少女「覚めない悪夢にようこそ」 (104)
一次創作のオリジナル長編小説です。
不定期投稿です。
何か反応をいただけると元気になるので、積極的に構ってください。
お仕事や勉強等の合間にお楽しみいただけると嬉しいです。
※残虐表現を多く含みます。
【1】
また、この夢だ。
無数に並ぶ三角フラスコ。
透明なカプセルに詰め込まれ、並べられた鼠達。
生産されていく死骸、死骸、死骸。
捨てられていく。
愛も知らずに。
情も分からず。
ただ消費され、投げ捨てられていく。
流れている曲。
「Oh,Happy day」の陽気な曲。
鼠たちの断末魔。
「次はこれか……」
頭の上から声がする。
首筋を捕まれ、持ち上げられる。
私は暴れた。
しかし、横目で立てかけられていた鏡を見て、硬直する。
何十、何百回と私はここで硬直する。
そして私は……。
金切り声の叫びを、上げるのだった。
◇
悲鳴を上げて飛び起きる。
目の玉は飛び出しそうに見開かれ、心臓は破裂しかねないほどの勢いで激しく脈動を繰り返していた。
頭を押さえる。
内側から金槌で叩かれているかのようだ。
ガンガンガンガンと痛む。
霞む視界の焦点を無理矢理に正面に合わせ、少女は着ていた真新しい病院服の胸を掴んだ。
ハァハァと荒く息をつく。
汗が鼻を伝って下に流れ落ちる。
ひどい夢だ。
何十回見たか分からない夢。
「…………」
数分して呼吸が整い、少女は顔の汗を手の平で拭ってから大きく息をついた。
軽く頭を振って、横になっていたベッドの縁に腰掛ける。
カラカラと換気扇が回る無機質な音が、部屋にただ反響していた。
鳶色の瞳に、淡い金髪をした美しい少女だった。
年の頃は十四、五程だろうか。
病院服に下着。
その他は何も身に着けていない。
意識がやっと現実世界にフォーカスし、彼女は周りを見回した。
「何……ここ……」
小さく呟く。
そこは、四方が白い壁に囲まれた、独房のような部屋だった。
窓はない。
換気扇だけがカラカラと回っている。
天井には壊れかけているのか、点滅を繰り返す白熱灯ひとつだけ。
床はサビで汚れていた。
しばらく周りの異様な光景に唖然としていた少女だったが、やがて恐る恐る裸足の足を踏み出した。
そして、部屋の片隅に設置されていた手洗いと便器に近づいた。
便器の中には砂が詰まっている。
水道の蛇口をひねっても、水も何も出なかった。
「…………」
呆然として、脇の錆びた扉を見る。
鉄格子がはまっているが、少女の背丈では届かず、また向こうは暗いために様子をうかがうこともできない。
おどおどしながら、彼女は扉のノブを掴んで回そうとした。
途端、ボロリとノブが腐食部から折れた。
取り落として後ずさった目に、ギィ……とドアが少し開いたのが見えた。
少女はドアを力を入れてこじ開け、その隙間から外に出た。
◇
泥の不快な感触が足の裏にまとわりつく。
黒い粘性のそれを踏みながら、彼女は肩を抱いて小さく震えた。
寒い。
凍えそうだ。
吐いた息が真っ白になる。
そこは、無数に鉄格子がついたドアが並ぶ、細長い通路だった。
開いているドアもあるが、閉まっているのが大半だ。
生き物の気配はない。
かろうじてトンネルのような通路の天井に、等間隔に取り付けられた電球たちが、時折
「ジジ……」
と音を立てるだけだ。
前後に広がる不気味な通路を見て、彼女は泣きそうな顔で震えた。
どこだ、ここは。
私はどうしてここにいるの?
