堀裕子「ぴーぴーかんかん?」 (86)

同級生くんのお話です
ユッコはあんまり出ません

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あの日から俺の心にはどうしようもないくらい大きく開いてしまった何にも埋めることの出来ない空洞がポツンと立っていた。

大学生になって初めてできた栗色の大きな瞳の彼女も、社会人になって知り合った肩にかかった小さなポニーテールを揺らす彼女も、そのどれもが俺にとっての目的にはなり得なくて、脆弱で怠惰的な臆病な心の空洞を埋めるための一つの手段に過ぎなかった。


1.七月


「んじゃまた明日な」
「おうじゃあな」

他の学校がどうかは分からないけれど俺らの高校の図書室は、普段使っている本棟から少し離れた旧校舎にある。
だからといって怪談でよく聞くような誰にも使われていない廃墟だとか、不良少年たちのたまり場だとか、そういう訳では決してなくて、ただの合併前の名残。
壊すのも勿体ないからと言って実験棟や図書館だとかの、普段あまり使われないような施設を偉い人たちが移した事がきっかけらしい。
と言ってもこれはただの表向きの理由で実際には、何か特殊な磁場がどうたらこうたらで生徒に危害を及ぼすきっかけがうんたらかんたらと言う噂もない事にはない。
(もっともその噂を流しているのは俺の知る限りでは一人しか居ないのだけれども)。

まぁ、結局そこら辺の話はどうであれ本棟から少し離れた、普段使いしないような旧校舎になんて誰も寄り付かない事だけは確かだ。
かく言う俺もあんな事がなければ、その校舎に寄り付かない一人に違いなかった。

新しいとも古いとも言い難いような雰囲気を纏った旧校舎の玄関を開けてから階段を昇って図書館へ向かう。
当たり前なのだけれども二階の廊下にも人は誰も居なくて、グラウンドの方から聞こえてくる野球部の掛け声だとか
どこか聞き覚えのある吹奏楽部の合奏だとかそう言う少し離れた場所から聞こえてくる喧噪が、古ぼけた窓ガラスから射す夕日に反射していた。

ふと窓を開けると風が吹いた。初夏を迎えた七月の涼しい風だった。いつまでもこの季節が続けばいいのにな。
なんて夢見心地な妄想を抱いてから、そんな事を考えている、どこか浮かれた気分の自分の事が恥ずかしく思える。

何と言うか、イマイチ言い表す表現が見つからないけれど最近の俺はどこかズレている。
今までならこう言う景色を見ても何とも感じなかったのに、今は誰かと、出来るなら彼女と、この景色を共有したいと考えている。


少なくとも良い意味でも悪い意味でも俺が俺らしくない。

さて、そんな自分の気持ちに封をしてから、図書室の扉の前で少し背伸びして中を覗いてみる。
幸か不幸かは分からないけれども彼女はまだ来ていないみたいだ。
ポケットに手を伸ばして手元のスマホで時間を確認してみると時刻は十六時と三十分を少し過ぎた辺り。

普段なら彼女は図書室の真ん中の席で超能力とか良く分からないオカルトの本だとかを読み漁っている時間なのだけれども
今日は彼女のクラスで英語の小テストがあると言っていたから、今頃はそれの居残り補修を受けているんだろうと思う。

多分だけれども。彼女に言わせればこれがテレパシーってやつなのかもしれない。根拠はないけれどもそう思う。
「よし」
握りっぱなしだったスマホをポケットに仕舞ってから扉を開け

「あっ! イツキさん!」
不意に後ろから声をかけられて心臓が跳ねる。後ろにいる人間なんて分かり切っているし、そもそもこんな辺境の図書室に来る人間なんて一人しかいない事も分かり切っている。

少しこわばった肩の息を抜きながら後ろを振り向いてみる。
「どうも! 気が合いますね! 」

そこには案の定というか思った通りというか彼女、堀裕子は居た。
 彼女の笑顔は夕日に照らされてとても眩しく思えた。

帰ったら続き投下します

2.四月


この図書室に入り浸るようになった理由と言うか、彼女と話すきっかけになったのは
それは俺がこの図書室の鍵を持っているから。と言う案外単純な理由に落ち着くんじゃないかと思う。

まだ入学したてのうすら寒い春の頃、俺は有象無象共とのジャンケン大会にて激闘の末に図書委員長と言う大層な名義を得た。
もっともそれは、図書委員長と言う称号を奪い合うジャンケン大会ではなく、日本人の美徳に相応しいような図書委員長を譲り合う大会だったのだけれど。

そもそも俺らの高校には図書司書と呼ばれる存在が居ない。
いや居ないと一口に言ってしまうのは違うし、正確には存在しているけれど今は名義だけの存在で
腰をいわして絶対安静中という深い理由があるのだけれど、
深堀して話をする内容でもないし、教育法だとか何かに引っかかってしまいそうなのでここでは割愛させて頂く

とにかくとして俺らの高校には司書が存在しなくて図書委員長にその仕事に近い役割を持たしているという少し特殊な点があった。
そういう訳で、ごく当然の事だけども誰も図書委員長なんて役割をしたがらない。

いくら旧校舎の図書館で全く人が来ないからと言って、面倒なことをわざわざ請け負う人間も居なくて
その結果が前述したジャンケン大会と言うある種の責任の押し付け合いみたいな事態になってしまっている訳だ。

まぁ、それで激闘の末に栄えある図書委員長と言う大層な称号を請け負ってしまった俺は
一週間に一度、図書室の掃除を行うという役割と共に、代わりの価値にもならない図書室の鍵を手に入れることになった。
彼女と初めて話したのは、それから数週間経った日の事だった

ある日、俺がいつもみたいに「やりたくないなぁ」だとか「面倒だなぁ」とか
そう言う人間なら誰でも抱えたことがあるだろう、その怠惰的な気持ちを抑えながら図書館に向かう廊下を歩いていると
今はもう誰も使っていない古ぼけた教室、その中に彼女は椅子に座って片手でスプーンを握りしめてそこに居た。

