【ミリオン】紗代子の欲しかったもの (66)
チッチッチッチッチッ……
私が左手首に巻いている腕時計から鳴る、駆動音。
毎日つけている日記を書き終わって、一息ついた頃合い。
脇のケージでは、ハリネズミのハリ子が気持ちよさそうに寝ている。
しんと静まった夜の私室では、普段は聞こえないこんな音も、妙に主張して聞こえるもの。
家の中で腕時計を着けるなんて、なんだかおかしいけれど。
私は腕時計を外して手にとり、それを撫でる。
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私の手には大きすぎる、男物の無骨なカタチ。
金属ケースは、ひんやりとした感触と、ズシリとした重さがある。
彼がいつもするみたいに、
左耳に時計を当てて、その音に耳を澄ます。
チッチッチッチッチッ……
さっきよりもよく聞こえる、規則正しい駆動音。
これは、彼のくれた腕時計。
私、高山紗代子の大切なもの。
◆
「おはようございます!プロデューサー!」
私は週に何度かやる、早朝のランニングを終えて事務所へ入る。
ソファに座っている、彼…プロデューサーへ挨拶する。
「おはよう紗代子!朝から精が出るな」
「はい!体力はあればあるだけ良いですから!」
彼は満足そうに頷き、手元のモノへまた顔を向ける。
知っている。
彼の日課だ。
私は、彼の様子をジッと見つめる。
彼は、真剣な顔で腕時計と向き合っている。
ソファ前の机に置いた携帯電話をハンズフリーにして、何かを聞いている。
プッ……プッ……プッ……プーーー!
ゴゼン8ジ35フン 40ビョウヲーーー
時報を聞くと、素早く時計のリューズを操作し、
パチッとリューズを戻す。
「よしっ」
決まっている言葉。
そして、なぜか時計を手に持ち、左耳へ近づけ、
その音を聞く。
「……うん。いいな!」
これもお決まりのセリフ。
一連の動作が終わると、すこし得意げな顔をする。
こんなところも、いつも全部おんなじだ。
でも、脇で私がずっと見ていたことに気がつき、
彼は少し照れたように頬をポリポリとかく。
多分、私が笑っていたからだろう。
「日課の時刻合わせ、お疲れさまです!」
「はは、ありがとう!」
彼は毎朝、劇場へ1番に出勤してくる。
朝出勤すると、いつもこうして腕時計の時刻合わせをする。
最近、朝早く劇場に来るようになった私が知った、彼の習慣。
「……そんなに毎日時刻がズレるものなんですか?」
ふと気になって聞いてみる。
私も腕時計を持っているけれど、一週間後に見てもそう時刻はズレていない。
「そうだな。俺のは機械式だからなぁ」
キカイ式…?腕時計にも種類があるのだろうけど、違いがわからずに首を捻る。
そんな様子を見た彼はクスリと笑い説明してくれる。
腕時計の駆動方式は大まかに機械式とクォーツ式に分けられる。
機械式はゼンマイで駆動し、クォーツ式は電池で駆動する。
かつては機械式が主流だったが、今は安価・コンパクト・精度がいいクォーツ式が一般的だと語る。
「なるほど…!ではPが機械式をあえて使うにはなにか理由があるんですね?」
「いや、ないかな。
正直手間もかかるし、放っておいたら止まってしまうし。
仕事で使うには適している方じゃないだろうなぁ」
え?と私は声を出してしまう。
機械式は日差(いち日でズレる秒数)で10秒〜20秒ほどで、
クォーツ式は月差(ひと月でズレる秒数)で数秒ほど。
クォーツ式の電池は2年ほど保つけど、
機械式はゼンマイの動力が切れたら止まってしまうため、保って2日という。
機械式時計は正確な時間を知るための道具としての役割を終え、今は趣向品として細々と世に出ているーーー。
そう語る彼は、手の中にある時計へ目線を落とす。
「これは、この仕事を始めてから買ったものなんだ。
スーツを着て仕事をするから、それに合うような時計も買わないとってよく調べもせずに買ってな…」
知らずに買った機械式時計はどんどん時間がズレていく。
せっかく買ったんだし、と毎朝こうして時刻を合わせるようになっていったんだと語る彼。
「最初は面倒で仕方なかったんだけどな。
でも今は、逆にやらないと気持ち悪くなっちゃったな。
仕事のスイッチを入れるのに丁度いい儀式…ってところかな?」
スイッチ……!
それなら、私にも心当たりがある。
「あ、それならわかる気がします。
私も、アイドル衣装に着替えて、メガネを外すと、やるぞ〜って気になります!」
「普通はメガネを着けてスイッチを入れると思うけどなぁ」
「そっか……フフっ!そうかもしれませんね!」
なんだかおかしくて私が笑うと、彼も釣られて笑顔を見せる。
朝、
私達以外誰もいない、2人きりの事務所で彼と笑いあう。
明日も、ちょっと早く来てみようかな?
◆
失敗してしまった。
衛星放送のアイドル番組の企画、
『アイドル知識番付!早押しクイズトーナメント!!予選編』で、
他事務所のアイドルチームと大差のポイントでリードしていたのに、
肝心の場面で私が回答を間違えてしまい、その後は流れを取り戻せず予選敗退……。
決勝への出場権を逃してしまったのだった。
同じチームの琴葉さんも百合子も、私のせいで、
頭からタライが落ちてきたり、冷却噴射ガスを掛けられたりしたのに、気にしないでって言ってくれた。
でも、私がそれ以上に悔しいのが……。
琴葉さんと百合子は電車で帰っていった。
私もあとに続こうとしたら、彼に止められる。
少し乗っていけ、と言われるがままアイドル衣装を積んだ事務所のクルマに乗せられる。
……よほどひどい顔をしていたんだろうか。
そんな顔を彼へ見せないよう、私は助手席の窓へ顔を向け、外を眺める。
今は、それしかできない。
「紗代子…あんまり気にするな。
それにな、こういうアイドル番組は罰ゲームをもらったほうが美味しいんだぞ!