考えた瞬間、ズキィ、と側頭部に抉りこむような痛みが走った。
悲鳴を上げて頭を抑え、泥の中に崩れ落ちる。
冷たい泥をもう片方の手でかきむしる。
頭が割れそうだ。
痛い、痛い、痛い。
絶叫して泣きわめく。
気づいた時には、彼女は泥にうつ伏せに倒れていた。
体が氷のように冷え切っていた。
気絶していたらしい。
頭痛は消えていたが、震えが止まらなかった。
薄暗がりの中で体を起こした彼女の耳に、そこで甲高い、耳障りな……少年のものとも、少女のものともつかない声が飛び込んできた。
「おはようアリス。今日は十七回目の『何でもない日』だね。何でもない日、おめでとう!」
耳元でケタケタとやかましく笑われ、アリスと呼ばれた少女は慌てて飛び起きた。
そして尻餅をついてあとずさる。
「おめでとう、おめでとう、腐った世界にようこそ! 血肉になりにようこそ!」
何だ、と叫ぶ暇もなかった。
視界の端に、電灯の灯りでギラついた何かが見えたからだった。
短く悲鳴を上げ、彼女はその場に頭を抑えて崩れ落ちた。
凄まじい金属音がして、石造りなのだろうか……背後の硬い壁に、「何か」がめり込んだ。
それを見上げて彼女は唖然とした。
口元が震えだし、体が萎縮する。
今まで少女の頭があった場所に、草刈り鎌……にしてはかなり巨大な黒光りし、湾曲した鎌の刃が刺さっていたのだ。
「んんんんん……?」
怪訝そうな声がした。
少女の前には、人間大のぬいぐるみのような物体が立っていた。
ボロボロになって、ところどころ綿が飛び出している。
ボタンの目をした、薄汚れた兎のぬいぐるみだった。
「それ」はモーターのきしむような音を立てながら、腰を抜かしている少女に覆いかぶさるように近づいてきた。
「避けたね? 避けた! 避けた!」
けたたましい声で笑い、兎のぬいぐるみは手を伸ばし、鎌を壁から抜き取った。
石が削れる耳障りな高音。
そのギラつく刃と、兎の体が何かで汚れているのを見て少女は硬直した。
……血……?
それを認識する前に、兎のぬいぐるみが、パカッと口を開けた。
「おめでとうアリス! 今日も君の命日だ!」
意味不明なことを叫んだその口の中から、機械じかけの回転ノコが飛び出してきた。
絶叫し、少女は抜けている腰を無理やり奮い立たせて駆け出した。
彼女の肩を浅く回転ノコが薙ぐ。
痛みと熱さを感じる前に、少女は全速力で薄暗い通路を駆け出していた。
「逃げるのかいアリス! いいよ! 久しぶりに遊ぼう! 鬼ごっこだ!」
ケタケタと笑いながら、血に濡れた兎は短い足を踏み出した。
◇
斬られた肩が激しく痛む。
血が止まらない。
肩を手で押さえながら、少女は扉が開いていた部屋の中に体を滑り込ませた。
過呼吸のように荒く息をしながら、彼女は部屋の中……錆びてボロボロになったベッドの脇に、震えながらしゃがみこんだ。
どこまで走っても、通路は途切れなかった。
何十何百と鉄格子がついた扉が並んでいた。
錆が濃くなってきたところで少女の体力がなくなり、彼女は近くの部屋に逃げ込んだのだった。
歌が聞こえる。
この歌は、何だろう……。
調子っぱずれの甲高い声に、耳障りなメロディ。
「Oh,Happy......day」
ひひ、という笑い声とともに、鎌で床を擦っているのか、先程の兎が歌いながら近づいてくる。
「臭い臭いぞ! アリス! 血の臭いだ! 腐った血の臭いがするぞ! 近いぞ近いぞ!」
金切り声でヒステリックに喚く兎の声。
少女は慌てて肩の傷を手で押さえ、息を吸い込んで必死に止めた。
「息を潜めても無駄だよォ……血は止まらないからね! 臭い臭い血が止まらないよ! 傷は腐ってドロドロになって、ヘドロになって流れ落ちる! おめでとうアリス! 今日は腐敗記念日でもあるね!」
意味不明なセリフとともにケタケタと笑いながら、兎の足音が部屋の入口で止まった。
「ここだ! ここが凄く生臭い! 臭い臭い臭い臭い! ハッピーデイだね!」
兎が入ってきた。
飛び出しそうな心臓を必死に落ち着かせようとして、少女は体をちぢこませた。
ズシャリ……ギリギリ……と音が聞こえる。
失禁しそうな恐怖の中、兎はベッドの前で足を止めて、鼻歌を歌い出した。
その声が段々近づいてくる。
少女は必死に目を閉じて、体を小さくした。
いつまで経っても何も起こらなかった。
しかし歌は聞こえる。
目の前だ。
少女は一分経ち、二分経ち、そっと薄目を開けて様子を伺おうとして……金切り声の悲鳴を上げた。
目の前に逆さまの兎の首があったのだった。
巨大なぬいぐるみの首の部分が千切れてケーブルのようなもので伸びている。
