周子「だから、あたしが逢いに往く」 (58)

幼女の紗枝はんが妖の周子に出会う話。
僕の考える生存本能ヴァルキュリアのエピソード0です。
ほかの子もちらほら出ますがアインフェリアは一人も出ません。
日本に酷似したファンタジーな国が舞台だから術とかお札とか出ます。



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 怖いくらいに鮮やかな、夕焼けだった。

 夕日が少女を照らし出すも、鮮やかな光とは裏腹にその顔は俯き陰っていた。
 腰まであろう程の長く艶やかな髪、裕福で高貴な家柄が覗える衣、
 慣れ親しんだこの神社の階段に少女が独り、膝を抱えて座り込んでからもう数刻は経っただろうか。

 太陽は石段の最上段から見下ろす先の木々に次第に吸い込まれていたが、それでも西の空から桃色が流れ出して紫の空へと混ざっていくのが見える。
 星読衆の言うところだと、この色は雨の予兆だそうで、そう言われてみれば雲が多い気がする。
 本来であれば早めに帰路につくところだが、今日に限ってはそんな気になれなかった。

 そんな少女、小早川紗枝はこの国の政治の一部を担う一族の出であった。
 幼いころから家の方針で教養や礼儀作法等厳しく教え込まれ今年で十になるが、歳相応以上に様々なことが身についた。
 勿論、まだまだ知らない事も多くあるが、身の回りの状況や知識から自身で調べ考えとできるようにはなっていた。

 今にして思えば、それが仇になったのかもしれない。

 先日、その日分の座学が終わった後に家の書庫に忍び込んだ時だった。
 国の中枢とまではいかないにしても近い地位にある家のせいかその蔵書量もなかなかのものであり、辺境の民家よりも下手をすれば大きい程の書庫にずらりと並ぶ書物の林は、まだ幼い紗枝でなくても圧倒されることだろう。
 当然、紗枝の興味をひかないはずがなかった。
 元々座学は嫌いではなかったし、むしろ今は好奇心真っ盛り。
 未知の世界が具現化したかのようなそこで手当たり次第に読み漁った。

 ―――と、ここで彼女は今日の記憶を振り払う。
 こんなにも強く瞼を閉じたことは今まで無かっただろう。
 見なかったことにしたくて、嘘だと思いたくて、忘れ去りたくて、それでもなお脳裏にこびり付いて離れない。
 急に書庫が怖くなり、かと言って母屋にいても落ち着かず、こうしてこの神社まで飛び出してきたのだった。
 以前から度々通っていて心落ち着く場所なのでそれを頼りに来たのだが、そう簡単にいくはずもなく。
 未だこの場からなかなか家に帰る気になれずにいるのもそれが理由だった。

 それでも空は少女の事情など知る由もなく。日は山に、桃は紫に、じわりじわりと食われていく。
 この日何度目かも分からぬ溜息を漏らして、ゆっくりと瞼を上げる。

「どーしたん?今日は元気ないやん」

 あまりに突然で、固まってしまった。
 突如、いや、いつの間にか目の前にしゃがみ込みこちらを見上げる者に全くもって気が付かなかった。
 足音も気配すらもしなかった、まるで降って湧いたよう……否、最初からそこにいたかのような。
 やけに馴れ馴れしい口調ではあったが、この者は紗枝にとって完全に初対面だった。

 さらさらと輝く白銀の短い髪
 それと比べても透き通る程の白い肌
 くっきりとしながらも艶やかな釣り目
 本家の者達にも引けを取らない上質の装束

 紗枝にとって、母親より美しいと思える程の女性を見るのは初めてだった。

「いやいや、そんな見つめられても困ってまうやん」

「え、あ、えっと、ごめんなさい」

「そんな謝らんでええよー」
 
 ケタケタと笑う彼女の髪の穂先が、その首元あたりで僅かに揺れる。
 
「えっと……どちらさんどすか?」

「うーん、誰やろうね」

「えぇ……?」

「誰でもええやん、気まぐれなおばぁ……お姉さんとでも」

 そう言うと立ち上がり、紗枝の隣に腰掛ける。
 ふわりと袂がはためいて、微かな香りが紗枝の頬を優しく撫でる。
 あまり覚えのある香りではなかったが、それでも何故か心が落ち着くようで。

「そんな俯かんとさ、これあげるから、ね?」

 紗枝の目の前に掌が差し出される。
 その手には赤くて小さな実がいくつか、確かこれは……

「……ぐみ?」

「お、あたり!お嬢ちゃん物知りやね~ご褒美にいくつか食べてええよ」

「でも……」

「ん?」

「それすっぱいからいやや」

「ははは。まぁ、まだそうなるよなー」

 そう言って差し出した手を引っ込め、載せていた実を一気に口に放り込む。随分と美味しそうに食べるものだ。
 紗枝はまだ酸っぱい物や苦い物がなかなか食べられずにいた。
 勿論、家での躾の一つとして安易な好き嫌いは咎められはするのだが、
 それでも飲み込むのになかなか覚悟のいる品が食卓に並んだ時には少し物怖じしてしまうのだった。
 大人になったら美味しさが分かるよ、などと祖父が言っていたが、今の紗枝には関係ないことだった。

「せやったら、何がいい?他にもいろいろあるんよ」

「……なまえ」

「名前?」

「おねえさんの名前、教えてほしい」

「……名前かー」

 困るような、悩むような、そんな顔をして

「そう、やね……」

 染まりゆく、空を見て

「“シューコ”って、そう呼ばれてた」

 何ということはないはずの、とある神社の黄昏時

 一人の少女の運命が、
 一人の少女が運命を、大きく変える出会いだった。






「さえちゃんかー、ええ名前やん」

 辺りが暗くなり始め、見下ろす先の民家の窓にも明かりが灯る頃
 シューコに連れられて紗枝は長い階段を下っていく。
 紗枝にとって見知った場所であるはずなのだが、暗くなってから通るとなんだか遠い道のりに感じた。
 思いのほか長居してしまい、夕日が沈む前に帰るようにと言いつけられている紗枝としては自然と早足になってしまう。
 あまりに遅いと祖母の雷が落ちるのだ。

「なんか良いね、冴えてるって感じで」

 シューコとしては誉めているつもりなのだが、名を音でしか認識していないであろうことが紗枝には引っかかってしまう。

「うちの名前はそういう意味とちゃいます」

「えーそうなん?せやったら、どういう意味なん?」

「それは……えーっと……」

 自分の名前といえども、いざその意味を訊かれるとすらすらとは答えられないものだ。
 特に紗枝としては難しい質問だった。一言で言い表せる訳ではないのだ。
 それに、以前母が教えてくれたそれは当時の紗枝としては少々難しい話であった。
 正直言うと、文字毎のなんとなくの意味合いや印象しか覚えていない。
 だが、少なくとも『冴える』という意味ではない。

「書いた方が早いんやけど……」

 書いて見せて、その文字の意味を教えようと思いついた。言葉で全て説明するのはきっと難しい。
 誰かに説明する機会など無かったのだ。
 だがそれぞれの文字の意味なら知っている。
 紗枝は最近、画数の多い自分の名前を書けるようになったのだ。紗枝の密かな自慢の一つである。

「ほんならこれにでも書いたら?」

 そう言うとシューコは帯の隙間から葉を取り出して紗枝に渡す。
 そう、紙ではない。葉である。

「……なんで葉っぱやの?」

「ええやん書けるんやし、ほらやってみ」

「普通、紙やないの?」

「紙使うんはもっとこう難しいことする時や。紙は自然に生えてきてくれへんやろ?」

「えぇ……」

 戸惑う紗枝をよそにシューコはにこやかに笑う。
 だいたい何故木の葉なのか紗枝にはさっぱりだった。筆記用具すら渡されていない。

 紗枝達が住まうこの国、『霞皇国』は街並みやら行事こそ古風な伝統を尊重しているものの文明に関して他国に大きく後れを取ってなどいない。

 イルミネイト王国のような特殊な物資が無くとも下々の民家にもきちんと明かりは灯るし今や洗濯とてボタン一つで乾燥まで終わる。
 クローネ帝国ほど国土も人口も大きくはないが経済は安定しているし軍事力もそれなりにある。
 最近帝国が作ったという空飛ぶ鉄馬は作れないが空を往く移動手段はあるしそのための空港も最近新しくなった。
 ましてや紙の一枚すら困る程に物資に困窮してなどいないのだ。
 太古の昔より伝わるとされる術が社会基盤に組み込まれていたり相変わらず木造住宅や畳が多い側面はある。
 しかしそれはその方がこの国の気候に適していて効率的だからだ。つい最近座学でもそう習った。

「おっと、そろそろ街も近いからこの辺でええ?」

 紗枝が気が付くと、既に見慣れた街並みだった。
 葉に気を取られていたが気付かぬ内に随分と早く帰ってこられた。まだ空に一番星は見えていない。
 
「うん、おおきに……でもこれまだ書いてへんのどうしよう」

「ほんなら今日のところはそれあげるからまた今度遊びに来たらええ。ちゃんとそれ忘れんと持ってくるんよー」

 シューコは相変わらずの飄々とした笑顔でひらひらと手を振っている。
 紗枝はぺこりとお辞儀をして、街の中心へ走った。
 その木の葉を落とさぬよう、ぎゅっと握りしめて。
 

 結局、紗枝が家に着くとそこには婆や―紗枝の祖母が待ち構えており、久々の説教が始まった。
 小早川家の娘たる者お転婆は程々にしろだの、今は平和だから良いものの昔は危険な者がいただのと。
 他にも沢山聞いた気がするが見事に聞き流した。

 

◆ 



 雨季に差し掛かろうかという頃。すっかり山の木々は生い茂り夜には蛙の鳴き声も目立つようになってきた。

 屋敷の一角、縁側に腰掛けていた紗枝は空を見上げた。
 しとしとと降り続く雨と広がる雲に遮られて、昼過ぎだというのに太陽は見えない。
 自分の名を書いた木の葉の柄をつまんで、天に掲げてくるくると回す。
 『紗枝』の二文字が葉の裏が向くたびに見えるのをしばし見つめる。
 我ながら上手く書けたと紗枝の頬が静かに緩む。
 普段のお習字とは勝手は違ったが慣れれば硬筆のようなものだ。
 縫い針を逆さに持って葉の裏をなぞると文字が浮かぶと母に聞いた。
 そういえばこの葉について聞いたのも、あの日帰ってきた夜、この場所に腰掛けながらだったなと思い出す。

 紗枝は物知りな母が好きだった。
 何でも知っていて、何でもできる。座学も作法の稽古も稀に見に来てくれて、時には後で時間をとって教えてくれたこともあった。
 教えるにしても明解で、手本にしても優雅であった。
 術については紗枝はまだ習い始めていないが、きっと追いつけない程の技量であろうことは察していた。


 そう、何でもできて、知っている。
 だから書庫で見つけてしまった“あれ”のことも、きっと知っているはずなのだ。

 しかし紗枝はそれを訊けなかった。
 一度訊いてしまえば何かが壊れ戻れなくなる、そんな予感が拭えなかった。
 それと同時に“あれ”が全くの作り話とも思えなかった。
 紗枝を取り巻く環境も、習う事柄も、全てが一つの悪い予感に繋がっている気がして。

 もやもやした不安をため息に乗せて、曇天を見上げて静かに吹いて。
 ふと、紗枝の頭にシューコの顔が浮かぶ。
 今頃どうしているだろうか、あの飄々とした笑顔でも悩みがあったりするのだろうかと。


 紗枝はシューコにあの日以来会っていない。
 帰りが遅くなったせいでしばらく監視の目が厳しくなったり稽古が長引いたり天気が悪かったり
 理由は様々あれどさすがに日を空けすぎたかもしれない。そろそろ一月近く経ってしまう。

 星読衆が言うには明日にはこの空も晴れるとのことだった。異国では気象予報士とかいう名の職務だそうだ。
 紗枝にとっては覆面に全身黒づくめのくせに装飾過多なあの装束がどうにも好きになれなかったが、晴天の予報をくれる時だけはその嫌悪感が薄れるのだった。
 特に今は輪をかけてそうだ。
 星読衆という呼び名もまだ一部平仮名でしか書けないのが歯痒いが良い名前に思えてくる。


 とにかく明日は晴れるのだ。ならば予定は決まったようなものだった。幸い明日の昼過ぎは自由時間がある。
 今はそれだけを考えるようにした。不安や疑問は全てここに置いて行って、またあの場所へ行ってみよう。

 そうだ、おやつも一緒に持っていこう。
 そう思い立った紗枝は祖父に肩たたきをしてあげるべく足早に廊下を駆けていった。







葉の裏に刻まれた「紗枝」の二文字。神社の境内に腰掛ける二人。針が示すは午後の二時。

「へ~、上手く書けとるやん」

 紗枝からもらった金平糖を頬張りつつシューコは受け取った葉の柄をつまんで回す。
 見事に晴れた空を見上げて木の葉をかざしてくるくるくる。
 そうやってシューコが昨日の自分と同じことをしているのを見て、紗枝としてはなんだか少し可笑しく感じた。