こんな事を言ってしまうもなんだけれども初めは幽霊なのかもしれないのだと思えた。
だってそうだ。これは定期的にこの旧校舎に出入りしている俺だから言えることだけど、この校舎で人影を見かけることはまず殆どない。

せいぜい迷い込んだ野良猫がたまに顔を見せるぐらいだ。
それに教室の窓越しから見える彼女の白い肌は窓越しに射す夕日に照らされて
まるでこの世の物だと思えないぐらいの儚さだとか、綺麗さだとか、切なさだとか、そう言った物を心のどこかに感じさせていた。

一分にも、五分にも、あるいは十分にも感じられるような、そんなオレンジ色の世界の中で先にはっと気づいたのは俺の方だった。
一応程度にドアをノックしてから教室の扉に手を伸ばす。
思っていたたよりも少しだけ重かったドアはガラっと軋むような鈍い音を立てて開いた。
教室の真ん中に居る彼女は、突然来訪した俺の事なんか気づいてもいないみたいに瞳を閉じている。

「何してんの?」
俺が彼女に初めて話しかけた時の、乾いた喉から出た言葉はそんな言葉だったと思う。
「むむ……ちょっと待ってください! もう少しで行けそうな気がするので!」
彼女はそう言って先の割れたスプーンを握りしめていた。
これが俺らのファーストコンタクトだった。
「あっ……来てます! 来てます! えぇーいスプーンよ曲がれ! むむむむーん!」
「……」
「……」

教室はビックリするぐらいに静かで俺も彼女も二人して黙りこくって
窓越しに伝わる野球部や吹奏楽部たちの放課後の音と窓辺からの夕日だけが
その空間を満たしているように俺にはどこか思えた。

「むむ……サイキック不調ですかね……夕日の力を借りてスプーン曲げに挑む作戦は悪くないと思えたんですが……あ、ところでどなた様でしょうか?」
「あ、えっと俺の名前はイツキ、樹木の樹って書いてイツキ」
「成程イツキさんですか! いいお名前ですね! 私の名前は堀裕子! サイキッカーです!」
「あぁ……なるほどサイキッカー……」

正直、この時の俺は彼女に聞きたいことが無限に存在していて、はてなでいっぱいだった。
なんでスプーン曲げに勤しんでいるんだとか、何でこの旧校舎に居るんだとか
そもそも施錠されて開かないはずの教室にどうやって入ったんだ、だとか

「あっ! その顔は何言ってるんだこの美少女って顔してますね……?」
「あっ……うん」
少なからず図星だった。彼女が美少女であるかどうかはともかくとして、何言ってるんだコイツって顔をしていたのは多分出ていたんだと思う、顔に。
「ふふふ……では今からズバリとイツキさんが何故この教室のドアを開けて私に話しかけたのか、それを当てて見せましょう」
「それはイツキさんがこの『超能力同好会』に興味があったからですね! 私には分かります!」

この時の俺は教室の外の方で風に揺らされた訳でもないのに、看板がカランとひとりでに落ちる音がした事を知る由もなかったし
ましてやその看板に手書きの丸文字で『超能力同好会』と力強く書かれていたことを知る由もなかった。

3.五月


それから俺は色々あって半ば無理やりの形だけれど『超能力同好会』に入部した。
自信満々に答えた彼女の鼻を折る気にもなれなかったし、それに俺はこの旧校舎に一人で居すぎたせいで
かなりの暇を持て余していたから相手が例え旧校舎に居座る野良猫だとしても
スプーン片手にサイキックに勤しむ超能力者だとしても話し相手が出来ると言うのはそれだけで有難い事だった。

これは俺が彼女と知り合ってしばらく経ってから知ったことなのだけど、どうやら彼女はこの学校では割と有名人の立場に居る人間らしい。
それこそ堀裕子と聞けば、この学校の誰もが「一年の超能力少女だっけ」だとか「あぁユッコちゃんね」って思い浮かべるられるぐらいには。

まぁ確かに彼女は自称サイキッカーで成績もかなり目立つ方だし
自らを美少女と公言できる程度の顔立ちも持ち合わせてはいるからm言われてみれば確かに目立つ方ではあるのかもしれない。

自分で言う事でもないのだけど、一方の俺はと言えば全くそんな事はなかった。
成績も取りとて目立つ方ではないし、運動が出来るわけでもなければ、クラスの人気者でもない。
特出した特技とか個性を持っているわけでもない。

自分でも自分の事はつまんねー人間だと思う。

「お前さ六組の堀って知ってる?」
その日は弁当を食ってたんだったか、購買で買ったパンを食ってたんだったか、別に俺が何食ってたかなんてどうでもいいんだけど、
一度さりげなく友人に聞いてみたことがある。

「なに?お前ユッコと関わりあんの?」
口にパンを詰めてそんな事を言う無駄な長身とガタイの良さが気持ち悪いその男の名前は藤井。
俺の小学生からの悪友だった。

「関わりって言う程でも無いだけど少し気になってさ」

そんな事をスマホ片手に答える。俺が藤井に向かって吐いたこの言葉は嘘でもないけど本当の事でもない。
『超能力同好会に数日前に入ってさ~今二人きりなんだよね~』
みたいな事を俺が言ってしまえば、女なら誰でも好きな藤井は多分図書室に入り浸るだろうと思ったから
それは普通に嫌だった。

「ん~あ~ユッコか~ユッコなぁ~あいつはあれだよな胸がでかい」
「またお前それかよ、しょうもねぇな」
「あ、あとあれだな顔が良い」
「お前ほんとそれぐらいだな」
「ん~まぁな、でもお前にだけは忠告しとくけどよ」
藤井はそう言って辺りを見回すしぐさをしてから小声で
「悪い事言わねぇからユッコ狙ってるなら辞めといたほうがいいぞ」
戒めるように俺にそう言った。正直こいつがこんな事を言うのはかなり珍しい。
「お前がそういう事を言うのも珍しいな、んで何で辞めといたほうがいいんだよ」
「えーとな……なんか、こう言う事を言うのもあれなんだけど……ユッコは良い奴なんだけど……なんつーか距離が近いんだよ」

