【艦これ】山城「不幸のままに、幸せに」 (247)
人間は慣れる生き物だ。そうでなければ生きていくことはできない。
傷口に塩水の沁みる痛みも、いつの間にか感じなくなってしまった。
ならば私のこの不幸にも、いずれ慣れていくときが来るのだろうか。
痛みどころではなかった。左上腕から先の感覚は消失している。眼で確認するのも億劫で、私は自己診断プログラムを走らせた――腱断裂、解放骨折及び出血多量。A3度の危険域。左足表皮と腰骨神経系もA1相当の被害を受けていて、私はそこで走査を打ち切る。
怪我をC1からA3までの九段階で評価する樫村スケールは、あくまで自動修復作用をどこにどれだけ割り振るかの判断基準でしかない。自動修復よりも自壊速度が上回っている現状を鑑みるに、最早意味がないのは明白だった。
不幸だわ。
口癖となってしまっている言葉は、いまこそ似合っているように思えた。
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敵性攻撃群の襲撃を受け、部隊は壊滅。仲間を庇いながら抗戦を続けるにも限りがあった。ついには落伍し、気づけばどこかの岩礁に乗り上げ、迫り来る自らの死と向き合うばかり。
扶桑お姉さまは無事だろうか。満潮は。時雨は。加賀は。鈴谷は。
爆炎と血飛沫は、即ち死とイコールではない。私たちは心が折れない限り何度でも立ち上がれるし、立ち上がってきた。そうあるべくしてあるのが艦娘なのだ。
だからまだ心は折れない。体がたとえ端から腐れ落ちようとも。
視界に引きずられて思考さえも霞がかっていくなか、せめてもの抵抗として、私は楽しかった時の記憶を思い出す。埃の被った小箱に入っていたものすらも。
想起に耽る営みは、肺からの、気管支を経るごぼりという音で妨げられた。陸地だのに溺れる感覚。喘ぐように呼吸を急くが、ずんずんと意識が急速潜航。
私は潜水艦じゃあない。
黒い塊が意識の隅に陣取っていた。それを極力見ないようにして、光へと手を伸ばす。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
「発見! 要救助者、はっけーん! 座標は今飛ばした、近ェのは……グラ子か!
大淀と合流してこっちゃ来いやぁ!」
潮騒に負けじと声が響き渡る。
「おい、名前! 自分の名前は、わかるか!」
「ぅ、あ」
声は、喉の振動は、空気の震えは、胸を満たす汚水に飲まれて消える。
「かなりやべぇな、クソがっ」
野太い男の声。苛立ちをぶつけるかのように荒げている。
仲間が救助に来てくれたのだと思ったけれど、どうやら違うらしかった。艦娘ではない。かといって提督の声はこんなに若くない。ならば海保? いや、規定で艦娘の保持は海軍に限定されているはずだから……。
あぁ、この際最早、誰何などは熱量の無駄だ。
ごぼり、ごぼり、体内が音を立てている。汚泥があぶくを立てている。
それらに負けじと私は叫んだ。
「みぃ、んな、をっ! たす、助け、てっ!」
私の、私の、みんな、私の、大事な。
仲間なんです。
ごぼごぼ、ごぼり。
どぼん。
あぁ……。
* * *
* * *
人間は慣れる生き物だ。そうでなければ生きていくことはできない。
こんな激痛などには耐えられない。
「ん、っう、くぅうううっ、ぐ、お、ぅ……っ」
暗黒に一条の閃光が迸ったのと、体を雷撃のような激痛が走りまわったのは、完全に同一だった。私は空気を求めて喘ぎ、今度こそ清廉な空気が肺腑を満たすことに驚いて、次いで「今度」という自らの摩訶不思議な認識にまた驚く。
左腕が焼けるように痛かった。それだけでなく、骨から針が出て皮膚を突き破っているような錯覚すらある。右腕でおさえようとしたものの、その右腕の関節やら手首やらには、きっと画鋲がばら撒かれていた。
体を捻じ曲げる。幼児のように丸まることさえも許されず、私は恥も外聞もなく、痛みに泣いた。
がらり、ぴしゃんと扉が開く――そこで私は、ようやく、自らが部屋にいて、ベッドに寝かされていることに気が付いた。硬く濡れた岩礁とは異なる柔らかさと温かさ。
がらり、ぴしゃんと扉が開く――そこで私は、ようやく、自らが部屋にいて、ベッドに寝かされていることに気が付いた。硬く濡れた岩礁とは異なる柔らかさと温かさ。
「あ、おっ、お目覚めです! お目覚めですぅっ!」
枯れ草色の上着、濃緑の袴を身に着けた、子供だった。彼女は私の姿を見るや否や、叫んで出ていってしまう。この痛みを何とかしてほしいのに。なんという不幸か。
しかし、不幸な私はやはり、幸いにも、人間であったらしい。激痛は波こそあるものの、ゆっくりと引いていって、なんとか歯を食いしばれば耐えられるほどまでには落ち着いてきた。
部屋の外を走る音。数秒の間があって、部屋へとなだれ込む人影。
「おい、医者が次に来るのは明後日だぞ、クソが」
「お目覚めになったことを喜びましょうよぅ!」
「町医者を呼んでくるか? 問診くらいはできるだろう」
「やめたほうがいいと思いますよ。私たちの身体は機密の塊ですから」
視界の焦点が段々と定まっていく。先頭に、男性。白いシャツに徽章の金が眩しい。その隣には先ほどの子供。こちらと男性を交互に見やっている。
その後ろに、さらに二人の女性。片方は黒髪長髪で、眼鏡をかけた、清楚な雰囲気。もう片方は銀髪で凛とした佇まい。
「おい、あんた、名前だ。自分の名前はわかるか」
「……」
名前。名前。私の。
「意識に混濁がまだあるか?」
「状況の把握に戸惑っているだけではないのか?」
「鎮痛剤のアンプル、一本持ってきますか?」
「まずこちらの素性を明かしてからでないと、警戒されてしまいませんかね」
話し合っている。なにかを。私のこと? 処遇?
敵性攻撃群でないのは明らかだった。となれば、あぁ、私は助かったのだ、誰かが助けてくれたのだと、ここでようやく心の底から安心できる。その実感のなんと重みのあることか。
「……ぁ、だ、ぃ、ぅお」
大丈夫と言おうとしても言葉にはならなかった。喉から血が戻ってきている気がする。ここもまた、痛い。
「あまり無理しないでください」
眼鏡の女性が言う。
「私たちがあなたを助けました。あなたは一命を取り留めたんです。恢復までには長い時間を擁します。ゆっくり療養していきましょう」
子供が私の手を握ってきた。小さく、暖かい、手。海の上を揺蕩う間は決して手に入らないもの。それだけで涙が滲む。
「もう大丈夫……ですっ!」
「声が出せないか? 喉の裂傷のせいかもしれないな。紙とペンをもってこよう」
銀髪の女性は、透き通るほどに白い肌と、同じくらいに透き通る怜悧な声で呟く。
「水はいるか? いるなら首を縦に、いらないなら横に」
野太い声で男性が尋ねてくる。私は首を縦に振った。それに対して男性も満足そうに頷く。
顔にはいくつか傷があった。そのせいだろうか、僅かに右の頬と、口元、眼尻の動きが引き攣っているようにも見える。左の外耳も耳たぶのあたりが欠けているし、額から左眉にかけても裂傷が二本。
「ペンと紙を持ってきたぞ」
「おう、グラ子、助かった」
「大丈夫ですか? ペン、握れますか? 意思の疎通は」
私は僅かに指の感覚を確かめて、うん、これならば、なんとかなると首肯。
「あの、まずわたしたちの……わたしたち、から、名乗ったほうがいいんじゃ?」
「それもそうですね」と眼鏡の女性。「提督、私たちの立場を明らかにしても?」
「そうだな。まずは事情を飲み込んでもらうことが優先だろう」
「では、僭越ながら、わたくし大淀が。
初めまして山城さん。我々は、このたび海軍に新設されました、CSARに特化したARS、通称『浜松泊地』のメンバーです」
「……」
……全然、意味が、わからない。
――――――――――
ここまで。
リハビリもかねて、リクエスト消化。
週一くらいの更新で、100レス程度で終わればいいかな?
待て、次回。
前作あるの?ゾクヘンなんでしょうか
>>12
このお話に前作は存在しませんが、私の過去作が存在するということですね。
声が出なかったのは、きっと体の傷が原因のすべてではない。
私は別段、自分が一般常識に欠けているとは思わなかった。それでも、たったいま目の前の女性、大淀と名乗った彼女が口にした単語――いや、そもそも単語なのかすら定かではない――言葉の羅列は、私の知識の中にはなかった。
CSAR。ARS。恐らく、何か英単語の頭文字なのだろう略し方という類推はできても、それまでである。
誇らしげに大淀は胸を張っていた。たった今口にしたその文字に、自らの威信と誇りを委ねているという態度のようにすら見えた。
「通じてねぇようだが」
それみたことか。男性のニュアンスは皮肉交じり。
大淀はそれを受けて小さく呟いた。なるほど。なにが「なるほど」であるのか私にはちっとも理解ができなかったけれど、彼女は納得したらしい。
「CSARとはCombat Search and Rescueの略ですね。即ち、『戦場における捜索と救難』です。そしてARSはAir Rescue Squadronの略で、直訳だと……『航空救難戦隊』? まぁ、つまりは救難部隊を指しています。
我々の救助対象は艦娘です。たまに深海棲艦に襲撃された客船やタンカーも救助しますが、任務中、あるいは遠征中に襲われたロストバゲージの捜索と救助が主任務となります。
コードネームは『浜松泊地』。まぁ浜松に拠点があるわけではないんですが、説明すると長くなりますので」
戦闘捜索救難を行う部隊、航空救難戦隊が彼女たちの正体だと。それが海軍に新設された。……航空? 海軍なのに?
疑問はあったが、言葉の枝葉末節はどうでもいいことだと思考から追いやった。重要なのは、私が彼らの活動の結果として救難され、いま、こうしてベッドに横たえられているという事実。
「さて、山城さん、落ち着いて聞いてください。あなたは任務の最中に敵性攻撃群、通称『深海棲艦』に襲われました。その後、我々が捜索し、発見、いまに至ります。ここは浜松泊地所有の医療施設で、幸いなことに命に別状はありません」
私は手を握り、開いた。痛みはしつこく残っている。それでも最早泣き出したくなるほどではなかった。
「山城さんは四日ものあいだ意識を失っていました。医者の見立てでは、日常生活を送れるようになるまでに二週間、完治まで二か月とのことです。後遺症の具合によってはさらに伸びる可能性もあります。
なにより、この数字は高速修復剤を利用した上での日数です」
高度修復剤、通称「バケツ」。浸せば体の損傷をたちどころに回復させてしまう、祈祷によって清められた霊水。
普通、どんなに酷い状態だったとしても、一日もあれば全快になるはずだ。それが二週間とは、まさに私は生死の境目を彷徨っていたのだろう。不幸中の幸い、ここに極まれり、である。
「食事やリハビリについては、この施設で賄うことができます。ある程度状態がよくなれば、軍の病院にも移送することは可能です。いまはとにかく体を休めることを優先に考えてください。
常に我々がつきっきりというわけにも行きませんが、基本的に誰かしらはいる構造になってますので、不便があればいくらでも呼んでくださいね」
なにからなにまで、申し訳ない。
「浜松泊地」なる救助隊が設立され、活動に勤しんでいるという話は初耳だった。新設と自ら謳うのだから、本当に最近できたばかりなのかもしれない。
私は部屋をぐるりと見渡す。大淀は先ほどから「我々」と口にしている。銀髪で怜悧な女性も、和服の少女も、傷の多い男性も、みな救助隊のメンバーなのだろう。
「グラーフ・ツェッペリンだ。艦種は空母」
もしかしたら視線で思考が伝わってしまったのかもしれない。銀髪の女性が直立不動で名乗った。堂々とした態度。その確かな存在感は、私には光沢のある金属を想起させる。
「た、大鷹です。軽空母……です」
こちらの挨拶は控えめだった。引っ込み思案というよりは、年上と話すことにあまり慣れていないように感じられた。
「後藤田だ。後藤田一という。俺は見ての通り男だから、艦娘じゃあねぇ。こいつらを指揮する……お前らふうに言えば、『提督』ってやつになるのか。この部隊、『浜松泊地』を預かっている」
最後に傷の多い男が名乗る。野太い、芯のある声。決して揺らぎそうにない力強さ。
その表現はどこかきちんとした線引きがあることを示唆している。あるいは、彼もまた、この隊を任されて日が浅いのか。
それでも私には、この後藤田という男性と、彼の部下であろう三人が、強固な絆で結ばれているように見えて仕方がなかった。とかく些細な営みのほうが、信頼は強く表に出るものなのだ。
「この三人のほかに、あと二人、構成員がいる。駆逐艦の不知火。重巡のポーラ。もし知らない顔がいても驚かないでくれ」
だから、ごく自然に大淀のあとを彼が引き継ぐことも、なんら驚くべきことではない。
「――ここまでで、何か質問はあるか?」
彼が尋ねるのをきっかけにして、大鷹が、グラーフが、そして大淀が、静かに部屋を後にしていく。その意図が私にはわからなかった。
混乱に僅か戸惑う頭でも、正常には回る。質問。わからないこと。気になること。訊きたいこと。
それはなぜ航空という冠がついているのかであったし、なぜたった五人という少数精鋭なのかでもあった。けれど、私が知りたいのは、本当に訊きたかったのはそんなことではなくて。
ペンを握る。紙に走らせる。
みんなは、どこ?
痛む手でやっとこさ書き上げた文字列を、彼は悲痛な表情で一瞥する。
そのとき理解した。三人が自主的に去ったのか、それとも以心伝心で彼が三人を去らせたのは定かではないが、どうして無言のままに彼女たちは部屋を後にしたのかを。
後藤田提督は首を振る――横に。
「残念ながら、生き残ったのはあんただけだ」
泣き顔なんてなるべくひとに見せたくないだろうという、配慮だったに違いない。
扶桑姉さまは、この世でたった一人の家族だった。
私たちは天涯孤独ではなかったけれど、単にひとつ屋根の下で暮らす存在が家族だとは思わない。戸籍謄本に乗っているだけの関係が家族だとは思わない。そういう意味では半分だけ孤独ではあったのかもしれない。
私には姉さまが、姉さまには私が、それぞれいればそれで十分だった。互いが互いの半身だった。
人という字はひととひとが支え合っている様を表すというのは、きっと間違いなのだろう。私と姉さまがふたりでひとつ。少なくとも、私たちにとっては。
山城。わたしたちは、ずっと一緒にいましょうね。わたしは絶対にあなたを裏切らないから、信じ抜くから、あなたもわたしを裏切らないでね。信じ抜いてね。
こんな不幸に満ちた世の中なんて、きっと一人では生きていられないわ。だけど大丈夫。わたしにはあなたがいるもの。あなたにはわたしがいるもの。
姉さまは口癖のように、夜毎の子守歌のように、隣でそう言っていた。
母親が死んだのは私たちが八歳の時で、後妻がやってきたのがその三年後。私たちが高校へ上がると同時に父親も倒れて、私たちは後妻の実家へ移り住むこととなった。
共同体の中に、異物がふたつ。
そこでは私たちは家族ではなかった。ただ単に、よそ者だった。
叔父からの性的な視線。一回りも年の離れた相手との見合い話。生理用品を買うのにすら領収証を貰わなければならない狂った生活。
それでも大丈夫だった。耐えられた。姉さまの至言があったから。
こんな不幸に満ちた世の中なんて。
一人では決して生きていられないけれど。
私には姉さまが、姉さまには私が。
姉さまがいれば、それだけで。
姉さまと二人でいられれば、それだけで。
よかったのに。
私たちは走った。走り続けた。朝の農道を。昼の畦道を。夜の隧道を。
気分はさながら、嘗てドラマで見た恋人の駆け落ち。迫る追っ手、逃げる主人公、試される真実の愛。
違うところと言えば、迫る追っ手はおらず、私たちは決して主人公足りえないという、二点だけ。真実の愛は既に試されていて、乗り越えたからこそ、いま私たちは走っているのだ。
変な男と結婚させられなくてよかったね。と私が言った。九州は、離れ離れになるには遠すぎるもの。
不幸続きの人生にも、たまには好機は巡ってくるのね。と姉さまが言った。旅立ちの前日に、家が失火に見舞われるなんて。
顔を見合わせて、笑う。そしてまた走り出す。家事の混乱に乗じて、誰も知らないどこかへ行って、清貧でもいい、静かに暮らしたかった。二人一緒にいられるのなら、地獄の方が天国よりもましに思えた。
姉さまは、けれど、もしかしたら気づいていたのかもしれない。私が家に火をつけたのだということに。
この世は不幸に満ち満ちていて、姉さまはいつも力なく笑っていた。どんなに辛いことも苦しいことも、いずれ慣れる時が来る。受け流してしまえばどうにでもなる。それに、山城、あなたさえいれば。
不幸な私たちに与えられた唯一の幸運が、最愛の姉妹の存在なのか、あるいは、最愛の姉妹という幸運によって、これほどまでの不幸が与えられているのかは、一生わかることはないのだろう。
相も変わらずにこの世は――というより、私たちの人生は不幸に満ちていた。それでも徐々に、遅々としてではあるが、上向いてきてもいた。仲間ができたのだ。同じ鎮首府で、背中を預けられる大事な戦友。
満潮や時雨は小さいけれどしっかりもの。口数の少ない加賀も、自己主張が苦手なだけで、魅力的な人物だ。鈴谷の性格は私たちとはまったく違っていて、まともな化粧の仕方をそこで初めて教えてもらった。
たった二人だった私たちに、家族ができようとしていた。
だからなのだろう。
この世は不幸に満ちているから。
少しそのことを忘れてしまえば、すぐにほら見たことかと言われてしまう。
身分相応を知れと蔑まれてしまう。
多くを望んでしまったのが運の尽きだ。
極秘任務になど手を上げなければよかった。六人ならば作戦は成功させられるなんて思いあがらなければよかった。提督のため、鎮首府のために挑戦しようと考えなければよかった。
そうしなければ誰も死ななかったのに。
胸が苦しい。痛い。内臓ではない。心が。心臓ではなく。心。心なんて空想なのに、ひとが生み出した幻なのに、どうしてこんなにも痛いのだろう。
あるはずのないものが、確かに自分の中心に、どっかと腰を下ろしている気がした。
後藤田提督が立ち上がる。何か不便があったら枕元のボタンを押せとだけ言って。
彼らは、こうなることを知っていたに違いない。私が、という話ではない。要救助者を全員助けられないことのほうが圧倒的に多くて、眼を覚ました者はみな第一声に他者の安否を尋ね、そして……絶望する。
激痛に苛まれる体であってさえ、死よりは遥か遠くにある。それでも喜びの感情はない。かといって自分が誰かの代わりに死ねたらいいのにとも思えない。姉さまも、他のみんなも、嬉しくはないだろうから。
この世はとかく不幸に満ち満ちている。
姉さまは、いずれ慣れると言っていた。私はどうにも、それを信じられそうにない。
人間は慣れる生き物だ。苦しみにも、辛さにも、痛みにも。事実私は随分と体を動かすのも楽になった。だけれど、親しい人や愛する人が死ぬという不幸、それに揺れる心さえも麻痺してしまった生き物が、果たして人間と呼べるのだろうか。
こんな苦しみ、辛さ、痛みなど、もう二度と味わいたくはないというのに、鈍感になりたくもないという自己矛盾。
いっそ死んでしまおうか。海に飛び込んでも浮くばかりだから、どこか高い、いい景色のところから、真っ逆さまに。
いや、それこそ姉不幸者だ。姉さまを悲しませることは、私には到底出来そうもない。
後藤田提督は私に療養の時間をくれたが、あぁ、そんなものは不必要。暖かいベッドに横たわっていると、一際死の冷たさと静寂の輪郭が際立つ気がして、足元の崩れていく錯覚に陥る。
浜松泊地と名乗った彼らは確かに私の命をこそ救ってくれたけれど、この身の境遇までは救ってくれなかった。いや、そこまで願うのはお門違いか。
姉さまは自分の不幸や幸福を他者に希求することはなかった。ならば私も、そうするべきだ。
それでも。
「ぐ、う、ぅっ、おぉ、う」
叫びだしたいのに体が言うことをきいてくれない。もどかしい。気が狂ってしまいそうになる。
こんな不幸に満ちた世の中なんて、一人では生きていられない。
私は一人になってしまった。
姉さま。姉さま。山城は、恐ろしいのです。なにがと尋ねられても、答えに窮してしまいますが、なにかが、目に見えないなにかが、姿かたちの無いなにかが、まったき暗闇の色をもって、どこかから私を狙っているように思えてしょうがないのです。
手を。手を握ってください。どうか。二人で空腹を堪えた夜のように。寒空の下を歩いた朝のように。
「だぁいじょーぶ、でぇすかぁー?」
手がふんわりと暖められて、陽気な香りが鼻孔を衝いた。
――――――――――
ここまで
一回ぶんの文字数を半分にして、投稿ペースを倍にする試み。
待て、次回。
美少女だった。
美少女が、立っていた。
わからない。それはもしかしたら、日本人的な美的感覚のせいかもしれない。
絵画のモデルがそのまま抜け出してきたかのような白い肌、そしてプラチナブロンド。頬は紅を挿してもいないのに仄赤く染まり、表情だって柔和だ。幼さの残る顔立ちはまさしく天使のようだった。
たとえば先ほどのグラーフ、凛とした彼女もまた美しかったが、目の前の少女とは毛色が異なる。近づけない存在が「綺麗」なのであり、「可憐」な存在は穢れを許さない。
なぜか右手にワインの瓶を持っているのが、まさしく宗教絵画のようでもあった。ワインとパンの寓話くらい私だって知っている。
そこではたと気づいた。浜松泊地にはまだ私の知らない構成員がいる。不知火とポーラ、彼女はそのどちらかで、見た目を考慮に入れれば後者なのだと推測できる。
「痛そぉ、ですねー」
私の手を握るその手のひらの温度は高い。僅かに目元は濡れていて、少しだけ物憂げな気配があった。
なぜだかわからないけれど、背徳的な雰囲気。
「ベッドに寝てばかりじゃあ、からだ、固まっちゃいますよぅ?」
顔が近い。不自然に近い。
個人のパーソナルスペースはそれぞれだけれど、これではまるで制空権がない。
というか、唇と唇が。
「……」
葡萄の匂い、発酵臭――酵母菌のもの。アルコール醸造の際に発生する、特有の。
彼女が呑んでいるのは明白だった。
「立てますかぁ? 海風にでも、あたっちゃいましょー。ポーラも、うふふ、一旦酔い覚ましでぇ」
そしてその事実を隠そうとしていなかった。
大丈夫なのか?
