未来「未来に吹く風」 (41)

去年の夏コミで出したものを投げます。時期はずれてますが、一応未来ちゃんの誕生日絡みです

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地上に出ると、潮風が肌を突き刺してきた。
風に混じった潮の匂いは、お世辞にも心地いいものだとは言えないけれど、
その香りはなぜか不快には感じられなかった。


その場所から少し歩いた海沿いの公園のそばに
「765プロライブシアター」と書かれた建物はある。
ここに来たばかりの頃には一面に広がる桜の花が春を
大げさに主張していたのに、今では木々にも地面にも
すっかり緑の葉だけが広がっている。その緑に溶け
込んでいるとはとてもじゃないが言えない、コンク
リート造の「765プロライブシアター」は建てられてから
まだそんなに月日が経っていないこともあって、その外装は
潮風にさらされていると思えないほど綺麗だ。


一つ深呼吸をして、その建物に入ったところで後ろから声がした。






「プロデューサーさん、おはようございます!」


「ああ、星梨花か。おはよう」


その声の主は、この「765プロライブシアター」に所属する
アイドルであり、かつプロデューサーである自分が担当している
アイドルである箱崎星梨花だった。まだ知り合ってそれほど月日も
経っていないというのに、星梨花は自分に対して、ある程度は
打ち解けてくれているらしい。それは自分の仕事の面から
見ればとても好都合なのだが、自分の性格からすればあまり
望ましいことではない。
というのも、「シャイ」だというレッテルを子供の頃から
貼り付けられていた私は、他者とのコミュニケーションに対して
あまり能動的かつ積極的になれないのだ。
けれども、そんなジレンマを抱えているとは知る由もない
星梨花は、楽しそうに話を続けた。






「プロデューサーさん! 実は私、今朝いいことがあったんです!」


「お、どうしたんだ?」


「ここに来る途中に、ファンの人に声をかけられちゃいました! 
『頑張ってね』って言ってもらったんです!」


「そうか、それはよかったじゃないか。じゃあ今日も頑張らないとな」


「はい!」


自分が駆け出しのプロデューサーであるように、星梨花もまた
駆け出しのアイドルで、今現在そんなに知名度があるわけではない。
だからこそ身近なところで応援を貰える機会というのもそんなにない
わけで、星梨花はそんな貴重な体験を、満面の笑顔を浮かべながら話した。









「このシアターって大きいですよね」


「ああ、そうだな」


私と星梨花は劇場の奥へ向かって並んで歩いていた。
劇場の中にはたくさんの部屋がある。
もちろん公演を行うホールや入口のロビーなんかは
一般的な劇場にもある施設だが、この劇場は様々な
機能を兼ね備えているので、中にはレッスンルームや事務室、
その他にも様々な用途の部屋が存在している。
公演を毎日毎週行えるほど、金銭的余裕も時間的余裕も
人手も知名度もあるわけではないので、普段は事務室や
レッスンルームだけが使われていることが多いというのは
少し物悲しいことではあるが。



「星梨花って、今日はボイスレッスンだけだったよな?」


「はい! そのあとは育ちゃんと桃子ちゃんと一緒に遊びに行く予定なんです!」


「そうなのか。楽しんで来いよ」


どうやら星梨花は育と桃子と仲がいいらしい。
歳も近いし、波長も合うのだろう。
世間一般に蔓延っているような芸能界の暗いイメージと違って、
アイドル達はとても仲が良くて、こちらとしてはすごく助かっている。







レッスンに向かう星梨花を見送ってから、いつも通りに
事務室に行き、自分のデスクに向かった。
壁に掛けられた真っ白の予定表を見ながら、
「もっと頑張らないとな」と気合を入れ直し、作業を進めていく。




作業が一段落したところで、手元にコーヒーの入った
マグカップが置かれていることに気づいた。
顔を上げると、事務員の美咲さんが立っていた。


「あの、お疲れ様です!」


「ああ、お疲れ様です。コーヒー、ありがとうございます」


事務員の美咲さんも、例に漏れず新人だ。
最初はおっちょこちょいな性格を存分に発揮して
数え切れないほどのミスをしていた。
だが、最近は事務仕事も立派にこなせるようになっており、
今となってはとても信頼の置ける人だと思っている。
ただ、そのような偉そうなことは、自分の立場では
到底言い出せることではない。


「それは、次の公演の企画書ですか?」


美咲さんは、私のパソコンの画面を覗き込みながら問いかけてきた。


「ええ、まあ。まだほとんど何も決まってないんですけどね……」


その言葉通りに、パソコンの画面には「企画書」という仰々しい
文字以外には、本決まりでない一部出演者の名前と、
会場がここであることの情報が載っているだけだった。







「だったら、一つ提案があるんですけど……」


そう言いながら、美咲さんは一枚の紙を手渡してきた。


「……『765プロライブシアター公演』ですか?」


「はい! 社長さんからお話があったんですけど、
今度この劇場で、春香ちゃんたちがライブをやるそうなんです!」


「え、ここで?」


「はい! だから、そのライブを見て、参考にして
もらえたらなーと思ったんですけど……」



なんとも好都合な話だ、というのが最初に抱いた感想だった。
もちろん自分がライブの企画を練る上で、とても参考になる
というのはあるけれど、それ以上に、シアターのアイドル達が
先輩たちのライブを間近で見られる、またとない貴重な機会だと思った。


「是非、そうさせてください!」


「はい! わかりました! 社長さんにもそう伝えておきますね!」


美咲さんは嬉しそうな足取りで自分のデスクに帰っていった。
私はそれを見届けながらコーヒーを一口含み、また
目の前の企画書に手を付ける。








コーヒーを飲み終える頃には仕事も一区切りついたので、
レッスンしているみんなの様子を見に行こうと、
パソコンを閉じて部屋を出た。


「うわぁ!」


そんな声が聞こえてきたのは、廊下の先にある曲がり角の
手前を歩いていたときだった。
こんな見通しの悪いところでも、前方に注意しないのは
誰かと一瞬思ったが、目の前に倒れている姿を見て、
「なるほど」と納得してしまった。



「未来、おはよう」


「プロデューサーさん、おはようございます!」


床に倒れた未来は、強く痛むらしいお尻を両手で擦り
ながら元気に返事をした。


「何というか……気を付けような」


「はい、ごめんなさい……」


お尻の打ちどころが悪かったのか、目にはうっすらと
涙を浮かべ、居た堪れない顔を浮かべている未来を見て、
なんとも申し訳ない気持ちになってしまったが、
未来はそんなこともお構いなしにさっと立ち上がった。