番組Pの受けも良かったし!」
運転しながら、私に気遣って声をかけてくれる彼。
それが引き金となって、私も口を開く。
「……でも、P!
決勝大会は、深夜だけど地上波での放送で!
”あの子“ が、見てくれるかもしれなかったチャンスだったのに!私……っ!」
「…うん、知ってるよ。今日のために紗代子がみんなと雑学の勉強会をしていたこともな」
分かっていた。自信もあった。努力もした。
でも、ダメだった。
足りなかった。
届かなかった。
普段から、私が仲間に言っている言葉たち。
『辛いなんて口にするから辛くなっちゃうんです!』
『途中で諦めたら意味ないんだから最後までやり抜こう!』
『向いてないって言われると、やってやろうって気になるんです!』
私は、ファンの人からよく熱血アイドルだ、と言われる。
でもこういう強い言葉を吐くのは、本心もあるけれど、
本当は無い自信をあるように自分に言い聞かせるだけの、ただの強がりで、自己暗示に近い。
言葉で隠していただけで、
これが、私の本当の実力だったのかな…。
早く、寝てしまいたい。
寝てしまえば、きっといつもの前向きな私に戻れるはずだから。
それが、私の特技だから。
すれ違うクルマのヘッドライトの明かりが、今日はやけに眩しく見えて、私は頭を下へ向けてしまう。
クルマは、赤信号で停まる。
下を向いている私の頭に、ポン、と何かが乗せられる。
え、と顔を上げるとそれは、彼の左手だった。
「そんなに落ち込むな。また、仕事とってくるから!」
そう、大きな手でくしゃくしゃと私の頭を撫でるーーー
というより、揉む、といったほうが近い。
まるで転んで泣く子供を慰めるような、そんなつよさで。
そういえば、アクアリウスの公演の後、彼に優しく撫でられて理由はわからないけど、涙が出てしまった。
あのときとは違う、無神経な左手。
でも今は私の心も一緒にくしゃくしゃにほぐしてくれるようで、不思議と心地よくて。
彼が手を動かすたびに腕時計の金属のバンドが、カチャカチャと鳴る。
「ほら、こういうとき、アイドルの誰かが言ってたかな?
『次はトップを目指しましょうね!』
ってな!」
そうイタズラにはにかんで見せる、彼。
誰だろう…と一瞬考えたけど、そんな言葉を使う人は、劇場にそんなにはいない。
知らず、強ばっていた顔から力が抜けて、口元が緩む。
彼は私のそんな顔を見て、うん。と力強く頷く。
横目で信号を確認して、私の頭から手を離しハンドルを握る。
あ、と名残惜しさを感じて、
さっきまで私に触れていた左手を見つめる。
ハンドルを握り、小刻みに動く左手。
その手首には、彼の愛用の腕時計が巻かれている。
たぶん今日の朝も、いつもの調子で時間を合わせたんだろうな、とぼんやり考える。
街灯の光を受けて腕時計のケースが鈍く光るのを、私はしばらく眺め続けた。
◆
「よし」
朝、彼がいつもの調子で時計の時刻合わせをしている。
時計を左手に持ってきて、その音に耳を澄ます。
「うん、いいな!」
お決まりのセリフを言って彼は日課を終わらせる。
しかしその後で私の視線に気がつき、また照れたように頬をかく。
「……なぁ紗代子」
「はい♪ なんでしょうP!」
「飽きないか?」
「…あ、ご迷惑でしたか?」
「いや、そんなことはないんだけどさ。
なんだかいつも見られてるから。……面白いか?」
彼の日課の時刻合わせのとき。
私は彼の様子を少し離れたところから、両手で頬杖をついて眺めていることが多い。
「そう……ですね。
私の時計はクォーツ式なので、Pの腕時計は新鮮に見えます!」
本当は時計ではなく、彼の横顔を見ているなんて言えなくて。
つい思ってもいないことを言ってしまう。
「ははーん、なるほどな!
もし腕時計に興味があるなら、機械式の音を聞いてみるか?」
そう言ってPは手招きする。
彼の座るソファーの隣に私を座らせて、私の手に腕時計をカチャリ、と手渡す。
私には、ズシリとくる重さ。ケースやバンドも含めてシルバーの金属製。
黒地の文字盤で、時針で3時にあたる所には日と曜日が表示されていて、
秒針がなめらかな動きで回っている。
バンドもケースも、ところどころ傷がついていて、使い込まれた腕時計。
悪く言えば、くたびれている腕時計。
「耳に当てて音を聞いてごらん」
私は言われるがままに耳に当てて意識を集中する。
……微かだけど、聞こえる。
チッチッチッチッチッ……
規則正しい、機械の駆動する音。
私のクォーツ式の時計でも、かすかに音はしたけれど、これはハッキリと聞き取れる。
私はこれを聞いて、思ったことを素直にこぼす。
「……ふふっ、なんだか、ドラマや映画に出てくる爆弾の起爆時間の音みたいですね!」
「ははは!間違いなくその音が元だろうけどな。
時計の裏側をみてごらん」
見ると、裏側はスケルトンになっていて、中の構造が見えるようになってる。
絶えず丸い部品がギュルギュルと回っていて、無数の歯車や部品がみっちり詰め込まれている。
それらの部品が、どんな機構でどんな役割をするのかわからないけど、
ものすごく精巧な機械ということはなんとなくわかる。
「このギュッと詰まった中身とか、
この音とか、ズシッとくる重さが機械式のいいところでな。
このシリーズも今度日本で復刻される予定でーーー」
と少し熱っぽく機械式時計を語るP。
私はそれの全部を理解することはできなかったけど、
いつになく楽しそうに話す彼を見ているうち、笑みが溢れる。
「フフっ…!なんだかP、マニアさんみたいですね?」
「……あ、ゴメン。こんな話、つまらないよな?」
喋りすぎた、と感じたのかしょんぼりするP。
「…いえ!そんなことないです!
