渋谷凛「フロッシュゲザング」 (28)

フロッシュゲザング、と言うと大抵の人は首を傾げる。
聞いたこともないと困ったような顔をして、説明を求めてくるのが普通だろう。

私もかつて、そうだった。

その後で、輪唱で有名な両生類の歌が聞こえてくるやつ、なんて説明をしてやれば大抵の人は「ああ」と得心して、最後には鼻で笑う。

最初からそっちで言ってよ、と。

私もかつて、そうだった。

振り返ってみれば、こんなような仕様もない思い出ばかりの気がするが、今更言ってもそれこそ仕様もない。

この思い出についてはいろいろな感情がありすぎて、どう説明したらいいか私自身よくわからないのだけれど、とにもかくにもこの感情を共有すべく順番に語るとしよう。


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春。
四季のひとつ。
冬と夏の間。

高校に入学して、買ってもらったばかりの電子辞書の文字列を読み流して、閉じる。

冬の間は中学生だった私は、この春に晴れて高校生となった。

では、夏になる頃には何者になっているのだろうか。
なんて、名状しがたい不安を飲み込んで、カーディガンのポケットへ両手を差し入れる。

学校指定のそれはふわふわとした生地で、ポケットに両手を落ち着かせていると、幾分か気が紛れるような心地がした。

それゆえか、入学して間もないにもかかわらず、私は堅苦しいブレザーのジャケットとは疎遠となり、このカーディガンを常に身に着けるようになっていた。

差し入れた右手に、乾いた感触が当たる。

ここに入れたんだっけ。

はっきり覚えているくせに、忘れていたようなふりをしてそれを取り出して、膝の上に置く。

はがきよりも一回り程度大きい紙が四つ折りにされている。
されているというよりも、したのだけれど。

私はその封印を解くように、ぱたりぱたりと開いていって表に並ぶ文字に視線を落とす。

『入部希望届』

ただの五文字のはずのそれは、たったそれだけの情報量で以て私の気分を地の底へと落とす。
提出期限が間近に迫っていた。

周囲のクラスメイトの多くは既に自身が入る部活動を決めていて、早くも練習に参加している。

一方で取り残された私は、うじうじと遠回りをして帰路を辿り、目に入った公園のベンチでこうして、うじうじとしていた。


そう。
自分がうじうじとしていることは私自身、とうによく理解していた。

だが、どうにも決定打のようなものがなかったのだ。

これだ、と思うような運命的な出会いもなければ、かねてより打ち込んでいたこともない。

そのため、うじうじとしているのだった。




やがて、ひとしきり意味なくうじうじと考えたあとで、全ての思考打ち切るように私はため息を吐いた。
そして、吐き出したそれから目を逸らすように首の動きだけで空を仰ぐ。
すっかり葉桜となった青々とした緑の間に、紫色の空があった。

夕方。
一日の中の区分のひとつ。
昼と夜の間。

などと、先ほど電子辞書で調べた春の項目に倣って考え、くだらないと鼻を鳴らした。

目を閉じる。
風の音。
それに伴って木々が揺れる音。
車が走っていく音。
だむだむ響くゴムボールのような音は、ひとつ隣のバスケットボールのコートからだろうか。

これはこれで、音楽だった。

目を開ける。
これだけの時間で、空の紫は少しだけ深くなっていて、葉っぱとの境界も曖昧となっている。
視線を泳がせる。
ハザードランプを明滅させ、公園の沿道に黒色のセダンが停まる。
ひとつ隣のバスケットボールのコートでは体格の良い男性二人がワンオンワン、という簡易的な試合に興じている。

今見聞きした音と、光景。
これらの中で一番この公園に不似合いなのは、異物なのは、どう考えてもベンチで黄昏ている女子高生だろう。

そんな自嘲をしてみたあとで、私は立ち上がる。
片手でスカートを払って、大きく伸びをした。

帰ろ。

思いは、自然と口をついて出ていたようで、ぼそりと私の声が宙に澱む。
何故だかそれがいつまでもそこにあるような気がして、吹き飛ばすように息を吹いた。
追い討ちに、手でも払ってみる。