いや、変な勘繰りはやめよう。非番だ、そうに違いない。私は嗜む程度にしかお酒を呑まないけれど、この世に酒豪はいくらでもいる。昼間から呑んだっていいじゃないか。
それよりも今は彼女の提案に伸るか反るかである。体の痛みは慢性的だが、数日間ベッドで眠りっぱなしだったものだから、体の節々が固まってしまっているように思う。
日常生活に戻るのですら二週間程度を要するとは大淀の弁。しかし、歩けないことには何もかもが始まらない。それにずっと部屋の中にいては参ってしまう――体よりも精神が。海風が心の澱を吹き飛ばしてはくれやしないかと期待してしまう程度には。
私は、ポーラの提案に頷いた。彼女はすぐに満面の笑みで私の手を引く。力任せでなく、ゆっくりと、慈しむように。
扉はやけに重かった。ぐ、と体重をかけて押してようやく開く。それほどまでに体は衰えてしまっているのか。
「……」
廊下は細く、それ以上に窮屈だと感じた。灰色と緑を基調とした空間に、LEDの灯りが煌々と降り注いでいる。扉。むき出しの配管。結束されたコードの束が縦横無尽。
違和感ばかりの中で、私は僅かに遅れて、最大限の違和感に気付く。
窓だ。窓がないのだ。それは普通の建物においては有り得ない話だった。
「大丈夫ですかぁ?」
ポーラが尋ねてくる。なんと答えればいいのか。
私はてっきりここが病院、あるいは浜松泊地の基地であると思っていたが、この光景はどちらにも当てはまらない。工場、研究機関という表現の方がよほど正しい。
そんな不安を知ってか知らずか、酩酊のせいなのか、ポーラはひょいひょい軽やかな足取りで前に進んでいく。最早私には選択肢などなく、一歩ごとに体のありとあらゆる箇所が悲鳴を挙げるのを聴きながら、壁に肩をこすりつけながら追った。
少し歩いては待ち、待ってはまた歩くを繰り返すポーラを見るに、どうやら私のことを気にしてはいてくれているようだったが。
螺旋階段を上りきると鉄扉があって、そこには丸い窓がついている。リベット打ちされた頑丈そうな窓。気密性の高そうな扉。
あ、と声が漏れた。珍しく咽ることなく、するり喉から抜け出ていった。
ここは。私がいる場所は。
「浜松泊地の母艦、『しおさい』って言いますー。仲良くしてあげてくださいねぇ」
ポーラがほんわかした口調で扉を開け放った。
海風が流れ込んでくる。
潮の匂い。眼を細めるほどの陽光。
短い廊下に切り取られた先の、大海原。
ここは船の上だ。
甲板の手すりが見える。ウインチ。そばに置かれているのは舫い綱だろうか、それとも荷を固定するためのもの? いや、彼らはCSARなのだから、救助用かもしれない。
「おい、ポーラ、てめぇなにやってんだ」
「て、提督? 違うんですよぉ」
「俺はまだ何も言ってねぇ」
ぬっと現れた後藤田提督は、ポーラを見るなり顔を顰めた。ポーラは視線を逸らしてワインの瓶を背後へと隠す。
「それにポーラ非番ですからぁ」
「怪我人連れ出して無理させんじゃねぇぞ?」
「あーんな部屋にいたら気が沈んじゃいますよぉ」
提督は私を見た。無理やり連れだされてはいないだろうな、とその顔は問うている。縦か横か、首をどちらに動かせば正しく伝わるのか不安だったので、苦手だけれど笑顔を作ってみた。
「……」
無言。しかし、言い換えれば反対でもない。
少しばかりの溜息とともに、体に障るようなことはするんじゃないぞと釘を刺し、甲板の向こうへと消えていった。
私は後を追って甲板へと出る。早く海を見たかった。
それは決して感傷ではない。私は姉さまや、仲間のみんな――家族のみんなを弔うために、死を悼むために、海を利用しているわけではない。ただ私は海が好きなだけなのだ。自由の象徴としての海が。
船首には、今は帆は折りたたまれているが、金属製のマストが備え付けられてる。そこからずうっと、船体中央を通り越して後部までがフラット。そして船尾には、階段状になった複層式のスペースがある。管制室や操舵室だろう。
トン数は200前後といったところか。内航向けの小型機帆船をリノベーションして使っている? それにしたってこの規模の船舶は漁船やクルーザーとはわけが違う。私はまだ、艦娘と提督以外の乗組員を見ていない。
「船が泊地だなんて凄いですよねー」
酩酊に浮かされた口調でポーラが言う。私に説明してくれているのかもしれなかったし、ただ単の自慢かもしれなかった。
「あはは。みぃんな、『浜松泊地』に助けられた人は、そんな顔しますー」
そんな顔。どんな顔だろうか。
「医務室は今さっきの階段を下りた先ですねー。中央部分に居住区角は集中してます、ポーラたちの部屋もあのあたりでー、食堂は船尾の、遠距離通信レーダーと気象観測アンテナありますよねぇ、あの真下ですぅ。
時間はきっと、たっぷりありますからぁ……気を落とさないで、元気出して、頑張りましょー」
ポーラはぽやぽやした笑顔のまま踵を返し、甲板を歩いた。そして甲板に備えられたハッチの僅かな段差に脚を引っ掛け、盛大に転ぶ。
顔面から突っ込んでも、ワインの瓶だけは死守していた。
しれっとした顔で不知火は言う。大局は既に決している。最初はやる気を奮っていた彼女も、今や消化試合を続ける面持ちで、けれど自らが誘ったという負い目からか、何とか私にそれを悟らせまいとする意地が見え隠れしていた。
人生ゲームは果たして二人でやるゲームだったろうか。いや、結局は私が弱すぎるのが悪いのだ。というよりも、不幸すぎるのが。
完全情報ゲームならばまだしも、不完全情報でここまで差が開いてしまうのは、逆に申し訳なくなってしまう。
「降参よ。さすがに逆立ちしたって逆転は無理よ」
「そうですか」
意図的にあげた音を不知火はあっさり承諾した。手慣れた様子で駒や札、債権を回収していく。
「次はなにします? 将棋、チェス、オセロ、モノポリー、ダイヤモンドゲーム、有名どころは一通りそろってます。ドミニオンにニムト、宝石の輝き、カタン、ギロチンなんかは? カードゲームがいいならポケモン、遊戯王、MTG。ドミノもありますね」
「倒すやつ?」
「倒さないやつです。本来の遊び方です」
「色々持っているのね」
感心してしまう。
「船の上だと退屈しのぎは重要です。それこそ、食事の次くらいには」
「付き合ってもらって申し訳ないわ。非番、なのでしょう?」
「平気です。不知火は、個人的には、盤面や手札越しにこそ相手を最もよく知ることができるのだと考えています。退屈しのぎでもあり、山城さん、あなたのことを少しでも理解したく、ゲームに興じているのです」
「他のひとたちともよく一緒にゲームを?」
「はい」
人生ゲームの箱を閉じて、不知火は無言のままに、将棋の盤を互いの間に置いた。駒の箱を開き、こちらへ手渡してくる。
ぱちん、ぱちん。治療室の部屋に、木で木を打つ乾いた音が響く。心地いい。
「提督はギャンブル型ですね。ハイリスクハイリターンを好みます。期待値がマイナスでもお構いなしなので、どっちかというとスリルが好きなのでしょう。
大鷹は正反対の慎重型。臆病と言い換えてもいいくらいです。石橋を叩いて渡る典型で、堅実に小金を稼いでクリアを目指します。ラスを引くことは少ないですが、トップをとることもありませんね」
玉を握った私が先手だ。7六歩。まずは角道をあける。
「ポーラは読めません。荒唐無稽と言いますか、一貫性がないのです。ちまちま稼いでると思えば急に全財産を賭けてみたり……酩酊の為せる業なのかもしれませんね。
グラーフはいかにもドイツ流です。確率を計算し、期待値通りに動きます。定石のある場面ではきちんと定石を打ってくる。場面によってぶれない。質実剛健とは彼女のためにあるような言葉ですね」
飛車先の歩を衝いたのに合わせて8八角。私は同銀と返す。そして不知火の指がとったばかりの角へと動き、ぱちん、少し甲高い音を立てた。
「筋違い角、ね」
歩の一枚はとられるとして、果たして大きく戦況に左右するだろうか。それよりも角の位置が一見して悪そうなことに気をとられる。
「……奇手奇策が好き、という自己紹介かしら」
呟きを不知火は聞き逃さなかった。自慢げに、これがわたしなのだとばかりに――あるいは「よくわかっているじゃないですか」とでも言うように、不敵に笑う。
「一番強いのはグラーフさん?」
「いえ」
ひとまず穴熊へと走る私。不知火は歩を駒台の上に置いて盤上を眺める。
「大淀が。彼女は、その……こういう言い方はよくないのかもしれませんが、和マンチの気がありまして。手八丁はさすがに使いませんが、口三味線やルールの穴を衝くことに抵抗がなく……というよりもそうやって相手をやり込める事に楽しさを見出してしまっているようでして」
「難しいところね」
盤面も、スタンスの違いも。
「いえ」
けれど不知火はあっさり否定した。どちらを、なんて考えるまでもなかった。
「不知火はそういう、勝ちに貪欲な彼女を見るにつけ、あぁ今日も彼女は彼女なのだなぁと、幸せな気分になります」
その気持ちを少し考えてみて、わかるようなわからないような、不思議な気分になる。たとえば姉さまが急に幸福の連続に見舞われたとしたら、逆に心配になるだろう。そののちに不幸な目に遭ったとき、喜びさえ覚えるかもしれない。
酷薄だという非難は尤もだが、てんで的外れでもあった。変わらない日常が何よりも貴重である――そんな使い古された文言は、当然この世のすべてではないけれど、少なからず使い古されてきたなりの重みや実感を伴う。
ぱちん、ぱちり。
静かな病室に、静かに駒を打つ音が響く。
80手目で私の勝利だった。
「お見事だな」
手こそ叩かず、いつから見ていたのだろう、後藤田提督が扉の傍にいた。相も変わらず傷だらけの顔が、引き攣って不器用に、しかし朗らかに笑みを形作る。
「席を外しますか?」
返事を待たずして不知火が立ち上がる。後藤田提督は「いや、いい」と留めるも、不知火は「飲み物でも持ってきます」と部屋を後にした。私は彼女のことなどまるで知らないけれど、その所作をどこか不自然に思う。
後藤田提督は頭を掻きながら、先ほどまで不知火が座っていた場所へと腰を下ろす。安物のスツール。私だけがベッドに横になっていることが申し訳なくなるくらい。
大きなひとだった。肩幅が広い。背丈もある。筋肉、特に首筋から胸元にかけてが丸太のようだ。事務仕事を主とする艦娘相手の提督には珍しいタイプ。
「体調はどうだ」
「随分とよくなりました」
嘘ではなかった。まだ完全に痛みが引いたわけではないが、体も動かせるし、食事だって自力で摂れる。会話だって。
その答えに彼は満足したように頷いた。
「うちのメンバーにはもう全員?」
「はい、会いました。みんないいひとばかりで」
「いいやつらには違いないが、一癖も二癖もある。まぁ、狭い船の上じゃあ、それくらいのほうが退屈しなくていいもんだ。
誰かからうちの話は聞いたか」
後藤田提督は頭を掻きながら、先ほどまで不知火が座っていた場所へと腰を下ろす。安物のスツール。私だけがベッドに横になっていることが申し訳なくなるくらい。
大きなひとだった。肩幅が広い。背丈もある。筋肉、特に首筋から胸元にかけてが丸太のようだ。事務仕事を主とする艦娘相手の提督には珍しいタイプ。
「体調はどうだ」
「随分とよくなりました」
嘘ではなかった。まだ完全に痛みが引いたわけではないが、体も動かせるし、食事だって自力で摂れる。会話だって。
その答えに彼は満足したように頷いた。
「うちのメンバーにはもう全員?」
「はい、会いました。みんないいひとばかりで」
「いいやつらには違いないが、一癖も二癖もある。まぁ、狭い船の上じゃあ、それくらいのほうが退屈しなくていいもんだ。
誰かからうちの話は聞いたか」
後藤田提督は頭を掻きながら、先ほどまで不知火が座っていた場所へと腰を下ろす。安物のスツール。私だけがベッドに横になっていることが申し訳なくなるくらい。
大きなひとだった。肩幅が広い。背丈もある。筋肉、特に首筋から胸元にかけてが丸太のようだ。事務仕事を主とする艦娘相手の提督には珍しいタイプ。
「体調はどうだ」
「随分とよくなりました」
嘘ではなかった。まだ完全に痛みが引いたわけではないが、体も動かせるし、食事だって自力で摂れる。会話だって。
その答えに彼は満足したように頷いた。
「うちのメンバーにはもう全員?」
「はい、会いました。みんないいひとばかりで」
「いいやつらには違いないが、一癖も二癖もある。まぁ、狭い船の上じゃあ、それくらいのほうが退屈しなくていいもんだ。
誰かからうちの話は聞いたか」
「うちの?」
「俺たち『浜松泊地』のことを」
「……いいえ」
気にならないわけはなかったが、さりとて気軽に訊ける要素もなく。
「そうか。……俺たちの話をするより先に、単純な質問でもしておこうか。山城一等海士殿」
「はい」
急にあらたまった呼び方をされて、思わず背筋がすっとなる。膝の上に手をやり、弛緩と緊張のいい塩梅を作って、真剣なまなざしは真っ直ぐに彼。
「苦しみながら死ぬほうと、気楽に生きるほう、どっちがいい?」
――――――――――――――
ここまで
時間に余裕ができたので復活します。
最初は聞き間違いかとも思った。
だって、それは語義がテレコになっていない。意味が対義になっていない。普通ならば苦しみながら生きるのか、はたまた死んで楽になるのか、そういう話のはずだ。そういうときに使われるべき文句のはずだ。
負に負、正に正を足したって、符合は変わらない。
しかし目の前の後藤田提督は、彼を真っ直ぐに見る私の瞳を覗き込んできている。矢を打ち返すように真っ直ぐと。その様子を見るに、聞き間違いでも、言い間違いでも、ない。
それならやはり、言った通りの意味なのだろう。苦しんで死ぬか。楽に生きるか。
意図はわからなかったが、それでも私は天邪鬼ではなかった。
「気楽に、生きます」
「そうか。なるほど、そうか」
彼は鷹揚に頷いて、
「なら、手筈は整えてある」
と言った。
「おおよそ三日後、母艦『しおさい』は苫小牧か室蘭、余裕のあるほうの港に停泊する。お前はそこで下船し、札幌を目指せ。北大付属の病院に空きがある。新千歳まで行けば職も斡旋してくれるそうだ。勿論、艦娘じゃない、綺麗な仕事を」
「ま、待ってください! 待って!
話が急すぎます! なにがなんだか……まるでわからない! 私には故郷があります! 家族がいます! 鎮首府と、そこのみんなが私を待ってくれているんです!」
ここに骨を埋めようと覚悟した岬のことを思い出す。ここに灰を蒔いてくれと願った渚のことを思い出す。
提督は少し優柔不断なきらいがあるものの、優しく、分け隔てなく私たちに接してくれた。同僚はみな気のいい友人で、非番の前夜には、自然と酒と肴を持ち寄る関係になっていた。
それらを全部捨てろ?
いきなり北国へ連れてこられて、見知らぬ土地で暮らせ?
一体誰がそんな、首を縦に振るだろうか。このひとたちは私がはいわかりましたとでも言うと思っているのか?