「あ、そうだ! プロデューサーさん、
今日の仕事が終わった後って空いてますか?」


「ん、今日か? 
一応夕方からは空いてるけど……」


その返答を待っていたと言わんばかりに未来は目を輝かせた。


「本当ですか⁉ じゃあ、ちょっと付き合ってもらいたい
ところがあるんですけどいいですか?」


「まぁ、それは構わないけど……
未来はまだ中学生だから、そんなに遅くならない
ところじゃないとダメだぞ」


「それは大丈夫です! 
ちょっとだけ、買い物に付き合ってほしいだけですから!」


「ならいいか。
じゃあ、未来は今日って翼とダンスレッスンがあって、
あと春香のラジオにゲスト出演するんだったな」


「はい! 初めてのラジオ出演なのですごく緊張しちゃいます……」


「いつも通りリラックスしてれば大丈夫だよ。
ラジオが終わったら俺もそっちに行くから、
そこから買い物に付き合うよ」


「わかりました! じゃあ私レッスン行ってきます!」


未来は笑顔でレッスンルームに駆けていった。
駆け出す未来を注意しようとした頃には
すっかり未来の姿は廊下の先に消えていた。







未来と別れてからしばらく歩いて、当初の目的通りに
レッスンを覗きに来たところで、レッスン室の前で
一人佇んでいる静香に遭遇した。



「静香、お疲れ」


「プロデューサー、お疲れ様です」


「どうだ? レッスンの調子は」


「もちろん順調です。歌は得意ですから」


そう答えて、静香は手に持っていたペットボトルに口をつけた。



「ところで、プロデューサーはどうしてこんなところで油を売っているんですか?」


「油って……一応多少の心配をして来てるんだけどなぁ……」


「そういうのはいりませんから、放っておいてください」


「冷たいなぁ……」


未来や星梨花とは違って、静香はまだあまり自分に対して
打ち解けてくれていないらしい。
これもアイドルとして、また一人の女の子として
大事にしてもらいたい個性ではあるのだが、
如何せんプロデューサーと言う立場ではやりづらい
ことも多々あるのが現実だ。



「最上さん、そろそろレッスン再開しよっか」


静香との話題に困っていたところに、いい助け舟が来た。
その安堵から思わず自分の顔が綻んでしまい、さらに
都合の悪いことにそれを静香に見られてしまった。
静香はそんな私のことを一瞥してレッスンルームに入っていった。






すっかり日も傾き、窓から差し込む夕日が
部屋の中に微睡みを生み出している。
「春眠暁を覚えず」とはよく言ったものだが、春眠は
黄昏を忘れるものでもある、という主張を頭に巡らせながら、
私は仕事と眠気と闘い続けていた。
だが、その眠気に身を委ねている場合ではないということを、
パソコンの画面右下にある時計が気付かせてくれた。


「あっ、やばい!」


すっかり時間を忘れていた私は、慌てて帰り支度を始めた。


「あれ? プロデューサーさん、今日はもう上がりなんですか?」


「あ、美咲さん。お疲れ様です。
今から、未来が行ってるラジオの現場に寄って、そのまま直帰します」


「あ、そうなんですか……」


美咲さんは少し残念そうな表情を浮かべた。


「何か用事でもありましたか?」


「別に急な要件って程ではないんですけど、社長さんから
『今度の「765プロライブシアター公演」に、シアターの
アイドルを誰か一人だけでもゲスト出演させてみないか?』
っていうお話をいただいて、相談しようかなって思ってたんですけど……」


「ゲスト出演……ですか」








私は考え込む。

正直、まだ早いんじゃないかと言う考えは少なからずあった。
まだプロデューサーとして駆け出しである自分が、そんな
大舞台に飛び込んでいくアイドルを支えられるほどの
心の余裕を持てるとは思えなかったし、アイドルのみんなも、
突然、先輩たちの完成度の高いライブに放り込まれることに
対する恐怖感みたいなものを抱くんじゃないだろうかという懸念もあった。

でも、それと同じぐらいに、千載一遇のチャンスだとも思ったし、
なんとなくだけどうまくいくんじゃないかという希望的観測も湧いていた。




「ちょっと、その話は持ち帰らせてもらってもいいですか? 
今晩ゆっくり考えたいんで……」


そう返すと、美咲さんはいつもと同じ優しい笑顔を浮かべた。



「なるほど、わかりました! 
また明日も頑張りましょうね!」


「はい、お疲れ様です」

そう言って、私は劇場を後にした。









「未来、お疲れ」


劇場を出た私は、ラジオの収録を終えた未来と合流し、
付き合ってほしいと言われていた買い物に向かった。
陽はもう間もなく地平線に消えていく。
街の空は徐々に夕闇の色が濃くしていく。



「プロデューサーさん、お疲れ様です! 
今日はわざわざ付き合ってもらっちゃってありがとうございます!」


「それは全然かまわないんだが……ところで、
買い物って何を買うつもりなんだ? 
あんまり女の子の好みとかはわからないんだけど……」


「大丈夫です! 
実は、明後日が私のお父さんの誕生日なんです! 
だから、その時に渡すプレゼントを一緒に選んでもらいたくて……」



「ああ、なるほどな。それだったら多少は力になれそうだな」


そんな他愛もない話に花を咲かせながら
夜の街を二人で歩いていると、やがて話題は
今日のラジオ収録の話に移っていった。



「そういえば、今日のラジオはどうだった? 
楽しかったか?」


「はい! 
初めてのラジオだったからとっても緊張しちゃいましたけど、
春香さんと千早さんが上手く支えてくれて、
とっても楽しかったです!」


「……そうか、それは何よりだ」


「また先輩たちとお仕事したいなって思いました!」


「……えっ?」



未来の言葉を聞いて、先ほどの話を思い出してしまう。
彼女達が先輩たちと仕事をするということは、先ほど
美咲さんから聞かされた「765プロライブシアター公演」の
企画そのものだった。
そのもちろんそのことについては未来にも他のアイドル達にも
話していないのだけれど、なぜか未来に背中を押されたような気がした。








「……そうか、じゃあまた一緒に仕事ができるように
明日からも頑張らないとな!」


「はい!」


そう返す未来の笑顔を見て、心の内の悩みがスッと
取り払われていくのが感じられた。
その空白を埋めるように「これなら大丈夫だ」という
安心感が湧き上がってきた。



結局、未来のお父さんへのプレゼントにはネクタイを選んだ。
お父さんの好きな色だという赤色の落ち着いたデザインのネクタイだ。
未来の気持ちがこもったプレゼントだし、
きっとお父さんも喜んでくれることだろう。