そして、頭がぐるりと上を経由して、少女のことを覗き込んでいたのだ。
「こんばんわ、アリス!」
けたたましい声でケタケタと笑い、カパッと口が開く。
そこには錆びた釘が、尖った部分を外側に向けて歯のようにいびつに並んでいた。
ゆっくりと回転ノコがせり上がってきて、錆びた刃が回転を始める。
腰を抜かしてベッドに背中を押し付けた少女の眼前で、回転ノコが止まった。
そして兎がゆらゆらと頭を揺らす。
ノコに頬をかすめられ、少女が悲鳴を上げる。
兎のボタンの目が無機質に揺れる。
「ああ、アリス。アリス、おお……アリス。好きだよ。大好きだよ。だからすぐには殺さない。まず指を一本ずつ落とす。そして足の爪を剥がす。一枚ずつね! 目を抉ろう! 鼻をそごう! 耳を千切ろう! 断末魔の歌を聞かせておくれよ!」
回転ノコが少女の目の前で揺れる。
「君の綺麗な声で、僕をもっと昂ぶらせておくれ! ああ興奮する! 嬉しいね! 記念日だね!」
「助けて……」
少女は頭を抑えて、強く目をつむった。
「誰か助けてええ!」
ケタケタケタと甲高い声で兎は笑った。
嬉しそうな声で。
愉しそうな声で。
そして回転ノコが少女の頭を切り刻む軌道で近づいてきて……。
◇
少女は、ハッと目を開けて周りを見回した。
一面血の海だった。
床に綿と何だかよくわからない物体が飛び散っている。
血で体中がびしょ濡れになりながら、彼女は呆然と体を起こした。
目の前に兎の首が落ちていた。
「ヒッ……」
と声を上げて怯えて硬直する。
口を半開きにし、舌のように回転ノコをだらりと下げたぬいぐるみの首が転がっていた。
千切れたケーブルから、血のように赤黒い液体が流れている。
「な……何が……」
小さく呟いて立ち上がり、振り返って少女は息を飲んだ。
胴体から袈裟斬りに分断されたモノが、突っ立っていた。
床に転がった上半身と、下半身がゆらゆらと揺れながら立っているのが見える。
下半身の切断面から、ピュ、ピュ、と血液のような液体が断続的に噴き上がっていた。
震え上がった少女の前で、ゆらりと揺れたぬいぐるみの下半身が倒れる。
途端、それが細切れになって床に濡れた音と共に崩れ落ちた。
切断面は何か刃で切ったように鋭利だ。
ところどころコードと、肉の塊のようなブヨブヨしたものが覗いている。
ぬいぐるみの胸に当たる部分の肉が、心臓の鼓動のように脈動していた。
それが徐々にゆっくりとなっていき、そして止まる。
あたりに浅黒い血の池が広がった。
それに素足を浸しながら、少女は呆然と突っ立っていた。
……生き物……?
これは生き物だったのだろうか。
しかし確かに肉は動いていた。
飛び散っているのも血のようだ。
しかしコードも見える。
何だ……。
これは……。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
訳がわからない。
そこで少女は、天井の白熱電灯に照らされた壁を見て息を止めた。
何か巨大な肉食獣の爪で薙いだように、壁一面に無数の切り傷がついていたのだ。
石造りのそれに、おびただしい数の抉り傷がついている。
兎は、それにやられたようだ。
「誰が……」
小さく呟いた時、彼女は背後から
「君だよ、アリス」
と声をかけられて、弾かれたように振り返った。
男の子の声だった。
血で濡れたベッドの上に、小さな猫がゆらりと現れちょこんと立っていた。
今まではいなかったのに、まるで蜃気楼のように現れたのだった。
そして猫は、にやりと口の端を歪めていびつに笑って見せた。
泥のような真っ黒で、鮮血のような赤い瞳をした、異様な雰囲気の子猫だった。
尻尾に白いリボンが結んである。
周りを見回した少女に、猫は口を広げた。
「君が殺したんだ。そのラビットをね」
猫の方から声が聞こえる。
混乱した顔をした少女に、猫は続けた。
「僕だよ。君の目の前にいる僕が今喋りかけてる。僕の名前は『ラフィングキャット』……ラフィと呼んでくれていい」
ラフィ、と名乗った猫は少女の方に赤い眼を向けて、小さく笑った。
「どうしたんだい? アリス。目覚めているんだろう? 早くここを出よう」
「あなた……が、喋っているの?」
恐る恐る問いかけると、ラフィは頷いて前足で頭を掻いた。
「うん。うん、そうだよ。僕のことがわからないかな、アリス」
聞き返され、少女……アリスは震えながら首を振った。
「アリス……? 私はそんな名前じゃ……」
そこまで言って、アリスは言葉を止めて愕然とした。
……名前……?
