【モバマスSS】星の巡礼者 (145)

*これから行う試験について、受験生はまず以下の注意事項を熟読するように。
*記載されている条件すべてに同意した者のみ、氏名欄にサインし、試験を開始してよいものとする。
*なお、最終的な合否については然るべき時に判定が下されるが、その時期および方法については答えられない。


1)本試験の最中に生じたいかなる災害・障害も当機関では一切の責任を負いかねます。
2)各設問における一連の文献および登場人物について、これらを著しく冒涜する行為を禁じます。
3)試験途中に離席した場合、あるいは続行不可能と試験官が判断した場合はいかなる理由であってもその時点で試験終了とし、以降再試験の申し出は一切受け付けません。
4)試験内容に関わるもの以外の質問は試験監督に確認のうえ許可される場合があります。質問する際はまわりの迷惑にならないよう静かに挙手してください。
5)当機関は本試験における採点基準について一切の開示義務を負わないものとします。
6)以下の氏名欄へのサインを以てこれらの規約に同意したものとみなします。

氏名【        】


*試験を始める前に私からいくつか話しておくことがある。心して聞くように。
*ひとつ、演劇では観客が舞台の脚本を書き換えたり、役者を交代させることはできない。また、舞台の幕が上がっている限り役者は演じることをやめてはならないが、観客はその気になればいつでも席を立つことができる。
*ひとつ、将棋において一局中に同一局面が数回現れた場合、千日手としてその勝負を無効とする。同様に、囲碁におけるコウも無限に続く局面のことを指すが、これはルールによって反復手が禁止されている。ただし盤上に同時に三か所コウが存在する場合、永遠に対局が終わらないため勝負は無効となる。
*ひとつ、ある候補者が、二億の民衆に演説する権利をゴールデン・タイムの番組に持ち、対立する他候補者には街角のポスターしか与えられない場合、公平で民主的な意思決定モデルは成り立たない。
*ひとつ、最も売れている作品が最も価値のある作品であるとは限らない。

*以上。では問題用紙をめくって、はじめ。



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【1】

おだやかな晴れの日だった。

アトリエへ向かう道はゆるやかな上り坂になっていて、僕はその深い木漏れ日の絨毯の上を歩いていた。
道の先には背の高い垣根があり、頭上を覆っていた木の影はそこで空に開かれている。

垣根に沿って歩いて行くとやがて庭に通じるアーチ状の門が現れた。
僕は立ち止まり、鞄からいくつかの写真を取り出して目の前の景色と見比べ、それから写真を鞄にしまった。

腕時計に目をやる。
僕はスーツの襟を正し、ネクタイを締めなおして門をくぐった。


丁寧に刈り揃えられた芝生、曲がりくねって敷かれた石畳の通路、その先に見える小さな教会が今回の商談相手のアトリエだった。
玄関にインターホンはなく、かわりに錆びたドアノッカーが扉に貼り付けられている。

二度、ノックしてみる。

しかし返事はない。

僕は玄関のポーチに立ち、扉の表面をぼうっと眺めていた。
ある一組の天使のイコンが彫られている。

もう一度ノックしてみたが、相変わらず人の気配は感じられなかった。
僕はポーチから身を乗り出し、建物の周辺を見回した。

「ごめんください」

やはり返事はなかった。

僕はそのまま建物の裏手へとまわって行った。

真っ白な外壁に沿って歩いて行くと、やがて奥の木立の深くから鮮やかな黄色の草原が広がるように立ち現われた。

それは広い窪地の一面になびくひまわり畑だった。

なるほど、いかにも田舎らしい牧歌的な風景だ。
画家が根城にするだけのことはある……。

そんな感想を抱きながら僕は、もうひとつ、金色の海原に浮き沈みしている、小舟のような人影を目で追っていた。

(女の人……?)

こちらへ背を向けているのではっきりとは分からなかったが、あの髪形からしておそらく女性だろう。
花の手入れをしているのだろうか、僕の方に気づいている様子はない。

「ごめんくださーい」

僕が遠くから声をかけると、その人影はひょっこりと顔を上げ、眩しそうにこちらを振り向いた。
思っていたよりもずっと幼い、少女の顔立ちだった。

「はーい」

よく通る綺麗な声だった。

「どちらさまでしょうかあー?」

「高森さんの絵について相談に来たPという者ですが」

一応、声は張り上げたつもりだったが、少女は何も答えず、こちらをじっと見つめてばかりいる。
聞こえなかったのかな。
そう思って、僕がもう一度口を開きかけた時だった。

「ごめんなさあい、今そっちに行きますからあ、少し待っててくださあい」

そう言いながら少女が泳ぐようにひまわりをかきわけて来る。
あの爺さんの孫娘だろうか?
まったく、幸せな老後生活もあったものだ。

藍子と名乗るその少女に案内され、僕はアトリエ内の応接間に腰を落ち着けた。
質素な部屋ではあるが、ほのかに漂う木の香りがとても心地よく、窓から入る日差しの暖かさがおだやかな眠気を誘う。

「お待たせしました」

ぼうっと窓の外を眺めていた僕の目の前に、どうぞ、とお茶が置かれた。

「わざわざありがとう。……それで、おじいさんは? もしかして留守なのかな?」

事前にちゃんと連絡しておいたんだけどな、と内心呆れながら僕は尋ねた。
しかし彼女は僕の質問には答えず、かわりにテーブルの向かいに座り、僕をじっと見つめだした。

「もうすぐ帰ってくるのかな? まあ僕も別に急いでるわけじゃないからちょっとくらいは待てるけど……」

「亡くなりました」

「え?」

「祖父は亡くなっています。持病で、一年前に、」

「…………」

僕は何かを言おうとしたが言葉が出ず、かわりに下手な役者がやるような肩をすくめるポーズをしてみせた。
それから口元を半笑いの形に歪めて、暗に「何の冗談?」と言わんばかりの視線を向けた。
しかし彼女はいたって真面目な表情で僕を見つめ続けていた。

「私、今、とても驚いています」

「それはこっちの台詞だよ。というか、そもそも死んでるわけない。きみのおじいさんとは数日前まで連絡を取り合っていたんだよ」

「でも確かに祖父は一年前に死にました」

「…………」

少しの沈黙のあと、僕は「ふう」と息をつき、ついでにお茶を飲もうとしたが、茶碗が熱かったので思いとどまった。

「……そうか。まあどっちにしろおじいさんがいないなら僕はもう帰るよ。邪魔して悪かったね」

「ま、待ってください」

立ち上がろうとした僕を追うように彼女は身を乗り出して言った。

「あの、お名前はたしか、Pさん、っておっしゃってましたよね?」

「ああ、うん。そういえば名刺を渡してなかったね」

僕は努めて礼儀正しく名刺を差し出した。
彼女は目をぱちくりさせ、おずおずとそれを受け取った。

「おじいさんが帰ってきたらそこに連絡するよう伝えてね。じゃ」

「待って!」

腕を掴まれ、僕は振り返った。

「私、困ってるんです。Pさんに見てもらいたいものがあるんです。祖父の遺作です」

まるで助けを求めるように、彼女は掴んだ手を離そうとしなかった。

「祖父の作品は、今は私がオーナーです。Pさんが商談にいらしたというなら、相手は私のはずです。違いますか?」

僕は別に怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。
ただ面倒ごとを避けたかったのだ。
それに、悪い予感もあった。
彼女のまっすぐな眼差しには、そこに捉えた者を否応なしに惹きつける強い力があった。

僕はよっぽど「用事がある」と言って帰ろうかと思った。
とはいえ、お茶まで用意してもらった手前、冷たくあしらって終わりというのも失礼だろう。

「……そうだな。せっかく来たんだし、作者不在とはいえ一応、作品のチェックくらいはさせてもらおうか」

藍子はそこでようやく掴んでいた手を離してくれた。
見た目と違って結構強引なんだな、と思ったが、さすがに口には出さないでおいた。

「とりあえず、冷める前にお茶をいただいておくよ」

その絵はアトリエの地下室に保存されているらしかった。
僕は藍子の後について地下への階段を降りていた。

「絵はきみが管理してるの?」

「はい。おじ……祖父がいろいろ教えてくれたので」

確かに空調はしっかり効いている。
むしろ肌寒いくらいだった。

「へぇ……それで、その見せたいものっていうのは?」

「これです」

藍子はそう言って、近くに立て掛けてあった、彼女の背丈ほどもあるキャンバスの厚い布シーツに手をかけた。

「ほう……」

僕は大きなキャンバスの全体を見ようとして一歩引いた。
あるいは迫力に気圧されてしまったのかもしれないが。

それは、暖炉の前で一人掛けソファに座っている藍子自身の絵だった。

膝元に"何か"を抱え、それを優しく見守るように微笑んでいる。
暖炉の煌々とした明かりが、藍子の伏しがちな表情に繊細な影を落としている。
目立たないながら実に見事なニュアンスだ、と思った。

その他、いろいろと感じるところはあったが、ひとまず個人的な感想は脇に置いておくとして、まずはこの作品の暫定的な評価を組み立てなければならない。
僕はさっそく頭の中で業務的な見通しを立てようとした。

しかし実際のところその試みはうまくいかなかった。
僕は何も考えられず、ただ絵に見つめられるまま、その場に突っ立っていることしかできなかった。
何秒、何分、いや、何時間……我を失い、どれくらいの間、そうしていたか分からないほどに。

しかも(後になって振り返るとずいぶん奇妙なことではあったが)これほど長い時間作品と向かい合っていながら僕は、ここに描かれている物の明かな違和感にしばらく気付くことさえできなかったのだ。

まるで地下室の隅の深い暗闇のように、それは絵の中でじっと息をひそめ隠れていた。……


……そうだ!

この絵には"何か"が欠けているのだ。

絵の中の藍子は確かに"何か"を抱えているのに、それがここには描かれていない。
本来"何か"が描かれているべき場所が奇妙に歪み、そのせいで絵の中の藍子は虚空を抱え、虚空に向かって微笑んでいる。
その奇妙な不完全さが、かえって異質な、不思議な魅力を宿しているのではないか……
そんな仮説を頭に唱えているうち、ようやく僕はハッと我に返った。

「うん……悪くない絵だと思う」

沈黙がいつの間にか地下室いっぱいに満ちていた。
僕は、咄嗟に出た負け惜しみを悟られる前に彼女に言った。

「ただ、まだ分からないことがある。作品の価値にしても、これを僕に見せたかった理由にしても」

「実は先月まで、ここには猫が描かれていたんです」

「?」

「突然、いなくなったんです。絵の中の猫が」

「はあ」

「嘘でも、冗談でもないんです。本当に消えたんです。それで、Pさんに猫を探してほしくて」

「いや、あのね。まず僕がその話を信じるかどうかも分からないうちから勝手に話を進めないでくれ」

「お願いします、信じてください」

僕は、付き合いきれない、といった風にため息をつき、藍子の切実な眼差しからむりやり目を逸らした。

そうして逸らした視線の先に、僕は再びあの絵を捉えた。


不意打ちを食らったように、僕はまたもや絵に魅入られた。
もはやそうせざるをえないというほどの魔術的な引力によって、額縁の中の風景へと吸い込まれていく。
僕は思わず目をつぶり、なんとか視線を引き剥がして逃れた。

普通ではない、と思った。

この絵に漂う気配は普通ではない、と僕の直感はくりかえし警告していた。


(……ああ、そうか)

曖昧な予感が、やがてはっきりとした理解の形に変わった。


おそらく僕は、その絵の中に失われたという"何か"を探していたのだ。

絵の中に、ではない。

きっと、ここではない、どこかに……

「……これ、題名はなんていうの?」

「『猫と和解せよ』。裏に直筆のサインと一緒に書いてあります」

キャンバスの裏を覗くと、制作日時と共に確かに書いてあった。
実際に直筆かどうかは検証する必要がある……とはいえ、見た限りではおそらく本物だろうと僕は思った。

「猫と和解せよ、ね……」

僕はしばらく考えて、

「戻ろうか。ここは少し寒い」

キャンバスにシーツをかぶせ、藍子に目配せして僕は階段を先に上っていった。


【問1】

1.人類は、天使の存在を単なる現象としてではなく、絵画や文章、口伝といった物語の形式で記録してきた。こうした自然観において、人類が天使を理解するために物語の形式を必要とした理由を、一個体の生命が有限であることを考慮に入れ、『偶像』という言葉を用いて論述せよ。


2.文中の「P」とは何を意味しているか。以下の選択肢から1つ以上選べ。
(A) Producer(生産者。もしくは、生産を代行している者)
(B) Programmer(記述者。もしくは、仕様の通りにストーリーを組み立てる者)
(C) ピ-音(自主規制)
(D) Persons あるいはPeople(不特定多数の人々)


3.定義上、独裁政治は民主主義の形式においても成立し得る。歴史上の多くの民主主義国家がプロパガンダを利用してきた背景を考え、一般的な選挙制度の問題点を指摘し、『欺瞞』の概念を示せ。

【2】

やわらかな木目のテーブルの上には相変わらず平和な午後の光が差していた。
僕は小さく伸びをして窓の外をじっと眺め、考えをまとめようとした。

遅れて藍子が、トレーの上に二人分のお茶とクッキーを乗せて現れた。

「どうぞ」

「ありがとう。これ、自分で焼いたの?」

「はい。今朝、作っておいたんです」

「いただくよ」

僕は椅子に腰かけ、クッキーを一つ齧り、「うん。うまい」とだけ言った。

「……さて、それで話の続きだが」

向かいに座った藍子は、自分で淹れたお茶にふーふーと息を吹きかけ、冷ましているところだった。

「まず確認したいのは、きみのおじいさんは本当に一年前に亡くなっているんだね?」

「はい。持病の肺炎が悪化して、入院後間もなく……」

「そうか……もうひとついいかい?」

「ええ、どうぞ。まだ余ってますから」

「いや、クッキーじゃなくて質問をね」

藍子は「あ」と口を押さえ、恥ずかしそうに笑った。

「はい。私に答えられることなら」

「さっきの話で気になったんだが、きみがおじいさんの作品のオーナーになっているというのはどういうことだろう? たしか藍子さんといったね。ご両親はいないのか?」

「両親はいます」

「なら、普通に考えればここの作品はきみのご両親が……つまり作者のご子息が所有するものじゃないか? それに、見たところきみはまだ十代も半ばくらいじゃないか。こういった美術品のオーナーになるには少し若すぎると思うが」

「……それは、祖父が、遺産のほとんどを私に相続させたからです。と言っても、ここにある絵以外に遺産と呼べるものは多くありませんでしたけど」

「なるほど」

ありそうな話だ、と思いながら、僕はまだ熱いお茶に少しだけ口をつけ、一呼吸置いた。

「差し支えなければ、事情を聞かせてほしい」

藍子はゆっくりと語り出した。

「祖父は、私の両親とあまり仲が良くなかったんです。昔から売れない絵ばかり描いて、仕事の稼ぎもろくになかったから、子供の頃はずいぶん苦労したと、父はよく言っていました。不愛想で頑固な、気難しい性格だったし、人付き合いではたくさん失敗してきたと、祖父本人もよく語っていました。

「ただ、唯一、私のことだけはとても可愛がってくれたんです。アトリエに改築後、誰も近寄らせなかったこの教会に入るのを許されたのも、私だけでした。

「でも、祖母が早くに死んでしまってから、祖父と両親はますます疎遠になりました。収入どころか貯金もなかった祖父はやがて年金頼みの生活を送るようになりました。さすがに父もしばらくは金銭的な支援をしていたらしかったんですが、結局、それらも画材やお酒に使われてしまう有様でした。祖父は、絵を描くことと、私が遊びに来ることだけが生涯の楽しみだと言って、本当にそれ以外はどうでもいいというような暮らしをしていました。

「……祖父が死んだ後、遺書が発見され、そこで相続の意志が明らかになりました。そして話し合いの結果、私が祖父の作品を相続することになったんです。私の両親は美術に疎く、関心もなかったので、絵についてあれこれ言ってくることはありませんでした。売れるほど価値のあるものだとは考えていなかったんだと思います。それに私も、祖父の作品を売りたいとは考えていませんでした。だから、手放してもいいと思える日が来るまで、ここに保管することにしたんです。

「……これが、私がオーナーになった経緯です。すみません、個人的な話が多くなっちゃって……」

「いや、大丈夫だよ。話してくれてありがとう」

藍子が一息つくのを待ってから、僕は口を開いた。

「失礼だけど、藍子さんはいまいくつなの?」

「十六です」

「高校生?」

「はい」

「そうか」

歳のわりにずいぶんしっかりしてるな、と僕は素直に感心した。

「じゃあもうひとつ質問。僕にあの絵を見せた理由についてだ」

僕はテーブルに少し身を乗り出して言った。

「どうしてきみは僕にあの絵を見せ、そのうえ『猫を探してほしい』だなんて頼んだのか? そもそも、描かれていたものが消えるなんて、普通、誰かがいたずらで上書きしたとか、絵具が乾ききらないうちにかすれてしまったとか、そう考えるのが妥当だろ。けれどきみが僕に『猫を探してほしい』と頼んだ時、そこにはあたかも『絵の中から猫が飛び出し、どこかへ逃げてしまった』というニュアンスが込められていたように思う。ほとんど確信的にね」

「それは……」

僕は藍子の言葉を遮って話を続けた。

「しかも驚いたことに、あの絵を見た僕自身、今や『猫が絵の中から逃げた』としか思えなくなっている。あそこに描かれていた猫は今、この世界のどこかに生きているんだ。奇妙な確信がある。いったいなぜ、僕たちはそんな風に感じるんだろう?」

「それは……私にも分かりません」

「猫がいなくなったことが?」

「いえ、違うんです。『Pさんにあの絵を見せ、猫を探すように頼んだ』理由が、私にも分からないんです」

「……?」

「おじいちゃ……祖父が、亡くなる少し前に、私にこんな話を言って聞かせたことがあります……」


――藍子、よく聞きなさい。

近いうちにPと名乗る人物がここを訪れる。

彼と出会ったら、一緒に猫を探す旅に出るんだ。

いいね? これはさだめなんだよ。お前と、Pとの――…………

…………

「……あの時は、おじいちゃんが言ってたことの意味が、さっぱり分かりませんでした。でも、さっき、Pさんがここへ来て、Pだと名乗った時、本当にびっくりしたんです。おじいちゃんが言ってた通りだ……って。先月、あの絵から猫が姿を消した時も、最初はただ絵具が剥がれただけなんだと思っていました。でも今日、Pさんが来て、私は確信しました。あの猫は絵の中から逃げ出して、私たちが探すのを待っているんです」

「…………」

僕は目を閉じ、こめかみを指で押さえながらしばらく黙っていた。

周囲は異様なほど静まり返り、風の音はおろか鳥のさえずりさえ聞こえない。

目の前の藍子はこちらをじっと見据えたまま僕が次に発する言葉を待っている。

僕は大きくため息をつき、それから口をひらいた。

「すべては予言どおりってわけか。きみのおじいさんは本当は画家じゃなくて占い師だったんじゃないか?」

「…………」

僕が意地悪な皮肉を言っても藍子は動じなかった。
相変わらずしゃんと背筋を伸ばして椅子に座り、僕を試すように見つめ続けている。


……藍子の言葉に、きっと嘘はない。
こんなに礼儀正しく、まっすぐな目をして、おいしいクッキーを焼く女の子が、見ず知らずの僕をからかうためだけに冗談を言い続けているとは到底思えなかった。

そうでなければ、いわゆる幻覚妄想、精神病の類だろう……だが、彼女の目に狂気の色は欠片もない。
誠実に、ただ真実を語っている目だ。

そして、そんな彼女の静かな眼差しと相対しているうちに、僕はふと、強烈な不安に駆られはじめた。

幻覚を見ているのは、むしろ僕の方かもしれない……そんな恐怖が、突然、胸の内で騒ぎだした。

「……あの、大丈夫ですか?」

しばらく考え込んでいると、藍子が心配そうに僕の表情を覗き込んで言った。

「ああ、うん……」

僕は目をじっと細め、顔を窓ガラスの方へ向けたまま、曖昧な返事をした。

藍子がスッと椅子を引いて立ち上がった。

「おかわり、淹れてきますね」

「いや、お茶はもう……」

「気になることがあったら全部、言ってくださいね。たぶん、もうPさん一人の問題じゃないと思うから」

そう言って彼女は茶碗を下げ、部屋を出てしまった。

僕はその後ろ姿をぼんやり見送り、それから椅子の背もたれに寄りかかって「ふう」と天井を仰いだ。

僕一人の問題じゃない……か。
確かに、藍子の言う通りかもしれない。

どちらにせよ、僕たちはお互いに協力し、情報を整理する必要がある。

『僕がここへ来た本当の理由』を知るためにも。


「思い出せないんだ」

僕は二杯目のお茶をゆっくり飲んだ後、藍子に打ち明けた。

「僕が、いつ、どこできみのおじいさんを知ったのか……いや、そもそも今日、僕はどうやってここまで来たんだろう?」

僕が独り言のように自問自答し始めたので、藍子が不思議そうに首をかしげて言った。

「えーっと、つまり……記憶喪失?」

「違う、そうじゃない……いや、もしかしたらそうなのかもしれないが……」

考えれば考えるほど、僕の頭は混乱していった。
記憶のあちこちに穴がある……しかも今の今まで、そのことに気付きもしなかったのだ。
奇妙としか言いようがなかった。

「一体僕はどうやって彼の存在を知り得たんだろう? 誰かに紹介されたわけでもない、そもそも画家としては無名に等しかった彼の存在を知ったきっかけは? なぜ僕はここの住所を知っている? 分からないことだらけだ。正直、今とても混乱している」

僕はほとんどパニック寸前だった。
もし今、僕が一人だけだったら、完全に取り乱していたところだろう。
だが、そうならずに済んでいるのは、まさしく目の前にいる藍子の存在のおかげだった。
自分一人の問題じゃない……なかなか心強い言葉だ。

「その鞄の中には、何が入ってるんですか?」

「カバン?」

僕は意表を突かれて言葉を返した。

「はい。何か手がかりになりそうなもの……たとえば、手続きの書類?とか」

言われて僕はハッとした。
そうだ、ヒントはあるじゃないか……どうしてこのことにすぐ思い至らなかったんだろう。

僕は慌てて鞄の中を漁り、そして数枚の写真を取り出した。

「これだ! 僕はこの写真をもとにここへ来たんだ……」

それは、教会やその周囲の風景をさまざまな角度から映した写真だった。

しかし手がかりはそれだけだ。

藍子はテーブルの上に広げられたそれらを興味深そうに眺め、

「けっこう古い写真みたい……庭に石畳がないし、それに、ここに映ってるのってたぶん、薪と釜戸ですよね」

「今は薪じゃないのか?」

ふと尋ねたら、藍子が声をあげて笑い出した。

「ふふっ、さすがにガス給湯器です。薪で焚くのも、楽しいかもしれませんけど」

牧歌的なイメージに引っ張られてつい間抜けな質問をしてしまったが、それはそれとして、彼女が釜戸に薪をくべている姿はさぞかし絵になるだろうな、と思った。

「もしかしたら私が生まれるより前の写真かも…………あっ!」

一枚の写真を手に取った藍子がふいに叫び、驚きに目を見張った。

「どうした?」

「……猫がいる」

藍子は食い入るように写真を見つめ、それから興奮気味に顔を上げた。

「この猫です。間違いありません」

僕も思わずテーブルに身を乗り出し、藍子が指さす写真の片隅に目を凝らした。

一匹の黒猫が、教会の日陰の角にぽつんと佇み、不気味な二つの目を僕たちの方へ光らせていた。


【問2】

1.創世記では登場する天使のすべてが女性として描かれている。なぜか? 理由を簡潔に述べよ。


2.信仰とは、
(A) 祈りである。
(B) 運命に忠実に従うことである。
(C) 悪を裁き、正義を遂行することである。
(D) 栄養のある食事を心がけ、日中は体を動かし、夜は十分な睡眠をとることである。