そんなとき、背後でくつくつと押し殺すような笑い声が響いた。

「ごめんなさい。面白くって。ふぅー、って。あはは」

軽い会釈と共に口を開いたのは、スーツに身を包んだ男だった。
背丈は私より高そうで、それなりに整っている体型に合わせて作られたのであろうスーツが様になっていた。
だが、第一印象は最悪だった。
見ず知らずの女子高生が気を抜いているところを目撃して、あまつさえそれを指摘して笑うなんて常識がない。

なんて、自身が気を抜いていたことは棚上げし、私は怒りの矛先を目の前の男に向けるのだった。


「……で、何」

精一杯の敵意を向け、睨む。

「車で走っていたら、これが」

私の氷点下の視線など気にも留めず、男はけろりとして左手に持った何かをひらひらとさせる。
目を凝らして見れば、それは『入部希望届』だった。

「え」

慌ててポケットに手を差し入れるが、期待した感触はない。
間違いなく、私のものだった。
恥ずかしさやら何やらで自分の顔が紅潮していくのを自覚するが、止められない。

「貴方のものみたいなので、お返ししますね」

お手本のような営業スマイルで差し出される私の入部希望届を、半ばひったくるようにして取り戻す。

「用は済みましたよね」

落とし物を拾ってくれた相手に対して、かなり礼を失する言い方である。
そう頭で理解はしている。
だが、からかわれたことで頭に血がのぼっていたせいで、このような返事になってしまった。

「ごめんなさい。笑って気分を悪くさせたかな。このままお互い後味が悪いままお別れするのもアレですし、五分くらいお話ししません?」

男はそんな私の態度に怒ることなく、視線で自動販売機を示して「好きなもの、奢りますよ」と笑った。

「コーヒーは飲めないかな。飲めます? カフェオレが無難かなぁ!」

そうして、男は私の返答を待たず勝手に歩いて行って、自動販売機の前で声を張り上げている。

「なんでもいいです!」
「えー?」

公園の端と端で、繰り広げられるそんなやりとりはどう見てもばかげている。
というより、近くへ寄っていけばよかった、と声を張り上げたあとで私は後悔をするのだった。




「渋谷凛さん。渋谷さんはご実家がお花屋さんで、高校一年生。今は入部したい部活がなくて、悩んでる。そんな感じなんですね」

飲み干したのであろうブラックコーヒーの缶を「もうないや」と振って、男は私の現状をまとめてくる。

そんな感じなんですね、という言い方はあまり良い気がしなかったが、そんな感じなので反論しようもなかった。

というより、あれこれ話している内にこの男に、それとなく現状をヒアリングされてしまっている自分に驚きだった。

「渋谷さん。迷惑かもしれないんだけど、スカウトしてもいいですか?」
「え?」
「私は、芸能プロダクションでプロデューサー、っていうお仕事をしてます」

スーツの内側から彼は名刺ケースを取り出すと、中から一枚抜いて恭しく差し出してくる。
受け取ったてのひらサイズのその紙には、男の名前と芸能プロダクションの名前。
それから、連絡先やら彼の肩書やらが並んでいた。

入部希望届の四分の一以下のサイズであるのに、入部希望届よりも情報が詰まっているな、と余計なことを私はまたしても考えていたが、今はそのような場合ではない。
いろいろと訊くことがある。


「……えっと。まず、何にスカウトされてるの?」
「え? 言ってなかったっけ」
「…………」
「ごめんなさい。アイドルです。アイドル。やってみません?」
「アイドル……って。あの?」
「はい」
「歌って踊る?」
「歌って踊るし、踊って歌う」
「……」