「一旦落ち着け。そして落ち着いたまま聞け。
……お前の受け入れは拒否された。艦籍は剥奪された。最早お前は無所属の艦娘だ」
「うそ」
驚きよりも断定の感情が前に出た。うそだ。そんなことあるはずがない。こいつは嘘を言っている!
「うそよ! うそだわ! 助けてくれたことには感謝するけど、だからといってそんなつまらないことを言う権利はない!」
「不知火」
「はい」
呼ばれて、薄紫色の髪の毛が、視界の端で揺れる。
三つのグラスになみなみの麦茶。それらをお盆の上に乗せ、不知火は遊戯に興じていた先ほどとまるで変わらない顔をしている。
「極秘任務に就かれましたね? そうして、失敗した……。いえ、否定も肯定も必要ありません。裏はとれています。それに、何より、不知火もそうでした」
かたん、ことん、こつん。グラスがベッドに備え付けのテーブルの上へと置かれる。
「この世には失敗が許されない任務というものがあります。失敗はありえないのです。ありえない。わかりますか? もし失敗したのなら、『そもそも任務があったことさえ抹消される』。当然、参加した艦娘は、初めからいなかった」
「だからなに? だから私が? 信じられると思う?」
「高度に政治的な問題を含む作戦行動は、戦争や侵略とさして変わりがありません。不知火の場合、運河における敵対勢力の秘密裡の殲滅でした。秘密裡ということはつまり、我々だけが――日本だけが、その運河を利用できるようになる、ということです」
失敗してしまえば、私益行為が明るみに出る。任務など初めからなかったことにしてしまえば、全ては暗い水の底。
「お前の提督は、それでも最後に漢気を奮ってみせたようだ。俺たちに助けを求めたのはそいつ自身。そして、北海道にお前を逃がしてくれというのもそいつの依頼から来ている。放っておいた方が楽だろうに、な。
お前が拒むと拒まざるとにかかわらず、海軍にお前の居場所はもうない。別に追っ手が差し向けられたりはしないだろうが、それもお前が静かに暮らしている限りの話」
息が詰まる。指先が震える。怪我は、だいぶ治ったというのに。
うそだ。うそに決まっている。
確かに私の人生は不幸ばかりだった。不幸続きの人生だった。不幸と地続きに道が伸びていた。だけど、それでも、こんな、うそだ、こんなのってうそだ!
「なら! それなら、不知火さんがこうしてCSARをできていることが不自然です! 抹消されたはずなのに! ほら、彼女自身が反証です!」
「不知火たちは空軍の所属です」
え?
「空挺第七特務小隊。実質的には、海軍に貸し出されるために設立された部隊だ」
「なんで、空軍が……」
「海軍にはCSARのノウハウはねぇからだよ、嬢ちゃん。海保だってそうだ。NPOの海難救助法人だってそうだ。交戦規定さえ存在しないやつらにゃ荷が重い。
俺たちは海軍にCSARの礎を作りにきた……っつーと話を盛ってんな。結局は空軍が海軍に恩を売るための取引の結果か」
「ありえない。プライドの高い上層部が、そんなことを認めるはずがない」
ただでさえ最近は、深海棲艦という火急を要する存在の登場によって、予算の増加と発言権の強化を得ているというのに。
わざわざあいつらが既得権益を手放すとは思えなかった。
「国村さんのおかげだな」
ため息交じりに吐き出された名前は、私でさえも聞き及びのあるものだった。
「国村? 国村健臣一佐ですか?」
「知っているか?」
愚問だ。潜水艦娘という新たな艦種の設立を初めとし、とかく現場第一主義の、前線に出ている私たちからすれば神様のような存在。
同時にその辣腕によって追い落とされた者も多いらしい、とは風の噂で耳にしたことがある。そうでなければ権威主義の気が強い、旧態依然の上層部とは真っ向に渡り合えないのかもしれないが。
国村一佐であれば、なるほど確かに、CSARの導入を試みようとするのも道理であるような気がした。
「いま後藤田提督が仰ったように、提督自身は空軍からの出向です。ポーラとグラーフは同盟国からの協力。大淀は海軍のお目付け役。不知火と大鷹は……生き残りです。他に行くあてもなかったもので。
山城さん、あなたは新しい土地で暮らすことができます。選択肢があるというのは大事なことです。不知火たちにはありませんでした。どうかお幸せに生きてください」
幸せに。
楽に、生きる。
うそだ。と喉元まででかかっているのに、さらに先へと向かってくれない。
空中を二度叩けばバーチャルウインドウが立ち上がるだろう。設定→端末情報→識別番号と階層を進めば、そこには私の鎮首府の基地コードの主番と枝番が記載されているはずだ。
私の鎮首府の主番は27、枝番は7。そうだ、それを確認するだけでいい。そうすればこのひとたちの言っていることがたちの悪い冗談で、私の帰るべき故郷は、友人たちは、きちんと脳裏に思い描いた通りの岬にいることが明らかになる。
だのに。
私はどうしてそれをしないのだ。
――――――――――――
ここまで。
国村健臣は前作の主人公。今作はその2-3年後くらい? 出世街道まっしぐら。
結局私は自らの基地コードを確認することすらできなかった。それは私が彼らの言ったことを殆ど真実であると受け止めているということである。悔しいことに。
事実は理解とは無関係に存在している。自らに都合よく、甘やかしてくれる「理解」とは正反対に、やつは冷徹で手厳しい。こちらの意志も、希望も、お構いなしだ。
なんとか嗚咽が零れそうになるのを殺しつつ、「少し考えさせて」と、それだけを言うことができた。不知火が提督を向く。提督は全く不服そうに、「楽に生きるんじゃねぇのか」と漏らす。
あぁそうだ。先ほど彼が示してくれた道筋は、楽に生きることのできる平坦な人生なのだろう。きっとそこにだって小石は沢山あって、私はひとよりも少しばかり躓く回数が多いのかもしれないけれど、命の危険に晒されることはない。
それは私が願っていた人生のはずだ。
いつか、私の――私たちの人生に分厚くかかった曇天にも穴が空いて、太陽が顔をだし、暖かい光が包みこんでくれる。そうでなければ酷いではないか。そうであってほしい。
もしこれがそうなのだとしたら、なんて意地悪な神様もいたものだ。考えうる限り不味く調理されたフルコース、その前菜が厭味ったらしくテーブルに置かれている。ナプキン代わりの押し付けがまさとともに。
だが、喰わねば餓えて死ぬのは明白だった。味の良しあしなど関係なく、それしか食物がないのならば、否応などない。生きるためには。
なにがしたいのだろう、私は。少し考えさせてと言ったが、そもそも何を考えることがあるというのか。なんであんなことを言ったのか。
ならば死ぬか? お前らの言いなりにはならないと叫んで。まさか。前にも決めたではないか、命を粗末にすることはしないと。自棄になるには、まだ早い。
幸せに生きたかった。姉さまがいれば冷たい雨も熱い日差しもへいちゃらだった。どんな困難でも、二人ならば生きていけると思った。生きてきた。
孤独が肌を刺す。
こんな静寂には堪えられない。
だから、扉を銀髪の彼女が押し開けて、安物のスツールに座ったとき、私は正直ほっとさえした。喜びに涙さえ込み上げてきたのである。
「……」
グラーフの怜悧な瞳が活字を追っている。麻雀のデジタル理論についての本らしかった。
麻雀は苦手だ。まるで勝てないから。
「……」
「……」
互いに無言だった。このグラーフ、この部屋に何も言わずやってきて、おもむろに本を読みだし、微動だにしない。なんなのだ。
「……何か用があってきたんじゃあなくて?」
「そういうわけではない」
否定疑問文に否定で返されると一瞬混乱する。日本語特有の曖昧さ。
文法語法に厳格ときくドイツ語では、こんな意味の錯綜は起きないのだろうか? 聞いてみようとも思ったのだが、グラーフが案外真剣に麻雀の教本を読んでいるので、少し面喰ってしまう。
少なくとも賭け事に長じているようには見えないが。
「……不知火と?」
「大淀と提督も」
こちらを無視しているわけではさそうで一安心。コミュ障というよりは必要のない会話をしない主義? それともこちらの出方を窺っている?
「大淀が強いんですってね」
「聞いたか。不知火からか? だろうな。大淀は始末に負えない。この国には『勝てば官軍』ということわざがあると聞いた。まさにそれだ」
「ドイツにはないんですか」
「『まずい芋は食卓に並ばない』とは言うな。私は賊軍にもまずい芋にもなりたくはない。してやられるのも、そろそろおさらばだ」
背もたれさえないスツールに、優雅に脚を組んで座るその姿は、一本の筋がきちんと通っている。奇跡のようなプロポーション。
ポーラの可愛らしさが天の与えたもうた御使いのものだとするならば、グラーフのそれは人間が作り上げた芸術品に近い。すらりとした腕に足、鼻筋、きめ細かいプラチナブロンド、小さな顔と薄い唇。
「北海道で降りるのか?」
「……」
唐突にぶちこんできた。けれど本人にその自覚はないのか、教本から顔を上げさえしない。
「……そう言われました」
「あちらはまだ少し肌寒いからな。艦娘の感覚に慣れた今だと、大変かもしれないな」
「まだ艦娘です」
「そうか。そうだったな。解体作業はどこになるんだ? 神祇省直轄の神社だと、北海道神宮になるのか?」
「……わかりません」
いろいろな全てが。
「グラーフさんは何人くらい助けてきましたか? 不知火と大鷹が被救助者だという話は聞きました。私のように、艦娘を辞めて、新しい道へ歩んだコたちは、その……どれくらいいました? 彼女たちは元気でやれているんですか?」
「さぁ、すまんがわからないな。私の職務は人を助けることだ。救うことではない。命を拾って、返してやる。返された命をどう扱うかは範疇にない。人生までは拾ってやることはできん」
「……そうですか」
「冷たいか?」
「いえ、そんな」
「気にするな。言われ慣れている。私に言わせれば、手当たり次第に抱え込む人間のほうが信用ならんよ。随分と後藤田の薫陶を受けてしまったようで、少々困りものだが」
「後藤田提督の?」
「ふふふっ。あぁ、いや、なに、すまん。忘れてくれ。なんとも恥ずかしいな」
「?」
グラーフはキャップの目庇を深く傾けて、目を隠す。頬が赤らんでいるように見えた。
ぱたん。本が彼女の手の中で閉じられる。
「ヒトに戻ることに不安が?」
「……」
それは恐らく間違いだった。私は私のことさえわからない前後不覚に陥っているけれど、それでも、胸中渦巻く黒い靄の源が、言ってしまえば単なる転職に起因するものとは到底思えなかったのだ。
楽に生きたいと、後藤田提督に言ったのは嘘ではない。ただ、こんなふうに、人生を終わりに向かわせるのもまた違う。
グラーフはこちらの無言をどうとったのか、ふ、と笑う。
「わからないことに悩むのは有意義とは言い難い。そうじゃないか? 非生産的だな。我々に備わった論理的思考力をどぶに捨てているようなものだろう。
ただ、なあなあの論理思考ではだめだ。全力で想定する。ありとあらゆる可能性を考えた上で、最も有りうべき未来にベットする。的中率六割なら上出来だろう」
適当に棒を倒すよりもいいんだから、とグラーフ。
「四割が来たら?」
不幸なるこの身では、答えなどあらかじめわかりきっているようなものだ。
「運が悪かったなと笑えばいいさ」
人事を尽くして天命を待て、ということか。
……なるほど。
なんとなく、なんとなくだが、わかった気がする。
言語化にまでは至らないほどの仄小さなあかりが、いま、確かに、灯った。
「……ん」
勢いよくグラーフが立ち上がった。膝の上から本が床に落ちるが、彼女はそんなことお構いなし、一目散に駆ける。
「え、なっ! どうしたんですか!」
「召集だ」
私のところには何も――いや、私は最早無所属、どこの通信網からも漏れている。きっと母艦「しおさい」に構築された基地ネットワークで、彼女たちにしか届いていない。
グラーフの発した言葉は端的で、ゆえに全貌の把握が容易だというのはなんとも不思議な話である。時間的猶予がないこと。彼女たちの任務。
即ち、CSAR。
「待ってください」
「なんだ」
息を吸う。吐く。
心は平静だ。驚くほどに、澄み切っている。
「私も出ます。出させてください」
――――――――――
ここまで
「だめだ」
後藤田提督は即答した。逡巡さえするそぶりなく――まるで私がそう言いだすことを知っていたかのような。
グラーフ、彼女はわかっていた? だから何も言わずに私を提督のもとへと連れてきた?
なぜ、どうしてと問い質したかった。けれど自らの愚行を自制できるくらいの良識は、私にだってある。刻一刻を争うCSARは、勝利条件を変えた戦争の一形態でしかない。貴重な時間を奪ってはならない。
甲板には出撃の準備を済ませた五人が並んでいる。あとは彼の号令ひとつで、彼女たちは海上へと躍り出るだろう。
「だぁから嫌な予感はしてたんだ。クソ。
大淀ォ!」
「はい」
「現場の指揮はてめぇに一任する。海図は共有済み、ただし仔細は不明。敵戦力については救助対象の小隊、その視覚情報があるものの、判然としねぇ」
「人命最優先で?」
「当たり前だ。掃討なんざ海の奴らにやらせとけ。捜索範囲は広げていい。敵のあいだを縫ってでも走れ」
「ラジャ」
「救助対象の作戦行動は機密保持の観点から教えられねぇときた。どうにもきなくせぇが、バニシング・ポイントからの足取りが掴めねぇのがまた厄介だ。注意してかかれ。生きて帰ってこい」
「ロストバゲージは」
「無視しろ。どうせ大した荷物なんか持ってねぇ」
「行動限界設定しますか?」
「三時間……いや、二時間半。深海棲艦の密度によって適宜修正を行う。全員時計をあわせろ。ヒトロクニィハチ」
「ヒトロクニィハチ! 合わせました!」
「よし。可及的速やかに遂行しろ。作戦開始」
「ラジャ!」
我先にと五人が海へと飛び出した。慌てることなく波の上に乗り、白い波濤をかき分けながら、見る見るうちに波のまにまに姿を消していく。
後藤田提督は五人が視界から消えても、水平線の向こうをしばらく見やっていた。強く吹き付け、髪を――それ以上に心をかき乱す海風に、帽子を持っていかれまいと軽く押さえている。
私も彼の視線を追う。とっくに消えてしまった五人の姿を、けれど彼にはいまだに見えているのだろうと想像できた。確かな絆が確かにあった。
「それで」
感傷などまるでなかったふうにこちらを向く。
「なんだって? 海に出たい?」
「……はい」
「一応確認しておくが、それはつまり、てめぇが俺たちと一緒に、肩を並べて、CSARの任務に携わりたいと――そう言っているわけか?」
「はい」
提督は私の言葉を受けてくつくつと笑った。勘弁してくれと言っているように見えた。
壁を這う配管の束に腰かけ、ぎらり、傷だらけの顔で私を値踏みしている。
「だめだな」
「なんでですか」
問いながらも、理由はいくらでも考えられた。
知らない人間と歩調を合わせることは難しい。隊列を乱すことはできない。況や戦場ではなおさらだろう。無論、初対面の人間とでも滞りなく作戦を遂行する能力が、兵隊には必要だ。ただそれは互いの中に共通了解や行動規則が存在してのことである。
そして私は所詮厄介者で、海軍から艦籍を剥奪されたつまはじき。不知火や大鷹もそうだったというが、私には少なくとも道が、これから生きる術が用意されている。わざわざ艦娘を続ける必要は、表面上は、ない。OKを出す理由は薄い。
身体面での不安もあった。立って歩けるとはいっても負傷兵である。治ったばかり、という表現を使うにはあまりにもダメージが残りすぎている。能力差は歴然としているに違いない。
ショックはなかった。それはそうだろう、とどこか冷静な自分がいるというのが本音である。
あまりに急な申し出がそもそも受け入れられるはずないのだ。即座に海へ救助へと向かわなければならないときに、私の妄言など異物以下。逆に二つ返事をもらえたほうが困惑してしまう。
が、だからこそ、交渉の余地がそこにはある。だめなのは当然だ。ならば「どうすれば」私はいいのか。
相手の口から答えを言わせるのは基本である。
しかし、帰ってきた答えは、予想していたいずれとも異なっていた。
「俺は今日を生きようとしねぇやつを隊には組み込まないようにしている」
「今日?」
「山城、てめぇ、死ぬつもりじゃあるめぇな」
「……」
少考してのち、提督の疑問はもっともだと思った。同時に彼の内に秘めた優しさが垣間見られる。それは矜持でもある。彼らの任務は人を助けることで、そこを自殺の場に使われたとなれば、憤慨もするだろう。
あるいは私が初めてではないのかもしれない。それは何ともあり得る話だった。事実として大鷹と不知火が救助後に籍を置いているのだし、全てを失い自棄になって、せめて最期は何かに一矢報いてやろうと、海へ駆け出した艦娘もいたのかも。
「ははっ」
私は笑った。意識的に、自らの意志で、力を籠めて、笑ってやった。
そんな馬鹿なことを言わないでくださいよと。
「命を粗末にはしません。沈んでいった姉さまたちに申し訳が立ちませんから」
「ならどうしてそんなことを言いだす。陸にあがれると言ったろう。新天地で新しい職を斡旋してやるとも。不満か。なにが不満だ」
「苦しく死ぬか、楽に生きるか」
提督が言った言葉を私は反芻してみる。あぁ、やはりそうだ。そうに違いない。嘗て、私以前に、私みたいなことを言いだした誰かがいたのだ。それはもしかしたら不知火や大鷹であったかもしれない。
でなければ、「苦しく死ぬ」だなんて選択肢は出てこないだろう。陸にあがるのが「楽に生きる」ことだとすれば、じゃあ、彼の言う「苦しく死ぬ」とはどんな人生のことを指している?
……軍に、戦いの中に身を置くことだ。復讐や、恨み憎しみや、そういった嫌な感情の中に身を沈めて生きることだ。
「だぁから嫌な予感はしてたんだよ。クソ」
吐き捨てるように、本日二度目の言葉。
「てめぇのことも気にせずに、『仲間を助けて』だなんて言うやつは、どいつもこいつもそんなことを言いやがる」
「?」
なんのことだ?