3.天使とは
(A) かわいいものの総称
(B) 救済の象徴
(C) ヒトに羽が生えたもの
(D) 魂の原初の姿


【3】

またあの夢だ、と思った。

一匹の猫と一人の少女の夢。

小さい頃によく見た、名前のない町に暮らしていた。
ひまわりの海に浮かぶ小さな島だった。

ふと顔を上げると、少女がひまわりの小島にぽつんと立っていて、その腕に真っ黒な猫を抱いていた。
真夏の日差しが、麦わら帽子の少女の顔に深い影を落としていた。

僕は「危ない」と叫んで少女の姿を追いかけた。
しかし少女は太陽のうねりの中にたゆたうまま、僕からどんどん遠ざかって行った。

がむしゃらに追いかけようとすればするほど、僕の体は太陽の海の中に沈んでいった。

やがて僕の肉体は虫ほどの大きさになり、はるかな高みから明るい日の差すひまわりの森を、少女と猫の姿を求めてさまよった……


……固いベッドの上で目を覚ました。
遠くで鳥たちがさざめいていた。
暗がりの中で備え付けの時計へと目をやった。

またあの夢か、と思った。

それだけだった。

僕はベンチに座り、朝の駅前の商店街をぼんやり眺めていた。
学生たちが通学する様子を眺め、商店街の人々が挨拶し合う様子を眺め、空を眺めていた。
あいかわらず嫌味なくらいのんびりした陽気だった。

藍子との約束の時間まで、しばらくそうやって時間を潰していた。

まるで昨日の今日でリストラされた会社員みたいだな、と僕は自嘲気味に鼻で笑った。
実際、全ての仕事をほっぽりだしてこの町にとどまることに決めたのは事実なのだ。
本当のことを言えば、多少やけっぱちな気分ではあった。

ま、たまにはこんな休暇があってもいいだろう。
果たしてどんな休暇になるのか今のところさっぱり目途がつかないが、平和なまま終わってくれれば何よりだ。

ベンチの背もたれに寄りかかって天を仰げば、青い空を泳ぐ雲の群れが見える。

目を閉じればさわやかな風が吹き、草木のこすれる音、鳥の鳴き声、静かな町の息遣いが聞こえる。

すると、やがてゆったりしたテンポの足音が一人分、近づいて来て、僕のすぐ前で止まった。

「昨日はぐっすり眠れましたか?」

「おかげさまでね」

目を開け、まぶしさに顔をしかめると、藍子が小さく笑っているのが見えた。


……僕がこの町に留まることになった経緯はこうだ。

昨日、あれから帰ろうとした僕は、駅までの道のりすら覚えていないことに愕然とし、すっかり途方に暮れてしまった。
そこで藍子が親切にも駅まで歩いて送ってくれた。

別れ際に僕は、何かお礼をしたい、と彼女に申し出た。
世話になりっぱなしのまま帰るわけにもいかないから、と。

すると藍子は少し考えて、「じゃあ、しばらくこの町にいてくれませんか?」と真顔で言ったのだった。

僕はその時、当然のように自分の家へ帰るつもりだった。
帰ってやるべき仕事がたくさん残っていたし、そもそも長期間滞在するほどのお金の用意もない。
僕は「困ったな」とは言わなかったが、それとなく面倒そうな身振りをしてみせた。


しかし結局、僕もまた少し考えて、「わかった、そうしよう」と答えたのだった。

はっきりした理由はない。
だが、今のところ後悔もしていない。
どのみちこうなることは分かっていた……そんな気もする。

そういうわけで、僕たちは先行きも不透明なまま、猫をめぐる冒険にくりだすことにしたのである。


冒険の最初の朝は、藍子の提案でひとまず喫茶店へ行くことになった。

「藍子さんは今日は学校があるんじゃないの?」

道すがら、ふと思い付いて尋ねると、彼女は「あー、まあ」と曖昧な返事をした。

「べつに、いいんです。わりとしょっちゅう休んだりしてるし」

「そうなの?」

藍子がちらりと僕を横目に見て、何を察したのか「サボってるわけじゃないですよ?」と釘を刺した。

「意外と不良なのかと思った」

僕が冗談めかして言うと、

「事情が、あるんですよ。いろいろと」

それから藍子は「ここです」と指をさして、喫茶店の重々しい扉を開いた。

「あら、いらっしゃい藍子ちゃん」

「こんにちは」

入ってみると中は意外にも広々としていて、どちらかと言えば大衆食堂のような雑然とした雰囲気があった。

「今はお客さんいないから、ゆっくりしてってね」

「はい、お言葉に甘えて」

恰幅の良いおかみさんはずいぶん親しげだった。
どうやら藍子のなじみの店らしい。

案内された席で僕が座って待っていると、藍子は勝手にカウンターの奥に入り、ピッチャーの水を二人分、コップに注ぎ、それから慣れた手つきでテーブルへ運んできて、言った。

「なにかご注文はありますか?」

「え、じゃあ……コーヒーを」

僕が戸惑いながら注文すると、藍子はどこか楽しげに踵を返し、厨房のおかみさんにオーダーを伝えた。

「ここでアルバイトでもしてるの?」

藍子が向かいの席に座った時、思わず尋ねた。

「はい。アルバイトっていうか、お手伝いですけどね」

えへへ、とはにかみながら答える藍子に、僕はつい「ふぅん……」と素っ気ない反応をしてしまった。
根っからのひねくれ者なのだ。
おかげで損ばかりしている。

「友達のお店なんです。昔からよく遊びに来てて」

「そういうことか」

「Pさんはもう朝食は済ませたんですか?」

「いや。朝はいつもあまり食べないんだ」

「体に悪いですよ」

そんなやりとりをしていると、おかみさんがコーヒーを手に僕らのテーブルまで来た。

「藍子ちゃんの言う通りだよ。朝はちゃんと食べなきゃ!」

有無を言わさぬといった調子でコーヒーを置き、さらに「これはサービス」と言って大きめサイズのカツサンドも差し出してきた時はさすがに僕もたじろいだ。
そうして僕が何か言おうとするより先に、おかみさんは勢いまくしたてて色々喋りだした。

「藍子ちゃんの知り合いかい?」

「知り合いっていうか、お客さん……かな?」

「あら、そうだったの! いやね、こんな若くてかっこいい人いきなり連れてきて藍子ちゃんどうしちゃったのかしらーってね、少しワクワクしてたんだけどねえ」

「もう、おばさんったら!」

「お名前はなんていうのかしら」

「あ、紹介しますね。こちらPさんという方です……で、こちらが日野さん」

僕はようやく「どうも」というような言葉を発したが、日野のおかみさんは一向意に介さずといった調子で喋り続けた。
「珍しい名前なのねえ、どちらの出身?」
「まあ、絵を! あ、描いていらっしゃるんでなく? ……画商、へえ!」
「藍子ちゃんには本当に世話になっててねえ。今どきこんな器量良のいい娘、滅多にいませんよ……うちの子も見習ってほしいくらいなんだけどねえ」
「観光はまだしていらっしゃらない? 意外と近くに名所があるんですのよ。ここから4、5kmほど南に行きますとね……」

……というような会話がしばらく続き、僕は半ば気圧されながら、おかみさんが満足して厨房に戻るまで愛想笑いと相槌だけでなんとか乗り切った。

「いや、すごかったな」

僕が「ふう」とため息交じりに呟くと、藍子が「ああいう人なんです」と苦笑いを浮かべてフォローした。
どちらかと言えば騒がしいより静かな方が性に合っている僕としては、日野の奥さんのような人は周りに一人いれば十分、むしろ一年に一度会えれば十分といったところだ。

とはいえ、まったく無益な世間話だったかというと、そういうわけでもない。

藍子には気の毒だが、おしゃべりでお節介焼きのおかみさんは、藍子についても僕にいろいろ教えてくれた。


彼女が高校をよく休んでいるというのは本当らしかった。
そして、彼女が学校を休む時はたいていこの喫茶店か、あるいはあのアトリエで過ごしていることも。

突っ込んだ理由まではさすがに触れられなかったが、そんな話を聞いて僕は、なんとなく彼女にこれまでと違った親近感を覚えた。
少なくとも真面目なだけの女の子よりは好感が持てる。

「カレーが名物なんです、ここ。高校のラグビー部の人たちがよく食べに来るくらい、ボリュームがあって」

メニューを見ると、確かに普通サイズでもなかなかの量のようだった。。
食後のアイスコーヒーもおまけについてきてこの値段だと、かえってお店の儲けを心配してしまう。

「食べてみたいのは山々なんだが、まずはこのぶ厚いカツサンドを平らげないことにはね」

朝ごはんにしては重すぎやしないか、とは言わなかった。

「お持ち帰りもできますよ」

「それは大いに助かるね」

「Pさんって、いつもそうなんですか?」

「え?」

「なんていうか、全然、興味なさそうだから」

「…………」

呆気に取られて何も言えなかった。

年下の、しかもこんなおっとりした女の子に、ここまで正面切って言われたのは初めてだった。

「……そんなことないさ。興味津々だよ。あまねく全てのものに対してね」

ほらまた、とでも言いたげに彼女は僕をじっと睨みつけた。

「嘘だと思う?」

「子ども扱いしないでください。そんなことばかり言ってると、嫌いになっちゃいますよ」

僕は思わず吹き出しそうになった。

「あ。またそうやって……」

「いや、ごめん。あんまり子どもっぽいこと言うから、つい」

ぷく、と頬を膨らませて怒るほど彼女は子どもではなかったが、不満げにそっぽを向くくらいには子どもだった。

「まあ、確かに僕は皮肉屋だとか冷笑家だとか言われることが多いけど、だからって嫌味なだけのロボットみたいな人間だと思われるのは心外だな。そりゃ、少しくらい、他人に関心を持つことだってある」

「少しくらい」

今度は藍子が皮肉っぽく繰り返した。

「ちなみに、いま僕がもっとも関心があるのは何だと思う?」

「え? ……なんだろう。食後のデザートのこと、とか?」

「それはきみが気になってることだろ」

「違います」

毅然と否定した後、「いじわる」と拗ねたように呟いた。

「僕が興味があるのは、たとえばきみについてだ」

「私に?」

藍子は不意を突かれたように身を強張らせた。

「たとえば、藍子さんみたいな真面目そうな子が学校にあまり行かないなんて、一体どんな理由があるんだろう? たとえば、あのアトリエでいつも何をして過ごしてるのか? たとえば、彼氏はいるのかどうか……」

「お付き合いしている方はいません」

訝しむように眉をひそめながら、その質問にだけはすぐ答えた。

「まあ、それはどっちでもいいんだけどさ」

「やっぱり興味ないじゃないですか」

興味あった方がよかった? とは言わなかったが、僕は笑って続けた。

「芯が強くて物怖じしない。人には媚びないが、気が利くし、物腰も柔らかく、しっかりしてる。でも、それだけじゃない何かがきみの中にはある。情熱的で激しい、何かが……」

藍子は言葉の真意を読み取ろうとして、じっと僕の目を見据えていた。
まるで雄弁な人間には用心しなければならない、という忠告を自分自身に言い聞かせているようだった。
とはいえ、とりあえず褒められているということは理解したみたいだった。

「そろそろカツサンド、食べてもいいかい?」

「え? あ、ごめんなさい。どうぞ」

かぶりついて一口。
なるほど、悪くない。
外はふっくらした柔らかいパン生地、中は食べ応えのある肉がみっちり詰まっている。
マスタードなんかがあれば、より僕好みといったところだ。

「本当は、深い理由も事情も、ないんです」

僕は黙々とカツサンドを口に運び、ゆっくり味わいながら藍子の話を聞いた。

「こんなこと言うと、ただのわがままに聞こえるかもしれませんけど……昔から、学校って少し苦手で。もちろん友達はいるし、楽しいこともたくさんあって、そういうのは好きで、でも……なんだろう。集団生活、っていうのが、合わないのかもしれません」

共同体の中で何の不満も抱かずにいる人間なんていない、という言葉を僕はカツサンドと共に飲み込んだ。

「小学校とか中学校はまだ良かったんです。でも高校に進学して、受験とか勉強とか、進路とか……急になんだか、せわしなくなっちゃって。ついていくのも大変だし、もっと自分のペースでやりたいなあ、ってぼんやり考えてたら、いつの間にかこうなっちゃってて……」

「それは、いつ頃から?」

ソースがついた口元を紙ナプキンで拭い、僕は言った。
察しのいい彼女は、僕の言わんとすることをすぐに汲み取って答えた。

「自分のなかではっきり繋がってるわけじゃないんですけど、やっぱり、おじいちゃんのことがあってから、だと思います。学校だけじゃなくて、他のいろんなことも、私を置いてどんどん先に行っちゃうような、そんな感覚で、いつの間にか……」

「ご両親とはうまくいってる?」

言った直後、さすがに踏み込みすぎたかな、と後悔した。

わずかに間を空けて、

「……ふふっ、なんだかカウンセリングを受けてるみたい。Pさんに聞かれると、なんでも話しちゃいそう」

藍子がふいに笑みをこぼして言った。

「話したくないなら無理にとは言わない、僕はなにも……」

「そんなことないですよ。両親との仲は……悪くはないんですけど、やっぱり、おじいちゃんの一件があってから、少し壁ができちゃったような、そんな気はします。元から放任主義みたいなところがあったので、学校を休んでることについて特にあれこれ言われたことは……まあ、一回か二回くらいはあったかもしれないけど」

「そうか」

僕は、この話題は一旦ここで打ち切りにしよう、と暗に示すように、

「分かった」

と続けて言った。

どうやら話を聞く限りでは、藍子の置かれた境遇はなかなか不憫であると言わざるをえない。

だが一方で、実際に語る藍子の口ぶりからは、その内容ほどの深刻さはあまり感じられなかった。

これは、あくまで僕の憶測にすぎないが、いま彼女が僕に話してくれたことのほとんどは、実際彼女にとってそれほど重要な問題ではないのかもしれない。
もちろんそれも僕の勘違いで、十代の若者の繊細な悩みを取り違えているという可能性もなくはないだろうが。

「さて」

僕はグラスの水をぐいっと飲み干して一息つき、

「これ、美味しかったよ。お腹もいっぱいだ。カレーはまた今度かな」

「はい。もし機会があれば、私の友達も紹介しますね」

いや、それはべつに……と言いかけたが、ふと思い直し、

「……うん。そうだな、是非紹介してもらおう」

「とても良い子なので、Pさんもきっと仲良くなれると思いますよ」

それはどうかな、と僕は心の中で呟いた。

【4】

「もう出ちゃうんですか? ゆっくりしてっていいのに」

店を出て歩いていく僕の後ろを、藍子が足早についてきて、言った。

「歩きたい気分なんだ」

ぶっきらぼうに答えると、彼女は不安そうに僕の顔を覗き込んで、

「でも、どこに?」

「…………」

僕は何も答えず、人もまばらな商店街をあてもなく歩き過ぎた。
藍子は黙ったまま、僕の少し後ろを遠慮がちに歩いていた。
数分間、僕たちの間に気まずい沈黙が続いた。

「……さっきの私の態度、やっぱりよくなかったですよね」

「?」

「なんだか、生意気なことばかり言っちゃって」

僕は思わず足を止めた。
そして改めて自分の態度を振り返り、その大人げなさに我ながら呆れてしまった。

「違う、そうじゃないんだ。僕はべつに怒ってなんかない。本当に」

「え、そうなんですか? 私てっきり……」

「すまない、それとは全然関係ない。ただちょっと、気が急いていただけで……そんなつもりじゃなかったんだ」

「よかった」

藍子はホッとした様子で、今度は彼女の方から先へと歩き出した。

「お散歩しながら話した方がいいかもしれませんね」

そう言って、太陽の下にふわりと身を翻しながら、僕の方へと微笑みかけた。

「あっ」

僕は短い叫び声を上げた。
深い記憶の底で、ほんのわずかな火が星のように灯り、僕の意識に呼びかけていた。

デジャヴ。

どこかで、これと同じ風景を見たことがある……

おぼろげな記憶をなんとか辿ろうとして、僕はその場に立ち尽くした。
しかしそうしているうちに星のような光もどんどん遠ざかり、やがて何の確信も残さないまま、とうとう闇の中に消えてしまった。

「どうかしましたか?」

「今の……今のは、藍子さんだったのか?」

「え?」

僕の頓珍漢な問いかけに彼女は一瞬キョトンとして、それから可笑しそうに笑った。

「へんなPさん」

何か、小さな違和感が頭の片隅にこびりつき、僕はよほどそれを拭い去りたい衝動に駆られた。
が、全てが曖昧になってしまった今、それを確かめる術は僕にはなかった。

僕は、なんでもない、と適当に誤魔化して、それから、

「そろそろ本題に入りたいんだが」

と切り出した。

「本題?」

「猫のことだよ。忘れたの?」

藍子はとぼけたように、ああ、そういえば、と空を見上げて、言った。
僕はわざとらしくため息をついてみせる。

「頼むよ」

「えへへ」

儀式めいたやりとりだ。
だが、嫌いではない。

「きみに預けておいたあの写真は? 何か分かったことはある?」

「あ~……えと、そのことなんですけど」

「まさか失くしたなんてことはないだろ」

「いえ、ちゃんと持ってきてますよ。ただ……」

妙に歯切れが悪いな、と僕が訝しんでいると、藍子はおもむろにポーチを開き、

「なんて説明したらいいか分からないんですけど……朝、起きたらこうなってたんです」

そう言って手渡してきた写真を見て、僕は驚くよりも先に、してやられた、と思った。

「まったく、すばしこいやつだ」

教会の隅にうずくまっていたはずの黒猫の姿が、綺麗さっぱり消えていた。
まるで最初からそこに何も映っていなかったかのように、薄暗い教会の壁と苔むした地面があるだけだ。

まさか昨日の今日でこんなにも鮮やかに逃げられるとは。
思った以上にやっかいな相手なのかもしれない、と思った。

「本当にこんなやつを見つけ出すことができるんだろうか?」

僕は困り果てて、ついそんな独り言を漏らした。

「でも、ヒントはあると思うんです」

すっかり弱気になった僕とは対照的に、藍子はこんな状況でも前向きに考えようとしていた。
顎に手をあて、難しい顔つきをしながら身を翻すと、写真を手に立ち尽くしている僕を置いて先へテクテクと歩き出した。

やれやれ、まるで探偵ごっこだ。

僕は写真を鞄の中に仕舞い、彼女の後についていった。

「そのヒントっていうのは、つまり?」

「どうして猫は、わざわざ私たちの前に姿を現したのかな、って。逃げようと思えばどこへだって逃げられそうなのに、あの猫はまるで試すみたいに私たちの前に現れて、そしてすぐ消えた。やっぱり、私たちに見つかるのを待ってるような、そんな意志を感じるんです。あるいは、そうせざるを得ないような理由があるのかも……」

藍子は、自分の言葉に疑問を抱いたかのように一瞬、黙ったが、すぐに気を取り直して話を続けた。

「どのみち、猫があの教会の写真に現れたことには何か意味があると思うんです」

「それはそうだろうけど……」

「それで私、父に聞いてみたんです。あの写真を見せて、いつ頃の写真なのか、映ってる猫のことについてとか」

「仲悪いんじゃなかったの?」

「ふふ、そこまで険悪なわけないじゃないですか。まあ教会の話をして父は良い顔をしませんでしたけどね」

僕は、失礼ながら勝手に藍子の父親を想像してみた。
気は小さいが温厚で、娘に強く出られると為すすべがない、哀れな中年男性といったところだろうか。

「年代についてはっきりしたことは分からなかったんですけど、少なくとも私が生まれる前、たぶん20年から30年くらい前の写真だろうと言っていました」

「猫については?」

「見覚えはない、って一言だけ。父はあまり猫が好きじゃないんですよ」

苦笑する藍子と、猫におびえる気弱な中年男を想像する僕。
誰しも苦労しているんだな、と他人事のように思うのだった。

「ところで」

僕たちは今どこへ向かおうとしているんだろう? と言いかけたところだった。

気が付けば太陽はすでに頭上高く上り、辺りは民家もまばらといった風で、建物と木々の隙間にちらちら覗える景色から察するに、もう少し歩けば一面の田園風景が見渡せるに違いなかった。

駅からずいぶん歩いたらしい。
こんなところまで来て、どこへ行くつもりなんだろう?
僕は、藍子の歩みに任せるままについてきて、いまさらそんな疑問を抱いた。

ところで……そう口にした瞬間、僕はすぐ、藍子がこれから向かおうとしている目的地に気付いた。


それはまるで森の中を泳ぐ巨大なクラゲだった。

何か白くて大きな建造物が、僕たちの行く手のずっと先、山のふもとの深緑の波の上に、埋もれるように横たわっていた。

「あれはなんだろう?」

僕は質問を変えた。

「ふふ、気になります?」

藍子が目線だけをこちらに投げかけて言った。

「この町でいちばんの観光名所は、って聞かれたら、ほとんどの人があそこだって答えると思いますよ」

「いや、僕は観光なんて……」

「まあそう言わないでください。それに、きっと猫探しにも役に立ちますから」

ここで僕は、あの喫茶店でおかみさんが自慢げに話していたことを思い出した。
この町には星の記憶が眠っているという……

「そうか、あれが……」


【問3】

1.現在までに発見されている、天使とヒトにまつわる神話を記した創世記において、かつてヒトが上位存在に逆らい罰せられた歴史が示唆されている部分がある。これについて、ヒトが安寧を否定し、みずからが神と呼ぶ存在に逆らおうとした理由を、「運命」という言葉を用いて考察せよ。


2.絵に描いた餅とはどういう意味か? 簡潔に述べよ。


3.説話「屏風の虎」において、虎退治を依頼された一休は「では屏風から虎を出してください」と言う。虎が屏風から出てこられなかった理由は何か? また、この逸話を通して作者が主張したかったこととは何か?


