないよう耳を傾けた。
 彼女の旋律は数十秒と続き、あっという間に締め括られた。最後の一音を詠った鈴音は小さく息を吐き出した。
 
 程なくして、僕は両手を叩いて賛称した。
 彼女はこそばゆそうに頬を緩ませた。
 微笑む君を充分に楽しんだ後になって、僕は言いたかったことを伝えた。

 「ごめん、全然意味が分からなかった。もうちょっと優しく説明して欲しい」

 「え」

 すっかり僕が理解したと考えていたらしい彼女は、称賛を浴び得意げだった目を丸めた。
 
 それからすぐに「じゃあなんで黙ったのさ~」と非難した気な表情で僕を問い詰めた。
 
 「そりゃあ、あんまり鈴音の声が綺麗だったから、ついつい」と僕がわざとらしい言い方で答えれば、君は喜ぶような呆れたような、なんとも言えない笑みを浮かべた。

 一呼吸挟んでから、「仕方ないなぁ」と彼女は僕にでも分かるよう簡単にお話を教えてくれた。

 結論から言うと、それは国生みと黄泉の国の物語だった。
 より分かりやすく言えば、伊邪那岐と伊邪那美で有名なあの神話だ。
 彼女の搔い摘んだ解説は、国生みの終わりから黄泉の国の最後までだった。それを具体的に言えば、火之迦具土神が生まれ、それと引き換えに伊邪那美が死んでしまったところからである。
 
 「なんで初めからじゃなくて、中途半端なところから始めたんだ?」と僕が問えば、「…そこはあんまり関係ないところだから」と鈴音はそげなく答えた。

 

 「でもさ、伊邪那岐も酷いもんだよな。せっかく再会できた伊邪那美から逃げ出すなんて」

 「そうかな?私は仕方のないことだと思うけど」

 彼女の話す物語にも区切りが付いたことだし、話題転換の意味も込めて僕は無難な感想を述べたつもりだった。
 鈴音は予想外の答えを返した。ここは共感の得られる箇所だと思っていたばかりに、その衝撃は大きかった。

 「なんで仕方がないんだ?伊邪那岐と伊邪那美は相思相愛だったろ?」

 「うん、伊邪那美が死ぬ前はね。でも、伊邪那岐は変わり果てた最愛の人を受け入れられなかった。それだけの話だよ」

 彼女の語りを思い出しながら、僕は二人が愛し合っていたという事実を指摘した。
 鈴音は間を置くこともなく、どこか儚げな声で反駁した。
 
 いまの僕らが着目しているのは、黄泉の国の物語の方だ。
 その概要は、死んでしまった伊邪那美をどうしても忘れられなかった伊邪那岐が、はるばる黄泉の国にまで妻を迎えに行くという話である。

 黄泉の国とは死者の行き着く世界であり、とうとうそこに辿り着いた伊邪那岐は伊邪那美を見つけ出す。
 しかし、既に黄泉の国の食物を食らい、死者の国の住人となってしまっていた伊邪那美は簡単には元の世界へ戻れない。黄泉の国の神から帰還の許可が得られるまでの間、決して私の姿を見ないようにと念を押した上で、二人は待機することになった。

 愛する妻が目と鼻の先にいる状態で、伊邪那岐は辛抱ならず、遂にはその姿を覗き見ようとしてしまう。
 松明の揺れる火が照らし出したそこにはなんと、蛆に集られ腐った身体となった伊邪那岐が居た。

 それを見て恐ろしくなった伊邪那岐はその場から逃げ出し、伊邪那美はそれを追い掛け──いや、ここらで切り上げることにしよう。

 「伊邪那岐にとって、醜悪な伊邪那美は愛せる対象じゃなくなった。住む世界が異なる。たったそれだけのことだけど、そこに想いは結ばれないんだろうね」

 憂愁の混じった吐息が聞こえる。隣へ顔を向ければ、物語の当事者のようにとっぷりと世界観に入り込んでいるのか、君は辛そうな表情でこちらを眺めていた。
 瞬間、僕はほとんど反射的に次なる言葉を見つけていた。

 「そんなことない。例えば鈴音が蛇女だったとしても、僕は変わらずに君を見つめられるから」

 その言葉は喉まで出かかった。が、瞬く間に軟口蓋が喉を塞ぎ、それは寸でのところで飲み込まれた。
 感情のままに動いてはいけない。僕は落ち着きを取り戻すように大きな深呼吸を挟んだ。
 
 客観的に見て、僕の放とうとしていた言葉はどれほどに自惚れたものだっただろうか。そのうえ、たとえ話であったとしても、彼女を気味の悪い妖怪として扱うことなど許されるはずがないだろう。僕は慌てて代わりとなる言葉を用意した。

 「…まぁ、これは伊邪那美を愛し切れなかった伊邪那岐が悪いんだろうな」

 「プシュケーとはまた違うけど、伊邪那岐は自分の愛に疑いが生じたのかもね」


 そうやってお互いの概評を纏めたところで、僕達は伸びをしながら立ち上がった。
 
 「どこか行きたいところはある?」と君は尋ねつつも既に足を進めていた。

 「今日も鈴音のお任せで」僕は苦笑しながら彼女の後に続いた。
 
 山はすっかり茶色ばかりが目立つようになった。踏ん張るように枝に残ったごく少数の葉っぱも、冷たい風に吹かれてひらひらと舞い落ちていく。
 
 こうして冬になると極端に木々の間隔が広がってしまうのは、夏は草木が過剰に生い茂る反動ゆえなのだろうか。
 枯れ木を踏み締める音だけが無口な森に響き渡り、今日は虫の喧騒さえ演出されなかった。
 
 そんな寂々たる森の奥へと進めば、徐々に僕らの足音以外の物音が聞こえるようになった。
 こぽこぽ、こぽこぽと、一定の音律が森を流れていく。音源に惹かれるようにそちらへ向かうと、やがて僕達は少し開けた場所に出た。
 
 そこは落葉樹と常緑樹に囲まれ、枯れ葉の中にも緑がまだらに萌えている場所だった。
 辺りにゴロゴロと散在する丸い岩々には苔が生えていて、すぐ近くには大きな倒木が転がっている。そしてその中央には、透き通った清流が穏やかに流れていた。
 
 今日の目的地はここだったらしい。鈴音は倒木に腰を下ろすと、僕を促すように隣を叩いた。
 同じように僕も倒木を座椅子代わりにすると、彼は耐えかねたように彼なりの金切り声をあげた。

 「ここ、良い場所でしょ?」

 小川のせせらぎに心身を落ち着かせていると、それに負けないぐらいに耳に快い声が鼓膜を撫でた。
 僕はそれを無言で肯んじた。こちらの意図を汲んだ彼女は、暫し静寂の時間を作ってくれた。
 
 時々、君がゆっくりと流れる浅瀬に指先を伸ばしては、「わっ」と弾んだ声をあげて水面から指を引っ込めたりもしていたが、それも含めて気持ち良い静けさだった。

 「ね、千風くん」

 不意に名前を呼ばれて、「どうした?」と僕は尋ね返した。彼女は挑戦的な笑顔を浮かべると、小川を指差し答えた。

 「せっかくだし勝負しよーよ。どっちが長く我慢できるか」

 鈴音との勝負事と言えば山登りが真っ先に浮かんでくるが、あれはもう勝てるビジョンが一切見えない。
 ともすればこのチキンレースも似たような結末に至るのかもしれないが、「よし、その勝負乗った」と僕は彼女に言葉を返した。

 大切なのは勝ち負けではない。第一に鈴音が笑顔になれて、二の次に僕が勝てるかだ。
 勝負を開始することに決めた僕らは、倒木から飛び降りて川辺に近づいた。

 声を揃えたカウントダウンの末に、両者勢いよく水面に片手を突っ込んだ。
 バシャリと音を立てて二つの波紋が生じ、小さな気泡が下流へと流れていく。氷に包まれたかのような過度な冷たさに思わず唇を噛みながらも、僕は川に手を浸し続けた。
 
 意外にも勝負は長期戦へと突入した。
 僕も鈴音もさも何事もないかのようにポーカーフェイスで視線をぶつけ合いながら、自然の冷水に腕を浸らせ続けた。

 先に音を上げたのは、やっぱり僕の方だった。余りの冷たさに右手が刺すような痛みさえ覚え、堪え難く腕を水上へと救出してしまった。

 「いやー、流石にちょっと冷たいかな~」

 などと呑気に笑いながらゆっくりと左手を引き上げた彼女は、その表情通りにまだまだ余裕に溢れているように見受けられた。
 しかし鈴音の左手もまた、僕の右手と同じように僅かに赤く腫れていた。
 
 鈴音でも度を越した温度変化には影響を受けるのか。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、その時、僕は電撃的に閃いた。
 それを実行した場合に起こり得る可能性までをシミュレーションすることなく、いや、実際に想定してしまえばそんなことは出来なかっただろう。僕はあっさりとそれを行動に起こした。

 「ひゃぇ!?」

 冷え切った僕の右手を、君の濡れた左手の甲にそっと重ね合わせる。
 その突発的な行動に鈴音は頓狂な声をあげた。君は跳ね飛ぶように僕の傍から離れようとするも、左手だけはその場から動き出そうとはしなかった。

 あんまり慌てふためく彼女が意外で、僕は思わず笑い声をあげてしまった。
 何が何だか分かっていない様子で、でも文句を言いたそうな鈴音は口を尖らせていた。

 「さっきの話の続きだけどさ」

 僕が話を切り出すと、鈴音は声も出さずにこくこくと固い動きで頷いた。
 凍えた右手には感覚が戻らず、未だ痺れが残ったままであった。
 色々が身体と頭に追いついて来る前に、僕は君に言いたいことを伝えた。

 「こうやって二人が感じる熱が同じなら、僕はそれで充分だと思うんだ」

 僕は一体何を言っているんだ!?

 気取った台詞を放ち、その蛮勇を真正面から認識した瞬間、僕は顔から火が出たかと思った。
 動転の余り、自ら掴んだ鈴音の手を振り解くように放してしまうほどだった。
 
 一体、この衝動的な言動をどう釈明したものか。
 僕は途方に暮れながらも鈴音を見やった。
 
 君は宙に吸い込まれたように僕を見ていた。瞬きすることすら忘れて、彼女は愕然とその場で固まっていたのだ。
 その状態は長らく続いた。僕が心配になって声を掛けようとしたところで、鈴音は我に返ったように背筋を伸ばした。
 
 やがて君は黒目を僕の右手に移し、何を思ったのだろうか。
 一歩こちらに詰め寄ると、左手をゆっくりと伸ばし、先程の僕と同じように僕の手の甲にそっと触れた。
 そしてほんのりと赤い顔で僕を見つめながら、甘い囁きを放った。

 「それなら、これから毎日私に教えて?伝わる熱には、隔たりなんてないんだって」

 もうとっくに手の感覚は戻っていた。
 僕よりも一回り細く小さい指が手の表に纏わりつき、じんわりとした温かみが伝わってくる。
 一方僕の手は、全身の血液が集結したようにさぞ煮えたぎっていたことだろう。
 
 君に瞳を直視された僕は、目を逸らして頷くのが精一杯だった。

 ♦♦♦

 
 ゆるりと流麗な細流に手を浸す。余りの冷たさに身の毛がよだつ。反射的に戻しそうになる腕を抑え込んで、僕は指先から感覚が失われるのを待った。

 冬の凍てつく流水は遠慮なく僕から熱を奪い去っていく。
 その勢いは、血管に冷水が染み込み、それが逆流していつか僕の心臓を止めてしまいそうな程であった。
 
 暫く経って水温に変化を感じられなくなったところで、僕は素早く川から手を取り出した。
 その過程を経たうえで、僕らは欠かさず日ごとに、新たに組み込まれたルーティンを行った。
 
 僕の方が君の手の甲に重ねることもあれば、鈴音の方から僕の手の甲に触れることもあった。
 どちらがどうするかはその日次第であったが、鈴音は毎度の如く何かを確かめるような微笑みを浮かべたし、対して僕はその度に息を止めて仏頂面を作った。
 極度の緊張感を手放さないようしっかりと握っていなければ、いつの間にか頬の筋肉が緩んでしまいそうで気が気でなかったのだ。

 そうして僕達は両手両足の指を使っても数え切れなくなるほどに、その気持ちの良い日課を繰り返した。

 そして今日も今日とて、僕は右手の温度感覚の麻痺させてから鈴音へと手を伸ばしていた。
 彼女もあえかに腕を伸ばし、指先と細く小さな手が僅かに触れ合うと、やがて一方の手が甲にそっと添えられた。
 
 彼女の手の甲を握る数秒の間、僕は極力余計なことを考えないで済むよう、頭の中で山のように免罪符を刷っている。
 例えば、これはあくまでも彼女に熱を伝えるためだけの行為なのだとか、より温度感が伝わりやすいようにこうして手に触れているだけなのだとか。そんな感じだ。
 
 毎回手から血の気を引かせているのは、そうでもしないと必要以上に僕の熱が彼女に伝わってしまうから他ならない。
 だから鈴音の体温がうっすらと伝播し始めると、僕はすぐに手を引っ込めるようにしていた。
 今日もそろそろ夢の時間が終わる。西日の眩しい遊園地を後にするみたいに、僕は渋々手を離した。
 
 伝わってはいけないところまで伝えてしまっていないだろうか。何度やっても慣れない一連の流れの末に、僕はまた鼓動を速めていた。
 解かれた右手をしみじみと眺める彼女は、まるで全てを見透かしたような微笑を向けていた。

 やや時間を置いてから、僕らは散策に繰り出した。
 
 ここら辺に頻繁に足を運ぶようになって早半年が経過した。
 それ故に、何処に何があるかも粗方把握しているつもりではあるが、山という存在は季節によってその有様を大きく変える。
 
 例えば今の時期なんかは、世界は実に殺風景に映っていた。
 地上は根を張る生き物にとっての準備期間となっているせいで、物寂しい空虚さが際立っているばかりだ。
 華やかさを追い求めて天上を見やれども、そこは白っぽい灰色で覆われており、その下で鳶が悠々と旋回しているのみだった。もし君がここに居てくれなくては、眠る山にはこれっぽっちの見所も残されていなかったことだろう。

 「冬の山ってさ、他の季節に比べると魅力に欠けるよな」

 手持ち無沙汰に足を動かしていた僕は何気なくそう言った。
 木々を縫うように通り抜けていた彼女は、振り返って形の良い眉を八の字に持ち上げた。

 「そんなことないのに。もっと周りに目を凝らさなきゃ」

 彼女は両手を大きく広げて僕に周囲へと意識を向けさせようとする。
 僕もそれに従って辺りをぐるりと見回すと、丁度彼女の身体で隠れていた部分にそれを発見した。と同時に、「例えばさ、ほら」と彼女はその場を指差した。

 つる植物のような背の低い木が小さな赤い実をつけている。ついでに、深緑色の丸い葉は鋸みたいにギザギザとしている。
 この見た目でこの頃に実がなる植物と言えば、もうあれしかないだろう。今回の問題は比較的簡単であったからこそ、僕はすぐにその名前を思い出せた。

 「お、フユイチゴか」

 僕の解答に対して、鈴音は「そうだよー」と答えながら実を幾つか採集し始めた。
 
 「この時期にでも採れるんだな」

 彼女の屈んだ後姿を眺め言えば、「結構限り限りだけどね。だからよく熟れてるんじゃないかな」と片手に収まる量を手に入れた君は言った。
 
 こちらに向き直った鈴音は、果実を僕に分け与える素振りを見せた。
 受け取るべく僕は両手を椀にして差し出した。
 
 彼女は一粒抓み上げると、それを僕の手に乗せようとして、しかしその手を引っ込めて自分の口に放り込んでしまった。
 僕が唖然としている間に、彼女は口元を緩めながら冬苺を食べ終えてしまう。そして意地悪な表情で「あげない~」などと言うのだ。
 
 別に、冬苺なんて然程甘くもないし、そこまでして食べたいという訳でもなかったはずだった。
 しかし、そんなに美味そうに食べられては興味が湧いてしまうというものだ。僕は素直に白旗を掲げた。

 「前言撤回するよ。山はどんな時でも素晴らしい場所だ」

 そうやって山が季節問わずに魅力的であることを認めれば、僕も鈴音から残りの冬苺を分けてもらえると思ったわけだ。
 
 がしかし、それでも鈴音は僕に冬苺を分け与えることはなかった。
 代わりに一粒指で抓み取り、「口開けて?」と悪ふざけの延長線みたいな調子で言った。
 
 言われた通りに口を開けると、鈴音はおはじきみたいに冬苺を弾いた。それが上手いこと口内に飛び込んできて、僕は歯を重ねて果実を噛み潰した。
 溢れ出た果汁は随分と水っぽいものだったが、不思議と引き締まるような甘酸っぱさを感じ取った。
 彼女の満足そうな笑顔を見ていると、それは一層強い味覚となって舌に残った。
 
 一粒で充分満足できたことを知らせると、彼女は残りの冬苺を口に運びながら元来た道へと引き返した。
 僕もそれに倣って半回転する。二人してゆっくりと歩を進め、シンボルツリーまで残り僅かとなった時のことだった。
 
 ふと、眼前で白い浮遊物が舞い落ちた。
 それは鼻の上に乗ると、仄かな冷たさと共に消えてしまった。そのうち二、三と白い星屑がふわふわと宙を踊り始めた。

 「雪だな、珍しい」

 僕はぽつりと呟いた。
 軽く頷いた鈴音は、薄明るい曇り空を眺めながら細雪を空いた手のひらで受け止めようとしていた。

 もう少し足を進めて大樹まで戻って来ると、僕らは予めそうすると決めていたようにその下を避難先にした。
 休憩がてらその場に座り込んだ鈴音は小さく言った。

 「流石に寒いね、雪が降ると」

 「鈴音が寒い?それ本当なのか?」

 この時期でもその服の薄さで平気らしい彼女が、なんと寒さを感じると言うのだ。
 意外過ぎるその一言に、僕は思わず率直に聞き返した。

 すると彼女は心外そうに、「当たり前じゃん。私だって寒いものは寒いよ」と口をすぼめて答えた。
 
 自分で自分を抱き締めるよう暖を取っている鈴音を見ていると、途端に、布切れ一枚しか纏っていないと言っても過言ではない君が、極寒の地に降り立ったかのような光景が脳裏に浮かんだ。
 僕は徐に厚い外套を脱ぎ去ると、それを彼女に差し出した。そして、

 「これ使えよ」と僕が言ってやれば、

 「でも、それじゃあ千風くんが凍えちゃうんじゃないの?」と鈴音は的確な返事をした。

 「まぁ確かに」と僕がやせ我慢することなく同調すると、

 「だからくっつこう」と君は肩を密着させる勢いで近づき、数ミリを残して身体を揺らした。僕の身体はびくっと跳ね上がった。

 布越しにでも分かる鈴音の柔らかな肌が、寄せては返す波のように触れ合うこと数十秒。僕はとうとう平常運転で居られなくなった。
 このままでは、感情が理性を残さず焼き尽くしてしまいそうであった。
 
 足先に打ち寄せる波から逃げるようにして、僕は少しだけ彼女から距離を取ろうとした。
 その時、君は深く息を吐き出してから、丁寧な声色で不思議なことを言い始めた。

 「…私さ、時々千風くんが、聡明なんじゃないかな、って思っちゃうの」

 初めてそう言われたその時、僕はまず彼女の言葉の繋げ方につっかえを感じた。
 しかし次に言葉の意味を解釈し、僕は少々眉をひそめた。

 だから、「…それどういう意味だよ。馬鹿って言いたいのか?」と訊ね返したのだ。

 もちろん、本気で気分を害したわけじゃない。僕はそれを単なる気安い会話の一種として捉えていた。
 
 そう問い掛けられた鈴音は、暫し驚いたように瞬きを繰り返していた。
 その後になって愉快そうな笑い声をあげると、僕を宥めるみたいに優しい調子でこう言った。

 「ううん、そんなことないよ。君は賢い子だと思う」

 久しぶりに「君」呼ばわりされて、僕はなんだかむず痒い気持ちを味わわされた。僕を「君」と呼ぶ鈴音は、いつもと違って一回り落ち着いた印象を与えた。
 彼女の言葉はそこで止まらなかった。「でも」と接続詞を挟み、君は心底穏やかに頬を綻ばせた。