再び、受け取った名刺に視線を落とす。

「じゃあ、こうしましょう」
「……はい」
「あれに、私が勝てたら渋谷さんはアイドルになる」

あれ、と彼が視線で示したのはひとつ隣のバスケットコート。
だむだむと音を響かせて、相も変わらずワンオンワンに興じている体格の良い男性二人だった。

「……勝てるんですか?」
「勝てないと思うなら、渋谷さんに損はないでしょう」

確かに、この男の体型は悪くない。
が、バスケットコートで汗を流している人たちに比べたら劣る。

何を言い出しているのか訳が分からないが、それはヤケクソのようにも思えた。

「勝てる勝てないは置いておいて、この賭けって私に得がないですよね」
「あ、気付いた?」

あはは、と笑って男は立ち上がる。
こんなバカげた賭けに乗るのは、阿呆だけだろう。

だが、理由はわからないが乗ってやろう、と思っている私がいた。

「だったら、勝てたら体験入部っていうのは?」
「……体験? アイドルに? 渋谷さんが?」
「うん。入部はいきなりだから、体験」
「できるかなぁ。まぁ、いろんな人に頭を下げればできるかなぁ」

男はぶつぶつと言ったあとで、ジャケットをベンチに脱ぎ捨てる。

そうして、真っ白なカッターシャツの袖を捲り、腕をぶんぶん振りながらバスケットコートへと歩いて行った。


「少年たち! 勝負だ!」
「はぁ? 何だよ。おっさん」
「おっさん!?」
「おっさんだろ、どう見ても」
「いや、まだ二十代なんだけどなぁ!」
「俺らから見たらおっさんだろうが」
「そうやって、君らは一歳でも年齢が上の者をおっさん扱いしてきたのか!」
「はぁ? つーか、俺ら今年が最後なの。邪魔しないでくれる?」
「インカレに出てたくせに、私の顔を知らない?」
「なんでインカレ出てたって……おっさん、もしかして有名?」
「よく思い出してみるんだ」
「……あ! もしかしてプロのスカウトか!?」
「ご明察! プロのスカウトだ」
「スゲー! 俺らのとこにも来たじゃん!」
「まだ時間はあるだろうが、味見というやつだ」
「プロのスカウトってバスケうまいんすか?」
「それは、やってみればわかる」

頭が痛かった。
ついでにお腹も痛かった。

遠巻きに見ているだけで、腹筋が捩じ切れるかと思ったほどだ。
彼とバスケットボールの人たちによる、絶妙に噛み合わない会話を聞かされたあとで、目の端に溜まった涙を私は人差し指で払う。

もしかしたら私は、とてつもない阿呆の話に乗ってしまったのかもしれない。

後悔は既に遅かった。




「おっさん……じゃなくて。スカウトマンさん、うまいっすね」
「いやいや、やはり私では手も足も出なかったな」
「でも、フェイクまじうまでした。一回切られてミドル決められたし」
「じゃあ、私の勝ちだな」
「えー。まぁ、そっすね。勝ちっす」
「あはは。大人げなくてごめんな」
「…………ちなみにどこのチームのスカウトか、聞いてもいいすか」
「それは、まだ早いだろう」
「ヒントだけでも!」
「いやいや」
「えー! じゃあ、ホッパーズ! ラビッツ! フロッグス! ……あ、その反応はフロッグス!?」

録音はそこで途切れていた。

「え。私、アイドルになるの?」
「え? そういう賭けでしたよね?」
「だって、ぼこぼこに負けてた……」
「今の録音聞きましたよね? 勝ちです」
「…………」
「でも、ほら。体験入部ですから。合わないなぁ、やめたいなぁ、ってなったら相談してもらえれば!」
「プロのスカウト、って嘘ついてたの、どうするんですか」
「いや、プロのスカウトですよ。現にこうしてスカウトしてる」
「でも、ふろっぐす? ってチームのスカウトだと勘違いさせてましたよね」
「こちらからは何も言ってないですよ。相手が勝手にカエルのチームだと思っただけです」
「ちゃんと否定しないと」
「でも、あながち間違いではないと思うんですよね。フロッグス」
「アイドルってカエルなの?」
「フロッシュゲザング、って知ってますか」
「え?」
「輪唱で有名な曲です。両生類の歌が聞こえてくるやつ」
「……ああ。かえるのうた?」
「そう。原題はフロッシュゲザングって言うんですけど」
「最初からそっちで言ってください。あと、なんの関係が」
「だから、かえるのうた」
「……それが?」
「歌ってください」
「は?」
「今、ここで。渋谷さんの声、素敵だと思うんですよね」
「なんで」
「担当するアイドルの声質、今の実力、その他にも今知っておきたいので」
「……アンタが私のプロデューサー?」
「そうです」