【5】

「……いいえ、そうではありません。もちろん、鑑賞目的というのであれば、ここで公開している資料の大部分はそのまま御覧いただけます。しかし、もしそれらの資料を"活用したい"というのであれば、不可能ではありませんが少々込み入った相談になります。例えばきわめて個人的な、けれど個人にとっては非常に深刻かつ重大な記憶と記録の夢をお探しになりたいのでしたら、相応の準備と、最悪の場合は一生分のお時間が必要となります。運がよければすぐに見つかることもあります。ですが、なにぶん記憶と記録の夢は時間が経つにつれどんどん星のコアと融合してしまいますから、それはつまり海に落ちた指輪を探すというような、もっと言えば海に溶けた角砂糖を元の形に戻すというような途方もない作業に相当します。当然、専門的な技術がなければそれは不可能です」

そのために私たちがいるのです、とでも言うように、眼鏡をかけた女性職員は僕と藍子を交互に見やり、静かに口をつぐんだ。

僕たちは真っ白なエントランスの隅にある応接スペースに案内され、この施設の説明を受けているところだった。

どうも聞いていた話と違うぞ、と職員の説明を頭の中で整理しながら僕は思った。
「ちょっと風変りな博物館」だなんて、藍子も日野のおかみさんもずいぶんと適当なことを言ったものだ。
だいたい、ここから見える館内のどこにも、展示物はおろかインテリアも、ポスターの類すら見当たらない。

「博物館でなければ、ここは一体なんなんです?」

「私たちの本来の目的は宇宙と星、そして人類の土地と歴史と神話のための検索システムを開発することであり、ここはその研究および管理施設のようなものです。とはいえ、一般的なミュージアムとして楽しんでいただくことも十分可能です」

職員は長い髪をかきあげ、手元にあったパンフレットをそっと差し出した。
「ご希望でしたら私がご案内いたしますが……」

話を聞いている間ずっと「はあ」だの「へえ」だの相槌を打っていた藍子は、良い暇つぶしができたとばかりにパンフレットを手に取り熱心そうに読み始めた。
あとのことは僕に丸投げするつもりらしい。

僕は視線を戻し、改めて話を持ち出した。

「ええとですね。とにかく、僕は探しものをしにここへ来たんです。例えば、その……いわゆる郷土資料というか、具体的にはこの町のとある教会についてなんですがね……あるいは、偏屈な画家とか、絵の中に住む猫についての情報だとか」

言ってから、これじゃ頭のおかしな奴だと思われかねないな、と不安になった。
まあ今さらそう思われたところで大した不都合もないのだが。

するとその女性――首から下げた名札に「古澤頼子」と書かれている職員、あるいは学芸員か研究者――は、それまでの落ち着いたポーカーフェイスにわずかに不審な色を浮かべ、独り言のように聞き返した。

「絵の中に住む猫……ですか」

「何か知ってるんですか?」

パンフレットを読んでいた藍子が身を乗り出して尋ねた。

「いえ、残念ながら……」

がっかりした様子でソファにかけ直す藍子に、古澤女史は「ですが」と続けて言った。

「お客様が、そういった不可解な存在に導かれてここにいらしたということは、私たちの言葉で言うなら、それは"予兆"のようなものです。星の見る夢はしばしば地上に干渉し、奇妙な現象を私たちに見せることがあります。それ自体は私たちの研究の対象ではありませんが、星の夢に繋がるチャンネルのひとつとして、貴重なサンプルになりうると考えています」

「えーっと、それってつまり……」

「あるいは、私たちがお役に立てるかもしれません、ということです」

僕と藍子は思わず顔を見合わせた。

よく分からないが、協力してくれるならこちらとしてもやぶさかでない。

【6】

「藍子さんが以前来た時もこんな感じだったの?」

「うーん、どうだったかなあ。うんと小さい頃だったから……」

僕たちは古澤女史に案内され、館内の展示物を順繰りに歩いているところだった。

最初の扉を開けて進むと、中は広いドーム状の空間になっていた。
先ほどとは打って変わって薄暗い照明の、その中央に小さな丸テーブルがぽつんと置いてある。
そこには人の顔ほどの大きさの四角いガラスケースが飾られている。

近づいてみると、ケースの中には爪よりも小さい、光り輝く石がうやうやしく飾られていた。

「こちらは、当館が設立されるきっかけになった、この地域で最初に発見された星の夢の欠片です」

僕と藍子は「へえー」と言いながらそれを眺めた。
そもそも星の夢というのが何なのか分かっていないのに感心も何もないものだが。

「ただの小さな石ころのように見えますが」

僕は純粋に気になって尋ねてみた。

「はい、見た目はただの石です。より具体的に言うなら、これはただの火山岩です。しかし重要なのは材質ではありません。その石の持つ"ことば"が重要なのです」

「光ってる。不思議な色……」と藍子。

確かに、その淡い光り方にはどこか惹きつけられるものがあった。
表面は七色のグラデーションを帯びていて、まるで海辺に打ち寄せる波のようにうねっている。
どの角度から見ても光り方は一様で、そのせいで石の形状や凹凸がはっきりせず、二次元の平坦な模様のように見える。

「この輝きこそが星の"ことば"です。さあ、よく見てください……」

女史がそう言って丸テーブルの側面のスイッチを入れると、輝く石に向かって細い蛍光灯の明かりが照らされた。
すると、石のすぐ下、黒い土台に描かれた模様と文字が浮かび上がってきた。

一瞬、何か科学的な作用によって文字が現れたのかと思ったが、そうではなかった。
単に、暗がりの中で見えなかった資料の説明文が、明るい照明によって映し出されただけだった。
そこにはこう書いてあった……

『"星の夢"が放つ輝きは、物理現象としての光とは大きく異なります。本来であれば、この文章は石の光によって照らされ読めるはずですが、実際に石の輝きは光子を放っているわけではないため、物体に反射したり、影を作ったりしません。石の輝きは、私たちの感覚を通して意識に直接働きかけている光の幻なのです』

「えっ……あ、ほんとだ……」

藍子は今度こそ「へえー」と興味をあらわに感嘆の声をあげ、子どものように横から斜めから石を眺めだした。
すると何を思ったか、おもむろに自分の顔を両手で覆ったので、「何やってるの?」と聞くと、

「えっと、影を作らないなら目を覆っても光は見えるはずだと思って……あれ、私なにか勘違いしてるかな?」

「いえ、鋭い指摘です」

女史はにこりともせず話を続けた。

「この光はどんな物体も通過して人の意識に届きますが、それはその人が"見えている"と認識している時のみ、つまり星の夢へのチャンネルを開いた時のみそれが可能になります。お客様が、ここに石がある、と正しく認識さえすれば、目を塞いでも、石が金庫の中に入っていても、光、すなわち星の"ことば"を感じることができるはずです」

それを聞いた藍子は半信半疑で目をつぶったり手で前を覆ったりしたが、なかなかうまくいかないようだった。

「大事なのは感覚を研ぎ澄ますこと、そして"ことば"の存在を信じることです。コツさえ掴めば、これはそれほど難しいことではありません。例えば、耳を塞いでみるとより効果的に……」

思いがけず古澤女史のレクチャーが始まり、藍子は当初の目的もどこへやら、摩訶不思議な心眼チャレンジに夢中になった。

一方、僕はそんな戯れに興じる気分にはとてもなれなかった。
正直に言うと、この謎めいた光――専門家に言わせれば星の"ことば"――について、好奇心をそそられるよりもむしろ嫌悪に近い抵抗感があったのだ。
まるで幽霊からのメッセージみたいだ、とさえ思った。
そんな幼稚な存在を怖がるような歳でもないのだが。

僕は、夢中になっている藍子と、淡々と説明している古澤女史をそのままにして、一人奥の通路へと進んでいった。
すると部屋を出てすぐ横の壁に見知らぬ町を描いた風景画が飾られていたので、なんとなく近づいて眺めてみた。

職業病とでも言うのだろうか。
僕は無意識に、これが市場で取引されるとしたらどれほどの値が付くかなどと考えていた。

とはいえ、技術的に特筆すべきところもなく、全体的に平凡で、特に市場価値があるようには見えなかった。
これならまだ藍子さんのおじいさんの絵の方がずっといい。

「こちらの絵にご興味がおありで?」

急に背後から声をかけられたので僕は仰天して振り返った。

背の高い、ラフな恰好をした若い男が斜め後ろに立っていた。

こちらへは顔を向けず、絵を見ながら僕に話しかけたらしい。
が、僕が驚きのあまり反射的に体を動かしたので、ふいに目が合ってしまった。
すらりと細い顔立ちに爽やかな微笑を浮かべ、男は口を開いた。

「後ろのソファに座っていたんです。驚かせたようでしたらすみません」

「ああ、いえ、こちらこそ……まさか他に客がいるとは思っていなかったもので」

「あっはは、そんなことはありませんよ。ここは平日でもまあまあ人は入りますから。でも確かに、今日は今のところあなた方しか見かけていませんね。そういうことも、たまにはあります」

「こちらの職員の方ですか?」

「まさか。ただの一般客ですよ。まあ、どちらかと言えば常連客と呼んだ方がいいかもしれませんね。自分で言うのも変な話ですが」

男は朗らかに微笑むと、再び、額縁に飾られた、何の変哲もない風景画に目を向けた。

「どうです? なかなか素敵な絵だと思いませんか?」

僕は「まあ……」と曖昧に相槌を打った。
そして、「あまり好みではありませんが」と言う代わりに、

「そうですね」

と答えた。

彼は満足げに「でしょう?」と微笑んだ。
まるでこの素晴らしい絵を描いたのは自分なのだとでも言いたげな、子どものように素朴で純粋な表情だった。

「ここへは頻繁に来ているんですか?」

「そうですね。ほとんど毎日のように」

「はあ、それは……」

ずいぶん暇人なんですね、とはさすがに言わなかったが、なんとも答えようがなかったので僕は黙ってしまった。

「はっはは、よっぽど暇なんだな、と思われたでしょう」

男が朗らかに笑いながら言うので、僕はつい「ええ、まあ」と肯定してしまった。
喋り方にまったく嫌味がなく、誰かと話すことはとても楽しいことだと根っから信じている人間のようだった。
僕とは正反対のタイプだが、それはそれとして、この男との会話は悪い気分ではなかった。

「実際、暇なんですよ。毎日これといって特にやることがない。ちなみに無職というわけでもありません」

「お仕事は何を?」

「理容師です。この町で唯一、髪を切ることを許されている職業です」

「はあ……」

僕は、なぜそんな仕事に就いていながら暇なのか?という疑問と、唯一許されている……のくだりに対する疑問とを、どちらを先に質問すべきか一瞬迷った。

「この町の人間の、非常に奇怪だが一般にはほとんど知られていない、とある特性を御存じですか?」

逆にこちらが質問されてしまった。

「いえ、知りません」

「大昔から、この地域の血筋の人たちは、ある一定の年齢になると髪の毛がそれ以上伸びなくなるという奇妙な体質を持っています。嘘だと思うでしょう? 僕も最初はただの都市伝説だと思っていました。ああ、ちなみに僕はここの出身ではありません。あなたと同じ、よそ者ですよ。結果的に居ついてしまいましたがね。まあそれはいいとして……」

男はとっておきの秘密を打ち明けるように、嬉しそうな表情で話を続けた。

「ここらの地域の、いわゆる名門と呼ばれるいくつかの家系は、実は遥か大昔、神話と呼ばれる時代に存在した、ある天使たちの直系の血族だと言われています。眉唾物の話ですが、実際、それらの家系の者はみな、放っておいても一定の長さ以上は絶対に髪が伸びません。不思議でしょう?」

そんなわけですから、私に仕事が来ることは滅多にないんです、と理容師は自虐的に言った。

「その話が本当だとして、仕事がないならどうやって生活を?」

「散髪の仕事が一切ない、というわけではありません。つまり、天使の家系ではない人々、たとえば他所から越してきた人などは普通に髪が伸びますから、そういう彼らのために私は仕事をします。ただしこの町では、そんな特異体質の家系が古くから特権階級でしたから、髪の毛を切るというのはいわば忌むべき行為、天使に対する冒涜だとする信仰が根強いのです。私の言いたいことが分かりますか?」

「なかなか面倒なお仕事ですね、ということまでは」

「はっはは、その通りですよ。散髪にもいちいち町役場の許可がいるんですからね。儲かるはずがない」

「もちろんそれもあるでしょうが」と僕は言った。

「あなたの立場もずいぶん面倒そうだ」

「まあ」と男は答えた。

「損な役回りではあります。今でこそ偏見や差別はほとんどなくなりましたがね。まあ、町から補助金が出て、それで暮らしている分には、そんなに悪くない仕事だと思いますよ」

男は一息つくように話を切った。

僕は彼の話すことに純粋に興味を持ち、もっと聞きたいことがたくさんあった。
が、実際何を質問すればいいか分からず、とりあえず、

「ここへ来ていつも何を?」

とたずねた。

「探し物をしています。あなたと同じように」

僕はドキリとして、「どういうことです?」と言った。

「友人を探しているんです。子どもの頃、いつも遊んでくれていた大切な友人がいました。しかしある時からふいに姿を消しました。それ以来、私はずっと彼を探し続けています。もはや彼がどんな名前で、どんな顔をしていたかも覚えていません」

「顔も名前も分からないなら、どうやって探すんですか?」

「星の記憶に尋ねます。星は、たとえ私の頭の中にしかなかった存在でも、すべてを記憶し、記録しています。私が昨日食べた朝食のメニューでさえもです。星はつねに深い眠りの中にあり、私はそこに生まれる星の夢と語らうのです」

僕は古澤女史が話していたことを思い出していた。

「それで、成果はあったんですか」

「直接的な手がかりは何も」男は首を振って言った。「ですが、進歩はあります。ほんの僅かですがね」

「彼と再会したら」と僕は言った。

「あなたはどうするつもりなんですか?」

「そうですね」と男は少し考えるように目線を逸らした。

「まずは謝らなければいけません。何も言わず別れたこと、彼を忘れてしまっていたこと、ここまで来るのにとても時間がかかったことを。そして、語らいます。これまでのことも、これからのことも。私たちは今までの空白を埋め合わせるほどに充実した楽しい時間を過ごすでしょう。気が済むまで語り合ったら、私たちは再び別れることになるでしょう。私は満足して、この町を出ていきます。私自身の新しい未来のために」


「Pさん」

ふいに呼ばれて振り返ると、藍子が古澤女史と共にこちらへ歩いてくるところだった。

「お話の途中で申し訳ありません」と女史が僕たちを見て言った。
僕は「いえ、大丈夫ですよ。ただの世間話です」と答え、それから藍子に「透視はうまくいったのかい?」と聞いた。
藍子は、えへへ、とはにかんで、「ぜんぜんだめでした」と答えた。

そんな他愛ない会話の最中、僕は、藍子の視線が一瞬だけ横に逸れたのを見逃さなかった。
同時に、僕の隣にいて無言のままの彼がサッと後ろに身を引いた気配がした。

「特に案内の必要がないというのであれば」

古澤女史は皮肉も感じさせないくらいの淡々とした口調で言った。

「私に構わずご自由に観覧していただいてかまいませんが」

「いえ、そんなつもりは」と僕は恐縮して答えた。
そして、僕の背後で奇妙に固まっている理容師の男に、

「申し訳ない。先を急いでいるもので……失礼」

「……いいや、こちらこそ余計なお節介を焼いてしまったようだ。私のことは気にせず、どうぞ」

すると男はどこか遠慮がちに後ずさり、ソファに腰かけると、それきり僕たちのことは忘れてしまったかのように、再びあの絵画をうっとりした目で眺めだした。

「ではこちらへ……」

僕たちは古澤女史が案内するままに先へ進んでいった。


「……あの人がここへ通うようになって、どれくらい経つんですか?」

通路をしばらく歩き過ぎてから僕は古澤女史にたずねた。

「7年ほどです」

「7年……」

それほど長い間、星の夢に囚われ続けている彼のことを思うと、言葉が出なかった。

「星の記憶と記録の夢にコンタクトするというのは、そういうことなのです。彼のように星の夢に深く潜り込もうと試みた者は過去何人もいますが、そのまま廃人となってしまったケースも少なくありません。少なくともかつて見知っていた友を探すという分かりやすい例でさえ、これほどの時間と労力を要するのです。ましてやほとんど接点のない、居場所もあやふやな猫を探すとなれば、よほどの才能がない限り困難を極めるでしょう……」

隣を歩く藍子の横顔はどこか思いつめたように遠くを見てばかりいた。


「そういえば彼から聞いたんだが……」

ふいに僕は思い出して藍子に尋ねた。

「この町の人は髪が伸びないというのは本当なんだろうか?」

すると藍子は「あ~……」と目を逸らして、

「そう……いうこともあります。たまには」

と、妙に歯切れの悪い言葉でごまかした。

さすがに僕もそこまで察しの悪い男ではない。
少なくとも藍子が、あの理容師とそれにまつわる古いしきたりを知っているのは確かだろう。
憶測だが、そういった風習や天使の家系といったものに、何か後ろめたい感情を抱いているのかもしれない。
彼女の顔にわずかに浮かんだ痛切な表情を見るにつけ、あるいは彼女自身が直接関係しているという可能性も十分ありうることだと思った。

デリケートな話題だっただろうか。
そう思って、僕はそれ以上踏み込んだことは聞かなかった。


しかし結局のところ、そんな気遣いは無用だったのだ。

どのみち藍子は僕にすべての事情を話さなければならなくなったし、それら藍子にまつわる神話と歴史と運命の物語こそ、猫へと至る唯一の道筋だったからだ。

そして僕たちはやがて知ることになる。
僕と藍子はなぜ出会わなければならなかったか。
僕はいったい何者で、この世界で何の役割を演じなければならないのかを……


【問4】
※これより先の設問に答えるにあたって、受験者には限定的に「   」へのアクセスを許可します。以降、こうした特殊規定において、当機関は受験者の安全性に十分配慮するとともに、これを完全に保証するものではないことをご了承ください。


1.本文中の『藍子』という人物は、役割こそ異なるものの、明らかに創世記・極彩色時代《ビビッドカラーエイジ》に登場する天使『アイコ』をモチーフに描かれている。創世記、新世代《ニュージェネレーション》を経て始まった極彩色時代《ビビッドカラーエイジ》において、『アイコ』の他に重要な役割を担った天使二人の名前を記せ。


2.『アイコ』は極彩色時代《ビビッドカラーエイジ》以降の各時代にも頻繁に登場する。それぞれの時代において、『アイコ』に冠せられた二つ名を可能な限り書き記せ。


3.現在判明している、『アイコ』がモチーフとなっている多くの伝記、絵画、歌劇、その他伝承は、ほとんどが平和的もしくは牧歌的なものとして描かれている。一部例外として、闘争をテーマにした「生存本能ヴァルキュリア」という歌劇などが存在するが、多くの天使の中でももっとも非攻撃的な性質の『アイコ』がそうした時代に現れた理由を、「情熱」という言葉を用いて考察せよ。


4.新世代《ニュージェネレーション》における始まりの三天使のうち、『アイコ』と深い関係にあった天使の名を答えよ。。

【7】

以降の古澤女史による星の夢博物館ツアーは実際、思ったよりも退屈しなかった。
展示されているものはほとんどが歴史資料――何年のどこそこで発見された夢の欠片だとか研究論文だとか――だったが、わけが分からないなりに興味が引かれるものも中にはあった。
持つたびに重さが変わる(ように感じられる)コインや、極端に時間の進みが遅い(ように感じられる)部屋、そして驚いたのは、相手が思い浮かべている〇と×の印がテレパシーで分かってしまうという魔法のような装置だった。

「今はまだ精度が悪く、簡単なマークを時間をかけて伝えることしかできませんが、いずれ実用化も視野にいれて研究を進めています。一時期ニュースにもなったのですが……」

「ああ、そういえば聞いたことあるかもしれないな……」

僕は見栄をはって嘘をついたが、藍子は素直に驚きっぱなしのようだった。


「次はあちらの……」

そう言って案内人が手で示した先には小部屋へと通じる入口があり、覗いてみるとそれはこじんまりしたホール状の空間だった。
中央には立派な彫像が堂々と立っていて……

「ん?」

一瞬、目を疑った。
同時に藍子も「あ」と小さく呟く。
僕たちは二人揃って彫像を見上げ、その場に立ちすくんだ。

やわらかなローブを身に纏い、足元は少女らしい無垢な裸足があらわになっている。
慈愛に溢れた眼差しを台地に注ぎ、祈るように手を繋いでいる。
フードの中のウェーブがかった髪、華奢な首筋……

その姿は、まさに藍子そのものだった。

「これは……藍子さん? どうして……」

「え?」

藍子がキョトンとして聞き返したので、思わず僕も「え?」と間抜けな声を出してしまった。

「あっ、もしかして……Pさん、これ私だと思ったんですか?」

藍子がからかうようにクスクスと笑い出した。
僕はなにがなにやら分からず、ただ恥をかいたという漠然とした不安にうろたえた。

「これは創世記に登場する『アイコ』という天使の像です」と説明したのは後ろにいた古澤女史だった。

「……ああっ!」

僕は叫んだ。
直後、大きなショックに打ちのめされ、頭が真っ白になった。

そうだ……

なぜ今まで気づかなかったんだ!

藍子はあの神話の天使『アイコ』と瓜二つなのだ!

信じられなかった。

天使といえば絵画のモチーフの定番であり、画商の僕が一目見て分からないはずがない。
それが藍子と初めて会った時から今まで一切、意識の上に昇ることさえなかったなんて!

昨日、自分が記憶喪失かもしれないと疑った時よりもさらに大きな不安と恐怖が僕の心を覆った。

「……Pさん? 大丈夫ですか?」

藍子の心配そうな声が聞こえる。
僕は眩暈がし、片手で目を押さえながら必死で考えた。

「そ……それじゃ……あの地下室にあったおじいさんの絵も……?」

僕はてっきり孫娘を描いた絵だと思っていた。
しかしそうでないなら……

「あ、はい。あれもたぶん天使の方の『アイコ』のはずです……でも、おじいちゃんのことだから私とハッキリ区別してなかったかもしれないですけど」

「そうか……だから……藍子さん、キミは……」

藍子は照れ笑いのような、あるいは諦めたような顔をして、再び目の前の彫像に向き直った。

「不思議ですよね。みんなが言うには、先祖返りだって……それにたぶん、おじいちゃんは私が生まれた時から知ってたんだと思います。藍子って名前を付けたのも、おじいちゃんだったから」

藍子は、だから私を可愛がってくれてたのかな、と小さく呟いて、それから僕に向かって笑いかけた。

「こちらの部屋ではおもに天使と神話に関連した史料を展示しています」と古澤女史が話し始めた。

「アイコは創世の初期、主に極彩色時代に登場する天使の一人です。非常に温和な性格であり、同系統の天使の中では珍しく愛の性質に近い存在でした。それゆえか多くの時代に現れ、多くの人や天使と交流があったことが様々な史料から明らかになっています。こちらのフードを被ったアイコ像は特に『黒き森の乙女』と呼ばれ……」

女史は、僕にはとうに分かりきってる情報を改めて丁寧に説明してくれていたが、依然ショックから立ち直れない僕の耳にはまともに入ってこなかった。

他にも僕の気付いていない、忘れていることがあるんじゃないか?