ーーーただ…」
私は手の中にある腕時計をそっとなでる。
「Pは、この時計がお好きなんですね!」
そう私が言うと、彼はまた頬をかく。
「……まぁ、もともと形が気に入って買ったものだからなぁ。
俺と色々な瞬間に立ち会った相棒、ってところかな」
「……なら、私達が初めて会ったとき……
39プロジェクトの、私のオーディションをしたときも着けてたんですか?」
「そうなるかな。
それこそずっと前、765プロが立ち上がった、春香たちが新人のときからだな」
「へー……そう、なんですね…」
そういう話を聞いてから、手の中にある時計をまじまじと見つめる。
あちこちについている傷のひとつひとつが、
今に至るまでの年月を物語る。
きっと、傷の数だけたくさんの出来事があったんだろう。
この時計を深く知っていくにつれて、いま手にしている時計が、
なんだか 彼の歴史を手にしているような…
もっというと、“彼自身” を手にしてしまっているような……
そんな支配的な感情が顔を出しそうでーー
「……っ!こ、これお返ししますっ!」
私は慌てて彼へ腕時計を返す。
うん、と時計を受け取り、左手に巻く彼。
初めてのよくわからない感情に、
どうしたらいいかわからなくて。
わたし、おかしいのかな。
なぜか、
ほんの少しだけ
あの時計を返したくないな、と思ってしまったから…!
◆
「んー、なんだか今日は自分のすべてを出しきれた自信があります!」
「そうだな。監督からの受けも良かったようだし、いけるかもな!」
今日はテレビドラマのオーディションがあった。
主役ではないけれど、出番の多い役。
オーディション本番でも、役をうまく表現できた手応えがある。
付き添いで来てくれた彼も同じように思ってくれていたようで、
会場を出た私達の足取りは軽かった。
彼は腕時計をチラリと見やる。
「さて、このまま劇場に帰るには少し早いか…。
紗代子、どこかカフェにでも入ろうか」
「え…いいんですか、P!」
「はは!たまにはな。それに今日のオーディションの役作りですごく頑張っていたから。
少しくらいハメを外してもいいだろう」
今日のために桃子ちゃんや琴葉さんに演技指導してもらっていた。
本当に劇場の仲間たちには頭が上がらない。
なにかお礼をしたいな、と考えていたところだったから、ピッタリなお店をひらめく。
「おまたせしましたー!たい焼きパフェになります♪」
私の頼んだものが到着する!
オーディション会場からほど近い場所に、
新しい和スイーツカフェができたことは知っていた。
そこのテイクアウトのたい焼きが絶品と噂で、劇場のみんなへのお土産も買えることもあり、
ここに来ることになった。
私の頼んだ『たい焼きパフェ』は、グラスではなく焼き物のお皿に盛り付けられている。
私の大好物のたい焼きに、アイス、生クリーム、フルーツが色鮮やかに盛り付けてある。
これは……すごい。
たい焼きがオシャレな和スイーツになってる!
そしてなにより、たい焼きの形が丸くてプクプクしててすごくかわいい!
ここまで盛り付けがきれいだと、食べるのがもったいない。
せめて写真だけでも、と夢中で写真を撮る私…!
そんな様子を、彼は片手で頬杖をつきながら、苦笑いで見ている。
私はパフェを食べつつ、彼に尋ねる。
「そういえば男性って何をプレゼントされたら喜ぶものなんですか?」
少し先ですが父の誕生日に何か買ってあげたいんですけど、と付け加える。
「娘からのプレゼントだからな。何を贈っても喜ぶとは思うけど。
…紗代子のお父さんはどんな人なんだ?」
「父も母もひょうきん者、っていう言葉が正しいのかな。
話をしていると、事あるごとに冗談を挟んできて反応するのが大変です!」
「それはまた、紗代子とはあんまり繋がらない人柄だな…」
実の娘の私でもそう思う。きっと何を贈ってもそれをネタに茶化されるんだろうけど…。
「……まぁ一般論として紗代子のお父さんくらいの年齢なら、
奇抜な流行りものよりは、日常的に使えるもののほうがいいのかな。
メガネケースやネクタイとか」
なるほど!ネクタイはいいかもしれない。
そういえば、お父さんとちょうど……
「……?顔にケーキでもついてるかな?」
「あ、いえ…。Pは父と背格好が似ているので!
ネクタイのサイズとかあるなら教えてもらえないかなと思って」
「んー確か、用途によってネクタイのサイズがあるのは知ってるけど、詳しくはないな…。
もし良かったら、プレゼント選びに付き合おうか?」
「…え、本当ですか!?それは…すごく助かります!」
「流石に今日はダメだけど、日付さえ決めてもらえれば都合つけるよ。
なにより、親孝行は応援しないとな!」
図らずも、彼と一緒に出かける約束をしてしまった。
少し先の事とわかっているのに、今から何を着ていこうか、考えてしまっている。
心が躍る。
子供みたいに、はしゃいでしまっている自分がいる。
「聞きましたからね、Pっ!
言質はしっかり取りましたから、忘れたなんて言わないでくださいね?」
わざとメガネをクイッと上げて、少し怒ったような顔を作って、身を乗り出して彼を問いただす。
そうしないと、
だらしない口元の緩みを抑えられないと思ったから!
彼は私の様子を見て、ニッコリ笑って
わかったよ、と返してくれた。
ああ、これは私、抑えられてないんだな…。
カフェを出た私達は、電車に乗って劇場へ帰る。
電車は座席が埋まっているくらいで、私と彼は扉側を背に立って彼と世間話をする。
私の持っている紙袋には、熱々できたてのたい焼きがたくさん入っている。
はやく、皆の美味しそうな顔をみたいな♪
そうこうしているうちに、停車駅で人が乗り込み、
その次の駅でまた人が乗り込み、あっという間に話もできないくらいの満員電車が出来上がってしまった。
「はは……この時間なら、混まないと、思ったんだけどな…!」
四方からの人に揉まれながら小声で私に話す彼。
彼は人混みから私を守るように、私の背の窓に手をついて人混みの荒波を一身に受けてくれている。
「プ、P……!悪いです!私はいいから、手を離してください…」
「まぁ、あとふた駅だから。このままでいこう」
彼の体の中に、すっぽりと覆われている自分。
こ、これ…百合子が前雑学クイズの勉強で言ってた。
壁ドン…とかいうの?