 浮世離れな雰囲気を漂わせる人だと再開した今でもそう思うが、こうして同じ行動をするのところを見て少しばかり親しみを感じる。

 白を基調として鮮やかな青が所々に施された和装束
 晴天の今だからという理由を差し引いても一層透き通るように輝く白い肌
 しかしこんな人でも齢十の自身と同じことをするのだと。
 八つか十は年上に見えるが、もしかしたら子供っぽい部分もあるのかもしれない。
 そう思うと、なんだか不思議と嬉しい気がする。
 そんな紗枝は空模様とも合致してなかなかにいい気分だった。
 見事に晴れたということもあり、本日分の課題をいつも以上の早さで片付けて
 爺やから狙い通りもらった金平糖の小袋を握りしめて郊外の神社めがけて足早に駆けてきた。


 一方シューコとしてもそんな紗枝の様子は多少なりとも興味を引くものだった。
 いかにも見た目は箱入りな少女がこんな街角離れた神社に一人で出向いてきているのだ。
 以前見てきた者達の傾向からは異なっているように思える。
 髪艶や衣にしても所作にしても有象無象の家の者ではないことは横目で捉えて感じ取っていた。
 しかしそれならば従者の一人や二人連れ立っていてもよかろうに。

 周囲に気を巡らせるも監視らしき者は見当たらない。本当に一人なのだろう。
 随分とのびのびとさせているものだと思う。


「で、この……文字、どういう意味なんだっけ?」

「えっとね、まずこっちが……」

 紗枝が身を乗り出して「紗」の字を指差す。
 具体的にこれといった一つのはっきりした由来や意味を表すべくつけられたものではなく
 音の響きや文字の意味、縁起云々や女の子へ持たせてやりたい華やかさ等、沢山考えられてつけられたのだそうだ。
 そう聞いた。

 薄く軽くそれでいて涼しげで靭やかな紗のように。
 風に揺れども受け流し、散れども再び芽吹く枝のように。
 数年前に気になって母に自身の名の由来を訊いてみた時を思い出す。
 意外そうにしながらも、どこか嬉しそうに語り聞かせる母のその表情を思い出す。
 

「――それでね、最近うちもひらがなやのぅてちゃんと書けるようになってん」

「……」

「……シューコはん?」

 急に静まったその横顔を見上げる。耳を傾けつつも視線はずっと木の葉に向けて。

「なんや……思ってたより、ずっと綺麗」

 大きくはっきりした目に対して少し切れ長気味なその目尻。
 それでも紗枝が見つめるその横顔は、いつもよりもやや目を細めているように見えた。
 文字ではなくその先にある何かを、紗枝が話したその情景を刻まれた二文字の先に見つめているような、そんな目だった。

 一瞬、涼しい風が吹いて、きっとお互い目を閉じて
 長めの瞬きが終わった時にはシューコはいつもの飄々とした表情に戻っていた。
 
「ああっと、ごめんごめん。ほんで何の話やった?」

「んもぅ、シューコはん」

 紗枝は頬を膨らませながら自身の努力の成果に話を戻しシューコもそれに合わせる。

「あーそうやったね……にしてもこの文字なんかかっこええな」

「せやろー?うちも何度も練習してん」

「紗枝ちゃんえらい」

 唐突にシューコが紗枝の頭に手を伸ばす。
 紗枝はくすぐったそうにするも、その感触にどこか懐かしさを感じていた。
 こうして頭を撫でてもらったのはいつぶりだろうか。
 一、二年前に母に撫でてもらったのが最後だったと思い出す。
 細くしなやかな指が柔らかく髪を僅かに梳いていく。
 絹のように整ったその髪を乱さぬよう、一見無造作のようでも柔らかく。
 随分と器用なことをするものだ。
 少しだけ恥ずかしい気がするも不思議とこの手を止めようとは思わなかった。
 

 

「随分気に入っとるんやね~誰につけてもろたん?」

「お母はん!」

「そっか~!なかなか粋な名前考えるやん、どんな人なん?」

「えーっとな、字綺麗でな、お歌も上手くてな、術も凄くてな、そんで……」

「そんで?」

「綺麗やしかっこええ!」

「おぉ~、えらいすごい人やな!」

「えへへ~そんでな、頭も良くてな、何でも知っててな、そんで……そんで……」

 先ほどまでの上機嫌は何処へやら、声色と表情が尻すぼみになっていく。
 同じ顔だ。シューコに初めて声をかけられたあの日、膝を抱えていたあの時の紗枝と。
 シューコにとってはこれだけで十分だった。憂いの種にあたりを付ける。





 人間は些細なことで思い悩んでしまうもの。
 そんな者達をシューコは幾つも見てきた。

 老若男女問わずそうだ。
 一つ悩んで歩みを止めて、再び進んでまた悩む。
 表にそれを出す度合いに差はあれど、一人でいる時のそれは分かりやすいことこの上ない。
 ずっとずっと見てきたのだから。

 紗枝に声をかけた時もそうだった。
 元々気にかけていた少女ではあった。
 不定期にやって来てしばらく遊んでは、持ってきたお菓子を石像の下に供えて帰っていく子。
 今よりもまだ小さい頃から度々やってきては、汚れも知らぬ瞳を輝かせて境内に上がり込んで、
 自分だけの秘密の場所を見つけたと言わんばかりに無邪気に走り回っていた。

 どこで学んだのかは知らないが珍妙な作法で鐘を鳴らし始めたたときはどうしたものかと思ったが
 この都に神仏への敬意の欠片が残っていたことに感心したものだ。
 形はどうあれ目に見えぬ何かを敬おうとしていたことは伝わった。

 シューコとて普段の振舞いは誉められたものではないのだからとやかく言うつもりもない。
 昔から紗枝がここに残していった供え物については彼女が帰った後でこっそり頂いていたのだから。
 そんなこともつゆ知らず、ずっと手を合わせて続けている姿は今思い出しても微笑ましい。


 そんなある日のことだった。
 突然、珍しく何の手持ちもなくただこの社へ駈け込んできたのだ。
 何かあったであろうことは察知したが、いつもならただ見ているだけで干渉などしない。
 かつてもこの場で沈んだ顔をしている者くらいはいたがそんな有象無象にいちいち姿など見せることはない。


 だが、声をかけた。


 暇を持て余したせいも勿論あったが、不思議とその項垂れる姿がどうにも目から離れなかったのだ。
 シューコとしてもそんな自分が意外であった。
 昔の自分からしたら随分と変わったものだと思う。
 だが、これは別に慈善の心から民草を救ってやろうなどとそういったものではない。
 そう、気まぐれだ。
 いつまでも境内で泣きべそをかかれても困る。

 単にそっと背中を押してやる、それだけだ。
 偶にはそういうのも悪くはないだろう。そう考えた。



「ねぇ、紗枝ちゃん」

 腰を上げて、紗枝の正面、再びしゃがんで、顔を見上げて

「名前ってね、ほんまに大切なんよ」

 シューコがぽつりと口にする。その手は紗枝の頭に乗せたまま。
 
「……シューコはん?」

「紗枝ちゃんがこうしていい子に育ったんもね、きっと名前に込められた想いあってのことなんよ」


 そう言ってシューコは微笑みかける。
 当然、名付けだけが紗枝を形作る要素ではないことはわかっているが、シューコとしてはこれ以上ない程の実感を伴う言葉だった。
 紗枝の頭の上に疑問符が浮かぶ様子が見えるようで少しおかしくなってしまうが、まだ齢十かそこいらなのだから仕方ないのだろうと思う。
 自分とは明らかに違うのだ。

「せやろか……?」

「言葉には魂が宿るって昔からよく言うやろ?」

「うーん……婆やが言ぅとった気がする」

「式神喚ぶんも結界張るんも誓いを立てるんも、全部どこかしらに言葉があるやろ?声に出したり文字にしたりといろいろやけど、結局は同じく言葉や。この世界はな、想いと言葉が渦巻いとる。人間だけやない、この世全部や。」

「お札とかならわかるけど……名前までそうなん?」

「むしろ元祖や。この世で一番古くて身近で目立たんこともあるけど、ある意味一番強い術……それが名付け」

「せやったら……せやったらこの葉っぱも名前付けたらなんか変わるん?」

「紗枝ちゃんが強く思いを込めたら、やけどね」

「うーん……」

 あまり納得いっていないと顔に書いてあるようで、そんな紗枝を見てシューコは、まだ難しいかな?と笑いかける。
 
「紗枝ちゃんはさ、自分の名前好き?」

「うん、好き!」

 なるほど、屈託ないとはこういう顔を言うのだろう。
 
「なーんも考えんとテキトー付けたり悪い意味にしよう企んだりした名前やったら、そないに好きになれるわけあらへんやろ?」

「……!」

 想いを籠めて名を贈り、誇りと共に受け入れる。細やかでいて膨大な連鎖。
 この都に産み落とされてから今日に至るまでシューコは幾つものそれを見てきた。
 ありふれているはずでそれでいて代えがたい幸福。
 大多数にとって身近過ぎるこの奇跡の尊さを、誰よりも、誰よりも
 
「そっか……うん、そうやね」

 それは流れゆく雲の裂け目から日が覗くように。
 思考も、表情も、胸の奥の不安の種も、そこに光が差すように。
 雨上がりの境内に心地よい風が吹く。
 今日は、いい天気だ。

 







 
 その日もよく晴れていた。
 にも関わらず何故に紗枝の表情が浮かないかと言うと、その原因は本日の授業にあった。
 急遽、指導要領が変更されいくつかの科目が前倒しになったのだ。
 座学に関して紗枝は現状ある程度余裕があったのだが、幸か不幸かそのせいで前倒しになったものがもう一つ。
 “術”の修練が始まったのだ。
 
 術には様々種類があれど、どれもこの霞皇国に無くてはならないものであった。
 他国が機械やら電気やらで生活基盤を形作るところをこの国はほとんどのそれに術によって何らかの工夫を施している。
 熱供給にしても施設等整備にしても全てはこの術が関与しており、その点が他国との決定的な違いとなっていた。
 
 大霊脈

 この国に流れる力の源。
 御所を中心に広がり辺境まで広がる目に見えない川がこの地下に流れている。
 紗枝は頬杖をつきつつ、目の前に広がる霊脈入り地図を眺めていた。
 太古の昔からあると言われているが、紗枝からしてみればあまり実感がわかない。
 そんな昔のことは分からないし、何よりその霊脈とやらは目に見えないではないか。

 母のように格好良く術を繰り出す自分を今まで幾度となく妄想してきたが、いざ始まってみると術に関する昔話ばかり。
 座学が嫌いなわけではない。何と言うか、想像と違っていたのだ。
 体育が始まったかと思ったら競技の成り立ちの講義が始まったようなものだ。
 何やら声が聞こえはするが、その言葉は右から左へとすり抜けていった。

「こりゃ!」

「あいた!」

 額に訪れる突然の痛み。
 祖母のでこぴんが紗枝の意識を引き戻した。

「まったく……今は大事な話をしとるんやから、 そないな態度で臨んどったらあきまへん!」

「うぅ……婆や痛い……」

「“婆や”やない、今は“先生”や!」

「は~い……」

 そう、ここは寺子屋の教室……ではない。紗枝の住む家にある勉強部屋だ。
 当然、生徒は紗枝一人。生徒という言い方も正しくはないかもしれない。

 大多数の平民は近くの寺子屋に割り当てられて集団で一部屋に詰め込まれ授業を受けるのだが、
 一部の家の出身者、要は代々宮仕えしている家のことだ、そこの子供はこうして自らの家で教育を受ける。
 小早川家もその例に漏れず、紗枝は今までの教育の殆どを祖母から受けていた。
 紗枝の祖母、もとい“先生”は教育熱心な人物で、この日も新しい科目を教え始まるということでその鼻息は荒い。
 かつて紗枝の母にそうしてきたように、紗枝に対しても己の威信にかけて立派に育ててみせると張り切っていた。




「ええどすか、術を扱うにあたってその歴史を知るんは大切なことなんどす!」

 曰く、術はかつて神々から授かりし物
 曰く、術は人類としての独り立ちの証
 曰く、術は崇高な理念の下に使うべし

 なんともお堅く眠たくなる話であった。
 歴史と言いながらも先生が話すそれは理念だの尊さだのと精神論の部分にやたらと熱が入っていた。
 紗枝としてはあまり馴染みのない概念で頭に上手く入ってこない。
 はっきり言ってつまらなかった。

 とはいえこんなことは日常茶飯事。このような状況を乗り切るのは慣れたものだ。

 先生の声の強弱と身振り手振りを目の端で捉えて要所要所で頷く仕草を混ぜる。
 聞いてはいるが意識はそこには向けていない。教本の頁をこっそり捲って面白そうな場所を探していく
 ……と、見つけた。
 今の授業内容に近い中で多少は面白そうな頁だと思い、頷きと板書のふりの仕草を混ぜつつそこを読んでいく。
 そこには太古の昔に起こったとされる厄災について記されていた。