 「やっぱり聡明じゃないんだろうね」

 賢いけれど聡明とは言えない。
 彼女に禅問答のようなことを言われて、なんのこっちゃ分からなかった僕は何も言葉を返せなかった。
 
 今度は僕が目を丸めていると、起き上がり小法師が重心を崩したみたいに、鈴音はこてんとこちらに身体を傾けた。
 最後の数ミリ詰め切られ、触れては離れてを繰り返していた半身が隙間を完全に失った。
 
 自分以外の息遣いを直に感じて、僕は心のうちで暴れる自分を抑えることに必死だった。
 君は僕の知識では表現し難い微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を動かした。

 「だから凄く安心するし…私は、嬉しいかな」

 細雪が舞い散り一層気温の下がった世界で、僕達は半身を密着させて寒さを耐えしのごうとした。
 
 程なくして、雲の中央に亀裂が入り、辺りには光芒が差し込み始めた。次第に剝離していく雲の間隙からは太陽が姿を現し、しかしそれでも、僕らは長らく寄り添い合ったままでいた。
 外に晒された半身は凍え、くっついた半身は火照るほどに熱かった。
 
 身は悴めど心は茹だりそうな、冬のある日のことだった。

 ♦♦♦

 
 「お前はいつ頃からか、放課後遊ばなくなったよな」

 すっかり顔を赤くした日向がふと思い出したように言った。弱い昼白色で照らされた居酒屋は、まだ日中だというのに地元客で溢れていた。
 
 「そんな時期もあったな」

 僕が小鉢をつつきながら返事をすると、彼は揶揄うような笑みで続けた。

 「あれだろ?あの図書館の美人なお姉さんに恋でもしてたんだろ?」

 そこまで言われて、僕はようやく司書さんのことを思い出した。なかなか的外れなことを言われて思わず目が点となる。
 しかしまぁ、他の職員や図書館常用者からすれば、僕はさながら犬のように斎藤さんに良く懐いているように見えたのだろう。
 
 僕は適当に相槌を打ってから小麦色の液体を呷った。喉には弾けるような感覚が伝わった。
 
 それを照れ隠しのようなものだと思ったのか、日向は「いやー、あの人美人だったよなぁ~」と昔日を懐かしむように呟いた。
 
 店内の白い壁の隅には、肩遅れのテレビが設置されていた。特に興味があった訳ではないが、僕は何気なく画面に目をやった。
 この季節らしく心霊番組のようだ。画面に映る出演者たちは、まるで幻影でしかない幽霊が本当に実在するかのように大袈裟に驚いて見せている。
 
 いや、今のは語弊のある言い方か。彼女らはそこに存在するかもしれないし、居ないかもしれない。少なくとも僕は幽霊を見たことがない。それだけの話だ。
 
 どうやらテレビの内容は酒の肴にはならないらしい。
 画面に着目していた彼も似たような結論に至ったらしく、酒のつまみに視線を戻すと、僕らはまた過ぎ去った日々に思いを馳せた。
 
 頭の片隅の方で、僕はひとり過ぐる日々に思いを巡らせた。

 ♦♦♦


 ストレスは大きく分けて二種類存在する。
 
 それは主にポジティブストレスとネガティブストレスと呼ばれるもので、一般的なイメージのストレスは後者に該当するだろう。
 後者を例えるなら、会社の上司が吐き捨てるような態度で罵倒してきた際に感じる鬱憤などだ。
 対してポジティブストレス、言わば前向きなストレスとは、普段行かないような場所で遊び倒したあとの気怠い心地良さなんかだ。
 
 こちらはリフレッシュとしても機能するという正の面もあるのだが、どちらのストレスも心身に負担を与えるという意味では共通している。
 引っ越しなどで生活環境の大変化が起こりがちな春頃、ストレスは特に人間に影響を及ぼす。
 
 ある研究結果によると、蓄積したストレスが発端となって、春季には恋人関係の破綻が増加傾向にあるらしい。
 それを知ってか知らずか、故人は春を別れの季節として扱ってきた。
 
 多くの人々が初めて別れの季節を胸に響かせるのは、中学校卒業の時なのだと思う。小学校卒業の時とは違って、これまでよくしてきた仲間たちと本格的にそれぞれ別の道を進んでいくことになるのだから。
 
 しかし僕はそれより一足先に、一つの物事の終わりに出会うことになる。
 
 別れと出会いの季節などとはよく言ったものだが、その春、僕は出会いを経験することなく、一方的に別れだけを押し付けられることになった。



 切り裂くような北風が唸りを潜め、淡く澄んだ空がぼんやりと霞むようになった。次第に長閑なそよ風が舞い込み、麗らかな日光が姿を見せ始めた。街行く人々の足取りも軽やかで、何処からか呑気な鼻歌が流れてくる日が続いている。
 
 僕も浮き立つ心地で街を通り過ぎて、お昼前の時分に図書館を訪れていた。
 借りた本の返却と新たな蔵書を借り出すのが目的だ。
 恐らく鈴音はいつでもあそこにいるだろうし、本当はこの時間でさえも鈴音との一時に割きたいのだが、僕の住む町の図書館は閉館時間が早かった。日暮れ頃までずっと彼女と共に過ごしたい僕としては、こうしてお昼前のうちにこちらへ向かうのが最適解なのである。
 
 図書館のドアを潜ると、まずは返却箱に借りていた本を仕舞う。次に受付の方へと視線をやり、斎藤さんが居るかどうかを把握する。
 居ればそちらに向かってお勧めの本を訊ねただろうし、居なければ自分の感覚で本を選ぶまでだ。
 
 彼女の姿は見えない。どうやら今日は不在のようだ。
 そう判断した僕がいつもの本棚へ向かって行くと、その途中に本棚整理をしている斎藤さんに出くわした。
 僕の姿を認識するや否や、彼女は挨拶さえ抜きにしてしまって、開口一番にこう言った。

 「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」

 斎藤さんからの報せに良いも悪いもあるのかは判別し難いことだったが、悪い話から聞いては後の良い話も喜べまい。
 
 少し考えてから「良いニュースで」と僕は答えた。

 「りょーかい。じゃ、ついて来て」

 彼女は僕を先導していつものコーナーへ連れて行った。
 
 そこで僕も気が付いた。これまでは図書館の隅にひっそりと存在していたその場所が、隣のコーナーを追いやって実に倍以上のスペースを占領していることに。
 
 僕は目を見開いて本棚を見つめていた。
 斎藤さんは屈んで僕の視点に背丈を合わせた。そしてその表情に微笑みを浮かべ、周囲の迷惑とならないよう控えめな声で僕の歓喜を代弁した。

 「少年の大好きな植物に関する蔵書が増えましたー!」

 確かに良いニュースだった。
 これだけ新たに蔵書が増えれば、僕はまた一歩鈴音の知識量に近づけるのだから。
 
 喜色を隠せないまま僕が目新しい本を取っては捲っていると、「少年がこのコーナーの本を頑張って読んでるから、貸出冊数が増えたのよ。日頃の努力の賜物ね」と斎藤さんは優しく言ってくれた。
 
 こうして褒められるのは悪い気分じゃない。彼女もこの部分だけを切り取れば聖母のような人なのだが、誰しも素顔が一枚とは限らないものである。斎藤さんに関して言えば、もう一枚の素顔は少々おふざけが過ぎるところだろう。
 
 今日はこれを借りてみようか、と興奮に一区切りついたところで僕は現実に戻ってきた。
 はしゃいでいるところを彼女にニマニマと眺められていることを認識し、どうにも極まりが悪かった。
 だから僕は反動的にぶっきらぼうに言った。

 「それで、悪いニュースってなんですか?」

 「私がここで勤務するのは明後日で最後ってことかな」

 まるで何事もなかったかのような言い草だった。さらりとそう言ってしまうと、彼女はいつも通り調子に乗った口を滑らせるのだ。

 「まぁ、私みたいに素晴らしい司書さんが居なくなっちゃうのは寂しいかもだけど──って、少年?」

 その時、僕は二重の意味で驚き通していた。
 
 一つは単純に、斎藤さんがこの図書館で働かなくなることについて。
 そしてもう一つは、世間話をすることはあれども、結局はビジネスライク的な関係に過ぎないだろうと考えていた斎藤さんが居なくなることに対して、少なからずの衝撃を受けている自分自身に向けられたものであった。
 
 口うるさくも僕にお節介を焼いてくれる彼女が、もう数日後にはその姿を消している。その場面を想像すると、なんだか胸に穴が開くような気分になった。
 不思議そうにこちらを眺めている斎藤さんに向けて、僕は素直な気持ちを言葉にした。

 「…そりゃ、寂しいですよ。鬱陶しい時もありましたけど、なんだかんだお世話になりましたし」

 僕はくぐもった声でそう呟いた。
 彼女は目を皿のように見開いた。それから今度は丸い目を横に細め、「へー、そんな風に思ってくれてたんだ。結構意外かも」と感慨深そうに言った。
 
 「もしかして私のこと好きになっちゃったりして?」などと斎藤さんの続ける阿保みたいな言葉は聞き流しながら、僕はその間色々と考えを巡らした。
 そしてその末に、今日はこのまま踵を返すという選択肢を選んだ。

 「あれ、本借りていかないの?」

 当然、彼女は疑問気に訊ねてきた。
 対する僕は斎藤さんの目を見て、今し方用意した理由を返した。

 「二日じゃ一冊読めないですから。なのでまた明後日来ます。…だからその時、ちゃんとお勧め教えてくださいよ?」

 「はいはい、お姉さんに任せなさい!」と胸を張って答えた彼女は、こちらの意図を知るや知らずや、おかしそうに笑顔を浮かべていた。



 春真っ盛りなこの時期、冬の間がら空きに見えた田んぼは藤紫一色に染め上げられる。
 小風に乗せられた春の匂いに釣られて、モンシロチョウやミツバチがそこから忙しなく蜜を運び去っていく。
 
 もちろん、人様は明るい花々が一面に咲き誇る様を楽しんだり、或いは虫たちの為だけに蓮華草を咲かせているわけではない。
 いわゆる緑肥として農家が育てているのだ。
 
 厳しい寒さを乗り越え、活力を取り戻し始めた自然を眺めながら、僕は草木の萌えつつある山に歩み入った。
 どこかで音痴な鶯が鳴き声の練習をしていて、耳元ではてんとう虫が羽音を立てて飛んでいった。足元ではたんぽぽが力強く咲いていて、少し視点を上げれば、散り始めた山桜や梅、昨日鈴音と蜜を吸ったツツジなんかも伺えた。
 
 山は白、黄、赤、緑、桃色と華やかに飾られ、視覚も聴覚も癒される季節となった。
 と言ってみたものの、僕の心を一番傍で溶かしてくれているのは年がら年中一緒にいる君なのだが。

 シンボルツリーに近づけば、その下で鈴音が待ってくれていた。
 おはようの挨拶もほどほどに、僕らは穏やかな春の日を楽しみに向かった。

 何をするかはその日によってまちまちだ。
 春の山菜を収穫したり、カラスノエンドウで草笛を吹いてみたり、或いはいつものように御伽噺を読むこともあった。
 
 今日も似たような、でも毎日違っている時間を過ごして、その最中ふと僕は彼女に訊ねた。

 「鈴音って、かなり花に詳しいだろ?」

 シロツメクサとたんぽぽを重ね合わせ、少し豪華な冠を作り上げようとしていた彼女は得意げに言った。

 「うん、千風くんよりは詳しい自信があるかな」

 その表情はなかなかに憎たらしい笑顔だったが、より博識であるのは彼女の方だということは、悔しいことに事実だ。
 いつか見返してやるぞと思う一方で、でもそれは一体いつになるのだろうかとも思いながら僕は本題を切り出した。

 「じゃあさ、尊敬して…お世話になった人に贈る花って何が良いと思う?」

 要するに、僕が二日後に図書館に赴くことに決めた理由は、斎藤さんに日頃の感謝を込めた花を贈ろうと企てたからである。
 僕は尊敬という単語を発しようとして、しかしそれは気に食わず言葉を変えた。
 それを並列と捉えた鈴音は、「尊敬しててお世話になった人かぁ。そうだね~」と思案顔で唸った。

 「いや、尊敬はあんまり出来ないかもだけど」と僕が苦笑いで訂正を入れておくと、彼女は思い出したように、「因みに誰に贈るつもりなの?」と手先を器用に動かしながら僕の方を見た。
 
 僕は斎藤さんとの日々を思い返し、そのくだらない時間に小さな笑みを零していた。ありありと脳裏を巡る記憶の要約を、流水のように切れ目なく伝えた。

 「えっと…図書館で働いてるお姉さんだな。僕がここに持ってくる御伽噺とか、勉強のための植物図鑑とか、その人がよく一緒に選んでくれてたんだ。まぁちょっとお節介が過ぎるところがあって、たまに呆れるような時もあるけどさ、総合的には良い人で──」

 そう言えばこんなこともあったな。あぁ、あんなこともあったか。といった具合に僕はついつい回想に夢中になってしまった。
 
 それを無表情で眺めていた君は、途中で「ふぅん」と面白くなさそうに相槌を打った。
 そして機械的な声のトーンで、「そんなに熱心に語れるぐらい大事なら、自分で選んだ方が良いんじゃない」と素っ気なく言い切ってしまった。
 
 鈴音は再び視線を手元へ向ける。
 彼女の急な変わりように驚いた僕は、「え?だから鈴音の力を借りたいと思ったんだけど」と純粋に言葉を返した。

 しかし、それっきり彼女は知らんぷりであった。
 黙々と冠を完成させると、それを頭の上に乗っけて立ち上がり、自己満足的にくるりと回った。

 いつもならその後、「どう?」とかこれまた返答に困ることを微笑みながら聞いてきそうなものなのだが、何か怒らせてしまったのだろうか。鈴音はそれからもそげない態度を保ち続けた。
 
 それはその日に限らず、その次の日までも続いた。一応話し掛ければ返事はしてくれるし、いつもの場所で待っててくれてるし、そこまで怒り心頭と言うわけではないのだろうが、それではこの有様はどう説明すればいいのか。
 
 一晩経って、知らない身内話で盛り上がられたらそりゃあ不愉快だったか、と反省した僕は彼女に謝ったのだが、「別にいいよ」と答えた鈴音はやはり冷たい反応のままであった。
 
 いつもは笑顔で溢れている君が少々つれない反応を示す。
 たったそれだけのことで僕の心は酷く攪乱され、まるで季節が逆戻りしたかのような心地に陥った。
 
 一つの問題を解決しようとした結果、僕は鈴音の斜めなご機嫌を持ち上げることと、斎藤さんへの贈る花選ぶこととの二つの問題を抱える羽目となった。



 何故だか心労が倍以上になって、無駄に疲弊した状態で僕はその日を迎えた。
 結局、鈴音の力を借りられなかった僕は薄い知識で一本の花を選び出した。
 一応、花を贈るのはサプライズの予定だ。それが見えないよう大き目のバッグを携え、僕は図書館に到着した。
 
 初めて斎藤さんと会話を交わしたあの日と違って、今日は気持ちの良い日光が館内を照らし出していた。
 僕が受付へ近づこうとすると、先にこちらの姿を認めた彼女が歩み寄って来た。
 そのままいつもの場所へ移動し、また変わらず彼女は幾冊かの本を取り出した。

 「この四つが、最後に少年にお勧めしとく本かな」

 斎藤さんの簡潔かつ興味を引かせるような説明を聞いた後に、僕はうちの二冊を借り出すことに決めた。
 彼女に貸し出し許可を貰って、流れで出口まで見送ってもらったところで、僕はふと足を止めた。

 「斎藤さん」と僕が意を決して呼べば、「ん?」と彼女は軽く相槌を打った。
 
 僕はゆっくりとバッグから花を取り出し、頭を下げてそれを差し出した。
 
 「今日まで僕に良くしてくれて、本当にありがとうございました」

 短い言葉だったが、僕なりに伝えるべきことは言葉に出来たはずだ。
 言ってみると少し恥ずかしい気分になった。が、それは向こうも同じだったらしい。

 「おー、カーネーションかぁ…ありがとうね、少年」

 斎藤さんは人差し指で頬を掻きながら、僕の手にある白いカーネーションを受け取ってくれた。
 彼女が照れ臭そうな様子を見せるのは初めてのことで、僕は思わず毒気を抜かれていた。
 しかしそれも一瞬のことで、一口息を吸うと、彼女はいつもの調子に戻った。

 「因みに言っとくと、誰かに花を贈るときは色に気を付けないとだよ?少年がくれた白は『感謝』って意味だけど、例えばオレンジ色だったら『あなたを愛します』になるからね」

 へぇ、カーネーションって色ごとに別の意味を持つのか。今後誰かに花束を贈ることがあれば気を付けることにしよう。
 あぁ、そう言えば、鈴音には蔦葉天竺葵を渡そうとしたっけ。あの時は花屋のおっちゃんに選んでもらったからな。もしかしたら、それがまずい花言葉で鈴音は受け取ってくれなかったのかもしれない、か。
 
 彼女の助言に耳を傾けながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
 そして同時に思い出す。かつて僕が激突した難題を、斎藤さんはいとも簡単に乗り越えさせてくれたことを。
 
 原因不明で悪化した鈴音の機嫌を元に戻すこと。
 僕にはなかなかどうして難しいことだけど、彼女ならどうにかする方策を思い付けるのではないだろうか。
 
 もうとっくにお姉さんを頼れる人だと認識していた僕は、自然と言葉を発していた。

 「あの、斎藤さん。最後に一つ聞いていいですか」

 「うん、なに?」

 「実は…」

 相談に乗る素振りを見せた斎藤さんに対して、僕は余すことなく事の詳細を伝えた。
 僕の頭を悩ませていることを知った彼女は、例のニマニマとした笑顔を作った。

 「ほぉ~。私に贈る花が何が良いか聞いたら、口利いてくれなくなっちゃいましたと」

 こくりと首肯すると、彼女は面白おかしそうにケロッと言った。

 「それは嫉妬って気持ちよ。いやー、その子に嫉妬させるなんて、少年も中々のやり手だねぇ~」

 「は?んなわけ──」

 予想外にもほどがある答えを前に、僕は敬語を取っ払ってその可能性を否定しようとした。
 そうであって欲しいと願う気持ちと、そんなことがあるはずがないだろうと冷静な気持ちが拮抗し、心の中は酷く雑然としていた。
 
 しかし、僕の反論を躱すようにひらひらと手を振った斎藤さんは、「ま、何はともあれちゃんと誤解は解いてあげないとね?それじゃ、またいつか」と言い残して、たちまちその場を去ってしまった。
 それはまるで嵐を見ているようであった。
 
 最後まで、「少年」呼びは変わらなかったな。

 彼女の後姿を眺めた僕は、それを妙にしみじみと思った。



 そういう訳で、問題解決に至らないどころか余計な妄言さえ突っ込むことになった僕の頭の中は、既に機能不全にまで追い込まれていた。
 
 痛む頭を抱えて、それでもシンボルツリーに向かってしまうのは、どうしようもなく僕が彼女に会いたがっているからなのだろう。
 思考が無意味な空転を繰り返していると、僕はいつの間にか大樹に辿り着いてしまっていた。
 
 ふと俯いた視線を戻す。すると、春の日差し、映える緑、大樹の下で座り込む君の姿、そして、彼女の伸ばした右手の先で休むアオスジアゲハ、といった形で羅列的に脳内に情報が飛び込んできた。