後ろから見られたら、抱きしめられてるように…カップルみたいに、見られてるのかな。
たい焼きの入った袋を持つ手が汗ばんでくるのがわかる。
右耳のすぐ近くには彼の左手が壁に添えられていて。
手首に巻かれている彼の時計の音がハッキリ聞こえる。
身長差のある彼の顔を見上げていると、目が合ってしまう。
私に息がかからないように呼吸を抑えているのか、少し顔が赤くなっているのがわかる。
私は、違う理由で顔が熱くなっていく。
近すぎる彼との距離に、私の心臓は早鐘を打つ。
でも、不思議と彼と合った目を、逸らすことができない。
彼に見つめられながら、
耳に聞こえてくるのは電車の音や満員電車の喧騒じゃない。
ドッドッドッドッという私の心臓の音と、
チッチッチッチッという彼の腕時計の音。
今はその2つだけしか聞こえないし、
彼の目以外はなにも見えない。
たったふた駅までの距離が、永遠にも感じられる。
この時間が早く終わって欲しいのか、
もっと長く続いて欲しいのか、
私には、もうわからない。
ただこの時間に、身を委ねるしか、今はできない。
……でも、先にこの均衡を破ったのは彼の方。
目を合わせていた彼の顔が、私へ、一気に近づいてくる。
え、コレってーーーー
私はとっさに目をつむる。
こうすることが、ルールだって何かに書いてあったから。
けど、
予想に反して、耳に吹きかけられるかすかな吐息。
囁くような声で、彼が短く話す。
「紗代子、降りるぞ」
電車を降りた私は、外の寒さと電車の発進するけたたましい音に、急に現実に引き戻される。
駅から劇場までの短い道のりは、ずっと彼の後ろをよちよちついて歩いた。
少し不思議そうな顔で何度か私を振り返る彼に、私は顔を逸らすしかできなかった。
だって今日は、とてもじゃないけど彼の顔、まともに見ることなんてできそうになかったから…!
◆
朝、ランニングを終えて事務所に入る。
「おはようございます!プロデューサー!」
いつものソファに座っている、彼へ挨拶する。
「おはよう紗代子!」
彼が挨拶を返して、また手元のものへ視線を移す。
彼の日課に間に合った!
いつもの少し離れた位置で彼の様子を見る。
でも今日は彼が持っていたのは腕時計のカタログだった。
あれ?
いつもの日課の時刻合わせは…?
もう終わっちゃったのかな?
でもなんでカタログなんか?と考えていると、彼は私の様子に気づく。
「ん?……ああコレか。
じつは使っていた腕時計な、壊れちゃったんだ」
2日ほど前に出先で時計を見たら、秒針が動かなくなっていたそう。朝までは当たり前に動いていたのに、急に。
「まぁ買ってから長かったからなぁ……。
最近、時間の遅れも目立ってきていたし、今思えば予兆…だったのかな」
そう、彼は目を細めながら
寂しそうに何もついていない左手首を、さする。
「そんな……修理はできないものなんですか?」
「すぐに事務所近くの商店街の時計屋さんのところに見積もりを出したんだけど、
その額に少し足せば新しいのを買えるくらいになってなぁ」
そう言って、カタログに目を移す彼。
「そのとききまぐれにカタログを貰ってきたけど、新しいのもなかなか悪くないな!
次は維持費もかからないクォーツ式かな。これなんか、俺にどうだろう?」
そう私にカタログを見せる。
そこには、青い文字盤がキラキラと眩しい新型の時計が載っている。
とてもじゃないけど、私じゃ買えない金額。
私は彼の質問を無視して、質問を重ねる。
「じゃあ、前使っていた時計は…どうされるんですか?」
「……まだ修理して使うか考えているところだけど。
新しいのを買うなら、アレは思い出と一緒に机の肥やしになるのかな」
「そう、ですか…」
「……なにか気になるのか?」
「あ、いえ…!あの時計、Pに似合っていたので…」
「それは……ありがとうな。
そうか…似合っていた、か!」
少し嬉しそうな顔をする彼。
それから二言三言彼と言葉をかわしたけれど、内容はまるで頭に入ってこなかった。
彼の、寂しそうに左手首をさする仕草が…
悲しそうに目を細めるあの横顔が…
目に焼き付いて離れない。
あの時計は、彼の分身なような気がしていて。
あれをしていない彼は、彼でなくなってしまうような。
朝の日課をする彼をもう見られないことに、私は何故か、
すごくイヤな感じがしてならなかった。
すると彼はあ、そうだ!と
思い出したように机の上のチラシを私に渡す。
「紗代子、毎日走り込みをしているから。
腕試しになるんじゃないかとおもって。せっかくだし、参加してみたらどうだ?」
渡されたチラシを読むと、それは
『第16回 町内女子マラソン大会』のチラシだった。
「1位はなんと、北海道グルメ食べ歩きクルーズ旅行のペアチケットだぞ!
町内会も今年は奮発したよなぁ」
私は彼のそんな言葉を聞きながら、渡されたチラシを読む。
正直、あまり興味はなかったけれど。
でも、賞品一覧を見て私は息を呑む。
ーーーこれは!
◆
「はぁ、はぁ、はぁ!」
レッスンが終わった後、私は夕暮れの劇場前をひとり走り込みをしている。
「……だめだ。さっきよりもタイムが落ちてる!」
ベンチに置いたストップウォッチをみて私は歯噛みする。
一つに結んでいる後ろ髪が汗ばんだ背にまとわりつく。
疲労回復に効果のある、ビン詰めのレモンのはちみつ漬けと水を口に流し込む。
よし、次は!
と踏み出そうとしたとき……
お疲れ様!