 天より突如現れた謎の怪異。
 この世のあらゆる命が失われ、この星そのものが枯れようという未曾有の危機。
 そんな時に神々と人類が互いに手を取り合い、この厄災を見事鎮めてみせたのだという。


 イルミネイト王国から輸入された日曜日朝の番組に似ていると思った。
 今の紗枝より少し年上くらいの少女たちが主人公で、なんやかんやと最終回が近づくと話の規模が大きくなり、当初民家の外れ程度であった物語の舞台はいつの間にか宇宙になっているのだ。紗枝もこの番組は大好きで録画して何回も見たものだが、まさか似たような話が昔話に出てくるとは思わなかった。神様のような存在から定期的に便利な道具をもらったり力を授かったりして最後には円満にお別れして独り立ちするところもそっくりだ。
 実際には昔話の方がかなり悲惨な状況から始まるのだが。

 この時神々から授かったのが、これから習うことになる“術”なのだろう。
 ちょうど今、紗枝が聞き流している先生の話にもそんな単語が出てきたような気がする。
 思いがけず、形としては先生の話を真面目に聞いている状態になっているようだ。
 ならばもう少し先に頁を進めてもばれまいと、紗枝はまたもやこっそり教本を捲る。
 

 

 そこには厄災を鎮めたその後の話が簡潔に書かれていた。
 要は、術をもらった後の人類は神々から独り立ちして当時の最も活躍した一族がこの国を治めるに至ったとのことだった。

 ちなみにその一族は現在にまで続いており、今この国を治めている陛下がそうだ。
 紗枝の祖母は陛下の御前でなくとも話題に出す時にはきちんと敬称を用いるべきだと言っているのだが、街行く人々は陛下を「楓ちゃん」などと呼んでいる。
 
 ちなみに祖父も祖母に隠れて楓ちゃん呼びをしていて個人的に写真集まで作って隠し持っている。
 それ程に親しみやすく、また美しい御方なのだ。
 そんな陛下のご先祖がこのような厄災を戦い抜いたというのは紗枝にはなかなか想像し辛かったが、
 例の朝番組の主人公達も可愛らしく親しみやすい上で謎の煌びやかな術から肉弾戦までこなすのだ。
 もしかすると当時のご先祖様も今の楓ちゃんのような人だったのかもしれない。

 とは言えこの教本には当時の詳細な様子など記されてはいなかった。
 書いてある情報といえばせいぜいがこの英雄もとい戦乙女の総称くらいのものだ。
 読み方は……う……ヴ?……いや、ばる……きゅりあ……とかいうらしい。
 相変わらず片仮名は苦手だ。
 きっと大した情報じゃないとばかりに読み飛ばす。
 そうなるといよいよ何も書いていない。
 謎の怪異の正体も、具体的にどうやってそれを鎮めたのかも、そのようなものは一切合切省かれている。


 ただ、紗枝にはその省かれた部分に心当たりがあった。
 以前、書庫で見つけた“あれ”だ。
 その内容に恐怖と不安を覚え紗枝が神社へと駈け込むきっかけとなったが、
 それは宮仕えをする者全て、つまりはこの小早川家に関係するものだと紗枝にも読み取れたからだ。
 そしてそれに記されていたものとこれらの歴史、全く無関係とは思えなかったのだ。
 

「ええどすか、宮仕えの術者たる者、その身は殿下の御心の下に公の為に尽くす。それこそが使命であり誇りであり……」

 演説にも近い先生の声を受け流しつつ思考を巡らせていく。
 
「紗枝もお母はんのように立派な宮仕えとしてこれから……紗枝?」

「え?あぁ聞いとるよ婆や」

「先生や!まったくもう少ししゃんとせんと!紗枝と同い年の子でも何人か既に宮中にいてはるいう話や、その子ら見習って頑張らんと。そんなんやったらお母はんのようになれまへんえ」

「あんなんと一緒にされても……千年に一度の天才なんやろ?」

「あの薬師の小娘はさておき依田さんとこのお子さんは常識の範囲内や」

「常識の範囲広過ぎやしまへん?」

「お母はんの娘のあんたなら大丈夫や!ほら、続きいくで」

 結局その日の術の授業は昼を挟んで夕方まで続いた。













 紗枝がそうして祖母の授業を受ている頃。
 都の外れにある寂れた神社、シューコと紗枝が出会った場所。
 そこにシューコの見知らぬ少女が一人、参道のど真ん中に白墨で大きな円を描いている。
 直径二間程度だろうか、鼻歌交じりに引かれた白線はそのまま大きな弧を描き

「あ、」

 鳥居の足にぶつかった。
 
「ん~……まあいいや!」

 少女はそのまま鳥居の足元の側面に白墨を走らせ弧を伸ばしていく。
 あまり細かいことは気にしない性格のようだ。
 そうして弧が繋がり円となり、内円も完成し残すは呪文のみだ。
 そう、少女が描いているのは“陣”であった。
 
 陣も術の一部である。
 人が自らの力を頼りにその身から発する術と異なり、陣はそれを描いた場所から霊脈の力を借りて発現するもの。
 描くのに時間がかかったり欠けたら無効だったり移動ができない等の欠点があるが、
 力の出所は地下の霊脈なので本人は疲れることがなく大きな業を成せる利点があった。

 そんな陣をこの少女は神社の参道にでかでかと描いている。まったく、信仰心の欠片もあったものではない。
 シューコはこの状況をどうしたものかと頭を抱えていた。

 最初は珍しく人が来たので遠目に見つめて放っておいた。
 一通り歩き回った後に石畳にお絵描きか何か始めたのかと思いそれも放っておいた。

 今頃紗枝はどうしているだろうかと考えながら屋根の上で干し肉を頬張っていた矢先、少女が描いているものが単なる落書きではないと気づいた。
 被害が出るようなものでなければ落書きの延長のようなものなので気が向いた時にでも消そうかと考えた。
 だが、どんなものを描くかを上から眺めていたらそうも言っていられなくなった。

 あれはまずい。非情に面倒くさいことが起きる予感しかしない。いったい何が目的だ。
 牽制の一手を打つべくシューコは少女の背後に回り姿を現す。






「どしたん?お嬢ちゃんなんか楽しそうなことしとるなぁ」
 
 少女が振り返る。
 一瞬驚いたような目を見せたが、シューコの姿を見た途端にその口角が吊り上がる。
 宝箱の中身を見つけたようで、釣り上げた魚を眺めるような
 シューコはそこで確信する。
 推察、いや天性の勘か、この小娘は眼前の相手の“中身”に気付いていると。
 
「なぁんだ、描き終わらなくても効果あるんだ」

「阿保か、こっちから出てきてやったんや感謝しぃや」

 のらりくらりと相手をだまくらかす飄々とした表情は今のシューコからは消え失せていた。

 この少女の描いていたそれは可視化の陣。
 通常見えないはずのものや姿を隠しているもの、そういったものがこの上を通った場合にのみ強制的に人間の肉眼に見えるようにする特殊術式。
 そんな限定的すぎる状況を想定した陣など普通は使うことなどまず有り得ない。つまり

「ねぇ……“キミ以外の”妖怪ってもういないの?」

「……何者や、あんた」

「あたしは志希、一ノ瀬志希」

 シューコにとってもう一つの大きな分かれ道。
 宮中の薬師を務める千年に一人の天才にして霞皇国きっての問題児
 一ノ瀬志希との邂逅であった。







「……で、その薬師様が何の用なん?あたしそっちはそんな詳しくはあらへんけど」

「さっきも言ったけど妖怪……てか人間じゃないもの探してんだよねー、他のはもういないの?」

「おらへんよ」

 たかが人間の小娘一人など大した危機にはなりえないはずだが、妖怪を探しているらしい志希への警戒は緩めることはない。
 宮中の人間であれば国内に妖怪が残っていると知れば討伐に向かうだろうことは予想できるからだ。
 シューコは今は特に人間と争うつもりなどない。
 こうして悠々自適に過ごしながら気まぐれにこっそり人間にちょっかいをかけて遊んでいればそれで十分だ。

 しかし人間から仕掛けてくるのであれば、こちらとしても降りかかる火の粉は払わねばならぬ。
 ただ、この場所はそれなりに気に入っているので大勢の人間をここで相手にはしたくない、火の粉の払い方とて考えなければならない。
 そう、最善策は今この場で志希を始末してしまうことだった。

 それでもシューコは、志希がシューコを人ならざる存在だと見抜いたことには感心していた。
 まだ幼いにも関わらず鋭い勘と目を持っている……いや、幼いが故か、どちらにせよこんな人間は久しぶりだ。
 始末するだけなら一瞬で済むのでもう少しこの志希と戯れてみよう、そう考えた。

「そんなもん探してどうする気なん?お友達にでもなりに来た?」

「そだねー、それ面白いかも!なろうなろう!」

「あんたそれ本気て言うとるん?」

「だって面白そうだし!妖怪なんてそうそういないし」

 なんとも気の抜けた能天気な話し方をする。
 しかしこれでいて志希は大真面目なのだがシューコには伝わるわけもなく。

「で、元々の目的は何や?」

「あたしの薬が人間以外にも効くか試したくってさー、んで捕まえちゃおうって思って」

「だったらその辺で瓜坊でも拾ってきたらええやん」

「その辺はもう散々試して飽きちゃった……それにあたしが調べたい相手は人間以外って言うより“この世ならざるもの”なんだよね」

「何でわざわざそんなもん……あんたらが普段関わる機会なんざあらへんやろ」

 かつてこの国にはシューコ以外にも妖の類をちらほら見かけることがあった。
 ものによって時代によっては親しまれてさえいた。
 しかし今のこの国の人間がそういった存在に関わることなど無いはずなのだ。何故なら

「あたしが片っ端から全部喰いつくしたからなぁ」

「えー、全部食べたの?ちょっとは残しといてよケチー!」

「誰がケチや、てかそっちの事情なんざ知らんわ」

「ぶ~!」

 おやつを取り上げられた子供のように頬を膨らませ抗議している。
 年相応ではあるはずなのだが志希がやると何か裏があるようにすら思える。
 シューコはそんな志希の内面を未だ掴みきれずにいた。

「またそんな顔してから……でもあたしで試そうとは言わへんのやな」

「一つしかない検体なんだから最後の臨床試験までとっておきたいじゃん?」

「検体ってあんた……」

「にゃはは~これは失敬」

 全くと言っていい程に物怖じしない小娘だなとシューコは思う。
 正体を知らぬとはいえ人として接してくれる紗枝とは違う
 正体を知った上でなお検体の一つとしてしか認識していない、それがこの一ノ瀬志希だった。

 ちなみに志希はシューコの正体を知らなかったとしてもこの態度は変わらない。
 彼女からすれば今生きているこの世の人間も含め全ては実験対象なのだ。シューコとしても薄々そんな予感がしていた。

「でもむしろその方が疑問やな。あたししかおらへんのやから、あたしで試し続ければ仕留めた後はなんも考えんでええやんか」

「別に妖怪を倒したくて作ってる薬じゃないよ?キミを倒したいわけでもないし」

「ますます分からんなぁ、何が目的なん?」

「キミも察知してるんでしょ?……近いうちに“大厄災”が来るって」

「!」


 大厄災
 太古の昔、神々と人間が決別する直前の出来事。
 何らかの大きな災いがあったことは平民も含めほぼ全ての人間が知っている。
 紗枝がこの日に教本でさらりと教わっていたのもそれだ。この国の民ならば皆等しくそれを習う。
 当時の神々と人間達でなんとか乗り切ったものの途方もない被害が出たのだ。
 
 しかしそれは治まっただけで終わってはいない。原因となる存在は未だ健在であり眠っているだけなのだ。
 それは数百年の周期で引き起こされてはその都度人間達は必死に奇跡的に乗り越えてきた。
 但しこれはほんの一部の者しか知らないことだった。
 まさか志希のような年齢の者が知っていようとはシューコは思ってもみなかった。
 
 勿論シューコもこの予兆を察知していた。
 それはこの世の誰よりも早く、そしていち早くそれに備えて動いた。
 当然この世を守るためではない、自分自身が生き残るためだ。
 そのためには力を蓄えなければならず、必然として大量の食糧が必要になる。
 この国に妖の類が残っていないのはそのためだった。
 それ程の危機なのだ。