「今日はわざわざ付き合ってもらって、ありがとうございます!」


未来は買ったばかりのプレゼントを大事に抱えながら笑顔を見せた。


「どういたしまして。お父さんへのいいプレゼントが選べてよかったな」


「はい!」


「じゃあ、今日はもう遅いから、早く家に帰るんだぞ」


「はーい! それじゃあ、プロデューサーさん、お疲れ様です!」


そう言って、未来は私の帰り道とは逆方向に歩き始めた。
未来の背中を見送る視線を少し上にやると、登りたての満月が
夜空にポツンと浮かんでいた。








翌日、私は出社してすぐに美咲さんに報告に行った。


「美咲さん、ちょっといいですか?」


「はい、何ですか?」


今日はこの報告のこともあり、いつもと比べて早く
出社したのに、美咲さんはそれよりもずいぶん前に出社していたらしい。
自分が着いた頃にはすっかり腰を落ち着けて作業していたところを見ると、
本当に頭が上がらないなぁと思ってしまう。



「昨日の『765プロライブシアター公演』のことなんですけど、
昨日考えて、やっぱり参加させてもらいたいと思いまして……」


「えっ、本当ですか?」


美咲さんの目がキラキラと輝いていくのがはっきりと分かった。


「やっぱりみんなにとって貴重な機会だと思ったので……」


「そうですよね! 
私もみんながステージで歌ってるところをもっと見たいです!」


美咲さんもこの劇場のアイドル達をこれ以上ないほどに好いて
くれているのが、ありありと伝わってくる。
美咲さんが、そしてファンの人達が応援してくれている
シアターのアイドル達の未来は、自分の裁量次第で
どうにでもなってしまう。
私はその事実に直面し、改めて「プロデューサー」という立場
にある自分の責任を認識させられる。



「じゃあ、社長にもそう伝えておいてもらえますか?」


「わかりました! ところで、誰が出るとかは
もうだいたい決まってるんですか?」


「まあ、そうですね……今のところ、未来に出てもらおうと
思ってます。未来は昨日も一緒にラジオに出てましたし、
本番にも強そうなタイプだと思ったので……」


「未来ちゃんですか! 確かにわかります! 
未来ちゃんなら期待出来そうですもんね~」


「まだこのことは誰にも伝えてないんですけど、
未来の参加はもう本決まりにしてもいいんでしょうか?」


「社長さんだったら多分オッケーしてくれると思いますよ!」


「ありがとういございます。
じゃあ、未来の件も含めて、社長に報告お願いします」


「わかりました!」







今日は月曜日。
週の始まりだからと意気込んで、嬉々として
各々の職務に励んでいる人は少ない。
けれども多くの人々はその運命に抗うことなく
日々を生きている。
それはプロデューサーである自分にとっても
アイドルである彼女達にとっても変わらないことで、
私が劇場で仕事をしているように、
多くのアイドル達は今頃、各々の学校で
勉学に励んでいる。
それは765プロライブシアター公演のゲスト出演を
お願いしようと思っている未来にも言えることで、
今日は学校の授業を終えてからこの劇場に来る予定になっている。

まあ未来が勉学に励んでいるかどうかは少し疑問が残るところではあるのだが……。




「私が、ゲスト出演……ですか?」


「ああ、お願いできないかと思ってな」


夕方、劇場に到着した未来を呼び止めて、
『765プロライブシアター公演』の話を聞いてみた。


「未来は昨日のラジオ出演で先輩たちにも、
春香や千早のファンの人達にもある程度認知されていると思うし、
何より未来なら先輩たちとも楽しんでやってくれると思って、
是非お願いしたいんだけど……」


未来は、突然の話にあまり理解が追い付いていないようだったが、
これが自分に与えられたチャンスだということはなんとなく
わかってくれているらしい。


「ライブですか⁉ 私やりたいです!」


「……よかった。未来ならそう言ってくれると思ってたよ。
練習は今までと比べてかなりハードだと思うけど、頑張ろうな」


「はい! いっぱい、いーっぱい頑張りますね!」



それから今後の予定の確認やらを済ませて、未来はレッスンに向かった。







時間の経過とともに太陽は昇っては沈みを繰り返し、
今日は待ちに待った『765プロライブシアター公演』の当日だ。
天気は生憎の雨模様だが、それとは対照的に、未来の顔は明るかった。


「未来、いよいよライブ当日だけど、どうだ? 
緊張とかしてないか?」


「はい! 昨日からずっと、今日のことが楽しみで
全然眠れませんでした!」


「その感じだと、あんまり固くはなってないみたいだな。
今日は未来にとっての初めてのライブだからな、
気負わずに精一杯輝いてこい!」


「はい! 行ってきます!」


未来はステージに向かって、勢いよく駆け出していった。
ステージから漏れ出る光が作る彼女の影は、
どんどんと自分の元から離れていった。









地上に出ると、潮風が肌を突き刺してきた。
暦の上ではまだ初夏の頃らしいのだが、肌で感じる空気は
夏本番のそれと大して変わらない気がしてならない。
べっとりとした潮風と自分の汗とが混じった、このなんとも
言い知れぬ感覚はやはり苦手だと思いながら、
ポケットからハンカチを取り出し、汗を拭った。



シアターに着けば、そこには癒しがあった。
適度に涼しい部屋に冷えた飲み物。
外から部屋に入ってきたというのにどこか気分は開放的で、
思わず身体を投げ出してリラックスしたくなってしまう。
しかし当然そんなことが出来るはずもなく、社会人としての私は
自分の欲望を押し殺して今日も仕事に向かう。



ひと月ほど前は、まだまだみんなも自分も新人だったけれど、
最近では少しずつ、色々なところでシアター所属のアイドル達が
活躍し始めている。
その証拠に、予定表には少しずつ「黒」が目立ち始めた。



その仕事の一つに、未来と静香と星梨花でのラジオ番組があった。
放送当初はなかなか三人とも打ち解けてくれなくて
不安な部分は大きかったけれど、最近はそれぞれが個性を理解し合い、
尊重し合ってくれていて、その上でお互いが個性をぶつけ合うとても
面白いラジオになっていると思う。
それは自分だけが抱いた感想ではないようで、
リスナーの数は順調に増え続けているらしい。


今日もちょうどラジオの収録日で、午後には三人を連れてスタジオに行く
予定になっている。
そのためには三人とも学校から直接事務所に来なければ間に合わないのだが、
果たして未来は忘れていないだろうか。
そんな不安感が拭えずに、ケータイを開いて未来に確認のメールを送ることから
今日一日の仕事は始まった。