藤井のその言葉は正直、思い当たる節が無い訳では無かった。
初対面の時から既にあっちは俺の事を下の名前呼びだったし、俺の「堀さん」って呼び方も
「私の事はユッコと呼んでください!是非!」でとうに押し切られてしまっていたから。

「まぁそんぐらいなら免疫のない男子が落ちるぐらいだろ、そんなに問題か?」
「お前もその免疫のない男子くんだろ」
パンをつまみながら藤井が言う。

「うるせぇな[ピーーー]ぞ」
「ん、まぁそこら辺は置いといて、あと一つ理由があるんだけどよ」
「おう」
「アホなんだよな、あいつ」

ユッコには悪いけれどこれも思い当たる節しかなかった。
何と言うかこれは彼女を知っている人間なら分かると思うのだけれど
彼女の持つ雰囲気にはおおよそ知性を感じさせないそう言った物がある。
それに加えて実際にアホなのだから、藤井のその評価も妥当だと思えた。

「で、これは何が問題なんだよ、赤点取ってヤバいのは本人だけの話だろ」
「まぁ別にこれだけならチャームポイントつーか取っつきやすいで済む話なんだけどよ、この二つが合わさってか知らねぇけど
ガチ恋勢つーか厄介なやつが多いんだよな皆口では「堀はねぇよ」だとか「堀はバカだからな」
とか言っておきながら実態はお互いに牽制しあってんだよ、くそきめぇよな」

何と言うか藤井の口調は汚い言葉であるけれど、どこかそう思えてしまうような納得感と、汚いぐらいにそう思えてしまう妙な生々しい実態感を持つものとして俺には感じられた。

「だからよ、これは俺からのアドバイスだけど、もし少しでもあいつに興味があるならとっとと告白してさっさと振られた方が身のためだぞ」
藤井は手元のパンの最後の欠片を口元に放り投げてそう言った。
「余計なお世話だよ、別に興味もねぇし、そもそもお前も彼女いねぇのに何様だよ」
「るっせぇな、作ってないだけって何回も言ってんだろ」

そんな事を話しているうちに鐘がなって昼休みは終わりを告げた。
帰り際に藤井は親指をこう真っすぐに立てて「ぐっ!」とポーズを取って教室に戻って行った。
あいつは無駄に勘の良いところがある。無意識か意識してかはか分からないけれど
前者ならそれは余計なお世話だし後者ならそれは甚だ勘違いに他ならないと俺は感じた。

4.七月

 
俺と彼女が話すときは決まって時間は放課後だった。

当たり前と言ってしまえばそうなのだけど、別に俺は彼女と特別親しい友人だとか
幼馴染だとか彼氏だとか、そういう関係柄って訳では無かったし、クラスも違えば必然と話す場所と時間は限られてくる。
だから彼女と話すのは放課後の図書室それだけだった。

別にルールとして決めた訳じゃなくて、自然にそう言う物として。

もっとも別に彼女と話す時間なんてものは、あっちからすれば深くは考えていないだろうし
俺も、ただの図書室に居る間の暇つぶしに他ならないと思っていたつもりだった。

「そういえば今日の英語の小テスト大丈夫だったのか?」
彼女にオススメされたオカルト本をぱたんと閉じて、椅子に腰かけたまま向かいに座る彼女に声をかけてみる。
「ふふふ……イツキさん! よくぞ聞いてくれました……」
 彼女は言うが早いが読んでいた本を閉じて俺の方を向きなおした。聞いた俺が言うのもなんだけれどこれはいつものあれだと思った。彼女のスイッチが入る瞬間。
「実はですね……今回の英語の小テストなんですが私が言うのもあれなんですけど、イマイチ分からなかったんですよね」 
「でも今回は補修受けなかったんだよな」
「そう! そうなんです! ではここで『超能力同好会』副部長のイツキさんに問題なんですが私こと、このエスパーユッコはどうやって危機を乗り越えたのでしょうか?」

 彼女はいつもの調子でそんな事を言った。自分でも気づかない間に、俺はいつの間にかこの部活の副部長になっていたらしい。
「うーん……テレパシーで他の人から答えを教えてもらったとか?」
 適当に答えてみる。結局のところ俺にはサイキックなんて分かりようもないし考えるだけ無駄だと思ったから。
「むむむっ!違います! それにサイキック能力を悪事に活用するなんてもっての外ですよ! 不正はいつかバレますからね!」

「じゃあユッコはどうやってその危機を乗り越えたんだよ」
「ふふふ……それはですね! 浮かんできたんです! 答えがこうブワーっと頭の中に!」
「それで点数は」
「六十点でした!」
「ちなみに平均は?」
「八十五点らしいですね!」
「そっか」
「あ! その顔は私の事をおバカだと思ってますね!」
 そんな風に彼女は言った。

図書室には古紙にインクが張り付いたどこか懐かしい匂いが漂っている。
悪く言えば古臭い匂いとも言うけれど何だかんだ俺はこの匂いと言うか、この世界を満たす空気が好きだった。
かつての校舎の名残。目新しい本なんてここ数年は取り扱っていないから、いい加減に並び順と内容を覚えてきた小説群や
馬鹿の一つ覚えみたいに並べられた学術書、均等に並べられた机、恐らく彼女しか触っていない超能力関連の本に
窓から射す夕焼け、吹奏楽部の演奏。

正直こんなことを言ってしまうのは凄く俺らしくもないんだけれども、彼女と話す時間は楽しかった。
初めはジャンケンに負けて、嫌々ながら決まったこの役割だったけど今となっては別に悪くもないのかなと思う。
一週間に一度、掃除のために訪れていたこの図書館も気づけば三日に一度、二日に一度になって
今となっては放課後になる度に通うようになっていた。

そこには少なからず『超能力同好会』の部室をこの図書室に移した彼女の影響もあるのだけれど
そこの部分を認めてしまうと、何だか心の端っこの部分が妙にむず痒しくなってしまうから俺はその事について認められずにいたし、認める気もなかった。