 それは僕に美術展のメインを飾る一枚絵を思わせた。
 その神秘的な空間に魅入っていると、奇跡の絵画に命が宿った。
 
 君が僕を視認し、「あ…」と小さな声をあげる。
 
 その振動のせいか、蝶はひらひらと何処かへ舞っていった。
 芸術的一場面を壊してしまった罪悪感ゆえに、僕は何も言葉を放てなかった。
 
 鈴音も長らく間を置いてから、目交ぜで隣に来るよう僕を促した。
 僕はいそいそと一線を画した大樹の方へ寄り、腰を下ろした。
 
 それからは何も言わずに、僕らはお互いに僅かながら身体を近づけた。
 でもたったそれだけのことで、「ごめん」とか「私こそごめん」とか「いいよ」の言葉は不必要だと思えた。

 程なくして、鈴音は僕の目を見て何気なく言い出した。

 「ね、覚えてる?少し前に話したエロスとプシュケーのこと」

 「あぁ、覚えてる」僕が二つも前の季節のことを思い返していると、彼女はつい昨日のことを思い出すように続けた。

 「あれはさ、やっぱり私が間違ってると思うの。千風くんの方が正しいんだよ、きっと」

 覚えている、とは答えたものの、僕が思い出せたのは『愛と疑い』の話をしたことぐらいで、それ以上のことは詳細に検索できなかった。
 
 だが、幸いにも話の本筋はそこだったらしい。あんなにもきっぱり割れていた意見を、鈴音は今更僕の方に譲ると言ったわけだ。
 しかし、幾ら思い出せど僕の解釈は作品に似合わない独り善がりなものだったと言わざるを得なかった。
 
 だから、「そうか?鈴音の解釈の方が物語に合致してたと思うけど」と僕は言葉を返すことにした。

 すると、「じゃあ、あの二人は嘘をついてたってことだよ」と彼女はあっさり言い返し、それから物語の何もかもを無に帰すように笑い飛ばした。
 
 そして「よいしょ」ともう少し僕の方へとにじり寄り、君は優しく穏やかな表情で囁いた。

 「真実を見つけ出した千風くんには、私からの特別にご褒美があります」

 その女神めいた微笑みは、あっけなく僕の心を捉えていた。
 
 鈴音はそのままこちらに手を伸ばす。
 凝り固まった頭上にこそばゆい感覚が生じたところで、僕は彼女にわしゃわしゃと頭を撫でられていることを認識した。
 
 与えられる柔らかな手のひらは寝起きの布団みたいに心地良くて、その人一人に浴びせるには強烈過ぎる笑顔はどこまでも僕の胸を震わせた。
 それでも以前の僕であれば、鈴音から伝わる無邪気な愛情を受け取ることを恐れ、小動物のようにその場から飛び跳ねたことだろう。
 
 だけどどうやら僕は、とっくに飼い慣らされてしまったようだ。
 
 すっかり素直になった心模様に苦笑いを零しながらも、僕は身じろぎさえすることなく目を閉ざし、君にされるがままとなった。
 
 脳髄にその心地良さを染み込ませるかのように、君は暫くの間、僕に慈愛の賜物を授けていた。

 ♦♦♦


 あれからしばらくすると、日を追うごとに気温は快適な状態へと保たれるようになり、一方湿り気は右肩上がりで上昇していった。
 田起こしと田植えを経て、蓮華草畑だった田んぼもすっかりよく見る姿に戻ってしまった。
 四月いっぱいは踏ん張るように花を付けていた桜も、後の五月雨にあえなく撃沈してしまった。
 
 地へ落ち土に汚れた桜の花弁は、もう誰にも見向きされない。

 「どうして?私たちの美しさは変わっていないはずなのに」

 彼女たちは声なき声で彼らに訴える。しかし、その微かな声と視線でさえもが雨音と陰鬱な空に掻き消され、悲鳴を上げる間もなく彼女らは靴底で磨り潰されていく。
 そこには、人の価値観は残酷だということが良く現れていた。
 だから僕はこの時期、少しだけ気分が下がるのだと思う。
 
 地面に張り付いた薄桃色の花弁を拾い上げ、これまで頑張ってくれてありがとう、と念じるように感謝を伝える。
 もう苦しい思いをしなくてもいいように、彼女らを人の歩かない路肩へと安置しておいた。

 それは、見頃を一瞬で終える花々に対する傲慢や憐憫のようなものなのかもしれないし、あるいは鈴音との日々を介して、草木を思いやる心でも芽生えたのかもしれない。

 今日は梅雨の時期にしては珍しい晴れ間の見える日だった。
 屈んだ姿勢から立ち上がると、僕はいつも通りにあの場所を目指していった。
 
 久々に合羽を着ることなく、僕は右手に一冊の本を抱えていた。
 当然ながら、この本は僕一人で選んだものだ。もう斎藤さんのお勧めというわけではない。

 最初こそ何かが足りないように思えた日々も、徐々に日常へと溶け込んでいった。やがて僕は、入場から退場まで一言も発さない図書館生活に適応してしまった。
 時々それを寂しく思うことはあるが、虚しいことにも、彼女が僕の生活に与えた影響は微々たるものでしかなかったのだろう。
 
 雨露の薄膜に包まれた草木を手でかき分けていくと、僕はすぐに彼女を見つけた。

 そこからはいつもの流れだ。 
 
 「待ってたよ~」と鈴音は大きく手を振りながら笑顔を輝かせる。


 「待たせてごめん」と僕は軽く謝りながら大樹の傍へと向かう。

 まずは持ち寄った本を見せてやって、仲良く黙読したうえでお互いに感想を交わした。やはり鈴音の講評は的を得ていた。

 次は適当な場所まで移動して、恒例の駆けっこをした。
 もちろん僕の敗北だ。

 それから、今日は草花遊びでオオバコ相撲もした。
 こっちも全戦全敗だ。
 因みにオオバコ相撲というのは、それぞれがオオバコの茎を絡め、それを引っ張り合うことで相手の茎をへし折るゲームだとでも言えばいいだろうか。

 彼女は力の使い方まで実に巧妙であった。
 柔よく剛を制するし、剛よく柔を断つということなのだろう。僕が強く引っ張れば力を緩め、こちらが引けば力を加えた。

 僕の茎ばかりが千切れ、その度に彼女は小馬鹿にするような笑顔で、「千風くんは下手だなぁ~」と煽りを入れてくるのだ。
 僕は躍起になって彼女に打ち勝とうとして、しかしその全てが空回りであった。でもそれが楽しかった。
 
 そうこうしているうちに、段々と太陽が沈んでゆく。
 そろそろお別れの時間が僕らを迎えに来ていた。
 
 冬と比べれば大分と日が伸びたとは思う。それでも、心はまだまだ遊び足りないと叫んでいるし、鈴音も夕陽を見ると名残惜しそうな表情を匂わせた。
 そんな彼女を見る度に、僕は口惜しい気持ちで山を後にするのだ。
 
 しかし、今日に限ってはまだ続きを繋げる術があった。
 僕が去ることを見越して、鈴音は小さく手を振ろうと腕を動かす。
 
 だがその動きを制止するように、僕は「なぁ」と言った。
 
 振る手を下げた彼女は疑問の相槌を打った。
 そこで僕は温めておいた計画を大公開した。
 計画の全貌を知った鈴音は、今からその時が待ち遠しいのか、一目でわかるくらいに気分を高揚させていた。

 「じゃあ、今日はこの後空いてるか?」

 それは確かめるまでもないことだったが、僕は形式的に確認を取った。

 「うん、もちろん!」

 君は二つ返事で了承した。


 
 夕陽が沈み切る前に我が家に戻り、夕ご飯を頂いてから僕は再び出発の準備を整えた。
 その頃には外も黒く染まり、せっかちな星々が夜空を訪れていた。

 基本的には自由にさせてくれている母さんも、流石に日が暮れてから出掛けることは咎めはした。
 だから隠さず目的を伝えると、「気を付けなさいよ」と母さんは懐中電灯を一本手渡してくれた。
 靴ひもを結びながらそれを受け取り、僕は夜の世界へと繰り出した。
 
 この時間帯に出歩くこと自体は初めてではない。いつもと違うのは、今は傍に誰も居ないということだ。
 我が家付近こそ薄明るい街灯が辛うじて闇を払っていたが、山に近づくにつれて、徐々にその僅かな光さえも失われてしまった。
 
 やがては農道と田んぼの境目があやふやになるほどの暗がりに包まれ、僕は懐中電灯の明かりを点けようと指をスイッチに掛けた。
 でもそのうちに暗順応が完了し、遂には宵の空を舞う蛾や飛び跳ねる蛙までもが捉えられるようになった。
 
 がしかし、それでも夜の森は別格だった。
 草木が昼間よりも一段と深い陰を落とし、生え重なる植物が足元を完全に覆い隠してしまう。
 緑の生長した林冠のせいで、そこには闇夜ともとれるような濃い暗闇が広がっていた。

 やむなく懐中電灯を光らせると、前方の一部分だけが良く伺えるようになった。
 しかし却ってその白い輝きが周囲の黒暗を引き立てているように思えた。

 今の自分は真っ暗闇に放り込まれているという事実が脳裏に強く刷り込まれ、無意識的に身体は強張った。
 更には嫌に山が静まり返っているものだから、もしや近くに何かが居るのでは、と正体不明の恐怖心までもが芽吹いてしまった。
 
 だが鈴音と落ち合う約束をした手前、ここでいそいそと逃げ出すことは許されない。
 いざという時はこの強烈な明かりで目潰ししてしまおう、などと馬鹿げたことを考えながら、僕は腰を引いて森を進んだ。
 
 通常の倍近く時間をかけていつもの場所に到着する。
 しかしそこに鈴音の姿は見えなかった。
 夜で見え辛いだけだろうか、と大樹に近寄り明かりを向けれど、やはりその姿は見当たらない。
 
 …おかしいな。彼女がいないことに疑問を覚えつつも、ひとまず大樹に身を預けるべく、僕は身体を振り向かせると

 「わっ!!」

 宵闇のせいで余計に青白く映る何かが、僕の両肩に軽く手を乗せた。
 瞬間、僕は腹の底から湧き上がるエネルギーを全放出した。

 それはまるで、熊に襲われ腰の抜けた登山者のように頼りない悲鳴だった。
 いや、それは比喩に留まらない。
 実際に僕は半分尻餅をついた状態で目を白黒させ、反射的に懐中電灯の明かりを声の方に向けていたのだから。

 明かりに照らし出された先には、くすくすと楽し気に笑う彼女がいた。

 「…びっくりしたじゃないか」

 数秒使ってそこにいるのが鈴音だと理解した途端に、僕は空いた口を閉ざし文句を垂れた。
 
 彼女は微塵もそう思っていない素振りで、「いやぁー、ごめんごめん。あんまり怯えて歩いてたから、つい」と謝罪の言葉を入り交えた。

 恥ずかしい所を見られてむっとした僕は、起き上がって鈴音のおでこを指で優しく弾いた。
 お灸をすえられた彼女は、壁に激突したひよこみたいな声をあげた。
 
 鈴音は恨めしそうに手でおでこを押さえる。
 そんな彼女を尻目に僕は足を進めようとして、ふと思い直すようにバッと見返った。
 
 急な挙動目にした彼女は、「どーしたの?」と言いたげに首を傾げた。

 僕はゆっくりと君の姿に注視し、それが慣れない環境の見せる幻覚ではないことを確かめたうえで言葉を発した。

 「鈴音、その服って…」

 僕が言い切ってしまう前に、彼女は自分の服装に視点を落とし、こちらの言わんとする言葉を繋いだ。

 「あー、これ?ほら、千風くんも最近は半袖着るようになったじゃん。だから私もそろそろ着ようかなーって」

 確か、昼間の彼女は長袖のままだったはずだ。感じた違和感の正体はこれだったのか。
 生じた疑問を解消しつつも、僕は半袖ワンピースな鈴音を今一度眺め、だがすぐにそれを直視出来なくなってしまった。
 
 長袖から半袖に変わったことで、彼女の細い二の腕や鎖骨は綺麗に露出してしまっていた。
 その官能的なまでの肌色は、長らく長袖というフィルターを介して彼女を見ていた僕にとって刺激の強過ぎるものだった。
 
 鈴音の身体はこんなにも流暢なラインを描いていただろうか。
 簡単な話、今の僕には素肌に対する耐性というものがまるっきり失われていたのである。

 だが鈴音はそんなことを露知らず、逸れた目線を追い掛けるように僕を覗き込み、「早く行こ?」と僕を急かした。
 
 何か甘い文句の一つでも言ってみたかったが、彼女の言う通り、僕らの目的は時間帯に大きく左右される。
 一度大きく息を吸い込み、暴走しつつある気持ちを片隅に追いやった。

 僕は色々を一旦放り投げて、彼女と共に慣れた道を進んだ。



 鈴音は猫みたく夜目が効くようで、鬱蒼たる森の中を滑るように突き進んだ。
 僕が慌てず慎重に足元に気を使っていると、彼女は時折その動きを止めて「早く早く」と僕を手招きした。
 
 それを数度繰り返していると、僕は君の後ろに追いついた。
 彼女は息を潜めるようにして藪に隠れている。僕も同じように身を屈め、懐中電灯のスイッチを切った。
 辺りは瞬く間に黒く染まり、草木をかき分ける音も踏みしめる音も消えてなくなった。代わりにケラの低音と流るる水音が僕らを包んだ。

 「いるかな?」

 鈴音は弾むような調子で言った。
 例え暗闇の中であろうとも、この先に待ち受ける光景を脳裏に浮かべ、胸を膨らませる彼女の表情は良く見えた。
 
 「いるといいな」
 
 期待の入り混じった声で答える僕もまた、声色通りにその心を躍らせていた。
 二人して頷き合わせると、僕らは余り大きな音を立てないようにゆっくりと藪の向こう側へ身体を出した。
 
 君の小さな歓声が上がった。
 それに遅れた僕も思わず息を吞み、その光景に吸い込まれた。
 

 中央の小川を囲むように、極小の光球が無数に浮かび上がっている。
 それはまるで翡翠が発光したような輝きで、ともすれば上流から宝石が溢れ出したようにも見えた。
 
 緑の光は無秩序に空中を舞っている。
 黒目を右へ左へ行ったり来たりさせて、僕は無限大にある光の玉の一つを目で追おうとした。
 だがその速さに振り切られ、やがて僕はその幻想的な光景を俯瞰することになった。
 
 一方、澱みなく目で輝きを追っていた君は、一度満足したように瞳を閉ざした。
 そして横目で僕に語り掛けると、恍惚とした表情で言った。

 「蛍って、こんなに綺麗なんだね」

 僕は軽く顎を引いて肯いた。

 「鈴音は見たことなかったのか?」

 「うん。知識の上では知ってたけど、実物を見るのは初めて」

 彼女は再び夜空に舞う蛍へ視線を向けた。
 今度の僕は壮観な美景に鈴音の姿を加え、いや、君の姿にこそ夜蛍のアクセントを加え、陶然と世界を眺めていた。
 
 暫くすると、藪から棒に鈴音は足を繰り出した。
 どうやら、一際大きく一閃する蛍を捕まえようとしているみたいだ。

 君はまるで夢遊のようにぼんやりと動き、その視線は蛍で夢中になってしまっていた。
 周りの見えていない彼女に気が付いた僕が、「鈴音、危ないぞ」と慌てて声をかけた時にはもう遅く、辺りに水面を叩く音が反響していた。
 鈴音が小川に突っ込んだのだ。
 
 振り返った彼女は、「あちゃー」とでも言わんばかりの苦笑いを浮かべていた。
 それから小川に沈んだ右足を岩瀬に掛け、濡れたサンダルを脱ぎ素足になると、改めて右足を浸けた。
 突拍子もない行動を前に僕が呆気に取られていると、彼女は続けて左足も突っ込んでしまった。

 「ちょっと冷たくて気持ちいいよ。千風くんも来なよ~」と彼女は足湯に浸かるみたいに僕を誘った。

 特に断る理由もなく、僕は靴と靴下を脱いで彼女の隣にお邪魔した。

 その日は初夏を先取りしたような程よい暑さで、水温自体も悪くなかった。
 
 足元で爽やかな涼しさを感じながら、僕はパノラマとなった蛍を観賞しようとして、直後、「…えいっ!」と変に気合いの入った声が耳元に響いた。
 謎の発声を確かめようとした頃には、もう顔面にひやりとした感触をぶちかまされていた。

 「うわっ!」

 ぱしゃりと弾けるような音がして、続いてばしゃんと大量の水が水面に打ち付けられる音が響いた。
 驚愕の声が飛び出ると同時に瞼を閉ざす。すぐさま濡れた両目を擦って視界を確保する。大体何が起きたかを察した上で、僕はその目を開いた。
 
 まず、「えへへ」とこの上なく屈託のない笑顔が最初に飛び込んできた。
 その際限なく細められた両目を数秒見つめる。
 段々と不思議な心地に陥ったらしい彼女が、「どうしたの?」の形に口を動かそうとした瞬間、僕は両手の形を椀に構えた。

 「きゃっ!」

 その小顔に水を浴びせられた君は、実に女の子らしい悲鳴をあげた。
 柳髪からポタポタと水滴を落とす鈴音に向けて、僕はしたり顔を見せつけてやった。
 
 ぽかんと硬直していたのも束の間、すぐさま「やったな~!」と心底楽しそうに彼女は応えた。
 同じように手を重ねて椀を作ると、透明に輝く水滴をこっちに浴びせてきた。
 
 そこからのことは言うに及ぶまい。

 僕らは童心の赴くままにはしゃぎ尽くし、水をかき分ける音と二人の騒ぎ声だけが、静寂の世界に調和していた。



 心行くまで水掛合を楽しんだ僕らは、やがて糸が切れたようにその動きを止めた。
 暗黙の了解で水を掬うことを終わりにして、二人して川辺の岩に座り込んだ。

 決して座り心地の良い場所ではないというのに、身体は吸い付いたようにピタリとその場に適合して、もう微塵も身体を動かしたくない気分だった。
 すっかり体力を枯渇させた僕らの間には、呼吸を整える息遣いが漂っていた。
 僕も鈴音もびしょ濡れで、木立に吹く風が少し肌寒く感じた。
 
 ここに来たのは随分と久し振りのことだ、と僕は何気なく思った。
 
 冬の寒さがやわらぎ、春の陽気が舞い込むにつれて、僕らは小川から足を遠のかせた。
 その理由は単純で、氷ともとれる冷たさを誇る川に手を濡らす口実がなくなったからである。
 
 手の感覚を麻痺させられない以上、いまや免罪符は廃版となってしまったわけだ。
 だから、今日の僕は彼女の決して冷たくない手に触れることは許されない。

 「千風くん」

 彼女は不意と僕の名前を呟いた。

 「なんだ?」と僕は静けさを壊さないような声量で返事をした。
 
 隣に座っていた鈴音はそっぽの方へ身体を向けた。
 僕はそれを横目で追い掛ける。
 君は軽く俯き、頬をうっすらと桜色に染めながら言っていた。

 「…背中、ちょっと貸して欲しいな」

 ちらりと垣間見える白のワンピースの下には、あちらこちらで雪のような肌色が透けて見えていた。
 さっきまでは気にならなかったそれを意識した瞬間、僕は全身に熱いものを覚えた。
 が、濡れた身体がすぐさまそれらを蒸発させてくれた。
 
 結果、その時の僕は彼女にふしだらな感情を抱くことはなかった。
 それどころか、その美しさの極致にあるかのような君の姿に目を奪われることさえ憚られた。まして欲情を抱くことなど不適切であるように思えた。
 
 僕は行動で応えた。
 彼女とは反対の方向へと身体を向け、背中合わせの状態を作り出した。

 程なくして、僅かながらに僕のものではない重みが加わった。
 誇張抜きで羽のように軽やかな背中だった。
 僕も同じ分だけ背中を預けて、いつしか元から二つが一つだったように僕は質量を感じなくなった。
 