人間という生き物はいくらか都合がいい生き物で、
最初はあまり気乗りがしないことでも、やり続けるうちに
なぜかそこに楽しみを見出して夢中になってしまうものだと思う。
それは私の仕事にも言えることだったのだと痛感してしまった。
どういうことかと言えば、書類の整理やら企画書の作成やらに
夢中になっていた私は、時刻がすでにお昼時を回っていたことに気付かなかった。
私は得も言われぬ羞恥心に駆られ、慌てるようにして席を立った。



このシアターの周りには美味しい店が多いらしい。
「らしい」というのは、これは人づてに聞いただけの話だからである。
「おいしい店というのなら行ってみればいいのではないか」と言われれば
返す言葉もないのだが、生憎とそんな機会は今のところ巡ってきていない。
それはなぜかと言えば、私は端的に言って優柔不断な人間であるからだ。
人に流されることは得意だけれど、自分から動いていくのはすごく苦手だ。
仕事合間の昼休みもその優柔不断っぷりを遺憾なく発揮してしまい、
毎日のように選択肢に踊らされ、挙句の果てに無難なそこそこの店に入ってしまう。

自分自身でも、この性格を直したいと思うことは多々あるけれど、
解決策のようなものは未だ見出せずにいた。



昼休憩を終えて仕事に戻ってからしばらく経って、窓から差し込む
強い西日が気になり始めた頃に、静香が事務所にやってきた。







「おはよう、静香」


「おはようございます、プロデューサー」


挨拶を済ませた静香は、辺りを見回して、未来と星梨花が
まだ来ていないことを確認したようだ。
そして、静香は事務室の机に勉強道具を広げ始めた。


「お、宿題か?」


一瞬だけ、筆箱のかわいらしいストラップに食いつこうかと思ったが、
すぐに思い直して、極めて単純な質問をした。


「いいえ。宿題もですが、来週からテストがあるので」


「そうなのか。もしわからないところがあれば俺にきいてもいいからな」


「もし、万が一そういうことがあれば聞くかもしれません」


「万が一って……」


「プロデューサーも、私に構わずに、早く仕事に戻ってください」


「そうだな。一応、今日の台本だけ渡しとくから、勉強の合間にでも確認しといてくれ」


「わかりました」


静香はそう返しながら、私からラジオの台本を受け取って、机に向き直った。







次に事務所に到着したのは星梨花だった。


「プロデューサーさん、おはようございます!」


「おはよう、星梨花」


荷物を置いて辺りを見回した星梨花は、
机に向かっている静香の方に歩み寄った。


「静香さん、おはようございます!」


「星梨花、おはよう」


「静香さんは宿題ですか?」


「いいえ、来週の中間テストに向けて勉強しておこうと思って」


「あっ、テスト!」


そこで星梨花はハッと思い出したような表情を浮かべた。


「私も来週テストなんですけど、数学がちょっと分からなくて……」


静香は一瞬痛いところを突かれたような表情を見せたが、
星梨花に頼られる嬉しさは隠し切れないようで、すぐに笑みをこぼした。


「す、数学? まぁ、さすがに一つ下の星梨花には教えられると思うけど……」


「ほんとですか? じゃあ教えてもらってもいいですか?」


星梨花もまた、少し嬉しそうな顔をした。
性格は大きく異なるけれど、この二人はなかなか波長が合うらしい。










そうして、星梨花が静香に勉強を教わっているところに未来が到着した。


「おはようございます!」


「未来、おはよう……って、なんだ? その両手に持ったビニール袋は……」


ビニール袋には、溢れそうなほどいっぱいに物が入っているようだった。


「これですか? お菓子です! 
今日はラジオの収録だから、静香ちゃんと星梨花と一緒に食べようと思って!」


そう言いながら未来は静香と星梨花が勉強している机の上に、
買ってきたお菓子を広げていく。
そんなことをすればどうなるかは目に見えていた。


「ちょっと未来! 勉強の邪魔はしないで! 
だいたい、未来もそろそろ中間試験があるんじゃないの?」


「へ? 中間試験?」


「もしかして、未来さんの学校は中間試験がないんですか? 
羨ましいです!」


「……ちゅ、中間試験!」


そう叫びながら、未来は頭を抱えた。


「ほら、やっぱりあるんじゃない。
その様子だと勉強は進んでないみたいだけど?」


「うわーん! 静香ちゃん、勉強教えて~」


そう言いながら静香に抱きつく未来を、にこやかな顔で星梨花が見ている。
その様子を、私はなかなか平和な夕暮れだと思いながら眺めていた。







とは言ってもあまり時間はないので、三人には
勉強に見切りをつけてもらい、ラジオの収録に向かった。
情けないことに、私は車の免許を持っていないので、
車は美咲さんに出してもらうことになっている。
現在、私は仕事の合間を縫って教習所に通っているので、
こうして美咲さんに車を出してもらうのもあと数週間のことだとは思うのだが。



ラジオの収録スタジオに着いた三人はとても自由だった。
もちろん収録の台本は見ているけれど、三人が座るテーブルには
未来が買ってきたお菓子が敷き詰められており、
三人も何やら女子中学生らしい、思春期特有の話題で盛り上がっていた。
その話はもう成人を過ぎ、アラサーに手がかかり始めた自分が聞いても
気恥ずかしくなるだけだったので、私は関係者の人と話をすることにした。



そこで、嬉しいニュースを聞いた。
前々から話は挙がっていたことなのだが、未来たち三人が歌う、
このラジオのテーマ曲を作ろうという企画が持ち上がっていた。
それはもう未来たちも知っていることなのだが、どうやら
その曲のデモが完成したらしい。
曲の収録は一週間後の土曜日になったということも同時に聞かされた。






未来たちがラジオの収録を終えてスタジオから出てきたのは、
もうすっかり夜の灯りが街を照らしていた頃だった。
冷房が効いている屋内だからわからないけれど、
一度外に出れば、羽毛布団を被っているかのような
重苦しい暑さが私を襲うことだろう、と思っていたのだが、
襲ってくるのは暑さだけではなかった。



「プロデューサーさーん、お疲れ様でーす!」


そう叫びながら、スタジオを出た未来は自分の方に駆けてきた、
だけではなく、さっと自分の手を取り、ぶんぶんと上下に振り始めた。
それを半ば冷めた目で見ている静香と嬉しそうな顔をしている星梨花も、
遅れて自分のところにやってきた。