「あれ?イツキさん笑ってます?」
 彼女が言う。普段はアホ面晒してるだけなのに、こう言う所だけは無駄に察しが良い。なんて言うか人の気持ちを汲み取る能力に長けてるというか。
「笑ってない」
「隠さなくても大丈夫ですよ! 私はサイキッカーで全部お見通しですから!」
「……自販機で飲み物買ってくる」
「あ!待ってください!私も行きます!」
「ん……」
「イツキさんもしかして照れてますか?」
「照れてない」

図書室から廊下へ出ると、そこは紫と赤色をぐちゃぐちゃに混ぜた絵の具みたいな色に染まっていた。窓から零れた光が廊下に反射している。
「おー」
思わず窓へ近づく。外はパレット色に染まっていた。一日を一塊にしたみたいな色の空。

「わぁ綺麗……ですね」
俺より少しだけ遅れて廊下へ出てきた彼女が、そう言って窓際の俺の隣に立つと腕と腕が触れた。
窓に置いていた右腕と彼女の左腕。なんだかそんな事が無性に恥ずかしくなって腕をどかそうとする。

そうして隣の彼女と目が合った。

その瞬間、世界が呼吸を止めたようにそんな風に思えた。
窓から射す夕日が、流れる風が、刹那の時が、全てが俺のために時間を止めてくれているのだと
この瞬間の世界には二人しか存在していないのだと、そんな事を思わせてくれた。

それは実際に測ってしまえば二秒だとか、一秒だとか、あるいはもっと短い時間だったのかもしれないとも思う。
でもその瞬間は、彼女と目が合っていたその瞬間は、俺にとっては瞬きするより一瞬で、胸がはち切れるぐらいに長い一秒だった。

「……」
「……」
「イツキさん」
「顔、真っ赤ですよ」

グラウンドから吹いた熱い風は放課後のどこか涼しい雰囲気に紛れて、サイズの合わない俺の夏服だとか、
彼女によく似合う白いブラウスだとか、思春期の言いようのない漠然とした不安だとか
そう言うあの頃の俺に見えてた、広くて狭い世界の在り方の全てを通り過ぎて向こう側に消えて行った。

蝉の残響が聞こえる。
グラウンドに陽炎が溶けていく。

季節はどうしようもなく夏だった。

5.七月

その日、自販機で飲み物は何を買ったんだとか、
別れ際に彼女と何を話したんだとか
そういう詳しい事はイマイチ俺自身にも覚えていなかったけれど
痛いぐらいに跳ねる心臓と真っ赤になってしまった顔を誰にも知られたくなくて
自分でも意味が分からないぐらいに全力で走って帰って
そういう事に「あぁ俺ってバカだなぁ」なんて思った事だけは今でも覚えている。

その日の夜は結局ドキドキして眠れなかった。

「イツキさん顔色が悪いですけど大丈夫ですか?」
彼女がこちらを心配したような顔で覗き込んでくる。
「誰のせいでこうなってると思ってんだよ」
とは、そんな事は口が裂けても言えないし、そもそもそんな事を言う勇気は俺にはハナから備わっていない。


「大丈夫、眠いだけだから」
「なるほど……そうでしたか!では振り子の催眠術とかどうでしょう!良く寝られますよ!多分!恐らく!」
そう言って彼女は鞄をあさぐってから五円玉の振り子を出した。相変わらずだけど準備が良い。
催眠術は果たして超能力なのか少し疑問に思ったけれどそれは気にしないことにした。

「ほら真ん中のこの五円玉をよく見てください……イツキさんはだんだん眠くなーる……だんだん眠くなーる」
 彼女は五円玉振り子を小刻みに揺すってから馬鹿の一つ覚えみたいに「眠くなーる」と繰り返している。
恐らくこの感じだと普通に眠い人も彼女の声が気にかかって眠れないのではないだろうか。

「眠くなーる……眠くなーる……眠くな……ん……」
 前言撤回。そんな事をやっている間に彼女は普通に寝てしまった。
何と言うか最早お約束じみてきている彼女の超能力芸だけど
もしかしたら万が一の可能性で本当にサイキック能力だとかが使えるのかもしれない。
……いやそんな訳はないか

「なぁユッコ、お前が寝てどうする」
「……はっ……私としたことが!」
 適当に声をかけて彼女を起こす。
彼女の寝顔を見続けるのはどこか犯罪じみて思えたし、俺の心臓が持ちそうにないと思えたから。

「あはは……お恥ずかしいところを見せちゃいました」
「はぁ……」
「……」
「……」

何となくの気まずさを感じた。自分から起こしといてなんだけど、もう少し寝かせておけば良かったのかもしれないと思えた。
と言うか、昨日あんな事を言っておいて今までと変わらずに接せていた彼女
(もっともそれを気にしているのは俺だけで彼女は多分気にしていないと思うのだけれども)
そっちの方が凄いと思えた。

「なぁユッコって超能力のこと信じてる?」
俺がその気まずさを打開しようと彼女に振った言葉はそんな感じだったと思う。
急に何言ってるんだコイツって思われたと思う。

何となく文字足らずになってしまって言葉を付け加える。

「あ、いや、その、何か特に深い意味があるわけでは無いんだけれど、ユッコってサイキッカーだろ?
だけどこうあんまり成功できてないわけじゃん? それなのによくそこまで頑張れるなって」
 慌てて口を動かしても口から出てくるのはあまり好意的とは取れない言葉ばっかりだった。
別に彼女のサイキックなんて彼女が信じていればいい話だ。少なくとも俺ごときの人間が口を挟める立場には居ない。

「あ、いや今のは違くて……なんかこう……うん」
 もう一度、修正を試みてみたけど口から出てくる言葉は宙を横切るものばっかりだ。そう言う自分の事が、またつくづく嫌になる。

「ふふっ」
 慌てふためく俺の姿が面白かったのか彼女は少しはにかんで笑った。
「はい!如何にも私はサイキックを信じています!」
「サイキックだけじゃなくて、UFOだとか宇宙人だとかネッシーだとか……ビックフットだとか!」
「そういう物も全部!」
彼女は言葉を続ける。

