「おはよう。捻挫少年。」 (50)

小雪舞う並木道、白い息が出ては消えていく。
所々にある電灯が足元の雪を照らして、白く染まった毛糸玉が浮かんでいるように見える。

やるせない気持ちのまま、音もない真夜中の大学を歩いている。
こんな気持ちなんてすぐに消してしまいたい。

大学図書館へと辿り着いた。
西洋風の建物の前の広場は、昨日の夕方から降った雪に覆われており、
まだ誰の足跡もついていないその場所はまるで小さいステージのようだった。




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電車から降りて、捻挫した右足をかばいながら家へと向かっていた。
もう既に日は傾いており、閑散とした大学を通って家へと帰る。
「大会は諦めます。」
そう、テニス部顧問に告げたところだった。

学生最後となる大会の予選開始前、高校2年生の2月初めのことだ。
挫いたあと、もう万全のプレーが出来ないことは腫れ方と感覚でわかった。
一軍でもなかったため、早めの引退と割り切ったつもりだが、一向に気持ちは晴れず、
どんよりとしたうす曇りの冬の空が気持ちを更に参らせている。


この地域には珍しく、足元はうっすら雪が積もっており、
慣れない雪の感覚と痛む右足首を見て、
病院で意地をはって松葉杖はいらないと言ったことを後悔し始めていた。

人が殆どいない構内は、パンフレットに載っているような
溌溂とした大学のイメージとはかけ離れており、
これが地域屈指の国立大学なのかと高校生になってショックを受けた。


駅までは大学を抜けた方が早いため、毎日構内を歩いているが、
朝練と午後練が終わった後の時間帯は殆ど大学生はいない。
冬の寂しい構内で足を引きずっていると余計寒く、痛む気がする。


「だれかいないかなぁ。」

自力で帰るのを諦めて誰か呼ぼうかとベンチに腰掛けて一休みする。
特に友達のあてもなく、途方に暮れてただ携帯をいじっている。
構内ではたまに数人のグループを見るものの、一人で歩いている学生や
教授らしき年配の男性を見かける方が多く、
本当に多くの学生が通っているのか不安になるほど人通りが少ない。


しばらく携帯をいじっていると、ふと目線の端でちらちらと何かが揺れた。
目線を上げると、遠くの方で白い何かが揺れている。

よく見ると紺のコートを羽織り、ジーパン、ブーツを履いた女性が、
雪道を危なっかしい足取りで歩いている。
頭には真っ白なニット帽を被っており、その綺麗な白が映えているのが災いして、
遠くからだと白い明かりが揺れているように見える。
余りにも足取りがおぼつかないので、目が離せなかった。


ある程度近づいたところではっとし、携帯に目線を落とす。
少し見過ぎたかもしれない。
自分の中で妙な緊張感が漂い、さも全く見ていなかったと言うように、
携帯の画面をスライドする作業を繰り返す。

知り合いのつまらない投稿を流し見しながら、
早く無事に行き過ぎてくれるのを祈っていた。


しかし、祈りは全く実を結ばず、むしろ、仇を成したように、
最悪のタイミングで女性は派手にこけた。

僕の目の前で尻餅をついて、かばんの中身がこぼれ出る。
その拍子に被っていたニット帽も脱げてしまっていた。
稀にみる見事な転倒を披露した女性を目の当たりにして、
何故かこちらも恥ずかしくなり、おもわず帽子を拾って声を掛ける。


「あの、大丈夫ですか?これ落ちましたけど…」
「あっ、はい!大丈夫です!ありがとうございます!」

慌てて荷物を拾って、一歩こちらに踏み出した瞬間、また滑ってこけそうになった。
反射的に手をのばして支えようとしたが、痛む右足首で踏ん張りが聞かず、
結局、二人ともこけてしまった。

「痛っ、っ~」
「ああっ、ごめんなさい。大丈夫!?」

女性は顔を赤らめながら慌ただしく再度立ち上がり、僕に向かって手を差し伸べていた。


「ああ、はい。なんとか。」
なんともない風を装って、差し伸べられた手にも頼らず、
何とか自力で立ち上がろうとしていたが、雪と痛みで思うように立てない。
もたもたしていると、女性はすっと僕の左脇に入り
「肩に腕回してください。」
と言うと、僕のズボンの右後ろを持ちあげながら立つのを補助してくれた。