「スタッフさんに聞いたんですけど、曲が出来たって本当ですか?」


「ああ、そうだな。これがデモ音源のCDだよ」


そう言いながら一人一人にCDを手渡していく。
未来は満面の笑顔でそれを受け取り、
静香は覚悟を決めたような顔で、
星梨花は物珍しそうな顔でそれを手に取った。


「星梨花、これはCDだよ」


「『しーでぃー』ですか?」


「そう。これに曲が入ってるから、
家に帰ったらお父さんか誰かに頼んで聞かせてもらってくれ」


「この中に曲が入ってるんですか? すごいです!」


どうやら本当に、星梨花はCDを見るのが初めてだったらしい。
それはもちろん星梨花の家が特殊だからというのもあるだろうけれど、
現代社会ではCD自体が珍しいものになりつつあるというのも
理由の一つなのだろう。


「曲の収録は来週の土曜日だ。
それまでにちゃんと各自で練習しておくようにな」


「「「わかりました!」」」


三人の返事は頼もしかった。
この三人ならうまくいく、この時はそう思っていた。



ただ、彼女達に一つだけ伝え忘れていたこと
――厳密には伝えたつもりだったことだが――があった。
実は、今回制作してもらったこの曲のリリースイベントのようなものを、
発売直後に劇場でやることを計画していたのだが、
それを三人に伝え忘れていたのである。
このことに気付いたのはもうしばらく時間が経った後の事なのだが、
このリリースイベントが思いもよらない結果を招くことになってしまった。








今になって振り返ってみれば、失敗だらけのリリースイベントだった。
自分の伝達ミスも当然そのミスのうちの一つではあるが、
それ以外にも、ステージ内外で大小様々なミスがあった。
目立つところだけでも、スタッフ間の連携不足による
列形成のミスや機材トラブル、ステージ上では未来たち三人の
たどたどしいMCと、はっきり言えば「グダグダ」なイベントに終わってしまった。



かといって、それがすべてミスのまま終わるわけではない。
イベント後には何度も会議を開いて、すべてのミスに対して
原因究明を行ってきたし、全員が「次は必ず成功させる」という
リベンジ精神を煮えたぎらせている。
それは自分だけではなく、未来、静香、星梨花の三人も
日々その気持ちを存分にレッスンにぶつけてくれている。


それに自分も「プロデューサー」として、
彼女たちの想いに応えるために色々な企画を練っていたのだが、
ようやくそのうちの一つの企画の実施にこぎつけた。


「『シアターライブ定期公演』ですか?」


「そうだ。つまり何をするか、未来は分かるか?」


「ライブを……する?」


「正解!」


レッスン終わりの未来たち三人を呼び止めて、
決まったばかりの企画の話を始めた。


「このライブは、シアターのアイドルみんなでの最初の大きなステージになる。
みんなで成功させよう!」


「あの、プロデューサーさん、その定期公演っていうのはいつ頃にやるんですか?」


「そうだな、今から考えて大体一か月後、六月末の日曜日にやる予定だ」


「公演には、私たち以外のメンバーも出るんですか?」


「ああ、そうだな。ただ、他の仕事が被っている子も多いから、
なかなか全員が参加と言うわけにもいかないと思う」


「その公演は、私たちにとっての『リベンジ』の機会だと捉えてもいいんでしょうか?」


「もちろんだ。まだ出演者が決まっていないから、
セットリストもほぼ白紙だし何とも言えないけど、
現時点ではあの曲も披露してもらいたいと思っている」


「……わかりました。ありがとうございます」


嬉しそうな顔を浮かべる未来とは対照的に、静香と星梨花は決意に満ちた表情を見せた。
このことが変なプレッシャーにならないことを願いながら、
部屋を出ていく三人の背中を見送った。







それから大体一週間が経ち、定期公演に向けての
レッスンを始めたばかりの彼女達を、
私はレッスンルームの外から眺めていた。
この春に初めて見た彼女達とは比べ物にならないほどに
成長しているところを見ると、やはりこの年頃の成長速度は
計り知れないと感心せざるを得ないのだが、
今日のレッスンはどこか雰囲気が違っていた。



それは言うまでもなく、今月末に控えている定期公演が原因だろう。
特に、リリースイベントでのリベンジに燃えている三人は、
いつもよりレッスンに熱が入っているようだった。
それは一見、悪いことではないように思えるが、
実際はそうも言えない事態に陥っていた。


「最上さん、そこ、また振り付け間違ってるわよ」


「箱崎さん、立ち位置ずれてる。右に一歩分修正して」


レッスンルーム内はライブ前らしい緊張感に包まれており、
レッスンの内容もそれに伴う厳しいものになっていた。
その中でも特に、静香と星梨花の二人への指摘は多かったように思える。
二人とも、間違いなく技術は上がっているから指摘の数は
おのずと減っていくはずだし、さらに言えば、普段からミスが多い
というわけでもない二人がこんなにもミスをしているというのは
正直不可思議に思えた。。


だが、二人の顔を見て、その理由がうっすらとではあるが理解できた。
踊っている二人の顔と、一週間前の、
あの「決意に満ちた」顔とが重なって見える。






「空回り、なんだろうなぁ……」


レッスンが終わる少し前に自分のデスクに戻って来た私は、
静香と星梨花に提示すべき「言葉」をあれこれと考えていた。
「固くなりすぎるな」とか「変に気負わずある程度リラックスして」だとか、
ただ単に文字に起こすだけではなく、ちゃんと「人に伝わる言葉」に
それを置き換えてあげないといけない。
コミュニケーションにおいては、また今回のような場合は特に、
そのひと手間が明暗を分けることは往々にしてあり得るのだ。


時間にすれば十分程度だろうか、
そんな思考を巡らせていた私の脳内に、
唐突に聞き慣れた声が響いた。


「プロデューサーさん、お疲れ様です!」


「ああ、未来か。お疲れ様」


未来の髪には無数の水滴が付着していた。
それが汗ではなく、レッスン終わりのシャワーの水であることを
切に願いながら話を続けた。


「どうした? 今日は後ろの予定はないはずだけど……」


「それが、さっきレッスンに行く前にスマホを
この部屋に置き忘れちゃったみたいなんです。
プロデューサーさん、見てませんか?」


「いや、見てないなぁ……」


「そうですか……ちょっと探してみます!」


そう言って未来はスマホを探し始めた。
机の引き出しの中やテレビラックの下なんかを覗いている
ところを見ると、探し物にはそこそこ時間がかかりそうだ。







「そういえば、未来は今日のレッスンどうだった?」


スマホを探そうと冷蔵庫の扉を開けようとしている
未来の手を止める意味も込めて、特に深い意味もない質問を投げかけた。


「今日ですか? 今日も楽しかったです!」


いい意味で、予想通りの返答だった。


「気負いとか、緊張とか、そういうのは大丈夫なのか?」


「はい! 今はそれよりも『楽しみ』っていう気持ちの方が大きいです」


「『楽しみ』か……。
それならいいんだが……」


そう呟いた時、部屋の入口から声がした。


「未来! スマホ、ロッカーの中に忘れっぱなしだったわよ!」


そう叫ぶ静香の手には未来のスマホが握られていた。


「え、ウソ!? ありがとう静香ちゃん!」


未来は嬉しそうに扉の方へ駆けていった。
どうやら未来は、静香や星梨花とは対照的に、
定期公演に対する気持ちの準備はうまくいっているらしい。
それが半ば怖くもあり、半ば嬉しくもあった。