 僕らを囲むように淡い光が飛び交っている。
 暗い水流がせせらぎ、柔らかな月影は水面で揺れている。
 
 お互いの呼吸が背を介して伝わり合う。
 僕らは言葉なく遠い夜空を眺めていた。

 ずっとこの時間が続けばいいな。

 僕は無意識に空へ願った。

 ♦♦♦

 
 あれから約一時間ほど、僕らは居酒屋に長居していた。
 日向との近況報告やらなんやらも終え、そろそろビール一本で粘るのが厳しくなってきたところで、お会計を済ませることにした。
 
 暖簾をくぐって外に繰り出すと、世界は茜色で溢れ返っていた。
 あらゆる建物には重厚な影が立ち、真っ赤な夕陽が建造物の空隙に覗いていた。
 僕らは商店街から住宅地までの遠い田舎通りをのんびりと歩き、やがて昔のようにとある分かれ道で手を振り合った。
 
 この辺りは右も左も棚田だらけだった。
 皐月に植えられた苗が大きく育ち、緑の絨毯を作り出している。
 いや、だんだん田と言うこともあって、絨毯階段と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
 
 登り坂の中腹へと向かって足を進めれば、水田の中からは耳を澄まさずとも蛙の鳴き声が響き返り、眼前を淡い青のシオカラトンボが飛び去っていった。
 後方から現れた少年少女が、目を輝かせてその後を追った。
 少年の方が勢いよく虫網を振り被ったが、蜻蛉は裕にそれを躱した。
 
 上手く逃げ仰せた蜻蛉は瞬く間にその場を離れ、二人は悔しそうにその後ろ姿を見つめていた。
 僕は足を止めて、何を見るでもなく二人を眺めていた。
 
 その二人に、ふといつかの面影が重なる。

 ♦♦♦

 
 長い雨もようやく降りやみ、徐々に太陽が威力を放つようになった。
 やがて世界は並外れた生気に踊らされ、草木は迸る勢いで成長していった。
 
 雨傘は日傘に持ち変えられ、誰もが窓を開けて団扇を携えるようになった頃、僕は年に一度の長い休みを手に入れた。
 春、冬と大きな休暇はあるものの、やはり夏休みは出来ることや活動時間の規模感が違うのだ。
 
 小学校生活最後の一学期終業式の日、僕は当然の如くこの休暇を鈴音との時間に費やすことに決めていた。
 というか、それ以上に有意義な時間の使い方があるとは考えられなかった。そうしなければ僕は最低の夏休みを過ごすだろうとさえ思っていた。
 
 そうして七月の終わり頃から、僕は日中のほとんどを彼女と過ごすようになった。
 なにも特別なことをしたわけじゃない。昨日とも今日とも判別が付かないようなありきたりな毎日だ。
 それでも、僕は日々が痛いほど楽しかったし、鈴音だって僕との時間には何度も笑顔を綻ばせてくれていた。
 
 しかし、その素晴らしい日次の中にも、一つ僕を困らせることがあった。
 丁度、僕が夏休みに突入した頃からのことである。それを具体的に指し示せば、鈴音がよく上の空を眺めるようになったことだ。

 ふとした時に彼女は何かを思慮するように黙りこくり、僕の声を右から左に聞き流すことが多々あった。
 僕に何かを言い出そうとして、でもその開きかけた口を閉じてしまうということを幾度となく繰り返したりもしていた。
 魅惑の笑みを零しながらも、何処か心ここにあらずであった。
 
 それは八月頭の日のことだった。
 今日の鈴音は一段と落ち着かない様子だ。
 
 もう目の前のことにも手が付かないようで、浮かべる笑顔までもが乾いてしまっていた。
 それはそれで超然的な美しさを感じられて良かったのだが、ここまで来ると本人でない僕までもが彼女を気掛かりに思うようになった。
 
 両者の気がそぞろとなった状態で臨んだ笹船づくりは酷いもので、笹船は小川に流したところですぐ水流に揉まれてしまった。
 形を崩しゆく二葉の笹船を呆然と眺める。僕は鈴音が落ち着かない理由に、彼女は僕には分からない何事かにばかり気が向いていた。

 白日だけが徒に動き続け、今や空の切れ目が赤みを帯びつつあった。
 長いような短いような日中が幕を閉ざす。結局、僕はその訳を見つけられずに、鈴音は今日も言い出せずに、お互いが手を振ろうとしていた。
 
 大樹の片影に佇む彼女に背を向け、夕焼けの赤光を顔いっぱいに浴びる。
 軽く半身を振り向かせ、「またな」と僕が君に言おうとした時だった。

 「ね、ねぇ。千風くん」

 声が裏返ったように上下に揺れた声調で、鈴音は控えめに呼び掛けた。
 僕が目で問い掛けると、彼女は大きく息を吸って吐き出し、小さな咳払いをしたうえで言った。

 「今日、このあと大丈夫かな?」

 その時君が浮かべた笑みは、今日初めての温かみを感じるものだった。
 僕は僅かに返事に迷ったが、それでも結局は首肯した。

 「じゃあ、ここで待ってるね」と言った彼女は、つっかえが一つ取れたように大袈裟に胸を撫で下ろしていた。


 
 家に帰って軽く夕食を済ませると、僕は鈴音の元へと急ぐ前に固定電話に手を掛けた。
 数回単調な音を繰り返してから受話器を取った日向に対して、急用ができたから僕抜きで行ってくれ、と簡潔に事を伝えた。
 
 実はこのあと彼らと予定があったのだが、鈴音との時間と彼らとの約束を天秤に掛ければ、どちらに傾くかは一目瞭然のことであった。
 日向達には悪いとは思うが、僕にとって鈴音と居られる時間というものは、諸々を後手に回しても構わないほどに優先度が高いのだ。
 
 以前外に繰り出した時とは違って、本日の宵は赤い残光が紺の空を薄明るく滲ませていた。
 加えて、夜の街を彷徨う人々が三々五々と大勢であった。
 
 ともするとその人数は昼間よりも多いのではないだろうか。
 彼ら彼女らは夏夜の暑さに浮かされたかのように、嬉々と一方向に足を進めていた。
 
 そんな中僕一人だけが、波に逆らうように皆と真逆の方角へと向かっていった。
 濃い闇が落ちた山の道なき道を往く。夜風に揺れるシンボルツリーが見えた。今日の鈴音は僕を脅かすことなく、分かりやすい場所で待ち惚けとなっていた。

 「ごめん、ちょっと遅くなった」と僕は軽く謝ると、「いいよいいよ」と鈴音は気さくに言った。

 そうして決まりきった会話を交えたところで、「それで、今日はどうしたんだ?」と僕は彼女に訊ねた。

 もう夜間に蝉が鳴き始めるぐらい、世界には気怠い暑さが立ち込めていた。小川に向かっても蛍は一切伺えないことだろう。
 沢蟹を追い掛けることは三日前にしたし、カブトムシを捕まえるなら早朝に集合すべきだ。
 
 そんなことが分からないほどに鈴音が無知であるはずがないし、となると、今日はどうして呼び出されたのか。

 僕は僕なりに色々と考えてみたが、それらしい理由は一つも見つからなかった。
 答えを要求された鈴音は、「えっとね」の間投詞を挟んでからぎこちなく言葉を紡いだ。

 「今から、お祭り行かない?」

 彼女は自分の口からそう述べた後になって、これで誘い方が合っていたのかを確かめるように同じ言葉を言い直した。
 彼女の言葉を受け取った僕の頭は、なるほどな、と得心が半分、そしてもう半分はこれまでの価値観がひっくり返るような驚きで覆われていた。

 「お祭り?」と僕が彼女の言葉を繰り返せば、「うん」と彼女は食い気味に頷き返した。

 「鈴音って、山の外に出られるのか?」

 僕にとって一番気になる点はそこだった。
 
 僕がさり気なく聞いてみると、「まーね、今日は特別だよ」と彼女はなんでもなさげに言った。

 ずっと前に探偵ごっこはやめたはずのだが、ここで脳内事務所に新たな事実が舞い込んできた。
 僕はこれまで鈴音を、この地に囚われた悲劇の地縛霊かそれに近しい存在だとばかり思っていた。
 
 しかし、どうやらこの説は今日で破綻してしまったようだ。
 であれば彼女は一体、いや、既に僕は事務所をたたんだ身だ。今更真実を明らかにしたところで、僕が得られるのは鈴音の悲しむ顔だけだろう。
 
 考えることを自ら放棄し、僕は取り敢えず山から出ようと踵を返した。

 彼女は呼び止めるように、「こっちから行った方が早いよ。ついて来て」と森の奥へ僕を連れて行った。
 
 暫く密林のように繁茂した草木を潜り抜けていくと、何処からともなく太鼓と笛の律動が流れ込んできた。
 楽音を辿るように斜面を下れば、そこに段々と人声の喧騒が加わるようになった。
 そして最後には、ぽつぽつと闇の中に浮かんだ暖色の灯りが木立の緑を朧気に照らすようになった。
 
 とうとう僕らが草木から顔を飛び出させると、そこはちょうど祭囃子の中心となっている広場だった。
 
 円形の広間のど真ん中には荘厳な櫓が聳え立っており、櫓の頂上を起点として四方八方に提灯が連なっている。
 その下では数え切れない人々が踊り明かし、或いは端の方で腰を下ろして小休憩を挟んでいた。

 黒夜に浮かぶ橙の灯りは妖々しくもあり、集った群衆が渦巻きのようにゆっくりと流れる様は百鬼夜行を思わせた。
 その場には、夏の暑さを一点に凝縮し、純粋な結晶として取り出したような荒々しい勢いが迸っていた。

 見ての通り、今日はこの街の一大イベントと言ってもよい祭りの日だった。
 この時ばかりは隣町からも人々が足を運ぶようで、それはそれは街が大賑わいするのである。本来であれば、僕は日向達とここに来るつもりだったのだ。
 
 鈴音は目に焼き付けるように辺りを見回すと、「人が沢山だね~」とのんびりとした感想を述べた。

 ここに居ては巡る人波に攫われそうだったので、僕らは速やかに広場の外れに向かうことにした。
 
 外れとは言えど、行き交う人の量は多い。
 僕は往来する人々にぶつかりそうになりながら、たどたどしく足を進めていたというのに、彼女はまるで森の中を進むのと変わらない様子で、難なく大人子供の隙間を上手く通り抜けていた。
 
 そうして端の方に辿り着くと、そこで僕らは不意と立ち止まった。
 そう言えば、僕らはお祭りにやって来たものの、何をするかについては全く考えていなかったのだ。
 大きな瞬きをしていた鈴音と顔を見合わせ、僕らは微妙な笑みを浮かべ合った。

 「これからどうしようか」と僕が彼女に話し掛けようとしたところで、ふと、鈴音が僕ではなく僕の後ろに目を奪われていることに気が付いた。
 
 気になって首を向けると、そこには中学高学年か高校生ぐらいと思しき男女が並んで歩いていた。
 少年のようなあどけなさの残る男の子は鼠色の浴衣を身に纏っており、少し大人びたように見える女の子は半色の浴衣に空色の髪飾りを身に着けていた。

 浴衣の色合いもさることながら、下駄を慣らす音でさえ、その二人は綺麗に息を合わせていた。
 一方の身体で隠れた二人の合間からは、ちらちらと結ばれた手と手が揺れて見えた。
 
 ある程度の情報を抜き出すと、二人に意識を向けることを止めた僕に対して、鈴音はその後姿を見送るように延々と二人を眺めていた。
 
 僕はあの二人を見て何を考えただろうか。君はあの二人を見つめ何を思ったのだろうか。
 願わくば、鈴音と僕があの二人の上に重ね描いたものが同じであって欲しいと思った。

 そんな泡沫の祈りは宙に浮かんで弾け飛んだ、かに思えた直後、手のひらには僅かな温もりが伝えられた。

 何かの間違いだと思った。
 だからそれが僕の強烈な願望によって引き起こされた幻触ではないことを確かめようとして、しかし幻の温もりが壊れてしまう恐れ、僕は何度も何度も目を泳がせた。
 そのあとになってようやく、僕は己が右の手のひらに視線を落とした。
 
 その全てが現実であった。
 瞬間、爆発したように心臓が大きく跳ね、熱という熱が激流の如く血管を巡った。
 
 僕は言葉を失ったままに君を見やった。
 鈴音はつぶらな瞳で僕の目を捉えながら、口籠るように細々と言った。
 
 「嫌だったら、嫌って言って…」

 夢に夢を見た気分だった。
 
 頭がくらくらするほどにぼんやりとして、だが僕は慌ててふるふると首を横に振った。
 それから振り絞るようにして「…嫌じゃない」と横目に見る君に伝えた。
 
 すると君は気恥ずかしそうな笑みを零し、僕の手のひらを潰さないよう優しく力を加えた。
 絡まる手と手の心地良さに息が詰まりそうで、喘ぐように口を動かせば、湿った空気に綿菓子を感じた。
 
 甘い魔法に掛けられて、僕にもようやく夏が訪れたように思えた。

 ♦♦♦

 
 このまま何事もなく夏は春の背を追い掛け、秋が冬の寒さから逃げてきたのならば、この祭りの日こそが、僕の脳裏に他の何よりも鮮明に刻み込まれた君との記憶になったのだろう。
 
 しかし現実問題としては、この記憶が君との最もたる思い出にはならなかった。
 まずはこの直ぐ後の出来事が、僕の感情を激しく掻き乱すことになるからである。


 ♦♦♦
 

 君が僕の先を行き過ぎないよう、僕が君に遅れ過ぎないよう、お互いの歩調を確かめるようにすり合わせる。
 ただ前に足を動かすだけだというのに、二人で並んで歩くということは実に難しく、何処かこそばゆく、胸にハッカの爽やかな香りが広がるようになんとも新鮮なものであった。
 
 それでも、二人三脚みたいに掛け声で波長を合わせてみたりして、やがて二人の歩幅がピタリと寄り添うようになった。
 その一体感は饒舌につくしがたいもので、僕はこのまま地球の果てにまで君と歩いて行けそうだった。
 
 丁度その時、ゆるい熱風に混じって何処からともなく香ばしい匂いが流れ込んできた。
 ふと現実世界に戻って来ると、目に優しい提灯の灯りが掻き消されるほどに煩い輝きが目をぎらつかせた。
 僕らはほとんど同時に歩みを止め、瞳孔を調整するように一度瞬きを挟んだ。
 
 道の両端に並ぶ簡易テント、闇を寄せ付けない白い照明灯、商店街を思わせる力強い客引きの声。
 どうやら僕らは、知らず知らずに即席の屋台街に迷い込んだみたいだ。
 
 「どうする?広場まで戻るか?」

 僕が顔を向けて問うと、「ちょっと見て回ろうよ」と彼女は僕の手を引いて前に進み出した。

 道を歩けば油のはねる音や焦げた醤油の匂いが鼻孔を擽り、僕の腹の虫は暴動一歩手前に追い込まれた。
 鈴音は都会に旅行にやってきた観光客みたいに首を左右に振っては物珍しそうにその足を進めていた。

 しかし、突如その動きが止まる。
 今度は右にくる思われた顔がこちらを向かず、彼女は左の屋台に釘付けとなった。
 
 その屋台では、赤い果実が小さな花畑を作っていた。
 その丸々とした赤色は、明かりに照らされ光沢を放っている。
 
 僕らよりも幼い子供がその内の一本を受け取り、満足そうにその場を後にした。
 その子に分かりやすく羨望の目を向けていた鈴音を見て、僕は軽く吹き出してしまった。
 
 「りんご飴、気になるのか?」

 僕は笑い声を抑えられないまま訊ねてやると、君は小恥ずかしそうに頷いた。
 そんな鈴音を見た僕は胸に甘い痺れを覚えながら、年相応だな、という感想を訳もなく抱いた。
 
 僕は空いている左手でポケットを探り、この日の為に貯めていた虎の子を取り出した。
 鈍く光る五百円玉を彼女の前に掲げ、僕はニヤリと笑い掛ける。鈴音はきょとんとして僕を眺めていた。

 僕はそのまま彼女の手を引っ張り、屋台の前で「りんご飴二本ください」と言った。

 店番のおじさんは「お前一人で二本も食うのか?」と欲張りな人を見る目で僕を眺めていた。
 
 お釣りとりんご飴を二つ受け取る。
 店の前から立ち退き、一本を彼女に手渡す。

 鈴音はそれを遠慮がちに受け取り、僕がりんご飴を舐めるのを待ってから恐る恐る口を付けた。
 飴を舐めた途端に表情を輝かせた君を見て、僕は生まれて初めて誰かに奢ることの喜びを知った。
 
 そうして、僕らはりんご飴を齧りながらまたのんびりと歩き始めた。
 黙々と甘い飴と酸っぱい林檎を齧り、それが残り半分ほどになったところで、鈴音は棒に視線を固定させながらぽつりと言葉を零した。

 「何も聞かないんだね」

 今更、『何を』というのを聞くのは無粋だと思われた。
 その上、今晩は夏の魔法が僕を無敵にしてくれた気がした。

 だから僕は君の手のひらを少し強く握って、「前にも言ったろ?」「伝わる温もりが同じなら、僕はそれで充分なんだって」と言ってやった。
 
 鈴音は少しだけ強張った笑顔を作り、握る手の力を強めると「…千風くんは、強いね」と消えそうな声で言った。

 りんご飴が綺麗さっぱりに消えてしまった頃、中途半端に胃袋を刺激したせいか、腹の虫はとうとう内側から僕をぶん殴るようになった。
 折よく好ましい屋台を見つけ、僕はそこで焼きトウモロコシを購入した。もちろん二本分だ。

 「またくれるの?」

 彼女は意外そうに言った。

 僕は一芝居打とうと思って、「あぁ、『よぉ、坊主。可愛い嬢ちゃん連れてるんだな。一つオマケしてやるよ』って屋台のおじさんが言ってくれたんだ」とそれっぽい声真似をしてみた。
 
 すると鈴音は面白そうに目を細め、「千風くんの嘘つき」と楽し気に言った。
 
 僕は返すように、

 「嘘じゃないさ」

 と言ってみたところで、その続きの言葉を繰り出すことは叶わなかった。
 
 君は待ち焦がれるように期待の目を向けていた。
 
 でも、僕の喉はそれ以上動かなかった、動かせなかった。
 
 やがて鈴音はずっと昔からそうなることが分かっていたみたいに、一瞬間何かを諦めたような表情を過らせた。
 
 僅かな沈黙を経て、僕らは歩き出した。

 それからは、ひたすらトウモロコシを齧る時間が続いた。
 
 少なくとも、夏夜の狂熱に踊らされた僕は、まだ夏の魔法に包まれていたのだと思う。
 だがそれでも、その先を言葉にすることは憚られたのだ。
 
 だってそうだろう?その先の未来に挑んだが為に、この心地良い関係が崩れてしまうかもしれないのだから。

 臆病だったと言われればそれまでかもしれない。
 だけど、それは石橋を金槌で叩かねばならぬほどに僕にとって下らなくないことで、その意志決定は僕の全てを左右するほどのものだったのだ。
 
 先に断っておくと、これは後知恵でしかない。
 それは、全知的な視点から語られる当事者の心情を無視した意見であると承知した上の話だ。
 
 だが敢えて言わせてもらえば、紛れもなくこの瞬間こそ、僕は続きの言葉を伝えるべきだった。
 僕は夏の魔法に浮かされてうっかり口を滑らせなければならなかったのだ。
 それは決して遅れてはならぬことだった。
 
 でも結局のところ、僕はその場で足踏みしたまま一歩も前へと進もうとしなかった。
 現状維持の果てに待つものは永遠ではなく破滅だというのに、都合のよい面ばかりに縋り、そこから目を逸らしたのだ。
 石橋だって強く叩き続ければ、いつかは壊れてしまうというのに。
 
