伊8「提督、ローションプレイをしましょう!」 (16)


「……」

 俺は額を抑えた。抑えずにはいられなかった。
 様々な言いたいことが瞬時に浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでいく。万事において手順は最も重要だ。誤るわけにはいかない。

「同人誌か」

「はい!」

 自信満々な返事。

「このあいだのコミケか」

「提督違います、コミティアです」

 ……俺には違いはわからない。しかしその差は些末で、あくまで枝葉末節に過ぎない。適当な謝罪をして、続ける。

「あー、とりあえず聞くぞ。道具が必要じゃないのか?」

「通販で一揃えしました!」

「部屋は? まさか基地でとか言うなよ」

「ホテルの一室を予約してあります!」

「……いつ」

「四日後です! 木曜日ですね。研修で横須賀鎮首府に出張だとお聞きしましたので、私も非番を申請しました」



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 なるほど、手回しは完璧というわけだ。俺の予定もきっちりと把握している――されている、が正しいのかもしれないけれど。
 俺が頷く前提のスケジュールだった。相談など一言もなかった。だのに、ハチのこのたっぷりな自信は、まるで謎である。ポジティブ感情の生産工場が張り切りすぎている。

 にしても、ローションプレイ。どんな同人誌を買ったのだか。

 秋雲の薫陶の賜物だな、と思った。ハチはもともと真面目な勉強家だ。読書好きが高じて、ついに同人誌までに手を出した。いや、もとはと言えば、秋雲の引率にハチを抜擢したのは俺だから……まったく、浅はか極まりない。


 嫌な予感はしていたのだ。先週はまるっとハチが秘書艦だった。その時に俺の予定を把握したのだろうという納得はさておいて、あまり金遣いの荒くないこいつが、一体どうして急に秘書艦にシフトに入っていたのか、やっとわかった。
 道具代とホテル代か。同人誌代の補填もあったのかもしれないが。

 我が泊地において、秘書艦は特に定まっていない。しかし基本的に、年長で、かつデスクワークな得意なやつらを俺は率先して指名している。
 ただし秘書艦は特別手当がつくため、急に入用になったやつだとか、散財して財布の中身が心許ないやつだとかには、秘書艦業務で小遣い稼ぎを認めているのだ。

 ハチは目を宝石のようにきらきら輝かせながら、俺の汚泥にも喩えられる目を覗き込んでいた。


「――ってなことが先週にあってだな」

「ははぁ」

 イクは俺の話を聞いて、途轍もなく変な顔をする。

「そりゃごくろーさま、なのね」

「あいつは、その、大丈夫なのか? なんとかならんのか。同期だろ」

「同期ってもねー、自由の翼を折る真似は、イクにはちょっと難しいの」

 詩的な表現をぶちこんでくるじゃあないか。
 そんな大袈裟なことだとは思わないが。

「ってか、提督」

「ん?」

「気持ちよかった?」

 あえて、「なにを」とは尋ねてこない。イクは突拍子もない女だが、聡明な女でもある。

「……気持ちよかった」

 ぬるぬるでほかほかで、ふよふよでむちむちだった。


「結局断らないのなら、ただの惚気なのね」

 辟易した様子でイク。
 いや、違うのだ。不躾を承知で、イクを勢いよく指さし、注目を促す。

「あいつはすぐ伝家の宝刀を抜くんだ。断ろうとすると、『じゃあ夜の街に消えます』と脅しをかけてくるんだ」

「……はぁ」

 イクの辟易はまだ戻る気配を見せない。
 相談すれば必ず痛いところを衝かれるとはわかっていても、一人で抱え込むには、少しばかり問題は大きい。なにせ俺には女心など到底わかったものではないからだ。

「こないだはなんだっけ? デートで……」

「デートじゃない。映画を見に行っただけだ」

「二人で、でしょ?」

「他のやつら誘ったけど、予定があわなかったって……」

「そーんなの嘘に決まってるの。そもそもイクたち誘われてないし。
 んで? 結局午前様だったよね」


 あれにはのっぴきならない事情があったのだ。いや、情事も確かにあったのだが。
 映画を観終わって、飯を喰って、さぁ帰ろうとなったとき、ハチが俺を暗がりに連れ込んで、スカートをめくってみせて……。

 下着を身に着けてなかったんだもんなぁ……。

 さすがにこのあたりの話はイクたち潜水艦ズにもしていないが。

 あのときも伝家の宝刀が抜かれた。あぁ言われてしまうと、俺は妙に喉が渇いて、汗が滲んで、頷かざるを得なくなってしまうのだ。

「わかってるはずなのに。いくらハチがそう言ったとしても、絶対にそうしないって。ハチは提督だからいいのであって、他の男とする気なんて毛頭ないの。
 提督だってそうじゃないの? 誘われて、伝家の宝刀? 抜かれたら頷かざるを得ないってんなら、イクがいま迫ったらどうするの」