スマホを静香から受け取り、嬉しそうに未来は事務室を後にした。
その後ろを少し申し訳なさそうな顔でついていく静香を見送り、
また先ほどの思慮に戻ることにした。
先ほどの思慮というのは当然、静香と星梨花のことである。







結論から言えば、私は、彼女達にかける言葉を、
自らの思慮の内で見つけることはできなかった。
そう易々と解決策を見つけられるほど、
コミュニケーションという営みは、そして言うなれば人の心は、
単純で明快なものではないということなのだろう。
しかし、だからと言って解決を諦めていい問題でもないし、
どこかの地点で妥協していい問題でもないということは重々分かっていた。
思慮の内で行き詰まってしまった私は、
思い切って「対話」に踏み切ることにした。




その翌日、レッスン終わりの静香と星梨花に声をかけ、
事務室に少し残ってもらうことにした。
一応他のアイドル達への、そして当人たちへの配慮も込めて、
このことは内密に済ませようと思っていた。


「今日は突然無理を言って悪かったな」


私はソファの対面に腰かけている彼女達にお茶を出し、おもむろに口を開いた。


「ちょっと最近の二人の様子を見ていて、違和感があったんだ」


彼女達が本音で話しやすいように、出来るだけ神妙な雰囲気を避けよう
と思っていたのだが、窓の外から聞こえる梅雨の雨音も相まって、
部屋の空気は想定よりも重苦しいものになってしまった。


「二人が今、悩んでいることとか行き詰っていることがあれば教えてくれないか?」


二人は揃って俯いた。
が、彼女達もこちらに歩み寄る姿勢は持ち合わせてくれているようで、
捻り出すようにして星梨花が言葉を並べた。


「実は……今回の定期公演に向けて、みんなでレッスンを頑張っている時、
ふと頭をよぎることがあるんです……」


それに呼応するように静香も言葉を続ける。


「先のリリースイベントのリベンジの意味もあるし、
気持ちは常に全力なんですけど……どうしても
リリースイベントでのミスをしたシーンを思い出してしまって……」



「『トラウマ』っていうものなんでしょうか……?」



やっぱりか、という感想は胸の奥にしまい込んで、
彼女達が紡ぐ言葉に耳を傾けた。
だが、それ以上の情報も得られず、解決策も見つけられないまま、
「こっちに任せてほしい」とだけ言って、二人を家に帰した。







もちろん、何の策も持たないままに話を切り上げたわけではない。
その翌日、ラジオ収録の後に時間を作ってもらい、
また話し合いの場を設けることにした。
しかも、今回は静香と星梨花の二人だけではなく、
未来にもその場にいてもらうことにした。


「ところでプロデューサーさん、今日は何のお話があるんですか?」


未来がそういう反応をするのも無理はない。
これからする話は、はたまたここに今呼ばれていることですら、
未来にとっては突拍子もないことだ。


「そうだな……自分たちの口から話した方がいいか?」


そう言って静香と星梨花の方に目線を移したが、
二人とも、首を縦に振ることはなかった。



「……そうか。じゃあ俺から話をするよ」


「そんな深刻な話なんですか?」


「……まあ、とりあえず、状況だけ説明するぞ」


不安そうに自分と静香たちの方を交互に見やっている未来に、
落ち着いた口調で話を続ける。


「まず、定期公演が後二週間近くまで迫っているのは知ってるよな?」


「……はい」


「その定期公演に関してなんだけど……ちょっと問題、というか
『しこり』みたいなのがあってな……」


「『しこり』って何ですか?」


「まぁ、違和感みたいなもんだよ、
今回の場合はちょっと意味が違うんだけど……で、
その『しこり』っていうのが、だいたいわかってるとは思うけど、
静香と星梨花に関係することなんだ」


それを聞いた静香と星梨花は申し訳なさそうに首を垂れる。


「ところで、未来はこの間、定期公演のことは
『楽しみ』だって言ってくれていたよな?」


「……はい、そうですけど……」


「まあ、もちろん静香も星梨花も楽しみだっていう
気持ちはあると思うんだけど、そうじゃない部分もあってな……」


「そうじゃない部分?」


「……未来は、定期公演に向けて、
『不安』っていう気持ちはないか?」








「……『不安』ですか? それはもちろんありますけど……
でも、それよりもやっぱり『楽しい』の方が大きいです」


そう答えた未来の目には、決意や覚悟が見て取れた。


「……なるほど。それには何か理由があるのか?」


「……前に、春香さんたちのステージに立たせてもらった
時のことなんですけど、私、レッスンとかリハーサルとかでは
失敗続きで、ちょっと落ち込んじゃってた時期があって……」


「ああ、そういやそんな時期もあったな……」


「はい。それで落ち込んでた時に、
春香さんに教えてもらったことがあるんです」


「春香に?」


「はい、『仲間』です!」


未来の横で話を聞いていた静香と星梨花は
戸惑いを隠し切れないという表情で、
助け舟を求めるようにこちらを見た。


「……えっと、つまりどういうことだ?」


「えっとですね……春香さんから教えてもらったことなんですけど、
先輩たちの間では、レッスンとかリハーサルとか、それこそ本番でも、
何か困ったこととか気になったところがあれば、
すぐにみんなが集まって話し合って、協力して、解決案を一緒に探す
っていうのがあるんです。
実際、私もレッスン中にどうしてもダンスの振り付けに着いていけなくて、
先輩たちに相談したことがあったんです。
そしたら、まだ新人だった私にも、先輩たちは本当に親身になって教えてくれて……
その結果、そこの部分は本番でもバッチリ踊り切れたんです!」


「なるほど、『相談』か……」




もちろん、社会人として「報告・連絡・相談」という三種の神器は
使っていかなければいけないということは重々分かっていたのだが、
プロデューサーという立場上、自分は「ホウレンソウ」を受ける側の人間だ
という意識が強くあったのかもしれない。
ましてや、受けた相談のフィードバックをするなどという
手練れた技術を使いこなすことなんて出来るわけもなかったので、
今回の静香と星梨花の問題も、一人で抱え込もうとしていたのかもしれない。
さらに言えば、張本人である静香と星梨花もまた、私と同じように、
自分の胸にしまい込もうと考えていたのかもしれない。