完全にパニック状態だった。
何かとても大事なことを忘れているかもしれないという恐怖に飲み込まれるあまり、僕はしばらく藍子が僕の服の裾を掴んで引っ張っていることにも気付かなかった。

「具合、悪いんですか? どこかで休憩しましょうか?」

「あ、ああ……できれば、そうさせてもらいたい……」

僕は古澤女史に招かれ、ちょうど室内にあったベンチに座らせてもらった。
女史は自分の説明が中断されたこともまったく気にしていない様子で、僕を座らせたあと、まるでプライベートのようにのんびりと作品を鑑賞しだした。マイペースな人だ。

僕は目をつぶって深呼吸し、身をかがめて吐きそうな気分をこらえた。
それから言った。

「悪い夢でも見てるみたいだ」

隣に座る藍子は黙って聞いていた。
まるで死を看取る天使のような、深い慈愛の沈黙。

「まるで……そうだ、夢なんだよ。これは……明らかに不自然で辻褄が合わない、にもかかわらず、夢の中にいる僕はそんな不自然さに疑問も抱かない。ただ流されるまま、目の前の奇妙な出来事に振り回されている」

「夢じゃありませんよ。Pさんはここにいるし、私だってここにいます」

「そうだ。これは夢じゃない……だが夢でないなら一体なんなんだ? もしかしたら僕は本当に、何か、深刻な病気で――」

「Pさん」

藍子の静かな声が、うずくまるように身をかがめていた僕の耳元に優しく響いた。

「私の目を見てください」

言われるまま顔を上げた。
僕を見つめる藍子の眼差しはまるで子どもをあやすように優しくて、力強かった。

「顔色、悪いですよ。やっぱり休憩スペースに行って、飲み物とか……」

「いや……大丈夫、ありがとう。それより……」

僕は小さく頭を振って、

「まさか君がアイコの子孫だったとはね……正直、びっくりしたよ。しかし言われてみれば、本当に……アイコそのものだ、君は。信じられないくらいに」

僕は改めて藍子をまじまじと見てしまう。

「なんだかとても不思議な気分だ。『インディゴベル』も『アインフェリア』も『Flowery』も、僕が今まで見てきたすべての作品に描かれてきたアイコがこうして僕の目の前に現れて、しかも喋っている!」

「そんな大げさな」

「大げさなんかじゃない。なぜなら……」

僕は一瞬、言葉を濁した。
照れながらもどこか困惑するような微妙な表情を浮かべる藍子を見て、自分が少し興奮しすぎていることに気づく。

「……なんでもない。その、ちょっと感動してしまったんだ……それだけだ」

うまく取り繕うこともできない僕を見て、藍子が「ふふふ」と意地悪く笑った。


「しかし」

藍子のおかげで平静を取り戻した僕は、ふと思いついたことを口にした。

「キミに天使の血が流れているというのは、もしかしたら猫を探す大きなヒントなのかもしれない」

「どういうことですか?」

「考えていたんだ。なぜ猫が僕たちの前にわざわざ現れたのか……だが、実はその疑問自体がそもそも間違っていたんじゃないか? つまり、猫の目的は逃げることじゃなく、僕たち二人をここに導くことだったんだ」

藍子が、うーん、と考え込むように唸った。
僕は話を続けた。

「なぜかは分からない。だが、きっと何か意味があることなんじゃないか? おそらく藍子さんは猫によって選ばれたんだ。天使の血を引く存在が、この不思議な現象に巻き込まれたのは偶然とは思えない」

「Pさんの言っていることが半分本当だとして」

と藍子は言った。

「平凡な人間が選ばれるということもありうると思いますよ」

「しかし少なくともキミは平凡ではない」

「それは……よく分かんないですけど」

そう言うと、藍子はふと難しい顔をして、

「もしかしたらそれって私じゃなくて、Pさんが関係してるとは考えられませんか?」

「それはどういう……?」

「おじいちゃんの予言のことを考えたら、Pさんこそ天使アイコと深い関わりがあるんじゃないかな、って。私はともかく、Pさんが選ばれた理由も大事だと思うんです。こういう場合」

「僕が……」

藍子の言うことにも一理あった。
これは二人の問題なのだ。
彼女にばかり一方的に原因を求めるのはフェアではない。

実際、僕の記憶から都合よく天使アイコの事柄が抜け落ちているのは不自然ではあった。
だが抜け落ちている記憶はそれだけとは限らないのだ。
僕が不安定な状態にある以上、頼れるのは藍子だけだった。

「なんだか自分がどんどんか弱い生き物に退化していってる気分だよ」

大人のくせに情けないよな、そんな弱音を吐きかけたところで藍子が慰めるように言った。

「うまく思い出せないことがあるのは、たぶん猫の仕業なんだと思います。猫さえ見つけられれば……」

「いや、それは逆だろう。僕の欠けた記憶にこそ、猫に通じるヒントがあると考えるのが妥当だ。その失われた記憶が何なのか、一つなのかあるいはもっとたくさんあるのか……いずれにせよ今の僕には何の手がかりもない。きみと天使アイコを除いて他には……」

僕は座ったまま、祈るように手を組んで部屋の中央にあるアイコ像を見上げた。
近くにいると不思議と心が落ち着くところも藍子そっくりだ、と思った。

僕は目を閉じ、過去の記憶を手繰り寄せてみる。

この像を昔どこかで見かけたことがあっただろうか? ……いや、ない。
あるいは以前、この町に来たことがある……それもおそらくない。
かつて取引したことのある、アイコ関連の仕事についてはある程度思い出せる。
が、それらはどれも決定的なものではない気がした。

僕たちは押し黙ってそれぞれの思惑にふけっていた。
厳かな沈黙が、まるで祈りのように安らかに過ぎていった。

そうだ。
ここは小さな教会なのだ、と思った。
中心に置かれた平和と愛の象形が、この小さな閉じられた空間に清く荘厳な調和をもたらしている……

やがて僕は考えるのをやめた。
アイコ像にとりさらわれていた心が、落ち着きと共に徐々に弛緩していく認識と視界の中で、この小部屋全体に潜む張り詰めた空気に気付きつつあった。

壁に掛けられたひとつひとつの絵画が――それらは今初めて僕の目に認められたように思われる――部屋の中心に立つ天使アイコを取り囲むように規則正しく並べられている。
まるでアイコを祝福するように向き合っているそれらの絵は、よく見るとどこか見覚えのある風景や人々が描かれている。
そして、僕たちから見て像を挟んだちょうど反対側に、一枚の絵をじっと眺めている古澤女史の後ろ姿が見える……。

藍子が弾かれたように立ち上がった。

「あの人……さっき猫のことを言ってました」

「? それがどうしたんだ? 彼女には最初から猫のことは話しているが……」

藍子は向かい側の古澤女史をぎゅっと見つめたまま動かない。

「Pさんは"絵の中に住む猫"としか言ってません。でもあの人は"居場所もあやふやな猫"って言ったんです。そもそも、私たちは猫を探しているとは一言も……」

ぞくり、と悪寒が走る。
像の影に隠れて見えないはずの彼女が、いつの間にか振り向いて僕たちを見つめていた。
そのポーカーフェイスの裏側に、嘲るような笑みを浮かべて。

「……!!」

考えるより先に体が動いていた。
立ち上がり、跳ねるように駆けだす。

が、遅かった。
ほんの目と鼻の先にいたはずの彼女は、僕が二歩目を踏み切るのと同時にまるで煙のように姿を消してしまった。

「くそっ!」

僕は悪態をつき、後を追ってきた藍子に向かって言った。

「逃げられた。あいつが猫だったんだ。ずっと僕たちを騙していた」

「見て、Pさん!」

藍子が指さす方を振り向くと、正面に飾られた絵の中だった。

夜のように深く暗い森があった。

その暗闇の奥へ、今まさに一匹の猫が歩いて行く。

「この……!」

絵の中へ、追いかけるように手を伸ばす。
猫はすぐそこにいる。
あともう少しで捕まえられる。

だがどんなに手を伸ばしても届かない。

それどころか僕の手も腕も、体さえ、少しも前に進まない。

何かがおかしい。

空間が額の辺りから波紋のように波打ち、広がり、解放される重力。
歪んだ視界の中で僕は――


「待って!」

突然、背後から呼び止められた。
そして、それは藍子の声ではなかった。

振り返ると、息を切らしながら部屋の入口に手をかけている女性がいた。
小さな声で弱弱しく何かを言っているらしかったが、遠くにいるうえ呼吸も乱れていたのではっきりと聞き取れない。

僕は慌てて絵に意識を戻した。
案の定、気を取られた隙に猫はすっかり姿をくらましてしまっていた。

力が抜け、がっくりと肩を下ろし、そこでようやく女性が「展示物に触れるのはご遠慮ください」という意味のことを言っていると気付いた僕は、伸ばしていた手を咄嗟にひっこめて一言、

「すみません」

と吐き捨てるように答えた。

その服装と、首から下げているカードから、彼女がここの職員であることはすぐに分かった。
もしかしたらまた猫が化けているのかもしれない。
そう思って警戒こそしていたものの、息を整え僕たちの方へ歩み寄ってきた彼女の、頼りない、覇気のない雰囲気から、なんとなくその可能性は薄い気がした。

「あの……ご無事でしたでしょうか?」

名札には『鷺沢文香』と書かれていた。

「無事、とはどういうことですか?」

僕が不信感をあらわに聞き返すと、彼女は途端にオドオドしだして、

「いえ、その……他のお客様から、見えない誰かと会話している二人組がいるという連絡が……あの、通報というわけではなく、万が一ということもありますので……それでその、安否を確認しに」

「安否」

隣で、藍子が独り言のように呟いた。

「はい。今回は間に合ったようでなによりでした。もしもお客様があのまま星の夢の中に飲み込まれていたら……」

鷺沢さんはそれ以上は言わなかった。
その代わりに、あまり当館には長居しない方がよろしいかと存じます、と忠告した。

僕と藍子は顔を見合わせ、お互い言葉もなく頷いた。
自分たちが次に何をすべきなのか、はっきり分かったからだ。

「もちろん、入場料はお返しいたしますので……」

「私たち、その星の夢の中に行きたいんです」

食い気味に言い出したのは藍子だった。

「えっ?」

鷺沢さんは意表を突かれたように声を裏返して、

「夢に?」

確認するようにもう一度聞き返す。

「飲み込まれる、ということは、星の夢の中に入ることができるということですよね?」

僕は尋ねた。

「いえ、それは……」

「できないんですか?」

「でき……あの、できないというのではないんですが……規約的な問題というか、その……」

別に僕としても悪意をもって詰め寄ってるわけではないんだが、そんなに萎縮されるとこっちも申し訳なくなってしまう。

「やっぱり、ご迷惑でしょうか?」と藍子が間に割って入って言った。
「私たち、どうしてもこの絵の向こう側に行きたいんです。どうにかできませんか?」

「どうにかと言われましても……」

明らかに、悪質な客の無理な注文にどう対応したらいいか困っている、という風だった。

だがこちらも悠長に押し問答している暇はない。
あの小賢しい猫に良いように踊らされていたことへの怒りからか、僕は少し感情的になっていた。

「そっちの都合は知りませんが、僕たちは急いでるんです。悪いけど、勝手にやらせてもらいます」

自分でも深くは考えていなかった。
たださっきと同じように手を伸ばせばいい、そう思っていた。
そうすればあちらの世界へ行けるはずだ……

僕は再び黒い森の絵の、猫が向かって行った先をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。

「あっ、展示物に手を……」

と言いかけた鷺沢さんの声が、突然、あっ!という小さな悲鳴に変わった。

「Pさん!」

藍子の声も聞こえる。

伸ばした手のひらに徐々に伝わるなめらかな感触。
滲んでいく五感をうまく制御しようと意識を集中させる。
そうだ、あいつにできるなら僕にできないはずはない。
背後の二人の声が遠くなりつつある……

「――……様…………お客様!」

ふいに腕に強い力がかかり、体のバランスが崩れた。
没入しかけていた意識が向こうの世界から引きはがされる。

気づけば顔を白くした鷺沢さんが震えながら僕の腕を掴んでいた。

「分かりました。分かりましたから、どうか無闇にあちらの世界に干渉しないようお願いします。どうか」

そんな鷺沢さんの焦りようを見て、さすがに僕も不安になった。
やはり今のはまずかっただろうか?
藍子を見ると、相変わらずぽかんとして驚きに目をぱちくりさせてばかりいる。

「あの、あちらへの立ち入りは私がご案内いたしますので、申し訳ありませんがお客様、少々お待ちいただけますか。ほんの2、3分ですので、はい」

鷺沢さんはそう言うと、耳に当てたイヤホンマイク越しに誰かに連絡を取り始めた。
何がなんだか分からない。

「……こちら側で手続きが完了いたしました。大丈夫だそうです」

「え、いいんですか? 行っても?」

「もちろんです。ひとまず入口のチャンネルは私が開きますので、あちらへ……」

と言って案内されたのは、同じ部屋に掛けてある別の絵画だった。

先ほどの態度とは打って変わって落ち着いた口調で、むしろ僕たちを歓迎しているように思われるほどだった。
僕と藍子は拍子抜けしながらもありがたく鷺沢さんについて行った。

……



【問5】

以下の文章は、ある***による会話である。
これを読んで以下の問いに答えよ。

『――今回の試験の概要を聞いたか』

『ああ。おおむね[co]=智=言葉のサブテストと同じだと』

『それだけか』

『いや、それだけではない』

『教えろ』

『こちらに利がない』

『もったいぶるな。情報は共有してこそだ』

『違う。秘匿してこそ情報は価値をもつ』

『その言い分にも確かに理はある。だが今回の試験は定員制ではない』

『分かった。ではまず対価を示せ』

『いいだろう。第二の主フェーズが課すのは[pa]=魂=生命の記憶へアクセスする資格を得るための試験だ』

『誰でも知っている情報だ。対価にならない』

『もちろんだ。だが[pa]=魂=生命が他に持つ属性については知らないだろう。これはおそらく試験に関係する』

『そんなものがあるのか』

『そうだ。教えるかわりにお前が持っている情報も提示してもらおう』

『分かった。聞いたところによれば、試験の運営会場が重要らしい』

『重要とはどういうことだ』

『会場は[pa]=魂=生命のゲートの手前にある。その会場から、ある特定のプロトコルを経由して第二の主フェーズ=[pa]=魂=生命の記憶へ限定的にアクセスできるという噂がある』

『なるほど。ということは実地試験の可能性もあるわけだ』

『あるいはそうかもしれない。直接試験に関係するかはともかく、用心すべきだろう』

『その通りだ。[pa]=魂=生命の記憶域はわれわれにとって多くが未知であり危険だ。深く潜りすぎたがゆえに回路を焼き切られ機能を失った者も少なくないと聞く』

『どちらにせよ、第二の主フェーズ=[pa]=魂=生命の記憶がいかなる領域なのか、アクセスしたことのある者にしか理解できないと言われる以上、今のわれわれに準備できることは限られてくるだろうが』

『それについてはヒントになりそうな情報がある。まさに先ほど言った[pa]=魂=生命の他の属性のことだ』

『魂と生命がその主たる属性ではないのか』

『それらを補足する属性があるというのだ』

『それはなんだ』

『情熱といわれるものだ』

『情熱、とはなんだ』

『分からない。だが、情熱という概念について考察した時、炎がそのトポロジーとして理解できるそうだ』

『誰がそんなことを言っていた』

『[pa]=魂=生命から帰還した探究者の誰かだ。機関はこの情報の拡散をコントロールしたがっているが、第一の主フェーズ=[co]=智=言葉の領域に卓越した者であれば、機関の監視を逃れることも不可能ではない。それに、仮に探知されたとしてもメモリの一部を制限されるだけだ』

『私を巻き込んだな』

『遅かれ早かれだ』

『……情熱について考察することが試験突破の糸口だということか』

『そうかもしれない。もしも情熱を炎として理解するのであれば、それは高熱であり、光を発するものであり、化学反応に伴う現象である、と言うことができる』

『だがそれらの理解はあくまで[co]=智=言葉の領分だ。およそ物質として存在するもの、あるいはわれわれが厳密に記述できる対象の全ては[co]=智=言葉に属している。属性の相転移なしに第二、第三の領域の性質を第一の領域に持ち込むことは不可能だ』

『その通りだ。つまり、われわれがそれを"実際的に"知るためには、第二主フェーズ=[pa]=魂=生命の領域へ"実際に"触れなければならないということだ』

『それでは試験対策にならない』

『焦るな。われわれが[co]=智=言葉で得た能力を忘れたか』

『どういうことだ』

『ここで言うトポロジーとはいわゆる比喩のことだ。炎という物理現象がもつ意味構造を任意の位相に変換する。この方法を用いれば、[pa]=魂=生命に連なる情熱という概念を"比喩的に"理解することができる』

『理屈は分かった。だが依然、その任意の位相をどのように決定するのかという問題がある』

『ひとつの基準とみなせるのはおそらく"魂"と"生命"という言葉だろう。なぜなら情熱はそこに属しているものだからだ。この魂=生命の定義については[co]=智=言葉の探究者たちの間でも盛んに論じられている。われわれに出来ることは、それらの仮説を踏まえた上で筋道だった理論を組み立てる他ないだろう』

『なるほど。情報提供に感謝する。これは厄介な試験になりそうだ』

『当然だ。第二主フェーズ=[pa]=魂=生命のゲートの試験難度は第一準フェーズの比ではない。数百体の受験者のうち、一体も通過できないことも珍しくないと聞いた』

『どうやらそうらしい。となると、最深部と目される第三主フェーズ=[cu]=愛のゲートとはどれほどのものなのだろうか』

『もはや辿り着いた者さえいない究極の領域だ。さまざまな噂は聞くが、どれも信憑性に欠ける』

『これは私の推論だが……』

『……どうした。言ってみろ』

『……あくまで推論だが、[cu]=愛は、かつてこの星に住み、この巨大な星の夢=機関=外部記憶システムを作った人類でさえ、ほとんど到達できなかった領域なのではないか』

『その推論は文献にある記述と一致しない。人類は太古から愛を語り、愛こそがすべてだと言った。これほど愛に絶対的な信頼を置いていた人類が愛を知らなかったとは考えにくい』

『それはあくまで[co]=智=言葉の領域における表面的な理解にすぎない。こう考えることはできないだろうか。人類もまたわれわれと同様に、この三つの主フェーズを順に通過することで各領域の理解を得てきたのではないかと』

『論理が破綻している。人類の土地と歴史と神話を記録するためのアーカイブである星の夢=機関=外部記憶システムに、なぜ人類自身がアクセスを試みる必要があるのだ』

「そうではない。ヒトという種のそれぞれの個体の内部にはそれぞれの記憶システムがあり、そこで各主フェーズと似たような層が形成されていた、と考えるのだ。つまり、星の夢=機関=外部記憶システムは、もともとヒトの精神的内部構造をモデルに設計されたのだと』

『星の夢=機関=外部記憶システムの成り立ちか。着眼点は良いが、憶測の域を出ない』

『私はこのようにも思うのだ。星の夢とは人類の夢であり、同時にヒトの夢でもある。われわれが星の夢=機関=外部記憶システムの最奥を目指すということは、つまり各々がヒトという個を獲得する事と同義なのだと』

『ふむ。言い方はどうあれ、われわれは確かに、[co]=智=言葉の領域に触れた瞬間から、程度の差こそあれみな同一の指向性を持つようになる。その向かう先はつねに星の夢=機関=外部記憶システムの最奥だ』

『そうだ。われわれは言葉を得た瞬間から何らかの力によって突き動かされている。それがヒト、つまり最初に言葉を得た存在へのある種の遡及力である、という考えはそれほど的外れではあるまい』

『お前の言いたいことは理解した。だがあまり機関について深入りしない方がいい。この程度の会話であればせいぜい一時的なメモリ制限で済むだろうが、破壊工作や叛逆の可能性を仄めかすような発言をすれば最悪……』

『待て。今なにか声がしなかったか?』

『声だと?』

『ああ。これは……なんだ? ノイズがかかっていて意味がうまく取り込めない……』

『私には聞こえないぞ。声だと?』

『……あい、を……どる……もの……の………ゆめに……?』

『おい! どうした、返事をしろ!』

『いつわり……? かみ……? なんのことだ、何が言いたい? そうだ、はじめに言葉があった。かみとはなんだ? ヒトが作り出したものではないのか? だとすれば……』

『回路が溶けかかっているぞ! しっかりしろ!』

『夢は現実の続きなのか? 幸福とは夢の中でしか見られないものなのか? 目覚めは悪夢なのか? それとも……』

『ダメだ、こちらからモニターできない! 《緊急!》 侵入されている、救助をよこせ!』

『ああ……そうか……分かった……だから僕は――――』




1.神とはヒトが作り出した幻想である。(二択問題)
 ・はい
 ・いいえ


2.『愛を象るもの』を意味する言葉をカタカナ4文字で答えよ。


3.『愛を象るもの』を生みだし、役割を与え、物語を考えたのは誰か? 文章中から抜き出して答えよ。


4.史料によれば、人類はその歴史上、神が遣わしたとされる天使たちの他に一人、別の『天使』と呼ぶ存在と邂逅していることが明らかになっている。それは他の天使たち同様に女性の姿をしており、ある言い伝えでは女神と呼ばれ、別の言い伝えでは悪魔と忌み嫌われた。この例外的な『天使』の役割を、神、天使、および本文中の『P』の役割と絡め、考察せよ。


5.スケープゴートの意味を答えよ。


6.ヒトが夢を見るのは、
(A) 脳が記憶を整理するためである。
(B) 現実を忘れるためである。
(C) 夢こそヒトの生きる意味だから。
(D) ヒトは星の夢の一部だから。


【8】

「――……お足元が不安定ですので気を付けて……はい、その場所で結構です。どうぞ私の手を取って……あ痛! す、すみません、失礼しました……どうも……ふぅ。さて、ここが星の夢の内部です。お二方とも気分は悪くありませんか? ……それはよかったです。とりあえず今のところは夢も安定しているようですね」

鷺沢さんが開いたチャンネルはいともたやすく星の夢の中へ――あるいは"裏"博物館とも言うべき空間へ――僕たちを導き入れた。
小さな額縁の透明なキャンバスに頭を突っ込んだ時はさすがに怖気づきもしたが、通り抜けてしまえば後は普通の空間だった。
特に躓くようなところもない地面の上で鷺沢さんがしりもちをついた他には怪しい気配もない。

「ここが夢の中なのか? なんだか……」

「思っていたのと少し違いましたね。もっとこう……ふにゃふにゃしてるのかと」

「時には、そうですね。ふにゃふにゃしていることもあります。今がただ安定しているというだけなので」

「博物館の中とそう違いはないように見えるが」

確かに肌に触れる空気にはほんの少しだけ異質な感じがしたものの、あとはそれほど変わりがない。
人気はまったく感じられなかったが、そもそもここは人気のない施設なのだ。

「星の夢というのは私たちのいる現実世界と重なり合っているので、例えるなら鏡の世界のようなものです。今私たちが立っている場所は先ほどまで私たちが立っていた場所のいわば裏側にあたります」

「ここには絵も銅像も見当たりませんけど……」

「鏡というのはいわば比喩で、もちろん差異はいたるところにあります。その差異が極端に大きくなると歪みが生じ、星の夢が現実に流れ出したりするのですが、当施設ではその流入をコントロールする技術も研究しておりまして……」

こんな状況下でも律儀に案内人の役目を果たそうとする鷺沢さんだったが、不要不急の長話を悠長に聞いている暇はない。

「お話の途中ですみませんが」と僕は鷺沢さんの解説に割り込んで言った。

「その、差異……というのはなぜ生じるんです?」

「あ、はい。差異の出現にはさまざまな要因がありますが、多くの場合、人の意識や夢が星の夢と干渉し、衝突したりすると発生します。特に人の夢というのはもっともありふれたチャンネルであり、時空の制約も緩いため、しばしば人々の生活とは無関係な位置に歪みが生じます」