「どちらにせよ、繰り返しになるが、俺は今日を生きようとしねぇやつを隊には組み込まない。わかるか」
「……理解した、とは、言い難いわね」
「生きて帰ってこいっつーな話だ」
後藤田提督は胸ポケットから煙草の箱を取り出した。くしゃくしゃに潰れた、その最後に残った一本を、大事そうに口に咥えて火をつける。
大きく吸い、紫煙とともに深々とした溜息。
「こんなやくざな商売だ。勿論大義はある。もしかしたら、深海棲艦相手にドンパチやるよりも世間様からは称賛されるかもしれねぇな。だが、その大義やら称賛に呑まれて死んだやつらを俺は何人も見てきた。
死ぬくらいなら助けるな。生きてこそだ。過去の償いだとか、理想とする未来像だとか、そのために死ににいくやつを、俺は海には出さん」
「救助部隊なのに?」
「だからこそだよ、嬢ちゃん。俺たちゃ人を助ける。今日も、明日も、明後日も。今日死ぬってことは、明日以降の要救助者を見殺しにするっつーことだ。明日のために生きるってことは、今日を疎かにするっつーことだ。違うか」
間違っているか、否か。提督は私にそう問うたけれど、正誤を判断できるほどには私は賢くはなかった。人として立派でもなかった。
ただ、彼が単なる思い付きでそんな言葉を口にしているのではないであろうことは、考えるまでもなく明白だ。きっとそう言えるまでに、様々な葛藤や呻吟があったのだろう――だなんて感想は上から目線にすぎるかもしれない。
「不知火も大鷹も俺たちが助けた。それは聞いてるな? だから、嬢ちゃん、てめぇを仲間にすることに問題があるわけじゃねぇ。制度的には。こちとら国村一佐の肝入りさ、大抵のことは現場裁量でお目こぼしされている。
だから、問題があるとしたら、それはてめぇの問題なのさ。なぜ海に出る」
苦しく死ぬか、楽に生きるか。
「どうして楽に生きようとしない」
「……」
射抜くような視線に晒されて、私は自らの心、芯がひりつく錯覚に陥る。
なぜ。どうして。
艦娘なんかこれきりやめてしまって、北国の小さな会社で事務仕事をしつつ、旦那と子供に囲まれる生活があったっていい。それはとても魅力的に思えた。過去の私からしてみれば、望外の幸せな……。
「復讐か。姉や友人を殺した深海棲艦が、切り捨てた上層部が、憎いか」
憎い? 憎い……そう。そう尋ねられれば、首を縦に振るしかない。
けれど違う。
「違うわ」
私は、
胸の内が燃えている。
ひりついていたのは視線に晒されていたから? それとも、炎に炙られていたから?
「私は、このままでは終われないと思ったの」
―――――――――――
ここまで
「そもそもてめぇはまだ終わってない。これから始まるんだ。これから」
後藤田提督は言う。それは、私には、これから北国での新しい人生が待っていることを指しているのだろう。
そうかもしれない。確かにそうだ。だからこそ私は「終われない」という表現を使っているのである。私と提督の認識は殆ど同一で、唯一そこだけが異なっている。
姉さまはいつも儚い笑みを浮かべていた。不幸な人生に疲れ切った、気を抜けばぽとりと地に落ちてしまいそうな、満開の椿にも似た笑み。私にはわかる、あれは諦念なのだ。諦めてしまえば、受け流してしまえば、どんな境遇も辛くはないのだという。
泣きたくなる処世術。私はそのたびに姉さまの手を無言のうちに握って、「ちょっと山城、手が、手が痛いわ」だなんて言われても聞き入れなかった。
死の間際、あのひとは何を考えていたのだろう。やはり儚い笑みを浮かべながら、あぁ不幸だわ、なんて思っていたのだろうか。諦念のうちに、深海へと沈んでいったのだろうか。
私には、それはできそうにない。
このままでは終われない。
「このままでは新しく始めることさえできません。
私の知らないところで私の人生を決められて、導かれるままについていく……それは敗北だわ。まったき負け犬の姿。私が私自身の不幸に負けた、そんなことを認めるわけにはいかないの。いかないのです」
敗北が恥なのではない。敗走が恥なのでもない。戦わなかったことが恥なのだ。
「そっちか」
ふうぅ、と提督が煙を吐く。ポケットから取り出した携帯灰皿に先端を擦り付ける。
「怒りだな。てめぇは怒っているわけだ。なるほどな。クソッ」
怒り。そう言われて、その言葉はしっくりように感じられた。きっと私はこれまでずっとこの身の境遇や不幸に対して怒りを覚えてきたし、これからも怒り続けていくのだろう。
この世に神様はいる。なにより艦娘であるこの身にこそ、艦船の神は宿っているのだから、私を――私たちを不幸に貶めている酷い神だっているに違いない。艦娘を辞めるということは、そんな腹立たしいやつに首を垂れることに等しいのだ。
業腹だわ。あぁ、なんて業腹!
「私はこの身の不幸を乗り越えて、人間としての尊厳を回復しなければいけない。与えられる運命をただ座して待つような女じゃあないの」
不幸のままに幸せを掴みとらなければならない。
「お願いよ。お願いします。私をあなたたちの仲間にしてください。陸に降りて、新しい人生を歩むのは、勿論眩しいくらいに魅力的だけれど……私には、まだ早い。まだ私は自分の足で立てていない。立ちたいの。口を開けて、餌が流れてくるのを待つような、そんな生き方はしたくないのよ」
「……」
「……」
「……」
眼を細めたり、開いたりして、私を窺う後藤田提督。陽光に眩惑されているわけではない。こちらを値踏みしているのだ。
「山城一等海士」
「はい」
野太い声が私の名を呼ぶ。
「艦種は戦艦か」
「はい」
「歴は?」
「二年と僅かです」
「具体的に」
「二年と……二か月」
「そうか。見ろ」
立ち上がり、空中が二度叩かれると、バーチャル・ディスプレイが現れた。数度ポップアップに触れて、複数の画面が映像に変わる。
一面の青――海の色。水飛沫。
すぐにわかった。これはあの五人が見ている景色と同期しているのだ。
既に彼女たちは接敵、交戦していた。ヲ級を筆頭に、重巡、軽巡、駆逐の群れ。
不知火が魚雷を発射しながら、追随するように速度を上げる。ポーラの火砲が軽巡の頭を正確に打ち抜き、行動停止に。その隙間を不知火は駆け抜けて、一閃、駆逐を吹き飛ばす。
孤立した不知火を追うイ級たちを、大鷹の放った戦闘機がきっちり仕留めていく。ヲ級も杖を振るい、丸い悪鬼の群れを召喚したが、大淀とグラーフが既に立ちふさがっていた。
「……凄い」
思わず見入ってしまう。
不知火の機動はまさに機に敏く、一瞬の判断と行動の正確性が尋常ではない。砲撃。殲滅。離脱。三つの動作をワンセットで繰り返す機械のようだ。
そうやってかき乱した敵群の隙を衝き、まとめて吹き飛ばすのはポーラの役目。天使のような笑顔で瞳孔だけが開き切り、瞬きの暇さえ惜しいとばかりに、絶え間ない砲撃で打尽にしていく。
グラーフはヲ級と物量でぶつかりあっている。腰に結わえられたポーチからカードを数枚ずつ取り出し、消耗の度合い、空中戦での優劣、弾幕の濃淡を見ながら、適宜艤装のホルダーへと差し込み実体化、射出していく。
対して大鷹は質と精密性で攻めていた。驟雨のような弾幕、蝗害さながらに黒く染まった空、その間を十機の戦闘機が最高速度のままに駆け抜けて、一目散に敵を目指す。十本の指でそれぞれを立体的に操るその手腕は、人間業ではない。
そして戦場の全てを操っているのが大淀そのひと。味方四人に指示を出しながら、自らも最適な場所へと位置どることで、敵すらも含めた全体の配置、誰と誰が戦うのかさえコントロールしていた。
五人は敵群に壊滅的な打撃を速やかに叩き込み、最早脅威ではないことが明白になると、即座に転回して救助者の捜索へと舵を切る。
「あいつらについていける自信はあるか」
「あります」
即答。
嘘だ。本当は、少しだけ、慄いている。
だけどそれでも。
「私は負けない」
誰にだって。
どんな不幸にだって。
「……どちらにせよ」
ため息をつく後藤田提督。
「北大付属病院で精密検査は受けてもらうぞ」
「それって……」
「そこまで言われて断る理由もねぇからな。その代わり、きちんと戦力になってもらう。不甲斐ないザマ見せるようなら、即座に陸へ上がってもらうからな」
「ありがとう」
「礼を言われるほどじゃあねぇよ。
……後藤田一だ。階級は少尉。これからよろしく頼むぜ、嬢ちゃん」
「山城よ。階級は一等海士。こちらこそ、よろしくお願いするわ」
嬢ちゃん、と呼ばれるほどの年齢でないことは黙っておくとして。
私はそれから交戦規定や契約書類、または過去の戦闘記録などをどっさりと渡された。まだ体は本調子ではない。海は出られるが、連携の訓練などもしていないのに、すぐ任務に就けとは後藤田提督も言わない。
少なくとも精密検査が済むまでは彼ら、CSAR「浜松泊地」のルールや戦術を学ぶことこそが、私にできる精一杯の努力だろう。
それから三時間後、帰還した五人はひとりの救助者を担ぎ上げていたが、彼女たちの顔は重苦しかった。
「……」
帰還中に息を引き取ったのだという。
「……」
遺体は水葬とした。弔砲を大淀が撃つのを、私は遠巻きに見ている。
彼女たちの手際は随分とよい。
不幸だわ、と姉さまが言う。
怒りの炎がちりり、胸を焦がした。
――――――――――――
ここまで
誰一人として泣いていなかった。泣いてなぞいなかった。
泣いていないだけではあった。
私はCTスキャンの中でじっとしながら、最近はことあるごとにあの日の、あのときのことばかり考えているような気がして、身震いをする。秋の早朝のような寒気が体の内と外を取り巻いている。
そういうものだ、と知った口を利くのは簡単だった。大罪でもあった。
世の中に不幸は蔓延っていて、成せずに潰えた成すべきことのなんと多いことか。そんならしくもないことを考えるたびに脳裏によぎる光景――前へ前へと進むたびに一層強く吹き付ける北風。岸まで押し戻そうとする海流。
知った口を利こう。そういうものだと。
CSARはそういうものだし、私の人生はそういうものだし、そもそも全てにおいてそういうものだ。
だから麻痺する。慣れる。いつしか涙は出なくなり、へいちゃらな顔をしてその脚で映画だって見に行ける。「真実の愛」をCMで連呼していたフランス映画。きっとあの恋人たちも、いつかは別れる。
怒り。
後藤田提督は私が怒っているのだと言った。その表現は腑に落ちて、もし真実だとするのならば、きっと私は諦めが悪いのだろう。諦めの全てを姉さまに吸い取られてしまったのだろう。だからこうも怒れる。
この世に蔓延る不幸の数々に我慢がならない。
大丈夫ですか? どこか痛みますか? 看護師が私の顔を見て、心配そうに言った。無意識のうちに顔を顰めてしまっていたかもしれない。かぶりを振って、大丈夫ですと答える。
検査結果は数日のうちに出るそうだ。異常は無自覚だけれど、無自覚な異常のほうが恐ろしい。
病院を出ると大淀がベンチに座っていた。紙パックのフルーツ牛乳を、凹ませたり膨らませたりしている。随分と暇を持て余している御様子。
「終わりました? どうでした、検査」
大淀は近くにあった屑籠へと紙パックを投げた。シュート、と呟きながらの投擲は、きれいな放物線を描き、しかし外れる。首をかしげながらてくてく歩いていって、結局自分の手で叩き込んだ。
「窮屈だったわ。身動きもあまりとれなかったから」
「そうですか。体の調子はどうです? 生活に支障なくとも、本調子ではないですか?」
「そうね。でも、こればかりはどうにもね。動かなければ動かないで、余計鈍ってしまいそうだし……」
手を握り、開く。問題はない。肩も、肘も、膝も、足首も。ただ、ときたま大きく呼吸をすると、咽てしまうことがあった。
「これからどうしますか? 予定していた時間までは少しあります。札幌駅や狸小路やらで時間を潰すのはありですが」
「出発は、明後日、だったかしら」
「はい。現在、母艦『しおさい』は室蘭から函館に移動しています。札幌からは電車で三時間といったところでしょうか。生活必需品を揃えるよう、後藤田提督からは仰せつかってます。あ、勿論経費で落ちますんで、ご心配なく」
大淀は眼鏡のブリッジを中指であげた。出処の不明な自信が顔面に貼りついていた。
「買い物は最後にするわ。重たい荷物を持っての移動は避けたいし」
そもそも、物欲は少ない方だ。幼少のころから欲しいものが手に入ることは稀だった。私も姉さまも、暇を紛らわすのはもっぱらふたり遊びで。
と、ぐうぅ、大淀の腹が鳴った。盛大に。
彼女は誤魔化さずに、寧ろ破顔一笑して、「なら、早めの昼食と洒落込みましょう」と言ってのける。私の手をとって辺りを見回し、適当なファミレスを見つけると、ずんずんと進んでいく。
「ここは私の奢りです。なんでもどうぞ」
「そんな、悪いわ」
「いえいえ。新しい仲間に、乾杯というやつで」
仲間。耳がこそばゆくなる響き。
顔が熱い。大淀の顔を直視しづらくなって――恥ずかしい台詞を容易く言ってのける彼女のせいでもあるし、自らの赤い頬のせいでもある――私はメニューへ目を落とした。
「なら話が早い。国村一佐はガチガチの現場主義者ではありますが、かといって彼の独断専行を許さない派閥も確かに存在しています。空軍に手を借りるなんてもってのほかだ、なんて輩も。
そこで私の出番というわけです。艦娘という存在が、決して海軍の手から離れないように、空軍の手に渡らないように、目を見張らせろと……眼鏡を光らせろと」
くふ、と大淀はまたも笑う。
「……それを公言しても大丈夫なの?」
話を聞く限り、スパイというか、空軍である後藤田提督たちとは相反する立場のようだけれど。
「海軍の目論見は当然ですよねぇ。だから空軍も、後藤田提督も、当然それくらいはしてくるだろうと思っています。その時点で私の役目なんて終わったようなもんです。
そして上のやつらは、少し目が悪い」
眼鏡のブリッジを中指で上げる。癖なのだろうか。
「人選ミスですよ。私なんか」
口を水で湿らせて、大淀。
「上層部に与したところで給料がちょろっと上がるだけじゃないですか。特別褒賞が出て、徽章を貰って? はっ! ばからしい。いらねーって話ですよ。いや、落ちてる金は拾う主義ですけどね。
いいじゃないですか、CSAR。私はその理念に、主義主張に、ひどく共感を覚えています。後藤田提督は一癖以上あるとはいえ有能です。派閥争いでぽしゃらせるには、少しばかり惜しさが勝る」
「裏切ったということ?」
なんという胆力だろうか。
私のそんな、呆気にとられた質問に、大淀は本日何度目かわからない莞爾とした笑いを作る。
「あはっ! 人聞きの悪いことを言いますね! ちょっとだけ、ほんのちょーっとだけ、この軽巡大淀、上層部の期待外れに無能だったというだけのお話です」
と、そこで食事が運ばれてくる。和膳定食とハンバーグ。肉汁が鉄板に炙られる芳しい香りが一気に充満し、ともなって私も自らの空腹を自覚する。
箸、ナイフとフォークをそれぞれ手に取って、目の前の食事に集中する。
大淀が肉を一口大に切っていく。ちょうどいいミディアムレア。薄く桃色の内部からは、切ったそばから肉汁が溢れ、照明を反射しててらてら光っている。
フォークでそのうち一つを刺して、口へと運んだ。そのまままるっと一口で。
「それに、思いませんか?」
眼鏡の奥の瞳は笑っているが、獰猛の色が隠せていない。
「人が死んだら、寝覚めも悪い。食事の味も感じない」
「……」
豚の生姜焼きを口に運ぶ。甘辛い。鼻へと通る生姜の爽やかさ。五穀米の風味とバラエティに富んだ触感が心地よい。
きっとそれは、私が死を乗り越えつつあるということなのだ。大淀の言葉が正しいとするのならば。
――――――――――――――
ここまで
長らく付き合ってくださっている方々はご存知かもしれませんが、設定厨なので、
こういうだらだら設定を開陳しているだけの話が好きです。
ちなみにストリーの目途はついていません。のんびりお付き合いくださいませ。
おつ
潜水艦から見てる
>>121
ありがとうございます。今すぐにギャルゲーシリーズと単発作品も網羅しましょう。
「……」
紺色のスクール水着を身に着けた少女たちが、私たちの目の前に立っていた。一人の男を囲むように――護るように、一部の隙もなく。
その佇まいは一見すると傅く下女のようでさえあるのに、私は熱気にも似た空気の泥濘に囚われて、微動だにできない。手のひらが汗ばむがそれさえも拭えず
八畳か十畳かそれくらいの広さのレンタルオフィス。その男は安っぽい椅子に背を預け、さわやかな笑みを浮かべている。随分と美形で、広報官がどこかの芸能事務所から連れてきたと言えば信じてしまいそうになるくらいだが、けれどその笑みの奥底は知れない。
私たち「浜松泊地」のメンバーは、後藤田提督を先頭に、壁を背にして直立している。両足の踵をつけ、背筋をぴんと張り、間違っても不敬のないように。
「後藤田、元気か。調子はどうだ」
「可もなく不可もなく、と言ったところです」
恐らく後藤田提督の方が年齢は5、6も上だろう。ただし三尉と一佐、階級の差は歴然としている。空と海という管轄の違いはさして垣根の役割を為さない。
とはいえ、その関係性はどこか気軽さもあった。男は軽く提督へと話しかけるが、そこにはきちんとした敬意が払われているように感じられたし、提督も敬語で応じこそするけれど、あくまで形式的なものに過ぎない。
「また新しい艦娘を拾ったんだってな。その後ろの美人がそうか」
「てーとく」
側近のうちの一人、桃色の髪の少女がじろり、睨みつけた。男は喉の奥で笑う。
「悪い悪い、怒るなよゴーヤ。冗談だ」
「ったく」
眼鏡の少女が額を抑える。桃色の少女が腕を組む。瞳に星の散った少女があくびを噛み殺す。紅色の少女が大きく嘆息。
その一連のやり取りは、きっと五人の間でのみ通じる符丁のような何かだったのだろう。わたしと姉さまが目配せで意図を伝え合っていたように、そうやって五人は互いの絆を確かめ合っているのだ、そんな気がした。
彼女たち全員の薬指には指輪が輝いている。
「ま、新入りに話があるのは本当だ。おれは国村。国村健臣。名前くらいは聞いたことあるだろう? ……というのは少し自信過剰にすぎるか」
反応していいものだろうか? 周囲を窺うと、後藤田提督から大淀、大鷹まで、みんなが私を見ていた。
唾を呑みこんで、半歩前に出る。
「いえ、お名前だけなら何度も」
「そうか。おれも随分と有名になったもんだな」
「有名税もだいぶ払ってるでち」
「まぁそう言うなよ。たま……田中のおっさんの後釜ってだけで、敵が多くっていけねぇ」
「ちなみに、そこのコンセントんとこに盗聴器仕掛けられてたのね」
「やっぱりか。確認させといてよかったな」
「どうします? このレンタルオフィスの法人、裏とりますか?」
「どうせ小金もらった従業員の仕業でしょ。わかりっこないわよ」
「お前ら少し黙ってくれ。おれは『浜松泊地』に用があって、北海道まで来たんだ。
んで、新入り、CSARにはもう慣れたか?」
「いいえ、残念ながら、入って日が浅いので」
「いずれ嫌でも慣れる。それこそ『残念ながら』だが、おれは人遣いが荒い方なんだ。悪く思うなよ。おれのせいじゃない。おれに仕事のやり方を教えてくれた野郎のせいだ。
おっと、失礼。話が脱線したな。なに、難しい話じゃねえ。軽い説明なら後藤田やらお仲間からあったろうが、決して忘れて欲しくない本懐というものもあってな」
本懐。CSARの? それとももっと政治的ななにか?