と背後から声をかけられる。
「……P!お疲れ様です!」
「みんなから聞いて様子を見に来た。
ここのところ、朝以外に走り込みを毎日やってるらしいな?」
「はい!大会本番までそんなに時間がないですから!」
「はは!みんな驚いてたぞ。紗代子はいつも全力だけど、
今回はいつも以上に入れ込み方が違う、って
まさか、本当にマラソン大会に出場するなんてな!」
わたし、そんなに必死にみられていたのかな。
彼の眉が心配するように動いた気がして。
「あ…すいません。心配…かけてしまいましたか?」
「まぁ、少しな。
……でもな、紗代子は頑張りすぎるとき、眉毛が逆ハの字になるから、
みんな、すぐにわかるんだぞ!」
そう言って、ムンッ!と眉を上げてみせる彼。
それに合わせて目を細めて口もへの字にする。
「……プッ!あははは!
確かに、真剣な顔はしていたと思いますけど、わたしそんなに険しい顔してませんよ!」
そうかなぁ?と彼も笑って、照れたように頬をかく。
このクセを見るのも、なんだか久々だな。
彼の言葉は、私をほぐしてくれる。
どこか張り詰めていた何かが、スッと楽になる。
「……P!心配してくれて、ありがとうございます。
でも私、今は頑張りたいんです。
私、きっと……きっと、頑張りますから!」
私は、改めて彼へ向き合う。
「実は、この大会を上位で終えることができたら、Pにお願いがあります!」
「え?俺に?
……うーん、内容次第だけど。
そのお願いとやらを、今聞くことはできないのか?」
「……だ、ダメです!こればかりは、結果が出たあとじゃないとダメなんです!
そ、その…それではだめ…ですか?」
ハタから聞いたら、私の要求はめちゃくちゃで。
自分でも、かなりのわがままを言っているのは分かってる。
それでも、私は彼へ頭を下げる。
そんな私を見て、彼は腰に手を当てて笑いながらため息をつく。
「……わかった。紗代子のことだ。きっとムリなことは言わないだろ。
そこまで意思が固いなら、俺も何も言わない。
思う存分やってみるといい、紗代子!」
彼の言葉にホッと胸をなでおろす。
後は、結果を出すだけ……!
「はい!ありがとうございます!じゃあさっそく……!」
そういって、また走り出そうとする私に、彼は待ったをかける。
「おいおい、急ぎすぎだ。
頑張るからには、俺の言うことを2つ聞いてほしい。
……1つ。
やるからにはダンスレッスンの先生に紗代子のトレーニングメニューを見てもらうこと!
分かったな?」
「……はい!」
あと1つは……
といって彼は、ベンチにドカッと座り込む。
脇においた瓶からレモンのはちみつ漬けを1枚、ポイッと口に放り込んで、ゆっくり味わってから話す。
「本番まで俺も練習に立ち会う。今日からだぞ!
俺の目が黒いうちは、あと10分は休憩してもらう!
いいな?」
そういって、彼は座っているベンチの隣をポンポンと叩き、座って休憩するよう促す。
彼は私が無理をしないようにしたつもりだろうけれど。
彼が見ている前で、練習できるなんて。
彼が私を見ていてくれるなんて。
図らずも、もっともっと頑張れてしまう環境が出来上がってしまった!
◆
「はっはっはっはっ……」
大会当日。
アンダー18部門のクォーターマラソンで距離は10キロ余り。
スタートダッシュは上位陣に食らいついて高順位をキープできた。
今は7位くらいだろうか。
もうすぐ折り返し地点。
10キロなんて、あっという間だ。
そろそろペースをあげていかないと!
大丈夫。
彼と、あれだけ練習したんだ。
絶対大丈夫!追い抜くぞ!
私は足の踏み出すペースを上げていく!
コース終盤。残り2キロ地点。
私は、今3位につけている。
私のすぐ前には、同い年くらいの女の子が走ってる。
そのさらにすこし先に首位の子がいる。
もう太ももが悲鳴を上げてる。
いままで、何人も、抜いてきたから。
3位の入賞景品は、ランニングのトレーニングマシン。
でも私が欲しいのは、それじゃない。
だからこの順位じゃ、だめなんだ。
抜かないといけない!
息が苦しい。
腕だって振り疲れて、
フォームもちゃんと取れてるかわからない。
私も辛い。
でも、前を走ってる娘もきっと同じなはず。
だから、勝機はある!
これだけ息が上がって苦しいのに、頭はひどく冷静で、氷のように冴えている。
私は前を走る子の後ろを常に張り付くように走ってきた。
途中、緩急をつけてきたり振り切ろうとしてきたけど、
絶対に食らいついて、プレッシャーを与えてきた。
さっきから後ろを振り向いてくる回数も増えてきた。
仕掛けるチャンス!
次に前の子が振り向くタイミングを見計らう………
今だ!
という瞬間、脚力を振り絞って、左から追い抜く。
振り向いたとき私が消えたように見えたろう。
少しずつ、前にでる。
意外なことに追ってくる気配はない。
これで、2位だ!
ゴールまでの、最後のストレート区間に入る。
前の子はペースが落ちてるのか、距離が縮まってる。
後ろの子は、ずいぶん後ろの方。
私の今の順位は、私が狙っていたもの。
だから、この順位をキープすればいいんだ。
もう、いいだろうか。
1位になって、旅行に行きたいわけじゃない。
3位でランニングマシーンが欲しいわけでもない。
2位の景品…それは、商店街で使える商品券。
そして、商店街には時計屋さんがある。
これで彼の時計を直してあげるんだ。
いつも私に勇気をくれて…支えてくれる彼に、
今の私が出来ることをしてあげたいから!
それに、
彼の左手を寂しそうにさする仕草なんか、
もう、絶対見たくないから!
足がキツイ。
ふくらはぎがピクピク痙攣してる。
多分、今の私はとてもじゃないけどアイドルらしい顔をしていない。
順位を上げなければならないという使命を終えた。
大丈夫、このまま…このままで……
でも、気になって後ろを振り向く。
あれ?さっきよりも差が縮まってる?
さっき私を抜かせたのは……まだ温存してたってこと!?
仕掛けてくる…!