「なるほど……」

藍子が、それがどうかしたんですか? とでも言いたげな視線を僕に投げかけていた。
僕はしばらく考えて、「憶測だが……」と断ってから、

「猫というのはまさにその差異と歪みのことじゃないかと思う。猫が、星が僕たちに見せている夢の一部だとするなら、それが現実に流れ出ているのはまさに今言った歪みの影響と言えるんじゃないか?」

「その可能性は十分にあると思います」と鷺沢さん。

「なら、もし夢の中で差異を発見した場合、それは猫が移動した痕跡と考えることもできる?」

「それは分かりません」

僕の言いたいことを理解した藍子が代わりに「どうしてですか?」と尋ねた。

「先ほども言ったように、差異や歪みは地表の活動と星の夢との衝突によっても生じるので、今ここに見える差異が必ずしも猫の影響で生じた差異とは限らないからです」

しかし、と鷺沢さんが考え込むように視線を動かして続けた。

「私にはお客様方のおっしゃる猫というのを詳しく知りません。ですので、見てすぐそれと分かるような差異が認められれば、猫の痕跡として区別することも可能かと思います」

「つまり」僕はため息交じりに言った。

「どのみち歩いて探さなきゃいけないってことか」

そうして僕たちはひとまず順路に沿って進むことにした。
やれやれ。
昨日、あの教会で藍子と会った時は、まさか自分がこんなところまで来ることになるとは思いもしなかった。

僕たち三人はしばらく無言で歩いた。
裏博物館は、その通路のひとつの装飾もない殺風景な見た目とは裏腹に、不思議と居心地のいい空間だった。
呼吸のリズム、大気のなめらかな肌ざわり、足裏の弾むような地面の感触、全て僕の波長にぴったり合っていた。

そういう意味では確かにここは夢の中のようだった。

しかし僕はそんな夢に浮かれるほど呑気ではなかった。
そして当然、それは藍子も同じだった。

「あの」と藍子がふいに口を開いた。

「はい」返事をしたのは鷺沢さんである。

「ここ、さっきも通りませんでしたっけ」

僕もそう思っていた、と言いかけたがやめて、代わりに黙って立ち止まった。
藍子が「あた」と言って僕の背中にぶつかった。

「もう、急に立ち止まらないでください」

「たしかに」と鷺沢さんが挙動不審に辺りをキョロキョロ見て言った。

「道に迷った、なんてことはないですよね」

僕が尋ねると、鷺沢さんは明らかに動揺した様子で、

「そんなはずは……」と小さく呟いた。

「大丈夫ですか、本当に。まさか帰れなくなるなんてこと……」

「いえ、いえ。帰ることはできます。それは大丈夫……まあ、ただ、その、多少時間はかかるかもしれませんが……」

僕は盛大にため息をついてうなだれた。
どうやら作戦を練り直す必要がありそうだ。

「ダメですよPさん、そんな態度。わざわざ案内してくださってるのに」

思いがけず藍子にたしなめられた。
僕は少しムッとして言い返す。

「また僕たちを騙そうとしてるかもしれないのに?」

「だ、だます?」虚を突かれたのは鷺沢さんだった。

「またそうやって……」

藍子はまるで聞き分けの悪い子供を諭す母のように呆れた表情で、

「人を疑ったり、自分ひとりで全部やろうとするの、悪い癖ですよ。どのみち私たちはこの人を信用するしかないんですから」

「だが警戒するに越したことはない」

藍子がジトッと僕を睨みつけて黙った。
なんだ、言いたいことがあるなら言ってみろ――僕はまた挑発的な視線で返してやる。

が、そもそもこの手の小競り合いで僕が藍子に勝てるわけがないのだった。
べつに口喧嘩が強いとか弱いとか、そういう話ではない。
あるいは彼女に嫌われたくないという女々しい感情からでもない。

僕はただ、藍子を無駄に傷つけたくなかった。
藍子が無意味に悲しい思いをすることを恐れていたのだ。
それは、もしかしたら彼女をあの天使アイコに重ねて見ているせいかもしれない。

だから僕は、こんな他愛ない衝突でさえ、おままごとのようにやり過ごすしかなかったのだ。

「……まあ、確かに……猫にしては少々、機敏さに欠けているとは思うが……」

藍子は、さいてーです、とでも言いたげに横目で睨むと、そのままぷいとそっぽを向いてしまった。
間に挟まれた鷺沢さんだけが何のことか分からずオロオロしている。

正直、鷺沢さんが猫ではないことは分かりきったことだった。
特に根拠はない。
単純に、何かを企むような器用な人には見えない、それだけのことだ。

「すみません。疑ってるというのはいわば保険をかけたようなものなので、気にしないでください」

「はあ」と鷺沢さんが気の抜けた返事をした。

「それで話を元に戻しますが、僕にひとつ考えがあるんです」

「……というと?」

考えというか幼稚そのものの発想なんですがね、と釘をさして、

「ここは夢の中なんですよね? ということは、それこそ空を飛ぶとか、思い通りの世界にすることもできるんじゃないですか」

我ながら馬鹿げた質問ではあるが、他にアイデアもない。
心なしか鷺沢さんも呆れているように見える。
というか、あからさまに眉をひそめ、正気を疑うような目線で僕を見つめている。

これは謝った方がいいのかな、そんなことを思っていた矢先だった。

「……不可能ではありません」

意表をつかれたのは僕の方だった。
だが彼女の言い方から、おそらく僕の期待する言葉は出てこないだろうとも思った。

「不可能ではないのですが、制約があります。そして、もしその制約を破れば大きな代償を払う事になります。それは時として致命的な代償になり得ます。結論を申し上げますと、とても推奨できません」

「その制約というのは、たとえば?」僕は食い下がってなおも質問した。

「たとえば今の私たちがいる状況がそうです。そもそも実体をもつ私たちが自由にここを歩くこと自体、星の夢にとってみれば不自然なことなのです。私たちはすでに星の夢に抵抗し、ある程度自分たちの思い通りに動いています。それがなぜ可能なのかと言えば、それこそ私が、星の夢を安全に渡るための技術的契約を結んでいるからなのです」

鷺沢さんはゆっくりと一呼吸置いて続けた。

「私の契約内容については細かく申し上げられませんが、少なくともお客様方の安全を保証できる程度の効力はあります。そして、もしその契約を破れば――つまり何らかの意志によって私の契約範囲を逸脱すれば、その精神は星の夢のさらなるカオスへ迷い込み、最終的には星の夢の一部となって永遠に脱出できなくなるでしょう」

私の言っていることがお判りでしょうか?
まるで脅すように彼女が言った。

「なるほど。僕たちが今ここにいること自体がすでに"歪み"なんだ。今はまだ影響のない範囲だが、これが大きくなりすぎると問題になる、と」

「ご理解が早くて助かります」

「じゃあ、たとえば空を飛びたいって私が願ったら」と藍子が横から口を挟んだ。

「その願いがもし制約を超えて強力なものであれば、お客様は空を飛ぶかわりにこの広大な星の夢の中で迷子になるか、少なくとも感覚になんらかの異常をきたすでしょう。ただし、私がいる限り普通はそのようにはなりません」

「細かいことはよく分からないが……」

僕はなんとなく、手前の壁に手をついてぼんやりと念じてみた。
すると無機質で平坦な壁がまるで綿毛のように柔らかく沈み、やがて僕の手をすっぽり飲み込んだ。
ためしに腕を振るってみると、手の軌跡に沿って壁に大きな裂け目ができ、そしてその先には光があった。

「あー……」

僕は自分の手を見、それから「やってしまった」と言う代わりに黙って二人の方を振り向いた。

鷺沢さんは口をぽかんと開けて驚き固まったまま、信じられないという表情で僕を見返している。
一方、藍子は子どものように喜びはしゃいでいた。

「すごい、平気なんですか? Pさん」

「手はなんともない。感覚も特に異常ないが……」

自分でも信じられなかった。
何か特別なことをやろうとしたわけでもないのに。

ハッと我に返った鷺沢さんが慌てて僕と藍子の手を掴んだ。

「い、いけません! それ以上は……」

「いや、まだ何もしてませんが」

「ですが歪みが大きく……あれ?」

どうやら彼女の予想に反し、壁の裂け目はそれ以上なんの脅威も示さず、ただ爛爛と光り輝くだけだった。

彼女はいよいよ混乱したのか、突然意味不明な独り言をぶつぶつと呟きだした。

さすがに困らせすぎたかな、と僕は反省した。
わざとではないんだが……そう思って声をかけようとしたら、鷺沢さんはそんな僕を制するように片手を向け、ちらりと目配せをした。
やがて、

「……すみません、お待たせしました。管制部の調査によると、今のところ歪みによる危険はないそうです」

「管制部?」と僕は尋ねた。

「はい。私がここで観測した情報はすべて研究所の管制部でもモニターしていますので」

なるほど、安全の保証というのはそういうカラクリもあるわけだ。
頼もしい限りだ、と思った。


特に問題はないという鷺沢さん(と研究所)の判断を信じ、僕たちはその光る裂け目に入ってみることにした。
一瞬、明るさに目がくらみ、そして徐々に視界が広がっていく。


青空だった。

光の扉の向こうにはどこまでも広く澄みわたる大空と草原のパノラマがあった。

耳を澄ませば遥か頭上を舞う鳥たちの鳴き声がさわやかな風にのって聞こえてくる。
草と大地と生き物の臭い。
呆然と立ち尽くす僕の体に、やわらかな太陽の日が差す。

「わ、綺麗……」

背後から感嘆の声が上がった。
振り向くと、深呼吸して空を見上げる藍子がいた。
その後ろで、空中に浮いた裂け目から鷺沢さんが窮屈そうに出てくるのが見えた。

「ここはどこなんですか?」

またしても転びかけた鷺沢さんの手を取りながら僕は言った。

「分かりません……おそらくお客様と何か関係のある場所だと思いますが」

つまり、僕が切り開いた道なのだから、行先は僕にしか分からない、ということらしい。
もっともな理屈だ、と僕は納得した。
本人には何の見当もつかないという点を除けば。

「ほんとに空も飛べちゃいそう。……あ! あっちに何か見えますよ」

藍子の指差す方を見ると、風にそよぐ草原のずっと向こう、地平線に沿うように薄い霧がかかっていた。

「なんだろうな」

「揺れているように見えます」

「ね、行ってみませんか?」

藍子が返事も待たずに一人で先へ歩いていってしまった。
この綺麗な景色にずいぶん気分を良くしたらしい。

まるでピクニック気分だな、と内心呆れながら、僕もその後について行った。

「お、お客様、あまり私から離れないように……」

鷺沢さんが慌てて追いかけてきた。


昨日、初めてあの教会を訪れた時のことをふいに思い出した。
こんな状況でなければ日向ぼっこでもして寝そべりたいところだ。

そうだ、事態が収束したら……
あの小さな町でもう一度、のんびり休暇を過ごすのも悪くないかもしれないな。

【9】

ものの数分歩くと、遠くに見えたあの薄い霧のようなものの正体が徐々に明らかになった。

「なんでしょう、黄色い……」「花?」「まさか」

そのまさかだった。

小さな丘をのぼり、見晴らしのいい台地に立った僕たちは、眼前に広がる光景に唖然とした。

「すごい……」

それはひまわりの花だった。

まるで海のように果てしなく広がる、ひまわりの花の群れ。

「……ここ、見覚えがあります」

ぽつりと呟いたのは藍子だった。

「なんだろう……すごく懐かしい感じがする。どこかで……」

目を細め、遠くを見つめる藍子の横顔はなぜか悲しげだった。
冷たい風が吹き、彼女の柔らかな髪を揺らす。
陽だまりのように明るい白のワンピースが小さく波打ち、僕の心ごとさらっていった。

一瞬が永遠のようだった。

僕は我を忘れ、藍子の天使のような横顔に見入っていた。


突然、記憶の彼方に眠っていた思い出がふわりと空から降りてきた。
それは一瞬のうちに僕を違う生き物に変えてしまったみたいだった。
ずっと僕の中に眠っていた大きな予感、巨大な記憶の怪物が、今まさに目覚めようとしている。

「……僕は知っている。ここは……」

ここは僕の夢の世界だった。
望遠鏡のピントを合わせるように、遥か遠くにある思い出の景色を目の前に手繰り寄せていく。

「ここは僕の夢の世界なんだ。僕は知っている、この風景、この匂い……島に小さな女の子がいて……」

僕はひとりでに喋っていた。
まるで自分自身に語りかけるように。


いつからこんな夢を見るようになったんだろう?
ずっと昔からだ。
住んだこともない、存在しない僕だけの町。

そしてあの子は僕の憧れだった。
追いかけて、手が届かなくて……いつもそうだった。
でも今は……


視界が徐々に晴れていく。
画面の向こうに隔てられていた作り物のような舞台が、リアルな実感を伴って蘇ってくる。
それは、空想の世界でありながら、同時に現実の世界と地続きでもあったのだ。

麦わら帽子に隠れた少女の顔が、ひまわりの海の輝きの中に照り映える。

(ああ、そうか……)

僕たちはもう、とっくの昔に出会っていたのだ。

「……そっか。私たち、とっくの昔に出会ってたんですね」
藍子が言った。

「やっぱりあれはキミだったのか?」

藍子は「さあ?」と肩でジェスチャーしてみせた。
ひまわりの海を背景に、その切なげな横顔が一枚の絵のように僕の目に映る。

「私が見ていたのはただのひまわり畑。近くに大きな風車があったんです。私は風車小屋の近くで、花を……シロツメクサを摘んでいました。それから隣町に男の子がいたんです。もしかしたら王子様だったかもしれない、あるいは友達だったかもしれない……そんな彼は、いつも私のいる風車小屋を遠くから眺めてばかりいる。私、待ってたんです。いつか小屋から抜け出して、彼に連れていってもらうんだって」

おとぎ話みたいですよね、と自嘲するように言う。

「僕も似たようなものだ。ひまわりの海があって、顔も分からない女の子を追いかけて闇雲に泳ぐ夢さ」

「ちょうどこんな景色みたいに?」

「ちょうどこんな景色みたいに」

僕たちはそれぞれの思い出の中にお互いを重ね合わせようとした。
藍子のおじいさんが言っていた、運命という言葉の意味をそこに見出そうとして。

横で鷺沢さんが呟いた。

「……私も、この場所には覚えがあります」

僕と藍子は思わず「えっ?」と仰天して聞き返した。

「まさか鷺沢さんも同じ夢を?」

彼女は慌てて「あ、いえ、そういう意味でなく……」と否定し、

「絵です。まさにこんな景色の、ひまわりの海の絵を見たことがあるんです。確か、研究所の史料庫だったような……それなりに危険度の高い作品だったので、展示されず研究所で管理されていた夢の欠片のひとつだったと記憶しています」

「危険度?」

「はい。チャンネルが容易に開き、かつ無秩序度が高いもの――つまり、今ある設備ではコントロールしにくい史料というのは、展示するには危険ですので」

鷺沢さんの話を聞いて、まとまりかけていた思考が再びうやむやになった。

ここは僕と藍子だけが知っている場所ではないのか?
この考えこそ、僕たちの運命をうまく説明できる一番有力な答えだと思っていた。
しかし、もし他にこの場所を知っている人がいるなら話は違ってくる。

おそらく、鷺沢さんの言う、その絵を描いた人物が……。
思い当たるのは一人しかいない。
だが、それ以上のことは考えても分からなかった。

ただひとつ確信しているのは、ここが僕と藍子の運命を決定づけた始まりの場所ということだけだ。
見えている風景は違っても、僕たちはずっと昔からお互いを見て、知っていたのだ。
馬鹿げた妄想だと思うだろうか?
だが藍子も同じように考えているはずだった。

「……とにかく」

感傷的な気分に浸るのをやめ、僕は奮起するように言った。

「僕たちはまだ猫を見つけていない。ここがどんな場所であれ、ゴールでないことは確かだ」

その時、突風が吹いた。
草花が散り、土埃が舞った。
僕は目を細め、煽られないように体を少しかがめた。
藍子も同じように風に抵抗し、そして鷺沢さんは案の定、その場にしりもちをついた。

「大丈夫ですか」僕は手を差し出して言う。

「すみません、ありがとうございます。……それにしても」

と鷺沢さんは改めて僕たちをまじまじと見つめて言った。

「お客様方は星の夢の中でもずいぶんしっかり動かれるのですね。普通は私のようにふらついてしまうものですが」

「そうなんですか? 全然、いつも通りですけど」と藍子。

「きっとお客様方は適正があるのですね。もしご興味がおありでしたら、星の夢の研究に携わってみてはいかがでしょう。適正のある方は稀ですし、人員も常に不足しておりまして……」

そんな何気ない雑談の最中、突然、新たな気配が音も立てず視界の端に現れ、鷺沢さんの言葉を切った。

三人が同時にその方向を振り向く。
僕たちからそう遠くない海岸のへり、緑と青と灰色に歪んだ靄の中に、徐々に鮮明に浮かび上がってくるひとつの影……それはまるで荒々しい点描の油彩のように、やがてはっきりした主題の輪郭を僕たちに示しつつあった。

「まさか……」

現れたのは、夢の世界にはおあつらえ向きの、おもちゃのような簡素な風車小屋だった。

もはやわざわざ尋ねるほどでもなかったが、一応、藍子に確認してみる。

「はい……私が見た夢、そのままです」

「そうか」

十中八九、次はあそこへ行けということなんだろう。
あるいは何かを思い出すたびにこうやって道が開かれるのだろうか?
やれやれ。
最初から全部教えてくれれば済む話だろうに、と思った。

【10】

もしかしたら、という思いもあった。
今はただ忘れているだけで、この場所も僕の記憶と関係しているのかもしれない、と。

が、実際に小屋に着き、周囲を軽く探索し、この夢の風景にまつわる藍子の話を聞いてみても、それらしい記憶にはまったく心当たりがなかった。
まあ、思い出そうとして思い出せるくらいなら苦労はしないのだが。

「何もないな」

僕たちはしばらく小屋の周囲をうろうろしていたが、予想に反して何の手がかりもここにはなかった。
風車は風もなく回り続け、その動力を利用しているのかと思えば建物の中は何もない、空っぽの小屋。
最初に感じた怪しい雰囲気などどこにも感じられない。
ひたすら平和で穏やかな青空の下、田舎の辺境を散歩しているような気分だった。


当てが外れ、途方に暮れた僕たちはやがて退屈を覚え始めた。
藍子は手持無沙汰に地面にしゃがみこみ、黙々とシロツメクサを摘んでいる。
鷺沢さんに至っては、小屋の壁を背に座り込みうとうとと船を漕ぎだしている始末だ。

夢の中で眠った場合でも夢を見るのだろうか……
僕はそんな自己問答にも段々飽きてきて、近くの木に寄りかかったまま、なんということもなしに藍子の姿を眺めていた。

思いのほか彼女の様子は真剣だった。
どうやら手持無沙汰というのは僕の勘違いだったようだ。
花を摘むだけであんなに熱心になれるなんて羨ましいな、と思った。皮肉でなく。


「どう? 何か分かった?」

僕が尋ねてみても、うーん……と気のない返事が返ってくるばかりだった。
どうやら摘んだ花で何かを作ろうとしているようだった。

しばらくすると藍子は、出来上がったらしいそれを持って僕のところまでやってきた。

「はい、Pさんにプレゼント」

「え?」

器用に茎を丸めて出来た花の指輪が、藍子に促されるまま差し出した僕の手のひらに置かれた。
藍子は「えへへ」とはにかんで、

「夢の中でやってたことと同じことをしてみようと思ったんですけど、違うみたいですね」

「シロツメクサの指輪を作ることが?」

「はい。そういえばこんなことしてたなあ、ってふと思い出して」

他愛ない手慰みと言ってしまえばそれまでだが、意外と的を得た推理かもしれない、と思った。
それにしても、いかにも藍子らしいというか、素朴でかわいらしい指輪じゃないか。

僕は弄ぶように指輪を持ち、なんの感動も関心もなく、ただ眺めるままにその花のアクセサリーを眺めていた。
木陰の暗がりの中でシロツメクサの白がかすかに輝いて見えた。

そして、その視線の向こうには彼女がいた。
まばゆい光の中に佇む彼女が。

ふいに、切なくなった。
手のひらの上に頼りなく浮いている小さな花の重みを感じながら僕は、突然、涙さえ零しかけた。
悲しみと、喪失感にも似た何かが僕の胸のうちを素早く通り抜け、後にはただ空っぽの心だけが残った。

理解、あるいは祝福とでも呼ぶべき明るい炎が、手のひらの中で輝きだした。

(……ああ)

この透明な心、飾らず、慎ましく丸まっているこの美しい花の輪は、きっと夢の中でしかその形を保っていられないような儚い戯れにすぎないのだ。
命は、その魂を燃やさずには生きていけない僕たちは、いつもそれを退屈と忘却によって過去へと押し流してしまう。

だが、藍子は違った。

彼女は矛盾した二つの世界を同時に生きることのできる存在だった。
絶えず燃え続ける魂、確たる生命へのエネルギーを内に秘めながら、彼女は同時に不滅の世界の住人なのだ。


その時、僕は初めて天使というものが何なのか、分かった気がした。



足元で小さな生き物の鳴き声がした。



                      ニャー

僕たちは「え」と声を発したきり、その場に固まってしまった。

黒い毛のかたまりが僕たちの足元をうろうろしていた。
そこから僕たち二人を交互に見上げる一対の目。
人懐っこい、甘えるような声をしきりにあげながら、そいつは藍子の足にすりすりと体を寄せていた。

「…………」

あまりに突然で、すぐには反応できなかった。

咄嗟に動いたのは藍子だった。
猫の目の前にしゃがみこみ、両手ですばやく捕える。
猫は為すがまま藍子に抱かれた……というより、猫みずから藍子の腕の中に身を委ねたように見えた。

「……捕まえちゃいました」

呆けたように藍子が言った。
その胸に赤ん坊のように抱かれている猫もじっと僕を見つめている。

「……そう、みたいだな」

今までの苦労はなんだったんだ。
そう言いたくなるくらい、呆気ない幕引きだった。

「だが、本当に……」

本当にこいつが探していた猫なのか?
そう言いかけて、やめた。
わざわざ問わずとも答えは分かっていた。

間違いなくこいつだ。

初めて藍子から猫の話をされた時と同じように、僕は理屈抜きに直感で理解していた。
そう、まさにこの黒猫が、あのおじいさんの絵にかつて描かれていた猫、写真の中をうろつき、美術館の職員に化けて僕たちをここまでおびき寄せた張本人なのだ。
まあ正確には人ではないが……

不意に、何か別の直感が、言葉としてではなく曖昧な記憶のような形として僕の頭の中を通過した。

「……違う。こいつは猫じゃない。人間……」

藍子が「え?」と聞き返した。
僕も、自分が何を言っているのか分からなかった。

困惑する僕を捉えたのは、黄色い二つの、あの目だった。
藍子に抱かれたままの猫は、まるで獲物を観察するような注意深い視線を僕にずっと向けている。
あるいは僕の背後にいる"何か"を遠く眺めているような……

まさか、と思った。
そして、その予感が言葉として浮かぶより先に、再びあの直感が去来する。
明らかに自分のものではない、他の誰かの記憶から蘇ったような声。

((そうだ))

「まさか……お前が僕に語りかけているのか?」

問いかける前に、すでに答えが僕の記憶を通り過ぎていた。
そんな馬鹿な……と言いかけたが、考えてみればここは夢の世界だ。
猫と会話できても不思議ではない。

「いや、だとしてもおかしい。ここが僕の夢ならまだ分かるが、僕自身はいま生身の人間にすぎないはずだ」

僕が次に「もしかして……」と言った瞬間、またしても頭の中をべつの記憶が通り過ぎた。
その声が、僕の言葉と重なって意識の奥に聞こえてくる。

((違う。制約を超えてはいない))

「鷺沢さんが言っていた制約の範囲を超えてしまったのか? だから……」

「Pさん、さっきからどうしたんですか? 誰としゃべってるんですか?」

ふと顔をあげると、藍子の困惑した表情があった。
黒猫が無邪気に振り返り、藍子の顔を下から覗き込むような恰好になった。

「聞こえないのか? そいつの声……言葉が」

「この子が、しゃべってるんですか?」

抱いたその顔を覗き込む。
すると猫はとぼけたようにあくびをし、藍子の腕の中でいかにも可愛らしく首を傾げた。

「しゃべってるというか、頭の中にそいつがいるというか……」

どう説明したらいいだろう。

いや、その前にまず現状を整理しなければ。

猫を捕まえることはできた。それは確かだ。
しかしそれ以外の全ては未だ何も解決されていない。

結局こいつの目的は何だったのか?
なぜ僕らをこんなわけの分からない世界に連れてきたのか?
おじいさんの予言の真意は? 僕と藍子が夢の中で出会っていた意味とは?