わからない。この国村一佐という男の、それこそ本懐が読み取れない。真意を探ろうとしているうちに、気づけば手のひらの上で踊らされているのではないか、そんな疑念。いや、探ろうとする行為そのものが既に呼び水?
「勘違いしないで欲しいんだが、CSARは単なる救助作業じゃあない。勿論、誰かを救うことは名誉なことで、重要なことだ。だが、本懐はそこになく……つまりおれたちは、大人の都合で誰かが犠牲になるのを防ぎたいわけだ」
「……」
私は心の中でいま彼の言った言葉を反芻し、肚の中へと納めて、どうして後藤田提督と親密なのかを理解した。似たような言葉を、先日、私は甲板の上で聞いている。
大人の都合。犠牲。
このひとは、私がそうやって使い潰されそうになって、沈みかけ、拾われて、そうした紆余曲折の結果としてここに立っていることを知っているのだろうか? ……知っているのだろう。無根拠にそう感じた。同時に、それは随分とおかしな話であるようにも。
現場主義者の国村健臣。それはきっと彼にとっては都合が悪い立場のはずだ。わざわざ風上を向いて歩いているようなもの。何が楽しくて、あるいは何が楽しくなくて、そんな真似をしているのか。
「……っ!」
つい覗き込んでしまった彼の瞳の色を見て、背筋が凍りそうになる。
眼を逸らしてからしまったと息を呑む。けれど彼はにやり、意地の悪そうな笑みを浮かべるばかり。
「ゴーヤ」
「なぁに」
「『おれ』は狂っているか? 『俺』もまた狂ってんのかな?」
「たまにそーゆーわけわかんないことを言わないで欲しいでち」
「悪い悪い。んで、なぁ、新入り。他人のために頑張ってくれよ。自分のために頑張ると、人間、とかく手を抜きたがる生き物だ。理屈と膏薬はどこにでもつく。自分に言い訳をするのは簡単だからな」
「……善処します」
言って、疑問が浮かぶ。他人のために。誰のために?
私にはもう、そんな相手なぞどこにもいやしないというのに。
「んで、後藤田よぅ。目的の用事なんだが」
「はい」
「『イベント』の予兆が感知された。お前らにも当然出張ってもらうことになる。忙しくなるから覚悟しておいてくれ」
「イベント、ですか」
僅かな逡巡、思案の間を挟んで、後藤田提督。
「……眉唾だとばかり思ってましたが」
「深海棲艦が徒党を組んで襲ってくるだなんて、気軽に話せる内容じゃねえよ。ただでさえ色々うるせぇんだ。戦争をやめろだの、艦娘の労働環境がどうだの……敵と和解できないのか、だの。ひひひっ」
深海棲艦という存在、艦娘の在り方、敵対路線――どんなに最善を尽くそうと試みたところで、反対する派閥は必ず出てくる。それも同じ組織の中からではなく、市井の一般人の中から。
私たちは既に辟易し、耳を塞いでいるそれら外野の声を、さすがに上層部はまるきり無視はできないのだろう。少なくとも、「意見を参考にします」というポーズはとっておかなければならない。
そんな中でのイベント――私も後藤田提督ときもちは同じだ。まさか本当に、深海棲艦による統率のとれた襲撃があるだなんて。
「そんな顔をするんじゃねぇよ」
自分のことを言われたのかと思い、はっとする。しかしどうやら違ったようだ。というよりも……大淀にはじまり、大鷹、不知火、グラーフ、なんとポーラまで、信じがたいといった表情を浮かべている。後藤田提督だって。
もしかしたらこんな表情は見慣れているのかもしれない国村一佐は、酷く不愉快そうに笑った。
「散々、深海棲艦は意識も命もない化け物だ、なーんてのたまってきてたのに、今更混乱の種なんか蒔くわけにはいかねぇよ。信じられないか?」
「頷き難いのは事実ですが、そこを問うのが仕事ではないんで」
「大人の態度だな。ありがたい。
規模に関しては不明だが、予定では鎮首府一つ、泊地二つが合同で邀撃にあたる算段をつけている。お前ら『浜松泊地』には、通常通りの任務……つまり救難救護を頼みたい」
「敵の数、質、目的、全て不明ですか?」
「深海棲艦のことが明瞭になったことなんざ一度もねぇよ。そうだろう?
ただ、これは脅かすわけじゃあねぇが、最悪のパターンだと……トラック、聞いたことくらいはあるだろう」
「あぁ……」
ため息にも似た声を出す後藤田提督。わかる。私でさえも、その遠い南洋の泊地のことは、聞き及んでいる。
数年前に深海棲艦の襲撃にあって滅んだという泊地。まさかそれがイベントによるものだったなんて。
「詳細は秘匿回線で共有するが、あんまりのんびりもしてられんみたいだ。近々でブリーフィングも控えている」
「わかりました。しかし、秘匿回線を使うのなら、わざわざ北海道まで来る必要はなかったのでは?」
「あぁ? そりゃあお前、あれだよ」
どれだ?
「新人の顔も見たかったし、こういう重要な話は、最初だけでも対面しておくほうが後々いい方法に進みやすい。それに……」
国村一佐は周囲をちらり、見回す。何があるでもないというのに。
いや、違う。彼の周囲には少女たちがいる。手塩に育てたという噂の、はじまりの潜水艦、その四人が。
「こいつらが旅行に行きたいとうるっさくてきかねぇんだ」
―――――――――――――
ここまで
「……この仕事も難儀ですね」
「どうした、唐突だな」
「常に哲学は個人の頭の中に、ポン、渦巻いているらしいぞ」
「そもそも山城、お前、実戦まだじゃねぇか」
「しないに越したことはないでしょうリーチ」
「『しないに越したことはないでしょうリーチ』ってなんだ、淀の字」
「期待値的にはすべきだぞ。なぁ?」
「当然だグラ子。裏も乗るしな」
「いえ、まさにその通りで」
私は手元の牌に目を落とした。牌姿は正直にいってよくない。十順目を過ぎてなおリャンシャンテン……素直にベタオリが正道なのだろうが、現物は二つきり。どこまで安牌でしのげるか。
とりあえず現物だ。三萬を切る。
「チー」
すかさずグラーフからの鳴き。二風露目だ。迷わずの打八索は生牌で、聴牌気配が濃厚。もし和了されるとしてもグラーフのほうが傷は浅そうに思える。
「仕事がなくていいものなのかな、と思ったの。こんな」
対子の北を切る。声はあがらない。セーフ。
「船の中で麻雀なんかやって」
グラーフがツモり、手牌を倒す。タンヤオ、ドラ1。500・1000。
親っかぶりだ。連荘の目はなかったとはいえ、こうやってこつこつと削られるのが一番きつい。点数は17800でラス、トップは33500のグラーフ。満貫直撃で逆転圏内ではあるが。
「だけど、大淀の言うとおりなんだわ。『便りがないのがよい便り』というか……暇ということは、平和ということなのよね」
こんな、暇を持て余して麻雀に興じることができるくらいには、いまの私たちには余裕があった。自由もまたあった。
北海道を出立して幾日か経ったけれど、緊急の要請がかかることは一向になく、台風の接近による天候の不順も相まって、岩手のあたりで停泊を余儀なくされている。外に出たところで寂れた港があるばかり。必然的に引きこもらざるを得ない。
こうやってのんびりとしていられるのは仮初の平和に過ぎないのだろう。こうしている間にも、きっと、世界のどこかで誰かが苦しんでいる。泣いている。不幸な目に遭っている。この安寧は単なる無知に他ならないのだ。
だから、知覚できない以上は、この世界は平和なのである。麻雀に興じられる程度には。
そうなのだろうか? そうなのだろう。それは随分と利口な――「お利口さん」な判断のように思えてしまって仕方がない。
姉さまの、諦念に満ちた笑顔が、脳裏にちらつく。
誰かを救うために自らを犠牲にする必要はないと提督は言った。普く正しさを凝縮したような言葉。ただし、それは後藤田一という男の言葉ではないように感じた。あくまでCSARを預かる「後藤田提督」の言葉なのだと。
本心はなかったとしても、蓋し至言ではある。私だって誰かの身代わりになりたくて入隊を希望したのではない。
自分の手に余ることを望んでも零れ落ちていくばかり。それもまた後藤田提督が私に言ったことだ。過去や未来、あるいは期待や誇りを胸に抱き、人は死地へと飛び込んでいく。しかしできないことはできない。高潔な志は最後のひと踏ん張りを与えてくれるが、互いの力量差をひっくり返すほどではない。
拳を握りしめる。
不幸というこの困ったやつを、力いっぱい殴りつけたとして、玻璃のように砕けてくれるものか?
「山城」
声をかけられてはっとする。オーラス、一巡目。まだ私は手をあけてもいない。
「……これは」
十種十一牌。南、白、そして九筒だけが欠けている。ドラは發で、それが二枚。
最後にこんな爆弾を寄越してくれて。
倒して流したところでどうにもならない。どうせラスなのだから、前に出るしかない。
とはいえ聊か判断に困る。欲しいのはあくまで満貫直撃、あるいは倍満ツモ。役満は少しばかり贅沢に過ぎる。特に国士なんて警戒される可能性は高いのだ。
ドラの發が二枚あるのもまた難しい。早い順目で鳴ければドラ3狙いもできるが、この局面でドラが簡単に出るとは思えない。流局すればいいだけのグラーフは硬く打つはずだし、大淀も牌は絞る方だ。頼みの綱は提督だけ。
そしてドラ3を目指すのであれば、この牌姿は単なるゴミに等しい。混一を絡めても跳満止まり。
とりあえず、急かされるように二策を切る。
2着の大淀は28100点、3着の提督は20600点。大淀は5200出上がりでもだめだし、1000・2000ツモでもだめ。1300・2600以上がトップ条件。提督は満貫をツモれば2着には浮上できるものの、それは私も状況は同じで、苦しい勝負と言っていい。
さて、どうするか。こんなところで引いてきた――この半荘で初めての――赤五萬を憎々しげに眺めての逡巡。
この役満風な配牌は罠なのではないか? くそったれな神様が不幸な私に見せつけた偽りの甘露なのではないか? 国士無双は難しく、それならば満貫ツモ、あるいは大淀かグラーフからの出上がりを期待したほうが、まだ上がり目は有りそうな気がする。
その可能性を追求するならば、この赤五は重要だ。發が暗刻にならずともドラ2赤1で満貫がとれる。ダマテンにならないのは痛いが……。
「戦争の最中にも一過性の平和はあります。台風の眼のような」
大淀は手牌をかちゃかちゃと弄びながら、薄く笑う。
「戦いなどないほうがいいのは当たり前ですが、戦いなどないのが当たり前という認識は、極めて深刻な誤謬を我々に齎します。備えた上での平和なのです。平和の上に胡坐をかいて、備えないなどもってのほか」
「おう、淀の字、急にどうした」
「いえ、山城さんが随分悩んでいるみたいだったので」
「我々艦娘は、随分れっきとした備えだからな」
「えぇそうです、グラーフさん。我々自身が戦いから眼を背けるのは敵前逃亡に他なりません。致命的な……名誉を傷つける敗北です。負け犬と呼ばれてもおかしくはない」
「私は負け犬にはならないわ」
赤五を切る。僅かに三人の顔色が変わる。
私はやはり怒っているのだろう。ありとあらゆる、様々なことに。身の回りに普く不幸や、助けられなかった誰かや、これからまみえる戦火に包まれた海に。
生きることは辛いことの連続だった。ただ、それでも、辛いことに慣れたことは一度もなく、そして生きたくないなんて思ったことも一度たりとてない。負けてばかりの人生だが、人生と敗北を等号で結びつけるような人間ではない。
苦しく死ぬか、楽に生きるか。
後者を選ぶには、私は少し、不幸に過ぎた。
きっとこの怒りをぶつける矛先を探しているのだ。
頭上の拳を振り下ろし、勝ち取ってこその人生なのだ。
目指すは役満、国士無双。
ツモは進んでいく。河は二段目へと差し掛かり、山も半分近くが消えた。發は出ない。シャンテンも変わらない。發、東、一萬が対子の十種十三牌。残るは白、南、九筒。
「クソ、どうする……?」
提督が唸る。舌打ちをして、手牌をじっと眺め、そして一枚に手を懸けた。
「どうだっ」
發。
視線が吸い寄せられる。手が止まる――止まってしまう。まずい。大淀とグラーフがこちらを見る。ばれた。發が手元に二枚あること、そして何より、僅かな逡巡を。
発声を迷ったということは、まだ聴牌してないということである。役満の気配はそれだけで他家の動きを止める。が、それはこちらが聴牌している「かもしれない」からこそ作用する。
なんてことだ。自分で自分に怒りが向いた。この卓における私の脅威は消滅した!
ここぞとばかりに大淀が白、そしてグラーフも合わせての白。ドラ表示牌が白なので、あと一枚。
私のツモ――發。發! どうする? どうする!?
發ドラ3だと満貫止まり。混一、あるいは対々をまぜて跳満。だめだ、足りない。ツモってもグラーフは捲れない。二着で満足するか? できるのか?
指先が汗で滑る。
「私は負けない」
ツモ切り。あくまでゴールは決まっている。
勝ち負けとは結果だけで論ずることのできることではない。たとえ今負けていても、不幸の最中であったとしても、勝利を、幸福を希求しもがくこと、その姿勢、それこそがこの山城という女の道程に他ならない。
血を吐きながら、這いつくばって、無様に、みっともなく。
私は幸せを目指す。怒りに身を焼きながら前へと進んでやる。
「ツモ切りってことは、ひとまずこれで安心だな」
そう言って、提督の手から放たれたのは、無情な白。
ほっと弛緩した空気が流れる。これで私の役満の目は消えた。グラーフも、大淀も、私を意識から外そうとしている。蚊帳の外に置こうとしている。
許せない。
させるものか。
大淀が怪訝そうな目でこちらを窺っている。私の目に、闘志が宿っていることに気付いたのだろう。
私にはまだ道が残されていた。混老七対子、リーチ、ツモ、裏裏で倍満。目指すべきは勝利、勝利するにはそれしかない。
ツモ牌は北。これで四対子。残りのツモは九回。間に合うか?
大淀が聴牌気配。しかし点数が足りていないのか、あるいはこちらを警戒しているのか、特に動きはない。提督もツモが悪いのか先ほどからツモ切りを続けている。
グラーフは完全にベタオリに入っており、私たち三人の捨て牌から通りそうな牌をひたすら切り続けている。
残り七巡。ツモは中。
残り四巡。ツモは九策。
「っ!」
張った。混老七対子、待ちは西。山には、一枚。可能性はある。
「リーチ」
打、九筒。発声はない。
千点棒が小気味よい音を立てて卓へと転がる。
「クソ、だめだな」
提督は、恐らく対子落としなのだろうか? 三萬を切った。名実ともに降りたのだ。
「リーチですか」
大淀が言う。
「なら、足りますね。その三萬、ロンです」
断么九、一盃口、赤。5200。
「御無礼」
大淀は悪魔のような顔で笑った。
――――――――――――
ここまで
謎の麻雀回。
なんか、こう、艦娘たちの日常をだらだらと書いていきたい。
もうちょっと漫画とかが書けたらなぁ。
「だめだだめだ。大淀、ちっとは手加減しろよ、素寒貧だ」
「いいじゃないですか。たんまりもらってるんでしょう? 『上官殿』」
牌を倒しながら、後藤田提督は自らもまたカーペットの上に倒れた。その口調は投げやりと勝算が半分ずつで、大淀は上半身を彼へと僅かに寄せると、にんまり笑う。
グラーフがこれまでの点数をまとめている。大淀が独走状態でトップ。グラーフは小勝ちにとどまったが、チップの枚数は誰よりも多い。三位が後藤田提督、四位が私だが、チップを加味すればトントンと言ったところか。
私はとりあえず、誰かが崩してくれることを期待して万札を二枚出した。懐は痛いが、不思議な、不思議と、満足感があった。高揚感もまた。
もし誰も見ていなければ、私も後藤田提督のように空を仰いでいたかもしれない。
同じように万札をテーブルへと置き、彼は立ち上がる。
「余った分は呑みにでも使え」
「だめです」と、大淀。「賭け事での勝ち負けはきちんとしませんと。その上で、奢ってください」
「相変わらず細けぇやつだ。なら、戸棚の日本酒、四合瓶のほうな、あけちまってくれ。悪い酒じゃないんだが、少し甘口すぎたな」
「命令とあれば」
「んで、代わりと言っちゃなんだが、片付けは頼む。仕事からは逃げられんらしい」
こめかみを押さえて……恐らく通信が入っているのだろう。
私ですら気づいたそのしぐさ、大淀とグラーフが気づかないはずもなかった。一瞬で目の色が変わる。紫電が走る談話室の空気。踵を軽く浮かせ、号令ひとつで射出される火の玉のひとのかたちがそこにはある。
「落ち着け」
短く、後藤田提督はまずそれだけを言った。
「血に飢えた狼か、てめぇらは」
「必要とあらば」
即答の主はグラーフ。怜悧な彼女はいつもの毅然さをそのままに、顎を上げる。相手を真っ直ぐに射抜く。
「私たちにこの生き方を与えてくれたのは、他ならぬ提督、あなただろう」
「安心しろ、救難じゃあねぇ。事務仕事だ」
「急を要する事務仕事、ですか。プリントの提出期限が過ぎていましたか?」
笑う大淀は、その実笑っていない。グラーフも変わらず後藤田提督の機微を見逃すまいとしている。
「当たらずとも遠からず、だな。先週の予算審議で、うちの活動内容に指摘が入ったらしくてな」
「監査でも入るのか?」
「そういうわけじゃねぇが。ま、最近は少なくなってた縄張り争いだよ。海軍だけで十分だと、そういうことらしい。会敵回数と戦闘規模、負傷者の数、弾薬や油の消費……そりゃあ、失敗した作戦を除いて計上してんだ、当然だわな」
その声には怒りよりも呆れが強く浮かんでいたように思う。
よっこいせ。おじさん臭い掛け声で後藤田提督が腰を起こすと、釣られるようにグラーフも立ち上がった。
「データのまとめや資料作成くらいは手伝おう」
「悪いな、グラ子」
「なぁに。私たちは一蓮托生なのだ、そんな言葉など聞きたくないな。
それでももし提督、あなたに慮る気持ちがあるというのなら、今度酒でも奢ってくれればいい」
「はは。覚えておくさ」
「頼んだ。いい店を見つけたんだ」
そう言って二人は部屋を後にした。かつん、こつん、廊下に反響する二人分の足音。
「……」
「……」
「ねぇ」
零れた私の言葉を大淀は聞き逃さないでいてくれたようだった。すぐに「なんです?」と返ってくる。
「グラーフって」
「それ以上は、野暮ってもんですよ」
「いや、でも、あれで隠してるつもりなの?」
「えぇ、まぁ。本人的には?」
好意を。
私は見た。見てしまった。後ろに回した手、その指が、もじもじと乙女の喜びを示していたのを。
色恋とは縁遠い世界にいたせいか、私自身そういうのにとても疎いから、もしかしたら間違っているのは私のほうなのかもしれないけれど。……グラーフはいまにもスキップしていきそうに思えた。
年の差はかなり離れているが、それが大した障害になるようには見えない。なんなら「艦娘」というこの身のほうがよっぽどだろう。顔の好き嫌いは十人十色だから捨て置くとして、性格に関しては文句のつけようもない。
真っ直ぐな人は心地いいものだ。あの人はぶれずにこちらを想ってくれるし、こちらがぶれないことを知れば、尊重してくれもする。たった数週間、同じ船に乗っていただけの私でさえそうなのだ。グラーフ、彼女の心境やいかに。
「うふふぅ、いーいですよねぇ、あーゆーのぉ」
頬を赤く染めてポーラが立っていた。紅潮は、しかし、恋の話に現を抜かしているからではもちろんない。豊満な肢体に押し付けられたワインのボトルはそろそろ底が尽きそうだ。グラスさえ持っていない。まさか、喇叭?