「本当にごめんなさい。怪我させちゃいましたか?」
「いえ、元々捻挫してたので、大丈夫です。」
「捻挫してって…いや、大丈夫じゃないですよ。痛みませんか!?」
「ほんとに大丈夫です…」

帽子を取ってあげようとしたのに、逆に立つのを助けてもらったばつの悪さと
情けなさから顔を見れずに不愛想に返す。


女性は何度も謝った後、耳を真っ赤にしながらニット帽を目深にかぶって
逃げるように駅方面へ歩いていった。
あの人またこけるんじゃねぇか、と心配しながら後ろ姿を見つめる。
無事転ぶこともなく姿が見えなくなるのを確認してから、
ベンチに再度腰掛けて一息つく。

じんじんと痛む右足首に目線を落とすと、足元で黒い携帯が白い雪の上に転がっていた。



「これどうしようかなぁ…」

大学図書館の前で、拾った携帯をふらふらさせながらつぶやく。
あの日、携帯が落ちてあることに気付いた時には既に女性の姿は見えず、
走って追いかけることもできなかった。

痛む足にイライラしながら、残された携帯を拾った。
どうせ自分の番号へすぐに掛けてくるだろうと考えて持って帰ったのは良いものの、
その後、電話がかかってくることはないまま、4日が経っていた。


捻挫した後、親と部活仲間の反対を受けたが、受験勉強を言い訳にして
強引に部活を辞めた。

顧問は止める素振りはみせたものの、勉強を始めたいことを伝えると
すぐに退部届けを受け取った。
何かが少し痛んだ。

でも、これで休日にわざわざ部活に行って雑務や応援をしなくて済む。
しかし、本当に受験勉強をしたい訳ではないので、
休日は知り合いのいない大学の図書館で適当な本を読んで過ごしている。



家の近所にある大学図書館はかなり昔に建てられたもので、
詳しくは分からないが西洋の建築様式である。

2階構造で、1階が軽食をとれるような休憩室とトイレが設置されており、
2階全体が開架室となっている。

構内も建築当時のまま利用されているが、エアコン、配電系統は追加で取り付けられ、
同じデザインで新調された棚や机が並ぶ開架室は、当時の雰囲気はそのままに、
居心地の良い場所となっている。

時々話し声が聞こえるくらいで、とても静かだ。
基本的に大学生の利用が中心となっているが、外部の人間も申請すれば利用できるため、
近隣の受験生や社会人が勉強しにくることがままあるらしい。


午前中は特設コーナーにあった科学雑誌と持ってきた小説を流し読みをして過ごした。
そして、昼食の菓子パンを食べたあと、図書館の前で携帯の所在を案じていないか案じている。

警察に拾得物として届けた方が良いかもしれないが、正直面倒だ。
ロックがかかっているので、何もできず、するつもりもなかった。
この大学を利用していれば、遠くても電車で1時間程度の場所に住んでいるだろうから、
連絡さえ取れればすぐに取りに来ると考えていたが、見通しが甘かったのかもしれない。

電話がかかってくる可能性を考え、念のため電源は落としていないが、
メールやSNSの通知などで鳴ることもなく、電源がついているのかいないのか
分からないほどに携帯は沈黙を貫いている。

サブ機だろうかとぼんやり考えてみたが、これ以上考えてもしょうがなく、
拾った携帯をポケットにしまって、開架室へ戻った。




雑誌と小説には飽きたので、捻挫の疼痛を和らげる方法がないか調べるため
分かり易そうな対症療法の本を何冊か探しに行った。

医学コーナーのスポーツ医療の棚より目ぼしい本を数冊取って席に戻る際、
隣のリハビリ関係の本棚と本棚の間で、立ったまま真剣な顔で女性が本を読んでいる。

肩口まで伸びた髪に、紺のコート。間違いなくあの時の女性だ。


「あっ、こけた人」

考える前に言葉が出てしまい、女性が少し怪訝な顔をして顔を上げる。
少しこっちをみてからはっとした顔になる。
自分が巻き込んだ手負いの高校生だと気付いたようだ。

すぐに小走りでこちらにやってきた。顔は少し上気している。

「あの時はすみません、大丈夫ですか?」
「あの、大丈夫ですから、そんなに気にしないで下さい。」
「とにかく、ご迷惑おかけしました。もし、何かあれば言ってください。」
「本当に特に問題ないので…。」
「でも、その、何かスポーツをされてますよね。大事な時期に酷くなったりしてるんじゃ…」
手に持った捻挫の本を見ながら心配した声で話してくる。非常に間が悪い。