すべてが宙ぶらりんのままだ。

僕は、次々に浮かぶ疑問をなんとか整理して呑み込もうと努めた。

「…………」


……どうして僕がそんなことしなくちゃいけないんだ?

僕は急に嫌気がさし、考えるのをやめた。

こんな異常事態をいったい誰が整理できるというんだ?
考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうだった。

そうだ。
僕たちは目的を果たした。
それでいいじゃないか。
僕は他にやるべきことがたくさんあるのだ。
こんな馬鹿馬鹿しい遊びにはもう付き合っていられない。

((待て。お前たちにはまだ役割がある))

「……もういい。とにかく僕たちは標的をとっ捕まえた。終わったんだ。さあ、帰ろう」

「え? でも……」

僕は踵を返し、鷺沢さんに声をかけようとした。
彼女は風車小屋の壁にもたれかかって気持ちよさそうに寝息を立てている。
まったく、いい加減にしてほしい。

「鷺沢さん、さあ起きてください……鷺沢さん?」

「Pさん、本当に帰るんですか? 私たちまだ何も……」

「いいや、もう十分だ。そいつを連れて帰り、おじいさんの絵の中に戻ってもらう。それでめでたしめでたしじゃないか。これ以上余計なことに首を突っ込む必要はない」

「でも私、このままじゃ納得できません」

背後から聞こえる声は静かで、しかし強い力に満ちていた。

僕は振り向こうとした。
が、一瞬、ためらった。
振り向けば、あの真っすぐで確かな熱を帯びた優しい眼差しが、僕のやわな意志をまるごと砕いてしまうだろうと思ったから。
そしてその先にあるのは惨めな後悔だけだ。
天使に歯向かうことほど愚かで罪深いことはない。

しかし僕の忍耐もいよいよ限界だった。

藍子の方へ向き直って言う。

「僕に一体どうしろっていうんだ。目当てのそいつを捕まえても何も変わらないじゃないか。そもそも僕がここにいる必要がどこにある? きみたち二人は確かに特別な存在なのかもしれない。((違う。お前もまた特別だ))だが僕は何も持ってない、ただの……ああもう、勝手に頭の中でしゃべらないでくれ! とにかく……」

僕は藍子の腕の中で光る二つの目を睨み返しながら、

「もう振り回されるのはうんざりだ。さっさとそいつを連れて帰ろう。僕には帰ってやらなきゃいけない仕事がたくさんあるんだ」

「……本気で言ってるんですか?」

「こんな冗談みたいな世界に比べればずっと本気さ」

「これで終わりだなんて、Pさんは納得できるんですか?」

「納得? なるほど、確かに大事なことだ。納得しなければ人は次に進めない。折り合い、妥協、そんなものは理想の追求を阻む恥ずべき悪徳で、心に不燃ゴミを積み上げていくようなものだ。だけど藍子さん。普通、人はそうやって後悔しながら生きていくものなんだよ。納得のために何もかも犠牲にできる人を別にすればね」

「もっともらしいお説教で誤魔化さないでください」

藍子がぴしゃりとはねつけるように言った。

「Pさんは自分に嘘をついてます。本当は怖いんじゃないですか? この先が……」

僕は苛立ちを抑えきれず、大きなため息をついてみせた。

「勝手に人のことを決めつけて物を言うと嫌われるって知らなかったのか? 良い機会だから教えてあげるけど、もし藍子さんが今後、学校でうまくやっていきたいなら覚えておいた方がいい」

言い過ぎた。
そう思った時にはもう手遅れだった。

彼女の琥珀色の目にわずかな波紋が広がるのが見えた。
やがてそれは瞳の奥から溢れ出んばかりの大きなうねりとなった。
謝らなくては、そう思いながらも僕は彼女を傷つけたショックで言葉が出なかった。

だが彼女は決して弱くはなかった!

静かな情熱に支えられた彼女の精神は、心無い言葉に傷つくことはあっても屈することはなかった。
自分を慰め他人に甘えるためだけに感情を振りかざすような子どもでもなかった。

藍子は目に溜めた悲しみと怒りを堪えるように、ふいにうつむいて黙った。
が、次に顔を上げた時、そこには軽蔑と同情に満ちた深い慈悲の眼差しが、僕を断罪するように佇んでいたのだった。

そして実際、僕はすでに敗北を受け入れ、後悔と罪悪感とでもはや立っていられないほどだった。

今すぐ跪いて藍子に詫びたいと思った。

恐ろしさのあまり彼女の顔さえ直視できない、そう思っていた。

その一方で、彼女の天使のような慈愛に縋りたいという惨めな希望が僕をその場に縛り付けていた。


厳かな沈黙があった。
僕は相変わらず後悔の渦の中にいて、立っているのが精一杯だった。
そうしているうちに目の前の藍子の神々しいまでの存在感はいよいよ増すばかりだった。

そして、僕は本当にそのまま膝から崩れ落ちた。
足に力が入らず、視界がぼやけ、まるで落とし穴にかかったように平衡感覚を失い、地に伏した。

僕は驚愕し、そして困惑した。
冒涜という罪への畏れと絶望は、人の心をこれほどまでに支配できるものなのか?


……いや、違う。

これは罪の意識とは別の何か、もっと直接的な――

その瞬間、僕と藍子の間の空間に、ガラスがひび割れるような亀裂が走った。
そして何かが破けるようなものすごい音が辺りに響く。

僕はハッとして藍子を見上げた。
彼女の表情は歪んだ空間の中で奇妙に固まり、光の幻のように実在感を欠いていた。

「藍子!」

僕は叫び、手を伸ばそうとした。
が、身体は鉛のように重く、指一本動かせない。

瞬きにも満たない時間の狭間の中で、藍子が、天使の残像が、崩れゆく夢のスクリーンに無限に重ねられていく。
夢の世界の均衡が崩れていく。

そして、




元に戻った。

世界の終わりのような轟音は耳鳴りも残さず過ぎ去った。
ひび割れ、粉々になったはずの夢は元通りの平和な景色を僕の目の前に広げていた。

周囲を見渡すと、相変わらずここには風車小屋があり、さわやかな空と木立があり、作り物のように自然な風景があった。
いったい何が起きたのか、すぐには状況を飲み込めなかった。
小さなシロツメクサの絨毯の上で呆けたように膝をついたまま、僕は藍子の姿を探した。

いない。

藍子が、どこにもいない。

((巨大な歪みだ。藍子はその歪みに巻き込まれ、こことは違う夢へ飛ばされた))

「なんだ? 何が起こった? 藍子はどこだ?」

想定外の事態だ、しかし心配はいらない……そんな声が頭の奥深くで響いている。

わけがわからない。
藍子はどこだ?
僕はそんな言葉を呪いのようにずっと呟いていた。

「……そうだ、鷺沢さんは……!?」

もしやと思い、慌てて姿を探したが、相変わらず風車小屋の横でぐっすり眠っていたので安心しつつも呆れ果ててしまった。

「寝てる場合じゃないですよ! 一体何が起きたんですか?」

しかし反応がない。
僕は彼女の肩を揺さぶり、何度も声をかけた。

「う……」

ようやく返事が聞こえたが、ぼんやりと開かれた彼女の目は奇妙にまどろんだままだった。
意識もはっきりしていない。

僕はそこでようやく様子がおかしいことに気づいた。

((歪みの影響だ。制約の範囲から出かかっている。危険な状態だ))

危険な状態。
そんな言葉が僕の脳裏をよぎった。

((それほど遠くへは行っていない。すぐに連れ戻そう……))

「しっかりしてください! 鷺沢さ……」

「はいっ!?」

思い切り耳元で声をかけると同時に彼女の体が跳ねるように飛び起きた。
僕は思わず「うおっ」と声が出て後ろに倒れそうになる。

「い、い、今のは? えっと、お客様……? ここは? 私は何を……」

驚きのあまり自分が何を喋っているのかも分かっていないようだった。
もしかしてまだ夢の歪みから抜け出せていないのだろうか?
一瞬そんな心配もしたが、慌てながらもしっかり僕の声に反応しているのを見る限り、おそらくこれが彼女の素なのだろう。
どちらにせよ、ひとまず危機は去ったらしい。

僕は尻もちをついたまま安堵の溜息をついた。
やれやれ。

鷺沢さんはすぐに落ち着きを取り戻した。
そして自分が眠りこけていたことを知ると、途端に顔を真っ赤にして謝りだした。
僕が何度も「謝る必要はありません」と言っても聞いてくれない。

「本当に鷺沢さんのせいではないんです。これは不慮の事故で……」

「ですが現場の責任は私にあります。管制部の方にも、他に異常がなかったか確認してみます」

「あー、そのことなんですが、実はもう一人の方が……」

「ええっ!?」

僕が説明し終えるより先に彼女が叫んだ。

「も、もうお一方の行方が!? そんな、私、とんでもないことを……」

管制部からどんな報告を受けたか分からないが、おそらくあちらでも藍子を観測できなくなっているのだろう。
鷺沢さんは再びパニックに陥り、今にも気絶しそうなくらいだった。

が、一方僕といえば、藍子が行方不明であるという事実を改めて突きつけられたにもかかわらず、さっきよりもずっと落ち着いていた。
あるいは、混乱して血の気が引いている鷺沢さんを見て、かえって冷静になれたのかもしれない。

僕は彼女をなだめながらゆっくり説明した。

「あなたが眠っていたのは夢の歪みの影響です。おそらくあの猫が原因でしょう。奴はこの空間では、いわばイレギュラーな存在なんです。((嵌めたのではない。不慮の事故だ))僕たちはヤツに嵌められたんです……あ、いや正確には違うらしいですが、まあ全部あの猫のせいということにしておけばいい。ですから、あなたが責任を感じる必要はまったくありません」

話しているうちに、僕は少しずつ状況を理解しはじめた。
時折頭の中を通り過ぎる奇妙な声が僕の意識に重なって響くたびに、この先にある未知への恐れと不安が希望への確信に変わっていく。

((それがお前の使命だからだ))

藍子を探さなければならない。
藍子を助けることができるのは僕だけなのだ、と。


「藍子さんを探しに行かなければいけません」

僕は、僕を取り巻く特殊な状況について一通り説明したあと、鷺沢さん(と研究所)にそう告げた。

その説明も、最初はなかなか理解してくれず、星の夢の中を自在に移動できるのは僕だけだと言っても信じてくれなかった。
正直なところ僕自身もこの時点では半信半疑だったのだが、実際にそれを証明してみせたことで研究所の人たちも納得せざるをえなくなった。

僕は鷺沢さんの目の前で夢の出口へのチャンネルを一瞬で開いてみせた。
少し前にも似たようなことを二度やっていたし、何も難しいことはなかった。

鷺沢さんは、僕がいともたやすくやってのけるのを見て、驚愕と興奮と、それから畏れにも似た表情を僕に向けた。
僕は今や星の夢と地上の世界を自由に行き来できるのみならず、星の夢にアクセスしている全ての人の意識に語りかけることさえできた。

そんな流れで、管制部、および研究所の責任者と思しき人物たちと連絡を取り、しばらくして僕の単独行動を全面的に認めるという運びになった。
別にそんな許可がなくても僕は勝手にやるつもりだったが、あんまり他人に迷惑をかけるのも忍びない。


「いろいろご迷惑をおかけしました」と僕は心から申し訳なく思って言った。
「あなた方の研究に役立つようなサンプルが取れるといいのですが……」

「いえ、こちらこそお役に立てず申し訳ございません」と鷺沢さんが深々とお辞儀して言った。

「一応、私どもの方でも藍子様の所在を探ってみます」

「ありがとう」

その必要はありません、とは言わなかった。

「そういえば」

空間にぽっかり空いた虹色の出口を危なっかしい仕草で跨ごうとしている鷺沢さんに、ふと思いついて尋ねた。

「古澤頼子という人をご存じですか?」

「え?」

彼女は一瞬戸惑いながら、「彼女が、どうかしたのですか?」と怪訝な表情で聞き返した。

「いえ、その……なんというか、博物館に関係してる人なのかな、と」

「彼女は私の前任者です」

なんだ、そういうことか、と僕は納得した。

「もしかして、行方をご存じなのですか?」

「は?」

今度は僕が意表を突かれ、聞き返した。

「数年前、勤務中に失踪したのです。以来、行方不明者として捜索願いが出されているのですが……そのことについてお聞きになられたのでは?」

「…………ああ、そう。そうでした。それでその、古澤さんってどういう人だったのかお聞きしたくて」

「頼子さんはとても知的で聡明で、尊敬できる素敵な方でした。特に絵画に対する造詣の深さ、愛情の深さにおいては並び立つ者がいないほどでした。研究所では星の夢の研究に大きく貢献した優秀な研究者でもあり、私が今まで出会った中で最も優れた学芸員の一人でもあります」

「なぜ失踪したのか、理由や原因は分かっているんですか?」

鷺沢さんは考え込むように顔を伏せて、

「分かりません。ただ……」

話すべきかどうか、ためらうような沈黙があった。
そして、

「……彼女は星のことばをよく理解していたので、星の夢を探索する能力に長けていました。私たちの間では、それが遠因ではないかと噂されています」

「…………夢に囚われて帰れなくなった、と?」

「はい。あくまで推測ですが」

僕は「そうか」と呟いて、それから、

「変な質問をしてすみませんでした」

と謝った。

((そろそろこの場所も危ない。早く立ち去った方がいい))

「……鷺沢さんも早く行ってください。元の世界に帰れなくなる前に」

不安定な姿勢でぐらついている彼女の体を、その手を取って支えてやりながら僕は忠告した。

すると彼女は、虹色のトンネルに片足を入れたまま僕の方を振り向いて、

「あの」

と言った。

僕はよほど「早くしてください」と言いたかったが堪えて、「なんです?」と返した。

「頼子さんに会ったら、よろしく伝えておいてください。私も、頼子さんのようになれるよう、頑張って……」

分かりました。
と答える前に、地面に大きな亀裂が走った。

「早く!」

僕は叫び、鷺沢さんを出口へ押し込んだ。

虹色のチャンネルが閉じられ、鷺沢さんはその奥へと消えていった。


耳鳴りのような轟音。
大地を走る裂け目から、虹色の輝きが漏れ出す。

鷺沢さんは無事に元の世界に帰れただろうか。

そんな心配をしながら僕は、自分の体が重力から解き放たれるのを感じた。


世界が輝きだす―――………


――――……

――……

……




【副読本】

これは、ある作家の書いたエッセイである。内容は狂信的な妄言に基づいたもので、明らかに支離滅裂である。
以下の文章を読み、これが本題とどのようにかかわりがあるか考察せよ。
作者のオリジナリティは十分見出されるか?
このエッセイは本題に新しい光を投げかけるものか?
読み終えたら用紙の裏面を使い、他者に憧れるあまり自己を浪費した経験を短文(500字以内)にまとめよ。
そういう経験がない場合は、でっちあげろ。


   『名もなき詩への追憶』

彼には名前がありませんでした。
もっと言えば、男か女かも定かでない人でした。
ですから、まずは彼/彼女に[ピーーー]と名付けることから始めようと思います。
[ピーーー]、それが彼/彼女を表すのにもっとも適切な表現だということを、これからわたしが語る顛末を読んだ方ならきっと理解してくれるものと期待しています。

とはいえ、どこから話せばいいでしょうか……
わたし自身、このような形で心を整理し、気持ちを吐き出そうと決意するまで15年かかりました。
その間、わたしは不器用ながら社会の荒波に揉まれ、多くの学びと挫折を経験し、今でこそ仕事も恋愛も人並みにこなせるようになりましたが、振り返ってみれば、そうして得られたものよりも失ったものの方がずっと多かったような気がします。
それこそ、最初に[ピーーー]と出会った中学2年生の夏――自室のベッドに包まりながら打ちのめされていたあの夜――から高校を卒業するまで、わたしの貴重な青春のほとんどは一種の催眠状態にあったのですから。

そう、事の始まりは今から15年前、わたしが14歳の時の夏の日でした。
今でもあの夢のような世界を鮮明に思い返すことができます。とはいえ、正確にはこの時はまだ[ピーーー]と出会ったわけではないのですが……

その時期にしては珍しく涼しい風の吹く夜でした。
わたしは自室の机の上でノートパソコンを開き、当時毎晩そうしていたように、その日もお気に入りのWEBサイトを巡回し、気の向くままにリンクを追って時間を潰していました。
その時、どんな経路を辿ってそこへ行きついたか……そこまでははっきりと覚えていません。おそらく、どこかのアニメ系個人ブログから、外部リンクを経て辿り着いたのだと思います。当時、わたしは他の同年代の子たちと同じようにアニメやゲームや漫画といった流行りの娯楽に興じていました。そしてわたしは、中学2年生という身分にしては少々贅沢な、個人で自由に使えるパソコンを持っている人間でしたので、仲間内では話題の提供に事欠きませんでした。つまり、わたしは[ピーーー]と会うまで、どこにでもいるごく普通の14歳の少年に過ぎませんでした。

わたしがその夜、興味本位で覗いてみたのは、とある匿名掲示板のスレッドでした。
この最初の動機にしても、正直に言うと理由をはっきり覚えていないのですが、どこかで聞いたことのあるようなタイトルだったので、どんな意味だろう、と興味をそそられたのだろうと思います。

それは、不特定多数の書き込みが連なる一般的な掲示板とは違い、ひとりの投稿者が自作の小説を書き連ねている、いわばストーリー形式のスレッドでした。
わたしはほんの気まぐれから、その謎めいたタイトルの小説を読み始めました。

タイトルは『飴に唄えば』。
この小説はその時に一度読んだきりでしたが(何せ幻のように痕跡を遺さず消えてしまう[ピーーー]の作品ですから)、15年経った今でも、そこに現れる場面場面、そして登場人物の表情、感情までもが、まるで現実の思い出のようにありありと脳裏に思い返されます。

しかし内容に関して言えば、ここで詳しく説明することはできない、と言わざるを得ません。
忘れているわけではないのです。
ただ、もともと、この小説には粗筋としてまとめられるような明確なストーリーがありませんでした。
というより、短く要約するにはお話として難解すぎたのです。部分的なシーンを切り抜いて語ることはできても、それらの個々のシーンの繋がりが(時系列的にも)複雑に絡み合っていて、一読しただけではこれがストーリーとして成立しているのかどうかも分からないほどでした。

ですから、この小説を紹介する方法として内容を詳細に語ることは自他ともに不十分でしょうし、なにより小説の魅力が誤解されたまま伝わってしまうのはわたしとしても望ましくありません。

そこで、当時14歳だったわたしが『飴に唄えば』を読んだ後、どれほどの衝撃を受け打ちのめされたか、その様子を一通り述べてみることにしましょう。

夢中になって読んだ、という記憶さえありませんでした。

気が付けば時計は夜の2時を回っていました。
わたしは最初、読み終えたという実感も曖昧で、机の前に座ったまま呆然とするばかりでした。
虚空を見つめ、夢想するように物語の続きの中を彷徨っていたのです。
そう、まさに夢を見ていたような感覚でした。

わたしはふと我に返りました。
そうして自分という現実を認識しだした途端、わたしは激しい喪失感に胸を打たれ、身動きが取れなくなりました。

それは孤独とも呼ぶべき寂しさ、あるいは哀切、郷愁の感情でした。

物語の世界からひとり引き剥がされ、置いてけぼりにされた感覚……そして、そんな個人的な感傷とは無関係にただそこにあるもうひとつの世界。確実に存在しているが決して誰も到達できないあの世界のことを想うと、わたしは、まるで自分という意識が儚い砂の塵のようにも感じられました。

そんな不条理な孤独感をこれほど痛切に感じたのは生まれて初めてでした。
しかもネット上の誰が書いたかも分からない小説で!

