男「明日死ぬ彼女に向けて」 (12)
「どういう自分になりたい?」
きっかけは、気まぐれの一言だった。いや、彼女はわざとこんなことをいったんだろうか。
幼年期の、少しだけ分別が付き始めた頃。
アリの死骸を見つけたら、悲しくなるということをわかり始めた頃。
相手が嫌な気もちだと、自分も嫌な気持ちになるんだと、気づき始めた頃。
当時、僕らはまだ、七歳だった。
「すごいひとになりたい」
すごいひと。漠然とした、子供のふわふわした思考。
子供の頃、世界はもっと狭いと思っていて、周りが幸せなら、世界全体は幸福だと思っていて。
不可能なことはなかった。世界とは、自分のもので、自分そのものだった。
――願えば、なんでも叶うと、思っていた。
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「どんなすごいひとになりたい?」
僕よりほんの少し、具体的な考え方。ふわふわを、ほんの少しハッキリとさせる思考法。
思えば、子供のわりに、彼女は大人なびていた気がする。
「しあわせにできるひと!」
「どうやってしあわせにするの?」
「なんとかする!」
ひどい答えだった。
「あはは」と彼女は笑った。
「ねえいま、きみはしあわせなの?」
と僕は聞く。
君、キミ、きみ。恥ずかしがって、僕らはお互いの名前をあまりよばなかったっけ?
彼女はとても幸せそうに笑っていた。
「もちろん。キミはどう?」
小さかった頃の僕は、幸せそうに笑っているきみを見ていた。それで。
「しあわせだ!」
わけもわからず、そう叫んだ。
それは、まやかしや、ごまかしに近いのかもしれない。風邪がうつるように、つられて笑っていただけかもしれない。
単純だった。でもそれが悪いことだというわけではなかった。
そうやってきみの笑顔を見て。単純にいい気分になって。
人の笑顔を見ると、自分も楽しいんだなあ、と思って。
子供、だった。
そんなあやふやな状態で、いろんなことを思った。
すごいひとになりたいと思った。すごい人とは誰かを幸せにできる人だった。笑顔は幸せの象徴だと、信じた。
「きみはなんでわらってるの?」と僕は問いかける。
「しあわせだからだよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
だから。
ふわふわとした考えは少しずつ形を作っていった。いまだにそれは曖昧だった。
それは、僕の基盤となった。
◇
「いいことをするのは本当にいいことなの?」
「どうしたの急に」
大きくなっても、僕らは結構な頻度で会っていた。周りにそんな関係を笑われたりもした。だから表ではあまり関わらなくなった。だからといって、彼女と一緒の時を過ごさなかったわけではない。
秘密の場所があった。子供のころからの、ふと寄ってみれば彼女か、僕がいる、そんな場所。
中学に上がった時も、それは続いていた。
「なんだか……わからなくなってきちゃってさ」
「いいことをすることが?」
「そんな感じ」
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない?」
「どうして?」
「……」
「じゃあ、宿題ね」
「えー」
もともと、僕はそこまで、物事を深く考えるほうでは、なかった気がする。複雑で無意味な考え事は、彼女の受け売りで、彼女が答えを求めるから、僕も答えていた。最初はどうだってよかった。だが、だんだんと、影響された。
鳥はなぜ飛ぶ? 人はなぜ生きる? 私たちの目指す形は何?
互いに疑問と主張をぶつけ合った。話のタネが欲しかっただけなのかもしれない。僕らの間に何があるかなんて、点でわかっちゃいなかった。だから、理由のような、言い訳のような、何かを、手放さないためにそういう話をしていたのかもしれない。
「考えてきたよ」
「ほお」
「僕は結果、、が大事だともう」
「どうして?」
「みんなが幸せなら、なにも問題ないでしょ?」
僕は熱弁した。
例えば、嘘をついて、ある人を幸せにしたとしよう。それで結果がよかったから、めでたしめでたし、で終わるのは問題ない……わけではない。嘘をつけば嘘をついた人が不幸かもしれない。嘘をつきとおせる保証もない。だから清廉潔白に、できる限り王道で良い結果をだす。それがいいこと、だよ。
そんなことを言った。
この答えには穴がいくつもあった。実際に、それができない時はどうするかは想定されていない。
だがひとまずこれは正しい答えだとは思っていた。これに当てはまらないものは、またべつの時に考える。問題を細かく砕いて、最初の土台を作る。これは、物語でいえば序章のようなものだ。
「なるほどねー」
「こっからもいろいろ考えたよ。これが現実的に当てはまらない時も多いしさ」
そうやって、少しづづ砕いていって。少しずつ、答えを出していった。
「じゃあ嘘は絶対にばれなかったらいいの?」
「大丈夫だと思う。でもそれは嘘をつく人が嘘をつくことに納得している時だけだし、絶対にばれない状況なんてほぼないけどね。失敗したら全部本人に降りかかるわけだし」
「なるほどね。じゃあさ」
「……?」