「いや、これは単にどうしたらいいか見ようとしただけで…興味本位というか…」
「わざわざ大学の図書館に来るくらいなのに…。」
「本当に元々怪我してて、あれがなくても変わってなかったですって。」
「でも…」

嫌な間が流れた。離れるに離れられない上に、何を言えば良いのか分からない。
見た感じ何か出来ないか考えているようだ。ありがた迷惑とは思いながらも、
無下にも出来ず、足元に落とした目線が左右にふらふらと所在なく振れる。

ふとポケットの携帯を思い出して、苦し紛れに取り出した。


「あの、これ、あの時落ちていた携帯なんですけど」
「それ私のです!携帯も拾ってもらってたんですね。助かりました。
少し不便していたんです。…すみません、なんか私ばっかり色々拾ってもらっちゃって…。」
「…あの、今年はもう受験勉強を始めなきゃダメな年でしたし、あんまり期待されてなかったので、別に良いんです。
別に転ばなくてもここに来たと思いますから。」
「そんなこ…」
女性はそう言いかけて止めた。
知らない相手に「そんなことない」と言うのは無責任だと思ったのか分からないが、
彼女なりの配慮だと分かった。

それでも、自分の言葉と彼女の気遣いが何かを軋ませている。

「すみません、それじゃ…」
居たたまれなくなって、もう図書館は出ようと出口へ向かう。


すると、すぐに進行方向に彼女が立ち塞がった。

「あの!」
意図しない行動に戸惑っていると、彼女はおもむろに言った。

「……じゃあ、私が勉強を教えます。」

突然の提案に、思わず顔を見る。

「私が勉強を教えます。」

2回そう言ったあと、彼女は、にかっと笑った。初めて、ちゃんと目があった気がした。


「嫌でも頼みますね。捻挫少年。」






彼女の名前は佐藤あゆみ。27歳。この大学のOGで、現在は隣町で医療関係の会社で働いているらしい。

「じゃあ、次の土曜日にね。」
自ら先生になる提案をしたあと、連絡先を聞き出され、すぐ次のアポイントを口頭で取り付けられた。
毎週土曜日のお昼過ぎから夕方まで大学図書館で勉強を教えてくれるらしい。
卒業後もしばしば大学に来ては、図書館で調べものをしたり、ぷらぷら散歩したりしているらしいので、特に問題ないそうだ。


「こんにちは、佐藤です。来週はとりあえず最近のテストと成績表持ってきて下さい。」
家に帰った後にメッセージが来た。本気で勉強をするつもりらしい。

「こんにちは。あの、本当に大丈夫ですか?お仕事もあると思いますし、無理にとは言わないので。捻挫も大したことないですから。」
「大丈夫、大丈夫!学生の時に塾講師のバイトもしてたし、負担にはならないよ。あと、お金の心配もしなくていいから。もし、仕事の関係で続けるのが難しくなったり、辞めるときはその時にちゃんと話します。」

いきなりの話で面食らっていた上、イマイチ断る理由も浮かんでこず、なんと返して良いかわからないままベッドの上で寝転がっていた。そのうち文面を考えるのも面倒になってきたので
「わかりました。よろしくお願いします。」
とだけ返して寝ることにした。



「こんにちは。今日からよろしくね。」
大学図書館1階、階段の前の踊り場でコートを腕にかけて、彼女は待っていた。
「よろしくお願いします。」
正直、今日は気持ちが重かった。新しい関係を作るのは苦手だ。


部活を辞めてから、テニス部の主力メンバーとは顔を合わせ辛い。
特に強く引き留めていた同じクラスの鹿島武志とは、それまではよく遊んでいた仲だったが、
なんと声をかけていいのかわかりあぐねているようで、教室で会っても、
「勉強頑張れよ。」とか、「勉強の息抜きで練習来いよ。」とか
当たり障りのない言葉を一言、二言かわす程度だ。

別に勉強したい訳ではない所に、勉強頑張れよ、と応援されても気の抜けた微妙な返事しかできなかった。
そうしたプレッシャーがさらに足を重くさせていた。


「今日は勉強を教えるというよりは、現状確認と目標設定したら終わり。あとは適当に。」

不愛想な態度も、特に気にしていない様子で開架室に向かいながら彼女は言う。

「まだ目標とかよくわかんないかもしれないけど、なんとなくでいいから。」
「実際、私も3年生の夏になっても迷ってたしね。」
「まぁ、なんとかなるよ。今の状況次第だけど。」