私は、何という名前なのだろう。
思い出せない。
それ以前に、今はいつで……。
ここはどこで……。
私は、どうしてここにいるのか。
そして、ここに来る前は……。
一体、どこにいたのか。
何もかもが全く、思い出せない。
わからない。
頭の中に靄がかかったように、不快感だけが広がって浮かんでこないのだ。
「あ……あれ……?」
混乱している風なアリスを目を細めて見て、ラフィは大きく欠伸をした。
「今度の君は、いろいろと障害が起こってそうだね。ラビリンスのシステムも、いい加減ガタが来てるから仕方ないのかな」
「ラビリンス……?」
「分からないならいいよ。説明するのも骨が折れるしね。君の名前はアリス。悪いけど、僕にはそれ以上のことは分からない」
ラフィはそう言って、血溜まりの中にパシャ、と着地した。
そしてそれを踏みしめながらアリスに近づく。
「その様子だと、まだ混乱してそうだね。だったらここをすぐに離れた方がいい」
「お……教えて猫さん! ここはどこ?」
切羽詰った声を上げたアリスに、ラフィはくすくすと笑って答えた。
「『ここがどこか?』……凄く面白い問いかけをするね。答えてあげたいけど、それは僕も知りたい永遠の命題だよ。でも、ここが『どこ』で、『何』なのかっていうのは、答えたり考えたりしても仕方がないことなんだ。どうせアポカリクファの終焉が訪れたら、みんな暗闇に還ってしまうからね」
「え……え?」
突如訳のわからないことを言い出した猫に、アリスが困惑しながら何度か瞬きをする。
「それと、僕は猫じゃない。ラフィと呼んでほしいな」
どう見ても猫なのだが、口元を歪めてそう言うと、ラフィは足元の血溜まりをペロペロと舐めた。
吐き気を抑えたアリスに向けて、しかしラフィは弾かれたように顔を上げてから続けた。
「……やっぱり。君の血の臭いは濃すぎる。だから早く離れたほうがいいって言ったのに」
え? と問い返そうとしたアリスの背筋が凍った。
「……Oh,Happy....day.....」
「Oh...Ha...pyy....day......」
「.......Oh......Happy........」
複数の声がする。
細切れになった兎の声と、同じだ。
しかし何体も……通路に声が反響して、鎌をこする音と共に足音が近づいてくるところだった。
「ヒッ……」
縮み上がったアリスの方を見上げて、ラフィは言った。
「今の君に、もう一度セブンスを使えと言っても無理だろうね。だったら逃げるが勝ちさ。ナイトメアには、なるべく接触しないほうがいい。来て、『外』まで案内しよう」
「この……兎みたいなの、一つじゃないの……?」
「聞こえるとおりさ。ラビットは、ナイトメアの中でも働き蜂だからね。相手をしていたらきりがない。それに、君は今怪我をしている」
「…………」
肩の怪我を手で押さえたアリスに、ラフィは押し殺した声で言った。
「それはよくない。とてもよくないね。君の血液は、ナイトメアが涎を垂らして欲しがるものだから。その臭いをさせてる限り、あいつらはどこまでも追ってくる」
「ど……どうすれば……」
「とりあえず『外』に出るよ」
「う、うん……」
頼りなさげに頷いて、アリスはラフィの後に続いて部屋を出た。
そして駆け出した猫に続いて走り出す。
「アリスだ!」
「アリスだアリスだ!」
「生きていたんだね! 今日は記念日だね!」
「おめでとうおめでとう!」
ケタケタケタケタケタと通路に甲高い笑い声が反響する。
そして走って足音が近づいてくるのが聞こえた。
全速力で、死にもの狂いに駆けながら、アリスは恐怖と混乱で泣きじゃくっていた。
その目の前で、ラフィが半分開いていた赤い扉の中に体を滑り込ませるのが見える。
慌てて後について部屋の中に入る。
「ここだよ」
息も切らさず、ラフィは淡々と言った。
部屋の壁に亀裂が走り、眩しいほどの白い光が中に差し込んでいた。
「ナイトメアは光の下には出てこれない。乾いてしまうからね。『外』に出れば、一安心さ」
「う……うん!」
アリスは頷いて、ラフィに続いて亀裂に近づいた。
丁度子供一人は通れそうなくらい、石造りの壁が砕けている。
彼女は息を吸って、そこに体を滑り込ませた。
◇
「まずいぞまずいぞ……」
仮面をつけた奇妙な物体が、暗がりの中でせかせかと動き回っていた。
人間のようにも、何かの歪なモニュメントのようにも見える。
キチキチ……という歯車の鳴る音を響かせながら、その「男」はクローゼットを乱暴に漁っていた。
「ああ、ああ! お茶会に遅れてしまう! アリスが目覚めたと言うのに……」
悲哀に満ちた声でそう言い、「それ」は部屋に幾十となく整列している兎のぬいぐるみ達を見回した。
「あの子をジューサーにかけて、ギュゥゥゥゥッって足元から絞らなきゃ……新鮮なままでジュースにしないと! ああ、ああ忙しい忙しい」
頭が異様に大きな男だった。
頭身にすると四頭身ほどの、不気味なスタイルをした醜い男だ。