私のそんな疑問へポーラは親切にマルをくれた。目の前で実演してみせて、壁へと背中を預ける。
「来たばっかりのころ、わぁ、もう、ずーっと、こう、こうだったんですからぁ」
眉を吊り上げてみせる。寡黙なしかめっ面。
「ドイツ軍人はみんなそうなんですかね? いや、軍人とはかくあるもの、なんでしょうか」
「そんなにひどかったの?」
「上司の命令はぁ、ぜったーい! なんでーす」
相変わらずふわふわほわほわした調子でポーラ。
「そんなのつまんないじゃないですかぁ? ねー? 山城さんもそう思いますよねーえ?」
私は大淀を見た。海軍のスパイを、同時に空軍の頼れる味方を。
選ぶことができる、というのは大切なことだ。そこには当然苦しみも併存している。選択に限らず、私たちの全ての行為には責任が伴い、痛みも生まれ、だからこそ踏み出す一歩が力強くなるのである。
大淀は選んだ。不知火と大鷹も、全てを失ってなお戦いに身を投じることを選んだ。ポーラは……。
「?」
ついに空になったボトルの底を天へと向け、数滴、舌の上へと落とす。
「……」
私だって、海の上に残ることを選んだ。選んだのだ。そう、私が。誰に強制されたわけでなく、他ならぬ自分自身で。
このまま負け続けるわけにはいかなかった。不幸せに甘んじるわけにはいかなかった。
幸せは勝ち取るものだ。少なくとも、私にとっては。勝ち取ってこそ。自らが手を伸ばし、掴んだものにこそ、至上の幸福が宿っている。だから私はいまここにいる。こうしている。生きている。
もしも全てが終わった暁には、私にも恋ができるだろうか? あのグラーフのように、姉さま以外の誰かのことを想って、澄み渡る笑顔を浮かべることができるだろうか?
あるいは、誰かの隣を歩きたいと、そう思えるときが来るのだろうか?
「だいじょーぶ、ですよぅ」
「……人の心を読まないでくれる?」
「ぜーんぶうまく行くんですから。そーゆーことにしときましょー。ね? だって、ヤじゃないですかぁ、肝臓のこと気にしてお酒飲むのって」
ボトルの口を一舐めして、うふふ、と笑う。
リズムを崩されている、と思った。まるでなんにも考えていないような彼女の、まるでなんでも見通しているような瞳が、どうにも恐ろしさを伴って私に飛沫を降らせているらしい。
大淀はやれやれといった調子で牌とマットを片付けにかかる。私も手伝おうとした矢先、卓の手前、結局テンパイ止まりだった逆転手が眼に入った。
これが未来の私である可能性は大いにあった。
―――――――――――――――
ここまで。リハビリ
頑張らなくても書けるようになりました(なります)
待て、次回。
波を切り、風を切って、船は悠々と進んでいた。私は甲板で行き先を見ている。何もない海原を。
平和な海だった。水平線の上に僅かな積雲が積み重なっているばかりで、空は遠近法によってその青さをどんどん薄めていく。
それは喜ばしいことだった。そのはずだった。医者や警察は暇であればあるほどいい。兵士もまた然り。だから、私がこうして甲板でのんびりしていられるということは、世の中が平和な証左でもある。
髪の毛が乱れる。風が体温を奪う。体がぶるりと震えたので、そろそろ頃合いか、踵を返して鉄扉を目指した。
体内で熱が渦巻いている気がした。
それは後藤田提督が言うには「怒り」なのだ。私は姉さまのように諦めを無駄に抱いては生きられない。胸に怒りを抱いて生きていて、深海棲艦も、海軍も、この世に普くありとあらゆる不幸も、とかく私を苛立たせる。
脚を向けた談話室では大鷹がノートに書き取りをしていた。離れたソファでは不知火が文庫本を読んでいる。
「どうしましたか? 誰かお探しで?」
活字から視線を逸らして不知火。私は小さく頭を振った。
「いえ。手持無沙汰で、どうもね」
後藤田提督の旗下に就き、「浜松泊地」の一員となって既に二週間ほどが経過したが、CSARとしての活動はその間に一度もなかった。
無論遊んでいたわけではない。細々と体の検査はあったし、そうでなくとも条約や作戦行動についての知見は得なければならなかった。彼女たち仲間と呼吸を合わせるための演習も何度も行った。
わかっている。戦いの最中に何ができるかは、戦いの前に何をしてきたかに大きく左右されうる。実戦にすぐに出たがるのは新参兵にはありがちで、ゆえに彼らはすぐに死ぬ。そして私はとっくに新参を過ぎてしまっている。
心臓が大きく脈を打った気がした。
血潮の熱さが体表にまで伝わっている錯覚。
いや、あるいは、錯覚ではないのかも。
「そうですか。本ならいくらか貸せますが」
「大丈夫、気持ちだけありがたく受け取っておくわ」
不知火はちぃとも気を害した様子を見せず、また「そうですか」とだけ呟き、活字へと目を戻す。
大鷹のほうは勉強のようだった。艦娘の就学形態は様々だ。大きな港湾に拠点があるのならそこから直接学校に通うこともできる。そうでなくとも、中規模以上の鎮首府であれば、サテライト授業は大抵どこでも完備している。
ここは船の上だからまず間違いなく後者だろう。宿題か、予習か。どちらにせよ微笑ましいことだ。
『あぁ、もしもし』
後藤田提督の声が脳内に響く。それは私だけではなかったようで、不知火も、大鷹も、電撃が走ったように立ち上がった。
『客だ。後部第一甲板、緊急の梯子に取り付いている』
客? 客だって?
ここは海の上なのだけれど。
……というか、取り付いている?
え?
一瞬敵襲かとも思ったが、それにしては後藤田提督の声に緊迫感がない。不知火と大鷹も、当意即妙といったふうでぱたぱた部屋の外へと駆け出していく。
「あ、あのっ。山城さんもっ」
大鷹が振り返って声をかけてきた。
「集合です、全員集合! あの、そういう決まりになってます!」
「わかったけど……どういうこと? 客って、誰? ここは海の上でしょう?」
「そんなの関係ないです。だってわたしたちは、ほらっ、艦娘ですからっ。
青葉さんが、あの、わかりますか? 『艦娘通信』の、青葉海士長が来てくれたんですよっ!」
艦娘通信。
私は当然その単語に訊き覚えがあった。というよりも、艦娘をやっている人間で知らないのなら、そいつは間違いなくモグリだろう。
広報課が発行する無味無臭な、ともすれば戦意高揚のためだけのビラとは異なる、血の通った広報新聞。日本中を縦横無尽に駆け回り、南はトラック、北は小樽まで、手当たり次第に記事にしていく……。
なるほど、そう考えれば新たに発足したCSARへの取材なんてぴったりではないか。空軍と海軍、その微妙な関係のはざまで広報課が仕事をしないのならば、万雷の拍手ととともに取材へとやってくるのはさもありなん。
艦娘、青葉。
薄い紫色を基調とした彼女は、首からぶら下げた威圧感のある一眼レフ、そして年季の入った肩掛け鞄といった軽装で、よいしょ、梯子を上り終えた。
足元が濡れている。まさかと思ったが、航行している状態からそのまま飛びついたらしい。なんて超人技だ。
艦娘通信。
私は当然その単語に訊き覚えがあった。というよりも、艦娘をやっている人間で知らないのなら、そいつは間違いなくモグリだろう。
広報課が発行する無味無臭な、ともすれば戦意高揚のためだけのビラとは異なる、血の通った広報新聞。日本中を縦横無尽に駆け回り、南はトラック、北は小樽まで、手当たり次第に記事にしていく……。
なるほど、そう考えれば新たに発足したCSARへの取材なんてぴったりではないか。空軍と海軍、その微妙な関係のはざまで広報課が仕事をしないのならば、万雷の拍手ととともに取材へとやってくるのはさもありなん。
艦娘、青葉。
薄い紫色を基調とした彼女は、首からぶら下げた威圧感のある一眼レフ、そして年季の入った肩掛け鞄といった軽装で、よいしょ、梯子を上り終えた。
足元が濡れている。まさかと思ったが、航行している状態からそのまま飛びついたらしい。なんて超人技だ。
既に私と大鷹以外が整列していた。対面するように後藤田提督。その後ろに、大淀、グラーフ、ポーラ、不知火。なんとポーラは酒瓶を抱えていない。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて並ぶ。踵をつけ、爪先の開きは三十度。
「国村さんから話は聞いている。ありがとう。よく来てくれた」
国村一佐が?
いや、それもまた納得のいく話ではある。CSARの根回しをしたいのならば、政治的なレベルと同じように、現場のレベルにも悉皆周知しておくのは合理的だ。
ようは既成事実を作ってしまえばいい。既に深く根ざしてしまったシステムを消失させるのは並大抵のことでは済まない。属人的な存在から脱するには、広報がもっとも手っ取り早い。
「いえ。こちらこそ、国村一佐の新たな試み、それを独自に取材できるのは喜ばしいことです。任務もまた献身的だ。実は、お話はかねがね国村のほうから伺っておりました。酷く厄介な立場にいるということも。
この青葉、そして艦娘通信、微力ながらお手伝いさせてください」
敬礼。背筋をまっすぐに、中天へと向けて。
こちらも合わせる。
「さて、青葉海士長殿とも無事合流を果たすことができた。もしかしたら突然のことに戸惑いを覚えている者もいるかもしれない。今後の作戦について話そう。
我々『浜松泊地』は、今後『イベント』の対処にあたる基地の援護へと向かう。海域は現状不明だが、台湾付近、あるいは南下しフィリピン周辺である可能性が高い。一度神戸に停泊し、そこで必要物資を各自で用意、出発する予定だ。
神戸着は明朝6時前後を想定、出発は24時間後の明朝6時。そこから作戦海域までは、途中会敵を挟まなければ、一日半で到着する見込みになっている。……何か質問は」
「援護ですかぁ? イベントの対処、じゃなくてぇ?」
ポーラの発言の内容には全員が首肯した。誰もが気にかかっていた表現――もしくは、意図的に引っかかるようにされたのかもしれない。
後藤田提督の返事もまた想定されていたかのように素早かった。
「対処は複数の基地が合同で行う。佐世保が指揮系統を担うかたちで、パラオ、呉から戦力をいくらか集めるようだ。航空戦力は岩国からも募る。
繰り返しになるが、俺たちの任務はあくまで救難救助。火器の使用は許可されているが、突出した独断専行は認められない」
「台湾、あるいはフィリピン沖……東シナ海からインド洋までというのは、聊か範囲が広いのではないか?」
「現時点での海域予想がそうだというだけだ、グラーフ。最初は広く浅く配置し、敵の出現頻度や規模にあわせて適宜狭めていくということらしい」
「なるほど。ちなみにその『イベント』予想の正確性はどれほどなんだ?」
「さぁな。少なくとも、トラック泊地強襲の予想は的中させたそうだが」
トラック空襲――一度滅んだトラック泊地は、二度は滅ばなかった。大規模な敵襲を邀撃したという噂は聞いていたが、そんな裏があったとは。
「……」
少しばかり青葉の顔がこわばっていた。どうやら私以外に気づいてはいないようで、しかしそれも私と目があった途端に、すぐ曖昧な笑みへと変化してしまう。
一際強く海風が吹いた。後藤田提督はあっさりと踵を返し、船内へと手招きする。
「少し外は寒ィな。わざわざ立って話をすることもねぇだろう。青葉海士長には船内の案内もしなくちゃならんし」
「階級はいりません。青葉、で結構です」
「……そうか、助かる。お前らも、折角有名人と会えたんだ、聞きたいこともあるだろう。青葉、いくらか付き合ってもらってもいいか?」
「はい、勿論です。こちらから皆さんに訊きたいことも、山ほどありますんで」
足音の反響する船内を歩きながら、後藤田提督はグラーフと作戦に至る背景を話し、大鷹、不知火、ポーラは青葉と愉快そうにやり取りをしている。
私がぼうっとその背中を見ていると、大淀はわざと足取りを緩め、こちらの隣につく。
「どうしましたか?」と彼女は問うた。
「不思議なものね」と私は応じた。
「怖いのに、愉快で仕方がないのよ」
これから先に待ち構えているであろう私の人生が、不幸が、なぜだかとびきり輝かしい光に思えて、最早この昂ぶりを抑える術がわからなかった。
―――――――――――
ここまで。
もうプロットとか忘れてるぜ。
待て、次回。
ぎらぎらと照りつける苛烈な陽光。なんとか耐えつつ、私たちは冷房のいくぶんか効いた建屋へと、まるで流浪の民のような足取りで入っていく。
海沿いは普通潮風のために体感温度はすこぶる気持ちいいはずなのに、やはり関東のほうとは気候が違うからか、直射日光が痛みさえ伴っていた。変な形で日に焼けてはいまいかと、私はわかるはずもないのに、手で首の後ろを拭う。
後藤田提督は半袖でこそあったけれど、ぴしりと第一ボタンまでとめていた。金色の階級章がきらきらちかちか、光を反射して輝いている。海帽はひさしの部分が黒い。熱を吸収して熱くならないのだろうか、と思った。
艦娘はその身に神を降ろし宿している。所謂「神様の加護」というやつで、並大抵の環境変化などはへいちゃらなはずなのだが、さすがに紫外線にまで無敵とはいかないようである。
タオルで汗を拭う後藤田提督、そして私たちの前に、一組の男女が姿をあらわした。
「……」
舌の上で電気が弾けた。眼の表面がやたらに渇き、意識的に数度、まばたきをする。
脚の親指に力を籠める。大地はちゃんとそこにある。
周囲をこっそり窺えば、どうやら私だけではないようで。
「……」
人数分の沈黙。しかし、現れた二人は我々にまったく無頓着なのか――それとも、最早慣れっこなのか―――ひまわり畑のような笑顔をこちらへと向けていた。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました! 長い旅路でお疲れでしょう! 本当ならすぐにお部屋へ案内したいところですが、申し訳ない、少しお時間を頂戴いたします!」
「こっちこっち! みんなが待ってるっぽい!」
既に顔と名前の予習は船上で済ませてあった――今回の作戦で総指揮を執る、佐世保鎮首府の代表である、三神提督。そしてその筆頭秘書艦である、駆逐艦・夕立。
「……行くぞ」
「……はい」
後藤田提督に声を掛けられ、私たちはそこでようやく自らの身体の自由を得る。
私は夕立という少女の背中へと目をやった。
べっとりと、どす黒い、錆びた血の色が貼りついている。
いや、背中だけではなかった。肩、胸元、そして首筋から頬、額に至るまで、飛沫がそこかしこに付着しているのだ。
その正体を私は知っていた。私たちは知っていた。深海棲艦の体内を循環する、命脈としての汚れた油に他ならなかった。
なんら珍しいものではない。変哲のある代物ではない。だって彼女もまた艦娘なのだから。
だのに。
なんだ。
なんなんだ、あれは。
まだ年若い少女特有の無邪気さ、天真爛漫さ。そして狂った野犬のような血と死の臭い。それらが両立するだなんて。
そして彼女の隣を歩く三神提督も、まるで意に介した様子を見せないのがまた恐ろしく在った。普通は一度身を清めさせるべきではないのか? 入渠させるべきではないのか? 後藤田提督が第一ボタンまで閉めているように。
深海棲艦の尽滅を誓う防衛省、その嚆矢となった二つの鎮首府である呉と佐世保。あまりにも住む世界が違うと感じてしまうのは、いや、もしかしたら、私の身の上が余りにも不幸すぎるだけかもしれないが。
そうであってくれと半ば願いながら周囲を伺うも、どうやら私はそこまでは不幸ではなかったらしい。
眩暈のままに通された部屋は、応接室と呼ぶには僅かに広く、会議室と呼ぶには少々手狭な、中途半端な部屋だった。「ロ」の字型に並べられた長机に、それぞれ数人ずつがついている。
誰何の必要はなかった。やはり、資料で見知った顔だった。
「……杉崎だ。所属は呉」
「同じく、呉から来ました。筆頭秘書艦の加賀です」
「パラオの敦賀徳一郎。階級は一佐」
「戦艦、霧島です。よろしくお願いします」
「後藤田だ。本隊は空軍特務七班、現在の所属は無し。CSARを預かっている。……後ろの六人がメンバーだ。全員、挨拶を」
後藤田提督に促されるままに名乗っていく。品定めをされているような、算盤を弾かれているような、そんな不快感が拭えない。
少なくとも、歓迎はされていないようだった。理由はいくつもあるように思われたけれど、比重の同定は難しそうだ。単に空軍と海軍という派閥の溝であるかもしれなかったし、戦わない艦娘というイレギュラーへの戸惑いなのかもしれなかった。
もしかしたら、見捨てたはずの艦娘が地獄の淵から戻ってきたことへ、恐怖しているのかも?