 結果、僕は僕の選択に大きな悔いを残すこととなる。



 焦げた醤油の辛みとコーンのほんのりとした甘さが絶妙だった焼きトウモロコシを食べ終えると、僕らはゴミを捨て、屋台街を抜けて行った。
 近くの縁石に腰を下ろし、遠くから祭りの喧騒をぼんやりと眺める。
 空高くに三日月が昇ると、店仕舞いを始める屋台がちらほら現れた。

 「一旦戻るか?」

 僕が立ち上がる素振りを見せると、鈴音は僕を引き留めるように握る手に力を込めた。

 「んーん。もう少しだけこのままでいよーよ」

 君は甘えた声で僕の身体にもたれ掛かる。それを肩で受け止めた僕は、もうしばらく月の淡い光を眺めることにした。
 
 屋台の半数が照明を落とし、夜の帳が密度を増した頃、「そろそろ帰ろっか」と鈴音は徐に身体を起こした。
 
 自然な動作で僕の手が解かれる。
 温もりが零れ落ち、何かが足りない感覚が手の内を漂った。
 
 鈴音は近くの茂みから森へ向かおうとした。

 「いつもの場所まで送ってくよ」と僕は君の後をついていくべく動き出そうとした。

 「別にいいよ、そこまでしてくれなくても」

 彼女は微笑みながら僕を制止した。
 
 しかしそこで退く僕ではない。「いや、夜は危ないからさ」と取ってつけた理由で言葉を返そうとすると、彼女はそれを遮るように口を動かした。

 「ね、千風くん」「もう一つだけ、わがまま言っても良いかな?」

 君の我儘ならなんだって聞いてやりたかった。僕は軽く頷き、鈴音の気ままなおねだりを待った。
 
 彼女は逡巡するように、何度もその口を開こうとしては閉じることを繰り返した。
 そんな君の表情は決して良いものとは言えなかった。諦念か憂慮か、それとも別の何かか、僕には判別できないものだった。
 
 だがある時、僕は直感的に理解した。

 何かがおかしい、と。
 
 そう思った次の瞬間、頭の中でけたたましい警告音が鳴り響いた。
 その先を言わせてはいけない、と少し先の未来を見たかのような心が訴えかけてくる。
 僕は何かしらの行動を起こそうとして、しかしその前に、長い躊躇いを乗り越えた彼女は言葉にしてしまった。

 「もう、あそこには来ないで欲しいの」

 大地が抜け落ちたような感覚に襲われた。
 一瞬、僕は彼女に何を言われたのかを理解出来なかった。
 
 自分にも君にも問い掛けるように、僕は言葉にならぬ問い掛けを口から零れ落とした。
 君は儚げな微笑みを浮かべていた。
 
 もう一度頭の片隅でその言葉を読み解く。訳が分からないのか分かりたくないのか、「どういう意味だよ?」と僕は引き攣った笑顔を浮かべた。
 その言葉をもう一度耳にすると言うことは、それすなわち僕の胸に大きな杭をもう一本打ち付けると言うこと他ならなかったが、だとしても訊ねずにはいられなかった。
 
 鈴音は押し殺すように瞼を閉ざすと、きわめて無表情に冷たい声を発した。

 「だから…こうやって一緒に遊ぶのは、今日で最後にしよって」

 今度は胸がすり潰れるような痛みに襲われた。
 僕は膝から崩れそうになって、しかし醜態を晒さないよう虚勢を張り、愕然とその場に突っ立った。

 表情の抜け落ちた、或いは、どうして?の四文字で埋め尽くされた僕を見た彼女は、冷徹だった表情をいたたまれないものに歪ませた。
 胸に込み上げるものを必死に抑えつけるように、君は震える声調で短く言い残した。


 「さようなら、千風くん」

 醒めない悪夢を見ている気分だった。
 後頭部を鈍器で殴りつけられ、その衝撃で魂が飛び出たかのように、自分の身体は自分のものじゃないみたいに微動だにしなかった。
 
 視線を背けて去り行こうとした鈴音は、しかし言い忘れたように振り返ると、「…今日まで一緒にいてくれて、ありがとうね」「本当に、楽しかった」と僕の目を見てぽつぽつと呟いた。
 僕は彼女の目なんて見ていられなかった。

 「…お、おい!」「待てよ鈴音!」

 君の後姿が茂みに消えそうになって、ようやく僕は僕を取り戻した。
 逃げるように森の中へ進んだ鈴音を追い掛けるべく慌てて走り出す。
 
 がしかし、これまでに一度も彼女に敵わなかった僕が追い付けるはずもなかった。
 それぐらい分かっていた。それでもいま彼女を引き止めないといけない気がした。
 
 僕は暗黒に目を凝らしてひたすら君の姿を探し、愚直に森を駆け続けようとした。

 数秒と経たないうちに鈴音の残した言葉で身体中が苦しくなって、つま先に引っ掛かりを覚えた。  
 
 途端に身体ががくんと下がって、いくら藻掻けど身体はそれ以上前に進めなくなった。

 
 いつの間にか、僕は地面に突っ伏していた。
 膝下からヒリヒリとした痛みが押し寄せる。穴の開いた胸には無情な突風が流れ込み、痛みを刻み込むようにズタズタと肉を切り裂いていく。
 ぼうっとした頭で目を凝らそうとも、もう君の白の名残りさえ見当たらなかった。
 
 空を見上げども、慰めの月明かりは届かない。
 何もかもが受け入れたくなかった。そんな僕の心情にはお構いなしに、許容限界を超える感情が殺到する。
 終いには身体中が一つの感情に支配されて、暗がりの森が滲んだ。
 
 吹き抜けるぬるい風は、僕から夏の魔法を呆気なく取り上げた。

 ♦♦♦

 
 昨晩、僕はどのようにして家に帰り風呂に入り布団に潜ったのかはよく覚えていない。
 それでも気が付くと太陽が昇り、僕は寝床でいつもと変わらない一日を迎えていた。
 
 頭は泥が詰まったみたいに重く、胸は妙に風通しが良かった。
 何度も朝の日課を違えながら、事務的に朝食を済ませ、慣習的に朝顔に水をやり、機械的に宿題に取り掛かった。
 
 淡々と午前の日々を消化し終え、太陽が天辺に昇ると、僕は訳もなく靴ひもを結んでいた。
 家を飛び出し向かう先は、やっぱり山の方だった。
 
 一晩経って否応なしに頭の方は整理が付いていたが、とは言え心の方はまだ諦めが付いていなかった。
 
 「あれは嘘だよ~」「千風くんが慌てる姿、見たくなっちゃったから」

 なんてことを言いながら、意地悪い笑顔で僕を迎えてくれる君が居る可能性だってあるのだ。
 いや、あるに違いない。そうでなくてはならない。
 
 そうやって都合の良い君の像を乱立させて、昨日確かに見聞きした事実の輪郭を不明瞭にしてしまう。
 すくすくと育ちつつある青い稲を無関心に眺めつつも、ひたすらにこれまでと変わらない道筋を往く。
 雑木林をかき分け、緩い斜面を登り、僕はシンボルツリーに辿り着いた。

 「…鈴音?」

 その情けないほどに頼りない声が、他でもない自分の喉から振り絞られたものだと気が付いた時、僕はさほど驚くことはなかった。
 
 彼女の名を呼ぼうとも、君は大樹の裏からひょいと顔を見せることもなければ、後ろから僕を脅かしてくれることもない。
 僕の縋り声は蝉の暴音に吞まれ、夏の静寂が周囲をたたえていた。
 
 身体の内側から軋み音が聞こえた。
 でもそれらの感情を検分することは後回しにしてしまって、僕は手当たり次第に鈴音を探し始めた。
 
 この一年の間、君と一緒に過ごした場所の一つ一つを見て回らなければ、彼女が居ないことを決定付けることはできないのだから。
 もちろん、そんなことないと解っていたけれど。
 
 急斜面、小川、竹林、紅葉が綺麗だった場所、二人でオナモミを投げ合った所…闇雲に山の中を駆け巡って、しかし、居ない、居ない、居ない。
 
 頭の中に広げた地図にバツ印が増えるにつれて、僕は息が上がるほどに走力を振り切れさせた。
 満足に呼吸が出来なくなってもなおその足を止めようとはしなかった。
 今は盲目的に動き続けなければ、やがて僕は窒息してしまう気さえしたのだ。
 
 そのうちに日暮れ時がやって来た。僕は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながらシンボルツリーのところまで戻って来て、そのまま崩れるように大樹の下に座り込んだ。
 
 一日中走り回ったのに、終ぞ彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
 でも大丈夫。まだ大丈夫。残りの三割に君がいるかもしれないから。きっといるから。
 
 段々と心に余裕がなくなっていることを他人事のように自覚しながら、僕は手を振って山を下りた。
 
 そうして、終わった後の世界の一日目に区切りをつけた。

 二日目。

 今度は朝から山にやって来た。
 昨日酷使した筋肉が悲鳴を上げているが、それを無視して森の中を彷徨った。
 午前中のうちに記憶に残る場所は全て回ってしまい、遂に僕は現実を受け入れざるを得なくなった。
 
 鈴音は何処にも居ない。僕は鈴音に拒絶された。もう彼女は僕の前に現れてくれない。
 
 途端に、これまで良くも悪くも靄で覆われていた心が真っ白に染まった。
 もうこれ以上は何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。
 僕は覚束ない足取りで山を後にし、自室に籠ってひたすら惰眠を貪った。
 
 三日目。

 僕は午後何時かに目を覚ました。文字盤はよく見えなかった。
 ぐっすり眠ったのに布団から這い出す気力の一滴も得られず、僕は一日のほとんどを仰向けになって過ごした。
 夏の奏でる音の全てが浅く聞こえ、何を食べても味を薄く感じ、目にはあらゆるものが暗く映った。
 
 いまは一秒でも早く日々が過ぎ去って欲しかった。
 君のいない一日は驚くほどに長かった。

 四日目。

 僕はひたすら机に向かった。
 ただ茫然と日々を過ごしても脳裏に君が過るというのなら、僕はいっそのこと他の何かに夢中になろうとした。
 
 でも、意識して考えないようにすればするほど、煙みたいに君との記憶が全身に纏わりついた。
 その度に皮膚が抉り取られるような心地を味わい、世界の彩度は一段と下がっていった。
 
 最近、視界が歪むことが多くなった気がする。

 五日目。

 全て無かったことにしよう、と僕は思った。
 もうこんなに辛い思いをするぐらいなら、いっそ全部忘れてしまえばいいんだと自暴自棄になった。
 
 もちろん、記憶を喪失出来るわけではない。僕はその日、久々に日向達と遊び明かした。
 全力で自転車を漕ぎ、プールに行って泳ぎ倒し、帰り道には大きなかき氷も食べた。
 
 その日、僕は存分に話したし、喉が枯れるほどに笑ったし、ぶっ倒れるぐらいに全力で身体を動かした。
 この上なく素晴らしい一日だ。暮れ方の空の下で彼らと自転車を押し歩いている時、僕は本当にそう思っていた。
 
 家に帰ってご飯を食べて、熱い湯船に浸かって気怠い身体に鞭打って布団に入ったところで、ふと凄まじい虚無感に襲われた。
 
 夢から醒めた夢を見たようだった。当然、彼らとの時間が楽しくなかったわけじゃない。
 少なくとも、頭の中は今日一日を最良の日だと思っているようだった。
 
 だけど心は全く満足していなかった。
 胸の内にはやるせなさだけが募った。

 六日目。

 僕は性懲りもなく山に向かった。
 当然の如く君は居なかった。

 行く当てもなく森の放浪者となった僕は、時々無意識のうちに、「なぁ、鈴音。どこに隠れたんだよ」「頼むから、出て来てくれよ」などと冀うように呟いていた。
 
 凡そ正気だとは思えなかった。
 いや、もうとっくに頭はどうかしていたのだろう。
 それぐらい僕にとって彼女の存在は精神的支柱だったのだ。

 夕方頃になってふらふらと大樹にまで戻って来ると、僕はなんとなくその場にへたり込んだ。
 あるのは絶望だけだった。
 膝を抱えて顔を埋める影法師が伸びていた。
 ヒグラシの他にも一匹泣き虫が、自分の居場所を叫ぶように鳴いていた。
 
 星々が微かに輝き始めた頃、ぐちゃぐちゃの僕はのろのろと立ち上がった。
 夜空に浮かぶ星彩は、そのどれも薄汚く見えた。
 
 それから、僕は死んだように眠った。

 七日目。

 目を覚ますと日が傾いていた。
 でも一日を無駄にしたとは思わなかった。それどころか、僕は一日が早く終わることに後ろ向きな喜びさえ感じていた。
 
 望んだとおりにすぐに夜の時間が来ると、しかし僕は上手く寝付けなかった。
 仕方なく布団から這い出て、窓辺から詰まらない夜空を漠然と眺めた。
 
 そうして長い間頬杖をついていると、ゆくりなく思った。僕は何をしているのだろう、と。
 
 その晩、僕はようやく真剣になった。

 鈴音が姿を見せなくなった理由、僕に足りなかったもの、別れ際の彼女の様子、そしてこの一週間のこと。
 思いつく限りについて一つ一つを取り上げては時間を掛けてじっくりと分析し、起きてしまったことの原因を究明することに努めた。

 もう二度と、同じ過ちを繰り返さないように。
 でも、その過ちをやり直したいたった一人の君はもういないんだ。こんなことをしてなんの意味があるって言うんだ。
 
 そんな風に、夜中の妙に冴えた頭は余計なことまで抱え込んだ。
 結果、僕が個別的に物事の検証を終えた頃には、窓枠に映る四角形の空が白み始めていた。

 そしてそれらを繋ぎ合わせる前に、僕はゆっくりと意識を失った。


 そしてまた今日がやって来た。
 
 僕は独りでに午後五時に目覚め、突っ伏した机の上で身体を伸ばした。
 一度睡眠を挟んだ頭は気持ちいいほどにすっきりしていて、僕は天啓のように一つの答えを導き出していた。

 寝癖を直すことも空いた腹を満たすこともなく、歯を磨いて乾いた口にコップの水を流し込むと、僕は寝間着姿とサンダルの格好で静かに玄関から出て行った。
 
 それから、ちょっとした散歩にでも行く調子で山の中に入った。
 暫くするとシンボルツリーにまで到着し、やっぱり鈴音は姿を現さなかった。

 「鈴音、居るなら出て来てくれよ。そろそろかくれんぼにも飽きてきたんだ」

 僕はのんびりとした調子で彼女に問い掛けた。
 その声色には、ここ最近のみっともない僕を微塵も感じさせない。
 だからその変わりように驚いて彼女は姿を現してしまった、ということを微かに期待してみたのだが、やはりそう上手くはいかないようだ。
 
 まるで君がそこにいるかのようなその口調は、一見すると、とうとう僕が狂気に吞まれたかのように見える。
 しかし、そこには揺るぎない確信があった。
 
 その証拠に、僕の感覚は今この瞬間も強く訴えている。誰かに見られている、と。

 この奇妙な感覚は、思い返せばこの一週間山を訪れる度に僕に付き纏っていた。
 昨晩そのことについてよく考え、僕はある結論を得たのだ。
 
 それすなわち、鈴音はずっと僕の近くに居るのだと。
 
 まず彼女はあの日、もう来ないで欲しい、と僕に言った。
 しかし、自分が来ないとは言っていなかった。
 
 そしてそもそもの話、彼女は他の人には見えない半透明な存在なのだ。
 だから何かの拍子に僕も皆と同じようになってもおかしくはない。

 要するに、彼女は形而上となって今も僕を見ている。そう言うことだ。
 
 であれば、後はどうやって彼女に姿を現させるか。問題はそれだけだ。そこでとある作戦を実行するという訳である。
 
 そこには論理的思考など皆無だった。それでも、僕にとってはそれが唯一の真実であるように思えたのだ。
 
 僕はシンボルツリーの先を進み、やがて見覚えのある崖地の手前までやって来た。
 注意深く地面の切っ先にまで足を進める。あの時のことは不思議と上手く思い出せないが、どうやら身体は覚えているというやつらしい。
 身を乗り出して遠い地面に視線を落とすと、身体のあちこちで嫌な脂汗が伝った。

 僕は一呼吸挟み、自己暗示を塗り重ねた。

 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。

 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。

 「見つけた」

 その短い言葉にはどんな喜びにも勝るほどの興奮が色濃く表れていて、僕は確信めいた眼差しで空間の一点を見つめていた。

 賭けに勝ったという自信があった。
 高らかな勝利宣言が辺りに染み渡ると、それから長い間、夏の声が静謐を代弁した。

 僕は掴んだ手を必死に握り締めて、辛抱強くその時を待った。
 手のうちに汗が滲み始めた頃、とうとうその時がやって来た。

 「…ずるいなぁ、千風くんは」

 山の端に日の出を見たようだった。
 その魔法の粒子が拡散したかのような余りに美しい登場に、僕は思わず言葉を失った。
 何処か参った調子の鈴を転がすような澄声が響いて、君は観念したようにゆっくりと僕の目に見える形で現われた。
 
 何にも汚れないような真っ白な肌、目尻に流れる長いまつ毛、艶やかな黒の髪、容姿端麗な顔立ち。
 ひとたび彼女を認知すると、ありとあらゆる感情が身体中に一挙に押し寄せ、やがて間欠泉のように飽和した。
 一週間ぶりに君を目に焼き付けた僕は、もう我慢ならなかった。

 「鈴音!!」

 僕は無我夢中になって君の名前を叫んでいた。
 鈴音は困ったような笑顔を崩さないでいた。
 
 一瞬でも目を離せば、君はまた何処かに行ってしまいそうな気がした。
 僕は雪崩れ込むように君との間隔を狭め、気が付くと、彼女の鼓動が僕の胸に響いていた。

 僕は今、鈴音を強く抱き締めている。
 それを自覚した時にはもう遅く、溢れ出る衝動が止まることはなかった。

 「お願いだから、もう勝手に居なくならないでくれ。僕は鈴音といる時間が何よりも大切で、鈴音と一緒に居られないと頭がおかしくなりそうで…だからっ…頼むから、僕の隣に居てくれ…」

 力の限り君を抱き締め、僕は心から零れ落ちる感情を精査することもなくだだ流しにした。
 そこには取り繕うべき体裁もなく、透き通るほどに純粋な祈りが伝わっていた。
 
 鈴音は困惑したように僕の腕の中で固まっていた。
 その間、僕は声を上ずらせて同じような意味の言葉を繰り返していた。

 やがて君は苦しそうな微笑みを作った。
 我に返った僕が抱擁を解こうとすると、君は僕の背中にそっと腕を回した。

 僕の言葉に何一つ答えてくれないことはどうしようもなく悲しかったし、君が僕に応えて優しく包んでくれたことは痛いほどに嬉しかった。

 「ほんとに清水の舞台から飛び降りようとするなんて…無茶が過ぎるよ」

 僕の背中をぎゅっと抱き締めた彼女は耳元で囁いた。
 
 「鈴音が止めてくれるって、分かっていた。だからやったんだ」

 僕は少しだけ腕に力を加えた。
 
 「止めなかったら、どうするつもりだったの?」
 
 鈴音は優しい声でまた呟いた。

 「どうもしない。それで終わりだ」と僕は呆気なく言った。

 「もう二度としちゃ駄目だからね」と彼女は僕を諫めるように言った。
 
 「めっ!」という擬音が聞こえそうな勢いで僕の胸を小突き、君はそっと僕の身体から離れた。
 そんな鈴音は怒りながら笑っているようだった。
 
 また君が居なくなったらどうしようかと気が気でなかった僕は、瞬きしても姿を消さない君に一安心した。
 「うん、約束する」と大人しく返事をすると、君は満足げに頷いた。
 
 思えばこの時、僕は初めて鈴音に黒星を叩きつけたのだろう。
 とは言え、今はそんなことはどうだって良かった。勝ち負けなどに拘る以前の問題として、もう充分過ぎるほどに僕は満たされていたのだ。
 