ああ、もう。と頭をかく。
わけがわからないし、何もかもが良いように振り回されている気がしないでもないが、今更嫌だと逃げ出すわけにもいかず、私は腹をくくる。

そうして、夜の路上で、かえるのうたを熱唱させられたのだった。




ボイトレ。
ボーカルレッスン。
ダンスレッスン。
お化粧の講座や、演技の指導。などなど。

アイドルとなってから繰り返すことになる、というレッスンの数々を体験させてもらい始めてから二か月が過ぎた。
過ぎてしまった。

わかったことと言えば、アイドルはそこらの運動部並みかそれ以上にハードな練習を日々こなしているということくらいで、その他のことはよくわからないままだった。

わからないままだったが、不思議と嫌だと思うことはなかった。

昨日できなかったことが今日はできる。
今日知らなかったことを、明日の私は知っている。
そんな一歩ずつの成長を毎日感じられるのは、楽しいとすら思っていた。

「入るよ」

ドアノブが下がる音と、ノックと声の全てが同時。
そのノックに意味はあるのか、と訊いてやりたかったがもう何度も訊いてはけらけら笑ってかわされるので、無駄であることを私は知っている。

「入ってるでしょ。もう」
「今日も汗だくだなぁ」
「頑張ったからね。ダンスレッスン」
「お疲れさまでした。はい、スポーツドリンク。好きなやつ」

はい、と手渡されたスポーツドリンクは程良く冷えていて、汗ばんだてのひらにじんわりと気持ちがいい。


「好きなやつ、なんて言ったっけ」
「え。いつもおいしそうに飲むから、好きなのかなって」
「運動したあとのスポーツドリンクはなんだっておいしいと思うけど」
「好きなやつ、で相違ないじゃん」

広々としたレッスンスタジオに二人。
私は床の上で運動後のストレッチに励んでいたため、自然と見上げる形になる。

「まぁ、ありがと。実際、助かるよ」
「でしょう。できる男なんですよ」
「できるとこ、まだ見せてもらってないけど」
「二か月、凛さんと一緒にいるのに」
「二か月、私のレッスン見に来てるだけでしょ」

二か月毎日、この男はこうして私のレッスンを覗きに来る。
もちろん、今日のようにレッスン中には間に合わないこともあったし、かなり遅くなることもあるけれど、どういうわけか毎日スポーツドリンクやらなにやら、差し入れをもってやってくる。

当然のことだが彼も彼の業務があるらしく、日によっては話す時間は十分に満たないことも多かったものの、それでも毎日顔を見て話している間に、自然と打ち解けていた。
というよりも、彼が私の懐に入り込むのが上手だけだった気もするけれど。

そんなふうにして彼と接している内に、彼の馴れ馴れしさに甘える形で私も敬語が抜けて、彼も彼で私のことを「渋谷さん」と呼ぶことはいつしかなくなって「凛さん」と呼んでくるようになっていた。


「明日はボーカルレッスンだったか」

私の隣へ、彼もぺたりと座り込んで言う。

「そうだよ。いつもの先生」
「早めに都合つけて来るようにしよう」
「別に、聴きたければ歌ってあげるよ」
「じゃあ、フロッシュゲザングって知ってる?」
「それはもういいから」
「なんで。素敵だったのに」
「あれは私の黒歴史。だいたい、こうやってボイトレとか、ボーカルレッスンとかで私の実力はすぐわかるのに、あんな往来で歌わせるなんて悪ふざけでしょ」
「いや、意味はあるよ」
「どんな?」
「保険かな。このスカウトの価値を確かなものにしたかったから」
「……私が、人前でも歌えるかどうか、みたいなこと?」
「そうそう。もちろん、そういう度胸は場数を踏んで身に着けて行くものでもあるんだけど、ほら。どうしても性格的にできない人もいるからさ」