 俺はその場面をイメージしようとして、自らの想像力の限界を感じる。

「多分提督は断るのね。ハチだって、絶対嫌な顔するよ?」

 そして何より皮肉なことに、そのイメージは怖いくらいにはっきりと浮かぶのだった。


 机に突っ伏するしかない。肺腑から全ての空気が出ていきそうなくらいに深いため息。たっぷり五秒はかかったろう。

「……わかってるよ」

 わかったよ、ではなく。
 あぁ、そうだ。そうなのだ。俺はわかっているのだ。

 イクが慧眼なのか、はたまた、節穴でさえ見通せるくらいに自明なのか。後者だとは思ったが、思いたくはなく。

「告っちゃえばいーのに」

 イクの言葉はあくまで軽い。それは俺を馬鹿にしているというよりは、俺が若い女の考えていることを読み取れずに戸惑うように、イクはイクで三十も半ばに差し掛かったおっさんの考えなど理解できないのだろう。
 それでいいのだ。それこそが健全だ。きっとハチも、

「きっとハチも、不安なんだと思うのね」

 だから短絡的に体で繋ぎとめようとする。


 だがな? ちょっと考えてみてくれよ。
 まったく参ってしまったことを隠しもしない声音で、俺はイクに言う。助けを乞う。

「あいつハタチだぞ。俺は三十四だ。おっさんにあんまり自信を求められても困る。自意識過剰は若者の特権なんだ。
 もし仮に、仮にだぞ? 俺があいつに『好きだ』『愛している』とか言ったとして」

 うわ、なに本気になってるんですか?
 提督なんてただの肉バイブですよ?

「とか言われたら、俺はもう立ち直れん……」

 頭を抱えた。それはまるで恐ろしいことだった。
 望んだものの全ては手に入らず、それどころか、多くさえ手に入らないことを、俺はもうとっくに、嫌というほど知ってしまった。悲しき賢者になってしまった。

「ばっかみたい」

 そんな俺に対して、イクは大上段から刃を振り下ろす。名匠の切れ味だ。


「好きな気持ちに見返りを求める時点で間違ってるの。誰かに『好き』って伝えることは、それ以上の意味を持たないのね。本質的には、好きだから好きって言う、違うの?」

 違わない。違わなかった。それでも、イクの言葉は、俺にとっては眩しすぎる。

 まぁ、勇気の出る言葉でもあったのだけれど。
 光に目を細めつつも、その暖かさには確かな心地よさがある。頬が綻んでいく。

「……少し、考えておくよ」

「それがいいのね」

 と、そこで、執務室の扉が勢いよく開かれた。宙を舞う金髪が美しい。

「提督! ……と、イク?」

 ハチだった。まさか今の話は聞かれていないと思うが。


 ハチは一瞬俺を見て、そしてイクの存在を気にする。それをすぐにイクも察して耳を塞いだ。眼を瞑る。何も見ない、聞かない、いないふり。

「今度いつ都合が空きますか!」

「痴漢プレイならやらんぞ」

 俺は先手を打った。

「なんで!」

 ハチが叫ぶ。悲痛な声。あほか。

「その『なんで』が『なんでやらないんですか』なら、答えは『俺が捕まる可能性がでかい』からだ。
 その『なんで』が『なんで知ってるんですか』なら、答えは『ゴーヤからのタレこみがあった』からだ」

 引きだしの中、一番上に、痴漢モノの同人誌が数冊まとまって隠されていたらしい。

「『じゃあ夜の街に消えます』!」

 伝家の宝刀が抜かれた。俺は額を抑える。


 いや、いくら抜かれたとはいえ、脅しがかけられているとはいえ、公共の福祉に反することには賛同できない。そう伝えるとハチは口を噤んだ。さすがに一線は弁えていてくれて助かった。

「ちなみに」

「……おう」

「来週の秘書艦は、誰ですか」

「……加賀と、不知火、だったかな」

「わかりました。あとで提督の都合も教えてください」

 それでは失礼します。口早に言って、足早に出ていく。
 ……交渉するつもりだな。稼いだ金を何に使うつもりだ? ホテルにそういう設備があるのか?
 アブノーマルすぎて、全然わからん。

「……抱き締めて、一発キスでもぶちかましてやれば、すぐにふにゃふにゃになりそうだけど」

 いつの間にか存在を取り戻していたイクは、ぽつりと呟いた。俺も何となくそんな気はした。
 そうだな。そうしてみるのも、いっそありかもな。


 こんこん。扉をノックする音。
 声で応じると、小さく開いた隙間から、桃色の髪の毛が覗く。特徴的な髪飾りも。

「いま、ハチが走ってったけど、どうしたでちか?」

「ん……まぁ、いろいろあってな。どうした?」

「てーとくの身を案じに来たでち」

「は?」

 ゴーヤは廊下をきょろきょろ見渡して、人気がないことを確認すると、静かに素早く執務室へと滑り込んでくる。両手を後ろに隠して、きっと何かを持っているのだろうとは想像がついた。

「これ。ハチの鞄の中に、入ってて」

 薄いビニールに包まれた、薄い……恐らくこれが同人誌というやつなのだろう。包装されているということは買ったばかりということか。


「……」

「……」

「……」

 女の子だって責めにまわりたい! S女×M男 前立腺開発合同!

――と、裏表紙にでかでかと書かれていた。
 よく見れば、表紙も「そういう」行為の絵であった。目隠しをされた、短髪の、……裸の男が、四つん這いになっている。背後には恍惚とした表情でそれを見下している少女の姿。

 そういえば、ローションプレイで使ったローションが、まだ余っていた気がする。

「……」

 俺は無意識に尻へと手をやった。

「……一週間くらい出張入れるわ」



<了>

―――――――――――
おしまい

たまにはこういう毒にも薬にもならない小噺をば。

他のお話も、時間があればぜひ。

待て、次作。

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