大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
怒りはある。収まるどころか募るばかりだ。いまも私の胸の内で、煌々と、轟々と、天高らかに火の粉を巻き上げる篝火。だけれど、違う。目の前の彼ら彼女らは違う。
私は私と敵対する全てが敵だとは思わない。
戦いの次元は最早そんなところには存在しないのだ。
「これで今回の作戦の首脳が勢ぞろいしたことになりますね。ぼくはこの佐世保を預からせてもらっている三神と申します。で、この子は筆頭秘書艦の夕立です。ほら、夕立」
「よろしくね! みんなで頑張って、この作戦を成功に導くっぽい!」
まばらな拍手。打っているのは三神と後藤田の二人を除けば、霧島、青葉、ポーラ、大鷹だけ。
そうして簡単なブリーフィングを挟んだのちに解散となった。内容としては予習してきたものと大して相違なかったが、どうやら状況は私が考えていたよりも逼迫してはいないらしかった。
私たちの参加する作戦の概略はこうだ。台湾付近において敵集団の動きが活発になる兆候が見られたため、事実確認および緊急性が高いと判断した場合に先手を打ってこれを撃滅すること。
また、敵集団による九州沿岸、あるいは沖縄、パラオ、ないしトラックへ攻撃性の高い移動が認められた場合、即座に防御網を構築し、これを邀撃すること。
仮に緊急を要しない場合であったとしても、可能な限りに置いて敵集団の活性化の原因の調査、解明にあたり、今後の本土防衛の糧とすること。
私はてっきり開戦の日がすぐそこまで迫っているものだと思い込んでいたのだが、まずは事実確認かららしい。よく考えれば当然の話であるが、その段階でCSARが出張るという必要性が想定の範疇外だったのだ。
その件については大淀と不知火が説明してくれた。つまりは、いきなり現れた「自称・味方」を信用できるかという問題に帰結する。
なんて馬鹿らしい話だろう。
「悲しい話ですね。志を同じくした仲間さえも、時間という篩にかけねば信用できないというのは」
青葉は呟く。
「でも、どうでしょう? 同じ組織に所属しているという理由だけで盲目的に信用してしまうのも、健全とは言い難いのでは?」
不知火のその笑みは極めて自嘲的だった。大鷹も目を伏せる。
私も含めてみんな仲間に見捨てられた身の上だ。防衛省や沿岸警備部や、特殊遊撃作戦任務群のことなどは、古傷を抉る思い出にしかならない。
どちらの論にも一理ある。その上で私は「くだらない」と切って捨てることができそうに思えた。だってそうではないか。過去に囚われるばかりの人生なんて、不幸極まりないだろう。
そうでしょ、ねえ。
姉さま。
「そうですかね。……そうですね」
青葉はまた呟いた。先ほどよりも小さく、消え入りそうな声で。
―――――――――――
ここまで。
書けるところを書けるぶんだけ。
佐世保鎮首府はとにかく巨大だった。広大だった。
護岸工事が為された岸部のすぐそばには中枢施設が三棟建っている。それぞれが四階建ての集合住宅ほどは有りそうなサイズで、渡り廊下によって繋がり、鳥瞰すれば「コ」の字型になっているのがわかるだろう。
開いた部分から建物を見て左側が佐世保鎮首府の艦娘たちの宿舎である。一階が玄関と浴場、談話室を兼ねた食堂となっており、二階以上は全て居室。二人部屋が十八、一人部屋が十二あるそうで、割り当ては階級によって決まっているらしい。
中央、「本館」と呼ばれる棟は文字通り業務の中枢を担っている。ここには会議室や執務室、資料室などが存在し、私たちが最初通された部屋もこの棟だ。階級の高い人間も来るからなのか、設えが見るからにきちりとしているのが見るからにわかる。
最後の棟には訓練機能と就学機能が集約されており、購買や食堂もここにある。サテライト学習機能を備えた教室や、提携を結んだ大学の論文を閲覧できるシステム、学習補助教員も週に三回来ているという。
こんなしっかりとした施設を建ててペイできるのだろうか? そんな考えを持ち込むのは、もしかしたら資本主義に毒されているのかもしれない。国防は政治経済と切っても切り離せない関係だけれど、政治経済によって国防の揺らぐことはあってはならないことだと思う。
恐らくこの佐世保という鎮首府は実験施設でもあるのだ。より艦娘を効率よく運用し、兵器として転用させる方法を、上層部は日夜探っているに違いない。有用性を判断されたものだけが、全国の前線基地へと膾炙する。
海軍の敵は何も深海棲艦ばかりではない。空軍も言ってしまえば――悲しいことに――そうなのだろう。だから大淀がいる。そして技術供与を受けている神祇省相手にも、対抗意識を燃やしている。
愚かな話だ。そう断じてしまうのは、私が単なる一介の兵士であり、政治や権力と距離を置いた民衆でしかないからだろうか? 誰が、どこが、国防の最たる担い手であるかなんて、どうでもいいことだろうと思ってしまうのは。
そんなだから。
じじ、じっ、じりっ、じりじじ、じじぃっ。
脳内で砂嵐が吹き荒れる。
考えるな。考えてはいけない。
怒りに呑まれてしまうから。
そんなだから、私たちは見捨てられたのだ。
「失敗」の烙印を恐れた奴らの手によって。
ぎゅっと握りしめた右手、その人差し指を掬うかのように、そっと柔らかい感触が添えられた。思わず愕然とした気さえして、振り向いた先には大鷹が儚く微笑んでいる。
大丈夫ですか? と、聞かれた気がした。
「大丈夫よ」
答えても、大鷹は小首をかしげるばかりだが、幸いなことに手は離さないでいてくれた。
三棟から少し離れて巨大なクレーンの突き出たドック、電子錠とパスコード認証によって固く閉ざされた研究所、運動用のトラックなど至れり尽くせりだ。海へと視線を回せば演習のためのブイがそこかしこ。
私たち来客が寝泊まりする別棟も近くにあり、花壇の草花がつつましやかに、けれど確かな手入れをもって出迎えてくれている。
出入りしている業者の詰所、防災倉庫、あるいは資材庫など、説明を受けながら鎮首府内を回るだけでもゆうに一時間は経過してしまっていた。夕張は先頭を歩きながら快活に、こちらを見ながら後ろ歩きで、捲し立てるように言葉を紡ぐ。
私たちは所属ごとに塊になりながら歩いていた。「浜松泊地」、呉、パラオの順番だ。さきほどの顔あわせの時にはいなかった、呉とパラオの残りの五人もいる。やはりどこも六人一組で作戦にあたるようだ。
夕張が私たちを案内するのは、勿論私たちが作戦終了までこの佐世保に厄介する以上は当然なのだが、それ以上に牽制の意味を込めているように感じられた。
「近づくな」という言葉の意味は単純ではない。親切心から来ているのでなければ、そこには言外の忠告を孕む。詮索するな、ここは私たちの庭なのだから、という。
西側の防風林、その奥にある有刺鉄線を備えた塀を見ながら、私は考える。
あぁくだらない。私は意識して大鷹の、言葉遊びではないけれど、まるで太陽にも似た温度の手のひらを確かめた。
派閥やら、利権やら、面子やら、そういった面倒くさいモノモノが世の中にはたくさんある。それら全てが悪で不必要だと断言できるほどには私は青くも熟れてもいない。しかし、かといって、許容できるほどのおおらかさもない。
作戦を成功に導くことこそが第一義。でも、防衛省にも国にも忠誠を誓ったことは一度たりともなくって。
姉さま。
あなたの分まで幸せに生きてみせます、幸せになってみせます、そんなのはあまりにも陳腐だけれど。
たとえ空気を求めて喘ぐ無様な姿であってもいい。それでも光を希求するように、私は生きていきたい。
生きていきたいのだと、つい最近知った。
不幸の最中であったとしても、幸せになろうとすることはできるはずだから。
視界の中では青葉が夕立と交渉していた。「もう少し」だとか「そこをなんとか」だとか聞こえてくる。大方鎮首府の中の写真をどれだけ、どこまで撮ってもいいかを確認しているのだろう。
誰もが幸せになりたいのだ。なりたがっている。けれど、希求……そう、希求だ。希う。あるいは恋のように、激しく燃え盛る心の火炎を宿す人間が、どれほどいるか。
たとえばいま盛り上がっている青葉と夕立、彼女たちにも彼女たちなりの幸せのかたちがあって、それを求めているはずだ。果たしてその恋は身を焼き焦がすほどなのか。
手のひらの暖かさを感じる。
たいよう。
「あなたは幸せになりたいと思う?」
「えっ?」
素っ頓狂な声。当たり前か。
ごめんなさい、変なことを訊いたわ。そう返すのが自然で理想だった。しかしなぜだか私はそうせずに、
「幸せよ」
と念を押してしまう。
大鷹は歩みを止めないままに私の指を数度ぎゅ、ぎゅと握る。その存在を確かめるように。そうして、いつになく真剣な面持ちで、言う。
「なりたいです。なりたくて、たまりません」
「……」
そう。
なら、それは、きっと、恋ね。希っている違いないわ。
「で、でも。きっとみなさん同じなんだと思います。おんなじ。卑下するつもりじゃありませんけど、やっぱり、普通は艦娘になんてなりませんから」
「悉皆検査が義務付けられても?」
現代に甦った徴兵制とみなされる向きもある艦娘の悉皆検査であるが、仮に素質ありと判断された場合でも、入隊は決して義務ではない。血と油にまみれた戦いに報いるだけの報酬は提示され、あとは本人と家族の意志次第。
私と姉さまには拒否する選択肢なんてなかった。不幸な境遇が変わらないのなら、せめて少しでもいい待遇を選ぼうとしただけだった。
まぁ、でも、大鷹の言葉はそういうことなのだろう。そういう意味なのだろう。
同じ。おんなじ。
きっと殆どの艦娘が、望んで艦娘になろうとしたわけではなくて――なんらかの事情に背中と足の裏を炙られて、その結果艦娘に身を窶しているに違いない。
私たちの前では夕張と青葉の話にようやく決着がついたようだ。夕張はこちらへ向き直って、海の方を親指で示す。
「日没まではもうちょっと時間があるっぽい。夕食は、今日は豪勢にパーティだって話だから、それまでにお腹を空かせておくのも悪くないと思う」
「や、どもども、青葉です。『艦娘通信』という個人紙を発行していて、このたびは国村一佐の推薦もあり、作戦の従軍記者として参加することになりました。よろしくお願いします」
国村という名前を出しただけで、僅かに艦娘たちの間にどよめきが走る。興味を示す者。露骨に顔を顰める者。反応は様々だ。
恐らく青葉は意図的に彼の名前を出したのだ。周囲の反応を窺い、誰がどの派閥で、どんな思想を持っているのかあたりをつけるために。同時に自らの後ろ盾を明確にすることで、いらぬいざこざに巻き込まれないようにするために。
青葉は続ける。
「深海棲艦の存在、そして艦娘の奮戦が公にされ、広く支援を募られるようになってから数年が経ちます。そうですね、かの『鬼殺し』で一悶着あったころでしょうか。しかし、いまだ我々艦娘は、大手を振って地元に凱旋できる身分ではない。所詮汚れ仕事の請負人です。現代に甦った徴兵制の犠牲者です。深海棲艦を撃ち殺す調和の破壊者とまで。
悔しい話じゃあないですか! この青葉が今回記事にするのは、決して作戦行動が全てではありません。『艦娘』として働くみなさん、そして『人間』として生きるみなさんを活き活きと描き出す記事にしたいと考えています。
よろしくお願いいたします」
お辞儀。
「と、言うわけで」
夕張は笑った。口の端から涎が一滴、糸を引いて地面へ垂れる。
その目は爛々と輝いている。
「今から演習場で、親睦でも深めよう?」
―――――――――――
ここまで。
前作、前々作を読んでるのが前提とか、もう一見さんのことを考えるつもりが微塵もなくて草。
待て、次回。
乙。
乙だけど、夕立と夕張が途中で混線してるっぽい?
>>198-199
色々誤字申し訳ないです……。
十七人目の演習相手――もとい、「挑戦者」であるポーラが倒れた。彼女は数秒だけ水上に仰臥していたけれど、すぐに反動をつけて立ち上がる。
「いやぁ、本当に強いですねぇ」
口内から黒煙を吐きだして笑うポーラ。痛覚設定をできるだけ下げての演習なので、痛みはあってないようなものである。それでも絹のような髪の毛が焦げ付いてしまっているのは見るに堪えない。
本人は、寧ろそんなことよりもこのあとの一杯のほうが大事らしかった。顎に指先を当てて「晩酌は何にしましょうかねぇ」と嘯いている。
「さぁ、次は誰が来るっぽい?」
夕立は笑った。犬歯を剥き出しにして。
演習規定に基づいた、オーソドックスな1VS1での十七人抜きは、考えずともに埒外の所業だとわかる。しかも無補給、無休憩でのぶっ通しとなればなおさらだ。
個の強さで全てが決まるのはあくまで決闘であり、私たちの赴く戦争、あるいは戦闘はまた別次元の論理で動いている。とはいえ、銃弾と爆炎の舞い散る最中では、個の強さに頼らなければいけない側面も少なくはない。
そう言った意味で、なるほど確かにこの夕立という少女は、佐世保の鎮守府、深海棲艦相手の最前線基地を任せられるに足る存在なのかもしれなかった。
「強かったですか?」と不知火が尋ねる。同じ駆逐艦という艦種同士、思うところはあるのかもしれない。
受けてポーラは「肺活量が凄いですぅ」と答えた。端的に、それだけ。
その表現は個性的ではあったものの、腑に落ちる点も多い。近距離戦から中距離戦への移行、あるいはその逆が、夕立は恐ろしいほどにうまいのだ。
決して相手の得意な距離に持ち込ませない。近づけば離れ、離れられれば追いすがる。一旦体勢を崩されてしまえば、その隙に一瞬で喰らい尽くされるだろう。
ざじり。護岸の上、砂を踏みしめて、一歩前に踏み出した加賀は呆れ顔。
「そろそろ、夕食の時間でしょう」
「ってことは、加賀さんがラストってこと?」
夕立の台詞にはいくらかの挑発が含まれていた。まさか呉の筆頭秘書艦が、戦いを挑まれて逃げるわけはないでしょう? と。当然加賀にもそれは伝わっていて、怜悧な表情が一瞬だけ崩れる。
はぁ、と加賀はため息をついた。諦念を多分に含んだものだった。
「だから子供はきらいなんです。後先を考えない……」
波音静かに加賀は水面へと立った。
演習開始の合図とともに、夕立は一気に吶喊する。巨大な水飛沫を上げながら、一目散に一直線、加賀を狙う。
加賀の応対。矢を掛ける、弦を引く、構える――放つ。川のせせらぎのような静けさを伴った動作。
私の傍らで、大鷹とグラーフが驚愕の吐息を零す。
艦載機へと変化した矢、その爆撃を夕立は最小限の動き、そして引き続き最短距離を往く。生半可な攻撃では、狂犬は止まりそうにない。
加賀はまたも矢を放った。素早く、冷静で、縮みつつある彼我の距離など一顧だにしないという風だった。
一層激しさを増した火炎の驟雨を夕立は紙一重でかわし続けるも、さすがに連戦に次ぐ連戦の果てでは無理があるのか、目に見えてその機敏さは失われつつあった。脳内では避けているのだろう。しかし、体が追いついていない。服や髪の毛の端々へ火が燃え移る。
僅かに動きの遅れた瞬間を加賀は無論見逃さない。矢筒から、次弾を手に取る。塗り分けられた矢筈はそれぞれ艦載機の種別をあらわしている。赤、青、緑、そして赤と緑の斑。
射出。そして顕現。立体的な集中砲火を夕立は奇跡的な身のこなしで最小限の被害に喰い留めるも、それはあくまで奇跡、神業の類であって、そう長くは続かない。
顔面への直撃。
「あぁははははぁっ!」
黒煙とともに、炎を纏いながら、夕立は加賀に迫る。
更に顔面への追撃。
驚異的な足腰の粘り。異常なほどに強い体幹。転倒、最悪卒倒してもいいはずの一発だったはずだ。だのに夕立は上体をぐらつかせただけでなく、さらに、そこから一歩、吸い込んだ熱気を吐きだしながら。
踏み出す。
踏み込む。
そうして三度。
ぶすぶすと焼け焦げる音がこちらまで聞こえてきそうだった。夕立の身体から力が抜け、ぐらり、そのまま後ろへと体勢を崩す。
「――」
なにがそこまでさせるのか。夕立がたたらを踏み、堪える。
そのことを加賀も知っている。
四度。
ついに、ようやく、夕立は水面へと背中をつけた。肘から先が痙攣している。それもなくなると、加賀が人心地ついた面持ちで弓を下げ、額の汗を甲で拭った。
「……」
その場にいた誰もが、まるで恐ろしいものの片鱗を見てしまったようだった。夕立の身体能力も、加賀の精緻さも、人間の枠組みをとうに超えている。
いや、艦娘は人の身に神を宿す。とっくに人外であると言われてしまえばそれまでだけれど、ここまでハイレベルな演習――と言ってしまっていいものなのだろうか?――が見られるとは思ってもいなかった。
ともすれば、すぐさま夕立が飛び起きて、加賀へと向かっていくんじゃないかという気さえして。
「はいはーい! 本当に時間ですよー!」
だから、佐世保の次席である吹雪が手を叩いてみなの時間を進めたとき、私は率直にほっとしたのだった。助けられたような思いがしたのだった。
吹雪はけれど慣れっこなのだろう。よく見れば佐世保の艦娘たちは、困った顔こそしているけれど、驚愕に目を見開いてはいない。吹雪が夕立の脚を引っ張って移動させているうちに、呉、パラオ、そして私たちと、先頭について案内を買って出る。
「ほら、行くわよ。広いんだから迷わないようについてきてよね」
案内役の五十鈴の背中を追っていく。彼女は追いすがる青葉、大淀と何やら話しながら、手をひらひらさせていた。その内容は聞き取れなかったが、大方夕立のことだろうとは察しが付く。
グラーフと大鷹は加賀の戦い方について、不知火とポーラも感想戦。そして私のもとには、そっと近づく影が。
「凄かったわね」
パラオの霧島だった。眼鏡の奥の瞳は興奮に濡れている。
「凄かったけど」
あんな戦い方を私は学んできていない。我が身を摺り切り、銃火に炙りながら敵へ突っ込むやりかたを。
「《猟犬》夕立の面目躍如ってところかしら。同時に加賀も、ね」
「面目躍如、ね」
反応してから、だめだ、鸚鵡返しばかりだと気付く。これではまるでコミュ障である。
「トップランカーはさすがに気迫が違うのね」
「それもあるけど、夕立は示して見せたのよ。自分の在り方ってやつを。なるべくしてなるのが運命なら、あるべくしてあるのは自助努力によってのみでしょ?