「結果が全て、ってキミは言ったけど、努力して失敗した人は、頑張ったのに咎められるの?」
「本当は咎められないほうがいいんだ。でも現実は許してくれない。そういうものだよ」
話は理想と現実に移る。
「そんなの、おかしい……いやわかるよ。私は、納得はいかないけど理解はできる。だけど」
「……僕もそう思うよ。もっといろんな人が幸せになりやすい、そういう世界だったらいいのにって、何回も思った」
でも、現実はそうじゃない。努力は結果が出なければ認められないし、努力を見てくれる奴なんていない。
「もっと優しい世界だったらよかったのに」
「誰かが不幸になるような世界じゃなければいいのに」
僕らは同じようなことを言う。
現実はあまりにも残酷すぎる。でも、僕らが立っているのは現実だった。
「もっと資源があればよかったのか、法でもっと人を正しく導けれはよかったのか」
「私もそんな感じのことを思ったよ」
現実には現実的な解決策というものがある。そういうのも考えた。理想は現実に持ち込むことができない。
答えが少しずつ固まり始める。
◇
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
彼女は笑っている。悩みなんて無さそうに、辛いことなんてまるでないかのように。
思えば、僕は彼女の異変に気付くことが、あまり得意ではなかったかもしれない。それはそもそも、彼女がそういう態度を取るのがうまかったとか、暗い印象が彼女には無さすぎたとか、そんな理由もあったかもしれない。彼女は、僕よりもすごい人だ、なんて意識が漠然とある。
だからあっさり信じてしまった。違和感は勘違いで、彼女は僕に対して嘘はつかないと思っていて。
「ならいいんだ」
「うん」
そういうところが、嫌になる。優しさゆえの嘘だとか、いくらでもありえそうな選択肢はあったのに。狭い思考では、そういうものを見ることができなかった。
――完璧な人になりたかった。
自分の低い能力が許せなかった。なんでもっとできることがないんだと、悔しかった。
「毎日が楽しいね」
そういって彼女は笑った。
数日後。
僕は彼女が苦しんでいるのに気付いた。最初、彼女は認めようとはしなかった。でも、隠し通せるものでもなかった。
――もっと自分に能力があればよかったのに。
そうすれば、彼女がこんなにも傷つくことはなかった。
颯爽と登場し、ヒーローは仮面を被り、彼女の問題を裏から解決する。そうであればよかったのに。
彼女は泣いていた。
僕は正面から問題を問い詰めた。現実は、そういう手段しか取れなかった。
……彼女はいじめられていた。
「私は、弱いね」
「……」
「最後まで隠そうと思ってたのに、嘘をつくからには結果が全てなのに」
自身の弱み。それをさらけ出すというのは、随分とプライドを傷つける。相手と対等でありたいと思うなら、わざわざ弱みをみせる、なんてことは、避けたいに決まってる。誰だってそうだ。
自分をしっかりと持ち、正しく生きたいと願い、正しくあろうとした彼女は、周囲から疎まれた。ポイ捨てを注意する。他人のいじめを止めようとする。
それ自体は、正しい行動だ。だが鼻につく。何様なんだと疎まれる。
彼女は正しかった。間違っているは世界のほうだった。だが、世界とは、現実のあり方というのは、そういうものだった。
「私はね、自分が正しいって思ってた」
善意の押し付けは独善行為だ。それはとっくに彼女と話し合ったことで、そういうことはしないと互いに決めていた。
「私は失敗したんだよ」
もともと、彼女は押しつけ善意の独善者だったのだ。それは間違っていると、途中で気づいて止めた。でも、周囲の目には、いったんついた印象は、彼女をそういうやつと見る。
処世術、対人関係の基本。
最初に間違えた彼女は、次が正しくても色眼鏡を通してみられる。
「どうすればよかったのかなあ。ふふふ」
「……」
「キミは私が間違ってたと思う?」
何と言おうか、なんと庇おうか。下手な嘘はただ彼女を傷つけるだけだ。
だから「そうだよ」と僕は言った。
「そうだよ、ね。そんなこと、聞かなくてもわかってたんだよ。つまらないこと言ってごめんね」
彼女は賢い。間違いを認めることができる。だが、完璧な人間など存在しない。ミスをした後の行動をほぼ完璧にできても、ミスをゼロにするということはできない。
「それでも」と僕は言う。
「現時点のきみは間違っちゃいなかった」
「ふふふ。慰めてくれるの?」
ああだめだ。これでは彼女には届かない。
直観的な感覚は僕の口を縫い付けた。
なにもできなかった。何も言えなかった。
彼女が泣いている。泣いているのだ。
何とかしてやりたいと思う。
……でも。
二人で風の吹く景色を眺めていた。ほの暗い空間。取り残されたような感覚。
場は、限りなくロマンチックだった。僕と彼女だけが存在していた。
取り残された世界で僕は考える。
法、という文字が頭に浮かぶ。それはルールだ。
現実、という文字が頭に浮かぶ。それは拒めないものだ。
理想、という文字が頭に浮かぶ。それは役に立たないものだった。
……本当に? 本当にそうか?