「まさか……“あいつ”に使う気か!?」

「そうそう、完成したらキミも含めてみんなに得だと思うんだけどなー」

「んなもん効くわけあらへんやろ!あたしどころか当時の神でも歯が立たへんかったのにあんたらに何ができるんや?」

「言ったでしょ?倒すわけじゃないって」

「だったらどうするんや?眠り薬でも盛るんか?」

「ノンノン、それだといつか起きちゃうでしょ?もっと根本的な治療しないと」

「治療?」

「うん、あれを……人間にする」

 シューコは困惑していた。この小娘はいったい何を言っているのかと。
 そんな薬も術も聞いたことが無い。
 そんなことできるものか。

 しかしそれでも志希は本気で言っていた。
 今はまだ完成せずとも、材料の検討もつかずとも、決して不可能ではないと信じていた。

「はぁ……まあええわ、好きにすればええんちゃう?」

「本当?やったー!じゃあさっそく実験するからどこか一部ちょうだい、腕とか!」

「渡すわけないやろ、邪魔はせんてだけであたしは知らん」

「ケチ~!衛兵が仕事場抜け出してきたあたしを探しに来る前にこっから帰るからいいでしょー?しばらくもうここ来ないからちょうだいー!」

「あぁもう、とっとと帰り!」

 そう言うとシューコは髪を一本引き抜き志希に渡す。
 
「にゃはは~ありがとう!お礼に今度なにか困ったら助けてあげるー!」

「余計なお世話や、はよ行かんかい!」

「はーい、他言はしないから安心してね~」

 志希がトコトコと駆けていく。
 やっと騒がしいのが居なくなると思いシューコは一息つこうとした。

「あ」

 したのだが……

「あいつ……陣描きっぱなしやん」

 一息つくのはもう少し後になりそうだった。









 7月の中頃
 今年は梅雨が明けるのが例年より早いようで、遠くに立ち上る入道雲は見えども空一面を覆う灰色は過ぎ去って久しい。
 それでも空気は湿り気を増さぬ日は無く、小鳥の歌よりも蝉の喚き声が目立つようになって、これでもかとばかりに暑さの演出に拍車がかかる。
 
「あぁ~生き返る~」

 こんな日に紗枝とシューコは何をしているのかと言うと、神社の脇の日陰で涼を取っていた。
 シューコが裏の倉庫から引っ張り出してきた大きな木桶に雨水を溜めてそこに二人して足を突っ込み腰掛ける。

 実はこれ、紗枝にとっては初めての体験だった。
 紗枝の祖父が冬場に湯を張った盥に両足を突っ込んでいるのは見たことがあったが、成程こんな方法もあるのかと感心する。
 この国では余程の貧困層でもない限り家には便利な術式搭載家電があって熱いも寒いもそれ一台で解決する。
 小早川家にも当然配備されており、こんな方法で涼を取ったことはなかったが、やってみると案外楽しいものだった。
 シューコにこんな日陰に誘われた時には蚊が沢山いるのではないかと心配になったが、いざこうしてみるとそんな気配が微塵もない。
 腕も裾もこんなに捲り上げて肌を晒しているのに全く刺されることが無いことを、口には出さずとも紗枝は気が付いていた。

 こう見えてシューコは案外細やかなところに気が利く人なのではないかと、最近紗枝はそう思うようになった。

 脱ぎ捨てたはずの草履が境内に上がり込んだ帰りに見るといつの間にか奇麗に揃えて砂も払われてあったり
 二人で石段を降りる時には必ずシューコが下を歩いて手を引いたり
 そう言えば二人並んで散歩している時にもこれだけ背丈が違うのに歩く速度が同じだった。
 今にしてもそうだ。方法は分からないが、何らかの術で蚊を追い払っているのではないだろうか。
 気付かない内に色んな面で気遣ってくれているようだ。

 佳い人を探すなら気が利く相手を探しなさい、と母にもそう言われていたのを思い出す。  
 もしかしたらこういう事を言うのかなと思う。
 うん、やはり涼を取っても夏は暑い。



「そんで最近どうなん?術、習い始めて少し経つけど。最初の方はえらい疲れた顔しとったやん?」

「まだ難しい……一応できるようにはなったけど」

「お、何かできるようなったん?」

「んーとね、水動かすんはなんとか」

「ほーすごいやん!ちょうどええしやってみてや」

 紗枝は桶の水に手で触れると目を瞑り小声でぶつぶつと唱える。
 お札は持ってきていないので詠唱する方式だ。唱え終わると眉間に皺を寄せて力を込める。
 ゆっくりと少しずつ、桶の水が渦を巻き始めた。

「お~!動いてる動いてる!紗枝ちゃんやるね~!」

「……っぷはぁ!」

 息を止めながら力を振り絞っていたようで、紗枝のそれが途切れると渦は次第に勢いを失くしていく。
 家族以外にこうして術をお披露目するのは初めてであり、今の紗枝の実力からすると成功と呼べるだろう。
 だが残念なことにそもそもの勢いがあまりに弱かった。渦という表現もお世辞に近い。
 桶の中で水が回っているのは確かだが中心に渦の目ができる日はまだまだ先になりそうだった。
 そしてそのことは紗枝自身が一番分かっていた。

「い、一応なんとかこれくらいは……」

「ちゃんとできとったよー、お疲れ様」

「……けど、こんなんやあかん。疲れるだけで大した事できん」

 紗枝がやってみせたのは術の中でも基本的なものだ。
 触れたものを自身の筋力に関係なく術の力で動かすというもの。
 誰しも最初に習うのはこれだ。次へ進む早さは人によるが。

 術の中には様々あり、このような単純な物ばかりに留まらない。
 術を書いた紙をある程度自動で動かしたり、触れることなく相手に幻を見せたり
 高度になってくると別空間を創りだして相手を閉じ込めてしまう術なんていうのもある。
 とにかくその先は長く奥深い、そのことを紗枝は知っていた。


「まぁまぁそう落ち込まんとさ、これからやん」

「そうやとええけど……」

 こんな自分でも励ましてくれる、褒めてくれる。
 そのことが紗枝には嬉しかった。
 だが、だからこそ辛かった。
 もう少しきちんとできるところを見せられたら良かったのだが、なかなか思うように習得は進まなかった。
 
 そんな紗枝を見てシューコもしばし考える。
 誰しも向き不向きはあるし上手くできないことなんていくらでもある。長い目で考えればいいのだ。
 ただ、本当の意味でいつまでも世界が待ってくれるわけではない。
 自分と違って人には寿命があるし、人間の社会とやらは年齢に応じてそれなりの実力を求められるであろうことも察していた。

「シューコはんは……」

「ん?」

「シューコはんは、始めてどれくらいできちんと術使えるようになったん?」

「あー……そうやね……」

 難しい質問が飛んできた。
 この状況で“生まれながらにしてできた”などと言えるはずがない。
 後々覚えたものもあるにはあるが、人間にとって不自然でない期間など考えたこともなかったが……

「うーん、ひとつ……いや一年……くらい?」

「そっかー……シューコはんも頑張ってきたんやね」

「そ、そりゃ……ね……」


 なんとか誤魔化せたようだと胸を撫で下ろす。
 志希には見破られたが、紗枝にはまだ正体を知られていないはずだ。
 シューコとしては可能な限りこのまま知られずにいたいと考えていた。
 
 気まぐれで声をかけたとはいえ、こうしてその後も会ってみると案外悪くはないと思えるようになっていた。
 かつては人間と言葉を交わすなど考えたこともなくむしろ嫌ってすらいた自分からは想像がつかない程の変化だ。
 今でも人間と共に手を取り合おうなどとは考えられないのだが、
 ある時からはあまり関わらず遠くから見物するだけならば丁度良い賑やかしだと思えるようになったのだ。

 ただ、紗枝に対してのこの気持ちはそれだけでは説明がつかないとシューコ自身も分かっていた。

 幼い頃より幾度となくお供え物を持ってきてくれたのは事実……自分宛ではなかったが。
 この社で礼儀正しく振舞おうと頑張っていた姿が微笑ましかったのも事実……作法が無茶苦茶だったが。
 ただ、こういう子もいるのだと、姿を見るなり討伐せんとする者ばかりではないのだと、それは紗枝と共に過ごす時間でよく分かった。
 だから少しくらい背中を押してやるのも悪くはないだろう。そう思っていた。
 
「ねぇ紗枝ちゃん、紗枝ちゃんはどんな人になりたいんやっけ?」

「どんな人……?」

「ほら、将来こうなりたいとか、何ができるようになりたいとか、そんなんよ」

「うーん……」

 幼い頃より紗枝が抱いてきた理想の将来像、それは未来に思い悩む今でも変わることはなかった。

「お母はんみたいな人!」

「この前教えてくれたあのかっこいいお母さん?」

「うん!」

「そっか!そんで、どういったところがそう思うんやったっけ?」

「えーっとな、字綺麗でな、お歌も上手くてな、術も凄くてな……」

 見事なまでに以前と同じ褒め方だと思いながらも、シューコは以前とは違う踏み込み方をする。

「紗枝ちゃんも同じ事ができるようになって、すごいって言ってもらいたい?」
 
「できたらええなとは思うけど……」

「けど?」

「……けど、たぶん違う……そうやない」

 

 

 あぁ、やはりこの子は賢い。
 シューコは静かに頷いてその続きを促す。

「厳しいけどな、怒ると怖いけどな、でもな……」

「……うん」

「ほんとに困ったらな、うちのこと助けてくれる……そういう人になりたい!」

 答えはもう出たようなものだった。
 シューコの顔にも笑みがこぼれる。

「そう、最終的に誰かを助けてあげられればそれでええんよ。その方法はどないでもええ、術が今すぐ上手くできんかったり苦手なままでもええ、人には向き不向きがあるんやし、紗枝ちゃんなりの方法で助けてあげたらええ!」


 方法など何でもいい。
 できないことがどれだけあろうと構わない。
 シューコに比べたらできることが少ない人間はごまんといる。
 それでも人間達はこうして生きている。互いに補い合って生きている。それだけで良いのだとシューコは思う。
 シューコにとってはそれこそ自分にはないものなのだから。


「うちなりの方法……?」

「せやせや」

「……どんなん?」

「それは、ほら……あれよ……」

 しまった。
 シューコとて流石にそこまでは考えていなかったのである。
 単に向き不向きがあるしまだ若いのだから焦ることはないと思ってもらえたら良かったのだが。
 しかしよく考えると話の流れ的にこうなってしまうのは当然であった。

「ほら、この水だってあれやん?術で混ぜるんが大変なんやったらこうして手でぐるぐるーっとすれば……」

「……」

「ほら、昔から急がば回れって言うやろ?先人達もそう言うとるんやから、ね?」

「なんか違う気がする……」

 その後、紗枝の機嫌を直して麓まで送る頃には日が暮れていた。






 紗枝は帰り着いたその後に今日の出来事を思い出していた。
 風呂桶の中で肩まで浸かって天井の板の目を見ながらシューコの言葉を脳内で反芻する。
 帰りの別れ際まで不機嫌な態度を取り続けてはいたが、実のところはそんなに怒ってなどいなかった。
 自身のことを想って諭してくれていたのは伝わったし、最後の方は正直言うとただ構って欲しかっただけだったのだ。
 飄々とした話し方をすることが多いが、それでもこうしてきちんと向き合って言葉をかけてくれる。そのことが嬉しかった。

「うちなりの方法……かぁ」

 シューコに言われたとおり、自分なりのやり方でなりたい自分になるしかない。
 それ以外の方法など取りようがないのだから。そしてそれは結局自分で見つけるしかないのだ。
 この結論をそのまま言おうと思えば言えたはずだがシューコはそうしなかったし、しないであろうことも紗枝は分かっていた。
 そういう人なのだ。

「ほんと、大人やなぁ……」

 どうしてそこまでしてくれるのだろうか。
 大人だからなのだろうか。
 自分も同じくらいの年齢になる頃にはあんな風に誰かのために話をしてやれるだろうか。
 そんな思いが浮かんでは、湯気と共にどこかへ溶けていく。
 なんだか、のぼせてしまいそうだった。

 風呂桶の縁から肩を出して、両手でうつ伏せにもたれ掛かって、流れていく湯を目で追って。
 雫がいつしか滴り落ちて、床の勾配に従って、大きな雫に混ざり合って、そのままどこかへ吸い込まれていく。

「命って、こんなんなんやろか……」

 目にしたことがあるわけでもない。
 耳にしたことがあるわけでもない。
 それでも、そんなことを考えてしまう。
 
 シューコだったらどう考えるのだろうか。
 どんな言葉をかけてくれるのだろうか。
 こんな時にもその姿が浮かんでしまう。

 けれどいつまでも頼ってはいられない、紗枝は自分にそう言い聞かせる。
 そもそもの悩みの大元はやはり“あれ”なのだ。
 あの日書庫で偶然見つけてしまった
 小早川家に関わる話だった
 この国の成り立ちにも関係ある話だった
 そして何より、すでに終わった話だとも思えなかった。

 最初は母に訊こうと思った。
 何でも知っているのだから、厳しいけど優しい人なのだから。
 でもそれ故に、これを訊いてしまったら今までの関係ではいられなくなってしまうのではないか、そのことが怖かった。

 それでも今はもう違う。
 隠している、話していないからといって愛していないなんてことはない。
 きちんとこの名を受け取ってそれを好きになれたのだからと、そう思えた。
 訊いたら最後、今までのような親子関係ではいられなくなることもない。
 ずっと見てきた理想の将来像ならば必ず助けてくれるのだからと、そう思えた。