思ったよりフランクに話しかけてくる。初対面の時の印象よりもかなりカラッとした性格らしい。
開架室の隅の方のテーブルの一角に座って、持ってきた成績表を渡す。
成績は全体的に平均より少し上で、良くもないが悪くもない。

「文系なんだー、おぉ国立コース。私理系だから副教科は教えられないかも。」
「成績は結構良いね。頑張ればかなり選べるようになるよ。」
まだ頑張る気もないので、そう言われても特に嬉しくもなかった。


「目標の大学ってある?」
「いえ、まだ特に…」
「興味ある分野とか、都市の方に出てみたいとかは?」
「そういうのも別に…」
「そっかー、そうだよね。全然わかんないよね。」
「正直、なんにも考えたことなかったです。地元を出るとか、何をしたいとか。」
「みんな、そんなもんだよ。…じゃあ、得意なこととかは?」
「得意な教科ですか?」
「教科でもなんでも良いよ。スポーツでも、これは好きって趣味でも。」
「…球技は結構なんでも好きです。見るよりやる方で。」
「ん、良いよね。スポーツ。私も好き、ストレス発散になる!」
「勉強では特にないですけど、数学があんまり得意じゃないです。」
「数学も楽しいのにー。」
「…僕にはその気持ちは分からないです。」

「楽しくなるよ。多分、いつか、わかんないけど。」
笑いながら彼女は答える。

「そこは断言してくださいよ…」


最初の授業は簡単な質疑応答というか、雑談をして終わった。
志望校は決まらなかったが、とりあえずセンターの目標点を定めて、それに向けて基礎的な部分の補講と問題演習をしていくらしい。
携帯で時間を確認して彼女は言う。


「じゃあ、今日はこのくらいにしとこうか。もう日が落ちてきちゃったし。来週もおんなじ時間で大丈夫?」
「やっぱり勉強するんですか?」
「当たり前でしょ、何言ってんの。」
「言ってみただけです。よろしくお願いします。」
「よろしい。何か聞きたいことがあれば、気軽に連絡してね。勉強じゃないことでも答えられれば答えるよ。」
「考えておきます。」
「なんか既に重いよ。適当で良いから。」
「はぁ。」
「じゃあまた来週ね。バイバイ。」

そう言って、軽快に歩いていった。
最初は心配性で罪悪感を感じやすい性格かと思っていたら、思ったよりドライで快濶な女性だった。
年の差はあるとはいえ、元々誰とでも話せるタイプなのだろう。

「聞きたいことって言ってもなー。」
なにも浮かんでこない。どうしても聞きたいことが出来れば連絡しよう。
そう思っている内に次の土曜日を迎えた。


「よう、捻挫少年。」
「間違ってはないんですけど、辞めません?その呼び方。」
「私の中で、君は既に捻挫少年になってしまったのだ。多分、治っても言うね、私は。」
「じゃあ、僕の中で佐藤さんの第一印象は初めて氷の上に立ったバンビなんですけど、バンビって呼んでいいですか?」
「それはダメ。」
「なんで?」
「バンビは可愛いけど、ダメ。」
「自分だけ卑怯じゃないですか?」
「良いの、だって私は大人で君の先生だもん。」
「理由になってません。」
「大人社会は理不尽なものなんだよ。」
「えぇ…」

「ところで、足の様子は大丈夫なの?」
「まだ走れるくらい治ってはいないですけど、テーピングすれば普通に歩くのは特に問題ないです。」
「そっか、良かった。」

とても安心した様子で、胸を撫でおろす。
やはり、捻挫のことは気にしていたのだろう。心配しすぎだと思うが…


その日は3月に迫った期末試験の範囲を重点的に見てもらった。
学校から課題が出されるので、その中で間違えたところや、分かり難いところを教えてもらう感じだ。
塾講師をしていただけあって教えるのには慣れているようで、説明は簡潔で分かりやすかった。
僕が問題を解いている間、佐藤さんは本を読んで過ごしていた。