佐世保は今回の指揮系統を担っているから、作戦の成功も失敗も、大きく彼らの名誉を左右させる。万が一にも失敗させるわけにはいかない。戦って、戦い続けて、作戦を成功に導く。それが夕立の在り方なのよ」
我々は戦う。ついてこい。それが佐世保の矜持であると、言葉ではなくその姿で、雄弁に語って見せた。
在り方、か。
それは妙に、私にとってもクリティカルな言葉だった。
「誰にだって在り方の一つや二つ、あるものだと思うわ」
「私にも?」
意地悪そうに霧島はにんまり笑って見せた。私は彼女のことを知らない。どうして彼女が私に話しかけてきたのかさえわからないくらいなのだ。それでも、ふんわりとした確信を持って言える。
「たぶん。そうでなければ、艦娘なんてやっていられないもの」
死は信念のあるなしに関わらず平等だろうけれど、それでも、戦場にいる全ての者に信念がある。
「私たちは少々特殊だから」
「少々で済むかなぁ」
笑われてしまった。理知的な外見とは裏腹に、屈託なく笑った霧島のその表情は、言うほど特殊であるようには見えない。勿論外見や表情からその人間の過去を押しは過労だなんて言う行為が傲慢そのものではあるのだけれど。
艦娘などその殆どがわけありだ。疎外やら機能不全家族やら賎民やら。しかし同時に、霧島の弁を借りるとするならば、それはあくまで運命である。「なるべくしてなった」。
それだけではひとは生きてはいけない。運命の導きが果たして本当にあるとして、結局我々は、あるべくしてあらねば生きていけないのだ。
組織に入った理由が、そのまま組織に居続ける理由になる必要はない。
地獄から逃げ出すために艦娘を志望したこの身なれど、今はもう、人生から逃げようとは思わない。
「まぁでも、そうね。在り方。……生きるための杖がなくては、歩きづらいか」
霧島は海の向こうを見ながら呟いた。
「CSAR、でしたっけ」
「え? あ、はい」
「国村さんの肝いりだとか。人が死ななくなるのはいいことね、ほんと。本当に」
「私は新入りだから、あんまり偉そうなことは言えないの。人でも六人っきりだし」
「でも、これから増やしていくんでしょ。いきたいと、考えている」
「えぇ」
「なら、それがいいことなのよ。そう思う」
ここまで真っ正直に自らの行いを褒められた経験がなかったので、一瞬思考に空白が生まれる。あくまで一瞬だ。
「ありがとう。頑張るわ」
私は歩く。食堂では夕餉が待っているはずだった。
――――――――――――
ここまで
無駄に設定に凝りだすのが設定中の背負った業。
待て、次回。
少し、飲みすぎてしまったかもしれない。日本酒党の私は、ポーラの持ってきたワインとは相性があまりよくないようだ。優れない気分を立て直そうと、夜風にあたるべく、大淀を起こさないように部屋を出る。
廊下は薄暗い。ぽつぽつ等間隔で夜照明に照らされている。当然ながら、人気はない。
と、脚が停まる。私は自分が佐世保の鎮守府にいることを思い出したからだ。例えば不用心に出歩いた結果、赤外線のセンサーに引っかかって警報が鳴る……最悪侵入者とみなされて撃たれては困る。
ううむ、廊下で窓を開けるくらいに留めておくべきだろうか。
窓に近づけば、月光に照らされた人影が、ちょうど私の真下を歩いている最中だった。その姿は影に落ち込んでいて誰何は叶わないが、右手に弓を持っている。ならば恐らく空母の誰か。
ということは、恐らくではあるが、外に出られないことはないらしい。まぁ当然か。周辺海域の見回りに緊急出動など、青葉ではないけれど、夜討ち朝駆けは艦娘の常套。そのたびにいちいち警報を切るのはあまりにも面倒だろう。
見るからに怪しいところに近づかなければ問題あるまい。研究所とか、備品庫だとか。そう判断して、私はふらふらと、階段を下りていく。
外に出るための扉には施錠はされていなかった。単にいつもそうなのか、それとも先ほどの空母が内鍵を開けたのか。
なんとなく、先ほどの空母はあっちに向かっていったなという思いで、棟の裏手へと回る。
当然鎮守府や泊地といった前線基地は海沿いにある。しかし、佐世保は大きい。あまり海風は感じない。それでも確かに潮のにおいだけは確かにあって。
購買の照明が煌々と灯っているのが、かなり離れた位置からでもわかった。なんてコンビニエンスなのだろう。ともすれば、いまも海のどこかで、佐世保の艦娘たちは夜警に出ているのかもしれない。
右へ曲がれば夕方に向かった演習場になっていて、そこにベンチがあることを知っていたから、私はそちらへと曲がった。
「あ」
先客がいた。こんな夜更けだというのに胴着さえ身に着けて、弓を構えている。確か夕食時は私服だったはずだ。また着替えたというのか。
さきほどの人影の正体がわかると同時に、一体なぜ、なにをしにここへ、といった疑問が湧いてくる。彼女は夕食後の宴会を早々に退散していたはずである。酔い覚ましとは考えにくい。
彼女もまたこちらに気付いたようだった。ちらり、視線だけをやって、射形は崩さない。
的がなくても射られるものなのだろうか。ベンチに座って、加賀を見る。
「……なに?」
「あぁ、ごめんなさい。気が散る?」
「用事があるわけではないの?」
「酔い覚ましの散歩。邪魔になるようだったら場所を変えるけど」
「お願いできる? わたし、あなたちのことが好きではないみたいだから」
疑問と苛立ちの両方が、殆ど同時にやってくる。それは悪天候の日、濃い灰色の暗雲から、水平線のさらに向こうに落ちる稲妻の群れに酷似していた。
次の加賀の言葉も、そして私自身の言葉も俟たずして、ベンチから立ち上がった。
「……ひどいご挨拶じゃない」
「そうね。申し訳ないとは、思っている」
真実味のない言葉だった。加賀はこちらへ視線を向けず、射形も、やはり、崩さない。先ほどから数分はその体勢でいる。
肩を掴んで「こっちを見ろよ」とやりそうになる衝動を抑える。夕方、演習の終わり、霧島との会話が脳裏をよぎったからだ。
在り方。
加賀は筆頭秘書艦だ。彼女の肩には、責任がある。呉の名前と誇りを背負っている。なにより、彼女には呉の他の艦娘たちを導かなければならない。そんな彼女の言動がこれ? まったき信じられない事実。
無論、全てにおいて、どんなときでも、その役割で居続けることは難しいだろう。立場が求めるふるまいと本心は必ずしも一致しない。いまの加賀が筆頭秘書艦の仮面を脱ぎ捨てている可能性だって否定はできない。
それでも。それでも、なら、どうして彼女は射形を崩さない? 胴着を身に着けたまま、遠くを見据えている?
それはとても難しいことに思えた。なにより奇妙に思えた。推論のちぐはぐ感。きっと間違っているからだ。
「CSARが?」
「……えぇ、まぁ、そうね」
あなたたち、と加賀は言った。あなた、ではなく。
海軍と空軍の領域。防衛省と神祇省の領域。仕事には自らの範囲というものが必ずあって、そうでなければ万事においてぐずぐずになってしまうだろう。上の人間ほどそれにこだわる。矜持から来るものなのか、既得権益から来るものなのか。
加賀はそちら側なのか? 努めて悪態をつくならば「旧態依然の」人間なのか?
「言っておくけれど」
喧嘩腰にならないように、それでもはっきり怒りを露わにして、言葉を選ぶ。
「私たちの仕事は誰にも邪魔させないわ」
「……」
たっぷりと間を開けて、加賀はまた「そうね」と言った。
「互いの仕事に全力を尽くしましょう」
私はすぐさま踵を返した。悪酔いはすっかり冷めてしまっていたが、別の感情が胸中を支配して、このままではまるで寝られそうになかった。
加賀、彼女にもまた彼女なりの何かがあって、心に決めた在り方や過去が今の彼女を形作っているのだとして、それでも慮ってやれるほどには私は優しい人間ではなかったのだ。
「どきどきしてましたよ」
物陰から、青葉が声をかけてくる。
「割って入っては、来なかったのね」
「や、勿論殴り合いになる前には止めるつもりでした。
肩を怒らせながら歩く私の速度は、たぶん少し早い。青葉は困ったように笑いながら、一眼レフを肩からぶらぶら揺らしつつ、ついてくる。
「あの人は……」
言葉を選ぶ。
「『ああ』なの?」
「そうですね。気難しい人ではあります。有名な話です。その代り、個人での戦闘能力も指揮能力もずば抜けていて……必勝請負人ですから」
「なにか私たちが気に障るようなことをしたとでも?」
「それはないとは思いますが。そもそも交流が浅いですし」
なら、なぜ。どうして。
「あんなことを言われなくっちゃならないの」
戦うことは大事なことだ。戦わずして、真に大切なものは守れない。しかしそれと同時に、同じくらい、誰かを助けることは重要なはずだった。
怒りが鎌首をもたげる。
「……免罪符になるとは思いませんが、艦娘になる人間などみぃんなワケありです。古株は、特に。あの態度が本心なのかそうでないのか青葉にはわかりませんが、偏屈で頑ななだけでは呉という大所帯を率いることはできないでしょう。
きっと、理由があるんだと思います。それとなく調べてみますよ」
「余計な詮索はしないほうがいいんじゃない」
「よく言われます」
青葉は頬を掻いた。
「それでも、ねぇ、山城さん。自分にもっと力があれば、だなんて、きっと殆どの人が思うことです。青葉だってそうです。
このまま作戦が何事もなく終わって――少なくとも表面上は――加賀さんとお別れした時、きっとモヤモヤが残るでしょう。青葉はそれが嫌なんですよ。もっとできたはずだと、うまくやれていればこんなことにならなかったのにと生きていくのは」
歌うように諳んじる青葉の口調は、どこまでも突き抜けていくほどあっけらかんとしていて、まるで彼女の言葉だけが重力から解放されているようだった。
どこを見て言っているのか。誰に向けて言っているのか。不明瞭なほど曖昧な言の葉。
「トラックも――」
「え?」
「や、や。なんでもありません。なんでも……」
そこでくるりと、踵を軸に一回転して見せる青葉。軽快なステップを踏み踏み、三叉路を私とは別方向、ドックへと向ける。
「そろそろ夜警が戻ってくる時間帯です。青葉、そっちに少し用があるので……今夜のことは、山城さん、あまりお気になさらず。引きずってもいいことはありませんよ」
「……ありがとう。わかっているわ」
わかっているのだけれど。
悔いて、嘆いて、人生を棒に振るとは言わないまでも、囚われて執着して、そんな生き方はしたくない。青葉の言うことは尤もだ。それでも、悔悟なしに幸せな人生は送れまい、とも思う。
「……ねえさま」
諦念に満ち満ちたあのひとの人生に、果たして悔悟はあったのだろうか。「そういうものだ」と割り切ることは、幸福を希求する一助になるのだろうか。
私は……。
「負けない。死なない」
幸せになってやる。
『連絡。全艦娘に連絡』
アラームが脳内へと響く。識別番号の主番は佐世保、枝番は00――つまり提督直々の通達である。
『夜の哨戒班が、敵哨戒群と思しき一団と接敵、及び交戦、これを撃退した。一時間後、緊急のブリーフィングを行う』
「……来たか」
―――――――――――――――
ここまで。
ラストバトル突入。
「ギャルゲー」「潜水艦泊地」と続いたお話も、もう少しでおしまいとなります。
最後までよろしくお願いします。
こっから無尽蔵に描写が増えて長くなります。
ばたばた、ばたん。
階段を駆け上がる音、扉の開け閉め、あるいはクローゼットのそれ、壁越しの話し声。
蛍光灯は灯り、外の投光機は会議室までの道を照らす。購買に幾人も駆け足でやっていき、また駆け足で出ていく。
俄かな慌ただしさ。それも当然だろう。敵作戦群と思しき集団との邂逅が昨日の今日とは、運がいいのか悪いのかわからない。あまりにも生き急ぎ過ぎている。
緊急のブリーフィングは一時間後、大会議室で行われる予定となっていた。参加者は、呉、パラオ、CSARから六名ずつ、そして佐世保からの選抜六名。勿論佐世保はメインを張る都合上、その他部隊も指揮しなければならない。
通信が入った。佐世保の通信網に乗っていない、独自のもの。
『点呼。番号を』
後藤田提督の声。野太く、低い。それだけ身が引き締まる。
『一番、大淀、います』
『二番、不知火』
『グラーフ・ツェッペリン。準備は万端だ』
『ポーラ、よーん』
『ご、ごぉっ! 大鷹、ここに!』
「山城。六番」
『よし。各自身だしなみを整え、適宜飲食を済ませてから、定刻五分前に会議室へ集合だ。艤装はひとまずいらない。質問は』
『哨戒班は無事だったのですか? 不知火たちが出張る必要は?』
『ひとまず無事らしい。小破が二名、と報告は受けている』
『了解しました』
『後藤田提督』
『どうした、淀の字』
『今回の作戦目標は』
『会議次第だが、恐らく敵戦力の壊滅、あるいは特定期間の邀撃達成ということに――』
『失礼。遂行基準については、どうお考えですか』
空気を呑む音が通信越しでも聞こえてきそうだった。私にはそれが、後藤田提督のものなのか、はたまた他の隊員のものなのかわからない。
通信は傍受に強い秘匿通信を使っている。私たちは今回の作戦において、佐世保基地のローカルネットワーク上に構築された作戦用の通信網と、並行して我が「浜松泊地」の秘匿通信を使い分けなければならない。
『……淀の字、おめぇ』
『失礼。いじわるが過ぎましたかね』
『性格悪いって言われるだろ』
『えぇ、よく、あなたに』
『……?』
少しばかり流れの読めない会話が続く。それは単なる軽口とは違っていて……なんだか、どちらも苦虫を噛み潰しているよう。
『……少し、考える。時間をくれ』
ともあれ内容は理解できた。大淀が言っているのは、つまりこういうことだ。「佐世保や呉、パラオの行動理念と、我々CSARの行動理念は違うのではないか」。
深海棲艦を撃滅せんとする彼女たちと、隊列から落伍した兵士を救わんとする私たちでは、当然倫理や規範、規準が変わってくる。作戦の大義の中にあってなお、我々が追求すべきは果たしていかなるものなのか、大淀は問うているのだ。
救助部隊と言えど、第一線に立って砲を打ち、機銃を構えることはできる。援護が一人でも欲しい場面は多いだろう。その場に私たちがいたとして、同時に負傷者が海に浮かんでいたとすれば、さてどちらの選択をとればいいのか。
銃後の存在と言えども、前線に立てるのがCSARの存在意義。追加の戦力として期待されるだけなら、別段「浜松泊地」でなくてもよくて、どこか他の基地から数人を引っ張ってくればいいだけの話なのだ。
後藤田提督は嘗て私に言った。今日を生き延びる気のない人間を仲間にはしないと。それは決して仲間を見捨てて逃げろと言う意味ではないはずだ。
大淀は静かに了承の言葉を唱えた。あとに続くものはいない。
『……それじゃあ、各自、また会おう』
通信が切れる。
私は大きく呼吸した。
新鮮な空気を頭に取り込む。活性化させる。明朗化させる。始まってから、動き出してからおっつけたのでは間に合わない。微々たる準備でさえ大きな差が開く。私はそのことを知っている。
現状敵戦力の多寡や目標はわかっていない。ならば考えることは他にある。艦娘の運用方法、指揮系統、それらに対する心構えと交戦規定の再確認。
基本的に艦娘は出撃と休息を一定の間隔で繰り返す。作戦と動員の規模にもよるが、過去に私のいた泊地では、最も忙しいときで六時間ごとの交代頻度だった。人手が足りていたり敵の数が少なければ一日、もしくは一日半の休息を挟むこともあった。
今回はどうか。哨戒班が交戦したという敵群が本当に件の「イベント」のものなのであれば、規模は最悪で極大を想定してもよさそうだ。
大規模作戦の裏をかかれた本土襲撃は数年前であっても記憶に新しい。あれに匹敵するならば一日三交代、あるいは四か……?
しかし、とはいえ、ここは佐世保鎮守府。何も総勢二十四名でことにあたらなければならないわけではない。そもそも私たちは救難救助がメイン、出撃のスパンは異なるだろう。
「山城」
壁に背中を預けながら、こちらへと手をひらひらさせるのは不知火だった。ゼリーの袋を咥えて、もう中身はないのだろう、空気を送り込んでぺこぺこ音を鳴らし遊んでいる。
「いっきに騒がしくなったわね」
「仕方がありません。やっこさんも、せめて昼に出会ってくれればいいものを」
夜の戦闘は聊か勝手が違う。空母の大半は夜目が効かないし、照明弾や探照灯がなければ誤射の可能性も上がる。そして私たちだって、捜索に悉く難儀するだろう。
この騒がしさや慌ただしさが杞憂とまではいかなくとも、せめて一時のものであればどんなにいいか。
「当たりを引いたってことよ。それとも、外れ?」
「ま、早く帰られるならそれに越したことはありませんね」
「それもそうだけれど」私は唇を湿らせて、宙を仰ぐ。「最初のブリーフィングのときに説明された海域の図を覚えている?」
「台湾とフィリピン……東シナ海からインド洋まで」
「かなり広範に渡るわ。それをローラー作戦で絞り込んでいくと言う話だったはず」
「そうですね」
「随分と接敵が早かったと思ってね。そもそも、交戦した敵群が本当に『イベント』の作戦群だという根拠はあるのかしら?」
「事前調査はパラオと佐世保が行っていたはずです。本部の主導で。本来当該海域には出現しないと目されているタイプの深海棲艦、それが発見されたために優先度が上がったと聞きましたが」
「聞いた? 誰から?」
「青葉です」
ぺこっ、ぺこっ。不知火は膨らませたり凹ませたりをやめる気配がない。
「……不快ですね。実に、不快です」
「不知火?」
「失礼。不知火と大鷹は、重要な作戦というものに嫌な過去がありまして」
「……私だって、そうよ」
裏切られたり、いいように使われたり。そんなものには飽き飽きしている。
結局のところ私たちなぞ一介の兵士でしかないのだろう。大局的な視点を持たず、右往左往するだけの愚かな生き物。少なくとも、一部の上層部はそう考えているに違いない。
そうでなければ、私も、不知火も、大鷹も、ここにはいない。
「腹が立つわね」
零れた言葉に、不知火が怪訝な目でこちらを窺ってくる。
業腹だった。実に、業腹だった。それは。
この世にはどうしようもないことが数多く、本当に夥しいほどあって、だから古今東西問わずにこの世の理不尽や不条理を描いた絵、唄った詩が山積している。それらは時代と人によってさまざまで、社会構造や身分階級、性別、成功と失敗、
……幸運と不幸。
どうしようもないことをどうしようもないとして生きていくのは、実に簡単なことだった。全てのあらゆる困難に立ち向かうことは、恐らく、熱量的に不可能だから。
それでも――それだからこそ、私は幸せを求める。
「時間です」
不知火がついに空き容器をゴミ箱へ放り込んで言った。空中を二度タップするとログイン画面が表示され、その右隅には現在時刻が示されている。
いきましょう。不知火に促されて私たちは会議室へと向かった。指示通り、定刻の五分前。
既に会議室はごった返していた。佐世保、呉、パラオ。一通りそろっている。CSARの面々も、一塊になって席を陣取っていた。大淀と青葉がまだ来ていないようだ。
私たちの姿を見つけてポーラはひときわ大きく手を挙げた。さすがに酩酊はしていないようだ。柔らかな美少女の姿がそこにある。
後藤田提督は軽くこちらに目をやっただけで、腕を組んで何か難しい顔をしていた。そんな彼の様子を察してか、グラーフと大鷹もまた落ち着かないふうに見える。
加賀もいた。目を瞑って微動だにしない。隣には呉の杉崎提督がいて、後藤田提督と同じような思案顔。
パラオの霧島はまだ来ていなかった。空席を隣において、敦賀提督が忙しく爪を噛んでいる。苛立っている? 焦っている? わからない。
夕立と三神提督は何やら話し込んでいた。どちらも和気藹々としていて、この二人の周囲だけが少し空気を変質させている。佐世保というホームだからなのか、緊張というものと無縁なだけなのか。
時間になった。ベルが鳴る。
いつの間にか来ていた青葉、大淀、そして霧島の三名が、扉を閉める。
「さて、皆さん」
大淀が一際とおる声を投げかけると、それまで喧噪に包まれていた会議室内が、しぃん、水を打ったように静まり返る。だがそれは、不思議な静けさだった。誰もが大淀の言葉を待っているというよりは、寧ろ……。
「どうして、大淀が……?」
不知火が呟く。
そうだ。その通りだ。
この会議室の殆どの人間が、だからこそ、その思いで大淀を見ていることは明白だった。
即ちこの静寂の正体は困惑。
「――たった今この部屋の通信網を一時的に隔離しました。外部と連絡はできません。拳銃もセーフティはおりません」
は?
「青葉さん」
「はいっ!」
青葉は鋭く応じて、
「みなさん、我々は嵌められています。この作戦は仕組まれたものです」
と、言った。
―――――――――――――
ここまで
速度あげてこ
待て、次回。
このSSまとめへのコメント
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