僕は口を開く。
「現実にはルールが存在する。理想が付け込める場所はない。そんか結論だったよね」
「そうだね」
「そうかな?」
細かく要素を抜き出す。かみ砕いて消化する。
「きみは正しい行動をする必要はない」
「……そんなこと、ない」
彼女はいつだって清廉潔白で、誰もが救われるべきだと、信じていて。
絶対に正しい、されど現実に通用しない理想論。
「妥協しなきゃいけないんだよ。誰かのために動いて自分が破滅したら意味がない」
「そんなこと、ない!」
「でもここは、現実なんだ」
不可能なことは不可能だと、誰だって気づいている。
「じゃあ諦めるのが正しいの? そんなわけ、ない」
「でも現に僕らはなにもできない」
彼女は、何も言えなくなった。
僕の言い方は、卑怯にも思える。でも、必要な言葉だ。
だから。
「誰かを助けれるときは助けよう。自分を犠牲にしないようにしよう。本当に叶えたい理想は、胸の奥にしまっておこう」
「……」
「ただ祈るだけでいいんだ。優しい世界でありますように、って」
僕らに誰かを助ける義務なんてない。
……身の程を知った。僕らは何もできない子供だと。
「それで、いいの?」
彼女はそれを認めなかった。認めたくなかった。僕だってそうだ。
「それでも」と僕は言った。
「僕らがするべきことは現実の範囲で、できる限り正しいことをすることなんだよ。それだって十分に尊い」
「そうだけど」
彼女の瞳が揺れる。迷いとわけのわからない感情が、ごちゃ混ぜになったような表情。
「現実は結果に依存する。僕らは間違っていると言われたら間違っていることになる。独りよがりになる」
「結果を常に出すような行動をしなきゃいけないの?」
「そうだよ」
彼女は悲しそうに笑った。
「この結論は正しいね、きっと。悲しいぐらいに一つも否定できない」
もう、お互いに納得はできた。
言いたかったのは先にあった。
「じゃあ、私はそれを踏まえて話すよ」
「うん」
「私は結果を出せなかった」
「でも君は間違ってない」
「……なんで!」
怒声が滲む。
「なんで中途半端に私を庇うの? 私は間違ったんだよ!」
「世界からみたらそうだよ。でも僕からみたら違う」
ずい、っと彼女に詰め寄る。
「努力が認められないんなんて悲しすぎる。……それでも! それが現実だとしても! ……僕だけはきみを認めるんだ!」
彼女はぽかん、としていた。気圧されたような、そんな表情。
「……ありがとう?」
「どういたしまして」
「……混乱してきた」
つまりは。
「現実は僕らの努力を認めてくれないこともある。でも、せめて身近な人の努力は、身近な人が認めてあげよう」
「なるほど」
「だから、きみも僕を認めてね?」
「……もちろんだよ」
約束事。身の程を知らされた、僕らの妥協案。
でもできる限りのことはできるようにしよう。身近な人のことだけは、周囲が否定しても、自分だけは味方になってあげよう。
もうすぐ、あたりが暗くなる時間だ。この地下都市は、ある時間を境にどんどん照明が暗くなる。
「すっきりした?」
「おかげさまで」
「帰ろう」
「帰ろっか」
重い腰を上げる。
現実的な問題は、何一つ解決しちゃいなかった。
でも、これからはきっとよくなる。
影が揺れる。まだ彼女は立ち上がらないのかな、と思って足元の影を見た。
彼女の影。両手を広げている影。
僕は後ろを振り返った。彼女は今にもなにかを抱きしめようとしているような、そんな恰好をしていた。
「……」
「……」
沈黙。
「なんでもないよ?」
「なんでもないね」
時間が再び流れ始めたような感覚。
二人並んで歩く。家路につく道へ。
「さっきのは内緒だよ?」
彼女の言葉に僕は頷く。はっきり言って混乱していた。
――ふと、彼女の横顔を見る。
少しだけ見惚れた。漂う甘い香り。安心感と、心臓の音。
きっと――なんてことを思う。
この子と僕は切っても切れない縁があるんだろう。どこかでは告白して、付き合って、キスをする。一緒に子供を育てる。「幸せだね」なんていう彼女の笑顔を見て、余韻に浸る。
そんな未来を信じていた。運命がそうなっていると、そういう星の下で生まれたんだと。
――だから、まだ焦らなくていいや。
後悔している。
なにもしなかったことを。
勇気を出さなかったことを。
だが、何かしたところで結果が変わるわけではなかった。
結局、なにをしても後悔だけが残る。
おしまい
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