最近は旅行エッセイにはまっているらしい。


「大学生のときに色んな所に行けばよかった!」
「キミは絶対に大学生になったら、時間のかかることをした方が良いよ!」
「原付で日本を回るとか良いよねー!」
と、独り言のように喋りかけてくる。
大した反応も出来ないが、余り気にせず楽しそうに喋っているので気が楽だ。


試験対策と一方的な雑談でその日は終わった。
意外と集中して勉強できたことに驚いていた。自習中にクラスの女子が横で喋っている時と何が違うのか分からないが、気が散ることがない。声とか話し方の問題だろうか。

「今回の対策は付け焼刃だけど、試験頑張ってね。」
試験まではまだ時間があるが、来週の土日は用事があって時間がとれないそうで、次の予定は試験後の土曜日になった。
「じゃあね。捻挫少年。」
そういった後、バイバーイと手を振りながら帰っていった。


次の試験結果が悪くても彼女は気にしない気もしたが、部活も辞めて
勉強も教えて貰っている身で進歩がないというもの嫌だったので、
テスト期間が始まる前も図書館に来て勉強するようになった。
その間、図書館で会うかもしれないと思ったが、彼女を見かけることはなかった。


ほどなくテスト期間に突入し、全部活動が活動停止になる。
自由な放課後を手に入れた大概の生徒は、勉強会と称して近くのファミレスで集まったり、
カラオケに行ったりと、テスト期間を満喫している。

テスト期間になって顔を合わせる時間が多くなった部活仲間の鹿島とも、
きちんと勉強するようになったからか、今まで通り話せるようになっていた。


「勉強ばっかしてねーで、ボーリングでもいこーぜ!」
「捻挫してるやつをボーリングに誘うかね、フツー。」
「そりゃカモ要員。」
「はぁ?お前なんて捻挫どころか両足骨折でも勝てるわ。」
「俺だったら両腕骨折でも勝てるね。」
「どーやって投げんだよ。」
「そりゃ股にボール挟んでケツで押し出すに決まってんじゃん!」
「発想が変態のそれだよね。」
「意外と倒れるよ。」
「やったことあんのかよ!」
「物は試しって言うから」
「好奇心の無駄遣いがすごいな。で、武志平均スコアどんくらいだっけ?」
「90くらい。」
「くそしょぼ。」
「捻挫マンは?」
「90くらい。」
「くそしょぼ。」
ケラケラと笑いあう。あぁ、やっぱり気が楽だ。
主力メンバーの中で、鹿島だけは辞めてもいつも通り話しかけてくる。
そんなあっけらかんとした性格が好きだった。


毎日、鹿島とじゃれている内に期末テストは終了し、以前のように最後の追い込みをかける部活の熱気が戻ってきた。
放課後の学校に居辛さを再び感じるようになる。
授業が終わると、部活に打ち込んでいる友達や知り合いを横目に、そそくさと大学図書館へ向かう。
このころには大学で勉強することが少しの優越感をもたらしていた。


土曜日、図書館で佐藤さんと待ち合わせ。
佐藤さんは僕を見つけると「おーい、ひさしぶり!捻挫少年ー!」と手を振って歩いてきた。
2週間しか経っていないが、かなり久しぶりに感じた。

期末テストの結果が返ってきたので、その復習を行う。
全体的に今までよりも良かったが、いまいちパッとしない。


「捻挫少年すごいよ、全体で30点くらい上がってる。」
「褒めてます?」
「いやいや、そこは素直に喜ぼうよ。実際に点数は上がってるんだし。」
「今までと比べて結構勉強したつもりだったんですけど…」
「まだ勉強初めて2週間とかでしょ、普通だよ。受験勉強で怖いのはどれだけ勉強しても点が落ちることがあることだからね。その時の精神状態の影響でたまたまなことが多いんだけど。」
「それを試験当日にもっていかないようにするんですね。」
「おっ、良く分かってんじゃん。流石、私の生徒。」
「まだ全然先生してないんですけど、勝手に手柄にするのやめてください。」
「辛辣な意見だねぇ。私はもう先生気分に浸っていたっていうのに。」
「佐藤先生……点が取りたいです……」
「ぶっ。やっぱり名作は名作だよねぇ、読み継がれる意志みたいなのを感じて感動するよ。」
「良く分かりましたね。スルーされても良いくらいの気持ちだったんですけど。」
「だって私、学生時代バスケかじってたもの。あんまりチームも強くなかったし、私も上手くはなかったけどね。」
「初耳です。」
「捻挫がくせになっちゃって、それでも練習したかったから無理してやってたんだけど、
結果的にあんまり意味無かった。
というか、逆効果だったよ。だから…まぁ、勝手にシンパシー感じてただけなのかも。
気にしないでね。」