片目が義眼なのか、歯車の音とともにカチ、コチ、と回転している。
ヤニで黒くなった歯でガジガジと煙が出ているパイプを噛みながら、その男はけたたましい声で喚いた。
「私の帽子がない! 今の気分を表す素敵な帽子がない!」
クローゼットを乱暴に足で蹴り、彼はギリギリと歯ぎしりをした。
そして怒りに燃える片目を飛び出しそうに見開き、兎の一匹が差し出したシルクハットをむしり取った。
そしてところどころハゲた白髪の頭に被る。
「フム……フム」
小さく頷いて、懐からヌル、とラッパのような形をした散弾銃を抜き出す。
特に狙いもつけずに、彼は帽子を差し出した兎をそれで何度も撃った。
返り血がビシャビシャとあたりを汚す。
頭部と腹部がぐちゃぐちゃになり、痙攣しながら崩れ落ちた兎を蹴り飛ばし、彼は喚いた。
「行くぞ! 久しぶりの外出だ!」
◇
アリスはポカンとして、目を細めて周りを見回した。
太陽が燦々と照りつける空間が広がっていた。
上が見えない巨大な樹木が立ち並んでいる。
ラフィが赤い瞳をアリスに向けた。
「ここから離れよう。『夜』までは少し時間がある。傷の手当をしないと」
言われて、アリスはツタがはびこった石造りの建物……その亀裂から慌てて離れた。
亀裂の奥からけたたましい笑い声が聞こえる。
「あれ……何なの……?」
猫を追いかけながら震える声で問いかけると、ラフィは木立の中を歩きながら言った。
「ナイトメアだよ。覚えてないの?」
「ナイトメア?」
「ナイトメアはナイトメアさ。君が君であるように」
謎掛けのように軽い調子でそう返すと、ラフィは倒れていた朽木を登った。
アリスもそれを踏み越えて続く。
今度は、どこまでも続く森だった。
しかし、異様なほど生物の気配がない。
虫一匹見当たらない。
「気づいた?」
ラフィはそう言って、落ち葉を踏んで立ち止まった。
そしてアリスを見上げる。
「ナイトメアは『生き物』の血液が主食だからね。このあたりはあらかた狩りつくされてしまった」
「狩られた……? あの、兎達に……?」
アリスが問いかけると、ラフィは首を振ってまた歩き出した。
少女が慌ててそれに続く。
「違うよ。あれはただのレプリカ。血を集める働き蜂だからね。問題は、ラビットを統率してるオリジナル達がいること。そいつらはセブンスを使う。君と同じような」
よく分からない単語を並べて、黒猫は息をついた。
「このあたりは、ハッターの縄張りだから、あからさまに酷いね。今回の君は、とてもハードだ」
「ラフィ……さん? 私、これからどうすれば……」
「ラフィ、でいいよ、アリス」
小さな声で問いかけたアリスに優しく返し、ラフィは口の端を歪めて笑った。
「とりあえず、ナイトメアから離れて人間の集落に向かおう。夜になる前に。太陽が落ちたら奴らの独壇場だから」
「私……狙われてるの……?」
「そうだね。有り体な言い方をすればそうなる。正確には君の血が狙われてるんだけどね。それに……」
黒猫は淡々と言った。
「僕の能力は『喋るだけ』……君を守ることはできない。夜だけはシェルターに避難しないと、すぐに今回もゲームオーバーになってしまう」
「…………」
「アポカリクファの終焉まではまだ時間がある。人間達なら、薬や医療器具をもってる筈だから、君の怪我も治療できるかもしれない」
回転ノコで抉り切られた傷口からはまだ血が流れていた。
アリスは泣きそうな顔でそれを見て、そして視界に小川が流れているのを見て嬌声をあげた。
「水……!」
小さく叫んで駆け出す。
しかし、小川に近づいてアリスは硬直した。
流れていたのは水ではなかった。
黒い、コールタールのような液体が水音を立てて流れている。
「何……これ……」
呆然として後ずさる。
ラフィはそれをぴちゃぴちゃと舐めてから、アリスを見上げた。
「ダメだね。このあたりも汚染されてる。流石に君の体でも耐えきれないと思う」
「どういうことなの? これは水じゃないの?」
引きつった声で問いかけると、ラフィは首を傾げて考え込んだ。
そして小川を踏み越えて歩き出す。
「汚染された水さ。水ではある」
「汚染……? 何があったの?」
「アポカリクファの終焉さ」
訳の分からない問答をしながら、一人と一匹はやがて少し開けた場所に出た。
崖になっていて、なだらかな斜面の下の方……奥に白いドーム型の建物が見える。
「ここから一番近いシェルターはあそこだね」
スンスン、とにおいを嗅いで、ラフィは続けた。
「人間も生き残ってるみたいだ。それも多分、今晩までだろうけど」
「人がいるの……?」
「うん。とりあえずあそこまで頑張って。汚染されていない水もある筈だ」
アリスは何度も小さく頷いた。
裸足の足の裏は切れてしまい、そこからも血が流れている。
走り回ったことと恐怖で、体中が硬直していた。
足は悲鳴を上げている。
恐怖と混乱を振り払うように、アリスは崖を迂回して歩き出したラフィに必死についていった。
◇
数時間も歩き、太陽が少し傾いた頃、アリスとラフィは白いドーム型の建物、その近くまでやっと到達した。