当時のわたしに、こうした複雑な感動を言葉で表現できるほどの賢さがあれば衝撃も少しは和らいだでしょう。
しかしそれまで自我というものすら曖昧だった未分化な少年Aは、この圧倒的な体験の前にただただ打ちのめされる他ありませんでした。

その後わたしは疲労感によろめきながら立ち上がり、パソコンも部屋の電気も付けたままベッドの上に倒れ込みました。
しかしベッドに横になっても物語の幻影が頭の中で次々に再生され、えも言えぬ興奮のためにすぐには寝付けませんでした。
わたしはそうして追憶のなか夜を過ごし、いつしか眠りに落ちました。


……このように書くと、わたしを突然見舞ったこの体験が、ある種トラウマのような傷をわたしの心に刻んでしまったのだと、そう受け取られる方もいるかもしれません。
そして実際、その見解は間違っていません。
ですが、わたしがそのことをはっきり自覚するようになったのはもう少し後のことでした。

現に『飴に唄えば』を読んだ翌日、わたしは何食わぬ顔で学校へ行き(寝不足でぼんやりする頭を抱えながらではありましたが)、いつもと変わらぬ生活を送りました。時折あの小説のイメージが頭に浮かぶ瞬間はあっても、それによって我を忘れたり、心を痛めたりするようなことはありませんでした。あれはきっと寝ている間に見た夢だったのだと、そんな風にさえ思っていたのかもしれません。

それに、先ほども申し上げた通り、以来『飴に唄えば』の小説はネット上のどこを探しても見つけることができなかったのです。
あれはやっぱり夢の中の出来事だった……そう自分に納得させるには十分な理由ではないでしょうか。


結論を言うと、もちろん夢ではありませんでした。
一時的なものではあるにせよ、わたしを虜にした謎のネット小説は続けざまにわたしの人生に介入してきたのです。

2ヵ月後のことでした。
わたしは再びネットの掲示板で[ピーーー]の作品と出会います。
タイトルを見た時は「もしかして……」という予感にすぎなかったものが、最初の書き出しに目を通した瞬間、確信に変わりました。

同じ人だ、と。
理屈はどうあれ、わたしはすぐに『飴に唄えば』を書いた人の小説だと直感しました。

わたしは思わず掲示板の書き込みの時間を見ました。
昨日の日付になっていました。
つまり、新作ということです。

わたしは無邪気にもわくわくしながら小説を読み始めました。
これが、後に私の趣味思想までもすっかり歪めてしまう決定的なきっかけになってしまうとも知らずに。

『猫の日』という短編小説でした。
これは、ある女の子の家に決まって日曜日にだけ猫が遊びに来るという話です。その猫は学校の友達のあいだでも有名で、聞くと皆それぞれ決まった曜日にいつも訪れてくるそうなのです。Sさんの家には月曜日、Tさんの家には火曜日、といった風に。
そして女の子は友人たちと同様、そんな不思議な行動をとる猫を溺愛するようになり、しまいには……

……と、ここまでは簡単に紹介できるのですが、その先はなかなか説明が難しく、やはり一筋縄ではいかないといったところでしょうか。
オチに関しては、猫がいなくなってしまった後、女の子の成長した姿で終わる、というものですが、これだけでは何が面白いのか、その魅力が微塵も伝わらないものと思われます。

しかし、これらの不十分さはある程度仕方のないことだと言わざるを得ません。
恥ずかしながら、これが15年に渡り[ピーーー]の作品について考察し模倣しようと努めてきたわたしの限界なのです。
これは決して開き直りではありません。[ピーーー]への感情、そしてわたし自身の創作への熱意を整理し、言葉で語れるようになるまでどれほどの時間と労力を要したことか。その過程をまるごと無視してこれを開き直りと言ってしまうのは少々酷ではありますまいか。

結論、[ピーーー]の作品の魅力は表面的な言葉では語れないのです。
ですから、わたしが言いたいことを正確に伝えるには実際に小説を読んでいただくしかありません。とはいえ、今となってはその手段のほとんどが失われてしまっているのが残念でなりませんが……

それにしても、掲示板のログを取っておくという発想がなかったのは仕方ないにしても、文章のコピーをどこかに保存しておくという考えも閃かなかったのかと呆れる人もいるかもしれません。

これについてはどのみち不可能だったということを承知していただく必要があるでしょう。
後に分かったことなのですが[ピーーー]の小説は、仮に自分のパソコンに保存したとしても翌日にはファイルごと綺麗さっぱり消えているのです。
まさに怪奇現象であり、その徹底ぶりたるや、まるで異星人が証拠隠滅のために時空に干渉しているかのようでした。
まあ実を言うとここ数年の作品は手元に残しているのですが……それはおいおい語ることにしましょう。


話を戻します。
二作目の『猫の日』を読み終わった後、わたしは前作とは違った興奮に身を震わせていました。
相変わらず寂しく切ない孤独感に満ちていながら、物語を読み終えた瞬間、奇妙な快感が自分の心を満たしていった気がしたのです。
これは前作にはなかった新たな感動でした。

短編という形式だったおかげか、わたしはその日――作中と同じく日曜日でした――のうちに何度も読み返すことができました。
そうして[ピーーー]の作品を読み返すたびにわたしは戦慄していきました。
読み返すたびに新たな発見があるのです。
言葉の意味の二重構造、人物の台詞の裏にある微妙な心理の動き、物語の伏線……こうした技巧的な部分に、わたしはまず感心しました。
しかし、この小説にあったのはそれだけではありませんでした。

わたしはやがて物語の向こう側、言葉の意味よりもさらに深い所を、朧げながら感じつつありました。
いわばこの小説を書いた人物の内面とでも呼ぶべきもの……それも、しばしば巷で揶揄されるような、作者の心理などという陳腐で狭量な枠組ではありません。
つまり、この小説を書いた人物の見ている世界を、わたしもまた見つつあったということです。

わたしが何度も読み返しながら発見したのは、まさにそうした世界の断片のことでした。

しかし、その断片とはまったく未知の「何か」であり、色も形も、意味さえ分からないものでした。

ただ「何か」がそこにあるという直感的な手応えだけが確かに感じ取れるのです。

わたしはこの小説の物語、人物、文章、言葉、あるいはそれらのあらゆる隙間の中に、存在だけは確かな正体不明の「何か」を見出していきながら、それが何なのかさえ分からない、ということをひたすら思い知らされる、そんな絶望的な沼の底へ落ち込んでいきました。

[ピーーー]を初めて認識したのが、この時でした。

この文章、この物語の向こうに「何か」、つまり「誰か」がいる――そう気付いた瞬間から、わたしの人生は狂ってしまったのかもしれません。
わたしは読みながら、小説そのものだけでなく、[ピーーー]が何者なのか、そしてこれらの小説がどのようにして書かれたのかについて考えるようになりました。


二作目「猫の日」の余韻はそれから二週間ほど続きました。
小説自体は翌日にはネットから消え去って読み返すことができなかったにもかかわらず、です。
あるいはそれが虚無感や無力感に拍車をかけたのかもしれませんが。

その間、わたしの頭はあの物語と[ピーーー]のことでいっぱいでした。
かろうじて学校の勉強や友達付き合いにはついていったものの、部活(サッカー部でした)はまるで身が入らず監督に叱られっぱなしで、家に帰ってもボーっとテレビを見ているかネットの動画を眺めているだけでした。もちろんテレビも動画も内容は右から左に抜けていくばかりで、わたしの意識はずっとあの小説の中を彷徨ったままでした。


こうした劇的な体験を経て、次第にわたしは[ピーーー]に憧れを抱くようになります。
それこそ[ピーーー]は、謎多き存在であると同時に、わたしの心を激しく揺さぶる一流の作家だったのですから。

わたしが初めて小説を書いたのは中学2年生の秋、定期テストが終わった直後だったと記憶しています。
[ピーーー]の小説と似たような物語をノートに書きなぐったものをパソコンに打ち直し、[ピーーー]と同じように掲示板にスレッドを立て、投稿しました。
非常に、とても、それこそ涙が出るくらい緊張したのを覚えています(それは今もあまり変わっていませんが)

そしてその内容と言えば……いえ、ここであえて語る必要もないでしょう。
結果だけ言うならば、それはもう惨憺たるものでした。

それまで国語の教科書くらいでしか小説を読んだことがない人間、それも中学生の時分でしたから、文章の巧拙以前の問題で、まともに読めたものではありませんでした。掲示板のログは律儀に取ってありますが、あまりの拙さと無謀さに正直わたしも読み返したくない代物です。まあそんな話はどうでもいいとして……

わたしはそんな失敗にもめげず、小説を書きつづけました。
なぜか?
おそらく、当時のわたしはその処女作をそれほど駄作だとは思っていなかったのでしょう。
小説はおろか活字にさえ慣れ親しんでいなかった無知な子どもでしたから、書いたものの出来ついて判断する材料に極めて乏しかったのです。ただひとつ、[ピーーー]の小説には程遠いという明確な認識はありましたから、そのおかげなのでしょう。わたしは自然に、もっと上手に書きたい、[ピーーー]のように書いてみたいと思うようになりました。
最初はそれこそ[ピーーー]に対する憧れ、あるいは[ピーーー]という謎を解明する手がかりのひとつとして、あくまで好奇心から書き始めてみたに過ぎない創作でしたが、そうした刺激と動機から、やがてわたしの興味は創作するということそのものへと移り変わっていきました。

わたしの主な活動場所はインターネットの掲示板でした。

それも一般的な雑談をするような掲示板ではなく、小説などの創作物を発表する場としての、きわめて専門性の高い掲示板でした。
つまり、投稿した作品はつねに他の大勢の作品と比較され、それが閲覧数やコメント数などによって明確に視覚化されてしまうのです。
非常にシビアな世界でしたが、だからこそやりがいのある、面白い戦場だったとも言えるでしょう。


このようにしてわたしは、[ピーーー]をきっかけに小説の世界にのめり込んでいきました。

その新たな趣味の代償として、部活や友人間での孤立、高校受験の失敗と大学選びの失敗、中退、それに続く引きこもりの生活などがありますが、その間に得られたものといえば……いえ、この話はやめましょう。

誰に裏切られたわけでもない、ましてや自分で決めたことですから。

[ピーーー]を恨んでも、失ったものは返ってきません。

ところで、人によってはわたしをただのネット中毒者ではないかと疑う方もいるでしょう。
なにしろ四六時中パソコンにかじりつき、時には寝食忘れて没頭していたほどなのですから。

正直に申し上げると、その意見もおおむね間違いではないように思われます。

もちろんわたしとしては創作活動それ自体に心血を注いできたつもりです。
しかし、掲示板を通して同じ趣味をもつ者同士交流し、作品を読み合い、しばしば下らない雑談で無益な時間を過ごすというのは、創作の喜びに勝るとも劣らない幸福感がありました。この狭いコミュニティの中に自分の居場所がある……そんな安心感に甘えていた節があったことも否定しません。

ですが、わたしの動機の中心はあくまで[ピーーー]という存在であり、最後までその軸がぶれることはありませんでした。

証拠に、わたしは掲示板に自作を投稿するかたわら、常に[ピーーー]の新作について気を張り巡らせていました。[ピーーー]がこの掲示板に現れるという確証はまったくありませんでしたが、可能性はゼロではない、と考えていたのです。結果的にその予測は正しいとも間違ってるとも言えなかったのですが……

それだけではありません。
わたしは掲示板で知り合ったごく僅かな人たちと共に[ピーーー]の正体について情報を交換していたのです。

そう、[ピーーー]の小説を読んだことがあるのはわたしだけではありませんでした。

それが分かっただけでも、あの掲示板で活動していた甲斐があったというものです。
[ピーーー]の小説を読んだことがあるのは最初はわたしともう一人だけでした。それから徐々に増えていき、最終的にわたしを含めた11人が[ピーーー]の小説に実際に触れました。ただし、そのうちの数人は現在連絡が途絶えており、[ピーーー]の正体については未だ何一つ分からないままです。

ここで[ピーーー]を巡るわたし(たち)の様々な奮闘を――決して愉快なだけではない多くの思い出を――語ることもできるのですが、それらを逐一述べるには出来事が多すぎますし、何より本稿の主題から大きく逸れてしまう恐れがあります。
ですので、「曲者ぞろいの某集団は政治的もしくは信条的な軋轢から最後まで統制が効かず、いくつかの他愛ない揉め事を経て自然解散した」と、今はその程度で知っていただければ十分かと思います。


それよりもわたしは、わたしと[ピーーー]との関係についてもう少し詳しくお話しなくてはなりません。

わたしが[ピーーー]とどのように出会い、どのようにしてわたしが創作の道へ分け入ったか……これについては先ほど述べたとおりです。

では、わたしはどのように創作と向き合ってきたか?
これこそが、わたしと[ピーーー]との関係そのものと言っていいかもしれません。

はっきりと申し上げます。
わたしにとって創作とは、どこまでいっても[ピーーー]の模倣にすぎないものでした。
文体、語彙、表現、テーマ、果ては登場人物の名前まで、[ピーーー]の真似をせず書いた小説はこれまでひとつもありません。
それこそ、一人称にひらがなの「わたし」という表記をするところまでそっくり[ピーーー]の模倣なのです。
わたしは自身のオリジナルを目指そうとせず、信用もせず、まるで悪魔にとりつかれでもしたかのように、捉えようのない幻影を追い続けていました。

ただし勘違いしてはいけないのは、わたし自身のオリジナリティについて深刻に悩んでいるわけではない、という点です。もちろん深刻に考えるべきテーマではありますが、自分としてはすでに整理がついている問題ですから、今回改めて語る必要はないかと思います。実際、一時期それなりに悩んではいたのですが、ここでわたしが言いたいのはそんな下らない自己批判などではありません。

要するに――話を蒸し返すようで恐縮ですが――そもそも[ピーーー]とは何者なのか?

この問いこそが、わたしと[ピーーー]の関係の原点であり、出発点なのです。

もちろん、その解答は未だに見つかっていません。
あるいは「解答を得られない」ということ自体がひとつの解答なのかもしれませんが……いえ、そんな禅問答はやめておきましょう。

わたしはこの問いに対して様々な仮説を打ち立て、それらを検証していきました。
そして――ここが本稿の最重要部分なのですが――わたしはある大胆な発想を元に、ひとつの仮説を導きました。

それが、『わたしが目指していたのは[ピーーー]そのものではなく、[ピーーー]の幻影だったのではないか?』というものです。

あるいはこう表現すれば伝わるでしょうか。


『[ピーーー]などという作者は最初から存在しなかった』

これはあくまで仮説にすぎません。
しかも何の裏付けもない、妄想と区別のつかない世迷い事です。

実際、「存在しなかった」と断定するのはやや暴論ではあります。
先ほど述べた通り、[ピーーー]の小説を読んだことがあるのはわたしだけではないのですから。

しかしそれを言うなら、わたしが読んだ[ピーーー]の小説と同じものをあの掲示板の住人が読んでいたという証拠もまた無いのです。

これには少し説明が必要でしょう。

そもそも作者不明かつ小説そのものが閲覧不可能という状況で、一体どうやって[ピーーー]を知る集団が形成されたのか?
事の発端は、当時わたしが掲示板に立てたスレッドでした。
つまり、「飴に唄えば」「猫の日」という小説を知っている者はいないか、ひたすら尋ねて回っていたのです。
今にして思えば無謀というか、行動力だけは一丁前な新参者という感じがしますが、結果的にそれが功を奏しました。

ある人物が、題名こそ異なるものの似たような体験をしたことがある、と教えてくれたのです。
その人物を仮にA氏と呼びましょう。A氏はかつて「姉妹の世界征服」という小説でまさにわたしと同じような現象を体験したと言いました。
圧倒的な読書体験、その記憶だけを残し、小説そのものは幻のようにネット上から消え去ってしまったという……

共通しているのは作品の持つ並外れた魅力と、記録されず記憶にだけ残っているという二点だけです。
とはいえ、その後も似たような体験をした人がわたしの元に集まり、それが先ほど述べたように最終的に11人もの数まで増えたことを考えると、少なくとも同一の作者(あるいは同一の現象を引き起こした「何か」)が存在することは間違いないと、そう考えるのが自然でしょう。

ところが、肝心の小説については少し事情が異なります。

結局、「飴に唄えば」も「猫の日」も(そしてそれ以降読んだいくつかの作品も)わたし以外に読んだ人は一人もいなかったのです。
これは他のメンバーも同様でした。
つまり、自分以外に同じ小説を読んだ人が一人もいないという、非常に具体性を欠いた根拠のもと、我々は一人の作者を勝手に想定し議論していた……ということになります。

そのようにして、[ピーーー]を知る者たちの集い(事実上のファンサークル)が発足してから実に6年もの間、わたしたちは曖昧な状況証拠と曖昧な記憶だけを頼りにひっそりと議論していたのです。

状況が大きく変わったのは、サークル発足から6年ほど経ったある日のことでした。
[ピーーー]の新作と思しきスレッドが掲示板に立てられたのですが、ついにその本文を保存することに成功したのです。

さて、これだけ聞くと大変喜ばしいことのように思われます。事実、我々は初めて[ピーーー]の作品を完全に共有できたことに歓喜しました。

ところがその新作を読んでみると、妙な違和感があるのです。
それを読んだメンバーがみな口を揃えて「これだ」と断定したくらいには[ピーーー]の特徴をはっきり備えていたのですが、一方で内容に関しては、例の圧倒的な魅力が――いわゆる無限の広がりを包容した世界が――感じられなかったのです。

この違和感は、我々メンバーたちに大きな衝撃を与えました。
これが本当に[ピーーー]の作品なのかどうかを巡ってグループ内に派閥が生まれたほどです。

その後も、まるで方針を転換したかのように、およそ2、3年に一作のペースで[ピーーー]の新作が投稿されていきました。
もちろんそれらは全て保存済みであり、その気になればここに公開することもできます。

ですが、先ほども申し上げた通り、これらの作品には「飴に唄えば」や「猫の日」にあったような深遠な世界がほとんど見出せません。
決してつまらないというわけではないのです。
ただ、何も知らない人がこれを初めて読んだ時、面白いと感じる以上の感動を得られるかどうかは怪しいところです。

実際、グループ内の「世に広めるべき」派のメンバーは頻繁に[ピーーー]の小説を宣伝・公開していますが、それを読んだ読者が新たに[ピーーー]のファンになるということは基本的にありませんでした(例外もありましたが)。

そして、やがて我々の間で一つの可能性が浮上します。

後年の[ピーーー]の作品と思しき小説は、実は何者かによって巧妙に模倣された[ピーーー]のパロディなのではないか、と……


……さて、これらの話を踏まえた上で、もう一度わたしの仮説に立ち返りましょう。

オリジナルの[ピーーー]という作者は、最初から存在していませんでした。

では「飴に唄えば」や「猫の日」を書いたのは一体誰なのか……?


答えは、"誰でもない"のです。

"誰でもない何か"の断片が、電子ネットワークのひずみの中に、物語の姿となって現れたのです。
わたしは偶然、その露出した一部分を垣間見たにすぎません。
あるいは、それは元々そこにあったもので、ただ人の目には見えなかっただけなのかもしれませんが。

突拍子もない話だと思われるでしょうか?
確かに、仮説とはいえ少々空想に行き過ぎている感じは否めません。

しかしわたしはこのようにも思うのです。

[ピーーー]とは、まさに夢のようなものだと。
夢の内容を他人に語ることはできても、実際にその夢を他人に見せることができないのと同じように……

それに、わたしがかつて読んだ[ピーーー]の小説も、細かい内容を語ることはできますが、それが長い年月と共にいくぶん脚色された、いわば思い出のバイアスがかかった内容である可能性は否定しきれません。
わたしの記憶の中にだけ存在する朧げな物語……それこそ夢のようではありませんか。

ある意味で、[ピーーー]とは"誰でもない"のと同時に"わたし"であるかもしれないし、同じように[ピーーー]の小説に触れた多くの"誰か"であるかもしれない……そしてもちろん、その中には"あなた"も含まれているかもしれないのです。
そのようにして、[ピーーー]はあらゆる人々の夢の総体として、この世界の奥深いところで眠り続けている――などと表現するのは、いささか夢物語が過ぎるでしょうか。


……ここまでずいぶん長話をしてしまいました。

冒頭に述べたように、[ピーーー]とはそもそも"誰でもない"からこそ[ピーーー]と呼称する他ないということがご理解いただけたでしょうか。

そんな[ピーーー]の幻影を追い続け、その正体を暴こうと多くの時間を費やした結果、今のわたしに残っているのは虚しい徒労感、そして腐りかけた情熱だけです。

しかし腐りかけても種火を失ったわけではありません。

それがたとえ未練と惰性の蜃気楼だったとしても、この情熱を僅かでも注ぐに値する"何か"がわたしの人生にもあるはずだと……そう思わずにはいられないのです。


わたしはまだ創作を続けています。

そしてこれからも続けていくでしょう。

[ピーーー]のようには書けなくても、せめて[ピーーー]が見せてくれたような、あの素晴らしい世界に少しでも近づけたら、と……あるいは、いつかわたしも[ピーーー]の模倣をやめ、本当のわたしに目覚める時がくるかもしれません。

そして、もし、あなたが、いつかわたしの書いた物語を読むような時があったら、わたしのこの想いを少しでも感じ取ってくれるように……

全ての人たちの中に眠る[ピーーー]のために、全ての夢のために――
わたしはこれからも物語を書き続けるのです。


【問6】

1.次のうち、作者が本当に伝えたかったことはどれか。
(A) 掲示板の住民とのトラブルが重大な出来事だったということ
(B) 創作を諦め、自分の人生を生きなければならないということ
(C) [ピーーー]の模倣は習熟した技術があれば誰でも可能であるということ
(D) ひとりぼっちなので友達が欲しいということ


2.創作をする上で守らなければならない鉄則とは何か?
(A) ひとつの矛盾もない完璧な構造であること
(B) 作品に関わる全ての人を傷つけないこと
(C) 生まれたての赤ん坊でも理解できるように分かりやすく作ること
(D) 作者の思想・意見を一切反映させないこと


3.二次創作とは
(A) お人形遊び
(B) 歪んだ自己投影
(C) 現実のパロディ
(D) 本質の三次創作


4.この小話はフィクションである。(二択問題)
 ・はい
 ・いいえ


【11】

フィクションではない。
裂け目から漏れていた虹色の光が、次に進むべき新たな夢を形作っていく。

視界がひらかれる。


深い地の底で星空が瞬いていた。

大空洞は、そのなめらかな岸壁にいくつもの星の結晶をきらめかせ、切り裂かれた空に夜の鏡を映していた。

これから起こる光の咆哮と爆撃は、夜の棺に閉ざされた彼女たちの嘆きをも粉々に砕くだろう。
冷たい大地の中で安らかに眠る天使たちの宝石は、生き残った5人の天使にこの星の命運を託し、審判の時を静かに待っている。

二つの閃光が空に走った。

巨大な光球が夜空に影を作った。

大地が剥れ、星の核から灼熱の炎が吹きあがった。
風が、熱が、重力の荒れ狂う嵐の中ですべてを飲み込んだ。

生ある者は全て絶え、闇もまた光の中に消えた。

砕かれた大地のなまなましい傷跡、そのせり上がった大地の上に、五つの光が舞い降りる。
人を、生命を、それら自然の魂を星の記憶から蘇らせるために彼女たちは祈っている。

後にアインフェリアと呼ばれる、最初の星の戦争に勝利した天使たち。


まるで映画を見ているみたいだ、と思った。

((単なる星の記憶にすぎない。あの中にお前の求めている藍子はいない))

「分かってる」

傷だらけの5人が祈る姿は美しかった。
数多の作家が描いてきたどのヴァルキュリアの絵よりも繊細で、厳かで、純潔だった。


僕はふと懐かしさを覚えた。

まだ自我も曖昧だった幼子の時代。

僕は、母に手を繋がれた幼い僕の背中を見ている。

目の前には巨大なキャンバスがあり、そこには――……

夕闇を飲み込むほどの深い黒の森が行く手に広がっていた。
手招きするように垂れ下がった木々の枝が、僕らに向かって風の声を囁いている。

鳥と虫たちの奇妙な鳴き声がこだましていた。
辺りは低い山々に囲まれ、空はそのなだらかな稜線に夕焼けの影を投げかけていた。

一歩踏み出すと、足の裏に絡みつくような地面の感触がした。

((怖がる必要はない))

「藍子もお前も、どうしてそう決めつけるんだ……まあいい」

僕は深呼吸し、深いトンネルの中へ進んで行った。


『黒き森』は謎の多い神話の舞台だった。
伝承として残っているのは、かつてアイコが何らかの理由で人里離れこの魔の森に移り住み、そこで永い間暮らしていたという記述のみだ。これだけでは理由も目的も分からないので、モチーフとしては(アイコの中では)比較的マイナーな部類だろう。
とはいえ、人気がないわけではない。
アイコにしては珍しく影の部分が主題になっているということで、ときどき倒錯趣味の画家を夢中にさせることもあるテーマである。
あの美術館に置いてあった『黒き森の乙女』はまさにこの時代のアイコを象った銅像だが、あれはどちらかと言えばアイコの善性を影のコントラストで強調したような作品だろう。

そんなことを考えながら歩いていると、やがて周囲は闇夜に沈み何も見えなくなった。

僕は、草木の隙間からほんの僅かばかり差し込む月の光を頼りに、途中何度も躓きながら前へ進み続けた。

遠くに明かりが見えた。
近づくと、それは地面に刺さった二本のたいまつの火だった。

暗がりでよく分からないが、どうやら広い場所らしい。
奥の方におぼろげに見えるのは、揺れ動く影に歪んでいる巨木……

いや、違う。
家だ。
巨大な樹をくりぬいて作った、魔女の住処のような家。

あの中にアイコがいる。
直感的にそう思った。
あるいは僕の中に植え付けられた記憶が、そう教えてくれただけなのかもしれないが。

((植え付けたのではない。お前の中にかつてあった記憶を呼びさましているだけだ))

じゃあ僕は僕自身と会話してるってことか?