 それなら、これは自分の問題なのだと紗枝は再び言い聞かせる。
 幸い母は今日は家にいる。
 ならばやることは一つだ。
 
 今日こそ母にきちんと訊いてみよう、そう思った。




 結果としてシューコは紗枝の背を押してやれたことになる。
 ただ紗枝だけを想って、ただ紗枝だけを見て。

 紗枝が今どんな場所に立っているのか
 その目の前に何が広がっているのか
 何も知らないままただその背を押してしまったことに
 シューコはまだ気づいていなかったのだ。








 それから一月程経っただろうか。
 都の気温には困ったもので、四方を山に囲まれているせいか夏は暑く冬は寒い。
 そんな今は八月下旬、未だ残暑厳しい中でも足繫く神社に通う紗枝とそれを迎えるシューコの姿があった。

 いつものように二人して境内に腰掛けて
 焼き焦がされる程の日差しを浴びる夏の景色を見つめて
 シューコが紗枝の額に優しく手ぬぐいを押しあてる。

 紗枝がこうして通う頻度は減ることはなくむしろ増していたが、その代わりに短い時間で帰ることも増えた。
 忙しくなる中でも紗枝なりに時間を見つけて少しづつでもシューコの顔が見たいと思うが故だった。

 そんな紗枝の顔つきが以前とは少し変わり始めたことにシューコは気づいていた。
 まだまだ幼いと思っていたが、最後に紗枝の背を押してやったあの日からもう一月以上経ったのだ。
 成程、男子でなくとも刮目せねばなるまい。
 具体的に見た目が変わったわけではない。
 シューコに言わせるとこれは所謂“見据えるべきものが見つかった者”の顔だった。
 漠然とした不安や不透明な明日への悩みは多少薄れたであろう、そんな顔つきだった。

 シューコは紗枝がかつて抱えていたであろう悩みについて家族がらみ、それも母親が関わっているであろうことは察しがついていた。
 幸い紗枝の母は未だ健在で腹を割って語り合う機会もあることは紗枝の話からも読み取れた。
 きっと勇気を出せたのだろう。
 そんな紗枝の成長が微笑ましくもあり、羨ましくもある。
 シューコには得られないであろうことだから。

 かつて神々がまだ人間達と共存していた時代があった。
 大厄災を経て両者とも甚大な被害が出たが奇跡的に生き残った。
 その後人間達は神々から独り立ち、いや“決別”することを選んだ。
 神々はその別れに酷く悲しみその別れ際にあるものを送ったのだった。

 それこそがシューコである。

 餞別という言葉がある。
 親しいものが遠くへ旅立つ際、その者が乗る馬の進む先に向かって安全を祈願したのだそうだ。
 何事もなく向かう先の地へ辿り着けるように、辿り着いたそこで幸せであるようにと。
 当時の神々から人間達へのそれもこんな餞別であったならどれほど良かっただろうか。
 だがそうはならなかった。その非情な現実が今尚シューコを縛り続けていた。



 シューコは人ではない。
 妖怪と呼べるかどうかも生い立ちを考えると怪しいものだ。
 精霊のように多少は親しまれ敬われる望みも生い立ちを考えると不可能だと言えた。
 今は生物の延長のように振舞っているがそれすらも本来は疑わしいのだ。
 この神社とて元々シューコを祀ったものではない。
 なんとなく見つけて偶然そこにいた妖を食い殺して丁度いいから代わりに居座っているだけだ。


 シューコはそんな自分が好きになれずにいた。


「ねぇシューコはん……」

「ん、どーしたん紗枝ちゃん?」

「シューコはんて、ここに住んどるん?」

「まぁ家みたいなもんやね」

「ほんなら、これからもずっとここにおる?」

「そうやねー、引っ越す予定はないなぁ」

「せやったら……また会える?」

「……どうしたん?」

「うちね、正式に宮仕えが決まってん……」

 紗枝はここに来る少し前にその通知を受け取っていた。
 小早川家の人間としてその例に漏れず紗枝にもまた宮仕えの要請が来たのだ。
 勿論収入も良く安定しており、何よりこの国においては誇り高い職であるという認識だった。
 平民からしてもできるものならその職に就いてみたいと考える者も多い。

「へー、良かったやん!これで安泰……」

 しかし紗枝としては複雑な心境であった。凛々しくあろうとするもやはりまだ幼い。その心境が僅かに漏れ出てしまう。

「何か不安なん?」

「住み込みやから、たぶんしばらく会えへんと思う」

「そっか……」

 まだ幼い紗枝には少なからず酷ではあったが宮中はそのような制度であった。
 才能ありと見ればすぐさま囲い込みいち早くその職務と生活に馴染ませていく。
 紗枝の祖母が言及していた依田家の娘や先日シューコを訪ねた志希もそのような経緯を辿っていた。
 裏を返せば、宮中が紗枝に何らかの才能を見出したことに他ならなかった。

「でもね、うちね、やっと自分なりに大切な誰かを助けてあげられる方法見つかったんよ」

 紗枝はそう訴えかける。
 その相手はシューコか、或いは……

「詳しくは言えへんけどね、でもうちにしかできへんみたいやから……せやから行ってくる!」

「……そっか!」

 いつしか旅立ちの日はやってくるもの。
 かつての神々とは違うのだと、紗枝が真剣に考えた末の信じた道ならば晴れやかに送り出してやるべきだと、シューコは自分に言い聞かせる。

 紗枝はそんなシューコを見てほっと胸を撫で下ろす。
 この話を聞いてどんな反応をするだろうかと、応援してくれるだろうかと。
 それだけが不安であったが、シューコの様子を見て杞憂であったと思った。

「紗枝ちゃんの親御さんはなんて?」

「すごいことやって褒めてくれた!」

「ちゃんとお話できたんやね、仲直りってやつやな!」

「うん!……別にけんかしとったわけやあらへんよ?」

「あはは……あたしの早とちりか、ごめんごめん」

 二人してくすくすと笑う。
 今なら、この時ならと、紗枝はもう一つ勇気を出す。
 ずっと疑問に思っていたこと。
 もしかしてと思っていたこと。
 どちらだったにせよこの想いは変わらないが
 それでも訊いてみたかった。


「せや……そう言えばうち、ずっと訊きたかったんやけど」
 
「どしたん?」

「シューコはんの名前ってどう書くん?」

 一瞬、音が消えたかのような。
 蝉の声も、風も葉擦れも、遠くの街の喧騒も
 何もかもが、ほんの一瞬だけ止まったようだった。

「……まぁそうよな、気になるよな」

 驚いたような、迷うような、困るような、悲しむような
 シューコのそんな目を見るのはあの日以来
 初めて会った日、名を訊いたあの日、あの時の目だった。

「あたしな、ほんまに知らんのよ、自分の名前」

 驚きはしたが、それでもどこかそんな気がしていた。
 紗枝は静かに続きを待つ。

「いつの間にか周りの人間からシューコって呼ばれるようになってな……せやから名付けの親すら知らんのよ」

 母に限らず親とは誰が該当するのだろうとシューコは考えたことがあった。
 おおよその察しはつくのだが確証など得られるはずもなく。
 それはここに居ないだけでなく、きっとただ一人ですらないのだ。

「きっとこれが自分の名前なんやろなってそう受け入れて生きてきた……せやから本当は名前なんてないんかもしれへんな……」

 あぁ、そうか。
 紗枝は確信する。
 直接それを訊かずとも、やっぱりそうなのだと。
 ただ、不思議だったから訊いたまでのこと。
 シューコがそのような存在だからといってこの想いが変わることなどない。

 だから、そうだからこそ。
 自分にできることをしよう。
 シューコがそう教えてくれたように。
 いっぱい助けてくれたのだから。


「そんなら、うちが名前つけたげる!」

 そう言うと紗枝は木の枝を一つ拾い上げ、帯の隙間に挟んであった葉を取り出す。
 シューコと初めて会ったあの日に受け取った葉、紗枝の名が書かれた葉、タラヨウの葉だ。
 紗枝はその場にしゃがみ込むと、自分の膝を下敷きにして葉に何やら書き始めた。

 シューコとしても意外な反応だった。突然自分に何を言い出すのかと思えば、名前を付ける……?

 確かにシューコの名はかつての人間達に勝手に付けられたものだった。
 神々の怨嗟の集合体が生物の形を模しただけに過ぎなかった存在が、その人間たちの名付けによって自我を得るきっかけを得た。
 しかし同時にその際付けられてしまった名によって魂の在り方・存在の根源が位置付けられてしまったのだ。

 最初に神々がきちんと名付けてやったならきっと幾分か違ったのだろう。
 この世に産み落とされた目的が違ったなら人間達からの認識も違ったことだろう。しかし、非常にも現実はそうはならなかった。

 神性の強い存在、元々が不定形の存在はこうした“概念の付与”には敏感である。
 人間よりも強い力を持ちながら、その性質や形は人間からの信仰や認識に強く影響を受ける。
 神代に由来する者達はそういった存在なのである。
 高い力を持つ御仏であってもそれは人間達の信仰があってこそなのだ。

 概念として誕生し、それを人間達が有難がり尊重して初めて崇拝の対象となる。
 逆に悪しきものとして認識されれば邪神や妖怪が出来上がる。
 元が人型に似ていても、装置や道具として認識されれば意志を持たぬ現象の一種となる。
 何らかの生物に近いと見なされれば元がどんなに無機物のようだとしても意志と自我を持つ存在となりうる。

 その理は当時のシューコとて例外ではなかった。


『醜狐』



 揺らめく妖気の炎が逆立つ体毛に見えたから
 地を突き刺し穢していく強靭なる棘が偶然にも四本だったから
 それらを見て広めた者達が口々に荒ぶる妖狐のようだったと言ったから

 当時の人間達によってこう名付けられ定義されてしまったシューコは曲がりなりにも一個体として認識され、そのせいもあり自我を獲得しうる存在となった。
 しかし同時に、この世に厄災を振りまく妖狐として存在が固定されてしまった。

 魂が定まり、精神が生まれ、自我を得た果てに思考するに至った。
 それでもその存在故に人間とは相容れない。
 姿形も今は妖力で無理矢理に誤魔化しているに過ぎない。
 本来の姿が偶然にも狐の形に酷似していただけの復讐装置
 神代との決別へと歩んだ人間への罰として産み落とされた怨嗟の塊。
 神々への信仰を捨て術のみを得ようとした人間達への神々の怒りであった。

 シューコに名付けた当時の人間達は今やもういない。
 しかし付けられた名は変えられない。
 己で人を相手に勝手に名乗ることはできるかもしれないが、それで己の本質は変えられない。
 紗枝に出会った当初のシューコが自身の名の読み方という音だけしか教えなかったのもそんな自分の名が嫌いだったからだ。


 それは抵抗であると同時に半ば諦観じみたもでもあった。
 そのはずだった。


「ほら、書けた!」

 玉露のように瞳を輝かせ差し出すそれに
 
 『周子』

 名が刻まれていた。

「これは……?」

「シューコはんの名前!今日からシューコはんは、周子はん!」

 ありふれたただ一枚の葉になぞり掘られただけの文字
 主脈を挟んで両隣に並ぶ二人の名前
 薄緑に傷をつけ黒く変色させただけのそれが

「……くれるん?」

「うん!周子はんに持っててほしい!」

 ただそれだけのことが、輝いて見えた。

「いっぱいいろんなもの見てきて、たくさん知っとって、細かいとこもきちんと見えとって気が利いて、うちが困ったら助けてくれる……そんな周子はんにきっとぴったりやと思う!」

 かつてその姿を恐れた者がいた。
 その存在を疎み憎み蔑んだ者もいた。
 畏れなどとは程遠く、ただ嫌悪と恐怖から遠ざけようとした。
 当の本人達はもういない。
 しかし、そうせねばならぬ、そうあるべきという観念だけはこの世にこびり付き残り続けた。
 復讐の化身たる狐の本質は彼女の根源から消えることはない。

 それでも
 人として接し、人としてこの世に在ってほしいと願う者がいる。
 それはたった一人でも、無自覚の術であったとしても、その願いは本物であった。
 それだけで十分だった。

 憎み苛立ちすり潰す対象であったはずのそれらが紡ぐ些細で膨大で愛しい連鎖。
 遠くからただ眺めるだけだった。
 どんなに望んでも永遠に手に入らないはずだった。
 それが今、自らの元に訪れた。

 羨み、渇望し、そしていつしか諦めた。
 それが今、

「周子はん?」

 伸ばした手の先がぼやけていく。
 紗枝の小さな手が霞んでしまう。
 そうか、こう見えるのか、と。
 生まれて初めてやっとわかった。

「どこか痛いん?」

「いいや……きっと雨が降っただけや」

「こないに晴れてるんに?」

「珍しいよな……あたしも初めてや」

 こんな時でも笑ってくれる
 こんな自分にもそれがよく見える

「うち知っとるよ、狐さんの嫁入りや!」

「あぁ……そうやね……」

 悲しみのそれなど流すはずがない。
 何故ならこれは

「きっと……そうや」

 狐の嫁入りなのだから






 田が黄金に色づく頃、暑さも和らぎ風も涼しさを取り戻した。
 日が昇ると時折汗ばむことはあるが、こうして曇天ともなるといずれやって来る肌寒さを予感させる。
 あれから少し経つが紗枝は元気にしているだろうか。
 神社の屋根の上から都を見下ろし頬杖をつく。
 近頃はずっとこうして紗枝のことばかり考えている周子であったが、彼女にしては珍しく今後の行動について思い悩んでいた。