加速しないと、と自分に言い聞かせるけど、
一向に速度は上がらない。
ああ、これは、だめ、かもしれない。
目を閉じて、顔を下に向けてしまいそうになるーーーー
そんなとき、小さく見えているゴールテープの先からひときわ大きい声が聞こえる。
目を上げてその声の方を向く。
劇場の娘たちが大きな声で、私に声援を送ってくれている。
琴葉さん、百合子、桃子ちゃん……ああ、皆いる!
でも、わたしが探してしまったのは、彼の姿。
ーーすぐに見つかった。
いつもの、スーツ姿だったから。
手に持ったタオルを振って、
彼が、繰り返し、繰り返し、何かを叫んでいる。
ーーー前だけ見て走れ!紗代子!
聞こえた。
たくさんの声援の中、彼の言葉を、
私は確かに、聞いた。
これさえあれば、わたしはーーーっ!
「はいっ!!」
もう、下を向かない。振り返らない。
言われるがまま、前だけ。
ただ、前だけを見て走るんだ!
息が苦しい。
作戦も、思考も、覚えた技術も、全部かなぐり捨てて。
ただ、前だけを見て、走る。
前の娘、知らない間に随分近くまで来てるんだな。
視界の隅に見えたけど、気にしない。
どんどんとみんなの姿が大きくなっていく。
待っていてくれてる、みんなのもとへと、一直線。
ただ、ただ、前だけを見てーーーー!
お腹に何かが当ったけど、
構わず、勢いのままに彼の広げているタオルへ、飛び込む。
彼に抱きとめられる形で、タオルに包まれる。
すぐにあたりを囲まれて、
背中をさすってくれたり、
水を差し出されながら、みんな、何かをしきりに叫んでいる。
なんだろう?息が苦しくて、よく聞こえないや。
彼の腕の中で、彼を見上げる。
興奮した彼が、私に向かって大声で話しかける。
「……1位!紗代子!1位だぞ!よくやったぁ!」
ああ、そうか。
お腹に当たったの、ゴールテープ。
私、1番になったんだ。
◆
「P……すいません。送ってもらっちゃって」
「気にしない気にしない。それより今日は大会の後だからな。早く寝て、しっかり休むんだぞ?」
前を見ながら、クルマのハンドルを握る彼。
以前にも見た、助手席からの眺め。
前と違うのは、
彼の左手首の腕時計の有無と、
私が抱えてる、大きな優勝トロフィー。
表彰式を終えてから、事務所のみんながささやかな祝勝パーティーを開いてくれた。
みんなで手作りでたい焼きを作ったり。
優勝トロフィーを持った私をたくさん写真を撮ってくれて。
みんな、自分のことみたいに喜んでくれた。
嬉しかったな…。
「そういえば、旅行のペアチケットはどうするんだ?」
「……両親に、プレゼントしようかと思っています。
ちょうど、父の誕生日ですし!」
「……いいのか?せっかく紗代子が勝ち取ったものなのに」
「………」
私は言葉が出なくて、口を閉じてしまう。
言えない。
ほんとうは、2位になりたかった、なんて。
「そういえば、大会が終わったあと俺にお願いがあるって言ってたな」
本当は、『あの腕時計を貸してください』とお願いして、
修理して返すつもりだったのに。
「……Pの腕時計の…話なんですけど」
「え、腕時計って……あの?」
「はい…」
直してあげたかった、彼の時計。
それも叶わない。
だから。
「…Pの腕時計、思い出が詰まってるって言ってましたよね?
だったらちゃんとした時計ケース、買ってあげませんか?」
私は、務めて明るく、そう吐く。
直すのが無理なら…せめて、ちゃんと保管してあげたい。
私にはこれしか、あの時計にしてあげられることは思い浮かばなかったから。
少し考えるような間を置いてから、
ハンドルを握りながら彼は私に問いかける。
「……紗代子。
…あの時計、好きか?」
その短い問いかけに、私は力強く、応える。
「…はい!大好きです!」
「……そうか」
それきり、彼も私も言葉を発することはなかった。
◆
「決めたからには、やってやるんだから…!
もっとやれる!絶対にやり遂げるんだ…!」
事務所のレッスンルームでひとりで台本と向き合いながら、そう唱える。
先日受けたドラマのオーディション。
驚いたことに受けた役ではなく、
次は主役ヒロインを決める最終オーディションに、監督からの推薦枠ということで呼ばれることになった。
もう、オーディション用の台本は何度も何度も読み返した。
毎日劇場でも、学校でも、家でだって暇さえあれば練習している。
テレビで大々的に放送される、ドラマの主役。
この大きなチャンスに自分の身が震える。
これは…きっと武者震い。
そうでしょ?紗代子!
また自分に言い聞かせる。自己暗示。
「……かなり役を掴めてきてるな、紗代子!」
「……え、P!? いつからそこに?」
「10分くらい前からかな。すごい集中力だったから、声掛けられなかったよ」
ウソ、全然気が付かなかった。
しっかり聞かれていた、独り言にはあまりに大きすぎた私の声!
頬が熱くなるのを感じる。
「……いま、ちょっといいか?」
そんな私にお構いなしに、ニコニコしながら彼は私を手招きする。
「まずは……これを見てくれ!」
彼は、私の前に左手首を見せつける。
それは、左腕につけた……彼の、あの腕時計だった!
「……P!その時計、直したんですか!」
「ああ!これも、紗代子のおかげなんだ」
彼が商店街の時計屋さんに修理をお願いしに入店したら、
前に見積もりにきたときにはなかった、私のポスターが張ってあったそう。
彼が理由を聞くと、店主の方が先日のマラソン大会を見ていて、
私の熱のある走りにいたく感動したと、ファンになってくれたようで!
彼が私の関係者だと伝えると、いたく喜んで、特別価格で修理してもらえたそう。
最近彼とはスケジュールが合わなくて、朝会えなかったから、知らなかった。
「……でも、P。もしかしたら修理しないかもって…!」
私がそう尋ねると、彼はしみじみと語りだす。
「……あれから、紗代子に言われて時計のケースを見に行ったんだ。
展示品のケースに、俺の時計を入れてみたんだ。
ケース越しに見る俺の時計は、
なんだか…ただの傷だらけのくたびれた時計に見えてしまってな。
見れば見るほど、こいつがいるところはケースの中じゃないような気がしてならなくなって。
そう思ったら、直してやらずにはいられなくなったんだ」
「プロデューサー……っ!私も…私も、そう思います!」
私が走ったことで、巡り巡ってそんなことになるなんて…!