 遅れて僕は自分のしでかしたことを脳裏に巡らせ、自覚できるぐらいに顔中が火照った。
 それを見た鈴音は小さな笑い声を洩らした。

 そして「さて」とでも言いたげに両手を合わせた。

 「ね、千風くん」「明日、朝からまたいつもの場所に来て欲しいんだけど…良いかな?」

 彼女は遠慮気味にそう言った。
 
 「構わない」と僕は即応した。

 すると鈴音は「もしかしたら、また居なくなっちゃってるかもだよ?」と悪戯めいた素振りで言った。
 
 「なら、もう一度同じことをするだけだぞ?」

 僕は強気な言葉を返した。

 「意地悪だなぁ。こっちは気が気じゃないのに」鈴音はしてやられたみたいにため息をついた。
 
 それから僕たちは大樹の下まで戻り、その日のお別れを告げようとした。
 
 去り際に、「朝一番だな?」と僕はもう一度彼女に確認を取った。
 
 鈴音は「うん、ちゃんと全部話すから」と何気なく言った。
 
 僕は思わず目を見開いて立ち止まった。

 「もう日が暮れちゃうよ。だからまた明日、ね?」と鈴音は言い聞かせるように僕に手を振る。

 背を押される形でその場を後にした僕は、その言葉に並々ならぬ予感を抱いていた。

 ♦♦♦

 
 久しぶりに鈴音の姿を見られたこと、君と話せたこと、感極まってつい彼女を抱き締めてしまったこと。
 それから、色々と口走ってしまったこと、彼女にも抱き締められてしまったこと。
 
 その晩、僕は一日の出来事を心に刻むように反芻していた。
 明日の為に身体を休めなければならないというのに、頭も身体も高揚が収まらなかった。

 無理矢理目を閉ざして羊を数え、真夜になってようやく意識は手放された。
 それでも朝は自分でも驚くほどに素早く目を覚まし、時計が鳴る頃には布団を畳み終えていた。
 
 その日は気持ちが良いほどの快晴だった。
 窓際から覗く太陽は自室に深い陰影を落としていて、窓の向こうに見える雑木林からは物々しい蝉時雨が聞こえた。
 窓を開け放つと、夏の匂いが湿った風に運び込まれた。

 いかにも夏らしい夏だ、と思いながら僕は外へ繰り出した。
 
 農道の両端に広がる田んぼには、もう緑の絨毯は見えない。
 稲穂の先が仄かに黄金色を帯び始めていて、そこで青の斑点の美しいギンヤンマが小休憩を挟んでいた。
 行く小路では大きな向日葵が空高くを見上げており、山の緑に近づくにつれて人工と天然の比率が入れ替わっていった。

 やがて僕は自然のほら穴の如き青葉のはびこる森の入り口に吞み込まれ、透いた林冠から洩れる幾つもの光芒が僕を照らしては陰りを落とした。

 じわじわとその足取りが速まる。
 逸る気持ちを抑え切れない。

 辛抱堪らず、僕は慣れ親しんだ道なき道を跳ぶように進み始めた。
 ものの数十秒で緩い傾斜を登り終えると、遠くに一際背の高い大樹の頂点が伺えた。
 目的地はもうそこだったが、駆ける足が止まる様子はなかった。
 
 居るのか、居ないのか。鈴音は本当にあそこで待ってくれているのか。今度という今度ばかりは何も言わずに僕の前から去ってしまうのではないか。

 等々、次から次へと嫌なことばかりが頭の中に浮かんでは沈み、得も言われぬ焦りが身体中を駆り立てていた。
 
 昨日の彼女の言葉が信じられなかったわけではない。
 それでも、一抹の不安は瞬く間に膨らみ、破裂寸前にまで僕の胸いっぱいに広がった。
 
 ただ君の姿を一目でも見られたなら、この胸に巣食う風船も落ち着くのだ。
 僕は気の急くままに掩体のような木々を躱し、やっとのことで大樹の聳え立つ地へと駆け込んだ。
 
 途端、全身は鎖で絡め取られたように動かなくなった。
 その場からは空気がごっそりと抜き取られたみたいに、僕は息を吸うことさえままならず茫然と一点を見つめることになった。

 初め、僕は自らの眼球が捉えた光景を疑った。
 夢まぼろしの類を軽々と上回るほどに、この現こそが浮世離れしていたからだ。
 こんなにも胸に響く現実があるなど、僕には到底信じることが出来なかった。
 
 視界の中心で動く白はこれまで通り美しく、だがこれまでになく気高き品性を感じさせた。
 その後光が射して見えるいでたちに目を奪われる余り、僕はどうあがいても動き出すことが出来なかった。
 
 その時、僕の脳裏には今更ながらに提灯と釣り鐘が思い浮かべられた。
 すっぽんが月に近づけるはずがない理屈と同じで、僕という人間が君に近づくなどあってはならないことだと感じられた。
 僕の抱く薄汚い欲望で彼女を汚してはいけないのだと強く思わされた。
 
 並外れて高踏的な君を前に、僕は思わず怯んでしまった。
 じわじわと後退りをして、物理的にも精神的にも彼女から距離を取ろうとしてた。
 
 そんな僕をよそに、君はひらひらと手を振りながら近くて遠い距離を詰めた。そうして

 「おはよう、千風くん」

 と屈託のない声で僕の名前を呼んでくれた。

 たったそれだけのことで、僕の中に芽生えた心理的障壁は音を立てて崩れ去った。
 
 いつもと恰好が違うからなんだというのだ。鈴音は変わらず鈴音だ。
 だから僕もこれまで通りの僕でいればいい。それだけのことではないか。
 
 畏怖の念に似た感情さえ起こさせる鈴音から逃げ出そうとした寸前で、僕は正気を取り戻した。
 それは、君がいつも通りの声色で、僕と同じ言葉で語り掛けてくれたからこそなのだろう。
 
 僕は頭の中を切り替えるように一呼吸を置くと、微笑みを作って挨拶を返した。
 鈴音は確かめるように自身の身体のあちこちを眺めると、その場でふわりと一回転した。
 そして僕にでも分かるぐらいのあざとい笑顔を浮かべた。
 
 「どう、似合ってる?」

 何を隠そう、今日の鈴音は例のワンピース姿ではなかった。
 
 清流を思わせる淡い水色をした装束は彼女の華奢な身体つきに相応しく、その色合いは見事なまでに彼女の乳白色の肌に馴染んでいた。

 後頭部に添えられた藤色の髪飾りは、彼女の翡翠の髪差をこれ以上になく引き立ていた。 
 
 また、髪飾りで結われた髪が、今までの自然体とは違った美しさを体現していた。

 飾りに使われている花は本物のようで、芳しい香りが辺りに揺れていた。
 一年以上植物に関することを勉強してきた僕にでも、その花の正体には見当もつかなかった。
 
 改めて君の姿を見つめ直したうえで、僕は彼女の問い掛けに答える準備を整えた。
 それを素直に認めることは中々に悔しいし、それ以上に恥ずかしいことだったが、実際、非の打ちどころは何処にも見当たらなかった。

 「うん、凄く似合ってる」

 僕は大きく頷いた。

 「可愛い?」

 君は一歩踏み込んで僕を覗き込んだ。

 「うん、信じられないぐらいに可愛い」

 僕はまた頷いた。

 「見惚れちゃった?」
 
 段々と顔が綻びつつある君は更に訊ねた。

 「うん、今もまだ目が離せない」

 僕は馬鹿正直に答えた。
 
 遂に表情を抑えられなくなった君は、「えへへ」と照れくさそうに口元を綻ばせた。

 僕はそんな君にまた魅入っていた。
 
 「もっと前からこの格好でいれば良かったなー」と彼女はこっそりと呟く。
 その口惜しそうな言葉を前に、僕は連鎖的に昨日の言葉を思い出した。
 
 ──全部話すから。
 
 その内容が一体何を意味するのか、本音を言うと、僕はもうそんなことを知りたくはなかった。
 出来ることなら、耳を塞いで永遠にこの時間を続けたいと思っていた。
 彼女の服装から、僕は大体の顛末を推測してしまったのだ。
 
 その時の僕がどんな表情を浮かべたのかは、目の前に鏡があった訳じゃないから分からず終いだ。
 でも、鈴音は僕を見ると慰めるような表情を浮かべた。

 「千風くん」

 彼女は改まったように僕を呼んだ。
 僕は現実から目を逸らそうとしたが、彼女はそんな僕を逃がすまいと真っ直ぐに見つめた。
 
 長い躊躇いの末に、僕はとうとう返事をしてしまった。
 すると鈴音は何気なく僕の手を取り、

 「一から十まで全部話しちゃう前にさ、最後にちょっと散歩しよーよ!」

 と明るい調子で僕を引っ張った。

 僕はその手を離さないように強く握り、彼女の後について行った。
 
 鈴音は適当に森の中をそぞろ歩いては、「あんなこともあったね」「こんなこともあったね」とこれまでの日々を振り返るように僕に笑い掛けた。

 連れ回された僕は相槌を打ちながら、綱渡り状態の笑顔を保ち続けていた。
 彼女と散策すること自体は楽しかったが、この後のことを考えると心は何処までも重かった。
 
 僕が気乗りしていないことを察したのか、鈴音は途中で大樹まで戻って来た。既に太陽は頂点に昇っていた。

 「どうにも千風くんは、私の話が聞きたくてしょうがないみたいだね」

 彼女は僕と面と向かうと、堪え性のない子供を見るようにそう言った。

 「その逆だ」と僕は投げやりに言った。

 鈴音は意外そうに眼を丸め、「じゃあ」と言葉を繋いだ。

 「まずは、千風くんの推理でも聞いてみようかな。種明かしはその後ってことで」

 「推理?」

 僕はついつい状況を忘れて素の調子で尋ね返した。

 「そそ。私と一緒に過ごす中で、千風くんはどう考えたのかなー、って」

 彼女は遊び感覚のように軽い調子で催促した。
 
 僕は口を固く結んだ。
 その暗黙の了解を言葉にしてしまっては、君が終点に運ばれてしまうだろうから。
 
 押し黙る僕に対して、鈴音はジッと僕の目を見て我慢強く待ち続けるという選択を選んだ。
 
 きっと、彼女は知っていたのだろう。そうして君に見つめられてしまえば、僕はいつか口を開くことを。
 
 そして彼女の狙い通り、鉛のように重い口が動く時が来た。
 僕は断腸の思いで喉を震わせ、君との答え合わせをしてしまった。

 「鈴音は……幽霊、なのか?」

 
 本来、君は人の目には映らぬ存在だ。
 ずっと昔に彼女の正体を探ろうとした時に、僕はほとんどその答えに辿り着いていた。

 加えて、今日の君は死装束を思わせる姿で現れた。
 かつては君が幽霊などではないと思い込もうとした時期もあったが、ここまで色々な証拠を見せられては、それも無理な話だった。
 
 その言葉を最後に、僕の世界は音が失われたみたいに静まり返った。
 鈴音はきょとんとこちらを眺めていた。
 僕は祈るような気持ちで両目を瞑り、君の答えを待った。
 
 数拍の間があった後に、何処からともなく愉快そうな声が聞こえてきた。
 面食らった僕が目を開けると、そこにはお腹を抱えて苦しそうに笑う君がいた。僕は呆然と抱腹絶倒の君を眺めていた。
 
 暫くして、ひーひー言いながら笑みを抑えた君は、

 「私はお化けじゃないよ~。残念でした~」

 と両肘を軽く曲げ、それっぽく手の甲をこちらにだらんと向けた。
 
 鈴音の言葉によって、僕の世界はひっくり返った。

 「参考までに、どうして私が幽霊だと思ったのか聞かせてよ」

 おかしそうに微笑む君にそう言われて、僕は困惑したままに推論の基となった情報を伝えた。

 「だって、びっくりするぐらい肌が白いし、髪とかも伸びてなさそうだし、いつも白いワンピース着てたし…今日なんて、死装束そっくりの服着てるじゃないか」

 彼女は首を傾げ、続いて反証するように帯近くに手を添えた。

 「なるほどー。でも、私の装束は左前じゃないよ?」

 「あっ」と僕は小声をあげた。
 鈴音の言う通り、確かに彼女の水色な装束はきちんと右前であったのだ。

 「千風くんは抜けてるね~」と、のんびりとした君の声が聞こえた。
 それから鈴音は目を上向けると、如何にもな物語を口述した。
 
 「他人の温もりを求めた幽霊は、ある日少年と出会いました。彼女は彼と日々を過ごすうちに温かな気持ちを知り、最後は成仏しましたとさ。なんてね」
 
 それが実現しなくて本当に良かった、と僕は仮初の安堵に身を置いた。
 
 「まぁ確かに君達からしたら、私は幽霊みたいなものなのかもしれないけどさ」

 君は付け加えるように小さく言った。
 
 僕が生まれたその時、或いは生まれるずっと以前から、宿命は用意周到に手ぐすねを引いていたのだろう。
 だから直前になって僕が暴れ出そうとしたって、もう身体中は運命の糸で雁字搦めになっていた。
 だとしても、僕は醜く足掻くことをやめようとはしなかった。


 「だったら…鈴音は幽霊なんかじゃないんだったら、もう何処にも行かないで──」

 本当は、分かっていた。昨日に君が何も言ってくれなかったあの時から。
 
 だから今から君が言うことは、単に遥か昔から既定されていた未来が訪れたということ以上の意味はなのだと思う。
 であるからこそ、僕は無理くりにでも彼女の次なる言葉を掻き消してしまいたかったのだ。
 
 「私はね」

 鈴音の鶴の一声は、僕の逃避発言をいとも簡単に霧散させた。

 今日も明日もこれからも、君と笑い合って過ごす穏やかな毎日。
 そんな脳裏に描いた淡い日々さえもが露と消えたその時、彼女は静かに止めを刺した。

 「帰らなきゃいけないの」

 続きの言葉は、もう出てこなかった。
 僕はやりきれない気持ちでいっぱいだった。
 
 「…何処に」と僕は自分でも驚くほどに無機質な声で尋ねた。
 すると鈴音は視線を上向け、遠い天上を指差した。

 「高天原」

 鈴音の澄み切った一言が響いた時、僕はぽかんと君の指の向いた何処までも青い大空を眺めていた。
 何から何まで僕の想像していた顛末は間違いだらけで、頭が追い付いてこなかった。
 
 やや間を置いてから、頭はその聞き覚えのあるような無いような言葉を奥から取り出す作業に移った。
 その単語はすぐに見つかった。と同時に落雷が落ちたような衝撃が身体中を走る。
 僕は数度口をもごつかせ、弾けるように本当の答え合わせをしようとした。

 「…は?た、高天原…?」「…ってことは、もしかして──」

 しかし僕がその全てを言葉にしてしまう前に、鈴音は神秘めいた微笑みを僕にぶつけた。
 僕はその神々しさにあっさりとやられた。
 それ以上二の句は継げず、魅惑の微笑に頭をぼんやりとさせていた。

 「ん、そう言うことだよ。これまで黙っててごめんね」

 君は済まなそうに謝ると、おずおずと僕の手を取った。
  
 それから「でも、もう少しだけ、あと少しだけで良いから、私に付き合って欲しい」と僕を優しく引いて、大樹の幹にもたれ座った。
 
 そのか弱い導きは簡単に振り解けただろうけれど、僕は誘われるままに鈴音の隣に腰を下ろした。
 
 長い沈黙が流れた。
 大樹にしがみ付いたアブラゼミが、僕らの近くで翅を鳴らしていた。

 一頻り自分の居場所を示し終えると、彼は颯爽と別の木に飛び移っていく。
 そうして夏の音が遠ざかったところで、君はぽつぽつと話し出した。

 「…本当はね、千風くんとはお祭りの日にお別れするつもりだったの」「そうすれば、私の正体を君に知られなくて済むから」
 
 「知っちゃ不味かったのか?」

 僕は彼女に正体を隠す義務のようなものがあるのかと思った。

 「ううん」

 僕の予想に反して、鈴音は首を横に振って続けた。

 「…私は…怖かった。もし私が人間じゃないって知ったら、君はもう一緒に居てくれないんじゃないかな、って。気味悪がったり、煙たがられたりするんじゃないかなって思うと、どうしても言い出せなかった。私と君は姿形も扱う言葉も変わらないけど、決定的に異質な存在であることは確かだから。寧ろ下手に同じ部分があるからこそ、その絶対的な差異が破滅的なんだろうなって思ってた。君たちが異人種を差別してきた過去と同じように」

 一呼吸挟むように、彼女は嘆声を洩らした。
 
 「そんな憂苦の小片が胸を渦巻いて、私はそれに耐えられなくて、遂には君から逃げ出した。私は君といる時間が好きだったからこそ、君がこれまで通りに私を見てくれなくなる可能性に怯えた。…君を傷付けてまで自己保身に走った私は、きっとこれ以上になく醜いんだろうね」

 「そんなことない」

 いつになく弱々しい表情を見せた鈴音を見て、僕は堪らずその形に口を動かそうとした。
 でもその一歩前に君は軽く頷き、握る手のひらに力を加えた。

 「うん、分かってるよ。君はこんなにも近くで私を見つめていてくれたのにね。一度は見ない振りまでしてくれて、それからも君は何度となく教えてくれたのね。…私は最後の最後まで、君を信じ抜くことが出来なかった」

 「ごめんね」と自罰的な含みを込めた表情で君は言った。
 
 鈴音は本来語る必要のない自分の負の側面をも包み隠さず話した。
 だから反射的に、今度は僕の番だと思った。

 「ううん、謝る必要はない。…実をいうと、僕だってついさっき、君の前から逃げ出そうとしたんだ」

 鈴音が真に恐れたことは、一歩違えば踏み込んでしまいそうなぐらいにすぐ近くにある結末だった。
 そのような趣旨の言葉を受け取った君は目を大きく見開いた。
 
 僕は用水路のへどろを掘り起こすように、醜悪な自分を曝け出した。

 「今日の鈴音は、恰好も相俟って物凄く超然としてたから、その時僕は思ったんだ。僕なんかが君の傍に居ていいのかな、って。君の近くにいるべきは僕みたく恥ずかしいほどに卑小な人間じゃなくて、もっと相応しい存在がいるんだろうなって」

 この期に及んで言い訳をしている自分に、しかもその原因を鈴音に押し付けようとしている自分に甚だ嫌気が差して、僕は自嘲的に哂った。
 
 「…いや、理由なんてどうだっていいか。事実として、僕は君から距離を取ろうとした。僕は君との間に大きな隔たりを築き上げようとしたんだ。結局のところ、僕は君の怯えた通りに愚図だった」

 僕の浅ましい部分を知った鈴音は、距離を取るでも軽蔑するでもなく、「そんなことないよ」と優しい言葉を掛けようとしてくれていた。
 
 そしてだからこそ、僕はさっきの君と同じように、彼女がそう言い出す前に手のひらを強く握った。

 「うん、分かってる。でも、途端に自信の無くなった僕を連れ戻してくれたのは、他でもない鈴音なんだ。単純すぎて驚くかもしれないけど、鈴音がいつも通りの笑顔でおはようって言ってくれたから、僕は君に伝え続けたことの意味を思い出せたんだ。だからある意味で鈴音の憂慮は正しくて、そして最後の最後に僕が変わらないでいられたのは、紛れもなく鈴音のお陰なんだ」

 「ありがとう」と僕は情けない笑顔で独白を締め括った。
 
 多分、浅はかな自分に一言二言文句を言われることはあれども、よもや感謝を伝えられるとは思っていなかったのだろう。
 お礼の言葉に目を丸めた鈴音は、しばらく何かを言いたげに表情を動かしていた。

 でも結局は「どーいたしまして」と微笑んだ。

 「少し、聞きたいことがあるんだ」

 確かめ合うようにお互いの痛いところを舐め合った後に、僕は一つ問い掛けることにした。彼女は目配せで応えた。

 「どうして、僕にだけは鈴音が見えるんだ?鈴音が見えるように計らってくれたのか?」

 なぜ周りには見えない君が視認できているのか。一番気になったのはこれだった。

 別にこれまでの僕は、寺社に行けば幽霊や君のような高尚な存在が捉えられたわけじゃないし、それが不思議でならなかったのだ。
 もちろん、僕がただの人だと思っていただけで、実はその彼らが不可視の存在だという可能性も大いにあるのだろうが。
 