 己の心は分かっている。
 ただそれが初めてであるから戸惑っているだけだ。
 紗枝のような幼い少女でも自ら道を進もうとしているのにこの狐は何をしているのやら……
 いや、自分は人だ。そうあると決めたのだ。
 紗枝がくれた名をかみしめて、人として振舞うと決めたのだ。
 実際に何かを大きく変えるわけではないが、自身の中で己を妖怪だのこの世ならざる者だのと諦観交じりに卑下するのはもうやめたのだ。
 
 それに実は大きく変わったことがある。
 周子はその姿を人型でいるために力を使わなくなっていた。
 つまりは醜狐としての禍々しい姿を四六時中無理矢理人型に留めていたのだが、その必要がなくなっていることにある日を境に気が付いた。
 きっと紗枝に名をもらったからだろう、とそう思う。
 
 その辺の意識については迷いはないのだが、それとこれとは話が別。
 やはり周子は思い悩む。
 それはずばり“大厄災”関連のことだ。

 数百年前のそれの時には何とか人間達は乗り越えてきた。
 周子自身は関与していないので具体的な方法など知らないが、他の国と手を取ってどうにかしたらしい。
 勿論被害は甚大だったが、こうして今も人間達はきちんと繁栄している。きっとその存在が全て滅ぶことはないだろう。
 
 ただ問題は紗枝の身の安全だ。
 どのような職に就くかは知らないが、術に関しては申し訳ないがからっきしだった紗枝のことだ。
 有事の際にも前線に駆り出されることは無いだろうと思えたが……

 “あいつ”が起こすその大厄災に最早前線という概念は無いような気もしてくる。
 一度目覚めればその影響はこの国、いやこの星全体に及ぶのだから。
 そう考えると紗枝とて必ずしも安全でない。
 だが周子としては紗枝が自分で選んだ道ならばそれは尊重してやりたいという気持ちもあった。

「う~ん……」

 さてどうしたものか。
 いっそ化けて宮仕えにでとも考えたがすぐに却下する。
 志希がいるのだ、うっかりばらしかねない。
 それに周子が守りたいのは紗枝であり、それ以外とは関わる気すらなかった。
 その上状況に応じてその他有象無象の命令に従うなど吐き気がする。

「せや!」

 ならばこっそり紗枝を監視し続けて、危うくなったら颯爽と助けに入ればよいではないか。
 そんな名案が周子に浮かぶ。
 実際に客観的にも名案なのかはさておき、そんな周子の表情と足取りは軽い。
 そうだ、それがいい!
 そうと決まれば早速行動である。
 周子は屋根から宙返りを決めて地上に飛び降りるとそのままの足で都の方へ歩いて行った。

 

 目指すは紗枝が今住み込んでいる御所……ではなく紗枝の実家だ。
 まずは情報収集だ。
 良くも悪くも御所は御所、それなりの警備をしている。
 紗枝にとっては安全で大変よろしいが周子が今から忍び込む分には少々面倒だ。
 まずは紗枝の実家にちょいとお邪魔して見るべきものを探すつもりだ。
 宮仕えの決定に関して通知が来たという話であった、つまり文の一つや二つ残っているだろうと踏んだのだ。
 そうでなくても紗枝はなかなか裕福そうな印象を受けたので、そんな家にはそれなりに蔵書があるに違いない。
 これは忍び込む価値がありそうだ。

 紗枝の気配を辿り行きついた先、なかなかに厳かな造りの木造の門が立ちはだかる。
 しかし周子はそんなものには目もくれず早速忍び込む。
 敷地を跨いだ直後からずらり待ち構えていた各種警備術式すらも壊すことなく難なくすり抜けていった。

 
 紗枝の気配を辿ることでここまでやって来たが、いざ家に入ったらそれは意味をなさない。
 外の道ならば通った場所を特定できるのだが家ともなるとそこいら中に等しく気配が残っている。
 ここから先は手掛かりとなる書物や文を目で見て判断しなければならなかった。
 母屋の脇に回り込み、縁側に沿って見渡して、ついでに面白そうなものは無いかと目を凝らし、そして気になる場所を見つけて忍び込んだ。

 そこはまるで本棚の林
 扉を開けた先にずらりと立ち並ぶそれらは天井近くまで聳え立ち書物がこれでもかと詰め込まれている。
 そんな中にひと際目立つものが一冊。
 見た目は古びて色あせた書でありふれた見た目だったが、今の周子にとっては何よりも目立つ。
 紗枝の気配がどの書よりも強かったのだ。
 おそらく何度も読んだのか、或いはその手に汗握りながら読んだのか、どちらにせよ気にならないはずがなかった。

 勿論、紗枝の気配が強いからと言ってそれが探している情報源だとは限らない。
 しかしなんのあてもなく探すよりは幾分気が楽であった。
 時間はたっぷりあるのだ、誰かが来ようとも姿を隠してまた隙をついて探せばよい、そう考えてのことだった。
 それに単純に紗枝がどんなものを読んできたのかも気になる。
 それら全てが探しているものとは違ったとしてもその後にそれ以外を探せばよいと考えた。

 だが幸か不幸か、本来想定しているものではなかったが、周子は探し当ててしまった。
 あの日紗枝が見つけてしまったそれを、その内容に衝撃を受け悩み苦しんだそれを、周子は今その手に取ってしまったのだ。


「なんやこれ……あぁ、当時の神共か、へったくそな絵やなぁ」


 太古の昔の挿絵に文句を付けつつ読み進めていく。
 神々にと共に未知の敵に立ち向かう人間達。
 その手に槍を持つ者、弓を持つ者、祈りを捧げる者、傷ついた仲間を介抱する者、様々だ。
 その場面の者達では歯が立っていない様子だ。
 無理もないと思いながら周子は頁を捲っていく。
 
 またもや人間達がぞろぞろと並ぶ。
 しかし誰も武器の類は手にしていない。
 それどころかやたらと女ばかりだ。
 そんな者達が未知の敵の元へと集まり、誰か一人を担ぎ上げている。
 
 黒い靄で表現された未知の敵
 それの中へと担ぎ上げられた誰かが誘われていく
 そして
 危機は去り、人々は喜び感謝の祈りを捧げている。

 どうにも気持ちが悪い。
 この動悸は何だ?
 まさか、いや、そんなはずは

 様々な思考が周子の脳内を駆け巡る。
 否定したい、ありえない。
 だがそんな感情とは裏腹に周子の経験則が告げている。
 これは事実なのだと。
 そして大厄災は再び起こる、近いうちに必ずやって来る。
 そしてこの担ぎ上げられた人物は今の時代で当てはめると誰なのか。
 無慈悲にも周子自身がそれ以外の答えを浮かばせない。


「誰や!?」

「!」

 書庫の扉に立つ一人の老婆の視線が周子の後ろ姿を捉える。
 動揺のせいか姿を隠すのを忘れていた周子であったが、今はもうそんなことを気にかけている場合ではない。
 老婆と目が合ったその瞬間には既に周子は走り出しその胸倉に掴みかかっていた。

「貴様等……あの子を生贄にするつもりか!!!」

 これ以外の結論を出せない自分にもそうだが、それを許した者達にも腹が立つ。
 どうか勘違いであってくれ、何なら嘘でも構わない、そんなことありえないと否定しろ!
 周子はそう心中で願いながら血走った目で老婆を睨みつけた。

「何が生贄や……無礼者め!」

 こんな後ろ向きな願いなどしたくはなかった。
 叶うのならばいくらでも無礼者になろう。
 だが

「あの子は……紗枝は……崇高なる巫女に選ばれたんや……!その身を挺して我等をお救いになる巫女になりはるんや……!そないな呼び方でその誇りを穢すんはお天道様が許してもこのわ……」




 あぁそうか
 もういい
 十分だ
 繋がった



 まだ幼く術の才能もまともに見せられなかった紗枝に誰が何の才能を見出したのか。
 これを見た紗枝が何故に家族にその悩みと不安をすぐに打ち明けられなかったのか。
 何故この時期になって早々に紗枝を宮中に囲おうとしたのか。
 全て、全て繋がった。

 互いに助け合い補い合うのではなかったのか。
 弱いながらも共に手を取り立ち向かうのではなかったのか。

「……ふざけるな」

 そんな貴様等に名付けられてあたしは醜い狐になったのか。
 そんな貴様等のためにあの子は……紗枝は死ななければならないのか。






「ふざけるなあああああああああああああああ!」







 都中に響き渡る咆哮だった。
 その音波と衝撃だけで扉は裂け軒は捲れ上がり床は押し潰れ柱が千切れ飛んだ。
 当然その咆哮を直近でもろに受けた老婆が無事なはずもなく。
 周子の視線は既に御所のある方角を捉えていた。

 その手に握られていた血生臭い水風船の如き何かと果てたそれを振り払うとただ真正面に狙いを定め、そして

「紗枝!」

 たった一歩の足音が雷の如く鳴り響き
 それが自分に聞こえるより前に周子は一直線に飛び出していた。



 晴天の如き平穏を保つはずの御所に霹靂が突き刺さった。
 天からではなく地を疾るそれは外壁をぶち抜き点在する屯所を弾き飛ばし回廊を庭ごと抉り取る。
 ただ紗枝の元へ一刻も早くたどり着く。
 それ以外の事を埒外としながらも紗枝の宿命を押し付けた者共への怒りが溢れ出す。
 それだけで周子が眼前の有象無象を踏み潰すには充分であった。

「何者だ!?止ま」

 断末魔か、はたまた血肉の破裂音か。
 今の周子にとって道中の衛兵共なぞ踏みつけた落ち葉程度にも感じられなかった。
 この僅かな時間でこの桁外れの惨状が大規模な施設等の事故でなく侵入者という一個体によるものだと気づけるだけの手練れがどれほどいただろうか。
 未だこの混乱に右往左往する者もいる中でこの未曽有の嵐を食い止めようと武器を手に取り果敢にも集う者達。
 しかしながら無慈悲にも、数十年の研鑽と経験は数千年の膂力の前に容易く消し炭となる。

 かつてこの地で都が成立した頃、今に続く人類史の黎明期、当時はまだ醜狐であったそれがただ己の内から湧き上がる怒りに任せて暴虐の限りを尽くした光景が周子によって今ここに再現されようとしていた。
 
 紗枝に名をもらった。
 人間としてこの世に在れと心から純粋なる善意で願う者がいると知った。
 魂の根幹までもは変えられずとも、人間らしい姿や生き方でこの世に在ることを許された初めての経験。
 醜悪なる狐の姿を無理矢理妖力で抑え隠さずとも人の姿でいられるようになった。
 かつてのように怒りを覚え妖気と闘気を撒き散らそうとも人型を保っていられるのはそのせいだった。

 単純な出力ならば醜狐の方が強い。それでも周子は今を選ぶ。
 醜いその姿を見られたくないだけではない。人間としての己をもって紗枝を救いたいからだ。
 現に出力はそれで充分だった。

 壁や柱はただ体が進むに任せて圧し折った。
 人がいたが紗枝ではないので木っ端の如く吹き飛ばした。
 時折刀や槍が見えた気もするが掌で“垂直に”押し砕いた。

 紗枝の気配がする場所まであとほんの僅かだ。あと十間程、あと少し、少し……
 何度見たかわからない畳部屋を突っ切って障子や襖を叩き壊し最早迎え撃つ人影すら見えなくなり……

 
 ……おかしい


 紗枝のいる方向は分かっている。
 しかし一向に距離が縮まらない。
 延々と同じ部屋を突き進むだけだ。

 周子はこの感覚に覚えがあった。
 この景色という意味ではない。
 醜狐としての己を打倒さんとした当時の人間達、その戦いの最中に似た感覚に陥ったことがあった。所謂これは……

「幻術か、小賢しい」

 周子はひとまず足を止める。
 面倒ではあるが先にこれらをどうにかしなくては。

 幻術はそれそのものを物理的に破るのは不可能に近い。
 破るのであればその不可能に近い力技か、同じく幻術で塗りつぶすか、術者を探して始末する必要がある。
 本来であれば、たかだか人間一人の術などどうということはないのだが、この状況はおそらく複数人によるもの。
 相手が増えるほど突破は難しく手間がかかる。

 足を止めて精神を集中させ、偽りの音や景色を遮断して本来そこにある本当のそれを感じ取る。単純なようで繊細な技術。

 畳がある、四方は襖……景色は現実のそれを借りている……左右に……矢!