「でも……冷静に考えてみれば……そんな物は居ないのかもしれません
UFOは誰かの悪ふざけかもしれないし、ビックフットだって着ぐるみかもしれません」

「でも……私は思うんです!きっと信じている方が楽しいんだって!」

「初めからそんなものは無いんだ! って否定して傷つかずに済むのも良いと思います!
と言うかそっちの方が賢いと思います! 傷つくのは誰だって嫌ですから」

「でも私はアホの子なのでそんなの知りません! 痛い目にあったり否定されたり、
たまに落ち込んだりしても、信じ続けてればきっと素敵な出来事や出会いが私の未来にはあると思うんです!」

「もしかしたらバッドエンドの物語がハッピーエンドに変わっちゃうような、そんな映画みたいな奇跡だって叶えられるかもしれません!」
「それに私とイツキさんが出会えたことだって、もしかしたら既に奇跡だったかもしれませんよ!」

……何と言うか、俺には彼女の紡いだその言葉はあまりにも善政的でとても眩しくて、
まるで穢れだなんて何も知らない無垢な赤ん坊のように、あるいは清濁の全てを呑み込んで光も闇も
その全てを内包するような柔らかさだとか、大きさだとかそう言った物を感じさせた。

 図書室には風が吹いた。夕焼けに全て溶けた昨日の涼しい風とは違う、とても暖かい風が。
風は、俺が誰にも知られたくなくて、自分自身にも知られたくなくて
必死に、必死に隠した心の在りかを馬鹿にして笑うみたいに、いとも簡単に通り過ぎて行った。
 
俺が彼女に心を惹かれていた理由が今なら分かる気がした。
多分俺たちは正反対にいる人間なのだ。

彼女が雲一つない快晴なら俺は土砂降りの豪雨。
彼女がハッピーエンドなら俺はバットエンド。
色なら彼女はオレンジ色で俺は水色。

だから俺は彼女に強く憧れていた。俺が持っていない、俺が要らないからと言って切り捨てたその全てを持っていた。
そんな彼女に憧れて、羨ましくて、愛しくて仕方がなかったのだと、俺にはどうしようもなく思えた。

自分自身にすら嘘をつくのはもう辞めようと思えた。飾らない言葉で表そう。

俺は彼女の事が好きだった。この気持ちが恋でないなら辞書に恋と言う言葉は無いと言えるぐらいに。


後半は明日投下します

6.七月


その日からの数週間。
詰まる所、その月は俺にとって間違いなく人生で一番楽しい七月だった。
何をやるにしても楽しくて、放課後がひたすらに待ち遠しくて仕方がなくて、授業なんか全部聞こえずにうわの空で、
そうやって浮かれてる自分が笑ってしまえるぐらいに気持ち悪くて、何だかそんな事が俺にとっては凄く楽しかった。

「ユッコは期末どうだった」
「あーまぁ……ボチボチって感じですね」
「俺も実はそんな感じ……」
「英語ヤバくなかったですか……? 長文のとことか特に」
「俺はそれより世界史がヤバかったな……何だよ前漢、後漢って……中国は中国だろ」
「お互いヤバかった感じですね……点数を見せあうのは辞めときましょうか」
「だな……」

 そう言う苦い体験だとか。


「今日は雨か……俺あんまり雨好きじゃないんだよね」
「大丈夫ですよ! 止まない雨なんてありませんから!」
「んーでもなぁ」
「大丈夫です!それに雨が降った後の夕日は綺麗って言うじゃないですか!」

だとか。

「実は今度東京の方に行くんです! 何か欲しい物とかってありますか」
「んー東京土産かぁ……特に欲しいものはないかな」
「出ましたね! 特になし! そんな事言ってると女の子に嫌われちゃいますよ!」

 そう言う日常の何でもない一瞬までもが、彼女と知り合う前までのモノクロの世界とは違った、鮮やかな色のカラーの世界に見えた

「めちゃくちゃ暑いな」
「お前が言うと余計に蒸し暑く感じるんだけど」

綺麗に舗装されたアスファルトを足に付けて歩く。
ユッコはその日何か用事があるらしく図書室に来るのが遅れると言っていたから、
別に図書室に残っても良かったのだけれど何か彼女に対して含みを持たせてしまうと思えたから、
藤井と共にその帰路を歩いていた。

思い返してみれば最近はずっと図書室に残っていたから
まだ日が昇っている時間に帰るのは久々に思えたし、藤井と帰るのも久しぶりに思えた。

「こんな日に限って最高気温とはな……」
「だからお前喋るな、蒸し暑く感じるんだって」
「それにしても暑いな……」
「だから喋んなって……」

 そんな事を言いながら、本格的に到来した夏の暑さに己の身を焼かれて悶えていた。
初夏とは違う一切に容赦のない日照りが、俺らを苦しめてやろうとギラギラ照らしている。

「そう言えばお前ユッコとはどうなんだ、もうやる事はやったか?」
 だから尚更だけど、その藤井の発言はあまりにも唐突すぎたのと、何でこいつが知ってるんだってダブルパンチで死ぬほど俺を驚かせた。

「あ、何の話?」
 あくまで冷静を装いつつ答える。大丈夫まだ問題はない。

「とぼけんなよ、最近のお前の浮かれ具合は傍から見ても異常だぞ」
「いやだからって何でユッコに繋がるんだよ、おかしいだろ」
「この前と言うか二カ月前ぐらいだったか忘れたけど、ユッコの事が気になってるってお前自分の口で言ってたろ」

もし俺がクイズ大会か何かで藤井の長所と短所を答えろって問題に出会ったなら
俺は即答で「女好き!」だとか「無駄なガタイの良さが気持ち悪い!」だとか、そう言った短所を連続で答えてから
さんざん悩んだ挙句に「物覚えが無駄に良い」って長所を渋々答えるだろう。

とにかく藤井は無駄にこういう事を覚えられるタイプだった。

「あー確かに言ったかもしれないけど別に俺らはそんなんじゃねぇよ」
「で、どこまでやったんだ、キスはどっちをした」
「だから俺らはそんなんじゃねぇって、少し話せるぐらいの友達だよ」
「それはいわゆるあれか、大人の関係ってやつか」
「別に付き合ってもねぇし、そういうやつでもねぇよ! 特になんもない! ただの友達」