彼の言うことは、確かに理解できた。
あのままスカウトを進めたとしても、いざステージに立たせてみて「できませんでした」は、通らない。

「ただ、最初に声をかけた時点で凛さんの才能は確信してたよ」
「才能?」
「うん。目を奪う才能。人を惚れさせる才能、と言い換えてもいいな」
「……それ、私に一目惚れしましたって告白になってるけど大丈夫?」
「事実、そうなんだよ。それで、どうにか話せたらいいなぁ、と思って。わざと怒らせた」
「は?」
「プライド、それなりに高そうに見えたから。逆撫でしたら怒るかな、って。でも、悪い子には見えなかったんだよ」
「そう? 私、ピアスとかネックレスとか、制服着崩してるのとか、あんまり良い子にも見えないと思うんだけど」
「電子辞書と整頓された鞄。あとは、ぴかぴかのローファと、爪かなぁ」

ひとつひとつを挙げて、指を四本立てて、私に見せる。
そして、私が理由を問う前に「ピアスやネックレスをするのに、爪は普通ってことはピアノでもやってるのかなぁ、とか。あとはローファがぴかぴかなのは、入学してからほとんどまっすぐ登下校してるからじゃないかな、とか」と事も無げにすらすらと彼は、言う。
あの一瞬でそこまで見透かせるものなのだろうか。


「もちろん、予想が外れたこともあったよ。例えば爪は、おうちがお花屋さんだから、水仕事がある関係でしてないとわかったし」
「で、なんで怒らせるって選択になるの」
「良い子なら、落とし物を拾ってくれた人に強く当たったらちょっと罪悪感があるものだろ」
「…………全部、作戦だったんだ」
「そう。全部作戦。幻滅した?」
「ちょっと」
「でも、そうまでしてでも欲しかったんだよ」
「バスケは? あれも仕込み?」
「あれは違う。本当にワンオンワンやることになるとは思わなかったけど」
「汗だくになって、今にも死にそうな感じで帰って来たもんね」
「翌日、ベッドから起き上がるのすら辛かったからなぁ」

あはは、と出会った時のような顔で彼は笑う。
二か月という期間の中で、それなりにこの男を理解できていると思っていた私は、一瞬にして突き放されたような心地がして、なんだか嫌だった。

「今の話、なんだけど」
「うん?」
「私にする意味、なかったよね」
「ああ、そうだなぁ」
「じゃあ、どうして」
「一回、これまでに築いた信用を崩しとかないといけないと思った」
「なんで?」
「計算とか演技とか、そういうものの上にある信用は綻ぶんだ」
「……そういうものなのかな」
「というよりも、凛さんに隠し事はしたくなかったってのが本音。体験って言ったのに、二か月間こんなにも真剣にレッスンに取り組んでくれている相手に後ろめたいことがあるのは、気持ち悪い」

それを聞いて、私はふーんと鼻を鳴らす。
彼が先ほどした話がそのまま彼にも該当する、と気付いてしまった。

「良くしてくれた相手に、強く当たっちゃったら罪悪感があるものなんだっけ」
「そうなんだよ。自分でやっといて、日に日に苦しくってさ」

眉を下げて、心底懲りたように彼は呟く。
能力はあるくせして、不器用な男だ。


「ねぇ。紙、ある?」
「紙?」
「前に見せてもらったやつ」
「前に?」
「なんで、あれだけ洞察力があるアピールしたのに、察しが悪いの」
「え? どういうこと?」
「契約の紙!」