 僕はそれなりに腑に落ちる解答を欲していた。
 対して彼女は共感するように大きく頷いた。

 「それ、私にも分かんないんだ。私はてっきり、千風くんが珍しい属性の人だと思ってたんだけど」

 鈴音は尋ね返すようにそう言った。
 
 「いや、違うと思う。少なくとも、これまでにそんな経験はなかった」

 全てが彼女の仕業でなかったことに驚きながらも、僕はそう言葉を返した。

 「そうなんだ。まぁどうだっていっか。だからね、初めて千風くんに出会った日、私はすごくびっくりしたんだよ?『え?私のこと見えてるの?』って」

 鈴音は在りし日を懐かしむように言った。
 
 結構気になっていたことを一蹴されて、僕はちょっと気に食わなかった。
 だから仕返しでもするつもりで「あぁ、あれはこっちも驚いたよ。こんなに綺麗な子が森の中に居たからさ」とわざとらしく言ってやったのだ。
 
 時間がズレたみたいな刹那の間を置いて、「ふーん」ともの言いたげな目が僕に向けられた。
 君はまんざらでもなさそうな様子で「まだ私にそういうこと言うんだ。って、君にはそんなの関係ないんだったね」と自己完結した。
 
 それから、可視化してしまいそうなほどに深いため息が聞こえた。

 「…あーあ、もっと私に勇気があればなぁ…千風くんだって必要以上に傷付かなかったのに」と誰に言うでもなく、彼女は青い空に視線を移しながら後悔を言葉にした。
 
 その瞬間、僕は無意識に強く言葉を返していた。

 「それは違う」

 言葉に合わせて僕が彼女の腕を引っ張ると、鈴音は驚いたようにこちらを向いた。
 
 いつか失くした夏の魔法の断片をかき集める。足りない分は今の自分を奮い立たせる。
 心に薪をくべ、燃え上がった炎の熱さに堪らず言葉を飛び出させるようにして、僕は君に言わなきゃいけなかったこと、言うべきだったこと、そして何よりも僕自身が言いたかったこと伝えようとした。

 「一歩踏み出そうとしなかったのは、僕の方だ。僕だって、鈴音との心地良い時間を失いたくなくて、ずっと曖昧なままでいたから。絶対的な安全圏から君を小突いては何度も反応を確かめて、その癖境界線を越えようとはしなくて、そんな風に、僕は臆病だったんだ」

 意外にも言葉は流れるように繰り出された。
 その度に段々と自分の頬が熱くなっているのを実感した。

 最初はぽかんとしていた鈴音も、何かを察したように身を強張らせていた。
 
 「…でも、この一週間君に会えなくて、僕はこれまでの自分がどれだけ愚かだったかを思い知った。もう僕はそんな自分から逃げたくない。現状維持の自堕落に溺れたくない。だから、言わせてくれ」

 心臓が痛いほどに胸を叩いている。
 視界がぼやけるぐらいに頭の中は燃え上がっていて、指先にまでどくどくと血液の鼓動が伝わっていた。
 
 心なしか、君の頬は熱を帯びているように見えた。
 それは夢か誠か幻か。だがなんにせよ僕の行動は変わらなかったろう。

 その言葉を繰り出す寸前、僕の喉元は焼き焦げたかのような灼熱に包まれていた。

 「僕は……僕は、鈴音のことが──」

 顔全体に広がった熱を一点に集中させ、口から火を噴くように思いの丈を叫ぼうとしたその時、君の空いている手がさっと動いた。
 その小さな人差し指は僕の顔の前に持って来られて、そっと僕の唇に添えられた。
 
 途端、顔中真っ赤な僕の体温がその人差し指に吸い込まれ、代わりにひんやりとした風を吹き込まれるような錯覚が生じた。
 不思議と冷静さを取り戻してしまった僕は、もう思いの限りを伝えることが出来なくなってしまった。
 
 熱に浮かされていない目で見る君は、それでも頬を桜色に染めていた。
 君は今し方の出来事を深く味わうように瞳を閉ざした。
 そして長い時間を掛けてゆっくりと瞼を上げると、堪らなく嬉しそうに

 「それ以上は、駄目だよ。私も君も、後戻り出来なくなるから」と言ってから、何処までも無念そうに

 「言ったでしょ。私は帰らなきゃいけないって」と嘆息をついた。

 「どうしても、帰らなきゃいけないのか?」

 僕は縋るように問い掛けた。
 
 「うん。…ほんとは、私もずっと千風くんと一緒に居たい。でも、人の子が学校に行くみたいに、私達にも学ぶべきことがあるの」

 君はかすかに頬を綻ばせた。
 
 『ずっと一緒に居たい』その一言だけで僕の胸は馬鹿みたいに高鳴った。

 直後、頭から冷や水をぶちまけられた。

 「それにどれぐらいの歳月が掛かるかは分からない。もしかしたらすぐに終わるかもしれないけど…或いは、君が生きているうちはこっちに来られないかもしれない。それぐらい、難しい事なの」

 そこで僕は初めて理解した。僕と君とでは、時間の流れ方が違うことを。
 ここにきてようやく、僕は二人の間にある絶壁を思い知ったのだ。
 
 恐らくそれをずっと前から分かっていたであろう君は、唖然としている僕をなんとも言えない表情で眺めていた。
 放心する僕に向けて、ズキズキと張り裂けそうな胸を抑えるように、彼女は細い声を振り絞った。

 「だから…今日で、私のことは忘れて。千風くんには千風くんの人生があるんだから、君はまた新しい幸せを見つけて。短い命を、君なりに精一杯楽しんで」

 その際に鈴音が浮かべた笑顔は、これまでになく綺麗な作りものだった。
 ともすれば心の底からの笑顔だと勘違いしてしまいそうな程に、それは完成された微笑みだった。
 
 でもその微笑みの後ろでは、そうじゃないんだよと必死に叫ぶ君が薄っすらと見えた。
 繋ぐ君の手は小刻みに震えていて、そこから空いた右手で僕に伸ばそうとしている君の姿がありありと浮かんだ。
 彼女の笑顔が苦しみのやせ我慢だということには簡単に気が付けた。
 
 その時、僕は大きな決断を下した。
 鈴音になんと言われようとも元より僕はそのつもりだったが、今一度決意を表明しようと思った。
 
 瞼を閉ざして深呼吸を挟んだ僕は、君の瞳を真っすぐに見つめ、堂々と強固な意志を言葉にした。

 「待ってる」

 その短い言葉を前に、君は大きく瞳を揺らがせ、言葉なき動揺にかき乱されていた。
 
 僕は僕の人生が最良のものとなるように、君に向けて赤裸々に語った。

 「僕はずっと、鈴音を待ってる。例えもう二度と会えないんだとしても、僕は君が戻って来るのを待ってる。だから『忘れて』なんて言わないでくれ。僕は絶対に忘れない。鈴音のことを忘れたくなることなんてないだろうけど、もしそんな時が来ても決して忘れられないほどに鈴音は僕の中心になってるから。だから僕は待ち続ける、この命の限り」

 長らく、鈴音は困惑一色にその顔を染め上げていた。
 
 どうしてそんなことを言ってしまったのか?自分の言っていることの意味が分かっているのか?とでも言いたげに君は僕を見つめていた。

 僕は目を逸らすことなく、鈴音の瞳を見据え続けた。
 
 僕の頑固な意志が折れることがないことを理解したのだろう。
 ある瞬間を境にして、鈴音はこの上なく満たされたような表情を浮かべた。

 「…そっか…そっかぁ…」

 噛み締めるように同じ言葉が繰り返される。
 君は何度も何度も頷き、満足げに顔を綻ばせる。

 徐々に溢れそうになったものを嚙み殺すように歯を食い縛ろうとして、でも結局は抑え切れなかったみたいだ。
 僕を見つめる君はたちまち表情を歪ませた。
 
 もう隠し切れないほどに喉を震わせながら、細々と続けた。

 「…あぁ…私って…本当に、幸せ者なんだろうね…」
 
 こんなにも感情が直に伝わる声色を僕は聞いたことがなかった。
 君が僕と同じ気持ちでいてくれていることをひしと実感できて、胸の奥は燃えるように熱かった。
 
 鈴音は胸に抱えるものが決壊してしまう前に、すとんと僕の胸に顔を預けた。
 やがて僕の胸にはじわじわと温かな湿り気が広がっていった。

 君が力の限り僕の背を絞めつけている間、僕は君の背を優しく撫で続けた。

 
 
 感情の高ぶりが収まり、彼女がそっと胸元から離れた後、僕らは何も言わないでいた。

 太陽は西に進んで半分ほどの位置にあった。
 
 沈黙を破るように僕は君の名前を呼んだ。
 まだ目元に赤みが残っている鈴音は相槌を打った。

 「鈴音って、本当はなんて名前なんだ?」

 今でこそ僕の頭は、鈴音と言えば君で、君と言えば鈴音だと疑うことなく信じ切っているが、そう言えば、君は自分から名乗ったわけではないことをふと思い出した。
 
 気になると言えば気になるし、今やどうでも良いことと言えばどうでもよかったのだが、僕は試しに訊ねてみることにした。
 鈴音は思案するように空へ視線をやると、微笑みながらこちらに目線を戻した。
 
 「んー…千風くんの前では、私はただの鈴音で居たいっていう答えじゃ駄目かな?」

 それは彼女お得意のはぐらかすような答えだったが、僕らにはそれが良いと思えた。

 「分かった。これからも鈴音は鈴音だ」と僕がそれに納得を示すと、君はゆっくりと立ち上がった。
 
 「散歩の続き、行こ?」
 
 僕は差し出された君の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。
 初めに辿り着いたのは、僕が飛び降りに選んだ断崖絶壁だった。

 「やっぱりあれは、鈴音が助けてくれたのか?」

 君の正体が明らかとなった今、あの覚束ない記憶が現実であったことに対してさしたる違和感はなかった。
 
 「そうだよ。あの時の千風くん、とんでもなく馬鹿だったなぁ」

 鈴音は懐かしむように肯いた。

 それから言い添えるように、「でも、すっごくかっこ良かったよ」と言ってくれた。

 その言葉に僕の胸は熱く燃えていた。

 「あの時の言葉、何気に私が一番気にしてたことだから、結構堪えたんだよ?」
 
 初めて僕がここから転び落ちてしまった日を思い出したのか、君はわざとらしく傷付いた素振りで僕に言った。
 
 「あれは本当にごめん」

 全て自分の所為だったから、僕には誠実に謝ることしか出来なかった。

 鈴音は僕の髪をわしゃわしゃとしながら、「いーよ。許してあげる」と微笑んだ。

 君に頭を撫でられると、すっかり僕の心は弛緩するようになってしまった。

 「ここ最近の千風くんは、驚くほどにぼろぼろで情けなかったね」

 「思い出さないでくれ、恥ずかしい」

 「それは無理かな~。千風くんとの思い出は、しっかりと胸に刻んでおくから」

 視野狭窄状態に陥った不安定な僕を、やっぱり君は傍で見つめていてくれたのだろう。
 あんな自分を知られたなんて、羞恥心が湧いて出て仕方がないけれど、まぁ僕のことを覚えていてくれるならそれでいいか。
 相好を崩す君を見ているとそう思えた。
 
 それからも僕らはのんびりと歩を進めながら、時折ぽつぽつと意味のない言葉を交わした。
 
 山の中を一周回ったように大樹の傍に戻って来る。
 あんなに深い青に染まっていた大空は、いつの間にか朱色と黄金色に移り変わっていた。
 
 淡い日暮れ時は、終わりの時を強く想起させた。

 なんとなく分かっていたけれど、僕は尋ねた。

 「鈴音はいつまでこっちに居られるんだ」
 
 君は僕が何を聞くか分かってたみたいに、阿吽の呼吸で答えた。

 「夕日が沈むまで」
 
 僕は唇を強く噛んだ。
 
 「そんな顔しないの」と僕を見かねたように君は言う。
 
 僕は自分を誤魔化すのに必死で何も言えなかった。

 「そんなに私が居なくなるのが寂しいの?」

 鈴音は何処か嬉しそうに、悲しそうに尋ねた。

 「うん」と僕は素直に首を縦に振った。

 「千風くんと会えなくなって、私が寂しくないと思う?」

 鈴音は挑戦的に笑って見せた。

 「…ううん」と僕は大人しく首を横に振った。

 「だよね。でも、最後までそんな顔してたら、お別れが湿っぽく感じるでしょ?だから笑顔だよ、笑顔」
 
 正直な僕に満足したように、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 僕も君の笑い方を真似しようとして、でも浮かべられたのは笑顔じゃない笑顔だった。
 君の笑みは困ったものに移り変わった。
 
 鈴音は思い付いたように声を洩らすと、「付いて来て」とまた僕を引っ張った。
 彼女に引かれ少し歩いた先では、いつぞやのギャップ地帯が僕らを待ち望んでいた。
 
 その中心で透明感のある斜陽を浴びている若木は、以前よりもいくらか大きく育っていた。
 鈴音は確かめるように樹皮を撫でる。
 あの大樹と比べると幹はまだまだ細いが、横風にあおられ倒木してしまうような危うさは感じられなかった。

 彼女は少々踵を浮かせ、なんとか手の届く枝の一本に触れた。
 そして握っている僕の手を同じ場所に添えさせると、極々真剣な眼差しで「この枝を折って欲しいの」と唐突に言った。
 
 促されるままに枝を握った僕は、しかしそれを行動に移すことが出来なかった。
 こんなに立派に成長している木を破壊することに、正当な事由を見つけられなかったのだ。

 躊躇う僕に勇気を与えるように、「思いっ切りやっていいよ」と君は囁いた。
 僕は鈴音がどうにもこうにも僕に枝を折らせたいらしいことを悟った。
 
 腹を括った僕は枝を強く握り絞め、そのまま全力で腕を真下に振り下ろした。
 木の枝は破壊行動に弾性で抗うことさえなく、メキッと嫌な音を鳴らして折れてしまった。
 
 瞬間、鈴音が小さく苦痛を喘いだ。
 慌てて隣を見やれば、青ざめた君が辛そうに左腕を抑えていた。
 
 僕は気が気でなくなった。
 狼狽したままに何度も君の名前を呼ぶと、彼女は冷や汗のようなものを流しながら「ん…大丈夫だよ」と弱々しく答えた。
 
 その時、僕はもう一歩進んだ彼女の正体に気が付いた。
 答え合わせのために口を動かそうとすると、「それは秘密だよ~」と君の曖昧な返答が先回りしていた。
 
 先程の痛みはもう感じないようで、鈴音はすっかりいつもの調子に戻っていた。
 僕は一生分の安堵を得た気分だった。

 「その枝、ちょっと貸してくれる?」と鈴音は言った。

 僕が差し出した枝を受け取ると、君は髪飾りの一部である真鍮色の小さな玉を手に取った。
 彼女が枝と玉をそれぞれの手の平に乗せると、それらが僅かに浮かび上がったように見えた。
 
 目を擦ってみたが錯覚ではない。確かにその二つは数センチほど宙に浮いていた。
 僕が愕然と鈴音を見やると、君は得意げな表情を作った。
 瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
 
 その濃い輝きに僕は思わず目を閉ざした。
 光量が収まり、僕が目を再び開けると、彼女の手のひらには一つのあるものが乗せられていた。
 
 鈴音は笑顔を綻ばせながら完成品を僕に手渡した。

 「これからは私の代わりに、この風鈴が君の傍にいるから。寂しくなったら、この音色を聞いて欲しいな」

 受け取ったそれは、木製の風鈴だった。
 
 しかし、それはよく見る竹風鈴とは形状が大きく異なっている。
 鈴音が贈ってくれた風鈴は、木製なのにガラス風鈴と同じ形をしていた。

 これでは音が鳴らないだろうと思った僕が試しに揺らしてみると、舌が滑らかな木目にぶつかり、甲高い音を響かせた。
 その音は木の温かさがありつつも爽やかな響きが感じられるという、ガラス風鈴と竹風鈴の長所を組み合わせた至高のものであった。
 
 構造が理解出来ず、僕は不思議な心地に陥った。
 がすぐに、鈴音ならこれぐらい造作もないことか、と神秘的な現象を吞み込んだ。

 「大事にするよ」

 僕は頬を緩めて君にお礼を述べた。
 
 「千風くんからは沢山貰ったから、これでほんの少しだけお返し出来たかな?」と君はそれがさも事実かのように言うから、「いや、実際は僕の方が色々と貰ってばっかりだけどな」と僕が本当のことを言っておいた。
 
 「じゃあ、もうちょっとだけ貰ってもいい?」

 鈴音は僕の目を覗いてそう言った。
 そこに具体的な内容は明示されていなかったけれど、君が何を欲しているかはよく分かっていた。
 
 君から貰った風鈴をポケットに仕舞うと、僕は両手を広げ、覆い被さるように君の身体を抱き締めた。
 君はその温かさを確かめるように、ゆっくりとまさぐりながら僕の背中に手を回した。
 
 残された時間の大半を、僕らはそのようにして過ごした。

 「えへへ」と君の幸せそうな笑声が、いつまでも僕の耳元を擽っていた。

 
 
 あれからどれぐらい経っただろうか。

 僕達は何を言うでもなく抱擁を解き、肩を寄せてその場に座り込んだ。

 僕はまだまだ話したりなかったし、君も言いたいことが沢山あったろうけど、もう言葉は不要だと思えた。
 赤焼けの空を浸食するようにして徐々に薄い紫が染み込んでいく様子を、僕らは手を繋いでぼんやりと眺めていた。
 
 真っ赤な夕日は中々沈もうとしなかった。
 時間が経つのが異様に長く感じて、でも今はそれが心地良かった。
 まるで僕らのいる山が夕日を追い掛けているみたいで、永遠にこの時間が続くとさえ思えた。
 
 しかし、やはり恒久というものは存在しなかった。
 
 徐々に逢魔が時が近づく。とうとう夕刻が終わりを告げようとする。
 宵の始まりを意識した蝉たちは一度翅を休め、烏が数匹鳴き声を響かせながら巣に帰っていった。
 
 夜の夏虫が合唱を始めるまでの一瞬間、夏の山は澄み切った静穏に包まれる。
 音という音が消え失せたその時、君はふと思い出したような素振りで僕を見つめた。

 「いつかまた出会えたら、あの言葉の続き、聞かせてね」

 鈴音は頬を赤くしながら言った。

 「もちろん」と僕が大きく頷けば、君は嬉しそうに微笑んだ。

 僕らは徐に空を眺め、また静かな時間が二人を見守っていた。
 もうすぐに終わってしまう君との数分を味わうように、僕はぎゅっと君の手を握り締め続けた。
 
 それからややあって、最後の西日が消え入りそうになった。
 
 その時、「千風くん」と鈴音は落ち着いた声で僕を呼んだ。
 
 もう一度君に視線を向けようとすると、彼女はそれを制止するように天空を指差した。
 
 空は完全なる青紫に染まっていた。
 その中央によく目を凝らすと、一匹の白鷺が悠々と羽ばたいていた。
 まるで夜の闇を切り払うかのようなその純白に、僕は自然と目を奪われていた。
 
 それはほんの一瞬のことだった。

 思わず空を見つめた僕の右頬に、ふいと柔らかな感覚が重ねられた。
 動揺の余り、身体は石のように固まった。
 僅かながら横目に映った鈴音は、この上なく愛おしいものを眺めるように目を細めていた。
 