 そう俺らはただの友達だった。
俺からの気持ちはともかく彼女から見た俺は恐らく大多数の友達の一人に過ぎないのだと思う。
自分で言っておいて何だか悲しくなってきた

「告白は?」
「してねぇよ」
「する予定は」
「ねぇよ」
「もたもたしてると知らん奴に取られるぞ」
「知るかよ」

 太陽は俺らをあざ笑うみたいにギラギラと嫌味ったらしく照らしている。
滝のように流れ出る汗は、恐らく暑さのせいだけで無いことは俺にも何となく分かっていた。

正直な話をすると告白を考えてみたことが無い訳では無かった。
彼女と今より進んだ関係になれれば俺の人生はもっと幸せになれると思う。
一日が楽しすぎてきっと二十四時間が数秒程度にも考えられると思う。
でも、だからこそ、この関係を壊してしまうのが何より怖かった。

今のこの幸せは俺らが友達であって恋人同士ではない『超能力同好会』の部員同士って名目上の上に成り立っている。
それを俺が気にせずに彼女に告白して、もし振られてしまったら今のような関係には二度と戻れないだろうという事は分かっていた。

「もし告白して振られた時の事を考えてるなら、それはお門違いだぞ」
藤井はそう言って言葉を続ける。

「前にも言ったけどな、ユッコってめちゃくちゃライバル多いんだぞ、容姿に限って言えばミス一位なんて余裕なレベルだしな」
「だから外面しか見てないカス共に告られる可能もゼロじゃない、想像してみろよ。
お前のユッコが急に名前も知らないチャラそうなサッカー部の先輩と付き合った時の事
そしたらお前はその時になって初めて後悔するんだよな。
「あぁ告白しておけば良かったなぁ」って」

「と言うか、たぶんお前は告白したら元の関係には戻れないんだろうとか、ユッコに嫌われるのが怖いだとか、
そういう事を思ってるんだろうけど、お前の知ってるユッコはそれぐらいで人を嫌いになるか?」

 ここまで恐らく十秒程度。
言いたいことを言いきったのか藤井は満足げな顔をしている。
一方の俺はというと正論でぼこぼこに殴られてどうしようもなくなっていた。

でも確かにそうだ。もし彼女が他の俺の知らない有象無象共とくっついたら?
考えてるだけで嫌な気分になる。それにそうだ。ユッコは多分俺が告白したぐらいじゃ俺の事は嫌いにはならないで居てくれるだろう。
それはこの数カ月の俺らの親交が何よりも深く示してくれている。

「まぁ、お前にしては参考になったわ、さんきゅ」
 藤井に適当に礼を言ってから後ろを向く。今なら彼女はまだ学校に居ると、どこか確信めいた物を感じた。
彼女に言わせれば、これがサイキックパワーってやつなのかもしれない。根拠は無いけれどそう思う。

「頑張れよ、あとお前にしては余計だけどな」
「それを言うなら俺だって、まさか彼女が出来たことないお前にアドバイスされるとは思わなかったな」
「は、馬鹿かお前、さっきのアドバイスは彼女が出来なくても、告白しまくって場数をこなしてる俺だから言える言葉だぞ」

 この言葉は俺の覚えてる限りの藤井の言葉の中で一番説得力が高い言葉だった。

それから俺は帰路とは逆方向に学校へ、彼女のもとへ向かって全力で走った。
クラスメイトに見られたらアイツは変な奴だと思われるだろう、でもそんな事は関係なかった。
ただ彼女に会いたい。告白して振られたって良い。
とにかく俺は彼女にどうしようもなく好きなんだと、お前が好きなんだと伝えたかった。
汗ばむ制服も見下ろす太陽も、その全てがその瞬間だけは俺のためのエキストラだと思えた。

 校門を抜けて、旧校舎の玄関を開けて、階段を昇り、廊下を駆け抜ける。
その頃にはもう俺の足はパンパンで心臓は痛いぐらいに跳ねていた。
焦る気持ちを抑えて、ゆっくりとそのドアを開ける。
彼女は奥の方に一人何をするわけでもなくそこに立っていた。

「よぉユッコ」
 高鳴る心臓を抑えて彼女に声をかける。

「あれ?イツキさんどうしたんですか慌てて」
 入ってきた俺に気づいたのか、彼女は小走りでこちらに近寄る。

「凄い汗ですけど大丈夫ですか?」
「あぁ……それは大丈夫……それよりユッコに言いたいことがあるんだ」
 上がった息を整えて彼女の目の前に立つ。彼女の栗色の大きな瞳は俺の全てを見透かしているように
そんな風に思えた。

「実は私もイツキさんに伝えたいことがあるんです」
 彼女もまた俺の前に立って、俺が何を考えているんだかを見通すみたいに、その瞳を見ていた。

「どっちが先に言いましょうか」
「じゃあジャンケンとかってのは?」
 その方法を提案したのは俺だった。もっとも順番なんてどうでも良かったけれど。

「いいですね、じゃあ勝った方が先に言うってことにしましょうか」
「じゃあそれで、先に言っておくけどお前にだけは負けないからな」
「ふふふ……私も望むところです! では!」
「「さいしょはぐーじゃんけん……!」」

 拳を振り下ろして下げる。日本人なら誰でも知っているそのゲーム。
幼いころから何度も、こうやって物事を決めるときに使ってきた。

それすらも彼女と一緒なら楽しいと思えた。

「……」
 俺は拳を丸めたその形グーを出した。彼女はその小さな手のひらを広げたパー。
じゃんけんは彼女の勝ちだった。

「あっちゃー負けたか」
「ふふふ……見ましたか! これがサイキックパワーです!」

 彼女はそんな自分の勝ちを誇るように天井に向かってパーを突き出している。
彼女の笑顔はとても眩しく思えた。

「じゃあユッコから話どうぞ」
 そう言って彼女の方へ向き直す。
「はい! では! あ、イツキさんビックリしすぎて倒れても知りませんよ」
「分かった、分かったから」
「はい……では! ごほん!」