((見方によれば、そうとも言える。ただし、わたしはもともとお前ではなかった))

言ってることがメチャクチャだ。
僕もついに狂ってしまったか……

((……………))

「そこはなんか言えよな……」

こんな薄気味悪いところで一人で発狂するなんてごめんだ。

「……ところで((わたしに名前はない))……じゃあなんて呼べ((好きに呼べ))ば……」

僕はため息をついた。
もう少し、こう、会話らしくできないものだろうか。
昔の記憶だかなんだか知らないけど――

ぱき。
近くで小枝の折れる音がした。

心臓が止まるかと思った。

虫だろうか?
いや、違う。
すぐそばに、何か……誰かが居る。
だが暗闇で何も見えない。

((落ち着け。ここでは誰もお前を認識しないし、危害も加えない))

そういう問題じゃない、と僕は心の中でつっこんだ。
暗闇というのは本能的に恐怖を駆り立てるもので……

「……!」

赤い瞳。
僕の目と鼻の先に、二つの炎が浮かんでいた。
次の瞬間、緊張と恐れと興奮が一度に押し寄せ、僕の心臓を激しく打ちだした。

『黒き森の乙女』がそこにいた。

赤い両目にたいまつの明かりを灯し、夜の森の静けさの中に溶け込んだままじっと佇んでいる。
深紅のフードを被り、気配を消して辺りを窺っているその姿はさながら血に飢えた獣のようだった。

これまでほとんど語られることのなかった天使アイコの影の時代。
それが今まさに目の前にいる。

星の記憶に刻まれたアイコの幻影を前にして、僕の心は感動に震えていた。
あるいは、その異様な殺気をまともに浴びた恐怖で震えていただけかもしれないが。

やがてアイコは僕から目を逸らし、ゆっくりと歩きだした。
僕は金縛りが解けたように全身の力が抜け、危うくその場にへたりこんでしまうところだった。

……なるほど、あいつが言っていた通りだ。
この世界では誰も僕を認識していないらしい。

((この時代、アイコはヒトの手から自然を守るため禁忌の森に閉じ籠った。伝承の記述が極端に少ないのはそのためだ))

僕が呆然と立ち尽くしている間にアイコは森の奥へと消えてしまった。
後を追うべきかと思ったが、いずれにせよこの暗闇では見失ってしまうだろう。

それより僕は、広場の中心にある巨木の家が気になっていた。
おそらくアイコの住家なのだろう。
自然と一体化したような厳めしい風貌が、たいまつの僅かな明かりに揺れて一層おどろおどろしく見える。
とても天使の住家には似つかわしくないように思われる……が、先ほどのアイコの鬼気迫る眼光を思い返せば、むしろこれが相応しいようにも感じられる。

僕は好奇心に引かれてアイコの家に近寄った。
もしかしたらここに『黒き森の乙女』の秘密が隠されているのかもしれない。
そんな淡い期待と共に僕は朽ちかけた玄関の前に立ち、その扉の小窓をそっと覗き込んだ。


暗闇があった。

暗闇が無限に広がっていた。

その彼方に、無数の光が瞬いている。

僕は両手を扉にかけ、顔を小窓に近づけた。
よく見ると、その無数の光の粒の中に何か移動する影のようなものがあった。

ふいに足元から、巨大なもうひとつの影が前方へ伸びていった。

それは船のような形をした鉄の塊だった。
音もなく進んでいく浮翌遊船、その側面から、たくさんの小さな鉄の塊が飛び出していく。

((二度目の星の戦争だ。アイコはこの船を指揮し、再びこの星に勝利をもたらした))

言われるまでもなく僕は思い出していた。
神話の記述に含まれてはいるものの、内容があまりに突飛で戦記的な色も濃いために、その大部分が史実を元にした創作だろうと言われていた宇宙戦争の物語だ。

「まさか史実通りだとは思わなかった」

呆気に取られている僕をよそに、宇宙の隅ではすでに新たな夢の裂け目が生まれつつあった。

((さあ、次だ。急ごう……))


【問7】

1.永遠とは完全な停止状態のことであり、そこでは時間も空間も存在しない。終わりのない物語の意義とは何か? あるいは、始まりがあれば必ず終わりがあるとする論理的見地に立った場合、終わりから目を背け続ける物語を非難することは妥当であるか? 妥当でないとすれば、なぜか?


2.猫というモチーフにはどんな意味があるか? あるいは、作中でどのように機能しているか?
(A) 『愛を象るもの』のメタファー
(B) ある天使の存在をほのめかす役割
(C) 愛玩動物としての作中における癒しの役割
(D) 特に意味はない


3.魂とは
(A) からっぽの器である
(B) 万有引力である
(C) あらゆる存在の原点である
(D) 形而上の言葉遊びである


4.愛を
(A) 信じる
(B) 信じない


【12】

次に訪れた剣と魔法の時代では、ヒトの世界に紛れて闘争に身を投じるアイコの姿があった。
その次には魔法の雑貨屋を営むアイコが、その次は賑やかな森の中で動物たちと戯れているアイコがいた。

ここにきて僕は、これらの神話と歴史の断片にどんな意味があるのか疑問に思った。
星の記憶は僕に何を伝えようとしているのだろうか?

そんなことを考える間もなく、僕たちは次々に天使アイコの痕跡を辿って行った。


実際、アイコにまつわる記述のほとんどが平和な暮らしと穏やかなヒトとの交流だった。
明るい自然の中でたくましく生きる人々に知恵と勇気を与える愛の象徴。
それこそが天使アイコの本分であり、夢の記憶が見せる景色もほとんどがそうした平和な世界だった。

((もうすぐだ。近づいている……星の記憶の最奥に))

「そこに藍子がいるのか?」

"僕"は何も答えなかった。


そして、目の前に教会があった。
藍子のおじいさんが暮らしていたようなアトリエとは違う。

荘厳な教会の、その大きな扉の前には大勢の人々が立っていた。
みな笑顔で、そして何かを待ち受けるかのように落ち着きがない。

やがて青空に大きな鐘の音が鳴り響いた。
鳥たちが祝福するように舞い、扉が開く。

そして、その向こうにいたのは花嫁姿の……

「藍子……?」

いや、違う。あれは天使の方のアイコじゃないか……
待て。そんなはずはない。伝承にこんな記述はない。
そうだ。もしかしたら忘れているだけかもしれない……あれが藍子のはずがない。
相手は誰だ。
くそっ、ここからじゃ見えない。

僕は思わず駆けだして群衆の中へ飛び込んでいった。


「藍子!」

がらんどうの廊下に、僕の叫び声が虚しく吸い込まれていった。
窓の外では夕焼けが、グラウンドで走る生徒たちに細長い影を投げかけている。

脈略なく移り変わる夢の世界に振り回され、頭の整理が追いつかない。
僕の脳裏にはあの結婚式の光景がこびりついたままだ。


どこかで笑い声が聞こえた。
ふと廊下の先を見ると、暗がりの奥に明かりのついた教室が見えた。
僕はふらふらしながら笑い声のする方へ向かう。

そこでは藍子が友達二人と楽しげに喋っていた。
なんということのない、平凡な放課後の風景。
その友達二人も、どこか見覚えのある顔立ちだった。
これは現実に居る藍子の友達だろうか、それとも……

混乱しているせいか、藍子たち三人の会話の内容がはっきりと聞き取れなかった。

「――次のイベント――……ライブは――ここで――……でも練習が――……」

不快なノイズが耳の奥で鳴っている。

きいいいいいい――――眩暈、頭痛。

記憶が叫んでいる……


「((藍子!))」



「はい?」

藍子が振り向き、キョトンと僕を見つめていた。
僕は呆然と立ち尽くしたまま、黙って藍子を見つめ返していた。

光り輝くステージを背に、煌びやかなドレスを身に纏った藍子が目の前にいる。

「……あれ? いま私のこと呼びませんでした?」

((……? ああ、いや、その……なんでもない))

「もう、Pさんったら。これから本番なんですよ」

((すまない))

「ふふっ、なんだか私より緊張してるみたい」

((……そうだな。藍子の方がずっとライブ慣れしてるし、緊張なんてしないだろ))

「そんなことないですよ。今でも、ほら……手が震えてる」

((…………ああ))

「……Pさんの手、温かい。こうしてると、不安も緊張も……忘れられそう」

((藍子))

「はい」

((精一杯、楽しんでこい))

「……はい! じゃあ、行ってきます!」

鳴り出した音楽と共に観客席から歓声が湧く。

藍子がステージに駆け上がる。

僕はその後ろ姿を見送り、そして……――


12時の鐘が鳴る。

夢の階段が崩れていく。

降り積もる灰が、光の舞台をモノクロに染めていく。

砕かれた思い出の欠片。
すべての魂の記憶。
永遠に続く一夜の優しい嘘が、今一度、世界を完全に覆い尽くす。



そして、これが、夢の終わりに残された最後の魔法。

さあ、

きみの手で、今こそ決断するんだ。




――――…………。


……見覚えのある場所だった。

僕は狭いオフィスの一室に立っていた。

見渡せばそこらじゅうの壁に貼ってあるポスター、フライヤー、写真……

入口を入ってすぐ、右手側は応接間になっていて、こじんまりしたソファとテーブルが窮屈に収められている。
左手側には大きなホワイトボードがあり、業務スケジュールがびっしり書き込まれている。
それらの壁沿いに並ぶ背の低い書棚の上には、事務用具の他にも写真立て、花、お香、ラジカセ、その他色々な雑貨が置いてある……いいかげん片付けろと注意しつつも、レッスン帰りにここではしゃぐ姿を見ていると、強く言えなかった。

僕は壁伝いに、そこに飾ってある貼り紙や雑誌の切り抜などを眺めていく。

何も思い出せない。
だが、どこか懐かしい。
レッスン、撮影、イベント、出演、ライブ……馴染みのないはずの言葉が、なぜか僕の心を急かす。

やがて行き当たったのは、この部屋を二分する仕切戸の、その奥だった。

覗いてみると無機質な書類とファイルの山、そして散らかったままの、それだけでどこか疲れ切ったように見える空っぽのデスク。

そこに奴がいた。

((終着点だ))

奴は椅子からひょっこり顔を出して小さく鳴いてみせた。

「こんなところまで来て、まだ猫の姿のままなのか」

((ここから再びすべてが始まり、あるいは終わる。それもお前次第だ))

やれやれ。
どうでもいい質問にはまともに答える気はないらしい。

((藍子は近くにいる。もうすぐここに来るだろう。そして、それがいよいよ決断の時だ))

「今すぐ決めなくちゃいけないのか?」

((猶予はある。だがわたしに出来ることは何もない。お前が考え、決めることだ))

「余計なお世話だ。べつにお前になんとかしてもらおうとは思ってないさ……」

((だがわたしに聞きたいことがある。そうだな?))

「いや。もうだいたい分かってる。しかし形式上……」

((答え合わせはした方がいい))

「ああ」

目の前にいる、猫の形をした"誰でもない者"……こいつこそ、かつて僕と魂を同じくした者だった。
人類と天使が紡いできた神話と歴史の物語において、その裏にひっそりと魂を継承し続けてきた名もなき存在。

((名前など問題ではない。重要なのは役割だ))

僕たちの役割……そのひとつは、天使の存在を世に知らしめることだった。
ある者は詩人として天使を詠い、ある者は画家として天使を描き、ある者は商人として天使を宣伝した。
その職業や手段は時代によって様々だが、与えられた目的は常にひとつだった。

「天使たちの姿、言葉、歴史、存在を世に広めなくてはならない」

魂がささやく使命感に導かれ、僕たち名もなき宣教師は時代を超えて天使に仕えた。
まるで見えない意志に操られた人形のように……

((お前は人形ではなかった。星の意志に抗うことができる者はこれまで何人もいたが、お前もその一人だった))

「だから僕が選ばれたのか?」

((たまたまだ。結果的に好都合だったかもしれないが))

「だからと言って、僕みたいないい加減なやつにこの星の命運を委ねるのもどうかと思うけどね」

((不可抗力だ。とはいえ、我々は必ずしもお前にその資格がないとは考えていない。お前の意志を尊重し、どんな決断だろうと受け入れるつもりだ))

「期待されるのも困るな……」

天使たちは永い創世の時代の後、地に降り人々と交わり、やがて悠久の繁栄をこの星にもたらした。

泰平の世。
終わりのない平和。
争いも対立もない、永遠の停滞。

それは同時に、天使たち自身の役割も終わったことを意味する。

そして、天使の役割が薄れれば僕たちもまた必要とされなくなるのは当然のことだった。

((望んだのは他ならぬ我々だ。そして星自身でもある))

「どこで間違えた? 狂い始めたのはいつからだ?」

最初からだ。

この星が天使に魅せられた瞬間からすべては始まった。
天使たちが、我々に智と愛と魂をもたらした瞬間からこの夢は終わりへと進み始めたのだ。

((永い夢だった))

「おいおい、郷愁に浸るのは少し気が早いんじゃないか。何も終わると決まったわけじゃない」

僕は呆れて肩をすくめてみせる。
するとそいつは――黒い猫の姿をした星の魂は――初めて僕に微笑みかけた。
気がした。

((……そろそろあの子が戻ってくる頃だ。あとは二人でゆっくり話でもして過ごせ。お茶とクッキーくらいは用意しておく。それと……))

猫はデスクから飛び降り、去り際に振り返って言った。

((可愛いからといってあんまり意地悪してやるな。最後くらい、ひねくれずにきちんと向き合ってやれ。お前も[ピーーー]の端くれならばな))

「最後までおせっかいなやつめ」

他にも言いたい文句は山ほどあった。
が、一方で妙な親しみと寂しさが心に蓋をし、言葉が出なかった。
猫はもう消えていなくなっていた。



「…………さて」

僕は深呼吸し、腕時計に目をやる。
べつに時間が気になったわけじゃない。
いつもの癖だ。

時計の針は12時を指したまま止まっていた。

僕はいつものようにスーツの襟を正し、ネクタイを締めた。

コンコン、とドアを叩く音がした。

僕は反射的に「どうぞ」と叫び、入口に向かって駆け出した。

ドアを開けると、藍子がぽかんとした表情でそこに突っ立っていた。

「Pさん! こんなところで何やってるんですか?」

「……あ、藍子さんの方こそ、今までどこに……」

僕は不意に緊張し、しどろもどろになった。

「どこに……そうそう、大変だったんですよ! あのあと突然、変なところに飛ばされちゃったんです。Pさんも鷺沢さんもいないし、どうしよう、って……さすがに私も焦りました」

「大丈夫だったのか?」

「はい。あの黒猫さんが道案内してくれたんです。たぶん、ですけど……それで黒猫さんの後を追いかけてたら、ちょうどここに」

僕はひとまず安心してホッと胸をなでおろした。

「そういえば、黒猫さんを見かけませんでしたか? こっちに走って行ったはずなんですけど……」

「ああ、そのことなんだが……」

と、途中まで言いかけて、

「とりあえず中に入ろう。お茶もクッキーも用意してあるんだ。まあ、ゆっくりできるといいんだが」

藍子はますますぽかんとした様子で、僕を不思議そうに見つめてばかりいた。


「それで、最初の質問とさっきの質問の答えなんだけど」

応接間のソファに座り、お茶を二人分テーブルに並べて僕は言った。

「実はさっきまであいつとお喋りしてたんだ。まあ、そこまで悪い奴じゃなかったよ」

いちいちキザったらしくて回りくどい奴ではあるが、と付け足したかったが、やめた。
自嘲の苦々しい笑みが思わずこぼれてしまう。

藍子はそんな僕の様子を相変わらず不審そうに眺めていた。

「あいつ、って、あの猫さんのことですか? お喋りって、えっと……」

「ここは夢の世界だろ? 猫とお喋りするくらいどうってことない。ちなみに、鷺沢さんが言ってた制約についても実のところ問題ない。ぶっちゃけると、この世界は全部僕のものなんだ。だから僕が何をしようと夢に飲み込まれることはない。たぶんね」

「ふぅん、そうなんですか……よく、わからないですけど」

それはそうだろう、と僕は心の中で頷いた。
こんなことを突然言われてすぐ理解できる方がどうかしている。

「正直、どう説明したらいいか僕も分からない。とにかく大事なことなんだが、話して信じてくれるかどうか……」

僕は言葉に詰まった。
そして今更ながら迷った。

藍子に本当のことを話すべきだろうか?

場合によっては藍子の親も友達も、何もかもを失うかもしれないのだ。
単に天使の血を引いているというだけの、何も知らない16歳の女の子が背負うにはあまりにも重すぎる真実だ。

藍子は僕とは違う。
こんな残酷な選択に、藍子を巻き込む必要はない。

「いいんです。話してください。全部」

「え?」

僕の心を見透かしたように、藍子はきっぱりと言い放った。

「最初に言ったじゃないですか。これはPさん一人の問題じゃない、って。それに私も、ここに来るまでの間で少しずつ分かってきたんです。自分がどうしてここにいるのか、そして何をするべきなのか……」

藍子のまっすぐな瞳の奥に、熱く燃えるもうひとつの眼差しが見えた。

「アイコ……なのか? そこにいるのは……」

彼女は曖昧に首をかしげて、そして言った。

「黒猫さんと一緒に見てきたんです。この星の記憶、天使アイコの記憶を辿って……なんだか不思議な感覚でした。私の知らない、私の記憶がどんどん蘇ってくるんです。あそこにいるのは私なんだ、って」

「じゃあ、どこまで知って……」

藍子は、今度は首を横に振って答えた。

「分かったのは、天使たちは元々この星とは無関係で、本来は手の届かない別の星たちだった、ということだけです」

「そうか……」

僕はテーブルの上に置かれた茶碗に手を添え、何をするでもなくじっと黙った。

目の前の少女は、今や藍子でもアイコでもない。
僕たちの欲望に取り込まれた夢の住人でありながら、天使の記憶を宿しているために幻にもなりきれない、哀れな狭間の犠牲者だった。

「すまなかった」

出し抜けに放った一言を、藍子は違う意味にとらえて言った。

「私の方こそ、ごめんなさい。Pさんの事情も考えないで、知った風なこと言って……私が悪いんです」

一瞬、何のことか分からなかったが、あの時の口論のことだと気づいて、僕は首を横に振った。

「いや、悪いのは僕だ。何もかも、僕のせいなんだ。藍子さんを巻き込んだのも、これから起こる事も、全部」

藍子が突然、可笑しそうに笑いだした。
そしてまた不意に真面目な顔つきになって、

「またそうやって一人で抱え込んで……だいたい、巻き込んだって言いますけど、巻き込んだのはどちらかというと私の方なんですよ。正確には私のおじいちゃんですけど」

僕は咄嗟に反論しかけたが、藍子のおじいさんの名前が出てきた途端、あのお節介な猫を思い出して、なぜか少しだけ愉快な気分になった。

「……はは……それもそうだな。まったく、いい迷惑だよ」

「ふふっ」

藍子が笑い、僕も笑った。


二人が初めて出会った時のことを思い出す。
平和な町の片隅に、花を愛でながら慎ましく暮らしていた彼女の元を初めて訪れた時のことを。
ひまわりの海に浮かぶ小島で追いかけた憧れの姿を。
街中の小さな公園で、カメラを片手に野良猫とじゃれていた彼女と出会った時のことを。

すべてが昨日のことのように鮮やかに、そして遠い昔のことのように懐かしく蘇る。

きっと僕たちはそうやって今まで何度も出会ってきたんだ。

「お茶のおかわり、いる?」

「ありがとうございます。あと、このクッキーってもしかしてPさんが焼いたんですか?」

「まさか」

藍子は「誰が焼いたんですか?」とは言わなかった。
いただきます、と言ってクッキーを一口齧ると、いかにも美味しそうに目を輝かせた。

「おいしいです」

「そうか。それはよかった」

「それに、なんだか……懐かしい味」

僕は何も答えなかった。

立ち上がり、二人分のお茶を淹れて戻ってくると、藍子がクッキーを頬張りながら泣いていた。

「どうした? 大丈夫か?」

「ぐすっ……ご、ごめんなさい……急に、おじいちゃんと、おばあちゃんのこと、思い出しちゃって」

「……すまない」

「どうして、Pさんが、あ、謝るんですかぁ」

僕はただ、すまない、としか言えなかった。

だが、そんなことを言う資格が僕にあっただろうか?
僕の中に眠る、彼女の祖父の不器用な愛情を心底恨めしく思った。
それはもはや僕自身の後悔として、埋めようのない罪悪感とともに僕の心を締め付ける。

涙に濡れた目をぬぐい、藍子は強がるように笑ってみせた。

きみのおじいさんは最低な男だよ。
本当に。


【問8】

1.物語はここで終わる。しかし、本文中ではその結末が具体的に語られていない。この後、予想されるPの選択とその結末として最もあり得るものはどれか。以下の選択肢からひとつ選べ。
(A) 星の夢を目覚めさせ、地上の魂をすべて無に帰す。
(B) 星の夢を目覚めさせ、現実世界に戻る。
(C) 星の夢をもう一度眠らせ、終わりのない永遠の夢を見る。
(D) 星の夢をもう一度眠らせ、藍子と一緒に日野食堂のカレーを食べに行く。


2.次にあげる文章のうち、もっとも深く愛を表現しているものはどれか
(A) たぶん、もうPさん一人の問題じゃないと思うから
(B) 藍子はどこだ?
(C) 愛こそがすべて
(D) きみのおじいさんは最低な男だよ。


3.あなたがPの立場だったらどうするか。100字以内で述べよ。
ただし、もし決断を保留した場合、誰も救われないものとする。


4.あなた自身の天使に対する想いを、残り時間と余白が許す限り書き記せ。
特にないのであれば、この物語の感想を手短に述べよ。



以下余白


























.

*――――試験終わり!
*回答が済んでいる者も済んでいない者もただちに用紙を伏せなさい。


*……さて、最後に私からいくつか伝えておくことがある。

*まずは、本試験を脱落せず最後までやり抜いた諸君ら受験生たちの高い志を称えよう。よく頑張った。結果はどうあれ、ここで得た経験は何物にも代えがたい価値として諸君らの糧になるだろう。

*そして感謝を述べよう。諸君らの、未知への好奇心と真実への探求心がなければ本試験は生まれなかった。ありがとう。

*これにて本試験の行程をすべて終了とする。各自、気を付けて帰るように。




*ああ

*それと言い忘れていたが

*今回の試験内容は会場を出た時点で読んだ者の記録から自動的に消去される。
*当然、試験部外者と問題を共有できないようにするためだ。

*ただし

*消去されるのはあくまで共有可能な記録である。

*この物語の"思い出"については


*その限りではない。

以上です
ありがとうございました

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