へたり込んだアリスに頬をこすりつけ、ラフィが言う。
「よく頑張ったね。もう少しだから、立って」
「もう駄目……体中が痛くて……」
そこでアリスは、数個の足音が近づいてくるのを聞いてビクッとした。
またあの兎が襲い掛かってくるかと思ったのだ。
「人間だ。良かった。助けを求めよう」
ラフィがそう言ってアリスを見上げる。
「残念だけど、僕は人間達には見えない。声も聞こえない。君が話をしてくれないかな」
「え……? ラフィは、ここにいるじゃない……?」
「そうなんだけどね。人間の感覚って曖昧だから、僕達のことは認識できないらしいんだ」
ラフィがそこまで言った時、アリスは自分を取り囲むように足音が止まったのに気づき、顔を上げた。
そして硬直する。
……宇宙服みたいだ。
最初はそう思った。
ブカブカした白い防護服。
巨大なヘルメットをつけた男達が、驚愕の表情でアリスを取り囲んでいたのだった。
そのうちの一人が周りを見回して、急ぎアリスを抱え上げる。
「もう大丈夫だ。シェルターの中に避難するぞ!」
男性の声。
アリスはそこでやっと、張り詰めていた緊張がプツリと切れたように、一気に意識を失った。
◎作者より
外出しますので、一時更新を中断します。
◎作者より
帰宅したので、更新を再開します。
◇
黒い雨が降っていた。
どこまでも続く黒い雲から、黒い雨が止めどなく流れ落ちてくる。
「この世界は汚染されてしまった」
私の隣に立っている人が言った。
私は彼の顔を見上げた。
不思議なことに、彼の顔にはぐしゃぐしゃの金網を擦りつけたかのようなモザイクがかかっていた。
彼は、私達が立っている樹の下で、黒い雨粒を手で受けてから悲しそうな声で続けた。
「僕と、君のユートピアもこれでおしまいだ。アリス……残念だけど、物事にはすべからく終焉が訪れる」
彼はモザイクだらけの顔をこちらに向け、私を見下ろした。
私は彼のシャツの裾を掴んで、必死に言った。
「そんな……まだアポカリクファまでは時間があるよ。私が、あなたの魂を探し出してあげる。そうすればあなたも、この世界も消えずにすむわ!」
彼はしばらく私の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「それは無理だよアリス。終焉はもう、すぐそこまで来てる。君も、僕と同じような存在になってしまう」
「それでも……!」
私は彼の服にしがみついた。
そして頭を、その花の匂いのするシャツに押し付ける。
離したくなかった。
離れたくなかった。
彼のいない世界なんて、到底思い浮かべる事はできなかった。
「お願い……終わりだなんて、そんな悲しいことを言わないで。私も、あなたと一緒に連れて行って……」
「……ダメだ」
彼はしばしの沈黙の後、硬い口調でそう言った。
呆然として顔を上げた私に、彼は断固とした口調で続けた。
「君も僕と同じになってはいけない。君はもともと、この世界の住人ではないんだ。いずれ目覚めなければいけない。ラビリンスだって永遠じゃない。いつかは壊れる時が来る」
「…………」
「エラーを吐き出した時に、気づくべきだったんだ。こんな世界は、こんな汚染はあってはならないことだって。でも……」
彼は手を上げて、私の頭を自分の胸に引き寄せた。
そして樹に背を預けて、呟くように言う。
「君がここにいたから……僕にはラビリンスを止めることができなかった。本当ならあの時に僕はシステムと一緒に消えるべきだったんだ……」
「そんなこと……そんなことないよ。あなたは私を救ってくれた! 私をこんなにも助けてくれた! あなたは死ぬべきじゃない、生きるべきよ!」
私は必死に叫んだ。
彼の服を掴んで、黒い雨にかき消されないように。
泣きじゃくりながら叫んだ。
モザイク頭の青年はこちらを向くと小さく頷いた。
「泣かないでアリス。僕も、君のことは好きだ。愛している。だから、このまま何もしないで朽ちていくつもりはない」
「でも……でも!」
「君は帰るんだ。こんな汚染された世界からは抜け出して。元の世界に戻るんだ」
彼ははっきりそう言って、私の頭を優しく撫でた。
「大好きだよ、アリス。ここで、僕達はお別れだ。ラビリンスが完全に停止する前に、君は君のワンダーランドに、早く戻るんだ」
◇
ゆっくりと目を開ける。
しばらく、ここがどこだか分からなかった。
周囲を沢山の人が歩き回っている。
視線を横にスライドさせると、薄い防護服とヘルメットをつけた人達が周りで何か計器を操作していた。
体にかけられていた毛布を押しのけて、上半身を起こす。
ボロボロになっていた病院服は脱がされ、ゆったりとしたズボンとシャツを着せられていた。
「…………」
ポカンとして周りを見回す。
少し広めの、手術室のような部屋だった。
ガラス張りの壁に囲まれている。
アリスが起き上がっているのを見て、近くを歩いていた男性が声を上げた。
「エンジェルが目を覚ましたぞ!」
(エンジェル……?)