「え!」という彼の今日一番の声が広いレッスンスタジオに響く。

「よろしく。プロデューサー」
「はい。こちらこそ、凛さん」
「凛でいいよ。それとも、『プロデューサーさん』に私も直したほうがいいのかな」
「あはは。やっぱり、良い子じゃん」
「またわざと怒らせてる?」
「え。俺の笑い声ってそんなに腹立つ?」
「冗談だよ」
「人が悪い」
「ふふっ、ほら。早く契約のやつ、出して」
「えっと。それなんだけど、凛は未成年なので保護者の同意が必要です」

私とプロデューサーの間に、数秒の沈黙が流れる。
そうして目を見合わせたあとで、二人して噴き出すのだった。

「じゃあ、プロデューサーの初仕事は、私の両親の説得だね」
「土下座でもなんでもござれだ」
「絶対しないでよ。私の家の前、結構人通りあるから」

のっそり立ち上がったプロデューサーに続いて、私も立ち上がる。
ややあって、彼は私の顔を覗き込んで「ちなみに、凛のお父様って怖い?」と訊いてきたので「すごく」と返してやった。



いつだったか。
「できる男なんですよ」と私のプロデューサーがそう自称していたことがあるが、どうやら嘘ではなかったらしい。
私がそれを思い知ったのは、正式に彼の担当アイドルとなってから、すぐだった。

曲ができただとか、衣装が届いただとか、お仕事が決まっただとか。
その手のビッグニュースは毎日聞かされている気がするし、何より劇的に忙しくなった。

息つく暇もない、というのはこういうことを言うのだろう。
なんて、どこか他人事のように思うのも半ば習慣となっている。

「凛。大丈夫か」

窓の外を流れる景色を、見るでもなく眺めていると右側からの温かな声が私を現実に引き戻す。

「ん。ぼーっとしてた?」
「してたよ。話しかけても生返事だった」
「んー。疲れてるのかな。それか、まだ現実感がないのかも」
「……まぁ、無理ないか」

プロデューサーが短く息を吐く。
再び窓の外に視線をやると、流れていた景色がゆるやかに形を取り戻して、車が停止した。
正面に視線を移す。交差点で右折待ちをしているようだった。

「ライブハウス形式とは言え、初めての千人規模だったもんな」

プロデューサーが言って、私を見る。
かちかち鳴るウィンカーの音がやけに耳に響いて、それが煩わしく私は右折し終わってウィンカーが鳴り止むのを待ってから口を開く。


「私、千人の前で歌ったんだよね」
「実感、ないか」
「あるよ。あるんだけど」
「けど?」
「私がやった、って気がしないんだよね」
「……どういう」
「なんて言えばいいんだろ。用意されたレールの上、みたいな」
「俺に走らされてる、ってか」
「んーん。プロデューサーには感謝してるんだよ。いつも気にかけてくれるし、私結構めんどくさい性格してると思うんだけど、懲りずに向き合ってくれるし」
「……でも、今日見に来てくれた千人は凛のために、チケット代を払って、凛のために二時間声援をくれていたわけだろ」
「うん。ファンのみんなは大事だと思ってる。それに、ありがたいとも」
「何かしながら、する話じゃなさそうだなぁ」
「え?」
「ちょっと冷えるかもだけど、良い公園があるんだよ」

彼は優しく微笑んで、車線を変更し通りを折れる。
彼の言う、良い公園がどこを指しているのかはすぐに見当がついて、私は「ああ」と返した。

「あの公園、ね」




こつり。
助手席から左足を降ろせば、アスファルトと打ち合って軽い音が鳴る。
プロデューサーの革靴も同様で、順番に四回。
最後にばたん、ばたんとドアが閉まる音が二回。
それらを経て、彼が歩いていくのに従い私も続いた。

「何から、話そうかな」
「ごめん。別に現状に不満があるわけではないんだけど」
「いやいや、そういう違和感は放っておかないほうがいい。話してくれて嬉しいよ」
「……うん」