「じゃあ、俺から、未来に『相談』してもいいか?」








はっきり言えば、未来をこの場に呼んだことに深い意味はなかった。
定期公演に不安を抱える二人とは同じ境遇にありながら
違う思いを抱いている未来の存在は、二人の意識改革を目指す上での
ヒントになり得るかもしれない、なんていう適当な思いつきの結果だった。

だが、これは適当な思いつきらしからぬ成果を上げてくれることになるかもしれない。


「はい、何ですか?」


未来の顔は真剣そのものだった。
それは自分にとっても、また静香と星梨花にとっても
頼もしいことだった。


「まぁ、単刀直入に言うと、
静香と星梨花は、今度の定期公演に向けて、
『不安』っていうものが少なからずあるらしい」


今まで自分の中にあった足かせが、
いとも簡単に取っ払われたかのように、
こうもすらすらと相談できるのは、
私が未来の人柄を信用している証なのかもしれない。


「でも、未来には『不安』があんまりないっていう話だったんだけど、
未来自身は自分の『不安』とどう立ち向かっているのかっていうのを、
参考程度に教えてくれないか?」


そう話すと、未来は少しの間考えこんだ後、
納得したような表情で頬を緩め、
自分の考えをなるべく正確に伝えようと、
落ち着いた口調で話し始めた。



「……これも先輩たちとの話になっちゃうんですけど、
レッスンとかでは全然上手くいかなかったのに、
先輩たちのおかげで本番はなんとか成功させることができて……
なんか、その成功が、私の今の心の支えになってるというか、
あの成功のおかげで、不安とかプレッシャーとかも
エネルギーに変えられているような気がするんです!」


「『成功』か……」


もちろん、未来の考え方が間違っているとは到底思えないし、
むしろ一般論としては最適解のうちの一つにも思える。
しかし、今回の場合では、静香と星梨花にとっての『成功』が、
現時点で存在しない以上、その考え方に基づいて話を進めていく
ことはできないという大きな壁が存在する。


そのことに気付き、少し頭を捻らせていると、おもむろに静香が口を開いた。


「……未来は、今回のライブが、『成功』すると思ってるの?」


そこに数秒間の沈黙が生まれた。
梅雨のしとしと降る雨の音と、部屋を冷やすエアコンの音がなかったとしたら、
この世界の時が止まってしまったのではないかと錯覚するほどだった。








しかし、そんな沈黙を打ち破ったのは未来の声だった。
それはまるで、世界の時を動かす風のように感じられた。



「……もちろん! 
だって私一人だけのライブじゃないから!」


「…………えっ?」


素っ頓狂な声を上げたのは星梨花だった。
いつの間にか二人は顔を上げていて、
未来の話を半信半疑の顔で聞いていた。


「未来、それはどういうことだ?」


「だって、静香ちゃんも星梨花も他のみんなも一緒のライブだし、
『絶対成功させたい!』って思ってたら、いつの間にか
成功することしか考えられなくなって……でへへ~」


未来は自分の頭に手をやって、おどけながら笑った。
その透き通るような声で、部屋の外の空気までもが
変わっていくような錯覚を覚えた。


「『絶対成功させたい』ね……。
まったく、未来らしい言葉だわ」


そう呟く静香の目は、窓の外を向いていた。
いつの間にか雨脚はずいぶんと弱まっていたらしく、
屋根からぽつりぽつりと落ちる雫が、
時折窓のフレームに当たって音を立てていた。


「私も、この定期公演は絶対に成功させたいです!」


確かな声でそう言った星梨花の目には、ある種の覚悟が見えた。
悩んでいるとはいっても、二人の心は強い芯を残していたらしい。


「ある程度、まとまったみたいだな。
じゃあ、今日はもうお開きにしよう」


そう言いながら席を立った私に続くようにして、三人も腰を上げる。
デスクに向かう自分とは逆方向にある部屋の出口に向かう三人の背中は、
どこか頼もしくも感じた。








「ところで、静香ちゃんたちの悩みって何だったの?」


「えっ⁉ 気づいてないの?」


「じゃあ、未来さんには内緒ってことにしておきましょう!」


「えーっ⁉ そんなのずるいよ、教えてよ、静香ちゃーん!」


未来は頬を膨らませ、静香は半ば呆れるようにして笑った。
星梨花はそんな二人の姿を楽しそうに眺めていた。
そんな光景を見て、思わず頬が緩んでしまった自分が、
少しだけ気恥ずかしかった。








二週間という時間は意外とそんなに長いものではない。
レッスンとリハーサルと普段の仕事をこなしているうちに、
その日はあっという間にやってきた。



今日は定期公演の本番の日。
舞台上ではすでにライブが始まっており、
私はそれをステージ横から眺めていた。
まだまだ垢抜けない彼女達ではあるが、
それでも過去最高と言っていいほどのパフォーマンスを見せてくれている。



「プロデューサーさん!」


その声に振り向くと、未来、静香、星梨花の三人が
ステージ衣装に身を包んで立っていた。


「おお、三人とも似合ってるじゃないか」


「でへへ~、ありがとうございます!」


未来は率直に嬉しそうにそう話し、
静香は少し気恥ずかしそうに俯き、
星梨花は満面の笑顔を返してくれた。



「ステージ、精一杯楽しんで来い!」


「「「はい!」」」


三人は過去の戸惑いも不安も脱ぎ捨てた翼で、
光り輝くステージに向かっていく。



「みなさん、楽しんでますかー?」


「次の曲は、私たち三人で歌う、あの曲です!」


「それでは聞いてください、『U・N・M・E・Iライブ』!」








夜風が顔に吹きつけた。
頭上には雲一つない星空が広がっている。
昨日に梅雨明けが発表された関東地方の夜は、
まだまだ夏本番とは言えない心地よい陽気で、
半袖で街を歩くには少し肌寒いほどだった。



と言っても私は今、夜道を歩いているわけではなく、
ヘッドライトが連なる幹線道路に車を走らせていた。
その後部座席には、今日の主人公がちょこんと座っていた。


「プロデューサーさん、後何分ぐらいで着きそうですか?」


「あー、大体十分ぐらいかな」


バックミラーを見ると、後部座席に座る未来の膝の上では、
さっき買ったケーキが大事そうに抱えられていた。


「そんな焦らなくても、まだそんなにみんな集まってないと思うぞ」


「じゃあ、私も早く行って、飾りつけの手伝いとかやりますね!」


「お前、今日、主役だろ……」


気持ちが急いている未来の顔は緩みきっていて、
とてもファンの人たちに見せられる表情ではなかった。
しかし、今日のお祝いと昨日の活躍に免じて、
少しの間はリラックスしている未来を温かく見守ることにした。