 瞬く間に僕の顔はのぼせ上がり、頬に君の熱が微かに伝わったところで、元から何もなかったかのように君の手のひらの感触が消滅した。
 
 隣へ視線を移すと、もうそこに鈴音の姿はなかった。
 代わりに辺りには玉響の輝きが浮かんでおり、その淡い残滓は綿毛のように空へと舞い上がって、やがては静かに消えてしまった。
 それらが見えなくなった後も、僕は天上を眺めて君を見送った。
 
 そのうちに薄暗い空では星々が光を放つようになり、夏虫が些か控えめに演奏を開始した。
 それでも僕は動き出すことなく、ひとり若木に背を預けて夜空を見上げていた。
 
 大切が抜け落ちた世界で、僕は飽くることなく、右頬に残った余韻を噛み締めていた。

 ♦♦♦


 ふと我に返ると、馬鹿みたいに煩い蝉の声が僕を出迎えた。
 
 眼前に広がる世界は相も変わらず色褪せている。
 朱色の残照が紺色に吞まれ、深海のように濃い空には幾つかの一番星が顔を出していた。

 それら全てが白けた光を放っているように見えてしまうのは、長い間楽園に身を浸したツケを払う時が来たからなのだろう。
 もう追想の旅は終わってしまったのだ。
 
 延々と続く坂道の中腹で立ち止まり、右手に見える古民家へ向き直る。
 よくある瓦葺の一戸建ては、正面玄関にも下屋を備え付けていた。

 木の縁で囲まれた窓は大きく開け放たれており、年季の入った漆喰壁はもう元の白色が見えないほどに濁っている。
 引き戸には鍵がかかっていることもなく、手を掛ければ音を立てて開いた。
 
 玄関口に立ち入いるとすぐに、家の奥の方から来客を迎える声が響いた。
 それは息を吹き込み過ぎた金管楽器を思わせる濁声で、床板を軋ませる音と嫌に相性が良かった。

 姿を現した声の主は、僕を認識した傍から外面用の笑顔を消し去り、素の調子で言った。
 
 「あら、千風。帰って来たの」
 
 「久しぶり、母さん」

 僕がそうして挨拶を交わすと、母さんは何事もなかったのように居間へ戻ろうとした。
 それを見かねた僕は、おどけた様子でこう言ってやった。
 
 「なんだよ、せっかく息子が帰って来たって言うのに、その素っ気ない態度は」
 
 振り返った母さんは、如何にも呆れたような表情で言葉を返した。
 
 「あんた、つい一カ月前にも帰って来たじゃない。そんなに頻繁に帰って来られたら、有難みって物も減るわよ」
 
 その至極まともな答えに、僕は大いに納得してしまった。
 
 「ほんと、憑りつかれたみたいに帰って来るんだから」
 
「実際、何かに憑依されてたりするかもな」

 売り言葉に買い言葉で僕がそう返せば、振り向いた母さんはジッとこちらを眺めた。
 まるで僕の奥に隠されたものを透視するかのように、数秒その状態は続いた。
 自分の顔に異変があるのではないかと思わされたところで、彼女は興味をなくしたように視線を戻した。
 
 僕は手を洗ってから台所へ向かったが、先程居酒屋で軽食を摂ったせいか、時間のわりに腹は空いていなかった。
 同じように居間に向かうと、母さんは熱心に画面を見つめていた。
 
 どうやら今は連続ドラマの放映時間だったらしい。
 その内容は在り来たりで、余命僅かの恋人が織りなす物語というようなものだった。

 涙を誘う話は嫌いではないが、あいにく僕の涙は最後の一滴まで涸れてしまった。
 テレビ画面を見つめるのも億劫で、手持ち無沙汰となった僕は何気なく外へと繰り出した。

 淡い満月を頭上に、あちらこちらで古民家の温かな明かりが漏れ出した薄暗い道を無心に行く。
 
 何処に向かうでもなく無計画に歩を進めていると、今日は妙にすれ違う人々が多いことに気が付かされた。
 往来する彼らはある一方向を目指しているようで、老若男女を問わずその表情は眩しいほどに明るかった。
 
 彼らと同じ場所に向かえば、詰まらない僕の世界も少しは面白く見えるだろうか。
 
 答えの分かり切った疑問を提唱しながら、それでも僕は人の波に乗って道を進んだ。
 そうして辿り着いた先には、光と音と人々の喧騒で溢れ返った祭りの会場があった。
 
 広場に到着するまでの長い通りの両脇には、かつてと同じように屋台が数店展開されている。
 僕はそれらを適当に見回し、三つ目の屋台でりんご飴を購入した。
 
 今の僕では、祭りに浮かされた人々の放つ暴力的な熱量に耐えられる気がしなかった。
 折よく見つけた縁石に腰を下ろし、茫然と退屈をしのぐことにした。
 
 行く人来る人は様々であった。
 屋台目当てでやって来た男子高校生達もいれば、子供を連れた三人家族もいたし、熟年の老夫婦だって祭りの会場を目指しているようだった。
 彼らに共通していたことは、やはり楽し気な笑顔を浮かべていたところだろうか。

 屋台の匂いが充満した場所に長居したせいか、段々と口が寂しくなってきた。
 徐にりんご飴の包みを取り外そうとしたところで、とある光景が視界の中に入り込む。

 僕の注意が向いた先には、一組の少年少女が歩いていた。
 
 少年の方は普段着で祭りにやってきたようだが、少女の方は浴衣で着飾って祭りにやってきたようだった。
 服装に差異こそあれど、二人の間に齟齬があるわけではないらしい。
 両者の手のひらはしっかりと繋がれていた。
 
 僕はその二人から目が離せなかった。
 二人の輪郭の上には、あり得るはずのない過去が次から次へと描写されていたからだ。

 それら全てが僕が思い描き続けてきた未来であることに疑いはなく、そしてだからこそ、少年少女が視界に入ってから出ていくまでの短い間、僕の胸はうじ虫に喰らい尽くされるような激しい痛みに苛まれた。
 僕は堪らず顔を歪めていた。
 
 僕は軽石みたいに穴だらけの胸を縫い合わせて、どうにか空虚を誤魔化しながら生きながらえているというのに、内側から這い出るどす黒い何かにとってはその縫い目までもが捕食の対象であった。
 耐え難い疼痛に悶え苦しむよう、僕は歯を食い縛って己の胸を握り潰した。
 
 そしてとうとう二人が見えなくなると、遂に僕は僕を抑えられなくなった。
 

 ──羨ましい。
 
 ふと、そのような意味を持った単語が頭の中に浮かび上がった。
 日常では水面下に隠しているその感情が一度でも浮上してしまえば、あとは芋づる式に悪感情が全身に纏わりついていった。
 
 妬ましい、嫉ましい、恨めしい。

 本当は僕だって僕だって僕だって、この上なく大切な君ともっともっと一緒に居たかったし色んなことをしたかったし下らない毎日を続けたかった。
 さっきの男子高校生たちみたいに馬鹿言い合ったり、家族連れみたいに幸せそうに歩いたり、老夫婦みたいに一心同体の時間を過ごしたかった。
 あの二人みたいに心地良い日々が続いていくはずだったんだ。それなのに、どうして僕たちは──。
 
 僕とその他の世界に引かれた境界線の温度差は凄まじく、その落差を意識すればするほど、激しい飢餓感だけが身体中を襲った。
 目の前には血の滴る肉がぶら下げられていた。
 飢えた心は遠い昔に味わった満足を求め、とうとう奥底に潜むけだものは己を縛り付ける鎖をぶち壊してしまった。
 
 …お前らの満ち足りた時間を根こそぎ奪い取ってでも、僕は彼女との豊かな日々を手にしたいんだ。

 寄越せ。僕に幸せを寄越せ。
 お前らの身体を引き裂いて臓物を捧げれば彼女は戻って来るだろうか。もしそうなら僕は今すぐにでも実行してやっていいんだぞ。
 
 あれっぽっちの時間では短すぎた。たかが一年程度を噛み締めるだけではもう我慢できないんだ。
 早く新しい思い出が欲しい。今すぐに欲しい。

 限界なんだ。平気な振りをしているけれど本当は心が苦しくて仕方がないんだ。
 そろそろ体裁ばかりの空元気さえもが保てなくなる気がするんだ。だから早く早く早く早く、もっともッとモッとモット──。

 目に映るもの全てが、憎むべき幸せであると思えた。
 
 この暗く淀んだ目で眺める世界を、内に巣食う穢れた心を、祭りを前に舞い上がる呑気な衆人にまき散らしてやりたかった。
 他人の幸福や喜びなんてものは僕の世界にとっては害でしかなく、寧ろ皆が僕と同じように日々に絶望し、映し出す世界は暗黒に包まれたものであるべきだと思えた。
 
 手始めに、僕は手に握られた赤い果実をこちら側に引き込むことにした。
 砂糖や果汁が地面に零れることに構わず、僕は一目散にそれに齧りついた。
 甘さや酸っぱさといった希望に満ち溢れた感情を一滴残らず吸い上げ、代わりに僕の心に詰まった薄汚さを吐き出すつもりだった。
 
 しかし、口いっぱいに広がったのは何処までも苦く渋い味わいだった。
 僕は反射的に顔を顰めた。
 
 毒林檎が幾ばくか冷静さを与えてくれた。
 その苦薬のような砂糖菓子を食べ終えると、大分と心の中は落ち着いた。

 空っぽになった僕はゴミを捨てて元来た道を引き返した。

 向かう先は実家ではなかった。
 夜の田圃に囲まれた農道を真っすぐに進み、なだらかな坂道を上ると、暗闇の立ち込めた森の入り口に辿り着いた。
 
 僕は夢の中を歩くようにして森の中へと足を進める。
 枝葉が服の裾を引き裂いたりもしたが、気にせず突き進み続けた。

 やがて見覚えのある大樹に辿り着くと、僕はそこで止まることなく更に森の奥へと向かった。
 そこからは木の根に引っ掛からないよう、慎重に足を繰り出して前へと進んだ。
 
 十分ほど前進し続けると、木々を配置し忘れたように不自然な空き地に辿り着いた。
 その中央に凛々しく根を下ろした若木は、月光を浴びて神々しく輝いている。
 その美しさだけは、冷め切った世界でも唯一確かなものだった。
 
 僕は徐に若木へと近づき、そっと樹皮を一撫でした。
 それから幹に背を預けるようにして座り込むと、宇宙のような空の高くに視線をやった。

 あの日以来、鈴音が姿を現すことは二度となかった。
 
 中学、高校、大学を卒業するまでをこの街で暮らした僕は、毎日欠かさずこの場を訪れたが、ついぞ君が戻ってくることはなかった。
 就職は都心に決まって、それ以来はこうして時間を見つけてはこの場所に帰ってきているが、やっぱり今日も君は居なかった。
 
 数年前の僕なら、その度にどうしようもなく胸が詰まるような感覚を覚え、頬に涙を伝わせていた気がする。
 十数年前のことが思い出せるのに数年前のことが思い出せないのは、単に思いを馳せるべき記憶がそこに存在しないからだ。

 今となっては零れるべき涙さえもが涸れてしまった。
 悲しいことだが、空虚に慣れてしまったのだろう。
 どんな悲壮感に教われようとも、心は余り動かなくなってきた。
 
 最近になって、僕は時々思うようになった。

 もしかしたら、本当は最初から君は居なかったんじゃないかな、と。
 君という存在は、十歳前後の子供によくみられるイマジナリーフレンドの一種だったのではないだろうか、と。
 
 記憶と呼ばれるものは酷く曖昧だ。
 何せ人は、昔日を思い起こす度にそれを都合の良い形に歪めてしまう生き物なのだから。

 しかも記憶を歪曲、若しくは捏造したという事実にさえ気が付くことが出来ないところが余計に質が悪い。
 それを考慮すると、君は元から居なかったという可能性も充分にあり得るのだろう。

 でも、実際のところはそんなはずがないのだ。

 君という存在を疑いつつある惨めな自分に向けて反駁するように、僕はポケットからそれを取り出した。
 
 鈴音は確かにここに居た。
 その裏付けとなるたった一つの形あるものが、君がくれたこの風鈴だった。
 何しろ君の奇跡で創り上げられたこの風鈴は、どんな技術でも生み出せない代物なのだ。
 
 その上、かつて僕がへし折った枝は、若木本体がすくすく成長しようとも、あの日を心に刻むように今もその傷跡を残していた。
 君もあの日々を忘れないでいてくれているのだろうか。
 そうだとしたら、僕の世界は少しだけ救われる気がするな。
 
 僕は満月に掲げるように手を伸ばし、月明かりを受け取った風鈴を小さく揺らした。
 辺りには慰めの音が聞こえた。
 
 もう君を十年以上も待ち続けて、分からず屋な僕もそろそろ理解するようになった。
 恐らく君は、僕が生きている内には戻って来ないだろうことを。
 
 そもそも僕らは時間の流れ方が違うのだろうし、元よりそれはどうしようもないことだ。
 今頃になってその理不尽を恨むつもりはない。
 これからも健気にこの場を訪れようとも、最後の最後まで僕が君を出迎える日は訪れないのだ。
 
 だとしても、僕は君を待つことをやめはしないのだと思う。

 だって、これほどに歳月が経とうとも、人生の花と呼ばれる学生時代を人並みに過ごそうとも、僕の心は一度も他に揺れることがなかったのだから。
 寧ろ月日を重ねるごとに、この想いは密度を増していったのだから。

 きっと、思い描くいつかの時は、この胸が震えるほどに素晴らしいのだろう。
 だから、訪れることのないであろういつかの時の為に、僕はいずれは身を滅ぼすことになる痛みを大事に抱えていたいと思う。
 
 君に会えないことは寂しくて悲しくて辛くて虚しくて、そんな現実が嫌になってかつての日々に逃げ込んだ挙句さっきみたいに少し錯乱してしまうことはあるけれど、それら含めて僕は堪らなく君が愛おしいんだ。
 
 この全身を引き裂くような苦痛は、同時に君を想い続ける僕そのものの象徴だ。
 
 この幸せな呪いこそが、何よりも僕が君を愛している証明なのだ。
 
 そうして君の傍で幸福の呪縛を確かめることで、中核の失われた世界に意味を見出し、僕はなんとか今日を生き延びていく。
 
 君からすれば勝手に色々を抱え込んでいる僕は、もしかせずとも傍迷惑なのだと思う。
 あんなに魅力的な君のことだから、今頃は僕なんかよりももっと素晴らしい相手を見つけているのかもしれない。
 たぶん僕のことなんて忘れて、健やかな時間を過ごしていることだろう。
 
 それを思うと少しだけ胸が痛いけれど、まぁいいんだ。
 
 結局のところ、僕の世界はあくまでも君の世界の存在が大前提なのだから。
 
 吐き出す行方のない恋慕に浸り、小さな嘆息を洩らす。
 天上に浮かぶ丸い月の光を眺めていると、だんだんと頭がぼんやりしていった。

 今頃になって酔いが回ったのだろうか。

 淡い月が重ねって見えるようになった頃、僕の瞼は薄く閉ざされた。



 懐かしい匂いだった。
 
 ふと意識を引き戻したのは、瞼の裏に注がれる柔らかな日差しでもなければ、まだ暖かい程度の気温でも朝蝉のさざめきでもなかった。
 鼻孔を擽るしゃぼん玉みたいに落ち着く香りが、眠りに落ちた意識をよび起こしていた。

 頭は何か柔らかいものに乗せられていた。
 
 幹にもたれ掛っていたはずが、僕はいつの間にか仰向けで寝転がっていた。
 背中は大地の硬い感触を受け取っているが、頭の部分だけは程よい弾力を感じ取っていた。
 
 千年の眠りから目覚めたような、心地の良い覚醒だった。

 寝ぼけた僕は何も考えずに頭を上げようとして、しかし、その動きは直前で遮られた。
 
 額がそっと押し返され、僕は起き上がることを許されなかった。
 何が起こったのかを把握しようとして、直後、すぐ近くで鈴を転がすような音が聞こえた。
 
 己の聴覚がその澄清を捉えた瞬間、生死を彷徨う人間が息を吹き返したように心臓が大きく上下し、同時に頭の中は深い混乱に包まれた。
 現状が上手く呑み込めず、気が動転したどころの話ではなかった。

 しかし、僕は冷静さを欠かなかった。
 
 これまでにも同じような夢は何度となく繰り返してきたのだ。
 そしてその幸福な夢から醒める度に、悪夢のような現実が僕に馬乗りになって、心の生傷を錆びたナイフで抉り取ってきたのだから。
 
 そう何度も同じ過ちを繰り返すつもりはない。
 僕は手負いの野良猫のように用心深く意識を集中させ、辺りの情報を探ろうとした。
 
 伝わる五感は何もかもが余りに現実的であった。
 だからこそなお一層、僕は目を覚ますのが恐ろしかった。
 瞼を上げた途端に幻が拡散してしまうぐらいなら、もう少しぐらいこの世界に甘えていたかったのだ。
 
けれども、心はもう待ち切れなかった。

 心臓が自分のものではないようにどくどくと脈打ち、遂には身体が心に追いついてしまった。
 とうとう僕は、何かを探し求めるように右の手のひらを伸ばした。
 
 恐る恐る伸ばした右手は、大きな期待に反して予想通りに空を切った。

 一瞬、息が詰まるような心地を覚えたのちに、僕は隠すことなく大きなため息を吐き出した。
 胸には深い落胆と僅かな諦念だけが漂っていた。

 微かな希望の光は消え失せ、世界にはやはり夜明けが来ないままであった。
 自嘲的な笑みを零すことさえままならず、僕は右手を大地に落とそうとしたところで、何の前触れもなく右手は待ち焦がれた温もりに包まれた。
 
 頭はいま起きたことが良く理解出来ていなかったし、一方ではひしと理解しているようだった。

 半信半疑のままで手のひらに力を加えてみると、確かに右手がぎゅっと握り返された。
 また鈴の音が耳元を擽ってくれた。
 
 感じる五感を疑うことが出来なくなったその瞬間、胸の奥底には潤いが取り戻され、閉ざされた瞼の奥からはらりと何かが零れ落ちた。

 溢れたそれは、心が満たされたからこそであった。
 枯れた大地に命の水滴が波紋し、かつての豊かな緑が生え広がるように、僕の世界は夜明けの向こう側に辿り着いたのだ。
 
 いつかの時が訪れれば、際限なく言葉を繰り出すと思われた喉はきつく締めあげられていた。
 僕は長らく発声に至らず、そのあいだ、右頬には柔らかな手のひらがあてがわれていた。
 僕の目尻から絶えず溢れ出すものを、細い指がやさしくやさしく拭ってくれていた。

 そのうちに僕は、今すぐに飛び起きて両目を大きく開け、この胸に募った狂おしいほどの感情を一滴残さず伝えたいという強烈な衝動に駆られた。

 顔をぐちゃぐちゃにして噎び泣きながらも、君を絞め殺してしまうぐらいに強く抱き締め、これまでの毎日がどれほどに寂しくて苦しいものだったのかを、たぶん君もだろうけれど、僕はその何十倍も辛かったんだってことを知って欲しくてたまらなくなった。
 
 だけど、結局僕はそうはしなかった。

 なに、単純なことだ。僕の世界は一から十まで君が中心なのだから、僕のことは全て二の次で構わないというだけの話だ。

 それに、いつかの時が訪れた暁には、僕が一番最初に君にしてやることはもう決まっていたから。
 
 やっとその時が来たのだと思うと、自然と口元には微笑みの形が作られていた。
 瞼を薄く持ち上げ、滲む視界に乱反射を映し出す。
 その万華鏡のような世界には、求め続けた大切がピタリと当てはまっていた。
 
 右頬を撫でるその手に自らの手を重ね合わせ、大きく息を吸い込む。
 次に息を吐き出すその瞬間、きっと僕たちの世界は最高のものとなるのだろう。

 
 
 幾星霜の慕情を込めて、僕は約束の言葉を昇華させた。


 SS「半透明な恋をした」完結

 以上です。

 いい経験をさせてもらいました。
 最後まで読んでくださった方が居ましたら、お付き合いいただきありがとうございました。

 

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