んー、と彼が伸びをするので、私もそれに倣う。
伴って、肺いっぱいに冷たい空気が流れ込んできて、ライブ後の高揚感を程よく冷ましてくれているみたいだった。

「もし、勘違いだったら自惚れてると笑ってくれていいんだけど」
「うん」
「凛はさ、今の凛の活動……というか、人気が俺に用意されたもの、だと感じてるんじゃないかな」
「え」

実際、そうだった。
私としてはレッスンを頑張って、頑張ってひたすらにやっていると、彼がやってきて曲やら衣装やらを渡される。
同じように、お仕事も。


「それはさ、違うんだよ。全部、凛が持って来てくれたんだよ」
「でも」
「例え話。してもいいか」

話の流れを千切って、プロデューサーが脈絡なく自身の話題へ引き込むのはいつものことだったが、今日だけは違った。
私の了解があるまでは、何も言わない。
そんな意思が感じられるような面持ちで、てくてくと歩き続けている。

やがて、私も彼も無言のまま例のベンチまでやってきてしまう。

「いいよ。例え話」
「……凛は甘いもの、ケーキとか。好きだよね」
「まぁ、うん」
「じゃあ、ケーキ屋さんだ。ケーキ屋さんがあるとする」
「どんな?」
「なんでもいい。凛が一番好きなケーキ屋さんを思い浮かべてくれたら、それで」
「わかった」
「そのお店の前に、一人店員さんが立っている」
「うん」
「で、言うわけだ。ここのケーキは世界一です。損はさせません。一度食べてみてください、って」
「……」
「さて、晴れてケーキは飛ぶように売れるようになりました。これはどうしてだろう」
「だけど」
「だけど、じゃない」

言って、唐突にプロデューサーは立ち上がる。
それから、三歩ほど歩いて私の正面に立ち、こちらを指でさした。

「いいか。俺の売ってるケーキはな。世界一なんだよ」

仁王立ち、というやつを決めて彼は得意げにふふんと笑う。
それを見て、どうしてか私はちょっとだけ視界が霞むのだった。
その後「どう? かっこよかった?」と訊いて来たので台無しだったが、そこはそれ。
このぐらいが丁度いいのかもしれない、などと私は思ったのだった。




「さて、せっかくだし何か飲んで帰ろうか。奢るよ」
「カフェオレが無難じゃないかな」
「俺はブラックでいいんだけど」
「たまには甘いのも飲んでみたら?」
「そうかなぁ」

甘いのよりも今は苦いのの気分なんだけどなぁ、だとかなんとかぶつくさと言いながら自動販売機のほうへと歩いていくプロデューサーの隣を、私も歩く。

事件が起きたのは、その直後だった。

「あー! あのときのおっさん!」

野太く、鋭い声がして、私たちは同時に振り返る。
そこには体格の良い男性二人組がいた。

間違いなく、あのときプロデューサーが私のスカウトに巻き込んだ二人組だった。

「少年たち! 元気だったか!」

プロデューサーもプロデューサーで、唐突にキャラクターを演じ始めて二人組に向け手を広げる。
だが、逆効果のようだった。

「元気だったか、じゃねぇんだよ!」
「え?」
「俺ら、あれからしばらくしてフロッグスの人に会ったけど、お前らみたいなの知らねぇ、って言われたんだけど!」
「…………あー」

今にも掴みかかってきそうな剣幕で、ずんずんこちらへ歩いて来る二人組に、私は思わず後ずさる。
それをかばうように、プロデューサーが前に出てくれて、私の視界は濃紺のスーツの後姿のみとなった。


ああ、どうか。怖いことが起こりませんように。

ぎゅう、と目を閉じて私は祈る。


「まぁ、結果オーライってやつなんだけどよ」

果たして私の願いは叶えられ、二人組の片方がそう言って、どういうわけか笑う。

プロデューサーの背中越しに、だむだむとゆるやかなドリブルの音だけが聞こえた。




「君らガッツあるなぁ」
「いや、おっさんほどじゃねぇよ。おっさんは実際は何者なんだよ」

ベンチに男三人、ぎゅうぎゅうと腰掛けて、私は一つ離れたベンチに座っている。

何がどうしてこうなったのか。
一部始終を見ていても、わけがわからなかった。

「前に言っただろ。プロのスカウトだよ」
「はぁ? だから、フロッグスの人は」
「だから、バスケットボールのスカウトだなんて言ってない」
「……あー? あー! そういうことかよ。じゃあ、あれだ。そこの女の子は芸能人ってわけだ」
「君ら知らないの? あの子。結構人気出てきてるんだけど」
「俺らバスケばっかだから」
「でも、それでフロッグスに一年契約もらったわけだろ」
「それは、おっさんのおかげ」