彼女はそう言って大きく咳払いをしてから言葉を続ける。
彼女の口が開く。一語。一語ずつ言葉を繋げて。

 俺があの頃の事を思い出すとき、記憶の中でそれはいつも映画のような物として再生される。

俺は映画館に居る。両手には何も持っていない。ポップコーンもドリンクもチュロスも何も。
当然だけど周りには誰も居ない、俺の隣の席にも、この映画館にも。
ただポツンと一人でその大きなモニターの前に立っている。

映画の前半は凄く退屈でつまらなかった。

一人の男が好きな女の子に「あぁでもない、こうでもない」
そう言って自分の心に嘘をついて左右往生する酷くありふれた陳腐な物語。
終盤になって主人公の男が自分の気持ちをやっと理解してから彼女のもとに向かって走り
想いを伝えようとするシーン。そこで観客はやっと物語が佳境に入って面白くなったなと思う。
でもそれは結局違う。

もし俺の人生の監督を務めた神様とか言う奴が本当にいるなら
そいつはバットエンドが好きな性格の悪い奴なのだと思う。

そいつは「好きな映画は? 」と聞かれたらミストだとか、バタフライエフェクトだとかって答えるだろう。
だから神様が俺の人生の監督なら、それは最初からバットエンドのオチの付いた映画なのだ。

どれだけ楽しい事があっても、どれだけ愛しい人がいても
それはただのバットエンドの引き立て役にしかならないのだと、俺にはそう強く思えた。

「実は私アイドルになったんです!」
 彼女はそう言って、陽だまりに溶けるような、見るもの全てを楽しくさせるような、そんな笑顔を浮かべた。

 一秒。理解できない、二秒。理解できない、三秒。理解したくない。
体の全身がそれを拒んでいる。
「驚かれるのも無理はないですよね……実はこの前、東京に行くって言ったじゃないですか
実はあれオーディションを受けに行ってたんです。それで昨日の夜に合格通知が届いてて……凄く嬉しくって
……それで唐突なんですけど二学期からは東京の方に引っ越すことになりました!
寂しくないと言ってしまうとそれは嘘になってしまうんですけど
……でも夢だったんです! 私もテレビのあの子たちみたいに皆を笑顔にしたいって!」

その瞬間に限って言えば俺は彼女の言葉を聞きたくなかった。
今すぐ耳を塞いでこの場から逃げ出してしまいたかった。
あるいは俺は家のベッドに横たわって「あぁ変な夢だったな」ってそんな事になってほしいと思えた。

「今はまだへっぽこだし何も分からないけれど……それでも私はアイドルとしてステージに立ちたいって……そう思うんです!」
「だからイツキさん……応援してくれませんか? 私の事を……」

彼女はそう言って力強くだけれど少し弱弱しく笑った。
彼女のそんな笑顔を見るのは初めてだった。

その瞬間に俺は彼女の事を結局何も知らなかったのだと気づいた。
彼女が好きな食べ物は? 好きな映画は? 将来の夢は? 何も分からなかった。
俺は彼女を自分の価値観の中に押し込んで今まで物事を考えていたのだ。
ステレオタイプみたいに彼女はアホだから。サイキッカーだから。

そういう分かりやすい指標だけで彼女の事を理解した気になって、あまつさえ付き合えたらどうだ?
吐き気がする。気持ち悪くて仕方がない

 ゆっくりと口を広げて一瞬ためらう。その言葉は呪いだ。
その言葉を彼女に伝えてしまったら俺はもう彼女に想いを伝えることは出来ないだろう。
そんな事は分かり切っていた。

でも、それでもこの物語がバットエンドだとしても
彼女の行き先はハッピーエンドであってほしいと俺にはどうしようもなく思えた。

 もう一度、口を広げて丁寧にその言葉をなぞる。
「うん、応援してるよ」
 俺ははち切れんばかりの笑顔でそう答えた。

7.


 映画はここで終わり。
この後に続くのは真っ暗な画面のエンドロール。
NGシーンが流れるわけでもなければ続編を匂わせる描写があるわけでもない。

だから、ここから先はただの蛇足だ。

それからしばらくして彼女は東京へ転校していった。
俺はあの日、彼女にその言葉を伝えてから何もやる気が起きなくて、痛みだとか、辛さだとか。
そういう物も何も感じられなくて、自分の心に嘘をつくのも何も思わなくて

だから彼女が東京へ転校していく、その最後の日にも俺は彼女に会わなかった。

 俺らが二年になる頃に彼女は一躍有名人になった。
バラエティを賑わせるサイキックアイドルとしてお茶の間を彩って、その知名度を上げていた。
彼女が有名になるほど、相対的に俺らの高校でもファンは増えて行った。
それどころか地域を挙げて、アイドル堀裕子生誕の地みたいな宣伝をあげて
そう言う物が増えるたびに彼女がもう手の届かない所まで行ってしまったのだという事を痛感して
失ってしまった心のピースを探し続けた。

一度だけ彼女からチケットをもらった事がある。
三年の夏の頃だったか「エスパーユッコ」の名義でチケットと手紙が届いていた。
その手紙には東京でも案外楽しくやれている事と信頼できる人に出会えた事
ソロライブを出来るぐらいにまでなった事。
それとあの時、応援してくれてありがとうと書かれたライブのチケットが入っていた。

それから俺はしばらくその手紙を見て、チケットを破って一緒に捨てた。
その時、俺には失ってしまったはずの心の一部分がどうしようもなく痛くて仕方がなくて一人、部屋で嘔吐いた。

 大学生になって初めて彼女が出来た。栗色の大きな瞳を持った彼女だった。
何気なく入った映像サークルで初めて出来た後輩だった。それなりの恋をした。
それなりの事をして、お互いに愛を確かめ合った。
でもその彼女は「先輩はきっと私じゃなくて、私を通した誰かを愛しているんです」
と言って俺のもとを去って行った。

社会人になって適当に入社した会社で出会った
小さなポニーテールを揺らす彼女もまた同じような事を言って離れて行った。

 偶然テレビで彼女のライブ振り返りを見た事もある。
そこに映る彼女は記憶の中の彼女より少し大人びて見えて綺麗だった。それから彼女はファンに向かって感謝を述べた。
「ありがとうございます!」と。
その笑顔が俺の記憶の中のそれと全く同じものであることに気づいてから、また一人嘔吐いた。

俺はときどき思う事がある。
あの日に、俺が告白していれば?
あの日に、俺がグーではなくチョキを出していれば?
あの日に、夕日に満たされた教室で俺が彼女に声をかけなければ?