その声を聞いて、周りの大人達が一斉にこちらを向いた。
「おお……良かった!」
「目が覚めたぞ!」
「空気を抜け! 汚染レベルは低い」
「食事を持ってくるんだ!」
バタバタと動き出した周りを戸惑いの目で見ながら、アリスは近づいてきた男性に目をやった。
男性がヘルメットを脱いで、アリスに会釈する。
顔面に深い切り傷がある、壮年の男だった。
目の部分に一文字に疵が走っている。
怯えたような顔をしたアリスに、男は慌てて笑顔を作ると、優しく言った。
「おはよう、小さな天使さん。ここは第十五シェルターの中だよ。気分はどうかな?」
静かな声に少し安心して、アリスは小さく声を発した。
「シェルター……?」
「外に倒れていた君を保護した。夜になる前に助けられて良かったよ。なにせ、このあたりは崩壊の度合いが強い」
「…………」
「おっと、自己紹介が遅れたな。私はジャック。このシェルターの管理者をやっている」
「ジャック……さん?」
「ああ。君の名前を教えてくれるかな?」
問いかけられ、アリスは少し躊躇した。
その視界に、自分が寝かされているベッドの隅にラフィが丸くなっているのが見える。
ラフィは顔を上げると、アリスを見て口を開いた。
「大丈夫だよ。この人間達はナイトメアじゃない。無害だ」
ラフィの声は周りには聞こえていないようだ。
それどころか、事前に言っていたように、そこに猫がいることも認識していない様子だった。
アリスは息をついて、ジャックを見上げた。
「アリス……と、言います……」
尻すぼみになって、自信なさげに声が消える。
ジャックは俯いてしまったアリスを見下ろし、困ったように鼻を指先で掻いた。
そこに、トレイの上にパンと水が入ったコップ、そして美味しそうなにおいを発しているスープが入ったお椀が乗ったトレイを、別の男が運んできた。
そのにおいを嗅いで、アリスのお腹がグゥと鳴る。
喉がカラカラで、お腹も空いている。
体がとてもダルかった。
「君の傷の手当もさせてもらった。少し縫ったけど、すぐ良くなると思う」
ジャックにそう言われ、アリスは自分の肩を見た。
包帯が綺麗に巻かれている。
もう痛くない。
足にも包帯が巻きつけてあった。
「とりあえず、お腹に入れるといい。その後、少し話を聞かせてくれないかな?」
◇
のろのろとパンとスープを食べ終わり、アリスは倦怠感の中、やっと息をついた。
歩き続けたことで、体力は限界に差し掛かっていた。
ニコニコした優しそうな顔の壮年の女性にトレイを渡し、アリスは静かな笑顔でこちらを見ているジャックと、数人の男性達を見上げた。
「ありがとうございます……でも、どうして……」
「どうして」と口に出したが、まず何を聞いたらいいか分からずに言葉を飲み込む。
少女の様子を見て、ジャックが近くの椅子に腰掛けた。
そして周りに目配せをする。
男性達は頷いて、ガラス張りの部屋を出ていった。
ジャックに任せるということらしい。
「私達に、君への敵意はない。それは分かるね?」
静かに問いかけられ、アリスは頷いた。
「あの……お食事と、傷の手当、ありがとうございます……」
頭を下げたアリスに、ジャックは手を振って答えた。
「そんなにかしこまらなくてもいい。所詮私達は、ドームの中でしか生きられない出来損ないだ。君達エンジェルとは違う」
「エンジェルって、何ですか……?」
伺うように問いかけた少女を怪訝そうに見て、ジャックは少し考えこんだ。
そして問いかけには答えずに口を開く。
「……どこから来たんだい? その様子だと随分歩いていたようだ。何かに襲われたようでもある」
アリスの脳裏に、けたたましい笑い声と、凶器を振り回す兎の顔がフラッシュバックする。
震えて肩を抱き、彼女は小さな声で答えた。
「ここから少し離れた……森の中の建物です」
「……『遺跡』から? どうしてまたそんなところに、君みたいなエンジェルが……」
戸惑ったような声でそう返したジャックに、アリスは何度も首を振ってから言った。
「分からない……何も分からないんです。気づいたら建物の中の部屋にいて。目が覚めたら……」
「アリス、それ以上は言わない方がいい」
そこで突然、足元からラフィの声が聞こえて、アリスは慌てて口をつぐんだ。
視線を下にやると、ラフィが赤い瞳を爛々と輝かせてこちらを見上げていた。