「あらら……もうバレちゃいましたか」

「茄子さん、どうするのでしてー?」

 周子が左右の手で飛来した矢を握り止め、その先に潜んでいた者を睨みつける。
 熟練の老兵かと思えばまだ年端もいかない少女が二人。片方は紗枝とそう歳も変わりなさそうだった。

「大丈夫です。足止めの基礎は固まってますから、あとは近づくことなく数で攻めますよ!」

「はいでしてー」

 二人の袖の奥から人型に切られた紙吹雪が舞う。
 それらは風もなく舞い上がり螺旋を描くと周子へと目掛けて襲い掛かった。
 周子は妖気を振り撒き式神達を焼き払いにかかる。
 どす黒い炎の帯が降り注ぐ式神の群れを覆いつくす……かに思えた。

「!」

 周子が放った炎の帯を式神がすり抜けた。
 術を込めた紙切れごときに通り抜けられるものではないはずだったそれを易々と突破する様に周子の目は初めて驚愕の色を見せる。
 式神達はそのまま周子の体に貼り付きそして―

 ドガン!

 式神が、爆ぜた。
 最初の一枚が爆発すると連鎖するように他も爆煙を上げる。
 小さな紙とて一枚で常人一人は仕留められる威力であり、そしてその枚数は百近くに迫ろうか。
 絶え間ない爆音と黒煙が周子を塗りつぶしその場に押しとどめる。
 勿論この二人、鷹富士茄子と依田芳乃はこの妖をこの程度で仕留められると考えるほど油断はしていなかった。
 片方が式神を放つ間にもう片方が新たに補充し波状攻撃を仕掛け少しでもこの相手をこの場に釘付けにする。
 援軍が揃うまで暫くはかかるだろうが、このままならば多少なりとも弱らせることはできるだろうと、そう考えていた。


 しかし黒煙の向こう側、周子という妖の規格を知らなかった。
 面倒な攻撃ではあるが致命傷には至らないこれらの紙切れを耐えながら、周子の意識は眼前の二人……ではなくもう一人に向けられる。
 
 当初茄子と芳乃しかいないと判断していた周子であったが、先ほどの式神の挙動で“もう一人術者が潜んでいる”と確信した。
 あれは式神が炎をすり抜けたのではない。
 全くの別方向から迫ってくるかのように見える幻術をかけられていたのだ。

「……そこか」

 未だ黒煙の止まぬ中からそう聞こえると同時に周子が放つ炎が天井のある一点を焼き焦がす。

「うわっと!?」

 爆ぜた天井から一人の影が転がり落ちる。少々煤にまみれてたが回避も受け身も難なく間に合い臨戦態勢は崩さない。

「心さん!お怪我は!?」

「バッキャロー!目の前の敵に集中しろ!そしてはぁと呼べぇ!」
 
 彼女の名は佐藤心。
 霞皇国元老院の一人にして皇室親衛隊“春霞”の教官の一人である。茄子と芳乃は彼女の教え子にあたる。
 此度の騒動をいち早く察知し茄子と芳乃を引き連れ周子をこの幻術と空間にて迎え撃った。

 御所が襲撃されるなど彼女にとっては前代未聞だが
 才か勘か或いは偶然か、まっすぐ中心部へ突き進む侵入者が只者ではない敵であると判断し
 討伐ではなく足止めを目的とした編成で一刻も早く対処に向かうことを優先して臨んだ。

「にしても何でこんなに早くバレるかなー?まさかとは思ったけどガチで妖怪なわけ!?」

「だったら……なんや!」

 周子の全身から炎が噴き出し纏わりつく式神を一枚残らず焼き飛ばす。
 その視線と殺意は心ただ一人に向けられていた。

「うわぁずいぶんと熱い視線送っちゃってまぁ、はぁとのことそんなに気に入っちゃった?ダメだぞ?」

 口ではそう言うが、この時の心は自身の生涯で最も精神を研ぎ澄ましている瞬間であった。
 妖というものを初めて見たのもそうだが、その規格が想像のはるか上にあることに内心焦りを感じている、それほどの強敵だ。

 それでも軽口は止めない。むしろ強敵だからこそだ。
 自分より格上の相手が終始冷静沈着に一分の隙もなく戦い続けたならそれこそ勝機は一つもない。

 感情の制御を怠るものは生き残れない。
 感情の揺らぎによるその隙が命取りとなることは散々習ってきたし実感もしている。
 見た所相手は一応言葉は通じるようだし自我もある。
 絡繰人形でないのならやりようによっては隙を生み出せるはずと考えてのことだった。
 怒りに任せた攻撃は直線的になる。そしてこちらは複数人。
 のらりくらりと躱しつつ時間を稼げれば勝利は近づく。
 
 そのはずだった。


「空間を解きや、そしたら命までは取らん」

「あらら、せっかくいい部屋用意したのに付き合ってくれないの?お堅い女じゃ想い人にも逃げられちゃうぞ?」

 何かが切れる音がした。
 物理的にではない。概念として何かが、たった今何かが切れた。
 仮に周子の事情を知る者からすれば何が逆鱗に触れたかなど火を見るよりも明らかだが、心には知る由もなかったのだ。

「二人とも、結界!」

「っ!」


 巨大な黒い狐。
 一言で形容すればそうなるだろう。
 かつて紗枝が見惚れた美しき姿はすでにそこにない。
 周子はその姿を産み落とされたその当時のそれに切り替えた。

 象ほどの大きさがあるがその形は狐に近い。
 そのどす黒さは炎か泥か狐の毛皮か。
 この世全ての恨みつらみを煮詰めたような黒より暗い歪な揺らめきが偶然にも四肢と尾のある獣に見えると言った方が正確かもしれない。
 周子、いや醜狐を覆うその黒はそこから際限なく溢れ出し津波のように三人に押し寄せる。
 
 これに触れればただでは済まない、心がこの殺意の兆候を目で捉えた直後に抱いた予感は今や確信に変わる。
 黒に触れた柱がみるみるうちに汚染され襖は四方とも押し流されていく。
 心は茄子と芳乃の結界が自分と同じく間に合っていることに安堵しつつ、眼前の妖を睨みつける。

「急にキレたかと思ったら悪趣味な物出しちゃってさぁ、畳のお部屋は綺麗に使いなさいって教わらなかった?んなことしてもこっから出してやんねーぞ」 

「出さぬなら壊して出るまでや」

「はん、こんな洪水程度じゃ結界は破れねぇっての!」

「あんたらはどうでもええ、壊すんはこっちや」

「なーに言ってやが……!」

 嫌な、予感がした。
 術による空間は今回のように部屋を模していたとしても、その見た目に留まらず実際にはさらに先まで広がりうるものである。
 周子が最初にいくら駆け抜けようがその先に同じ部屋が広がり続ける仕掛けもそれを応用したものであった。
 言わばもう一つの架空の世界に迷い込んだにも等しく、いくら端を探そうと物理的な壁や出口を見つけることはできない……基本的には。

 だが、空間と言えども正確には無限ではない。無限に見せかけているだけだ。
 迷い込んだ者が進む方向へ空間を広げ反対方向を削ることで、常に空間の中心に相手を留める術。
 それは無限の奥行を錯覚させるものであり決して真の無限ではない。
 それでも常識的に考えて空間の規模は十分。
 この土地の地下を走る霊脈、御所だからこそ仕掛けられる設備、先人たちの残した陣、そしてこの三人の術。
 それらをもって空間は全方位の地平線まで同時に再現できるまでの広さを達成できていた。
 そう、この空間を質量で埋めるなど

「そんなこと……できるはずが……」

 心は自身のことを勘が鋭い方だと思っていた。
 それは今でも変わらないし、その勘はよく当たる。
 ここまでの立場に登りつめたのもそのおかでもあると思っている。

 しかしそれ故に分かってしまった、理解してしまった。
 できればこんなことなど気付きたくはなかった。
 それほどまでの絶望の予感。

 この妖は“本気”なのだと
 それも精神の問題ではなく“実際にできる”のだと。

 ふと気がつくと、押し寄せる黒の嵩が増していた。
 眼前の妖から溢れ押し寄せるそれの勢いが増したからではない。
 この空間の四方八方の境界に到達し、それでもなお押し寄せ続け、桶の水嵩の如く増し始めたのだ。

「バケモンがっ……うっ……!」

 突如、脳に亀裂が入ったかのような痛みに襲われる。
 これはこの空間が軋み破られようとしている予兆であった。

 この空間はそもそも術者の脳内の風景を映し出すものであり、その術そのものが力づくで破られる場合、その被害が術者の身に及ぶ。
 理屈では聞いたことがあるし、実際に心自身も教え子たちに一度はそう説明する。
 しかしそんな規格外の状況など体験したこともなかったせいか、この痛みはなかなかに堪える。
 熟練した心ですらこうなのだ。才能溢れるとはいえまだ幼い二人には凄まじい負担であった。
 膝を付く芳乃を支える茄子もその苦痛に顔が歪む。

 当初はただ隙を作るための、時間を稼ぐための作戦だった。
 犠牲者を出すことなく事は運ぶはずだった。
 しかし蓋を開ければこの有様だ。今の三人にこの状況を覆す術はない。
 茄子と芳乃を守る結界は今にも破られようとしており、心のそれもそう長くは保ちそうにない。
 二人を早めに逃がして自分一人で捨て身の時間稼ぎをすべきだったと、心は今更ながらにそう悔やんだ。

 その時だった。


 気配がした。
 空間の境が一瞬揺らぎ、何者かが入ってきた。
 場所は……上、天井から。

「少し、お邪魔しますね」

 心も周子も、それに気づいた。
 宙に浮いた何者かが、その立ち姿を崩すことなく散りゆく花弁のように緩やかに降りて来る。
 すらりと細長い素足を黒の濁流に何の躊躇いもなく下ろし……濁流が消えた。

 周子が放出し続けていた黒いそれが煙のように消え失せ、辺り一帯はズタズタになった部屋の内装とあっけにとられる者達とが取り残された。

「はは……いつ見てもすげぇな……楓ちゃん」

 楓と呼ばれた女が心に振り向く。
 
「お待たせしてしまってすみません、随分と大変だったみたいで」

「どうってことな……痛たた」






 霞皇国女皇・高垣楓
 この国を治める最高位の者がそこに立っていた。

 頭痛に顔を歪める臣下達がここまで耐え抜いた理由。
 この都における最高権力者にして最高戦力。
 いかなる状況をも覆しうる逆転の切り札。
 王将が前線に出るという一見すると戦の定石から外れた采配は、この状況における王手に近いものであった。


「皆さんもう結界を解いて大丈夫ですよ、あとは私が」

 楓の言葉に甘えて結界を解くと同時に周囲の空間が元通りの現実のそれが現れる。
 周囲には大勢の衛兵達が周子の逃げ道を塞がんと構えていたが、周子としてはそんな者共はどうでもよかった。
 目的はただ一つ、紗枝を連れていくこと。
 周子は立ちふさがるこの女、悠長にも自己紹介を始めているこの楓と名乗る女皇に意識を向ける。
 先ほど珍妙な術で濁流を消し去って見せたことには驚愕したが、そんなものはどうでもよかった。
 気配からして他の者よりもできるであろうことは感じ取れたがそれもまたどうでもよかった。
 ただ紗枝を救い出せれば他はどうでもいいのだ。
 道中の有象無象は邪魔だったから払いのけた、その結果それらは死んでしまっただけだ。
 紗枝の運命をそれでよしとした人間共への怒りはあったが戦って勝とうだの殺そうだのは最初から考えていない。
 ただ腹立たしいので急ぐにあたって殺さない配慮をしなかっただけだ。
 その結果死に損なった者がいても追い討とうとは思わない。

「あの子を返せ。道を空け。そしたら命までは取らん」

「……それは聞けない相談です」

「そうか」

 それ以上の言葉は無用。言い終わると同時に周子はその四肢で床を踏み砕き楓を消し飛ばさんと飛びかかる。
 結果死んでしまうかもしれないが殺意を元にした工夫など凝らさない。
 ただこの女が道を譲らぬつもりらしいので、今後物理的な邪魔にならないように消炭になってもらうだけだ。
 その程度の炎を吐き出し突進した。

 これが間違いだった。

 周子を押し留めるべく式神を浴びせた茄子と芳乃然り
 別空間に周子を閉じ込め回避を繰り返し時間を稼ごうとした心然り
 相手の力量や性質を知らないと確実と思われた手段があっさりと無に帰すことになりかねない。

 そしてそれは周子にとっても同じであった。


 楓は避けるどころか飛びかかる周子に向かって迎え撃つように飛び出した。
 迫る黒炎に表情一つ変えることなく手を伸ばし、その手に触れると炎はたちまち雲散霧消した。
 それは防いでいるのではなく“無かったことにしている”かのように。

 何をされたかはわからないが、それでも狼狽える暇など無い。
 次は直接薙ぎ払うのみだ。周子はすかさず爪を振りかざす。
 その細身を異能に頼らず直接薙ぎ払う、その一撃を首元を狙いを定め振り下ろした。そのはずだった。

 膠着、或いは停止。
 周子の爪は楓の首元にあと数寸のところでその動きを止めた。
 楓を除きその場にいる者全員の目に驚愕と混乱の色が浮かぶ。当然攻撃を仕掛けた周子も例外ではない。
 爪どころか周子の全身があと一歩で楓を捉えるその位置で硬直していた。
 攻撃を躊躇ったつもりなど無い、怒りも敵意も健在だ。かと言ってその爪が何かに防がれ止められた感触も無い。
 目の前に盾らしきものは見当たらない。
 目に見えぬ盾もこの世に在ることは知っているがその類の感触も無い。