それを聞いてドキッとした。徐々に治って来ている右足を見る。
もし捻挫していなかったらこんなに気をかけて貰うことはなかっただろうか。
そう思うと、ラッキーだったと感じながらも、どこか釈然としない気分だった。

「さて、今日はテストの解説からやりますか。間違えた問題やり直して来てって言ったけど、回答見ても良く分からない部分はある?」
問題の解説をしてもらった後、問題演習に取り組んだが、ケアレスミスが多く、集中しろと怒られた。


暖かい風が構内を吹き抜けて、西日がグラウンドと教室を茜色に染めている。
真新しい鞄と制服を着た学生が増えたこの学校の最上級生になっても、自分自身には何も変化を感じていない。
ただ、受験という壁が迫ってきているだけのようだ。
こう思うと入学のときから、部活で面倒をみてくれた先輩たちはどんなに頼もしかっただろうか。
上達が遅かった自分にも根気よく教えて、気を掛けてくれていた。
それと比べて、今の自分は後輩に技術面でアドバイス出来ることはなく、怪我で引退した3年生の先輩から学ぶことはないだろう。
反面教師にするくらいのものだ。
同輩はまだ最後の試合に向けてせっせと練習に励んでいる。
その事実が僕の中で影を落としていることには気付いていた。


テスト期間に行ったボーリングでハンデと言って左手で投げて、あっけなく惨敗した鹿島には、残念賞として新しいグリップと安全のお守りを贈っておいた。
友人のラケットにはその新しいグリップが巻かれ、かばんにはお守りがついている。
成績は同じぐらいでパッとしないが、テニスにおいては中々センスのある彼には怪我だけはしてほしくなかった。
真剣な顔で黄色いボールを追いかける友人の背中を見ながら、今日もテニスコートの脇を抜けて図書館へと足を向ける。


春の晴れた土曜日は心なしか開架室も明るく、大学全体に活気が戻ってきたようだった。
昨日の夕方はキャンパスの至る所で、大学生が土日の新歓に誘うためギラギラさせて新入生を探していた。


「もしかして元々勉強嫌いじゃなかった?」
少し伸びて肩下ほどの長さになった髪を手櫛で整えながら先生は言う。
「んー、そうかもしれません。自由研究とか自分の好きなことを調べるのは好きでした。」
「へー、だからあんまり文句も言わずにしっかり勉強してるんだね。塾の生徒の中には高校3年の夏を過ぎても、言われてしかやらない子もいたから。」
「先生はどうでした?」
「私は怪我もしてたし、ほどほどに勉強しながら過ごしてたから勉強だけになってもあんまり辛くはなかったかな。
もちろん、訳分かんない古文漢文は辛かったよ。
物語自体はハチャメチャで現代語訳で読んだら面白いのが多かったんだけど、原文で読むのにはどうしても慣れなかったよ。」
「怪我してても最後まで部活を?」
「うん。試合にはあんまり出れなかったけど、捻挫の本とか怪我予防の為のトレーニング方法とか、
リハビリに関する記事を調べたりして怪我中はマネージャーみたいになって実践してたからね。
友達の為にもなったから、自分が出れなくても楽しかった。」
「すごいですね。…僕は自分が活躍できなかったら悔しいです。」
「…うん、私は諦めちゃってたのかもね。」

佐藤さんのトーンが下がったことに驚いた。咄嗟にフォローする。
「いえ、そんなことないと思います。」
「結局、最後は選手としてコートに立ってなかったし。」
「それでも、誰かの為という理由で続けられるだけで全然違うと…僕は思います。」
そう言うと、少し間をおいてから、困ったような顔をして彼女は笑った。

「…そっか、ありがと。」
とても綺麗な笑顔だと思った。



春も過ぎ去って、だんだんと湿気と暑さが辛くなってくる。
が、図書館の中はいつも一定の湿度と気温が保たれているため、とても快適である。
1階の休憩室でこちらの要求を無視して、一方的に買ってもらった甘ったるいイチゴオレを飲みながら、佐藤さんと一息ついていた。