全部、ぜんぶ、ムダじゃなかった。
本当に、良かった…!
「それでな。紗代子にはコレを持ってきたんだ」
彼が手提げ袋から箱のようなものを取り出し、パカッと開ける。
箱の中には、ピカピカの時計がキラリと輝く。
「これを、紗代子にプレゼントしたくて」
「これを……わたしに?」
つけてみてくれ、と箱を差し出す彼。
シルバーのケースに、紺色の文字盤。
バンドは紺と白のストライプ柄のナイロン製のものになっている。
言われるがまま、恐る恐る時計を持ち上げて、
左腕に巻いてみると、ズシリとした確かな重さを感じる。
あ、重い…
と声が出てしまう。
「…はは、やっぱり紗代子にはちょっと大きいかな。
軽くなるようにナイロンのバンドに変えたんだけどなぁ」
と彼は苦笑いをする。
私は、時計をまじまじとみつめる。
彼と色違いの……おそろいの、腕時計。
「P…、でも…どうして?」
「ちょうど、復刻版が出ていたこともあるけど。
…でも1番は紗代子が、この時計を好きだって言ってたから。
紗代子にも、紗代子自身の成長と一緒に、時間を刻む相棒みたいな時計を持ってほしいと思ってな!」
彼は、照れくさそうに頬をかく。
彼の言葉を、噛みしめるように反芻する。
私の成長と、一緒に…
私は時計を見ているうちに、よく分からないものが、込み上げてきて。
途端に胸が一杯になってしまう。
鼻の奥が、ツーンとする。
メガネをつけているはずなのに、急に、視界が滲んでくる。
「あ、あれ?おかしいな。なんで……」
「お、おい。何も泣くことはないだろ!?」
そうはいっても、とめどなく涙は溢れてくる。
手で、涙を拭うけれど、抑えられないくらいには感極まってしまっている自分がいる。
こんな顔、恥ずかしいっ。
でも、勝手に溢れてくるものは、どうにもならない。
私は、なんとか涙のいいわけをさがす。
「だって……だって、P……っ!
ホントは、ホントは私が驚かすつもりで!
こんなの、急すぎます……!
急すぎて、わたし……わたし……っ」
涙を拭いながら話す私の頭を、
わかったわかったと彼は笑いしながらあやすように私の頭を撫でてくれる。
その腕からは、カチャカチャと腕時計のバンドの音がする。
「もう何度も言ったけど。
改めて、言わせてくれな。
……紗代子。
優勝、おめでとう。
勝ってくれて、ありがとうな!」
そう言って、彼は笑う。
ああ、かみさま。
私、もうすぐ泣き止みますから。
そして、すぐにレッスンに戻りますから。
どうか、もう少し…
もう少しだけ、このレッスンルームに人が入ってこないで。
彼と、ふたりだけの時間を、
もう少しだけ、私にくださいーー!
◆
朝、劇場の事務所で。
私と彼は劇場のソファーで肩を並べて、机の上の携帯電話の音に集中する。
プッ……プッ……プッ……プーーー!
ゴゼン8ジ40フン 30ビョウヲーーー
時報を聞くと、素早く時計のリューズを操作し、
パチッとリューズを戻す。
「よしっ」
重なる言葉。
そして、時計を手に持ち、左耳へ近づけ、
その音を聞く。
「……うん。いいな」
お互い、完全にシンクロする動作とセリフ。
彼は、驚いたように隣の私を見る。
「おいおい…。時間の合わせ方は教えたけど、セリフまで真似しろなんて言ってないぞ!」
私は、照れを隠すように頬をかく。
「フフっ!すいません、P!
でも、なんだか癖になってしまって…!」
彼から腕時計を貰ってから、朝、顔を合わせたらこうして肩を並べて時間を合わせている。
まさか、こんなときが来るなんて!
「…まぁ、いいけど。
ところで、その時計はどうだ。
見たところ、毎日つけているようだけど!」
彼は、贈ったプレゼントが使われているのが嬉しいのか、食い気味に尋ねてくる。
私はアゴに手を当てて、率直に答える。
「……正直、私の腕には大きすぎる感じではありますね。
バンドはナイロン製に変わっているけど、それでも重たくて。
時間だってすぐズレるし、蓄光塗料も薄ぼんやりで夜は見にくいし。
これは普段使いするには根気がいる道具だなとーーー
……あっ」
私が言葉を紡ぐたびに、彼のこうべが垂れていく。
しまった、と思い慌ててフォローしようとするも、彼は苦笑いを浮かべる。
「はは……まぁ、わかってはいたことだけど…。
もしも俺を気にして毎日着けてきてるなら、無理して着けてこなくてもいいからな?」
それを聞いて、私は改めて左腕の時計を撫でる。
たしかに、私が着けるにはデメリットしかない腕時計。
だけど、これは。
「ーー今日、午後からのドラマのオーディション、頑張ってきますから!」
話を変えるように、私は大きい声で彼へ伝える。
そう、今日は映画の主役のオーディションの日なんだ。
「…ん、そうだな!
俺はどうしても外せない用事があるから付き添えないけど、
紗代子なら、絶対大丈夫だ!」
彼がオーディションを受けるわけじゃないのに、
そう言って、ガッツポーズを決める。
「はい!
絶対に合格してきますから、期待していてくださいね!
あ、でもP……?
夕方の約束も、忘れないでくださいね?
言質、とってありますからね!」
そうメガネをクイッと上げて彼が買い物へ付き合ってくれる、
と約束してくれたメモを見せつける!
「はは!ちゃんと覚えているよ!約束だもんな。
……しかし、親父さんにはクルーズ旅行をプレゼントしたのに、それとは別にプレゼントを渡すのか?」
「……そっ、そんなところです!