「ナイトメアの感覚は、人間には分からない。理解を促すだけ無駄だと思う」
でも、と言いかけたアリスの視線を追って床を見て、ジャックは問いかけた。
「目が覚めたら、どうしたんだい?」
やはりラフィのことはわからない様子だ。
アリスは数秒間迷った末
「追いかけられて……」
と小さな声で言って、俯いた。
ジャックは考え込んでから手を伸ばし、アリスの頭を優しく撫でた。
「もう大丈夫だ。遺跡に行く前にはどこにいたんだい?」
「それが……どうしても思い出せなくて……」
ジャックの温かな手の感触に、ジワ、と目に涙が滲む。
安心からだろうか、アリスはポタポタと涙を垂らしながら、両手で顔を覆った。
「ここはどこなんですか……? 私はどうしちゃったの……? 何も、何も分からない……」
「…………」
ジャックは息をついて、立ち上がってからアリスの隣に腰を下ろした。
そして彼女の小さな頭を抱き寄せて胸に引き寄せる。
びっくりしたような顔をした少女に、ジャックは言った。
「少しこのままでいるといい。安心するまで」
何度も頷く。
しばらくして、やっと泣き止んだアリスにジャックは口を開いた。
「ここは『ハッター』の領地だよ。その中でも、十五番目のシェルターに当たる」
「ハッター……?」
「私達が『ナイトメア』と呼んでいる悪魔のことだ」
その単語を聞いて、アリスは息を呑んだ。
「このワンダーランドは、変わってしまった……いつの頃からか、奴らはナイトメアとなり、私達を殺して回るようになった。このシェルターは、ナイトメアから私達を守る特別な石でできている。中にいれば安全さ」
「ナイトメア……って、何ですか?」
問いかけたアリスに、ジャックは少し迷ったようだったが答えた。
「それが分かったら、私達も少しはどうにか動けるんだがな……」
「…………」
「ナイトメアは目で見ることも、耳で聴くことも、臭いさえも感じることはできない。ただ確かに『そこ』にいるんだ。『そこ』にいて、私達を殺すスキを伺ってる」
目の疵を指でなぞり、ジャックは呟くように言った。
「私の妻と娘も、ナイトメアにやられた。目の前でね……切り裂かれて死んでしまったよ」
アリスは、細切れになり血を撒き散らした兎を思い出した。
吐き気が胸に湧き上がってきて、ジャックの服を強く掴む。
その頭を撫でながら、ジャックは言った。
「記憶喪失……と言っていいのかな。そんな状態の君に頼むのは気がひけるんだが、もう少ししたら一緒に来て欲しい」
「どこにですか……?」
不安そうな顔をしたアリスに、彼は続けた。
「長老に会って欲しいんだ。そしてエンジェルの力で、私達を助けてくれ」
◇
太陽が沈み、あたりを暗闇が包んだ。
生き物の気配がない森には、黒い水が流れる音と、樹木が風になびくザワザワとしたノイズ以外響いていない。
空には真っ白い満月が浮かんでいた。
数え切れないほどの星がきらめいているが、空の色はヘドロのように歪んでいる。
気味の悪い雰囲気、そして光景だった。
その中を足音も立てずに、俯いた大勢の兎人形と、頭が異様に大きな醜男が歩いていた。
男は鼻歌を歌い、手に持ったステッキを振り回しながら歩いている。
右目の義眼がカチ、コチ、という音とともに時計回りに回転しあらぬ方向を向いている。
そこで彼は、懐から
「ピリリ……」
という鈴の音がしたのに気づいて足を止めた。
軍隊のように、ボタンの目を赤く光らせた兎達も歩みを止める。
男は懐から金色の懐中時計を取り出し、蓋をパカリと開けた。
そこから、妙にざらついた女性の声が響く。
『ハッター! やっと出たかい! このトントンチキが!』
ハッターと呼ばれた醜男は、また鼻歌を歌いながら歩き出した。
兎達もそれに続く。
「何だい、赤の女王様様様じゃないか!」
ハッターがそう返すと、赤の女王と呼ばれた女性は、懐中時計の向こうでキンキンと喚いた。
『何してるんだい! お茶会はとっくに始まってるんだよ!』
「知ってる。知ってるさ。だけどちょっと大事な用事ができてね」
ハッターは崖下の白い壁に囲まれた建物を見下ろし、舌でゾメリと唇を濡らした。
「お茶会には少し遅れるが行くよ。そう、とびきりのお土産を持ってね!」
◎作者より
【2】に続きます。
今日の投稿はここまでにします。
良い夜を。
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