だはははは、と三人が大声を上げて笑う。
なんでも、男性二人組はプロデューサーのことをプロチームのスカウトだと勘違いしたまま、関係者の人に会うことになり、それをそのまま話したところ、大変なことになったという。
というよりも、大変なことにしたらしいのだが。

そして、その場で揉めた結果、プロチームの監督に実力を見てもらえることになって、契約まで行ったのだと言うからさらに驚きだった。


「名前、教えてくれよ」
「俺の?」
「おっさんじゃなくて、その子」
「ああ。彼女は、渋谷凛さん」
「おっさんが俺らに絡んできたとき、その子をスカウトしてたんだろ」
「ああ、うん。そうだよ」
「じゃあ俺らにとったら、チャンスのきっかけをくれた女神ってわけだ」
「それを言うなら、俺が君らの恩人にならないか?」
「いや、おっさんはその子がいなかったら俺らになんて、絡みに来なかっただろ」
「まぁ、そうか」
「だから、お礼をしようと思うんだ」
「え?」
「仕事、やるよ。ギャラどれくらい出せるか知らねぇけど」




男性二人組が「仕事」と言ってからの、プロデューサーの変わりようと言えばすごかった。
テキパキと決めるべき約束事を交わしていき、取るべき言質を抜け目なく取っていた。

どちらかと言えば、この男はプロデューサーよりも詐欺師のほうが向いているのではないかとすら思うほどだ。

「で。さっきもらった、おっさんの名刺の事務所に、ウチのチームから連絡してもらえばいいんだよな」
「うん。でも、いいのかな。君らのデビュー戦のオープニングアクトなんだろう」
「ウチのチームが予算内だったら好きな芸能人呼んでいいぞって言うんだから、俺らの勝手だろ」
「……いいなら、いいんだけど」
「それに、次の春までになるだろ。もっと有名に。呼べるのが奇跡なくらいのやつにさ」
「弊社の渋谷なら、余裕です」

プロデューサーと二人組はにやりと笑ったあとで、順番に握手を交わしている。
その後で「ね。渋谷さん!」と、急に蚊帳の外にいた私に話を振ってくるのと、人前だからか謎に他人行儀なのが面白くて私は笑ってしまいそうになりながら「そうですね。余裕です」と、同じく他人行儀で返す。

「言うじゃん」
「応援、よろしくお願いします」
「渋谷凛さん? って、なんか持ち歌とかあるんすか。いや、オファーしといて何も知らなくて失礼なんすけど」

問われて、一度プロデューサーを見る。
彼も視線を返してくれて、何も言わずにこくりと頷いた。

そのジェスチャーを私は「好きにやっていいよ」と受け止める。


ようやく今、いつかに彼が「アイドルがカエルであることは間違いではない」と言っていた理由がなんとなくわかったかもしれない。

プロデューサーのよくわからない連想ゲームに始まって、私が歌って、バスケの人たちがプロに入って、またプロデューサーのところへ戻ってくる。
そして、最後には私の元にお仕事として帰ってきた。

輪唱みたいだ。

そうだ。

なら、こうしよう。




「フロッシュゲザング、って知ってますか」


終わりです。ありがとうございました。
SS速報さんが復活していることを知らず、こちらへの投稿が遅れましたことお詫び申し上げます。

渋谷凛さん、今年もお誕生日おめでとうございました!
世界で一番大好きです。

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 02:14:00   ID: S:2tCseC

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