 そこに更なる混乱が周子に訪れる。体が人型に変わり始めたのだ。
 禍々しい巨躯はその勢いを潜め見る見るうちに縮んでいく。
 前脚だったものは腕となり、どす黒い毛皮は白を基調とした装束になり、牙と爪も引っ込み、人としての周子の姿が露となった。

 全くの未知、そして理不尽なほどの防御力。
 吐いた炎も振りかざした爪も通らぬ相手。
 かつてない混乱の中で無理矢理脳髄に喝を入れて次なる一手を絞り出そうとするが周子のそれよりも楓の方が早かった。

「あら……?話ができる妖の狐さんかと思いましたが……“そうなる”のならさっきのは本体じゃないんですね。その方が相手しやすくて助かります」

 そう言うと楓はいつの間にか取り出した脇差を周子の胸元に静かに突き立てた。

「がっ……!」

 数千年の生を持つ神代の末期からの大妖怪。
 その胸元をたった一本のありきたりの刃物が貫いていく。
 静かながら逃れようのない異物感。装束と肺を染め上げる血潮。
 熱い。
 苦しい。
 息が、意識が、閉ざされていく。

 本来周子はこの姿だとしてもその根源は妖であることには変わりなく、本物の人間に比べれば桁外れの肉体的強度を有している。
 心臓が破られ肺が潰されようとその場で即座に息絶えなどしない
 。逃げ延び安静にして力を蓄えれば十分に治癒しうるのだ。
 だが、何かがおかしい。その違和感に気付いた時にはもう遅かった。
 楓が周子の胸元から脇差を引き抜く、その刀身を目の端で捉えた今やっと理解した。
 刃に何かが仕込まれていたのだ。それは毒……或いは薬……

「流石は天才ですね、効くどころかこんなに早いなんて」

 それはこの都に生まれた一人の異端児、周子や楓とはまた異なる道の規格外、とある少女の自信作。
 突き刺した刃から流れ込んだその毒薬は妖が相手だろうがお構いなしに急速にその意識を奪い取る。
 その上で人の赤子相手だとしても命を取らぬと言うのだから全く訳が分からない。
 その少女が楓との約束の際に手渡したそれは狙い通りに周子の全身を駆け巡り、そして。

 周子の意識はそこで暗転する。

「さあ皆さん、志希ちゃんの工房に“これ”を運んでくださいますか?」

 見守るだけだった取り巻きの兵達がぞろぞろと集まってくる。
 初めからそうなることが分かっていたかのように用意されていた担架に周子を載せると術の縄で担架ごと全身をぐるぐると巻いていく。

「楓様……本当によろしいのですか?」

 頭痛からやっと回復した茄子が楓に尋ねる。

「えぇ、そういう約束ですから。それよりもお怪我はありませんか?」

 楓は優しく微笑むと茄子に肩を貸す。
 立場上そう易々と臣下に直接手を貸すことは躊躇われることが他国の常識だが(本来はこの国もそうであるはずなのだが)
 楓はそういったことに関して無頓着であった。
 それは無意識か、或いは意図的かは誰の知るところでもないがそんな楓を民は慕っていた。
 畏れ多いと感じながらも肩を借りる茄子も、少し離れて見つめる心も、命を落とすことを前提とした巫女の運命を受け入れた紗枝ですら。
 たった一人を除いて。

 楓も、臣下も、誰もそのたった一人に気付かなかったのだ。







 鼻歌が聞こえる。

 頭がふわふわとして思考に靄がかかった中に、裸足で入って来て走り回っているようなそれ。
 能天気な声と旋律で随分とまぁ楽しそうにしているが今は勘弁してほしい。
 耳を塞ごうとしたが全身に上手く力が入らない。

 耳障りなこいつは誰だ?
 そもそもここはどこだ?
 やたらと眩しい気がする
 日の光だろうか
 なんとも硬い寝床だ
 なぜそこで転調する

 ……駄目だ、思考が安定しない
 あたしは何をしている?
 誰かに会いたかった
 何かに阻まれた
 負けて失った
 大事な何かを
 何かを?
 誰かを?
 誰を……
 ……!

「紗枝!」 

 ゴツンという鈍い音とともに顔を抑え悶絶する被験者……いや、周子の姿がそこにあった。
 解剖台の上に裸で仰向けに寝かされていた周子の頭部が起き上がるちょうどその位置に無影灯があったせいで思い切り打ちつけてしまった。
 文字通り出端をくじかれ再び解剖台に仰向けに倒れる。

「~~~~~~!!」

「あ、起きた?おはよ~!」

 起きた?ではない、起きれなかったではないか。
 もう少し照明の位置をなんとかできなかったのか。
 心の中でそう悪態をつく周子は横からのぞき込むその声の主に目を向ける。
 成程、無茶苦茶な鼻歌もこの迷惑な無影灯もこいつのせいか。

 一ノ瀬志希。
 顔を合わせるのはあの日以来二度目だ。
 よりにもよって社の敷地に陣を書こうとした迷惑千万の悪ガキ。
 妙な少女だとは思っていたがなぜここにいるのか?
 寝起きで顔面を強打したせいか、怒りに任せて起き上がる前に少しだけ冷静になる機会ができた。
 本当なら紗枝のこととその他への怒りで埋め尽くされているところだが、それだけでは通らぬ状況があることを思い知らされた。
 まずは現状を把握するべく片手で邪魔な無影灯を払いのけつつ痛みが引くまでに周囲を見渡した。

 四方八方は金属製と思しき壁……扉がない
 幻術……ではなさそうだ、実体がある。なのにこの違和感はなんだ?


「あれ、なんか機嫌悪い?……もしかしてお腹すいてるー?」

「あぁ、食ったろうか?」

「にゃはは~やめたほうがいいよ、出られなくなるから」

「誰に向かって言うとるんや?」

「ううん、本当に無理だと思うよ。少なくとも今のシューコちゃんには」

 相変わらずの能天気な口調を崩すことなく志希が笑う。
 改めて周子はこの手術室らしき部屋を見渡すが、志希の発言もあながち嘘ではないのではと思えてくる。

 全方位に意識を向けるが、やはり出入口らしきものが一つもない。
 かと言って壁は見せかけのまやかしで放たれているわけでもない。
 術の気配はあるが、何かが違う。
 もっと別の性質の何かがこの壁に混ぜられている、そんな気がしてならなかった。
 ただ硬いだけ、ただ広いだけならその気になればいくらでも破壊できる自信が周子にはあった。
 疲れはするが御所での幻術を破ろうとした力業も選択肢の一つだ。

 だが何かが違う。
 術の気配にしても周子が今までに感じたことのないものだった。
 更に言えば、楓のそれのように単純に見たことがないだけではない。
 根本的とまではいかないが、出来上がった物があまりに異質すぎる。
 これは……

「そういうことか……そらあんた、煙たがられてもしゃーないわ」

「え~、シューコちゃんまでそんなこと言うんだ。そんな古臭いこと言ってるから楓さんにコテンパンにされちゃうんじゃないのー?」

「余計なお世話や。だいたい煙たがられる理由が分かったてだけの話や、あたしはそんな観念持っとらんしどうでもええ。術なんざ道具や、好きに捏ね繰り回せばええ」

「なんだ話せばわかるじゃ~ん!シューコちゃんのそういうとこ好きー」

「掌返すの早すぎるわ……」


 術の神聖視。
 神々から術を授かり
 その神々とは決別し
 神々への信仰を捨てながら
 術そのものを汚れ無き清純で崇高なものとして扱う
 この霞皇国特有の概念。

 ある者はこれを基に術者としての誇りや矜持を保ち、またある者は歪であると批難する。
 当然、皇国民のほぼ全員が前者、後者のほぼ全員が他国民である。

 建国時から現在に至るまで脈々と受け継がれてきたその概念は、術者の倫理の保持やそれを目指す若人の情操教育に一役買っていた。
 しかしその一方で、この国のその後の発展の足かせにもなっていた。

 神聖なる術を扱う者なれば、その術を正しく使い正しく生きよとそう教わる。
 それと同時に、この神聖なる術を穢してはならぬという教えの延長としていくつか制約があった。
 術の重ね掛けはさておき、術の改造、ひいては術の成果を更に加工することは術に対する冒涜であるという認識なのだ。

 志希はこの論理的なようで矛盾したこの教義を心底毛嫌いしていた。
 志希にとっては自身が追い求める知への欲求の障害以外の何物でもないからだ。

 また、術のことは神聖視するくせに神々への信仰はしないという点にも歪さがある。
 これについて周子は
“娼婦が男から金をもらいどれほど喜ぼうとも好きなのは金であり男のことなど愛していない事例”
 と同じだという認識だった。

 途轍もなく乱暴な理屈だが、実状のところ的を射た例えであった。
 別れ際の神々が醜狐を地上に叩きつけようとするのも無理はない。


「術を壊すことなしに砕いて混ぜたんか、或いは鉄粉一つ一つに術掛けてから鋼に鍛えたんか……どちらにしてもえらい器用なことするなぁ、こんなん初めて見たわ」

「でしょー?ざいりょーかがくは専門じゃないけど志希ちゃん今日のためにこっそり頑張ったのでしたー!」

「で、あたし以外誰も褒めてくれへんかったんか?」

「……褒めてくれてたんだ」

「……まぁ、な」

 志希は振り返ると器械台に置いてあった装束を周子に放って寄こした。
 元々は周子が目覚めなかった時を考慮して解剖するために脱がせていたのだが、今となってはそんな気はない。

「なんやいきなり服よこして、まさかこれからご機嫌なお出かけにでも連れてってくれるんか?」

「うん、そのまさかだよ」

「……は?」

「だってさ、つまんないじゃんこの国」

 宮中の人間にあるまじき、そして志希としては至極当然の言葉が飛び出す。
 前々から考えてはいた。ひたすらこの機会を待っていた。


「術を自由に使えるようになって神代からの脱却だの人間自身が歩む尊さだのと散々宣っといてさ、いざ現代に入ってもその古い術前提の社会から全然前に進めてないよねー。かと言ってその術の進歩も大したことない、当初無かった術をほんの少し作るのに何千年かかってるの?って話……街並みとか雑貨は多少変わって便利になったけどさ、結局それって他国からの輸入品の魔改造……この国ってさ、自ら進む気なんもないよね」




「……」

「でさ、飽きちゃった!」

 字面だけなら後ろ向きなその言葉。
 しかし志希の表情は晴れ渡っている。
 この時を待っていたかのように、そんな自分を予見していたかのように。

「妖怪ももう周子ちゃん以外残ってないんでしょ?じゃあ最後の未知なる物への興味も全部解消。あとは失踪しちゃうだけ!」

 そう声高らかに言うと志希は周子を覗き込む。

「ねえ周子ちゃん、あたしと一緒に逃げない?」

 思いがけぬ提案。
 問題児ここに極まれりといった発言。
 しかし何の皮肉か、周子が紗枝にあの日どれほど言いたかった言葉であったことか。

「あぁ……その言葉、あたしが聞く側になるなんてな」

「なになに?何の話~?」

「いや、ええんや、こっちの話」


 急がば回れ
 紗枝と戯れつつ共に学んだその言葉を思い出す。
 楓との闘いの時ももう少し冷静だったら結末は異なっていたのだろうか。
 ならば今度は間違えない。

「ええよ、志希……連れてってくれへんか?」

「にゃはは~その言葉を待っていた~!」

 玩具を見つけた子供のよう。
 例の鼻歌と共にくるくると回り白衣の裾をはためかせる。

「じゃあ早速出かけよう!んふふ~向こう行ったら何しよっかなー?テキトーに何か作って褒美替わりにラボもらってー、それでそれで~」

 志希はおそらくこうなることも予想、いや、期待していたのだろう。
 準備万端と言わんばかりの荷物を解剖台の下から取り出す。

「シューコちゃんはどうする?何かしたいことある?」

 愚問だ。
 最終的な目的など、周子にとっては未来永劫変わらない。
 重要なのはそこに至るまでの道筋、そしてその手段だ。
 不可能なことなどあろうものか。
 必ずこの手で成し遂げる。


「決めたよ、志希」

「んー?」

「手伝ってほしいことがある」

「……ふぅん?」

「紗枝を取り戻す……そのために」




 目撃者などこの二人意外に誰もいない隔たれた狭い手術室
 されど火蓋は確かに切られた
 五年後に勃発する大戦争
 それに続く大厄災
 それら全ての引き金となる
 後の千年に渡って語り継がれる
 歪で優しい物語




「奴らを、根絶やしにする」







この想い、この道は、途方も無い程彼方への
那由多の星でも埋めきれぬ都の棘の恋の路
紗の衣には似合わない
枝先すらも触れさせぬ
だから――







以上です。
依頼出してきます。


生存本能ヴァルキュリアのSSもっと流行れ

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