「そういえば捻挫少年。修学旅行ってどこいくの?」
「あぁ、北海道行きましたよ。この冬に。」
「えぇ!もう行ったんだ!?しかも北海道?」
「はい。ここらへんの高校は大体2年の終わりに行きますよ?捻挫をする前に北海道でスキーしてきました。」
「なんだよ、もうちょっと早く行ってよー。この前ハマって読んでいた旅行エッセイが北海道が舞台だったからめちゃくちゃ行きたかったのに。」
「そんな無茶な、まだ先生が芸術的にこける前だったじゃないですか。」
「よくも先生との素敵な出会いをそんな風に表現できるね。」
「あまりに見事で思わず目を奪われたもので…」
「今度同僚に『あまりに素敵で目を奪われた』って言われちゃったって自慢しよー。」
「部分だけ引用しないでくださいよ。それに、どっちにしても痛くないですか、それ。そんなキザな台詞吐く人と遊んでるんだって…」
「うるさいなー、ちょっと傷ついたよ。元カレがそんな台詞吐いてたから余計。」
「そんなの知らないっすよ。こっちは貰い事故じゃないですか。」
「それにしても、北海道いいなー。どこ行ったの?」
「定番の札幌と小樽、あとニセコです。」
「私より先に行くとは生意気な。」
「完全に言い掛かりじゃないですか。」
「ジンギスカンとかお寿司は食べた?」
「いや、そういうのは食べなかったですね。学生には高くて。」
「もったいないけど、そっか、学生だとしょうがないよね。」
「あ、豚丼はめっちゃ旨かったです。」
「やっぱ生意気。」
最近は彼女とたわいもない話を出来るようになった。
こうして毎週大学で誰かと勉強することが、良い息抜きになっている。
高校ではまだ勉強をしながら話せる友人はいない。


横でクスクスと笑っている彼女を見た時、不思議とこの大学に入りたいと思った。

自分もこの大学に入れたら、楽しく過ごせるかもしれない。
テニスが上手くなくたって、勉強が出来なくたって、こんな風に笑って過ごすことが出来るかもしれない。
もちろん、頭では入ったところで知り合いがいないことはわかっていたが、この大学に期待するようになっていることに気付いた。


「ねぇ、佐藤先生。」
「ん?どうしたの?」
「僕、志望校はこの大学にしようと思います。」
「え?」
「今、決めました。今の成績だったらまだ難しいと思いますけど、まだ間に合いますよね?」
「ほんと?うん、全然間に合うよ!やった!捻挫少年が後輩かぁ、応援するよ。頑張ろうね!」

志望校を伝えると、予想以上に先生は喜んでくれた。
自分の教えている生徒が志望校として母校を選ぶのはやはり嬉しいことなのだろう。
「じゃあ、真剣に私がやってた個別対策も教えていかないとねー。」と嬉しそうに呟いている。
ただ目標が決まっただけでこれほど喜んでくれるとは思ってもいなかったこともあり、俄然やる気が出てきた。


「じゃあそろそろ休憩終わりにしよっか。」
佐藤さんは携帯で時間を確認して腰を上げた。
僕も甘ったるいイチゴオレの空き箱を捨てて、腰を上げる。

「バンバン教えるよー。」
「目標が決まるとやる気出ますね。」
「何をすれば良いかが分かるからね。やっぱり漫然とレベルアップを目指すより断然効果あるよ、実際。」
「頑張ります。」
「よし、じゃあもっとやる気を出させてあげよう。」
「何するんですか?」
「ご褒美を決める。」
「ご褒美?」
「受験に合格したときのご褒美。」
「そういうことか。でも、今の所、特に欲しいものとかないかも…」
「先生がもう決めました。」
「勝手に?!」
「そういうものだよ、大人は。」
「やっぱずりーな大人は。」
「大人だからね。」
「で、何くれるの?」
「旅行。」
「…は?」

「私と北海道に旅行に行こう。」

彼女は満足した顔でそう言い放った。


夏休み前になると大抵の3年生は部活を引退する。
鹿島も個人戦では良いところまで行ったそうだが、シード相手とあたり彼の部活は終わった。

後日、後輩からもらった寄せ書きを自慢しに来た。
嫌な顔をしたのにもかまわず喋り続け、さらに女子テニス部の可愛い後輩から告白されてつきあっていることも打ち明けられた。
素直に羨ましかったので無言で帰ろうとしたら、「祝え」と言って付きまとってきたので、帰りにチーズバーガーとシェイクを奢ってやった。