とにかく、夕方5時に駅前で待ってますから、忘れないでくださいね…?」
◆
「あ、息が白い…。もうすっかり冬なんだな…」
通り過ぎていく人やクルマの音に、そんな私の呟きは踏みしだかれるようにして、かき消える。
賑やかな駅前の広場の街灯の下。
私はひとり、彼を待っている。
彼からは少し遅れる、と連絡があってから返事はない。
ケータイをイジったり、喫茶店で待っていようかと思ったけれど、
そわそわして落ち着いていられなかったので、結局こうして待ちぼうけだ。
全力を出し切ったオーディション。
終わったあとで、監督や番組プロデューサーから直接合格を言い渡された!
家族にも、事務所のみんなにも連絡したとき、電話口から割れるような歓声を聞かせてくれた。
…でも今日は、
家族よりも、
仲間よりも…会いたい人がいる。
会って、声を聞きたくて。
会って、話したくて。
会って、笑顔を見たくて。
そんな逸る気持ちをなんとか落ち着けようと、
私は左手に着けた腕時計を外して、いつも彼がするように左耳へ近付け、目を閉じる。
チッチッチッチッチッ……
小さいけれど、たしかに聞こえる、駆動音。
絶えず鳴り続けるその音は、まるで生き物の心臓の音のように、鳴り続ける。
彼のくれた腕時計は、まだ新品のようにピカピカ。
そして、今もこうして、私と一緒に時間を刻んでいる。
今日のオーディション。
私の番が来るまで、凄く緊張して。
今までたくさん練習してきたから、自信はあった。
でもいざ本番を前にすると、体が強張ってしまって。
メガネを外しているのに、『弱い私』がひょっこり顔を出しそうで。
そんなとき、彼のくれた腕時計の音を、目を閉じて聞く。
彼ならこんなときどんなことを言うのかな、と考えると、
言葉よりも、照れて頬をかく彼の顔が鮮明に浮かんできて。
フッと笑みが溢れて。
力む肩から力が抜けて。
不安な心がスッと定まって。
ねえ、プロデューサー。
あなたはムリに着けなくてもいいって言っていたけれど。
この腕時計は、私にとって、
重たくて、大きくて、とっても手間のかかる、
素敵な魔法の腕時計なんですよ?
ふと目を開けると、
駅から走って出てくるスーツ姿の男性がひとり。
あたりを見渡して、私を見つけるとパァッと笑顔を咲かせて、ドタドタと走ってこちらまでやってくる。
「はぁ、はぁ、紗代子。遅くなって悪かった!仕事でちょっとあってーーー!」
「プロデューサー……」
彼が来てくれた…!
肩で息をして、ほんのり汗をかいて。
伝えたいことがたくさん、たくさんあったはずなのに。
彼の顔を見たら、何から話したらいいのか、分からなくなってしまう。
額の汗を拭いながら、彼は腕時計で時間を確認する。
「30分遅刻か……紗代子、すまなかった!
今日みたいな、めでたい日に……!
…怒ってる……か?」
黙りこくっている私を見て、彼は恐る恐る聞いてくる。
私も外していた腕時計を着けて、時間を確認する。
そうか。
私、そんなに待っていたんだ。
腕時計をしていたのに、時間を見ていなかった自分に内心、笑ってしまう。
申し訳無さそうな顔の彼を見ていると、ふと私の中の悪い虫が騒いでしまう…!
「いえ?私も今来たところですよ?
今、17時ちょうどですよ?」
「えぇっ!?いや、そんなバカな……」
彼が焦る様子がおかしくて、澄ました顔を作ったのに、つい笑みがこぼれる。
「Pの時計、また遅れてるんじゃないですか?……フフッ!」
そうとぼける私に、彼はケータイで正しい時間を確認する。
「おいおい紗代子…!冗談はよしてくれよ…修理したばっかりなんだからさ!」
「フフッ…忘れました?私の両親、冗談が大好きなんですよ♪」
そんなやりとりが楽しくて。愛おしくて。
調子に乗った私は、ウィンクしながら、とびっきりアイドルらしい笑顔でこう伝える。
「今日は、私がずっと欲しかったもの、Pからもらっちゃいますからね♪」
「え?でも、今日は親父さんの……」
彼が言葉を言い切る前に、
えいっ!
と彼の左手を、私は両手でギュッと握る。
彼は急な私の行動に、目を白黒させている。
「…今日は待たせた分、とことん私に付き合ってもらいますからねっ!
行きたいところ、いっぱいあるんですから!
……さぁ、行きますよ!」
彼の左手を引っ張るようにして駆け出す。
急に走り出した私に、バランスを崩した彼は前へつんのめる。
その時
彼の傷だらけの腕時計と、私のピカピカの腕時計が、
強く擦れあう。
ーーー傷、付いたかな?
私は構わず先を急ぐ。
「ま、まて紗代子!
分かったから引っ張るな!
それに、欲しいものって……っ!」
私の欲しいもの?
マラソン大会の優勝トロフィー?
彼とおそろいの腕時計?
ドラマの主役?
確かに私にとってどれも大切なもの。
でも、今…
この時に限っては、
どれもはずれ。
私は、彼を引っ張るのをやめる。
でも、つないだ手はそのままに、
彼の左腕にキュ~っと抱きつく。
「お、おい…紗代子…!」
心底驚いた顔で、彼は私を見下ろす。
普段の私では、到底できないコト。
でも、今日くらい、いいですよね?
プロデューサー!
だって
あなたと過ごす、この時間がーーー
「せっかく2人きりの時間なんですから!
さぁ、行きましょうプロデューサーっ!」
ーーー私が欲しかったものだから!
了
ありがとうございました。
私の著作では最長になりました。
時計に関するお話を書いてみたいな、と思いました。
もう時代的に、腕時計自体がが必要のないモノへと変わりつつありますが、
時を刻む、って文言、なんだかそこはかとないロマンあるなぁと思います。
皆様のお暇つぶしになれれば、幸いです。
また、私の過去作のまとめです。
お暇でしたら、ぜひ。
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