答えは出ない。
でも俺はきっと
何万回人生を繰り返したって、何億回人生を繰り返したって。
あの日、あの教室で。

「何してんの?」
 って声をかけて、それから彼女に恋をするだろう。
何百万回も。何百億回だって。

彼女は言っていた。
信じ続ければきっと素敵な出来事が待っているのだと。
ならば俺は彼女を信じよう。自分自身の事を見失って何も信じられなくても
彼女の事だけを信じ続けていよう。
彼女の行く末に幸あれと。

俺は強くそう思って一人少し泣いてから眠った。












ここから先は未来

雨の降る六月だった。
朝過ぎから降り続けていた雨は午後になってその勢いを強め
喧噪に塗れたその街を洗い流すように降り続けていた。

彼が居る映画館からは多くの人が見える。
雨に濡れながらも帰路を急ぐ者や、雨が降りやむまで適当に身を隠す者。その点において彼は後者だった。
仕事に向かう最中、突然の雨に降られてフラフラと誘われるように映画館へ入ったのが二時間前の出来事。

見たい映画なんてのも特になかったから一つだけ名前を聞いたことがあった青春映画を見ることにした。

観客は彼一人。映画が始まっても聞こえるのはモニターのカタカタと無機質な音。それだけだった。

何と言うかその映画は言葉を選ばずに言うなら、普遍的で掴みどころのない物語だった。
主人公の少年は廃校間際の野球部で爛れた日々を送っていたが
不治の病で入院した幼馴染の女の子のために甲子園優勝を目指す。そんなあらすじ。

最終的に、主人公は甲子園で優勝を果たし、幼馴染の手術も成功して物語はハッピーエンドです。
ちゃんちゃん。ご都合主義も良いところの映画だと思えた。

「見る映画を間違えたな」
一人呟いてみる。
その呟きは、この東京の街に降り注ぐ大雨にかき消されてどこへ行くわけでもなく消えて行った。

外はまだ大雨が降っている。当分の間は止みそうにない。
ふと思い出してポケットに入れていたスマホの電源を入れてみる。
着信履歴には会社からの大量の電話が入っていた。当然だ、何の言い訳もなしに無断欠勤したのだから。
仕事は嫌いではない。むしろそうやって激務に追われている方が自分の事を見つめなくて済んだ。

では何故この映画館に入ったのか? そう問われても彼自身にもその答えは分からなかった。
雨が降っていたから? 久しぶりに映画を見たかったら? それはどちらも違うように思えた。

雨はやはり止みそうにない。今ならまだ腹痛で倒れていた言い訳が効く時間だろう。
意を決してその大雨の中に飛び込む。空から斑に降る豪雨は痛いぐらいに体を撃っている。
長くこの雨に撃たれていると体を壊してしまう。そう思えて水溜を踏む足を急かした。

その足も久しく走っていなかったからか、彼にはとても重く感じた。

そうして少し走ってから信号に差し掛かった。
即座にボタンを押して一秒、一瞬を感じる。
向こうの信号機には家族連れが見えた。休日がこんな大雨の日になって可哀想だな。
そんな事を思って青色になった信号を渡る。肌着が水を吸って重い。
そうして、彼らがすれ違ってから一瞬目があった。

足を止めて後ろを振り返る。肩にかかった小さなポニーテールを揺らして走る後姿。

いま、彼女の名前を呼べば彼女は振り返ってくれる、そんな気がした。
記憶の中の彼女と変わらない、こんな大雨すら跳ね除けてしまいしまいそうな笑顔で、笑ってくれる気がした。

信号の音がちくたくと点滅している。空からは大粒の雨が降り注いでいる。
東京の街に降る一年分の雨がこの瞬間のためだけに降っている。そんな突拍子もない事を思えた。

それから少し考えてゆっくりと前を向いた。
彼女に声をかけるのは辞めよう、彼女の物語にもう俺が関わるのは必要ない。

そう思えたから。再び足に力を入れた。

その瞬間、強くズボンを引っ張られた気がした。
足を降ろしてゆっくり、ゆっくり振り向くとそこには小さな少女が
五、六歳に見える、栗色の大きな瞳を覗かせた少女がいた。

「おじさん!」
「これ!」
「お母さんがあの人に渡してって!」

少女はそう言って、陽だまりに溶けてしまいそうな笑顔を浮かべて、手のひらに何かを握らせた。

「じゃあね!バイバーイ!」
 少女は信号機の向こう側で待つ両親の元に駆けて行く。
自分の声すら聞こえない程の豪雨の中でも、不思議と、その少女の声だけはハッキリと聞こえた気がした。

 その少女から貰った物を確認するのに手のひらを開く必要はなかった。
握りしめた拳からは銀色のスプーンがはみ出している。何の変哲もない先の割れたスプーンが。

顔を上げて信号の向こう側を見る。
降り注ぐ豪雨は更に勢いを増して、ほんの先の一メートル程度も見れない程に強かった。
それでも、それでも。彼には、彼女は笑っているのだろうと。あの頃と変わらない笑顔で優しく笑っているのだと。
彼女に言わせれば、これがテレパシーってやつなのだと。根拠はないけど強く、強く思えた。 

そうして彼は、水溜を踏みしめて走って行く。
 
夏はもう、すぐそこにあった。

終わりです
ありがとうございました

タイトルのぴーぴーかんかんは映画業界で使用されていた用語で
「快晴」って意味らしいです

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 03:01:57   ID: S:ffduX9

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