志望校が決まってからは、毎日大学図書館で勉強をするようになった。
部活をやっている他の生徒より早く始めたこともあってか、1学期の試験では中間・期末になるにつれ成績が伸びていった。
問題が解ける感覚がとても楽しくなり、勉強に打ち込むようになっていた。


そんな時に、4月初めに受けた模試の結果が返ってきた。思わず頭を抱える。
模試を受けた時点では、近くの大学から選んだ中の一つではあったものの、現実を知る。
模試の結果を受けて各々が一喜一憂しているうるさい教室で、鹿島が話しかけてきた。

「おい、何落ち込んでんだよ。」
「志望校D判定だった。」
「志望校って…お前、あの大学受けんの?ずいぶん目標高くもったなー。」
「一応、勉強するから部活辞めたくらいだしね。」
「でもD判定は確かに凹むな。」
「これはキツイ…武志はどうだった?」
「俺はイイ判定だった。」
「わかった。どんまい。」
「お前、良い方の可能性をちょっとは期待してくれよ。」
「自分より良かったら立ち直れないわ。」
「ひどっ!そこまで言うか?」
「今、そんな余裕ないくらいショックなんだよ。」
「傷ついたから帰りにアイス奢れ。」
「いや、むしろ期末で良かった方にアイス奢る約束だったよな。」
「よし、じゃあチャラだ。」
「おかしくない?それ言い始めたら無敵じゃん。」
「良いだろ。」
「たしかにEだな。」
「うるせぇ。」
EとDが並んでいる模試結果を見ながら二人で笑った。
鹿島もバカではないが流石に判定校として選んだレベルが高すぎる。
「もしかしたらいけるかもと思ったんだけど、現実を知ったわ。」と嘆いている友人と共に帰り道途中のコンビニへ寄って、約束通りアイスを奢らせた。


あらゆる先生から「夏休みが大切な時期だ。」と散々念を押されて夏休みを迎えた。
一緒に帰りながら鹿島はこの夏からの生活を案じている。
今まで部活に打ち込んでいたこともあり、自宅で勉強する自信がないらしい。


「俺は多分自宅で勉強するのは無理だ。」
「そうはいっても勉強せざるを得ない。」
「うん、そうだな。」
「じゃあ頑張れ。」
「うん、ということで一緒に勉強しよう。」
「ん、どこで?」
「近くの大学図書館で勉強してるって言ってただろ?そこに俺も行くよ。」
ドキッとした。

「いやいや、武志の家から遠いし。」
咄嗟にやんわりとした断りの言葉が出る。
「遠いっても俺んちから1駅だしそんなに遠くないだろ。」
「んー、今まで一人で勉強してきたし、友達が近くにいると集中続かなさそうで…」
「大丈夫だって、めっちゃ静かにするから。」
「なんの説得力もないわ。」
「なんだよ、いいじゃん。分からないことがあれば教えあえばいいし、ウィンウィン。」
「この前のテストの点を反省しろ。見事に惨敗したこと忘れてんのか?」
「尻上がりなんだよ。未来の自分を信じている。」
「今を生きろよ。まぁとにかく勉強するなら予備校とかに通って勉強の雰囲気に慣れた方がいいと思うよ。」
「予備校かー、受験生っぽいな。」
「受験生だからね。」
「お前は予備校とか行く?」
「分かんないけど、今はまだ考えてない。もうちょっと自分で頑張ってみる。」
「そっかー、分かった。俺は自分で頑張るのは無理だから予備校も良いかもな。
親にちょっと相談してみるわ。まぁでも毎日行くのも無理だと思うからたまに息抜きで遊ぼうぜ。」
「そーだな、勉強ばっかりだと息も詰まりそうだし、祭りとか海とかたまにいこーか。」
「そーと決まればいつ海行くか決めるか!」
「勉強しろよ。」


結局、鹿島は予備校の夏期講習に行くことにしたらしい。
しかし、毎日授業があるわけではなく、自習室の雰囲気に毎日は耐えられないと懇願され、月曜日は大学の図書館で勉強することになった。
一緒に勉強するのは構わないが、鹿島に佐藤さんのことを知られるのが嫌だった。
自分だけずるをしているようで。
特別な待遇のおかげで成績が伸びていると思われるのが嫌だった。
平日に佐藤さんと会うことはないと思うが、少し不安だった。

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