「おーい、未来、着いたぞー」


昨日今日の疲れのせいだろうか、劇場の駐車場に着いた頃には、
未来はスヤスヤと寝息を立てていた。
幸いにも、膝の上にあったはずのケーキは
隣の座席に避難させていたようなので、それを片手に持ち、
寝ぼけ眼の未来を連れて、劇場に帰ってきた。







「未来、誕生日おめでとう!!」


事務室に入った途端に、その声とともに鳴り響いた
多数のクラッカーの音に驚くようにして、未来は目を覚ました。


「未来、おめでとう」


「未来さん! 誕生日おめでとうございます!」


今日の誕生会には多くのメンバーが駆けつけてくれていたのだが、
その中には、静香と星梨花の姿もあった。


「星梨花~、静香ちゃん、ありがとうー!」


未来は私の元を離れて、静香と星梨花の方に駆けていった。
しばらくこんな感じで談笑されてしまうと、
ちょうどいいタイミングを見失ってしまいそうだったので、
ここで一つ挨拶を挟むことにした。


「えーっと、まず、みんな集まってくれてありがとう。
今日は、昨日の定期公演の成功と、今日の未来の誕生日を祝う
パーティーだから、みんな適度に羽目を外して楽しんで欲しい。
それじゃあ、皆さんグラスをお手に……」


「あっ、私飲み物もってないー!」


「未来……じゃあ、待っててやるから、
テーブルから何か飲み物持ってこい」


「はーい」


なぜか、こういう大事な時に締まらないこの雰囲気も
また愛おしくどこか懐かしく感じられてしまうのは、
きっと夏の夜のせいだろう。



「じゃあ改めて……」


「初めての定期公演の成功と、未来の誕生日を祝って!」


「「「「かんぱーい!!」」」」








「未来、ちょっといいか?」


パーティーが盛り上がっている中、
私はとある理由で未来を部屋の外に呼んだ。


「どうしたんですか?」


「まあ、そんな大した用事ではないんだけど、
未来に渡したいものがあってな……」


私は、ポケットからそっと包装紙に包まれたプレゼントを取り出し、
未来の手に添えるように置いた。


「……あの、これって……」


「未来は、今回の定期公演を成功に導いてくれた立役者だからな、
それの感謝の意味も込めて、誕生日プレゼントとして、
未来のために選んだんだ」


出来るだけ平静を装ってはいたが、実際のところ、
心臓の鼓動が未来にも聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに
緊張していたし、おそらく耳の先ぐらいは赤く染まっていたに違いない。


「……開けてみても、いいですか?」


「……ああ」


「これは……髪留め、ですよね?」


「そうだな。未来に似合うようなものを選んだつもりなんだけど……どうだ?」


「すっごく嬉しいです! 
ピンク色の髪留めって私好きですし、この先っぽにある花のデザインも可愛くて、
私とっても大好きです!」


そう言いながら、未来は嬉しそうに髪留めをつけた。
未来の溢れんばかりの笑顔と、それに添えられた髪留めが
未来自身の輝きをこの上なく表現している、
そんな気がしてならなかった。



「早速、みんなに見せてこよーっと!」


未来はスキップを交えたような足取りで部屋の中に戻っていった。
その背中と、昨日のステージに向かう未来の背中が重なって見えたとき、
これまで私の頭の中を巡っていた直感のようなものが、
ある種の像を帯びて、ストンと腑に落ちていくような感覚があった。








地上に出ると、潮風が肌を突き刺してきた。
夏という季節と潮風との親和性が高いというのは
多くの人が感じていることだろうが、私もその例外ではない。
朝、窓から差し込む陽の光を恨み、
あり合わせのもので作った朝食を「そんなに美味しくもない」と
批評的な面を浮かべて食べていた自分とはまるで別人のように、
潮風に当てられた私の心は清々しさで満ちていて、
今すぐにでも走り出したい気分だった。
とはいえ、この炎天下の中を走ったりするようなことはせず、
汗を拭いながら劇場へと歩き始めた。




劇場までの道の途中には、この間
静香からお勧めしてもらったうどん屋がある。
静香が言うことには、「ここのうどんは出汁が生きている」らしいので、
今日の昼食場所の候補として頭の中にメモしておいた。



劇場は、初めて自分が訪れたあの春に比べて、
ずいぶんと活気が溢れてきた。
定期公演以外にもアイドル個々人でステージをやったりするなど、
少しずつではあるが確実に、
彼女達はアイドルとしての活躍の場を広げ、
各々の目標への確かな道を踏みしめている。

これからいよいよ夏本番がやってくると同時に、
彼女達にとっても大事な時期が訪れることだろう。




劇場の前に立った私は、
始めてここに来た春の日のことを思い出していた。
この劇場の扉を初めて開いたその日から考えると、
およそ三カ月もの時をこの劇場と共に過ごしてきたことになるわけだが、
三カ月をあっという間に感じてしまうほどに、
濃密で充実した毎日を過ごしていたように思う。

そしておそらくだけど、今日からもまた忙しなく慌ただしい
日々が始まっていくであろうことが、ただ率直に楽しみだった。




これまでの日々に、そしてこれからの日々に想いを馳せて、
私は劇場の扉に手をかけた。




開かれた扉へと進んでいく身体を支えるように、
柔らかな温もりを持った風が背中を押した。





終わりです。最後までお読みいただきありがとうございました!
書いた当時は願望でしかなかったミリラジ三曲目の制作も決まり、今後もお三方の活躍が楽しみです!

依頼出してきまーす


成功までに未来らしさがあって好き
乙です

>>8
春日未来(14) Vo/Pr
http://i.imgur.com/LBASYmq.jpg
http://i.imgur.com/RvIBg6R.jpg

>>3
箱崎星梨花(13) Vo/An
http://i.imgur.com/5X2vmDa.jpg
http://i.imgur.com/PRKl5Cj.png

>>6
青羽美咲(20) Ex
http://i.imgur.com/N78dpoq.png

>>10
最上静香(14) Vo/Fa
http://i.imgur.com/VHDs2b4.png
http://i.imgur.com/roY9YXV.png

>>35
『U・N・M・E・Iライブ』
http://www.youtube.com/watch?v=tyXP1knryPQ

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